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キリストの証人さん(9)
2001年12月10日更新

記者クラブに対する質問と説得(11-12)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Wed, 12 Sep 2001 22:30:18 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

キリストの証人です。お返事どうもありがとうございます。

> 「日を改めて再度メールを出します」とのことでしたので、しばしお待ちしていましたが、日にちが幾らか過ぎましたので、とりあえずこちから返事を用意させていただきました。

残りのテーマについてのメールが、滞っておりますことお許し下さい。
時間の都合がつき次第、お出ししたいと思っておりますので、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。

さて今日は、お返事いただいた部分のいくつかが特に気になりましたので、その分だけを先にお尋ねする事をお許し下さい。

> [4]
> すでに指摘しました点と関連して、14万4千人は「第一の復活」を受けるにあたって、必ずしも殉教死する必要はないと考えられます。
> サタンによる攻撃を受けながらも、野獣のしるしを受けることを拒み続け、信仰のうちに死ぬのであれば、それで十分に資格を持っていると考えられます。

このようにお考えとのことですが、そうすると他の聖餐にあずからないエホバの証人の方々は、失礼ながら殉教のお覚悟がお有りになられない、という事になってしまいますね。

また、啓示の書をお読みになられればお気づきとは思いますが、「野獣の印」を受けないものは、必ず死にいたる様子が描かれております。(啓示13章)

これらの御言葉は、あくまでも無視なさって「野獣の印」の迫害は、拒み続けても死に至ることはないような甘い迫害だと、エホバの証人の方々はお考えなのでしょうか。

だとすれば、そのような甘い迫害の後に受けるはずの特権にすらあずかれないという、他の信仰者の方々の信仰はどのようなものなのでしょうか。

実際のところ、普通のエホバの証人の方々が、殉教のご覚悟がない人々とは、私には思えません。(そうでなければ、このようなメールのやり取りをしたいとは思わなかったでしょう。)

したがって、このような不都合が生じるのは、「千年の間キリストと共に支配する人」を無理矢理「14万4千人」であると、決め付ける前提によると考えられます。

また、12章17節の「残っている者たち」は、あなたがご指摘するような、「殉教せずに残っているもの」ではなく、「龍」に従わずに、地上で信仰を保っている人々をさすのは、文脈から考えれば当然のことです。
(列王第一20:18 ローマ11:4ー6もご参照下さい。)

> [8]
> 「最も偉大な人の本」につきましては、質問がすでに何度も重複しておりますので、まずはこれまでの回答をご参照されたうえで、再度ご質問されますようお願いいたします。

以下、全文引用させていただきます。

「これまでに生存したもっとも偉大な人」の本は、この聖句をこのように解説しています。
「丸1日働く人々は、宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは、生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は、西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし、それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」、つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました」。

7月10日

「これまでに生存した最も偉大な人」の本が述べるところの「最も偉大な人」とは、イエス・キリストのことです。この点につきましては、特に異論もなく納得していただけることと思います。」
7月18日

「最も偉大な人」に関するご質問ですが、すでにこのようにお答えしております。
『「これまでに生存した最も偉大な人」の本が述べるところの「最も偉大な人」とは、イエス・キリストのことです。この点につきましては、特に異論もなく納得していただけることと思います』。」

8月6日

「偉大な人」の本についてですが、今回のあなたのご質問は、前回までのご質問に対して、内容が根本的に変わっているように思えます。
8月14日

申し訳有りませんが、これが回答というにはあまりにもお粗末で、的外れで、かつ、不誠実であると言う他は有りません。

今後もこのようなお返事しかいただけないのでしたら、残念ながら「エホバの証人の方々は、教理に不都合な質問は受け付けない」という世間の評判は正しかった、と判断せざるを得ません。
(実際、それ程不都合なことをお尋ねしているつもりはないので、どうして御回答いただけないのか、まったくわかりません。)

それでは、またメール致します。
どうもありがとうございました。

キリストの証人


Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Fri, 21 Sep 2001 23:25:48 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

御返事が、大変遅くなり申し訳有りませんでした。
キリストの証人です。

かなり間があいてしまいましたが、御名についてのお話をしたいと思います。

> [16]
> 神のみ名が新約聖書中において省略されている点についてですが、それに対する神の側の理由は知られておらず、ただ、記述に対する学術的な議論があるのみです。

