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死刑制度についてのエホバの証人の考え

2010年08月30日掲載



近年、日本では死刑制度についての議論が盛んになっています。ここでは、死刑制度についてのエホバの証人の考えを紹介します。



死刑制度についてのエホバの証人の姿勢

死刑制度についてのエホバの証人の態度をよく表す資料としては、雑誌「ダカーポ」2002年10月2日号を挙げることができるでしょう。
この雑誌は、日本の各宗教団体に対して、種々の倫理上の問題についてのアンケート調査を行いました。死刑制度について、エホバの証人の公的団体であるものみの塔聖書冊子協会はこのように述べています。
ものみの塔は、政治的な問題にはノーコメントの姿勢。「政治的な問題に関わろうとしなかったイエス・キリストに倣い、エホバの証人は、政治的な問題について厳正中立の立場を取っていますので、政治的な問題に対する見解を述べることを控えます。」
この雑誌を見ると、ものみの塔聖書冊子協会は、他の問題、例えばクローン人間の製造の是非や、脳死移植の是非、安楽死の是非といった質問についてははっきりとした回答を行っています。しかし、死刑制度については回答を行いませんでした。
これは、日本において死刑制度の是非が盛んに議論されているからです。エホバの証人は死刑制度の是非についての考えを持っていますが、それを公表すると、その是非を論じるどちらかの陣営に一票を投じることになります。引用にあるように、イエスは政治的な問題には関わろうとしませんでした。そこで、エホバの証人としては、この問題についてのコメントを控えるという立場を取ることになります。



教理上の立場

死刑制度についての教理上の立場を述べたエホバの証人の資料は多数ありますが、わかりやすいものとして、「目ざめよ!」誌1996年3月8日号を挙げることができるでしょう。
記事は、一部このように述べています。
ノアの時代の大洪水の後まもなく,エホバ神は人間の命が貴重なものであることを確認し,それから,「だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される」と言われました。(創世記 9:6)もちろん,これは復しゅうを無制限に認めた言葉ではありません。むしろ,正式に立てられた人間の権威者が,他の人の命を奪った者を処刑することをその時以来許されたという意味です。
古代イスラエルでは,神がモーセを通して伝えた律法は,特定の重大な違法行為に対して死刑を科すことを規定していました。(レビ記 18:29)しかし,律法にはまた,公正な裁きや目撃証人の証言に関する規定,それに腐敗を防止する規定もありました。(レビ記 19:15。申命記 16:18‐20; 19:15)確かに,裁き人たちは信仰の厚い人であるべきでしたし,神ご自身に対して申し開きをする責任がありました。(申命記 1:16,17。歴代第二 19:6‐10)ですから,死刑の乱用を防止する手だてが備えられていました。
今日,古代イスラエルのように,本当に神の代理を務めて裁判を行なう政府など,この地上には一つもありません。しかし諸政府は,ある程度の秩序と安定性を保ち,必要な種々の公共サービスを行なっているので,確かに多くの面で神の「奉仕者」,もしくは代理者の役割を果たしています。使徒パウロはそのような「上位の権威」に従うべきことをクリスチャンに思い起こさせ,それからこう付け加えました。「もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい。それ[政府]はいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり,悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです」。―ローマ 13:1‐4。
パウロが言及している「剣」は,犯罪者を処罰する―場合によっては死刑に処する―政府の権利を象徴しています。クリスチャンはその権利を尊重します。
記事はさらにこのように述べています。
真のクリスチャンは……「剣」を振るう政府の権利を尊重するとはいえ,その権利がどのように誤用されてきたかを強く意識しています。……彼らはむしろ,『王の言葉は支配の力である。だれが,「あなたは何をしているのか」と彼に言うことができようか』という伝道の書 8章4節の言葉を心に銘記しています。そうです,世の『王たち』,つまり政治上の支配者たちには自分の意志を遂行する権力が与えられています。支配者たちをとがめる権威のあるクリスチャンは一人もいません。
クリスチャンはこの問題に関する議論に巻き込まれないよう注意することが期待されるでしょう。真のクリスチャンは,望み通りに物事を行なう権利が政府にあることを認めるはずです。しかし,世のものでないクリスチャンの奉仕者である彼らは,極刑を支持することを言明したり,あるいは極刑の廃止運動を推進したりするようなことはしないでしょう。



