JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2002年版(1)
2002年4月1日更新

引用文は適宜語尾等を修正しています

エホバの証人の年鑑、発行される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会は、「エホバの証人の年鑑」2002年版を刊行した。
 この年鑑はエホバの証人の2001奉仕年度(9月から8月)の活動を報告するものとなっている。
 昨奉仕年度、ものみの塔協会はベネズエラ、ウルグアイ、ウクライナ、マラウイ、バルバドスにおいて支部を献堂し、これにより、エホバの証人の支部施設は111となった。
 現在エホバの証人が活動している国とエリアは235、会衆の数は9万3154であり、エホバの証人最大の祝祭であるキリストの死の記念式には1537万4986名が出席したという。
 さらに、聖書伝道者の数は1.7パーセント増加し、611万7666名、費やされた聖書伝道の時間は11億6908万2225時間となった。
 法律面でも大きな進展が見られたと年鑑は報告している。
 ブルガリアでは、兵役拒否を巡ってエホバの証人と政府との間で調停が交わされた。カナダでは、ケベック州ブレインビル市において、エホバの証人の活動を12カ月おきに2カ月間のみ、それも月曜日から金曜までしか認めないとする条例が制定されたが、裁判所により無効とされた。ギリシャでは、エホバの証人の伝道活動を禁じる法律によって逮捕された証人たちの前科を取り消す法律が議会で可決された。日本では、エホバの証人を棄教させようとして監禁行為を行った、対立教派の牧師に対する民事訴訟が行われ、エホバの証人の側が勝訴した。ブルガリアとドイツでは、最高裁がエホバの証人の宗教としての立場を擁護した。
 特にカナダの件では、裁判所は、“エホバの証人は許可証の入手義務を免除され、戸別訪問による宗教活動を行う際、時間数、日数、月数、年数などの制限を受けることはない”と判決を下したという。
 さらに年鑑は、クラサオとウクライナにおけるエホバの証人の活動の歴史を掲載している。


「ものみの塔」誌の発行部数が更新される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「ものみの塔」誌は、2002年1月1日号において、同誌の発行言語数を141から144に、平均発行部数を2304万2000部から2414万7000部に更新した。


差別と平等

 「ものみの塔」誌2002年1月1日号は、平等の達成というテーマを扱った特集記事を掲載した。
 記事は、人々が平等を達成できない理由の一つに、人々の潜在的な願望があることを指摘した。
 「人は皆、少なくとも一つの点で平等に造られている。つまり、他と平等でありたくはないという願いを持つことである」。
 「人々は自分たちより上の社会階級の人々と平等であることを望んでいるのです。しかし、自分たちより下と考える人々に平等の立場を与えて、自らの特権や利益を進んで制限しようとする人はあまりいません」。
 一方、神の目には人は全て平等であると記事は指摘した。
 それに調和して、キリスト教の教えに従うなら、人は不平等の問題により対処できるようになるだろう。
 記事はこのように述べている。
 「現代のエホバの証人は、聖書の基準にしたがって生活するよう努めています。様々な社会階級があっても、神から見ればそれは無意味であることを認めています。ですから、証人たちの間には僧職者と平信徒の区別はありませんし、皮膚の色や富によって差別されることもありません」。
 「重要なのは、霊的な特質(道徳的資質)であって、社会階級ではありません」。
 「自分にある才能はいずれも神からの賜物であり、それゆえに優越感を抱く理由は一つもないということを認識しています」。
 最後に記事は、聖書に記されている、人類の諸問題を解決する「神の王国」の希望に言及し、その支配が始まるとき、「社会階級が人類の世界的な兄弟関係を分断することは二度と許されないでしょう」と述べている。


クリスチャンと福音宣明

 「ものみの塔」誌2002年1月1日号は、キリスト教の福音を取り上げた一連の研究記事を掲載した。
 創立初期のキリスト教において、クリスチャンは、「バプテスマを受けるや、福音を広めることを自分の責務と考えた」。
 エホバの証人はまさにそのようであるべきである。
 「確かに、キリスト教世界の諸教会も種々の福音伝道を後援しています。……しかし、教会員の大多数はその業に全く携わっていません。一方、献身したエホバの証人は、全員が福音宣明に携わるようにしています。良いたよりをふれ告げることが信仰の純粋さの証しであることをわきまえているのです」。
 エホバの証人は、ただ聖書の教えを広めるだけではない。
 「今日、(一般教会の)説教師の中には、イエスを信じるよう柔和な人たちに勧め、あとは自分で道を見いだすに任せる人もいますが、初期クリスチャンはそうはしませんでした。むしろ、人々を教えてイエスの弟子とし、会衆に組織し、訓練を施し、今度はその人たちが良いたよりを宣べ伝えて、人々を弟子とすることができるようにしました」。
 さらに、記事は、伝道活動に際してエホバの証人が守る幾つかのルールを指摘した。
 「エホバの証人は、エホバとその王国について知らない謙遜な人を見つける時、ある宗教がそれらの人々に対する権威を主張するからといって、良いたよりを伝えるのを控えたりはしません」。
 「当然ながら、「転向を強制する」ことは間違っています。……宗教を変えるよう人々に圧力をかけるのは間違っています。当然ながら、エホバの証人はそのような行動をとりません。エホバの証人は他の人たちに伝道する際、だれでもただ「関心がありません」と言ってドアを閉じることができるような形でそれを行います」。
 「使徒パウロは、自分の学識によって聞き手を感服させようとはしませんでした。パウロはただ、神が明言された事実、今日聖書に記されている事実のみを教えました。エホバの証人はパウロの手本に留意します」。
 最後に記事は、エホバの証人の伝道活動がどのように益となっているかを指摘し、読者を励ましている。


エホバの証人の2001奉仕年度の統計

 「ものみの塔」誌2002年1月1日号は、『全世界のエホバの証人の2001奉仕年度の報告』を掲載した。
 それによると、エホバの証人は235の国とエリアで活動し、伝道者数は611万人となった。
 また、ものみの塔聖書冊子協会は、清貧の立場にあるエホバの証人の支援のために、1年間に85億800万円を費やしたという。


ヘレン・マークスの手記

 「ものみの塔」誌2002年1月1日号は、共産主義国であったアルバニアにおける宣教に助力した、ヘレン・マークス(女性)による手記を掲載した。
 「1920年にクレタ島のイエラペトラで私が生まれて2年後、父は肺炎で亡くなりました。母は貧しく、読み書きができませんでした。私は4人兄弟の末っ子でした。黄だんのために血色が悪く、病弱でした」。
 「父の魂が天国で安らかに眠れるようにするため、母はよく墓地を訪れました。墓地ではたいてい、東方正教会の司祭に儀式を行なってもらいました。しかし、そうした儀式は安くありませんでした」。
 「身を切るように寒かったあるクリスマスの日のこと、母は自分に寄り添って足を引きずりながら歩く私を連れて、墓地から帰宅しました。今しがた、司祭に最後のお金を払ったところでした。母は子どもたちに野菜の料理をこしらえたあと、別の部屋に行きました。空腹を抱え、ほほには悲しみの涙のあとがありました」。
 「しばらくして、私は勇気を奮い起こし、司祭のところに行き、父が亡くなった理由や貧しい母が司祭にお金を払わなければならない理由を尋ねました。司祭は決まり悪そうに小声で、「お父さんは神に召されたんだ。そういうものなんだ。いずれ立ち直れる」と言いました」。
 「私はエホハの証人の発行した「死者はどこにいるか」という小冊子を読んで、父が神に召されたのではないことを知り安心しました。聖書の真理を学んで目を開かれました」。
 「兄は宣べ伝える業にとても熱心で、その熱意にいつも励まされました。そのうち、警察が私たち家族に目を付けるようになり、昼夜を問わず我が家に踏み込んでは、兄や聖書文書を探すようになりました」。
 「ある司祭が教会に戻るよう説得しに来たとき、兄が聖書から神のみ名がエホバであることを示すと、その司祭は聖書をひったくり、脅すようにしてそれを兄の顔の前で振り回し、「この本がお前を駄目にしたんだ!」とどなりました」。
 1953年に彼女は、アルバニア人である男性と結婚し、国外からアルバニアでの伝道活動を支援するようになった。
 「当時、献身した兄弟たちはアルバニアに9人いると言われていました。何年にも渡る禁令、迫害、そして厳しい監視のために、兄弟たちは非常に用心深くなっていました。顔には深いしわが刻まれていました。二人の兄弟が私を信頼したあと、まず尋ねた質問は、「『ものみの塔』はどこですか」というものでした。何年もの間、古い書籍を2冊しか持っておらず、聖書さえ持っていなかったのです」。
 「兄弟たちは政府が自分たちに対して取った残酷な仕打ちについて詳しく話してくれました。その中に一人の愛する兄弟の経験があります。その兄弟は、近づく選挙で政治的中立を保つ決意をしていました。国が全てを掌握していたので、兄弟がそのような立場をとれば、家族は食糧の配給をまったく受けられなくなります。また、結婚している子どもたちやその家族は、父親の信仰と関わりがなくても、みんな刑務所に送られることになります。この兄弟の家族の者たちは、恐れのために投票の前夜、父親を殺して遺体を井戸に投げ込み、あとで父親は恐れのため自殺したのだ、と主張しました」。
 「それら仲間の兄弟たちの貧しさに心が痛みました。けれども、それぞれに20ドルの紙幣を渡そうとしたとき、兄弟たちは「いただきたいのは霊的食物(聖書文書)だけです」と言って辞退しました」。
 「国民の大部分を洗脳して無神論者にすることに成功した全体主義体制の下で、それら兄弟たちの信仰と決意は、他の場所の証人たちに劣らず強いものでした」。
 彼女は現在81歳となっているが、このように自分の人生を振り返っている。
 「これまでの人生を振り返ってみますと、夫と私の労苦が無駄ではなかったと確信することができます。全時間宣教という生涯の仕事は、ほかに就けたかもしれないどんな職業よりも有意義なものでした。聖書の真理を学ぶよう助けた大勢の愛する人たちのことを考えると、胸がいっぱいになります」。


より人材を育てる

 「ものみの塔」誌2002年1月1日号は、エホバの証人社会における人材開発の取り組みを取り上げた記事を掲載した。
 現在、エホバの証人の社会においては、監督(長老)となる人材の養成が急務となっている。監督の立場にある者たちの多くが、医療機関連絡委員会、地区建設委員、大会ホール委員などの職に就いているからである。
 記事は、聖書の教えに調和しつつ、どのように人材開発に取り組めるかを教えるものとなっている。


ヘンリー8世

 「ものみの塔」誌2002年1月1日号は、ヘンリー8世と聖書をテーマにした小記事を掲載した。
 イングランドにおいては「聖書についての無知の時代」が幾世紀も続いていたが、ヘンリー8世は、聖書を出版し、人々にそれを読むよう推奨することによってその状況を打破することに成功したと記事は述べている。


「目ざめよ!」誌の発行部数が更新される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「目ざめよ!」誌は、2002年1月8日号において、同誌の発行言語数を86から87に、平均発行部数を2068万2000部から2115万3000部に更新した。


アメリカの同時多発テロ

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、2001年9月11日に起こった、アメリカの同時多発テロを取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、世界貿易センターのツインタワービル崩壊に際してエホバの証人が行った援助活動を紹介している。
 「惨劇の最初の二日間に、70人ほどの人が(近くにある)エホバの証人の世界本部に非難しました。ホテルの部屋と荷物を失った人たちには、泊まる場所と着替えが提供されました。また、食事も備えられました。そして恐らくもっと重要なこととして、経験を積んだクリスチャンの長老たちが感情面で支えとなりました」。
 「エホバの証人は、グラウンド・ゼロと呼ばれるようになった場所で働く捜索救助隊員にも、必要な非常用装備や物資を送りました。救助現場に消防士を運ぶための輸送手段も消防局に提供しました」。
 「地元マンハッタンにあるエホバの証人の会衆の長老たちは、グラウンド・ゼロ地区への立ち入りを許され、現場の救助隊員に話しかけて慰めました。その奉仕を行った人たちは次のようにコメントしています。「私たちが聖句を読むと、隊員たちは目に涙を浮かべていました。隊員たちは、来てくれてほんとうにありがとう、こういう慰めをまさに必要としているんだと言いました」。」。
 記事は、この時に消防隊員や他の人たちが行った勇気ある善行に注意を引き、このように読者に問いかけている。
 「このニューヨーク市で起きた惨事のような出来事を見聞きすると、わたしたちすべては自分の生き方について考えさせられるはずです。利己的な事柄を追及するだけのために生きているのでしょうか。それとも他の人々の幸福に寄与することを行なおうとしているのでしょうか」。


シャンパン

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、シャンパンの発祥と製造方法を取り上げた教育記事を掲載した。


ニュージーランドのいるか

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、ニュージーランドのイルカを取り上げた教育記事を掲載した。


新年の祝いとクリスチャン

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、クリスチャンと新年の祝いというテーマを取り上げた論考を掲載した。
 記事は、「新年の祝い事は、多くの場合、聖書の非とする過度の飲食が特徴となっている」、また、「異教の習慣に源を発している」と指摘し、新年の祝いを祝うことが、「神の不興を買うことになりかねない」と述べている。


オリンピック国立公園

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、オリンピック国立公園を取り上げた教育記事を掲載した。


パンパイプ

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、ソロモン諸島の民族楽器、パンパイプを取り上げた教育記事を掲載した。


刑務所からの声

 「目ざめよ!」誌2002年1月8日号は、読者からの声として、刑務所の受刑者たちからの、エホバの証人に対する感謝の言葉を掲載した。


王国をいつも

 ものみの塔聖書冊子協会の発行する「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、経済面での問題に対処しつつ、聖書伝道に邁進することをテーマとした記事を掲載した。


