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キリストの証人さん(11)
2001年12月10日更新

記者クラブに対する質問と説得(14)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Sat, 20 Oct 2001 17:12:45 +0900
From: **** < **** >
To: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >

とんぽっぽ様

キリストの証人です。

お返事ありがとうございます、と申しあげたいところですが、正直申し上げて、あなたのお返事は、大変申し訳ありませんが、何が書いてあるのか、よくわかりませんでした。

また同じに、貴方のほうも、私のお手紙が何を申し上げているのか、まったくご理解いただけてないことが、残念ながら良く分かりました。

常に感じていたことではありますが、貴方のお返事は、到底貴方御自身が、頭を働かせてお考えいただいたものとは思えず、何か元となるものを、鸚鵡返しで繰り返されているものとしか私には思えません…。
また貴方御自身が、その知識をご自分のものとして会得し、ご自分の言葉で表現されているようには、到底思えないのです。

そして、この事実は、私の知る限りでは、マインドコントロールと呼ばれる状況に、非常に良く似ていると申しあげるしかありません。

もしも貴方が、ご自分でおっしゃっているように、マインドコントロールを受けていないという絶大な確信がおありならば、是非もう一度、ご自分自身で、マインドコントロールというものが、一体どのようなものであるのかを、組織とは関係のない方法でお調べすることを、お勧めしたいと思います。

もし、あなたが、そのような心配がないと信じておられるのなら、そのような情報を調べることを、何も恐れる必要はないのですし、そういった情報を提供するところは、多くは宗教とはむ関係の存在でしょうから、そういった意味でも恐れる必要はないはずだからです。
また、貴方がマインドコントロールを、受けていないということを立証するためには、それが組織とは関係のない情報でなければ、全く何の意味もないのも、容易にお分かりであることと思います。

失礼な物言いで、大変心苦しく思いますが、他にどのように申し上げればよいのか、未熟な私には、思いつきませんでした。愛の配慮が足りないものであることを、どうぞお許し下さい。

以下、特に良く理解できないところを申し上げたいと思います。

> [7]
> 「キリストへの信仰のゆえに殉教するのは14万4千人だけである」というあなたの意見ですが、たしかに、あなたの意見に従えば、14万4千人ではない大群衆は殉教しないことになります。
> しかし、わたくしたちエホバの証人はそのような意見を支持してはおらず、大群衆にも殉教する者がいると信じております。

> [9]
> 大群衆の者たちに殉教する覚悟がないということは決してありません。
> そのように聖書を解釈する必要もないように思います。

誤解のないように申し上げたいのですが、有史以来、殉教をしてきたクリスチャ ンの数はとうに14万4千人を超えていることと思います。

私が申し上げてきたのは、「千年統治にあたるクリスチャン」を「14万4千人」に限定するのは、聖書解釈としては、不適当ではないか、という事です。

それゆえ、このような解釈をなさる以上は、きっと何か聖書的な根拠をお持ちなのだろうと思い、今までその事をお尋ねしました。

そして、貴方からその事について、いくつかのお返事を頂きましたが、そのお返事を読む限りでは、「千年統治」=「14万4千人」としてしまうと、[7]や[9]で、書かれているようなことになってしまうことを、ご指摘したのです。
それが大変理不尽で、聖書的でないことについては、私も心から賛同いたします。

つまり、これは私の意見ではなく、エホバの証人の組織の方々の聖書解釈を、別の角度からみると、このようになってしまうことをご指摘したのみです。
また、それに対する聖書に基づいた、理にかなった御回答は、まだいただいておりません。

> [8]
> 大群衆と、14万4千人の者との「信仰の違い」というものはありません。
> 違いがあるのは、救われる時の扱いです。
> それ以外の点、救い主がキリストであることと、それに対する信仰とに違いはありません。

> [10]
> 救われる者に違いがあるとしても、それは、救われる者たちの間に「ランク」があることを意味しているのではありません。

> [14]
> エホバの証人の救いに関する見方は、失礼なものでも、不合理なものでもありません。
> それは、決して「福音からの締め出し」ではありません。
> むしろ逆に、殉教する人たちだけでなく、殉教しない人たちにも救いの希望を差し伸べて、救いの幅を広げるものです。

