JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2001年版(3)
2002年1月1日更新

「王国宣教」に新しい連載記事

エホバの証人の出版団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「わたしたちの王国宣教」は、2001年9月号より、「雑誌からどんな点を話せますか」と題する新しい連載記事を掲載した。
これは、聖書伝道者が「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を配布するために、どのように人に話せるかをアドバイスするものである。
「わたしたちの王国宣教」は、続く「自分の奉仕の務めを徹底的に果たしていますか」の記事の中でこの新しい連載について注解し、各々の伝道者がこのアドバイスを自分なりにアレンジして用いるよう勧めている。


伝道者の務めを果たす

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、クリスチャンの伝道者がどのようにして宣教の務めを果たすべきかを論じる記事を掲載した。
大切な点の一つは、伝道において聖書を実際に用いることである。
記事は、伝道者である読者が入念に準備し、伝道の場において実際に聖書を開いて読むよう勧めている。


1年の活動を振り返る

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、エホバの証人の各会衆が、2001奉仕年度(前年の9月から8月まで)の活動を振り返るプログラムを実施するための筋書きを掲載した。
このプログラムにおいて会衆の長老は、会衆の活動のよい点に注目し、会衆の「すべての人」を誉めなければならない。
また長老は、これから改善できる事柄を述べ、新奉仕年度の新しい目標を発表する。


巡回大会を振り返る

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、昨奉仕年度の巡回大会のプログラムの内容を思い起こし、復習するプログラムの筋書きを掲載した。
この大会においては、「神への愛」が強調された。
神への愛は、エホバの証人が聖書伝道を行うための主要な動機であるべきである。
また、「神への愛」を実践するクリスチャンは、人々に対しても愛を実践し、たとえ人から傷つけられるようなことがあっても「愛の勝った道」を歩み続けなければならない。
筋書きは、このような大会プログラムから出席者が個人としてどのような適用を見いだし、益を得たかを発表するよう指示している。


ものみの塔出版物索引を活用する

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、エホバの証人の聖書伝道者に対し、宣教で用いるための話題や、会話の仕方の提案を得るために、「ものみの塔出版物索引」を用いるよう勧めた。


野外奉仕の集会

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、聖書伝道のために行われる10分から15分の集会の取り決めの概要を説明する記事を掲載した。


除名された人に援助の手を

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、「排斥された人や断絶した人で復帰を望んでいるかもしれない人」のための援助の取り決めをこの9月に実行するよう長老たちに要請した。


ものみの塔協会が年鑑他を発行

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、ものみの塔聖書冊子協会が、2002年の「エホバの証人の年鑑」、2001年の製本した「ものみの塔」誌ならびに「目ざめよ!」誌(再版)の発行を準備しており、予約注文を受け付けていると報じた。


中国語大文字版「ものみの塔」誌が入手可能に

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、ものみの塔聖書冊子協会の日本支部が、中国語(簡体字および繁体字)の「ものみの塔」誌の大文字版の印刷を行うことになったと告知した。
これに伴い、日本においてもこれらの雑誌の入手が可能となった。


忙しいクリスチャンに

「わたしたちの王国宣教」2001年9月号は、日頃から忙しい生活を送っているために、聖書を勉強したり、伝道に出たりする時間がとれない人たちを鼓舞する記事を掲載した。


悪魔

ものみの塔聖書冊子協会の発行する「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、「悪魔は本当に存在しますか」と題する特集記事を掲載した。
この記事は、「悪魔とは、わたしたちの不完全な肉体に宿る、漠然とした悪の原理ではありません」と述べ、しばしば見られる、悪魔サタンに関する非聖書的な定義を退けた。
記事は、悪魔サタンが実際に存在していることを、聖書から説明している。


平和を作り出す人たち

「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、クリスチャンが平和を実践すべきことを説く一連の研究記事を掲載した。
「聖書の中で「平和を求める」と訳されているギリシャ語は、字義的には、「平和を作る人たち」という意味があります。多くの場合、平和であることと、平和を求めることには違いがあります。聖書的な意味で平和を求めるとは、積極的に平和を促進することです」。
「だれとの平和でしょうか。「すべての人」つまり家族、クリスチャンの仲間、さらには信条を共にしない人たちです」。
「わたしたちと信条を共にしない人、さらにはそれに反対する人に対して、どのように平和を求めることができるでしょうか。一つの点として、自分のほうがすぐれているといった態度を取らないことです。例えば、特定の個人を見下すような言い方をするなら、平和を求めているとはまず言えないでしょう。実際わたしたちは、他の人を裁いたりはしません。それが反対者であっても同じです」。
「愛や喜びがなく、辛抱できず、親切でなく、悪意を持ち、信義に背き、粗暴で、自制心のない人は、平和を持てません」。
「長老たちは、羊の群れ(クリスチャンの会衆)の成員を支え、その努力に過度に批判的にならないことにより、成員との平和を促進します。クリスチャンの監督の主な務めは、懲らしめを与えることではありません。監督は、よく人を誉めます。愛のある長老は、他の人の良いところに目を留めるようにします」。
続いて記事は、様々な困難な状況において、クリスチャンの読者がどのように平和を実践できるかを示している。


フランスの特別活動

「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、フランスのエホバの証人が2000年11月3日に行った、特別なキャンペーンの内容を報告する記事を掲載した。
フランスでは、エホバの証人は不当な理由によって政府からの課税処置を受けている。
2000年6月23日には、フランスの最高裁である最高行政裁判所がエホバの証人勝訴の判決を下し、エホバの証人に対する課税処置は無効であると裁定したが、政府は今のところこの判決を強引に無視している。
そこでエホバの証人は、この政府の無謀な振る舞いを人々に知らせるキャンペーンを行った。
キャンペーンのためのパンフレットは1200万部用意され、配布は当日午前2時から午後11時まで、駅、空港、街頭、映画館といったあらゆる所で行われた。
フランス国営ラジオが、エホバの証人のキャンペーンを宣伝してくれたため、多くの人がパンフレットを欲しがってエホバの証人に近づくなど、キャンペーンは大きな成功を収めた。
このキャンペーンは、1999年1月に行われたキャンペーンに続く2度目のキャンペーンである。
エホバの証人に対する政府の誤解を指摘する最初のキャンペーンに続いて、誤解に基づく政府の行動を指摘するこのキャンペーンが行われたことにより、フランスの人々はエホバの証人に関する事実を正確に知るようになっている。


「ものみの塔」誌が手記を掲載

「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、中東地域で開拓伝道者として奉仕した、ナジブ・サレムによる手記を掲載した。
彼のエホバの証人としての人生は、偏見と反対に直面する人生だった。
「僧職者たちは私たちの集会を中断させようとして子どもたちを差し向け、空き缶をたたいたり、叫んだり、金切り声を上げさせたりしました」。
「若いころ、校長先生から「そんな集会」には出席しないようにと言われましたが、その命令に従わなかったため放校されました」。
「ある時、シリアの僻地(へきち)を尋ねた私たちは、地元の主教の反対に遭いました。主教は、私たちがシオニズムの出版物を配布していると言って非難しました。おかしなことに、その僧職者は、1948年以前には私たちのことをよく“共産主義者”呼ばわりしていました」。
「中東の人々は概して、心根の優しい、謙遜で、もてなしの良い人たちです。私は、私たちの活動に反対する人のほとんどが、実際には私たちの業と伝える音信とを理解していないということに気づきました。キリスト教世界の僧職者たちは、実に様々な方法で私たちのことを偽って伝えてきました。ですから、1975年から15年あまりにわたって続いたレバノン内戦の期間中、エホバの証人は多くの困難に直面しました」。
彼は、最後にこう述べている。
「これまで68年間ずっと開拓者としてエホバに仕えてきましたが、これに勝る生き方はなかったのではないかと思います。ですから、これからも、エホバが与えてくださる霊的な光(人生の導き)のうちを歩んでゆこうと決意しています」。


良い決定をする

「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、「どうすれば良い決定を下せますか」と題する教訓的な記事を掲載した。
「決定を下す面で、人間にはあまり良い前歴がありません」。
「多くの決定について、わたしたちは神に言い開きをしなければなりません」。
そこで記事は、読者が決定を下すに当たり、神の存在を意識し、神の導きにたよらなければならないと論じた。
また、この記事は、わたしたちが決定を下すにあたって陥りやすい過ちについて触れ、このように述べている。
「だれかに相談する場合、次々と違う人に近づき、やがて自分のききたいことを言ってくれる人が見つかったらその助言に従うというようなことはすべきではありません」。


すべてのものはキリストのために

「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、聖書のコロサイ人への手紙 1章6節について注解する記事を掲載した。
この聖句は、すべてのものが「み子のために創造された」と述べている。
記事は、この表現について、それは「神がみ子を通して、み子の喜びのために創造された」という意味であると述べている。


