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米国において聖書伝道の権利が再確認される
2003年3月1日更新

 2002年6月17日、米国最高裁判所は、エホバの証人に自由に聖書伝道を行う権利があることを確認する判決を下しました。これは、米国オハイオ州ストラットン村の定めた、エホバの証人の聖書伝道活動を規制する条例を無効とするものです。

 ストラットン村当局は、「私有地での望まれない行商ないし勧誘行為に関する規制」という条例を作り、この条例の施行によってエホバの証人を村から追い出しにかかりました。村の主張するところによると、エホバの証人は村の許可なくしては村内で聖書伝道を行うことができません。
 聖書伝道者に対する許可制は、正しく施行されれば、聖書伝道を行うエホバの証人の権利を確立する働きをすることが期待されます。しかし、この条例には多くの問題がありました。
 一つの問題は、特定の宗教に敵意を抱く人物にとってこの条例は便利なものであるということです。1998年にあるエホバの証人の女性が、エホバの証人に関心のある村民の家のみを対象にした聖書伝道を行いましたが、エホバの証人嫌いの村長により村を追い出されました。このような状況では、許可制の正常な運用は期待できません。
 もう一つの問題は、合衆国憲法との関係です。合衆国憲法は、連邦議会がこのような法律を作ることを禁じています。しかし憲法は、自治体がそうすることには触れませんでした。この問題に決着をつけたのは、1940年にエホバの証人がコネティカット州と争い、合衆国最高裁判所で勝ち取った勝訴判決です。この判決により、州や自治体であっても、連邦議会が定めることのできない法律は定めることができないことが確認されました。ストラットンの条例はこの判例を脅かすものです。
 もう一つの問題は、エホバの証人の行う聖書伝道の形態がキリスト教社会において伝統的なものであることです。聖書伝道は昔から、様々なキリスト教団体により広く行われ、その社会的価値を認められてきました。アメリカでは信教の自由が保障されており、その中には、聖書伝道のような健全な形態の布教活動も含まれているはずです。聖書伝道が認可制となるなら、信教の自由が大きく脅かされます。
 さらに問題となるのは、その法律が私有地における訪問活動を規制していることです。ほとんどの人は私有地に住んでいます。そこで、誰かが誰かを訪問することは、その者が私有地に入り込むことを意味しています。たとえば、あなたが友人のもとを訪ねようとして、友人の住んでいるマンションの敷地内に入るなら、あなたはその時点で私有地に入り込んでいることになります。興味深いことに、アメリカでは、この問題に関する決着も、エホバの証人の勝訴によってつけられました。1943年にエホバの証人がストラザーズ市と争い、合衆国最高裁判所で勝ち取った勝訴判決により、誰かが私有地に入り込み、玄関までたどり着いてチャイムを鳴らすとしても、それは不法侵入罪にはあたらないことが確認されています。(同様の判決は、やはりエホバの証人に関して、フィンランドにもあります。) ストラットンの条例はこの判例を脅かすものです。
 ほかに、聖書伝道者の訪問を望む人たちの問題があります。そのような訪問を望まない人たちはたくさんいますが、一方で、そのような訪問を望む人たちもたくさんいます。この条例は、片方の側に属する人々のみの福祉を促進するために作られたため、それが施行されると、もう一方の側にいる人々の福祉が脅かされます。特にエホバの証人に関しては、その訪問を通して福祉を得ている方々が大勢おられます。ですからこの条例は差別を促進するものです。
 別の問題点は、宗教者個人に適用される認可制は、宗教上の奉仕者に対する認可が世俗の機関によって行われることを意味していることです。キリスト教の場合、認可は神から、会衆(もしくは教会)の長老(もしくは牧師)を通して与えられることになっています。神から認可をいただいたのに、そのうえ世俗の機関からのも認可が必要だというのは、信仰者にとっては冒涜となります。これは宗教者個人の信条の問題ですが、信教の自由が保障されているというのなら、よほどの理由がない限り、この信条は犯されるべきでありません。
 合衆国最高裁判所はこの問題を審理しました。村側は、許可制が妥当と思える理由についてこのように主張しました。
 「ストラットン村は、警察権を行使して、住民のプライバシーを保護し、犯罪を防ごうと努めています。戸別訪問や私有地での勧誘行為を禁じる条例は、事前の登録と、戸別訪問時の許可証携帯を求めているにすぎません」。
 一方、合衆国最高裁判所は、エホバの証人の行う聖書伝道が、訪問販売でも、訪問調査でも、選挙運動でもないこと、また、その活動によって犯罪が起きる可能性がきわめて低いことを確認しました。また、聖書伝道と同様の活動が、宗教以外にも、ガールスカウトなどの組織によって行われていることを考慮しました。その結果、合衆国最高裁判所は村の主張を退けました。

 エホバの証人が合衆国最高裁判所で勝訴するのは、これで48回目です。判決文が「修正第1条を巡る訴訟のほとんどはエホバの証人によって提起されてきた」と述べて認めているように、信教の自由に関して合衆国最高裁判所が下した勝訴判決のほとんどはエホバの証人が勝ち得たものです。

