JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2002年版(2)
2002年10月1日更新

引用文は適宜語尾等を修正しています

身体障害者

 「ものみの塔」誌2002年5月1日号は、身体障害の問題を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、聖書から、「病気や身体的な障害は、理由があって許されていますが、近い将来なくなります」と述べている。


ジェームズの経験談

 「ものみの塔」誌2002年5月1日号は、重度の知的障害者であるジェームズ(男性)が、父親に自分の信仰を表明し、神に対する信仰に導いたという美談を紹介する小記事を掲載した。


マラキ書から学ぶ

 「ものみの塔」誌2002年5月1日号は、聖書のマラキ書を逐語的に解説する一連の研究記事を掲載した。
 記事は、マラキ書から現代のクリスチャンが何を学べるかについて多くの教訓を述べている。
 「貞潔、忠誠、霊的な相続財産を軽視して、神聖な物事を軽んじることが決してありませんように」。
 「自分にできる最良のものをエホバにささげるのは、神を本当に愛していることを示す方法です」。
 「エホバの証人が行なっている世界的な伝道活動は自発的な業であり、わたしたちは宣教奉仕のどの部分についても報酬を求めたりはしません」。
 「神に霊的な犠牲(クリスチャンの奉仕)をささげることを喜びとし、それを面倒な重荷とみなすことのないようにしましょう」。
 「わたしたちの霊的な犠牲は、単なる形式ではなく、神への愛を心から表明するものです」。
 「妻に誉れを配する人たちは、身体面でも言葉の点でも妻を虐待したりせず、堕落した性的行動を求めず、他の女性の気を引いたりポルノを見たりして妻を辱めるようなこともしません」。
 「わたしたちは、神の義の要求にそって行動しようと思い定めているべきです」。


ウェルナー・マッツェンの手記

 「ものみの塔」誌2002年5月1日号は、クリスチャンの父親として子供たちを立派に育てた、ウェルナー・マッツェン(男性)による手記を掲載した。
 「妻と私は親として、崇拝の面で子どもに正しい模範を示すことの大切さを認識していました」。
 「子どもたちが成長するにつれ、子どもの心に愛を植え付けるには、その心にすでに何があるかを知らなければならない、ということに気づくようになりました。つまり、子どもの言うことに耳を傾ける必要があるということです」。
 「時に私は、子どもに性急な、あるいは不公平な罰を加えてしまうことがありました。そのようなとき、私たちは親として、謝ることを学ばなければなりませんでした。謝ったあと、祈りのうちにエホバに近づきました。父親が、必要なときにはいつでもエホバと子どもに謝るのを、子どもたちが知っているということは重要です。その結果、子どもたちと温かで親しい関係を持てました」。
 子育ては必ずしも順調だったわけでなく、信仰の試みもあったが、彼は子育てを成功させ、エホバに感謝しているという。


大群衆と神殿

 「ものみの塔」誌2002年5月1日号は、聖書の啓示の書(黙示録)の中にでてくる「大群衆」が、“神の霊的神殿”のどこに位置しているか、という論題について、これまでの見解を修正する記事を掲載した。


ノーベルと平和の論理

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、ノーベル賞で有名なノーベルが唱えた平和の論理を紹介し、平和について考える特集記事を掲載した。
 ノーベルは、平和に関する逆説を唱えたという。
 「ノーベルは、武器の殺傷力が大きなものになれば、戦争は起きにくくなる、と考えていたようです。ノーベルはある著述家に、「あなたの議会よりも、わたしの工場のほうが、ずっと早く戦争を終わらせることができる」と語り、次いで、「双方の陣営が相互に相手を一瞬にして全滅させることのできる時代になれば、どの文明国もおそらく恐怖でたじろぎ、部隊を解散させるだろう」と述べました」。
 記事は、ノーベルの論理の間違いを指摘し、平和をもたらす聖書の希望に読者の注意を引いている。


ショッピングモール

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、ショッピングモールを取り上げた教育記事を掲載した。
 「ショッピングモールを企画する際には、買い物客が快適に過ごせるようにすることに主眼を置きます。この目標を達成する一つの方法は、買い物客の胃袋を満足させることです。レストランやファーストフードの店があれば、お客は楽しい、満ち足りた気分になり、そこで過ごす時間が確かに長くなるでしょう」。
 「消費を促すもう一つの基本的な心理作戦は、人々の必要よりも欲望に訴えることです」。
 「次の段階は、言うまでもなく、欲望を購入に変化させることです。これを行なう折り紙付きの方法は、買うという行為が一つの楽しみとなるようにすることです」。
 「そのような雰囲気の中で、物質主義のわなにはまらないよう、平衡を保たなければなりません」。


ハングル

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、「ハングルで書いてみましょう!」と題する教育記事を掲載した。
 記事は、ハングル成立の歴史、文字のつづり方、発音を取り上げている。


学校でエホバの証人のビデオが上映される

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、ギリシャのある学校で、エホバの証人を紹介するビデオの上映会が行われたことを紹介する小記事を掲載した。


ユキヒョウ

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、ユキヒョウを取り上げた教育記事を掲載した。


遺族への慰め

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、「愛する家族を亡くした人たちがしばしば考える疑問」に聖書から答え、慰める記事を掲載した。


神は戦争を是認されるか

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、神が人間の戦争を支持されることがあるかという論題を扱った論考を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「明らかに、聖書に記されている戦争は現代の紛争を正当化するものではありませんし、現代の紛争はどれも神の指示や命令で行なわれていません」。
 「キリストの追随者が敵味方に別れて戦い、互いに殺し合おうとしている恐ろしい場面を想像してみてください。そうしたシナリオはキリスト教の原則(基本的な教え)に反するものです。実際、聖書の神に従う人々はだれをも傷つけませんし、敵するものをさえ傷つけません」。
 「現代の人間の紛争を正当化したり、それらを神が祝福しているとみなしたりするためにハルマゲドンの教理を用いることはできません」。
 「明らかに神は、現代における人間同士の世俗的な戦争を祝福することはありません。真のクリスチャンは平和を求め、神の王国のもとで世界中に確立される平和を唱道します」。


オウロ・プレト

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、ブラジルのかつての金鉱であるオウロ・プレトを取り上げた教育記事を掲載した。


栄養失調に効果的に対処する

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、特に貧しい国々に住む読者層を念頭に置いた、栄養のバランスと健康とに関する教育記事を掲載した。
 この記事は、健康を維持するために必ずしも高価な食材が必要ではないことを説明し、大切なのは、記事の中で簡単に分類された3つの食品群をもれなく摂取することだと説いている。
 また記事は、このようにも指摘している。
 「全世界で8億人が栄養不良のために死の危険にさらされています。5歳未満の子どもの死亡例の約50パーセントは栄養不良と関係があります。何とか生き延びている人たちでも、健康を害している場合が少なくありません」。
 「それとは正反対に、8億もの人が食べ過ぎのために死の危険にさらされていると言われています」。


婚姻外出産

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、ヨーロッパ統計局(ユーロスタット)の話として、「現在、欧州連合では赤ちゃんの4人に1人が婚姻外で生まれる」と報じた。


ダイエットと骨粗鬆症

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、朝日新聞から引用し、「無理なダイエットの影響で、歳を取ってから骨粗鬆(そしょう)症になる恐れのある若い女性が増えている」と指摘した。


結婚と若者たち

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、イギリス家庭問題協会からの報告として、「親が離婚、あるいは結婚する代わりに同棲している場合、十代の若者が性交渉を持つ可能性は2倍になると思われる」と述べた。
 この報告は、子育てに理想的な家族単位としての結婚を大いに重視する必要性を強調しているという。


休暇と不和

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号がディ・ウェルトから引用したところによれば、「離婚の3件に1件は、一緒に休暇を過ごした後に申し立てられる」という。
 なぜだろうか。日頃から仲良くなどしていない家族が、たまには一緒に休暇を楽しもうとしたものの、結局は、けんかやつまらない口論のためにすべてを台無しにしてしまうようである。


挿し絵に間違い

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、読者の指摘を受け、同誌2001年9月8日号のマヤ歴の記事で使われた写真が、実際にはアステカの太陽暦のものであったことを認め、謝罪した。


ビサップ

 「目ざめよ!」誌2002年5月8日号は、西アフリカの代表的な飲み物であるビサップの作り方を紹介する小記事を掲載した。


信仰と業

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、信仰と業との関係を指摘する記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「信仰は、すばらしい神と、とこしえに続く幸福のための神の備えについて語るよう、わたしたちを動かします」。
 「わたしたちは信仰により、あらゆるふさわしい機会に、親族、近所の人、職場の同僚、学校の友達などに良いたよりを伝えるよう促されます」。
 「強い確信は、生活の中で霊的な(信仰にかかわる)事柄を優先するようわたしたちを動かします」。
 最後に記事はこのように述べ、読者を励ました。
 「信仰がわたしたちの生活に及ぼす強力な影響は、他の人々の目にとまらずに終わることはありません。実際、わたしたちの信仰は全世界で知られています。ですから、わたしたちすべては、自分の信仰が生きたものであることをよい業によって実証してゆきましょう」。


へんぴな区域での聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、へんぴな区域での聖書伝道と、外人を対象にした広範な区域での聖書伝道とをテーマにした記事を掲載した。


さまざまな聖書翻訳

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、「聖書から論じる」の本を通して、様々な聖書翻訳を用いることの益を学ぶプログラムの筋書きを掲載した。


地域大会に備える

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、近づく地域大会に向けて、出席の準備を促し、様々な教訓を述べる、一連の記事を掲載した。
 記事はこのように読者を諭している。
 「わたしたちが、『主にあって、またその力の強大さによって強くなってゆき』、『邪悪な日にあって抵抗できるように、また、全ての事を徹底的に行なった後、しっかりと立てるようにする』のは肝要なことです」。
 「3日間全てに出席することを目標にしてください」。
 「大会は、この「対処しにくい危機の時代」におけるエホバからの肝要な備えです。それによって、『目ざめていなさい。信仰のうちにしっかりと立ちなさい。雄々しくあり、力強い者となりなさい』という、霊感を受けた助言に留意するよう助けられます」。
 「クリスチャンの生き方には、『すべての人に対して、常によいことを追い求めること』が関係しています。地域大会に出席する時には、他の人たちに良いことを行なう機会がたくさんあります。「あらゆる人を敬っている」ことを行動によって示さなければなりません」。
 「時折ホテルで、大人のふさわしい監督を受けないままにされた子どもたちが、問題を起こしたことがあります。親の皆さん、大会に先立ち、いくらか時間を取って子どもと一緒に、いつでもどこでも子どもたちに期待されているクリスチャンの振る舞いについて復習するのは助けになることでしょう。大人は、だれの目にも正しい模範を示して、これらの言葉を重みのあるものにすることができます」。
 「心を整えるため、エホバがわたしたちをくまなく探り、わたしたちの中にある矯正の必要を見分け、「定めのない時に至る道」に導き入れてくださるようにと神に懇願すべきです。個人的に当てはまる教えは勤勉に実行しなければなりません」。


アメリカのエホバの証人施設の見学

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、アメリカでのエホバの証人施設の見学のために用意されている、見学案内デスクの住所を掲載した。


巡回訪問の公開講演が変更に

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、巡回訪問に際して行われる公開聖書講演の主題が、「危険な世界で安全を見いだす」に変更されたと告知した。


新しいビデオが発行される

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、「試練のもとで忠実 ― ソ連のエホバの証人」と題するビデオが刊行されたと告知した。


手紙での聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、手紙を用いた聖書伝道のマナーを指南する記事を掲載した。
 記事は、「匿名の手紙は出さないようにしましょう」と読者に述べ、できるなら、宛名と手紙をワープロで印刷するよう勧めている。


聖書研究を勧める

 「わたしたちの王国宣教」2002年5月号は、「聖書についてもっと知りたいと思いませんか」と題するパンフレットと、「満足のいく生活」のブロシュアーを用いて、聖書研究を人に勧めるよう勧める記事を掲載した。


神とは誰か

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、「神とはだれか」というテーマを扱った特集記事を掲載した。


貧しい国に王国会館を

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、他の国々からの援助によって行われている、貧しい国々での王国会館建設を取り上げた記事を掲載した。


