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キリストの証人さん(6)
2001年10月7日更新

記者クラブに対する質問と説得(7)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Sat, 28 Jul 2001 00:21:11 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

お返事どうもありがとうございます、キリストの証人です。

> [1]最初の質問について
>
> 神の王国が天から地上を支配することについては、旧約聖書のイザヤ書の11章や65章などにメシア預言があり、前提となるものがすでに存在しています。

何度も申し上げるようですが、私たち人間が、自分の功績によらずイエスのあがないの信仰によってのみ、恵みとして救われるにもかかわらず、天で支配する14万4千人と、地上に住むその他のものに分かれるという考え方は、大変大きな事であり、私たちはそれについて慎重に吟味する必要があると思います。

ローマ10:6ー7 は、次のように警告します。

しかし、信仰の結果である義はこのように語ります。「あなたの心の中で、「だれが天へ上るだろうか」と言っては、つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また、「だれが底知れぬ深みへ下るだろうか」と(言っては)つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない。

そこで、ご指摘のイザヤ11章、65章ですが、新しく到来する世界についているこの箇所において、「地」という言葉が使われているのは、11章は4節のみですね。

「そして立場の低い者たちを必ず義をもって裁き、地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える。また、必ずその口のむち棒をもって地を打ち、その唇の霊をもって邪悪な者を死にいたらせるであろう」

ここで地に住む者を裁き戒めるのは、「彼」であって彼らではないのですから、14万4千人の義人が、天から裁く様子は見られません。

そして、65章で、「天」と「地」という言葉が出て来るのは16ー17節、

それゆえ、地で自らを祝福するものは信仰の神によって自らを祝福し、地で誓いのことばを述べる者は信仰の神によって誓う。以前の苦難は実際に忘れられ、それらはわたしの目から実際に覆い隠されるからである。いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出される事もこころの中に上る事もない。

ここにも、地に住むものとは別格の天にいる14万4千人の姿はないようです。
新しい天と地が現れる様子は、啓示の21章により鮮明に描かれていますね。

21章の3節には、

それと共に、わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ!神の天幕が人と共にあり、(神)は彼らと共に住み、彼らはその民となるであろう。そして神自らが彼らとともにおられるであろう。

つづく6ー7節は

そして、その方はわたしに言われた、「事は成った!わたしはアルファでありオメガであり、初めであり終りである。だれでも渇いている者に、わたしは命の水の泉から価なしに与える。だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ、わたしはその神となり、彼はわたしの子となるであろう。」

とあります。ここには14万4千と他の人の待遇を、隔てる姿はありません。
むしろ、信じるものすべてへの輝かしい約束が記されています。

前回も申し上げましたが、わたしがこの14万4千の教義にこだわるのは、天に行くか地に行くかという事が、気になるわけではありません。
(個人的には、キリストと共にさえあるなら、どちらでもまったく構いません。)
ただ、エホバの証人の方々は、おりにつけ、ことに福音の約束について皆、「それは私たちにむけて書かれたものではありません。」とおっしゃることが、大変衝撃的だからです。
そして、キリストの体である聖餐にもあずからない、という姿勢に、キリストが差し伸べてくださる救いの手を拒否されているような印象が、どうしてもぬぐえないからなのです。
生まれながらの罪人として、救われる可能性のない私たちを、ただキリストの十字架の購いが(杭でも構いませんが)、尊い神の愛の約束によって、そして私たちが思い上がらないために、値なしに救ってくださるのだ、というのが私たち教会のクリスチャンが日々祈り、宣べ伝えている事だからです。

聖書の中で人が隔てられる様子が書いてあるのは、むしろ、ルカ16:26に見られるように、悔い改めてイエスを信じ、救われる人と、かたくななまま、永遠の滅びに入る人についてでしょう。
このようにはっきりと書かれている箇所にたいしては、「それは比喩である」として否定し、具体的には書かれていない事について、想像力を巡らして、「このようになる」と言い切るのは、聖書を第一にした姿勢とは言い難く思うのですが。