「信仰の違い」も、「救いのランク」もないのに、聖餐にあずかれるものと、そうでないものが区別されるのは、どういった聖書的な理由があるのでしょうか。

新約聖書をお読みになれば、「聖餐にあずかる」という事が、信仰告白として、どれほど深い意味を持つかは、言うまでもないことです。

また、重複になりますが、救われることに殉教するかしないかという事柄が関わるなどと、私は決して考えておりません。
私は、「14万4千人」のみが、「千年統治」を行ない、聖餐にあずかれるとは、信じていないからです。

ただ、殉教にあずかった方々は、「千年統治」を行なう資格がある事は、聖書にはっきりと記されている事柄ですから、もしも、この数を「14万4千人」に、限定してしまうのなら、殉教者だけでも、はるかにこの数を越えてしまいます。
だとすると、他の方はそれに携わる余地がなくなってしまうという、教理の矛盾を、ご指摘した迄のことです。

> [15]
> イエスの代名についてですが、それが称号と共に等しく用いられていることに私たちは異論はありません。

> [16]
> あなたがおっしゃっているように、イエスに対して「主」と呼びかけることが失礼に当たるとは私たちも考えておりません。

> [17]
> 新約聖書における「キュリオス」につきましては、一部に神のみ名からの「省略」があったと私たちエホバの証人は考えておりますが、それが「改竄」であるとは考えておりません。

> [18]
> み名の発音に関しましては、すでに述べましたとおりです。
> 多くのプロテスタント教派がそうであるように、私たちエホバの証人も、音訳主義の立場には立ちません。
> ですから大切なのは、業ではなく、信仰です。

> [19]
> 私たちエホバの証人は、エホバに対して「主」という称号を用いることになんの異議もありません。
> あなたがおっしゃるように、その称号を「嫌悪している」ということは決してありません。

> [20]
> 神名に関するエホバの証人の考えは、信仰という規準にかなっており、「奇妙な論法である」ということはありません。

> [21]
> エホバの証人は、み名を用いることは信仰上必要なことだと信じておりますが、だからといって、「主」という称号で神を呼ぶことが、み名で神を呼ぶことに劣ると考えているわけではありません。

新世界訳聖書の付録には、「現代の翻訳者達が聖書の著者であられる神に加えている最大の侮辱は、その方に特有の固有のみ名を削除している、もしくは覆い隠していることです。」と、書かれていますね。

また、「クリスチャンギリシャ語聖書中の神のみ名の翻訳に際しては背景となるヘブライ語聖書をいつも場合も注意深く考慮しつつ、極めて慎重に作業を行ないました。」とも、書かれています。

新約聖書は、ギリシャ語で書かれたのです。
神はそれを、ヘブライ語でお書きになったのではありません。

もし、貴方が、[15]〜[21]のように、お考えなのでしたら、そして、神の聖典としての聖書の権威を、信じ恐れていらっしゃるのなら、それが書かれた、ギリシャ語のままで翻訳せずに、わざわざヘブライ語の翻訳本を用いて、原文と異なる訳出をお認めになるのでしょうか。

原典が現存するというのに、それを複数の翻訳本をかき集めて、それを参考に翻訳するなどという作業は、私は聞いたことがありません。

そして、先程の[15]〜[21]で否定なさっているお考えは、5年ほど前までは、我が家を訪れる複数のエホバの証人の方々の口から、直接お伺いしたご意見でもあります。
彼らは、組織とは異なったことを、私たちに告げ知らせていた、という事ですか?
(「主」とお呼びすることは、エホバを侮辱することになると、よくお伺いしたのですが。)

蛇足ながら、確かに近頃いらっしゃる方々は、あまりその事を口になされなくなりましたが。
この数年で、何か解釈に変更が与えられたのでしょうか?
だとすれば、その箇所と、詳しい理由を是非ご説明下さい。

> [22]
> 私は、ギリシャ語の文法を学習しており、聖書の翻訳にも通じております。

> [23]
> すでに述べましたように、ギリシャ語エイミは現在形であり、完了形ではありません。

> [24]
> ライトハウス英和辞典において、“have”2項を調べますと、そこには現在完了ならびに継続を示す“have”が示されており、そこには、“have been”の用法も示されております。 > この辞書によると、この英語の意味するところは「現在までの状態の継続を示す」となっており、例文として“Nancy has been ill since last Tuesday”が示され、さらに、「ナンシーはこの前の火曜日から病気です」という訳文が示されております。
> これは、「アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」となっているヨハネ 8章58節に対応しております。
> すでに指摘しましたように、ギリシャ語のエイミは完了形ではなく現在形であり、それに対して新世界訳聖書が“I have been”という訳語を充てたのは、全く適切なことです。

ギリシャ語の文法を学習してらっしゃるということですが、完了形でない「エイミ」が、「have been」と翻訳できるというのは、どういう意味ですか?
完了形でないのなら、どうして「歴史的現在」として、翻訳ができるのですか?

