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キリストの証人さん(10)
2001年12月10日更新

記者クラブに対する質問と説得(13)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Sat, 06 Oct 2001 10:52:43 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

お返事どうもありがとうございます、キリストの証人です。

しかし、大変残念なことに、これまでのあなたとのメールのやり取りは、私が以前から頻繁に耳にしており、また幾人かのエホバの証人の方々とお話する中で抱いていた危惧、すなわち、

「エホバの証人の方々は、組織に都合の悪いことは、考えることができないように、マインドコントロールされていて、話をしていても、都合の悪いところは、無視、或いは論点をずらし、話題を変えてしまうので、対等な話し合いはできない」

という、評判は、その通りだったと、考えざるを得ません。

もしあなたが、それに対して、ご自覚がないようでしたら、マインドコントロールがどのようなものであるか、ご自分でお調べになることを、お勧めしたいと思います。

> [1]
> 殉教の覚悟という点ですが、私たちエホバの証人には、信仰の実践に伴って必要な、すべての覚悟ができています。
> その中には、殉教することに対する覚悟も含まれております。
> そのことは、エホバの証人の歴史を通しても実証されており、疑いないものと思います。

この話題が出てきた、論点を考えていただきたいと思います。

まず、根本的な問題点として、エホバの証人の方々は、信仰者に、「14万4千人」と「その他のもの」という、区別というよりは、差別に近いものを設けて、「その他のもの」は、イエスがお命じになった「聖餐」に預かることができないとしています。

私は、この行為に対する、聖書の御言葉からの、明確な裏付けを、あなた方にお伺いしたいのです。

以上のことを踏まえた上で、お考え下さい。
あなたは、「14万4千人」だけが、「千年王国」の統治にあたるからだ、とおっしゃいました。

そこで私は、黙示録には、彼らは獣の像を拝まずに、殉教したものとあるが、統治体の方々は、みな殉教者なのですか、とお尋ねしました。

また、エホバの証人の方々は、「14万4千人」は、既に数が満ちたとおっしゃっていますが、それでは、この後には殉教者は起こらない事にもなってしまいます。

それに対して、あなたは、「必ずしも殉教する必要はなく、その心構えさえあればよい」と、おっしゃいました。

全てイエスキリストを信じるものは、等しく救われ、そこに差別はなく、「14万4千人」だけが、千年統治をするわけではないという、従来のキリスト教の考え方であれば、あなたのお返事には何の問題もないでしょう。

しかし、「14万4千人」を過度に特別視し、他のものは千年統治はおろか、聖餐にすらあずかれないとするのなら、
(聖餐を食することには、単なる行為以上の、重大な信仰告白があることは、あなた方もお認めになる事だと思います。)
その両者の間には、何か明確な、信仰上の違いがあるはずですね。

それであるのに、その特権階級の「14万4千人」の資格が、「実際の殉教」ではなく、「殉教できる心構え」であるというのなら、その下のランクにある「その他のもの」は、その覚悟すらないもの、になってしまう事を、わたしは指摘させていただいたのです。

できることならば、統治体14万4千人のうち、一体何人が殉教の死を遂げたのか、教えていただきたいものです。

私の知る限りでは、輸血拒否以外で、エホバの証人の方々が、信仰ゆえに殺された、というニュースは耳にしたことがありません。
あなたがたは、「千年統治」をされる方々のうち、実際の殉教者は、数%にも満たないと、おっしゃるのでしょうか。

この事1つを考えても、エホバの証人の方々の、「その他のもの」とされる方々への扱いが、いかに失礼かつ不合理であり、更に言うなら、パリサイ人的な、「福音からの締め出し」にあたる事を、同じ聖書を信じる者として、大変な悲しみを覚えます。

また、以下「2」〜「5」のお答えについても、それが「14万4千人」と「その他のもの」を、信仰的に差別しないのであれば、(区別、ではありません。)あなたのおっしゃる通りに問題を感じることはありませんでした。