> ですから、メシアであるキリストによる支配について考えるとき、それは地上に対する支配であると考えられます。

> 神の子たちの表されることについて、「天から」という言葉はありませんが、それが天からのものであることは間違いないと思われます。
> また、この「創造物」が人類を示していることはすでに指摘したとおりですから、やはり、「地上で」という言葉はありませんが、それが地上でのものであることは間違いないと思われます。

この件は、2番目の質問と重なりますね。

> [2]二番目の質問について
>
> コロサイ 1章23節における「創造物」が何を示しているかは、他の聖句を参照するまでもなく、コロサイ 1章23節自身が明らかにしています。
> この聖句は、一部このように述べています。
>
> 「良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです」。
>
> パウロが良いたよりを宣べ伝えたのが誰であるかを知っていれば、この「創造物」の意味するところについて議論することもないと思います。

パウロはいつも、「わたしの兄弟たち」に愛の手紙を送りましたね。
では、それはだれの事でしょうか。
使徒26章29節は、パウロの心を伝えてくれます。

それにたいしてパウロは言った。「わずかの間であろうと長くかかろうと、わたしは、あなただけでなく、きょう私(のことば)を聞いておられるすべての方が、こうしたなわめは別として、私のような者になってくださればと神に願いたいほどなのです。」

またパウロはローマ1:14においても

「ギリシャ人にもバルバロイにも、賢いものにも分別のない者にも、私は負い目のある者です。」

と、当時のユダヤ社会では人間扱いをされていなかった異邦人や、未開人に対しても、福音を伝えなければ行けない負い目があると語っています。
彼にとっては、奴隷から自由人にいたるまで、(当時奴隷は人間扱いをされていません)「すべての人」が救われて自分のようになるのが心から神に祈る、望みでした。
そんなパウロが、同じ人間に対して、「兄弟」と「創造物」というような分け隔てをした表現を用いるのは、大変唐突で不自然な事です。

別の角度からも考えてみましょう。
人間以外の創造物について、聖書は何といっているでしょうか。
ヨブ記12:7ー9をご覧ください。

しかし、どうか家畜に尋ねてみよ。
それはあなたを教え諭すであろう。
また、天の翼ある生き物にも。
そうすれば、それはあなたに告げるだろう。

あるいは、地に関心を示してみよ。
そうすればそれはあなたを教え諭すだろう。
海の魚もあなたに告げ知らせだろう。

これらすべてのもののうち、だれかよく知らないものがあろうか。
エホバのみ手がこれをなさったことを。

このように、これら人間以外の被創造物は、はっきりとエホバを覚えるもの、と書かれています。
そして、前回申し上げてご同意頂いたように、人間の罪によって呪いの苦しみを受ける(創世記3:17)これらのものに対しても、イザヤ11章、65章は、新しい天と地の到来とともに、解放されると告げています。

つまり、人間以外の作られたものは、創造主を覚え信頼している存在です。
しかしそれにもかかわらず、人間の犯した罪により、悲惨な呪いの下におかれ続けています。
そして、聖書はすべてが新しくなるときには、それらのものも再び解放されると教えています。
エホバを知り、苦しみを受け続けているものにとって、キリストの良い便りが伝えられているのは当然の事です。
事実彼らも解放されるのです。

そもそも、神が作られたのは人間だけではないのですから、「天下の全創造物」=人間、という解釈はやはり不自然です。

「天下の全部」が人間に限定されるなら、その他のものは、神に作られたのではないのか、解放を待ち望む意識がないのか(エホバを知っていて、苦しみも感じているというのに!)あるいは、主の日が来ても解放されない事になってしまいます。
それはまったく、聖書と一致しません。

それにもかかわらず、あなたがおっしゃるように、パウロが良い便りを伝えた相手=人間だけが「全創造物」であるのなら、パウロの書簡の最初の言葉はいつも、「私の兄弟たち」ではなく、「全創造物へ」となっていたことでしょう。

