情報部
情報部へのメール
キリストの証人さん(7)
2001年10月7日更新

記者クラブに対する質問と説得(8-9)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Tue, 07 Aug 2001 00:57:39 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

キリストの証人です。 いつもお返事どうもありがとうございます。

> 聖書の解釈はどれにしても、慎重に解釈されるべきものであることに異論はありませんが、すでに述べましたように、キリストの贖いの恵みによって人が救われるという点は、その救われる者たちが「等しく救われる」というあなたの考えとは結びついていないように思えます。

聖書の解釈は、慎重になされるべきものとういう点において、ご同意頂け、大変嬉しく思います。
何故、「等しく救われる」という解釈に結びつかないのか、これからも聖書のさまざまな箇所を通して、丁寧に解説していただけたら、と思います。

> ですから、イザヤの記述の中で、メシアによる支配が単独であるかのように述べられているとしても、それは、共同支配者となる祭司たちのことを否定しているのではなく、ただ単に省略しているだけだと考えられます。

メシアについての預言が、段階的に示されている事と、共に治めるものの存在については、まったく異論がありません。
啓示20:6にもある通りですね。

第一の復活にあずかるものは幸いな者、聖なる者である。これらのものに対して第二の死は何の権威も持たず、彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する。

しかし、これら第一の復活に預かる人々が、14万4千人とは別の存在であるのは、啓示の書に記されている通りです。
啓示7章によれば、第6の封印がとかれた後、14万4千人に証印が押され、その後に第7の封印がとかれます。
そして、7人目のみ使いがラッパを吹いた後(啓示11章)、龍は地に投げ落とされ(啓示12章)、野獣が現れて野獣の像の崇拝とその印を受けさせる行為が始まります。(啓示13章)
啓示20章によれば、イエスや神について語ったために処刑された者と、この獣の像の崇拝をせず、印を受けなかった者が1000年統治を行なう者たちです。
同じく14章によれば、14万4千人はこの時、既に子羊と共にシオンの山にいるので、獣の像の苦しみは受けていません。

また、順番は前後致しますが、

> [11]
> 啓示 12章17節における「残っている者たち」とは、十四万四千人のうちの残っている者であると考えられます。

との事ですが、14章は、この時14万4千人全員が、どこにいるかを明らかにしています。
したがって、14万4千人に残っているものがいるとは考えられません。

そしてこの聖書が語る事実は、「最初のものが最後になり最後のものが最初になる」というみ言葉を、見事に裏付けてもいます。
したがって、「残りのもの」とは、この1000年統治を行なうものと考えるのが自然です。(20章の5節には、それ以外の死人は、1000年統治が終わるまで生き返らなかったとも書かれています。)
また、1000年統治を行なうものは、王として治めると書かれています。

これらの事にもかかわらず、初代教会から1935年までに集められた14万4千人だけが、イエスと共に天の王国政府に行き、その他の信者は大群衆として、地を受け継ぐのみとするのでしょうか。
(1935年までというと、大部分の方は既に天に帰られていますね。という事は第6の封印はもう解かれたという事ですか?)

啓示7章によると、大群衆はみ座の前と子羊の前に立っているとあります。
彼らは神殿で、昼も夜も神聖な奉仕をささげているものであり、神の天幕は彼らの上に広げられ、み座の真ん中には子羊がおられます。
同じ場所で、長老たちと4つの生き物がひれ伏して神を崇拝しているのです。

また、14万4千人とも大群衆とも違う「残りのもの」、彼らの存在は一体どうなるのでしょうか。

そして、この問題は、以下のところに続くものです。

> [5]
> あなたはこのようにご自身の意見を述べておられます。
>
> 『前回も申し上げましたが、わたしがこの14万4千の教義にこだわるのは、天に行くか地に行くかという事が、気になるわけではありません。(個人的には、キリストと共にさえあるなら、どちらでもまったく構いません。)ただ、エホバの証人の方々は、おりにつけ、ことに福音の約束について皆、「それは私たちにむけて書かれたものではありません。」とおっしゃることが、大変衝撃的だからです』。
>
> 天に行くか地に行くかという解釈にこだわらないのでしたら、ジレンマに陥る必要はないと思います。
> 天に行く者に関する記述は天に行く者に、地に行く者の記述は地に行く者に適用されるからです。
> キリストの福音についても同じです。