伝道と責任

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、聖書伝道と責任の所在について取り上げた記事を掲載した。
 クリスチャンは聖書伝道のために最善の努力を払うが、「人がそれを見いだす」ようにする責任は神にある。「エホバは愛と知恵と公正の神である」ので、クリスチャンは、神が「ふさわしく事を行なわれ」、救われるべき人たちをすべて救ってくださることに確信を抱くと記事は述べている。


輸血拒否の備え

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、エホバの証人が緊急時のためにあらかじめ用意しておく、輸血拒否のための法的書面の更新を扱った筋書きを掲載した。


毎日聖書の言葉を

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、家族で毎日聖書の言葉を討議するよう勧めるプログラムの筋書きを掲載した。


会衆の必要

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、エホバの証人の各会衆がその必要を考慮するよう求めた。


巡回訪問のお知らせ

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、2月以降、巡回監督は「危険に満ちた世にあって安全を見いだす」と題する聖書講演を各会衆で行うと告知した。


キリストの死の祈念式に備える

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、3月28日に執り行われる、キリストの死の記念式の準備を指示した。


ものみの塔聖書冊子協会が新しい教科書を発行

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、2001年の地域大会で先行発表されていた、「神権宣教学校の教育から益を得る」と題する、神権宣教学校の新しい教科書の受注を開始したことを告知した。


寄付の勧め

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、ものみの塔聖書冊子協会に対する寄付を勧める告知文を掲載した。
 記事は、寄付をする人が定期的に定額の寄付を行うよう勧めている。


人々の疑問に答える

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、聖書伝道において人から尋ねられるかもしれない質問の一覧を掲載し、読者がこの質問を考慮するよう勧めた。


子供の訓練

 「わたしたちの王国宣教」2002年1月号は、クリスチャンの親が親が子供をどのように訓練できるかを取り上げた記事を掲載した。


エホバを信じる

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、「あなたは実在する神を信じていますか」と題する特集記事を掲載した。
 記事は、実在する神がただエホバであることを指摘し、その神こそが信ずべきものであることを説いている。


聖書伝道はさわやかさの源

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、聖書伝道と喜びとの関係を扱った記事を掲載した。
 記事は、聖書伝道は、それを行う者に充足感を与え、またその音信に耳を傾ける者たちに慰めを与えると指摘した。
 さらに記事は、聖書伝道を行うエホバの証人の意気込みについて触れ、「宣べ伝える使命の重要性や、世界的な規模という区域の広大さにエホバの証人が圧倒されていないことは明かです」、また、「無関心や反対によって意気がくじかれることもありません」と述べている。


善良さを示す

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、善良という特質を取り上げた一連の研究記事を掲載した。
 エホバは善良な神である。その表明は、神の愛するみ子、イエス・キリストを贖いとして備えられたことによって、確かに示されている。さらに、その愛は永久に存続するものである。
 神の善良さのもう一つの表れは、神の言葉を聖書の形にして人間に与えたことである。
 「わたしたちは神の善良さのこうした表われゆえに神を賛美し、他の人たちと接する際に慈しみ深くあるよう努めます」。
 「確かにわたしたちは、愛ある天の父がイエスの犠牲を通して許しのための備えを設けてくださったことに、深く感謝しています」。
 「わたしたちは、エホバの僕として、この特質を表わすよう力を尽くすべきではないでしょうか」。
 「エホバへの崇敬の念に基づく恐れの気持ちは、エホバをその善良さゆえに賛美したいとの願いを抱かせます。それはまた、『エホバをたたえ、ほめたたえ、その王権の栄光を知らせる』ようわたしたちを動かします」。
 では、読者は具体的にどのように振る舞うことができるだろうか。
 「わたしたちは、エホバが慈しみに富む方であることを理解しているので、宣べ伝える相手の人たちを含め、他の人たちと接する際に慈しみ深くあり、好感を与えるよう促されます」。
 「神は“怒ることに遅い”ので、わたしたちも善を行なっていきたいという願いに促されて、仲間の信者のささいな落ち度を忍び、その良い特質に目を留めます。エホバの愛ある親切は、非常な試みとなる状況のもとでも忠節な愛を表すようわたしたちを動かします」。
 記事は、そのようにして人が善良さを示すためには、しっかりとした自己管理が必要であることを示した。
 「悪に囲まれている中で善良な行ないを続けるには、神の霊に満たされ、自分の歩き方(生き方)を見守る必要があります」。
 「引き続き善良さを実践するためには、敬虔な知恵を働かせている人として歩むよう、自分をしっかり見守らなければなりません。ゆゆしい罪を避け、聖霊に満たされ、それによって導かれるようにしなければなりません」。
 最後に記事は、善良さを実践する面でクリスチャンが直面するかもしれない試練に読者の注意を引き、こう述べている。
 「新たな試みに直面するなら、聖書からの光(啓発)を求め、エホバの聖霊を祈り求め、神の善にして完全なご意志を遂行するために最善を尽くすようにしましょう。善良さを表わしてゆく時、エホバが豊かに祝福してくださることを確信できるでしょう」。


アベルとカイン

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、聖書に記されている、アベルとカインの物語を取り上げた啓発的な記事を掲載した。
 記事は、読者にはみな、親の影響とは別個に独立した、自己決定を行う能力と責任があることを指摘した。
 しかし、カインはこの能力を正しく行使しなかった。
 「エホバはカインに「善いことを行なうように」促しましたが、歩みを変えるように強制されたわけではありません。カインは自分で自分の道を選びました」。
 「ここに、わたしたちに対する教訓があります。罪がわたしたちをも食い尽くそうと待ち構えています。しかし、神は人に自由意志を与えておられ、わたしたちは正しい道を自分で選択できるのです」。
 「カインの歩みは、だれでも人には選択の機会があること、罪の道を選択する人は自分を神から引き離すことになること、悔い改めなければエホバはその人に裁きを執行されることを示しています」。
 「他方、アベルはエホバに信仰を働かせました。わたしたちも、アベルと同じように信仰を働かせるなら、エホバとの、かけがえのない永続する関係を楽しむことができます」。


地域大会の報告

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、昨奉仕年度に世界各国で開催された、エホバの証人の2001年「神の言葉を教える者」地域大会の報告を掲載した。
 たとえば、大会ではこのようなことが教えられた。
 「義を追い求める上で助けになるのは、義を愛し悪を憎むことを学ぶこと、聖書を研究すること、霊的(道徳的)に有害な影響力に精いっぱい抵抗すること、謙遜さを培うことです。そうした手段を講じるなら、不健全な交わりや物質主義的な価値観、また不道徳で暴力的な娯楽から身を守ることができます」。
 「他の人にクリスチャンの高い道徳規準を教えるわたしたち自身がその規準に従っていなければなりません」。
 「悪魔はわたしたちを観察し、誇りや独立の精神、うぬぼれ、ねたみ、そねみなどを抱いたり、恨んだり、苦々しく思ったり、あら探しをしたりするといった態度に目をつけます。しかし、こちらが敢然と立ち向かうなら、悪魔は逃げ去ります」。
 また記事は、大会において新しく、「イザヤの預言 ― 全人類のための光」第2巻、神権宣教学校の新しい教科書「神権宣教学校の教育から益を得る」、パンフレット「人間には不滅の霊がありますか」、ブロシュアー(小冊子)「満足のいく生活 ― どうすれば実現できますか」が発表されたことを報告した。


バルサム

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、聖書に出てくる「バルサム」すなわちガムマスティックを取り上げた記事を掲載した。


エホバの証人の救援活動は賞賛を得る

 「ものみの塔」誌2002年1月15日号は、近年イタリアのエホバの証人が行った救援活動によって得られた賞賛の幾つかを紹介する小記事を掲載した。
 例えば、1997年9月の大地震に際して、イル・チェントロ紙は、「救援物資を携えて最初に被災地に到着したのはエホバの証人だった。エホバに忠実なそれらの人は、苦しみに遭っている人々に、宗教の別なく実際的な方法で助けの手を差し伸べる」と報じた。また、イタリア内務省は、この時のエホバの証人の働きを賞賛し、表彰状とメダルを授与した。
 2000年10月の洪水災害に際しても、エホバの証人はピエモンテ州から表彰の盾の授与を受けたという。


難民と避難民の苦しみ

 「目ざめよ!」誌2002年1月22日号は、難民及び避難民の苦しみに焦点をあてた特集記事を掲載した。
 近年、10年ほどの間に難民の数は1700万人から1400万人に減少した。しかし、これは見かけに過ぎない。見かけ上の難民が減っているのは、難民の定義に理由がある。難民の受け入れに積極的でない国々が、難民認定の基準を高くしているのである。
 実際の難民問題を知るには、難民として認定されない人々、つまり、経済難民(経済移民)や避難民をこれに加える必要がある。例えば、現在の規準で「非合法移民」と呼ばれる人たちは1500万人から3000万人もいる。
 これらの難民のうち、もっとも悲惨な経験をしているのは「国内避難民」である。記事は、国内避難民についてこのように述べている。
 「迫害や暴力を加えられる恐れに十分な根拠があって自国を逃れた人は、難民と定義されます。国内避難民も同様に、戦争や重大な危険のために自分の家を離れざるを得なかった人々ですが、今もなお自国にいる人々を指しています」。
 「難民キャンプはひどい状態にあると思われますか。もしそうであれば、自分の国を出られない避難民は、もっとひどい状態にあると言えるでしょう」。
 「国内避難民の福祉を図る国際組織はありません。また、その絶望的な窮状は、多くの場合マスコミにもほとんど取り上げられません」。
 これらの人たちは、国境を越えて難民キャンプにたどり着くことができず、国内をたださまよい、助けのないまま飢え死にの危険にされされている。
 記事は、難民問題の多くが戦争に起因していることに注目し、「戦争は人の心に生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」と述べる、国連教育科学文化機関憲章前文に読者の注意を引いた。


シマウマ

 「目ざめよ!」誌2002年1月22日号は、シマウマを取り上げた教育記事を掲載した。


グルジアにおけるエホバの証人迫害

 「目ざめよ!」誌2002年1月22日号は、グルジアで組織的に行われているエホバの証人迫害を取り上げた記事を掲載した。
 現在、グルジアのエホバの証人は無情な迫害にさらされている。しかも、警察までが迫害に関与しており、たとえマスコミによって襲撃の場面が撮影され、報道されても、逮捕者は出ないという状態である。
 この問題に対する世界の関心は高まっており、各国政府や団体から声明が出ている。たとえば、アメリカとイギリスは共同で声明を出し、こう述べている。
 「エホバの証人の集会が中断させられ、多数の人々が暴力的な虐待を受け、集会の出入りを妨害された。アメリカ合衆国大使館ならびに英国大使館は、グルジアで今回および昨今に生じた、証人たちの信教の自由を侵す重大な違反行為を非常に憂慮している」。
 グルジアのシェワルナゼ大統領は、何度もこの件について公式の発言をしており、たとえば欧州安全保障委員会に対しては、「この問題は、我が国民や政府の重大な関心事となっている。……嫌がらせや身体暴力はすべて起訴され、加害者は法的責任を負うことになる」と述べている。しかし、このような発言が繰り返されても、いまだエホバの証人に対する襲撃や施設の焼き討ちが行われており、だれも逮捕されていないというのが実状である。
 欧州安全保障協力委員会は「グルジアは、信教の自由と人権を擁護すると言いながら、どうしてそうしないのか」と述べている。
 ヨーロッパ人権裁判所は、この問題を「優先して扱うべき」だと述べ、エホバの証人の訴えを受領したという。

関連: グルジアのエホバの証人公式サイト


オカルトとクリスチャン

 「目ざめよ!」誌2002年1月22日号は、若者のクリスチャンに対し、オカルトに警戒するよう説き勧める記事を掲載した。
 記事は、オカルトは罠であり、危険を伴うと指摘し、たとえ面白半分であってもそういったものに手を出さないよう読者に勧めた。


ダム建設再考

 「目ざめよ!」誌2002年1月22日号は、世界の生態系がダム建設によって攪乱されてきたこと、そのことを受けてアメリカではダムの取り壊しが盛んに行われていることを指摘する小記事を掲載した。


清潔さ

 「ものみの塔」誌2002年2月1日号は、清潔さを取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、清潔さに関する神の見方に言及した後、“霊的清さ”、“道徳的清さ”、“精神的清さ”、“身体的清さ”について解説した。
 また記事は、清潔さについて「平衡の取れた見方を保つ」ことを説き、「両極端を避けるように」と述べている。


ニコデモ

 「ものみの塔」誌2002年2月1日号は、聖書に出てくるニコデモを取り上げた記事を掲載した。
 ニコデモは、イエスに信仰を示したものの、イエスの追随者になるという決定を先のばしにした人である。記事は、「あなたは親戚、友人、同僚などの反応を恐れて、イエスの弟子になるという決定を遅らせているでしょうか。……あなたは、高い社会的地位を失うかもしれない、あるいは出世の見込みを犠牲にすることになるかもしれないと考えて、キリストの追随者になるための行動を起こすことをためらっておられるでしょうか」と読者に問いかけている。


スウェーデンで開かれた展示会

 「ものみの塔」誌2002年2月1日号は、スウェーデンのエホバの証人が開いた、ホロコースト迫害に関する展示会の様子を報告する記事を掲載した。
 これは、スウェーデン政府が行ったキャンペーンに参加して開かれたもので、展示が行われただけでなく、マスコミによる報道も盛んに行われた。
 「スウェーデンのエホバの証人の活動に関連して、これほど広範囲に報道され、一般の好意的な反応が得られた催しはほかにありません」と記事は報告している。