> [3]三番目の質問について

> ですから、「イエスの残っている者」という意味のこの表現は、イエスと非常に関連の深い何かを指していると思われます。
> その「残っている者たち」とは、イエスと養子縁組の関係に入ることにより、イエスの兄弟、すなわち「神の子」となった者たちの残りの者であると考えられます。

という事は、彼らは14万4千人とはまた別の存在なのですか?
最初になるという事は、14万4千人よりさらに上のものになるという事でしょうか。
救われて天に行くものを14万4千人に限定しなければ、特に解釈が難しいようにも思えないのですが。

> [4]四番目の質問について
>
> 四番目の質問に関しては、前回指摘した一つの場合と同様、再びあなたの質問の内容は変わっているようです。

この質問のみ、どうしてそうおっしゃるのか、よくわからないのですが。
もし、変わっていると思われるのでしたら、最初からこの事をお尋ねしたかった、という事だと思います。
そのようにご理解下さい。

> 聖書の解釈において、その適用対象を限定することは危険ではないかという、今回のご質問についてですが、まず、聖書の記述は、すべての箇所がすべての人に当てはまるという種類のものではないと考えられますので、そのこと自体は、あなたが述べるように「聖書的でない」とは言えないと思います。
> そして、危険性についてですが、それは、すでに述べましたように、地道な聖書解釈の道を進むことによってのみ克服できる問題だと思われます。

まったくその通りであると私も思います。
これから、共に御言葉について話し合いつつ、その事を明らかにできたらとても嬉しいです。

> [5]五番目と六番目の質問について
>
> 千年統治と復活の教理解釈に関して、「エホバの証人の方々が、教義のために都合の悪い御言葉は無視している」ということはありません。
> ただ、特定の聖書解釈を採用するということは、他の聖書解釈を採用しないことを意味していますので、あなたはそのことを気にかけているものと思います。
>
> 「啓示 20章13節が、復活した者への教育の期間である、という教義に矛盾するのでは」という質問についてですが、それは矛盾しないと思われます。

矛盾しないと思われるという事ですので、この件に関してはこれ以上の議論は平行線になってしまいますね。
とりあえず、この件はお尋ねしない事に致します。

> [6]七番目と八番目の質問について
>
> 新約聖書においてイエスがエホバの名を用いていない点についてですが、これは、新約聖書の記述方法の問題だと思われます。
> イエスの時代、ギリシャ語文書においては、神のみ名が省略される傾向が見られていました。
> 七十人訳をとっても、旧約聖書の訳本であるにもかかわらず、神の名が記されたものはわずかであり、ほとんどの写本が、神のみ名を省略しています。

聖書は、人間の書物とは違い、一字一句を大変大切にするものである、という事はご存知だと思います。
そして、その事については、聖書自身がはっきりと警告をしています。

箴言30:6
その言葉に何も付け加えてはならない。神があなたを戒めることのないため、あなたが嘘をつくものとされないためである。

申命4:2
あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない。それによって、わたしが命じているあなた方の神エホバのおきてを守るためである。

啓示22:18ー19
わたしは、すべてこの巻き物の予言の言葉を聞く者に証しする。これらの事に付け加える者がいれば、神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。また、この予言の巻き物の言葉から何かを取り去る者がいれば、神は命の木から、また聖なる都市の中から、すなわちこの巻き物に書かれているものから彼の分を取り去られるであろう。

> そして新約聖書自身も、七十人訳のやり方に倣い、旧約聖書書から直接引用するような場合にさえ神のみ名「エホバ」を省略していますので、当然、イエスの発言に関しても、新約聖書は神のみ名を省略したものと考えられます。

聖書が神の霊感によってかかれた書物であるのなら、そのような事が許されるはずはないと思うのですが。
また、そのようにされた聖書を神が放って置くというのは、考えにくいように思います。

そもそも、聖書の写本は、現代の私たちからは考えられないほど丁寧に、正確に行われていたと聞いています。
選ばれた特務である写字者は、単語を読むのではなく、アルファベット1つ1つを順番に写してゆき、1字でも間違えると、どれほど進んでいても、すべて捨てて、最初から書き直したそうです。