愛ある親切

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、聖書(新世界訳)にででくる「愛ある親切」という表現の意味と実践を扱った一連の研究記事を掲載した。
 「聖書の中で、「愛ある親切」は、非常に豊かな意味を持つヘブライ語(ヘセド)の言葉の訳であり、たいていの言語において、その十分な意味を一語で表わせる単語はありません。例えば、「愛」、「憐れみ」、「忠実」といった訳は、その語の幅広い意味を余すところなくとらえてはいません。それに対し、さらに包括的な訳である「愛ある親切」は「その語の持つ豊かな意味をおおむね伝えている」と、「旧約聖書の神学用語集(TWOT)」は述べています」。
 記事は、この「愛ある親切」が、聖書の記述の中でどのように示されているかを例示し、このように述べている。
 「これまでに調べた記述は、エホバがご自分を愛する人たちに、絶えることなく愛ある親切を表わされるということを示しています。不完全な人間に神が愛ある親切を表わされるということは、わたしたちにとって慰めとなります」。
 記事は、その実践についてこう述べている。
 「神の僕たちは人々一般に対して人間味のある親切を示します。それでも、仲間に対しては、愛ある親切(つまり忠誠心)を示します」。
 「愛ある親切を示すなら、他の人たちとの温かい、永続的なきずなが結ばれます。その結果、わたしたちは忠節な友を得ます。実に貴重な報いです。愛ある親切を追い求めるなら、神に愛されるようになり、永遠の命を含む将来の祝福にあずかる者となれます」。
 「ベトエル、ヨセフ、ルツが示した愛ある親切は、とりわけ意味深いものです。アブラハム、ヤコブ、ナオミは、その人たちに圧力をかけるような立場にはなかったからです。そもそもベトエルには、自分の娘と別れるべき法的義務はありませんでした。『いいえ、この働き者の娘を手放したくはありません』と言ってしまうことは簡単だったでしょう。ヨセフの場合も、父親の願いにそって行動するかどうかは自分の決定次第でした。ヤコブはいずれ死んで、ヨセフにその約束を守らせることはできないのです。ナオミ自身も、ルツはモアブにとどまってもよいと述べました。ルツにはまた、老齢のボアズとではなく、「若い者たち」と結婚する自由もありました。ベトエル、ヨセフ、ルツは進んで愛ある親切を示しました。そうしたいと内面から動かされたのです。その人たちは、自分とつながりのあった人に対してこの特質を表わす道義的責任を感じていました」。
 「愛ある親切は、神の民のしるしです」。
 「ですから、『愛ある親切に満ちる方』、エホバ神に引き続き倣ってゆきましょう」。


忠誠

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、忠誠について述べた、聖書の箴言 11章を逐語的に取り上げて解説する記事を掲載した。


エホバの証人と教会での結婚式

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、エホバの証人が、非信者の夫に連れられるなどして対立教派の教会での結婚式に出席することの是非についての指針を掲載した。
 記事は、その決定を当人が行うことを強調しつつも、全体的に否定的な論調で問題を扱っている。


テルトゥリアヌス

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、キリスト教初期にキリスト教を熱心に擁護したことで知られるテルトゥリアヌスを取り上げた、批判的な記事を掲載した。
 彼はキリスト教を熱心に擁護し、キリスト教に忍び寄る哲学と闘ったが、その行動には裏表があった。
 彼はこのように述べている。
 『クリスチャンと哲学者には、また真理を腐敗させる者とそれを回復させて教える者とには、いったいどこに類似点を見いだせよう』。
 『ストア主義やプラトン主義の思想、および弁証法を織り込んだ、いわばまだらなキリスト教を生み出そうとする企ては全て退けよ』。
 彼の問題は、彼自身がそれを守らなかったことにある。
 「彼の神学は、法学上および哲学上の思想や用語が奇妙に融合したものであった」。
 記事は最後にこう述べている。
 「テルトゥリアヌスは他の人々に対して、真理を擁護しようとしながら真理を抹殺していると非難しました。ところが、皮肉なことに、テルトゥリアヌスは、神の霊感を受けて記された聖書の真理と人間の哲学を融合させることにより、自ら指摘していたその同じわなに陥りました。ですから、わたしたちは、「人を惑わす霊感の言葉や悪霊の教えに注意を寄せるようになる」ことを警告する聖書の言葉を真剣に受け止めるようにしましょう」。


神の愛を認識する

 「ものみの塔」誌2002年5月15日号は、神の愛を認識することの益を指摘する小記事を掲載した。
 クリスチャンには、たとえ「どれほどの困難や問題に直面するとしても」、神の愛を基盤とする希望がある、と記事は指摘した。
 「ですから、神がわたしたちを顧みてくださることや、わたしたちの永続的な益のために愛ある備えを設けてくださったということを理解するなら、確信を抱いて立ち向かうことができます」。


グローバル化の光と影

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、グローバル化の益と害とに焦点を当てた特集記事を掲載した。


グアナバナ

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、グアナバナという果実を取り上げた教育記事を掲載した。


モンフラグエ自然公園

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、スペインのモンフラグエ自然公園を取り上げた教育記事を掲載した。


聴力を損なわないように

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、ステレオなどが出す大音響によってどのように聴力が損なわれるかを説明し、聴力を維持する方法を指南する記事を掲載した。
 最近は、ヘッドホンの音量の上げすぎのために聴力を失う若者が増えているという。記事は、そういった問題をどのように予防できるかを分かりやすく説明している。


ダチョウの人工ふ化

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、ダチョウの卵の人工ふ化を取り上げた教育記事を掲載した。


ルームメートを探す

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、経済上などの理由により、他人と同居することにした若者たちに、事前に知っておくべき事柄を教える記事を掲載した。


精神障害の問題とは

 精神障害に伴う最大の問題は何だろうか。「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、WHOからの話として、「精神障害は本人が引き起こした問題ではない。実際、問題があるとすれば、精神や脳の障害を持つ人々に対する我々の反応の仕方に問題があると言える」と指摘した。


お香にご注意

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、お香について、たいへんよい香りがするが、発ガン物質が含まれていることがあると述べ、読者に警告した


地球温暖化で災害

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、ガーディアン・ウィークリー紙からの話として、ここ数年、地球の温暖化により自然災害が急速に増えていると指摘した。


ガイ・フォークス・ナイト

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、同誌2001年10月8日号において、ガイ・フォークス・ナイトの祭りについて否定的な見解を示したことに関する補足を掲載した。


ハキリアリ

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、ハキリアリを取り上げた小記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が地域大会公開講演に読者を招待

 「目ざめよ!」誌2002年5月22日号は、全国で順次開催されるエホバの証人の地域大会で行われる公開聖書講演の主題が「この世のありさまは変わりつつある」となったことを告知し、この講演会に出席するよう読者を招待した。


死と恐れ

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、死への恐れをテーマにした特集記事を掲載した。
 記事は、宗教が死への恐れをあおってきたことに読者の注意を引いた。
 「歴史を通じて、人は死という暗い見通しにとまどいと不安を感じてきました。それに加え、宗教上の誤った概念、世間一般の風習、深く染み込んだ個人的信条などが混ざり合って、死に対する恐れを大きくしてきました。多くの宗教は、死に関する種々の俗説を広めてきたことで、特に非難に値します」。
 さらに記事は、「死は自然の摂理である」、「死は神様のおぼし召しである」などといった、死に関する宗教的俗説を幾つか取り上げ、その間違いを指摘した。
 「偽りの宗教は、死者がどこにいるのか、また死者の状態について、多くの人を困惑するがままにしてきました。天国、地獄、リンボなど、死者が行くとされている場所には、不可解なものもあれば、身の毛もよだつ恐ろしいものもあります」。
 「一方、聖書は死者が無意識であり、その状態が睡眠に非常によく似ていると述べています。ですから、死後はどうなるのかと心配する必要はありません」。
 記事は最後に、死に対する恐れから人を根本的に解放するものとして、聖書の中に記されている復活の希望に読者の注意を引いている。


遺伝子のせいか

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、遺伝子が人の人格や行動に与える影響の大きさをテーマとした論考を掲載した。
 「科学者たちは、アルコール依存症、同性愛、乱交、暴力、他の異常な行動、さらには死そのものについてさえ、遺伝的な原因を見つけようと努力を注いでいます」。
 その努力の成果はどのようなものだろうか。記事はこのように指摘した。
 「人間の行動に特定の遺伝子を結びつけようとする研究は、成功していません」。
 統計は、精神病や犯罪の原因が、遺伝子よりも社会に、言い換えるなら、テレビや映画といったものの影響にあることを示しているという。
 そこで記事は、「責任は私たちにある」、「自分の不品行の責任をすべて遺伝子になすりつけようとすることは、決して解決策にはなりません」と述べている。
 一方で記事は、聖書が「罪と死の遺伝」という概念を持っていることに言及し、遺伝子の与えるある程度の悪影響は認めている。


神の義

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、“神の義”をテーマとした研究記事を掲載した。
 「一般的に言って、人々は専ら自分の目に正しく見える事柄にのみ関心を向け、他の人のごく基本的な必要にさえほとんど注意を払いません。国の法律や規準に表向き敬意を払いますが、機会があれば抜け道を見つけようとします。結果として、社会には分裂、混乱、困惑が見られます」。
 「重要なのは、そのような規準が存在する場合、自分はそれを喜び、それを守ろうとするだろうか、という点でしょう」。
 記事は、信仰と義との関係について注解した。
 「人間に関する義は、その人の心の中にあるもの、つまりエホバとその約束に対する信仰、感謝、愛と深く関係しており、神のご要求を行なうことだけがかかわっているのではありません。アブラハムは「エホバに信仰を置いた。そして神は彼に対してそれを義とみなされた」と聖書は述べています。最終的に見て、人間に関する義は、イエス・キリストの贖いの犠牲に対する信仰にかかっています」。
 業についてはどうだろうか。
 「エホバは愛により、人間がみ前で義なる立場を得る手段としてみ子イエス・キリストを備えてくださいましたが、その結果は決して自動的に及ぶものではありません。人は、贖いに信仰を働かせ、生活を神のご意志に合わせ、エホバに献身し、その象徴として水のバプテスマを受けなければなりません。それ以後も、義や他の霊的な特質を追い求めてゆかなければなりません」。
 最後に記事はこう述べている。
 「神の義を追い求め、それを喜びとすることによって、神との良い関係を保ち、神の恵みや祝福を引き続き享受することができます。そのようにして、わたしたちの生活は、満足感や自尊心、そして思いの平安を伴うものとなります」。


清さ

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、クリスチャンの清さに焦点を当てた研究記事を掲載した。
 「神聖さをまさに体現しておられるエホバに受け入れられるためには、人は清く、聖なる者でなければなりません。それはおおむね、身体面に限らず、むしろ道徳や霊的な面での清さを表わしています」。
 続いて記事は、身体的な清さと、道徳面での清さとについて論じた。特に道徳に関してはこのように述べている。
 「イエスは、邪悪で不道徳で汚れた行為よりも前に、邪悪で不道徳で汚れた傾向が心の中に生じていることを指摘していました。イエスが述べたようなゆゆしい罪に陥りたくないなら、そのようなことに至るどんな傾向も心から抜き取り、締め出しておかなければなりません。今日、言論の自由や芸術表現の自由の名のもとに、娯楽、広告産業は、堕落した肉の渇望を満たす音声や映像を絶え間なく放出しています。そのような考えが心に根を下ろすことをいっさい許すまいと決意しているべきです」。
 クリスチャンは清くなればそれでいいのだろうか。そうではない。清くなった後には、続いてなすべきことがある。最後に記事はこのように述べて読者を励ましている。
 「何よりも、神の王国の良いたよりを公に宣明することに力を尽くすべきです。毎日の生活で神の霊の実(愛、喜び、平和などの特質)を表わして、天の父の栄光をたたえます。また、わたしたちは、真理にいない人で、自然災害や人間の手による惨禍を被った人たちのことも忘れません。そのような奉仕すべては、清い心と純粋な動機でなされるかぎり、神を十分に喜ばせるものとなります」。
 「わたしたちは引き続き、エホバによって清められてゆく特権を高く評価し、最善を尽くして身体的、道徳的、霊的清さの高い基準を守ることができますように」。