付録 : 死刑囚 中田公弘 氏について

中田公弘兄弟(“兄弟”は敬称)は、死刑執行前にエホバの証人に転向した、伝説的な死刑囚です。彼については、彼の世話を行った宣教者による記述といったものが、エホバの証人出版物に掲載されています。
その内容は以下の通りとなります。
(1. 「ものみの塔」誌1973年12月15日号)
殺人の罪を犯して福岡刑務所で服役中だったある死刑囚は協会に聖書研究を申し込み,宣教者が彼を訪問する取り決めが設けられ,イズラブ兄弟がその人と聖書の勉強を始めました。その囚人の振る舞いが非常に大きく変化したため,まもなく刑務所の所長は自分の執務室の隣りの部屋で金網の仕切なしに研究することを許してくれました。やがて,この男の人は刑務所の中でバプテスマを受けました。彼は日本語の小冊子を盲人のために点訳できるように点字法を学びました。また,関心を持つ人びとや励ましの必要な伝道者たちに手紙を書いて王国の業に助力することもしました。中田兄弟は一生懸命勉強して,自分が犯した罪のゆえに「命には命を」償わなければならない日に備えて,自分自身を霊的に強めました。
その時は1959年6月10日に来ました。死刑囚の求めに応じて,刑務所長はイズラブ兄弟を刑の執行が行なわれる建物に呼びました。中田兄弟はイズラブ兄弟ににこやかに挨拶し,そしてこう言いました。「わたしは今,エホバと贖いの犠牲および復活の希望に非常に強い確信をいだいています。わたしの今までの人生の中で今日ほど強さを感じたことはありません」。事実,訪問した兄弟は,その日ふたりのうち自分のほうがずっと弱い感じがしたほどでした。ふたりはいっしょに王国の歌を歌い,聖書を読み,最後の祈りをしました。そのすべてはその場に居合わせた12人の当局者に対してすぐれた証言となりました。自分の愛をエホバの組織と全地の兄弟たちに伝えて欲しいと語った後,死刑囚である同兄弟は絞首台に向かって導かれて行きました。その顔は,復活によりエホバの新秩序のもとで生活できるという希望に対する感謝の念で輝いていました。
(2.『エホバの証人の年鑑』1978年版)
殺人の罪を犯して福岡刑務所で服役中だったある死刑囚は協会に聖書研究を申し込み,宣教者が彼を訪問する取り決めが設けられ,イズラブ兄弟がその人と聖書の勉強を始めました。その囚人の振る舞いが非常に大きく変化したため,まもなく刑務所の所長は自分の執務室の隣りの部屋で金網の仕切なしに研究することを許してくれました。やがて,この男の人は刑務所の中でバプテスマを受けました。彼は日本語の小冊子を盲人のために点訳できるように点字法を学びました。また,関心を持つ人びとや励ましの必要な伝道者たちに手紙を書いて王国の業に助力することもしました。中田兄弟は一生懸命勉強して,自分が犯した罪のゆえに「命には命を」償わなければならない日に備えて,自分自身を霊的に強めました。
その時は1959年6月10日に来ました。死刑囚の求めに応じて,刑務所の所長はイズラブ兄弟を刑の執行が行なわれる建物に呼びました。中田兄弟はイズラブ兄弟ににこやかに挨拶し,そしてこう言いました。「わたしは今,エホバと贖いの犠牲および復活の希望に非常に強い確信をいだいています。わたしの今までの人生の中で今日ほど強さを感じたことはありません」。事実,訪問した兄弟は,その日ふたりのうち自分のほうがずっと弱い感じがしたほどでした。ふたりはいっしょに王国の歌を歌い,聖書を読み,最後の祈りをしました。そのすべてはその場に居合わせた12人の当局者に対して優れた証言となりました。自分の愛をエホバの組織と全地の兄弟たちに伝えて欲しいと語った後,死刑囚である同兄弟は絞首台に向かって導かれて行きました。その顔は,復活によりエホバの新秩序のもとで生活できるという希望に対する感謝の念で輝いていました。
(3. 宣教者パーシー・イズラブの手記, 「ものみの塔」誌1981年8月15日号)
中田公弘が二人の人を殺害したのは1949年のことでした。雇われて人殺しをしたのです。当時は物騒な時代でした。幾百万もの人が戦場でむなしい死を遂げ,そうした暴力の風潮は戦後の一時期にまだ社会を覆っていました。
私と妻のイルマは第二次世界大戦後に宣教者として日本に来たばかりでした。公弘は当時まだ18歳でした。法廷はこの若者に絞首刑を言い渡しました。もし数か月若かったなら,死刑の宣告を受けずにすんだことでしょう。この若者は福岡刑務所に送られ,死刑囚用の独房に入れられました。
日本では死刑囚に処刑の日時を知らせません。死刑囚用の独房にいる期間は,1週間,1か月,1年になるかもしれず,何年もの長期に及ぶかもしれないのです。30年間死刑囚用独房にいた人もいます。刑務所内で,公弘はノイローゼになり,狂暴な人間になりました。独房の鉄格子をつかんで,「どうして殺さないんだ! ひと思いに殺せ!」と叫んだものです。幾年もの年月が経過しましたが,刑は執行されませんでした。
やがて,公弘は宗教に関心を抱くようになりました。そして,聖書を入手し,興味をもって読むようになりました。しかし,疑問があっても,答えが得られませんでした。1950年代半ばのある日,この若者は「ものみの塔」誌を1部受け取りました。一人の知人が,自分は関心がなかったので,その雑誌を送ってきたのです。それこそ公弘が探し求めていたものでした。そこで,さらに情報を求めて,ものみの塔協会に手紙を書き,その結果一人のエホバの証人が遣わされました。その証人は刑務所にやって来て,死刑囚用独房の中で公弘と聖書を研究するようになりました。