それにもかかわらず、何故聖なる聖書から、エホバの御名は省略されたのですか?
また、どうしてそのような事が許されたのでしょうか。
全知全能の神が、そんな大切な事を、イエスの時代から現在にいたるまで、(いまだ聖書の記載は、直されていません。)放っておかれるとは、信じがたいことです。

> ヨハネ 17章11節から12節はこのようになっています。
>
> 「そしてまた、わたしはもう世におりませんが、彼らは世におり、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように、彼らも一つとなるためです。わたしは、彼らと共におりました時、わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために、いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り、滅びの子のほかには、そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした」。
>
> 「この聖句において、イエスは誰の御名を明らかにしておられるか」という問いですが、この聖句において、イエスは、自分が賜った父の名、つまりエホバの名を明らかにしておられます。

上記の聖句、11節の「わたしに与えてくださったご自身のみ名」と、12節「わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名」は、The Kingdom Interlinear Translation of the GREEK SCRIPTURESによれば、両方ともに「the name of you to which you have given to me」であり、直訳すると「あなたが私に与えてくださったあなたのみ名」になります。
イエスが与えられた神の御名とは、何だったのでしょうか。
何故イエスは、はっきり「エホバのみ名」という言葉を使わなかったのでしょうか。

ルカ4:14ー22において、イエスが会堂でイザヤ書を朗読した際、もし、み名を「アドナイ」ではなく、「エホバ」と読んでいたとしたら、当時の慣習からすれば、間違いなく、その場で石打にする騒ぎになっていたはずです。
(これは、当時のユダヤ人の慣習と、歴史的背景をご存知であれば、誰でもわかることのはずです。)
しかし22節には、人々がそれを聞いて、好意的な反応を示した様子が書かれています。

同じくルカの20:37においても、「エホバを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいます」と、ユダヤの書士達に語る場面が出てきますが、ここでも彼らは憤るどころか、「師よ、よくぞ言われました。」と、(39節)感嘆する様が書かれているのです。
もしここでも、「アドナイ」でなく「エホバ」が使われていたのなら、ユダヤの書士達は、感動どころか、即刻で石打にするように暴動を起こしたはずです。

イエスは、人々の慣習などお構いなしに、語る事はきちんと語られました。
ヨハネ8:58においては、ご自分を「エゴーエイミ」と紹介されて、石打にあいそうになりました。
何故、ユダヤ人はイエスを石で打ち殺そうとしたのでしょうか。
「エゴーエイミ」=「私はあるという者である」という言葉は、ユダヤ人にとって、何を意味したのでしょうか。

また、上記ヨハネ17章において、処刑される前の夜のイエスは、長い祈りをされました。
その中で、繰り返し「父」という称号を用いられたにもかかわらず、「エホバ」の名はついに使われませんでした。

イエスがエホバのもっとも忠実な証人であるとするのなら、何故イエスは「エホバ」の名を唱える手本を残されなかったのでしょうか。

また、イエスが人々に知らせる決意を持っていらしたみ名が、「エホバ」であるのなら、どうしてイエスの言葉が省略されたり、御自身も他の言葉を用いられたりして、新約聖書の中には、イエスがみ名を「エホバ」と、紹介された場所がないのでしょうか。
そして、1世紀のクリスチャンたちは、どうして「エホビアン」ではなく、「クリスチャン」と呼ばれたのでしょうか。

> [7]九番目の質問について
>
> この質問はこのようになっています。
>
> 「使徒2:38、使徒8:16、使徒10:48、使徒19:4ー5、ローマ6:3、ガラテア3:27 コロサイ2:12
> これらの箇所において、バプテスマは誰の名によって受けると書いてあるでしょうか。また、それは何故ですか」。

> これらの聖句は、キリストの名によるバプテスマ、あるいは、キリストへのバプテスマについて述べています。
>
> なぜかという点ですが、これは、イエスがマタイ 28章19節で行うよう命令した、「父と子と聖霊との名におけるバプテスマ」のことを、表現において簡略化したためだと思われます。

何故、簡略化されたのでしょうか。また、簡略化されても良いようなものだったという事ですか?

