情報部
情報部によるレポート
エホバの証人は家庭をないがしろにする宗教か(1)
2001年5月1日更新

エホバの証人の夫たち
 エホバの証人は、対立するキリスト教派から「家庭を破壊する宗教」だとして非難されてきました。
 これらの勢力は、エホバの証人のことを、異端であると同時にカルトであると信じており、彼らは、「エホバの証人の妻たちは、信者でない夫のことを悪魔サタンと見なすよう教えられているため、だんだん非信者の夫と対立するようになる。やがて、夫は説得することをあきらめて離婚を望むようになる」と盛んに唱えています。
 では、事実はどうなのでしょうか。
 ほんとうに、エホバの証人は非信者の家族のことを悪魔サタンであると教えているのでしょうか。
非信者の夫は「神聖な者」
 まずは、エホバの証人が、非信者の夫の立場についてどのように考えているかを見てみましょう。
 ものみの塔聖書冊子協会の発行する「聖書に対する洞察」はこのように述べています。

「クリスチャンに対するエホバの配慮のゆえに、信者でない配偶者と当人の結婚関係は、神聖を汚すものとはみなされません。神聖なものとされた人の清さは、配偶者を神の聖なる者の一人として神聖なものとするわけではありませんが、その関係は清く誉れあるものです」。

 この記述は、聖書のコリント人への第一の手紙 7章14節を根拠にしています。
 そこにはこうあります。

「信者でない夫は妻との関係で神聖なものとされ、信者でない妻は兄弟との関係で神聖なものとされているのです。そうでなければ、あなた方の子供は実際には清くないことになります。でも今、彼らは聖なる者なのです」。

 この聖句を、エホバの証人はこのように解釈しています。
 『信者でない夫は「聖なる者」ではないが「神聖な者」となる、またそのような家庭の子供は「清い者」また「聖なる者」となる』。
 それはなぜでしょうか。
 というのも、聖書は、結婚を取り決めたのは神であり、結婚した者は「一体になる」と述べているからです。
 そして、結婚した夫婦から生まれる子供たちは、同じく神の取り決めである家庭の一部を構成しています。
 ですから、神はこのような関係にある者たちを無理矢理引き離したりはされません。
 しかしながら、子供と非信者の夫とでは、異なっている点もあります。
 基本的に、子供たちは自分の意志で信仰を持つまでには成長していませんので、特典として、信者である妻と全く同じ状態、つまり「聖なる者」と見なされます。
 一方、非信者の夫はすでに大人であり、自分で考えて信仰を抱く能力を持っていますので、にもかかわらず非信者の立場にある以上、その夫は「神聖な者」ではあっても、信者である妻と全く同じ状態、つまり「聖なる者」であるとは見なされません。
 このようにして、非信者の夫は、「聖なる者」として神の救いを得ることはないものの、「神から見て神聖である者」と見なされます。
 では引き続き、エホバの証人の出版物を見てみましょう。

「パウロは、不信者は信者に「関連して」神聖にされると言っています。ですから神はそのような結婚関係もしくは間柄を、信者とその幼い子どもたちに対する愛に満ちた親切ゆえに清いものと見なされるのです」。

 ここでは、「聖なる者」である信者の妻と子供たちに対する神の愛が、「聖なる者」ではない非信者の夫にも及ぶと説明されています。

「結婚は神がお定めになったものであり、結婚関係は人間のために正しい取り決めです。ですから正式の結婚はすべて神の是認を得ます。神はその結婚の当事者を「一体」と見なされます。したがって、当事者の片方が忠実なクリスチャンである場合、その当事者は不信者の配偶者との生活をつづけることによって汚されることはありません」。

 ここでは、非信者との結婚も含めたすべての結婚は神の是認を受けているので、非信者の夫と結婚生活を営むことが信者である妻を「汚れた者」とすることはないと説明されています。

「片方の親だけが「信者」、つまりクリスチャンで、他方の親が不信者の場合はどうでしょうか。この結婚によって、つまり別居せずにその結婚生活をつづけることによって、信者は汚される、もしくは清くない者になり、その結果子どもたちも清くない者になるでしょうか。そうではありません。なぜですか。それは神の義の原則のためです。神はその原則を忠実に支持されます。それは神がご自分に献身的に仕える者たちに対する愛あるご親切のためです」。(「ものみの塔」誌1972年9月15日号)

