JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2002年版(3)
2003年2月1日更新

引用文は適宜語尾等を修正しています

「ものみの塔」誌の出版言語数が増加

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「ものみの塔」誌は、2002年9月1日号において、同誌の出版言語数を144から145に更新した。
 なお、同誌の平均印刷部数は2014万7000部である。


隣人はどこに

 「ものみの塔」誌2002年9月1日号は、良き隣人をテーマとした特集記事を掲載した。
 記事は、現代社会が「見知らぬ人たちの共同体」となっており、また、「各個人はより匿名的な存在になっている」と指摘した。
 続いて記事は読者に対し、「わたしはどんな隣人だろうか。わたしは良い隣人であるために特別な努力を払うだろうか」と自問するように勧めた。
 記事は良い隣人となる術についてこう読者を教えている。
 「良い隣人は努めて、自分の周囲にいる人たちと知り合うようにします。時おり二言三言、言葉を交わすよう努力します。肝心なのは隣人同士が互いに示す「無数の小さな親切です」。ですから、隣人に対する小さな親切をどのように表わせるかと考えるのは良いことです」。
 「感謝の欠けたこの世の中にあって、あなたの好意を不自然に感じる人や、動機を疑う人さえいるかもしれません。そういう人は、安心させてあげる必要があるでしょう。友好的な関係を築くのに時間がかかり、辛抱強さが求められる場合があります」。


イエス・キリストの教え方

 「ものみの塔」誌2002年9月1日号は、イエス・キリストの教え手としての技能を集中的に取り上げた一連の特集記事を掲載した。
 「イエスが傑出した教え手であったのはなぜでしょうか。主な要素は、愛です」。
 「イエスは、教える方法について非常によくわきまえておられました」。
 記事は、イエス・キリストの教え方の技法を詳しく取り上げた後、読者がキリストに倣うべきことを説いている。


グラディス・アレンの手記

 「ものみの塔」誌2002年9月1日号は、エホバの証人に対する激しい反対のあったカナダで熱心に奉仕したグラディス・アレン(女性)による手記を掲載した。
 彼女は、聖書伝道を行ったという罪で15回逮捕されたという。当時の状況について彼女はこう語っている。
 「わたしたちは(逮捕を逃れるために)三、四件の家にパンフレットを入れると、別の区域に移動しました。しかし、わたしたちの来たことが教区司祭に知れると、やっかいなことになりかねませんでした。ある時など、司祭にけしかけられた50人ないし60人の大人や子どもが暴徒と化し、わたしたちにトマトや卵を投げつけたのです」。
 彼女は、そのような苦難にもめげずに伝道を行い続けた。今はその人生に満足しているという。


金銭に対処する

 「ものみの塔」誌2002年9月1日号は、信仰の試練に遭っている読者を励ます記事を掲載した。
 記事は、試練に対処するよう読者を諭すだけでなく、試練から得られるだろう教訓にも注意を引き、また、試練に耐えることからもたらされる祝福にも注意を引いて読者を励ましている。


許すことの大切さ

 「ものみの塔」誌2002年9月1日号は、許すことの大切さを説く小記事を掲載した。
 記事によると、アメリカ人の80パーセントが自分は神から許しを得ると述べた一方で、自分は他の人を許すと述べたのは57パーセントにとどまったという。
 記事は、聖書から次の言葉を引用した。
 「あなた方が人の罪科を許すなら、あなた方の天の父もあなた方の罪科を許してくださるのです。けれども、あなた方が人の罪科を許さないなら、あなた方の父もあなた方の罪科を許されないでしょう」。
 記事は、「確かに、許すのは必ずしも容易ではありません」と認めつつも、「快く許す精神を示せば、神との、また隣人との関係が良くなりますから、互いに心から惜しみなく許し合うようにするのは当を得たことです」と述べている。


“数の神秘”を批評する

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、数に意味を付す“数秘術”を検証する特集記事を掲載した。
 記事は、数秘術はまずあたらないことを指摘するものとなっている。
 補足的な点として、記事は「聖書の暗号」と題する本についても否定的な見解を述べている。


バロロ

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、バロロという食材を取り上げた教育記事を掲載した。


奴隷とキリスト教

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、過去にキリスト教会がどのようにして奴隷貿易を正当化したかを取り上げた記事を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「中世の社会では、戦争捕虜、特に教会が“異教徒”の烙印を押した人を奴隷とすることに道義的な問題を感じる人はほとんどいませんでした。しかし、平時の奴隷貿易によってお金をもうけるには、正当な理由がどうしても必要でした。それである人々は、アフリカ人を奴隷にすれば、「迷える魂を救う」ことになると唱えました。それら外国人を異教の生活から救っている、というわけです」。
 「1455年1月8日、(カトリック教会の)教皇ニコラウス5世は奴隷貿易を公式に支持しました」。
 「僧職者は、キリスト教の価値観と、容赦ない搾取によって機能する制度とを調和させようと腐心するうちに、奴隷制度を擁護する精神的支柱となるものを作り出しました。ある神学者が奴隷神学と呼ぶものです。『確かにアフリカ人は冷酷な奴隷制度に苦しんでいるが、魂は自由だ』と僧職者は論じたのです。『よって、奴隷たちは屈辱的な経験を、天の栄光へと備えさせる神の計画の一部として喜んで受け行けなければならない』というわけです」。
 最後に記事は、こういった考えは誤っており、聖書の神は決して奴隷制を認めていないことを指摘している。


オオヤマネコ

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、カナダのオオヤマネコを取り上げた教育記事を掲載した。


中世の聖書印刷

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、中世における聖書印刷の中心地となったアントワープを取り上げた記事を掲載した。
 アントワープでは、ルターの始めた宗教改革に対抗して、教会がその支持者を火あぶりにした。しかし、アントワープの印刷業者はひるまなかったという。
 記事は、アントワープで聖書を印刷して教会に処刑された人たちを紹介している。また、聖書翻訳者のティンダルもアントワープで逮捕されたと記事は指摘している。


シーラカンス

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、シーラカンスを取り上げた教育記事を掲載した。


フランス国立図書館

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、世界最大級を誇るフランス国立図書館の新館の建設と引っ越し作業とを取り上げた教育記事を掲載した。


祈りを聞いてもらうには

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、神に聞いてもらえる祈りとは何かをテーマとした論考を掲載した。
 記事は、祈りについて現実的な見方をするよう読者を諭し、「わたしたちがどれほどしきりに、また切に祈ったとしても、今が「対処しにくい危機の時代」であることに変わりはありません。イエスは、ご自分の追随者が幸福になると確かに言われましたが、生活から問題がなくなるとは言われませんでした」と述べている。


地雷

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、地雷の現状と被害とを報告し、「地雷は愚考の極み」であると述べた。


聖書と動物

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、テール・ソバージュ誌から引用し、聖書は「動物に関する的確かつ正確な記録を収めている」と指摘した。


捨てられるペット

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、オーストラリアにおいて捨てられるペットの統計を掲載した。


2001年と占い師

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、ドイツ科学フォーラムおよび南ドイツ新聞からの話として、2001年の出来事を予測するテストに、占い師たちは惨敗したと報じた。


子供と「目ざめよ!」誌

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、ある小学校の教師からの感謝の言葉を紹介した。この中で教師は、「「目ざめよ!」誌は、十分な情報を得た上で決定を下すよう助けることによって、生徒たちの人格を形成し、生活の質を向上させています」と述べている。


学校のレポートに

 「目ざめよ!」誌2002年9月8日号は、学校で提出するレポートに「目ざめよ!」誌が役に立つこと、また人前で話すのにエホバの証人が開いている神権宣教学校が役に立つことを示す事例を紹介する小記事を掲載した。


エホバをたたえる

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、聖書伝道においてエホバ神をたたえることを取り上げた記事を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「神のお名前をいつ話の中に含めるかについてふさわしい識別力を働かせますが、決してそれを隠したり、使うのをためらったりすべきではありません」。
 「その方の傑出した愛、最高度の知恵、完全な公正、全能の力について、また憐れみや愛ある親切や他のすばらしい数々の特質について知らせなければなりません」。


資材を正しく用いる

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、無料で頒布されている聖書文書を大切に扱うよう求める記事を掲載した。


貧しい国での施設

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、貧しい国において行われている施設の建設に証人たちの注意を引く記事を掲載した。
 裕福な国からの建設のための資金援助は、制度としては1983年から行われている。
 「この取り決めがなかったなら、多くの会衆は王国会館の新築も、修理の必要な王国会館の改装もできないでしょう」。
 記事は、この支援のために集まっている寄付に感謝を表し、引き続きの寄付を要請している。


信仰がない人に

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、信仰を持たない人に聖書の音信をどのように伝えるかを考えるプログラムの筋書きを掲載した。


昨年度の活動を振り返る

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、昨奉仕年度(9月から8月)の活動の内容を振り返るプログラムの筋書きを掲載した。
 筋書きは、プログラム司会者に対しこのように指示している。
 「得られた成果についてほめる。……会衆が成し遂げた事柄に焦点を合わせ、改善のための実際的な提案を大まかに述べる」。


片親家庭

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、会衆内にひとり親がいる場合、その親にインタビューを行うよう指示した。
 片親というハンディキャップを背負いながら、子供をどのように育て、教育しているかを尋ねるよう指示されている。


会衆の必要

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、各会衆が会衆ごとに必要な事柄をプログラムとして取り上げるよう指示した。


巡回大会の復習

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、昨奉仕年度の巡回大会の内容を復習するプログラムのための質問集を掲載した。


10月に備える

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、10月の伝道活動に備えるよう会衆を励ますプログラムの筋書きを掲載した。


学校で

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、学校で信仰の問題に対処している子どもたちをインタビューするよう指示した。


排斥者に援助を

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、除名された人や棄教した人で、復帰を望んでいるかも知れない人を考慮するよう求めた。


春の特別講演

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、2003年のキリストの死の記念式にあわせて行われる特別聖書公開講演会の日付が4月27日となったことを告知した。


ものみの塔協会が年鑑その他を発行

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、ものみの塔聖書冊子協会が、2003年の年鑑、また2002年の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の製本版を発行することを告知し、10月中に予約を行うよう読者に求めた。


満足のいく生活

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、「満足のいく生活 ― どうすれば実現できますか」のブロシュアー(小冊子)を用い、どのように聖書を教えることができるかを提案する記事を掲載した。


インターネットの問題

 「わたしたちの王国宣教」2002年9月号は、インターネットの問題に読者の注意を引く記事を掲載した。


聖人

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、聖人をテーマとした特集記事を掲載した。
 カトリック教会は、死去した教会の偉人たちを「聖人」と認定している。
 「(カトリック教会において)“聖人”は神に近づく特権を持っているので、生きている人のために有効な取りなしをすることができる、とされてまいす。“聖人”の遺物や遺骨などが見つかると、それらは崇敬の対象となります。そうしたものは力を発揮すると信じられているからです」。
 しかし記事は、カトリックの聖人と、聖書の述べる「聖人」との違いに読者の注意を引いた。
 「「新約聖書用語解説辞典」はこう注解しています。「(聖書において「聖人」という語は)信者たちに関して複数形で用いられる場合、そうした信者すべてを指す。並はずれて聖なる者や、聖人らしい並はずれた行ないを特色とした故人だけに当てはまるのではない」」。
 「それらの聖なる者たちは明らかにまだ死んでおらず、際だった徳のゆえに特別扱いされて他の信者たちの上に高められていたわけでもありませんでした」。
 さらに記事は、聖人を認定するカトリック教会を批判し、こう述べている。
 「神の言葉は、人が人間や何らかの組織によって聖人とされるのではないことを示しています。聖なる者(つまり聖人)は、エホバの召しによって神聖なものとされるのです。それは神の過分のご親切に基づき、神の目的と調和して行なわれます」。
 また記事は、聖人に対する祈りについてこう述べている。
 「聖人のために祈ることを聖書は勧めていますが、そのような聖なる者に向かって、あるいはそのような者を通して祈るようにと神が命じている聖句は一つもありません。神はわたしたちの祈りのために取りなしをする方(イエス・キリスト)を任命しておられます」。
 さらに記事は、遺物崇拝についてはこう述べている。
 「エホバは、亡くなった“聖人”の遺物を通して力を送るのではなく、信仰のうちに求める人の上にご自分の聖霊を注ぎ出されます」。


