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情報部によるレポート
投票は解禁されたのか
2000年8月9日更新

投票は解禁されたのか
専門家たちによる誤報道
 エホバの証人の投票に対する立場について、1999年9月から、いわゆる“エホバの証人の専門家”たちによる誤った報道が相次いでいます。
 これらの一連の出来事は、エホバの証人の指導的権威である『統治体』が、「ものみの塔」誌1999年11月1日号に「エホバの証人は投票をどう見ますか」という記事を掲載し、投票に関するエホバの証人の立場についての教理上の見解を発表したことに端を発しています。
 日本において、そのような誤報道の中心人物となっているのは村本治という人物です。
 “エホバの証人情報センター”と題するサイトを設置している村本治氏は、エホバの証人は近年、「エホバの証人はカルトである」という社会からの認識と圧力を受けて、急速に脱カルトの道を進みつつあると考えています。
 しかし一方で、エホバの証人は聖書の教えから遠ざかりつつあり、やはり急速に世俗化の道を進んでいるとも考えています。
 彼は1999年9月26日付の「投票に関しての「新しい光」が発表される」と題する記事の中で、一部このように述べました。

「昨年9月のこのニュースでお知らせしたように、ものみの塔協会は特にヨーロッパにおいて強い批判を浴び、宗教法人の登録に困難を来していましたが、その批判の主要な理由の一つに投票拒否の方針がありました。ヨーロッパでは、これに対してエホバの証人に選挙人登録をするように勧め、その軋轢を弱める努力をしてきましたが、それに合わせて投票に関しての方針に何らかの変化が出ることが予想されていました。1999年11月1日号のものみの塔誌は、その読者からの質問の欄で、投票に関しての新たな見解を示しています」。

 彼によりますと、「ものみの塔」誌が発表した「投票に関しての新たな見解」は次の通りです。

(1)「信者でない夫が妻に投票に行くことを迫った場合で、この場合、投票拒否の原則より上位の権威に服すという原則を先行させ、夫に従って投票に行くことは個人の選択で、誰もそれを批判すべきではない」。

(2)「また法律によって投票が義務づけられている所、あるいは投票に行かないとその地域で証人が不利な扱いや処罰を受ける所でも、個人の決断で投票に行くことは構わない」。

 さらに村本氏は、この記事に連動して、「エホバの証人は聖書に基づく良心によって投票を拒否してきたのでしょうか?」と題する記事を書き、エホバの証人のことをこのように批判しています。

「この(「ものみの塔」誌の)記事の中では、何と六回も繰り返して、投票するかしないかは個人の良心によって決めるべきことである、と書かれています。一体何が変わってこのような「新しい光」と言われる組織の方針の変更が起こったのでしょうか。この記事でも、1971年のカメルーンの記事と同様、「聖書で訓練された良心」あるいは「聖書に基づく立場」によってエホバの証人が行動していることを示しています。それでは聖書に書かれていることがこの三十年の間に変わったのでしょうか。そんなことはもちろんありません。三十年前と今とで聖書の真理に何か決定的な違いがあって、人々の命を懸けた「聖書に基づく立場」が変わったのではありません。

この間に変わったのは、エホバの証人の世界的な指導者である、統治体の多数決の決定なのです。何のことはない、過半数の統治体員が、ついにこれは「妥協して失格者となり、命をを目ざす競争からわき道にそれる」行為ではなく、「個人の決定」に任せても構わない行為にすべきである、と考えを変えたからです。もちろんエホバの証人は、統治体のみがエホバのご意志を行っているから、エホバから統治体への指導が変わったのだ、と自分に言い聞かせて苦し紛れの理由付けをするかもしれません。しかし統治体の老人の頭にのみ、テレパシーのようにエホバの司令が来て途端に「聖書に基づく立場」が変わるのでしょうか。そのような「信仰」は本当に聖書に書かれていることと調和するのでしょうか。それとも人間の指導者に盲従するカルト信者と同じ態度でしょうか。

この間の現実をよく調べてみると、この変更が「エホバのご意志」でも「聖書の真理」でもなく、ただ世界の政治状況に妥協した政策変更に過ぎないことがわかります。昨年(1998年)九月のニュースで紹介したように、ものみの塔協会はこの数年、ヨーロッパを中心に政治的圧力にさらされて、これらの国々で投票拒否のそれまでの立場を妥協せざるを得ない状況に置かれていました。このまま行けば、従来の一貫した投票拒否と、これらの国々で始められていた妥協的投票協力の姿勢との矛盾の説明に迫られることは目に見えていました。ものみの塔協会は、皮肉なことにこのような「世」の体制の圧力によって、自家製の「聖書に基づく立場」を変えたのです。1999年11月1日の「新しい光」、「新しい理解」はこのような「世」との妥協の産物なのです。この事実は、エホバの証人の信じさせられている「エホバの真理」が、実は、ものみの塔協会という極めて「世的」で「政治的」な団体が、自分たちを取り巻く政治的な状況に従って作り上げたただの政策に過ぎないことを端的に物語っています」。

