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Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Wed, 12 Sep 2001 22:30:18 +0900 From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > とんぽっぽ様 キリストの証人です。お返事どうもありがとうございます。 > 「日を改めて再度メールを出します」とのことでしたので、しばしお待ちしていましたが、日にちが幾らか過ぎましたので、とりあえずこちから返事を用意させていただきました。
残りのテーマについてのメールが、滞っておりますことお許し下さい。 さて今日は、お返事いただいた部分のいくつかが特に気になりましたので、その分だけを先にお尋ねする事をお許し下さい。
> [4] このようにお考えとのことですが、そうすると他の聖餐にあずからないエホバの証人の方々は、失礼ながら殉教のお覚悟がお有りになられない、という事になってしまいますね。 また、啓示の書をお読みになられればお気づきとは思いますが、「野獣の印」を受けないものは、必ず死にいたる様子が描かれております。(啓示13章) これらの御言葉は、あくまでも無視なさって「野獣の印」の迫害は、拒み続けても死に至ることはないような甘い迫害だと、エホバの証人の方々はお考えなのでしょうか。 だとすれば、そのような甘い迫害の後に受けるはずの特権にすらあずかれないという、他の信仰者の方々の信仰はどのようなものなのでしょうか。 実際のところ、普通のエホバの証人の方々が、殉教のご覚悟がない人々とは、私には思えません。(そうでなければ、このようなメールのやり取りをしたいとは思わなかったでしょう。) したがって、このような不都合が生じるのは、「千年の間キリストと共に支配する人」を無理矢理「14万4千人」であると、決め付ける前提によると考えられます。
また、12章17節の「残っている者たち」は、あなたがご指摘するような、「殉教せずに残っているもの」ではなく、「龍」に従わずに、地上で信仰を保っている人々をさすのは、文脈から考えれば当然のことです。
> [8] 以下、全文引用させていただきます。
「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本は、この聖句をこのように解説しています。
「これまでに生存した最も偉大な人」の本が述べるところの「最も偉大な人」とは、イエス・キリストのことです。この点につきましては、特に異論もなく納得していただけることと思います。」
「最も偉大な人」に関するご質問ですが、すでにこのようにお答えしております。
「偉大な人」の本についてですが、今回のあなたのご質問は、前回までのご質問に対して、内容が根本的に変わっているように思えます。 申し訳有りませんが、これが回答というにはあまりにもお粗末で、的外れで、かつ、不誠実であると言う他は有りません。
今後もこのようなお返事しかいただけないのでしたら、残念ながら「エホバの証人の方々は、教理に不都合な質問は受け付けない」という世間の評判は正しかった、と判断せざるを得ません。
それでは、またメール致します。 キリストの証人 |
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Fri, 21 Sep 2001 23:25:48 +0900 From: **** < **** > To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > とんぽっぽ様
御返事が、大変遅くなり申し訳有りませんでした。 かなり間があいてしまいましたが、御名についてのお話をしたいと思います。
> [16]
> [17] との事ですが、新世界訳聖書の付録にある、「神のみ名」についての記述においては現代の翻訳者が、神固有の御名を削除、あるいは覆い隠しているのは神への最大の侮辱である、と記されていますね。 この事を「神への最大の侮辱である」と、本当にお考えになるのなら、上記2つの御回答とは、矛盾するのではないでしょうか。 そもそも、「エホバ」が、テトラグラマトンの正式な発音ではなく、人間が作った、暫定的な造成語であることは、エホバの証人の方々も、お認めになっていることですね。
そして、聖書には新旧通して、多様な神名が存在します。 それなのに、それらの名前を使うことよりも、実際には不正確な違う発音で、神の御名をお呼びすることが絶対であるというのは、不条理であるように思えます。 人間の場合であっても、不正確な名前でお呼びするよりは、その人にとって、妥当な称号(お父さん、先生等)でお呼びするほうが自然で、非礼に当たらないのは、言うまでもなく当たり前のことです。 また、いかなる理由であろうとも、現存の原語聖書に(この聖書の正確性については、エホバの証人の方々も認める所でありましたね。)「キュリオス」と書かれている神名を、造成語である「エホバ」に置き換えるのは、やはり、行き過ぎたことではないでしょうか。
> [18]