ただし、列王記20:18のご指摘は、列王記19:18の誤りでした。 不注意をどうぞお許し下さいませ。

> [7]
> 神のみ名を聖書の翻訳から覆い隠すことにつきましては、あなたのおっしゃるとおり、私たちは、それはエホバに対する侮辱行為だと考えています。
> この点に特に矛盾はないように思います。

> [8]
> 神のみ名としての「エホバ」が造語であることは、あなたのおっしゃるとおり、私たちもよく知っており、認めております。

> [9]
> エホバの証人は、不正確な呼び方で神のみ名を呼ぶことが絶対であるとは考えていません。
> しかし、発音が正確でないことが特に不条理であるとも考えていません。
> エホバの証人は、他の多くのキリスト教派と同様、音訳主義を支持していませんので、それは当然のことです。

> [10]
> あなたはこのように述べられています。

> 『人間の場合であっても、不正確な名前でお呼びするよりは、その人にとって、妥当な称号(お父さん、先生等)でお呼びするほうが自然で、非礼に当たらないのは、言うまでもなく当たり前のことです』。

> 理屈としてはよく分かりますが、幾つかの点でこの意見は非現実的で背教的だと思います。

> まず、人間における実際の事例を見て見ましても、国籍と言語が異なるという理由で名前の発音が正確でなくなる事例はいくらでも見られており、むしろそのほうが一般的です。
> そのような場合は、代名詞ではなく代名が用いられるのが一般的です。

> そして、このような事例は、たとえばイエスにも当てはまります。
> 聖書自身は、イエスの名を「イエースース」と記していますが、これはギリシャ文化における代名であり、イエスの本当の名前はヘブライ語で「エーシュア」でした。
> 聖書自身が、しかもイエスに対して代名を用いていることは注目に値します。
> また、イエスは、英語ではジーザスと呼ばれています。
> ギリシャ語とはまた別の代名で呼ばれていることは周知の通りです。

> さらに、このことを考えてください。
> 神やキリストにとって、非礼の規準となる事柄は、そして大切なのは、業にではなく信仰にあるのではないでしょうか。

> 神のみ名の発音が正確でないことは、業の問題であり、信仰に影響を与えません。
> しかし、神のみ名を発音することそのものを退けることは、信仰に影響を及ぼします。

> ですから、業ではなく信仰を追い求める私たちとしては、たとえ発音が不正確であっても、神のみ名を発音するのをやめるわけにはいきません。

考えていただきたいのは、あなたが引用なさっている「イエスース」、「ジーザス」などの代名の称号を使う方々は、同時に「主」という称号も、等しく使っているということです。
彼らは決して、「主」という呼び名が、失礼にあたるとは考えません。
ましてや、新約聖書における「キュリオス」を、後世の改竄であるなどとは決して思ってはいません。

私がこの問題を持ち出したのは、新約聖書における「キュリオス」は、テトラグラマトンの改竄であると判断して、権威ある聖書に、人間の手で訂正を加えている、という事までなさって、「正しいみ名」にこだわるエホバの証人の方々であるのに、肝心の呼び方は「不正確」であってもかまわない、というのは、あまりにも道理に外れており、恐ろしいことだと感じるからです。
(聖書に手を加えることについては、厳しく戒められているのはご存知であると思います。)

つまり、「聖書に手を加える」ほどの、「み名」へのこだわりに対し、(或いは、「キュリオス」=「主」という称号への嫌悪に対し。)肝心のみ名は、「不正確でもよい」というのは、あまりにもバランスを欠いた、奇異な論法に聞こえると、申し上げたいわけです。

そこで、お伺いしたいのは、「主」という呼び名が、どうして不正確な発音の御名に劣るとお考えなのかです。
問題が、ただの優劣であるのなら、それは意味のない論争ですが、そこに、「聖書に手を加える」という行為が関わって来る以上は、無視できないと考えるからです。

それどころか、キリスト教会においては、新約聖書にテトラグラマトンが出ておらず、「キュリオス」が使われていることには、無視のできない重大な信仰的な意味があると、考えております。