エホバの証人の若者たち

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、エホバの証人の若者たちが、「露玉のようにさわやかである」と形容する記事を掲載した。
 たとえば、エホバの証人の若者たちは言葉使いがさわやかであると記事は指摘している。


信仰を守り続ける

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、クリスチャンが自分の信仰を守り続けることの大切さを説く一連の研究記事を掲載した。
 「聖書を受け入れていて宗教心があると唱えながら、生活に聖書からの実際の感化を何も受けていない人は、世界中に大勢います。しかし、真のクリスチャンの場合はそうではありません。神の言葉の助言を当てはめることによって、考え方や行動を変化させてきました。また、その人たちの表わす新しい人格は、すぐに他の人の目に留まります」。
 記事は、証人たちが過ちを避け、真のクリスチャンとなるための具体的な方策を数多く示している。


愛国心にどう応ずるか

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、愛国心の問題について考える啓発的な記事を掲載した。
 「国家の危機や国家間の緊張が生じると、人々は安全や安心感を求めて自国の政府に頼ります。政府の側は、民衆の支援を結集させるためのプログラムを強化します。そのようなプログラムによって愛国主義の気運が盛り上がるにつれ、愛国主義的な儀式がますます盛んに行なわれるようになります」。
 「愛国心の表明は、その国のある人たちの、市民の自由や信教の自由を侵害するようなものになるかもしれません」。
 「時として、国旗に敬礼することが愛国心の表明として流行します」。
 記事は、国旗に敬礼し、国家を歌うことについての否定的な見解を表明し、この点でエホバの証人が世と一線を引くよう求めている。
 「(エホバの証人は)他の人が国旗敬礼をしているあいだ静かに立っていることにより、(国旗に)敬意を示しつつも(国旗崇拝に)参加していないことを明らかにします」。
 記事は、このようなエホバの証人の態度が反感を招いた場合についてこう述べている。
 「クリスチャンは、国旗敬礼や国歌斉唱に関して個人的な決定を下す際、聖書で訓練された良心に従い、平和的で敬意のこもった穏やかな態度を示すように努めます」。


セプトゥアギンタ訳聖書

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、ギリシャ語七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)を取り上げた記事を掲載した。
 記事は、聖書聖典とセプトゥアギンタとの関わりについて様々な事柄を紹介し、この聖書の価値を示している。


ルシファーとは

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、聖書に出てくる「ルシファー」とは何かという質問を取り上げた。
 記事は、ルシファーを悪魔サタンに置き換える意見を退けた。ルシファーは、聖書自身に書かれているとおり、あくまでバビロニアの王朝を表している。


ダビデは何番目?

 「ものみの塔」誌2002年9月15日号は、聖書の中に、ダビデが7人目の息子であると述べる記述と、8人目であると述べる記述とがあるという問題について注解した。
 この記事の提出した答えによると、これはイスラエルの系図の表記の仕方に原因があるという。つまり、子孫をもうけず、財産の相続がなかった者は系図に記されないことがあるという。そのため、ダビデは8番目の息子であるが、系図上は7番目の息子であるという。


生物兵器

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、生物兵器の脅威を取り上げた特集記事を掲載した。


エウロポリス海峡

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、エウロポリス海峡を取り上げた教育記事を掲載した。


バニラ

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、バニラビーンズとバニラを取り上げた教育記事を掲載した。


琥珀

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、琥珀を取り上げた教育記事を掲載した。


愛してくれない親を持つ子供たち

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、親に愛されない子供たちを理解し、助ける記事を掲載した。
 記事は、そのような子供たちが取ることのできる行動、守るべき指針を述べ、人生のハンディギャップを背負った子供たちが立派に成長できるよう助けている。


バマコの織物

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、マリの首都バマコで、織物を仕上げるのに使われる“きぬた”を紹介する教育記事を掲載した。


森林火災

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、森林火災の害と益について述べる教育記事を掲載した。


アルゼンチンでストレスが急増

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、アルゼンチンの通貨暴落の後、ストレスのために病院通いになる人が急増していると報告した。


夫はどうか

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、「読者の声」の中で、別居について同誌が述べた事柄に対する読者からの反論を掲載した。
 読者は、別居に関する聖書の記述について、「妻は家を出ていけるが、夫はとどまらなければいけない」と読める、と指摘した。しかし、同誌はその意見を退け、「妻に当てはまる事柄は夫にも当てはまると考えるのは道理にかなっている」と答えている。


ホタルの光

 「目ざめよ!」誌2002年9月22日号は、ホタルの光の仕組みを取り上げた小記事を掲載した。


慰め

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、問題の多い現代社会において、聖書からの慰めが果たす役割に注意を向けた特集記事を掲載した。
 「世界には、戦争、テロ、苦しみ、犯罪、病気があふれています。聖書は、このような状況を正確に予告していました。聖書は、ニュース報道からは得られない展望を与えています」。
 「聖書は、神が現代の悲惨な状況をどうご覧になっているかを説明しています。それらの問題を是認しておられるのでも、いつまでも容認するつもりなのでもありません」。
 しかし記事は、全ての人が聖書を信じているわけではないことを指摘した。キリスト教の神学者達でさえそうだという。
 「神の愛と憐れみに関する聖書の記述を読んで、次のような疑問に悩まされる人たちがいます。神が災いを除き去ることを願っておられ、そうする方法をご存じで、そうする力を持っておられるのであれば、依然として至るところで災いが起きているのはなぜかという疑問です。その人たちは、(1)神は全能である、(2)神は愛があり、善良である、(3)痛ましい出来事が依然として生じている、という三つの点が同時に成り立つとは思えないのです。そして、最後の点が間違いなく真実なのだから、残る二つのうち少なくとも一つは真実であり得ない、と考えます。つまり、神は災いを終わらせる能力がないか無関心であるかのどちらかだ、というわけです」。
 「ニューヨークの世界貿易センターが崩壊した何日か後、米国の著名な宗教指導者はこう述べました。「なぜ神は悲劇や苦しみをお許しになるのか、と……質問されたことが何百回もあります。正直に申し上げますと、わたしには見当もつきません。自分で納得のいく答えさえ出せないのです」。このコメントを聞いた神学教授は、この宗教指導者が説いた「健全な神学」に感銘を受けたと書きました。そして、「苦しみの不可解性は神の不可解性の一部である」と書いた学者の見解も支持しました」。
 一方、記事はこのように述べた。
 「宗教指導者たちの言葉とは対照的に、聖書は、神が災いを許しておられるのは不可解なことであるとは述べていません」。
 記事は、聖書から、なぜ神が悲劇を許しているのかを説明した後、救い主であるイエス・キリストに読者の注意を引き、こう述べている。
 「わたしたちには、人間の苦しみは一時的なものであるという、慰めとなるエホバの保証があります」。


王国会館にメダル

 フィンランド造園業組合は毎年、造園をテーマにした賞を発行しているが、「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、2001年の賞にエホバの証人の王国会館が選ばれたことを報告する小記事を掲載した。
 フィンランド造園業組合は新聞においてこのことを告知し、こう述べたという。
 「各地にあるエホバの証人の王国会館は、まず例外なく美しく設計されている。そばを通る人でその環境への配慮に感心しない人はいないだろう。ティククリラの王国会館は、全体的に見てすばらしい庭の一例である」。


若者と信仰

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、子供たちの健全な信仰をテーマとした記事を掲載した。
 「若い人たちは世で多くの問題に直面しています。確かに、神の言葉聖書には若い人のための優れた導きが収められています」。
 記事は、エホバの証人として立派な大人になった子供たちへのインタビューを掲載した。
 「圧力をかけられていると感じたことは一度もありません」。
 「開拓伝道者になるよう親から圧力をかけられたことは一度もありません」。
 子供が、圧力を受けてではなく、自ら進んで信仰の道を選ぶには、聖書を学び、その教えの価値を理解するようにさせる必要があると記事は説いている。
 「クリスチャンの集会の重要性を認識するのが難しいと感じる若者もいます。そうした若者は親に連れて行かれるので出席します。それでも集会に出席し続けるなら、やがて集会を大切に思うようになるかもしれません」。
 「エホバをなぜ愛しているのか、自分自身で確信している必要があります。そのためには、聖書の真理の『幅と深さ』を知らなくてはなりません。そのようにして初めて、エホバの言葉を慕う気持ちを抱くようになります」。
 インタビューに答えた一人の証人は、エホバの証人の子供たちの中には、信仰の選択を「ただ感情のままに」行った者もいると指摘した。
 「私の場合、両親はエホバへの献身を決定するように私に圧力をかけたりしませんでした。それは自分で決定することだからです」。


従順と保護

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、神への従順と、神からの保護とに焦点をあてた一連の研究記事を掲載した。
 「エホバは、従順を強く促すとはいえ、不完全な人間の限界もよくご存じです。求めておられるのは、誠実な心です。そして、信仰と愛に基づく、また神の不興を被ることへの健全な恐れに基づく従順です」。
 「周囲の邪悪な環境と、聖書の律法や原則に逆らうその精神とは、良いたよりに従いにくい状況を生じさせています」。
 「聖書は、神に挑むこの精神を、「世の霊」と述べています。(古代)クリスチャンはその不従順の霊に奴隷のままではいませんでした。それどころか、神の霊に服し、その豊かで健全な実を刈り取ることにより、神の従順な子供となりました。同様に今日でも、神の霊の助けで幾百万という人々がエホバに従順になり、その結果として、希望に対する全き信仰を終わりまで保つことができます」。
 記事は、最後にこう述べている。
 「真のクリスチャンは、どんな環境、どんな状況にあっても、引き続き従順さを示してエホバの心を喜ばせてゆきます」。


フィリップ・S・ホフマンの手記

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、ギレアデ聖書学校を卒業し、宣教者ならびに地帯監督として働いた、フィリップ・S・ホフマンによる手記を掲載した。
 彼は、ヨーロッパと地中海沿岸地域で地帯監督として奉仕し、また、デンマーク、ドイツ、ノルウェーで伝道者として奉仕した。また、アメリカの本部や各国の支部でも働いた。
 彼は、ドイツでの3年半のうちに受けた感銘について特にこう語っている。
 「1949年7月、私がドイツのウィースバーデンに着いた当時、ドイツの多くの都市はなお廃墟のままでした。伝道の業で指導の任に当たっていた人たちは、ヒトラーが政権を執った1933年以来迫害されてきた男子でした。中には、刑務所や強制収容所に何と8年ないし10年、あるいはそれ以上の期間拘留されていた人もいました。私はそのようなエホバの僕たちと一緒に3年半働きました。その比類のない模範について考えると、ドイツの歴史家ガブリエレ・ヨーナンの述べた次のような言葉が思い出されます。「国家社会主義政権の独裁支配下で示された、確固としたクリスチャンのこの集団の模範がなかったなら、アウシュビッツやホロコースト以後の我々が、イエスの述べたキリスト教の教えを果たして全うできたかどうかは疑わしい、と言わざるを得ない」」。
 子供が生まれた後、家族のために伝道活動を縮小した時期もあったが、それでも彼の奉仕は生涯を通して精力的なものだった。


クリスチャンと訓練

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、クリスチャンの信仰の訓練をテーマとした考察を掲載した。
 「神は、わたしたちを訓練するにあたって、個人個人の状況、能力、造り、限界を考慮に入れてくださいます。もしかしたらあなたは、深刻な健康上の問題のために、宣教奉仕の面で行なえることが限られているかもしれません。あるいは、自尊心を持てずに苦しんでおられるかもしれません。悪い習慣を絶とうと懸命に努力していたり、隣近所や職場や学校の仲間の圧力に立ち向かえないと感じておられたりするかもしれません。状況がどんなものであれ、エホバは、あなたの問題をほかのだれよりも、そうです、あなた自身よりもよく理解しておられることを決して忘れないようにしましょう。エホバに近づくなら、エホバは気遣いにあふれるトレーナーとしていつでもそばにいて助けてくださるのです」。
 「どのようにでしょうか。聖書や聖書に基づく出版物、会衆内の霊的な長老たち、また愛ある仲間の兄弟たちを通してです」。
 記事は、クリスチャンが自らを訓練して達成すべき事柄についてこう述べている。
 「真のクリスチャンは、世の物質主義的で不道徳な、汚れた生活様式を避けます。また、不敬虔で聖書に反する人格特性も脱ぎ捨て、代わりにキリストのような特質を身に着けなければなりません」。
 「自分の体を打ちたたき、奴隷として引いていくのです。それは、他の人たちに宣べ伝えておきながら、自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです」。
 記事は、クリスチャンが訓練の努力をゆるめるべきではないことを説き、結論としてにこう述べている。
 「偉大なトレーナーであるエホバは、わたしたちが忍耐して最終的に信仰の勝利を得るために必要な教えや助けを、愛情深く与えてくださいます。わたしたちは、信仰の戦いにおいて、自己鍛錬に励み、自制やひたむきな思いを培う必要があります。努力するなら、わたしたちは豊かに報われるでしょう」。