 ここではさらに、信者である妻だけでなく、その子供たちも「汚れた者」となることがないと説明されています。

キリスト教の二元論と非信者の夫
 ここで思い起こすべき点ですが、そもそも聖書には、“神エホバ”と“悪魔サタン”という二つの立場を中心とした概念があります。
 この教えの基本は、人類の世は神ではなく悪魔サタンの支配下にあり、ただ神に従う者だけが神の支配下に入ることができるというものです。
 しかし、このような二元論にも一つだけ例外があります。
 それは信者でない夫たちです。
 これらの夫たちは、「神か悪魔か」というキリスト教の二元論の中にあって、ちょうどその境界線の上に立つ、中間の立場にあると見なされます。
 それらの夫たちは、行動や信条においては、聖書の述べる「世」に属しており、よって「支配」という点においては悪魔サタンの側にありますが、それでも神は、そのような人を「神聖な者」と見なします。
 当然ながら、非信者の夫に対するエホバの証人の見方も、この聖書の教えに即したものです。
誤用されるキリスト教の二元論
 とはいえ、エホバの証人と対立関係にあるキリスト教の諸教派は、このような事実を無視して、エホバの証人に対する偏見を広めてきました。
 しかも、彼らはそれだけでは飽きたらず、エホバの証人のことをさらに悪く見せるという目的で、偏見を広めるもう一つの手法をこの手法に組み合わせてきました。
 それは、「キリスト教の二元論の誤用」です。
 すでに説明しましたように、聖書には「神か悪魔か」という二元的な概念があります。
 しかしこれは、人に適用される際には、直接的ではなく、間接的な意味合いを帯びるようになります。
 すなわち、「神か悪魔か」という聖書の概念は、人に適用されるときには、「神の支配を受けているか、悪魔の支配を受けているか」となります。
 ですから、エホバの証人を含めたほとんどのキリスト教派は、その聖書の教えに正しく従い、サタンの世に属する人たちを直接的に「悪魔サタンである」と呼ぶことはしません。
 自覚という点から論じれば、それは、キリスト教諸教派の信者たちが、ちょうど自分たちが神の支配を受ける者であるからといって、「わたしは神です」などと思わないのと同じです。
 非信者の夫に限らず、世にいるすべての人は、あくまで「悪魔サタンの支配を受けている」のであって、決して「悪魔サタンである」のではありません。
 しかしながら、エホバの証人を中傷する対立教派は、「エホバの証人の妻は非信者の夫を悪魔と見なす」という間違った主張をするにあたっては、その「悪魔と見なす」という表現があたかも直接的なものであるかのような言い回しを頻繁に用い、こうしてエホバの証人の妻に対する非信者の夫の反発をあおってきました。
 うれしいことに、エホバの証人の妻を持ち、非信者の夫の立場にあるほとんどの方は、そのような対立教派の宣伝が単なる言いがかりであり、間違いであることに気づいています。
 しかし、一部の夫たちはそのような説明を真に受け、自分の妻がエホバの証人であることを強硬に否定するようになりました。
反対論を活用するキリスト教派
 このようなときに、エホバの証人と対立するキリスト教派が用いる論法は、本来、非キリスト教の立場にある人たちが、キリスト教を攻撃するために発展させてきたものです。
 キリスト教に反対する人たちは、聖書の中に二元的な概念があることに注目し、それを根拠に、キリスト教とは極めて排他的な宗教であるという主張を繰り返してきました。
 そのような人たちは多くの場合、このような主張に、さらに、キリスト教は一神教なので権力構造がピラミッド式になるとか、キリスト教において神の権威は絶対視されるため、その名の下にあるキリスト教の権威は必然的に圧制的になるといった主張を加え、こうして、キリスト教が排他的で閉鎖的であるという自らの主張を強化してきました。
 伝統的キリスト教派がそのような主張に対して反論を行い、それなりにキリスト教の信仰を擁護してきたことは言うまでもありません。
 ところが、特に近年になって、キリスト教諸教派の中には、このような反キリスト教的論法をエホバの証人向けにカスタマイズして用いる人たちが現れるようになりました。
 これらの人たちは、「エホバの証人の二元論」なる誤った理論を唱えるにあたっては、エホバの証人の指導的権威である「統治体」が神の権威を盾にしているとか、そのために統治体の言うことはすべて信者にとっては絶対である、というような理論を加え、自らの主張を強化しようとします。
 このような論法は、短期的に見れば、自分たちの対立宗派を攻撃する点で効果が上がり、益になるように見えるかもしれませんが、最終的には、それが自分の首をも締めあげる結果をもたらすことになりかねないものです。
 「エホバの証人は家庭を破壊する宗教である」という誤った主張を正当化するために、このような反対論を盛んに唱えている対立キリスト教派の人たちと、その反対論に影響されている人たちは、少し頭を冷やす必要があります。
非信者の夫に敬意と従順を示す
 エホバの証人の妻が非信者の夫に示す態度についてはどうでしょうか。
 エホバの証人の対立教派は、「エホバの証人の妻は悪魔である非信者の夫に反抗するよう教え込まれている」と強硬に主張しています。
 しかし、エホバの証人の出版物はこのように証人たちを教えています。

「神権政治(神の支配)に対する敬意は、家庭で始まります。妻の立場にあるクリスチャンは ― 夫が仲間の信者であるにせよないにせよ ― 夫の権威に対して当然の敬意を示していないなら、神権的な人(神の支配に従う人)とは言えません。ちょうど、クリスチャンの男性がキリストの頭の権に服さなければならないのと同じように、クリスチャンの女性も神がお与えになった夫の権威に服することの知恵を認めるべきです。そうすれば、女性は深い内面的な満足を味わうことができ、より重要なこととしてエホバの祝福を得られるのです」。(「ものみの塔」誌1994年7月1日号)

 エホバの証人がこのように考えるのは、聖書のエフェソス人へ手紙 5章22節から24節がこのように命じているからです。

「妻は主(イエス・キリスト)に対するように自分の夫に服しなさい。夫は妻の頭だからです。それは、キリストが会衆の頭であり、この体の救い主であられるのと同じです。そうです、会衆がキリストに服しているように、妻もすべての事において夫に服しなさい」。

 エホバの証人は、聖書のこの命令が、夫がエホバの証人でない場合にも適用されると考えています。
 なぜでしょうか。
 それは先に指摘したことと同じです。
 結婚は神によって取り決められたものであり、神は結婚した者が「一体となる」と述べておられるからです。
 そこで、「ものみの塔」誌はこのように述べています。