記念式に備えて

 「ものみの塔」誌2002年2月1日号は、キリストの死の記念式が近づいているのにあわせ、エホバの証人が認識を深くするよう促す一連の研究記事を掲載した。
 「記念式の時期は、自分個人としても、会衆としても、真のキリスト教を見分けるしるしとなるキリストのような愛を、ほんとうに持っているかどうかを吟味するのに適切な時です」。
 また記事は、クリスチャンが神の霊によって導かれることの大切さをも説き、クリスチャンがどのうようにして霊に導かれるかを説明している。


アリストテレス・アポストリデスの手記

 「ものみの塔」誌2002年2月1日号は、障害者の妻を世話しながら立派に信仰の道を歩んだ、アリストテレス・アポストリデス(男性)の手記を掲載した。


近親結婚

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年2月1日号において、近親結婚を行うことに対する否定的な見解を公表した。
 統治体は「クリスチャンはモーセの律法のもとにいない」が、「そうであっても、結婚相手を選ぶ時、この条件を全く無視してよいという意味ではありません」と述べ、その理由として、「近親間の結婚を規制する法律」の存在と、「地域社会で何が受け入れられ、何が受け入れられないかという問題」を指摘した。
 統治体は結論としてこう述べている。
 「クリスチャンはモーセの律法のもとにいないとはいえ、その良心は、父親と娘、母親と息子、兄弟と姉妹のような、身近な肉親間の結婚がクリスチャン社会で全く受け入れられないことを明確に告げます」。


「山の上にある都市」

 「ものみの塔」誌2002年2月1日号は、イエスが、聖書のマタイによる福音書 5章14節で語った表現を解説する記事を掲載した。
 イエスはこのように述べている。
 「あなた方は世の光です。都市が山の上にあれば、それは隠されることはありません」。
 記事はこのように解説している。
 「ユダヤ人の家の壁はたいてい石灰が塗られていたので、丘の上にかたまって建っているそれら白塗りの家屋群は、周囲の数キロ先からも容易に分かりました。……山の上にある都市は、見る人の注意を引きます。山の輪郭から浮き出たように見えて目につきやすく、しかも白い家はみな日の光を反射するからです。同じように真のクリスチャンも、正直さや徳性や同情心などに関して、聖書の高い基準に従おうと努めるゆえに、他の人とは異なる者として目立つ存在となっています」。


結婚式を成功させる

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、結婚と結婚式に焦点を当てた特集記事を掲載した。
 記事は、結婚式を成功させるアドバイス、結婚生活を成功させる秘訣を取り上げている。


観光業

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、観光業を取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、観光業は経済的な利益をもたらす一方で、地域社会に問題をもたらしていることを指摘した。また、環境の問題もある。
 近年になって、観光業者たちは、自分たちの利益をより長期的なものとするために、環境や社会を破壊しない観光業に取り組んでいると記事は指摘している。


ミカエルとは

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、聖書に出ているミカエルとはだれかという疑問を取り上げた記事を掲載した。
 「み使い(天使)の頭」と聖書が呼ぶミカエルの実体については、意見の相違が生じている。
 「ミカエルを神の子である主イエス・キリストとする意見と、いわゆる七大天使の一人とする意見である」。
 では、どちらの意見が正しいのだろうか。記事はこう指摘している。
 「聖書では、ミカエルのほかにみ使いの頭がいるとは述べられていません……したがって、エホバ神は他のすべてのみ使いに対する全面的な権限を唯一者にゆだねたとするのが妥当な結論です。……創造者ご自身を別にして、ただ一人の忠実な方だけが、み使いたちを従えている者として述べられています。それはイエス・キリストです。(聖書のマタイによる福音書 13章41節、16章27節、24章31節) 使徒パウロは明確に「主イエス」と「その強力なみ使いたち」とについて述べています。(聖書のテサロニケへの第二の手紙 1章7節) さらにペテロは、復活したイエスのことを描写してこう言いました。「この方は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろのみ使いたちと権威と力とは彼に服させられました」。」。
 記事はさらに、聖書のテサロニケへの第一の手紙 4章16節について注解した。
 ここには、「主ご自身」が「み使いの頭の声と共に天から下る」という表現があるが、記事は、ここでイエスは「み使いの頭の声」で語り、かつ天から下るのだと述べている。


ケア

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、ニュージーランドの保護鳥、ケアを取り上げた教育記事を掲載した。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、聖書クイズを掲載した。
 たとえば、このような質問が載せられている。
 「ダビデには兄が何人いましたか」、「赤子のモーセが入れられたひつは何でできていましたか」。
 答えは、「6人」、「パピルス」である。


逆上する人が増えている

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、怒りのために逆上する人が増えている問題を取り上げた啓発的な論考を掲載した。
 記事は、人々にのしかかるストレスが年々増大しており、ストレス発散の必要が増大していることを指摘した後、こう述べている。
 「皮肉なことに、多くの人が欲求不満やストレスを解消するために選ぶある種の気晴らしが、実際には不寛容や激しい怒りを助長しています」。
 ストレスがなくなれば逆上することも少なくなると考えるのは大間違いだということである。
 記事は、この問題に対処するための効果的な処方箋として、聖書から、幾つかの役立つ言葉を紹介している。


大鑽井盆地

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、オーストラリアの大鑽井盆地を取り上げた教育記事を掲載した。


子供用化粧品

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、日本のおもちゃメーカーが子供向けに化粧品を販売していると報じた。
 しかし、あるメーカーは、「小中学生の化粧は日本の文化になじまない。社会道義的に作らない」と述べているという。


ものを欲しがる子どもたち

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、テレビが、子供の、ものを欲しがる傾向を助長しているという問題に対する効果的な取り組みを紹介した。
 それは、子供がテレビを見る時間を減らし、番組を選択するよう助けることである。
 記事によると、「この授業を受けた子どもたちは、学年の終わりまでに、親に新しいおもちゃをせがむ傾向が大幅に減った」という。


大会ホールは“大聖堂”か

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、大会ホールなどのエホバの証人の大型施設について、それはキリスト教世界の大聖堂とは異なると指摘した。


香料

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、香料の歴史をかいつまんだ小記事を掲載した。


図書館で「目ざめよ!」誌が人気

 「目ざめよ!」誌2002年2月8日号は、ブラジルの図書館で「目ざめよ!」誌が人気を博しているとする小記事を掲載した。
 「目ざめよ!」誌を利用するのは学生たちで、種々の研究のために用いているという。


エホバの証人と幸福

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、エホバの証人が幸福であると言える理由を取り上げた記事を掲載した。
 エホバの証人は、「自分の霊的な必要(心の必要)を自覚する」人たちである。そして、「聖書は、最善の生き方について教えています」。
 ある新聞記者はこう述べたという。
 「厳格な規準が多くあるにもかかわらず、エホバの証人は不幸せには見えない。むしろ逆である。若者も年を取った人も非常に喜びにあふれ、平衡がよく取れているように見える」。
 さらに記事は、「エホバとその真理について知るよう人々を助けること以上に人を満足させるものは、ほかにありません」と述べ、聖書伝道に励むよう読者を励ましている。


ビデオの効果

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、ものみの塔聖書冊子協会が発行しているビデオが役に立っていることを紹介する記事を掲載した。


「ノア」のビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、ものみの塔聖書冊子協会が発行している「ノア ― 神と共に歩んだ人」のビデオの内容を討論するための質問集を掲載した。


感謝を示す方法

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、エホバの証人である読者が神に対する感謝をどのように示せるかを論じる記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「パウロは、感謝をただ言葉だけで表わしただけでしょうか。決してそうではありません。仲間のクリスチャンの霊的福祉を大いに気遣い、神の愛ある親切から十分益を得られるよう助けるためにできることを行ないたいと思いました。……パウロは、すでに会衆の成員となっている人たちが救いを確実なものとするよう助けることに加えて、永遠の命のために正しく整えられた人々を見いだすために陸地と海を何千キロも旅行し、休むことなく良いたよりを宣べ伝えました」。
 「わたしたちも、エホバがしてくださったすべてのことを感謝しているゆえに、会衆内で助けを必要としている人に霊的援助を差し伸べるよう動かされるのではないでしょうか。また、王国の良いたよりを区域内の至るところで宣べ伝える業にも、できるだけ十分参加するよう動かされるのではないでしょうか」。


会計検査

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、エホバの証人の各会衆が会計監査を行うよう指示した。


エホバの証人に対する詐欺

 エホバの証人は善良で、善意の出し惜しみをしないことで知られているため、エホバの証人を専門に扱う詐欺師も存在する。「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、エホバの証人をターゲットとした新たな詐欺の手口に言及し、注意を促した。
 「災害で被害を受けた人々に対する支援を装って、インターネット上で、また郵便物を介して、エホバの証人の兄弟たちに寄付を嘆願する詐欺的な手口が横行していますのでご注意ください」と記事は述べている。


たゆみなく聖書伝道を行う

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、クリスチャンがたゆみなく宣教に携わるべきことを説く記事を掲載した。


「知識」の本を用いる

 「わたしたちの王国宣教」2002年2月号は、ものみの塔聖書冊子協会の発行する「永遠の命に導く知識」の本を用いた伝道の雛形を示した。


聖書の原則によって利己心と闘う

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、利己的な傾向と闘う上で聖書に対する信仰がどのように役立つかを示す特集記事を掲載した。
 「決め手となるのは動機です。自分が行なう事柄に関して誉れを受けるべきなのはだれでしょうか」。
 クリスチャンは神を信じているゆえに、自分を喜ばせることよりも神の誉れとなることを考える。これによって、クリスチャンは利己心から守られるのである。
 また記事はこのように述べている。
 「自分自身の価値に対するわたしたちの見方は、一般に広がっている自分を重視する態度によってゆがめられることがあります。聖書の原則は、創造者や他の人との関係において自分本来の価値を教え、そのゆがんだ見方を正してくれます」。
 「わたしたちは聖書の原則に留意することにより、現在の風潮に打ち勝つことができます」。


東方正教会と国家

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、正教会の歴史を取り上げた批判的な記事を掲載した。
 正教会の歴史は、政治家との癒着と権力闘争の歴史という一面を持つ。記事は、その歴史がいかに醜いものであったかを指摘し、最後にこう述べている。
 「宗教と政治の混合したこうした汚れた関係は、イエスの説いた真の宗教を正しく反映するものではありませんでした。わたしたちは歴史から学んで、「世のものではない」という立場を保ってゆけますように」。


苦しみと闘う

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、クリスチャンが直面する様々な試みや苦しみに関して、読者を啓発し、助け、慰める、一連の研究記事を掲載した。
 記事は、聖書に出ている神の僕たちが、苦しみに遭っても「エホバに仕えるのをやめなかった」と指摘し、読者が同じようにして苦しみに耐えるよう励ました。
 記事は、苦しみに遭っている人たちに対する援助についても触れている。
 「神を恐れるクリスチャンの長老は、苦難という「風からの隠れ場」、問題という「雨あらしからの隠れ場所のようになる」ことができます。この(聖書の)描写にかなうものになりたいと願う長老は、「教えられた者たちの舌」を与えてくださるよう謙遜に、また誠実にエホバに求めます。それは、苦しい経験をしている人たちに適切な言葉で答える方法を見きわめるためです。そうした長老たちの言葉は、優しい雨のように、人生の困難な時期にわたしたちの気持ちを落ち着かせ、慰めてくれます。長老たちは、『憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかける』ことにより、苦しみのために疲れ果てたり気落ちしたりしている霊的な兄弟姉妹の真の支えとなります」。
 「エホバの僕はみな、苦痛と闘っている人たちの苦しみに敏感であるよう心がけます。もしわたしたちが無神経、冷淡、あるいは無関心であるなら、意図せずにその苦しみを悪化させる恐れがあります。その人たちの試練を気にかけているなら、何を言うか、どのように言うか、どのように行動するかといった点で注意深くあるよう努めるはずです」。


「風からの隠れ場」

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、先に掲載した研究記事と連動する記事として、聖書の「風からの隠れ場」という表現を解説する記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「預言者イザヤは、「君である者たち」が神によって任命され、その各々が「風からの隠れ場」として仕えると説明しています」。
 「監督(長老)たちは、逆境の時に信頼できる避難所を差し伸べ、神の言葉からの霊的な水という蓄えを守れるよう、困窮した人たちを助けます」。
 「迫害、落胆、病気という風は、受ける側が無防備でいるなら、クリスチャンを翻弄し、信仰を枯らします。クリスチャンの長老たちは、問題を注意深く聴き、聖書に基づく助言を与え、励ましあるいは実際的な助けを差し伸べることにより、保護を与えることができます」。