 しかしながら、事実を確認するなら、村本治氏によるこれらの報道と批判が全くの見当違いであることがわかります。

 というのも、村本氏が取り上げて問題としている「ものみの塔」誌の記事が、その中でこのように説明しているからです。

「投票することが法律によって国民に要求されている場合はどうでしょうか。そのような場合、個々の証人には、その状況にどう対処するかに関して、良心と聖書に基づく決定を下す責任があります。投票所に行くことにした人がいても、それはその人の決定です。投票所で何をするかは、当人と創造者との間の問題です。

「ものみの塔」誌(英語)、1950年11月15日号、445,446ページはこう述べました。「カエサルが市民に投票を義務づけているところでは・・・・・・ [ 証人たち ] は投票所に行き、投票用紙記入所に入ることができる。そこでは、投票用紙に印を付けるか、何を支持するかを記入するよう求められる。投票者は、投票用紙について自分の望むところを行なう。それで今、神のみ前にいる者として証人たちは神のおきてに調和し、自らの信仰にしたがって行動しなければならない。投票用紙をどうするかについて指示するのはわたしたちの責任ではない」」。

 「ものみの塔」誌自身が指摘しているように、投票に関するこの教理は1950年以来変更されていません。

 しかしながら、何らかの理由により、村本氏はこの記述の存在を意図的に無視しているように見えます。
 この村本氏の不可解な行動の背景には、彼自身が自分の記事において繰り返し強調している、選挙登録に関する彼の過去の発言が関係しているかもしれません。
 彼はこの事件よりもほぼ1年前、1998年9月5日付の記事の中で、このように述べています。

「最近のフランスとドイツのエホバの証人からの報告によりますと、各地の会衆で、証人たちは選挙人の登録をするように、口頭で指示されたそうです。近い将来、選挙における投票が表向きだけでも、輸血と同様、個人の自由となる「新しい光」がまた発表される可能性が出てきたという見方が広がっています」。

 彼がこのように述べたにも関わらず、1年にわたって、彼が言うところの“新しい光”の発表はありませんでした。

 とはいえ、投票の問題を扱う内容の記事がついに「ものみの塔」誌に掲載されたため、村本氏はこれを、自説を証明するものであると見なしたようです。
 しかし、そもそもこの記事は選挙人登録については一言も触れていませんし、それ以前に、選挙人登録に関するエホバの証人の教理上の立場も変化していません。
 たとえば日本では、国民は成人すると自動的に選挙登録されますが、エホバの証人はそのことを受け入れ、異議を唱えていません。
 以上の事実から明らかなように、投票に関するエホバの証人の見方は変わっていません
投票に関するエホバの証人の見方
 では、実際に「ものみの塔」誌1999年11月1日号の記事の内容を検討し、投票に関するエホバの証人の立場を再確認することにいたしましょう。
 この、「エホバの証人は投票をどう見ますか」と題する記事の内容は、大きく、 [ (A)原則に関する記述 ] と [ (B)指針に関する記述 ] とに分類できます。
 この記事はまずはじめに、 [ (A-1)投票すること自体は間違いではない ] という点を指摘しました。
 記事はこのように述べています。

「例えば、ある法人団体の理事会がその法人に影響する決定を下すための投票をしてはならないとする理由はありません。エホバの証人の会衆でも、集会の時間や会衆の基金の用い方を決める際に、しばしば挙手による採決を行います」。

 続いてこの記事は、 [ (A-2)政治的な選挙で投票することについては、エホバの証人は聖書によって訓練された良心と責任に関する理解に基づき、各自がそれを決定する ] としています。

「選挙に立候補した人に個人として投票するかどうかについて、エホバの証人は各自、聖書によって訓練された自分の良心と、神および国家に対する自分の責任に関する理解に基づいて決定します」。

