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Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Tue, 07 Aug 2001 00:57:39 +0900 From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > とんぽっぽ様 キリストの証人です。 いつもお返事どうもありがとうございます。 > 聖書の解釈はどれにしても、慎重に解釈されるべきものであることに異論はありませんが、すでに述べましたように、キリストの贖いの恵みによって人が救われるという点は、その救われる者たちが「等しく救われる」というあなたの考えとは結びついていないように思えます。
聖書の解釈は、慎重になされるべきものとういう点において、ご同意頂け、大変嬉しく思います。 > ですから、イザヤの記述の中で、メシアによる支配が単独であるかのように述べられているとしても、それは、共同支配者となる祭司たちのことを否定しているのではなく、ただ単に省略しているだけだと考えられます。
メシアについての預言が、段階的に示されている事と、共に治めるものの存在については、まったく異論がありません。 第一の復活にあずかるものは幸いな者、聖なる者である。これらのものに対して第二の死は何の権威も持たず、彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する。
しかし、これら第一の復活に預かる人々が、14万4千人とは別の存在であるのは、啓示の書に記されている通りです。 また、順番は前後致しますが、
> [11]
との事ですが、14章は、この時14万4千人全員が、どこにいるかを明らかにしています。
そしてこの聖書が語る事実は、「最初のものが最後になり最後のものが最初になる」というみ言葉を、見事に裏付けてもいます。
これらの事にもかかわらず、初代教会から1935年までに集められた14万4千人だけが、イエスと共に天の王国政府に行き、その他の信者は大群衆として、地を受け継ぐのみとするのでしょうか。
啓示7章によると、大群衆はみ座の前と子羊の前に立っているとあります。 また、14万4千人とも大群衆とも違う「残りのもの」、彼らの存在は一体どうなるのでしょうか。 そして、この問題は、以下のところに続くものです。
> [5] 本当に気になる事の1つは、ヨハネ6章51ー58、そしてマタイ26章26ー28にあります。
「私は命のパンです。あなた方の父祖は荒野でマナを食べましたがそれでも死にました。これは天から下ってくるパンであり、誰でもそれを食べるものが死なないためのものです。私は天から下って来た生きたパンです。誰でもこのパンを食べるならその人は永久に生きます。そして本当の事ですが、私が与えるパンとは世の命のための私の肉なのです。」
彼らが食事を続けていると、イエスはパンを取り、祝とうを述べてからそれを割き、弟子達に与えて、こう言われた。
エホバの証人の方々は、「主の記念式」に出席されても、パンとぶどう液にはあずからないと伺って、とても驚いたのです。 > そして、共同支配者に関する詳細は、後の時代に補足されました。 とのことですが、具体的には聖書のどこにある事でしょうか。
さて、まだ一部の事柄についてしか、お返事を書き終えておりませんが、子供の事など、暖かいご配慮をいただいた事に甘えさせていただきまして、この続きについては、もう少し時間の取れる時に書かせていただきたいと思います。
また、先にこのメールに御返事いただけるようでしたら、(もちろんお時間が取れる時で結構です。) キリストの証人 |
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Thu, 09 Aug 2001 00:21:28 +0900 From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > とんぽっぽ様 再び、キリストの証人です。前回のメールの続きとなります。
> [3]
ご指摘どうもありがとうございます。 しかしいずれのものも、「地」について語っておりますが、人々が、「天」にゆくものと、「地」にゆくものとが分けられるという様子は、どこにも見当たらないようです。
> [4]
啓示の14章では、14万4千人が子羊と共にシオンの山に立っている光景が描かれています。シオンの山とは、地の事ではなく天にあるのですか? ところで、21章には、天から下って来るエルサレムに住むのは、「子羊の命の巻き物に書かれたものだけ」とありますが、14万4千人の住居が「地」とは別の「天」であるとするなら、彼らの名はその巻き物には記されていないのですか? > また、この記述が、千年統治の終わった後の世界についてのものであることにも注目すべきです。
これはどのような意味なのでしょうか。
前回のメールと重複致しますが、21章に書かれているような栄光が約束されている子羊の命の巻き物に書かれている人々が、何故、聖餐のパンやぶどう液を受け取ってもあずかることができないのですか?