本当に気になる事の1つは、ヨハネ6章51ー58、そしてマタイ26章26ー28にあります。

「私は命のパンです。あなた方の父祖は荒野でマナを食べましたがそれでも死にました。これは天から下ってくるパンであり、誰でもそれを食べるものが死なないためのものです。私は天から下って来た生きたパンです。誰でもこのパンを食べるならその人は永久に生きます。そして本当の事ですが、私が与えるパンとは世の命のための私の肉なのです。」
〜「きわめて真実にあなた方に言いますが、人の子の肉を食べず、その血を飲まないかぎり、あなた方は自分のうちに命を持てません。私の肉を食し、私の血を飲むものは永遠の命を持ち、私はその人を終わりの日に復活させるでしょう。私の肉は真の食物であり、私の血は真の飲み物なのです。私の肉を食し、私の血を飲むものは、ずっと私と結びついているのであり、私もその者と結びついています。生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きているのと同じように私を食するもの、その者もまた私によって生きるのです。これは天から下ってきたパンです。それはあなた方の父祖が食べてもなお死んだようなものではありません。このパンを食する者は永久に生きるのです。」

ヨハネ6:50ー51、53ー58

彼らが食事を続けていると、イエスはパンを取り、祝とうを述べてからそれを割き、弟子達に与えて、こう言われた。
「取って、食べなさい。これは私の体を表わしています。」
また、杯を取り、感謝をささげてからそれを彼らに与え、こう言われた。
「あなた方はみな、それから飲みなさい。これは私の「契約の血」を表わしており、それは罪の許しのため、多くの人のために注ぎ出されることになっているのです」。

マタイ26:26ー28

エホバの証人の方々は、「主の記念式」に出席されても、パンとぶどう液にはあずからないと伺って、とても驚いたのです。
理由を尋ねると、どのかたも一様に、「私は14万4千人に入っていませんから」と、お答えになります。
永遠の命を得るためにと、イエス様御自身が直接お命じになった事を行なわせない「14万4千人」とは、一体何なのか。
それが、この問題に興味を持った発端です。
14万4千人とその他のものが、こんな大切なところまで区別される理由が知りたいのです。

> そして、共同支配者に関する詳細は、後の時代に補足されました。

とのことですが、具体的には聖書のどこにある事でしょうか。

さて、まだ一部の事柄についてしか、お返事を書き終えておりませんが、子供の事など、暖かいご配慮をいただいた事に甘えさせていただきまして、この続きについては、もう少し時間の取れる時に書かせていただきたいと思います。
少々時間がかかるかもしれませんが、申し訳ありません。

また、先にこのメールに御返事いただけるようでしたら、(もちろんお時間が取れる時で結構です。)
喜んで受け取りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

キリストの証人


Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Thu, 09 Aug 2001 00:21:28 +0900
From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

再び、キリストの証人です。前回のメールの続きとなります。

> [3]
> イザヤ 11章と65章の中で、「地」という表現がメシア支配と関連づけられているところは2箇所ではありません。

ご指摘どうもありがとうございます。
たしかに「地」という表現は他にも見られますね。

しかしいずれのものも、「地」について語っておりますが、人々が、「天」にゆくものと、「地」にゆくものとが分けられるという様子は、どこにも見当たらないようです。

> [4]
> 啓示 21章の記述ですが、ここに十四万四千人の者についての直接的な記述が含まれていないとしても、十四万四千人の者がキリストと共に祭司として働く共同支配者となることは否定されないと思われます。

啓示の14章では、14万4千人が子羊と共にシオンの山に立っている光景が描かれています。シオンの山とは、地の事ではなく天にあるのですか?
また、ここで見る彼らの務めは、賛美と子羊に従っていく事のようです。
「初穂」という表現はありますが、共に治めるとはどこに書いてあるのでしょうか。

ところで、21章には、天から下って来るエルサレムに住むのは、「子羊の命の巻き物に書かれたものだけ」とありますが、14万4千人の住居が「地」とは別の「天」であるとするなら、彼らの名はその巻き物には記されていないのですか?