ウィリアム・アイヒノリアの手記

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、ナイジェリアのウィリアム・アイヒノリア(男性)による手記を掲載した。
 「先祖崇拝は私たちの生活に欠かせない重要な事柄で、タカラガイのからを縛り付けた棒の前に家族で食べ物を備えました。また、父は悪霊や魔女が近づかないようにするため、偶像を崇拝していました」。
 「毎週、日曜日にカトリック教会で礼拝を済ませた後、独りで聖書を読みました。聖書を読めば読むほど、一部の宗教指導者の偽善や多くの平信徒の不道徳な生活にうんざりしました。クリスチャンと称する人たちの間で目にしたのは、イエスやその弟子たちが教え、かつ行なったこととはかけ離れた事柄でした」。
 やがて、彼はエホバの証人に関心を持つようになった。
 「しかし、私は不安でした。私の通っていた学校のエホバの証人の若者たちは嘲笑され、朝の礼拝に参加しないという理由でときどき罰を受けていたからです」。
 「エホバの証人は明らかに態度や行動の点で異なっており、学校の他の若者たちの不道徳で暴力的な行為に関係しませんでした。私にとって、エホバの証人は本当に世から離れている人々で、真の宗教を実践する人はそうであるべきだと聖書で読んで考えていたとおりの人たちでした」。
 「学生や先生たちは、私のことを、新たに見いだした信仰のために気が狂ってしまったと思いましたが、私は気が狂ったわけではないことを承知していました」。
 「私が新たな宗派の教えを広めているといううわさは、故郷の両親にも伝わりました。両親は、私がどんな問題を抱えているのかを確かめられるよう、すぐ家に帰ってきなさいと言ってきました。私は家に帰るなり、母や他の親族から質問や非難の言葉を浴びせられましたが、聖書から学んだ事柄を精いっぱい擁護しました」。
 「私がバプテスマを受けると、両親だけでなく村の人々も皆動揺し、私のことでがっかりしたと言いました」。
 「私の家族と村の年長者たちは代表団を派遣し、私を説得して棄教させようとしました。そうしようとするあまり、次のように呪うことさえしました。『この宗派と手を切らなければ、君は不幸な運命をたどるだろう。就職はできず、自分の家も建てられなくなり、結婚して子供をもうけることもできなくなるだろう』。代表団の不吉な予告とは裏腹に、私は学校を卒業してから10か月後、教職に就きました。愛する妻を迎え、車を購入し、家の新築を始めました。長女が生まれ、さらに子供たちが生まれました」。
 彼は、最後にこのように述べている。
 「私は、エホバに仕える道を選びましたが、このことを少しも後悔していないと言わないわけにはいきません。私はこの民の中で真の愛が実践されているのを見てきました」。
 「エホバの忠実な僕たちに対する報いの中に、たとえ永遠の命の希望が含まれていなかったとしても、私はやはり敬虔な専心を守る生き方を望んだと思います」。


バプテスマが難しいとき

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年6月1日号において、バプテスマを受けることを希望しているものの、重い障害があるなどの理由で水に浸すことが難しい人をどう扱うかについての見解を公表した。
 このように述べている。
 「完全に体を浸すバプテスマは聖書の要求なので、バプテスマを免除できる権限を持つ人は一人もいません」。
 「したがって、当人が心からバプテスマを望んでおり、それに関係する危険を受け入れる意向があれば、その人に水のバプテスマを施すために、道理にかなった最善の努力をしなければなりません」。
 記事は、周到に準備し、異なる手順を取り入れ、医師や看護婦を同伴することを提案している。


セプトゥアギンタとみ名

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、ギリシャ語七十人訳(セプトゥアギンタ)写本の中に含まれる神のお名前をテーマとした小記事を掲載した。
 この記事は、新約聖書の筆者が旧約聖書から引用したとき、神の名前を用いたかという疑問に、「当然に考えられる」、「その後ほどなくして、写字生たちは、神の名を、キュリオス(主)やテオス(神)といった代用語に置き換えたようです」と述べている。


ごみから真理

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、一人の男性が、ごみの中からエホバの証人の出版物を発見したことがきっかけで聖書の教えを学ぶようになり、転向したという美談を紹介する小記事を掲載した。


エホバに頼る

 「ものみの塔」誌2002年6月1日号は、人が神に服し、よりどころとするべきことを説く小記事を掲載した。


科学と宗教

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、科学と宗教の融和をテーマとした特集記事を掲載した。
 「宗教と科学は、全くの敵対関係にあって、共存し得ないもののようにみなされることがあります。このぶつかりあいは、どちらの側からも出される誤った主張や立証されない主張がもとで深刻化している面があります。幾世紀もの間、宗教の指導者たちは、神話的伝承や真実にもとる教義を教えてきました。一方、科学者は、生物は神とは関係なく無性の物質から進化してきたという、立証できない理論を事実として教えています」。
 「科学と宗教は融和するものなのでしょうか。立証された科学と真の宗教とは、互いに矛盾するものではなく、むしろ相互に補い合うのです」。
 どのように、科学と宗教は補い合うのだろうか。記事は興味深い点を指摘している。
 「科学は、人間や周囲の宇宙が“どのように”存在するに至ったかを扱うのに対し、宗教はもっぱら、それは“なぜなのか”を扱うのです」。
 また、記事は、分子生物学者フランシス・コリンズの言葉を引用している。
 「わたしは、ヒトゲノムの配列を知るのに宗教が適切な道具になるとは期待しない。同様に、超自然のものに近づくのに科学が良い手段になるとは期待しない。『われわれはなぜ存在しているのか』とか、『なぜ人間は精神的なものや霊性を求めるのか』といった、真に興味深く、より重要な疑問に答えるのに、科学は不十分だと思う」。
 そこで記事はこのように述べている。
 「真の宗教は、なぜという問いに答えつつ人生の目的と取り組むことによって、物事の価値観および道徳や倫理の基準を示し、また生きる上での指針を差し伸べます」。
 「真の宗教は、物質世界に明示される設計の背後に創造者の知的な働きがあることを伝えて、科学上の発見をいよいよ意味あるものとしています」。


布教は人権侵害か

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、クリスチャンが行う聖書伝道の是非を問う記事を掲載した。
 「聖書は、転向を矯正する行為を支持していません。特に現代では、ある宗教から別の宗教に強制的に転向させるという意味で、「改宗活動」という語が用いられています。聖書はそのような行為を支持していません」。
 しかし、伝道活動(宣伝活動)を行うことは健全なことである。力や権力を用いて強制的に改宗させることではなく、一人一人に判断を求めることが大切だからである。
 「エホバの証人は、自分たちの信仰を他の人に伝える点で聖書に従いつつ、人々に与えられている、自分の宗教を持つ権利を尊重します」。


 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、塩を題材にした教育記事を掲載した。


イネ

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、イネ科の植物をテーマにした教育記事を掲載した。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、15問の聖書クイズを掲載した。


測量

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、測量をテーマとした教育記事を掲載した。


ルアウ

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、ハワイのルアウという宴会を取り上げた教育記事を掲載した。


死海文書の出版

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、待望されていた死海文書全ての出版が成し遂げられたと報じた。


聖書の売上が増加

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、アメリカの同時多発テロ以降、聖書や宗教書の売上が向上していると報告した。


カンガルー・マザー・ケア

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、“カンガルー・マザー・ケア”を取り上げた小記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が読者を大会に招待

 「目ざめよ!」誌2002年6月8日号は、今年の夏に全国で順次開催される、「エホバの証人の『王国を熱心にふれ告げる人々』地域大会」へ読者を招待した。


惜しみない業

 「わたしたちの王国宣教」2002年6月号は、聖書伝道の分野に活発であるよう勧める記事を掲載した。


助けとなるには

 「わたしたちの王国宣教」2002年6月号は、人の助けとなるためにクリスチャンができる事柄を考える記事を掲載した。


伝道のやり方

 「わたしたちの王国宣教」2002年6月号は、効果的な文書伝道の方法について提案し、同誌がこれまで提案してきた方法を用いることに加え、「すでにあなたの用いている方法が効果的であるなら、それを引き続き用いてください」と述べた。


支部施設への訪問

 「わたしたちの王国宣教」2002年6月号は、エホバの証人の法人施設を見学する際のガイドラインを掲載した。


世界的な兄弟関係

 「わたしたちの王国宣教」2002年6月号は、「わたくしたちの世界的な兄弟関係」と題するビデオの内容を検討するための質問集を掲載した。


クリスチャンの生活水準

 「わたしたちの王国宣教」2002年6月号は、クリスチャンの生活水準をテーマにした記事を掲載した。
 「クリスチャンは自主的に貧しい生活をしなければならないということはありません」。
 しかし、贅沢を求めることは賢明ではないと記事は指摘した。
 「わたしたちは、日用の必需品を手に入れるため懸命に働かなければならないとはいえ、それを生活の中心に据えることはしません。持っているものが多くても少なくても、わたしたちの(心の)必要を満たしてくださるエホバに頼ります。そうするなら、敬虔な満足感を味わうことができます」。


諸問題は解決される

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、世界諸問題の解決に焦点を当てた特集記事を掲載した。
 「世界人口の4分の1は貧困状態にある。13億人が1日1ドル足らずで生活している。10億人は読み書きができず、13億人は安全な飲料水が手に入らない。毎日10億人が飢えている。これは、人間には世界の諸問題の永続的な解決策を見いだす力がないことを示す、実に悲惨な告発です」。
 「多大の人道的活動のかいもなく、人間の諸問題は容赦なく増え続けています。永続する政治的な解決策がもたらされる可能性はどれほどあるのでしょうか。実際にはほとんどありません」。
 「永続する平和、幸福、繁栄を地球の住民に保証できるのは、神による支配だけであることが、十分に明らかになるでしょう」。
 記事は、聖書に記されているメシアの希望に読者の注意を引くものとなっている。


モーセの受けた教育

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、エジプトにおいてモーセが受けた教育を推察し、モーセの人物像に迫る、啓発的な記事を掲載した。


聖書を読み、研究する

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、聖書の朗読に焦点を当てた研究記事を掲載した。
 クリスチャンは、熱心に聖書を読み、研究しなければならない。
 「それは、記憶のための演習ではありません」。
 記事は、読者が有意義な仕方で聖書を読み、研究することを勧めている。


道徳を教える

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、聖書から道徳を教えることをテーマとした研究記事を掲載した。
 「神の言葉を他の人たちに教えることは、真のクリスチャンにとって、してもしなくてもよいことがらではありません」。
 「他の人に教えたいという気持ちで聖書を研究するのは、誉れあることであり、永続する満足のもとでもあります」。
 「教えることは、クリスチャンの道徳と関係があります。神の言葉からクリスチャンの道徳を学び、学んだ事柄に沿って行動し、次いで他の人を教え諭します」。
 「エホバは、ご自分を代表して聖書を教える人自身が「貞潔さ」の良い手本となることを求めておられます」。
 聖書の道徳について、記事はこのように指摘した。
 「クリスチャンの道徳は、個人的な裁量で軽視したり無視したりすべきものではありません」。
 「クリスチャンの道徳を無視することが最も容易、あるいは最も好都合に思える誘惑や状況に直面しようとも、あなたの決意は強まるでしょう」。
 「神の言葉に示されている道徳規準は明瞭で的確ですが、過酷な重荷ではありません」。
 「クリスチャンの道徳は害になるようなものではありません。それどころか、その道徳は良いもので、有益であり、祝福となります」。
 最後に記事はこう述べている。
 「確かに、神を愛するよう自分と他の人を教えるには、自分が神の高い基準を受け入れて、適用していなければなりません。そうです、それが自分自身と他の人にクリスチャンの道徳を教えることなのです」。


ギレアデ聖書学校の卒業式

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、ものみの塔ギレアデ聖書学校の第112期卒業式が執り行われたことを報告する記事を掲載した。
 記事によると、第112期生は48名であり、主に宣教者として19の国へと派遣されるという。


ローマの格闘技

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、ローマのコロセウムで行われた残虐な見せ物の数々を取り上げた記事を掲載した。
 記事は最後に、現代における同様の見せ物に読者の注意を引き、「わたしはテレビやインターネットで、血や死、また暴力の伴う場面を楽しんでいるだろうか」と問うよう勧めている。


自殺

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年6月15日号において、自殺した信者の葬式に関するガイドラインを発表した。
 「故意に自らの命を絶つことは自分に対する殺人であり、それゆえに神の目に喜ばれません」。
 「重要な要素は、自殺には精神的あるいは感情的な障害のかかわっている場合が少なくない、という点です。そのような人は、まさしく自殺の犠牲者と言えます。そのような精神的状態の人が行なった自殺をエホバはお許しになるでしょうか。わたしたちは、亡くなったその人がエホバの目に許されない罪を犯したかどうかを判断する立場にはいません」。
 そのようなわけで、記事は、自殺者の葬儀に際しては、様々な点で「分別を働かせる」必要があると述べている。