> [17]
> ヨハネ 17章11節から12節は、キリストが神に対して祈りをささげている場面を扱っていますが、このような場合、神に対するイエスの呼びかけは、「父」でも「エホバ」でも、どちらでもよかったものと思われます。
> ですから、ここでイエスが神のみ名を発音することは、必ずしも必要でなかったと思われます。
> いずれにせよ、新約聖書が神のみ名を省略しているという事実があるわけですから、イエスがここで神のみ名を発音されたのかは、聖書からは判別できません。

との事ですが、新世界訳聖書の付録にある、「神のみ名」についての記述においては現代の翻訳者が、神固有の御名を削除、あるいは覆い隠しているのは神への最大の侮辱である、と記されていますね。

この事を「神への最大の侮辱である」と、本当にお考えになるのなら、上記2つの御回答とは、矛盾するのではないでしょうか。

そもそも、「エホバ」が、テトラグラマトンの正式な発音ではなく、人間が作った、暫定的な造成語であることは、エホバの証人の方々も、お認めになっていることですね。

そして、聖書には新旧通して、多様な神名が存在します。
その一つ一つが、大変意味深く、大切なものであることにはおそらく異論はあられない事と思います。

それなのに、それらの名前を使うことよりも、実際には不正確な違う発音で、神の御名をお呼びすることが絶対であるというのは、不条理であるように思えます。

人間の場合であっても、不正確な名前でお呼びするよりは、その人にとって、妥当な称号(お父さん、先生等)でお呼びするほうが自然で、非礼に当たらないのは、言うまでもなく当たり前のことです。

また、いかなる理由であろうとも、現存の原語聖書に(この聖書の正確性については、エホバの証人の方々も認める所でありましたね。)「キュリオス」と書かれている神名を、造成語である「エホバ」に置き換えるのは、やはり、行き過ぎたことではないでしょうか。

> [18]
> ユダヤ社会における神のみ名の発音の問題は、イエスの時代より後代の書物に記されており、特に、ユダヤ人によるミシュナには、この時代のユダヤ人の間に、み名の発音に関する方針の混乱があったことが示されています。

> 「年に一度の贖罪の日に関して、ダンビー訳のミシュナはこう述べています。「また、神殿の中庭に立つ祭司たちや民は、大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと、ひざまずいて身をかがめ、ひれ伏して、『その王国の栄光のみ名が、限りなく永久にほめたたえられますように!』と言うのであった」。(ヨマー 6:2)ソター 7章6節は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について、こう述べています。「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが、地方では代わりの言葉で発音した」。サンヘドリン 7章5節は、冒とくした者も、『み名を発音したのでない限り』、有罪とはならず、また冒とくの罪が関係する裁判では、証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ、その後、おもな証人が多分、神の名を用いて、『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められたと述べています。サンヘドリン 10章1節は、「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙して、「アバ・サウルはこう言う。また、み名をその正しい文字で発音する者も」と述べています。しかし、このような消極的な見方があるにもかかわらず、ミシュナの最初の部分には、「人は神のみ名を使って仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり、その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5」。

> この指摘は、ユダヤ人がただ神のみ名の発音を禁じたのではなく、状況により禁じたということを示しています。
> ですから、ある状況では神のみ名の発音は許された、しかし、その状況が何であるかについては意見の混乱が見られた、と考えられます。

> [19]
> 神のみ名の発音についての言及は、ミシュナよりさらに後代の記述にもあり、まだそのころまで、神のみ名の発音は残されていたと思われます。
> ですから、イエスの時代よりもずっと後に、神のみ名は失われたものと思われます。
> その理由につきましては、あなたが知っているところと同じだと思われます。

このミシュナの記述は、初めて目にいたしました。
どうもありがとうございます。

確かに、ユダヤ人たちは通常はテトラグラマトンを「アドナイ」に置き換えて使っておりましたが、「みだりに唱えてはいけない」なのですから、時には使用されることも、あったのでしょうね。

ただ、新約聖書においてクリスチャンが、神の御名を「キュリオス」と記したことと、ユダヤ人の神名の発音とは、あまり関係がないと思います。
むしろそこには、1世紀においてユダヤ教とキリスト教に分かれたこと、ユダヤ教とは異なる、キリスト教の神観が、深く関わっていると思います。

