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キリストの証人さん(15)
2004年6月22日更新

記者クラブに対する質問と説得(19)
Subject: Re: エホバの証人記者クラブより
Date: Sat, 28 Sep 2002 19:43:06 +0900

お返事を有り難うございます、キリストの証人です。

「ギリシャ語エイミが決して継続の意味を持たない文法的根拠を示してほしい」との質問ですが、私が問題にしてきたこととは、内容がずれてしまっているようです。

少しお考え頂けばお分かりと思いますが、こちらで主張している「私はある」という翻訳も、広い意味では「継続」と捕らえうるのです。

そこで、ここでもう一度問題点をはっきりさせたいのですが、ここでいう「エイミ」の継続が、時間的空間的に制限されうる継続であるか、いう質問に対しては、文法としてbe動詞は、時間的な制約を伴う継続を意味しない、と申し上げるしかありません。

すなわち、I am student.は、I am student two weeks ago.には、なり得ません。
この場合私が学生であることは、事実としては継続しているわけですが、それを表現するためには、I am という表現は極めて不適当です。
よって、この文章のamの意味するところは、私は学生である、という I の状態をあらわします。
時間的に制限される継続(いつから、いつまで)の表現には一般動詞と同じようにhaveを補って、have been とする必要があるわけです。
しかし、ギリシャ語においては、一般動詞に対してこのhaveを補わずに直接法完了として翻訳される事例があります。
ご指摘のヨハネ14:9も、その一つで、「知らないのですか」という語がthe kingdom interlinear translation of the greek scripturesでも「you have known」と、訳出されているようですね。
しかし、ご指摘のエイミの部分は、この同じエホバの証人の出版物においては「I am not」と訳出されており、「have been」にはなっておりません。

用例として、英訳聖書をいくつか上げていただきましたが、注目していただきたいのが、このヨハネ14:9においてイエスが、「長い間一緒にいるのに」という表現は、それが状態をあらわしていても、継続の意味としても、内容的には、変わるところがないことです。

ですから、これらのものは表現をわかりやすくするために意訳されていると、考えるべきではないでしょうか。
実際に、エホバの証人の書物である逐語訳集では、このエイミをhave beenとは直訳していないのですから。

私の調べた限りでは、(ヨハネ9:5、9)他のエゴーエイミはすべて、「I am」と翻訳されているようです。

したがって、「エイミ」が何故継続ではないかと言う文法的根拠のお答えは
1:もともとbe動詞が単体で継続をあらわす表現には用いられない。

存在をあらわすこという事、そのものはたしかに継続していることです。
しかしそれは、時間的な制約の中での継続ではありません。
本質を表す言葉ですので、当然その状態が継続しているに過ぎないからです。
したがって、be動詞をある一定の区切られた期間の継続を表すために、単体で用いるのは不適当です。
これは、常識的な考えとは思いますが、あえて更なる根拠を申し上げるなら、

2:新約聖書において、他の「エイミ」はそのような用いられ方をしていない、

と添えておきます。
ご指摘のヨハネ14:9も、エホバの証人の文書は、それを直接法完了としては訳しておりません。
ただしこのエイミは、イエスがトマス達と共に「あった」ことを示しているため「have been」と意訳しても、意味は損なわれないため、新世界訳を始めとした多くの聖書が採用しているのでしょう。

ご承知のように、文法は実際に存在する文章から、その法則を探っていくもので文章より先に、文法が存在するわけではありません。
聖書と言う信頼されるテキストの、他の表記において認められないということは、聖書を信じるものの文法的根拠としては、十分かと思いますが、如何なものでしょうか。

ところで、ヨハネ14:9とは異なり、ヨハネ8:58のエゴーエイミは、それがエイミの語本来の用いられ方、「I am」で訳されるとき、それは出エジプト4:13ー14の引用句となる、とても大切な箇所です。
であるからこそ、この言葉一つでイエスは、パリサイ人からの石打ちにあいそうになったのです。