内密

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、エホバの証人の長老たちが会衆に対し何かを秘匿する場合について取り上げた小記事を掲載した。
 記事は、そのような場合に長老たちが、あらかじめ、「その事柄を明らかにするかどうか、明らかにするとすれば、いつ、どのようにそうするか」を決定しておくよう求めている。


ルツ

 「ものみの塔」誌2002年6月15日号は、聖書に出てくるルツの模範を取り上げた小記事を掲載した。


現代の奴隷

 人々は一般に、奴隷制度というものは過去のものとなったと考えているが、「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、現代の新しい奴隷形態に注意を引く啓発的な特集記事を掲載した。
 この記事によると、現在でもおよそ2億人が奴隷として働かされているという。
 「今日、歴史上のどの時代よりも多くの人々が奴隷状態にあります」。
 「現代の奴隷はたいてい子供か女性です。労役を科せられたり、売春婦として働かされます。親の払えない借金の返済のために親の手で売られて奴隷になる子さえいます」。
 「奴隷労働をなくそうとする善意の努力が払われ、またそれを禁止する国際条約が締結されたにもかかわらず、すべての人に真の自由をもたらすことは、依然として達成しがたい目標です」。
 記事はさらに、別の種類の、いわば“奴隷状態”と呼べるものを取り上げた。中毒である。
 「何億人もの人が、薬物、アルコール、たばこの奴隷となっている」と記事は指摘した。
 最後に記事は、あらゆる奴隷状態から人を解放する聖書の希望に読者の注意を引いている。


トランシルバニアにおける寛容

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、異端審問が行われた中世に、信教の自由を守り、反三位一体論を擁護した、トランシルバニア(国)を取り上げた教育記事を掲載した。
 この国では、三位一体論に反対する人たちは迫害を受けることなく自分の意見を述べることができた。また、三位一体論者との公開討論会も行われ、反三位一体論が勝利を収めたという。その結果、トランシルバニアは反三位一体論者を公に支持するようになった。
 「(トランシルバニアの)ヨハン[ジギスムント]王が、改革派の全宗派の中で最も厳しい反対を受けていた派にさえ全面的な信教の自由を保障する最後の勅許を出した年、プロテスタントの神学者たちは、セルベトゥスを生きながら火あぶりにしたカルバンを依然として賞賛し、オランダでは異端審問によってプロテスタント信者の血が流されていた。また、イギリスで、誤った宗教上の意見を持つ者の火刑に終止符が打たれるには、なお40年以上待たねばならなかった」。
 最後に記事はこう述べている。
 「今日でも依然として、醜い宗教上の不寛容が見られます。ですから、昔のこの小国について考えてみるのは有益でしょう」。


ルームメートと仲良くする

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、共同生活を行っている読者向けに、ルームメートと仲良くする方法を指南する記事を掲載した。


アジアの高層ビル

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、アジアの高層ビルを取り上げた小記事を掲載した。


ラディスラフ・シュメイカルの手記

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、共産国のチェコスロバキアで反政府運動を行っていたものの、エホバの証人に転向した、ラディスラフ・シュメイカル(男性)による手記を掲載した。
 彼は、政治犯として投獄され、刑務所内でエホバの証人と知り合った。エホバの証人は思想犯として捕らえられていたのである。
 彼は刑務所において聖書を学び、改心したが、政府からの監視と迫害とがあったという。
 「多くの囚人は、受けた虐待に対して復しゅうすることしか考えないようでしたが、私は一度もそうしたいと思いませんでした」。
 今では彼は自由の身である。結婚し、子供をもうけ、幸せそうにしている(写真)。


オアハカ

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、オアハカの遺跡と、遺跡を保存するオアハカ文化博物館とを取り上げた教育記事を掲載した。


チリンガムの白い野牛

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、イングランドのチリンガム公園で保護されている白ウシを取り上げた教育記事を掲載した。


フランス人と超常現象

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、ル・モンド紙からの引用として、合理主義者として名高いフランス人の3ないし2分の1が、星占いやテレパシーを信じていると報じた。


教会の事業

 「目ざめよ!」誌2002年6月22日号は、少ない寄付収入を補うために、いくつかの“積極的な”教会が行っている経済活動を取り上げた。
 これらの教会は入り口でコーヒーを売るなどして収益を上げているという。


イコン

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、正教会で一般に行われているイコンの使用を取り上げた批判的な特集記事を掲載した。
 「信仰心の厚い正教会の人々が神を崇拝したいと誠実に願っていることは確かです。とはいえ、イコンに対するそのような専心の思いの起源をたどると、キリスト教成立より幾世紀もの前の慣行に行き着くということを理解している人がどれほどいるでしょうか……イコン崇拝のルーツは古代のバビロンやエジプトやギリシャの宗教に見られます」。
 「神に近づく方法をわたしたちが勝手に選んでよいのでしょうか。神こそが、受け入れられるものとそうでないものを決定する究極の権威なのではないでしょうか。実のところ、エホバ神に受け入れられる崇拝は[聖書に]はっきり規定されています」。
 記事は、イコンの使用にかかわる様々な問題点を指摘し、イコンの使用をいさめている。


エホバの民とその栄光

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、聖書の神エホバが、その崇拝者たちにどのように栄光をもたらされるかを論ずる一連の研究記事を掲載した。
 記事は、聖書から特にイザヤ 60章を取り上げ、それをエホバの証人の持つ信仰と結びつけている。


エズラは手本

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、エホバの証人一人一人が聖書の筆者の一人であるエズラを手本とするよう諭す記事を掲載した。
 「親や長老、良いたよりの宣明者 ― これらの人は皆、教える者でなければなりません。親は子を教え、長老はクリスチャン会衆の成員を教え、良いたよりの宣明者は新たに関心を抱いた人を教えます」。
 「エズラは[1]心を定めて、[2]エホバの律法を調べ、[3]これを行い、[4]イスラエルで規定と公義を教えました」。
 読者はどのようにしてエズラに倣うだろうか。記事は様々な点を述べている。
 「教え手となる人が、エズラの手本に倣ってまず祈りのうちに自分の心をふさわしい状態にすることは、本当に重要です」。
 「わたしたちの主な目標は、研究中にたくさんの資料を取り上げることではありません。子供たちが、討議されている事柄をちゃんと理解することです」。
 「エズラは学んだ事柄を適用しました。エズラは、聖書の知識を蓄えていただけでなく、学んだ事柄に基づいてすぐ行動することもいといませんでした」。
 「エズラはまた、その教えの手本として、公明かつ公平な仕方で正しい事柄に付き従いました」。


トムソン・ガンガレの手記

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、ザンビアとタンザニアで精力的に奉仕した、トムソン・ガンガレ(男性)による手記を掲載した。


信仰の道を歩み続ける

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、様々な困難に直面するとしても、信仰の道を歩み続けるよう読者を励ます記事を掲載した。
 記事は、読者が「感謝の念を抱く」こと、「報いに目ざとくある」こと、「聖書を読む」こと、「[信仰の]兄弟たちと一緒に過ごす」こと、「責任感を抱く」こと、「活動に携わる」こと、「希望を抱く」ことなどが、信仰を維持し、前進していく助けになると論じている。


国際大会のお知らせ

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、2003年に世界各地で国際大会の開催が予定されていることを読者に告知した。
 (日本でも開催が予定されています)


欺きに注意

 「ものみの塔」誌2002年7月1日号は、宗教上の欺きに気をつけるよう読者に呼びかける小記事を掲載した。
 記事は、「人々は宗教上の事柄において自分自身を欺いている」と鋭く指摘している。


警察

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、警察を取り上げた特集記事を掲載した。


インドの鉄道

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、インドの鉄道網と、その路線を走る魅力的な機関車たちを紹介する教育記事を掲載した。


ポルノは有害

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、ポルノの有害性を取り上げた論考を掲載した。
 「今日、ポルノはまさに広く浸透し、現在社会の大部分に受け入れられている感があります」。
 では、ポルノは無害なのだろうか。
 「ポルノは性関係を、誉れある結婚における男女間の愛の麗しく親密な表現として描くのではなく、むしろ性行為を卑しめ、ゆがめます。無神経で倒錯した性が、刺激的で望ましいものとして描かれています。他の人にほとんど、あるいは全く関心を払わない独りよがりな満足が強調されているのです」。
 「ポルノは、愛ではなく、自己中心的で利己的な欲望を育てているのです」。
 「ポルノは、自分が所有していないものに対する欲情を刺激します」。
 「ポルノは、人々を卑しめ、人間性を低下させるわけですから、憎むべきものです」。
 記事は結論として、「ポルノは災い」であると述べている。


エンジ

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、化粧品などで知られるエンジのもととなっている、カイガラムシの一種であるエンジムシを取り上げた教育記事を掲載した。


レールダル・トンネル

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、世界最長のトンネルである、ノルウェーのレールダル・トンネルを取り上げた教育記事を掲載した。


子供の言いなり

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、ドイツ教員組合からの話として、「子供の言いなりになるという新しい文化が親たちの間でみられるようになった」と指摘した。
 こういった親たちの子供には、まじめに勉強しようとしない傾向が見られるという。


フランス人と聖書

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、カトリックのラ・クロワ紙からの話として、フランス人の42パーセントが聖書を持っているものの、聖書を毎日読んでいるのは2パーセントにすぎず、72パーセントは聖書を一度も読んだことがなかったと報じた。


占星術の専門校

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、アメリカで初めて、「占星術学校」が政府から認可されたと報じた。


悪魔への記念碑

 「目ざめよ!」誌2002年7月8日号は、スペインのマドリード市にある、「悪魔にささげられた記念碑」を紹介する小記事を掲載した。


様々な言語で聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、様々な言語での聖書伝道を取り上げた記事を掲載した。
 現在、ものみの塔聖書冊子協会をはじめとするエホバの証人の法人団体は、380の言語で聖書文書を発行し、エホバの証人の聖書伝道活動を支援している。
 「しかし、主な役割を果たすのは、個々の王国伝道者です。命を救う聖書の音信を人々のもとに携えていくからです」。
 日本においても、外国語を話す人々が多く見られるようになった、また、手話で会話する人々もいる。記事は、このような人たちに聖書伝道を行うため、エホバの証人の読者が「さらに力をつくす」ことを求めている。


巡回大会

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、2003奉仕年度の巡回大会の内容を告知する記事を掲載した。
 大会の主題は、「エホバに依り頼み、善を行なう」である。
 この大会ではたとえば、「結婚生活を成功させ、家族の中で起きる問題に対処する」方法などが論じられるという。


インターネットの危険

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、インターネットに潜む危険を取り上げたプログラムの筋書きを掲載した。


祈りによって神に近づく

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、祈りによって神に近づくよう若者たちを励ますプログラムの筋書きを掲載した。


イスラム教について

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、「イスラム教について質問する人に何を話せますか」と題するプログラムの筋書きを掲載した。
 筋書きは、用いることのできる資料を挙げ、イスラム教徒に対する批判を述べたりしてはならないなどのアドバイスを述べている。


非公式の聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、戸別訪問によらずして「知らない人、近所の人、親族、知人など」に聖書の福音を告げることについて取り上げたプログラムの筋書きを掲載した。


聖書伝道で聖書を用いる

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、聖書伝道において聖書をどのように用いるかを考えるプログラムの筋書きを掲載した。
 記事は、聖書伝道の一回の訪問につき「少なくとも一つの聖句を読むことを目標にする」よう求めている。


イザヤ書の研究

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、2002年9月16日から、会衆の「書籍研究」において、「イザヤ書の預言 ― 全人類のための光」第二巻が教材として用いられると告知した。


新しいカセットテープ

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、ものみの塔聖書冊子協会から「満足のいく生活 ― どうすれば実現できますか」と題する書籍の英語版カセットが発行されたと告知した。


カレンダーなどが準備される

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、2003年の「日ごとに聖書を調べる」、カレンダー、年鑑、製本雑誌の準備が行われていること、またカレンダーと「日ごとに聖書を調べる」については予約を受け付けていることを告知した。


携帯電話とポケットベルのマナー

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、携帯電話とポケットベルの使用のガイドラインとなる記事を掲載した。
 記事は、どのような時に携帯電話等の使用を控えるべきかを具体的に述べている。