> [7]
パウロが良い便りを触れ告げる人々に対し、「全創造物」という呼び掛けを用いた箇所は一つもありません。
それゆえ、どうしてそのような解釈にいたったのか、またそれはどのような人が行なったのか、私は知りたいのです。
>「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本は、この聖句をこのように解説しています。
>「丸1日働く人々は、宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは、生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は、西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし、それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」、つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました」。
とお書きになった人について、どうぞ教えてください。
> あなたがここで最初に引用した使徒 26章29節は、アグリッパ王に対するパウロの言葉で、このようになっています。
義務というよりは、愛を感じていたのだと思います。
> 一方、あなたはこのように述べておられます。
クリスチャンになっていない人に対して、「兄弟」と呼ぶわけにはいかないという事は、本当にそうだと思います。 前回の私の質問のしかたが不適切で、申し訳ありませんが、「兄弟」ではない人に対しても大変熱心に救いを願っていたパウロが、彼らに対し「創造物」などという表現を使うのは不自然である、という事が言いたかったのです。
> [8]
「言語も言葉もない」という表現1つのみで、神聖な聖書が「エホバを知っている」とはっきり書かれた言葉を否定するのは如何なものでしょうか。 詩篇19編は、全体を通して読めばわかるように、言語もなく言葉もないにもかかわらず、(人間の方法とは異なるが)それらのものが神を語る、神のみ業のくすしさについて、誉めたたえ、人間の小ささを教える事を考えれば、そのような解釈は、むしろ逆であると思います。 絶えず神を賛美している物に対して、良い便りをふれ告げる事ができないという考えは、説得力がありません。
> [9]
> 神の創造物である動物たちがキリストの支配による祝福を得ることは間違いないことですので、エホバの証人はそのことを否定したりはしません。 ここの20節をご覧ください。 創造物は虚無に服させられましたが、それは自らの意志によるのではなく、 服させた方によるのであり、それはこの希望に基づいていたからです。 以前のメールにて、
>ここでの「わたしたち」とは、文脈(9節から17節)に示されている「神の子」たちを表しています。 との事でしたが、という事は「わたしたち」=14万4千人は、み心に背いたアダムの罪で、当然の報いとして虚無に服したのに対し「創造物」=「神の子の栄光ある自由を持つ者」は、自らの意志とは関係なく、(自分の罪ではなく)神のみ心によって虚無に服せられたという事になってしまうのですが。
しかし、この創造物に、「神の作られたもの全て」を当てはめると、彼らは自分の罪によって虚無に服したわけではありませんから、「服させた方による」という表現がぴったり当てはまります。
> [12]
それでは、許されても構わない程度の事であったという事になってしまいますが。
何故、そのように大切な事を神は許されたのでしょうか。
> [13]
何故、必要がなかったのですか?
> [14]
とのことですので、何かそのような歴史資料がおありなのですね。 また、もしこの頃まで、神のみ名を発音する余地があったとすれば、「エホバ」のみ名は何故失われてしまうのでしょうか。
> [15]
キリシャ語のbe動詞「エイミ」の用法についてでしょうか。
したがって、文法的には「エゴ エイミ」を直説法完了形で「I have been (前から私はいる)」と訳す事はできませんし、一般的な用法でもありません。
> [16]
「ヨハネのバプテスマ」も「モーセへのバプテスマ」も、ヨハネやモーセ以外の人が行なった記述は、聖書にはないようです。
> [17] 私の印象では、エホバの証人の方々は「神の名前」については、ずいぶんとこだわりをお持ちのような気がします。
その意味に注意を払うというのは、私も同感です。 キリストの証人 |
Subject: エホバの証人記者クラブより Date: Tue, 14 Aug 2001 00:37:45 +0900 From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > To: **** < **** > エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。 引き続き、ご質問にお答えいたします。
[1] 『これら第一の復活に預かる人々が、14万4千人とは別の存在であるのは、啓示の書に記されている通りです』。 啓示 20章6節はこのように述べています。 「第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。これらの者に対して第二の死は何の権威も持たず、彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する」。
この聖句は、「第一の復活」にあずかる者が、キリストの祭司となり、キリスト共に千年のあいだ支配すると述べています。
[2]
この聖句は、終わりの日が始まって進展してゆく中で、まず最初に14万4千人の者に証印が押されること、それから「すべての国民と部族と民と国語の中から来た大群衆」が現れることについて述べています。 「この後わたしは、四人のみ使いが地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかり押さえて、地にも海にも、またどの木にも風が吹かないようにしているのを見た。また、別のみ使いが日の昇る方角から、生ける神の証印を携えて上って行くのを見た。彼は、地と海を損なうことを許された四人のみ使いに大声で叫んでこう言った。「わたしたちが、わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは、地も海も木も損なってはならない」」。
この記述は、ハルマゲドンにおける神の裁きを「地の四方の風」と表現しています。
一方、啓示 14章において、14万4千人の者は、「子羊」であるイエスと共に「シオンの山」に立っており、ここの記述においては、基本的に、彼らは死んで復活したものと思われます。 「またわたしが見ると、見よ、子羊がシオンの山に立っており、彼と共に、十四万四千人の者が、彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた」。 ですから、その記述の間にある、野獣による強制支配と迫害に関する記述は、14万4千人の者が地上で生きているある時点から、天に復活するある時点までを描写しており、つまり、その間に彼らが受ける迫害と苦難について述べていると考えられます。 この記述は、まず、このように述べています。 「龍(サタン)は女に向かって憤り、彼女の胤のうちの残っている者たち、すなわち、神のおきてを守り行ない、イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った」。 続いて、サタンの地上における傀儡となっている野獣が取る行動について、野獣が「地に住む者たち」を動かして、「野獣の像をどうしても崇拝しない者たちをみな殺させるようにする」と述べています。 ですから、終わりの日に迫害を受け、死に、復活して天でキリスト共になる者は「彼女の胤」すなわちキリストの「残っている者たち」であり、キリスト共に王また祭司として千年間支配するものと考えられます。