「完了形」でないことを、お認めになるのでしたら、大変皮肉ではありますが、「エイミ」が、「have been」と、翻訳できないことをお認めになっていることになる事です。お分かりでしょうか?

また、事実聖書の中で、「エイミ」が直説法完了形として、用いられることは決してないことは、再三ご指摘している通りのことです。

繰り返しますが、新世界訳の翻訳における、ヨハネ8:59は、「エイミ」を、直説法完了形として翻訳する、「歴史的現在」と解釈するため、「I have been」と訳出されています。
しかし、ギリシャ語のbe動詞「エイミ」は、英語のように、「直説法完了形」で、用いられることはありません。
また、新約聖書の中で、「エイミ」がそのように用いられることは、1度もないのです。
(一般動詞が、「直説法完了形」として、用いられる事例ならばありますが。)

大変失礼ですが、上記の文を読む上では、貴方がギリシャ語はおろか、英語の文法にも、通じていらっしゃるようには、とても考えられません。
これは、英文法でいえば、中学生で習うレベルの問題だからです。
いきなりギリシャ語では、難しいでしょうから、まず英文法から習われることを、お勧めいたします。

「エゴーエイミ」を、「I am」(私はある)と翻訳するのは、大変当たり前であり、また大きな意味を持っています。

私は、別にギリシャ語の教師ではなく、(キリスト教会の牧師の資格には、ギリシャ語とヘブル語の教師である事が必要ですが、私は、一介の信徒にすぎません…。)それ程通じているわけではありませんが、普通に語学を学んだものとして、この程度のことであれば、理解できます。

メールのやり取りの回数が重なるに連れ、貴方に対して大変失礼になっていく自分が、とてもやりきれない気分です。

もう少し他に、言いようはないのかしらとも思いますが、私の表現能力においては、これがせいいっぱいとなってしまい、せいぜいこのような、煮え切らないお詫びを付け加える程度の知恵しかない者であることをどうぞお許し下さい。
(感じたことを、率直に申し上げずにはいられない性格です。)

このメールを、ただの誹謗中傷であるとお受け取りになられないことを、切にお祈りいたします。

私は30代前半の若輩ものではありますが、16で信仰を持って以来、たくさんのエホバの証人の方々に、お会いしてお話を伺いました。
そしてその方々の、信仰への熱意に敬服すると同時に、奇妙に歪んだ救いの感覚
(失礼な言い方をお許し下さい。しかし、イエスキリストを信じて救いを得た者としては、どうしてもそのようにしか見えないのです。)
に、言いようのない深い悲しみを、ずっと感じ続けているのです。

殊に、エホバの証人であった、親友の叔母が自殺された時からは、その悲しみは、一層深くなるばかりです。

イエスキリストを信じて、全ての罪から購われた経験は、私の一生涯を通じて(まだ30そこそこですが…)一番すばらしく、今尚、毎日すばらしさを増していく、大切で嬉しく幸せな、そして終わりのない経験です。

それは、生ける水の泉が、内側からあふれる命であり、聖書の一言一言が、日々新しく胸に迫る、喜びでもあります。
そして私はそれを、恵みとして、文字通り価なく受け取ったのです。
受ける資格など、何もないものだったのに、ただ愛と聖書の御言葉、聖霊の働きによって…。

今はただ、この受けた愛を少しでも、他の人に分かち合いたいと祈る日々です。
とんぽっぽ様のためにも、お祈りしております。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Sun, 04 Nov 2001 19:00:26 +0900
From: エホバの証人記者クラブ情報部 < **** >
To: **** < **** >