クリスチャンの調和

 「わたしたちの王国宣教」2002年7月号は、クリスチャンの調和をテーマとした記事を掲載した。


地獄

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、地獄をテーマとした特集記事を掲載した。
 「何世紀もの間、キリスト教世界の宗教指導者たちは、罪人が必ず行き着く所として、耐え難い責め苦を伴う、火の燃える地獄を思い描いてきました」。
 「しかし、現代的な考えにおいて、地獄には別のイメージが付されるようになりました」。
 記事は、もともと聖書が地獄と呼ぶものに「火の燃える地獄」という意味はなかったことを示し、地獄に関する正しい聖書理解を読者に示している。


エホバの証人のボランティア

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、エホバの証人の行うボランティア活動に焦点を当てた記事を掲載した。
 エホバの証人は、聖書伝道のほかに、自然災害の救援活動、刑務所の受刑者の援助などの活動を行っている。
 記事は、このような活動を「聖書を教える業を補うもの」と位置づけている。
 記事は、活動の成果についても言及している。たとえば、刑務所当局の作成したある報告書には、エホバの証人の活動の成果がこう報告されているという。
 「この活動が進められてきたこれまでの10年間に、刑務所でバプテスマを受けてエホバの証人となり、釈放された受刑者は、一人も刑務所に戻っていない。ほかのグループの50パーセントないし60パーセントの人が戻ってきたのとは対照的である」。


敬虔さ

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、敬虔さと忍耐に注意を向けた研究記事を掲載した。
 「クリスチャンは霊的なみどりごの状態から、理解力の点で十分に成長した状態へと進歩する必要があります」。
 「身体的な成長は通常の状況下ではほぼ自動的に進行するのに対し、霊的な成長には意識的な努力が要ります。まず、神の言葉の正確な知識を取り入れること、そして、学んだ事柄に調和して行動することが必要です」。
 「エホバは、ご自分を崇拝するよう強制したりはされません。内からでた自発的な専心を望まれます。生活を清いものにし、神に無条件で献身し、そのあと献身にふさわしく生きるようにわたしたちを動かすものは、神についての正確な知識に基づく、神への愛です」。
 「クリスチャンであるわたしたちは、肉的な欲望や営みに関係したどんな弱さによっても、自分の敬虔な専心が乱されたり損なわれたりすることのないように用心しなければなりません」。
 「物質主義は多くの人にとってわなとなります。「今の命と来たるべき命との約束を保つ」のは敬虔な専心であって、物質ではありません」。
 「間違った欲望を除き去るには、(自分自身に対する)強力な措置が必要です。それを排除し、除き去ろうという決意が必要です」。
 「懲らしめは、ただの処罰とみなすのではなく、義の道に沿ってわたしたちを訓練するための手段と考えるべきです。謙遜であれば、「懲らしめの戒めは命の道」であることを認め、助言を感謝して受け入れるでしょう」。
 最後に記事は、敬虔さの点でイエスに倣うよう読者を励ましている。


エホバの証人と真理

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、エホバの証人と真理とに焦点を当てた一連の研究記事を掲載した。
 記事はこのように問いかけた。
 「今日、真理のうちを歩んでいるのはだれでしょうか。すべての国の人々に実際に真理を教えているのはだれでしょうか」。
 記事は「信条、崇拝の様式、個人の行動」がどれほど聖書に合致しているかが答えになると述べ、これらの点における、成立初期のピュアなキリスト教とエホバの証人との共通点を強調した。
 記事は、聖書の教えをよく守るエホバの証人が得ている評判についても述べている。たとえば、モスクワ・タイムズ紙はエホバの証人のことをこう述べている。
 「エホバの証人はとても感じのよい親切で柔和な人々としてよく知られている。非常に接しやすく、決して他の人に圧力を加えず、他の人との関係において常に平和を求める。証人たちの中に、わいろを取る人、大酒飲み、麻薬中毒者は一人もいない。その理由は簡単明瞭だ。自分の言動を聖書に基づく確信に導かれたものにするよう努力しているのだ。もし世界中の人がみなエホバの証人のように聖書に沿った生活をするよう、少なくとも心掛けるなら、この無情な世界も今とは全く違うところになるだろう」。
 記事は最後に、エホバの証人である読者に対し、「真理に対する変わらない感謝」を抱き、真理のうちを歩んでいくよう進めている。


女性の頭の覆い

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、クリスチャンの女性が、聖書に規定されている「敬意のしるしとしての頭の覆い」をつけるべき時についてのガイドラインを掲載した。


義と神からの愛ある親切

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、聖書の箴言 11章について注解し、義の価値を強調する記事を掲載した。
 記事は、箴言 11章から学べる事柄を、たとえばこのように述べている。
 「身体的な魅力は幸福になるための決定的な要素ではありません。本当に価値があるのは、永続する敬虔な特質から生まれる内面の美しさです。ですから、わたしたちは分別を持ち、そうした特質を培いたいものです」。


知られていない神

 「ものみの塔」誌2002年7月15日号は、聖書に言及のある「知られていない神」を取り上げた記事を掲載した。
 記事は、「“知られていない”という名の神々」のみならずただ単に「神あるいは女神」のためのものとされている祭壇も、この「知られていない神」の祭壇に当たると指摘している。


ギャンブル

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、ギャンブルの害に焦点を当てた特集記事を掲載した。
 「ギャンブルは、かつては道徳上の、また社会の害悪と考えられていた。今では、社会的に問題のない気晴らしとされている」。
 「ギャンブル推進派は、合法的ギャンブルは娯楽を提供するにとどまらず、雇用を生み出し、税収をもたらし、冷え込んだ地域経済を活性化している、と論じます」。
 しかし、記事はするどくこう指摘した。
 「ギャンブル依存に起因する、失業、健康障害、失業保険の支払い、更正プログラム費用などのため、米国社会が負担する額は毎年数十億ドルに上るとされています。とはいえこの数字は、ギャンブル依存による人的被害の費用、つまり盗み、横領、自殺、家庭内暴力、児童虐待などによって、家族、友人、同僚にかかる費用をほとんど表わしていません」。
 「若者たちにとって、ギャンブルは違法薬物と同じほど中毒になりやすいもので、犯罪行為に進むきっかけともなります。ギャンブルを行なう若者の46パーセントが家族のお金をくすねています」。
 記事は、このように警告している。
 「ギャンブルは金銭に対する愛をあからさまに助長します。敬虔さの失われてゆく今日の社会では、金銭が神のようになり、ギャンブルはその神を崇拝するための人気ある方法の一つとなっています。その大聖堂となっているのは華々しいカジノで、貪欲こそ善なり、というのがその新たな信条です」。
 「貪欲は、単に社会を弱らせる病気ではなく、死を来たす霊的な病です」。


睡眠不足の若者たち

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、睡眠不足の若者たちを取り上げた記事を掲載した。
 記事は、その原因が若者たちのライフスタイルにあると指摘している。


魅力的になりたい

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、魅力的な人となって異性を引きつけたいと考えている若者たちにアドバイスする記事を掲載した。
 「あなたはいつか、ふさわしい結婚相手を見つけたい、と思っているかもしれません。その時になったら、当然、相手を引きつけられるようでありたいと思うでしょう」。
 記事はこのようにアドバイスを述べている。
 「見た目のよさは概して一時的なもので、決して魅力的な性格の代わりにはなりませんから、むしろ「心の中の秘められた人」を飾りとするように努めましょう」。


チョウの農場

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、バタフライ・ファーム(チョウの農場)を取り上げた教育記事を掲載した。


産後うつ

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、産後うつにかかってそれを克服した、ジャネル・マーシャルによる経験談を掲載した。
 また記事は、併せて、産後うつにかかった妻を持つ夫へのアドバイスも述べている。


葉を巻くクモ

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、リーフ・カーリング・スパイダーを取り上げた教育記事を掲載した。


トマト

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、トマトを取り上げた教育記事を掲載した。


アメリカで銃の売り上げが伸びる

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、アメリカの同時多発テロ以降、アメリカで銃の売り上げが伸びていると報じた。


精神病の実態

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、世界保健機関からの話として、精神疾患あるいは神経疾患の患者が、世界で4億5000万人に達していると報じた。


スロバキアで宗教が伸長

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、スロバキアで国勢調査が行われ、宗教人口の増加が確認されたと報じた。
 しかし、宗教人口の増加は形式的なもので、実態はないという。


オウムとインコ

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、オウムとインコが乱獲され、絶滅しつつあることを取り上げた記事を掲載した。


グルジアでテレビ討論

 「目ざめよ!」誌2002年7月22日号は、エホバの証人への迫害が激しいグルジアにおいて、宗教の専門家による、エホバの証人に関するテレビ討論会が行われたと報じた。
 このテレビに出席した宗教学者は、エホバの証人に向けられる非難が「実のない話」だと述べ、エホバの証人の本を読んでみるよう出演者と視聴者に勧めたという。


迷信から自由になる

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、迷信をテーマにした特集記事を掲載した。
 迷信は世界中に見られ、人々の生活に影響を与えている。そこで記事はこのように問いかけた。
 「自分の決定や日課が迷信に左右されるがままになっている人は、自分が十分に理解していない事柄の影響下に置かれるのを許していることになります。それは賢明でしょうか」。
 記事は、ほとんどの迷信が死者の霊の概念ならびに心霊術と関係していると述べ、その愚かさと危険を指摘した。
 また、記事は読者に対しこのようにアドバイスした。
 「すべての病気、またあらゆる逆境を邪悪な霊の働きのせいにするのは正しくありません。病に倒れたなら、適切な医療処置を求めるべきです。統計が示すところによると、先祖伝来の迷信が広く行き渡っている国々に住む人たちは、他の国の人々と比べて長生きしたり、より良い生活を送ったりするわけではありません。ですから、迷信が健康を増進するものでないことは明らかです」。
 最後に記事は、読者が聖書の教えを導きとすることの重要性を強調し、こう述べている。
 「真のクリスチャンは、闇に属する迷信的慣行を生活から締め出し、創造者エホバとみ子イエス・キリストが与えてくださる霊的な光を受け入れなければなりません」。


ジャマイカからの報告

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、ジャマイカのエホバの証人の活動の報告を掲載した。
 ジャマイカには聖書と聖書についての知識が普及しており、その教えにしたがって生き方を変化させる人は多くいるという。


神と組織

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、神と組織とに焦点を当てた研究記事を掲載した。
 記事はこのように読者に問いかけている。
 「目に見える地上の組織が一体どのようにして、目に見えない神に導かれるのでしょうか」。
 記事は、イスラエル国民を神が導いた時の聖書の記録に読者の注意を引いた。
 「イスラエルの長、父方の家の頭、年長者などは、完全ではなく、仲間の崇拝者の心を読むことはできませんでした。それでも、神を恐れる裁き人は、エホバの律法をよりどころとする限り、仲間の信者に有益な助言を与えることができました」。
 「不完全だったので、それら年長者たちも、利己心、不公平、貪欲など、判断をゆがめさせかねない自らの好ましくない傾向を油断なく抑制しなければなりませんでした」。
 記事は、モーセとアロンにコラが言い逆らった出来事について注解し、コラの言い分をこう代弁している。
 「この祭司たちは全くもって不完全だ。それなのに、わたしは彼らに服さねばならない! アロンが金の子牛を作ったのはそれほど昔のことではない。その子牛を崇拝して、民は偶像礼拝に陥った。それなのに、モーセの兄アロンは大祭司として仕えている。なんというえこひいきだ! それに、アロンの息子のナダブとアビブはどうだ。奉仕の特権に対する甚だしく不敬な態度を示したために、エホバによって死に処されたではないか」。
 「有力者のコラにとって、同意見の人々を集め寄せるのは難しくありませんでした。ダタンやアビラムと共に、250人の同調者(すべて、会衆の長たち)を集め、徒党を組んでモーセとアロンに近づき、こう言いました。「集会全体はそのだれもが聖なる者であり、エホバはその中におられるのだ。それなのに、どうしてあなた方は自分をエホバの上に高めるのか」」。
 コラの言い分は正しかった。ところが、エホバ神はコラにではなくモーセとアロンに味方し、コラとその徒党は神により処刑された。
 すると、今度は民衆がモーセとアロンを非難するようになった。
 「その次の日、イスラエルの子らの全集会がモーセとアロンに向かってつぶやき始めてこう言いました。『あなた方はエホバの民を死なせたのだ』」。
 しかし、エホバは再びモーセとアロンとに味方し、イスラエルの民衆を処罰されたという。
 記事は、この聖書の記述の意味するところをよく考えるよう読者に勧めた。
 コラの場合、何が間違っていたのだろうか。
 「コラが祭司職を人間的な観点から見るようになったことは明らかです」。
 たとえ、間違いや罪を犯す人間であっても、神が権威とされたからには、その者には神の権威が付されていることをわきまえなければならないということである。
 エホバの証人の指導的組織や、会衆の長老たちも、モーセやアロンと似たようなものである。そこで記事は、指導的立場にある長老と、その指導に服する会衆とをそれぞれこのように諭した。
 「年長者つまり長老は、神の言葉に精通していなければなりません。そして、任命者であられる至高の裁き主[エホバ]と同様、長老たちも、裁きに関して、不公平に類する事柄をすべて憎まなければなりません……長老たちは忠実に準備をして会衆の集会を司会し、わたしたちと相並んで『王国の良いたより』を宣べ伝え、必要なときには聖書からの助言を与えます。病気の人を訪問し、嘆く人を慰め、無私の態度で忠節に王国の関心事を支持します」。
 「わたしたちは、長老たちの権威に挑んだりはしません。むしろ、その勤勉な働きを高く評価しています。幾十年にも及ぶ忠実な奉仕の記録を持っている長老も少なくありません。それゆえにわたしたちは信頼を寄せます」。
 「言うまでもなく、年長者たちも完全ではありません。自分の限界をわきまえているので、「神の相続財産」である群れに対して威張ったりはしません。むしろ、自らを『兄弟たちの喜びのための同労者』とみなしています。謙遜で勤勉な長老たちはエホバを愛しており、エホバにしっかり見倣うなら会衆にいっそう貢献できるということを理解しています。そして、その点を思いに留め、愛や同情心や辛抱強さといった神の特質を培おうと常に努力します」。
 記事は最後にこう述べている。
 「人間を導き手とする組織であれば完全ものはありませんが、喜ばしいことに、わたしたちは神の権威に快く服する忠実な仲間の信者と共に神に仕えることができるのです」。