ここの翻訳をどうするかという問題は、イエスの神性を論じる上では、大切な箇所の一つとなります。
また、同じ8:12では、「私は世の光です」と述べておられます。
旧約聖書において、「光」とはどなたの称号であったでしょうか。
8:24では、「私が『その者』であることを信じないなら、あなたがたは罪のうちに死ぬことになる」ともおっしゃっています。
この二つの箇所では、共に「エゴーエイミ」が用いられております。

そのようなやりとりの後に、8:53でパリサイ人は、イエスに対し、「あなたは何者か?」と尋ねます。
58節はその返答であることも、合わせて考えていただけたら、と申し上げます。

キリストの証人


Subject: エホバの証人記者クラブより
Date: Tue, 22 Oct 2002 16:37:49 +0900

エホバの証人個人サイト「エホバの証人記者クラブ」情報部です。
お返事ありがとうございます。

[1]
 まず、英語の表記についてですが、
  “I am student two weeks ago.”
 これは、“I am student from two weeks ago.”の誤記ということでよろしいでしょうか。

[2]
 英語の“I am student from two weeks ago.”については、その“I am”が“have been”に置き換え得るというあなたの説明に異議はありません。

[3]
 あなたのおっしゃる、『「私はある」という翻訳も、広い意味では「継続」と捕らえうる』という点についても、異議はありません。

[4]
 ギリシャ語エイミについては、あなたは英語の文例を題材にしつつ、「エイミは時間的空間的に制限される継続を意味するか」というテーマを掲げ、それは「時間的な制約を伴う継続を意味しない」と結論づけておられますが、これは、根拠以前に内容が不明です。

[5]
 エイミが継続を意味する場合、通常は、『ある特定の時点から現在』、あるいは『ある特定の時点から特定されない未来』、というような時間的な制約を持ちます。しかし、そうでない場合もあるでしょう。

[6]
 ヨハネ 14章9節で論題となっているのは「あなたはまだわたしを知らないのですか」の部分ではなく、新共同訳聖書において「こんなに長い間一緒にいる」と訳されている部分です。
 「あなたはまだわたしを知らないのですか」の部分にギリシャ語エイミは用いられておらず、あなたの説明は全くの見当違いとなっています。

[7]
 ヨハネ 14章9節の、「あなたはまだわたしを知らないのですか」の部分にはエイミが用いられていませんので、英文新世界訳聖書のその部分に“have been”が用いられているかどうかというのは、今の話とは全く別の話です。

[8]
 ヨハネ 14章9節のギリシャ語エイミは、「こんなに長い間一緒にいる」の部分にあり、これは英文新世界訳聖書を含めた代表的な英訳聖書において“I have been”の形に訳出されています。
 この点、あなたは勘違いをなされてられるようですので、改めてご確認ください。

[9]
 ヨハネ 14章9節の“I have been”はエイミの意訳ではありません。
 すでに何度も指摘しておりますように、ギリシャ語動詞は現在形と継続とのどちらの性質も持っています。つまり、ギリシャ語では、現在形の文も進行形の文も、全く同じ文で示されます。
 そこで、ギリシャ語動詞が継続を意味して用いられていることが明らかである時、それは現在形の文と同じ綴りであっても、現在形の文ではありません。
 つまり、エイミが継続を表していることが明白な場合には、それを継続と訳すのが字義訳となります。

[10]
 ギリシャ語エイミが「単独で継続を表さない」というあなたのご意見ですが、単独ではエイミは両方の意味を持ちます。
 これは、ギリシャ語動詞は同じ形で継続する状態と継続しない状態を表すからです。エイミが継続を意味するかどうかは、エイミにどのような文が結びついているかによります。

[11]
 あなたはこう述べておられます。

『存在をあらわすこという事、そのものはたしかに継続していることです。しかしそれは、時間的な制約の中での継続ではありません。本質を表す言葉ですので、当然その状態が継続しているに過ぎないからです。』

これは、文法の説明ではありません。「存在」に関するあなた特有の概念を説明するものにすぎません。
 あなたが、「存在」に関してそのような考えを持っているからといって、ギリシャ語文法の意味するところが変化することはありません。
 ギリシャ語エイミが継続を表すかどうかは、「アブラハムが存在する前から」といった、過去からの継続を表す表現がエイミに結びついているかに依存するのであって、あなたの言うところの「『存在する』ことの定義」に依存するのではありません。

