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Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Sat, 28 Jul 2001 00:21:11 +0900 From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > とんぽっぽ様 お返事どうもありがとうございます、キリストの証人です。
> [1]最初の質問について 何度も申し上げるようですが、私たち人間が、自分の功績によらずイエスのあがないの信仰によってのみ、恵みとして救われるにもかかわらず、天で支配する14万4千人と、地上に住むその他のものに分かれるという考え方は、大変大きな事であり、私たちはそれについて慎重に吟味する必要があると思います。 ローマ10:6ー7 は、次のように警告します。 しかし、信仰の結果である義はこのように語ります。「あなたの心の中で、「だれが天へ上るだろうか」と言っては、つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また、「だれが底知れぬ深みへ下るだろうか」と(言っては)つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない。 そこで、ご指摘のイザヤ11章、65章ですが、新しく到来する世界についているこの箇所において、「地」という言葉が使われているのは、11章は4節のみですね。 「そして立場の低い者たちを必ず義をもって裁き、地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える。また、必ずその口のむち棒をもって地を打ち、その唇の霊をもって邪悪な者を死にいたらせるであろう」 ここで地に住む者を裁き戒めるのは、「彼」であって彼らではないのですから、14万4千人の義人が、天から裁く様子は見られません。 そして、65章で、「天」と「地」という言葉が出て来るのは16ー17節、 それゆえ、地で自らを祝福するものは信仰の神によって自らを祝福し、地で誓いのことばを述べる者は信仰の神によって誓う。以前の苦難は実際に忘れられ、それらはわたしの目から実際に覆い隠されるからである。いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出される事もこころの中に上る事もない。
ここにも、地に住むものとは別格の天にいる14万4千人の姿はないようです。 21章の3節には、 それと共に、わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ!神の天幕が人と共にあり、(神)は彼らと共に住み、彼らはその民となるであろう。そして神自らが彼らとともにおられるであろう。 つづく6ー7節は そして、その方はわたしに言われた、「事は成った!わたしはアルファでありオメガであり、初めであり終りである。だれでも渇いている者に、わたしは命の水の泉から価なしに与える。だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ、わたしはその神となり、彼はわたしの子となるであろう。」
とあります。ここには14万4千と他の人の待遇を、隔てる姿はありません。
前回も申し上げましたが、わたしがこの14万4千の教義にこだわるのは、天に行くか地に行くかという事が、気になるわけではありません。
聖書の中で人が隔てられる様子が書いてあるのは、むしろ、ルカ16:26に見られるように、悔い改めてイエスを信じ、救われる人と、かたくななまま、永遠の滅びに入る人についてでしょう。
> ですから、メシアであるキリストによる支配について考えるとき、それは地上に対する支配であると考えられます。
> 神の子たちの表されることについて、「天から」という言葉はありませんが、それが天からのものであることは間違いないと思われます。 この件は、2番目の質問と重なりますね。
> [2]二番目の質問について
パウロはいつも、「わたしの兄弟たち」に愛の手紙を送りましたね。 それにたいしてパウロは言った。「わずかの間であろうと長くかかろうと、わたしは、あなただけでなく、きょう私(のことば)を聞いておられるすべての方が、こうしたなわめは別として、私のような者になってくださればと神に願いたいほどなのです。」 またパウロはローマ1:14においても 「ギリシャ人にもバルバロイにも、賢いものにも分別のない者にも、私は負い目のある者です。」
と、当時のユダヤ社会では人間扱いをされていなかった異邦人や、未開人に対しても、福音を伝えなければ行けない負い目があると語っています。
別の角度からも考えてみましょう。
しかし、どうか家畜に尋ねてみよ。
あるいは、地に関心を示してみよ。
これらすべてのもののうち、だれかよく知らないものがあろうか。
このように、これら人間以外の被創造物は、はっきりとエホバを覚えるもの、と書かれています。
つまり、人間以外の作られたものは、創造主を覚え信頼している存在です。 そもそも、神が作られたのは人間だけではないのですから、「天下の全創造物」=人間、という解釈はやはり不自然です。
「天下の全部」が人間に限定されるなら、その他のものは、神に作られたのではないのか、解放を待ち望む意識がないのか(エホバを知っていて、苦しみも感じているというのに!)あるいは、主の日が来ても解放されない事になってしまいます。 それにもかかわらず、あなたがおっしゃるように、パウロが良い便りを伝えた相手=人間だけが「全創造物」であるのなら、パウロの書簡の最初の言葉はいつも、「私の兄弟たち」ではなく、「全創造物へ」となっていたことでしょう。
> [3]三番目の質問について
> ですから、「イエスの残っている者」という意味のこの表現は、イエスと非常に関連の深い何かを指していると思われます。
という事は、彼らは14万4千人とはまた別の存在なのですか?