 この点に関連して、この記事はまず、 [ (A-2-1)聖書はクリスチャンが世のものではないとしている ] という点を指摘しました。

「エホバの証人はこの原則を真剣に受け止めます。「世のものではない」ので、世の政治的な事柄に対しては中立です」。

 さらにこの記事は、 [ (A-2-2)クリスチャンはキリストの王国の代表者として振る舞わなければならない ] と指摘しました。

「使徒パウロは、(聖書の中で)当時の人々に対して自分はキリストの代理をする「大使」であると述べました。エホバの証人は、神の天の王国の代表者として同様の務めを感じており、自分の在住する国の政治に干渉しません」。

 続いてこの記事は、 [ (A-2-3)投票には責任が伴う ] という点を指摘しています。

「投票によってある人を公職に就かせることに参与するなら、その人の行なう事柄に責任を負うことになるかもしれません。クリスチャンは、自分がそうした責任を負いたいと思うかどうかを注意深く考慮しなければなりません」。

 続いて記事は、 [ (A-2-4)エホバの証人は聖書の教えに基づいてクリスチャンの一致を重視している ] と指摘しています。

 記事はこの点についてこのように注解しています。

「宗教が政治に関与すると、しばしばその成員の間に分裂が生じます。エホバの証人はイエス・キリストに倣い、政治に関与しないことによってクリスチャンとしての一致を保ちます」。

 またこの記事は、 [ (A-2-5)エホバの証人は聖書の言葉をすべての人にはばかることなく語らなければならない ] と述べています。

「エホバの証人は政治から離れているので、どんな政治的信念を持つ人にもはばかりのないことばで近づいて、重要な王国の音信を語ることができます」。

 以上の原則に基づき、エホバの証人の統治体は、この記事の中でいくつかの指針を述べました。

 統治体はまず、[ (B-1)投票が法律によって義務づけられている国では、エホバの証人は個人の決定により投票所に行くことはできるが、そこで何をするかについて我々が指針を述べることはない ] と述べています。

「多くの国のエホバの証人は、上に挙げた聖書の原則を考慮に入れ、政治的な選挙で投票しないことを個人的に決定します。また、そのような決定を下す自由は国の法律によって保護されてもいます。しかし、投票することが法律によって国民に要求されている場合はどうでしょうか。そのような場合、個々の証人には、その状況にどう対処するかに関して、良心と聖書に基づく決定を下す責任があります。投票所に行くことにした人がいても、それはその人の決定です。投票所で何をするかは、当人と創造者の間の問題です

「ものみの塔」誌(英語)、1950年11月15日号、445,446ページはこう述べました。「カエサルが市民に投票を義務づけているところでは・・・・・・ [ 証人たち ] は投票所に行き、投票用紙記入所に入ることができる。そこでは、投票用紙に印を付けるか、何を支持するかを記入するよう求められる。投票者は、投票用紙について自分の望むところを行なう。それで今、神のみ前にいる者として証人たちは神のおきてに調和し、自らの信仰にしたがって行動しなければならない。投票用紙をどうするかについて指示するのはわたしたちの責任ではない」」。

 続いて統治体は、[ (B-2)非信者である夫がエホバの証人の妻に強いた場合も同様である ] と述べています。

「未信者である夫がクリスチャンである妻に投票に行くことを強いる場合はどうでしょうか。妻は夫に服すべき立場にあります。クリスチャンが上位の権威に服すべき立場にあるのと同じです。夫に従って投票所へ行ったとしても、それはその人個人の決定です。誰も批判すべきではありません」。

 さらにこの記事は、[ (B-3)先に挙げた2つの事例に準じると思える場合があるとしても、それについて我々が指針を述べることはない ] と述べています。

「投票することが法律によって要求されてはいない国でも、投票所へ行かない人に対する反感が激しく、ことによると身体的な危険にさらされるような所ではどうでしょうか。あるいは、個人の投票が法的に義務づけられてはいなくても、投票所に行かなければ何らかの形で厳しい制裁を受けるような場合はどうでしょうか。そのような場合や、それと似た状況では、クリスチャンは各自で決定しなければなりません。「人はおのおの自分の荷を負うのです」」。

 最後にこの記事は、記事中に繰り返し述べられている、「個人の良心的決定」とはどのようなものであるかについて、次のように注解しています。

「エホバの証人は、さまざまな状況で個人としてどのような決定を下すにしても、クリスチャンとしての中立やはばかりのないことばを保てるように注意します。すべてのことにおいてエホバに頼り、エホバが自分たちを強め、知恵を与え、どんな点でも信仰において妥協しないよう助けてくださることを願います」。