聖書伝道者の資格

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、聖書伝道者の資格を取り上げた研究記事を掲載した。
 「時折、キリスト教世界の教会は戸別伝道を計画して実行しますが、そのような努力はたいてい挫折し、数週間か数か月で立ち消えになります。なぜでしょうか。キリスト教世界は、信者がその仕事の資格を身につけるよう助けてこなかったからです。僧職者でさえ、一般の学校や神学校でたいてい何年も教育を受けているのに、宣べ伝える業の資格を身につけていません」。
 では、信者が伝道者としての資格を身につけるのに、何が必要とされているのだろうか。記事は、3つの要素を指摘した。
 「わたしたちが『十分な能力を備え、全く整えられた者』となり、神の言葉について人々に教える「良い業」を果たすのに助けとなるのは聖書です。では、キリスト教世界の教会の信者はどうでしょうか。その人々も聖書を使っています。では、同じ本を用いているのに、一方は能力を備えた奉仕者となり、もう一方がそうならないのはなぜでしょうか。答えは聖書に対するわたしたちの態度にあります」。
 「わたしたちは日ごとに聖霊を祈り求め、とりわけ宣教の面で助けていただく必要があります。その活動する力は、思いと心に作用し、わたしたちが変化を遂げ、成長し、古い人格を新しい人格で置き換え、キリストに似た貴重な特質を築くのを助けます」。
 「神の地上の会衆は奉仕者になるための訓練を施します」。
 また記事は、聖書伝道と愛との関係について論じた。
 「愛は、動機づけを与える大きな力です。真のクリスチャンは、エホバと仲間の人間に対する愛に動かされて良いたよりを伝えます。その愛がなければ、神の言葉の教え手として真に資格ある者とはなれません」。
 また記事はこう述べている。
 「確かに、わたしたちは、高等教育を施すキリスト教世界の学校で学んだわけではありません。神学校で教師の任命を受けたわけでもありません。では、資格がないのでしょうか。そのようなことはありません。エホバの証人としてのわたしたちの任命はエホバから来ます。神の霊を祈り求め、その祈りに調和して努力するなら、最高の資格を得られます」。
 「信者の人数は増加していますが、それを自分の功績にできる人は一人もいません。わたしたちは全般的に見て、昔の使徒たちのように、無学な普通の人です。成功はエホバにかかっています。心の正直な人を真理に引き寄せるのはエホバです」。
 「自分は教え手として資格があるとは思えない場合もあるでしょう。それでも、人々をご自分とみ子のもとに引き寄せておられるのはエホバであることを忘れてはなりません。み言葉(聖書)、聖霊、地上の組織(会衆)を通して、人々に奉仕する資格を得させてくださるのはエホバです」。


「血に至るまで抵抗する」

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、聖書のヘブライ人への手紙 12章4節にある、「血に至るまで抵抗する」という表現について注解した。
 記事によると、聖書の文脈に照らして推測するに、この聖句はボクシングを引き合いに出しているようである。聖書の時代のボクシングでは、血がさかんに流され、死者が出ることもあった。
 記事は、この聖書の言葉が、「たとえ命の血を流すほどの身体的な虐待に面しても耐える」ことを教えていると述べている。


聖書の愛

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、聖書辞典「聖書に対する洞察」からの引用として、聖書の愛“アガペー”を取り上げた記事を掲載した。
 記事は、聖書の中でギリシャ語アガペーがどのように用いられているかを、その語形を逐一示しながら説明するものとなっている。


エホバの証人の「王国を熱心にふれ告げる人々」地域大会

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、2002年の「王国を熱心にふれ告げる人々」地域大会の開催場所と開催日付を告知した。
 記事によると、今年は、32の場所と日付で地域大会が開催されるという。


お金を返すため裁判に

 「ものみの塔」誌2002年2月15日号は、お金を返してもらうためではなく、返すために裁判を起こしたエホバの証人の話を取り上げた小記事を掲載した。
 この証人は、政府の手続き違いで受け取った100万円を何とか返そうと努力したが、返還のためには複雑な事務処理が必要であることが分かり、うまくいかなかった。そこで、彼はやむなく、弁護士を雇い、裁判に訴えてそのお金を返すようにしたという。
 記事はこう言葉を加えている。
 「こうした態度を非常に風変わりと思う人や、理解できないとさえ感じる人は少なくないでしょう。しかし、神の言葉が示しているとおり、真のクリスチャンは、世俗の権威者との関係において清い良心を保つことを重要視します。エホバの証人は、『正直な良心を保ち、すべてのことにおいて正直に行動する』決意をしているのです」。


職場の安全

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、職場の安全を多方面から取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、職場の安全を脅かす問題の根底に、しばしば利益を追求しすぎる態度がからんでいることを指摘し、このように問いかけている。
 「自分の仕事は、命や健康を犠牲にするほどの価値があるでしょうか。節度が求められます。自分にとって不可欠とは言えない“欲しいもの”ではなく、実際に“必要なもの”を見定める必要があるかもしれません。地位や名声を追い求める人は、節度ある選択肢を退け、そのような控えめな選択をする人を愚か者と決めつけるかもしれません。しかし、人生で本当に重要なのは何でしょうか。そのことについて最近、立ち止まって考えたことがおありでしょうか」。


ギリシャでエホバの証人が認可

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、ギリシャ政府が、エホバの証人擁護のために重い腰を上げ、ついにエホバの証人を認可したことを知らせる記事を掲載した。
 これまでギリシャ政府は、ギリシャ正教会の盛んな圧力に屈し、エホバの証人の行う大会を土壇場で取り消してきた。しかし、2001年の大会は、ギリシャ政府がギリシャ正教会の圧力に屈しなかった最初の大会となった。
 しかし、正教会はひるまなかった。
 「正教会は、その影響力を行使して大会を妨害するという長年の戦術を捨てていませんでした。テレビ局各社は、正教会の僧職者から、大会に関する報道は一切行なわないよう要求されていたことを明らかにしました」。
 「皮肉なことに、正教会はエホバの証人のことを秘密主義の宗教として非難してきました。しかし実際には(大会の開かれた)スポーツホール内で起きていたことが一般の人々に知られないようにしていたのは同教会のほうだったのです。幸い、勇気ある報道関係者たちは僧職者の圧力に屈しませんでした」。
 記事は、こうして初めて開かれた大会でエホバの証人が良い評判を得たことを報告している。
 「エホバの証人だけで成る、2604人の自発奉仕者の一団がスポーツホールに群がり、大会のための清掃、塗装、準備などを行なうのを見た競技場の管理者たちは、「この場所でこのようなことを目にしたのは初めてです」と語りました。ある人は、「この施設をぜひ毎年使ってください。そうすれば、徹底的な補修ができますから」と述べました」。
 「同スポーツホールの広報部長アンドレアス・バルダキスは感銘を受け、こう語りました。「皆さんはこの施設に美観を添えてくださいました。当方にも施設を管理する職員がおりますが、皆さんの参加があったからこそ、この大会は成功したのです」。」。
 「大会中、大勢の人々が静かにしているので、警備のための人員を送り込む必要がないことに気づいた警察署長は、「こんなに礼儀正しく、秩序を守る人々は一度も見たことがない」と感嘆の声を上げました」。
 記事は最後に、ギリシャ政府によるエホバの証人認可に触れ、こう述べている。
 「エホバの証人は、信教の自由を支持する他のすべての人と共に、これらの進展に感謝しています」。


アレナ・ジトニコバの手記

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、共産国であったチェコスロバキアで、熱心な共産党員からエホバの証人に転じた、アレナ・ジトニコバ(女性)による手記を掲載した。
 「わたしは1962年9月12日に、プラハから約290キロ離れたホルニ・ベネショフ村に住む熱心な共産党員の家庭に生まれました」。
 「父は共産主義の理念を信じ、それに従って生きていました。また、その理念に従って兄二人と姉とわたしを育て上げ、まじめに働いてきちんとした生活をすれば、よりよい社会を作り出すのに貢献できる、と教えました。父は共産主義を最も優れた政治形態とみなし、積極的に支持しました」。
 「父は、やがてすべての人は家や十分な食物を与えられ、より良い人になり、平和に暮らすようになる、と信じていました。それはすばらしい見込みでした。わたしはそのことを何度となく聞かされて育ちました。父が教えてくれたことをすべて信じ、父と同じように共産主義を支持する決意を固めました」。
 「しかしそのうちに、共産主義者だと言いながら、その理念を守らない人が多いことに気づくようになりました。そのような人たちは、貪欲やねたみといった人間的な傾向に抵抗することなく、公共の財産を盗みました。人々の福祉のために働くようにと他の人に勧めておきながら、自分ではそうしようとしない人も少なくありませんでした」。
 彼女は十代の半ばに、エホバの証人を通して聖書を学ぶようになった。
 「彼女が聖書を開き、きれいな地球で心身共に健全な人々が思いやりを示し合いながら暮らすようになるという数々の約束を見せてくれた時、わたしはそれが自分の信じている約束と似ていることに気づきました」。
 しかし、父親からの反対にあったという。
 「わたしがエホバの証人と接触しているのではないかと疑っていた父は、それが事実であることが分かると、「そんな連中とはすぐに縁を切りなさい。わたしは幸せになるのに聖書も神もいらなかった。真の生き方をし、結婚して家族をもうけなさい。そうすれば、神などいなくても幸せになれることが分かるから」と言いました」。
 「父が力説した事柄はわたしに影響を及ぼしました。父は善意でそう言ってくれたのです。父が愛してくれていることを知っていたので、聖書の勉強をやめると約束しました」。
 しかし、後にプラハに住むようになると、彼女は再びエホバの証人と交わりはじめたという。
 「大学の過程をきちんとこなしながら聖書研究を思う存分行なうのは無理だ、ということに気づきました。そこで、退学を考えていると話しました」。
 「その翌日、学部長と教授は、はるばるわたしの郷里の村まで出かけて行って、両親を訪ねました。二人は両親に、わたしが危険な禁じられた宗教と関わりを持っており、退学したがっていると警告しました。学部長は父にこう約束しました。「お嬢さんが退学することにした場合には、こちらで手を回して、プラハでは就職できないようにしましょう。そうすれば、お嬢さんは家に帰らざるを得なくなり、例の宗教との接触は断たれるはずです」。」。
 「わたしは学部長が両親を訪ねたことも父に何を約束したかも知らなかったので、どうしても仕事が見つからない理由が分かりませんでした。下宿のおばさんもこのことをいぶかっていたので、わたしに内緒で大学の学部長のところに行き、わたしがなぜ退学したのか尋ねました。「くれぐれも用心してください」と学部長は言いました。「あの子はエホバの証人という危険な宗教に入っています。だから、わたしはあの子がプラハで就職できないようにしています」。」。
 「わたしはその晩のうちに荷物をまとめて部屋を出なければならないだろうと思いました。ところが、おばさんはこう言いました。「わたしは学部長のやり方には賛成できないね。わたしが仕事探しを手伝ってやるよ」。」。
 「それからしばらくして、父がわたしを連れて帰ろうとプラハにやってきました。しかし、今回は父の論法に説得されることはありませんでした。結局、父はわたしを連れずに帰りました。父の涙を見たのはそれが初めてでした。たいへん辛い出来事でした」。
 1989年にチェコスロバキアが民主主義になると、エホバの証人は自由になった。また、頑固な共産主義者であった父親も変化したという。
 「数年前、夫とわたしにとってたいへんうれしいことがありました。両親が招きに応じ、わたしたちが60人ほどのものみの塔支部の家族と共に生活し働いている施設を訪ねてくれたのです。ホームと事務所をじっくり見て回った父は、「確かに、お前たちの間には真の愛があることが分かるよ」と言いました。それは父の口から聞いた最もすばらしい言葉でした」。
 彼女はこのように語っている。
 「共産主義によってより良い世界が実現するという希望は、ただの夢にすぎませんでした。人類の歴史から分かるように、人間がいかに誠実に努力しようと、正義の社会を作り出すことはできません。神の助けなくして人は幸福な生活を送れないということに気づくようになる人がまだまだ大勢いると、わたしは信じています」。


聖ペテロの魚

 イスラエルのガリラヤ湖畔にあるレストランでは、「聖ペテロの魚」料理を食べることができる。これは、聖書のマタイ 17章24節から27節の記述の中で、ペテロが釣り上げた魚であるという。
 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、この魚が本物であるかどうかを論ずる論考を掲載した。
 記事によると、聖書の該当記述にあてはまる可能性のある魚は、大きく4つのグループに分けることができる。
 記事ははじめに、この魚はナマズの仲間ではないだろうと指摘した。ナマズには鱗がなく、モーセの律法では食べることが禁じられているからである。
 続いて、記事はムシュトについて論じた。ムシュトはプランクトンを食べ、他のエサには見向きもしないため、釣りで捕獲することは不可能である。記事は、ペテロの魚はムシュトでもないだろうと述べた。
 イワシについても、記事はそうでないだろうと述べた。サイズが小さいからである。
 残るバーベルに、記事は軍配を揚げた。
 「ガリラヤ湖の漁師たちは大昔から、餌のイワシをつけた釣り針を使って、湖底で餌を補食するバーベルを釣ってきた」。
 しかし、現在“聖ペテロの魚”とされているのはムシュトである。どうしてだろうか。
 「説明は一つしかない。それが観光業にプラスになったからだ。遠いところから巡礼者が来るようになると、昔からの湖畔の食堂が出していたムシュトに“聖ペテロの魚”という名をつけることは商売上有利に思えたに違いない。最も人気があり、調理も簡単な魚が最も商業的価値のある名前を得たというわけだ」。


悪魔と闘うための十戒

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、イタリアのジェノバの大司教の発行した司教書から、悪魔と闘うための十戒を引用した。
 記事によると、ミラノ神学研究センターはこの司教書を「中世じみている」とし、また、「究極の責めを悪魔に負わせることは、人々の責任を人々から奪うことになりかねない」と言って批判したという。
 記事は、確かに人から責任を奪うことはできないが、それでも悪魔についての聖書の警告は無視できないとして、この大司教を弁護している。