感謝の気持ちを抱いて幸福に

「ものみの塔」誌2001年9月1日号は、感謝の気持ちの重要性を示す、啓発的な小記事を掲載した。
なぜ、感謝の気持ちは幸福へとつながるのだろうか。
「感謝の気持ちが欠けると、いつも不満を抱くようになります」と記事は指摘している。


うつになる若者たち

ものみの塔聖書冊子協会の発行する「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、若者のうつを取り上げた特集記事を掲載した。
「調査によると、米国の若者のおよそ8パーセントは何らかの形で抑うつ状態にあり、毎年4パーセントほどが重い抑うつ状態になっています」。
「18歳の誕生日を迎えるまでに重い抑うつ状態を経験する若者は、4人に1人を超えているようです」。
「重度のうつ病になった若者の7パーセントが自らの命を絶ちます」。
「10歳から14歳までの年少者の自殺報告件数が大幅に増加してきました」。
しかし、記事はこのように指摘している。
「調査した自殺の事例はたいてい、若者に自殺の兆候が見られても、見過ごされたり軽視されたりしていました」。
記事は、子供を親に持つ読者が、子供のうつの兆候にめざとく注目し、どのように問題に対処できるかをアドバイスしている。


マヤ族を知る

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、マヤ族を取り上げた教育記事を掲載した。


聖書と奴隷

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、聖書と奴隷制との関係について考察する記事を掲載した。
この記事は、中世ヨーロッパの奴隷制度と、聖書の奴隷制度の違いを説明した。
聖書の認める(容認する)奴隷制度とは、他の奴隷制度とは異なり、ちょうど王が召使いを持つような形になる。
「奴隷は、あくまで人間であり、人間として本来持つ一定の権利を有する人と見なされ、たとえ主人であっても、その権利を侵害するなら処罰を免れなかった」。
記事はさらに、人間関係のあるべき姿について触れ、このように述べている。
「人が人を奴隷とすることが、人類に対する神の当初の目的に含まれていたことを示唆する箇所は、聖書のどこにもありません。さらに、神の新しい世において仲間の人間を奴隷として所有するようなことを暗示する聖書預言もありません」。
「むしろ、やがて到来するパラダイスで、義なる人々は「まさに、各々、各自自分のぶどうの木の下、じぶんのいちじくの木の下に座り、これをおののかせる者は誰もいない」と述べられています」。


鋼鉄の原理

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、鋼鉄の製造方法や、その強さの秘訣を教える教育記事を掲載した。


ミーアキャット

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、ミーアキャットを取り上げた教育記事を掲載した。


台湾でエホバの証人に恩赦

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、台湾において、良心的兵役拒否ゆえに投獄されていた19人のエホバの証人に恩赦が与えられたと報じた。


糖尿病とウチワサボテン

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、メキシコのザ・ニューズ紙からの話として、糖尿病にウチワサボテンが効くようだと報じた。
これを料理に加えるだけで、血糖値の上昇が抑えられるという。


チョコレートとポリフェノール

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、チョコレートに含まれるカカオマスポリフェノールには健康を促進する効能があるようだと報じた。


シックハウス症候群と車

「目ざめよ!」誌2001年9月8日号は、シックハウス症候群は車でも生じると指摘した。


宗教は分裂をもたらすか

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、「人々を真に一致させることは可能ですか」と題する記事を掲載した。
世の中には様々な宗教があり、問題も多い。
「宗教がこれまでに増して分裂を生じさせる要素となっているのは、いかにも憂慮すべきことです」。
「誠実な人々は、宗教の名においてなされる非道な事柄にしばしば当惑させられます」。
「宗教が人類に一致をもたらしてこなかったことは明らかです」。
しかし、記事はこのようにも指摘する。
「それでも、真理を純粋に愛する人々は様々な宗教の中にいます」。
記事は、そのような人たちが、ほんとうに一致を促進する宗教であるエホバの証人に引き寄せられてきたと述べている。


エホバの証人の大会

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、エホバの証人の歴史的大会を取り上げた歴史記事を掲載した。


エホバの祝福

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、神からの祝福に焦点を当てた一連の研究記事を掲載した。
記事はこう述べている。
「エホバの民は、時折エホバに聴き従うだけであってはなりません。生き方として常に聴き従わなければならないのです。そうするときに初めて、その民に神の祝福が及びます」。


真の価値

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、富や名声ではなく、永遠の命を捕らえる生き方をするよう読者を励ます記事を掲載した。


『廉直の道筋』

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、聖書の箴言 10章15節から32節について注解する記事を掲載した。
この聖書の記述は、読む人々の心に、廉直さ、思慮深さ、義の価値を刻み込むものである。


「霊をもって」

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、「霊をもって」エホバを崇拝するという聖書の表現の意味について解説する記事を掲載した。


エノクの模範

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、聖書に出てくるエノクを取り上げた記事を掲載した。
エノクは、不敬虔な人々に囲まれて生活していたが、それでも「神と共に歩む」者だった。
記事は、このエノクの模範にクリスチャンが見倣うように勧めている。
また記事は、聖書外典(偽典)のエノク書についても注解し、エノク書と聖書に同じ記述があるのは、おそらく出典が同じだからだろうと述べている。


神の名をアフリカで用いる

「ものみの塔」誌2001年9月15日号は、中央アフリカにおける神のみ名の使用を取り上げた記事を掲載した。
これらの地域では、従来は神のみ名が知られておらず、ほとんど用いられていなかったが、エホバの証人の努力により、神の名は人々に知られるようになっているという。
中央アフリカにおける神の名は、ズールー語ではウジャホワ、ヨルバ語ではジェホファ、コーサ語ではウイェホワ、スワヒリ語ではイェホファである。


危ぶまれる食料生産の未来

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、近年の農業の発展に警笛をならす、啓発的な特集記事を掲載した。
現代農業の特徴は、ひとつに単一品種の栽培である。
例えば、100年前には7098の品種があったリンゴは、今日までに86パーセントが絶滅した。
農家がよりよい品種の苗を植え、優良とされる品種の単一栽培が行われたからである。
野菜の場合、単一栽培はもっと広がっているようである。
「米国産の各種野菜に見られる多様性は、80年足らずのうちに97パーセントも減少してしまいました」。
このことはどのような危機を生じさせるのだろうか。
記事は、100年以上前に生じた問題を振り返っている。
「アイルランドは、1840年代に人口が800万を超え、ヨーロッパで最も人口密度の高い国でした。国民の主食はジャガイモでランパーと呼ばれる単一品種が広く栽培されていました」。
1845年、ランパーを冒すジャガイモ疫病に見舞われて、作付けの大半はだめになった。
アイルランドの大部分は、その凶作の年をともかく乗り切ったが、荒廃が到来したのはその翌年である。
農民は、同種のジャガイモを植える以外に選択の余地がなかった。
「歴史家は、100万人近くが餓死し、ほかにも150万人が、主に米国に移住したと推定しています。残された人たちは極度の貧困に苦しみました」。
記事は、近年になって遺伝子工学が発達し、遺伝子レベルでの品種改良が行われたことが危機に拍車をかけていると指摘した。
「遺伝子学者たちは、クローン技術や組織培養法などの手法で、全く同一の写し、つまりクローンを作り出すことができるからです」。
記事は、このような問題の進展がどうなるかについて慎重な味方をしつつも、こう述べている。
「環境学者たちの中には、生物多様性の役割があまりよく分かっていないのに仲間の科学者たちはそれを過大視しているのではないかと感じている人もいます。とはいえ、科学者が問題について議論している間にも、この分野に通じた人々の発する警笛に注意を払うのは賢明なことでしょう。それらの人たちは、単に生物の多様性が失われることだけでなく、それが失われてゆくことの背後にある人間の貪欲さや近視眼的な見方にも危機感を抱いているようです」。


心配に対処する

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、心配事がある若者にアドバイスする記事を掲載した。
「問題とそれに伴う心配事は生活には付きものです。しかし、悩みや心配事にあなたの考えを支配されるままになっていれば、それは自分にとって大きな害となりかねません」。
「心配しすぎて何もできなくなってしまう人がたくさんいます。しかし、心配を積極的な行動に変えることによって「賢く心配する」ことが可能になります」。
「時には、すべきことがあってもやる気が起きないため先に延ばすことがあります」。
「そうした事柄を早く扱うようにしましょう。そうすれば、心配事は一つ減るでしょう」。
記事は、読者である若者たちに、積極的に悩みに対処するよう勧めている。


ケンテ布

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、ケンテ布をテーマにした教育記事を掲載した。


コロンブスは二番手?