「クリスチャンである妻は、家庭で(神の支配に対する)敬虔な専心を実践する責任を負っています。どのような責任でしょうか。妻は自分の夫に『服する』べきであり、夫に「深い敬意」を払うべきである、と聖書は述べています。たとえ夫が信者ではなくても、妻は夫に『服する』必要があります。クリスチャンの女性は、夫の下した決定が神の律法と矛盾しない限り、それを支持することにより、そのような妻としての服従を実証します。では、妻がこの役割を受け入れるのはなぜですか。自分の夫を愛しているからでもありますが、それだけではなく、それが「主にあってふさわしいこと」、つまり家族のための神の取り決めであることを認めているからです。そのようなわけで、妻が自分の夫に進んで従うのは、(神の支配に対する)敬虔な専心の表われです」。(「ものみの塔」誌1990年3月1日号)

 さらに、エホバの証人の出版物は、妻が非信者の夫に不敬を行うことも禁じています。

「妻が夫から敬われ深く愛されていると感じる必要があるのと同じように、夫も自分が妻から敬われていると感じる必要があります。敬意を抱く妻は、夫がクリスチャンであるかどうかにかかわりなく、夫の間違いを軽率に言いふらすようなことをしません。私的な場でも公の場でも、夫を批判したりけなしたりして夫の威厳を傷つけるようなことをしません」。(「永遠の命に導く知識」)

 では、非信者の夫が反対者である場合はどうでしょうか。
 反対者が相手だと、エホバの証人の妻は態度を翻して夫にさえ敵対するのでしょうか。

「未信者の夫、時には反対者の夫を持つクリスチャンの姉妹は少なくありません。そういう状況の場合、聖書の諭しは無効になりますか。いいえ、「み言葉に従順でない者がいるとしても」、服従と敬意は要求されています。では、反対者の夫を持つクリスチャンの妻が王国会館に来て夫の話をし、自分が夫から受けたひどい仕打ちを洗いざらい会衆の大勢の姉妹たちに話すとしたら、それは深い敬意のしるしでしょうか。その妻が会衆内の兄弟か姉妹に関してそのような話をするとしたら、それは何と呼ばれるでしょうか。うわさ話です。中傷とも言えるかもしれません。ですから、妻が自分の未信者の夫の悪口を言うのは、深い敬意を示す証拠ではありません」。(「ものみの塔」誌1989年5月15日号)

「真理をきらい、妻の行なうエホバの崇拝をきらう夫ならば、夫を敬えといっても無理な話だという人があるかも知れません。もちろん神に反対する考えや、神をけがす言葉、きたないことばを尊敬することはできません。しかしたとえこのような事情の下においても、夫が当然に占めるかしらの地位を尊敬することによって、エホバの定めに少しでも逆らうような行いを避けることができます。たとえば、どんな夫であっても、婦人は他の人の前で夫をけなすべきではないでしょう」。(「ものみの塔」誌1963年7月15日号)

 さらに夫の状況が悪い場合についてはどうでしょうか。

「非常に気難しい、あるいは乱暴な夫を持つ婦人は、イエスの手本を見て慰めを得ることができます。イエスは、不当な苦しみを受けたときにどうすべきかを私たちに教える手本を残しました。ペテロはイエスのことを次のように書いています、「ののしられても、ののしりをかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。そこで不当な仕打ちに耐えなければならない妻も、クリスチャンの僕に命ぜられていること、またイエスのなさった事を行ない、いっさいをエホバにゆだねることができます。この忠実な行いはやがてエホバから報いられるでしょう。
神のみ心と良心を考慮しなければなりません。それでたとえ夫が頑固であり、献身したクリスチャンとしての妻の立場に真向うから反対しても、忠実な婦人の奉仕者はエホバのみ心を行なうことを誓った自分の献身を常に固く守ります。それと同時に、エホバの定めに従って夫に対する妻としての自分の立場をも忠実に守ろうとするでしょう。それが時には非常に困難でも、彼女はそうします」。
(「ものみの塔」誌1963年7月15日号)

 「ものみの塔」誌1969年6月1日号は、さらに具体的な領域に踏み込んで証人たちを教えています。

「読者からの質問 ― 聖書がクリスチャンの妻に対し自分の夫を愛し尊敬するようにと命じていることを知っていますが、わたしの夫ははっきり言ってのんだくれです。そのような人をどうして愛し尊敬することができるでしょうか。
[答] 聖書はエホバが泥酔を是認されないことを明らかにしています。しかし、このことばは妻に対し自分の夫を憎むように命ずるものではありません。妻は悪癖とその結果とを憎んでも、自分の夫を憎むべきではありません。妻自身は自分の夫を愛し、その悪癖から離れるのを助けることに努力すべきです。
夫は家庭内において神からゆだねられた責任の地位にあり、神のご要求に十分に従っていない場合でもこれは変わりません。妻はたとえ夫の行状すべてを是認できない場合でも、夫としての地位に対して敬意をもつべきです。妻は家庭における夫の任務もしくは地位のゆえに、自分の夫への敬意を深めるべき努力することができるのです」。