油を塗る

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、会衆の年長者が病気の者に「油を塗る」ことについて述べた、聖書のヤコブによる書5章13節から15節の意味を解説した。
 聖書は、クリスチャンの信仰の訓練を、運動選手のトレーニングになぞらえているが、一方、「油を塗る」という表現は、疲れたり体を痛めたりした運動選手に行うマッサージ療法を示しているようである。
 つまり、「油を塗る」とは、聖書に基づく助言や慰めを通して、クリスチャンの信仰の疲れや痛みを和らげることを意味しており、文脈に示されている祈りと協調してクリスチャンの信仰を回復させるという。


ゆったりすること

 「ものみの塔」誌2002年10月1日号は、しばしば「ゆったりする」と訳される聖書の言葉を取り上げた小記事を掲載した。
 記事は、こう述べている。
 「(新世界訳の箴言 1章32節でこの語は「安易さ」と訳されているが、)他の聖書翻訳では、原語のヘブライ語が、「軽はずみな気楽さ」(アメリカ標準訳)、「独りよがり」(新アメリカ聖書)、「自己満足」(新英訳聖書)といった表現に訳出されています」。
 「わたしたちは自己満足、軽はずみ、独りよがりなど、良くない意味でゆったりしないようにしたいものです」。


離婚と子供

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、離婚と子供の問題を取り上げた特集記事を掲載した。
 「子どもは、配慮や力づけが切実に必要な時に、親からの世話をじゅうぶんに受けられなくなるかもしれません」。
 「子ども自身も成長するにつれて、自分の生い立ちに関する疑問に思い悩み、いなくなった親から認められていないことで苦しむかもしれません」。
 このような問題にどのように対処できるだろうか。ひとつに、このように述べている。
 「子どもの出生には二人の親がいることを思い起こす必要があります。子どもは、自分の両方の親について知りたいと思うものですし、不幸にも間違って生まれてきたのではなく、望まれて生まれてきたのだと感じる必要があります。離れている親についても敬意を込めて話し、年齢に応じて子どもが把握でき、また知るべき事柄に答えることにより、愛されているという安心感を子どもに持たせることができます」。
 記事は、離婚後子供を預かってひとり親となった人に対する様々なアドバイスを述べている。
 記事は、片方の親がエホバの証人であり、もう片方がそうではない場合についても取り上げた。
 「それぞれ自分の宗教を実戦する双方の親の権利を尊重するように子どもを教えるべきです。やがて子どもは、宗教について自分で決定できるでしょう」。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、20問の聖書クイズを掲載した。


アイルランドの飢饉

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、アイルランドで1845年から1850年までに生じた大飢饉を取り上げた教育記事を掲載した。


信仰と考古学

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、信仰と考古学をテーマにした、批判的な考察を掲載した。
 記事は、考古学が信仰に与える良い影響を認めつつも、考古学に対する間違った熱意が見られていることに警告を発した。
 「エルサレムとその神殿は、イエスの預言どおり、西暦70年に滅ぼされました。考古学はその出来事に関する聖書の記録を裏付けています。しかし、クリスチャンの信仰は、(天にある)別のエルサレムを中心にしています」。
 記事は、クリスチャンが信仰の向ける先をわきまえるべきことを示している。


スリル

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、近年広がりを見せている、危険なスポーツを取り上げた考察を掲載した。
 記事は、「命をもてあそぶ」行為として、バンジージャンプ、スカイサーフィン、ベースジャンプなどのスポーツ、スタント行為、素人によるエベレスト登山など指摘した。
 「過激なスポーツが非常にエキサイティングなのは、大事故の可能性があるからです」。
 「ある心理学者は、21世紀の“見るスポーツ”と“するスポーツ”の主流となるのは、プレーヤーがしばしの間生死の境に身を置くような過激なスポーツであろう、と予測しています」。
 記事は、このような行為についてこう述べている。
 「クリスチャンは、命をエホバからの貴重な贈り物とみなしています。自分の怖いもの知らずの勇敢さ、つまり男らしさを実証したい、見物人を興奮させたい、恍惚感を味わいたいというだけの理由でわざわざ自分の命を危険にさらすとしたら、その人は事実上、神が与えてくださった命というすばらしい贈り物を軽んじていることになります。クリスチャンは、命に対する敬意を示さなければなりません」。


下水処理施設

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、下水処理施設の仕組みを紹介し、下水利用について読者の再考を促す教育記事を掲載した。


消費の偏り

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、2001年世界人口白書より、地球人口の20パーセントが財貨やサービスの86パーセントを消費していると報告した。


水銀温度計

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、ナショナル・ジオグラフィック誌からの引用し、「たった1個の体温計に含まれる水銀で11エーカー[約4.5ヘクタール]の湖が汚染されかねないというのに、破損した体温計から年間17トンもの水銀が米国の下水に流れ込んでいる」と指摘した。


編集者からの回答

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、「読者の声」欄での回答のスタイルを誉める内容の投稿を掲載した。
 「「読者の声」に時折載せられる、手紙に対する編集者の回答は称賛に値すると思います。当地の新聞の編集者は、たとえ新聞のほうが間違っている場合でも、投書した人に対して無愛想で、失礼で、皮肉たっぷりの返事をすることで知られています。「目ざめよ!」誌の編集者の回答には、雑誌の品位と読者への配慮が表れていて、気持ちよく読めます」。


読唇術

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、読唇術の価値について取り上げた小記事を掲載した。
 記事は、興味深い点として、このような事例を紹介している。
 「クリスティナはテレビでサッカーを見なくなりました。選手が言っていることを幾らか読み取れるため、気分を害されることが多かったからです」。


創造論の本

 「目ざめよ!」誌2002年10月8日号は、ものみの塔聖書冊子協会から発行された、「あなたのことを気遣う創造者がおられますか」の本に対し、ロシアのある教師から送られた感謝状を紹介した。
 教師はこう述べている。
 「その本を見て、情報量の多さに感心しました。天文学の教師である以上、宇宙の始まりに関して様々な説があることを子供たちに話す務めがあります。このような本が出されたことを大変うれしく思います」。


地域大会の復習

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、「王国を熱心にふれ告げる人々」地域大会の内容を復習するための質問集を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「「王国を熱心にふれ告げる人々」地域大会では、難しい問題の多い今の時代に立ち向かってゆくために必要な霊的励ましが与えられました。この際立った霊的備えからじゅうぶんに益を得るため、話された事柄を思い出し、受け取ったものに感謝し、学んだ事柄を適用するよう力を尽くして励みたいものです」。


開拓奉仕

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、開拓伝道がどのような祝福をもたらすかというテーマを扱った講話の筋書きを掲載した。


学校とエホバの証人の子供たち

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、学校でエホバの証人の子供であることを気恥ずかしく思う子供たちに注意を向け、親ができる事柄を指導するプログラムの筋書きを掲載した。


特別一日大会の復習

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、昨年度に開催された特別一日大会の復習のための質問集を掲載した。


神権宣教学校予定

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、綴じ込みとして、「2003年の神権宣教学校予定」を同封した。


新しい出版物

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、ものみの塔協会から発行された、「唯一まことの神を崇拝する」、ならびに「エホバに近づきなさい」と題する書籍の出荷が始まったことを告知した。


カセットテープ

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会より「満足のいく生活―どうすれば実現できますか」と題する小冊子の朗読カセットテープが発行されたと告知した。


手話ビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会より、「幸せな家庭を築く秘訣」の手話ビデオテープ、第1巻および第2巻が発行されたと告知した。


ものみの塔出版物索引

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、ものみの塔聖書冊子協会が、まもなく、「ものみの塔出版物索引 1986-2000」の生産にかかると告知し、予約を勧めた。


伝道に喜びを

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、喜びの伴った聖書伝道をテーマにした記事を掲載した。


群れの監督の役割

 「わたしたちの王国宣教」2002年10月号は、群れ(エホバの証人は会衆を“群れ”に分けている)の監督の役割を指導する記事を掲載した。
 「会衆の(群れごとの)書籍研究は、各人の霊的な成長に対してより個人的な注意を払うことを可能にするために設けられています。これは、エホバの愛ある親切と、その民に対する優しい配慮を反映するものです」。
 記事は、群れの監督がどのようにその役割を果たすことができるかを指導している。


悪魔と戦う

 「ものみの塔」誌2002年10月15日号は、悪魔をテーマとした、一連の研究記事を含む特集記事を掲載した。
 「ユダヤ教(旧約聖書)では、神の敵対者また罪をもたらした者としてサタンが簡潔に提示されていましたが、その見方は幾世紀も後に異教の考えに汚されるようになりました。……「西暦前の最後の数世紀までに大きな変化が生じていた。その期間中に、ユダヤの宗教は、天と地において神および善と真理の勢力が悪と欺瞞の強大な勢力と対立しているという二元論の多くの特徴を帯びるようになった。ペルシャの宗教の影響を受けてそうなったようである」」。
 キリスト教についてはどうだろうか。
 「中世には、不可解な病気、突然の死、凶作など、異常と思えるあらゆる事柄の背後にサタンがいるとされました。悪魔や悪霊たちが人に乗りうつることがあるという信条はすぐに集団的妄想を生み、呪術や魔術に対するヒステリックな恐れが生じました。13世紀から17世紀にかけて、魔女に対する恐れがヨーロッパ全土に広がり、ヨーロッパからの入植者によって北米にも伝えられました。有罪とされた人は、火あぶりによる死刑を、あるいはイングランドやスコットランドでは絞首刑を宣告されかねませんでした。サタンがこの中世の悲劇の背後にいたとするなら、その手先となったのはだれでしたか。犠牲になった人たちでしょうか。それとも宗教上の狂信的な迫害者たちでしょうか」。
 「18世紀には、啓蒙思想と呼ばれる合理主義的な思想が花開き、悪魔という存在をクリスチャンの意識の中から押し出そうとしました。……今日、多くのクリスチャンが世の中の悪を悪魔のせいにしたがりません」。
 一方、記事は、悪魔に対する正しい認識を持つよう読者を教えている。
 記事は、悪魔が「人の思いを腐敗させ、思考をゆがめさせる」力の持ち主であると鋭く指摘し、悪魔の実態についての誤解と偏見とを打破した。
 では、具体的にどのようにして悪魔は人の思いを腐敗させるのだろうか。
 「西暦一、二世紀に生きたクリスチャンは、ローマ帝国の最盛期にいました。支配者たちは、大衆の反乱を防ぐため、人々が娯楽をたっぷり持てるようにしました」。
 「当時の余暇活動はたいていの場合、真のクリスチャンにとって霊的および道徳的な危険をはらんでいました。劇場で上演されるものは、甚だしく不道徳か、むごたらしく暴力的なものでした。女の役者は衣服をすっかり脱ぐことも許されました。円形闘技場で、剣闘士同士は死ぬまで戦いました。すでにそのような早い時期から、サタンのたくらみ、ないし手口は、不道徳や暴力に対する人々の嫌悪感を鈍らせ、ついにはそれをごく普通のものとして、民衆に追い求めさせることでした」。
 「有名なローマの浴場は、男にも女にも開放され、そこで人々は裸になって享楽をほしいままにしました。こうしてサタンは、公認の慣習を難なく利用してクリスチャンを捕らえるわなとすることができました」。
 「何世紀も経た今も、サタンのたくらみはおおむね変わっていません。多くの先進国における今日の状況は、ローマ帝国の全盛期に広く見られたものと似ています」。
 そこで記事は、読者がサタンのたくらみに抵抗し、戦うことを勧めた。そして、こう諭している。
 「悪魔に立ち向かうだけでは十分ではありません。わたしたちは同時に、何と言っても、気遣ってくださる方である神に服さなければなりません」。
 「サタンは憎しみを抱いて人を詮索しますが、エホバは愛をもって顧みてくださいます。エホバは、わたしたちの過ちや失敗を一つ一つ拾い出そうとうかがっておられるのではありません。全き心でエホバに近づくなら、その目はわたしたちの上に注がれます。わたしたちを罪に定めるためではなく、その努力に目を留めて、助けと許しを求める祈りに答えるためです」。
 「人はみなイエスのもとに来て、贖いの犠牲に信仰を抱くべきです。生まれながら罪人で、神から疎外されているからです。人は神と和解する必要があります」。
 「もちろんエホバは、ご自分のもとに来るように人を強制したりはされません。わたしたちはエホバを求め、模索してほんとうに見いだすように務めなければなりません」。
 記事は最後にこう述べている。
 「ですから、わたしたちすべては、悪魔とそのずるがしこい行為にしっかりと立ち向かうと共に、わたしたちの深く愛する神エホバを常に求めましょう」。