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、アメリカ大陸の最初の発見者はレイブ・エリクソンではないかとする学説を紹介する記事を掲載した。


マッセル貝

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、マッセルを取り上げた教育記事を掲載した。


ダーバン

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、南アフリカの都市ダーバンを取り上げた教育記事を掲載した。


現代のガレー船

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙や国際船舶委員会からの話として、「商船に乗り込む幾万もの船員が奴隷のように扱われている」と報じた。


世界最大の生物

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号が伝えるところによると、世界最大の生命体は、オレゴン州東部の森林に生息するアルミラリア・オストヤエである。
菌類の一種であるこの生物は推定2400年かけて地中に広がり、さらに木の根や幹にも枝を伸ばしてきた。 その“広さ”は900ヘクタールに及んでいるという。


チャイルドシートの正しい使い方

「目ざめよ!」誌2001年9月22日号は、チャイルドシートの正しい用い方を読者に教える記事を掲載した。


地域大会の復習

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、「神の言葉を教える者」地域大会のプログラムを復習する記事を掲載した。
大会では、クリスチャンがみ言葉を教える者となるために必要な様々な点が教えられた。
クリスチャンはまず、神の言葉を大切なものと見なし、それに従っていなければならない。
そして、勤勉に聖書を学び、誘惑になる事柄から引き続き自分を守らなければならない。
記事は、このように自分を整えることは、自分のみならず、自分の言葉を聴く人たちをも救うことにつながると指摘している。


質問に答える

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、エホバの証人特有と見なされている信条に関して質問されたとき、どのように答えることができるかを示すプログラムの筋書きを掲載した。


神権宣教学校の予定表

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、「2002年の神権宣教学校予定」を付録として収録した。


ものみの塔聖書冊子協会が新しい出版物を発行

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、「満足のいく生活―どうすれば実現できますか」と題するブロシュアー、「人間には不滅の霊がありますか」と題するパンフレット、「イザヤ書の預言―全人類のための光」第二巻が発行されたと告知した。


大文字版の出版物

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、「永遠の命に導く知識」の本の大文字版が発行されたと告知した。


新しい聖書が刊行される

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、中国語繁体字ならびに簡体字の「新世界訳聖書」が発刊されたと告知した。


聖書劇のテープが発行される

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、「エホバの権威に敬意を払う」と題するドラマが、カセットテープとコンパクト・ディスク(CD)とで発行されたと告知した。


手話のビデオが刊行される

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、日本語手話のビデオ、「エホバに向かって賛美を歌う」第2巻が発行されたと告知した。


よい聖書研究を

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、読者に対し、聖書研究の習慣を吟味し、改善するよう勧める記事を掲載した。


聖書研究の目標

「わたしたちの王国宣教」2001年10月号は、人々に聖書を教える目的を論じる記事を掲載した。


姿を消しつつある信仰

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、「真の信仰は今でも存在するか」という論点を取り上げた特集記事を掲載した。
多くの人にとって、信仰はもはや形式にすぎなくなっている。
そのような世の中でも、「神を求め、ほんとうに見いだす」ことは可能であり、信仰を持つこともできるとこの記事は述べている。


子供をしつける

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、子供のしつけに焦点を当てた、教訓的な研究記事を掲載した。
近年、多くの親が子供を育てることに難しさを訴えている。
しつけることは年々難しくなっているのである。
どのような理由が、しつけを難しくしているのだろうか。
「子どもは、愚かさを心から除くため、親による愛ある矯正を必要としています。しかし、若者はそのように正されることを必ずしも喜ぶとは限りません。実のところ、だれから与えられるにせよ、助言を不快に思う場合が多いものです」。
「親の中には、身体的に、言葉のうえで、または感情面で子どもを虐待しているという非難を恐れて、子どもを矯正しようとしない人もいます」。
しかし、クリスチャンの親は子どもをしつけることをあきらめてはならない。
しつけを成功させるために、親は何を行えるだろうか。
「子どものしつけが功を奏するためには、親は子どもとの意志疎通の道をいつも開いておくよう努めなければなりません。子どもが思っていることを話そうという気持ちになるよう、賢明な親はよい聴き手になることに努めます。親は、同情や憐れみといった神の特質を表わすことにより、子どもが過ちを犯すとしても、意志疎通の道をいつも開いておくことができます」。
これに加えて、クリスチャンの親は、子供との聖書研究を楽しいものとすることによって、特別に効果のあがるしつけを行うことができると記事は指摘している。


離れていった子供たち

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、信仰から離れていった子供たちの親にアドバイスする、励みとなる研究記事を掲載した。
クリスチャンを親に持つ子供が信仰から離れていく理由とはなんだろうか。
主な理由はこのようなものである。
「この世が提供する何らかのものを得損なっていると感じる」。
「制限が多すぎると感じる」。
「良心のとがめ、異性に対する強い関心、仲間に受け入れたいという願い」。
「親または他のクリスチャンによる偽善的と思える事柄のために、若者が神に仕えるのをやめる場合もあります」。
しかし、そのような子供たちも、聖書の教えにいっそう親しみ、その価値を理解するなら、信仰を取り戻すかもしれない。
「親は、道からそれる子どもを早まってあきらめたりしないことにより、辛抱強さの点でエホバに倣えます。希望を失うことなく、意志疎通の道を開いておいたり、意志疎通を取り戻したりする点で率先できます」。
子供が排斥されている場合はどうだろうか。
「その子どもは親と同居しているので、親が神の言葉にしたがって子を教え諭し、懲らしめを施す責任を負っていることに変わりはありません。親は、子どものかたくなな態度のさらに向こうにあるものに目を向けるようにし、心の内面を察するように努めなければなりません。親は立ち直りのための手順を開始し、それを進めてゆくよう努めることができます」。
最後に記事は、このように述べて読者を励ましている。
「親は、放とうの子が本心に立ち返るのを助けるため、考え得る聖書的な手段をすべて用いるべきではないでしょうか」。


「ものみの塔」誌が美談を紹介

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、あるエホバの証人が地元の州知事に証言した結果、得られた好意的な反応を紹介する記事を掲載した。


忠節、愛ある親切

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、聖書の「ヘセド」を取り上げた教訓的な記事を掲載した。
ヘブライ語ヘセドには広い意味があり、「忠節」、「愛ある親切」などの訳語が充てられている。
「聖書で言う忠節(ヘセド)には、契約を忠実に守る以上の意味があります。それには、愛着という概念に加えて、他を益するための積極的な行動を取ることが関係しています」。
記事は、読者がヘセドの意味をより理解するために、アブラハム、モーセ、ダビデ、イスラエル、人類に対するエホバの「ヘセド」を取り上げた。
さらに記事は、読者が、神と隣人、配偶者や家族や友人に対して「ヘセド」を実践するよう励ましている。


「ものみの塔」誌が手記を掲載

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、イングランドで旅行する奉仕者として奉仕し、ギレアデ学校を卒業した後、ポルトガルとスペインで宣教奉仕を行った、エリック・ベバリッジとその妻ヘイゼルによる手記を掲載した。


「神の休み」とは

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、聖書のヘブライ人への手紙 4章で言及されている「神の休み」とは何であるかを論じる記事を掲載した。


ヤシの木と聖書

「ものみの塔」誌2001年10月1日号は、聖書における、ナツメヤシの比喩的な用法に注意を引く小記事を掲載した。


祭りとクリスチャン

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、ハロウィンなど、宗教的な色彩のある祭りを取り上げた特集記事を掲載した。
この記事は、ハロウィンについては、「信徒の心から異教の信条を取り去ることができなかった教会が、それをたた“キリスト教”の仮面で隠した」ものと指摘し、そのような祭りをクリスチャンが行うことに対し否定的な意見を述べた。


聖書クイズ

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、聖書クイズを掲載した。


ビザンティン帝国

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、ビザンティン帝国を取り上げた教育記事を掲載した。


秋と紅葉

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、紅葉を取り上げた教育記事を掲載した。


すべての人に鶏肉を

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、鶏を取り上げた教育記事を掲載した。
家禽類は世界中で食べられており、鶏はもっとも入手しやすい食材の一つとなっているが、それでも極貧の国々に住む人たちに鶏は行き届いていない。
今、それらの人たちのもとに鶏を届け、飼育の仕方を教えるための努力が払われている。
記事は、「ごく当たり前に見えるとり肉一切れといえども地球の住民の大半にとってはぜいたく品かもしれないことを考えると、豊かな国に住んでいても、身の引き締まるような気持ちにさせられます」と述べている。


神と辛抱

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、神の辛抱の限界について考える論考を掲載した。
神は愛の神であるゆえに、人の過ちを寛大に辛抱されるが、記事は、「しかし、悪行が永遠に続くのを神が許されるなら、愛に欠け、道理にかなっていないことになります」と指摘した。
記事は、神が辛抱する方であると同時に裁きを行う方でもあることに読者の注意を引き、このように述べている。
「だれであれ、神の律法を無視しておきながら、自分の行動の結果を免れるために気軽に神の許しを求めることができるなどと決して考えるべきではありません」。
「神の最終的な裁きを免れるためには、人は悔い改めなければならないことを聖書は示しています」。