伝道と子供のストレス

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、聖書伝道に参加するエホバの証人の子どもたちが経験するストレスの一つに焦点をあてた記事を掲載した。
 エホバの証人の子どもたちは、伝道中に友達と出会うとストレスを感じることがある。そのような時に、自分が何をしているのか知られたくないと考える子供もいる。
 彼らはこのように述べている。
 「月曜日に学校へ行くのが苦痛でした。友達のだれかに見られてしまっていたら、手の込んだ言い訳をしました」。
 「学校では、(伝道をしている)わたしを見かけた子たちからばかにされました。かなりのプレッシャーでした」。
 記事は、子供たちに同情を示しながらもこう述べている。
 「奉仕中に知り合いとばったり出会ったとき、少し気まずく感じるのは自然なことです。しかし、そうした恐れの気持ちに支配されると、自分に害が及ぶだけです」。
 では、どのように対処できるだろうか。
 「クリスチャンとして、ある程度のことは覚悟しておかなければなりません」。
 「幸いなこととして、奉仕で偶然出会った学校の友達みんなが、あなたに敵意を抱くということもないでしょう」。
 記事は、このような問題から逃げるのではなく、むしろ自分から積極的に行動して友達の理解を勝ち得るよう励ましている。


マサイ族

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、マサイ族を取り上げた教育記事を掲載した。
 補足的な点として、マサイ族のエホバの証人とその活動に記事は触れている。
 記事によると、「地上での生活を永遠に楽しんでください」と題する小冊子のマサイ語版が、これまで6000部発行され、これにより、「根拠のない迷信」からマサイ族の人たちが自由になっているという。


聖書翻訳が増加

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、英国の聖書協会からの話として、聖書が合計2261の言語で入手可能となったと報じた。
 全巻は383、旧約ないしは新約が987の言語で入手可能であるという。


過剰な輸血

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、オーストラリアの輸血ガイドラインによれば、これまで施された輸血の3件に1件は「実施されるべきではなかった」と述べた。
 このガイドラインは、ヘモグロビン値が7以下なら輸血を考慮するよう指示しているという。


インターネットと児童ポルノ

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、ドイツの最高刑事法廷が、インターネットにおける児童ポルノの配布に対する刑事責任を明確にしたと報じた。


修道院での虐待

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、同誌2001年6月22日号に掲載された、修道院での組織的な児童虐待を告発する手記に対する読者の投書を掲載した。
 投書は「この種の虐待を受けた人は少なくありませんが、そのことについて話すのを恐れています」と述べている。


チューインガム

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、チューインガムを取り上げた小記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌で優秀賞

 「目ざめよ!」誌2002年2月22日号は、ザンビアの一高校生が、「目ざめよ!」誌を参考に作文を書いて最優秀賞を受け、感謝の手紙を送ってきたと述べる小記事を掲載した。


ノアの大洪水

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、聖書に記されている大洪水を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、それが「人類に対する神からのメッセージ」であると述べている。
 さらに記事は、「私たちはノアの時代と似た時代に生活しています」と述べ、聖書の予告するハルマゲドンの裁きに読者の注意を引いた。
 「昔のノアの日に生じた出来事から学んでください。神に近づいてください。イエス・キリストについての知識において成長してください。敬虔な専心を培ってください。そして、この世界の終わりを生き残り、来たるべき平和な世界に入る道を選ぶ大勢の人々の一人となってください」。


真理を守る者となる

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、読者に対し、聖書の真理に対する認識を深め、それを大切にするよう勧める一連の研究記事を掲載した。
 聖書の中で、真理は「光」と形容されている。一方、全くの闇に陥っている人たちもいる。
 「霊的な闇にいる人は、知覚力に欠け、霊的な意味でやがて方向感覚を失います。物事の真偽や善悪を見分ける能力を失いがちです」。
 「しかし、だれであれ、神の言葉の光に来る人は変化することができます」。
 多くの人たちが、聖書の光を退けてしまうのはなぜだろうか。記事はこのように指摘した。
 「神を信じていると言う人は多くいますが、その一方で、悪魔の存在を信じているな人が多くなっています。なぜでしょうか。何らかのよこしまで超人間的な権力者が存在して自分たちの考え方に影響を及ぼす、ということを認めたがらないのです」。
 「多くの人は、『いとうべき事柄』を好んで習わしにしており、サタンの霊的な闇は、人々が自分の望むところを行なうのにうってつけなのです」。
 一方、クリスチャンは、そのような人々の間にあって光となるよう努める。
 「彼らには私たちの伝道と共に、クリスチャンとしての立派な生き方が戒めとなります」。
 「闇を捨てて光を選ぶように人々を助けるには勇気が求められます。さらに重要なこととして、人々に対する同情心や気遣い、また人々のとこしえの益のために真理の光を分かちたいという心からの願いも必要です」。
 「とはいえ、自己満足に陥ってしまってはなりません。そうするなら、闇から救い出されたのに、そこに逆戻りすることになりかねないからです」。
 記事は最後に、このように述べて読者を励ましている。
 「生活の中で真理を第一にし、自分の歩みを聖霊によってエホバに導いていただくなら、真理は今私たちに比類のない幸福をもたらします」。


有珠山噴火

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、2000年3月31日に起こった、有珠山の噴火に際して行われた救援活動を報告する記事を掲載した。


ドン・レンデルの手記

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、宣教者として様々な国に滞在し、精力的に奉仕した、ドン・レンデル(男性)による手記を掲載した。
 彼は、イギリスでベテル奉仕(支部施設での奉仕)を行ったあと、ギレアデ聖書学校の第8期生また宣教者として、エジプトへ渡った。その後、彼はキプロスへと渡り、イスラエルにも行くようになった。
 「当時キプロスには100人ほどの証人がおり、信仰のために厳しい戦いをしなければなりませんでした。ギリシャ正教会の司祭の率いる暴徒たちが大会を妨害しました。また、田舎の区域の証言で投石に遭うのは、私にとって初めての経験でした」。
 後に彼は病気になり、故郷であるイングランドへ戻った。そして、父と母親代わりだった叔母の世話を行い、二人が亡くなった後に、再びキプロスへ渡った。キプロスとギリシャで再び奉仕した後、今度は姉の介護に携わった。
 彼は、国外における宣教奉仕だけでなく、父や叔母、さらには姉の世話をも立派に行い、その生き方に満足している。


クロービス改宗1500年

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、クロービスのカトリックへの改宗1500周年を記念する式典を取り上げた、批判的な記事を掲載した。
 クロービスは、三位一体論の成立に貢献した人物であるが、政治家であり、利権のために教会を利用した人物でもある。
 このような人物を教会がたたえるのは正しいことだろうか。記事はこのように指摘している。
 「1996年の記念式典に先立って、ランスの大司教ジェラール・デホワはクロービスのことを、「熟慮の末に行なわれた責任ある改宗の象徴」と描写しました。しかし、フランスの歴史家エルネスト・ラビスは、「改宗によって、クロービスの人格は全く変わらなかった。福音書の穏やかで平和的な道徳観は彼の心に達しなかった」と述べています」。
 「クロービスは、コンスタンティヌスがいわゆるキリスト教改宗後に取った行動をほうふつさせるかのように、王位を巡って張り合う者たちを皆殺しにして支配権の統合に乗り出します。6等親までの親族全員を滅ぼし絶やしたのです」。
 「クロービスの死後、彼を残忍な戦士から評判の良い聖人へと変える神話作りが始まりました」。


憐れみと公正と裁き

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、「神の憐れみ」と「神の公正」との関係についての、これまでの同誌の表現を訂正する記事を掲載した。
 「公正」と訳されるヘブライ語には、「裁き」という意味もある。そのため、「ものみの塔」誌はしばしば、「エホバの憐れみがエホバの公正を和らげる」という表現を用いてきた。
 しかし、これは不適切であったと記事は指摘した。
 記事は、分かりやすい例として、聖書のイザヤ 30章18節を引き合いに出した。
 「イザヤはこのように預言しました。『エホバはあなた方に恵みを示そうと待ち望み、それゆえにあなた方に憐れみを示そうと立ち上がる。エホバは裁き[別訳:公正]の神だからである』。イザヤはここで、エホバの憐れみが公正を緩めたり抑制したりするのではなく、むしろエホバの公正が憐れみの行為を促す、ということを示しています」。


この世の終わり

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、聖書の述べる「世の終わり」を取り上げた小記事を掲載した。
 記事は、この「終わり」が文字通りの天地の滅びを指しているのではないことを指摘した後、滅びるのは現代の社会であると述べ、その社会の「終わり」を逃れるべきことに読者の注意を引いた。


懲らしめは必要

 「ものみの塔」誌2002年3月1日号は、子供に対する懲らしめの必要性を説く小記事を掲載した。
 「不完全な人間であるわたしたちは皆、時に痛みが伴うとしても、懲らしめや矯正をどうしても必要としています」。
 「確かに、懲らしめが好きな子どもなど、まずいません。何らかの罰が必要なとき、子どもは嫌がるでしょう。しかし、賢明で愛のある親であれば、子どもが感じる痛みよりも、その結果得られる益を考えます」。
 記事は最後にこう述べている。
 「もちろん、懲らしめが必要なのは子どもだけではありません。大人も必要です。そうです、賢い人は、老若を問わず、神の言葉聖書に基づく懲らしめを喜んで受け入れます。そうすることは、結局のところ、命を保護するものとなるからです」。


学校の先生

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、教師たちを賞賛する特集記事を掲載した。
 現代社会は、教師の仕事を「様々な障害の立ちはだかる耐久レース」のようにしているという。
 「麻薬、犯罪、道徳の乱れ、また時として親の無関心さが、学校の雰囲気や規律に深刻な影響を及ぼしています」。
 「テーブルや壁は汚され、備品は壊されています。校内で頻繁に物が盗まれます」。
 「学校で麻薬が問題になっています。……『麻薬売買が行なわれていることは十分承知しています。めったに見つからないだけです』」。
 「子供たちは下品な言葉や他の悪習を覚える環境にどっぷり浸かっています」。
 「親が、学校で与えられる懲罰を支持しないこともよくあります。……『非行に走る子どもについて校長に報告しようものなら、親から非難されるものです』」。
 さらに問題を深刻にしているのは、教師不足、仕事の多さ、少ない給料であるという。
 「うつ病や燃え尽きの犠牲になる教師が多いのも不思議ではありません」。
 しかし、それでも多くの教師が立派に仕事をやり遂げ、生き甲斐を見いだしてもいると記事は指摘している。
 記事は立派に務めを果たしている教師たちを褒め、生徒や親である読者たちが教師にお礼をするよう勧めている。


気球

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、気球を取り上げた教育記事を掲載した。


自転車で健康に

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、自転車に乗ることの益と、自転車に乗るときのマナーを取り上げた教育記事を掲載した。


プヤ・ライモンディイ

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、パイナップル科の巨大植物、プヤ・ライモンディイを取り上げた教育記事を掲載した。


ジャンガダ

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、ブラジルの帆掛け船、ジャンガダを取り上げた教育記事を掲載した。


罪悪感は諸刃の剣

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、罪悪感が益になることもあれば害になることもあることを指摘する論考を掲載した。
 「今日、罪悪感を好ましくないものとみなす人は少なくありません」。
 しかし、記事は異なる意見を述べた。
 「罪悪感は、感受性と責任感を備えた人間であることの肝要な部分です」。
 「罪悪感は少なくとも三つの点で益になります。第一に、それは受け入れられる規準を意識しているしるしとなります。良心が機能していることを示すのです。良心が汚れている、もしくは無感覚になっている人は、善悪を見分けることに困難を覚えます。それは危険なことです。第二に、良心に罪悪感を覚えることは、望ましくない行為を避けるのに役立ちます。罪悪感に伴う感情的な痛みは、対応すべき道徳的もしくは霊的な問題に注意を喚起します。最後に、罪科(罪悪感)を告白するなら、罪科のある人とその被害に遭った人の両方が益を得ます」。
 一方で、罪悪感が害になる場合もあると記事は指摘した。  「残念ながら、わたしたちは当然の理由もなく罪悪感を持つことがあります」。
 人は、他の人に不当な罪悪感を抱かせないようにすべきである。
 「行なうべきであるとこちらが考えていることを相手がいつも行なうわけではない場合、その人にしきりに罪悪感を持たせようとするのは愛のないことですし、長い目で見ると逆効果です。イエスに見倣うなら最善の結果が得られます」。
 最後に、記事はこう述べている。
 「良心に罪悪感を覚えるなら、告白や他の積極的な行動をとるよう促されますし、当然そのようにしなければなりません。しかし、わたしたちがエホバに仕える基本的な理由はいつでも、罪悪感ではなく、愛であるべきです。聖書は、善良な人々がこの点を銘記しつつ励みとさわやかさを得る時、自分にできることをみな行なうようになると保証しています。さらに重要なこととして、その人たちはそうすることで幸福になります」。


ブラジルで宗教離れ

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、ブラジルにおいて、都市部の貧しい成人層に対する宗教調査が行われたと報じた。
 この調査によると、カトリック教徒67パーセントのうち、キリスト教の信仰を実際に告白する人は35パーセントであることが判明した。
 さらには、44パーセントが婚前交渉に、59パーセントが離婚に、63パーセントが再婚に、73パーセントが再婚に関する教会の立場に同意していないという。


心臓発作を予防する

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、スモッグと心臓発作との関係に読者の注意を引いた。
 記事によると、ひどいスモッグに2時間されされると、心臓発作を起こす割合が高くなるという。
 記事は、高齢者や心臓病の人たちに対し、スモッグがでているときにはなるべく空調の利いた室内にいるようにと勧めている。


婚前交渉と離婚

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、「統計カナダ」からの報告として、「結婚前に一緒に住み始める人は、子どもを持つようになっても離別に至る率が2倍も高い」と指摘した。


蜂蜜は薬

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、蜂蜜の塗り薬としての効能を取り上げた記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が記念式に読者を招待