> [4]四番目の質問について
この質問のみ、どうしてそうおっしゃるのか、よくわからないのですが。
> 聖書の解釈において、その適用対象を限定することは危険ではないかという、今回のご質問についてですが、まず、聖書の記述は、すべての箇所がすべての人に当てはまるという種類のものではないと考えられますので、そのこと自体は、あなたが述べるように「聖書的でない」とは言えないと思います。
まったくその通りであると私も思います。
> [5]五番目と六番目の質問について
矛盾しないと思われるという事ですので、この件に関してはこれ以上の議論は平行線になってしまいますね。
> [6]七番目と八番目の質問について
聖書は、人間の書物とは違い、一字一句を大変大切にするものである、という事はご存知だと思います。
箴言30:6
申命4:2
啓示22:18ー19 > そして新約聖書自身も、七十人訳のやり方に倣い、旧約聖書書から直接引用するような場合にさえ神のみ名「エホバ」を省略していますので、当然、イエスの発言に関しても、新約聖書は神のみ名を省略したものと考えられます。
聖書が神の霊感によってかかれた書物であるのなら、そのような事が許されるはずはないと思うのですが。
そもそも、聖書の写本は、現代の私たちからは考えられないほど丁寧に、正確に行われていたと聞いています。
それにもかかわらず、何故聖なる聖書から、エホバの御名は省略されたのですか?
> ヨハネ 17章11節から12節はこのようになっています。
上記の聖句、11節の「わたしに与えてくださったご自身のみ名」と、12節「わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名」は、The Kingdom Interlinear Translation of the GREEK SCRIPTURESによれば、両方ともに「the name of you to which you have given to me」であり、直訳すると「あなたが私に与えてくださったあなたのみ名」になります。
ルカ4:14ー22において、イエスが会堂でイザヤ書を朗読した際、もし、み名を「アドナイ」ではなく、「エホバ」と読んでいたとしたら、当時の慣習からすれば、間違いなく、その場で石打にする騒ぎになっていたはずです。
同じくルカの20:37においても、「エホバを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいます」と、ユダヤの書士達に語る場面が出てきますが、ここでも彼らは憤るどころか、「師よ、よくぞ言われました。」と、(39節)感嘆する様が書かれているのです。
イエスは、人々の慣習などお構いなしに、語る事はきちんと語られました。
また、上記ヨハネ17章において、処刑される前の夜のイエスは、長い祈りをされました。 イエスがエホバのもっとも忠実な証人であるとするのなら、何故イエスは「エホバ」の名を唱える手本を残されなかったのでしょうか。
また、イエスが人々に知らせる決意を持っていらしたみ名が、「エホバ」であるのなら、どうしてイエスの言葉が省略されたり、御自身も他の言葉を用いられたりして、新約聖書の中には、イエスがみ名を「エホバ」と、紹介された場所がないのでしょうか。
> [7]九番目の質問について
> これらの聖句は、キリストの名によるバプテスマ、あるいは、キリストへのバプテスマについて述べています。 何故、簡略化されたのでしょうか。また、簡略化されても良いようなものだったという事ですか?
> [8]十番目の意見と質問、十一番目の質問について
ここで問題にしている事は、「み名」による迫害の有無ではなく、「エホバ」の名による迫害があるかという事です。 > これらの聖句は、クリスチャンがキリストの名によって、あるいはキリストのために迫害されることについて述べています。 いつもキリストの名によって、と書かれているからです。
> [9]十二番目の質問について その人がどなたであるかという事は、まだお伺いしていないのですが。 お名前、問題となっている著作物とその箇所など、教えてください。
> [10]その他の件について それでは、元の申命記のほうを引用したいと思います。
人の犯すどんな罪の場合であれ、何かのとがまた罪に関しただ一人の証人が立ってこれを責めるべきではない。 聖書においては、一体何人の人が同意すれば、その事が有効になるでしょうか。
パウロは上記の聖句を、自分の訪問回数に適用しました。
大変長くなりましたので、今回は質問は箇条書きにはしないことに致しました。 それでは、お読みいただいて、どうもありがとうございました。 キリストの証人 |
Subject: エホバの証人記者クラブより Date: Mon, 06 Aug 2001 20:31:01 +0900 From: エホバの証人記者クラブ情報部 < < **** > To: **** < **** > エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。 引き続き、ご質問に返答いたします。
[1] 『何度も申し上げるようですが、私たち人間が、自分の功績によらずイエスのあがないの信仰によってのみ、恵みとして救われるにもかかわらず、天で支配する14万4千人と、地上に住むその他のものに分かれるという考え方は、大変大きな事であり、私たちはそれについて慎重に吟味する必要があると思います』。 聖書の解釈はどれにしても、慎重に解釈されるべきものであることに異論はありませんが、すでに述べましたように、キリストの贖いの恵みによって人が救われるという点は、その救われる者たちが「等しく救われる」というあなたの考えとは結びついていないように思えます。
[2] エホバは、出エジプト 19章5節から6節でこのように述べておられます。 「それで今、もしわたしの声に固く従い、わたしとの契約をほんとうに守るなら、あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。そしてあなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる」。