クロスカントリー

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、クロスカントリー・スキーを取り上げた教育記事を掲載した。


新しい熱帯雨林

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、最近、インドで新しい熱帯雨林の存在が確認されたと報じた。


船のバラスト水に注意

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、ロンドンのデーリー・テレグラフ紙からの引用として、船のバラスト水が世界中に病気を広めていると報じた。
船のバラスト水には、1リットルあたり平均、8億3000万のバクテリアと74億のウィルスが含まれている。
船は世界各地を巡り、バラスト水を放出して、世界中の環境を危険にさらしているという。


子供とおもちゃ

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、たくさんのおもちゃを与えると、子供の注意は散漫になり、学習したり、行儀よくしたりすることができなくなると指摘した。


仕事とうつ

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、ガーディアン紙からの話として、職場において燃え尽きやうつが増加していると報じた。
英国においては、労働者のうちの3割が精神的な問題を抱えており、また1割がうつであるという。


農薬ではなく雑草を

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、トウモロコシの収穫量を上げるのに、農薬を用いるよりも雑草を植える方が効果的であることを指摘した。
そのポイントは、適切な雑草を植えることにより、トウモロコシを食い荒らす害虫を雑草の方に向かわせることにある。
このやり方は、農薬を用いて害虫を駆除する従来のやり方に比べ、60パーセントから70パーセントの収穫の増加をもたらしているという。


アーモンド

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、聖書にしばしばでてくるアーモンドを取り上げた小記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が命を救う

「目ざめよ!」誌2001年10月8日号は、同誌のおかけで命を救われた人を紹介する小記事を掲載した。


宗教と社会改革

「ものみの塔」誌2001年10月15日号は、社会を変革しようとする宗教の動きを取り上げた特集記事を掲載した。
イエスが政治には関わろうとしなかったにもかかわらず、今日のキリスト教指導者の中には政治に関与する者が多い。
その結果生み出されたものに、「解放の神学」がある。
この神学は、貧しくて虐げられた人たちを解放するための神学であるが、目的を達成しているとは言い難く、解放の神学が唱えられた地域でも問題は拡大しているというのが現状である。
「政治で勝っても、その勝利が我々の重要視する政策に変わるわけではない」。
「真の変化は一人一人の心から来るもので、選挙を勝ち進むことによって生じるのではない。我々が抱えるおもな問題は、経済的また政治的なものではなく、道徳的また霊的なものだからである」。
記事は、クリスチャンであるものも含め、人間による社会の変革は成功しないだろうと論じ、むしろ人が各自信仰の道に生き、イエスに見倣うよう説いている。
「エホバの証人は神の王国を唱道するにあたって政治にかかわることも、政府に対する反抗を扇動するようなこともありません。むしろ、イエスや1世紀の弟子たちが行なっていたと同じようにして、倫理道徳面で建設的に、そして政治に関与しない形で社会に貢献するよう努力します。エホバの証人は、義にかなった事柄を愛する人々が、それぞれの地域社会で、家族への愛、正直さ、道徳的な清さ、方正な職業倫理など、健全な聖書の価値基準を生かすことができるようにと、努力を重ねています」。


アンデスでの活動

「ものみの塔」誌2001年10月15日号は、アンデス山地でのエホバの証人の活動を紹介する記事を掲載した。


神の愛

「ものみの塔」誌2001年10月15日号は、神との愛の関係に焦点を当てた一連の研究記事を掲載した。
まず記事は、「状況が変化しても神の愛は変わらない」ことを強調した。
「神が試練を許しておられるのは、わたしたちをもはや愛していないからではありません。敗北を喫しているように思える状況においても、破れることのない愛を神がお持ちであるという保証によって、わたしたちは強められ、支えられます」。
どのような状況によってエホバの証人は試みられるのだろうか。
一つには、反対活動がある。
「敵対者が虚偽の非難をする、それも国の法廷でそうすることさえあります。クリスチャンの親の中には、子どもを憎んでいるという非難を受けた人もいます。神の律法に反する医療処置を子どもに受けさせなかったり、異教の祝いに加わるのを許さなかったためです。忠実なクリスチャンの中には、治安を乱しているという虚偽の訴えをされた人もいます。戦いに加わって同胞の人間を殺すことも、政治に携わることもしないらです。反対者の中には、マスコミで中傷的なうそを広め、エホハの証人は危険なカルトであるという虚偽の非難をする人もいます」。
しかし記事は、そのような状況の中にあっても読者であるエホバの証人が「忠節に神の愛のうちにとどまる」ことを勧めている。
どのようにクリスチャンは神の愛のうちにとどまるのだろうか。
それは、自ら神に対する愛を示し、神に喜ばれる心を持つことによってである。
そのためには、日々の聖書の学習は不可欠である。
「とはいえ、知識を頭に入れるだけでは、エホバを喜ばせる心を得ることはできません。知識が内面の本当の自分に影響を及ぼすようにするには、学んでいる事柄に心を用いる、つまりそれを心に留めることが必要です」。
さらに、行動にも注意を払うべきである。
「わたしたちは、日常生活のささいに思える分野での自分の行ないを調べなければなりません。人目につかない自宅での行ないも調べるべきなのです」。
例えば、テレビ、インターネット、テレビゲームをどのように用いているか、読者は真剣に自問すべきである。
このようにしてエホバの証人は、偽りのない、心の底からの信仰と愛を持たなければならないと記事は説いている。


西アフリカの宣教者

「ものみの塔」誌2001年10月15日号は、西アフリカの宣教者の生活を紹介する記事を掲載した。
「クリスチャンの宣教者は冒険を求めに行くのではない」。
その活動は地味で苦労の多いものである。
その上、「宣教者は、仕えてもらうためではなく、仕えるために派遣されている」ので、何事も謙遜であるよう努力しなければならない。
また、宣教奉仕を愛し、さらに人々を愛していなければならないと記事は指摘している。


契約の箱のさお

「ものみの塔」誌2001年10月15日号は、契約の箱を運ぶためのさおに関する聖書の記述の意味するところを考察した。
さおに関する記述の中にはやや難解なところがある。
幕屋の中に契約の箱が置かれた時、箱は垂れ幕のせいで見えなかったが、さおは見えたという記述である。
さおは契約の箱より長いため見えるのであると聖書は述べているが、どのように「見える」のであろうか。
記事は、垂れ幕の両端と壁との間に隙間があり、その隙間からさおが見えた可能性がある、あるいは、大祭司が垂れ幕をくぐるときに、垂れ幕が開いてさおが見えるのではないかと述べている。


増える自殺の問題

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、自殺を取り上げた特集記事を掲載した。
「自殺率は、世界じゅうでここ45年間に60パーセント増加しました」。
「米国の高校生のうち、過去1年間に自殺について本気で考えたことを認めた人は27パーセント、自殺を試みたことがあると述べた人は8パーセントでした」。
なぜ、自殺が増えているのだろうか。
「自らの命を絶つ人の多くは、死にたいと思うよりも、「生じている事柄を終わらせたい」と思うのです」。
記事は、自殺の問題は、生じている問題よりも、「物事のとらえ方」が大きく関係していると指摘し、種々のアドバイス、援助の手引きを示している。


仕返しをすること

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、仕返しをすることについて考える論考を掲載した。
「怒るのが正当な場合も確かにあります。しかしそれでも、制御しなければ義憤も悪い結果を生む可能性があります」。
「制御されない怒りは、強さではなく弱さのしるしです」。
記事は、復讐をしたいという衝動に駆られたとき、「イエス・キリストの模範を思い出す」よう読者に勧めた。
最後に記事は、このように述べて読者を励ましている。
「あなたも怒りを抑えることを学ぶことがでます」。


グランド・ティートン

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、グランド・ティートン山にあるグランド・ティートン国立公園を取り上げた特集記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が手記を掲載

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、10人娘の一人として生まれた、エスター・ロサーノによる、その家族を紹介する手記を掲載した。


うじで治療

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、うじ虫治療を紹介する小記事を掲載した。


エルサルバドルの救援活動

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、エルサルバドルでエホバの証人が行った救援活動を報告する記事を掲載した。
2001年1月13日にマグニチュード7.6、2月13日には6.6の地震がエルサルバドルを襲った。
エホバの証人は、被災地の人々を助けるために救援物資を贈り、仮設住宅を設置したと記事は述べている。
エホバの証人は模範的な救援組織として知られている。
この度も、国家緊急委員会の役員からエホバの証人の救援活動は賞賛されたという。
秩序が保たれており、物資の取り合いが生じていない救援拠点はエホハの証人の拠点しかなかったからである。


軽犯罪に社会が敗北するとき

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、欧州評議会からの話として、ヨーロッパにおいて軽犯罪の増加が深刻になっていると報じた。
欧州評議会は「それを食い止めようとするヨーロッパの意志が徐々に弱まり、敗北し、こうして文明社会の基盤となる法の支配が破綻する」事態を恐れているという。