 「目ざめよ!」誌2002年3月8日号は、今年のキリストの死の記念式が3月28日に行われることを告知し、読者を記念式に招待した。


記念式に向けて

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、2002年3月28日に執り行われるキリストの死の記念式を前にして、心構えをするよう読者を促す記事を掲載した。
 「2002年3月28日の日没後、わたしたちは主の晩さんを祝うことにより、エホバ神とイエス・キリストに結びついていることを示します」。
 「エホバとみ子が一つの目的の遂行のために結びついているのと同じように、私たちもお二方と、また互い同士、強力な愛のきずなで結びつき、喜びのうちに神のご意志を行なっていきます」。
 記事は最後にこのように述べている。
 「『一つの霊のうちに』喜んで結ばれ、『一つの魂を持って良いたよりの信仰のために相並んで奮闘』できるのはなんとすばらしい特権でしょう。エホバとみ子に常に感謝しつつ、3月28日に行なわれる記念式での、心地よい交友を楽しみにしましょう」。


中立

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、エホバの証人が職場や学校で政治的中立を守ることに焦点を当てたプログラムの筋書きを掲載した。
 筋書きは、エホバの証人が愛国的儀式などに参加しない理由を取り上げた後、プログラム司会者が「エホバに全く専心を示すとともに、政府の権威にも敬意を払うことを強調する」としている。


年鑑から益を得る

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、エホバの証人の年鑑からどのような益が得られるかを扱うプログラムの筋書きを掲載した。


学校での成績を向上させる

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、子供たちの学校での成績を上げるためにはどうすればよいかという問題を取り上げた寸劇の筋書きを掲載した。


聖書研究を取り決める

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、「満足のいく生活」の小冊子を用いた聖書研究の獲得に焦点を当てた記事を掲載した。
 記事は、挿し絵を用いたり、直接的に聖書から話す方法などを紹介している。
 また記事は、この小冊子を用いるに当たり注意すべき点も取り上げている。
 「『満足のいく生活』のブロシュアーは、生活で実際に生じる問題を扱っています。初めての訪問でこのブロシュアーを紹介する場合には、特に家の人のプライバシーに配慮を示す必要があります」。
 記事はさらに、訪問を継続させる方法も指南している。
 「家の人が、この情報は自分にとって必要であると考えるなら、再訪問を継続させることは容易になります」。
 そこで、例えば、「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ。彼は年老いても、それから離れないであろう」という聖句(箴言 22章6節)を読んだ後には、このように話すことができる。
 「子どもが幼い時から、親が、正しい一定の価値基準を教えなさいという格言ですね。子どもが何も分からないうちから親が方向づけを与える権利があるのだろうかと考える方もおられますが、あなたはどう思われますか。……親が何ら価値基準を与えず、子どものしつけをしないなら、友達、テレビ、マンガなどが親の代わりに子どもの心を方向づけてしまうかもしれませんね。この格言には、彼は年老いても離れないであろうとありますが、ある科学雑誌には、人格の大部分は学校に上がる前に確立されていて、それが人生に影響を与えるという研究報告が載せられていました」。
 記事は、こういった提案を各自がアレンジし、より効果的に用いるよう勧めている。


りっぱな業とは

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、クリスチャンの「りっぱな業」に焦点を当てた記事を掲載した。


記念式の注意

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、キリストの死の記念式の開催に当たって注意すべき事柄のリストを掲載した。


長老は気遣いを示す

 「わたしたちの王国宣教」2002年3月号は、会衆の長老が、「すべての人の霊的福祉に鋭い個人的な関心を払う」べきことを説く記事を掲載した。
 「気遣いを働かせる監督たちは、心からの関心と優しい愛情を持ち、喜んで『自分の魂を分け与え』、そのような人たちがエホバに対する愛を再び燃え上がらせるように援助したいと願います」。
 「長老たちは、批判的になることなく、親切な態度で、エホバがご自分の羊すべてを気遣っておられ、困難なときにも支えてくださる、という確信を与えます」。
 「羊の群れの機敏な牧者たちは、神に近づくなら、神はその人たちに近づき、慰めとさわやかさを与えてくださることを理解するように助けます」。
 長老は特に、信仰の弱まった人や、離れてしまった人にそのような気遣いを示すべきである。もしかするとそれらの人たちは、再び信仰を強め、あるいは信仰に帰ってくるかもしれない。
 「そのような人たちが会衆の集会に出席し、宣教にも参加して、贖いの犠牲に対する信仰を再び表明するのを見るのは喜びです」。


よい指導者

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、よい指導者というテーマを扱った特集記事を掲載した。
 「世界は、多くの進歩や躍進を経てきたにもかかわらず、かつてなく分裂しています。ですから、人間の将来に関する全般的な見通しは、相変わらず暗いと言わざるを得ません」。
 しかし、問題解決のかぎを握っている政治家たちが頼りない。
 「ある国々では、汚職の嫌疑で指導者たちが辞職しなければなりませんでした。さまざまな理由で、世界は指導力の危機に見舞われているようです」。
 記事は、聖書の預言に読者の注意を引き、もっともよい指導者となるのはメシアであるイエスであると述べている。


指導者としてのイエス

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、同誌の特集記事に連動して、指導者としてのイエス・キリストを取り上げた一連の研究記事を掲載した。
 クリスチャンには、イエス・キリスト以外の指導者はいない。しかし、会衆や家庭に目を向けると、指導的立場が全くないというわけでもない。聖書はそこに権威を置いているからである。
 そこでクリスチャンは、指導に対する服従を、まず会衆や家庭において培っていかなければならない。それに加えて、聖書の教えを守り行うことが求められる。
 まず記事は、若い読者が聖書を勤勉に読むべきことを説いた。
 「今は悪い影響を及ぼすものがあふれています。学校でも他の場所でも、信仰の試みとなる圧力に毎日のように直面します。聖書を読むと、聖書のおきてや原則をすぐに思い起こすことができ、直面する圧力に抵抗する励みが得られます」。
 続いて、記事は家庭に注意を向けた。
 「夫の頭の権は、正しく行使されて初めて幸福をもたらします。賢明な夫は、自分自身の頭また指導者であるキリスト・イエスに見倣って頭の権を行使する方法を学ばなければなりません。クリスチャンの夫は、頭であるイエス・キリストの敬虔な特質に見倣うことに努めます」。
 「聖書は妻に対して、夫に服することをはっきり求めています」。
 「子どもは親に従順であるべきです」。
 「家族の全員がキリストの指導に服する時、結果として家族は幸福になります」。
 また記事は、クリスチャンが聖書伝道に携わるべきことを説いた。
 「イエスは、ご自分の指導を受け入れる人の生活で何が中心を占めるべきかについて、疑問の余地を残していません。……宣教奉仕は、人々への愛、また人々を助けようとする誠実な願いに動かされて携わるとき、喜びとなります」。
 会衆においてはどうだろうか。会衆には、監督すなわち長老が任命されている。
 「その人たちに対する態度や行動は、キリストの指導を受け入れているかどうかについて多くを語ります。感謝を抱いていることを示すのはいかにもふさわしいことです」。
 「私たちの指導者、イエス・キリストは完全な方ですが、その方が賜物として与えてくださった監督は完全ではありません。そのため、時には過ちを犯すこともあります。そうではあっても、キリストの取り決めに忠節であるのは肝要なことです。……権威に服することが難しいとしても、会衆内に神が据えた権威に従い、また柔順であるよう、祈りのうちに励みましょう」。
 「とりわけ長老たちはキリストの指導に従わなければなりません」。
 「監督また長老は、会衆内である程度の権威を持っています。だからといって、『仲間の信者の信仰に対する主人』となって、その生活を統制しようなどとはしません」。
 「長老は自分の責任を果たす際、誠実な態度で他の人たちに仕えることに努めます」。
 「その人たちは自分にゆだねられている権威を乱用しないよう注意します」。
 「長老たちは他の人への期待を道理にかなったものとし、他の人が必要とする事柄を察するように努めます。だれにもそれぞれ限界があることを認めて、愛のうちに、兄弟たちの限界を考慮に入れるでしょう」。
 記事は最後に、読者すべてに対し「キリストの指導のもとにとどまりなさい」と呼びかけている。


イエスとマリア

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、処女マリアから生まれたイエスは、マリアの罪深さから遺伝的な影響を受けたのだろうかという質問を取り上げた。
 記事は、聖霊の力が、イエスからそのような問題を取り去っただろうと述べている。


ワルド派

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、カトリックから派生し、異端としての立場を経て、プロテスタントに吸収されていった、ワルド派の歴史を取り上げた記事を掲載した。
 ワルド派の創始者となったのはヴォーデという人物である。彼は清貧と聖書伝道を重んじたため、特に信者が聖書を読むことを認めないカトリック教会と対立した。(当時、カトリック教会は信者が聖書を持つことや読むことを厳しく制限していた)
 ヴォーデは1184年にカトリックから破門され、ワルド派は1215年に異端として断罪されたという。
 1229年にカトリック教会による十字軍遠征が終わると、教会の新たな標的としてワルド派にねらいが定められた。こうして、ワルド派に対する厳しい迫害が生じ、ワルド派はそれによって弱められていったという。
 迫害と闘ううちに、ワルド派は聖書伝道を行わなくなった。公に伝道できなくなったのである。しかしこれは妥協であった。また、ワルド派自体も変質し、自分たちを一般信者と聖書伝道者とに分けるようになった。
 また、ワルド派の絶滅を逃れるために、カトリック教会との妥協も行われ、ワルド派はどんどんカトリック化していった。
 一方、宗教改革によりプロテスタントが成立すると、双方は互いに協調するようになった。特に、カトリック教会がワルド派の優勢な村での集団虐殺を行うようになるに至っては、ワルド派は武装して対抗せざるを得なくなり、こうして、同様な境遇にあったプロテスタント教派との結びつきは決定的になったという。
 記事は最後にこう述べている。
 「ワルド派主義は宗教改革の時に終わりました。プロテスタント主義にのみ込まれたのです。ワルド派の宗教運動は、それより何世紀か前に初期の熱意をほとんど失っていました。それは、信者たちが恐れに屈し、聖書を中心にした伝道と教育を放棄してしまったためです」。


集会の益を認識する

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、クリスチャンの集会の益を強調する記事を掲載した。
 「集会は、互いに知り合う良い機会です。ただ受けるだけでなく、与える機会、また愛を示し、りっぱな業に参加するよう互いに鼓舞し合う、とりわけ良い機会となります」。
 「王国会館(エホバの証人の教会施設)には、愛情深くて互いのことをよく気遣い、思いやりを示す、一群の友がいます。それらの友は、他の人が緊急事態に遭遇すると、その人を進んで助け、慰めようとします。そうするための用意のできている人たちなのです」。
 記事は最後に、聖書を引用しながらこう述べている。
 「問題の多いこの世の中で、クリスチャンの会衆は霊的なオアシスです。平和と愛の宿る憩いの場です。『見よ、兄弟たちが一致のうちに共に住むのは何と良いことであろう。それは何と快いことであろう』」。


手話会衆

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、エホバの証人の手話会衆を取り上げた囲み記事を掲載した。
 この記事によると、現在エホバの証人の手話会衆は、40の国またエリアに140ほど存在しているという。
 また、ものみの塔聖書冊子協会も、13の手話言語で聖書教育ビデオを発行しているという。


独身女性への励まし

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、結婚できなかったり、離婚したりして、独り身でいる女性たちを励まし、慰める記事を掲載した。
 記事は、そのような女性の周囲にいる人たちがどのようにしてその人を助けるべきかも説いている。


遺体を保存する

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、遺体を保存することに関する論考を掲載した。
 記事は、遺体を保存する風習は異教徒から始まったものの、聖書の中でもある程度認められており、クリスチャンは必要に応じて遺体の保存処置を行うことができると述べている。


「ものみの塔」誌が記念式に読者を招待

 「ものみの塔」誌2002年3月15日号は、エホバの証人の最大の宗教行事である、イエス・キリストの死を記念する記念式が、2002年の3月28日に執り行われることを告知し、記念式に読者を招待した。


地震

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、地震を取り上げた特集記事を掲載した。
 「地震の話には、死、破壊、失望以外のことも含まれます。このような災害によって人々は心を動かされ、ひとかたならぬ善意や自己犠牲の精神を示してきました。そのようなかすかな希望の光は、ぞっとする恐怖の光景にさえさし込み、輝いてきました」。
 記事は、地震のあとに組織される救援活動に焦点を当てている。


地震に関する見解が調整される

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、地震に関する同誌の従来の見解に幾らかの調整を加えた。
 同誌は長年に渡り、地震についての聖書の預言を擁護し、地震の数は増加してきたとする見解を保持してきた。
 「多くの人は、そうではないと言います。ここ数十年、地震の数は実質的に増加していないと主張します。地震の数が増加しているとの報告はいずれも技術の進歩によるものであって、以前より多くの地震を感知できるようになったからに過ぎない、と言う人もいます」。
 同誌は、このような意見にしたがって見解を調整し、統計的な観点から聖書預言の成就を証明することを退けた。
 代わって記事は、聖書の“地震が「苦しみの激痛の始まり」となる”という表現を字義通りに解釈し、聖書の地震預言にかかわる統計上の問題を解決している。


