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情報部へのメール
キリストの証人さん(8)
2001年12月10日更新

記者クラブに対する質問と説得(10)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Mon, 20 Aug 2001 22:16:35 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

いつも丁寧なお返事どうもありがとうございます、キリストの証人です。

早いもので、このメールのやり取りも、往復8通目となりました。

これまでは、1つ1つの質問についてご回答を頂き、更にそれに質問を重ねる、という形を取ってまいりましたが、回を重ねるごとに、1つの質問が他の質問と重複したり、また、度々「質問の意図が前回と違う」という、ご指摘を受けるようになりましたので、私のほうの質問の意図をわかりやすくするために、今までのものをまとめて新しく書き直す形を取らせていただきたいと思いますので、よろしくご了承お願いいたします。
それでは、つたない文章ではありますが、よろしくお付き合い下さいませ。

「14万4千人と大群衆についての質問」

「私は命のパンです。あなた方の父祖は荒野でマナを食べましたがそれでも死にました。これは天から下ってくるパンであり、誰でもそれを食べるものが死なないためのものです。私は天から下って来た生きたパンです。誰でもこのパンを食べるならその人は永久に生きます。そして本当の事ですが、私が与えるパンとは世の命のための私の肉なのです。」
〜「きわめて真実にあなた方に言いますが、人の子の肉を食べず、その血を飲まないかぎり、あなた方は自分のうちに命を持てません。私の肉を食し、私の血を飲むものは永遠の命を持ち、私はその人を終わりの日に復活させるでしょう。私の肉は真の食物であり、私の血は真の飲み物なのです。私の肉を食し、私の血を飲むものは、ずっと私と結びついているのであり、私もその者と結びついています。生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きているのと同じように私を食するもの、その者もまた私によって生きるのです。これは天から下ってきたパンです。それはあなた方の父祖が食べてもなお死んだようなものではありません。このパンを食する者は永久に生きるのです。」

ヨハネ6:50ー51、53ー58

彼らが食事を続けていると、イエスはパンを取り、祝とうを述べてからそれを割き、弟子達に与えて、こう言われた。
「取って、食べなさい。これは私の体を表わしています。」
また、杯を取り、感謝をささげてからそれを彼らに与え、こう言われた。
「あなた方はみな、それから飲みなさい。これは私の「契約の血」を表わしており、それは罪の許しのため、多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。」

マタイ26:26ー28

「私は天から下って来た生きたパンです。誰でもこのパンを食べるならその人は永久に生きます。」

「きわめて真実にあなた方に言いますが、人の子の肉を食べず、その血を飲まないかぎり、あなた方は自分のうちに命を持てません。」

ヨハネの福音書においては、イエスがこの事を心を込めて語り、またその話があまり似も衝撃的であったため、多くのものがキリストのもとを去った様子が描かれています。
またこの教えのために、初代教会においては、「クリスチャンは人肉を食べ血を飲む忌むべき集団である」と、いわれのない誤解を受け、迫害を受けたといわれています。
イエスは、「食べなければ命を持てない」と、おっしゃいました。

もし、パンとぶどう液にあずかるものを、「14万4千人」に限定するのであれば、み座と子羊の前に立って、大声で神と子羊を賛美するはずの「大群衆」は、それどころか、「命を持てない」ものとなってしまいます。
すると、「14万4千人」と「大群衆」の関係は、「支配するもの」と「支配されるもの」ではなくて、「命を持つもの」と「命を持てないもの」になってしまうのです。

これから私が、この問題について質問を致します事柄は、(今までの質問も全て含みます。)皆、この疑問にもとづいて、行っているものであります。

その為に、聖書のあらゆる角度から、はたして14万4千人と大群衆の違いはどのようなものであるか、という事を、ごいっしょに考えてゆけたら、と思います。

> 啓示 20章6節はこのように述べています。

> 「第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。これらの者に対して第二の死は何の権威も持たず、彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する」。

> この聖句は、「第一の復活」にあずかる者が、キリストの祭司となり、キリスト共に千年のあいだ支配すると述べています。
> ですから、この、第一の復活にあずかる者とは、14万4千人の者であり、別の存在ではないと考えられます。