テクノ・ストレス

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、テクノ・ストレスに読者の注意を喚起した。
電子メールなどの新しいテクノロジーの普及は、私生活と仕事との区別をあいまいにし、人々を忙しくして疲弊させてしまうと記事は指摘している。


マラリアの脅威

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、ザンビアでこれまで用いられてきた抗マラリア薬に対するマラリアの耐性が向上し、使い物にならなくなっていると報じた。
現在、ザンビアではより効果のある新薬への切り替えが進んでいるという。


大学でもスキル教育

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、マサチューセッツ工科大学で行われている、全生徒を対象にした「エチケット講習」を紹介した。 それは、大学に入ってくる生徒たちのマナーが全くなっていないからだと記事は述べている。


ベトナムで新種発見

「目ざめよ!」誌2001年10月22日号は、ベトナムで過去10年ほどの間に発見された生物の幾つかを紹介する小記事を掲載した。


強さを求める

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、「強さを求めてエホバに頼る」と題する、励ましとなる記事を掲載した。


予定を調整する

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、エホバの証人各自が、聖書の研究のためにどのように時間を割くことができるかを論じる記事を掲載した。


家庭聖書研究を取り決める

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、「家庭聖書研究を取り決めることを意識して11月の宣教に取り組む」と題する討議の筋書きを掲載した。


新しいパンフレット

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、ものみの塔聖書冊子協会から「聖書についてもっと知りたいと思いませんか」と題するパンフレットが発行されたことを告知し、また、このパンフレットの用い方を指導する記事を掲載した。


若い人と知覚力

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、年若い読者に向けて、「知覚力を培う」と題する教訓的な記事を掲載した。
現代の若者は様々なストレスや悩みにさらされている。
信仰のうちにしっかり立ち続けるには、励ましが必要である。
そこで、若者である読者は「み言葉で定期的に自分を養い、神の霊に依り頼み、神の組織に固く付く」必要があると記事は論じた。
この点で助けとなったのは、昨奉仕年度に開催された、「エホバの証人の特別一日大会」である。
記事はそのプログラムの内容を振り返り、読者を教え諭した。
例えば、その大会では、「悪に打ち負かされないために、聖書に対する理解力を培い、それを成長させる」ことが勧められた。
「世の人が正邪を見分けられなくなっている」からである。
記事は、より具体的に生じている問題を扱い、このように指摘した。
「残念ながら、霊的につまずいてしまった人たちもいます。なぜでしょうか。エホバから見て善良で廉直な事柄に注意を集中していなかったためです。その結果、非聖書的と思える内容のラジオやテレビの番組、人を堕落させる種類の音楽やコンピューター・チャットルームなどの悪影響のえじきとなってしまいました。賢く行動することにより、不道徳な人や愚鈍な人、また邪悪な人に影響されるのを避けられます」。
記事は最後に、クリスチャンの若者が「どんな目標を持つべきか」と問いかけ、それは「正しいことも悪いことも見分けられる」ようになるために「自分の知覚力を訓練する」ことであると述べている。


会計検査

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、エホバの証人の各会衆が会計検査を行い、その内容を会衆に発表するよう指示した。


ベテル訪問

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、エホバの証人の支部施設(通称ベテル)を訪問する人たちに対し、その際には品位のある身だしなみをするよう要請した。


ものみの塔聖書冊子協会が聖書を発刊

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、「新世界訳聖書」デラックスポケット版が、中国語簡体字ならびに繁体字で発行されたことを告知した。


大会の報告

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、今年の夏に開催された、外国語ならびに手話での大会に言及した。


ものみの塔聖書冊子協会が新しいビデオテープを発行

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、医療機関ならびに医師向けの「無輸血―医療はその課題に取り組む」と題するビデオが刊行されたことを明らかにした。


無輸血医療の前進

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、無輸血医療を促進する、医療機関連絡委員会の活躍により、無輸血で医療を行う病院が増えていると報告した。


新しい取り決め

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、同年7月から始まった、“徹底的な証しのために協力する”の取り決めの進捗状況を報告した。


ビジネス街での奉仕

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、2000年12月から始まった、組織的なビジネス街での聖書伝道の進捗状況を報告した。


愛と聖書伝道

「わたしたちの王国宣教」2001年11月号は、愛と聖書伝道との関連を示す記事を掲載した。
記事はこのように述べている。
「無関心や反対に面しながらも戸口から戸口へと訪ね続けるには、神と隣人への愛が必要です」。
「わたしたちは、エホバの愛に対する感謝に動かされると、王国の音信を人々に伝えようとしてあらゆる手段を用いるようになります」。


良心を訓練する

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、「あなたの良心を守ってください」と題する啓発的な特集記事を掲載した。
「わたしたちの霊的、道徳的、ひいては身体的健康も、道徳上の正確な基準に導かれた、鋭敏な良心に依存しています。残念ながら、今日の世の中では、そうした正確な基準は急速に失われるか、無視されています」。
その結果、社会は混乱を見ており、「陰鬱な報いを刈りとっている」と記事は指摘した。
そのような問題に対処するためにはどうすればよいだろうか。
聖書の教えに導きを求めるべきであると記事は指摘した。
特集記事は、神の言葉によって良心を訓練し、守るべき具体的な例を取り上げ、その価値を読者が理解するよう助けている。


辛抱

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、辛抱を取り上げた特集記事を掲載した。
記事は最初に、聖書の神エホバが辛抱の神であることを指摘した。
「エホバの辛抱強さは愛の表明であり、力を行使する点での神の知恵を明示するものです」。
では、読者はその辛抱にどのように応えるべきだろうか。
「神の是認を得て救われるために、自分がどこまで神の辛抱強さを必要としているかは、だれも十分には知り得ない点です。パウロは聖書の中で「恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい」と助言しています」。
神が示した辛抱強さを自分自身が示すことも重要である。
「エホバは人類に対して辛抱強さを示しておられますから、わたしたちにも、「すべての人に対して辛抱強くある」という道義的な務めがあります。これは、エホバの証人ではない家族、隣人、職場の同僚、同級生などに対してもよく辛抱するということです」。
「愛があれば、辛抱しつつ互いに忍ぶことができ、人はみな不完全で、欠点や短所があるということを忘れないですみます。愛は、思いやりを働かせ、快く許すよう人を助けます」。
記事は、最後にこのように述べて読者を励ましている。
「エホバの辛抱強さが知恵の表われであるという点を強く確信できますように。その辛抱強さは、わたしたちの救いとなり、宣べ伝えて教えるわたしたちのことばを聴く人たちの救いともなります。わたしたちは、愛、親切、善良、温和、自制などの霊の実を培ってゆけば、喜んで辛抱する者となれるでしょう」。


「ものみの塔」誌が手記を掲載

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、エホバの証人の世界本部で長年奉仕した、ラッセル・カーズンによる手記を掲載した。


宗教的寛容の日

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、ポーランドのある学校で行われた「宗教的寛容の日」の行事を紹介する記事を掲載した。
この日、他の宗教の信者たちに混じって、エホバの証人の生徒もスピーチを行ったという。


寄付制度について

エホバの証人の組織は、「完全寄付制」を採用し、全ての資金を、物品の交換によらない自発的な寄付によって得ているが、「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、その寄付制度について読者に情報を提供する記事を掲載した。


アブラハムはどこで?

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、アブラハムとエホバとの契約は、ハランで結ばれたのか、それともウルで結ばれたのか、という質問を考慮した。
この記事は、結論としてこう述べている。
「エホバはアブラハムとの契約をウルで結び、それをハランで再確認されたのであろうという結論に達するでしょう」。


熱帯林より温帯林

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、森林破壊の以外な面を紹介する記事を掲載した。
「北半球の国々には熱帯雨林のことを憂慮している人が少なくないが、自分たちの裏庭にある温帯林が、あらゆるタイプの森林の中でも一番ひどく断片化され、荒廃していることに気づいていないかもしれない」。
記事は、環境を保護するうえでの神の働きに注意を向け、「地上の住民が汚染のない世界で永遠に楽しく生活できる時代が訪れる」と述べている。