それが一体何であるか、という事については、これからも聖書を通してご一緒に考えていきたいと思うのですが、如何でしょうか。

> [19]
> ヨハネ 8章58節についてですが、ギリシャ語エイミが完了形ではないことは明らかですが、それは現在形ですので、英訳聖書においては、“I am”とも“I have been”とも訳せます。
> いずれにせよ、あなたのおっしゃっている、直説法であるとか完了形であるかとかいうことは、わたしの言っていることと特に関係がないように思えます。

これについては、私の意見を挟む余地はなく、本当に純粋な文法上の問題です。
「エゴーエイミ」を、「前から私はいる」と訳すためには、英語の「I have been」のように、このギリシャ語が、直説法完了形として用いられている、と証明しなくてはできません。

しかし、be動詞にあたる「エイミ」が、直接法完了形で用いられているところは、1つもないのです。
つまり、「エゴーエイミ」を「I have been」と、訳するのは、他の一般動詞とは違い、文法的に不可能なことです。
したがって、ここは、出エジプト 3:14と同じく、「I am」としか訳すことはできません。

ところで、どういうわけか、前回私の不注意で、上記の箇所を出エジプト6:3と、書いてしまったことをお許し下さい。
これは、3:14の誤りです。
(ちなみに6:3は、アブラハム、イサク、ヤコブが、「エホバ」の名を知らされていなかった、という記述があるところですね。)

さて、御名について、ここでもう1つお尋ねしたいことがあります。

御名の問題を、エホバの証人の方々と論じる時に、「主の祈り」が、よく引き合いに出されるのですが、「天におられるわたしたちの父」とは、誰のことでしょうか。
イザヤ9:6には、誰が「とこしえの父」であると述べられていますか?

子供たちの夏休みも終わり、上の子供は卒園入学、下の子供は、幼稚園選びと入園準備を控え、加えて、出産準備も、そろそろ必要となってまいりました。

その為、何かと御返事が滞りがちになっておりますが、どうぞお許し下さいませ。 できる限り、迅速に対応いたしたいとは思いますので、これからもよろしくお願いいたします。

キリストの証人


Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Fri, 05 Oct 2001 20:03:44 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

引き続いて、質問とご意見にお答えいたします。

[1]
殉教の覚悟という点ですが、私たちエホバの証人には、信仰の実践に伴って必要な、すべての覚悟ができています。
その中には、殉教することに対する覚悟も含まれております。
そのことは、エホバの証人の歴史を通しても実証されており、疑いないものと思います。

[2]
啓示(黙示録) 13章についてですが、この聖句は、すべての者が野獣に滅ぼされるとまでは述べていません。
特に、啓示 13章10節はこのように述べています。

「捕らわれの身となるはずの者がいるなら、その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら、その者は剣で殺されなければならない」。

生じている事実に照らしても、野獣は、油そそがれた者の殺害をもくろんでも必ず成功するとは限らないようです。
この点に関しまして、私たちに何ら不都合はありません。

[3]
啓示 12章17節の「残っている者たち」についてですが、あなたのご指摘するように、その聖句は、「龍」であるサタンに従わず、地上で信仰を保っている人々を指すと考えられます。
つまり、彼らは、野獣の迫害に面してもまだ生きている人たち、つまり「殉教せずに残っている者たち」を指すと考えられます。

[4]
列王第一 20章18節についてですが、この聖句は現在論じているところと関係がないように思います。

[5]
ローマ 11章4節から6節ですが、ここで述べられている「残りの者」は、油注がれたクリスチャン全体を表して用いられており、背教したユダヤ教からの「残りの者」を意味しています。
それらの者たちは、イエスの時代に集められました。
ですから、ここで述べられている残りの者は、啓示の書の中で述べられている、「残っている者たち」とは異なると考えられます。
啓示の書の中で述べられている「残っている者」は、油そそがれた者の残りの者、すなわち「残りの者のうちの残っている者たち」であり、イエスの時代にではなく終わりの日にのみ存在します。

[6]
「これまでに生存した最も偉大な人」の本についてですが、すでに述べましたように、あなたからの質問が重複したり、変わってしまったりしていることが、回答を行う上での障害になっております。
私は、私のできうる限りの範囲で、あらゆる質問に答えようと努力しておりますが、状況によっては、質問の意図や内容のために、返答に窮することもあります。

