JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2003年版(1)
2003年6月1日更新

引用文は適宜語尾等を修正しています

エホバの証人の年鑑2003年版刊行される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会は、「エホバの証人の年鑑」2003年版を刊行した。
 この年鑑はエホバの証人の2002奉仕年度(9月から8月)の活動を報告するものとなっている。
 年鑑の報告によると、現在エホバの証人が活動している国とエリアは234、支部の数は109、会衆の数は9万4600である。
 さらに、聖書伝道者の数は2.8パーセント増加し、630万4645名に、費やされた聖書伝道の時間は12億238万1302時間(13万7258人年)となった。エホバの証人最大の祝祭であるキリストの死の記念式には1559万7746名が出席したという。
 昨奉仕年度も法律面での著しい成果が見られたと記事は報告している。
 これまでアルメニアでは、エホバの証人が宗教活動を行うことは刑事犯罪とされていた。しかし裁判所は2001年9月18日に、『エホバの証人の一人として宗教を教えることは犯罪ではない』との画期的な判決を下したという。
 また、グルジアにおけるエホバの証人に対する組織的暴行、また警察による活動妨害の問題については、ヨーロッパ人権裁判所において提訴が受理されているという。
 韓国では、良心的兵役拒否者であるエホバの証人は刑務所に入れられ、前科者として社会的に卑下されてきたが、2002年1月29日にこの問題が憲法裁判所に提出され、審理を受けているという。
 米国では、合衆国最高裁により、エホバの証人の聖書伝道者に届け出義務を負わせる地方条例が無効とされる判決が下された。
 輸血に関連しては、サウス・カロライナ最高裁判所で、代理人に関わる重要な判決が下された。その判決は、輸血を拒否するエホバの証人が意識不明なときに、エホバの証人でない両親が許可を与え、医師が輸血を行った場合、それは医療過誤となることが考えられるため、エホバの証人の患者には、「医療過誤を犯したかどうかを陪審に判定してもらう権利」が生じるとした。
 このところ、なぜか学者たちからも長年にわたり無視されてきた、エホバの証人の戦時下抵抗の業績が本来あるべき仕方で取り上げられるようになっている。その一つについて、年鑑はこのように報告している。
 「30年以上にわたり、ナチ強制収容所跡にあるブーヘンワルト記念館は、エホバの証人について何も言及しませんでした。今日でも、ドイツでは、不動の姿勢の点で証人たちが残した比類のない記録を認めにくく思う人が少なからずいます。ですから、2002年5月9日は特に意義深い日となりました。ブーヘンワルトで苦しみに遭った証人たちを記念する銘板が、ブーヘンワルトおよびミッテルバウ-ドーラ記念財団の副理事である、R・リュトゲナウ氏の手で除幕されたのです。記念の銘板には「わたしたちは、自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」という聖書の句が引用され、その後に、「信仰のゆえに迫害を受け、ここで苦しみに遭い、死んでいったエホバの証人たちをしのんで」という銘が刻まれています。ブーヘンワルトがナチスの収容所として使用されたほぼ全期間を通じて、常時300人から450の証人たちが収容されていました。そこでは少なくとも38人の証人たちが亡くなりました。「この銘板は、エホバの証人に関する事実が、今日の社会において知られ、認められていることを示すものである」とリュトゲナウ氏は述べました」。
 聖書の翻訳・刊行事業も順調に伸展している。現在、新世界訳聖書は44の言語で発刊されており、そのうちの29は全訳版である(残りは部分訳、もしくは聖書協会訳との合本)。
 特に、中国語版新世界訳聖書の評判はすこぶるよいものだという。
 エホバの証人は一般的な意味での慈善事業は行わないが、災害救援などと共に、識字事業には熱心に携わっている。
 モザンビークではシサノ大統領の支持のもとに、大々的な識字キャンペーンが行われているところだと年鑑は報告している。
 年鑑には他のトピックも紹介されている。例えば、インドではエホバの証人が製作した教育ビデオが一般のテレビで放映され、よい成果を上げているという。
 また年鑑は、ニカラグアとフィリピンにおけるエホバの証人の活動の歴史を掲載している。


「ものみの塔」誌の発行部数が更新される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「ものみの塔」誌は、2003年1月1日号において、同誌の平均発行部数を2414万7000部から2520万3000部に更新した。なお、「ものみの塔」誌の現在の発行言語数は146である。


神と苦しみ

 「ものみの塔」誌2003年1月1日号は、神と苦しみとをテーマにした特集記事を掲載した。
 神が存在しているのなら、なぜ苦しみが存在するのだろうか。記事はこのように問いかけている。
 「苦しみという現実に立ち向かわなければならない人は世界中に数え切れないほどいます。罪のない人が苦しむ場合も少なくありません。人類を悩ますむごい紛争がもたらす、胸の張り裂けるような悲しみについて考えてみてください。レイプ、児童虐待、ドメスティック・バイオレンスといった犯罪の被害者となるおびただしい数の人々が味わう苦痛はどうでしょうか」。
 「愛ある全能の神が人間の苦しみを許しておられるのはいったいなぜだろう、と思われるかもしれません」。
 「神は何らかの形で苦しみに荷担しているという主張や、神は苦しみを阻止できないとか、苦しみは単なる創造の産物であるなどといった主張は、苦しんでいる人にはほとんど慰めとなりません」。
 記事は、聖書から、苦しみと神の関係を説明し、苦しみに打ちひしがれている読者を慰めている。


目覚めている

 「ものみの塔」誌2003年1月1日号は、聖書にしばしば出てくる、「目ざめている」という表現の意味を総合的に解説する一連の研究記事を掲載した。
 記事はこのように述べて読者を励ましている。
 「今は手を緩めるべき時ではなく、「自分が持っているものをしっかり守り続ける」べき時です。祈りのために目をさまし、また信仰、希望、愛を培うことによって、試みの時に用意のできた者となれます」。


イレーネ・ホッホステンバッハの手記

 「ものみの塔」誌2003年1月1日号は、耳が聞こえない障害を持つ、イレーネ・ホッホステンバッハ(女性)による手記を掲載した。
 彼女は耳の障害のために対人恐怖症にかかってしまったが、神に対する信仰と信仰の仲間からの愛が支えとなった。
 「私はコレットとヘルミーネなら信頼できると感じました。二人はよく辛抱し、私の言うことを聴いてくれました。私がした失敗のことでよく一緒に笑いましたが、決して私をばかにしませんでしたし、私がそばにいることを恥ずかしがることもありませんでした。私の気持ちを理解しようと努め、私を対等の人として扱ってくれました。この親切な姉妹たちは私にすばらしい贈り物をくださいました。それは愛と友情です」。
 彼女は結婚したが、その夫が地域巡回の奉仕者となったため、対人恐怖を感じていたころとは全く逆の、人々との出会いを中心とした生き方を楽しむことができているという。


聖書を正しく扱う

 「ものみの塔」誌2003年1月1日号は、聖書を正しく扱うには文脈をよく考慮することが不可欠であることを示す記事を掲載した。
 記事は教材として聖書からテモテへの第二の手紙を取り上げ、文脈考察の手本を示している。


晩餐はいつ行うか

 「ものみの塔」誌2003年1月1日号は、読者からの質問に答え、キリストの死を記念する祝いの晩餐(いわゆるミサ)をいつ行うべきかという点を論じた。
 記事は、晩餐を「年に一度だけ行うのが適切です」と述べ、5つの理由を示した。
 「記念式と過ぎ越しとの関係は、イエスの死の記念式が年にただ一度執り行なわれるべきことを証拠づけています」。
 「イエスの犠牲は、年ごとの贖罪の日の犠牲に代わるものでしたから、その死の記念式を年ごとに執り行なうのはふさわしいことです」。
 「歴史家ヨハン・ロレンス・モスハイムは、2世紀の小アジアのクリスチャンに関して、イエスの死の記念式を「ユダヤの第一の月[ニサン]の14日に」執り行うのが習慣だった、と記しています。後代になって、キリスト教世界において年に一度より多い頻度で執り行なうことが通例となりました」。


「目ざめよ!」誌の発行部数が更新される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「目ざめよ!」誌は、2003年1月8日号において、同誌の平均発行部数を2115万3000部から2275万5000部に更新した。なお、「目ざめよ!」誌の現在の発行言語数は87である。


エホバの証人が米国最高裁判所で勝訴

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、エホバの証人が昨年米国最高裁判所で勝訴したことを報告する特集記事を掲載した。
 ことの発端は、米国オハイオ州ストラットンにおいて、村が、エホバの証人の聖書伝道活動を規制する条例を作ったことにある。これは、「私有地での望まれない商行為ないし勧誘行為に関する規制」と名づけられている。
 エホバの証人が行う聖書伝道はこの条例に適用されるべきだろうか。合衆国憲法にはこのように記されている。
 「連邦議会は、宗教の護持にかかわる法律、宗教の自由な活動を禁じる法律、言論または出版の自由を制約する法律、国民が平穏に集会する権利を制約する法律、国民が苦痛の救済を政府に請願する権利を制約する法律の、いずれをも作ってはならない」。
 裁判では、エホバの証人の伝道者が「訪問調査員や選挙運動員や行商人」ではないことが確認された。また、エホバの証人の聖書伝道活動に伴って地域の治安が乱される可能性のきわめて低いことが確認された。村側は「プライバシーを守る権利を保護するため」などの理由を主張したが、エホバの証人の聖書伝道を規制すべき法的根拠は見いだされなかった。
 結果として、2002年6月17日、最高裁判所は、政府や自治体がエホバの証人の聖書伝道を規制することはできないとする判決を下した。エホバの証人側の勝利である。
 一方、エホバの証人たちは、この勝訴がストラットンの人々に与える不快感を懸念しているという。
 エホバの証人の目的とするのは、聖書の教えを強引に押しつけることでも、人々を不愉快にさせることでもない。
 「わたしたちエホバの証人がストラットン村を最後に伝道したのは1998年3月7日のことです。4年以上前になります。わたしたちは、隣人と良い関係を保ちたいと思っています。訪問を望まない人がいれば、その決定を尊重します。わたしたちがこの訴訟を続けたのは、ストラットンの人々を敵に回すためではありません。ただ、憲法に基づく言論の自由を法的に確立したかったのです」。
 記事は最後にこう報告している。
 「「ものみの塔 対 ストラットン村」事件の結果は、広範な影響を及ぼしています。最高裁判所の判決を知った後、米国内の多くの自治体当局者は、もはや地元の条例でエホバの証人の福音宣明活動を阻むことはできないことを悟りました。これまでに、国内の90ほどの地域で戸別宣教に関連した問題が解決しています」。


妊娠中の危険を避ける

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、妊婦たちに向け、妊娠中に気をつけるべき事柄を列挙した記事を掲載した。


マーモット

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、イタリアのドロミッティに生息するマーモットを取り上げた教育記事を掲載した。


ホセ・ゴメスの手記

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、復讐心を克服してクリスチャンとなったホセ・ゴメスによる手記を掲載した。
 彼はジプシーの一族の出である。
 「父は粗暴な人でした。わたしは粗暴な気性で知られるようになりました。何度も逮捕されましたが、そのたびに神に助けを祈り求めました。自分のしていることは悪いことだと分かっていました。とはいえ、神を信じてはいても、振る舞いに対して何の効果もありませんでした。祈りさえすれば罪は許されると思っていたのです」。
 ある日、彼のおじと父とまたいとこは、ジプシー族同士の闘争により死んでしまった。彼は復讐心に燃えるようになった。しかし、刑務所で良心的兵役拒否者のエホバの証人と出会ったことが彼を変えるきっかけとなった。
 「わたしはエホバが愛ある父であることを知り、その方を喜ばせたいと思いました。キリスト教の原則を実践するのは易しいことではありませんでした。一番の難関は、復しゅうしたいという欲求をぬぐい去ることでした」。
 「エホバの証人のエリックは、武器を持ち、復しゅうの機会をねらいながら神との良い関係を築くことはできない、とはっきり言いました。ついに、わたしは武器を処分しました。そして1986年12月26日、エホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けました」。
 「おじの死のことを思い出すと今でもとてもつらくなります。おじを殺されたという記憶が引き金となって起きる強い感情と闘っています」。
 「ある日、おじを殺した犯人の親族にあたるペパに出会いました。でも、わたしは自分の感情を抑えました」。
 「ペパのバプテスマの日、わたしはペパを抱擁し、彼女がエホバに使える決心をしたことを祝いました。過去をすべて水に流し、ペパを霊的な姉妹として受け入れたのです」。
 彼は最後にこう語っている。
 「憎しみの束縛から逃れるのを助けていただいたことをエホバに感謝しない日はありません。エホバの憐れみがなかったなら、今ごろわたしはどこにいたでしょう。エホバのおかげで家族と幸福に暮らしています」。