判定を下す際の統治体の責務
 今回問題となっているこの記事は、エホバの証人の統治体に科せられた聖書的義務を、統治体がきちんと果たしていることの表れだと言うことができます。
 この記事において統治体が念頭に置いている責務とは、判断を下すのに必要な聖書の情報を提供することにより、エホバの証人一人一人が聖書的に正しい判断を行えるよう援助することです。
 これは「教理上のインフォームド・チョイス」と呼べるものです。
 エホバの証人の統治体ができるのは、あくまで必要な情報の提供です。
 つまり、「この問題について聖書はこのように述べています」とか、「この問題にはこの聖書のこの原則が関係しています」といった具合に述べることです。
 ですから、聖書からはっきりと結論が導けるような場合を除き、エホバの証人個人に代わって統治体がエホバの証人の行動を決定することはあってはなりません。
 この、教理上のインフォームド・チョイスに関する統治体の責務は、記事中において指針を述べる際にも守られています。
 指針を述べるに際して統治体は、「こうするように」というような指示的な表現は用いず、「その人の良心が許すなら、個人の決定によってこうすることができる」といった表現を用いています。
 記事中に、「個人が決定する」というような表現が繰り返し出てくるのはそのためです。
 この記事を受け取ったエホバの証人の読者は、自分たちの統治体が、このインフォームド・チョイスに関する責務を守り、必要な情報を提供しつつも、エホバの証人個人の持つ決定権を尊重していることに感謝しています。
 しかし、もしかすると読者の中には、「この記事は肝心な点をはっきりと述べてはいない」と感じる人がいるかもしれません。
 しかし、この記事の中で統治体は、聖書から述べるべき点をきちんと述べており、読者は自分で考えて正しい判断を下せるはずです。
 また同時に、統治体が記事の中で繰り返し「個人の決定」について述べているからと言って、統治体が際限なく個人の決定の自由を認めていると考えることはできません。
 エホバの証人に対する責務を統治体が果たすのは、個々のエホバの証人が「聖書的に正しい決定」を下せるように援助するためなのですから、だれかエホバの証人が聖書を無視した決定を下すとしても、それは認められる決定ではありません。
 記事の中で、統治体がわざわざ指針を述べているのはそのためです。
 ですから、統治体は記事中の指針によって、聖書的許容の限界を示しているわけです。
 読者は記事の中に示されている統治体の意図を考えて理解し、その上で、聖書に基づく良心に沿って行動するでしょう。
専門家たちの問題
 残念なことに、すでに指摘したような誤報道が、“エホバの証人の専門家”を自認する人たちによってもたらされています。
 今回の誤報道には「ものみの塔」誌1999年11月1日号の記事が関係していますが、この記事が「ものみの塔」誌に載せられたのは、近年投票に関してヨーロッパのエホバの証人が直面している問題に対処するにあたり、投票に関するエホバの証人の統治体の見解が変化していないことを再確認するためだったと見られています。
 一方、エホバの証人に反対する“専門家”たちは、この記事について反対の意見を述べました。
 このような意見の対立の背後には何があるでしょうか?
 そこには、エホバの証人の統治体の果たす役割についての、エホバの証人と“専門家”たちとの認識の対立があるようです。
 一般に、“専門家”たちはエホバの証人をカルトと見なしており、エホバの証人はその統治体の言いなりになっている、あるいは、エホバの証人は統治体の指示する事柄に隷従していると考えています。
 そして、統治体はエホバの証人に対してマインドコントロールを施すことにより、エホバの証人に、「自分は聖書に基づいて考えている」と勘違いさせることに成功しているとも考えています。
 この考え方からすると、エホバの証人の統治体が述べる事柄は、それが指示であってもそうでなくても、結局のところそれは指示であるということになります。
 また、統治体の述べる事柄が聖書に基づいていてもそうでなくても、やはりそれは、あくまで統治体の教えであって聖書の教えではないということになります。
 また、これら“専門家”たちは、エホバの証人の統治体はカルト的指導集団であり、彼らはすべての事柄を自分たちで決定しようとすることにより、エホバの証人の良心を不当に拘束しているとも考えています。
 ですから、エホバの証人の統治体が「個人の決定」について語ると、“専門家”たちは、統治体がエホバの証人の良心を拘束することを放棄したと考え、「エホバの証人の統治体は自分たちにとって不利な決定をしたが、それはなぜだろうか」と推論します。
 その結果、「エホバの証人の統治体は社会の圧力を受け追いつめられている」とか、 「カルトであるとの指摘を受けてあがいている」といった説明が生まれます。
 しばしば、エホバの証人の“専門家”たちは、エホバの証人の統治体が禁じてもいない事柄を禁じていると誤認します。
 その結果、事実がそうでないことが示されると、これらの“専門家”たちはそれが「解禁された」と思いこむことがあります。
 用語を間違えることもあります。
 たとえば今回の場合、村本治氏はエホバの証人が「投票所に行く」ことを、「投票する」ことや「投票所の職員となる」ことと混同してしまったように見えます。
 “専門家”たちの中には、自分の都合のために、意図的に文意や文脈を無視することさえする人もいます。
 また、故意にせよ偶然にせよ、エホバの証人のことをよく知らない人たちに誤解を与えるような表現を多用する人もいます。
 一例として、村本氏が今回の事例で用いた、「新しい光」という表現について考えてみましょう。
 エホバの証人は、何かと誤解の原因となるこの表現をめったに使いませんが、“専門家”たちはこの表現を多用しています。
 先に紹介した村本氏の記事では、「このような「新しい光」と言われる組織の方針の変更が・・・」という言い回しが用いられました。
 では、この語をエホバの証人はどのように用いているでしょうか?
 「ものみの塔ライブラリCD-ROM1997年版」を用い、収録されている1980年以降のものみの塔出版物の中から「新しい光」という語を検索すると、この語はわずか8回しか使われていないことがわかります。
 これはたいへん少ない数字です。
 そして、ものみの塔出版物の中では、この語は基本的に「ほかの羊の大群衆」の教理を指して用いられていることがわかります。
 それは、この「ほかの羊」もしくは「大群衆」に関する教理が採用されたとき、当時のものみの塔協会の会長であったラザフォード兄弟 ( 注 : 「兄弟」は敬称 ) が、「これは“新しい光”です」と語ったことに由来しています。
 では、この「新しい光」の教理はどのようにもたらされたのでしょうか。
 「ものみの塔」誌1988年3月1日号は「胸を躍らせる新しい光」という見出しのもとにこのように説明しています。