たとえば、あなたはこのように質問しておられます。

『その人がどなたであるかという事は、まだお伺いしていないのですが』。

この質問には、すでに答えております。

よろしければ、今一度、これまでのやりとりを吟味なさり、その上で、再度適切な質問を寄せられますようお願いいたします。
もし、それができないようでしたら、この話題は打ち切りにした方がよいかもしれません。

[7]
神のみ名を聖書の翻訳から覆い隠すことにつきましては、あなたのおっしゃるとおり、私たちは、それはエホバに対する侮辱行為だと考えています。
この点に特に矛盾はないように思います。

[8]
神のみ名としての「エホバ」が造語であることは、あなたのおっしゃるとおり、私たちもよく知っており、認めております。

[9]
エホバの証人は、不正確な呼び方で神のみ名を呼ぶことが絶対であるとは考えていません。
しかし、発音が正確でないことが特に不条理であるとも考えていません。
エホバの証人は、他の多くのキリスト教派と同様、音訳主義を支持していませんので、それは当然のことです。

[10]
あなたはこのように述べられています。

『人間の場合であっても、不正確な名前でお呼びするよりは、その人にとって、妥当な称号(お父さん、先生等)でお呼びするほうが自然で、非礼に当たらないのは、言うまでもなく当たり前のことです』。

理屈としてはよく分かりますが、幾つかの点でこの意見は非現実的で背教的だと思います。

まず、人間における実際の事例を見て見ましても、国籍と言語が異なるという理由で名前の発音が正確でなくなる事例はいくらでも見られており、むしろそのほうが一般的です。
そのような場合は、代名詞ではなく代名が用いられるのが一般的です。

そして、このような事例は、たとえばイエスにも当てはまります。
聖書自身は、イエスの名を「イエースース」と記していますが、これはギリシャ文化における代名であり、イエスの本当の名前はヘブライ語で「エーシュア」でした。
聖書自身が、しかもイエスに対して代名を用いていることは注目に値します。
また、イエスは、英語ではジーザスと呼ばれています。
ギリシャ語とはまた別の代名で呼ばれていることは周知の通りです。

さらに、このことを考えてください。
神やキリストにとって、非礼の規準となる事柄は、そして大切なのは、業にではなく信仰にあるのではないでしょうか。

神のみ名の発音が正確でないことは、業の問題であり、信仰に影響を与えません。
しかし、神のみ名を発音することそのものを退けることは、信仰に影響を及ぼします。

ですから、業ではなく信仰を追い求める私たちとしては、たとえ発音が不正確であっても、神のみ名を発音するのをやめるわけにはいきません。

[11]
聖書中の「キュリオス」についてですが、すでに述べましたように、新約聖書から神の名が省略されていることは紛れもない事実ですので、むしろ、それを復元することは、神に対するふさわしい敬意の表れであり、行き過ぎなどではないと思います。

[12]
神のみ名を発音することにについて、あなたはこのようにおっしゃられています。

『ただ、新約聖書においてクリスチャンが、神の御名を「キュリオス」と記したことと、ユダヤ人の神名の発音とは、あまり関係がないと思います』。

この点につきましては、あなたは最初にこのように意見を述べておられます。

『ルカ4:14ー22において、イエスが会堂でイザヤ書を朗読した際、もし、み名を「アドナイ」ではなく、「エホバ」と読んでいたとしたら、当時の慣習からすれば、間違いなく、その場で石打にする騒ぎになっていたはずです』。

ですから、ユダヤ人における神名の発音に関する事柄は、ルカ 4章14節から22節を論じるにあたって、関連性があると考えられます。

[13]
ヨハネ 8章58節についてですが、すでに述べましたように、「エイミ」が直説法であるかどうかとか、完了形であるかどうかということは、論点とは特に関係がないと思われます。

すでに述べましたように、ここでイエスは、ギリシャ語の「エゴ・エイミ」の一般的な用法において、「エゴ・エイミ」用いられたものと思われます。
ですから、新世界訳聖書の訳文に問題点はありません。

[14]
「主の祈り」における「天におられる私たちの父」とはエホバのことです。
これは、どのキリスト教派であっても同じ意見ですので、異論なく納得していただけると思います。

[15]
イザヤ 9章6節における「とこしえの父」という表現は、イエスを指しています。
これも、どのキリスト教派であっても同じ意見ですので、異論なく納得していただけると思います。

以上です。
ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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