ドメスティック・バイオレンスにさらされる妻たち

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、夫から暴力を振るわれる妻の苦しみを取り上げた特集記事を掲載した。
この記事はまず、「配偶者を打ちたたくことは神の目から見てゆゆしい罪である」と指摘し、妻を殴る夫がこの問題を克服すべきことをはっきりと示した。
もしもエホバの証人の中にそのような夫がいた場合、その者は除名処分を受けることになる。
そこで、妻に暴力を振るう男性は、自分の行動が正しくないことを認め、自分の歩みを改めようと願い、そのための助けを求めなければならない。
「暴力を振るう人が自らの行ないを改めるのに必要なのは、妻を殴らないことだけではありません。妻に対して全く新たな態度を身に着ける必要があるのです。神についての知識を得ると、人は、自分の妻を召使いのような存在ではなく「助け手」、また何か劣ったものではなく『誉れある』者とみなすようになります。また、同情心を示すことや、妻の意見に耳を傾けるべきことも学びます」。
この記事は、暴力を振るわれる妻の苦しい立場にも注目している。
「逃げ場を持たない女性の無力な状況……一、二週間くらいならかくまってくれる友達もいるかもしれません。しかし、その後はどうすればよいのでしょうか。子供たちの世話をしながら仕事を見つけ、家賃を払ってゆくのは考えただけで気がくじけます。家を出てはみたものの、居場所を突き止められ、力ずくで、あるいは言いくるめられて連れ戻された人もいます。こうしたことを理解しない友人たちは、彼女は手荒な扱いを受けても嫌がらなかったと誤解するかもしれません」。
「配偶者に暴力を振るう人の多くは、自分の行動の責任を否定して、妻が自分を怒らせるからだと主張します。実際には、暴力を振るわれている妻のほうが、夫を鎮めようと並々ならぬ努力を払っている場合が少なくないのです」。


グローバル経済の幻想

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、世界のグローバル化がもたらした問題を取り上げた小記事を掲載した。
経済のグローバル化は「破滅寸前の自然環境、空前の社会不安、大半の国における経済の混乱、貧困の増大、飢え、土地を所持していない状態、移住、社会秩序の崩壊など」をもたらしてきたと記事は指摘した。
この問題を克服するための国際的な努力についてはどうだろうか。
記事はアメリカの著名な富豪であるソロス氏の意見を紹介している。
「個人の自由や人権や環境を保護したり、社会正義を促進したりする力のある国際組織はない。平和を維持する組織など言わずもがなである。組織はあるが、そのほとんどは国の諸団体であり、国家は共同の利益より、自国の利益を優先する。国際連合はその性質上、国連憲章前文に含まれている約束を果たすことができない」。


カルタゴ

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、古代都市カルタゴ、およびカルタゴ人を取り上げた教育記事を掲載した。


リーゼンラート

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、オーストリアのプラーターにある大観覧車を取り上げた教育記事を掲載した。


マタトゥ

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、ケニアのバスを取り上げた教育記事を掲載した。


薬を飲む前に

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、薬を賢く用いるための実用的な提案を載せた小記事を掲載した。


神の力の行使

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、神が人に対して力を行使するのは正当か、という疑問を扱った考察を掲載した。
記事は、むしろ、神が力を行使することによって、神の正当性は立証されるのだと論じている。


テレビの悪影響

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、子供たちに対するテレビの悪影響に読者の注意を引いた。
「小児科医たちは、子どもの寝室や子どもが番組を勝手に選べる場所に、テレビを置かないよう親に勧めている。また、食事中にテレビをつけるのをやめ、子どもがテレビを見る時間を1日2時間以内、できれば1時間以内に制限すべきである」。


アメリカ最大の地下水層

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、アメリカ最大の地下水層であるグアラニー帯水層の調査が完了したと報じた。


「目ざめよ!」誌が命を救う

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、「読者からの声」として、「目ざめよ!」誌の記事が人の命を救ったという美談を紹介した。


モルヒネの使用

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、読者からの異議に応える形で、クリスチャンがモルヒネを用いることの是非を論じた。
記事は、「クリスチャンが、薬物のもたらすスリルや高揚感を得るためだけにそれを使用するのは正しくない」としながらも、「ある医療上の理由があって、医師の指示のもとに鎮痛剤を受け入れることについては、スリルを求めているとは言えない」と答えている。


インディアン局設立記念式典

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、米国内務省インディアン局の局長が、インディアン事務局設立175周年式典で行ったスピーチを紹介する小記事を掲載した。


子供をしつける

「目ざめよ!」誌2001年11月8日号は、子供のしつけを取り上げた広告記事を掲載した。
「子どもが何をしても褒めてばかりいると問題が起きます」。
「子どもが間違ったことをしても親があえてそれを正そうとしないなら、実際には子どもに害を及ぼしていることになります」。
しかし、懲らしめには「行き過ぎ」の問題がつきまとう。
記事は、そのような問題を回避しつつ、巧みに子どもをしつけるために、ものみの塔聖書冊子協会の発行する「幸せな家庭を築く秘訣」と題する書籍を入手するよう読者に勧めている。


イエスを救い主とする

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、イエスの救いに焦点を当てた特集記事を掲載した。
キリストが救い主であるということを知っていたり、信じている者は多い。
しかし、「どのように?」と聞かれると、答えることができないことの方が多いようである。
そこで記事は、「わたしたちの救いに関してイエス・キリストが果たす役割を理解し、イエスに信仰を働かせなければなりません」と述べた。
記事は、贖いの教理の詳細を分かりやすく説明するものとなっている。


新世界訳聖書

「ものみの塔」誌2001年11月1日号は、新世界訳聖書の歴史や特徴を取り上げた記事を掲載した。
この記事によると、分冊を含めると、新世界訳聖書はすでに41の言語で入手できるという。


詩編のことばによって生きる

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、聖書の詩編90編と91編を逐語的に解説する内容の、一連の研究記事を掲載した。
記事は、詩編の歌がクリスチャンの生き方にどのように反映されるかを教え諭している。


偽善に対処する

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、偽善に対処することをテーマとした論考を掲載した。
「人々が崇高な目的を語り、誠実さをにじませているとしても、それなりに用心深くあることが必要です」。
「愛があるように見えても、実際は自己中心的で、神の言葉に基づかない自説を推し進める人に欺かれてはなりません」。
一方で記事はこう述べている。
「しかし、このようにするからといって、人の動機をすべて疑うべきだというのではありません」。
「人がときどき偽善的に思えることをするからといって、性急に偽善者のレッテルを貼ることがないように注意しなければなりません」。
また記事は、聖書から、「あなた方の愛を偽善のないものにしなさい」と勧め、このように読者を諭している。
「愛と信仰が純粋で、利己心や欺まんに汚されていなければ、他の人はわたしたちを信頼するでしょう。わたしたちは周囲の人々にとって真の力と励ましの源になれるでしょう」。


スキタイ人

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、聖書にも言及があるスキタイ人を取り上げた教育記事を掲載した。


蛇はどのようして話したか

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、エデンの園にいた蛇がなぜ言葉を語ることができたのかという質問を取り上げた論考を掲載した。
記事は、聖書から幾つかの点を論じた後、実際には蛇ではなく悪魔サタンが言葉を語ったのであり、蛇は利用されたにすぎないと答えている。


ノアの大洪水と現代

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、ノアの時代に生じた大洪水と、ハルマゲドンとに読者の注意を引く記事を掲載した。
イエスは「人の子の臨在はちょうどノアの日のようです」と述べた。
そこで、記事は、現在の「終わりの日」とノアの時代とを比較して、クリスチャンの読者が何を学ぶべきかを説いている。


殉教するとしても

「ものみの塔」誌2001年11月15日号は、信仰のゆえにナチスの迫害を受け、処刑されて死んだ、フランツ・ドロズグの、最後のメモを紹介する小記事を掲載した。
メモにはこのように記されている。
「親愛なる友へ。ルペルト、今日、死刑を宣告された。悲しまないでくれ。君と君の家のみなさんに愛を送る。神の国で会おう」。
このメモは、彼の信仰が偽りのないものであったことを証明するものだ、と記事は述べている。


いのちのつな

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、「生命の綱を守るのはだれか」と題する特集記事を掲載した。
記事は、こう述べている。
「人間は、大きな全体の一部にすぎません。地球上の生物すべてには、神から与えられた役割に応じた持ち場があります」。
「人間社会には、人類の現在と将来の福祉のために、この惑星の居住性を守り、生物の豊かさを責任を持って管理する倫理的な責務があります。そのためには、責任感が必要です」。
「時間は決定的な要素です。機敏かつ緊急に行動することが大いに必要です。絶滅への流れを逆転させるには、人間が、地球と地上生物の扱い方を緊急に変化させる必要があります」。
とはいえ記事は、人間にはその責務がありながら、それを果たす力がないと指摘した。
記事は、そのような問題には神が介入されるだろうと述べている。


子供に本を読み聞かせる

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、「子どもに本を読んで聞かせるのはなぜですか」と題する啓発的な記事を掲載した。
記事は、小さな子どもを持つ親に対し、なぜ本を読み聞かせるのか、どのように本を読み聞かせることができるかを指導している。


