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キリストの証人さん(5)
2001年10月7日更新

記者クラブに対する質問と説得(6)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Wed, 18 Jul 2001 15:51:19 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

お返事ありがとうございます、キリストの証人です。
いつもこのようなもの(あなた方からすれば、堕落したキリスト教会のもの)の質問に、ご丁寧にお答えくださる事、心から感謝しております。
お互い、思い込みを捨てて、聖書から率直に語り合えるのは喜びです。

> まず1番目の質問にお答えしたいと思います。
>
> 『最初のものが天に行き、残りのものは地上にあるとどの御言葉に書いてあるのでしょうか』
>
> この点については、すでに二つの点からお答えしております。
>
> 支配する者と支配される者が天と地に分けられると、はっきり聖書に書かれていないのは、王国の支配がそのようなものであるとしか考えられないからだと思われます。
> ローマ 8章18節から23節は、神の王国が天から地上を支配することについて述べています。

そのようなものであるしか考えられないという、根拠を御言葉から示していただきたいです。
そのように断言されるという事は、聖書にはそれに即した事が沢山書かれているという事だと思いますが。
聖書によってたつ信仰であれば、無理ではない質問だと思います。
また、それが万一、聖書から示されないとすれば、エホバの証人の方々は、まず聖書より教義が先に立つという批判は、残念ながら不当とは、言えないのではないでしょうか。

なお、ローマの8;18〜23において、天と地という言葉、またそれに類する言葉は見当たりません。

> この質問に答える前に、少し指摘すべき点がありますが、この、ローマ 8章18節から23節に関するエホバの証人の解釈は、あなたがおっしゃるように、「たいへん斬新である」とか、あるいは、エホバの証人独自の解釈であるとは言えないようです。
>
> この聖句における、「創造物」とは、この聖句の文意と、また、当時の「創造物」という語の語法に照らして、創造された動植物のあらゆる類を指しているのではなく、ただ人間のみを指していると考えられます。
>
> コロサイ 1章23節をご覧ください。
>
> 「もとよりそれは、あなた方が引き続き信仰にとどまり、土台の上に堅く立って揺らぐことなく、自分たちの聞いた良いたよりの希望からそらされないでいるならばのことです。その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者となりました」。
>
> ここでも、「創造物」という言葉が同じ意味で用いられています。

この「創造物」も、人間だけを指していると考えるのは、どの御言葉からでしょうか。
イザヤ書11:6〜9、65:25、には、あたらしい王国で、人間だけでなく、他の被造物も、罪の呪いから解き放たれて、本来あるべき姿に戻る様子が描かれております。

また、創世記3:17には、神が「良し」とされた地が、罪により呪われる様が描かれています。
これらのものが、解放されるにもかかわらず、「creation」を、人間に限定するのは何故でしょうか。

> 続いて、2番目の質問にお答えしたいと思います。
>
> マタイ 19章30節、ならびに 20章16節が、当時のユダヤ人の状況について述べているということは、すでに述べましたように、聖書の文脈から裏付けられますので、正当な解釈だと思います。
> しかしながら、私たちエホバの証人は、そのことを根拠にして、「この箇所は私たちにむけて書かれたものではなく、当時のユダヤ人の状況にむけて書かれたものです」とは言いません。
>
> 当時のユダヤ人の状況と同じ意味においては、イエスの述べられた事柄は現代キリスト教にも当てはまると考えています。
> その場合、「初穂として人類から買い取られた」者とは、特に、啓示の書 (黙示録) 12:17に記されている「残っている者たち」となります。
> これらの者たちは、現代において、「最後の者が最初になる」とイエスが言われた「最後の者」となります。

この、残っているものと14万4千人の関係を教えてください。
仮にこの人たちが、残っているものだとすると、14万4千人はまだ集められてないのではないでしょうか。

> 2番目の質問の補足的な質問にお答えします。
>
> 『聖書の中のどの部分が、ユダヤ人にむけて書かれたもので、どこがクリスチャンへの警告なのかという線引きは、どのような判断基準で決められているのでしょうか。御言葉による判断の基準があると思いますので、是非それを教えてください』
>
> 聖書解釈の根拠が聖書によった規準に即していることは言うまでもありません。
> しかし、あなたの言われるような、そのような便利な規準はないものと思われます。
> 答えを得るためには、地道に教義解釈の道を踏み進んでゆくしかないでしょう。

