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キリストの証人さん(3)
2001年9月14日更新

記者クラブに対する質問と説得(3)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Sat, 07 Jul 2001 00:03:03 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部

とんぽっぽ様

キリストの証人です。お返事どうもありがとうございます。
聖書を信じるもの同士、御言葉について語り合えるのは何と幸せな事でしょうか。
至らないものですが、お互い偏見を捨てて、聖書が何を伝えているか考える事ができたらと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

> あなたが最初に示された、ヨハネ 3章14節から16節は、あなた自身が指摘されているように、はっきりとキリストの救いについて述べ、キリストに信仰を働かせる者が救われることを示してはいますが、その救われる者たちが「等しく救われる」かという点については何も述べていないように思われます。

権威ある御言葉では、16節には、はっきりと「誰でも」と書かれています。
18節には、彼に信仰を働かせるものは裁かれません、とも書かれています。
神が裁かれないものを、明確に2種類に分けてしまうのは、どの御言葉によるのでしょうか。

> 「十四万四千人」に関する記述は聖書の啓示(黙示録) 14章1節から5節にあります。
> このようになっています。
(中略)
> すこしこの内容について解説いたします。
> まず、「子羊」とは「神の子羊」であるイエス・キリストのことです。
> そのイエスと共に、「十四万四千人の者」が立っています。
> 立っている場所は「シオンの山」つまりエルサレムです。
> 「十四万四千人の者」の額には「彼の名と彼の父の名」、つまり“イエス”と“エホバ”という名が記されています。
> さらに、「十四万四千人の者」は「初穂として人類から買い取られた」とされています。
> 彼らは、神によって救われる人たちのうちの、最初の者たちであると考えられます。

権威ある聖書の御言葉は、次のように述べています。

「しかし、多くの最初のものが最後に、最後のものが最初になるでしょう」。
マタイ 19:30

続く20章では、イエス様は、ぶどう園の働き人の例えを用いて、さらに詳しく述べられております。

「〜このように最後のものが最初に、最初のものが最後になるでしょう」
マタイ20:16

このようにイエスは最初のものが後になり、後のものが最初になるとはっきりおっしゃっていますが。
最初の者たちは天にゆき、後のものは地上に行くというのは、聖書のどこに書かれているのでしょうか。
また、地上に残るものと天に行くものが分かれると、イエスや弟子たちは、どこで語っているでしょうか。
エホバの証人の方は、どなたでも必ず、聖書に書かれていない事は一切教えておられないとおっしゃります。
ですから、その箇所を教えてください。

> 聖書の中に、「その他の奴隷級」という概念はありません。
> わたしたちエホバの証人もそのような概念を持っておりません。

この言葉は、複数のエホバの証人の方から聞いた覚えがあります。
教理の変更があったのでしょうか。

> 「天の御国の相続ではない、地上のみに限定される復活」については、ヨハネ 5章28節から29節にイエスの言葉があります。
> このように記されています。
>
> 「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな、彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ、いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」。
>
> この聖句は、「命の復活」だけでなく、「裁きの復活」についても述べています。
> これは、イエスキリストによる千年王国の支配の間によみがえる人たちについて述べていると考えられます。

復活には、命の復活と裁きの復活があるのは聖書に書いてあるとおりですね。
では、裁きの復活について、権威ある聖書の御言葉は、何と語っているでしょうか。
啓示20章には、その様子が克明に描写されています。

「そして、海はその中の死者を出し、死とハデスもその中の死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。
啓示20:13

この御言葉は、死者の復活は1000年統治とは関係無く、そのまま裁きに直結される事が書かれています。
この御言葉についてどのようにお考えですか?

> また、あなたが引用されたヨハネ第一 5章1節ですが、この聖句は、わたしたちが救われる者となるには、エホバから生まれた方であるイエスを愛することにより、エホバへの愛を表明することが必要であることを述べていると思われます。
> ヨハネ 3章3節と5節についても、神の王国にはいるために必要な霊的な復活についてイエスが訓話を行っている部分です。
> この点についてはわたしたちには異論はありません。
> ただ、これらの聖句は、救われる者たちが「等しく救われる」かという点については何も述べていないように思われます。

そのように考えられるのはなぜでしょうか?