カメオ

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、イタリアの貝殻細工を紹介する記事を掲載した。


刑務所での聖書伝道

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、アトランタ刑務所におけるエホバの証人の教育活動を報告する記事を掲載した。
この刑務所で行われたエホバの証人による最初の教育活動は、当時のものみの塔協会の会長と役員たちによって行われた。
現在でも、活動はよい成果を生み出しており、「ボランティア・トゥデー」でもその活動が特集されたほどだという。
1987年には、大きな暴動が刑務所内で起きたが、エホバの証人の聖書研究のクラスの生徒となった囚人たちは、命を危険にさらしてまでも、その暴動に加わろうとしなかったという。
「かつては、けんか早く、殺すか殺されるかの殴り合いをしたそれらの人たちは、暴力行為や破壊行為に加わらずに中立を保ちました。凶悪な犯罪者でさえ平和を愛するクリスチャンに変化させる聖書の力を示す、実に強力な証しです」。
記事はこのように報告している。
「釈放されて何年もたった後でも、かつての研究生がクリスチャンとして良い行状を保っていることを知ってわたしたちは幾度も興奮を味わっています」。


からまれたとき

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、「若い人は尋ねる ― 腹を立てている人にどう接したらよいだろう」と題する、啓発的な記事を掲載した。
記事は、聖書の言葉を引用しつつ、腹を立てている人にからまれたときに、どのように受け答えをすることができるか、読者である若者たちを指南している。


赤血球

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、赤血球を取り上げた教育記事を掲載した。


49歳は危険

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、朝日新聞からの引用として、49歳になった男性の犯罪率が高くなっていると報じた。
50歳は人生の岐路となるため、人生の悩みの多い人はこの歳に自暴自棄になってしまう傾向があるらしいと記事は解説している。


アメリカで宗教調査

「目ざめよ!」誌2001年11月22日号は、アメリカで行われた宗教調査の結果、クリスチャンを自認している人のうち、毎日聖書を読んでいるのは16パーセントにすぎないことが明らかになったと報じた。


伝道で聖書を用いる

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、エホバの証人の伝道者たちが、もっと聖書を用いるよう励ます記事を掲載した。
記事は、「伝道のさい聖書をまれにしか用いない」人がいると指摘し、「宣教奉仕のさい、単に興味深い話題で話すだけでなく、聖書を用いることが大切です」と述べた。
記事は最後にこう述べて読者を励ましている。
「神の言葉を正しく扱う点で熟達するにつれ、宣教における確信と喜びは増してゆくでしょう」。


2002年の「神権宣教学校」に備える

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、年が変わるのに合わせ、エホバの証人の教育課程である神権宣教学校に読者の注意を引く記事を掲載した。


クリスチャンとして幸福となるには

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、「あなたの人生を最良のものにしてください」と題する討議の筋書きを掲載した。


会衆の必要

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、12月24日から始まる週の奉仕会において、各会衆がその必要とすることがらを取り上げて扱うよう指示した。


長老を援助する

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、奉仕の僕たちが長老たちを補佐する点で率先すべきことを扱った討議の筋書きを掲載した。


子供たちをよく育てる

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、親たちが子どもの人格形成にどのように貢献できるかを取り上げた講話の筋書きを掲載した。


王国会館に注意を向ける

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、長老がエホバの証人の教会施設である王国会館の状態を取り上げた話をするよう指示した。


若者と責任

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、若いクリスチャンには、たとえ不利な状況におかれたとしても果たすべき責任というものがあることを、長老が温かい仕方で教えるよう指示し、その講話の筋書きを掲載した。


夏の地域大会に備える

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、来年の夏に行われる、『エホバの証人の2002年「王国を熱心にふれ告げる人々」地域大会』に読者を備えさせる記事を掲載した。
記事は、プログラムが金曜日から日曜日の3日間となることを告知している。


神権宣教学校の復習

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、折り込みとして、「神権宣教学校の復習」問題用紙を掲載した。
これは、2001年9月から12月までの神権宣教学校の内容に基づくものとなっている。


主の記念式

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、2003年のキリストの死の記念式が、4月16日に執り行われると告知した。


ものみの塔協会が大文字版の書籍を発行

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、ものみの塔聖書冊子協会が、「イザヤの預言 ― 全人類のための光」の大文字版を発行したと告知した。


ものみの塔協会が点字書籍を発行

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、ものみの塔聖書冊子協会が、「イザヤの預言 ― 全人類のための光」の点字版を発行したと告知した。


新しい聖書が発行される

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、中国語繁体字ならびに簡体字の「新世界訳聖書」、デラックスポケット版が発行されたと告知した。


中国語雑誌に変更

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、中国語繁体字ならびに簡体字版の「目ざめよ!」誌の発行回数が月1回になると告知した。


宣教者から学ぶ

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、「地の果てにまで」と題する、宣教者を取り上げたビデオから、クリスチャンが何を学べるかを考える記事を掲載した。


エホバに愛を示す方法

「わたしたちの王国宣教」2001年12月号は、先月号に続いて、愛と聖書伝道との関連に注目する記事を掲載した。


黄金律を実践しよう

『自分にして欲しいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません』。
聖書の“黄金律”はこのような言葉によって示されているが、「ものみの塔」誌2001年12月1日号は、この黄金律のもたらす益を強調する特集記事を掲載した。
現代社会では、黄金律を実践することは勇気あることである。
「今日のこのハイテク世界は自己中心的です。自分の都合や権利とされるものにかかわる場合、他の人のことを考える人はほとんどいません。黄金律は非現実的で時代遅れの道徳として退けられています。残念なことに、こうしたことは、神を信じると主張する多くの人々の間でさえ生じています」。
記事は、それでも黄金律に従った生き方を真剣に実践している人たちがいることに読者の注意を引き、「あなたはいかがですか」と問いかけている。


電話での伝道活動

「ものみの塔」誌2001年12月1日号は、南アフリカのヨハネスブルクで行われている、電話による聖書伝道の様子を報告する小記事を掲載した。


“心の死”にご用心

「ものみの塔」誌2001年12月1日号は、読者が自分の心をよく守り、心の健康と信仰を保ち続けるよう勧める記事を掲載した。


エホバを恐れる

「ものみの塔」誌2001年12月1日号は、「神に対する健全な恐れ」に焦点を当てた、一連の研究記事を掲載した。
「クリスチャンは、エホバを恐れることに加えて、心をこめてエホバを愛さなければなりません」。
「神への恐れは生活の二つの重要な面、すなわち神に対する態度と、神の憎まれる行ないに対する態度に影響します」。
「神への恐れには、畏敬の念と崇敬の念に加え、神の不興を買うことや神に不従順であることへの健全な怖れも含まれていなければなりません」。
神への恐れは、一方で安らぎをも生じさせると記事は指摘した。
「神への崇敬の念に基づく恐れと、畏敬の念を起こさせる神の力に対する鋭敏な意識とは、エホバに対する信頼や確信の前提となるものです。父親がそばにいると幼子は守られていると感じるのと同じように、人を導くエホバのみ手のもとで、わたしたちは安心感や確信を抱くことができます」。
「神への健全な恐れは、神に対する信頼や確信を抱かせるだけでなく、神の道を歩む動機づけともなります。敬虔な恐れを持つなら、エホバに従い、仕え、また固く付くようになります。幼い子どもが、全幅の信頼や確信を寄せる父親に文字どおりまとい付くことがあるとの同じようにです」。
さらに記事は、神への恐れと愛との関係を論じた。
「神への恐れと神への愛は密接な関係にあります」。
「神への愛は神を喜ばせたいという気持ちを抱かせ、神への恐れは神に痛みを覚えさせることを引き止めます。これらは補完し合う特質であり、相反するものではありません」。
記事はさらにこうも述べている。
「敬虔な恐れは、病的なものでも、不当に人を束縛するものでもありません」。
記事はさらに、どのようにして読者が神を恐れる者となるかを論じている。


「ものみの塔」誌が手記を掲載

「ものみの塔」誌2001年12月1日号は、ブラジルで宣教者ならびに巡回奉仕者として働き、当時エホバの証人の活動が禁止されていたポルトガルへ渡ってさらに奉仕した、マリア・ド・セウ・ザナルディによる手記を掲載した。


排斥者のために祈る

エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2001年12月1日号において、排斥者のために祈るという問題について、幾らかの見解の追加を告知した。
記事の中で統治体は、排斥され、会衆から追放された者たちにも神の憐れみと救いのみ手は差し伸べられていると指摘し、排斥者の親族がプライベートな祈りの中で、「罪をおかした人が神の霊感の言葉から力を得られるように、またエホバがその人に対しご意志にそって行動してくださるように祈る」ことは、状況により可能であると述べている。


関節炎

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、関節炎を取り上げた特集記事を掲載した。


聖書クイズ

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、聖書クイズを掲載した。


とうもろこしにキノコ

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、ウイトラコーチェを取り上げた教育記事を掲載した。


ミャンマー

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、ミャンマーを取り上げた教育記事を掲載した。


オランダ語訳における神のみ名

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、オランダにおいて新しい聖書翻訳の訳業が開始され、その際に神のみ名の訳出に関する論争が生じたと報じた。
翻訳者たちは、神の名をどのように訳出するかについて投票を行ったが、その結果は、「主」が7票、「み名」が1票、「その方」が3票、「慈悲深い方」が6票、「名をつけがたい方」が7票、「生ける方」が10票、「永遠者」が15票といった具合となった。
もっとも票を集めたのは、み名を「YHWH」とアルファベットで表記するというものだったが、最後になって採用されたのは「主」だったと記事は述べている。
記事は、エホバの証人による新世界訳聖書が神のみ名を「エホバ」と訳出していること、そしてこの表記がもっとも一般的であるということに読者の注意を引いている。