 また、エホバの証人の出版物は、非信者の夫が妻の宗教活動に制限を設ける権利をも認めています。

「崇拝の点で自分と一致していない不信者の夫を持つ妻の立場はどうですか。夫が真理にはいっていないからと言って、妻がかしらの地位を行使することはできません。むしろ妻は妻として服従しなければならず、職業、居住する場所、生活水準などに関して、夫の決定に従わなければなりません。たとえ夫の反対が時に激しくなり、献身した妻の神権的な交わりや奉仕をやめさせるように仕向けても、夫に対する妻の通常の務めをはたさなければなりません。家事をはたし、食事をととのえ、できるかぎり夫のために尽くさなければなりません。
夫が家から家の宣教奉仕に反対するとき、どうすべきですか、例えば日曜日には夫が家にいて、妻の野外奉仕を禁ずる場合、あるいは二人一緒にどこかで過ごすことをきめる場合、どうしますか。妻は奉仕の計画を変えて、家族の意向と衝突しないときに奉仕をするのが賢明でしょう。これはエホバに対して不忠実になることではありません」。
(「ものみの塔」誌1962年8月1日号)

 子供たちの従順についてはどうでしょうか。
 エホバの証人と対立するキリスト教諸教派は、エホバの証人の妻の、非信者の夫に対する不従順はその子供たちにも及ぶと宣伝しています。

「不信者の夫を持つクリスチャンの妻は、父親が真理を悟らないからといって、子供たちを父親から離反させないように注意しなければなりません。なぜ妻はこれらの障害物に忍耐し、巧みに頭を働かせ、一見遠回りとも見える方法で忠実を守る道を切り開いてゆかねばなりませんか。それは妻に服従を命ずる(聖書の)原則に従うためです。それはエホバの御言葉と律法に忠実を示す道です」。(「ものみの塔」誌1962年8月1日号)

 このようにして子供を教える点で、エホバの証人の統治体はどのような手本を示しているでしょうか。
 「目ざめよ!」誌2000年11月22日号に掲載された子供向けの記事は、エホバの証人の家庭問題の極みとも言える事例を紹介しています。
 ロバートという少年の父親は、かつてはエホバの証人でしたが、やがてエホバの証人をやめてしまい、ついには妻を離婚して家を出ていきました。
 これほどひどい場合なら、エホバの証人の子供は父親を憎み、離反してもよいのでしょうか。
 記事はこのように述べています。

「ロバートは次のように説明します。「お父さんはクリスチャンの集会にだんだん行かなくなりました。それから、職を失い、しばらくすると母と妹を口汚くののしるようになりました」。そのうちに状況が悪化して、とうとうロバートの父親と母親は離婚しました。父親が犯した失敗を考えれば、ロバートが憎しみに駆られてもおかしくはありませんでした。しかし、父親の立場をよく洞察し、怒りを静めることができました。
あなたも状況が許すなら、普通の親子のきずなを保つよう努力したいと思うかもしれません。確かにお父さんは、あなたやお母さんを傷つけたかもしれません。しかし、お父さんの悪い行ないをたとえ知っていても、お父さんがあなたの父親であることには変わりありません」。

非信者の夫との離婚は認められるか
 では、非信者の夫との別居や離婚に関するエホバの証人の見方はどのようなものでしょうか。
 すでにここまでで見てきた事柄からも推測できることと思いますが、エホバの証人は基本的に、非信者の夫との別居や離婚を認めていません。
 最初にも引用した、ものみの塔聖書冊子協会の発行する「聖書に対する洞察」はこのように述べています。

「聖書はクリスチャンに、宗教の違いを理由に配偶者と離婚する権利も与えていません」。

「エホバの崇拝者ではない配偶者と離婚するべきではなく、そのような配偶者と別居することも望ましくありません」。

 エホバの証人の妻が非信者の夫と離婚できる唯一の聖書的根拠は淫行の罪であるとされています。

「聖書は、再婚が可能な離婚の根拠を一つしか認めていません。それは「淫行」、つまり結婚関係外の性関係です」。(「ものみの塔」誌1999年2月15日号)

 このようにエホバの証人が考えるのは、聖書の中でイエス・キリストがこのように述べているからです。

「だれでも、淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すのです」。(マタイによる福音書 19章9節)

 妻であるエホバの証人が非信者の夫の淫行を根拠として離婚を行う場合、エホバの証人の長老団はその人に、淫行が行われたという証拠の提示を求めます。
 それは通常、淫行を犯した本人の証言か、他者による直接の目撃証言であるはずです。
 このような証拠が提示できない場合もありますが、その時には、長老団はその妻とよく話し合ったうえ、証拠の代わりとなりうる書面の提出を求めます。

「長老たちは、その未信者の配偶者が不道徳ではなかったと言い得るような(つまり夫が無実であると言える)はっきりとした理由があるかどうか考慮します。もしなければ、彼女の署名入りの声明書を受取ることができるでしょう」。(「ものみの塔」誌1978年1月1日号)