学校で伝道する

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、学校に通う年若いエホバの証人に、学校で聖書伝道するために踏むべきステップを指摘する記事を掲載した。
 「若い人たちは、宗教の話をするのは“かっこいい”ことではないと感じることがよくあります」。
 「拒絶されることに対して恐れを感じない人などいません。ですから、同級生に宗教について話すことを少し不安に感じるとしても、それはごく自然なことです」。
 記事は、神と聖書とに対する「本当の確信」が、この恐れを克服させると述べ、読者にこう問いかけている。
 「あなた自身は、聖書の音信が『救いのための神の力』だと信じているでしょうか」。
 記事は、読者である若者たちがまず、「これが真理であるということを自分自身で確認する必要がある」と指摘し、そのために「自分で聖書を研究する」よう求めている。
 「信仰や確信が成長するにつれ、あなたの態度も変わるに違いありません。クリスチャンだということは誇れることであって、恥ずかしいことではないと感じるようになります。信仰が成長するにつれ、同級生を始め、他の人たちに話さずにはいられなくなるでしょう」。


野生生物の追跡

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、発信器や識別票や足輪を用いた、野生生物の生態の調査を取り上げた教育記事を掲載した。


有機栽培

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、有機栽培を取り上げた教育記事を掲載した。


流産の悲しみ

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、流産してしまった母親の体験談を掲載した。
 この母親は、流産の悲しみに対処する点で、「愛が最良の薬」だったと回顧している。
 補足的な点として、記事は流産に関する一般的な誤解を訂正している。
 「専門家によると、運動、思い物を持ち上げること、性交渉などは必ずしも流産を引き起こすわけではありません。転んだり、軽く殴られたり、突発的な恐怖を感じたりしたために流産することもないようです」。
 さらに補足的な点として、記事は、ニュージーランド・ウェリントン流産サポートグループによる、「流産に対処するための指針」を要約して掲載している。


アイスワイン

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、カナダのアイスワインを取り上げた教育記事を掲載した。


科学進化論

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、科学進化論に対して反証する記事を掲載した。
 科学進化論とは、進化は「自然に起こる一連の化学反応を通して」必然的に生じたとする理論である。
 記事は、藻類のドゥナリエラ(ドゥナリエラはボルボックス目であり、ボルボックスは通常、進化の説明と理解のために取り上げられる)を例に挙げ、独自の反証を行っている。


チェコで宗教調査が行われる

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、チェコ統計局の発表から引用し、過去10年間に、チェコ国内で宗教離れが大幅に進んだと報じた。
 例えば、カトリック教徒は1991年の400万人から2001年の270万人へと減少している。
 現在、チェコ国民の60パーセントが無宗教だという。


勤労意欲が薄れる

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、仕事を単なる収入の手段とする見方のために、勤労意欲が薄れ、遅刻や病欠が増加していると指摘した。


インターネットにお墓

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、「ネットお墓参り」などの「新しい葬送とメモリアルを提案」している、あるオンライン葬儀サービス業社を取り上げた。
 記事は、このサービスをこのように紹介している。
 「友人や親族は、インターネット上で故人を偲ぶことができる。パソコンのスクリーンには、墓石の画像および故人の写真と経歴が表われる。そこを訪れた人がメッセージを残せる場所も設けられている。マウスをクリックすれば、仏式で、果物や花束、線香、酒類を仮想のお墓に添えられるようにもなっている」。


北極圏の環境破壊

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、北極圏の環境が破壊の脅威にさらされていると指摘した。


肥満児が増加する

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、過去10年のうちに、肥満児が2倍になったと報じた。


輸血にはインフォームド・コンセント

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、イタリア保健省が、輸血にはインフォームド・コンセントが必要であり、患者の同意なくしては輸血を施すことはできないとする、1991年の法令を再度公布したと報じた。


妊娠と家庭内暴力

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、「女性に対する夫の暴行の3分の1は妊娠期間中に始まっている」と指摘した。
 記事によると、妊娠中に亡くなる女性の5人に1人は、殺害されて死んでいるという。


睡眠不足は光のせい

 「目ざめよ!」誌2002年3月22日号は、睡眠障害のメカニズムの一つを取り上げた記事を掲載した。
 安定した睡眠には、体内のメラトニンの分泌リズムが関係している。
 メラトニンは光を浴びるとなくなり、夜に分泌されるが、日中に日の光を浴びないと、分泌が狂い、睡眠障害に繋がる。
 特に高齢の睡眠障害者は、室内に引きこもって蛍光灯程度の光しか浴びず、こうして症状をひどくしているようである。


信仰に理性は不可欠

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、信仰と理性との関係に注目する特集記事を掲載した。
 「ただ何も考えなくて済むよう宗教に走る、“信心深い”人が多すぎる」。
 「信仰心を持っているという人の多くは、自分がなぜそのように信じているのか、またその信仰には相応な根拠があるのかをほとんど考えていません」。
 「キリスト教は上辺だけのものになりがちで、信者たちは信仰面で満足に教えられていません」。
 そこで記事はこのように問いかけている。
 「神について自分の信じていることが正確かどうかを真剣に考慮すべきではないでしょうか」。


無料の聖書研究

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、エホバの証人の実施している無料の聖書研究を受けるよう読者に勧める記事を掲載した。


ウィルナーの経験

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、カトリックからエホバの証人に転向したウェルナー(男性)の経験談を掲載した。
 敬虔なカトリックの家庭に生まれたウェルナーは、神学校に通い、僧職者になることを目指していたが、司祭から同性愛行為を迫られたことが原因で、カトリックを離れ、エホバの証人になったという。


神への献身とバプテスマ

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、神への献身とバプテスマ(浸礼)に焦点を当てた一連の研究記事を掲載した。
 昔、キリスト教会は、政治権力を盾に人々に無理矢理洗礼を施していた。そのようなやり方は正しくないと記事は論じた。
 バプテスマを受ける前に、人がその意味を理解し、同意していることは重要なこととである。
 「人はバプテスマに先立ち、『イエスが弟子たちに命令した事柄すべてを守り行なうように教えられて』いなければなりません」。
 「バプテスマを受けるには、それ以前に転向していなければなりません。……また、心をこめて神に献身していなければなりません。……わたしたちは、キリストを通して神に献身するとき、聖書に示されている神のご意志を行なうことに自分の命を用います、という決意を表明します」。
 「エホバの証人は誰にも無理にバプテスマを受けさせたりはしません。証人たちは、霊的(信仰)に資格のない人にはバプテスマを施しません」。
 また記事は、バプテスマを受けることを躊躇している人たちに注意を向け、その理由を考察した。
 さらに記事は、バプテスマを受けた後、人がどのように生きていくべきかに読者の注意を引いた。
 「神への献身にふさわしく生きるには、信仰を築く聖書の知識を引き続き得なければなりません」。
 「何かの決定を下すときには、エホバへの献身を全うすることにどんな影響が及ぶかをいつも考えてください」。
 「悪を行なうように誘惑された時、あるいは厳しい試練に面した時、神の導きと、それに従うための助けを求めてください」。
 最後に記事は、クリスチャンである読者が、「揺るぎない心でエホバに仕え」、こうして神への献身を全うするよう励ました。


異文化への宣教

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、文化の異なる人々に聖書を教えるという課題を取り上げた記事を掲載した。


ものみの塔協会の年次総会

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、「ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会」の年次総会の報告を掲載した。
 年次総会では、世界のエホバの証人からの活動の報告や、励みとなる聖書講演が行われたという。


エホバの証人が決議を採択

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、フランスとイタリアのエホバの証人が採択した決議文を掲載した。(全文)


老齢でも

 「ものみの塔」誌2002年4月1日号は、102歳になってから聖書の研究を始め、バプテスマを受けた、クセニヤ(女性)を紹介する小記事を掲載した。


母親の労苦

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、子供を持つ母親の苦労を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、子供と母親との親密な関係の必要を説いた。
 「子どもたちは将来の世代を代表しているのですから、その人格形成を助ける母親たちは、確かに敬意や誉れや支えを受けるに値します」。
 「時には、友人や先生、娯楽、テレビゲーム、音楽の方が親より大きな影響を与えているように思えることもあります。……お子さんの子ども時代の短い期間を生かして、永続的な価値のある、敬虔な教えを与えておられるでしょうか。それとも、今はやりの文化がお子さんの成長に支配的な影響を及ぼすままにしているでしょうか」。
 「仕事を持つ非常に多くの母親は、たとえ留守がちであっても、子どもと“クオリティー・タイム”を過ごせば幾らか埋め合わせができるという考えを抱いていました。しかし、その考えは不十分であることに気づいています」。
 さらに記事は、子育てと勤労の二重苦を抱え込んだ母親が、その苦労にどのように対処できるかを具体的にアドバイスしている。


クリスチャンと神の保護

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、「クリスチャンは神からの保護を期待できるか」というテーマを扱った論考を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「神に恐れを抱く人たちであれば暴力、犯罪、自然災害、事故死などを免れる、というわけではありません」。
 記事は、「エホバの忠実な僕たちにも悪いことは起こる、という現実を受け入れる」よう、エホバの証人である読者に勧めた。


ブルーム

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、オーストラリアのブルームで養殖、生産されている真珠を取り上げた教育記事を掲載した。


動物の言語

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、動物のコミュニケーションを取り上げた教育記事を掲載した。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、20問の聖書クイズを掲載した。


高血圧に対処する

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、高血圧の予防と対処に焦点を当てた教育記事を掲載した。


種子銀行

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、種子銀行プロジェクトの一つである、ミレニアム種子銀行プロジェクトを取り上げた教育記事を掲載した。


自殺を考える子供たち

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、自殺を考えて英国のチャイルドラインに電話をかける子供たちの数が、1990年から1991年の346件から、1998年から1999年の701件へと増加したと報じた。


優柔不断

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、優柔不断な人は病気になりやすいと指摘した。
 優柔不断な人は、決定を先送りし続けるうちにストレスがたまって体が弱るのだという。


魚と前立腺癌

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、ストックホルムのカロリンスカ研究所からの話として、魚を食べる男性は、前立腺がんにかかる確率が半分以下になり、心臓発作も少なくなると指摘した。


不安定になる子供たち

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、ガゼット紙からの話として、子供の5人に1人が精神衛生上の問題を抱えていると報じた。


聞いて理解する

 「目ざめよ!」誌2002年4月8日号は、聞いて理解することの価値を強調する小記事を掲載した。
 「多くの社会問題の根底には、聴く能力の乏しさがある」。
 記事は、「学ぶことの多くは効果的な聴き方にかかっているので、わたしたち皆は努力を続け、注意を払っていかなければなりません」と述べている。


聖書伝道は救命の業

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、聖書伝道が、人の命を救う業であることを説き、エホバの証人の伝道者たちを鼓舞する記事を掲載した。


若い人向けのビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、ものみの塔聖書冊子協会が発行した「若い人は尋ねる ― どうすれば本当に友達ができるだろうか」と題するビデオの益を考える記事を掲載した。


伝道者援助の取り決め

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、ここ数年に渡って実施されている、開拓伝道者が伝道者を訓練する取り決めの概要を扱ったプログラムの筋書きを掲載した。


「論じる」の本を用いる

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、聖書伝道者用のハンドブック、「聖書から論じる」の活用を考えるプログラムの筋書きを掲載した。


時間厳守

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、集会や伝道などのイベントにいつも遅刻する人へ改善を促すプログラムの筋書きを掲載した。


信仰を援助する

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、キリストの死の記念式に参加した人や、 昔は集会に来ていたものの今は来ていない人を援助するよう勧める記事を掲載した。


全時間奉仕

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、エホバの証人の若者たちが、開拓伝道などの全時間奉仕を目標とするよう勧める記事を掲載した。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、4カ月に1度行われる、神権宣教学校の復習のための問題用紙を折り込みとして掲載した。


親権の問題

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、子供の親権や面接交渉権に関する問題を抱えているエホバの証人がいる場合、ものみの塔協会がその人に法的な資料を送る用意があると通知した。


郵送での雑誌の配布

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、雑誌の定期購読を望むものの、エホバの証人の伝道者が直接雑誌を送り届けることができない人のための、「郵送依頼」の取り決めを通知した。


新しい点字書籍が発行される

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、ものみの塔聖書冊子協会が「満足のいく生活 ― どうすれば実現できますか」と題する点字書籍を発行したと告知した。


手話ビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、「エホバの権威に敬意を払う」と題する、手話による聖書劇のビデオが発行されたと告知した。


ビジネス街での聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、ビジネス街での聖書伝道に、「満足のいく生活 ― どうすれば実現できますか」の小冊子が有効であることを紹介する記事を掲載した。


クリスチャン家族の強い絆

 「わたしたちの王国宣教」2002年4月号は、クリスチャン家族の絆を強くすることに焦点を当てた記事を掲載した。
 「クリスチャンの家族は、「自分の家族の中で敬虔な専心を実践」することに努めており、それは褒めるべきことです。しかし、わたしたちの信仰を弱めさせる周囲からの悪影響がとても多いので、家族が霊的に強い状態を保とうと努力するのは大切です」。
 「家族の頭(通常は父親)は、自分の責任を果たして家族を強めようとするにあたり、イエス・キリストに見倣う必要があります。愛のある親は、この優しい気遣いの手本に倣い、家族の日ごとの霊的必要(心の必要)に注意を払います」。
 また記事は、「すべての悪に抵抗する力」を得るよう助けるため、子供たちを聖書伝道に同伴させ、聖書の教えをよく理解させるよう勧めた。
 記事は、家族でピクニックなどのリクリエーションを楽しむ必要性も説いている。


都市に希望を求めて

 「ものみの塔」誌2002年4月15日号は、経済上の安定と安らぎを求めて都市に出稼ぎに向かう人々を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、この問題や、関連した事柄を取り上げ、このように語っている。
 「神に対して富むことは、物質の富を持つことよりはるかに価値があります」。