> また、この記述が、千年統治の終わった後の世界についてのものであることにも注目すべきです。

これはどのような意味なのでしょうか。
千年統治が終わった後には、14万4千人と大群衆は、共に同じ所に住むのですか?

前回のメールと重複致しますが、21章に書かれているような栄光が約束されている子羊の命の巻き物に書かれている人々が、何故、聖餐のパンやぶどう液を受け取ってもあずかることができないのですか?
たとえ、彼らと14万4千人が異なる存在であったとしても、イエスの言われた「わたしの肉を食し、わたしの血を飲むものは永遠の命を持ち私はその人を終わりの日に復活させるでしょう」という約束にあずかれないとは、どういう事でしょうか。

> [7]
> パウロが良いたよりをふれ告げた「全創造物」は誰かという点ですが、パウロは当時のすべての人たちに良いたよりをふれ告げていました。
> ですから、その「全創造物」とは全人類であると言えます。

パウロが良い便りを触れ告げる人々に対し、「全創造物」という呼び掛けを用いた箇所は一つもありません。
言葉的に考えても、人間のみにたいして「全創造物」という表現を用いるのはとても不自然です。神が作られたのは、人間だけではないのですから。

それゆえ、どうしてそのような解釈にいたったのか、またそれはどのような人が行なったのか、私は知りたいのです。
[11]の質問と重なりますが、3回目にいただいたメールの中で

>「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本は、この聖句をこのように解説しています。

>「丸1日働く人々は、宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは、生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は、西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし、それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」、つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました」。

とお書きになった人について、どうぞ教えてください。

> あなたがここで最初に引用した使徒 26章29節は、アグリッパ王に対するパウロの言葉で、このようになっています。
>
> 「それに対してパウロは言った、「わずかの間であろうと長くかかろうと、わたしは、あなただけでなく、今日わたしのことばを聞いておられるすべての方が、こうしたなわめは別として、わたしのような者になってくださればと神に願いたいほどなのです」」。
>
> ここで、アグリッパ王はこのように述べています。
>
> 28節
> 「しかしアグリッパはパウロに言った、「あなたはわずかの間に、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」」。
>
> ここでパウロは、兄弟ではない者を説得し、クリスチャンにならせようとしています。
>
> また、ローマ 1章14節も、クリスチャンではない人たちに対して、良いたよりを告げる義務をパウロが負っていたことを示しています。

義務というよりは、愛を感じていたのだと思います。
当時のユダヤ社会においては、異邦人は人間視されてはいませんでしたが、彼らに対して「創造物」という表現を用いた箇所は、旧約を含めて聖書の他の個所にあるでしょうか。

> 一方、あなたはこのように述べておられます。
>
> 『そんなパウロが、同じ人間に対して、「兄弟」と「創造物」というような分け隔てをした表現を用いるのは、大変唐突で不自然な事です』。
>
> これは、唐突でも不自然でもないと思われます。
> 「兄弟」という言葉は、すでにクリスチャンになった人たちのことを指しています。
> 一方、「全創造物」という言葉は、クリスチャンになっている人も、クリスチャンになっていない人も含むすべての人たちのことを指しています。
> ですから、まだクリスチャンになっていない人たちを「兄弟」と呼ぶことはできませんし、クリスチャンになった人たちを「全創造物」と呼ぶこともできませんでした。

クリスチャンになっていない人に対して、「兄弟」と呼ぶわけにはいかないという事は、本当にそうだと思います。
ところで、パウロが福音を伝えようとしていた相手に対して、「創造物」という呼び掛けをしている箇所があるでしょうか。

前回の私の質問のしかたが不適切で、申し訳ありませんが、「兄弟」ではない人に対しても大変熱心に救いを願っていたパウロが、彼らに対し「創造物」などという表現を使うのは不自然である、という事が言いたかったのです。