 非信者の夫が無実を訴えた場合、長老は書面の受け取りを行いません。

 ではここで、このような教理上の規定が厳密であることをよりよく知るため、淫行による離婚に関するエホバの証人の規定が悪用されるような場合について考えてみましょう。

 たとえば、何らかの理由により非信者の夫との離婚をたくらむエホバの証人の妻がいたとして、彼女はその目的を果たすために、非信者の夫にばれるようにしながら意図的に淫行の罪を犯す、ということがあるかもしれません。
 そのうえで、淫行を犯した妻自ら、その淫行を理由に離婚を行おうとします。
 このような場合はどうでしょうか。
 しかし、エホバの証人の教えは、淫行を犯した側が離婚を行うことを許していません。
 このような場合、離婚を決定する権利が認められるのは、潔白な側、つまり非信者の夫の側だけです。
 それに加え、このような行為を行ったエホバの証人の妻には、通常の淫行の罪が行われた場合とは異なった処遇が待っており、彼女は必ず排斥処分を受けることになるでしょう。
 しかし、このような規定があっても、非信者の夫が権利を行使し、エホバの証人の妻を離婚した場合、彼女は排斥という代償と引き替えにではありますが、目的を達成したことになります。
 通常の場合、排斥処分は1年で見直され、排斥者は復帰することができます。
 そこで、エホバの証人の規定を悪用するエホバの証人の妻は、「1年の排斥と引き替えに夫を離婚できるなら、それは安いものだ」と考えるかもしれません。
 この点についてはどうでしょうか。
 「ものみの塔」誌1983年6月15日号には類似の問題の扱いが取り上げられており、ここに示されている規定が適用されます。

「そのような者たちは、故意に不道徳を犯し、1年ほど排斥されても、それから新しい配偶者と共に“悔い改め”、会衆に復帰できるという見方をしているようです。しかし、そのような場合長老たちは、かなりの時間が経過してからでなければ、復帰の申請を考慮することさえできません。良心的な長老たちは早まって事を行なうことはないでしょう。悔い改めにふさわしい実の非常にはっきりとした証拠が見られなければなりません。たとえそのような罪人がやがて復帰するようになったとしても、仮に長老たちが会衆内の特別な特権のためにその人を推薦するとしても、そうできるようになるまでには長い年月がかかることでしょう。いずれにしても、それは潔白なほうの配偶者の再婚または死の前には行なわれません」。

 このような場合、潔白な側の非信者の夫が再婚するか死亡するかするまで、長老たちは排斥となった妻の復帰を検討することさえしません。
 非信者の夫がすぐに再婚するか死亡するかした場合でも、1年で復帰というルールは適用されません。
 さらに、復帰の検討を行うためには「悔い改めのはっきりとした証拠」が必要です。
 それに加え、長老たちは、「ものみの塔」誌1980年2月15日号に記されている次の問いを検討する必要があります。

「偽善的な見せかけやたくらみが関係している場合、長老たちは細心の注意を払うことが必要です。その人は口では悲しみや悔い改めを言い表わすかもしれません。しかし、事の発端まで戻れるとすれば、その人は「もう一度同じことを繰り返す」でしょうか」。

 これだけの規定があれば、離婚を目的として淫行を犯したエホバの証人の妻が復帰することはまず不可能でしょう。
 これらの規定は、エホバの証人の妻が離婚に関するエホバの証人の規定を悪用しようとしても、幾重にも輪をかけてその罪を追及し、容易に悪を許さないように調整されています。

 では、次のような場合はどうでしょうか。
 エホバの証人でない非信者の夫が、エホバの証人の妻を離婚しようとしています。
 夫は離婚訴訟を起こし、離婚は認められるかもしれません。
 このような場合、法律上の離婚が施行されるのはやむを得ないことですが、それでも、それは神の目には無効であり、それは“別居”であると見なされます。

別居に対するエホバの証人の見方
 では、別居に対するエホバの証人の見方はどのようなものでしょうか。
 すでに引用しましたように、エホバ証人は、「エホバの崇拝者ではない配偶者と別居することは望ましくありません」という教理上の立場を持っています。
 「望ましくない」とはいえ、エホバの証人は条件付きで別居を容認しています。
 それは、聖書の中に別居を容認する記述があるからです。

「妻は夫から離れるべきではありません。しかし、もしも離れるようなことがあるなら、結婚しないでいるか、さもなければ夫と和解しなさい」。(コリント人への第一の手紙 7章10-11節)

 聖書の続く記述(下記参照)は、クリスチャンと非信者との別居について述べており、エホバの証人は、この記述が当然、クリスチャンの妻と非信者の夫との別居にも適用されると考えています。
 それは、先にも触れた、法律上の離婚ではあっても神の目には離婚ではない離婚(すなわち聖書的別居)にも適用されます。
 ここで聖書は、別居した人に、「結婚しないでいるか、さもなければ夫と和解しなさい」と述べています。
 つまり、それが法律上は再婚の認められる法律上の離婚であったとしても、神の目には離婚ではありませんので、エホバの証人の妻が「結婚する」、つまり他の男性と再婚することは認められません。

 では、別居の認められる条件、すなわち別居の聖書的根拠とは何でしょうか。
 聖書は続けてこう述べています。

「信者でない夫のいる女は、彼が妻と共に住むことを快く思っているなら、彼女は夫を去ってはなりません。信者でない夫は妻との関係で神聖なものとされ、信者でない妻は兄弟との関係で神聖なものとされているからです。そうでなければ、あなた方の子供は実際には清くないことになります。でも今、彼らは聖なる者なのです。しかし、信者でない人が離れて行くなら、その離れるにまかせなさい。兄弟にせよ姉妹にせよ、そうした事情のもとでは隷属の身ではありません。神はあなた方を平和へと召されたのです。というのは、妻よ、あなたは夫を救えないとどうして分かるのですか。また、夫よ、あなたは妻を救えないとどうして分かるのですか」。(コリント人への第一の手紙 7章13-16節)

 別居を容認する聖書のこの記述に従って、エホバの証人の出版物は、このようにエホバの証人の妻を教えています。

「聖書は、夫婦が別れないことをまず強調しています。夫婦が別れるというような事態があるならば、クリスチャンはそれを推進する者とならないことを努めます。しかし、不信者が別れてゆくなら、クリスチャンはその去るのにまかせます」。