旧ユーゴスラビア

 「ものみの塔」誌2002年10月15日号は、旧ユーゴスラビアにおけるエホバの証人の活動を報告する記事を掲載した。
 1991年から1995年にかけての戦争は、証人たちの信仰を厳しく試みるものとなったという。また、その後の経済状態は、現在に至るまで非常に悪いものであるという。
 とはいえ、旧ユーゴスラビアの証人たちの数は順調に増え、喜びも増し加わっていると記事は報告している。
 特筆すべき出来事として、新世界訳聖書の訳業が、クロアチア語、マケドニア語、セルビア語の三チーム共同体制で行われた。1999年に新世界訳聖書の分冊が発行されたが、それは他の翻訳との合本となっているという。


海外移住者の子供たち

 「ものみの塔」誌2002年10月15日号は、海外に移住した親と子の意志疎通の問題に焦点をあてた、実際的な記事を掲載した。
 「親にとってなじみのない土地で子どもが成長するにつれ、言語の問題が原因となって、簡単には埋まらないコミュニケーション・ギャップが生じることがあります。子どもは親が話す単語を理解するかもしれませんが、もし話されている事柄が心に達しなければ、子どもは家庭内で部外者のようになってしまうかもしれません」。
 記事は、このような問題に対処するため親に何ができるかをはっきりと示し、その解決策を示している。


他の宗教団体の建物

 エホバの証人は信仰合同に否定的であることで知られているが、エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年10月15日号において、他の宗教団体から建物などを購入することについての大まかなアドバイスを発表した。
 記事において統治体は、他宗教からの建物の購入が教理上問題とはならないことを認めつつも、実際にそうする場合には「会衆全体の良心」の同意が必要であると指摘している。


ねたみ

 「ものみの塔」誌2002年10月15日号は、聖書に出てくる「ねたみ」を取り上げた論考を掲載した。
 聖書に出てくる「ねたみ」という語は、意味が広いため、様々な語に訳されるという。またそれは、「用法によって良い意味合いにも悪い意味合いにもなる」という。
 記事は、聖書からねたみという語が出てくる場面をいくつか選び、ねたみの善し悪しを論じている。


若くして賢くなる

 「ものみの塔」誌2002年10月15日号は、若いうちに賢い生き方をするよう勧める小記事を掲載した。
 「人類の大多数は、人生の最初のころを、悲惨な晩年を迎えるために費やしている」。
 「優柔不断な若者は物事を決めかねて、不満と後悔を経験するかもしれません」。
 「わがままな若者は愚かな道を歩み続け、喜びのない晩年を過ごすことになるかもしれません」。
 「すべきことをしなかった場合にも、してはいけないことをした場合にも、悲惨な結果を招きます」。
 記事はさらにこのように読者を諭している。
 「聖書は、若いときに、いや幾つになっても、怠慢であったり反抗的であったりして敬虔な知恵を退けるなら、つらい結果を刈り取ることを、はっきり示しています」。


祈りと平和

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、カトリックのローマ法王によって2002年1月24日にイタリアのアッシジで開催された、平和を求める宗教集会を批判する特集記事を掲載した。
 記事は、世界の諸宗教には祈りよりも行動が求められていると指摘し、こう述べている。
 「少なくともキリスト教の諸宗派には、手の届くところに神聖な教えがあります。それに従えば、戦争に伴う罪科を負わずに済んだはずです。キリスト教世界の諸宗派がその言葉を行動の指針としていたなら、政治権力と結びつくことなどなく、軍隊や戦争を是認したり祝福したりはしなかったでしょう」。


ツェッペリン飛行船

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、ツェッペリン型飛行船を取り上げた教育記事を掲載した。


コガタペンギン

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、オーストラリアのコガタペンギン(フェアリーペンギン、コビトペンギン)を取り上げた教育記事を掲載した。


子供と携帯電話

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、携帯電話がほしいと思っている子供たちへのアドバイスを掲載した。
 記事は、携帯電話の利用に「限度を設ける」ことの必要性を説き、また、外で携帯電話を用いる際にはよくマナーを守るよう勧めている。


デニスとマークの再会劇

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、アメリカのミシガン大学の寮でルームメイトだったデニスとマークが、ドミニカ共和国で再会したという興味深い話を掲載した。


ボルテッラ

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、ボルテッラの雪花石こう彫刻を取り上げた教育記事を掲載した。


子供と暗闇

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、今の子供たちには暗闇を怖がる傾向があると指摘した。原因として、最近の子供たちが、照明のない完全な暗闇を経験しなくなったことが挙げられるという。


増えるアルコール依存

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、英国では現在13人に1人がアルコール依存症であると報じた。


教師より

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、同誌2002年3月8日号に掲載された、学校の教師の役割をテーマとした特集記事に対する一教師の声を掲載した。
 この教師はこのように述べている。
 「最近よく目について気がかりなのは、善悪の違いを知らない傾向が子どもたちに見られることです。また子どもたちが、自分の責任に気づかないうちから、自分の権利のことはよく知っているという場合も、教師にとっては問題となります。それでも、教えることは報いの多い仕事です」。


小さなミスで大惨事

 「目ざめよ!」誌2002年10月22日号は、小さなミスが大惨事につながった二つの事例を紹介する 小記事を掲載した。


謝ることは大切

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、謝ることの大切さを説く特集記事を掲載した。
 記事は、「多くの人が謝らなくなっている」と指摘し、そのいくつかの理由を挙げた。
 「他の人の感情に配慮を払わないことは、ある人たちが謝罪を控える理由かもしれません」。
 「生じうる結果を考えるために、申し訳ない、と言うのをためらう人もいます」。
 記事は、読者に対してこのように勧めた。
 「わたしたちは、プライドを制御したり謝ったり許しを求めたりできないほど、誇り高い者となってはなりません。心から謙遜な人にとって、謝るのはそれほど難しいことではありません」。
 誤解や過剰反応のために謝らなければならない場合はどうだろうか。
 「問題は、どちらが正しくどちらが間違っているかということより、和解するためにどちらが率先するかということです。どちらが正しくどちらが間違っているかを証明することよりも、平和な関係の方が重要なのです。この原則を思いに留めておくなら、間違いを犯したと誰かからみなされている場合に、その間違いを謝罪しやすくなります」。
 さらに記事はこのように指摘した。
 「日本では、謝る際に使われる典型的な表現である「すみません」という言葉を、非常によく耳にします。それは感謝の意を表わす時にも使われ、示された好意に報いることができない気まずさを暗示します。「すみません」という言い方の多面性ゆえに、ある人はその言葉が使われすぎると感じ、その表現を用いる人の誠実さを疑うことがあります」。
 「謝罪するときには誠実さが必要です。謝る時には、謝罪が謝罪を意味するようにしてください。誠実な謝罪には、同じ間違いを繰り返すまいという決意が伴っていなければなりません」。
 「もしわたしたちが誠実であるなら、謝罪には、どんな間違いをも認め、許しを求め、可能な限り損害を埋め合わせるよう努力することが含まれるでしょう」。


王国会館の一般公開

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、エホバの証人の教会施設である王国会館の一般公開の取り決めを取り上げた小記事を掲載した。
 「エホバの証人の会衆の集会は一般に公開されていますが、中には偏見があるために、王国会館に入るのをしり込みする人たちもいます」。
 このような人たちも、一般公開日の取り決めを設けるなら訪れるかもしれない。記事は、このようにして人々が王国会館を訪れて誤解や偏見が取り除かれた事例を紹介している。


立派な人となる

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、クリスチャンが立派な人となるべきことを説く研究記事を掲載した。
 記事は始めに、エホバの証人のことを賞賛するアメリカの新聞記事を紹介した。
 「3年にわたって、私は、アマリロ市民センターで開かれたエホバの証人の年ごとの大会に出席した。そこに集っていたのは、私がこれまでに接した中で最も清潔で、行儀が良く、服装も慎み深い、温厚な人々だった」。
 エホバの証人がそのような賞賛を得たのはなぜだろうか。記事はこのように指摘した。
 「神の民は良い行状のゆえに賞賛されます。一般の基準が低下していても、エホバの証人は、高い基準にしたがって行動することを自分たちの務め、つまり崇拝の一部とみなします」。
 では、クリスチャンはどのようにして立派な者となるだろうか。記事は始めに、読者が家庭において立派な者となるべきことを説いた。
 「今日、家族は多くの(道徳上の)危険からの保護を必要としています。親に不従順な子供や、自然の情愛を持たないあるいは自制心のない大人がいます。このすべては聖書が『世の霊』と呼ぶものの破壊的な影響の結果です。わたしたちはその霊から自分の家族を保護しなければなりません」。
 また記事は、クリスチャンが会衆において立派な者となるべきことを説いた。記事は特に愛が示されるべきことを強調し、こう述べた。
 「聖書を研究し、クリスチャンの集会に出席し、絶えず神に祈るとき、たとえ『大半の者の愛が冷えた』世で生活していても、愛はごく自然なものになります」。
 次いで記事は、世(社会)においてクリスチャンが立派な者となるべきことを説いた。
 「わたしたちはクリスチャンとして、模範的であるように努めます。学校では、よく勉強します。職場では、たとえ雇い主が道理をわきまえていないように思えても、勤勉に働き、正直であるようにします。同じ信仰で結ばれていない家庭の場合、信者である夫もしくは妻は、クリスチャンの原則(夫は妻を愛し、妻は夫に従うという原則)に従うよう特に努力します。(信仰が異なるため)そうするのは必ずしも容易ではありませんが、わたしたちの模範的な行状はエホバに喜ばれ、エホバの証人でない人たちによい影響を及ぼします」。
 記事はさらに、クリスチャンが自分の自由を誤用すべきでないこと、すべての人に敬意を払うべきことを説いている。


世のものではない

 聖書には「クリスチャンは世のものではない」という抽象的な表現がある。「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、この言葉の意味を具体的に論じる研究記事を掲載した。
 記事は、「世のものではない」という言葉をこのように説明している。
 「戦争、犯罪、残虐行為、虐待、不正直、不道徳などは、今日あらゆるところに広く見られ、世界が神の影響ではなく、サタンの影響下にあることの証拠となっています。だれでもエホバの証人になると、そのような誤った行動にはくみせず、同調もしなくなります。そのために、世のものではなくなります」。
 記事は、さらに詳しく、いくつかの場面におけるこの言葉の意味を論じている。