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」運営者のとんぽっぽです。

ご意見のメールをありがとうございます。
引き続きまして、答えさせていただきます。

[1]
前回のメールにおいては、14万4千人の理解について生じている、対話の食い違いの問題を打開したいと思い、このように私からの意見を述べさせていただきました。

「「救われる者は14万4千人のみでなければならず、しかも、それらはすべて殉教の死を遂げなければならないはずだ」、というあなたの理論は、キリストの贖いによって示された神の過分のご親切を論じるにあたって、あまりにも過酷で、残酷なものだと思います。
これまで、多くのクリスチャンが、神とキリストに対する全き信仰のうちに生き、そして殉教することなく死んでいきました。
それらの人たちにも、神の救いは同じように示されるはずだと、私たちエホバの証人は信じています」。

私がこのように述べ、あなたが返事をお書きになったことにより、この話し合いは大きく進展したと思います。
不満な点もあるかもしれませんが、それでも話し合いは進行しておりますので、引き続き、話し合いをよろしくお願いいたします。

[2]
あなたが繰り返し気にかけておられる点についてですが、あなたのご意見の表明が私に対して失礼であるということは、特にないように思いました。
どうぞご安心ください。

[3]
私が書いた事柄のうち、あなたにとって分からない点がありましたら、その点を、私にとって分かりやすいように指摘くださればうれしく思います。
なお、こちらといたしましても、同様の問題が生じることを回避するため、今回のメールでは、幾らかでも積極的になり、より詳細で、よりていねいな返答を差し上げたいと思いました。
どうぞよろしくお願いいたします。

[4]
私は、エホバの証人としての自分の信条を持っており、エホバの証人の信条を口にし、行動しておりますが、「鸚鵡返し」でただ同じことを口にし、自分で考えて発言していないということはありません。
これは、結論が同じ場合でも、他のエホバの証人とは異なる言い回しを私が使っているという意味です。
エホバの証人一人一人に表現の違いがあることは、あなたもよくご存じだと思います。
しかし同時に、エホバの証人は同じ信条で結ばれてもいます。
どうぞこの点にご理解をお示しくださりますようお願いいたします。

[5]
私は、この場に限らず、自分の信じている事柄はいつも自分の言葉で表現させていただいております。
しかし、部分的に見るなら、そうでないこともあります。
この点につきましても、どうかご理解をお示しください。

[6]
以上の理由により、私は自分がマインドコントロールされてはいないことを知っております。
今回の問題は、私がマインドコントロールされているかどうかにではなく、むしろ、論じている事柄がただ繰り返しになっているという点にあるのかもしれません。

[7]
私はすでに、マインドコントロールについての知識を、自分の組織とは関係のないところで得ておりますが、ご提案には感謝し、今一度調べてみたいと思います。
ご提案ありがとうこざいます。

[8]
エホバの証人は、殉教する者は、14万4千人の者にも、大群衆の者にもいると信じております。
あなたはこのことを根拠にして、『「千年統治にあたるクリスチャン」を「14万4千人」に限定するのは、聖書解釈としては、不適当ではないか』とご意見を述べられましたが、むしろ、エホバの証人の見方の方が妥当であるように思います。
といいますのも、あなたが繰り返しおっしゃられましたように、「14万4千人の者だけが殉教するはずだ」という前提を置くなら、確かにそういう疑問も出てくると思います。
しかし、あなたからの今回のメールの内容を見る限り、あなたはこの前提を信条とはしておられないようです。
よって、この疑問はあまり意味を持たないのではないかと思いました。

[9]
千年統治を行う者が14万4千人の者であることにつきましては、すでに聖書から十分な説明を行いましたが、それでもあなたはこのように述べられました。

『貴方からその事について、いくつかのお返事を頂きましたが、そのお返事を読む限りでは、「千年統治」=「14万4千人」としてしまうと、[7]や[9]で、書かれているようなことになってしまうことを、ご指摘したのです。それが大変理不尽で、聖書的でないことについては、私も心から賛同いたします。』

この点につきましては、すでに答えることがありません。
(例えばこのメールの1項で指摘したような、)話の新たな展開が、あなたの側からもたらされない限り、話し合いの進展は難しいのではないでしょうか。

[10]
あなたはこのように述べておられます。

『つまり、これは私の意見ではなく、エホバの証人の組織の方々の聖書解釈を、別の角度からみると、このようになってしまうことをご指摘したのみです。また、それに対する聖書に基づいた、理にかなった御回答は、まだいただいておりません』。