フィリピンでの宣教奉仕

 「ものみの塔」誌2002年4月15日号は、フィリピンの山岳地帯での聖書伝道の成果を報告する記事を掲載した。
 このような事例が報告されている。
 「1572年、スペイン人がカトリックを携えてきましたが、ティンギャン族に真のキリスト教を教えることはできませんでした。カトリック教徒になった人もカブニャンヘの信仰を捨てようとせず、土地の習慣に従いました」。
 「聖書に関する正確な知識がそれらの人々に初めて伝えられたのは、1930年代にエホバの証人がその山地で王国の音信を広め始めたときでした」。
 「例えば、リングバウアンは以前、その地域の部族の長として尊敬を集めており、ティンギャン族の文化に深くかかわっていました。「わたしはティンギャン族の伝統に忠実に従っていました。ティンギャン族では、誰かが死ぬと、埋葬してから踊り、ドラを鳴らしました。動物もいけにえにしました。カブニャンを信じており、聖書の神を知りませんでした」。名目上はカトリック教徒だったにもかかわらず、この有様でした」。
 「証人たちはリングバウアンに会い、聖書を読むように勧めました。その後、この人は以前の生き方をやめ、部族の指導者の立場を退いたため、地元の司祭と以前の仲間の怒りを買うことになりましたが、聖書の中に見いだした真理に従う決意をしていました」。


神とキリストの律法

 「ものみの塔」誌2002年4月15日号は、神からクリスチャンに与えられている「キリストの律法」の価値を説く一連の研究記事を掲載した。
 「神の律法に従うというのは、今日一般に好まれることではありません。今は道徳的に相対主義の時代で、正邪の境がはっきりせず、灰色の領域が非常に大きくなっています」。
 「今日、人は、善良で徳のある生活とはどのようなものかを、各自で判断するように期待されています」。
 記事は、このような風潮にクリスチャンが流されてしまわないようにするためには、クリスチャン一人一人が聖書をよく学び、理解して、その価値を知ることが必要だと説いた。
 さらに記事は、キリストの律法の本質に読者の注意を引き、このように述べている。
 「神の律法は、ただの冷たいしゃくし定規な法令の一覧表ではありません。それは、平衡の取れた生産的な生活のための基盤となり、行動のあらゆる面に良い影響を及ぼすものなのです。神の律法は人を訓育するもので、倫理的また教育的です」。
 「神の完全な律法と高潔な原則はわたしたちのよく訓練された良心と連動しています」。
 「エホバは人間を、知力のないロボットのように盲目的に服従するものとしてプログラムしたのではありません」。
 記事はさらに、神からの律法の「原則(もしくは道徳上の基本原則。それはクリスチャンの生活において、多岐に応用されなければならない)」に読者の注意を引いた。
 「聖書中の原則を識別して適用することは、一そろいの律法に従う場合ほど容易ではありません。わたしたちは、原則に基づいて筋道立てて考えるのに必要な努力をいとうかもしれません。決定や二者択一を迫られると、何かの規則に従う便利さの方が好ましく思えることでしょう」。
 このような傾向を克服するのは、聖書の原則に対するより深い理解と敬意である。
 「あなたも多分、刑罰を恐れてしぶしぶ法に従う人たちを見たことがあるでしょう。しかし、原則に対する敬意があれば、そのような態度は取らなくなります。原則とはどういうものかについて考えると、人は心から原則にこたえ応じたいと思うようになります」。
 「エホバとその規準に関する知識、理解、感謝の面で成長するにつれ、わたしたちの良心つまり道徳感覚は、どんな状況に直面しても、たとえごく私的な事柄においてさえ、神の原則を適用するための助けになります」。
 さらに記事は、原則に従うことの益を説いた。
 「基本的な事柄に関するエホバのお考えを反映したいという気持ちが生活の中心になると、生き方が一貫したものとなります」。
 「原則を知って当てはめることは、むなしい形式的な崇拝というわなに陥るのを防いでもくれます」。
 また記事はこのように述べて、神の律法の誤った運用に警告を発している。
 「エホバの原則の意図や精神を見失ってはなりません。決して道徳的形式主義で神の恵みを得ようとしてはなりません」。
 「わたしたちは聖書の諸原則に従うので、聖書の教えを超えて、すべきこととすべきでないこととを広範また厳格に定めた規則集によって生活しよう(また、生活することを他の人に要求しよう)とはしません。崇拝の外面的な形よりも、神に対する愛と従順の原則の方を気にかけます」。


感情移入

 「ものみの塔」誌2002年4月15日号は、感情移入の価値を説く、教訓的な記事を掲載した。
 クリスチャンは「隣人を愛する」よう命じられているが、「この利己的な世界では、いともたやすく「優しい同情の扉を閉じ」、他の人の必要を無視する傾向があります」。
 そこで、クリスチャンは、感情移入をまず学ばなければならない。感情移入できない者が「親切と同情の扉を開く」ことなど到底できないからである。
 記事は、読者がどのように感情移入の点で成長できるかを詳しく具体的に論じた後、最後にこう述べて読者を励ましている。
 「わたしたちにはこの特質を培う道義的な責任があります。感情移入は、わたしたちがいっそう優れた奉仕者、またより良い親になるための力となります。そして何よりも、感情移入は、「受けるより与えるほうが幸福である」ことを実感する助けになるのです」。


ワルド派とエホバの証人

 「ものみの塔」誌2002年4月15日号は、キリスト教ワルド派の二人の牧師とエホバの証人との関係を取り上げた記事を掲載した。
 これらの牧師は、エホバの証人に転向することはなかったが、それでもエホバの証人を賞賛し、エホバの証人の伝道活動に助力したという。
 一人の牧師はこのように書いている。
 「我々福音主義者、ひいては我々の牧師や神学教授たちでさえ、すべてを知っている人はだれもいないはずだ。それどころか、学ばねばならないことは実にたくさんある。我々はじっと耳を傾けるべきであり、何もかも知っていると考えたり、検討のために差し伸べられたものを退けたりしてはならない。むしろ、聴いて、聴いて、聴きなさい」。


祈りとイエス

 キリスト教徒は普通、祈りを終える際に、神と人との仲介者であるイエス・キリストに祈りをゆだねるが、エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年4月15日号において、そのような祈りの形式の是非についての見解を発表した。
 統治体は、『どの祈りが神に聴かれるかを決めるのは人間ではなく神であり、大切な要素は、当人の状態である。神は特定の形式や決まり文句を期待しているのではない』と述べつつも、イエスに敬意を払い、尊ぶこと、神に対して謙遜さを示すことの重要性を説き、仲介者であるイエスを介さずに直接神に祈るという無礼をなるべく避けるように読者に勧めた。


逃げる

 「ものみの塔」誌2002年4月15日号は、クリスチャンが不道徳と怒りの感情から逃げるべきことを説く小記事を掲載した。


個人宗教の繁栄

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、個人宗教に焦点をあてた特集記事を掲載した。
 今や人々は、伝統的な宗教から個人宗教へと急速に信仰を衣替えしている。その理由はなんだろうか。さまざまな理由が挙げられるが、一つに記事はこのように指摘している。
 「キリスト教であるとの主張がむなしく響く時が多すぎる。クリスチャンは自分たちの間で平和や一致を保てなかった。キリストへの改宗者を得るという名目で正当化されてきた多くの戦争による略奪や制征服が、その証しである。信仰、希望、愛はクリスチャンの顕著な美徳かもしれないが、それらの美徳を熱望しているといわれる人たちも、クリスチャンでない人と全く同じようにひねくれており、失望しがちである。また、クリスチャンでない人と同じく思いやりに欠ける、と言ってもよいだろう。ホロコーストを生み出したのはキリスト教国であり、日本に核戦争の恐怖を解き放ったのもキリスト教国である」。
 「クリスチャンは概して、地球の資源を消費するに当たって公正な取り分をはるかに超え、力の弱い近隣諸国での搾取、抑圧、環境悪化を黙認しつづけて、自分たちの食欲を満足させている」。
 伝統的宗教に魅力がなければ、人々がそこから去ってゆくのは当然である。
 しかし記事は、個人宗教について、それは決してよいものではないと論じた。
 「個人宗教には、想像できるものならほとんど何でも真剣に信じるという状況が見られるが、そこには何の理屈もない。また、こうした個人的な信仰が人々の生活においてどのような導きとなっているかを見きわめようとしても、実際には何も見つからない。道徳に関する究極的な権威が存在しない。しだかって、個人宗教には全く実体がない」。
 記事は最後に、信頼できる宗教は聖書に示されており、読者は聖書を学んでそのことを知る必要があると論じている。


オーストラリア流刑

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、18世紀のイギリスで実施された、オーストラリアへの流刑を取り上げた教育記事を掲載した。


ルームメイトと仲良くする

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、大学の寮などでルームメイトと暮らしている若者たちが抱える問題とその対処を取り上げた、実際的で教訓的な記事を掲載した。


アンドレイ・ハナークの手記

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、ナチスや共産主義政府によって迫害されながらも信仰を立派に守り抜いた、アンドレイ・ハナーク(男性)による手記を掲載した。
 彼はハンガリーで、信仰のゆえに兵役を拒否し、10日間の刑を宣告された。これが最初の試みとなった。
 1942年にはエホバの証人を収容する強制収容所が作られ、彼もそこに投獄されたという。さらに、彼は別の刑務所にも収容された。
 「監房は縦4メートル、横6メートルほどの広さでしたが、50ないし60人ほどの囚人ですし詰めでした。浴室やトイレの設備など全くないその監房で、私たちは8ヶ月間生活しました。ですから、シャワーや入浴はおろか、衣服を洗濯することもできませんでした。私たちは皆、シラミにたかられ、夜になると、ナンキンムシが私たちの汚い体をはい回りました」。
 「朝は4時に起きなければならず、朝食は小さなカップ1杯のコーヒーだけでした。昼は、それと同じほどの量のスープと150グラムほどのパンとわずかばかりの穀物がゆをもらいましたが、晩には何も出ませんでした。私は二十一歳で、体は丈夫でしたが、やがてすっかり衰弱して歩けなくなってしまいました。飢えや伝染病のために死ぬ囚人たちも出始めました」。
 「そのころ、新たに囚人が一人、私たちの監房に入ってきました。その人は、私が冒頭で述べた、ひげを生やした正教会の司祭で、聖書を所持することを許されていました。ああ、その聖書をどんなに読みたいと思ったかしれません。しかし、読ませてもらえませんかと尋ねたところ、断られてしまいました。ところが、その後、司祭が近寄って来て、「おい、君、聖書を上げるよ。君にこれを売ろう」と言いました。この時、私は3日分の配給のパンと引き替えに、その司祭から聖書を譲ってもらったのです」。
 「こうして聖書を入手し、なんと豊かに報われたのでしょう。肉体的には飢えていましたが、霊的な食物を取り入れることができ、私のみならず、当時の不穏な時期に同様な試練に遭遇していたほかの人たちも、その霊的な食物で支えられました。私は今でもその聖書を持っています」。(写真掲載あり)
 ドイツ敗北が近づいた頃、死の行進の後に、このような出来事があったという。
 「チェルベルカにつくと、エホバの証人は、各列5人ずつで整列するようにと言われました。それから、二列ごとに一人の証人が連れ出されました。私たちは、それら連れ出された人たちが処刑されるものと思い、目に涙を浮かべて彼らを見つめました。ところが、しばらくして、それらの人たちは戻ってきたのです。ドイツ兵たちは、彼らに墓穴を掘らせようとしていたのですが、ハンガリー人の司令官は、彼らが1週間、何も食べておらず、衰弱しているため働けないと説明したのです」。
 「その晩、私たちエホバの証人は全員、煉瓦を乾燥させるために使われていた建物の最上階に連れて行かれ、ドイツ人のある将校からこう言われました。「静かにして、ここにとどまっていなさい。今夜は悲惨な夜になるはずだ」。そう言って、将校はドアにかぎをかけました」。
 「それから数分後、「さあ、来い! さあ、来い!」と兵士たちのどなる声が聞こえてきました。次いで、機関銃の音がとどろいたかと思うと、あたりは恐ろしいほど静まりかえりました。すると再び、「さあ、来い! さあ、来い!」という叫び声が聞こえ、それからまた銃声がとどろきました。夜明けまでに、ユダヤ人の収容者たちはほとんど殺され、生き残ったのは8人だけでした」。
 終戦後、彼は再びチェコスロバキア政府からの迫害を受けたが、この迫害も生き延び、信仰を捨てることなく現在に至っているという。


カーペットは有害

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、カーペットのほこりが与える有害な影響に読者の注意を引いた。


バルカモニカ

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、世界遺産に指定されている、バルカモニカ遺跡の岩石画を取り上げた教育記事を掲載した。


ウミガメ保護の難題

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、これまでアオウミガメの保護のために日本で行われてきた、人為的な卵の回収と孵化には深刻な問題があると報じた。
 ウミガメは、生まれて砂浜からはい上がってから波間に到達するまでのわずかの間に、初めての、そして最後の、体内の地磁気センサーの調整を行う。この調整はそのカメにとって一生涯必要なものである。
 「しかし、人工ふ化による放流では、生まれた後、水槽で待機させられるため、海に出ても自分の位置が分からない」。
 そのようなカメは、自分の生まれた砂浜に帰ってくることができないという。


漢字忘れ

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、コンピュータのせいで、今中国人は急速に漢字のつづり方を忘れつつあると報じた。


少女の摂食障害

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、カナダの12歳から18歳の少女の27パーセントに摂食障害が見られていると報じた。


薬に頼る子供たち

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、ドイツの小学生の5人に1人が、精神安定剤など、精神上の薬剤を服用していると報じた。


アリグモ

 「目ざめよ!」誌2002年4月22日号は、アリグモを取り上げた小記事を掲載した。


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