> [8]
> ヨブ記 12章7節から9節については、あなたのおっしゃる点に大筋としては異論はありませんが、それは限定された意味においてであると思われます。
> つまり、文字通りの意味で、家畜や魚といった生き物が神をよく知っているということはないと思われます。
> むしろ、ここでヨブが言おうとしているのは、生き物たちは、そのくすしい造りと生態によって人間に神の存在を知らしめるという限定された意味において、神を知っているということでしょう。
>
> このことは、詩編 19編1節から3節より例証できます。
>
> 「天は神の栄光を告げ知らせ、大空はみ手の業を語り告げている。日は日に継いで言語をほとばしらせ、夜は夜に継いで知識を表わし示す。言語もなく、言葉もなく、それらのものからは声が聞かれることもない」。
>
> ここでは、「言語も言葉もない」つまり理性を持たない様々な創造物が、神をふれ告げるとされています。
> 一方、聖書は、「全創造物」にパウロが良いたよりをふれ告げたと述べており、理性を持たない創造物にこれをあてはめるのは困難だと思われます。

「言語も言葉もない」という表現1つのみで、神聖な聖書が「エホバを知っている」とはっきり書かれた言葉を否定するのは如何なものでしょうか。
危険な事ではありませんか?

詩篇19編は、全体を通して読めばわかるように、言語もなく言葉もないにもかかわらず、(人間の方法とは異なるが)それらのものが神を語る、神のみ業のくすしさについて、誉めたたえ、人間の小ささを教える事を考えれば、そのような解釈は、むしろ逆であると思います。

絶えず神を賛美している物に対して、良い便りをふれ告げる事ができないという考えは、説得力がありません。

> [9]

> 神の創造物である動物たちがキリストの支配による祝福を得ることは間違いないことですので、エホバの証人はそのことを否定したりはしません。
> しかし、ローマ 8章18節から22節は、「全創造物」という表現を、全人類という意味で用いています。
> この二点は、一致しており、矛盾はないものと思われます。

ここの20節をご覧ください。

創造物は虚無に服させられましたが、それは自らの意志によるのではなく、 服させた方によるのであり、それはこの希望に基づいていたからです。

以前のメールにて、

>ここでの「わたしたち」とは、文脈(9節から17節)に示されている「神の子」たちを表しています。
>「神の子」たちは、救いを受ける者たちのうちの「初穂」であり、「贖いによって自分の体から解き放たれ」て天に行き、キリストの「養子縁組」によってキリストの兄弟となりました。
>神の子であるキリストの義兄弟であるゆえに、彼らは「神の子」と呼ばれています。
>一方、「創造物」とは、「神の子」たちが天から表し示されるときに、地上において、「神の子の栄光ある自由を持つ」者たちです。

との事でしたが、という事は「わたしたち」=14万4千人は、み心に背いたアダムの罪で、当然の報いとして虚無に服したのに対し「創造物」=「神の子の栄光ある自由を持つ者」は、自らの意志とは関係なく、(自分の罪ではなく)神のみ心によって虚無に服せられたという事になってしまうのですが。

しかし、この創造物に、「神の作られたもの全て」を当てはめると、彼らは自分の罪によって虚無に服したわけではありませんから、「服させた方による」という表現がぴったり当てはまります。
そして、虚無に服させられた彼らは、「言語も言葉もない」状態ですが、エホバをよく知っており(ヨブ12:9)、今も神の栄光を語り告げ(詩篇19:3)ているのです。

> [12]
> 神の言葉に付け加えることはあってはならないというあなたのご指摘ですが、聖書がそう教えているということが、現在わたしたちが手にしている聖書が改変されていないことの保証となることはありません。
> 聖書の中には、近代になって改変が認められたところが幾つかありますし、すでに指摘しているように、新約聖書は、旧約聖書の引用である部分でさえ、神のみ名を省略しています。
> これが“改変”にあたる行為かどうかは別として、“省略”であることには間近いありません。
>
> 事実に照らして、神はこの省略を許されたものと思われます。

それでは、許されても構わない程度の事であったという事になってしまいますが。
神は決して侮られるような方ではない(ガラテヤ6:7)からです。

何故、そのように大切な事を神は許されたのでしょうか。
この事は、これからも考えてみたいと思っているのですが、如何でしょうか?