> [13]
> ヨハネ 8章58節についてですが、すでに述べましたように、「エイミ」が直説法であるかどうかとか、完了形であるかどうかということは、論点とは特に関係がないと思われます。

> すでに述べましたように、ここでイエスは、ギリシャ語の「エゴ・エイミ」の一般的な用法において、「エゴ・エイミ」用いられたものと思われます。
> ですから、新世界訳聖書の訳文に問題点はありません。

もし、文法という物をご存知であるのなら、どうしてそのようなことをおっしゃるのか、まったく理解に苦しみます。
失礼ながら、あなたのご意見は、何かの鸚鵡返しのように聞こえてしまうのですが。
(文面も前回とまったく一緒です。これはお返事とは言いがたく思います。)

新世界訳がしているように、ヨハネ8:58を翻訳するには、「エイミ」は、直説法完了形でなければいけないのは、ご理解いただけるでしょうか。

すなわち「直説法とか完了形」、ではなく、新世界訳においては、この「エイミ」を、「直説法完了形」の動詞として、訳しているので、「私はいる」という訳になるわけです。

しかし、聖書において、「エイミ」(英語のbe動詞にあたります。一般動詞とは違うものであることは、中学生でもわかると思います。)が、この方法で使われているところはありません。

したがって、「エゴーエイミ」は、「I am」としか、訳すことはできず、それが、出エジプト3:14を指すのは、おわかりでしょうか。
当然ユダヤ人たちは、イエスを石打にするべきだと考えるわけです。
そして、ここは大変重要な聖句である、と私たちは考えています。

今回は、やり取りを重ねる上で、どうしても感じ続けていたことを率直に申し上げてしまいました。
筆力が足らなく、失礼な表現が多いことを、お詫びいたします。
(しかし、他にどのように言い表したら良いのかわからないのも、また事実です。)

このような非礼にもかかわらず、今後もお返事いただけたら幸いです。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Fri, 19 Oct 2001 20:09:42 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

引き続き、ご意見と質問にお答えいたします。

[1]
マインドコントロールにつきましては、私もよく学んでおり、その理論に通じておりますが、今回の一連のメールのやりとりについては、些細な点を取り上げるのでもない限り、問題はないように思います。

[2]
また、私が「組織に都合の悪いことは考えることができない」のか、あるいは、「組織に都合の悪いことは、考えることができないように、マインドコントロールされている」のか、という点につきましても、私自身のこれまでの経験や振る舞い、今回のメールのやりとりから、そうでないことは十分明らかに実証されていると思います。

[3]
質問には正確に答えるよう努力しておりますが、もしも、論点がずらされているとお考えの点がありましたら、その点をご指摘ください。

[4]
14万4千人に関する話題についてですが、基本的な論点は私もよくわきまえております。
しかし、実際の対話においては、論点に対する直接的な意見が交わされるよりも先に、論点に関連した種々の要素が質問として持ち出され、論じられたように思います。

[5]
「十四万四千人の者たち」と「大群衆」と違いは、支配する側にあるか、される側にあるかという点にありますが、そのような違いがあるとしても、救いにあずかるという点ではどちらも全く同じであり、それを「差別」と呼ぶことはできないと思います。

[6]
「大群衆」の者が聖餐にあずからないことを示す直接的な言葉は聖書にはないようです。
しかし、関連している状況を考慮することができます。
その点については、すでにこのように述べました。

「14万4千人と、それ以外の者たちとの区別は、二つの点で対照的です。ひとつは、支配する側にあるか、支配される側にあるかという点です。もう一つの点は、天にいるか、地にいるかという点です。キリストの贖いの犠牲がどちらの者にも当てはまることは確かなことですが、パンとぶどう酒を食する者については、この区別が当てはまるとわたしたちは考えています。」

[7]
「キリストへの信仰のゆえに殉教するのは14万4千人だけである」というあなたの意見ですが、たしかに、あなたの意見に従えば、14万4千人ではない大群衆は殉教しないことになります。
しかし、わたくしたちエホバの証人はそのような意見を支持してはおらず、大群衆にも殉教する者がいると信じております。