[12]
 あなたはこう述べておられます。

『ところで、ヨハネ14:9とは異なり、ヨハネ8:58のエゴーエイミは、それがエイミの語本来の用いられ方、「I am」で訳されるとき、それは出エジプト4:13ー14の引用句となる、とても大切な箇所です。であるからこそ、この言葉一つでイエスは、パリサイ人からの石打ちにあいそうになったのです。』

 イエスは、ヨハネ 8章58節において、「アブラハムが存在する前から『わたしはある』である」と述べられたのではありません。
 ギリシャ語の「エゴー エイミ」には「わたしは〜である」という意味がありますが、それを称号とし、また引用として用いるときには、それを二重に用い、ギリシャ語で「エゴー エイミ ホ オーン(英語にすると“I am I am.”)」の形にしなければなりません。
 ですから、これはどこからの引用でもありません。

[13]
 ヨハネ 8章58説を文脈となる57節から59節で見てみるとこうなっています。

「それゆえユダヤ人たちは彼に言った、「あなたはまだ五十歳になってもいないのに、アブラハムを見たことがあるのですか」。イエスは彼らに言われた、「きわめて真実にあなた方に言いますが、アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。そのため彼らは、イエスに投げつけようとして石を拾った。しかしイエスは隠れ、神殿から出て行かれた。」

 ユダヤ人たちが石を投げたのは、イエスが「わたしはいる」という語を「アブラハムが存在する前から」という語と結びつけ、イエスご自身が実際には50歳より長く生きていることを示されたからです。
 ですから、ユダヤ人が石を投げたのは、イエスのこの言葉が出エジプト記 3章14節からの引用だったからではありません。

[14]
 ヨハネ 8章12節の、ギリシャ語の「エゴー エイミ」は、この語のごく一般的な用法で用いられています。つまり、英語に直して“I am the light.”の形です。
 この場合、「エゴー エイミ(“I am”)」は、ただ単に「私は〜である」もしくは「私は〜です」にすぎず、それ以上の意味は持ちません。

[15]
 ヨハネ 8章12節の「エゴー エイミ」は「光」という表現をイエスの称号として修飾する働きを持っています。一方のヨハネ 5章58節の「エゴー エイミ」にはそのような働きはありません。

[16]
 ヨハネ 8章24節で「その者である」と訳されている「エゴー エイミ」は、ヨハネ 9章9節で「その者です」と訳されている「エゴー エイミ」と同じです。
 この両方を、文脈を含めて読むなら、その意味がよくつかめます。

ヨハネ 8章23節から24節
「それでイエスはさらに彼らに言われた、「あなた方は下の領域からの者ですが、わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが、わたしはこの世からの者ではありません。それゆえわたしは、あなた方は自分の罪のうちに死ぬと言ったのです。わたしがその者であることを信じないなら、あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」。」

ヨハネ 9章8節から9節
「それゆえ、隣人たちや、彼がこじきであるのを以前に見ていた人々は、「これは、いつも座って物ごいをしていた男ではないか」と言いはじめた。ある者たちは、「これはその人だ」と言い、ほかの者たちは、「いや、違う、ただ似ているだけだ」と言った。当人は、「わたしはその者です」と言うのであった。」

 ヨハネ 8章24節において、イエスが「その者」であるとは、イエスが「上からの領域の者」であることを指しています。同様、ヨハネ 9章9節において、彼が「その者」であるとは、彼が「こじ き」であることを指しています。
 ですから、ここでの「エゴー エイミ」は、イエスの称号とは何の関係もありません。ただ、イエスが誰であるかを明らかにするだけです。

[17]
 すでに見てきたことからもわかりますように、ギリシャ語の「エゴー エイミ」には多種多様な用法があり、かつ、その違いは用法により明白です。
 あえてその違いに目を留めず、ただ「エゴー エイミ」の使われている聖句を列挙して、それをすべてイエスの称号と関係があるかのように述べたり、特定の聖句の引用であると述べたりすることは正しいことではありません。

以上です。

★エホバの証人記者クラブ★
★情報部★


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