JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
マスコミ関係者の方へ
エホバの証人報道の際の注意点
2004年7月1日更新

ここでは、実際のエホバの証人報道の例を挙げたり、こちらからテーマを示したりしながら、適切なエホバの証人報道の型をみなさんに考えていただきたいと思います。

「○○はキリスト教一派「エホバの証人」の信者であり・・・」

これは、しばしばエホバの証人を紹介するのに用いられる表現ですが、どこが問題でしょうか。
「エホバの証人」という言葉は「クリスチャン」という言葉と同様、多くの場合において個人の立場を表すための言葉であるということに注目してください。
「クリスチャン」という言葉には「キリストの弟子」という意味がありますから、クリスチャンのだれも、「わたしはクリスチャンの信者です」とは言いません。
ふつうは、「わたしはクリスチャンです」とか「わたしはクリスチャンの一人です」と言うはずです。
それと同様、エホバの証人は自分のことを「わたしはエホバの証人信者です」と言ったりはしません。
ですから、エホバの証人個人について報道するときはそのことに注意しなければならない場合があるかもしれません。
もっとも、「エホバの証人」という言葉は宗教団体名としても広く用いられていますので、そのような言い方がふさわしい場合もあります。
英語の場合、集団としてのエホバの証人を表現する際には複数形を用い、個人を表現する際には単数形を用いることを念頭に置きましょう。
この例の場合、「○○は「エホバの証人」であり・・・」とか、「○○は「エホバの証人」と呼ばれるキリスト教一派の信者であり・・・」としてもよいかもしれません。


「○○はものみの塔聖書冊子協会の会員であり・・・」

エホバの証人は基本的にはだれもものみの塔聖書冊子協会の会員ではありません。
というのは、ものみの塔聖書冊子協会はエホバの証人の設立した法人団体であり、エホバの証人に仕えるためのものだからです。
エホバの証人の教理によれば、エホバの証人個人のクリスチャンとしての立場は当人と神との間におけるプライベートなものであるべきですので、その神聖な関係に当人以外の他の人や組織が入り込むことはありません。(「ものみの塔」誌1998年3月15日10ページから23ページ)
現在、ものみの塔聖書冊子協会の会員数は定款により300人以上500人以下と定められています。(「エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々」228-229ページ)


「「エホバ」信者勝訴」

新聞報道では、見出し文にこのような表現が用いられることがあります。
オウム真理教の人たちが自分たちのことを自ら「オウム」と呼んだような場合とは違い、エホバの証人は自分たちのことを「エホバ」などと言ったりはしません。
「エホバ」というのは聖書に出てくる神の名前ですから、それは当然のことと言えます。
エホバの証人には「エホバの証人」というきちっとした名称があるのですから、その名称を用いずに「エホバ信者」などという表現を用いるなら、その新聞はエホバの証人に対して差別的な表現を用いていることになります。
また、エホバが聖書に出てくる神の名前である以上、エホバの証人だけがこの名前を使っているのではないことを念頭に置いてください。
エホバの証人を表す略称として不用意に「エホバ」という表現を用いることは、それらの宗教団体の危機感を募らせることになります。
つまり彼らは、人々が「エホバ」と聞けばイコール「エホバの証人」のことだと考えてしまうような事態を恐れているのです。


「「エホバ派(Jehovist)」である○○の・・・」

このような言い方はエホバの証人の感情を最も逆なでする言い方です。
さらにこの表現は、神学上の用語を誤った仕方でエホバの証人に適用しています。
「エホバ派(Jehovist)」という語の用法に混乱が生じないようにするという点に照らしても、この言葉を使わないようにすることはふさわしいことです。


テーマ : 「エホバの証人」という言葉にはどのような意味がありますか

ある学術書において、エホバの証人のことが英語で "Witnesses of Jehovah" と誤って紹介されたことがあります。
正しくは "Jehovah's Witnesses" です。
そして厳密には、「エホバの証人」の「の」には目的格ではなく所有格の意味があります。
つまり、「エホバの証人」という表現は「エホバは地上にご自分の証人からなる国民を所有される」という概念を表したものであり、目的の意味はその言葉の中に含まれているにすぎません。
聖書によると、この「エホバがご自分の証人からなる国民を所有する」という概念はイスラエル国民に関するものです。(「エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々」17ページ)
そのことについて聖書はこのように記しています。
「「あなた方はわたしの証人である」と、エホバはお告げになる」。(聖書のイザヤ書43章10節)
エホバの証人はこれを自分たちに当てはめているのです。


「エホバ信者の・・・」

エホバの証人およびキリスト教用語的には、「証人の・・・」という具合に「証人」という表現を使うのが普通になっています。
エホバの証人を指してむやみに「信者」という表現を使うと、「証人」としての立場を重んじるエホバの証人を軽視していることになります。