「1935年の初めごろ、「大いなる群衆」の実体に関してベテル(ものみの塔協会の施設)の食卓で幾度か討論が行なわれました。一部の兄弟たちは、ものみの塔協会の初代会長のラッセル兄弟が教えていたように、これは補助的な天的級の者たちであるという見解を支持しました。しかし他方、「大いなる群衆」は地的な希望を抱く人たちから成っていると論じる兄弟たちもいました。そうした討論の間、ラザフォード兄弟は自分の意見を明らかにしませんでした。

私たちベテルの成員は皆、1935年5月30日から6月3日にかけて行なわれた大会に出席するため特別列車でワシントン特別区へ行きましたが、その時は興奮していました。大会二日目にラザフォード兄弟は、「大いなる群衆」とは実は地的な級のことであるという、胸のわくわくするような発表を行ないました。

1935年に「大いなる群衆」に関してこの新しい光が投げかけられたため、1936年には、予期されるこの級の成員の流入に備えて再組織が行なわれました」。

 ここで示されているように、「新しい光」は1935年の初頭に行われた討議の結果生まれました。

 ラザフォード兄弟はこの教理を「新しい光」と呼びましたが、それは彼が神から直接的な啓示を受けたという意味ではありませんでした。
 ですから、エホバの証人は「新しい光」という表現をまれに使いますが、その際には「新しい光がラザフォード兄弟に啓示された」というような間違った言い回しは用いません。
 この語の間違った用法についてエホバの証人が何を考えているかを知るのに、次の記述は参考になることでしょう。

「1942年にハーグの会衆の僕は群れの研究司会者を一堂に集めて、背教した自分の考えを受け入れるよう説得することに努めました。忠実な兄弟たちから「新しい光」(背教者の一人が自分たちは天から直接光を受けていると主張したため)と呼ばれたハーグの背教者たちは、他の人々の信仰を腐敗させる活動を積極的に行なっていました。協会は宣べ伝える業を励ましましたが、強制収容所へ送られるはめに遭う恐れがあったため、そのように励ますことを、子供をモレクにささげることになぞらえました。そして、イザヤ 26章20節を引き合いに出し、伝道をやめてじっとしている時が来たと主張しました。背教者たちの主な論法は、証言の業は終わったということでした」。(「1986 エホバの証人の年鑑」,160ページ)