> 「年に一度の贖罪の日に関して、ダンビー訳のミシュナはこう述べています。「また、神殿の中庭に立つ祭司たちや民は、大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと、ひざまずいて身をかがめ、ひれ伏して、『その王国の栄光のみ名が、限りなく永久にほめたたえられますように!』と言うのであった」。(ヨマー 6:2)ソター 7章6節は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について、こう述べています。「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが、地方では代わりの言葉で発音した」。サンヘドリン 7章5節は、冒とくした者も、『み名を発音したのでない限り』、有罪とはならず、また冒とくの罪が関係する裁判では、証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ、その後、おもな証人が多分、神の名を用いて、『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められたと述べています。サンヘドリン 10章1節は、「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙して、「アバ・サウルはこう言う。また、み名をその正しい文字で発音する者も」と述べています。しかし、このような消極的な見方があるにもかかわらず、ミシュナの最初の部分には、「人は神のみ名を使って仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり、その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5」。
> この指摘は、ユダヤ人がただ神のみ名の発音を禁じたのではなく、状況により禁じたということを示しています。
> [19]
このミシュナの記述は、初めて目にいたしました。 確かに、ユダヤ人たちは通常はテトラグラマトンを「アドナイ」に置き換えて使っておりましたが、「みだりに唱えてはいけない」なのですから、時には使用されることも、あったのでしょうね。
ただ、新約聖書においてクリスチャンが、神の御名を「キュリオス」と記したことと、ユダヤ人の神名の発音とは、あまり関係がないと思います。 それが一体何であるか、という事については、これからも聖書を通してご一緒に考えていきたいと思うのですが、如何でしょうか。
> [19]
これについては、私の意見を挟む余地はなく、本当に純粋な文法上の問題です。
しかし、be動詞にあたる「エイミ」が、直接法完了形で用いられているところは、1つもないのです。
ところで、どういうわけか、前回私の不注意で、上記の箇所を出エジプト6:3と、書いてしまったことをお許し下さい。 さて、御名について、ここでもう1つお尋ねしたいことがあります。
御名の問題を、エホバの証人の方々と論じる時に、「主の祈り」が、よく引き合いに出されるのですが、「天におられるわたしたちの父」とは、誰のことでしょうか。 子供たちの夏休みも終わり、上の子供は卒園入学、下の子供は、幼稚園選びと入園準備を控え、加えて、出産準備も、そろそろ必要となってまいりました。 その為、何かと御返事が滞りがちになっておりますが、どうぞお許し下さいませ。 できる限り、迅速に対応いたしたいとは思いますので、これからもよろしくお願いいたします。 キリストの証人 |
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより Date: Fri, 05 Oct 2001 20:03:44 +0900 From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** > To: **** < **** > エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。 引き続いて、質問とご意見にお答えいたします。
[1]
[2] 「捕らわれの身となるはずの者がいるなら、その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら、その者は剣で殺されなければならない」。
生じている事実に照らしても、野獣は、油そそがれた者の殺害をもくろんでも必ず成功するとは限らないようです。
[3]
[4]
[5]
[6] たとえば、あなたはこのように質問しておられます。 『その人がどなたであるかという事は、まだお伺いしていないのですが』。 この質問には、すでに答えております。
よろしければ、今一度、これまでのやりとりを吟味なさり、その上で、再度適切な質問を寄せられますようお願いいたします。
[7]
[8]
[9]
[10] 『人間の場合であっても、不正確な名前でお呼びするよりは、その人にとって、妥当な称号(お父さん、先生等)でお呼びするほうが自然で、非礼に当たらないのは、言うまでもなく当たり前のことです』。 理屈としてはよく分かりますが、幾つかの点でこの意見は非現実的で背教的だと思います。
まず、人間における実際の事例を見て見ましても、国籍と言語が異なるという理由で名前の発音が正確でなくなる事例はいくらでも見られており、むしろそのほうが一般的です。
そして、このような事例は、たとえばイエスにも当てはまります。
さらに、このことを考えてください。
神のみ名の発音が正確でないことは、業の問題であり、信仰に影響を与えません。 ですから、業ではなく信仰を追い求める私たちとしては、たとえ発音が不正確であっても、神のみ名を発音するのをやめるわけにはいきません。
[11]
[12] 『ただ、新約聖書においてクリスチャンが、神の御名を「キュリオス」と記したことと、ユダヤ人の神名の発音とは、あまり関係がないと思います』。 この点につきましては、あなたは最初にこのように意見を述べておられます。 『ルカ4:14ー22において、イエスが会堂でイザヤ書を朗読した際、もし、み名を「アドナイ」ではなく、「エホバ」と読んでいたとしたら、当時の慣習からすれば、間違いなく、その場で石打にする騒ぎになっていたはずです』。 ですから、ユダヤ人における神名の発音に関する事柄は、ルカ 4章14節から22節を論じるにあたって、関連性があると考えられます。
[13]
すでに述べましたように、ここでイエスは、ギリシャ語の「エゴ・エイミ」の一般的な用法において、「エゴ・エイミ」用いられたものと思われます。
[14]
[15]
以上です。
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