しかし、実際には、イスラエルはこの契約を「ほんとうに」は守りませんでした。 「そして、よそからの者たちが実際に立って、あなた方の羊の群れを牧し、異国の者たちはあなた方の農夫やぶどう栽培者となる。一方あなた方は、エホバの祭司と呼ばれ、わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう。あなた方は諸国民の資産を食べ、彼らの栄光を受けつつ自分のことを意気盛んに話すであろう」。
この預言は、エルサレム復興の際にある程度成就しました。
実際にメシアであるイエスが地上に来られると、聖書は、メシアのもとで祭司となる人たちが、霊的なイスラエルであり、アブラハムの胤であることを明らかにしました。 「彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する」。 これにより、メシアの共同支配者としての「祭司」の立場が明確になりました。
ですから、イザヤの記述の中で、メシアによる支配が単独であるかのように述べられているとしても、それは、共同支配者となる祭司たちのことを否定しているのではなく、ただ単に省略しているだけだと考えられます。
[3]
11章4節
9節
イザヤ 65章10節
16節
17節
[4]
[5] 『前回も申し上げましたが、わたしがこの14万4千の教義にこだわるのは、天に行くか地に行くかという事が、気になるわけではありません。(個人的には、キリストと共にさえあるなら、どちらでもまったく構いません。)ただ、エホバの証人の方々は、おりにつけ、ことに福音の約束について皆、「それは私たちにむけて書かれたものではありません。」とおっしゃることが、大変衝撃的だからです』。
天に行くか地に行くかという解釈にこだわらないのでしたら、ジレンマに陥る必要はないと思います。
[6] 「そして、これらすべてに加えて、わたしたちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており、そのため、ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず、人々がそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない」。 わたしたちエホバの証人は、この聖句が救われる者と救われない者との隔たりを示すたとえであることに異議を持ってはおりません。
[7] あなたがここで最初に引用した使徒 26章29節は、アグリッパ王に対するパウロの言葉で、このようになっています。 「それに対してパウロは言った、「わずかの間であろうと長くかかろうと、わたしは、あなただけでなく、今日わたしのことばを聞いておられるすべての方が、こうしたなわめは別として、わたしのような者になってくださればと神に願いたいほどなのです」」。 ここで、アグリッパ王はこのように述べています。
28節 ここでパウロは、兄弟ではない者を説得し、クリスチャンにならせようとしています。 また、ローマ 1章14節も、クリスチャンではない人たちに対して、良いたよりを告げる義務をパウロが負っていたことを示しています。 一方、あなたはこのように述べておられます。 『そんなパウロが、同じ人間に対して、「兄弟」と「創造物」というような分け隔てをした表現を用いるのは、大変唐突で不自然な事です』。
これは、唐突でも不自然でもないと思われます。
[8] このことは、詩編 19編1節から3節より例証できます。 「天は神の栄光を告げ知らせ、大空はみ手の業を語り告げている。日は日に継いで言語をほとばしらせ、夜は夜に継いで知識を表わし示す。言語もなく、言葉もなく、それらのものからは声が聞かれることもない」。 ここでは、「言語も言葉もない」つまり理性を持たない様々な創造物が、神をふれ告げるとされています。 一方、聖書は、「全創造物」にパウロが良いたよりをふれ告げたと述べており、理性を持たない創造物にこれをあてはめるのは困難だと思われます。
[9] 『そもそも、神が作られたのは人間だけではないのですから、「天下の全創造物」=人間、という解釈はやはり不自然です』。 これについては、すでに指摘しておりますように、「創造物」に関する聖書の用法に注目して考え、理解する必要があります。 また、このようにも述べられました。 『「天下の全部」が人間に限定されるなら、その他のものは、神に作られたのではないのか、解放を待ち望む意識がないのか(エホバを知っていて、苦しみも感じているというのに!)あるいは、主の日が来ても解放されない事になってしまいます。それはまったく、聖書と一致しません』。
神の創造物である動物たちがキリストの支配による祝福を得ることは間違いないことですので、エホバの証人はそのことを否定したりはしません。
[10] 『パウロが良い便りを伝えた相手=人間だけが「全創造物」であるのなら、パウロの書簡の最初の言葉はいつも、「私の兄弟たち」ではなく、「全創造物へ」となっていたことでしょう』。 これについては、このメールの七番目の項をご覧ください。
[11]
[12] 事実に照らして、神はこの省略を許されたものと思われます。
[13]
[14] ルカ 20章37節についてもほぼ同様です。
[15] 「イエスは彼らに言われた、「きわめて真実にあなた方に言いますが、ア ブラハムが存在する前からわたしはいるのです」」。
あなたのおっしゃる「エゴ・エイミ」は、神を表す称号としてではなく、この語のギリシャ語における一般的な用法に従って用いられています。
[16]
[17]
[18] 『「これまでに生存した最も偉大な人」の本が述べるところの「最も偉大な人」とは、イエス・キリストのことです。この点につきましては、特に異論もなく納得していただけることと思います』。
[19]
以上です。
なお、お返事についてですが、特にお急ぎになる必要はないと思います。
★エホバの証人記者クラブ★ |
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