 これらの背教者たちが「光」という表現を神からの直接的啓示という意味で用いたのに対し、エホバの証人はそのような意味ではこの語を用いていません。

 しかし、エホバの証人に反対する“専門家”たちの言葉遣いからは、エホバの証人に関する全く正反対のイメージが伝わってくるかもしれません。
 このような見方や考え方の違いにより、少なくともエホバの証人の側から見れば全く間違いだとしか言いようのない事柄が、“専門家”たちによって「正確な情報」と報じられる事件が生じるようです。
聖書に示される雛形
 さて、今回の「ものみの塔」誌の記事に見られるような、エホバの証人の統治体が原則と指針により読者に指導を与えることは、「エホバの証人独自のやり方」なのでしょうか。
 いわゆる“エホバの証人の専門家”たちの中にはそのようなことを指摘する人もいるようです。
 彼らは、「このようなエホバの証人の統治体による独特の指導方針が、エホバの証人のマインドコントロールの基礎となっている」と言うかもしれません。
 しかし、事実はそのような指摘が間違いであることを示しています。
 聖書のコリント人への第一の手紙8章から10章に記されている、パウロによる指導を見るなら、そのことが理解できます。
 この記述の中でパウロは、偶像にささげられた肉をクリスチャンが食べることについての見解を述べています。
 では、この記述を調べてみましょう。

 この記述は、大きく、 [ (A)原則に関する記述 ] と [ (B)指針に関する記述 ] とに分類できます。

 まずはじめに、パウロは [ (A-1)クリスチャンが問題に対処する主な動機は、知識ではなく愛である ] という原則を指摘します。

「知識は人を思い上がらせるのに対し、愛は人を築き上げます」。

 パウロは、この原則について詳しく述べるのは後回しにし、次に [ (A-2-1)偶像それ自身に意味はない ] という原則を述べます。

「わたしたちは、偶像が世にあって無きに等しいものであること、また、神はただひとりのほかにはいないことを知っています」。

 さらにパウロは、[ (A-2-2)食べ物にも意味はない ] という原則を述べます。

「食物がわたしたちを神に推奨するのではありません。食べなくても後れをとるわけではなく、食べたからといって誉れになるわけではありません」。

 続いてパウロは、[ (A-3)偶像と食物に関するこの知識が、ある人たちの信仰を損なう可能性がある ] と述べます。

「しかしながら、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人々はこれまで偶像に慣れてきたので、偶像に対する犠牲の捧げ物として食物を食べ、こうして彼らの良心は弱いために汚されます。また、知識を持つあなたが偶像の神殿で食事の席について横になって食事をしているのをもしもだれかが見れば、その弱い人の良心は築き上げられ、偶像にささげられた食物を食べるまでになってしまわないでしょうか」。

 ここでパウロは、最初に指摘した [ (A-1)クリスチャンが問題に対処する主な動機は、知識ではなく愛である ] という原則について詳しく語りはじめます。

「そうすると、実際には、あなたの知識によって、その弱い人が、すなわちキリストがそのために死んでくださったあなたの兄弟が破滅に陥っているのです。それで、食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、わたしはもはや二度と肉を食べません」。

 パウロはこの原則と自分の立場との関連を指摘し、[ (A-1-1)使徒には食べたり飲んだりする自由がある ]、[ (A-1-2)使徒には報酬を求める権利がある ] と述べた上で、愛に基づく自分の判断についてこのように述べています。

「しかしわたしは、こうした備えを何一つ利用したことがありません。というのは、わたしはすべての人に対して自由ですが、できるだけ多くの人を勝ち得るために、自分をすべての人の奴隷としたからです。弱い人たちに対しては弱いものとなりました。弱い人たちを勝ち得るためです」。

 パウロはさらに、[ (A-1-3)クリスチャンには非とされる点があってはならない ] という原則を述べます。

「わたしの走り方は目標の不確かなものではありません。わたしの打撃の仕方は空を打つようなものでありません。むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。それは、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」。

 パウロはまた、[ (A-4)過去にエホバは、偶像を崇拝する者や、淫行を犯す者、神に不満を述べる者を裁かれた ] と指摘します。

「これらの事はわたしたちに対する例となりました。それは、わたしたちが、彼らがが欲したように害になる事柄を欲する者とならないためです」。

 さらにパウロは、[ (A-5)クリスチャンは偶像にささげられた肉を食べることについて、自分(パウロ)のことばを読み、理解した上で、自分自身で判断する ] と述べます。

「わたしは、識別力のある人たちに対するように話します。わたしの言うことの意味を自分で判断してください」。

 そしてパウロは、再び、[ (A-2)偶像にも、偶像にささげられる食べ物も、それ自身には意味はない ] という原則を述べつつも、[ (A-6)偶像に何かをささげるということは、悪霊崇拝を行うことを意味している ] という原則を述べます。