「もし別れるなら、それが姦淫を理由とする場合でないかぎり、たとえ離婚手続きがなされたとしても、あなたが再婚し、まただれか他の人と性関係をもつことは聖書から見て許されません」。(「ものみの塔」誌1970年3月15日号)

 しかし同時に、エホバの証人の統治体はこのように忠告しています。

「この言葉を用いて、非聖書的な、あるいはささいな理由によるクリスチャンの夫婦の別居を正当化するのは正しいことではありません」。(「ものみの塔」誌1988年11月1日号)

 では、これ以外の理由による別居についてはどうでしょうか。
 エホバの証人の統治体は、(通常、合法的離婚を伴わない)一般的な別居については、3つの理由からそれを容認しています。
 それは、聖書の中に記されている幾つかの道徳律が根拠となっています。

「中には、自分たちの結婚関係を維持するために懸命に努力した後、良心に顧みて、自分たちは別居するしかないという最終的な判断を下した人たちもいます。そのような措置の根拠となり得るのは何でしょうか」。

「別居の一つの根拠となるのは、故意の扶養義務不履行です。結婚すると、夫には、妻や、生まれるかもしれないすべての子供たちに必要物を備える責任が課されます。自分の家の者たちに必要物を備えない男子は、「信仰を否認していることになり、信仰のない人より悪いのです」。ですから、故意の扶養義務不履行がある場合には、別居することも可能です」。

「身体的な極度の虐待も、もう一つの別居の根拠になります。信者ではない配偶者がしばしば酩酊し、激怒し、信者に身体的な害を加えるという状況を想定してください。その信者は祈りを通して、またエホバの霊の実を示すことにより、そうした激発的な行動を未然に防ぎ、状況を耐えやすいものに変えることができるかもしれません。しかし、虐待されている配偶者の健康と命が実際に危険にさらされるところまで来たなら、聖書的に言って、別居は許されるでしょう」。

「さらに、霊性がはなはだしく危険にさらされることも、別居の根拠となります。宗教面で分裂した家庭にいる信者は、神の霊的な備えを活用するために、可能なことは何でも行なうべきです。しかし、もし信者でない配偶者の反対(恐らく身体的な拘束も含まれる)によって真の崇拝を推し進めることが全く不可能になり、実際に信者の霊性が危険にさらされるなら、別居は許されます」。

「もしも状況が極端なものであるなら、別居が認められるかもしれません。しかし、別居を可能にするために見えすいた口実を用いるべきでないのは明らかです。実際に別居するクリスチャンは、だれであれその行動に対して個人的な責任を負うべきであり、わたしたちは皆エホバに申し開きをするということを理解しなければなりません」。(「ものみの塔」誌1988年11月1日号)

 この3つの根拠は、極めて厳密なものと見なされています。
 例えば、エホバの証人に反対する夫が、その妻に暴力を振るったり、聖書の勉強を妨げるような事例が見られていますが、そのような場合でも、状況が極限にならない限り、別居は認められません。

「聖書から見て別居は可能ですが、その場合にも、クリスチャンがすすんで別居することはありません」。

「状況が悪くなって試練にあうとき、クリスチャンは早まって性急に行動し、別居によって結婚生活を終わらせてはなりません。むしろ祈りつつ、事態を周到に分析してみることが必要です。結婚生活に終止符を打つような行動を起こす前に、次のような質問をしてみることは有益です。扶養の義務を十分にはたしていないと言っても、それはクリスチャンが過大の要求をしているからではないか。それは故意の怠慢か、それとも病気、商売上の手違いなど、しんしゃくすべき事情がなかったかどうか。虐待はどんな種類のものか、言葉だけのもの、あるいは腕力に訴えたものかどうか。身体に実際の危害を受けたというよりも、誇りを傷つけられたのではないか。また自分の霊的な状態はどうだろうか。それは本当に危険な状態にあるだろうか。それとも霊的な強さを保つための手段や機会がまだ残されているのに、クリスチャンのほうでそれを利用していないのではないか。せんじつめて言えば、事態はそれほど悪く、別居を余儀なくするほど極端なものか、という事です。それとも聖書の原則をいっそう十分に行えば、問題は解決されるのではありませんか」。

「明らかに事態が極端なものであれば、別居の手段をとることもできます。しかしそれは事態を改善するためのあらゆる努力をつくしてのち、また祈りの気持ちで十分に考えたのちの、最後の手段でなければなりません」。(「ものみの塔」誌1963年12月15日号)

 また、エホバの証人の統治体は、エホバの証人である妻が自ら別居の原因を作らないよう、このように妻たちを教えています。

「知恵を働かせるならば、結婚の絆を強めることができます。家の中の家具調度について妻には妻の好みがあっても、夫は自分の考えに従い、家のかしらとして異なった決定を下すかも知れません。その場合に妻は自分の好みに合わないというので、不満の気持を抱くべきですか。そのために何かごたごたが起きるならば、クリスチャンの妻はそれを正義のために受ける苦しみと考えてはなりません。実を言えば、彼女は服従というクリスチャンの義務をはたしていないのです。あるいは、不信者の夫が居住地を変えようと望んだ場合、クリスチャンの妻はそれが得策と思えなくても、夫の意向に従います。家族の住む場所を決めるのは夫の権に属することだからです。住居に対する不満からおきた争いが、別居によって問題を解決しようと思うほど深刻にならないとも限りません。この場合に別居しても、それは宗教上の相違によるものではなく、このような問題は聖書の原則を実行することによって避けるべきはずのものです」。