携帯電話依存

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、今若者たちに広がっている携帯電話依存の問題に親たちの注意を引き、対処を促す記事を掲載した。


自動車の歴史

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、自動車の歴史を取り上げた教育記事を掲載した。


貧しさ

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、「クリスチャンは貧しくなければなりませんか」と題する論考を掲載した。
 記事は、聖書の神はクリスチャンに対し富のない禁欲の生活を送ることを求めているか、と問いかけた。そして、こう答えている。
 「聖書は富そのものを非としているわけではありませんが、金銭に対する愛は非としています。富裕なクリスチャンは『りっぱな業に富む』ことによって、そうした危険を避けるよう用心できます」。
 「クリスチャンが貧しい生活を送ることを要求されていないのは明らかです。だからといって、富もうと思い定めているべきではありません。クリスチャンはただ、程良い生活を送れるだけの収入を得るために一生懸命働くのです」。


有名人崇拝

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、有名人崇拝の実態を報告した。
 記事はこのように指摘している。
 「“有名人崇拝者”は自分の好きなアイドルの価値観やライフスタイルをまねる」。
 「そうしたアイドルは大抵、間違いを犯すことなどあり得ないなどとみなされる」。


イヌイット語の聖書

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、カナダ聖書協会からイヌイット語の聖書が発刊されたと告知した。


インターネットと夫婦の不和

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、インターネットが夫婦の不和の原因になっていると指摘した。
 不和の問題のうち、原因がインターネットである割合は10パーセントに及ぶようである。


切手と宗教

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、宗教によって問題となった切手二つを紹介した。


エホバの証人の絵が受賞

 「目ざめよ!」誌2003年1月8日号は、米国ホロコースト記念博物館で開催されたコンテストにおいて、エホバの証人が描いた絵が受賞したことを紹介する小記事を掲載した。


サタンと悪に関する論争

 「ものみの塔」誌2003年1月15日号は、世界情勢と悪、そしてサタンとの関係を考える特集記事を掲載した。
 「今世紀は、その最悪な状態からすれば、サタンの世紀であった」。(ニューヨークタイムズ紙)
 記事はこの世界がひどい状態にあることを指摘した後、このように述べている。
 「聖書は、善と悪の勢力の争いに関係する論争に光を当て、本当に勝利を収めてきた側を見極める手だてを明らかにしています」。
 記事は、聖書から悪魔と神との間にある争いを説明するものとなっている。


麻薬中毒と聖書

 「ものみの塔」誌2003年1月15日号は、聖書を学んで麻薬中毒と闘う力を得た、トニー(男性)の体験を紹介する記事を掲載した。


ほんとうの信仰

 「ものみの塔」誌2003年1月15日号は、本当の信仰を持つことに焦点をあてた一連の研究記事を掲載した。
 「強い信仰を保つには、「イエスを一心に見つめ」、イエスの手本に倣わなければなりません。また、不道徳を退け、肉の業(敵意や怒りなど)と闘い、物質主義や世の哲学(無神論など)、非聖書的な伝統などを避ける必要もあります」。
 記事は、信仰を持つことの利点をこのように指摘した。
 「わたしたちの生活は、問題でいっぱいです。それでも、神の言葉に対する信仰は、真に助けになります」。
 「神とみ言葉に対する信仰は霊的(精神的)な平和を促進します」。
 「信仰はまた、健康や体力が衰える、老年の「災いの日々」を生きてゆくことができるように人を支えます」。
 「信仰は、きわめて崇高な目標を抱かせるとともに、人生を報い豊かなものとします」。
 「信仰は、神への奉仕における難しい務めを果たす助けになりますが、それと共に、平和と平穏を促進する働きもします」。
 「わたしたちはまた、信仰によって逆境を忍耐できます」。
 では、人はどのように信仰を築き上げてゆくのだろうか。
 「神の言葉の中ですべてのクリスチャンのために定められている道を追い求めてゆくなら、信仰はいっそう強くなります。日ごとに聖書を読み、「忠実な家令」を通して備えられる出版物の助けで勤勉に聖書を研究すれば、信仰は増し加わります。また、クリスチャンの集会や大会にいつも出席すれば、互いの信仰によって励まされます。さらに、宣教奉仕で他の人に話すことによっても、信仰は強まります。愛あるクリスチャンの長老たちは、聖書から助言や励ましを与えることにより、信仰が強まるようにわたしたちを助けます」。
 記事はまた、信仰は特別なときに特別な方法で示されるという訳ではないことに読者の注意を引いた。むしろ、平凡な日常生活の中で絶えることなく示される日ごとの信仰が重要なのである。
 記事は最後に、このように述べて読者であるクリスチャンを励ましている。
 「わたしたちは個人として、いつ何を経験するか分かりませんが、どんな難しい事態にも信仰によって立ち向かうことができます。信仰は、勇気を持たせ、辛抱強くならせます。きわめて崇高な目標を抱かせ人生を報い豊かなものにします。信仰は、他の人との関係によい影響を与え、逆境に耐え抜きます。愛ある神エホバのうちに、またエホバの栄光となることを目ざしつつ、これからも強い信仰を働かせてゆきましょう」。


法廷での宣誓

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2003年1月15日号において、国によっては義務づけられている、法廷において聖書に手を置き、宣誓の言葉を述べる儀式の是非についての見解を述べた。
 「この件については、各自が個人的な決定を下さなければなりません」。
 記事は一言、このように付け加えている。
 「クリスチャンにとっては、宣誓の際に何かの身振りをすることよりも、自分が真実を語るという誓いを神のみ前で行っていることを銘記する方が重要です。クリスチャンは当然ながら、常に真実を語りたいと思っているからです」。


2002年の地域大会

 「ものみの塔」誌2003年1月15日号は、2002年に開催された、エホバの証人の「王国を熱心にふれ告げる人々」地域大会の内容を要約する記事を掲載した。
 大会では様々な教訓を得ることができたが、その内容はたとえばこのようである。
 「世の道徳の退廃はクリスチャンにも影響を与えかねないので、「心を守ることにより、貞潔さを保ちなさい」と題する話は出席者すべての益となりました。たとえば、貞潔である続けるなら、幸福な結婚生活を送ることができます」。
 この大会では、「唯一まことの神を崇拝する」、また「エホバに近づきなさい」と題する二冊の新しい書籍、さらに「若い皆さん―どのような人生を送りますか」と題する新しいパンフレットが発表され、出席者に無償で頒布された。
 また、エレミヤの信仰の生涯を題材にした聖書劇が上演されたと記事は報告している。


善良さ

 「ものみの塔」誌2003年1月15日号は、聖書の箴言12章を朗読し、善良さについて考える記事を掲載した。
 記事はこのように述べて読者を諭している。
 「エホバが善良な人、つまり特性の豊かな人のことを喜ばれるのは明らかです。善良な人の特性には、自己鍛錬、公平、謙遜、同情心、慎重といった特質が含まれます。そのような人の考えは義にそっており、その語るところは人を励まし、その行ないは公正で有益です」。
 「善良な人は、自分を向上させたいと強く願い、鍛錬や懲らしめを進んで求めます。クリスチャンの集会や個人的な会話の中で得られる諭しも、すぐに当てはめます。その人は知識を探し求め、それを用いて自分の道をまっすぐにします」。
 「一方、戒めを憎む人は、懲らしめも知識も愛していません。戒められることを不快に思う罪深い人間の傾向に屈し、道徳的識別力を欠いて道理をわきまえない動物、つまり獣と同じ水準に落ちてしまいます」。
 「善良な人は当然ながら、不義や不公正なことを行ないません。邪悪な人が得ているように見えるどんな成功もねたみません」。
 「善良な人は、考えそのものが道徳的に健全で、公平また公正な事柄に向けられています。義なる人の動機は神と隣人への愛に根ざしていて、その意図するところは善良です」。
 「一方、邪悪な人の動機は利己心から来ています。ですから、そのような人の謀りごと、目標を達成する方法は欺きに満ちています」。
 「識別力のある人は、むやみに口から言葉を発するようなことはしません。話す前に考え、人との平和な関係を保てます。識別力のある人は、愚かな、あるいは探りを入れる質問を受けても、自分の言葉を控えることができます」。
 「義なる人は自分の家畜をやさしく扱います。邪悪な人も家畜のことを気にかけているというかもしれませんが、その必要を顧みようと心を動かされることはありません。利己的な動機を抱いていて、ただ得られる利益に基づいて家畜を扱います」。
 「義なる人はペットを飼い始めても、放置したり、いじめたりして、不必要な苦しみを与えません」。


殉教したエホバの証人の記念碑

 「ものみの塔」誌2003年1月15日号は、ハンガリーのケルメンドで2002年3月7日に行われた、銘板の除幕式の様子を報告する小記事を掲載した。
 この銘板は、良心的兵役拒否者として処刑された3人のエホバの証人を記念して、消防本部の壁に取り付けられたものである。
 除幕式に際しては、ブダペストのホロコースト資料館館長サポチ・シータ教授、人権・少数派・宗教の問題を扱う議会委員会委員のラースロー・ドナード、郷土史家カルマン・コミャッチといった人々が講演を行い、最後にケルメンド市長ヨーゼフ・ホンフィによって除幕が行われたという。


「目ざめよ!」誌の発行言語数が減少

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「目ざめよ!」誌は、2003年1月22日号において、同誌の発行言語数を87から86に更新した。なお、「目ざめよ!」誌の現在の平均発行部数は2275万5000部である。


ハイテクがもたらす監視社会

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、ハイテクによってもたらされたプライバシーの危機を取り上げた特集記事を掲載した。
 人々は、エシュロンやカーボーニーといった高度なネットワーク監視システムから町中の監視カメラに至るまで、実に様々な方法で観察、監視されるようになっている。
 それはなぜだろうか、それは犯罪の防止や、犯人の検挙のためである。
 「各国政府や法執行機関は、犯罪や世界規模のテロが急増する今日の状況をふまえ、自国民を保護するにはプライバシーの壁を破らなければならない、と考えるようになっています」。
 記事は、この問題を広範に取り上げた後、それらとは全く異なる性質を持つ“創造者の観察の目”に読者の注意を引いた。
 政府組織とは異なり、神は人類のことを深く気遣う気持ちから人々を観察しておられる。しかも神は、「すべての心を探り、すべての考えの傾向をわきまえている」という。
 記事はこのように述べている。
 「わたしたちの創造者には、人のプライベートな事柄すべてを知る権利があります。しかし、人間にそのような権利はありません」。


カンニング

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、学校に通う生徒たちに、カンニングを避けるよう教える記事を掲載した。
 記事の指摘によると、アメリカでは成績優秀者の80パーセントがカンニングを行っていることが判明している。このことがどのような問題をもたらしているだろうか。
 「大抵の親は、子どもが学業にまじめに取り組むことを望みます。しかし残念ながら、多くの若者はカンニング行為によって正直さを失っています」。
 「カンニングする人はあとで、良心のかしゃくを感じたり、友達の信頼を失ったり、勉強しないために学習能力が伸びなかったりするかもしれません。この種の欺きを繰り返せば、体のあちこちに転移するガンのように、生活の他の領域にも影響が及び、最も大切にしている関係が損なわれることもあります」。
 「カンニングに頼る人は自分をだましているに過ぎません」。
 記事はこのように生徒たちを諭している。
 「自分が学校にいる理由を忘れないことです」。
 「学ぶ課程を省略してカンニングするなら、新しい事柄を学んだり、知識を実際に活用したりする能力は伸びません。真の理解は努力なしには決して得られないのです」。
 「正直さに関する高い基準を固守し、カンニングをせず自分の信条を曲げないなら、得られた良い成績は真に価値あるものとなります」。


フラミンゴ

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、アフリカの大地溝帯に生育するフラミンゴを取り上げた教育記事を掲載した。


睡眠と記憶

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、睡眠をとることがが記憶力を良くし、感情的にも安定をもたらすことを指摘する小記事を掲載した。


トトラの船

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、南米のアイマラ族の作る葦船を取り上げた教育記事を掲載した。


 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、様々な海の貝を取り上げた教育記事を掲載した。


光害防止法

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、チェコ共和国で、世界で始めて光害防止法が施行されたと報じた。


たばこが再び広がる

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、イギリスにおいて、たばこの消費量が再び上昇に転じていると報じた。