「わたしは、偶像に犠牲としてささげられるものには何か意味がある、また、偶像には何か意味がある、と言うべきでしょうか。いいえ、そうではありません。諸国民が犠牲としてささげるものは、悪霊に犠牲としてささげるのであって、神にささげるのではない、と言うのです。それでわたしは、あなた方が悪霊と分け合う者となることを望まないのです。あなた方はエホバの杯と悪霊の杯を共に飲むことはできません」。

 さらにパウロは、[ (A-1-4)自由は乱用すべきではない ] とも述べます。

「すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。おのおの自分の益ではなく、他の人の益を求めてゆきなさい」。

 以上の諸原則に基づき、続いてパウロはいくつかの指針を述べます。

 まずパウロは、[ (B-1)肉市場で肉を買う場合、それが偶像にささげられた肉であるかどうかをあえて尋ねる必要はない ] という指針を述べます。

「何でも肉市場で売っているものは、あなた方の良心のために、何も尋ねないで今後も食べなさい」。

 次にパウロは、[ (B-2)異教徒の家で肉をごちそうになるときも同様である ] と述べます。

「不信者のだれかがあなた方を招き、あなた方が行きたいと思う場合、自分の良心のために、何も尋ねることなく、何でも自分の前に出される物を食べなさい」。

 しかしパウロは、[ (B-3)その肉が偶像にささげられたものであることがわかっている状況ではその肉は食べるべきではない ] とも述べます。

「しかし、もしも誰かが、「これは犠牲としてささげられたものです」とあなた方に言うなら、そのことを明かした人のために、また良心のために、それを食べてはなりません。「良心」とわたしが言うのは、あなた自身のではなく、相手の人の良心のことです」。

 結論として、パウロは再び原則に戻り [ (A-7)クリスチャンはすべてのことを神の栄光のためにすべきである ] と述べます。

「あなた方は、食べるにしても、飲むにしても、あるいはほかのどんなことをするにしても、すべての事を神の栄光のためにしなさい」。

 このように、聖書の中に記されているパウロによる指導を調べると、それぞれ異なっている問題を扱っているとはいえ、肉について述べたパウロの言葉と、投票について述べた統治体の言葉とが、基本的な考え方において等しいことがよくわかります。

 それは、エホバの証人に指導を与えるに際し、その統治体が、聖書に示されているパウロの言葉を手本と見なしてそれに従っているからです。
 ですから、原則と指針による統治体の指導には聖書の裏付けがあり、それは決して「エホバの証人独自のもの」ではありません。
応用が利く聖書の見方
 このような、問題を扱う際の聖書の方法には、それに従う人が「戒律主義」に依存することなく問題を解決できるという優れた利点があります。
 いわゆる戒律主義には、戒律によってすべての問題を解決しようとすると、際限なく条項を作らなければならなくなるという問題がありますが、聖書の方法を習得する人は、聖書に記されているキリスト教の基本的なルール(原則)をわきまえ、自分で考えることにより、そのような問題を回避しつつも、さまざまな問題に対処できるようになります。
 特に、現代社会の様相は聖書時代のそれとは大きく異なっているため、この方法は有用です。
 では実際に、聖書の方法に基づいて、一つの問題を扱ってみましょう。