ヨハネ第一の手紙全体を見てみましょう。
1:3
「私たちは自分が見、また聞いた事をあなた方にも伝えます。それは、あなた方もまた、私たちと分け合うものになるためです」。

1:7
「しかし、(神)御自身が光の中におられるのと同じように光の中を歩んでいるなら確かに私たちは互いに分け合うものとなっているのであり、御子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清めるのです」。

3:1〜2
「父がわたしたちにどのような愛を示して、わたしたちが神の子供と呼ばれるようにしてくださったかをご覧なさい。〜愛する者たちよ、今やわたしたちは神の子です」。

4:16〜17
「イエスキリストは神の子であるとの告白をするものが誰であっても、神はそのようなものとずっと結びついておられ、その人は神と結ばれているのです。それでわたしたち自身、神が私たちの場合に抱いておられ愛を知るようになり、(それを)信じたのです。神は愛であり、愛にとどまっている者は神とずっと結ばれており、神はその者とずっと結びついておられます。こうして、わたしたちに関して愛はまっとうされました。それは、わたしたちが裁きの日に、はばかりのない言い方ができるようになるためです。なぜならわたしたちは、この世にあってはかの方とまったく同じようであるからです」。

この他にも実にたくさんの御言葉がこの書から挙げられます。
いずれもヨハネは、繰り返し好んで「わたしたち」「みな」「だれでも」という言葉を使い、その対象については、「神に信仰を働かせるもの」「罪を告白して、悔い改めたもの」「イエスを神の子として告白するもの」「イエスがキリストである事を信じるもの」などと、たくさんの御言葉が書かれております。

> 「聖書が伝える御名は、誰の御名か」という点ですが、まず、キリスト教において「御名」という表現は、ほとんど例外なく神のみ名を表していますので、「聖書が伝えている御名」と言う場合、それはエホバであるはずです。

それでは、新約聖書の中で、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句があるでしょうか。

> 「クリスチャンは、誰の御名によってバプテスマを受けたのか」という点ですが、聖書自身に示されているように、父であるエホバとその御子であるイエスと、そして聖霊の名によってクリスチャンはバプテスマを受けます。
> マタイ 28章18節から20節にはこのように記されています。
>
> 「すると、イエスは近づいて来て、彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ、行って、すべての国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し、わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして、見よ、わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。

「父と子と聖霊の御名」というご回答ですが、初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるでしょうか。

> 「クリスチャンは、だれに信仰を働かせ、迫害を受けたのか」という問いですが、クリスチャンは父と子に対して信仰を働かせ、迫害を受けました。

質問の主旨が明確でなかった事をお詫びします。
聖書の中で、クリスチャンは誰の名によって迫害を受けると、記されているでし ょうか。

> 十四万四千人と大群衆が別の場所に住むと、直接的に書かれている聖句はないと思われます。
> しかし、聖書はキリストの千年王国の支配について述べており、キリストと共に千年間支配する者と、支配される者とが存在するという点さえわきまえれば、それで十分だと思われます。

支配するものと支配されるものが、はっきり天と地に分けられると御言葉に書かれていないのに、決めるのは何故でしょうか。

わたしがこの事にこだわるのは、エホバの証人の方が皆、「私は天に行く希望は持っていないので、主の記念式のパンとぶどう液にはあずかりません」と言うことに驚いたからです。
また、ある方々ははっきりと、「聖書に書かれている約束は、私たちの為のものではないところが、たくさんあるのです。」とすらおっしゃいました。とてもショックでした。
それは、キリストの血のあがないを、お断りする事差し出されている救いの手を拒む事に思えるからです。

それでは、今回も質問をまとめさせていただきます。

(1) 最初のものが天に行き、残りのものは地上にあるとどの御言葉に書いてあるのでしょうか。

(2) 最初のものは最後になるという御言葉があるのに、最初のものだけが天に行くと考えるのは、どの御言葉からですか。

(3) 啓示の書には、死者の復活に続いて人々が生前の行ないにしたがって裁かれる様子が書かれていますが、「裁きの復活」の為に1000年統治の為に蘇る事だとの解釈とは矛盾しないでしょうか。

(4) 新約聖書の中で、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句があるでしょうか。

(5) 初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるでしょうか。

(6) 聖書には、クリスチャンは誰の名によって迫害を受けると、記されているでしょうか。

御言葉でお答えください。

お忙しいのに、こんなにたくさんの質問をして申し訳有りません。
私のようなものの質問に、丁寧に答えてくださる事、本当に感謝いたします。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Tue, 10 Jul 2001 07:37:22 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

再度ご質問ありがとうございます。
引き続き、ご質問にお答えいたします。

[1]
再び、ヨハネ 3章14節から16節についてお答えいたしますが、この聖句はあなた自身が指摘されているように、はっきりとキリストの救いについて述べ、キリストに信仰を働かせる者が「だれでも」救われることを示してはいますが、その救われる者たちが「等しく救われる」かという点については何も述べていないように思われます。
つまり、この点についての事実は変わりません。

また、18節についても、あなたがおっしゃっているように、キリストに信仰を働かせる者が裁かれないことについて述べていますが、その者たちが「等しく救われる」かという点については何も述べていないように思われます。