ほほえみ

 「目ざめよ!」誌2003年1月22日号は、ほほえむことによる益を紹介し、ほほえみを「きわめて価値ある贈り物」として推奨する小記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「ほほえみは当人を元気づけ、体の健康にも良い、といわれています」。
 「ほほえむとよい、もう一つの重要な理由は、それが他の人に好ましい影響を及ぼすことにあります」。
 「温かなほほえみを示されると、緊張がほぐれ、失意や試みとなる状況に対処しやすくなります」。


働く喜び

 「ものみの塔」誌2003年2月1日号は、働くことをテーマにした特集記事を掲載した。
 記事は、働きすぎることと働かないこととについてこのように述べた。
 「あまりにも根を詰めて、または長時間働くことは、実際には逆効果であり、わたしたちに最大の幸福をもたらすもの、つまり家族や友人との関係、霊性、健康、さらには寿命をさえ損ないかねません」。
 「怠惰は、自尊心や、他の人がわたしたちに対して抱いているかもしれない敬意を損なうだけでなく、さらに悪いことに、わたしたちと神との関係をむしばみます。聖書は、働こうとしない人は他の人に養ってもらうに値しない、と率直に述べています」。
 そこで、必要なのは『平衡の取れた健全な見方』である。
 「今日の急速に変化してゆく職場で、仕事に対する平衡の取れた健全な見方を培うのは試みとなることがあります。しかし、エホバ神はご自分の愛ある導きに留意する人を祝福してくださいます」。
 さらに記事は、仕事に関して親が子供たちのために何をすべきかを論じた。
 「良い仕事の習慣は、自然に身につくものではありません。人生の早い時期に学ぶものです。賢明な親は、自分自身が働き手としてよい手本を示すことに加え、幼い子どもに年齢に応じた家の仕事を与えて訓練し始めます」。
 「誠実な親は、子どもの学校教育にも鋭い関心を示し、在学中に学んで一生懸命努力するよう子どもを励まします」。
 記事はさらに、聖書から、「何をしていても、人にではなくエホバに対するように魂を込めてそれに携わりなさい」という言葉を引用し、読者が「この優れた原則に支配された職業倫理を持つ人」となるよう励ましている。


りっぱな実を生み出す信仰

 「ものみの塔」誌2003年2月1日号は、りっぱな実を生み出す信仰をテーマにした特集記事を掲載した。
 記事は、読者がひとりひとり自分を調べ、「神の言葉が自分のうちにとどまっていることを確かめる」よう求めた。それには、たとえば「岩のような障害物が自分の心に埋まっていないか確かめる」ことが含まれているという。
 記事はこのように読者を諭している。
 「根深い苦々しさ、潜在的な利己心など、凝り固まった秘められた感情が障害となっていないでしょうか」。
 「聖書を読み、読んだ点を熟考することを決して怠ってはなりません」。
 自分の信仰を調べ、強めることにとどまるべきではない。他の人の信仰を支え、強める助けにもなるべきである。
 「神の言葉は、霊的に弱い人や、クリスチャン会衆と接しなくなった人たちに愛を差し伸べるよう命じています」。
 「エホバとイエスのように、わたしたちも、クリスチャン会衆からいなくなった弱い人たちを深く気遣っています。どのように気遣いを示せるでしょうか。自分のほうから積極的に行動し、優しく、真剣であることによって示せます」。
 「弱い人に助けを差し伸べることは、すべてのクリスチャンが担うべき務めです」。
 「弱い人を援助することは、すべての人に祝福をもたらします。援助を受ける人は、真の友と再び共になるという幸福を味わいます。わたしたちは、与えることによってのみ得られる心からの喜びを経験します。会衆も、各成員が他の人に愛ある関心を示すので、全体としていっそう温かな雰囲気が醸し出されます。そして何よりも、思いやりのある羊飼いエホバとイエスに誉れがもたらされます。弱い人たちを支えたいというお二方の気持ちを、地上の僕たちが反映するからです」。
 記事はさらに、そうして築かれた信仰がどのように信仰の実を生み出すかを論じ、読者を諭した。
 「クリスチャンは自分の状況の許す範囲で弟子としての活動における成長を目指さなければなりません。決して自己満足に陥ってはなりません。実を結ぶ点で進歩できる分野を探すべきなのです」。
 「自制、兄弟の愛情、愛といった特質を培うことは、わたしたちが無活動になったり、実を結ばなくなったりするのを阻んでくれます。ですから、愛、親切、温和といったキリストのような特質をいっそう十分に示すよう努力しましょう」。
 記事は、少し話題を変え、クリスチャンの生み出す実には別の種類のものがあるということを指摘した。
 「(イエスの話した種まき人と実のたとえについて)この場合の実は、新しい弟子でも、りっぱなクリスチャンの特質でもありません。この場合、実を結ぶことは、王国(いわゆる天国のこと)に関する事柄を言い表すことを指しています」。
 この実については、多くを生み出すことが大切であるというわけではないと記事は論じ、このように読者を励ました。
 「わたしたちが行なえる事柄は、他の人より多いかもしれず、少ないかもしれません。しかし、それが最善を尽くした結果であれば、エホバは喜んでくださいます。高齢や病弱のために思うように伝道に参加できないとしても、同情心に富む父エホバはわたしたちを『多くの実を結び続ける』者とみなしてくださるはずです」。


ブラジルからの報告

 「ものみの塔」誌2003年2月1日号は、ブラジルにおける聴覚障害者の活動を紹介する記事を掲載した。
 記事によると、現在ブラジルには、手話会衆が30、手話の群れ(通常、エホバの証人の会衆は「群れ」に分けられているが、この場合の「群れ」は会衆に属さない例外的なものである)が154あり、聖書伝道者が2500名所属しているという。


ペリクレス・ヤノリスの手記

 「ものみの塔」誌2003年2月1日号は、ギリシャにおいて、クリスチャンとしての信仰のゆえに厳しい迫害にあったものの、信仰を守り抜いた、ペリクレス・ヤノリスによる手記を掲載した。
 「私はギリシャ正教会の少年聖歌隊に入っていて、司祭になることが夢でした」。
 「1929年に警察隊に入り、アトス山の警察隊に転勤させてもらいました。付近に、正教会のクリスチャンから“聖なる山”と崇められている修道院がある地域です。そこで4年間勤務し、修道院生活を間近で観察しました。私は、神に近づくというよりはむしろ、修道士のあからさまな不道徳と腐敗にがく然とさせられました。敬意を払っていた修道院長から不道徳な誘いを受けたときには、うんざりしました。このように幻滅はしたものの、それでも神に仕え、将来は司祭になりたいとまじめに考えていました」。
 やがて、彼はエホバの証人に関心を持つようになった。
 「地元の主教は、この“異端”を自分の区域から締め出そうと心に決めていました。主教に扇動された警察は、さまざまな言いがかりをつけてしょっちゅう証人たちを拘留し、法廷に引きずり出しました」。
 「予期していたことですが、偽りの宗教(ギリシャ正教会のこと)から離れるという私の決定は、妻やその家族からの反対を引き起こし、私はのけ者扱いされました。義父はしばらく口もきいてくれませんでした」。
 「ギリシャでは、その後まもなく内戦が始まり、ゲリラグループが互いに憎しみの火花を散らしました。主教はその状況を利用して、証人たちをふさわしく始末するよう現地のゲリラをしかけました。そのゲリラグループがバスでわたしたちの村に向かっていた時、そのバスに乗り合わせた好意的な婦人が、彼らの“神命を受けた”行動計画を小耳に挟み、わたしたちに知らせてくれました。それでわたしたちは身を隠すことができたのです。また、親族の一人が中に入ってくれたので、何とか命拾いしました」。
 「これを皮切りに、さらに苦しい事態が起こりました。殴打や脅迫は日常茶飯となりました。反対者たちは何が何でもわたしたちを教会に連れ戻し、子供たちに洗礼を施し、十字を切らせようとしました。あるときなどは、死んだと思うほど弟を打ちたたきました。二人の妹が服を破られ、打ちたたかれるのを見たときは心が痛みました。その間、教会はエホバの証人の子どもたち8人に強制的な洗礼を施しました」。
 「1949年に母は亡くなりました。司祭はわたしたちが法律で定められた葬儀許可を得ていないと非難し、再びわたしたちを追いかけ回しました。法廷での審理の結果は無罪でした。“わたしたちに正気を取り戻させる”ため敵に残された唯一の方法は、逮捕し流刑にすることでした。そして、1949年4月にそれが実行されました」。
 「流刑地マクロニソスでの生活は悪夢でした。兵士は、朝から晩まで囚人を虐待しました。証人ではない多くの囚人は、気が狂ったり、死んだりしました。身体に障害が残った人も大勢います。夜になると拷問を受けている人たちの叫び声やうめき声が聞こえました。私にあてがわれた毛布は薄く、寒い夜にはわずかのぬくもりを得る程度でした」。
 「私と信仰を共にしなかった妻は、その後ひとつの包みとメモを送ってきました。そこには、「お菓子を送ります。子どもと同じように病気になるといいわ」と書いてありました」。
 「流刑中は、愛する妻に手紙を書き続けましたが、返事は全く来ませんでした。そんな状況でも、優しさをこめて妻に手紙を書き、慰めを与えることや、今回は一時的に挫折しただけで、私たちはまた幸福になるのだと強調することをやめませんでした」。
 「私は、1950年の末に釈放されました。健康を害し、顔は青白く、やせ細っていました。どのように迎えられるかもわかりませんでしたが、家に戻りました。妻と子どもたちに再び会えてとても幸せでした。しかしそれよりもうれしい、驚くようなことがありました。妻がもう私を憎んでいないことがわかったのです。私の人生でとりわけ幸福な日の一つは、1952年、エホバに献身した僕となった妻にバプテスマを施した日です」。
 「1955年に私は、かなりの数に上る仲間の証人たちと共に逮捕され裁判にかけられました。当日、法廷は司祭であふれ返りました。主教は廊下を行ったり来たりしていました」。
 「その後何年にもわたって、わたしたちは繰り返し逮捕され、裁判件数も増えました。私は合計で17回も裁判にかけられました。反対があっても、わたしたちはいつも伝道しました。喜んでこの問題に取り組んだため、火のような試練によって信仰が精錬されました」。
 「1963年に息子は21歳になり、徴兵登録を求められました。徴兵された証人たちはだれでも、中立の立場のゆえに、殴打、嘲笑、屈辱を経験します。息子も同様の経験をしました。召集を受けた兄弟たちは軍事裁判にかけられ、通常2年から4年の刑期を言い渡されます。息子は6年あまり刑務所にいました」。
 最後に彼はこう述べている。
 「58年余りの間、私の信仰は燃える炉のような苦難に遭いました。今では93歳となりましたが、過去を振り返って、神にお仕えできた日々を後悔するようなことは全くありません」。


レイプされそうになったとき

 「ものみの塔」誌2003年2月1日号は、レイプされそうになった女性が叫ぶべきこと(信者に対する強制力はない)について述べた聖書の記述を解説する記事を掲載した。
 記事は、叫ぶことの益をこのように指摘している。
 「強姦されそうになったときに叫ぶことは、今でも実際的な手段とされています。犯罪防止の一専門家は、「女性が襲われた場合の一番良い武器はやはり大声を上げること」であると述べています」。
 「必至で抵抗し、助けを叫び求めることにより、できる限りのことをして相手に抵抗したという事実が確立されます。その人は、そうしたつらい経験をするとしても、汚れのない良心、自尊心、そして自分は神の目に清いとの確信を持ち続けることができます。自分はできる限りのことをして相手に抵抗したのだという意識は、回復に向けての大きな助けとなるでしょう」。
 また記事は、この記述の例外についても触れ、このように指摘している。
 「この記述があらゆる状況を想定しているわけではないことを認識しなければなりません。襲われた女性が叫べない状況については何も述べられていません。しかしエホバは、人の動機を含め、すべての要素を考慮できるので、理解と公正を持ってその種の事例を扱われます」。


誠実さと真実さ

 「ものみの塔」誌2003年2月1日号は、誠実さと真実さとの関係を取り上げた教訓的な記事を掲載した。
 「誠実さは明らかに、よい対人関係を築く上で助けになります」。
 「とはいえ、誠実さだけでは十分ではありません。それに真実さが伴っていなければならないのです」。
 誠実さから出たことであっても真実さが伴っていない行為は、悲惨な結果をもたらすことさえあると記事は指摘している。