> [13]
> ヨハネ 17章11節から12節についてですが、ここでイエスが神のみ名を発音する必要はなかったと思われます。

何故、必要がなかったのですか?
それは最優先事項ではないのでしょうか。
エホバの証人の方は皆、神に祈る時に、固有名詞を用いないのは、失礼に当たる、とおっしゃっています。

> [14]
> ルカ 4章14節から22節、ならびに、当時のユダヤ人の風習についてですが、1世紀当時のユダヤ人の風習には、まだ神のみ名を発音する余地があったと思われます。

とのことですので、何かそのような歴史資料がおありなのですね。
どうぞ教えてください。
なぜなら、私の知る限りでは、当時のユダヤ人にとってそのような習慣はないし、絶対的に、石打にされるべき罪だったはずだからです。

また、もしこの頃まで、神のみ名を発音する余地があったとすれば、「エホバ」のみ名は何故失われてしまうのでしょうか。

> [15]
> ヨハネ 8章58節についてですが、このようになっています。
>
> 「イエスは彼らに言われた、「きわめて真実にあなた方に言いますが、アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」」。
>
> あなたのおっしゃる「エゴ・エイミ」は、神を表す称号としてではなく、この語のギリシャ語における一般的な用法に従って用いられています。
> ですから、これに対してユダヤ人が憤慨したのは、その文字通りに意味するところ、すなわち「アブラハムが生まれる前からイエスは存在した」という意味に対してであると考えられます。

キリシャ語のbe動詞「エイミ」の用法についてでしょうか。
確かに、ヨハネの福音書の中でも「エイミ」を歴史的現在として用いている箇所はたくさんありますが、be動詞「エイミ」は、他の一般動詞のように、直接法完了形で用いられる事はないのです。
(新約聖書の中でも、そのような使い方をしている箇所は1つもありません。)

したがって、文法的には「エゴ エイミ」を直説法完了形で「I have been (前から私はいる)」と訳す事はできませんし、一般的な用法でもありません。
この言葉は、やはり「I am (私はあるという者である)」としか訳す事はできません。
これが有名な 出エジプト記6:3 「エゴ エイミ ホ オーン」英訳 「I am who is (だれかといえば私はあるものである)」と同じ言葉であるのは、ご存知であると思います。

> [16]
> 「父と子と聖霊との名におけるバプテスマ」が省略された呼び方で呼ばれた理由の一つは、それが長い言い回しだったからだと思われます。
> もうひとつの理由は、バプテスマには種類があり、すでにそのような省略形が用いられていたことです。
> たとえば、聖書の中には、「ヨハネのバプテスマ」、「モーセへのバプテスマ」という表現がありますが、いずれも、実際にはエホバに対するバプテスマであり、ヨハネやモーセは役割を果たしたにすぎません。
> ですから、「父と子と聖霊との名におけるバプテスマ」が「キリストのバプテスマ」と呼ばれたのは、そのバプテスマにおけるキリストの果たした役割のゆえ、省略が可能だったからに違いありません。

「ヨハネのバプテスマ」も「モーセへのバプテスマ」も、ヨハネやモーセ以外の人が行なった記述は、聖書にはないようです。
しかし「イエスキリストの名によるバプテスマ」は、実際に施したのは、言うまでもなく弟子達なのですから、上記2つとは事情がずいぶんと違います。
そこであえて、キリストの弟子達は、「父の名によるバプテスマ」にせず、「イエスキリストの名によるバプテスマ」と省略したのは何故でしょうか。

> [17]
> 神の名のゆえに受ける迫害についてですが、これについては、あなたがされているように、特定の表現にこだわるようなことは必要ないと思われます。
> 特定の表現があるかどうかではなく、その意味に注意を払うなら、答えはおのずと明らかであると思われます。

私の印象では、エホバの証人の方々は「神の名前」については、ずいぶんとこだわりをお持ちのような気がします。

その意味に注意を払うというのは、私も同感です。
聖書から、その事についていろいろ対話をしていけたら、と考えております。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Tue, 14 Aug 2001 00:37:45 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