ヘルマン・ブルーダーの手記

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、ヘルマン・ブルーダーによる「私たちは任命地にとどまりました」と題する手記を掲載した。
 「幼いころ、軍楽隊が郷里の大通りを行進するのを見ていた思い出があります。にぎやかな行進曲に誘われて駅まで楽士たちに付いて行くと、軍服に身を固めた父や他の人たちが列車に乗り込むところでした。列車が出発すると、幾人かの女性がプラットホームで泣き崩れました。その後まもなく、司教は教会で長い説教を行ない、祖国を守るために死んだ4人の人の名前を読み上げ、「今、これらの人は天にいます」と言いました。私のそばに立っていた一人の女性は気を失って倒れてしまいました」。
 「父は、ロシアの戦線で兵役に就いていたときに腸チフスにかかりました。そして非常に衰弱して家に戻り、すくさま近くの病院に担ぎ込まれました。例の司祭は私に、「墓地の横の礼拝堂に行き、主の祈りを50回、アベマリアを50回唱えなさい。そうすればお父さんは良くなります」と勧めました。私はその勧めに従いましたが、父は翌日亡くなりました。戦争は、幼い子供にとっても、非常につらい出来事でした」。
 彼は大人になってエホバの証人となった。そして妻と共にブラジルへ宣教者として旅立つこととなった。
 彼はブラジルに行く途中、モロッコで警察に拘束されてしまった。
 「私たちの監房は、暗くて、人がいっぱいでした。床に穴を空けただけの共同トイレは、いつも詰まっていました。寝床の代わりに汚い袋を一枚ずつ渡され、夜はネズミにふくらはぎをかじられました。食べ物は一日2回、さびた缶に入れて出されました」。
 彼の妻は釈放され、彼は捕虜収容所に送られることとなった。スイス領事は彼女に、スイスに帰るよう勧めたが、彼女はそれを拒否し、とどまったという。
 釈放後、ようやくブラジルに着いたが、そこでわずか2時間聖書伝道を行っただけで彼は逮捕されてしまったという。
 永久ビザがすぐに手に入らなかったため、国外退去を命じられる可能性があったが、ねばり強くあることによって、彼は永久ビザを手にし、こうして任命地にとどまったという。
 彼は妻と共に現在もブラジルにとどまっている。彼は最後にこう締めくくっている。
 「ヨーロッパの家族の元に帰ってしまう機会も何度かありました。しかし、私たちがエホバからいただいた任命地は、ここブラジルです。任命地にとどまることができて本当にうれしく思っています」。


崇拝と資産

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、神を崇拝するために有形無形の資産がどのように用いられるかを取り上げた記事を掲載した。
 「事情の許す人たちは、愛に動かされて快適な我が家を後にし、助けの必要な人たちを援助するために他の土地へ移転します。それら自発的な奉仕者たちは、行く先によっては快適でない生活環境に置かれるかもしれませんが、ひるむことなく、そこでの真の崇拝の促進を支援し、クリスチャン兄弟たちと相並んで使えます」。
 「わたしたちの大半は他の土地に移転することができません。ですから、自宅の近くで真の崇拝を支持します」。
 記事は、活動のための金銭的な必要についても言及した。
 「自発的に与えたいと思う人は資力に応じて与えることができます。わずかな収入しかないクリスチャンが少額の寄付しか行なえないとしても、その寄付はエホバの目に価値があるのです」。
 「エホバの証人の統治体はこの機会に、心に促されてそのように自発的に与えてくださったすすべての方に深い感謝をお伝えいたします」。


賭け事

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、少額であれば賭け事は許されるかという問いに答える記事を掲載した。
 記事は、少額であっても賭けをするなら害があることを指摘し、こう述べている。
 「今の世の中には、すでに(道徳上の)わなや誘惑があふれているのですから、どうして不必要に別のわなや誘惑に身をさらしてよいでしょうか。自分自身の、そして友人や家族の霊性(道徳的資質)を気遣う賢明なクリスチャンは、賭ける金額がたとえわずかであるとしても、賭け事の習慣を避けます」。


誉めることは大切

 「ものみの塔」誌2002年11月1日号は、人を誉めることの大切さを説き、「褒める機会を探すようにしましょう」と勧める小記事を掲載した。


エイズ

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、エイズを取り上げた特集記事を掲載した。
 「(エイズが発見された1981年以来)20年間でエイズは史上最大の流行病になりましたが、今後も広がってゆく見通しです」。
 元南アフリカ大統領ネルソン・マンデラ氏は、第13回国際エイズ会議にてこのように訴えたという。
 「南アフリカ国内で若者の二人に一人がエイズで死ぬことになると知って、私たちはがく然としました」。
 「(アメリカでは)若い男性同性愛者のHIV感染率は12.3パーセントでした」。
 記事は、エイズのもたらした深刻な問題と共に、その原因となっているもの、またHIV感染者に対する差別などを取り上げている。


アナグマ

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、アナグマを取り上げた教育記事を掲載した。


クレイジー・ホース記念像

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、クレイジー・ホース記念像を取り上げた教育記事を掲載した。


オルガンからシンセサイザーまで

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、オルガンやクラビコード、ピアノやシンセサイザーなど、鍵盤楽器の種類と歴史を取り上げた教育記事を掲載した。


ニーラコンゴ山の大噴火

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、ニーラコンゴ山の噴火と人々の避難、復興を取り上げた体験記を掲載した。


神と人の弱さ

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、「神は人の弱さを見過ごされるか」というテーマを取り上げた論考を掲載した。
 「イエスは人間の持つ弱さについて優しい理解を示し、「霊(心や思い)ははやっても、肉体は弱い」と言いました」。
 「エホバ神はイエスと共に、人間に対して実に憐れみある見方をされます」。
 しかし記事は、神が人間の行動に責任を求めていることも指摘した。
 「神は人間に各自の行動の責任を求められます。神に仕えようとする人は、自分の霊性(精神性また道徳性)の弱い面を強化し、より良いクリスチャンにならなければなりません」。
 「不完全さを取り去ることはできないでしょう。不完全なため、しつこく続く弱さを経験することもあります。それでも、その弱さに任せてはなりません」。
 「誤った行為の言い訳としていつでも不完全さを持ち出すことを、神は許しておられません。エホバは、人が身を清めて、道徳的に正しい生き方をすることを望んでおられます」。
 最後に記事はこう述べている。
 「罪を習わしにする人は神の好意を受けることができません。いつでも弱さに屈するなら、神の好意を得ることができません。神はわたしたちの弱さを黙認されるわけではないのですから、わたしたちとしても、自分の弱さに目をつぶってはなりません」。


子供の兵士

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、子供を兵士として使うことを禁じる国際条約が2002年2月12日、96カ国の参加のもと施行されたと報じた。
 記事によると、現在、推定50万人の子供が兵士となっているという。


薬に注意

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、老人の腎機能の低下は、服用している薬が数種類に及んでいるせいかもしれないと指摘した。
 さらに、精神症状やめまいなどの症状も複数の薬の服用によってもたらされることがあるが、単に年のせいと考えて見過ごされることが多いという。


レイヴとエクスタシー

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、レイヴと呼ばれるダンスパーティーに行く若者の10人に9人がエクスタシーという麻薬を使っていると報告した。


地震は増えているのか

 「目ざめよ!」誌2002年11月8日号は、終わりの日と地震の増加に関する教理上の問題を取り上げた同誌2002年3月22日号の記事に対する読者の質問に答えた。
 同誌は、終わりの日に地震が増えているのかという問いに対し、記事は「(増えているとする見方、増えていないとする見方の)どちらか一方を支持しているのではない」と答えている。


イエスについての福音

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、イエスについての良いたよりを人に伝えることの重要性を説く記事を掲載した。
 「救いはイエスによってのみ可能です」。
 「すべての人は、永遠の命という祝福を得るために、イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせなければなりません」。
 それゆえに、福音を広めることはクリスチャンにとって「重要な割り当て」であると記事は述べている。


書籍研究の監督

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、書籍研究の監督(もしくは群れの監督)に群れ(エホバの証人は会衆を“群れ”に分けている)の成員がどのように協力できるかを取り上げた記事を掲載した。


崇拝を支持する

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、“崇拝を支持する”ということについて考えるプログラムを実施するよう指示した。


全時間奉仕

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、各会衆の長老が、若いエホバの証人が全時間奉仕者(宣教者や開拓伝道者など)になることを勧める講話を行うよう指示した。


夫が果たす役割

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、信仰に関して、夫また父親が果たすべき役割に注意を引く記事を掲載した。


神権宣教学校の新しいカリキュラム

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、来年からカリキュラムが新しくなる神権宣教学校の概要を取り上げた記事を掲載した。


法人の会衆

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、宗教法人となっている会衆に対し、所轄庁に提出する書類をまとめるよう指示した。


点字の教科書

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、来年から神権宣教学校で用いられる教科書の点字版がものみの塔聖書冊子協会から発行されたと告知した。


地元の会衆に

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、所属会衆の越境の問題を取り上げた記事を掲載した。
 記事は、「事情はそれぞれ異なる」と前置きした上で、なるべく証人たちが地元の会衆に所属するよう勧めている。


ひとり親の子供に愛の手を

 「わたしたちの王国宣教」2002年11月号は、ひとり親の子供たちの世話を会衆全体で担うよう指導する記事を掲載した。


崇拝の場所

 「ものみの塔」誌2002年11月15日号は、崇拝の場所を持つことについて考える特集記事を掲載した。


クリスチャンの兄弟関係

 「ものみの塔」誌2002年11月15日号は、クリスチャンが互いに互いを必要としており、また一致して神に仕えるべきことを説く一連の研究記事を掲載した。
 記事はこのように読者を諭した。
 「会衆内のどの成員も、自分を他の人より上と見るべきではありませんが、だれにせよ、自分は重要でないと考えるべきでもありません。クリスチャンは互いを必要とします」。
 また、このようにも述べている。
 「わたしたちすべては、仲間のクリスチャンを強める助けとなるように努めるべきではないでしょうか。とりわけ、逆境にある人に援助の手を差し伸べましょう」。
 「(とりわけ長老は)是非とも自分から進んで、また優しい態度で行なうように励んでください」。
 さらに、記事はクリスチャンの一致に読者の注意を引いた。
 「クリスチャン会衆の中では、不公平、派閥、人を偏り見ることなどが一切あってはなりません」。
 「(人種や民族の違いが)会衆内で派閥を促進するなら、神の霊の導きに逆らって行動していることになるでしょう」。
 「神は公平にも、イエスの贖いの犠牲を、富んだ人のためにも貧しい人のためにも備えられたのです。ですから、エホバを喜ばせ、肩を並べて仕えようとするのであれば、人を偏り見てはならず、自らの益のために人物を賞賛してはなりません」。
 さらに記事は、不平不満を述べる精神に警告を発した。
 「つぶやきとは、何かの間違いについて単に苦情を述べることではありません。執ようにつぶやく人は、自分の気持ちや立場を重視しすぎており、神よりも自分自身に注意を引こうとしています。もし自分を抑えないなら、そのことで霊的な兄弟たちとの間に争論を生み、肩を並べてエホバに仕えようとする努力を妨げることになります。そう言えるのは、つぶやく人は決まって不平や不満を唱えるからです。おそらく他の人の共感を得ようとしてのことでしょう」。
 不平や不満が度を超すと、極端な状況が生じることもある。記事はこのように述べている。
 「例えば、会衆におけるある長老のプログラムの扱い方や務めの果たし方を(過度に)批判する人がいるかもしれません。不平を言う人に耳を傾けるなら、その人と同じ考え方をするようになる可能性があります。不満の種が自分の思いにまかれるまでは、その長老の行動は気にならなかったのに、今では気になります。そのうち、その長老のすることはどれも自分の目に正しく見えなくなり、自分もその長老について不平を述べはじめる可能性があります」。
 一方で記事はこのように長老を訓戒した。
 「長老たちは、正当な苦情もしくは訴えに耳を閉じることがあってはなりません。また、長老たちは仲間の崇拝者を批判するのではなく、むしろ励まし、築き上げるべきです」。
 さらに記事は、仲間の信者を中傷すること、裁くことについても警告を発した。
 「そうした話は、悪意のあるもので、敬虔さにもとります」。
 「わたしたちは人を裁く傾向を避けるために真剣に努力しなければなりません」。
 「神がいかに憐れみ深いかをほんとうに認識しているなら、霊的な兄弟姉妹を裁く気にはならないでしょう。仲間の信者と肩を並べて共に神に仕えることを決意しているなら、単に人を裁かないだけでなく、むしろ仲間を敬う点で率先するでしょう」。
 最後に記事はこのように読者を励ましている。
 「クリスチャン会衆は、家族のような取り決めです。家族の成員すべてがエホバを崇拝するとき、愛のある、互いに助けになろうとする、快い雰囲気が醸し出されます。エホバとイエスはわたしたちを愛しておられます。ですからわたしたちは、一致した家族のように、どうしても互いに愛を示し合う必要があります」。
 「家族のようなクリスチャン会衆は、当然ながら忠節を期待できる場でもあります。ですから、人体の各部のように調和よく共に働くことを決意しましょう」。