> [8]十番目の意見と質問、十一番目の質問について
>
> 啓示 13章6節については、その節だけを考慮するのではなく、文脈を見る必要があります。
> 6節では、神のみ名エホバを「野獣」が冒とくすると述べていますが、続く7節では、そのために「野獣」が取る行動について、「聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許された」とあります。
> ですから、終わりの日に「野獣」が聖なる者たちを迫害する行為は、神のみ名に対する冒とくであり、これにより、「クリスチャンはエホバの名によって迫害を受ける」と言うことができます。
> ですから、あなたが言われるように、「これはエホバの名によって迫害を受けている様子とはいえません」とは言えないと思います。
>
> 「聖書には、「エホバの名による迫害」についての警告があるか」という点ですが、今扱っている啓示 13章自身が警告となっています。
> 特に10節はこう述べています。
>
> 「捕らわれの身となるはずの者がいるなら、その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら、その者は剣で殺されなければならない。ここが聖なる者たちの忍耐と信仰を意味するところである」。

ここで問題にしている事は、「み名」による迫害の有無ではなく、「エホバ」の名による迫害があるかという事です。
6節は、神のみ名という記述のみで、テトラグラマトンが使われていません。
一字一句も変えてはいけないと警告された啓示は、「エホバ」の名による迫害があるとは、一言も述べていないのです。
むしろ、新約聖書の中での迫害は、あなたもご同意のように、

> これらの聖句は、クリスチャンがキリストの名によって、あるいはキリストのために迫害されることについて述べています。

いつもキリストの名によって、と書かれているからです。

> [9]十二番目の質問について
>
> この質問に関しては、すでにこちらからお答えした内容をご確認なさってください。

その人がどなたであるかという事は、まだお伺いしていないのですが。

お名前、問題となっている著作物とその箇所など、教えてください。

> [10]その他の件について
>
> 最後に、誤解についてですが、あなたが引用された聖句は、コリント第二 13章1節でしたが、このようになっています。
>
> 「わたしがあなた方のところに行こうとしているのはこれで三度目です。「一切の事は二人か三人の証人の口によって確証されねばならない」のです」。
>
> この聖句は、訪問の回数について述べています。
> ですから、「これは、私たちのメールの回数といった、不確かなものとは一切関係ありません。そうではなくて、聖書の解釈が平行線となったときに、聖書のみを用いて、解決するためには、聖書の中でいくつの箇所にその事が書かれているか……聖書自身が、上記の御言葉を通して、教えてくださる……」と言うのは不適切であるように思えます。

それでは、元の申命記のほうを引用したいと思います。

人の犯すどんな罪の場合であれ、何かのとがまた罪に関しただ一人の証人が立ってこれを責めるべきではない。
二人の証人の口または三人の証人の口によってその件は定められるべきである。

申命 19:15

聖書においては、一体何人の人が同意すれば、その事が有効になるでしょうか。

パウロは上記の聖句を、自分の訪問回数に適用しました。
それが私のメールの回数に適応するとは間違えても思いませんが、聖書の記載において、二人から三人によって確認できる事は、有効であると私は考えています。

大変長くなりましたので、今回は質問は箇条書きにはしないことに致しました。
(お返事を書くだけで、8時間ほど費やしてしまったので…5歳と3歳の子育て中の主婦&妊婦のため、あまりお時間が取れない事をお赦し下さい。)
それぞれの課題について、ご意見聞かせていただければ幸いです。
この次は、もう少しきちんと、質問を致したいと思います。

それでは、お読みいただいて、どうもありがとうございました。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Mon, 06 Aug 2001 20:31:01 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

引き続き、ご質問に返答いたします。

[1]
先のメールにおいて、まず最初にあなたはこのようにおっしゃられています。

『何度も申し上げるようですが、私たち人間が、自分の功績によらずイエスのあがないの信仰によってのみ、恵みとして救われるにもかかわらず、天で支配する14万4千人と、地上に住むその他のものに分かれるという考え方は、大変大きな事であり、私たちはそれについて慎重に吟味する必要があると思います』。