エホバの基準を反映する服装

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、クリスチャンとしてのふさわしい服装に焦点を当てた研究記事を掲載した。
 記事はこう諭している。
 「わたしたちの身なりは、いつでも敬虔で上品な態度を反映したものであるべきです」。


ヨガ

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、ヨーガ(ヨガ)を取り上げた、否定的な論考を掲載した。
 ヨガを一種のスポーツ、また精神鍛錬の手段と見る人は少なくない。しかし記事は、ヨガが宗教と深い関わりを持っていることを指摘した。
 「ヒンズー教徒にとって、ヨーガは、偉大な超自然的力や霊との結合に至る方法あるいは修練です」。
 「『ヨーガは、宗教とは無関係に、健康な体とゆったりとした思いを得るための単なる体操として行えるものでしょうか』。その成り立ちからすると、答えは否定的なものとならざるを得ないでしょう」。
 さらに記事は、過去の由来にとどまらない、現代のヨーガの問題点を指摘している。一つは、心霊術的な力の獲得が見られること、もう一つは、ヨーガのインストラクターの傾向である。
 「釘の並んだ台の上で眠ったり、熱い炭の上を歩いたりする典型的なヨーガ行者を見て、いかさまだと思う人もいれば、冗談だと思う人もいるかもしれません。しかしそうしたことはインドでは珍しくありません。何時間も太陽をじかに見つめながら片足で立ったり、呼吸を制御して砂の中に長時間埋まっていたりする行為も同様です。1995年6月、タイムス・オブ・インディア紙は、3歳半の少女が恍惚状態で横たわり、重さ750キロ以上ある車がそのこの腹部をひいた、と伝えました。その子が目を覚ましたとき何ともなかったので、群衆は驚きました。普通の人がそのようなことを行なえないのは確かです」。
 あるヨーガ初心者はこのように証言している。
 「人間の域を超えた努力をしてできる限り長く息を止め……(見た)幻覚について話したところ、導師はたいへん喜んでくれました」。
 「師は、わたしの努力が成果を上げていることをとても喜んでくれました」。
 記事はさらに、ヨガのもう一つの問題点を指摘した。
 「ヨーガの究極の目標は、解脱(げだつ)です。それは、非人格的な霊と結合することと説明され、「思いの自然な働きを意図的に停止させること」と言われます。これは明らかに、クリスチャンが目指す目標とは異なります」。(注 : ヒンズー教の「瞑想(黙想)」が思考を停止もしくは縮小させることであるのに対し、キリスト教の「黙想(瞑想)」は思考を継続・拡大させることである。また、ヒンズー教徒が結びつく霊は非人格的であるのに対し、キリスト教徒が結びつく霊は人格的である。)
 最後に記事はこう述べている。
 「どんな体操を行なうかは個人的な選択です。しかしクリスチャンは、体の訓練、飲食、服装、娯楽、その他の何ものによっても、エホバ神との関係が損なわれることのないようにします。ただ健康のために運動をする人にとって、心霊術やオカルトの危険に身をさらすことなく行なえる運動法はいろいろあります」。


ミュリエル・スミスの手記

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、オーストラリアで開拓伝道者として熱心に働いた、ミュリエル・スミス(女性)による手記を掲載した。
 彼女は1930年にバプテスマを受けてエホバの証人となったが、その後の時期は試みの時期だったという。
 「世のものとならないようにという、イエスの命令に従うゆえに、エホバの証人は世界中で迫害の標的になりました。オーストラリアも例外ではありません。戦時のヒステリックな感情に駆り立てられ、私たちに共産主義者というレッテルを張る人もいました。これら反対者たちは誤った主張をし、エホバの証人がオーストラリアに所有する四つのラジオ局を用いて日本軍に情報を送っている、と言いました」。
 「軍に召集された若い兄弟たちは、妥協させようとする多大の圧力に直面しました。うれしいことに、私たちの息子は3人とも自らの信仰を守る立場をとって中立を保ちました」。
 「1941年1月、オーストラリアのエホバの証人は禁令下に置かれました。それでもロイ(夫)と私は2年半の間地下活動を続けました」。
 禁令が解かれた後、彼女は夫と共に全時間宣教者となり、50年以上その奉仕を続けたという。
 彼女は、これまで果たしてきたその奉仕の特権に、「深い満足を覚えている」と述べている。


アベルの信仰

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、アベルの信仰についてのこれまでの同誌の見解をごく一部修正する記事を掲載した。
 アベルはその兄弟カインと共に神に犠牲を捧げたが、エホバはアベルを喜び、カインを喜ばなかった。この点について記事はこう注解している。
 「確言はできませんが、二人とも何が受け入れられ何が受け入れられないかを告げられてはいなかったのですから、捧げ物の種類は問題ではなかったでしょう。どちらの種類も受け入れられるものであったと考えられます」。
 「ですから、カインとアベルそれぞれのささげた犠牲の物質的な違いだけが理由で、神が一方を受け入れ、他方を退けたのでないことは明らかです」。
 「アベルが神から義なる者と認められたのは、信仰のゆえでした。しかし、何に対する信仰でしょうか。胤を遣わすというエホバの約束に対する信仰です。アベルは、血を流すことの伴う犠牲が必要だと推論したのかもしれません」。
 「カインが退けられたのも、カインが間違った種類の犠牲をささげたからではなく、信仰に欠けていたからです。その信仰の欠如はカインの行動に表れていました。神は、カインの捧げ物に不満を感じてカインを退けられたのではありません」。


真剣な努力

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、クリスチャンが信仰において努力することに焦点を当てた記事を掲載した。
 「神からの祝福を受けるには、自分の努力を確実に正しい方向に向けなければなりません」。
 「世俗の職業や物質的繁栄のために生涯骨折って励むとしても、霊的な事柄がおろそかになってしまうなら、「良いことを見る」ようになるとは限りません」。
 また、記事はこのようにも述べて読者を励ましている。
 「自分の活動がごく限られたものに思えるとしても、辛抱してエホバの祝福を待ち望みましょう」。


コウノトリ

 「ものみの塔」誌2002年8月1日号は、コウノトリを取り上げた小記事を掲載した。
 コウノトリ(シュバシコウ)は、ヘブライ語では「忠節な者、あるいは、愛ある親切を抱いている者」を意味する名で呼ばれる。記事は、コウノトリの忠節がどのようであるかを紹介し、このように述べている。
 「今日、多くの人は、忠節や忠実さを時代遅れの概念とみなします。立派だが実際的ではないと考えるのです。離婚、妻子を捨てること、横領その他、人を欺く行為の急増は、もはや忠節が重んじられていないことを明らかにしています。それとは対照的に、聖書は、愛と親切を動機とした忠節を高く評価しています」。


過去から学ぶ

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、過去から教訓を得ることについて考える特集記事を掲載した。
 「科学とテクノロジーは進歩を続けました。ですから人間は、世界を幸せで安全な場所にする方法を過去の経験から学んできたはずです。ところが、実際にはそうなっていません」。
 「失敗を繰り返さないために過去から学ぶ、ということを渋る傾向が見られます。その結果、地球上での人間の生存自体が脅かされているようです」。
 記事は、十字軍の遠征と十字軍に対するイスラム教徒の戦い、第一次世界大戦、その後のファシズムの台頭を取り上げて比較し、こう述べている。
 「そのような非道なことを行なったのはどんな人々だったのでしょうか。大多数は普通の人、現代人とほとんど違わない人たちでした。その多くが、当時の世の中に見られた悪を正そうという切なる思いや理想主義に燃えていたことは確かです」。
 「当然のこととして、人々はみな自分の大義が正しいと考えました」。
 「これは歴史を通じて繰り返されてきたパターンではないでしょうか」。
 記事は、現代人が“1世紀のクリスチャンから学ぶ”ことの重要性を説いた。それは、失敗ばかりの人類の歴史に対して答えとなる過去の事例だからである。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、21問の聖書クイズを掲載した。


地熱発電所

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、フィリピンのラグナ州にある、地熱発電所を取り上げた教育記事を掲載した。


暴力と聖書

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、暴力に対する聖書の神の見方を取り上げた論考を掲載した。
 「暴力は広範に見られ、様々な形をとっています。単に戦争だけでなく、スポーツ、薬物、ギャングなどに関係した暴力、学校や職場での暴力があり、また娯楽にも暴力が見られます。家庭内の暴力でさえ、ごく日常のことになっている家も少なくありません」。
 「暴力は、昨今の多くの娯楽に欠かせない要素となってきています。人々は、映画の中で演じられる暴力場面だけでなく、テレビを通して現実の暴力行為にも引きつけられています」。
 「今日多くの人はたぶらかされて、暴力行為を肯定し、助長し、それに走るようになっています。また、誘い込まれて暴力を美化する娯楽にふける人たちも数知れません」。
 記事は、暴力に対する神の見方にふれた後、こう述べている。
 「クリスチャンは暴力を助長したり、暴力を振るったりする人たちとの交わりを避けます」。


熊の冬眠と出産

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、熊の冬眠と出産・子育てを取り上げた教育記事を掲載した。


ポリネシアン・トライアングル

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、ポリネシアン・トライアングルにおける古代の航海技術を取り上げた教育記事を掲載した。


髪の毛

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、髪の毛が生え、また薄くなったり生えなくなったりする仕組みを取り上げた教育記事を掲載した。


恋の仕組み

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、エル・ウニベルサル紙からの引用として、恋の陶酔感についての科学的解説を述べた。
 人は恋をすると、脳内の神経伝達物質の濃度が高くなり、陶酔するようになるという。この陶酔感は数か月から2年の長さに及び、その後、オキシトシンというホルモンの増加が始まる。これにより、恋は温かい感情や深い愛着へと変化していくという。
 記事は、最初に感じる陶酔感を失わないため、恋愛遍歴に走るようになる人もいると指摘している。


スペインで離婚が急増

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、スペインで離婚が急増していると指摘した。
 スペイン家族弁護士協会会長によると、「(このごろの)夫婦にはあまり自己犠牲の精神がなく、若者には我慢しようという気持ちがない」という。
 記事は、スペイン人の85パーセントがカトリック教徒であることを指摘し、「伝統的な信仰にはこの傾向をとどめる力はなかった」と述べている。


美容整形にご注意

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、フランスからの報告として、美容整形手術の3割がやり直さなければならなくなるなどの、美容整形の問題を指摘した。


保健医療に懸念

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、ヨーロッパのいくつかの国で、公共医療サービスに対する不満が高まっていると報じた。