 これまで、エホバの証人の統治体は、クリスマスケーキを食べることについては何も見解を発表していません。

 ですから、エホバの証人は、聖書によって訓練された良心に基づき、この問題をすべて自分自身で扱わなければなりません。
 しかし、聖書の見方を知っているなら、どのように考えるべきかについて、エホバの証人が悩むことはないでしょう。
 この問題について考えるべきことは、先に紹介した、偶像にささげられた肉を食べることに関する聖書の考え方と酷似していますので、これはエホバの証人にとっては初歩的な問題だと言えます。
 簡潔に紹介すると、取り上げるべき原則は次のようになるでしょう。
 [ (A-1)クリスマスのケーキそれ自身に意味はない ]。
 クリスマスのケーキは、それ自身はケーキですから、他のケーキと何ら変わりがありません。
 [ (A-2)エホバの証人はこの問題を、聖書によって訓練された自分の良心によって判断しなければならない ]。
 [ (A-2-1)聖書は神への崇拝に異教の風習が入り込むことを許していない ]。
 補足的に述べますと、この原則に関連しているのは、[ (1)クリスマスとは、異教の祭りである“太陽の復活祭”がキリスト教に取り入れられたものである ]、[ (2)聖書は誕生日の祝いを異教の風習として描写している ]、[ (3)誕生日にケーキを食べることはアルテミス崇拝に起源がある ] 、[ (4)誕生日を祝うことは、現在でも異教の習慣と結びついている ] という事実と、以上に基づいて、[ (5)クリスマスの祝いと誕生日の祝いについては、エホバの証人はそれを忌諱している ] という事実です。
 [ (A-2-2)神はかつて、異教の風習を神への崇拝に取り入れる者たちを罰せられた ]。
 [ (A-3)エホバの証人はこの問題を愛に基づいて判断しなければならない ]。
 [ (A-3-1)もしもエホバの証人の誰かがクリスマスケーキを食べているのを見るなら、それを見る人の良心が損なわれるかもしれない ]。
 [ (A-3-2)エホバの証人には非とされる点があってはならない ]。
 [ (A-3-3)エホバの証人は自由を乱用しない ]。
 [ (A-4)エホバの証人はすべてのことをエホバの栄光のためにする ]。
 以上の原則に基づき、指針を立てることもできるでしょう。
 [ (B-1)クリスマスシーズンにケーキを買うとき、エホバの証人は何も尋ねなくてよい ]。
 [ (B-2)クリスマスシーズンに、他の人からケーキをごちそうになったり、もらったりすることについても同様である ]。
 [ (B-3)しかし、もしもそのケーキにクリスマスを祝う文字が記されていたり、誰かが、「それはクリスマスのケーキです」と言うなら、それは食べてはならない ]。
 [ (B-4)あるエホバの証人は、「食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、わたしはもはや二度と肉を食べない」と述べたパウロの模範に倣い、クリスマスシーズン中にはいかなるケーキも食べないという決定を下すかもしれない ]。
 エホバの証人の間でよく言われる点ですが、このような事例の場合、エホバの証人は、エホバの証人でない人がその問題に対する自分の振る舞いを見てどう思うかを、愛に基づいて気にかけなければなりません。

 このように考えることにより、エホバの証人はみな、時代の移り変わりや日々の出来事により新たな問題に直面するとしても、戒律主義の問題に陥ることなく、その問題に対処していくことでしょう。

エホバの証人の考え方を理解する
 エホバの証人の統治体は、今回取り上げた投票の問題のような、エホバの証人の大多数に関係するような問題についての見解を発表することにより、エホバの証人に対して手本を示してきました。
 同時に統治体は、エホバの証人に対し、聖書的な問題解決法を習得することにより、各証人が“円熟したクリスチャン”となることを期待しています。
 もし、この記事をここまで読んでくださったあなたが、この点についてもっと知りたいと思われるようでしたら、ぜひともお近くのエホバの証人に近づきになり、「ものみの塔」誌1968年3月15日号の、「聖書の原則を調べる」という記事を入手されるようお勧めいたします。
 この記事は、円熟したエホバの証人がどのようにして問題に対処するかを学習するために用意された記事です。
 たとえばこの記事はこのような事例を取り上げています。

「例えば偽りの宗教の儀式が行なわれている会合に招待されたならどうですか。会合に出ることを禁ずる聖書の規則はないかもしれません。それで適用される諸原則に基づいて各人が決定しなければなりません。エホバに専心の献身をするという原則をあなたは考慮しますか。偽りの宗教の儀式が行なわれる場所にいたというだけで偽りの崇拝者になるとは限りませんが、しかし周囲と異なることの気まずさから他の人々と一緒に像や十字架の前にひざまづくように誘われないでしょうか。それをするなら値偶像崇拝を禁ずる聖書の律法を破ることになります。その場にいる人々は、あなたがエホバを専心に崇拝することをやめて三位一体の神を崇拝しはじめたと結論しないでしょうか」。

 また、この記事の末尾には、読者のための練習問題も添えられていますので、この記事を読む人は効果的に聖書に基づくエホバの証人の問題解決法を学ぶことができます。

 その練習問題の中の、「7.クリスチャンの妻が不信者の夫に伴われてナイトクラブに行くのは正しいことですか」の項を投票に関する先の記事と比較するのは興味深いこととなるでしょう。
 そして、この記事を通して学ばれましたら、今度は「ものみの塔」誌1999年4月15日号の、「読者からの質問−エホバの証人の中には、宗教団体の建物や地所に関係する仕事の話を持ちかけられた人がいます。そのような仕事について、聖書はどんな見方を示しているでしょうか」の記事などを読むことができるでしょう。
 そうするなら、きっとあなたにも、エホバの証人の考え方が理解できるようになり、エホバの証人という宗教が、決して統治体に隷従するカルトではないという確信も持っていただけるようになることでしょう。

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