価値のある生き方

 「ものみの塔」誌2002年11月15日号は、クリスチャンにとって価値のある生き方とは何かを論じる記事を掲載した。
 クリスチャンにとって価値のある生き方とは、「エホバのみ前で価値ある」生き方である。
 記事は、このように読者を説いている。
 「一日中忙しく動き回り、ペースの速い、活動に満ちた生活(世俗の事柄)に押し流されてしまうのはたやすいことです」。
 「聖書は「より重要な事柄を見きわめるように」と述べています。霊的(宗教的)な事柄を主要な関心事とするなら、生活は間違いなく報いの多い、充実したものとなります」。
 「(聖書の中で)パウロは、「何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめなさい」と諭しています。確かめることの中には、動機や心の願いを自己吟味することも含まれていなければなりません」。
 「霊的な事柄に対して無頓着な傾向に抵抗するのは本当に賢明なことです」。
 さらに記事は、「従順を学ぶ」よう、また「時間を賢明に用いる」よう読者に勧めている。


長老の果たす役割

 「ものみの塔」誌2002年11月15日号は、会衆の長老たちとその妻を賞賛する記事を掲載した。
 「エホバの民は、自分たちのために長老たちが行なう多くの事柄やその行ない方を感謝しています。骨折って働く、そうした長老たちが、世話を受ける人たちから大いに感謝されるのは、実際、少しも不思議なことではありません」。
 「エホバは愛ある牧者です。イエス・キリストも優れた霊的な牧者です。実際、聖書の中で「りっぱな羊飼い」、「偉大な牧者」、および「主要な牧者」と呼ばれています。イエスは、ご自分の弟子になりたいと思った人たちをどのように扱われましたか。次のような温かい招きの言葉を語られました。「すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい。そうすれば、わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう」。同様に、今日の長老たちも、羊の群れにさわやかさと保護を与える源になれるよう努力しています。そのような男子は、「風からの隠れ場、雨あらしからの隠れ場所、水のない地方における水の流れ、やせた地における重い大岩の陰のように」なります。そのような保護者たちはさわやかさをもたらし、羊の群れの敬意を得、また神の是認を得ます」。
 記事は、長老の感謝すべき働きの背後には、長老を支える忠節な妻の存在があることに読者の注意を引いた。
 「神の民はクリスチャンの長老たちに感謝しており、またその妻たちが愛情を込めて長老たちを支えていることをも感謝しています」。
 そこで記事は、支えとなっている妻たちのため、長老たちに一言助言を述べている。
 「長老たちは忙しいとはいえ、自分の妻や子供たちの霊的な面その他の必要を見過ごしてはなりません。長老たちは、聖書の中でクリスチャンの監督(つまり長老)に求められている敬虔な仕方で、自分の家族を顧みなければなりません。忙しい長老たちにとって、よく支えてくれる妻は、何と貴重な存在なのでしょう。長老たちは、心からの感謝の気持ちを言葉と行動とによって妻に示します。そうです。長老たちは愛を込めて妻を顧みることに喜びを見いだすのです」。


現代ギリシャ語聖書

 「ものみの塔」誌2002年11月15日号は、現代ギリシャ語(口語ギリシャ語)の聖書の翻訳の歴史を取り上げた教育記事を掲載した。
 新約聖書(ギリシャ語聖書)は今から2000年近く前にギリシャ語で書かれた。しかし、現代ギリシャ語は、当時のギリシャ語とは大きく変わっており、もはや聖書のギリシャ語は読めるものではなくなってしまった。
 ギリシャ語聖書の口語訳完訳の最初のものは、1630年に、コンスタンティノープル総主教キュリロス・ルーカリスの支援を得てギリシャ人修道士マクシムス・カリポリテスによって完成された。しかし、聖書の翻訳と普及に反対の立場をとる正教会はルーカリスを処刑し、この聖書の配布を禁止したという。
 「エルサレムの正教会会議は、聖書は「だれもが読んでよいものではなく、ふさわしい調査をした後に霊の奥深い事柄を見据えることのできる人だけが読むべきものである」と布告しました。これは、教育のある僧職者しか聖書を読んではならない、という意味でした」。
 1703年には、ギリシャ人修道士セラフィムが、マクシムス訳を改訳した。セラフィムは正教会によりシベリア流刑に処され、そこで死亡したという。
 また、正教会は繰り返し聖書狩りを行った、人々の隠し持っている聖書を探しては焼却したという。
 1831年から1850年にかけて、聖書学者ネオフュトス・バンバスが新しい口語ギリシャ語聖書を刊行した。バンバスは正教会から破門されたという。
 1900年には、ギリシャのオルガ女王がアテネ大主教・聖シノッド長プロコピオスの協力を得て新しい聖書を発行した。しかし、正教会がそれを認めなかったため、発行部数は限られたものだったという。
 1901年には大きな事件が生じた。
 「1901年、アテネ主要新聞のアクロポリス社は、英国のリバプールで働いていた翻訳者アレクサンドロス・パッレスが民衆口語(ディモティキ)のギリシャ語に訳したマタイ福音書を出版しました」。
 「正教会神学校の学生や教授はその訳を、「国民の最も価値ある遺産を愚弄するもの」、聖なる書物の冒涜と呼びました。コンスタンティノープル総主教ヨアキム3世は、その訳を非とする文書を公布しました」。
 「アテネ出版界の一有力機関は、パッレスの翻訳を攻撃し始め、それを支持する人たちを「無神論者」、「反逆者」、ギリシャ社会を揺るがそうとする「外国権力の手先」と呼びました」。
 「1901年11月5日から8日まで、ギリシャ正教会極右勢力の扇動により、アテネで学生たちが暴動を起こしました。学生たちはアクロポリス新聞社の事務所を襲撃し、王宮に向かってデモ行進し、アテネ大学を占拠し、政府の退陣を要求しました」。
 「翌日、王は大主教プロコピオスの退任を要求し、2日後には内閣も総辞職しました」。
 「これは、聖書の現代ギリシャ語訳の使用を以後一切禁止する口実となりました。まさに闇の時でした」。
 しかし、ついにその闇が払われる時が来た。
 「現代ギリシャ語訳の聖書を用いることに対する禁止令は、1924年に撤廃されました。以後、ギリシャ正教会は、聖書を大衆から離しておこうとする闘いで完全な敗北を喫しています」。
 また記事はこのようにも指摘した。
 「その一方エホバの証人は、ギリシャで聖書教育の先鋒を担ってきました。1905年以来、バンバス訳を用いて、聖書の真理に関する知識を得るように、ギリシャ語を話す幾千もの人々を助けてきました」。
 記事は最後に、今では現代口語ギリシャ語版新世界訳聖書を含めた30の翻訳が現代ギリシャ語で入手可能であると指摘している。


神への誓い

 聖書は、神への誓いを絶対的なものとしている。エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2002年11月15日号において、「神に対する誓約はどんな場合でも拘束力を持つか」という問いに関する見解を述べた。
 統治体は、「神への誓約はまじめに考えるべき事柄です」と強調しつつも、例外と思える状況もあると指摘した。
 「ある事柄を行なうと誓約して、それが神のご意志に調和していないということが分かった場合、当然ながら、そのような誓約に拘束力はありません」。
 統治体は、「独身を保つことを神に誓約したものの、今はその点でジレンマに陥っている人」についても述べた。(注:エホバの証人の教理では、そもそも独身の誓約はできないことになっている)
 「その誓約を果たそうとするより、むしろ神の憐れみに自分を託して許しを請う方がよいのではないでしょうか」。
 統治体は、誓約をした後に、その誓約が思ったよりたいへんなものであることに気づいた場合についても述べた。それがたいへんだからという理由で誓いは撤回可能だろうか。
 「(そのような場合)誓約を果たさないなら、神の憤りを受けることになりかねません」。
 最後に統治体は、神や人への誓約の重要さを説き、それを軽く見ないよう勧めている。


文盲と戦う

 「ものみの塔」誌2002年11月15日号によると、モザンビークのシサノ大統領がエホバの証人の支部施設を訪れ、「家庭における道徳の向上や、識字プログラムによる成人教育の分野で同教団が払っている努力を一層強化するよう、激励した」という。
 支部施設で行った大統領の講演はラジオでも流されたという。
 モザンビークのエホバの証人は国内に850の識字クラスを設け、一般人を対象に毎週およそ5万件の聖書講習を行っている。


クローンはどうか

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、幹細胞の利用と倫理の問題を取り上げた特集記事を掲載した。
 幹細胞の利用は、骨髄移植からクローンの生産まで、様々な可能性を持っている。記事は、胚性幹細胞、胚性生殖細胞、体性幹細胞、造血幹細胞といった、種々の幹細胞とその利用、体細胞クローンの作り方まで、様々な技術を紹介し、それに伴う倫理の問題を扱っている。


仲間の圧力

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、“仲間の圧力”を取り上げた教育記事を掲載した。
 今、若い人は仲間からの非常に強い圧力にさらされている。にもかかわらず多くの若者たちが、「自分は仲間の圧力に左右されたりしない」と安易に思いこんでいると記事は鋭く指摘した。
 記事は、若い人が受ける仲間からの圧力がどのようなものかを、具体的な事例や社会学者の調査結果などを示しつつ論じ、若者たちに警告を発している。


アリクイ

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、ユルミ(オオアリクイ)を取り上げた教育記事を掲載した。


ベニサンゴ

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、ベニサンゴを取り上げた教育記事を掲載した。


ヒューストンの救援活動

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、米国テキサス州ヒューストンを襲った洪水災害におけるエホバの証人の救援活動を報告する記事を掲載した。
 2001年6月にヒューストンを襲った洪水災害は、大都市圏を襲った自然災害として最悪の部類に入る。この災害を受けて実施されたエホバの証人の救援活動も、エホバの証人が行ったものの中でも大きな規模となった。
 救援活動には1万1700名ものエホバの証人が参加した。救援委員会はすべての情報をデータベース化し、活動を効率的に管理したという。
 「マウスをクリックするだけで、データベースから、1万1000人の奉仕者がいつ働けるか、どんな技術を持っているか、連絡を取るにはどうすればよいかが分かります。また、修復状況や必要な建築許可など、被災家屋に関する詳細もクリック一つで表示されます」。
 これらのボランティアたちを裏で支えたのが、専用に設置された給食センターである。
 記事は、この救援活動に対するヒューストン市市長リー・ブラウンのコメントを紹介している。
 「皆さんは、神がお命じになったことを行なうべきだと確信しておられます。そして、その信念通りに行動しておられます……皆さんのなさったことをヒューストン市民全員に見てもらいたいですね。非常に感銘を受けました」。


砕氷船

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、砕氷船の歴史と機能を紹介する教育記事を掲載した。


冒涜的な言葉が増加している

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、アメリカにおいて、1989年から1999年までの間にテレビで使われる冒涜表現が500パーセント以上も増え、それに伴って若者たちの感覚の麻痺が生じていると報告した。


もつれを解くマリア像

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、ブラジルで「もつれを解く聖母マリア」とされるマリアの絵が人気を博していると報じた。


宇宙に福音?