聖書の解釈はどれにしても、慎重に解釈されるべきものであることに異論はありませんが、すでに述べましたように、キリストの贖いの恵みによって人が救われるという点は、その救われる者たちが「等しく救われる」というあなたの考えとは結びついていないように思えます。

[2]
イザヤのメシア預言についてですが、メシアによる支配に関する記述に共同支配者(十四万四千人)に関する直接的な記述が含まれていないのは、時代の観点から見て当然と言えます。
メシアの支配に関する真理は、聖書の中で、段階的に明らかにされているからです。

エホバは、出エジプト 19章5節から6節でこのように述べておられます。

「それで今、もしわたしの声に固く従い、わたしとの契約をほんとうに守るなら、あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。そしてあなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる」。

しかし、実際には、イスラエルはこの契約を「ほんとうに」は守りませんでした。
しかし、エルサレムの復興を予告するイザヤの預言の中、61章5節から6節で、エホバはこのように述べています。

「そして、よそからの者たちが実際に立って、あなた方の羊の群れを牧し、異国の者たちはあなた方の農夫やぶどう栽培者となる。一方あなた方は、エホバの祭司と呼ばれ、わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう。あなた方は諸国民の資産を食べ、彼らの栄光を受けつつ自分のことを意気盛んに話すであろう」。

この預言は、エルサレム復興の際にある程度成就しました。
イザヤの預言が、エルサレムの復興をもたらすメシアと、その支配に言及しつつも、その支配の形態にも言及しているという点に注目してください。
このとき、イスラエルは、メシアの支配のもとで祭司となると予告されました。

実際にメシアであるイエスが地上に来られると、聖書は、メシアのもとで祭司となる人たちが、霊的なイスラエルであり、アブラハムの胤であることを明らかにしました。
そして、啓示 20章6節は彼らについてこのように述べます。

「彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する」。

これにより、メシアの共同支配者としての「祭司」の立場が明確になりました。

ですから、イザヤの記述の中で、メシアによる支配が単独であるかのように述べられているとしても、それは、共同支配者となる祭司たちのことを否定しているのではなく、ただ単に省略しているだけだと考えられます。
そして、共同支配者に関する詳細は、後の時代に補足されました。

[3]
イザヤ 11章と65章の中で、「地」という表現がメシア支配と関連づけられているところは2箇所ではありません。

11章4節
「そして立場の低い者たちを必ず義をもって裁き、地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える。また、必ずその口のむち棒をもって地を打ち、その唇の霊をもって邪悪な者を死に至らせるであろう」。

9節
「それらはわたしの聖なる山のどこにおいても、害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように、地は必ずエホバについての知識で満ちるからである」。

イザヤ 65章10節
「そして、わたしを捜し求めるわたしの民のために、シャロンは必ず羊の牧草地となり、アコルの低地平原は牛のための休み場となる」。

16節
「それゆえ、地で自らを祝福する者は信仰の神によって自らを祝福し、地で誓いのことばを述べる者は信仰の神によって誓う。以前の苦難は実際に忘れられ、それらはわたしの目から実際に覆い隠されるからである」。

17節
「いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも、心の中に上ることもない」。

[4]
啓示 21章の記述ですが、ここに十四万四千人の者についての直接的な記述が含まれていないとしても、十四万四千人の者がキリストと共に祭司として働く共同支配者となることは否定されないと思われます。
また、この記述が、千年統治の終わった後の世界についてのものであることにも注目すべきです。

[5]
あなたはこのようにご自身の意見を述べておられます。

『前回も申し上げましたが、わたしがこの14万4千の教義にこだわるのは、天に行くか地に行くかという事が、気になるわけではありません。(個人的には、キリストと共にさえあるなら、どちらでもまったく構いません。)ただ、エホバの証人の方々は、おりにつけ、ことに福音の約束について皆、「それは私たちにむけて書かれたものではありません。」とおっしゃることが、大変衝撃的だからです』。