風水はどうか

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、風水を取り上げた否定的な記事を掲載した。
風水は心霊術ではないという見方をする者もいるが、記事は、それが占いの一種であることをはっきりと指摘し、それはクリスチャンの行うものではないと述べている。


コルポーター

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、中世の旅商人であるコルポーターを取り上げた教育記事を掲載した。
記事は、カトリック教会により聖書が発禁書とされる中で、彼らが果たした聖書頒布の役割と業績に読者の注意を引いている。


盗まれる教会美術品

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、フランスの「ラ・クロワ」紙からの話として、教会などから盗まれ、不正に取り引きされる美術品の数は、規制の強化にかかわらず減っていないと報じた。


バチカンが譲歩

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、イタリアとバチカンとの間でトラブルとなっていた、ラジオ電波の使用の問題に、バチカン側が譲歩したと報じた。


天使と悪魔

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、最近行われた調査により、天使の存在を信じている人が66パーセントもいることが分かった一方で、悪魔の存在を信じている人はその半分しかいないことが判明したと報じた。


大英図書館

「目ざめよ!」誌2001年12月8日号は、大英博物館とならぶ施設である大英図書館の移転と、それに伴う大英博物館の拡張を取り上げた小記事を掲載した。


イエスはどんな人だったのか

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、イエスの人間像を取り上げた特集記事を掲載した。
記事はこのように指摘している。
「20世紀に学者たちは、イエスとは実際にはだれかという質問の答えを明確に述べようとして、社会学、人類学、文学上の複雑な方法を数多く用いてきました」。
「残念なことに、現代の学者たちは、“真の”あるいは“歴史上の”イエスを探求するうちに、根拠のない憶測、的外れの疑い、事実に基づかない理論を積み重ね、その背後にイエスの真の姿を覆い隠してしまったようです」。
そこで記事は、イエスがどのような人間だったかをはっきりさせるには、これらの学者たちが、もっと聖書に注目し、聖書の述べるイエスの人格像を理解する必要があると論じている。


山上の垂訓から生き方を学ぶ

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、山上の垂訓をはじめとしたイエスの教えから、どのように現代に生きるクリスチャンが益を得るかを論じる、一連の研究記事を掲載した。
記事は、イエスの教えを学ぶ者は、ストレスが少なくなり、さらには、心のへりくだった、謙遜な者になれると諭している。
記事はさらに、今後、読者が毎日イエスの教えを実践できるよう、毎日考慮するイエスの教えのリストを掲載している。


パウロと法学

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、パウロの受難を、当時のローマの法律の観点から詳細に考察する記事を掲載した。


ギレアデ聖書学校の卒業式

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、ものみの塔ギレアデ聖書学校の第111期卒業式が、2001年9月8日に執り行われたと告知し、その内容を紹介する記事を掲載した。
卒業式では、エホバの証人の宗教団体が、聖書の教えを広めるという目的を見失わなかった団体であることが指摘された。
その団体の運営する学校の卒業生である者たちは、真のクリスチャンにふさわしい熱心さをもって宣教に取り組み、常に偉大な模範者イエス・キリストに倣うべきである。
一方で卒業生は、教条主義という罠に陥らないようにすべきであるとの指摘が行われた。
さらに式では、「奉仕の特権は神の過分のご親切(神の恵み)の表明であり、権利があって得たものでも、報酬として得たものでもない」という点が強調された。
「パウロを諸国民への使徒とするというエホバの選択は、業によるものではありませんでした。もしそうだとしたら、パウロは報酬としてその割り当ての権利を得たとか、その割り当てはパウロに与えられて当然だと思えたことでしょう。その割り当ては、年功や経験に依存していませんでした。人間的な見方をすれば、バルナバを選ぶのが道理にかなっていると思えたかもしれないのです。その割り当ては、個人の能力に基づいていたわけでもありませんでした。明らかに、パウロよりアポロの方が雄弁だったからです。それは、神の過分のご親切の表明でした」。
記事は最後に、ギレアデ聖書学校を卒業した生徒たちの模範に読者の注意を引き、このように述べている。
「あなたは、神への奉仕を拡大し、さらに産出的なものにできるでしょうか。もしそうできるのなら、この卒業生たちのように、あなたも努力を続けてください」。


聖書にしたがって懲らしめる

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、親である読者が、聖書にしたがって子どもを訓育するよう勧める小記事を掲載した。
「どの子どもも快楽を追求する傾向をもっている。制限を設けることが必要だ。そうする責任は親にある。親がそうしないなら、子どもは手に負えなくなる」。
「子どもの望ましくない特性を取り除くには、愛のこもった懲らしめが必要です。親切かつ確固とした態度で与えられる矯正は、親が子どもを気遣っている証拠です」。
「親のみなさん、あきらめないでください! 聖書の健全で実際的な助言に従うなら、エホバ神を喜ばせ、子どもの敬意を勝ち得ることになるのです」。


非信者の夫が宗教行事を行うとき

エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2001年12月15日号において、非信者の夫が自分の宗教的信条に基づいて祝祭を祝うときに、エホバの証人の妻はどうあるべきかという問題に関する見解を発表した。
記事において統治体は、エホバの証人の妻が夫に従うべきことと、エホバに従うべきこととを指摘し、「妻が自分の持つ二つの責務に関して平衡を取ろうとするのは正しいことです」と述べ、当人の良心がそれを許し、周囲の人に対して悪い影響を与えるのでない限り、ある程度、宗教行事を行う夫に妻がかかわってもやむを得ないと述べている。
なお、この見解は、この問題に関する過去の統治体の見解を追認するものである。


1年間の「ものみの塔」誌を思い返す

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、この1年間の「ものみの塔」誌の内容を振り返る一覧を掲載した。


ものみの塔索引

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、この1年間の「ものみの塔」誌の「題目索引」を掲載した。


クリスチャンと快楽主義

「ものみの塔」誌2001年12月15日号は、人が快楽主義から遠ざかるべきことを指摘する小記事を掲載した。


食べ物は安全

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、食べ物の安全性の問題に読者の注意を引く特集記事を掲載した。
記事は、この種の問題をどうとらえるかに関する論争に読者の注意を引き、「平衡とれた考え方を身に付け、極端を避けるのが賢明である」、また、「この問題について、なすべきことや避けるべきことを人に指図しないように」と述べている。


日付変更線

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、日付変更線を取り上げた教育記事を掲載した。


モスクワでのボランティア活動

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、モスクワのエホバの証人が行った、大規模な公園の清掃活動を報告する記事を掲載した。
自治体から要請を受けて結成されたエホバの証人のボランティアは、ミハルコフスキー公園から250トンのゴミを取り除き、この公園を「本当に久しぶりに」きれいにしたという。
記事は、「エホバの証人は喜んで自分たちの土地や建物の周りを美しくし、(要請があるなら)ここに述べたような共同作業にも参加します」と述べている。


「目ざめよ!」誌が手記を掲載

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、ユダヤ人である上にエホバの証人であったために、ナチスから迫害された、ラヘル・サクシオーニ - ラベイによる手記を掲載した。


分裂する英国国教会

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、1998年に行われた、アングリカン・チャーチ(英国国教会ならびに聖公会)の第13回ランベス会議を取り上げた小記事を掲載した。
この会議は、宗教的な会議と思えない世俗的な内容となってしまい、タイムズ紙が述べているように、その内容に「がく然とさせられた出席者や傍聴者は少なくなかった」という。
また記事は、この会議の中で、ウィリアム・E・スウィング主教のこの言葉を紹介している。
「宗教は悩みの種になるのをやめ、解決策を与えるようになる必要がある。宗教間の平和なくして国家間の平和はあり得ない」。


若者とデート

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、若者たちに向けて早すぎるデートの問題を指摘する、教訓的な記事を掲載した。
記事は、今の若者にとってデートが性的不品行の要因となっていることを率直に指摘し、そのような問題を読者が避け、幸福な結婚に至る賢明なデートを行うべきことを説いている。


親が読み聞かせる

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、親が子供にテレビを見せるのではなく、本を読み聞かせるよう勧めた。


アメリカで増えるモスク

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、アメリカではここ6年間にモスクの数が25パーセント増加したと報じた。


「目ざめよ!」誌索引

「目ざめよ!」誌2001年12月22日号は、ここ1年間の「目ざめよ!」誌記事の索引を掲載した。


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