児童売春

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、児童売買春の問題を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、この問題の深刻さを様々な観点から取り上げた後、このように指摘している。
 「国々の政府ならびに他の機関の中にも、セックスツアーや児童売買春に対して闘おうとしているところがあります。しかし、現実的に見ると、(児童売買春の原因となる)生活の窮状や貧困を除き去るために人にできることには限界があります。法律を作る人たちも、不道徳行為の根底にある、人々の考え方や心の態度に歯止めをかけることはできません」。
 「子どものための良い世界について語るだけでは足りません。道徳の低下には甚だしいものがあるのに、その現状を全く正常のことのようにみなす人が多くいます。広く行き渡っている堕落や貪欲は、法律の施行によって規制できるものではありません。親も、愛を示して子どもを保護するよりも、自由気ままな傾向を助長している場合さえ多くなっています」。
 最後に記事は、児童売買春の原因となっている人々にこのように警告している。
 「まもなくエホバ神は、ご自分の王国によって人間の物事に介入されます。人を腐敗させ、不当に利用する者たちは、神の裁きを免れません」。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、20問からなる聖書クイズを掲載した。
 たとえば、このようなクイズが掲載されている。
 「バト、カブ、コル、エファ、ヒン、ホメル、ログ、オメル、セアとは何を表わすものですか」。
 「四福音書のうちの最も短いのは、どの書ですか」。
 「聖書は、もともと、三つのどんな言語で書かれましたか」。


許されない罪

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、許される罪と許されない罪とについて考える論考を掲載した。
 「イエスは、ある種の罪は「許されません」と述べました」。
 「しかし、聖書は、神が快く許す方であると述べています」。
 では、イエスの述べるところの「許されない罪」とは何であろうか。
 「イエスの警告は、故意の意識的な「霊に対する冒とく」について述べたものでした」。
 「霊に対する冒とくとは何でしょうか。聖霊に対して罪を犯すとは、聖霊に故意に反対することです。これには、引き返せない段階に達している邪悪な心の状態が関係しています」。
 ゆえに、霊に逆らう者であったパウロは、改心したとき、その罪を許された。記事は、そのパウロが、許されない罪について何と述べているかを示し、聖霊に対する故意の冒とくと非故意の冒とくとの違いを示した。
 記事は、「許されない罪」を冒す危険について警告し、読者をこのように諭した。
 「わたしたちは神と神の霊の働きについての正確な知識を得ていても、邪悪な心を育てることがあります。自分には決してそのようなことは生じないと思わないよう、ぜひ注意しましょう」。
 いわゆる“背教者”たちについてはどうだろうか。最後に記事は、興味深くもこのような慎重な意見を示している。
 「かつては忠実なクリスチャンであった人の中には、苦々しさや誇り、貪欲さなどのためか、あえて神から離れ、今では神の霊と闘う背教者になっている人もいます。霊が明らかに成し遂げている事柄に故意に反対するのです。それらの人々は、許されない罪を犯したのでしょうか。最終的な裁きを行なわれるのは、エホバです。わたしたちは、人を裁くよりも、心を徐々にかたくなにしかねない密かな罪を犯さないように、個人として警戒するのはよいことです」。


オーストラリアのうさぎフェンス

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、オーストラリアのナンバーワン・ラビット・プルーフ・フェンスを取り上げた教育記事を掲載した。


アントン・レトーニャの手記

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、オーストリアにおいて、戦時の激しい信仰の試練を乗り越えた、アントン・レトーニャによる手記を掲載した。
 「1938年にヒトラーの恐怖政治が始まると、(信仰の恩師である)ウォンヒンツ兄弟は逮捕されました。兄弟がリンツの安楽死施設でガスによって処刑されたことを知り、悲しみに打ちひしがれました」。
 「宣教奉仕を行うのはきわめて危険になりました」。
 「1938年初頭の時点で、私は基礎教育を終え、パン屋に勤めるようになっていました。ところが、“ヒトラー万歳”と言うことや、ヒトラー青少年団に加入することを拒んだので、解雇されてしまいました」。
 一方、彼の兄、ウィルヘルムはヒトラーの熱烈な支持者となった。
 「ウィリ(ウィルヘルム)は幼いころ、母から聖書について教えられていましたが、今やヒトラーの政治プログラムこそが輝かしい将来への鍵であると信じ込まされていました」。
 「兄はヒトラーの軍事的成功に酔いしれていました。私は聖書に基づく希望に幾度も注意を向けようとしましたが、ほとんど毎回こう言われました。「くだらない。ヒトラーの電撃作戦を見ろよ。ドイツはもうすぐ世界を制覇するんだぞ」」。
 しかし、その兄にも転機が訪れた。
 「1942年2月、ウィリが一時帰国した際に、エホバの証人の発行した「敵」という本をプレゼントしました。たいへん驚いたことに、ウィリはその本を一気に読んでしまいました。その時から兄は、ヒトラーの政権が失敗する定めにあることを徐々に悟るようになりました」。
 彼の兄は、ナチスとの縁を切るためにスイスに亡命しようとして捕まり、処刑されてしまった。処刑前の最後の面会の時の様子を彼はこのように振り返っている。
 「ウィリは私が涙を流しているのに気づいてこう言いました。「アントン、なぜ泣くんだ。喜ぶべきだよ。ぼくは、真理を再び見いだせるよう助けてくださったエホバに、本当に感謝しているんだ」」。
 彼の兄は最後にこう書き残している。
 「私がお仕えし、深く愛する神は、必要なものをすべて備えてくださっており、忍耐して勝利を収められるよう、必ず終わりまで私の傍らにいてくださいます。もう一度言います。安心してください。私は何も後悔していません。主にあって堅く立つことができました」。
 (同じく彼の信仰の恩師である)ビンツェンツ・プラタイスも処刑された。
 「ビンコ(ビンツェンツ)との最後の面会は、家族にとって胸の張り裂けるような経験でした。ビンコは鎖につながれており、殴打されたあとがありました。フィニ(娘)はそのとき14歳で、父親を見たのはそれが最後でした。「フィニ、お母さんのことを頼むよ」。それが父親の最後の言葉になりました」。
 「父親を亡くしたフィニは、母親から力ずくで引き離され、“矯正”をはかろうとするナチスの家族の元に置かれました」。
 彼にも、ついに裁判にかけられる日がやってきた。しかし、裁判の数日後に終戦となったため、彼は命を長らえたという。
 彼は、信仰のゆえに兄弟や友と引き離されるというつらい経験をしてきた。それでも彼は、最後に聖書からこの言葉を引用し、手記を締めくくっている。
 「死も、生も、み使いも、政府も、今あるものも、来たるべきものも、力も、高さも、深さも、またほかのどんな創造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離し得ないのです」。


天然塩

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、フランスのパルディエ(塩生産者)たちによる塩の生産を取り上げた教育記事を掲載した。
 補足的な点として、記事は塩分と心臓発作との関係について注解している。
 「塩分の多い食事は、心臓発作の一因である高血圧を引き起こすとされています。しかし、最近の研究結果からすると、塩分摂取量を減らしても、高血圧の人の血圧が大幅に下がることはないようです。ランセット誌1998年3月14日号に掲載された研究報告によると、塩分の摂取を控えている人は、塩分摂取量が普通の人に比べて、心臓発作を起こすことが多いそうです」。


シリア

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、聖書の背景としても知られる、シリアをテーマとした教育記事を掲載した。


マナー

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、読売新聞からの話として、「日本人のマナーは悪くなった」と考えている人が90パーセントに達していると報じた。


職場での嫌がらせ

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、ヨーロッパでの自殺の5件に1件は、職場での「心理的嫌がらせ」が原因となっていると報じた。


子どもの精神状態

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、インディペンデント誌からの話として「世界の子どもの5人に1人が、人生を台無しにしかねない精神面や行動面の問題を抱えている」と報じた。


オーストラリアのアルコール依存症

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、サンデー・テレグラフ誌からの話として、「オーストラリアの若者のほぼ10人に1人はアルコールに依存している」と報じた。


ひきこもり

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、日本では若者たちを中心に「引きこもり」という新しい現象が生じていると報じた。
 引きこもりの若者は「何ヶ月も自室にこもってコンピューターやテレビゲームだけを相手に過ごす」という。
 記事は、「引きこもりの特徴は多くの場合無気力である」と指摘している。


教会で三位一体論が議論に

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、三位一体論の正当性に関する議論が数カ月に渡って交わされているという教会の信徒からの手紙を掲載した。


エホバの証人の本は宗教的か

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、エホバの証人の出版物の宗教性について指摘した、一証人による手紙を掲載した。
 「家族の中でエホバの証人は私だけです。ほかの者はみな、エホバの証人の出版物は宗教的だと言って読もうとしません」。
 しかし、この証人は、「目ざめよ!」誌に載せられる「動物などに関する専門的な記事の内容が本当にすばらしい」ことに言及し、「エホバの証人でない人も受け入れやすい上手な書き方がされている」と自ら答えている。


インターネットにご注意

 「目ざめよ!」誌2003年2月8日号は、インターネットの危険要素に読者の注意を引く小記事を掲載した。
 「インターネットが登場したとき、多くの人は、世界中の信用できる情報源から情報を引き出す手段になるとして歓迎しました」。
 しかし記事は、インターネットの実状が理想とはかなりかけ離れていることを指摘した。
 「インターネットの最も醜悪な面は、何でも流し込める、未処理で、ろ過されていない情報の電子チャンネルになっていることです」。
 そこで、記事はこのように述べている。
 「インターネット、雑誌、本などには、だれでも、どんなことでも載せることができます。ですから、識別力を働かせて、読んだ事柄を何でもうのみにすることがないよう、自分を教育する必要があります」。


健全な思い

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、健全な思いを持つことを読者に勧める記事を掲載した。
 記事は、「何が真に重要かをわきまえ、物事の優先順位を定めて良い決定を下す」よう、また「霊的な目標を定めてそれを達成する」よう読者に勧めている。


家での集会

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、エホバの証人の小規模な集会のために、可能な人は自分の家の使用を申し出るよう勧める記事を掲載した。
 記事によると、そのような小規模な集会のための場所が不足している地域が見られているという。


不活発な人を援助する

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、宗教活動に不活発でも、信仰を失っているわけではない信者を援助する取り決めについて説明する講話を、長老が行うよう指示した。


補助開拓奉仕のすすめ

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、この3月と4月に、補助開拓奉仕(月50時間聖書伝道を行う)を行ってみないかと勧める記事を掲載した。


王国会館図書

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、エホバの証人の教会施設である王国会館に設置される図書のガイドラインを示した。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、2003年1月と2月に開催された神権宣教学校の復習のための問題用紙を同梱した。


ロシアのエホバの証人

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、旧ソビエトでのエホバの証人に対する迫害の歴史をテーマとした、「試練のもとでも忠実」というビデオの内容を考慮するための質問集を掲載した。


伝道を優先

 「わたしたちの王国宣教」2003年2月号は、クリスチャンが聖書伝道を重視し、優先すべきことを説く記事を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「多くの宗教組織は、一般の教育や医療のための施設を設けることなど、慈善事業を重視しています。一方、エホバの証人は、「善を行なうこと、そして、他の人と分かち合うこと」を忘れませんが、人々を霊的(精神的・宗教的)に助けることを優先させます」。


はっきりと神を知る

 「ものみの塔」誌2003年2月15日号は、神を親しく知ることをテーマとした特集記事を掲載した。
 このところ、キリスト教世界であるヨーロッパでは、「神について曖昧な概念しか持たない傾向」が広まっていると記事は指摘した。そこで記事はこう述べている。
 「だれかを知っていることと親しく知っていることには大きな違いがあります」。
 神をただ知るだけでなく、親しく知ることにはどのような益があるだろうか。記事はこう述べている。
 「聖書の神について知るようになれば、数々のすばらしい益が生活に及びます」。
 「一つの実益は、日々の生活上の困難に対処するための導きや将来に対する確固とした希望、そして思いの平安を得られることです」。
 さらに記事は、神を知ることによって解消される問題があることを指摘した。
 「1990年代末にドイツで行なわれた調査によると、頻繁に、あるいは時々、人生には何の目的もないと感じる人は、回答者の半数に上りました。人生の土台を見いだしていない人には、自分の目標を立てるための土台がほとんどありません。多くの人は、そのような満たされない部分を埋め合わせようとして、出世を追い求めたり、富を蓄えたりします。それでも、むなしさに悩まされることがあります。目的のない人生は、時として、生きる意欲を失わせるほどに人を苦しめます」。
 「個人的に経験する悲劇、戦争、食糧不足、自然災害など、種々の不幸な出来事の影響を受けている人は非常に多くいます」。
 記事は、神について詳しく知ることが、こういった苦しみからの解放をもたらすことを示し、このように読者に勧めている。
 「自分の人生には真の目的がないと感じているなら、あるいはなぜ不幸に遭うのか教えてほしいと思っているなら、聖書の神であるエホバについて知ることを固く決意してください。その方について学ぶなら、あなたの人生は、これからずっと、よりよい方向へと変化してゆくでしょう」。