[3]
「これらのことの後、わたしが見ると、見よ、すべての国民と部族と民と国語の中から来た、だれも数えつくすことのできない大群衆が、白くて長い衣を着て、み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には、やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。「救いは、み座に座っておられるわたしたちの神と、子羊とに[よります]」」。
「また、わたしは別のみ使いが中天を飛んでいるのを見た。彼は、地に住む者たちに、またあらゆる国民・部族・国語・民に喜ばしいおとずれとして宣明する永遠の良いたよりを携えており、大声でこう言った。「神を恐れ、神に栄光を帰せよ。神による裁きの時が到来したからである。それゆえ、天と地と海と水のわき出るところとを造られた方を崇拝せよ」。
いずれも、霊的イスラエルである14万4千人に対して「諸国民」である者たちについて述べています。
[4]
[5] 『「共同支配者に関する詳細は、後の時代に補足されました」とのことですが、具体的には聖書のどこにある事でしょうか』。
キリストの共同支配者に関する詳細は、すでに説明しましたように、「王であり祭司である」者たちに関する詳細です。
[6]
[7]
[8] 「これらは、神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」 『「初穂」という表現はありますが、共に治めるとはどこに書いてあるのでしょうか』。 啓示14章4節は、人類の中から「初穂」として買い取られた者が14万4千人であると述べていますが、すでに引用しておりますローマ 8章18節から23節が、その者たちが「神の子」として表されることを述べています。 「それゆえ、今の時期のいろいろな苦しみはわたしたちのうちに表わし示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものとわたしは考えます。創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが、それは自らの意志によるのではなく、服させた方によるのであり、それはこの希望に基づいていたからです。すなわち、創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ、神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。わたしたちが知るとおり、創造物すべては今に至るまで共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も、そうです、わたしたち自身が、自らの内でうめきつつ、養子縁組、すなわち、贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです」。
ここで、初穂となる者は、キリストとの養子縁組を得て「神の子」となり、天から示されるとされています。
[9]
[10]
[11] 『パウロが良い便りを触れ告げる人々に対し、「全創造物」という呼び掛けを 用いた箇所は一つもありません』。 この点につきましては、すでに引用しております、コロサイ 1章23節が答えを提供しています。 「もとよりそれは、あなた方が引き続き信仰にとどまり、土台の上に堅く立って揺らぐことなく、自分たちの聞いた良いたよりの希望からそらされないでいるならばのことです。その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者となりました」。
[12] 「それから彼らにこう言われた。「世界じゅうに行って、良いたよりを全創造物に宣べ伝えなさい」」。 この記述を、平行記述であるマタイ 28章18節から20節と比較してください。 「すると、イエスは近づいて来て、彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ、行って、すべての国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し、わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして、見よ、わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。
マタイの記述における、「すべての国の人々」という表現が、マルコでは「全創造物」と置き換えられています。
[13] 今回のご質問についてですが、「偉大な人」の本は、ものみの塔協会の執筆者陣によって執筆されております。
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[18] 「年に一度の贖罪の日に関して、ダンビー訳のミシュナはこう述べています。「また、神殿の中庭に立つ祭司たちや民は、大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと、ひざまずいて身をかがめ、ひれ伏して、『その王国の栄光のみ名が、限りなく永久にほめたたえられますように!』と言うのであった」。(ヨマー 6:2)ソター 7章6節は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について、こう述べています。「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが、地方では代わりの言葉で発音した」。サンヘドリン 7章5節は、冒とくした者も、『み名を発音したのでない限り』、有罪とはならず、また冒とくの罪が関係する裁判では、証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ、その後、おもな証人が多分、神の名を用いて、『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められたと述べています。サンヘドリン 10章1節は、「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙して、「アバ・サウルはこう言う。また、み名をその正しい文字で発音する者も」と述べています。しかし、このような消極的な見方があるにもかかわらず、ミシュナの最初の部分には、「人は神のみ名を使って仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり、その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5」。
この指摘は、ユダヤ人がただ神のみ名の発音を禁じたのではなく、状況により禁じたということを示しています。
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以上です。
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