とのお答えでしたが、同じ啓示の20:4節においては、裁きの座に、座しているものについて、

「イエスについて行なった証しのため、また神について語ったために斧で処刑された者たち、また野獣もその像も崇拝せず、額と手に印を受けなかった者たち」

であると、具体的に教えております。

従って、「第一の復活」にあずかる条件は、聖書にのみ基づいて理解するのであれば、

「殉教者」  (迫害を受けるだけではなく、命を落とした者。)

であるか、同じく啓示の13章に、非常に生々しく描かれる、

「野獣の像の崇拝と、それを証明する印」を受けなかったもの、

(15節によれば、それをしなかったものは、みな殺害されるのですから、どちらにしろ、彼らも殉教の死は避けられません。)でなけばならないわけです。

ところで、証人の方々からは、14万4千人は、初代教会から集められ、1935年にその数が満ちた、と伺っております。

もしその「14万4千人」の方がたのみが、「第一の復活」にあずかる人々であるのなら、エホバの証人の中で、聖餐にあずかれる方々は、既に殉教の死を遂げていなければなりません。

実際的にはなくなった方々が、この世の主の記念式に出席なさる事は不可能ですから、主の記念式において聖餐にあずかる方はいらっしゃらないという事でしょうか。
(数年前にお話をしていた方には、実際にあずかる方も中にはいらっしゃるとお伺いしたように思うのですが、誤解かもしれません。)

また、組織のなかで「14万4千人」に数えられている方は、皆、殉教の死を遂げられたのですか。

また、既に集められたという事は、13章にある野獣の像と、崇拝の強制による迫害と殉教は、既に行われたとお考えなのでしょうか。

とすれば、それはいつどのような形で行なわれ、どのようにして人々は殺されたのですか。

この迫害の様子は、13章に大変具体的に丁寧に記述されていますので、照らし合わせて知りたいと思います。
どうぞ詳細をお教え下さい。

確かに現代においても、クリスチャンとして殉教された人は、後を絶ちません。
その多くは、正確な報道も無しに闇から闇へと葬られ、わたしたちが知る事もできない状態ですが、最近の出来事で、特に私に印象的だったのは、数年前にアメリカのコロラドの高校で起きた、生徒による銃の無差別乱射事件です。
二人の銃を持った高校生が校内に進入した時、逃げ遅れた生徒達は、図書室に集められたそうなのですが、その時犯人の一人が、「この中に、イエスをキリストと信じるもの入るか」と尋ねたそうです。
そして、その中には、以前は不良少女であったけれど、イエスを信じて受け入れてから、別人のように変えられて、熱心に校内で伝道活動を行なっていた1人の少女がいたそうですが、彼女は立ち上がり、いつものように証しをはじめました。
そして次の瞬間に、射殺されたのです。
日本国内では、この事はほとんど話題に上りませんでしたが、アメリカにおいては、「現代のアメリカで殉教者が出た」と、大変な騒ぎになったと聞いています。

「偉大な人について」

> 「偉大な人」の本についてですが、今回のあなたのご質問は、前回までのご質問に対して、内容が根本的に変わっているように思えます。

> 今回のご質問についてですが、「偉大な人」の本は、ものみの塔協会の執筆者陣によって執筆されております。

とのことですが、私としましては、7月10日に頂いたメールの中の

>「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本は、この聖句をこのように解説しています。

>「丸1日働く人々は、宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは、生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は、西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし、それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」、つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました」。

この方が誰であるのかを、ずっとお尋ねしていたつもりですが、誤解をお与えしておりましたら、お許し下さい。

また、続く7月18日のメールにおいては、

>この本の内容には、間違いや問題点があることがすでに指摘されており、さらに引き続き、そのような点が指摘されるものと思われます。そのような状況の進展に応じて、私たちは自分の立場を定めなければなりません。