「エホバの証人の教会で・・・」

エホバの証人報道に際してこのような表現が使われることがあります。
しかしながら、エホバの証人は教理上の理由により教会を所有しておらず、いわゆる「教会制度」にも賛同していません。
エホバの証人は自分たちの集まりを表現するに際しては、聖書ギリシャ語の表現に忠実な「会衆」という言葉を用い、その集会場所を独自に「王国会館」と呼びます。
この場合、「エホバの証人の王国会館(教会に相当)で・・・」とか「エホバの証人の集会所で・・・」とか「エホバの証人の教会施設である王国会館で・・・」とするのがよいかもしれません。


「エホバの証人の正式名称は「ものみの塔聖書冊子協会」である」

エホバの証人自身に言わせるなら、自分たちの正式名称は「エホバの証人」です。
ものみの塔聖書冊子協会はエホバの証人の運営する法人団体のひとつにすぎないというのがエホバの証人の意見です。(「エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々」228ページ)
エホバの証人が所有するそのほかの法人団体には、たとえば国際聖書研究者協会があります。
エホバの証人は「エホバの証人」という名称を採択するにあたって決議文を発行していますので、そこにはこのように書かれているということを念頭に置いていただけるとうれしく思います。
「ものみの塔聖書冊子協会、国際聖書研究者協会、一般人の説教壇協会は、クリスチャンであるわたしたちが一団として、神のご命令のとおりに業を遂行するために保持し、管理し、用いている法人の名称にすぎません。
それらの名称はいずれも、主また主人であるキリスト・イエスの足跡に従うクリスチャンの一団としてのわたしたちに適合する、もしくは当てはまるものではありません」。(「エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々」156ページ)
ですから、このような場合には、「エホバの証人の法人名は「ものみの塔聖書冊子協会」である」としたほうがよいでしょう。


「ものみの塔聖書冊子教会」

誤変換です。
正しくは「ものみの塔聖書冊子協会」です。
気をつけましょう。


「エホバの証人は輸血の拒否や刺激物の不摂取などの厳格な戒律を持ち・・・」

この文には2つの問題点があります。
ひとつは、エホバの証人が「刺激物の不摂取」を信条としているというものです。
これは、モルモン教について書かれたものが誤ってエホバの証人に適用された典型的な例です。
宗教学者たちの中には、エホバの証人とモルモン教をよく似た宗教として一緒に扱うという傾向がありますが、そういったやり方がこのような結果を生んでいるようです。
モルモン教の信者はカフェインなどの刺激物を摂取しませんが、エホバの証人はたばこと麻薬を摂取しない以外は全く自由にやっています。
もうひとつは、エホバの証人の輸血の拒否を「戒律」と呼ぶことはエホバの証人にとっては不適切であるということです。
長年、エホバの証人は自分たちの輸血拒否の信条が「良心的信条」であることを強調してきました。
というのは、聖書には「輸血をしてはならない」というような明快な言葉はなく、ただ「血を伴う肉を食べてはならない」と命じる言葉があるにすぎないからです。(聖書の創世記9章4節)
完全な意味において「血の伴わない肉」というというものはありませんから、これはもう「良心的信条」であるとしか考えようがないというのがエホバの証人の意見です。
この場合は、「エホバの証人は聖書に基づく格技や輸血の拒否などの良心的信条を重んじ・・・」とするとよいかもしれません。
エホバの証人の輸血拒否がそのように報道されるなら、その報道に接する人々は、エホバの証人という宗教がこれまでに考えられていたようなイメージとは大きく異なる宗教であるということに気づかされることでしょう。


「エホバの証人は旧教、新教のいずれにも属さないキリスト教の一派であり・・・」

正しい表現ですが、このような表現の意味が分かる人はめったにいません。
「エホバの証人は伝統的キリスト教派のいずれにも属さないキリスト教の一派であり・・・」としたほうがわかりやすいでしょう。


「エホバの証人の聖典 : 独自の翻訳である新世界訳聖書」

エホバの証人は独自の翻訳である新世界訳聖書を持っていますが、エホバの証人を紹介する学術書の中には上記のように述べて、あたかもエホバの証人が聖書原典や、新世界訳以外の聖書翻訳を退けているように見せかけているものがあります。
そのような誤った主張はたいていの場合、エホバの証人が「背教者」と呼ぶ、熱心な反対者から出たものです。
そのような主張とは対照的に、エホバの証人の統治体はエホバの証人個人に対し、異なる聖書翻訳を読み比べるよう勧めています。(「ものみの塔」誌1995年5月1日号17ページ)
ですから、そのような情報に踊らされないようにぜひ気をつけましょう。


新聞やテレビなどの報道は、社会に対してある程度同等あるいは中立の立場からなされなければならないと考えられています。
ですから、エホバの証人報道に際して報道関係者がどの程度までエホバの証人に気を遣うかという点に関して、皆さんが一定の限度を定めるとしてもそれは間違ったことではありません。
しかし報道関係者たちの皆さんには、エホバの証人のみならず、すべての個人、団体、宗教に対して敬意のこもった報道を行うことにより、読者に対してよりよい見方に関する型を示すという恵まれた機会があります。
この点に関して皆さんが努力を払われるなら、社会のいろいろな問題に対処する方法について人々に良い影響を及ぼすことができるだけでなく、努力を払った皆さん自身も、良識ある報道者としての評価を勝ち得ることとなるでしょう。

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