難民キャンプ

 世界の各地で多くの人々が難民となり、苦しい生活をしていることは広く知られている。しかし、難民たちの生活がどのようなものであるかは以外とよく知られていない。「ものみの塔」誌2003年2月15日号は、タンザニアにある難民キャンプでの生活を紹介する教育記事を掲載した。
 記事は、この難民キャンプでのエホバの証人の活動も紹介している。
 記事によると、タンザニアの難民キャンプには1200人のエホバの証人がおり、世界中のエホバの証人の支援を受けながら、また国連難民高等弁務官事務所と協力して、種々の宗教活動を行っている。
 「これらのキャンプにいる難民の支援に特に貢献してきたのは、フランス、ベルギー、スイスのエホバの証人たちです。ヨーロッパの証人たちは、大量の豆乳、衣類、靴、教科書、石鹸を集めました。これらの物資は難民全員に無料で配られました」。
 ムヨボジ難民キャンプの難民地区委員会はこのように報告している。
 「衣類は、それを必要とする男女子どもと新生児の合計1万2654人に供給されました。ムヨボジ難民キャンプには現在3万7000人の難民がいますので、これは難民の34.2パーセントに当たります」。
 また、地元の新聞はこのように報告している。
 「難民地区は寄贈品を感謝している。着る物がなくて学校に行けなくなった子どもたちが、いつでも授業に出席できるようになったからである」。
 しかし、難民キャンプにおいてエホバの証人が行う主な活動は聖書伝道である。
 「キャンプにいるエホバの証人は多くの時間を割き、難民となった隣人に神の言葉である聖書からの慰めとなる良いたよりを伝えています」。
 記事には、実際に生活が行われている難民キャンプの風景や、エホバの証人の行事の様子を写した写真も掲載されている。


主の晩餐

 「ものみの塔」誌2003年2月15日号は、エホバの証人最大の宗教式典であるキリストの死の記念式典を間近に控え、その式典の意義と形式を確認する一連の研究記事を掲載した。
 その式典は何のために行われるのだろうか。感謝のためである。
 「主の晩餐の式典は、イエスの犠牲の死に関連してエホバとみ子が示してくださった偉大な愛を思い起こさせます。わたしたちはその愛に深く感謝すべきではないでしょうか」。
 続いて記事は、記念式を年に一度だけ行うことの正当性を論じた。
 一般の教会は、週ごとにミサを行っているが、エホバの証人はそうしない。その根拠について論じた後、記事はこのように結論した。
 「記念式は、年に一度、(ユダヤ歴)ニサン14日に守り行なうのがふさわしいと言えます」。
 続いて記事は、式典で用いられるパンとぶどう酒について一つの問題点を取り上げた。
 イエスは、式典を制定したとき、一つのパンと、一つのグラスを用いた。一つのパンを裂いて配ることは、当時の食事の習慣であったが、一方のグラスについて、人数分を用意せずに、一つのグラスを回したことが注目される。現代の記念式典においてはどうすべきだろうか。記事はこのように注解している。
 「今年も、エホバの証人の全世界9万4000余りの会衆で行なわれる主の晩さんに、幾百万もの人々が集うことでしょう。それほど大勢の人がその同じ夜、この行事のために集うのですから、ただ一つの杯で全員に回すことはとてもできません。このことは、大きな会衆に関しても言えます。道理にかなった時間内に回せるように、いくつかの杯を使うことになります」。
 さらに記事は、カトリック教会がこの式典に関して持っている教理上の主張を否定した。
 「イエスは、この晩さんを制定した際、(カトリック教会が主張するように)奇跡を行なって表象物(パンとワイン)を自分の文字通りの肉と血に変えたわけではありません」。
 さらに記事は、聖書がコリント人への手紙の中で警告する内容に基づいて、「記念式の表象物にあずかる人は、ふさわしい仕方でそれを行なわなければならない」と忠告した。
 記事は、パンとぶどう酒には、実際に神の霊を受けた人のみがあずかるべきであり、そうでない人はそれを「敬意をこめて見守る」べきだと論じた。
 最後に記事は、今年の式典が4月16日に執り行われることに言及し、感謝してその式典に加わるよう読者を諭している。


子供のころから宗教教育

 「ものみの塔」誌2003年2月15日号は、子供たちに宗教教育を施すことの益を説く記事を掲載した。
 「子どもを平衡の取れた一人前の大人へと変えてゆくのは簡単な仕事ではありません。そうした変化は、単なる偶然によって生じるものではないのです」。
 「様々な影響力が作用して、子どもの心が形成されてゆきます。困ったことに、破壊的な影響力もあります。ですから賢明な親は、子どもの心を成り行きに任せたりせず、子どもをその行くべき道にしたがって育て上げます」。
 「子育てという長く充実した課程において、賢明なクリスチャンの親は、子どもの心を脅かすマイナスの影響力を振り払うために時間を費やします」。
 「親は、子どもの人格や性格を形造ることによって、社会に貴重な貢献をします」。
 では、宗教はどうだろうか。宗教を子どもに教えることには益があるだろうか。
 「神を喜ばせたいという願いや神の不興を買うことに対する恐れの気持ちをはぐくむなら、子どもは悪から遠ざかりたいという動機づけを持つでしょう」。
 記事はさらに、子どもを持つ親たちに対する様々な指針を述べた。中でも興味深い点として、エホバの証人の子供に詳しいある学校の理事の言葉が紹介されている。
 「たくさんの若いエホバの証人が入学し、卒業してゆくのを見てきました。多くの子は立派な行状を示しましたが、他の生徒たちと見分けがつかないような子もいました。模範的な子供たちは例外なく勉強に興味を持っていました。親の皆さんに強く勧めたいのは、お子さんの学業面での進歩に積極的な関心を払い、先生たちと知り合うようにし、良い評価を得ることの重要さをお子さんに納得させることです。みんながみんな良い成績を収めるわけではありませんが、どの子も、満足できるレベルに達して、先生たちから高い評価を得ることができます」。
 最後に記事は、子供の教育のために親が払う努力を「崇高なもの」として奨励し、記事を締めくくっている。


祭壇

 「ものみの塔」誌2003年2月15日号は、祭壇の使用について考える論考を掲載した。
 記事は、キリスト教における「祭壇」が、もともとは実体を持たない概念的なものであったことを指摘した。
 「キリスト教の用語において、『祭壇』という語は、当初は霊的な意味で用いられていたが、イレナエウス以後初めて、とりわけテルトゥリアヌスや聖キプリアヌス以後は、正餐式、ごく具体的には、正餐式の食卓に適用される」。
 記事はさらに付加的な事実を指摘した後、このように結論を述べている。
 「多くの教会に見られる、儀式の複雑さや祭壇は、まことの神を崇拝する方法についてイエスが述べた事柄を無視するものです」。


後ろからの声

 「ものみの塔」誌2003年2月15日号は、聖書のイザヤ30章21節に記されている、“うしろからのエホバの声”について注解する論考を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「後ろからの声は、過去からの神の声、つまり書き記されたみ言葉(聖書)を通して語られ、(聖書の述べるところの)「忠実な家令」によって明瞭にされる事柄である、とみなすのは道理にかなっています」。


栄養不良と子供たち

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、栄養不良、特にたんぱくエネルギー栄養障害(PEM)を取り上げた特集記事を掲載した。


ナイジェリアの武器庫災害

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、ナイジェリアで2002年1月27日に生じた、弾薬庫爆発事件に際してエホバの証人が行った救援活動を報告する記事を掲載した。
 この事故では、爆発に伴って起こったパニック状態の中で1000人を越える人命が失われ、多くの家屋や施設が破壊されたという。
 エホバの証人は救援組織を作り、被災者に対するカウンセリングや物資の提供を行った。また、壊れた家屋の補修も行ったと記事は報告している。


ヌーの大移動

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、ヌーの大移動を取り上げた教育記事を掲載した。


過激になるミュージックビデオ

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、日に日に過激になるミュージックビデオに注意するよう若者たちを諭す記事を掲載した。
 「一部のミュージック・ビデオがあなたに良くない影響を及ぼし、場合によっては、あなたの考えや道徳的価値観を腐敗させることがあるでしょうか。ミュージックビデオに関する警告は注意深く検討した方がよいでしょう」。
 「ある研究によると、ロックビデオの約57パーセントには暴力行為が含まれており、76パーセントには性的活動を表わす場面があります。しかも、ミュージシャンたちは、自分より前の、または同世代のミュージシャンに負けじと、さらにショッキングな内容にしようとするので、ミュージック・ビデオは全般的にますます生々しくなっていることは否定できません」。
 「見るものを制限しないと、初めはひどすぎると感じていたことが、だんだん当たり前のように思えてきます。無意識のうちに、もっと興奮するようなレベルのものを期待するようになって、以前はショッキングだったものも何となく受け入れてしまいます。結果はどうなるでしょうか。道徳面で正しい決定を下す能力が著しく損なわれるかもしれません」。
 多くの警告を述べつつも、最後に記事は一言、このように断っている。
 「当然のことですが、そもそもミュージック・ビデオを見るかどうかは、あなた自身とあなたの親とが決めることです」。
 それゆえに、若者である読者は「知覚力を訓練する」べきであるという。


美しい鍾乳洞

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、メキシコ、ユカタン半島の“セノーテ”を取り上げた教育記事を掲載した。


パンノキ

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、フィジーのパンノキ(植物)を取り上げた教育記事を掲載した。


武器の増加

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、2001年に世界の軽火器の保有量が16パーセント上昇したと報じた。


消費の借金

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、現在の人類の消費が、地球の能力を上回っていると指摘した。
 地球の自然界が持っている資源の生産力もしくは回復力を100とすると、人類による資源の消費は1999年に120パーセントに達し、現在は125パーセントになっているという。消費に回復が追いつかないため、いよいよ生態系の破綻が懸念される状態になっていると記事は指摘している。


教会が減る

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、モントリオールの教会また礼拝所600のうち、100ほどが今後10年内に転売されるとの予測を公表した。


テレビによる摂食障害

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、テレビが女性の摂食障害の原因となっていると指摘した。


うそ

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、うそをつくことが脳に多大な負担を与えるという研究を紹介した。
 うそをつく人は通常、「本能的に、まず本当の答えを考えてから、うその答えを考え出す」ため、脳内のプロセスが複雑になり、ニューロン活動は目に見えて盛んになるという。


エホバの証人は警察になれるか

 「目ざめよ!」誌2003年2月22日号は、読者からの質問に答え、「エホバの証人は武器の携帯が求められる職には就かない」と答えた。しかし、警察に関しては、警察が武器をいっさい携帯しない国があることや、そうでない国でも、警察には武器の携行の必要がない仕事があることを指摘している。


「ものみの塔」誌の発行言語数が更新される

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「ものみの塔」誌は、2003年3月1日号において、同誌の発行言語数を146から147に更新した。なお、「ものみの塔」誌の現在の平均発行部数は2520万3000部である。


エホバの証人と迫害

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、エホバの証人が信仰のゆえに受けた迫害を取り上げる特集記事を掲載した。
 「エホバの証人たちは、平和的で法律を守る、道徳的に廉直な人となるように努めています。政府に反対したり、政府と対決しようとしたりせず、また殉教者になろうとして迫害を誘発するなどということもありません」。
 しかし、20世紀にエホバの証人は世界中で激しく迫害された。特に全体主義国家においてはそうである。
 記事は、2000年11月にドイツのハイデルベルク大学で開かれた「弾圧と自己主張:国家社会主義と共産主義の独裁体制下におけるエホバの証人」という会議を紹介した。
 記事は、エホバの証人がその平和主義や政治的中立の立場のゆえに受けたいくつかの迫害の事例を紹介した後、最後にこのように述べている。
 「善が悪を征服することは本当に可能でしょうか。神に対する強い信仰と結びついていれば、可能です。ヨーロッパでの迫害に対するエホバの証人の勝利は、神の霊の勝利であり、聖霊が謙遜なクリスチャンの内に生み出す信仰に基づく、善をなす力を実証するものです。それは、今日の暴力的な世の中にあって、すべての人が心に留めることのできる教訓です」。