あなたのご指摘があくまで理論上のものであることは理解できました。
しかしながら、あえて申しますと、あなたの言うところの「別の角度からの視点」は、本当に必要なものだったでしょうか。
例えばあなたは、「エホバの証人の信条によれば、殉教死する人は14万4千人の者だけとなるはずだ」と論じました。
そのような視点を持ち込む必要が本当にあったのでしょうか。
私はこの種の質問に対しては、「あえてそのように考える必要はないと思います」と繰り返し答えてきました。
それに関する具体的な補足も行わせていただきました。
もしも、あなたが不毛な質問をされたのであれば、私の返答も、自然と不毛なものとなると思います。
この問題には、そのような面は見られなかったでしょうか。

[11]
あなたはこのように質問しておられます。

『「信仰の違い」も、「救いのランク」もないのに、聖餐にあずかれるものと、そうでないものが区別されるのは、どういった聖書的な理由があるのでしょうか。』

「救われる人には立場の違いがあるが、その立場の違いに「ランク」という考えをあてはめるのは正しくない」、というのがこのご質問に対する答えです。
つまり、「ランク付け」ではない立場の違いが存在し、それにより、聖餐にあずかるかどうかという違いが生じています。
この点につきましては、どうやら表現を巡る誤解が生じているようですので、この誤解が解けましたら、話し合いはより有意義に進展していくと思います。

[12]
あなたはこのように述べておられます。

『ただ、殉教にあずかった方々は、「千年統治」を行なう資格がある事は、聖書にはっきりと記されている事柄ですから、もしも、この数を「14万4千人」に、限定してしまうのなら、殉教者だけでも、はるかにこの数を越えてしまいます。
だとすると、他の方はそれに携わる余地がなくなってしまうという、教理の矛盾を、ご指摘した迄のことです』。

この点につきましては、繰り返しになりますので、まずはこのメールの10項をご覧ください。
補足的な点ですが、私たちは、殉教死するクリスチャンは、14万4千人にも、大群衆にもいると信じております。
恐らく、この質問はすでに述べました「不毛な質問」になるのではないかと私は思います。

[13]
新世界訳聖書の序文と付録にはこのような記述があります。

「聖書は宇宙の主権者なる主の神聖なご意志を明らかにするものですから、(YHWH)としてヘブライ語本文に7,000回近くもはっきり示されている、 その方の、神としての独特のみ名を省略したり、隠したりすることは、その方の威光また権威に対する非常な不敬、まさに侮辱の行為となります。」

「現代の翻訳者たちが聖書の著者であられる神に加えている最大の侮辱は、その方に特有の固有のみ名を削除している、もしくは覆い隠していることです。実際には、その方のお名前はヘブライ語本文中に(YHWHもしくはJHVH)というつづりで6,828回出て来ます」。

この記述はいずれも、ギリシャ語新約聖書ではなく、ヘブライ語旧約聖書について述べております。
このような行為につきましては、「聖書を一切変えない」ことを信条としておられるあなたも、それが「非常な不敬」、「最大の侮辱」であることに心から賛同されるものと思います。
日本においては、口語訳聖書、新改訳聖書、新共同訳聖書などの主だった聖書翻訳が、このような、神のみ名を省略し覆い隠す方針をとっています。
これらの聖書翻訳に対しては、あなたも、少なくとも今あなたがエホバの証人の新世界訳聖書に抱いておられると同じくらいの嫌悪感を感じておられることと思います。
よって、この点につきましては、私とあなたとの間に論争はないものと思います。

[14]
また、あなたはこのように述べておられます。

『また(新世界訳聖書には)、「クリスチャンギリシャ語聖書中の神のみ名の翻訳に際しては背景となるヘブライ語聖書をいつの場合も注意深く考慮しつつ、極めて慎重に作業を行ないました。」とも、書かれています。新約聖書は、ギリシャ語で書かれたのです。神はそれを、ヘブライ語でお書きになったのではありません』。

あなたがご指摘してくださったように、新約聖書がギリシャ語で書かれたという点に間違いはありません。
しかし、ギリシャ語で書かれた新約聖書がヘブライ語で書かれた旧約聖書を「背景としている」という新世界訳聖書の指摘は、少しも間違いではありません。
新約聖書は、背景に旧約聖書を持っております。
たとえば、新約聖書には旧約聖書からの引用が多くあり、旧約聖書の語句の意味を詳しく解説する記述もあります。
さらに、旧約聖書における神は新約聖書における神であり、それはエホバです。
また、旧約聖書におけるメシアは新約聖書におけるキリストであり、それはイエスです。
もしかすると、この点につきましては、あなたの側に、表現の理解を巡る誤解があったのかもしれません。