私が上記の質問をしたのは、いままでにエホバの証人の方々と話をして、14万4千人に限定する救いについて、矛盾すると思われるたくさんの御言葉を示すたびに、「そこは私たちにむけて書かれたものではない」という反応をいただいたからです。
聖書をそのように、「この御言葉は私にたいしてではない」と、限定すること自体、聖書的といえず、危険な事であると私は思ってきました。
ですから、それは決して危険ではないという事を、御言葉を通して説明していただきたいのです。

> 続きまして、3番目の質問にお答えいたします。
>
> 『啓示の書には、死者の復活に続いて人々が生前の行ないにしたがって裁かれる様子が書かれていますが、「裁きの復活」の為に1000年統治の為に蘇る事だとの解釈とは矛盾しないでしょうか』
>
> 矛盾しないものと思われます。
> 死者の復活の後に行われる「裁き」は、「生前の行い」にしたがってではなく、復活後、千年の期間の行いにしたがって行われるものと思われます。
>
> この質問については、まず最初にこのように質問を受け、すでにこのように返答させていただきました。
>
> 『この御言葉は、死者の復活は1000年統治とは関係無く、そのまま裁きに直結される事が書かれています。この御言葉についてどのようにお考えですか』
>
> 「啓示(黙示録) 20:13節については、文脈を見るなら、それが千年王国と関連して述べられていることは明白です。この聖句は、いわゆる「最後の審判」、すなわちイエス・キリストと十四万四千人による千年統治の終わりの裁きについて述べています。ですから、この聖句はヨハネ 5章28節から29節に調和して、地上での復活を示しているものと思われます」

もう一度お尋ねします。
ここで、権威ある御言葉には、「そして、海はその死者を出し、死とハデスもその中の死者をだし、彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」と、書かれてあります。
千年王国との関わりをお尋ねしてるのではなく、千年統治が、復活した者への教育の期間である、という教義に矛盾するのではと、お尋ねしているのです。
(私の知る限りでは、それは聖書のどこにも書かれてはないようです。)
それにもかかわらず、復活の後千年統治(教育期間)をへて、この裁きが行われると、主張されるのなら(聖書は復活に続いて裁きがあると書いています。これは、千年統治の後の出来事です。)
残念ながら、エホバの証人の方々は、教義のために、都合の悪い御言葉は無視しているという批判は、不当であるといえないのではないでしょうか。

> 続いて、4番目の質問にお答えしたいと思います。
>
> 『新約聖書の中で、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句があるでしょうか』
>
> これにつきましては、すでにこのように答えています。
>
> 「新約聖書の中に、イエスが御父を「エホバ」であると紹介された聖句はあるか、という点ですが、イエスがそうされたという直接的な記録は新約聖書にはありません。とはいえ、イエスが神の子である以上、実際にはそうされたと考えるのが筋であると考えられます。恐らくイエスは、神のみ名を、現在は知られていない正しい発音で呼ばれたものと思われます」

このように大切な事が、何故記されていないのでしょうか。
ヨハネ17:11ー12において、イエスは誰の御名を明らかにしておられるでしょうか。

> 続きまして、5番目の質問にお答えします。
>
> 『初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるでしょうか』
>
> これにつきましても、すでにこのように答えています。
>
> 「初期のクリスチャンで、父と子と聖霊の御名によって、バプテスマが施された例や、記録はあるか、という点ですが、これも、直接的な記録は新約聖書にはありません。とはいえ、イエスの弟子である以上、実際にそうしていたと考えるのが筋であると考えられます」

それでは、お尋ねします。

使徒2:38、使徒8:16、使徒10:48、使徒19:4ー5、ローマ6:3、ガラテア3:27 コロサイ2:12

これらの箇所において、バプテスマは誰の名によって受けると書いてあるでしょうか。
また、それは何故ですか。

> 続きまして、6番目の質問にお答えいたします。
>
> 『聖書には、クリスチャンは誰の名によって迫害を受けると、記されているでしょうか。御言葉でお答えください』
>
> これにつきましても、すでにこのようにお答えしております。
>
> 「聖書の中で、クリスチャンは誰の名によって迫害を受けると記されているか、という点ですが、それはエホバとイエスの名の両方だと思われます。特に終わりの日にあっては、クリスチャンはエホバの名によって迫害を受けるものと思われます。この点については、啓示(黙示録) 13章3節から8節に記述があります」

6節にある、「そしてそれは口を開いて神を冒とくした。その御名と住まい、さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。」のことでしょうか。
これは、エホバの名によって迫害を受けている様子とはいえません。
では、聖書には、「エホバの名による迫害」についての警告がありますか。