引き続き、ご質問にお答えいたします。

[1]
啓示(黙示録) 20章6節について、あなたはこのようにおっしゃっておられ ます。

『これら第一の復活に預かる人々が、14万4千人とは別の存在であるのは、啓示の書に記されている通りです』。

啓示 20章6節はこのように述べています。

「第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。これらの者に対して第二の死は何の権威も持たず、彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する」。

この聖句は、「第一の復活」にあずかる者が、キリストの祭司となり、キリスト共に千年のあいだ支配すると述べています。
ですから、この、第一の復活にあずかる者とは、14万4千人の者であり、別の存在ではないと考えられます。

[2]
啓示 7章についてですが、この聖句は、あなたのおっしゃるとおり、啓示 6章の「第6の封印がとかれた後、14万4千人に証印が押される」部分についての記述です。

この聖句は、終わりの日が始まって進展してゆく中で、まず最初に14万4千人の者に証印が押されること、それから「すべての国民と部族と民と国語の中から来た大群衆」が現れることについて述べています。
この聖句は、基本的には、終わりの日における救いの進展を明らかにしていると思われます。
まず、14万4千人の者に「証印」が押されることについての記述ですが、このようになっています。

「この後わたしは、四人のみ使いが地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかり押さえて、地にも海にも、またどの木にも風が吹かないようにしているのを見た。また、別のみ使いが日の昇る方角から、生ける神の証印を携えて上って行くのを見た。彼は、地と海を損なうことを許された四人のみ使いに大声で叫んでこう言った。「わたしたちが、わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは、地も海も木も損なってはならない」」。

この記述は、ハルマゲドンにおける神の裁きを「地の四方の風」と表現しています。
ですから、証印を押すことは、14万4千人の者がまだ地上で生きているうちに、地上においてなされるに違いありません。

一方、啓示 14章において、14万4千人の者は、「子羊」であるイエスと共に「シオンの山」に立っており、ここの記述においては、基本的に、彼らは死んで復活したものと思われます。
このように書かれています。

「またわたしが見ると、見よ、子羊がシオンの山に立っており、彼と共に、十四万四千人の者が、彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた」。

ですから、その記述の間にある、野獣による強制支配と迫害に関する記述は、14万4千人の者が地上で生きているある時点から、天に復活するある時点までを描写しており、つまり、その間に彼らが受ける迫害と苦難について述べていると考えられます。

この記述は、まず、このように述べています。

「龍(サタン)は女に向かって憤り、彼女の胤のうちの残っている者たち、すなわち、神のおきてを守り行ない、イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った」。

続いて、サタンの地上における傀儡となっている野獣が取る行動について、野獣が「地に住む者たち」を動かして、「野獣の像をどうしても崇拝しない者たちをみな殺させるようにする」と述べています。

ですから、終わりの日に迫害を受け、死に、復活して天でキリスト共になる者は「彼女の胤」すなわちキリストの「残っている者たち」であり、キリスト共に王また祭司として千年間支配するものと考えられます。

[3]
啓示 7章は14万4千人に証印を押すことについて述べた後、そして、啓示 14章は復活した14万4千人について述べた後、それぞれこのように記述しています。

「これらのことの後、わたしが見ると、見よ、すべての国民と部族と民と国語の中から来た、だれも数えつくすことのできない大群衆が、白くて長い衣を着て、み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には、やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。「救いは、み座に座っておられるわたしたちの神と、子羊とに[よります]」」。

「また、わたしは別のみ使いが中天を飛んでいるのを見た。彼は、地に住む者たちに、またあらゆる国民・部族・国語・民に喜ばしいおとずれとして宣明する永遠の良いたよりを携えており、大声でこう言った。「神を恐れ、神に栄光を帰せよ。神による裁きの時が到来したからである。それゆえ、天と地と海と水のわき出るところとを造られた方を崇拝せよ」。

いずれも、霊的イスラエルである14万4千人に対して「諸国民」である者たちについて述べています。
この記述の内容から、啓示 7章と14章が、基本的に同じことを異なる観点から述べていること、そして、必ずしも時間の流れに沿ってその記述を行っているわけではないことがうかがえます。
ですから、たとえば、「啓示 7章の記述は14章の記述に対し、時間的に見て前のことを記述しているはずだ」などというような、記述の順序を時代の順序にあてはめることを前提とした論議は、啓示の書には必ずしも当てはまらないものと考えられます。