天に行くか地に行くかという解釈にこだわらないのでしたら、ジレンマに陥る必要はないと思います。
天に行く者に関する記述は天に行く者に、地に行く者の記述は地に行く者に適用されるからです。
キリストの福音についても同じです。

[6]
ルカ 16章26節はこのようになっています。

「そして、これらすべてに加えて、わたしたちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており、そのため、ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず、人々がそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない」。

わたしたちエホバの証人は、この聖句が救われる者と救われない者との隔たりを示すたとえであることに異議を持ってはおりません。

[7]
パウロが良いたよりをふれ告げた「全創造物」は誰かという点ですが、パウロは当時のすべての人たちに良いたよりをふれ告げていました。
ですから、その「全創造物」とは全人類であると言えます。

あなたがここで最初に引用した使徒 26章29節は、アグリッパ王に対するパウロの言葉で、このようになっています。

「それに対してパウロは言った、「わずかの間であろうと長くかかろうと、わたしは、あなただけでなく、今日わたしのことばを聞いておられるすべての方が、こうしたなわめは別として、わたしのような者になってくださればと神に願いたいほどなのです」」。

ここで、アグリッパ王はこのように述べています。

28節
「しかしアグリッパはパウロに言った、「あなたはわずかの間に、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」」。

ここでパウロは、兄弟ではない者を説得し、クリスチャンにならせようとしています。

また、ローマ 1章14節も、クリスチャンではない人たちに対して、良いたよりを告げる義務をパウロが負っていたことを示しています。

一方、あなたはこのように述べておられます。

『そんなパウロが、同じ人間に対して、「兄弟」と「創造物」というような分け隔てをした表現を用いるのは、大変唐突で不自然な事です』。

これは、唐突でも不自然でもないと思われます。
「兄弟」という言葉は、すでにクリスチャンになった人たちのことを指しています。
一方、「全創造物」という言葉は、クリスチャンになっている人も、クリスチャンになっていない人も含むすべての人たちのことを指しています。
ですから、まだクリスチャンになっていない人たちを「兄弟」と呼ぶことはできませんし、クリスチャンになった人たちを「全創造物」と呼ぶこともできませんでした。

[8]
ヨブ記 12章7節から9節については、あなたのおっしゃる点に大筋としては異論はありませんが、それは限定された意味においてであると思われます。
つまり、文字通りの意味で、家畜や魚といった生き物が神をよく知っているということはないと思われます。
むしろ、ここでヨブが言おうとしているのは、生き物たちは、そのくすしい造りと生態によって人間に神の存在を知らしめるという限定された意味において、神を知っているということでしょう。

このことは、詩編 19編1節から3節より例証できます。

「天は神の栄光を告げ知らせ、大空はみ手の業を語り告げている。日は日に継いで言語をほとばしらせ、夜は夜に継いで知識を表わし示す。言語もなく、言葉もなく、それらのものからは声が聞かれることもない」。

ここでは、「言語も言葉もない」つまり理性を持たない様々な創造物が、神をふれ告げるとされています。

一方、聖書は、「全創造物」にパウロが良いたよりをふれ告げたと述べており、理性を持たない創造物にこれをあてはめるのは困難だと思われます。

[9]
あなたはこのように述べられました。

『そもそも、神が作られたのは人間だけではないのですから、「天下の全創造物」=人間、という解釈はやはり不自然です』。

これについては、すでに指摘しておりますように、「創造物」に関する聖書の用法に注目して考え、理解する必要があります。

また、このようにも述べられました。

『「天下の全部」が人間に限定されるなら、その他のものは、神に作られたのではないのか、解放を待ち望む意識がないのか(エホバを知っていて、苦しみも感じているというのに!)あるいは、主の日が来ても解放されない事になってしまいます。それはまったく、聖書と一致しません』。