マタイ10:22、マタイ24:9、ルカ21:12、ヨハネ15:21
使徒4:17ー18、使徒5:40ー41、使徒21:13、
コリント第二11:38ー28、フィリピ1:29、ペテロ第一4:14
(まだたくさんあるので、少し絞らせていただきました。)
これらの御言葉は、誰の名によって迫害されると書いてありますか。

> 続きまして、残る補足的な質問にお答えいたします。
>
> 「これまでに生存した最も偉大な人」の本が述べるところの「最も偉大な人」とは、イエス・キリストのことです。
> この点につきましては、特に異論もなく納得していただけることと思います。
>
> 『貴方は、聖書の御言葉と、その「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本と違いが生じたとき、どちらの言葉に従いますか』
>
> もちろん聖書に従います。
> この本の内容には、間違いや問題点があることがすでに指摘されており、さらに引き続き、そのような点が指摘されるものと思われます。
> そのような状況の進展に応じて、私たちは自分の立場を定めなければなりません。

間違いや問題があるにもかかわらず、その方を「これまでに生存したもっとも偉大な人」とおっしゃる理由を教えてください。
なぜ、その人は信頼するに足る人なのでしょうか。
これは、エホバの証人の方々にとっては、非常に大切な立証すべき事だと思われます。また、その人のお名前を教えてください。

> なお、「一切の事は二人か三人の証人の口によって確証されねばならない」と述べる、コリント第二 13章1節についてですが、これをメールによる質問のやりとりの回数に適用するのは不適切だと思われます。

誤解があったようなので、お詫びして訂正致します。
これは、私たちのメールの回数といった、不確かなものとは一切関係ありません。

そうではなくて、聖書の解釈が平行線となったときに、聖書のみを用いて、解決するためには、聖書の中でいくつの箇所にその事が書かれているか、という事を問題にしたいのです。
メールの回数ではなくて、聖書の御言葉の数の事です。
聖書自身が、上記の御言葉を通して、教えてくださると思います。

それでは今回も、質問をまとめさせていただきます。

(1)ローマの8;18〜23において、天と地という言葉、またそれに類する言葉は見当たりません。
支配する者と支配される者が天と地に分けられると、はっきり聖書に書かれていないのは、王国の支配がそのようなものであるとしか考えられない、との事でしたが、そのようなものであるしか考えられないという、根拠を御言葉から示していただきたいです。
なぜ、天と地は分けられるとお考えですか。

(2)いままでにエホバの証人の方々と話をして、14万4千人に限定する救いについて、矛盾すると思われるたくさんの御言葉を示すたびに、「そこは私たちにむけて書かれたものではない」という反応をいただきました。
聖書をそのように、「この御言葉は私にたいしてではない」と、限定すること自体、聖書的といえず、危険な事であると私は思うのですが、それは決して危険ではないという事を、御言葉を通して説明して下さい。

(3)ヨハネ17:11ー12において、イエスは誰の御名を明らかにしておられるでしょうか。

(4)使徒2:38、使徒8:16、使徒10:48、使徒19:4ー5、ローマ6:3、ガラテア3:27 コロサイ2:12

これらの箇所において、バプテスマは誰の名によって受けると書いてあるでしょうか。
また、それは何故ですか。

(5)聖書には、「エホバの名による迫害」についての警告がありますか。

マタイ10:22、マタイ24:9、ルカ21:12、ヨハネ15:21
使徒4:17ー18、使徒5:40ー41、使徒21:13、
コリント第二11:38ー28、フィリピ1:29、ペテロ第一4:14
(まだたくさんあるので、少し絞らせていただきました。)
これらの御言葉は、誰の名によって迫害されると書いてありますか。

以上、引用聖句の数が多くて、お手間を取らせてしまいますが、申し訳ありません。

それではお返事お待ちしております。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Thu, 26 Jul 2001 23:10:32 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

引き続きご質問に答えます。

[1]
最初の質問について

神の王国が天から地上を支配することについては、旧約聖書のイザヤ書の11章や65章などにメシア預言があり、前提となるものがすでに存在しています。
ですから、メシアであるキリストによる支配について考えるとき、それは地上に対する支配であると考えられます。

また、すでに引用したローマ 8章18節から23節ですが、あなたは、「ローマの 8:18-23において、天と地という言葉、またそれに類する言葉は見当たりません」と指摘しておられますが、その聖句が「天」とか「地」とかいった言葉を用いていなくても、その文意は十分に明らかであると思います。
そこには、一部このように書かれています。