信仰と勇気

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、クリスチャンの勇気が果たす役割を取り上げた一連の研究記事を掲載した。
 神への忠誠を示すにあたり、クリスチャンには多大な勇気の求められることがある。たとえば、このような場合にである。
 「迫害以外にも、勇気が必要となる試みがあります。人によっては、見知らぬ人に良いたよりを伝えることが試みとなります。学校に通う子供たちは、国歌を歌ったり、国や国旗に対する忠誠の誓いを唱えたりするよう求められるときに勇気が試されるでしょう」。
 さらに記事は、「反対者がマスメディアを操って悪い評判を広める」事件がいくつか起こっていることに触れた。このようなときにエホバの証人は勇気を奮い、このように振る舞う。
 「だからといってクリスチャンの集会を休んだり、野外宣教(聖書伝道)の手を緩めたり、信仰をぐらつかせたりすることもありません。むしろ(聖書に記されているように)、『栄光と不名誉により、悪い評判と良い評判とによって、あらゆる点で自分を神の奉仕者として推薦』します。敵対者たちの主張によれば、人を欺く者のようで、実際には真実であることを示すのです」。
 クリスチャンの勇気の源泉となるのはエホバ神への厚い信頼である。その信頼をどのようにして得ることができるだろうか。一つには、日々、聖書の教えを実践することによってである。
 「日常生活においてエホバに頼り、そうすることの良い結果を実感すればするほど、神に対する信頼は強くなってゆきます」。
 そして、クリスチャンはすべて、自分の状況が変化することを予期しているべきである。
 「この不安定な世界にあって、状況は突如変化します。思いもかけない国内紛争が生じるかもしれません。長い間宗教的に寛容だった国が不寛容になることもあります」。
 記事は最後に、信仰の面で決して妥協することなく、「終わりまで忠実に」神に仕える者となるよう読者を励ましている。


生活を簡素にする

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、子供が自立して家を出ていった親たちなど、クリスチャン活動の拡大の機会が開かれた読者のための記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「退職したら、まず1年くらいのんびりしようとは考えないでください。“のんびりする”ことにすぐ慣れてしまいます。むしろ、増し加えた奉仕活動をすぐに始めてください」。
 「確かに、若いころのような力やスタミナはないでしょう。しかし、そのころをしのぐ円熟性、経験、知恵があります。父親であるとはどういうことかを知っていますし、妻と働くことを通して母親の務めに何が伴うかもある程度理解しています。妻と一緒に家族のさまざまな問題を扱い、子どもたちが神権的な目標を持てるようにしました。そうです、そのような兄弟たちの実地の知識は、各地の会衆のいろいろな物事を顧みるのに役立っています」。


ジェサ・スナルの手記

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、キューバとドミニカで宣教者として奉仕した、ジェサ・スナル(女性)による手記を掲載した。
 彼女は、ギレアデ聖書学校第二期を卒業した後、宣教者として奉仕した。ドミニカではエホバの証人の活動が禁止されており、困難もあったという。


神と辛抱強さ

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、神の辛抱強さをテーマとした小論文を掲載した。
 このように述べている。
 「辛抱強さはエホバの属性ですが、どんな場合でも、愛、公正、知恵、力という神の主要な属性に調和して表わされます」。
 「神が辛抱強さを示されるのは、それが公正や義や知恵に調和している場合に限られます。悪い状況や刺激的な状況が存在するときに辛抱強さが示されるという事実は、その背後に、悪い状況に関係する人々が変化して良くなるための機会を与える意図があることを示しています。そのような変化が生じる希望はないと判断されるところまで事態が進んだ場合、辛抱強さを示し続けるとすれば、公正と義に反することになります。そのとき神は知恵をもって行動し、悪い状況を除き去られます。神の辛抱は終わるのです」。
 「ある人たちは、自分たちに対する神の辛抱強さを誤解し、誤用し、それを愛に富む辛抱と見るよりもむしろ遅さと見ることにより、その目的を逸してきました」。


2003年「神に栄光」エホバの証人の地域大会

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、2003年に開催されるエホバの証人の地域大会の開催日時と場所とを公表した。
 今年は、21の場所と日時で大会が開催され、そのうちの4つは国際大会となる予定である。
 (注:各大会の開催日時が大幅変更されました。国際大会以外の大会については、金曜日から日曜日の日程となります。)


拡大するうつ

 「ものみの塔」誌2003年3月1日号は、世界保健機関からの情報として、「現在、世界じゅうの推定1億2000万以上の人々が鬱状態にある」と指摘した。
 記事は、これらの人々には「感情面の支え」が必要であると指摘し、その助けとして、エホバの証人の各種出版物を示している。


人体に備わる感覚器官

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、人間の感覚器官を取り上げた特集記事を掲載した。


聖書と自由

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、自由に関するクリスチャンの見方を考える論考を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「人間は数限りない決定を下してきました。良い決定も少なからずありますが、嘆かわしい決定や、全く邪悪な決定もありました。人間の間違った選択が悲惨な結果を招いたこともあります。それでも神は、選択を行なう人間の権利を決して侵害されませんでした。愛の深い父である神は、良い決定を下すための助けを、聖書を通して与えてくださっています。また、選択を誤った場合の結果に関する警告も与えておられます。聖書によれば、わたしたちは自分のまくものを刈り取るのです」。
 「聖書は、神への従順がもたらす益を際立たせています。それでも神は、ご自分を崇拝するよう人間に強制したりはされません。むしろ、ご自分の崇拝者になるよう、被造物である人間を招いておられます。エホバを崇拝するという決定は自主的なものです」。


カホキア

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、カホキアの古代文明を取り上げた教育記事を掲載した。


靴を選ぶ

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、正しい靴の選び方をアドバイスする教育記事を掲載した。


王国会館の見学会

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、ドイツのエホバの証人が行った、エホバの証人施設の一般公開の様子を報告する記事を掲載した。


乙女の塔

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、ボスポラス海峡にある乙女の塔を取り上げた教育記事を掲載した。


子供と死

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、日本女子大学の中村博志教授の研究を紹介し、日本の子供たちの多くが「小学校高学年になっても死を正しく認識していない」と指摘した。


兵役を拒否して

 「目ざめよ!」誌2003年3月8日号は、武器を取って戦うよりは処刑されることを選んだ、アントニオ・ガルガリ(男性)を紹介する小記事を掲載した。
 彼は1937年、スペインにおいて、「武器を取ならければ死刑にする」と宣告され、信仰と良心に従って死を選んだという。記事はこう述べている。
 「3人の兵士の証言によると、アントニオは処刑場に向かいながら、エホバへの賛美の歌を歌っていました。このような犠牲が、神やみ子によって見過ごされることはありません。わたしたちは、アントニオのような忠実なクリスチャンが、復活によって報いを受けることを確信できます」。


キリストの死の記念式に備える

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、キリストの死の記念式を間近に控え、記念式に備えるための記事を掲載した。
 記事は、この時期にクリスチャンが神の善良さを思い出し、感謝にあふれ、人々に救いへの招待を惜しみなく差し伸べるよう勧めている。


年鑑を読む

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、エホバの証人の年鑑2003年版を今年中に読み終えるよう会衆に呼びかけるよう教訓者に指示した。


エホバの証人と地域社会

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、エホバの証人がどのように地域社会に貢献しているかを討議するための筋書きを掲載した。
 たとえば、エホバの証人は聖書の道徳規準に従って生活するよう人々に勧めることによって地域社会の安定に貢献している。また、人種差別が見られる地域においてはその解消に努めている。読み書きのできない人など、知的な弱者に対して援助を行ってきた、という点が討論の対象となっている。


クリスチャンと善行

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、クリスチャンの行う善行について、そのいくつかの面を取り上げた記事を掲載した。


2冊目の教科書

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、「唯一まことの神を崇拝する」の本を、研究生(求道者)の2冊目の教科書として使用するよう伝道者たちに指示した。


真理と自由

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、「真理は人を自由にする」という原則の様々な適用を論じる記事を掲載した。
 一つに、記事はこのように指摘している。
 「聖書の真理は人の考え方や人格を変化させることができ、避けることのできる問題からの自由をもたらします」。


人々に話しかける

 「わたしたちの王国宣教」2003年3月号は、聖書伝道の現場においてどのように人に語りかけることができるか、いくつかの提案を掲載した。
 たとえばこのように話しかけることができる。
 「憎しみや偏見がますます強くなっている時代に生活していると感じることがありますね。社会を変えることはできませんが、家族をそのような風潮から守りたいものです」。


“世を征服する”

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、イエスが死ぬ前に語った、「世を征服する」という言葉に焦点をあてた特集記事を掲載した。
 「今日の世界に悪があふれていることを否定する人がいるでしょうか。ではわたしたちは、不公正や理不尽な暴力行為にどう反応していますか。それに腹を立てたり、同じ方法で仕返しをしたくなったりするでしょうか」。
 もしそう考えるなら、その人は世に征服されたことになる。
 「ですから、二つの戦線で戦わなければなりません。相手は、外部の邪悪な世と(人の)内部にある悪い傾向です」。
 「誇りを、正反対の特質である謙遜さで置き換えなければならないのです」。
 「悪意ある憎しみを生活から除き去り、それを自己犠牲的な愛で置き換えます」。
 「わたしたちに憎しみを示す人々に対しては、心の内に敵意はみじんもありません」。
 そのようにして世に対する勝利を収めるには、信仰と、たゆみない聖書の研究が不可欠である。
 「聖書を研究し、学んだことを当てはめるなら、知識、知恵、理解、洞察力、識別力、思考力が得られます。そうなれば、邪悪な世の様々な圧力に立ち向かうためのより良い備えができます」。
 「霊の実は、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制ですと聖書は述べています。これらの特質は、不道徳、闘争、ねたみ、激発的な怒りなどに傾く肉的な傾向を征服するために、わたしたちがまさに必要とするものです」。
 最後に記事は、人は弱く、クリスチャンの行う戦いにおいてしばしば挫折や敗北を経験することについて触れ、「しかし、失望する必要はありません」と読者を励ましている。


マステパンの経験

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、レソトに住むマステパン(女性)がどのようにしてエホバの証人となり、救われたかを紹介する記事を掲載した。
 「マステパンはカトリック教徒として育てられました。しかし、神に近づくよう助けられるどころか、お金をえさにして不道徳行為に誘う修道女たちから何年ものあいだ虐待を受けました。そのため、マステパンは宗教に幻滅し、人間という創造物を真に気遣う愛情深い創造者がおられるとは信じられませんでした」。
 「間もなく、エホバの証人の宣教者たちから話しかけられ、聖書研究を勧められました。そして、研究を通して、神が無関心でも冷淡でもないことを理解しました」。
 「やがて、神の言葉、聖書の力は、マステパンの生活に明らかに表われるようになりました。クリスチャンの集会に定期的に出席し始め、非聖書的な習慣を捨てたのです」。
 「過去の傷あとは残っているものの、今では幸福で有意義な生活を送っています」。
 記事は、幸福そうな彼女の写真を掲載している。


虐待を受けた人に

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、虐待を受けた人に対し聖書がどのように助けとなるかを示す副記事を掲載した。


子供たちを学校に

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、子供たちを学校に通わせるよう親たちに勧める記事を掲載した。


人を見る神の見方に倣う

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、他の人を見るときにどのような見方をするべきかを諭す研究記事を掲載した。
 「人を見定める点で、人間はとかく判断を誤りがちです。一方では、外面で好印象を与えても内面で節操のない人物にだまされることがあります。他方、誠実でも人格の特徴で気に障るところのある人を評価する際に、手厳しく、頑迷な態度をとってしまうこともあります」。
 そのような問題を避けるにはどうすればよいだろうか。
 「その人を、ゆっくり時間をかけて、積極的な視点で見てみるのはどうでしょうか」。
 記事は、聖書から、如実に自己の欠陥をあらわにした人物であるヨナとペテロを引き合いに出し、クリスチャンにふさわしい、神に倣った人の評価の仕方を示した。
 最後に記事はこう述べている。
 「今日、経済水準や、教育的、人種的背景のさまざまに異なる男女や子どもたちが、一致してエホバに仕えています。クリスチャン会衆には実に多様な個性が見られます。ですから、時折摩擦が生じることは避けられません」。
 「兄弟たちの落ち度が目に入ることがあるにしても、それにずっと目を留めるようなことはしません。エホバに倣うように努めます。わたしたちは、分裂のもとともなる人格の特徴についてくよくよ考えるのではなく、平和に役立つ事柄や互いを築き上げる事柄を追い求めます。エホバがご覧になるとおりに人々を見るようにし、弱点を特に問題視せず、良い特質のほうに目を留めます」。
 もっとも、それは他の人の欠点や問題をなかったことにすべきだということではない。記事は、問題が生じたならそれを取り上げ、当事者同士で話し合うよう求めている。