神の創造物である動物たちがキリストの支配による祝福を得ることは間違いないことですので、エホバの証人はそのことを否定したりはしません。
しかし、ローマ 8章18節から22節は、「全創造物」という表現を、全人類という意味で用いています。
この二点は、一致しており、矛盾はないものと思われます。

[10]
また、あなたはこのように述べられました。

『パウロが良い便りを伝えた相手=人間だけが「全創造物」であるのなら、パウロの書簡の最初の言葉はいつも、「私の兄弟たち」ではなく、「全創造物へ」となっていたことでしょう』。

これについては、このメールの七番目の項をご覧ください。

[11]
啓示 12章17節における「残っている者たち」とは、十四万四千人のうちの残っている者であると考えられます。

[12]
神の言葉に付け加えることはあってはならないというあなたのご指摘ですが、聖書がそう教えているということが、現在わたしたちが手にしている聖書が改変されていないことの保証となることはありません。
聖書の中には、近代になって改変が認められたところが幾つかありますし、すでに指摘しているように、新約聖書は、旧約聖書の引用である部分でさえ、神のみ名を省略しています。
これが“改変”にあたる行為かどうかは別として、“省略”であることには間近いありません。

事実に照らして、神はこの省略を許されたものと思われます。

[13]
ヨハネ 17章11節から12節についてですが、ここでイエスが神のみ名を発音する必要はなかったと思われます。

[14]
ルカ 4章14節から22節、ならびに、当時のユダヤ人の風習についてですが、1世紀当時のユダヤ人の風習には、まだ神のみ名を発音する余地があったと思われます。
そこで、イエスがここで神のみ名を発音されたとしてもおかしいことではないと考えられます。

ルカ 20章37節についてもほぼ同様です。

[15]
ヨハネ 8章58節についてですが、このようになっています。

「イエスは彼らに言われた、「きわめて真実にあなた方に言いますが、ア ブラハムが存在する前からわたしはいるのです」」。

あなたのおっしゃる「エゴ・エイミ」は、神を表す称号としてではなく、この語のギリシャ語における一般的な用法に従って用いられています。
ですから、これに対してユダヤ人が憤慨したのは、その文字通りに意味するところ、すなわち「アブラハムが生まれる前からイエスは存在した」という意味に対してであると考えられます。

[16]
「父と子と聖霊との名におけるバプテスマ」が省略された呼び方で呼ばれた理由の一つは、それが長い言い回しだったからだと思われます。
もうひとつの理由は、バプテスマには種類があり、すでにそのような省略形が用いられていたことです。
たとえば、聖書の中には、「ヨハネのバプテスマ」、「モーセへのバプテスマ」という表現がありますが、いずれも、実際にはエホバに対するバプテスマであり、ヨハネやモーセは役割を果たしたにすぎません。
ですから、「父と子と聖霊との名におけるバプテスマ」が「キリストのバプテスマ」と呼ばれたのは、そのバプテスマにおけるキリストの果たした役割のゆえ、省略が可能だったからに違いありません。

[17]
神の名のゆえに受ける迫害についてですが、これについては、あなたがされているように、特定の表現にこだわるようなことは必要ないと思われます。
特定の表現があるかどうかではなく、その意味に注意を払うなら、答えはおのずと明らかであると思われます。

[18]
「最も偉大な人」に関するご質問ですが、すでにこのようにお答えしております。

『「これまでに生存した最も偉大な人」の本が述べるところの「最も偉大な人」とは、イエス・キリストのことです。この点につきましては、特に異論もなく納得していただけることと思います』。

[19]
申命 19章15節についてですが、これは裁判のやり方について述べており、ここから聖書の解釈の法則を導き出すことはできないと思われます。
もちろん、可能であれば、あなたのおっしゃるとおり、幾つかの聖句から教理の立証を行えることでしょう。
しかし、絶対にそうできなければならないというようなことは言えないと思います。

以上です。
ありがとうございました。

なお、お返事についてですが、特にお急ぎになる必要はないと思います。
お体にお気をつけになって、まずお子さんたちのために励まれることをお勧めいたします。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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