一方,1957年の9月に,宣教者である私たちの割当てが福岡市に変更になり,同時に,公弘と研究していたエホバの証人が移動したので,私が死刑囚用独房で毎週研究を司会することになりました。私たちが福岡に到着する直前に,公弘は刑務所の浴場でバプテスマを受けました。
ですからそこには,人格を根本から変化させたクリスチャン兄弟がいたのです。週ごとの訪問を続け,月日がたつにつれて,公弘は親密で愛すべき存在となってゆきました。
……しかし,私が見た中で最も劇的な生活の変化はなんと言っても,二人の人を殺害し,ノイローゼになった狂暴な死刑囚,中田公弘の生活に生じた変化です。彼は実に温順で親切な若者になりました。中田兄弟は私が知っている中で最も熱心な王国伝道者の一人でした。訪れる人々に,「独房の窓から青い空を見ていると,外へ出て宣べ伝える業のお手伝いができたらどんなにかよいだろうと思います」とよく話したものです。
しかし,死刑囚用独房の中にいてさえ公弘は多くの人々を助けました。被害者の家族に手紙を書いて証言したところ,その人たちは関心を示しました。また,自分の家族にも盛んに証言しました。点字を学んで,「神を真とすべし」という本や「御国のこの良いたより」という小冊子,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌の記事を点訳しました。これらの出版物は,盲学校を含め日本の各地に配布されました。
1959年6月10日,警察の車が宣教者の家の前に止まりました。その朝処刑されることになった公弘は,その場に立ち合うよう私に求めたのです。その最後の言葉は忘れられないものです。「今日,私はエホバと,贖いの犠牲や復活の希望を固く信じています。しばらくの間,私は眠りますが,もしエホバのご意志でしたら,私はパラダイスで皆さんとお会い致しましょう」。公弘は,『命には命を』与えるという公正の要求を満たして死にました。しかし,絶望的でかたくなな犯罪者として死んだのではなく,献身してバプテスマを受けたエホバの忠実な僕として死んだのです。
私は人の生活,そうです公弘と私自身の人生にすばらしい変化がもたらされるのを目の当たりにしてきました。
(4. 『エホバの証人の年鑑』1998年版)
それから約10年後に,パーシーは福岡市で大変すばらしい経験をしました。雇われて二人の人を殺害していた狂暴な死刑囚,中田公弘は聖書研究をすることを望み,パーシーが彼と研究をしたのです。その結果,公弘は「古い人格」を完全に捨て去り,刑務所内でバプテスマを受けました。パーシーは彼のことを,「私が知っている中で最も熱心な王国伝道者の一人」というふうに言っていました。(エフェ 4:22‐24)公弘は点字を学んで,「神を真とすべし」という本や『御国のこの良いたより』という小冊子,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌の記事を点訳しました。これらの出版物は,盲学校をはじめ日本の各地に配布されました。しかし,1959年6月10日の朝早く,警察の車が宣教者の家の前に止まりました。その朝処刑されることになった公弘は,処刑に立ち会うようパーシーに頼んだのです。パーシーは頼みに応じました。処刑場で二人は短い会話を交わし,最後に王国の歌を一緒に歌いました。公弘はパーシーに,「なぜあなたが震えているんですか。緊張するのは私のほうのはずですよ」と言いました。絞首刑になる前の最後の言葉は,「今日,私はエホバと,贖いの犠牲や復活の希望を固く信じています。しばらくの間,私は眠りますが,もしエホバのご意志でしたら,私はパラダイスで皆さんとお会い致しましょう」というものでした。彼は世界中の兄弟たちに温かいあいさつを送りました。公弘は,命には命を与えるという公正の要求を満たして死にました。絶望的でかたくなな犯罪者としてではなく,献身してバプテスマを受けたエホバの忠実な僕として死んだのです。―使徒 25:11と比較してください。(『エホバの証人の年鑑』1998年版)
これらの公式の記事には食い違いがあるようです。宣教者自身による記述が正しいと思われます。
宣教者パーシー・イズラブは、中田公弘兄弟のことを「私が知っている中で最も熱心な王国伝道者」と述べています。語り伝えられるところによると、中田公弘兄弟は、エホバの証人に転向したものの、その宗教活動に何ら参加できないことに胸を痛め、それでも自分にできる限りの努力を払おうと固く決意されたそうです。それで、彼は独房の中で独り聖書伝道の練習に励み、そのうえで、かばんを手に持って静かに何時間も起立するということをしていたのだそうです。きっと、彼はその心に、家々を訪ねて聖書の教えを広める自分の姿を思い描いていたのでしょう。彼が心の奥底から改心したことは傍目に疑いようがなく、刑務所の職員たちもその姿に心を打たれたといいます。
語り伝えられるところによると、中田公弘兄弟は死刑執行のまさにその瞬間に、「エホバ、パーシー兄弟を助けて……」と叫んだとされています。同時に死刑が執行されたため、この祈りの言葉は最後まで語られなかったようです。宣教者は、中田公弘兄弟が最後に何かを叫んだことに気づきましたが、聞き取れませんでした。後に、刑務所の職員からその言葉を聞かされ、胸を打たれたといいます。宣教者パーシー・イズラブは、生涯にわたってこの言葉を忘れることができなかったことでしょう。


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