[4]
14万4千人と、それ以外の者たちとの区別は、二つの点で対照的です。
ひとつは、支配する側にあるか、支配される側にあるかという点です。
もう一つの点は、天にいるか、地にいるかという点です。
キリストの贖いの犠牲がどちらの者にも当てはまることは確かなことですが、パンとぶどう酒を食する者については、この区別が当てはまるとわたしたちは考えています。

[5]
あなたはこう尋ねておられます。

『「共同支配者に関する詳細は、後の時代に補足されました」とのことですが、具体的には聖書のどこにある事でしょうか』。

キリストの共同支配者に関する詳細は、すでに説明しましたように、「王であり祭司である」者たちに関する詳細です。
たとえば、すでに指摘した啓示 20章4節は、その「王であり祭司である者」たちが支配する期間が千年であることを明らかにしています。

[6]
イザヤの記述についてですが、あなたは、支配される者が地上で支配を受けることをイザヤ書が記述していると認めておられるように思われます。
支配する者について、それが天からであることは、新約聖書において明らかにされておりますので、この点に関して特に問題はないものと思われます。
あなたがご質問された内容も、そもそもそういう類の内容でした。

[7]
啓示 14章1節における「シオンの山」とは、天にある霊的なエルサレムを指していると思われます。

[8]
啓示 14章4節は以下の通りですが、あなたはこのように質問されました。

「これらは、神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」

『「初穂」という表現はありますが、共に治めるとはどこに書いてあるのでしょうか』。

啓示14章4節は、人類の中から「初穂」として買い取られた者が14万4千人であると述べていますが、すでに引用しておりますローマ 8章18節から23節が、その者たちが「神の子」として表されることを述べています。

「それゆえ、今の時期のいろいろな苦しみはわたしたちのうちに表わし示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものとわたしは考えます。創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが、それは自らの意志によるのではなく、服させた方によるのであり、それはこの希望に基づいていたからです。すなわち、創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ、神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。わたしたちが知るとおり、創造物すべては今に至るまで共にうめき、共に苦痛を抱いているのです。それだけではありません。初穂としての霊を持つわたしたち自身も、そうです、わたしたち自身が、自らの内でうめきつつ、養子縁組、すなわち、贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っているのです」。

ここで、初穂となる者は、キリストとの養子縁組を得て「神の子」となり、天から示されるとされています。
当然、その表れはキリスト共になされるものと思われます。
その後、支配も、キリスト共に行われるものと思われます。

[9]
啓示 21章に記されている「子羊の命の巻き物」には、14万4千人の者の名前が記されているものと思われます。

[10]
千年統治の後に、14万4千人がどうなるかについては、あなたがお尋ねの点も含めて、エホバの証人は特に見解を持っておりません。

[11]
あなたはこのようにおっしゃっています。

『パウロが良い便りを触れ告げる人々に対し、「全創造物」という呼び掛けを 用いた箇所は一つもありません』。

この点につきましては、すでに引用しております、コロサイ 1章23節が答えを提供しています。

「もとよりそれは、あなた方が引き続き信仰にとどまり、土台の上に堅く立って揺らぐことなく、自分たちの聞いた良いたよりの希望からそらされないでいるならばのことです。その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者となりました」。

[12]
「全創造物」という表現が、人類を指して用いられている聖書の記述は、写本のレベルから論じるなら、もうひとつあると言えるでしょう。
幾つかの写本に存在するマルコ 16:15には、このように記されています。

「それから彼らにこう言われた。「世界じゅうに行って、良いたよりを全創造物に宣べ伝えなさい」」。

この記述を、平行記述であるマタイ 28章18節から20節と比較してください。

「すると、イエスは近づいて来て、彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ、行って、すべての国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し、わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして、見よ、わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。