とのご説明を受けてもおりますが、どなたが書いたどのようなもので、どういった所に問題点があり、またそれ以外のところの扱いはどのようになっているのか、まったくわかりません。
7月10日のメールにおいては、部分的にしろ現在も支持されているように受け取れますが、実際は如何なのでしょうか。

特定の個人に対し、「これまでに生存したもっとも偉大な人」という表現は、わたしたち教会のクリスチャンにとっては、かなり耳慣れない事でもありますので、是非、もう少し詳しくお教え下さい。

この件に関しては、再三質問をしてきたつもりなのですが、どうも御回答自体が、いつも何かはぐらかされているような印象を受けてしまいます。
何かお答えいただけないご事情がおありなのでしたら、その旨を説明していただけますでしょうか。

いずれにしても、「エホバの証人の方々は、都合の悪い事柄には一切答えていただけない。」という評判が、まったくの中傷であり、現実に即してはいない事を、確認できると信じております。

また、み名に関しての質問ですが、こちらも長くなりそうですので、日にちを改めて、もう一度送らせていただきたいと思います。

今回、他にも省略した質問がかなりありますが、これらの問題は、はたしてクリスチャンは「14万4千人の支配するもの」と、「残りの大群衆の支配されるもの」にわけられ、救いの質にいたるまで区別されるものか、という議論を前提にしなければ、どうしても平行線になってしまうようなので、問題を本質的な事に絞らさせていただきました。

この問題については、これからも聖書のいろいろな箇所からお尋ねしたい事がありますので、み名の問題同様、よろしくお付き合い下さいませ。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Tue, 11 Sep 2001 21:57:34 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

「日を改めて再度メールを出します」とのことでしたので、しばしお待ちしていましたが、日にちが幾らか過ぎましたので、とりあえずこちから返事を用意させていただきました。

[1]
啓示(黙示録) 20章4節と6節についてですが、この節は同じ者たち、つまり、信仰のうちに死に、復活した後、キリストと共に千年の間支配する者たちについて述べています。
この点についてはお互いに異論はないようです。

[2]
あなたはこのようにおっしゃっています。

『もしその「14万4千人」の方がたのみが、「第一の復活」にあずかる人々であるのなら、エホバの証人の中で、聖餐にあずかれる方々は、既に殉教の死を遂げていなければなりません』。

このように考える必要はないと思われます。

まず、啓示 20章4節に関してすでにあなたが指摘しているように、第一の復活にあずかる根拠は二つあります。
殉教することはその一つですが、もうひとつ、野獣のしるしを受けないことがあります。
すべてのクリスチャンが迫害にあって殉教死するわけではありませんから、後者は、迫害を受けつつも殉教死には至らず、ただ信仰のうちに生涯を終える人のことであると考えられます。

さらに、啓示 12章17節は、この殉教する者たちのうちの「残っている者たち」について述べており、この者たちはまだ地上で生きているものと考えられます。

[3]
エホバの証人の間に、パンとぶどう酒にあずかる者が全くいないということはありません。
あなたのお考えとは異なり、そのようになるべきだと考えることもありません。

[4]
すでに指摘しました点と関連して、14万4千人は「第一の復活」を受けるにあたって、必ずしも殉教死する必要はないと考えられます。
サタンによる攻撃を受けながらも、野獣のしるしを受けることを拒み続け、信仰のうちに死ぬのであれば、それで十分に資格を持っていると考えられます。

[5]
啓示 12章17節や、13章3節から8節に示されていますように、迫害は終わりの日に厳しさを増し、やむことはないようです。

[6]
迫害がいつ、行われるかという質問についてですが、迫害はキリストの時代から現代に至るまで続いていますが、啓示の書は特に終わりの日の迫害について述べているようです。
ですから、その迫害は終わりの日に始まり、ハルマゲドンにおいて終わるものと考えられます。

[7]
どのようにしてクリスチャンが殉教死するかについては、それは特に定まっていないと考えられます。

[8]
「最も偉大な人の本」につきましては、質問がすでに何度も重複しておりますので、まずはこれまでの回答をご参照されたうえで、再度ご質問されますようお願いいたします。

以上です。
ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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