 修正第1条センター教育プログラム主任であるチャールズ・C・ヘインズは、この判決についてこう書いています。
 「もとより、人には話を聞かない権利やドアを閉める権利がある。しかし、行政当局は、だれが戸口をノックできるかを決める権威を持つべきではない。我々は皆、エホバの証人に恩義がある。彼らは、何度侮辱されても、町から追い出されても、さらには暴力を振るわれてさえ、自分たちの(ひいては我々の)信教の自由のために闘い続ける。彼らの勝利は、我々すべての勝利でもある」。

 勝訴判決を受けて、地元の証人たちはこのようにコメントしています。
 「わたしたちは好んでこの裁判をしたわけではありません。条例そのものが正しくなかったのです。こうしたのは、自分たちだけのためではなく、すべての人のためです」。
 「私たちがストラットン村を最後に伝道したのは1998年3月7日のことです。4年以上前になります」。
 「わたしたちは、隣人との良い関係を保ちたいと思っています。訪問を望まない人がいれば、その決定を尊重します。しかし、中には友好的で、聖書の話し合いに応じる人もいます」。
 「わたしたちがこの訴訟を続けたのは、ストラットンの人々を敵に回すためではありません。ただ、憲法に基づく言論の自由を法的に確立したかったのです」。


米国の判決と日本の実状

 日本は、米国と同様、憲法によって信教の自由を認めている国です。とはいえ、信教の自由に関する認識はいまだ未熟であり、多くの問題が放置されているというのが実状です。

 たとえば、宗教上の布教者がマンション住民に対して布教活動を行おうとすると、マンションの管理者が現れ、自分は住民を代表すると称して、あるいは、自分には訪問者を管理する義務があると称して、マンションへの立ち入りを拒否することがあります。
 これは憲法違反になります。日本の憲法は信教の自由を保護しており、そこには、宗教活動に時間的また地域的制限を加えないことが含まれています。マンションの管理者が布教者の立ち入りを拒否した場合、その者は憲法によって保障されている宗教活動に地域的制限を加え、こうして憲法に違反したことになります。この問題が裁判に持ち込まれれば、マンションの管理者は敗訴することになります。
 マンションに住む住人個人が布教者の訪問を断るのは自由ですが、管理者にその権限はありません。むしろ、その者には憲法上の正しい管理を行うべき義務があります。つまり、宗教上の布教者がマンションの住民を自由に訪問できるよう必要なら便宜を図り、どの宗教に対しても差別が生じないようにする、というのがマンション管理者の果たすべき憲法上の義務です。マンション管理者は、必要ならその種の制限を求めるマンション住民に対する説明と説得を行い、その要求を拒否するようでなければなりません。

 自治体の防犯委員が、防犯上の理由なるものを主張して、地元地域での布教活動を行わないよう求めることがありますが、この場合も同じです。もし、その者がほんとうに防犯委員としての務めを果たすことを望むなら、布教活動に伴って生じる防犯上の懸念は、布教者を町内から追い払うことによって解決するものではないはずです。その者は、布教者と住民双方の防犯上の便宜をはかり、布教する側も布教を受ける側も安心してそれにあたれるようにすることによってその問題を解決するべきです。

 宗教者が駅や公園など公共の場所での布教活動を行おうとした場合、その職員が現れ、「ここは公共の場所なので、法律上、宗教活動の便宜をはかれないことになっている」と述べることがあります。これも憲法違反になります。むしろ、彼らには公共の場所において信教の自由を促進する憲法上の義務があります。職員は特定の宗教を差別しないよう注意を払わなければなりませんが、それは、宗教者を一律追い払うことによって実現されてはなりません。

 マンションの入り口に、「住民以外の立ち入りを禁止する」と書かれたステッカーが貼られていることがあります。これには問題があります。
 わたしたちは一人一人が社会の一部であり、こうして必然的に社会的義務を負っています。その義務の一つは、訪問者に対してその手段を明示することです。わたしたちは自分の家に扉を設置するとき、ただ自分の出入りのためにそれを設置しているのではありません。それは、わたしたちへの訪問者に対し、訪問の手段を指示する役割をも果たします。表札、玄関チャイムを据えること、ポストを設置することも同様です。こうしてわたしたちは、訪問者がどのように自分を訪問すべきかを明示することによりその社会的義務を果たします。
 マンションの場合、玄関チャイムが、マンションの敷地内(階段や廊下)を通って、各戸の扉付近に据えられているなら、マンション住民は訪問者をそこまで招き入れていることになります。にもかかわらず、マンション入り口にそのようなステッカーが貼られているなら、そのマンションと住民は、自分たちが果たすべき社会的義務を放棄していることになります。
 もしも、マンション住民が訪問者の立ち入りを望まないなら、表札とポストとチャイムをマンション入り口に据えたうえでそうすべきです。

 よく似た例として、マンションの入り口に、「関係者以外立入禁止」と書かれたステッカーが貼られていることがあります。これは、訪問者には無効です。
 宗教上の訪問であるかどうかに関わらず、目的をもって訪問を行う人はすべて「関係者」と同じ扱いになります。「私はこのマンションの住民に対してなになにをしに来ました」という具合に、訪問先と訪問の目的が明確であるなら、このステッカーには何の拘束力もありません。


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