マタイの記述における、「すべての国の人々」という表現が、マルコでは「全創造物」と置き換えられています。
どちらの表現も同じものを指しているに違いありません。

[13]
「偉大な人」の本についてですが、今回のあなたのご質問は、前回までのご質問に対して、内容が根本的に変わっているように思えます。

今回のご質問についてですが、「偉大な人」の本は、ものみの塔協会の執筆者陣によって執筆されております。

[14]
神の創造物が、神の事を知っているとか、ふれ告げているとかいう聖書の記述は、すでに指摘しましたとおり、限定的な意味で用いられていると思われます。
これらの創造物は、神をふれ告げ、その栄光をたたえていますが、文字通りの意味で「良いたよりをふれ告げる」ことはできないと思われます。
この考えが、特に「説得力がない」ということはないものと思われます。

[15]
虚無に服するという点につきましてては、14万4千人の者も、全創造物(全人類)も、他の生き物たちも、違いはないものと思われます。

[16]
神のみ名が新約聖書中において省略されている点についてですが、それに対する神の側の理由は知られておらず、ただ、記述に対する学術的な議論があるのみです。

[17]
ヨハネ 17章11節から12節は、キリストが神に対して祈りをささげている場面を扱っていますが、このような場合、神に対するイエスの呼びかけは、「父」でも「エホバ」でも、どちらでもよかったものと思われます。
ですから、ここでイエスが神のみ名を発音することは、必ずしも必要でなかったと思われます。
いずれにせよ、新約聖書が神のみ名を省略しているという事実があるわけですから、イエスがここで神のみ名を発音されたのかは、聖書からは判別できません。

[18]
ユダヤ社会における神のみ名の発音の問題は、イエスの時代より後代の書物に記されており、特に、ユダヤ人によるミシュナには、この時代のユダヤ人の間に、み名の発音に関する方針の混乱があったことが示されています。

「年に一度の贖罪の日に関して、ダンビー訳のミシュナはこう述べています。「また、神殿の中庭に立つ祭司たちや民は、大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと、ひざまずいて身をかがめ、ひれ伏して、『その王国の栄光のみ名が、限りなく永久にほめたたえられますように!』と言うのであった」。(ヨマー 6:2)ソター 7章6節は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について、こう述べています。「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが、地方では代わりの言葉で発音した」。サンヘドリン 7章5節は、冒とくした者も、『み名を発音したのでない限り』、有罪とはならず、また冒とくの罪が関係する裁判では、証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ、その後、おもな証人が多分、神の名を用いて、『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められたと述べています。サンヘドリン 10章1節は、「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙して、「アバ・サウルはこう言う。また、み名をその正しい文字で発音する者も」と述べています。しかし、このような消極的な見方があるにもかかわらず、ミシュナの最初の部分には、「人は神のみ名を使って仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり、その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5」。

この指摘は、ユダヤ人がただ神のみ名の発音を禁じたのではなく、状況により禁じたということを示しています。
ですから、ある状況では神のみ名の発音は許された、しかし、その状況が何であるかについては意見の混乱が見られた、と考えられます。

[19]
神のみ名の発音についての言及は、ミシュナよりさらに後代の記述にもあり、まだそのころまで、神のみ名の発音は残されていたと思われます。
ですから、イエスの時代よりもずっと後に、神のみ名は失われたものと思われます。
その理由につきましては、あなたが知っているところと同じだと思われます。

[19]
ヨハネ 8章58節についてですが、ギリシャ語エイミが完了形ではないことは明らかですが、それは現在形ですので、英訳聖書においては、“I am”とも“I have been”とも訳せます。
いずれにせよ、あなたのおっしゃっている、直説法であるとか完了形であるかとかいうことは、わたしの言っていることと特に関係がないように思えます。
なお、補足ですが、出エジプト 6章3節のギリシャ語セプトゥアギンタ(七十人訳)をあたってみましたが、あなたのおっしゃる「エゴ エイミ ホ オーン」という表現は見つかりませんでした。

[20]
ヨハネのバプテスマは、ヨハネの弟子によっても施されたものと思われます。
いずれにせよ、「ヨハネのバプテスマ」、「モーセへのバプテスマ」といった表現は、いずれも省略された表現であり、省略にあたって必要なのは区別されることですので、キリストのバプテスマとの共通点は必要ではなかったものと思われます。

以上です。
ありがとうこざいました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


戻る