モーセの律法からの卒業

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、クリスチャンがどのようにして律法から解放されたかを取り上げた研究記事を掲載した。
 「イスラエルに律法が与えられた理由の一つは、「違犯を明らかにするため」でした。モーセの律法は、一時的な取り決めとして意図されたものでした」。
 「ユダヤ人のクリスチャンの中には、この肝要な真理をなかなか把握できない人たちがいました。そのため、イエスの復活後にも律法の種々の特色を引き続き守り行ないました」。
 この問題を解決したのは、エルサレムにある、使徒たちと年長者たちからなる“統治体”組織である。しかし問題点も残った。
 「統治体は、異邦人の(つまり、ユダヤ人でない)クリスチャンは割礼を受ける必要がない(律法を守る必要がない)という指針を明示しました。しかし、ユダヤ人のクリスチャンについてはどうでしょうか。統治体の決定で、問題のこの面は明確に論じられていませんでした」。
 そのため、ユダヤ人のクリスチャンの中には、依然としてモーセの律法を守り行う者も多くいたという。
 「(ユダヤ人クリスチャンに対する)指針は、統治体からの手紙ではなく、使徒たちが霊感のもとに記した付加的な手紙の形で与えられました」。
 しかし、この手紙はユダヤ人クリスチャンになかなか受け入れられなかったという。
 この事例から現代のクリスチャンも学ぶべき点があると記事は指摘した。読者がこのように自問するよう、記事は勧めている。
 「今日、聖書の理解が明確にされるとき、自分はどのように反応するだろうか。聖書に基づく指示が与えられるとき、その字句だけでなく、精神もくみ取って、それを当てはめようとするだろうか」。


唇の力

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、聖書の箴言12章の後半の部分を逐語的に解説する記事を掲載した。
 「うそをつく人は、いつの間にか悪循環に陥ってしまいます」。
 「うそをつく人は、自分をも偽る(自分にもうそをつく)結果になりかねないのです。たとえば、うそをつく人は、実際にはほとんど知識がないのに、自分は博学で、聡明なのだと、すぐに自分に言い聞かせるようになるかもしれません。そのようにして、嘘で塗られた生活が始まります。実際、その人は、「自分の目から見て非常に滑らかに自分に対して行動したので、自分のとがを見いだしてそれを憎むこともできない」のです」。
 「明敏な人は、誰に対しても悪に悪を返したくないので、無思慮に話さないように自分の舌を制します」。
 「言葉は時に剣のように刺し通し、友情を終わらせたり、問題を引き起こしたりします。逆に、喜びや心地よさを与え、友情を持続させることもあります」。
 「間違いを犯したとき、誠実に謝って相手をいやし、間違いを正すことができるなら、本当にすばらしいことです」。
 「わたしたちが生きているのは難しい時代であるため、「心の打ち砕かれた」人や、「霊(心の奥深いところ)の打ちひしがれた人」が多いとしても驚くには当たりません。「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ、弱いものを支える」とき、口から出る言葉が持つ、人をいやす力が働きます」。
 「義なる人は、自分の友人に注意を払います。そうした選択を賢明に行ない、危険な交際を避けようとします。邪悪な人はそうはせず、助言を退けて自分の道を押し通し、判断を誤って、さまよいます」。
 記事はさらに、このようにも述べている。
 「励ましの点で聖書に見いだせる言葉に勝るものがあるでしょうか。神の言葉を熟考すれば必ず、苦悩の心に喜びを、悲しみの目に光を取り戻すことができます」。


記念式に出席できない場合

 「ものみの塔」誌2003年3月15日号は、“油注がれた”立場にいるクリスチャンで、老齢などの理由により、キリストの死の記念式に出席できない人たちへの援助の取り決めを確認する記事を掲載した。


睡眠障害

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、睡眠障害を取り上げた特集記事を掲載した。


ミュージックビデオを選ぶ

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、クリスチャンの若者を対象に、ミュージックビデオの選択をどのように行うべきかをアドバイスする記事を掲載した。
 「ミュージック・ビデオはすごくいい、と多くの若い人たちは考えています。しかし、多くのミュージック・ビデオには、性の不道徳や暴力の過激なシーンが含まれています」。
 「不敬虔な振る舞いの背後にある世の霊(精神)は、多くのミュージック・ビデオに反映されており、喜び、平和、自制といった特質を生み出す神の霊とは真っ向から対立しています」。
 「見るものをよく選び、ふさわしいかどうかを見極められるよう、聖書で訓練された知覚力を働かせる必要があります」。
 記事はこのように読者に忠告している。
 「しばしば問題となるのは、何が正しく何が間違いかを知ることだけではなく、正しいことを行なおうと決意することです。中途半端でありきたりの決意では、大抵の場合、十分ではありません。……悪いものは見ないと固く決意するのです」。


フランスの工場爆発

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、フランスで2001年9月21日に起こった、化学工場の爆発事件に際してエホバの証人が行った救援活動を報告する記事を掲載した。
 この爆発による被害は大きく、その被害は2万7000戸にまで及んだ。エホバの証人だけでも、11の会衆が被害を受けたという。
 エホバの証人は様々な形で復興に励んだが、そのうちの一つについて、このように報告している。
 「被害の大きさに圧倒されていた地元当局にも助けが差し伸べられました。証人たちは学校や他の公共の建物をきれいに掃除しました。ある地区では、地元当局が人々の必要を見極めるために、エホバの証人の自発奉仕者を派遣して戸別訪問を行なわせました」。


バナナ

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、バナナ農場を取り上げた教育記事を掲載した。


アカン族のことわざ

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、ガーナのアカン族のことわざを紹介し、その価値を説く教育記事を掲載した。


トロリーバス

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、ウクライナのトロリーバスを取り上げた教育記事を掲載した。


ココヤシ

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、ココヤシを取り上げた教育記事を掲載した。


グルジアのエホバの証人迫害

 エホバの証人は現在、グルジアにおいて、正教会の激しい攻撃の対象となっている。「目ざめよ!」誌2003年3月22日号がニューヨークタイムズ紙から引用して報告したところによると、このような惨劇が見られているという。
 「グルジア正教会の十字架をつけた20人ほどの男たちがバスでやって来て、大会の主催者であるウシャンギ・ブントゥリの家を荒らした。男たちは聖書や宗教パンフレットやブントゥリ氏の家財を庭に積み上げて燃やし、バプテスマ用プールを軽油でいっぱいにした。警察もやってきた。その中には地元の警察署長もいた。しかし、一人も逮捕されなかった」。


若者に腐心する教会

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、若者たちを教会に引きよせるために、プロテスタント教派による第1回「教会青少年の日」フェスティバルが開催されたと報じた。
 この催しの特徴の一つは、若いクリスチャンたちが嫌がったりしないよう、礼拝や聖書研究が省略されたことである。しかし、この点については若いクリスチャンたちから不満の声も聞かれたという。


宗教と戦争

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、戦争において宗教が悪い役割を果たしていると指摘した。
 「戦闘員が神は我が側におられると主張する場合」、それは特にひどくなると記事は指摘している。


家庭と薬物

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、家庭が安定していると、若者が薬物中毒になる可能性が大きく減ることを指摘した。


ハリセンボン

 「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、ハリセンボンを取り上げた小記事を掲載した。


エホバに近づく

 キリスト教世界には、神の子イエス・キリストについて説明する本はあふれていても、聖書の神エホバについて説明する本は全くと言っていいほど存在しない。「目ざめよ!」誌2003年3月22日号は、ものみの塔聖書冊子協会から「エホバに近づきなさい」と題する「本当に素晴らしい本」が発行されていることを告知し、読者にその本の入手を促した。


最後の晩餐

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、キリストの最後の晩餐を取り上げた特集記事を掲載した。
 クリスチャンは、この時のイエスの命令に従って“主の晩さん”を執り行うが、記事はこの式典についてこのように述べている。
 「主の晩さんは、イエスの自己犠牲的な愛について思い出して感謝する機会となります」。
 「記念式は、かつて行なわれた愛の表明の中で最大のものである、天の父エホバの愛を思い起こす機会ともなります」。
 「神の善良さがイエス・キリストを通してそのように表明されたことを考えると、永続する深い認識と感謝の念がわき上がるのではないでしょうか」。


若者たちと聖書

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、若者たちに、聖書を学び、その教えを実践することの大切さを説く教訓的な記事を掲載した。
 「若い人の中には、価値ある目標を達成したい、進歩したい、という願いを持たず、あてもなく毎日を過ごしている人が多いようです」。
 「若い人なら、スポーツや何かの趣味に熱中する時は気分が高揚することでしょう。しかし、霊的な活動となると、そうは感じないかもしれません」。
 しかし記事は、聖書から学ぶことは決してそのような退屈なことではないと指摘した。
 「神の言葉は、経験のない者が賢明に行動するよう導き、『その目を輝かせる』ことができるのです。ですから、霊的な事柄にはあなたを熱中させ、意欲をかき立てるものがあるのです」。
 記事は、若者たちが聖書を読み、エホバに仕える者となるよう勧めたあと、このように述べている。
 「あなたの目標は、現実的で達成可能なものでなければなりません。人生の目標を持つのはよいことですが、競争心を募らせないように注意しなければなりません。自分を他の人と比較しない方が、自分の行なう事柄に対する喜びは大きいでしょう」。
 「若い人たちは、目標を押しつけられているように感じると喜びを失い、何のために目標を定めるのかもわからなくなるかもしれません。成功するには、あなた自身に、自分から進んで目標を定める動機づけがなければなりません」。


アルメニアでエホバの証人が勝訴

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、昨年アルメニアの最高裁判所でエホバの証人が勝訴したことを報じる記事を掲載した。
 アルメニアは1991年以降、国家宗務評議会によって宗教団体を認可しているが、この評議会がエホバの証人の登録を拒否したため、問題が生じていた。さらに、エホバの証人の若者たちは、兵役を拒否しても兵役を免除されず、刑務所へと送られていた。
 この評議会は、エホバの証人を認可しないだけでは満足せず、やがてはエホバの証人を攻撃しはじめた。検察に要請を出してエホバの証人の弁護士を起訴したのである。
 「未登録宗教の集会に出席するよう若者を誘惑した」とか「市民としての義務を拒むよう促した」というのが罪状であった。
 2001年9月18日、地方裁判所はこの弁護士に無罪を言い渡した。しかし検察は控訴し、しかも、控訴裁判所は検察に全面的に協力したという。
 「被告が答え始めると、裁判長が遮り、異議を唱えました。そして、どの質問にも最後まで答えさせませんでした。また、弁護側が被告に対して行なった質問のほとんどを、理由も述べずに裁判記録から削除しました」。
 「エホバの証人に反対する狂信的な人たちは法廷を埋め、裁判の間繰り返し被告に罵声を浴びせました。その公判の後、裁判に関する事実をゆがめた虚偽の報道がテレビで大量に流されました。中には、被告が事実上罪を認めたとするものまでありました」。
 「公判の半ばごろ、3人からなる判事団の裁判長は、一通の手紙を提示して、傍聴人を驚かせました。それは国家宗務評議会からの手紙で、被告に対する処置を執るよう検察当局に求めるものでした」。
 しかし幸運にも、裁判の途中で裁判長が替わったために、状況は一変したという。彼は正しく裁判を進め、傍聴席から罵声を発する者を法廷から退場させた。
 2002年3月7日、控訴裁判所は一審を支持し、被告を無罪とした。しかし、検察はなおも最高裁判所へと控訴した。
 最高裁判所での審理は、控訴審とは全く逆のものとなったという。
 「冒頭陳述で、検察官の一人は、二つの下級裁判所が被告を有罪とできなかったことに対して大きな憤りを表わしました。しかし今度は、検察官のほうが発言を遮られ、4人の判事から鋭い質問を浴びせられました」。
 「判事は、検察側の行動を、「刑事訴訟を利用した迫害」と描写しました」。
 「その間、法廷にいた一人の司祭が、エホバの証人はアルメニアを分裂させていると叫び、裁判所はその司祭に、黙っているようにと命じました」。
 「短い協議の後、判事たちは全員一致で「無罪」判決を支持しました」。
 こうして、エホバの証人の弁護士をターゲットとした国家宗務評議会の嫌がらせは一応の幕を引いた。しかし、エホバの証人の認可は依然として行われていないという。