司祭に対する暴行

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、サンデー・テレグラフ紙からの話として、2年のうちに、僧職者の70パーセント以上がののしられ、12パーセントが暴力を振るわれたと報じた。


ヴィア・クルシス

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、メキシコのヴィア・クルシスを批判する小記事を掲載した。
 この祭りは、キリストの受難を自ら再現する人たちの祭りであり、実際に多くの者たちが十字架を背負って道を歩き、むち打たれ、十字架にかけられる。
 記事はこう述べている。
 「こうした参加者の中には、最後に病院の世話になる人が少なくありません。この崇拝の方式は、[聖書に記されている]使徒パウロの言葉を思い出させることでしょう。パウロは、「自ら課した崇拝の方式と見せかけの謙遜、すなわち体を厳しく扱うこと」に反対しました」。


教会で発見

 「目ざめよ!」誌2002年8月8日号は、教会の地下でエホバの証人の出版物を見つけたという女性からの手紙を紹介した。
 手紙の中で女性は、「私はこの本から、地元の教会でよりも多くのことを学びました」と述べている。


霊的な目標を持つ

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、読者が信仰の面で目標を持つことを勧める記事を掲載した。


特別一日大会

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、2002年9月から各地で行われる特別一日大会の準備を促す記事を掲載した。


会衆の経験

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、会衆ごとに地元での聖書伝道の経験談を取り上げるプログラムの筋書きを掲載した。


対話をためらう人に

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、聖書について話すのをためらう人たちのことを考え、様々な立場の人に積極的に近づくためのプログラムの筋書きを掲載した。


聖書を読む

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、各会衆に対し、聖書伝道において聖書の言葉を紹介することを伝道者たちに励ますよう指示した。


聖書を読む習慣

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、若者たちが聖書を朗読する習慣を身につけるよう励ますプログラムの筋書きを掲載した。


家族が排斥されたとき

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、家族の誰かが除名(排斥)された場合の、他の家族の振る舞いについて指導する記事を掲載した。
 「家族のきずなには非常に強いものがあります。それでクリスチャンにとって、配偶者や子供、親、その他の近親者が会衆から排斥されたり断絶したりすることは試みとなります」。
 記事は、大まかな基準を次のように述べている。
 「もしクリスチャンの家族の中に排斥された親族がいるとしたら、その人は従来どおり、普通の日常的な家の仕事や活動に携わるでしょう。それで、食事その他の家族としての活動の際、排斥されている家族の成員をどの程度までそれに含めるかの決定は、その家族にまかされるでしょう」。
 「家に住んでいる未成年の子供が排斥された場合でも、クリスチャンの親は依然としてその子供を育てる責任を負っています。親は子供に衣食住を備え続けるのと同じように、神の言葉に調和した教えと懲らしめを与える必要があります」。
 「もし排斥された者、あるいは自ら関係を断絶した者が、別に生活している親族であれば、接触は最小限に保たれるに違いありません」。
 「家にいない息子や親などの肉親が排斥され、その結果家に帰ることを願っている場合、家族は状況に応じ、どうすべきかを決定することができます」。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、2002年5月から8月までの神権宣教学校の復習のための問題用紙を折り込みとして掲載した。
 たとえば、このような質問が記されている。
 「エルサレムの滅びを頂点とする危機的な時代に、際立った存在となった3人の預言者はだれですか」。
 「エホバはどのような意味でエレミヤを「だまし」ましたか」。
 「エゼキエル 9章4節で述べられている額の印は、人が知識だけで救われることを示していますか」。


巡回訪問のお知らせ

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、2002年9月以降、各会衆を訪れる巡回監督が、「クリスチャンの身分を守ってください」と題する公開講演を行うと告知した。


新しい用語索引

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、ものみの塔出版物索引2001年英語版が発行されたと告知した。


書籍研究のスケジュール

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、会衆の群れごとに行われる、群れの書籍研究のスケジュールを掲載した。


幸せな家庭へと人を導く

 「わたしたちの王国宣教」2002年8月号は、「幸せな家庭を築く秘訣」の本を用いたキャンペーンに合わせ、対話のための提案を掲載した。
 たとえば、伝道者はこのように述べて、子供の必要とする事柄に親の注意を引くことができる。
 「物があふれている時代ですが、親が子どもにあげることができる最高の財産は、子どもの心の中に築く特質や価値観といわれる方は少なくありません。こうした特質は教えられないと身につかないものですし、早く教えられる必要のあることだと思います」。
 「昔から子どもが十代になればある程度反抗するのは当たり前のことだと言われてきましたが、最近は、学級崩壊や少年犯罪などかなり深刻な問題が増えていますね。子どものストレスも多くなっているのでしょうか。大人の対応によっては子どもの反抗心を助長させてしまうこともあれば、反対に、正しく導くこともできるようです」。


忠節はだれに

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、忠節を取り上げた特集記事を掲載した。
 「狂信的な忠節は破壊をもたらし、忠節の欠如は社会を破滅させます」。
 「ほとんどの人が忠節を賞賛すると述べる一方で、社会は家庭という最も基本的なレベルで忠節が著しく欠如しているために苦しんでいます」。
 「忠節は高潔な基準だが、我々のうちには過剰なまでの恐れや自己不信、便宜主義、また野心があるため、もろい種である我々がその基準を固守することは期待できない(ロジャー・ローゼンブラット)」。
 記事は、宗教上の改宗に伴う忠節の問題を指摘した。
 「ザンビアで育った一人の女性は次のように述べています。「わたしは幼い時から宗教心がありました。家庭の礼拝室で毎日祈ること、宗教上の祭日を祝うこと、寺院に定期的に行くことなどは、しつけの一環でした。わたしの宗教と崇拝は、自分の文化、地域社会、家族と密接にかかわり合っていました」。ところが、この女性は十代後半にエホバの証人と聖書を研究し始め、しばらくして宗教を変えることにしました。彼女はこう述べています。「わたしの地域社会では、宗教を変えるなら、許されない汚点がつけられることになりました。それは忠節の欠けた行ない、家族と地域社会に対する裏切りとみなされました」」。
 「ズラツコという男性はボスニアで育ち、母国をのみ込んだ紛争にしばらく参戦していました。ズラツコはエホバの証人と聖書を研究し始めました。今では、だれに対しても武器を取ることを拒みます。ズラツコが所属していた軍隊の仲間は、自分たちの側に立って戦うことを拒んだ人をすべて裏切り者とみなしました」。
 このような変化を忠節の欠けた行動と見るべきだろうか。記事は、「それはあなたの観点によって異なります」と答えた。
 極端な例では、宗教を選ぶことが家庭に対する忠節の放棄であるとみなされることもある。
 「ある人が神への忠節ゆえに信仰を変えたとしても、それはその人がもはや自分の家族を愛していないという意味ではありません」。
 「宗教的な伝統にではなく、エホバに忠節であることを選んだからといって、家族に対する忠節を欠いてしまうというわけではありません」。
 「同じように、ある人が神への忠節に促されて、政治的中立を保ち、他の人に対して武器を取ることを避けるとしても、その人は裏切り者ではありません」。
 記事は、ある忠節を捨てるとしても、それより勝った別の忠節へと進んでいくことは良いことだと指摘した。
 「この女性とズラツコは二人とも、より高いレベルの忠節、つまり神への忠節が、自分たちの行動の動機となっていると感じています」。
 「エホバへの忠節は愛に基づいています。それは、エホバが愛される事柄を愛し、エホバが憎まれる邪悪な事柄を憎むよう人を動かします。エホバの主要な特質は愛なので、神への忠節は、他の人に対して愛のない行動を取らないようにする助けとなります」。
 さらに記事はこう述べている。
 「神への忠節が狂信的かつ破壊的な力へと変様してしまわないようにするために、その忠節は正確な知識によって形作られなければなりません」。


エホバの証人の識字訓練

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、ソロモン諸島のエホバの証人の識字のための取り組みを紹介する記事を掲載した。
 ソロモン諸島のエホバの証人の80パーセントは、かつて読み書きができなかったが、エホバの証人の識字プログラムのおかけで読み書きができるようになっていると記事は報告している。


キリストは愛ある教え手

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、エホバの証人一人一人が、聖書の伝道者として、キリストの良い模範に倣うべきことを説く、一連の研究記事を掲載した。
 「教えることは、おもに愛の問題です」。
 「イエスは、[1] 自分が教えた真理を愛し、[2] 教えた人々をも愛されました」。
 「イエスは、ご自分が教えた、エホバとその王国に関する貴重な真理に無関心ではありませんでした。[かつては]自らも生徒として、その愛を身につけたのです」。
 「イエスは、紛れもない愛をもって聖書を引用し、返答のたびに神の言葉を注意深く用いました」。
 「自分が教えた真理に対してイエスが抱いた愛は、いつでも明らかに表われていました。結局のところ、イエスは難なく独自の見解を作り上げることもできたでしょう。それでも、自分が教えられた事柄すべては、自分自身ではなく、天の父から出ていることを、話を聴く人たちに繰り返し思い起こさせました。イエスは神の真理を深く愛しており、それに代えて自分自身の考えを提示しようなどとは夢にも思わなかったのです」。
 「イエスは忠節な愛に促されていたので、宗教指導者たちが神の言葉を都合よく曲解したり人間の伝統の泥沼に埋もれさせたりしようとした時にも、み言葉を擁護しました」。
 「イエスは、取り上げる論題に愛を抱いていたので、ただ型にはまった、無気力で機械的な教え方をしたりはされませんでした」。
 「イエスは、いつも新鮮で生き生きと音信を伝え、深く愛していた真理を教える際に人を引きつける言葉を用いました。イエスのそうした熱意は生き生きとした表情に現われ、イエスの目は論題に対する鋭い関心で輝いていたことでしょう。イエスの話を聴くのは、大きな喜びであったに違いありません」。
 「イエスは、神の真理に対する抜群の把握力や人を引きつける話し方がもとで、誇りのために思い上がったでしょうか。イエスの知恵は敬虔さを伴うものでした。そうした知恵に、ごう慢さの入り込む余地はありません」。
 「イエスが人々に深い愛を抱いていたことは、常にその教え方ににじみ出ていました。イエスの教え方は、誇り高い人々とは異なり、人を萎縮されるようなことはありませんでした」。
 「自分が教えた人々に対するイエスの愛は、その人たちへの感情移入にも表われていました。イエスは、人々の惨めな状態を思いやり、助けになりたいと思われました」。
 「イエスは、人のよい面を探すことによっても人々に愛を示しました。人々のよい点を見いだそうとイエスが努めたことによって、いっそう改善を図るための励みを得た人が多くいたに違いありません」。
 「自分が教えた人々に対するイエスの愛の別の強力な証拠は、その人たちに進んで仕えようとする態度です。イエスは地上にいた時、他の人からの手厚い世話やもてなしを期待したりはされませんでした。イエスは、自分が教えた人々の必要を満たすため謙遜に仕え、その人々のために快く自分を費やしました」。
 「誇り高いパリサイ人や書士たちとは異なり、イエスはいつも謙遜で、近づきやすい人でした。あらゆる人 ― 高位の人、軍人、法律家、女性、子ども、貧しい人、病気の人、また社会からのけ者のようにされていた人たちさえ、怖がらずにいそいそとイエスに近づきました」。
 「イエスは、疲れていた時も、休息や、祈るための静かな時間を必要としたときにも、他の人の必要を自分のことより優先させました」。
 「イエスは弟子たちに、何が模範かをただ告げただけではなく、模範を示し、手本によって教えました。行なうよう告げた事柄を自分は実行するまでもないと言わんばかりの、人を見下すような高飛車な話し方はしませんでした」。
 さらに記事は、このように述べて、キリストに倣う読者を励ましている。
 「教え手としてのイエスの模範があまりに高潔で、不完全な人間にはとても倣えないということでしょうか。決してそうではありません。イエスの教えの土台は愛でした。愛は、だれもが培えるものです」。