「創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表し示されることを待っている」。

神の子たちの表されることについて、「天から」という言葉はありませんが、それが天からのものであることは間違いないと思われます。
また、この「創造物」が人類を示していることはすでに指摘したとおりですから、やはり、「地上で」という言葉はありませんが、それが地上でのものであることは間違いないと思われます。

[2]
二番目の質問について

コロサイ 1章23節における「創造物」が何を示しているかは、他の聖句を参照するまでもなく、コロサイ 1章23節自身が明らかにしています。
この聖句は、一部このように述べています。

「良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです」。

パウロが良いたよりを宣べ伝えたのが誰であるかを知っていれば、この「創造物」の意味するところについて議論することもないと思います。

イザヤ 11章や65章の預言の言葉については、異論はありません。
創世記 3章17節についても異論はありません。

[3]
三番目の質問について

啓示の書(黙示録) 12章17節に記されている「残っている者たち」と14万4千人の関係についてですが、この啓示 12章17節は「残っている者たち」について、「彼女の胤の残っている者たち」であると述べています。
文脈を見ると、この「胤」とは直接的にはイエスであることが分かります。
ですから、「イエスの残っている者」という意味のこの表現は、イエスと非常に関連の深い何かを指していると思われます。
その「残っている者たち」とは、イエスと養子縁組の関係に入ることにより、イエスの兄弟、すなわち「神の子」となった者たちの残りの者であると考えられます。

[4]
四番目の質問について

四番目の質問に関しては、前回指摘した一つの場合と同様、再びあなたの質問の内容は変わっているようです。

聖書の解釈において、その適用対象を限定することは危険ではないかという、今回のご質問についてですが、まず、聖書の記述は、すべての箇所がすべての人に当てはまるという種類のものではないと考えられますので、そのこと自体は、あなたが述べるように「聖書的でない」とは言えないと思います。
そして、危険性についてですが、それは、すでに述べましたように、地道な聖書解釈の道を進むことによってのみ克服できる問題だと思われます。

[5]
五番目と六番目の質問について

千年統治と復活の教理解釈に関して、「エホバの証人の方々が、教義のために都合の悪い御言葉は無視している」ということはありません。
ただ、特定の聖書解釈を採用するということは、他の聖書解釈を採用しないことを意味していますので、あなたはそのことを気にかけているものと思います。

「啓示 20章13節が、復活した者への教育の期間である、という教義に矛盾するのでは」という質問についてですが、それは矛盾しないと思われます。

[6]
七番目と八番目の質問について

新約聖書においてイエスがエホバの名を用いていない点についてですが、これは、新約聖書の記述方法の問題だと思われます。
イエスの時代、ギリシャ語文書においては、神のみ名が省略される傾向が見られていました。
七十人訳をとっても、旧約聖書の訳本であるにもかかわらず、神の名が記されたものはわずかであり、ほとんどの写本が、神のみ名を省略しています。
そして新約聖書自身も、七十人訳のやり方に倣い、旧約聖書書から直接引用するような場合にさえ神のみ名「エホバ」を省略していますので、当然、イエスの発言に関しても、新約聖書は神のみ名を省略したものと考えられます。

ヨハネ 17章11節から12節はこのようになっています。

「そしてまた、わたしはもう世におりませんが、彼らは世におり、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように、彼らも一つとなるためです。わたしは、彼らと共におりました時、わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために、いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り、滅びの子のほかには、そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした」。

「この聖句において、イエスは誰の御名を明らかにしておられるか」という問いですが、この聖句において、イエスは、自分が賜った父の名、つまりエホバの名を明らかにしておられます。

[7]
九番目の質問について

この質問はこのようになっています。

『使徒2:38、使徒8:16、使徒10:48、使徒19:4ー5、ローマ6:3、ガラテア3:27 コロサイ2:12
これらの箇所において、バプテスマは誰の名によって受けると書いてあるでしょうか。また、それは何故ですか』。

実際に引用したいと思います。

使徒 2章38節
「ペテロは彼らに言った、「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは、罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば、無償の賜物として聖霊を受けるでしょう」。

使徒 8章16節
「それは彼らのうちのだれにもまだ下っておらず、彼らはただ主イエスの名においてバプテスマを受けていただけだったからである」。

使徒 10章48節
「そうして、イエス・キリストの名においてバプテスマを受けるようにと彼らに命じた。それから彼らは、幾日かとどまるようにと彼に頼んだ」。

ローマ 6章3節
「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては、その死へのバプテスマを受けたのです」。