[2]
救われる者たちに立場の違いがあることは、幾つかの聖句から指摘できますが、ここでは、これまで指摘してきた事柄に照らして、ローマ 8章18節から23節に注目するのがふさわしいでしょう。

「それゆえ、今の時期のいろいろな苦しみは、わたしたちのうちに表わし示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものとわたしは考えます。創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが、それは自らの意志によるのではなく、服させた方によるのであり、それはこの希望に基づいていたからです。すなわち、創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ、神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。わたしたちが知るとおり、創造物すべては今に至るまで共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も、そうです、わたしたち自身が、自らの内でうめきつつ、養子縁組を、すなわち、贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです」。

では、この聖句について簡単に解説いたします。
ここでの「わたしたち」とは、文脈(9節から17節)に示されている「神の子」たちを表しています。
「神の子」たちは、救いを受ける者たちのうちの「初穂」であり、「贖いによって自分の体から解き放たれ」て天に行き、キリストの「養子縁組」によってキリストの兄弟となりました。
神の子であるキリストの義兄弟であるゆえに、彼らは「神の子」と呼ばれています。
一方、「創造物」とは、「神の子」たちが天から表し示されるときに、地上において、「神の子の栄光ある自由を持つ」者たちです。

[3]
あなたがご指摘された、マタイ 19章30節、ならびに 20章16節は、文脈に照らして見るなら、「初穂として人類から買い取られた」者について述べているのではなく、当時のユダヤ教の状況について述べていたものと思われます。
「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本は、この聖句をこのように解説しています。

「丸1日働く人々は、宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは、生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は、西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし、それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」、つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました」。

ですから、「十四万四千人」が「初穂として人類から買い取られた」者であることについての正しい理解は、あなたが指摘したマタイの聖句ではなく、私が指摘したローマ 8章18節から23節からもたらされます。

[4]
啓示(黙示録) 20:13節については、文脈を見るなら、それが千年王国と関連して述べられていることは明白です。
この聖句は、いわゆる「最後の審判」、すなわちイエス・キリストと十四万四千人による千年統治の終わりの裁きについて述べています。
ですから、この聖句はヨハネ 5章28節から29節に調和して、地上での復活を示しているものと思われます。

[5]
あなたがご指摘になった、ヨハネ第一 1章3節ですが、この聖句は、福音の知識の共有について述べおり、救いの共有について述べているのではありません。

[6] ヨハネ第一 1章7節は、文脈の6節に照らして理解できるように、「神と分け合う者」となり、「光の中を歩む」ことが救いの条件であることを示していますが、その救われる者が「等しく救われるか」という点については、ただ「キリストの贖いによって罪が許される」と述べているにすぎません。

[7] ヨハネ第一 3章1節から2節は、先に指摘したローマ 8章18節から23節における「神の子」たちについて述べており、「全創造物」については述べていないように思われます。

[8]
ヨハネ第一 4章16節から17節は、キリストに信仰を働かせる者と神との結びつきについて述べていますが、その結びつきを得た者たちが「等しく救われるか」という点に関しては何も述べていないように思えます。

[9]
新約聖書の中に、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句はあるか、という点ですが、イエスがそうされたという直接的な記録は新約聖書にはありません。
とはいえ、イエスが神の子である以上、実際にはそうされたと考えるのが筋であると考えられます。
恐らくイエスは、神のみ名を、現在は知られていない正しい発音で呼ばれたものと思われます。

[10]
初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるか、という点ですが、これも、直接的な記録は新約聖書にはありません。
とはいえ、イエスの弟子である以上、実際にそうしていたと考えるのが筋であると考えられます。

[11]
聖書の中で、クリスチャンは誰の名によって迫害を受けると記されているか、という点ですが、それはエホバとイエスの名の両方だと思われます。
特に終わりの日にあっては、クリスチャンはエホバの名によって迫害を受けるものと思われます。
この点については、啓示(黙示録) 13章3節から8節に記述があります。

「そしてわたしは、その頭の一つがほふられて死んだかのようになっているのを見た。しかし、その致命的な打ち傷はいえた。それで、全地は感服してその野獣に従った。そして彼らは、野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し、また、「だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか」と言って野獣を崇拝した。そして、大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ、また、四十二か月のあいだ行動する権威が与えられた。そして、それは口を開いて神を冒とくした。そのみ名と住まい、さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。そして、聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され、あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。そして、地に住む者は皆それを崇拝するであろう。ほふられた子羊の命の巻き物には、彼らのうちのだれの名も、世の基が置かれて以来書かれていない」。

[12]
支配する者と支配される者が、はっきり天と地に分けられると御言葉に書かれていないのに、決めるのはなぜか、という点ですが、聖書がそれをはっきりと述べないのは、それしか考えられないからだと思われます。

以上です。
ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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