「他の人の悪いところは目につきやすいものですが、クリスチャンの妻はまず、二人の一致とむつまじさを増進するために、自分がどうすべきかを考えます。夫が帰宅せずに毎晩のみに行くとすれば、夫は家に何かいやなことがあってそのため帰らないのではないか。私は口やかましくないだろうか。何時も小言を言っているのではないか。子供は手に負えない状態ではないか。このように正直に反省してみると、いろいろ気づくところがあり、非常に有益です。妻のつとめは、夫が毎晩帰宅することを望むような家庭を作ることです」。

「また信者は不信者の配偶者が関心を持つ事柄を無視してはなりません。結婚を目ざして二人が交際していた時、互に相手の好きな事に関心を持とうと努めたではありませんか。結婚後も、信者の配偶者は同じことをすべきです。信者の妻は夫のする事にたとえ関心がなくても、幸福な結婚生活のために関心をつちかうようにします。夫と妻が一緒に物事をしないならば、愛はかなかな成長しないものです。原則を妥協させたり、聖書の教えに背くのでなければ、信者の配偶者は自分の欲望をおさえても不信者の配偶者のする事を一緒にして、クリスチャンらしい物わかりの良さを示すことができます。これは愛ある行いです」。(「ものみの塔」誌1963年12月15日号)

聖書の教えを軽視する人たち
 これまで、非信者の夫に関するエホバの証人の信条をもっぱら見てきました。
 では、この点に関する他のキリスト教諸教派の信条はどうなのでしょうか。
 キリスト教諸教派の教えは、概して一般に、ほぼ全般に渡ってエホバの証人の教えよりなまぬるいものです。
 特に、非信者の夫の扱いに関して言えば、他のキリスト教派の信条は『異端的』また『背教的』とさえ呼べるでしょう。

 1.まず、すでに引用している、聖書のこの言葉に注目してください。

「というのは、妻よ、あなたは夫を救えないとどうして分かるのですか。また、夫よ、あなたは妻を救えないとどうして分かるのですか 」。

 エホバの証人は、この句が、別居について述べた聖書の文脈全体に適用されるものと考えています。
 つまり、別居したクリスチャンが再婚ではなく和解を求めるべきこと、クリスチャンの妻の側から別居してはならないこと、しかし夫が別居(法律上は離婚であることもある)を強いる場合は仕方がないことといった点は、聖書の中で一つの文脈で述べられていますので、そのすぐ後に続くこの文章は、その文脈全体と調和した意味に読まれています。
 しかし、キリスト教諸教派の中には、これとは異なる意味でこの聖句を読もうとする勢力が存在しています。
 たとえば、日本を代表するキリスト教出版社である、いのちのことば社が発行する「リビングバイブル」では、同じ聖句がこのようになっています。

「なぜなら、結局のところ、妻にとって、いっしょにいれば夫がクリスチャンになるという保証はなく、夫にとっても、妻がクリスチャンになる保証はないからです」。

 同じいのちのことば社が発行する「詳訳聖書」は、もっとはっきりとした言い方をしています。

「なぜなら、妻よ、あなたは自分の夫を回心させる<救う>ことをどうして確信できますか。夫よ、あなたは自分の妻を回心させる<救う>ことをどうして確信できますか」。

 また、現代訳聖書刊行会の発行する「現代訳聖書」ではこうなっています。

「というのは、どんなに努力をしたところで、人間が人間を救うことなどできないのだし、配偶者だからと言って、相手を救えるとは言えないからである」。

 これらの勢力はどのような教えを広めているでしょうか。
 彼らは、もしも非信者の夫が離れていこうとするときには、クリスチャンの妻は夫を救うことをあっさりとあきらめてよい、別居もさっさと済ませなさいと教えています。
 これは、エホバの証人の考え方と正反対ではないでしょうか。

 2.さらに、『伝統的キリスト教』と呼ばれる現代キリスト教会の大半は、『別居した人はそのままでいるか、和解すべきである』という文脈の命令を無視し、聖書の注釈書において、非信者の夫と別れたクリスチャンの妻は、他の男性と結婚してよいと教えています。
 たとえば、日本の福音派緒教会が「総力を挙げて」編纂したとされる、新キリスト教辞典はこのように信徒たちを教えています。

「信者でない配偶者が離れていくのであればやむを得ない。離婚を受け入れなさい……配偶者には再婚の自由も与えられる」。

 3.特に、離れていく非信者が信仰の反対者であった場合には、離婚訴訟によって教会の評判が落ちることを恐れる牧師が、非信者が訴訟を起こす前に離婚を済ませてしまうよう信徒に巧みに圧力をかけることがあります。
 キリスト教の信仰が理由で家庭が崩壊するなら、その教会は地域社会からカルト呼ばわりされることになりかねません。
 そこで、教会の牧師はそのような事態を避けるために、別居について述べた聖書の言葉を不適切な仕方で適用します。
 牧師は、非信者の夫が裁判に訴えたりする前に離婚して、「平和に召される」ようにと信徒にアドバイスします。

 一方、エホバの証人の長老たちは、離れていこうとする夫にどの段階で応じるかの判断を、エホバの証人の妻にゆだねます。
 もし離婚訴訟になっても、エホバの証人の妻は、争って勝つのではなく、和解することに努めます。