ガラテア 3章27節
「キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです」。

コロサイ 2章12節
「あなた方は彼と共にそのバプテスマのうちに葬られ、また彼との関係のもとに、彼を死人の中からよみがえらせた神の働きに対する信仰によって、共によみがえらされたのです」。

これらの聖句は、キリストの名によるバプテスマ、あるいは、キリストへのバプテスマについて述べています。

なぜかという点ですが、これは、イエスがマタイ 28章19節で行うよう命令した、「父と子と聖霊との名におけるバプテスマ」のことを、表現において簡略化したためだと思われます。

[8]
十番目の意見と質問、十一番目の質問について

啓示 13章6節については、その節だけを考慮するのではなく、文脈を見る必要があります。
6節では、神のみ名エホバを「野獣」が冒とくすると述べていますが、続く7節では、そのために「野獣」が取る行動について、「聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許された」とあります。
ですから、終わりの日に「野獣」が聖なる者たちを迫害する行為は、神のみ名に対する冒とくであり、これにより、「クリスチャンはエホバの名によって迫害を受ける」と言うことができます。
ですから、あなたが言われるように、「これはエホバの名によって迫害を受けている様子とはいえません」とは言えないと思います。

「聖書には、「エホバの名による迫害」についての警告があるか」という点ですが、今扱っている啓示 13章自身が警告となっています。
特に10節はこう述べています。

「捕らわれの身となるはずの者がいるなら、その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら、その者は剣で殺されなければならない。ここが聖なる者たちの忍耐と信仰を意味するところである」。

続く質問はこうなっています。

『マタイ10:22、マタイ24:9、ルカ21:12、ヨハネ15:21、使徒4:17ー18、使徒5:40ー41、使徒21:13、コリント第二11:38ー28、フィリピ1:29、ペテロ第一4:14
これらの御言葉は、誰の名によって迫害されると書いてありますか』。

実際に引用したいと思います。

マタイ 10章22節
「そしてあなた方は、わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。しかし、終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」。

マタイ 24章9節
「その時、人々はあなた方を患難に渡し、あなた方を殺すでしょう。またあなた方は、わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」。

ルカ 21章12節
「しかし、これらのすべての事の前に、人々はあなた方に手をかけて迫害し、あなた方を会堂や獄に引き渡し、あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう」。

ヨハネ 15章21節
「しかし彼らは、わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方を知らないからです」。

使徒 4章17節から18節
「「しかしそうではあるが、民の間にこれ以上広まることがないよう、もうこの名によってだれにもいっさい語らぬよう、脅しを加えて命じておこう」。そうして彼らを呼び、どこにおいてもイエスの名によって何か口にしたり教えたりすることはないように、と言い渡した」。

使徒 5章40節から41節
「そこでみんなは彼のことばに注意を向け、使徒たちを呼び出してむち打ち、イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから、彼らを去らせた。そのため、これらの者は、彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ、サンヘドリンの前から出て行った」。

使徒 21章13節
「するとパウロはこう答えた。「あなた方は泣いたりわたしの心を弱めたりして、何をしているのですか。わたしは、縛られることばかりか、主イエスの名のためにエルサレムで死ぬ覚悟さえできているのです」」。

フィリピ 1章29節
「あなた方には、キリストのために、彼に信仰を置く特権だけでなく、彼のために苦しむ特権も与えられたからです」。

ペテロ第一 4章14節
「キリストの名のために非難されるなら、あなた方は幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊があなた方の上にとどまっているからです」。

これらの聖句は、クリスチャンがキリストの名によって、あるいはキリストのために迫害されることについて述べています。
この点については異論はありません。

[9]
十二番目の質問について

この質問に関しては、すでにこちらからお答えした内容をご確認なさってください。

[10]
その他の件について

最後に、誤解についてですが、あなたが引用された聖句は、コリント第二 13章1節でしたが、このようになっています。

「わたしがあなた方のところに行こうとしているのはこれで三度目です。「一切の事は二人か三人の証人の口によって確証されねばならない」のです」。

この聖句は、訪問の回数について述べています。
ですから、『これは、私たちのメールの回数といった、不確かなものとは一切関係ありません。そうではなくて、聖書の解釈が平行線となったときに、聖書のみを用いて、解決するためには、聖書の中でいくつの箇所にその事が書かれているか……聖書自身が、上記の御言葉を通して、教えてくださる……』と言うのは不適切であるように思えます。

以上です。
ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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