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Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Sat, 07 Jul 2001 00:03:03 +0900 From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 とんぽっぽ様
キリストの証人です。お返事どうもありがとうございます。 > あなたが最初に示された、ヨハネ 3章14節から16節は、あなた自身が指摘されているように、はっきりとキリストの救いについて述べ、キリストに信仰を働かせる者が救われることを示してはいますが、その救われる者たちが「等しく救われる」かという点については何も述べていないように思われます。
権威ある御言葉では、16節には、はっきりと「誰でも」と書かれています。
> 「十四万四千人」に関する記述は聖書の啓示(黙示録) 14章1節から5節にあります。 権威ある聖書の御言葉は、次のように述べています。
「しかし、多くの最初のものが最後に、最後のものが最初になるでしょう」。 続く20章では、イエス様は、ぶどう園の働き人の例えを用いて、さらに詳しく述べられております。
「〜このように最後のものが最初に、最初のものが最後になるでしょう」
このようにイエスは最初のものが後になり、後のものが最初になるとはっきりおっしゃっていますが。
> 聖書の中に、「その他の奴隷級」という概念はありません。
この言葉は、複数のエホバの証人の方から聞いた覚えがあります。
> 「天の御国の相続ではない、地上のみに限定される復活」については、ヨハネ 5章28節から29節にイエスの言葉があります。
復活には、命の復活と裁きの復活があるのは聖書に書いてあるとおりですね。
「そして、海はその中の死者を出し、死とハデスもその中の死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。
この御言葉は、死者の復活は1000年統治とは関係無く、そのまま裁きに直結される事が書かれています。
> また、あなたが引用されたヨハネ第一 5章1節ですが、この聖句は、わたしたちが救われる者となるには、エホバから生まれた方であるイエスを愛することにより、エホバへの愛を表明することが必要であることを述べていると思われます。 そのように考えられるのはなぜでしょうか?
ヨハネ第一の手紙全体を見てみましょう。
1:7
3:1〜2
4:16〜17
この他にも実にたくさんの御言葉がこの書から挙げられます。 > 「聖書が伝える御名は、誰の御名か」という点ですが、まず、キリスト教において「御名」という表現は、ほとんど例外なく神のみ名を表していますので、「聖書が伝えている御名」と言う場合、それはエホバであるはずです。 それでは、新約聖書の中で、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句があるでしょうか。
> 「クリスチャンは、誰の御名によってバプテスマを受けたのか」という点ですが、聖書自身に示されているように、父であるエホバとその御子であるイエスと、そして聖霊の名によってクリスチャンはバプテスマを受けます。 「父と子と聖霊の御名」というご回答ですが、初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるでしょうか。 > 「クリスチャンは、だれに信仰を働かせ、迫害を受けたのか」という問いですが、クリスチャンは父と子に対して信仰を働かせ、迫害を受けました。
質問の主旨が明確でなかった事をお詫びします。
> 十四万四千人と大群衆が別の場所に住むと、直接的に書かれている聖句はないと思われます。 支配するものと支配されるものが、はっきり天と地に分けられると御言葉に書かれていないのに、決めるのは何故でしょうか。
わたしがこの事にこだわるのは、エホバの証人の方が皆、「私は天に行く希望は持っていないので、主の記念式のパンとぶどう液にはあずかりません」と言うことに驚いたからです。 それでは、今回も質問をまとめさせていただきます。 (1) 最初のものが天に行き、残りのものは地上にあるとどの御言葉に書いてあるのでしょうか。 (2) 最初のものは最後になるという御言葉があるのに、最初のものだけが天に行くと考えるのは、どの御言葉からですか。 (3) 啓示の書には、死者の復活に続いて人々が生前の行ないにしたがって裁かれる様子が書かれていますが、「裁きの復活」の為に1000年統治の為に蘇る事だとの解釈とは矛盾しないでしょうか。 (4) 新約聖書の中で、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句があるでしょうか。 (5) 初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるでしょうか。 (6) 聖書には、クリスチャンは誰の名によって迫害を受けると、記されているでしょうか。 御言葉でお答えください。
お忙しいのに、こんなにたくさんの質問をして申し訳有りません。 キリストの証人 |
Subject: エホバの証人記者クラブより Date: Tue, 10 Jul 2001 07:37:22 +0900 From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > To: **** < **** > エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。
再度ご質問ありがとうございます。
[1] また、18節についても、あなたがおっしゃっているように、キリストに信仰を働かせる者が裁かれないことについて述べていますが、その者たちが「等しく救われる」かという点については何も述べていないように思われます。
[2] 「それゆえ、今の時期のいろいろな苦しみは、わたしたちのうちに表わし示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものとわたしは考えます。創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが、それは自らの意志によるのではなく、服させた方によるのであり、それはこの希望に基づいていたからです。すなわち、創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ、神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。わたしたちが知るとおり、創造物すべては今に至るまで共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も、そうです、わたしたち自身が、自らの内でうめきつつ、養子縁組を、すなわち、贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです」。
では、この聖句について簡単に解説いたします。
[3] 「丸1日働く人々は、宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは、生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は、西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし、それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」、つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました」。 ですから、「十四万四千人」が「初穂として人類から買い取られた」者であることについての正しい理解は、あなたが指摘したマタイの聖句ではなく、私が指摘したローマ 8章18節から23節からもたらされます。
[4]
[5] [6] ヨハネ第一 1章7節は、文脈の6節に照らして理解できるように、「神と分け合う者」となり、「光の中を歩む」ことが救いの条件であることを示していますが、その救われる者が「等しく救われるか」という点については、ただ「キリストの贖いによって罪が許される」と述べているにすぎません。 [7] ヨハネ第一 3章1節から2節は、先に指摘したローマ 8章18節から23節における「神の子」たちについて述べており、「全創造物」については述べていないように思われます。
[8]
[9]
[10]
[11] 「そしてわたしは、その頭の一つがほふられて死んだかのようになっているのを見た。しかし、その致命的な打ち傷はいえた。それで、全地は感服してその野獣に従った。そして彼らは、野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し、また、「だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか」と言って野獣を崇拝した。そして、大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ、また、四十二か月のあいだ行動する権威が与えられた。そして、それは口を開いて神を冒とくした。そのみ名と住まい、さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。そして、聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され、あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。そして、地に住む者は皆それを崇拝するであろう。ほふられた子羊の命の巻き物には、彼らのうちのだれの名も、世の基が置かれて以来書かれていない」。
[12]
以上です。
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