思考力を働かせる

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、思考力の価値に注目する論考を掲載した。
 「思考力を働かせる人は、将来に関して、あるいは現在の自分の状況に関して決定を下す際、まず、予想される危険や落とし穴を分析します。そして、どんな危険が生じ得るのかをひとたび見定めたなら、自分の境遇や交わりの影響を考慮に入れて、そうした危険を避けるにはどうしたらよいかを判断します」。
 記事は、性の不道徳を避けるために、クリスチャンが思考力を働かせるべきことを指摘した。
 「わたしたちはセックスにとりつかれた世の中で生活しています。毎日、官能的な考えや映像が波のように次々と行く手に立ちはだかります。そういうものが人間の正常な性欲に及ぼす影響は無視できません。流されるままに危険な状態に陥るのではなく、思考力を働かせ、断固として誘惑に立ち向かわなければなりません」。
 さらに記事は、他人の過ちを忍ぶ、また物質主義を避ける点でどのように思考力が役に立つかを述べている。


忠誠

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、クリスチャンが他人に影響されることなく自分の信仰を守り、忠誠を保つことに焦点を当てた論考を掲載した。
 一つの点として、記事はこのように読者を諭している。
 「当然のことながら、わたしたちはクリスチャン会衆内に高い基準を見いだそうとします。しかし、まだ不完全な状態にある仲間の崇拝者に多くを期待しすぎるなら、失望することになるでしょう。それとは対照的に、エホバは、ご自分の僕たちに求める事柄に関して現実的な見方をされます。わたしたちも、その手本に倣うなら、人の不完全さを辛抱しようという気持ちになるでしょう」。


過去の記事を振り返る

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、「ものみの塔」誌の最近の号の内容を振り返る問答集を掲載した。
 たとえば、このような質問と答えが示されている。
 「感情移入とは何ですか。クリスチャンはなぜ感情移入の点で成長する必要がありますか」。
 「真の幸福を得るには、身体的な障害が最終的に解決される前に霊的ないやしが必要です。なぜですか」。
 「人間の病気や行動や死について、遺伝子にすべての責任があるわけではないと言えるのはなぜですか」。


非信者の配偶者がいるとき

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年8月15日号において、非信者の配偶者と子供を持つ読者に対する教理上の指針を再確認する記事を掲載した。
 記事は、信者が信者でない配偶者と子供との間に「釣り合い」を保つべきことを説いた。
 特に、非信者の夫が子供に対する宗教教育に反対する場合についてはこう述べている。
 「未信者の夫が、子どもに自分の宗教を行なわせるとか、自分の崇拝の場所に連れて行って自分の信仰にそって宗教教育を施す、と主張する場合もあります。あるいは、どの宗教にも反対で、子どもには宗教教育をいっさい受けさせない、と主張する夫もいるかもしれません。家族の頭として物事を決定する主な責任を持つのは(エホバの証人である妻ではなく未信者の)夫です。夫の頭の権を尊重しつつも、信者である母親は献身したクリスチャンとして、子どもの霊的福祉に対する気遣いから、子どもに道徳的な指導を与える機会を見いだすことでしょう」。
 「子どもは成長するにつれ、両親から受けた情報に基づいて自分がどのような立場を取るかを決めることになります」。
 「エホバは、信者である配偶者のゆえに結婚関係を聖なるものと見てくださいますし、その子どもたちはエホバの目に聖なる者とみなされます。証人である妻にとって、真理を理解するよう子どもを助けることに力を尽くし、その最終結果をエホバのみ手にゆだねるというのは全くふさわしいことです」。


グルジアの報告

 「ものみの塔」誌2002年8月15日号は、警察がエホバの証人に対して暴行を加えていることで知られるグルジア共和国からの心温まる報告を掲載した。
 エホバの証人の一女性は、警察署から紛失した大金をたまたま見つけ、届けに行った。警察署では、ちょうどそのお金を探して警察官たちが血眼になっているところだった。
 この女性は貧しかったが、お金を着服するようなことはせず、警察官たちにこう言ったという。
 「わたしがエホバの証人でなければ、このお金は返さなかったでしょう」。
 警察は深く感謝したという。ある警察はこう言ったと記事は報告している。
 「みんながエホバの証人だったら、いったいだれが犯罪を犯すだろう」。


ごみと使い捨ての精神

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、ごみ問題と使い捨ての精神を取り上げた特集記事を掲載した。
 「先進国の人々は、ごみを山ほど捨てます。……前世紀に世界人口は急増しました。しかも、世界の人の大多数は大量消費志向です」。
 「(商品を包むパッケージについては)利点があるとはいえ、度を超しているのではないかと考えてみるべきです」。
 「わたしたちは、新しいものを見逃すわけにはゆかない、最新の商品を買いたい、という気持ちにさせられます。ややもすると、古いものを修理するより新しいものを買いたくなります」。
 「使い捨て経済から脱したいなら、購入した品をできるだけ長く使い、修理不能になるまでは捨てない、という心構えを持つべきでしょう。しかし、必要とされるだけの数の家庭がそのような原則を厳守するでしょうか。あまり見込みはなさそうです。人類のごみ問題は、もっと大きな諸問題の一つの症状にすぎません」。
 「もしみんなが家具や自動車を一生使うとしたら、あるいは今の2倍の期間使うだけでも、確実に経済は破綻するだろう」。(スイスのウェルトウォッヒェ紙)
 続いて記事は、使い捨て精神の問題に読者の注意を引いた。
 「使い捨て精神は、ちょっとした無駄遣い程度では収まらないことがあります。物のありがたみを感じなくなり、口をつけてもいない食品や他の資源を大量に無駄にしても平気です。自己中心的で、流行や些細な好き嫌いに左右される人は、新品同様の衣服や家具などを新しい物と取り替えたい、という衝動を絶えず感じるかもしれません」。
 「使い捨ての精神の対象は物だけとは限りません。……その扱い方が、人間の扱い方にも反映されつつあります」。
 「我々は、使い捨て商品と同じように、人間すら使い捨てできるかのように考えてはいないだろうか。一人一人の人間の個性を評価することを見失ってしまったのではないだろうか」。(アル・ゴア、元合衆国副大統領)
 「さらに悪いことに、人間の命そのものも使い捨ての精神の対象となっています」。
 「人間の命を安っぽくて価値のないもの、安易に捨ててよいものとみなす傾向は、今日の世界のいたるところで見られます。例えば、人気のある娯楽の暴力シーンがそうです。映画やテレビ番組1本につき大勢の“悪者”が“ヒーロー”に殺されます」。
 記事は、問題の解決についてこう述べている。
 「だれでも自分の精神を律することはできます。……自分の精神と動機を吟味するのはよいことです」。
 「地球上の5人に1人が、おなかをすかせたまま眠りに就きます。このことを考えると、食べ物があることに感謝し、無駄を避けるべきことを銘記させられます。賢明な親は子どもたちに、食べられる分だけ皿に取るよう教えます。もちろん、親が手本とならなければなりません」。
 「まだよい状態にある物を捨てる前に、それをもらって喜ぶ人がいないだろうかと考えてください」。
 最後に、記事はこのように締めくくられている。
 「真の幸福は使い捨て社会からは決して得られません。まして、使い捨て精神から得られるはずもありません。この点を理解する人が増えつつあるようです。あなたはいかがですか」。


自動車事故の危険を減らすには

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、自動車事故の原因とその対策とについて詳述する、有用な記事を掲載した。


ゴールデン・ワトル

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、ゴールデン・ワトル(アカキア・ピクナンタ)をはじめとする、オーストラリアのアカシアを取り上げた教育記事を掲載した。


美容整形はどうか

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、美容整形術を受けようかと考えている若者たちに向けた啓発的な記事を掲載した。
 記事は、「美容整形は普通のことになろうとしています」と述べ、また、「魅力的であって皆から好かれたい、と思うのは自然なことです」とも述べた。
 一方で記事はこのように指摘している。
 「それらの人はみな美容整形手術を受けた方がいいと思いますか。それとも、自分の容姿の好ましい面に満足するほうが幸せになれると思いますか」。
 「美容整形ですべてが解決するわけではありません。それは決して、容姿によい影響を与える健康的な生活習慣の代わりにはなりません。また、外科医はあなたの容姿を変えることができるとしても、あなたの人格を変えることはできません」。
 「また、一部のクリニックや医師が、できないことをできると言っている、ということも覚えておきましょう」。
 「長期的な事柄もあります。16歳の時には見た感じがひどく嫌だと思えた点でも、21歳になれば全く異なって見えるかもしれません」。
 「手術を受けた人の中には、金銭だけでなく健康という代価を払った人たちもいます」。
 また、記事はこうも述べている。
 「こう自問することもできるでしょう。『美容整形をしたら、他の人にどんなメッセージを送ることになるだろうか。自分にとって一番重要なのは容姿だ、と言っていることにならないだろうか』」。
 「自分の動機を、真剣に考えてみるべきでしょう。こう自問するとよいかもしれません。『自分の気にしている点を絶えずからかわれるのが嫌なのだろうか。それとも、虚栄心が関係しているだろうか。容姿を変えたいと思うのは、友だちからの圧力や、巧みな宣伝、あるいは芸能界のスターの影響を受けているからだろうか。今日のメディアが盛んに推し進める極端な美の基準に自分を合わせようとしているのだろうか』」。
 最後に記事はこう述べている。
 「幸福は、容姿からもたらされるのではありません。容姿のゆえに自尊心が強まる場合も弱まる場合もあるとはいえ、本当に重要なのは人格や態度です」。
 「どんな決定をするにしても、覚えておくべきなのは、申し分のない容姿や申し分のない幸福を獲得することは今のところ無理だという点です。それを変えることはできません。変えられるのは、内面の人、聖書の言う「心の中の秘められた人」です。神の目から見て美しい特質を培うことによって、自分を磨いてください。そうすることには、危険がなく、費用もかからないばかりか、計り知れないほど豊かな報いがあるのです」。


日食

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、2001年6月21日に生じた皆既日食を取り上げた教育記事を掲載した。


家のペンキ塗り

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、ペンキを塗ることによって家を手入れすることを取り上げた教育記事を掲載した。


男らしいとは

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、男らしさに関する男の子たちの考え方のゆがみを指摘した。
 「男の子たちは、影響力があって支配的で、何かというと悪態をつくようなクラスメートを尊敬する」。
 記事はこのように指摘している。
 「男の子に必要なのは、男であるとは無情になることでも自分の感情を押し殺すことでもない、という断固たるメッセージである」。(ロンドン大学のスティーブン・フロッシュ教授)


赤十字の運用問題

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、2001年9月11日に起こった同時多発テロに際して米国赤十字社が集めた基金と輸血用血液について、「集めるのは素早かったが、分配はそうではなかった」と報告した。
 集められた40万単位の血液はほとんどすべてが使われず、今では古くなって捨てるしかないという状態である。
 基金のほうも、テロとは関係ない他の活動のためにプールされ、テロの被害者には還元されなかった。
 このことで赤十字は「批判の集中砲火を浴びた」と記事は報告している。赤十字社は、基金をテロ犠牲者に給付することを約束したという。


自然災害が増加

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、ロイター通信からの話として、「2001年中の自然災害による死者は全世界で少なくとも2万5,000人に上り、前年の2倍以上になった」と報じた。
 死者は地震によるものが最も多かったという。


アジアの深刻な大気汚染

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、アジアの各地でひどくなっている大気汚染とその被害について指摘した。


人間アレルギーのペット

 ペットのせいでアレルギーにかかる人は多いが、「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、ペットの20匹に1匹は人間アレルギーであると指摘した。
 記事は、ペットの飼い主に対し、ペットのアレルギー症状に気を配るように勧めている。


ユーロとカトリック教会

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、ユーロ通貨の切り替えに伴って、カトリック教会による結婚式などの献金請求額が変更になり、値上げになったと報じた。
 これは、教会に置かれている献金箱に対する寄付の現状が関係しているという。
 「ローマの教区司祭たちは今も、献金箱が空なのを見てはがっかりしている」。


犬と飼い主

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、危険な犬について考える小記事を掲載した。
 記事は、ポーランド畜犬連盟からの話として、「認定証が出されるべきなのは犬ではなく飼い主のほうだ」と指摘している。


学校で

 「目ざめよ!」誌2002年8月22日号は、エホバの証人のある少女が、クラスメート全員に、ものみの塔聖書冊子教会の発行する、「若い人が尋ねる質問―実際に役立つ答え」と題する教育書をプレゼントし、喜ばれたという話を紹介した。
 記事はこの本についてこう紹介している。
 「この本には次のような章が含まれています。「どうすれば親はもっと自由を与えてくれるのだろうか」、「どうすれば本当の友達ができるだろうか」、「どんな職業を選んだらよいだろうか」、「婚前交渉をどう見るべきだろうか」、「真実の愛であるかどうかは、どうすればわかるのだろう」」。


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