 本サイト「エホバの証人記者クラブ」執筆者は、ものみの塔聖書冊子協会の関係者と面談し、そのような事例の一つについて話を伺いました。
 非信者の夫から離婚裁判を起こされたエホバの証人のある妻は、それでも夫を深く愛しており、和解のために裁判に応じました。
 彼女にはエホバの証人の弁護士がつき、できる限りの支援を行いました。
 それだけではありません。
 彼女は、裁判が始まった時点ですでに別居状態にあったにもかかわらず、毎日弁当を作って夫の勤める会社に持参し、夫の別居先にも通って、掃除や洗濯を行いました。
 夫はそれでも態度を変えず、裁判所はついに離婚を認める判決を下しました。
 というのも、この妻は、裁判においては一切のことを争わなかったのです。
 ただ、エホバの証人の弁護士と共に、夫に和解を訴えました。
 このようなわけで、最終的にこの妻は、敗訴という事実を受け入れなければなりませんでした。
 しかし、離婚が成立してしばらくすると、この夫はエホバの証人の妻に和解を求めてきたそうです。
 この方は、「彼女は裁判には負けましたが、それでも反対者の夫を勝ち得たのです」とおっしゃっていました。
 このような事例について聞くとき、わたしたちは感動を覚えるのではないでしょうか。
 しかし同時にこのような疑問もわきます。
 「エホバの証人と対立するキリスト教諸教派に同じような話はあるのだろうか」。

 4.この問題に関するキリスト教諸教派の最大の汚点は、問題に対する羞恥心の欠如にあると言えるでしょう。
 というのも、たいへん醜いことに、これらキリスト教の諸教派は、エホバの証人がその全き信仰のゆえにしばしば離婚訴訟という試みに直面するのを見て、ここぞとばかりにエホバの証人をカルト呼ばわりしてきたからです。
 これは、自分たちのことを棚に上げる行為ではないでしょうか。
 それに対し、エホバの証人はこのように答えます。
 エホバの証人がしばしば離婚訴訟に直面するのは、エホバの証人の妻が離婚を望まなかったからです。
 もし、エホバの証人という宗教が、非信者の夫が離れていくのを歓迎するような宗教であったなら、非信者の夫としても、離婚訴訟を起こす必要はなかったことでしょう。
 訴訟せずに離婚できるからです。
 実のところ、エホバの証人は、その教理のわりには離婚訴訟の少ない宗教団体です
 もしもエホバの証人以外の宗教団体が、離婚や別居に対してエホバの証人のような態度をとることにしたなら、いったいどうなっているでしょうか。
 どの宗教にも非信者の夫はおり、離婚の問題もあります。
 事態は、エホバの証人の場合とは比較にならないくらい深刻になっていることでしょう。
 エホバの証人の反論によりこのような事実が示されているにもかかわらず、エホバの証人と対立するキリスト教の諸教派は、さして反省の言葉を述べるわけでもなく、相変わらずエホバの証人のことを「家庭を破壊する宗教である」として非難し続けています。

 さらに、近年になって、このような対立教派の宣伝に惑わされて彼らに同調する宗教学者が出現していることも大きな問題となっています。
 彼らはエホバの証人と他のキリスト教派に関する基本的な事実を知らないため、エホバの証人にかかわる離婚訴訟の数が他のキリスト教派のそれより多いのを見、さらに対立キリスト教派の“専門家”たちのもっともらしい解説を聞くと、「エホバの証人は家庭を破壊するカルト宗教である」と信じるようになるようです。
 この、対立キリスト教派の“専門家”はどのようなことを主張しているのでしょうか。
 たとえば、対立キリスト教派を代表する“専門家”の一人であり、ジャーナリストを自称している林俊宏氏は、その著作の中で「無視される、教理と聖書の矛盾」と題し、このように語っています。

「ものみの塔が自らの信仰生活を説明するために発行している小冊子『神はわたしたちに何を求めていますか』のなかで、「神に喜んでいただける家族生活」として、「次のような場合、妻は夫を去る道を選ぶかもしれません」として、「夫が反対があまりにも激しいため、妻がエホバを崇拝できない場合」を挙げている。これは、明らかに、「ある兄弟に信者でない妻がいて、彼女が夫と共に住むことを快く思っているのなら、その人は妻を去ってはなりません。また、信者でない夫のいる女は、彼が妻と共に住むことを快く思っているなら、彼女は夫を去ってはなりません」(「コリント第一の手紙7章12〜13節」『新世界訳聖書』)という聖書の教えに背くことである。だが、組織優先のエホバ崇拝の教えのもとでは、こうした教理と聖書の矛盾は、無視されるのである」。

 知識のない人がこのような解説を聞けば、エホバの証人のことをどう思うでしょうか。
 このような巧みな宣伝は、知識のない人たちにエホバの証人を誤り伝えるものであり、危険なものです。
 エホバの証人と対立する諸教派は、今後も自ら持つべき羞恥心を無視し、これまでと同じ仕方でエホバの証人を非難し続けるのでしょうか……。

予告
 この記事、「エホバの証人は家庭をないがしろにする宗教か」第1部、「エホバの証人の夫たち」は、もっぱら教理上の観点から、エホバの証人の妻と非信者の夫との家庭問題を取り上げてきました。
 この記事の第2部、「家庭か宗教かを巡る対立」では、さらに踏み込んで、より具体的にこの問題を取り上げます。

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