[8]
大群衆と、14万4千人の者との「信仰の違い」というものはありません。
違いがあるのは、救われる時の扱いです。
それ以外の点、救い主がキリストであることと、それに対する信仰とに違いはありません。

[9]
大群衆の者たちに殉教する覚悟がないということは決してありません。
そのように聖書を解釈する必要もないように思います。

[10]
救われる者に違いがあるとしても、それは、救われる者たちの間に「ランク」があることを意味しているのではありません。

[11]
14万4千人のうちのどれほどの人が殉教の死を遂げたのか、という質問ですが、それは推測するしかないと思います。

[12]
「救われる者は14万4千人のみでなければならず、しかも、それらはすべて殉教の死を遂げなければならないはずだ」、というあなたの理論は、キリストの贖いによって示された神の過分のご親切を論じるにあたって、あまりにも過酷で、残酷なものだと思います。
これまで、多くのクリスチャンが、神とキリストに対する全き信仰のうちに生き、そして殉教することなく死んでいきました。
それらの人たちにも、神の救いは同じように示されるはずだと、私たちエホバの証人は信じています。

[13]
エホバの証人が殉教の死を至るところで経験していることは、歴史的な事実であり、各種歴史資料を調べることによりその証拠を得ることができます。
また、このような資料を得るための助けとして、ものみの塔聖書冊子協会は「エホバの証人の年鑑」を毎年発行しております。
もしも、エホバの証人の殉教についての情報が不足しておられるのでしたら、そういった資料をご活用なさってください。

[14]
エホバの証人の救いに関する見方は、失礼なものでも、不合理なものでもありません。
それは、決して「福音からの締め出し」ではありません。
むしろ逆に、殉教する人たちだけでなく、殉教しない人たちにも救いの希望を差し伸べて、救いの幅を広げるものです。

[15]
イエスの代名についてですが、それが称号と共に等しく用いられていることに私たちは異論はありません。

[16]
あなたがおっしゃっているように、イエスに対して「主」と呼びかけることが失礼に当たるとは私たちも考えておりません。

[17]
新約聖書における「キュリオス」につきましては、一部に神のみ名からの「省略」があったと私たちエホバの証人は考えておりますが、それが「改竄」であるとは考えておりません。

[18]
み名の発音に関しましては、すでに述べましたとおりです。
多くのプロテスタント教派がそうであるように、私たちエホバの証人も、音訳主義の立場には立ちません。
ですから大切なのは、業ではなく、信仰です。

[19]
私たちエホバの証人は、エホバに対して「主」という称号を用いることになんの異議もありません。
あなたがおっしゃるように、その称号を「嫌悪している」ということは決してありません。

[20]
神名に関するエホバの証人の考えは、信仰という規準にかなっており、「奇妙な論法である」ということはありません。

[21]
エホバの証人は、み名を用いることは信仰上必要なことだと信じておりますが、だからといって、「主」という称号で神を呼ぶことが、み名で神を呼ぶことに劣ると考えているわけではありません。

[22]
私は、ギリシャ語の文法を学習しており、聖書の翻訳にも通じております。

[23]
すでに述べましたように、ギリシャ語エイミは現在形であり、完了形ではありません。

[24]
ライトハウス英和辞典において、“have”2項を調べますと、そこには現在完了ならびに継続を示す“have”が示されており、そこには、“have been”の用法も示されております。
この辞書によると、この英語の意味するところは「現在までの状態の継続を示す」となっており、例文として“Nancy has been ill since last Tuesday”が示され、さらに、「ナンシーはこの前の火曜日から病気です」という訳文が示されております。
これは、「アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」となっているヨハネ 8章58節に対応しております。
すでに指摘しましたように、ギリシャ語のエイミは完了形ではなく現在形であり、それに対して新世界訳聖書が“I have been”という訳語を充てたのは、全く適切なことです。

以上です。
ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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