[15]
また、あなたはこのように述べておられます。

『原典が現存するというのに、それを複数の翻訳本をかき集めて、それを参考に翻訳するなどという作業は、私は聞いたことがありません』。

原典は存在しておりますが、それはいずれも写本であり、原本ではありません。
また、すでに述べましたように、新約聖書が神のみ名を省略しているという否定できない現実があります。
こういった点を考慮するなら、新約聖書の翻訳に関する新世界訳聖書の方針も理解していただけると思います。

また、新世界訳聖書の取っている、「複数の翻訳本をかき集めて、それを参考に翻訳する」という方針は、新世界訳聖書に限らない聖書翻訳の一般的な手法です。
特に、古代訳の参照は広く行われております。
新約聖書の翻訳にあたっては、ヘブライ語訳本の参照も重要です。
新約聖書のギリシャ語がヘブライ語を話す人たちによってどのように理解されてきたかを知ることができるからです。

[16]
あなたが訪問をお受けになったエホバの証人についてですが、この方の発言に関しましては、私としましては推測するしかありません。
おそらく、これはこういうことだろうと思います。
その方は、エホバを「主」と呼ぶことが侮辱であると言いたかったのではないようです。
ただ、エホバを「主」に置き換えることが侮辱であると考えました。

[17]
また、先の点に関連してあなたはこのように尋ねられております。

『蛇足ながら、確かに近頃いらっしゃる方々は、あまりその事を口になされなくなりましたが。この数年で、何か解釈に変更が与えられたのでしょうか?だとすれば、その箇所と、詳しい理由を是非ご説明下さい』。

特に変更はございません。
これにつきましては、残念ながら、私には推測のしようもありません。
どうぞご理解ください。

[18]
ヨハネ 8章58節におけるギリシャ語の表現の持つ文法的意味合いについてですが、前回のメールにおいては、幾らかでも話し合いの進展を見たいと願い、こちらから積極的に、ライトハウス英和辞典を参照させていただきました。
しかし、残念ながら、今回のメールを見る限り、私の側に説明不足の問題があったことを認めなければなりません。

あなたご自身が表明されておられますように、あなたにギリシャ語とヘブライ語にについての専門的な知識がないというのでしたら、これまでの説明は不適切なものでした。
そこで今回は、間違いがないように、十分な説明を行いたいと思います。

1.
まずは、英語の現在完了の用法に注目しましょう。
“I have been”という英語は、「現在完了」です。
これは、ただの完了形ではなく、「現在完了」です。
「現在完了」には、「現在」という考えが含まれているため、二つの用法があります。
一つは、「完了を意味する現在完了」です。
もうひとつは、「継続を意味する現在完了」です。
そして、“I have been”は、この「継続を意味する現在完了」です。
つまり、現在に至るまで行動が継続している状態、厳密には完了とは言えない状態です。

2.
続きまして、J・G・メイチェンによる、「新約聖書ギリシャ語原典入門」に注目してみましょう。
この本は、ギリシャ語の完了形と英語の完了形との違いに読者の注意を引いています。
この本は、第二十九課、単元451において、このように述べています。

「ギリシャ語の完了時制に相当する英語の時制はない。ギリシャ語lelukaを I have loosed ……と訳すのは、(本書の)練習問題においてしばしば用いられている。しかし、これらはせいぜい間に合わせの訳である」。

3.
続きまして、さらに同書の第三課、単元21に注目してください。

「現在時制においては、ギリシャ語の「私は解く」と、「私は解いている」との区別がない。前者の「私は解く」は単に動作が現在行われていることを示し、後者の「私は解いている」はその動作が継続していることに注目している」。

以上の三つの点をもちまして、ギリシャ語の現在形は、継続を意味する場合においては、英語の現在完了の形に訳されうるという点がご理解いただけたと思います。

[19]
あなたのおっしゃる自殺の事例についてですが、エホバの証人の自殺率は一般の平均に比べて低く、あなたは非常に珍しい事例に遭遇したように思います。
一般的にエホバの証人は自殺しない、という事実に目を向けるなら、この事件に関するあなたの苦しみも和らぐかもしれません。

以上です。
ありがとうございました。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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