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、バチカン天文台の学者たちが「神は、宇宙に存在する生物として地球の住人だけではなく、地球外生物もお造りになった」と結論したと報じた。
 それに伴ってバチカンでは、「イエス・キリストは他の惑星でも明らかにされたか」、「イエスキリストは他の惑星の住人も救ったか」といった問いが提起されているようである。


あと7分

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、原子科学者会報の“世の終わりの時計”が2分進み、午前零時の7分前になったと報じた。


スイス、国連に

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、スイスが中立国の立場を転換し、国連に加盟したと報じた。


目の新たな機能が発見される

 「目ざめよ!」誌2002年11月22日号は、人間の目に関する新しい発見があったと報じた。
 これまで、目は桿状体(かんじょうたい)によって光の強弱を関知し、錐状体(すいじょうたい)によって色を感知するとされ、それ以上は知られていなかった。
 しかし、光を感知する第三のセンサーが目の中にあることが発見された。これは、ゆるやかな光の変化のみに反応し、瞳孔の大きさを調整したり、体内時計を調節する役割を担っているという。


宗教とお金

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、宗教の活動資金をテーマとした特集記事を掲載した。
 キリスト教の教会が資金集めのためにしばしば実施する「十分の一税」について、記事は批判的な見解を示し、このように述べている。
 「聖書は、西暦33年のイエスの犠牲の死をもって、律法ならびに『什一(十分の一税)を徴収するおきて』が塗り消され、破棄されたとはっきり述べています」。
 「パウロは、特定の量や割合を明示するのではなく、各自収入に応じて幾らかの金額を取り分けておくことだけを提案しました。クリスチャン各人にとって、どれほど与えるかの決定は私的な事柄で『その心に決める』べきものでした」。
 「自分の限度を超えて与えるように勧められることは全くありませんでした」。
 記事は、模範的な寄付制度がどのようなものであるかを指摘し、このように述べている。
 「自発的にされる寄付は、望ましい結果を生み、資力の限られた人の負担を軽くします」。


スミス船長の系譜

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、タイタニック号の姉妹船であるルニック号の船長だったロバート・G・スミスが熱心なエホバの証人だったことを紹介する小記事を掲載した。
 今でもスミス氏の一族18人がエホバの証人として活動中であるという。


ヨシュアは信仰の模範

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、モーセの後継者としてりっぱに務めを果たした、ヨシュアの信仰の模範に読者の注意を引く記事を掲載した。


聖書の個人的な研究

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、クリスチャン一人一人が個人で聖書の研究に取り組むことの大切さを説く一連の研究記事を掲載した。
 「テレビ、ビデオ、コンピューターが広まっている現代において、ものを読むことは、廃れたわけではないにしても、あまり好まれなくなっています。エホバの証人の間では、決してそのようなことはないはずです」。
 「聖書を研究する務めはわたしたち各人にあります。決して日常に用事に忙殺され、あるいは気を奪われて、神の言葉をむとんちゃくに、さらにはあやふやな気持ちで扱うようになってはなりません」。
 また記事は、聖書を研究するにはよい動機が不可欠であることを鋭く指摘した。
 「どんな動機で個人研究をするべきでしょうか。他の人より優れていると見えるようにすることですか。勝った知識を人に示すことですか。いわば、歩く聖書辞典になることでしょうか。そうではありません。わたしたちの目標は、人をさわやかにするキリストの霊をもって歩み、語り、実践するクリスチャンとなることです」。
 また記事は、このようにも鋭く指摘している。
 「重要なのは、わたしたちが知識をどれほど高く評価しているかだけでなく、自分の言うことや行なうことをどれほどしっかり神の言葉で律しているか、という点です。このゆえにも、わたしたちは日ごとの聖書研究にいよいよ注意を払います。それは実りのない非実用的な神学ではありません」。
 補足的な点として、記事はエホバの証人の統治体の果たす役割についてこのように述べた。
 「(統治体を含む)奴隷級は(聖書の中で)「忠実で思慮深い」とされていますが、イエスは、奴隷級が不謬(間違いを犯さないこと)であると言われたわけではありません。彼らもやはり不完全なクリスチャンたちから成っています。最善の意図をもって事に当たっても、間違いをする場合はあります。それでも、エホバはその人たちを用いて、神の言葉と約束に対する信仰を築き上げる聖書研究用の手引き書を供給しておられます。それでも、研究プログラムの原典は聖書です」。


ディック・ウォルドロンの手記

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、オーストラリアで熱心に奉仕し、宣教者としてアフリカに渡った、ディック・ウォルドロンによる手記を掲載した。
 オーストラリアは兵役を拒否するエホバの証人に対する禁令を敷いていたため、エホバの証人が聖書伝道を行えば逮捕されたという。彼自身も兵役を拒否したために2度逮捕されたという。
 その後、彼はギレアデ聖書学校第19期を卒業し、南西アフリカ(現在のナミビア)に宣教者として渡った。
 「早速、キリスト教世界の僧職者たちは、わたしたち宣教者の業をどう思っているかを明らかにしました。6週間続けて日曜日ごとに、わたしたちに注意するようにと、説教壇から信徒たちに語ったのです。僧職者たちは、わたしたちが来てもドアを開けないようにまた混乱するので聖書を読ませたりしないように、と告げました。地元当局者も、僧職者に唆されたのか、わたしたちが共産主義者と結託しているのではないかと疑いました」。
 もう一つの問題に、アパルトヘイトがあった。人種が異なる人々には聖書伝道が困難だったのである。しかし、彼は政府に対し、黒人に対する聖書伝道の許可を繰り返し求め、ついに許可を得たという。
 最後に彼は、こう述べている。
 「オーストラリアで始まりナミビアに至る長年の奉仕を振り返る時、妻とわたしは深い満足感を覚えます」。


最後の審判の時には?

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、いわゆる最後の審判の時について、聖書が用いている表現について考察する記事を掲載した。
 聖書は、最後の審判の時に「海の砂のような数」の人々が滅ぼされると述べている。これは、滅ぼされる人々の数が天文学的なものになるという意味だろうか。
 記事はそのような疑問を否定した。それは「まだ知られていない不確定の数」を表しており、ある程度多いことが予想されるものの、途方もなく大きな数ではないだろうと結論している。


手を強める

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、聖書に出てくる、「手を強める」という表現の意味を解説する記事を掲載した。


過去に関する現実的な見方

 「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、過去に対して現実的な見方をすべきことを説く小記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「郷愁に駆られて過去に執着し、順応性を失い、現在の状況に適応できなくなるとすれば、その見方には害があると言えます」。


飛行機は不安?

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、飛行機に乗ることに対する不安をテーマとした特集記事を掲載した。
 2001年9月11日に起こったテロにより、飛行機に乗ることに対する人々の恐怖感はあおられている。記事は、飛行機の安全性に関する事実を指摘し、読者の過剰な不安を和らげるものとなっている。


子供のスポーツと親

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、子供のスポーツと暴力との関係を取り上げた啓発的な記事を掲載した。
 「競技場、バスケットボール・コート、スケートリンク、運動場などで、暴力が新たな広がりを見せているようです。それは、負けるくらいならけんかも辞さないという親やコーチによる暴力です」。
 「子どもに向かって金切り声で叫び、上手にやるよう圧力をかける親を見掛ける。また、親にあおられて試合中に乱暴な振る舞いをする子どもや、親に気まずい思いをさせられてマウンド上で泣きじゃくる子どもを見掛ける」。(ジュピター・テケスタ(フロリダ)体育協会会長ジェフリー・レスリー)
 「こうした恥ずべき行為をする大人がますます増えており、青少年のスポーツを汚し、楽しみに水を差し、数え切れないほど多くの子どもたちに醜いメッセージを送っている」。(全米青少年スポーツ連盟会長フレッド・エング)
 「かつて青少年のスポーツは、健全なスポーツマン精神を養うのに有効だった。しかし、今はそうではない。単なる試合以外の何ものでもなくなってしまった」。(青少年スポーツ心理学専門家ダレル・バーネット)
 記事はこのように指摘している。
 「この問題の根底には、自分の子どもが他の子どもをしのいで何が何でも勝つのを見たい、という一部の親の願望があるようです」。
 「子どものスポーツをストレスに満ちた活動に変え、子どもたちを罵詈雑言(ばりざつげん)にさらすことは、逆効果を招きますし、愛の欠けたことです」。
 「親たちは勝敗に対していつも健全な見方をするように心掛けましょう。親は何としても勝ってほしいと考える代わりに、子どもの楽しみと健康面での益を重視すべきでしょう」。


クリスマス

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、クリスマスについての批判的な考察を掲載した。
 「少しの時間を割いてこのテーマについて調べるなら、クリスマスは真のキリスト教に由来しないことが分かるでしょう」。
 記事はクリスマスの問題点を簡単に指摘し、こう述べている。
 「ここで取り上げられたような反論の余地のない証拠に照らして、エホバの証人はクリスマスの祝いに参加しません。エホバの証人は聖書に調和して、『わたしたちの神から見て清く、汚れのない崇拝の方式』を実践し、自分たちを「世から汚点のない状態に保つ」よう努めています」。


丹羽利明の手記

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、神風特攻隊の生き残りである丹羽利明(にわとしあき)による手記を掲載した。
 彼は神之池(こうのいけ)海軍航空隊の神雷(じんらい)特別攻撃隊員に選ばれ、その後、滋賀海軍航空隊へと配置換えとなった。しかし、出撃前に終戦を迎え、彼は生き残りとなったという。
 戦後、彼がエホバの証人となったその理由は、エホバの証人の徹底した平和主義にあったという。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、19問の聖書クイズを掲載した。
 クイズは、「イエスの忠実な11人の使徒たちは皆どの地方から来ましたか」、「死海は、聖書では何と呼ばれていますか」といったものとなっている。


バグパイプ

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、バグパイプを取り上げた教育記事を掲載した。


自然界のデザイン

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、自然界のデザインの美しさに注意を向けるよう勧める記事を掲載した。


エイズの広がり

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、ニュー・サイエンティスト誌より引用し、エイズの広がりがかつての黒死病(ペスト)のそれを上回っていると報告した。


トラウマ?

 「目ざめよ!」誌2002年12月8日号は、家庭問題によって子供が受ける心理的打撃が、親よりも少ないことが分かったと報告した。
 それは、「子どもは人々が思うよりずっと立ち直りが早い」からだという。


神の王国を知らせる

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、クリスチャンがイエス・キリストによる神の王国の支配について人々に伝えるべきことをテーマとした記事を掲載した。


年配の人たち

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、年配の人たちに感謝と気遣いを示すよう勧める記事を掲載した。


会衆の歴史

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、エホバの証人の各会衆が、自分たちの会衆の歴史を振り返るプログラムを行うよう指示した。


論題別研究法

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、エホバの証人の得意とする「論題別研究法」を外部の人に説明するための実演を行うよう指示した。


新しい手引き書を活用する

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、2002年に新たに発行された「唯一まことの神を崇拝する」の本を用いた聖書研究の取り決めについて説明するプログラムの筋書きを掲載した。


輸血拒否のために

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、ものみの塔協会が用意した筋書きに基づいて輸血拒否に関する講話を行い、証人たちに輸血拒否の法的書面の作成を勧めるよう指示した。


新しいビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、ものみの塔聖書冊子協会より、「輸血の代替医療―患者の必要と権利にこたえる」と題するビデオが刊行されたと告知した。


輸血のビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、ものみの塔聖書冊子協会によって発行されている、「無輸血―医療はその課題に取り組む」のビデオの内容を考慮するための質問集を掲載した。


聖書伝道の報告

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、エホバの証人各自が、聖書伝道の活動報告を正しく行うよう指導する記事を掲載した。


雑誌配布の提案

 「わたしたちの王国宣教」2002年12月号は、12月の雑誌配布に際して用いることのできる話題の例を掲載した。
 たとえば、このようなことを話題とすることができる。
 「あなたは、最近の暴力的な娯楽が子どもたちにどんな影響を与えているかについて、親が心配するのも当然だと思われますか」。
 「社会に必要な規制があることは感謝できますが、正当な権利まで脅かされるようなことがあると心配ですね」。


イエスの誕生

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、クリスマスシーズンに合わせ、イエスの誕生に焦点をあてた特集記事を掲載した。
 「イエスの誕生にまつわる出来事に興味をそそられる人は大勢います。その証拠に、クリスマスの時期になると世界の至る所で、キリスト降誕を描写した飾り物が数多く展示されたり、キリスト降誕劇が演じられたりします。イエスの誕生にまつわる出来事は確かに興味をそそりますが、それらは人を楽しませるために聖書に記されたわけではありません。むしろ、人を教え物事を正すために神の霊感のもとに記された、聖書全体の一部なのです」。
 「イエスの生まれた日付に関する議論のため、その日付よりもっと注目に値する事柄が脇に追いやられがちなのは残念なことです」。


神に近づき、神に近づいてもらう

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、クリスチャンが神に近づくべきことを説く一連の研究記事を掲載した。
 「人間が、自分たちは神と近しい(ちかしい)関係にあると唱えるのは珍しいことではありません。とはいえ、本当にそのような関係を持つには、ただそれについて語ったり標語を掲げたりするよりはるかに多くのことが求められます」。
 「神の奥深い事柄(聖書の知識)は、神学者や僧職者が議論するような無味乾燥な題目ではありません。愛ある父の思いと心に関する興味深い洞察を与える生き生きとした教義なのです」。
 記事は、神に近づくために知識を得ることに伴う危険を指摘し、読者に注意を促した。
 「より奥深い霊的な真理に関する知識の点で成長してゆくとき、知識に伴いがちな危険、つまり誇りに注意してください。誇りは、人を神から引き離すので危険です。エホバ神についての知識の面では、人は謙遜な態度を保つべきです。学ぶときにはいつも、エホバに近づく基礎としてその知識を用いましょう。決して、自分を他の人より高める手段として用いてはなりません」。
 「誇りのために思い上がるのではなく、エホバとその目的に関して学ぶ貴重な真理すべてによって天の父に対する愛を強めるべきです」。
 記事は、神に対する愛が単なる自意識のレベルにとどまっているにもかかわらず、救われた気分になっている人々に対する忠告を述べた。
 「確かに、神を愛すると唱えても実際にはそうしていない人が多くいます。中には、言葉どおり、心の中にわき上がる強い感情を抱いている人もいます。そうした感情は、正確な知識と調和しているなら良いものであり、褒められるべきものでもあります。しかし、そうした感情自体は、神に対する本当の愛とは別のものです。なぜでしょうか。神の言葉(聖書)が本当の愛をどのように定義しているかに注目してください。「そのおきてを守り行なうこと、これがすなわち神への愛です」。ですから、エホバに対する愛が純粋であるなら、それは必ず従順な行動という形で表明されるはずです」。
 記事はさらに、神に対する敬虔さを示すよう読者に勧めた。
 「敬虔な恐れを示すことは、エホバに対する愛を表明する優れた方法です。敬虔な恐れをもつ人は、霊的、道徳的、身体的に清くありたいと願います」。
 「エホバに対する愛の表明には、単に悪を避ける以上の、多くのことが含まれています。愛は正しいことを行なうようにも人を促します」。
 また、神に近づく者の信仰の質も重要である。
 「エホバに捧げるときには、喜んで(自ら進んで)そうするべきです。それは、かわいい子どもの小さな贈り物が親を喜ばせるのと同じです。そのようにして愛を表明するなら、エホバに近づくことができます」。
 「祈りは、心からの誠実な気持ちの発露であるべきです。流ちょうで整然としていなければならないというわけではありません」。
 「感謝をささげることを忘れてはなりません。そうするなら、より積極的な、感謝に満ちた見方をもって生活してゆけるようになります」。
 その後、記事は、神に近づく者に対し、神が近づいてくださることに読者の注意を引いた。
 神は、本当の意味で神に近づく者にのみ、その「健全な導き」を与え、「生活を豊かにする」と記事は指摘した。
 記事はこのように鋭く読者に問いかけた。
 「エホバはそれを、正直かつ謙遜にみ言葉を調べようとする人だけにお与えになります。そのような人は、世の基準からすれば無学な普通の人とみなされることも少なくないでしょう。一方、キリスト教世界の大勢の学者たちは、聖書に関する注釈書を数多く出版してきました。そうした参考図書は、歴史的な背景、ヘブライ語やギリシャ語の意味などを説明しています。では、そうした多くの学識によって、それら学者たちはまさに神についての知識を本当に見いだしていますか」。
 最後に記事は、神が近づいてくださるだけでなく、祝福してくださることについて述べた。
 「わたしたちが立場の低い人(社会的弱者)を扱う際に神の憐れみに見倣うなら、エホバはどうお感じになるでしょうか。わたしたちが見返りを期待せずに立場の低い人に何かを与える場合、エホバはそれをご自分に対する貸しとみなされます。そして、その借りを返すためにも恵みと祝福を与えると約束しておられます。それはエホバの心を動かすのです」。


シャファンの系図

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、聖書に出てくるシャファンとその家系に関する聖書の記録から、どれほど多くのことが学べるかを注解する興味深い論考を掲載した。


預言者フルダ

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、「エルサレム―考古学的来歴」と題する本より、女預言者フルダについての注解を引用し、解説した。
 「エレミヤ、それにおそらくナホムもゼパニヤも当時ユダに済んでおり、その全員が預言者であり、聖書筆者でもありました。しかし、ヨシア王の代表団は女預言者フルダのもとに行ったのです」。
 「この出来事で注目に値するのは、登場するのが男性か女性かという点に何ら注意が向けられていないことである。だれ一人として、男性だけで成る委員が女性のところに律法の巻物をもって行き、その性質について判断を仰ぐのは不適当だなどとは考えなかった。その女性が、それは主(エホバ)の言葉であると宣言した時、この件を見定める権威にだれも疑問を差しはさまなかった。古代イスラエルにおける女性の役割について調べる学者たちは、この出来事をたいてい見過ごしている」。


ギレアデ聖書学校の卒業式

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、2002年9月14日に執り行われた、ものみの塔ギレアデ聖書学校第113期卒業式の内容を報告する記事を掲載した。


家庭に愛を

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、家庭において愛情表現がうまくできない読者を励まし、変化を促す記事を掲載した。
 「確かに現代は、愛情に欠けた時代です。たとえ愛情があっても、家族内で互いにそれを表現し合うことはめったにないかもしれません」。
 「今日、わが子に対して愛や愛情を表現する仕方が分からない親は、少なくありません。愛情の欠けた家庭環境の中で育ったため、愛情を感じたり表現したりしさえすれば生活はもっと幸福で快いものになりうる、ということに気づかない親もいます」。
 記事は、そのような人たちに対して様々なアドバイスを述べた。
 「わたしたちには、愛情を感じたり表現したりする潜在能力があります。とはいえ、その能力は自動的に発揮されるわけではありません。愛情を表現するには、まず自分が配偶者や子どもたちに愛情を感じなければなりません」。
 「愛情を家族の他の成員に感じ取ってもらうためには、愛情を伝えるよう意識的に努力しなければなりません」。
 「妻への賞賛の言葉を述べる父親は、息子のりっぱな手本になります。息子に、結婚したら惜しみなく配偶者を褒めるように勧めていることになるのです」。
 「親が子どもを褒めるのも良いことです。そうすれば、子どもは自尊心を持てるようになります。結局のところ、自分自身の価値を認めていないなら、どうして隣人を自分自身のように愛することができるでしょうか」。
 記事は興味深い仕方で締めくくられている。
 「ある夫は、妻に対して愛情を表現するように励まされ、ついに勇気を奮い起こして、「愛してるよ」と言いました。そして、妻の反応にびっくりしました。妻は喜びの涙を目に浮かべ、こう言ったのです。「わたしもあなたを愛しているわ。でも、あなたがこんなふうに言ってくれたのは25年ぶりよ」。あなたは、配偶者や子どもたちに対する愛情を表現することを何年も先に延ばさないでください」。


過去の記事を振り返る

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、最近同誌に載せられた記事の内容を振り返る記事を掲載した。


索引が掲載される

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、『2002年「ものみの塔」題目索引』を掲載した。


三博士の正体は?

 「ものみの塔」誌2002年12月15日号は、イエスが誕生した際にイエスのもとを訪れた三人の「博士」たちの正体について指摘する小記事を掲載した。
 従来の聖書翻訳(日本では口語訳聖書や新改訳聖書)がマタイによる福音書 2章1節で「博士」と訳している語は、実際には占星術者を表している。(新共同訳聖書や新世界訳聖書などの進んだ翻訳では対応済み)
 そこで、博士たちが星に導かれる記述は、彼らが占星術を行ってイエスのもとに達したことを意味していると記事は指摘している。


コンピューターゲーム

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、コンピューターゲームの害について考える特集記事を掲載した。
 「ゲームの中には、教育的で害のない娯楽とみなされているものもあります」。
 しかし、そうではないゲームの方が圧倒的に多い。
 「ゲームの中には、暴力、セックス、下品な言葉といった反社会的なテーマを呼び物にするものがある。困ったことに、それらのゲームが8歳から15歳までの子どもの間で特に人気を呼んでいるようだ」。(米国立メディアと家族研究所所長デービット・ウォルシュ)
 「様々な暴力の疑似体験は有害なのでしょうか。この点に関し、これまでに3,000件ほどの研究がなされています。多くの研究結果は、ゲームの暴力とプレーヤーの攻撃性増大には関係があることを示唆しています」。
 記事はゲーム中毒・目の疲れなどの他の問題も取り上げて、読者に注意を促している。


丸太回収

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、バンクーバーでの丸太回収業を取り上げた教育記事を掲載した。


マグナ・カルタ

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、イギリスにおいて1215年に発効し、米国の権利章典のもとともなっている、マグナ・カルタを取り上げた教育記事を掲載した。


アブロリョス

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、ブラジルのアブロリョス海域およびその国立海洋公園を取り上げた教育記事を掲載した。


ヤーン・バリの手記

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、スロバキアで迫害にさらされても忠実を保った、ヤーン・バリによる手記を掲載した。
 1939年に第二次世界大戦が起こると、エホバの証人は次々と逮捕され、殴打された。彼自身も、軍務を拒否したために危うく殴り殺されるところだったという。
 1948年には国が共産主義体制となり、新たな迫害が始まった。エホバの証人は政府転覆罪で繰り返し逮捕されたという。
 しかし、そのような迫害の日々を彼は耐え抜いたという。


ワシの目

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、ワシの目とフクロウの目を比較する教育記事を掲載した。


仲間の圧力

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、若者たちに向け、仲間からの圧力にどのように対処できるかを指導する記事を掲載した。
 「人は、自信や確信がないと、仲間の圧力にいっそう影響されやすくなります。非常に重要な点に関しても仲間の圧力の影響を受けることがあります。例えば、結婚前のセックス、麻薬の乱用、人生の目的などについてどう考えるかという点です。そうした点に関して“グループの基準”を受け入れてしまうなら、自分の将来に取り返しのつかない結果が生じかねません」。
 記事は、この問題に対処する方法をアドバイスした後、さらにこのように述べている。
 「マイナスに作用する仲間の圧力に対抗するためのもう一つの強力な武器は、プラスに作用する仲間の圧力です。友を賢明に選ぶなら、良い目標や正しい基準にしっかりと付くよう助けてもらえます」。
 さらに記事は、このように述べて読者を励ましている。
 「エホバに対する確信を築き、円熟したクリスチャンからの導きを求め、友を賢明に選ぶなら、あなたも必ず、仲間の圧力という難しい問題にしっかりと立ち向かうことができます。それだけでなく、あなた自身がプラスに作用する仲間の圧力を及ぼす側に加わり、命への道に一緒にとどまるよう友達を助けることができるのです」。


ヨーロッパの家庭内暴力

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、欧州委員会議員からの報告として、ヨーロッパでは女性の5人に1人が男性パートナーによる暴力を経験すると指摘した。


思春期が早くなる

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、子供たちの思春期が早まっていると指摘した。環境ホルモンなどが原因ではないかとされているという。
 「原因が何にせよ、性成熟が早まると、性的活動も早まりがちである」と記事は指摘している。


怒りと脳卒中

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、怒りっぽい人は脳卒中を起こしやすいと指摘した。


訂正記事

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、読者からの指摘を受け、同誌2002年4月22日号の記事の内容を訂正し、謝罪文を掲載した。


「目ざめよ!」誌索引

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、2002年の「目ざめよ!」誌の索引を掲載した。


イエスの伝記

 「目ざめよ!」誌2002年12月22日号は、ものみの塔聖書冊子協会が発行している、イエス・キリストの伝記を紹介する記事を掲載した。
 「本の出版にあたっては、イエスの地上での生涯中におきた出来事すべてを含めるよう努力が払われました」。
 「この本の特色は、イエスの感情やイエスと同時代の人々の感情が伝わるように描かれた、美しい、真に迫る挿し絵です」。
 「目ざめよ!」誌の読者はものみの塔聖書冊子協会に申し込んでこの本を受け取ることができる。


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