温和

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、クリスチャンの温和を取り上げた一連の研究記事を掲載した。
 「温和と密接な関係にあるのは、謙遜さ、つまり『心がへりくだっている』ことです。他方、誇りはうぬぼれにつながり、他の人に対する無情または無神経な態度となって表われることが少なくありません」。
 「温和は弱さを暗示するものではありません。むしろ、その逆です。その物柔らかさの背後には鋼鉄のような強さがあります」。
 記事は、特に温和さが求められるいくつかの場面を考慮した。
 「宗教面で分かれている家庭において、温和はとりわけ重要です」。
 「温和が重要な別の分野は野外宣教です」。
 時に対立さえも生じうるこのような状況で、クリスチャンはどのように振る舞うだろうか。
 「わたしたちは心のうちでキリストを手本をし、粗野な話し方をする人に温和と敬意を示すよう気を配ります」。
 記事は、モーセのような、聖書の中で模範とされている人物に読者の注意を引いた。
 「神の言葉に収められているりっぱな手本について黙想する努力を払うなら、そうした手本は植え付けられたかのようにしてあなたの一部となり、あなたを形造り、導くでしょう」。
 記事は最後にこう述べている。
 「どんな状況におかれても、わたしたちは好戦的な態度を取ったりはしません」。
 「温和を表わす人すべてには、豊かな祝福が待っています」。


ロバート・ニズベットによる手記

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、アフリカや日本で宣教者として奉仕したロバート・ニズベットによる手記を掲載した。
 彼はスコットランドの生まれである。彼は1931年に開拓伝道者となり、アフリカへと赴いたという。
 アフリカでは、様々な問題に直面した。エホバの証人の活動をよく思わない政治家や宗教家や経営者たちに対処しなければならなかったという。
 「ある大商店の経営者は、「白人がこの国にとどまりたければ、アフリカ人に対して、彼らの安い労働力が搾取されているなどと知らせてはならない」と文句を言いまた。同じ理由で、金採掘会社の社長はわたしに、この事務所から出ていけ、ときっぱり命じました」。
 彼はジンバブエ政府から、アフリカ人に伝道することを禁じられたりしたという。
 一方、スワジランドはそうではなかったという。
 「スワジランド国王は、教育のない貧しい人々の生活水準を向上させることに心血を注いでいたのです」。
 1950年には、彼はギレアデ聖書学校に招待された。卒業後、インド洋のモーリシャスへと赴き、そして1959年、日本で結婚式を挙げ、広島で宣教者として奉仕した。そして、現在は宣教者を引退してオーストラリアに移住し、そこで老後を過ごしているという。


聖書によって違う?

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、聖書によって節番号が異なることがあるのはなぜかという質問に答えた。
 その理由はいくつかを記事は指摘している。


記念式への招待状

 「ものみの塔」誌2003年4月1日号は、エホバの証人最大の宗教行事であるキリストの死の記念式へ読者を招待した。


子供たちと薬物

 子供の薬物乱用は、今では日本でもありふれた問題となりつつある。「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、この問題にどのように対処できるかを考える特集記事を掲載した。
 記事は、「日本のティーンエージャーが最もよく使う薬物は有機溶剤で、それが他の薬物の使用につながっている」と指摘した。
 また、「親は多くの場合、手遅れになるまで危険性に気づきません」とも指摘している。
 それでも記事は、「親のみなさんは、薬物乱用との闘いにおいて防御の最前線にいます」と述べた。
 記事は、予防措置から、実際に問題が生じたときの対処法に至るまで、親が愛情をこめてそれを行うことの大切さを説き、また必要な知識を提供している。


よい週末の過ごし方

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、週末の有意義な過ごし方について考える記事を掲載した。
 記事は、週末に「気分転換」として行える活動として、ガーデニングや切手収集など、様々な活動を挙げた後、こう述べている。
 「聖書は、そのように一見無意味な時間の用い方を非としているでしょうか。必ずしもそうではありません」。
 聖書自身、そのような趣味を推奨しているという。しかし、度を超した趣味の追求はよくないと記事は指摘した。
 「週末に活動を詰め込みすぎて、結局は少ししか、あるいは全く楽しめないということもあります。新しい週を迎える時には、さわやかな気分になるどころか、疲れ切っています」。
 記事は、週末に行う活動は「退屈しのぎではなく生活を豊かにするもの」がよいと述べ、その一つとして、週末に聖書伝道に参加することを挙げている。


法廷画家

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、イギリスの法廷画家を取り上げた教育記事を掲載した。


ハワイのカウボーイ

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、パニオロを取り上げた教育記事を掲載した。


物質主義

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、物質主義を取り上げた論考を掲載した。
 記事は、「物質主義には、多くの富や所有物を持っているかどうかだけでなく、遙かに多くの事柄が関係している」と指摘した。
 「物質主義の根本にあるのは、わたしたちの欲求、優先順位、生活上で焦点を合わせている事柄です」。
 「人が物質主義的になるのは、多くの物を所有しているからではなく、物質的な物を優先するからです」。
 そこで、記事はこのように指摘している。
 「困窮している人にとって、富や所有物に恵まれた人を目にするのは耐え難いことに違いありません。それでも、富んだ人を物質主義的だと批判的に見たり、富んでいない人のほうがよりよく神に仕えていると決めつけたりするのは間違っています」。
 「クリスチャンは、各自の経済状態にかかわりなく、物質主義のわなを注意深く避けます」。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、15問からなる聖書クイズを掲載した。


ガーナではこう食べる

 ガーナでは、たとえスープであっても、素手で食べるのが普通だという。「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、素手でスープを食べるガーナ人の風習を写真付きで紹介する教育記事を掲載した。


猛毒クラゲ

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、オーストラリアの毒クラゲを取り上げた教育記事を掲載した。


同棲と離婚

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、結婚前に同棲した夫婦の40パーセント以上が結婚後10年以内に離婚すると指摘した。これは、そうではない夫婦の2倍となるという。


女性司祭の問題

 近年、いくつかのキリスト教派は、女性が司祭になることを認める制度改正を行ってきた。ところが、「目ざめよ!」誌2003年4月8日号の指摘するところによると、英国国教会の場合、男性司祭の10人のうち8人がイエスの贖いを信じているのに対し、女性司祭ではこれが6人になっているという。
 「英国国教会で明らかに二つの教会が活動している。信仰心のある教会と信仰心のない教会であり、これは不面目なことだ」。


ルアウは宗教的か

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、同誌2002年6月8日号で教育記事として掲載した、ハワイのルアウについて、その内容に疑問を呈する読者の意見を掲載した。
 その読者は、「数年前、ハワイでルアウに出席しました。そのとき、強い宗教的、心霊術的な含みがあると感じました」と述べた。さらにこう問いかけている。
 「たとえ今日のルアウに宗教的、あるいは心霊術的な側面がないとしても、異教の起源を持つ他の行事とどう違うのでしょうか」。
 「目ざめよ!」誌は、この疑問を考慮し、ルアウには「クリスチャンが出席するのにふさわしくないものもある」と認め、「クリスチャンはエホバ神のみ前で汚れのない良心を保てるような決定をすべき」だと答えた。


肥満

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、肥満についての専門家の意見を紹介する小記事を掲載した。


記念式への招待状

 「目ざめよ!」誌2003年4月8日号は、エホバの証人最大の宗教行事であるキリストの死の記念式へ読者を招待した。


照らす者となる

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、聖書に出てくる「世を照らす者として輝く」という言葉の意味を考える記事を掲載した。
 それは、「エホバを源とする貴重な真理の光を反映する」生き方だと記事は指摘した。
 「エホバの証人は、権威に対する態度、世の慣行に対する見方、健全な話し方のために、聖書の高い基準に従って生きる人として際立っています」。
 それに加えて、聖書伝道により光を掲げることが必要である。
 「わたしたちが自分の信条について話さなければ、人々はりっぱな行状を見ても、わたしたちが他の人たちと異なっている理由を知ることはできないでしょう」。
 記事はこのようにも指摘している。
 「光を掲げる者としての任務を遂行するには、自己犠牲の精神が求められます」。


独身を受け入れる

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、独身であることを受け入れる者の生き方について考える記事を掲載した。
 独身である者は、その利点を活用するようにと記事は勧めている。
 「普通、結婚していない人のほうが、他の人を助けるために自分を与える時間は多いものです」。
 そこで、独身者はその立場を「神からの賜物」とみなし、それを「喜びと益をもたらす」仕方で用いる者となるべきだという。


会衆の報告

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、エホバの証人の各会衆が、この3月と4月に「特別な努力を払って成し遂げた事柄」を振り返るよう指示した。


大会に備える

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、年末に予定されている国際大会ならびに地域大会に備える一連の記事を掲載した。
 大会から益を受けるためには事前のよい計画が必要だと記事は指摘した。また、大会中は注意を集中して話に耳を傾け、マナーを守ることによって他の人に配慮を示すべきである。
 その他にも、様々な指針、指示が述べられた。
 「地域大会で大勢集まるとき、わたしたちの行動や他の人との接し方は、いつも以上に人々の目に留まります。それで、わたしたち一人一人は、『健全な思いを持ち、すべての事においてりっぱな業の手本となりなさい』という聖書の訓戒に特に注意する必要があります」。
 「宿泊する時、ホテルの規則を良心的に守り、部屋をきちんと整えるなどして従業員に配慮を示すなら、感謝されます」。
 「行儀の悪い若者が非常に多い世界にあって、エホバの証人の子どもは際立って異なっています。しかし、子どもをふさわしく見守らないために問題の生じることが時折ありました。どんな振る舞いが期待されているかを大会に先立って子どもと学びなおしてください」。
 「服装と身だしなみによっても、神をあがめ、霊的備えに対する感謝を表わすことができます」。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、2003年3月と4月の神権学校の復習のための問題用紙を同梱した。


電話を用いた聖書伝道

 近年、都心部などではオートロックマンションが増え、聖書伝道者が人々のもとに達することが難しくなった。また、離島などへんぴな場所への聖書伝道には負担が多い。「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、電話を活用することによってそのような問題に対処できることを指摘し、その提案を示した。
 記事は、伝道者が名を名乗り、「セールスではない」ことを断ることや、「視覚による接触がない分、気遣いを感じ取ってもらえるよう努める」べきことなど、幾つかの指針を述べた。
 また、電話を用いた聖書伝道は、このような状況にも役立っていると記事は指摘している。
 「収穫期に農家周辺を奉仕すると、エホバの証人は働かずに歩き回っているという印象を持つ人がいます。この時期には電話で再訪問を行うことにより、関心ある人に継続的な訪問を続けることができているとのことです」。


聖書研究を始める

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、聖書伝道において関心を持つ人を見つけ、聖書研究へと移行することをテーマとした記事を掲載した。
 「宣べ伝える(つまり聖書伝道を行う)人は音信をふれ告げますが、教える人はそれ以上のことをします」。
 「家の人が何を持っているかに注意を払い、それをその後の話し合いの土台とします」。
 「毎回、励みとなる聖書の考えを一つは伝えることを目標にし、家の人をよく知るようにしましょう」。


雑誌伝道の話題

 「わたしたちの王国宣教」2003年4月号は、雑誌を用いた伝道活動において、何を話題にできるかを提案した。
 たとえば、このように話すことができる。
 「モラルの低下が子どもに与える影響を心配している方が多いようです。悪くなってゆく社会に振り回されないために、家族がしっかりとした価値観を持つ必要があると感じることがあります」。


霊的な価値観

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、宗教とその霊的価値観の衰退を憂慮する特集記事を掲載した。
 「宗教的価値観は危機的な状態にあります」。
 「教会は、宗教“アレルギー”になっている文化圏で自らの音信を伝えることに、かつてなく困難を覚えている」。
 「1999年に、カンタベリー大主教ジョージ・ケアリーは、英国国教会は「あと一世代で消滅してしまう」と警告しました」。
 「道徳面においても、価値観は明らかに危機的な状態にあります。教会に通う人の多くは、自分の教会の戒律を受け入れようとしません。また、宗教指導者には行動の基準を定める権限があるという考えにも同意しません。人権に対する法王の見解に拍手喝采を送るその群衆が、私生活に関することとなると、法王の言葉に従うのを拒みます」。
 「西欧社会では、個人的な自作の宗教が広がっています。人はだれでも、自分の信条を取捨選択する権利があるとする宗教です。ある教義は受け入れられ、別のものは脇へ押しやられます」。
 記事は、これらの問題について、聖書がどのような見方を示しているか、そしてエホバの証人がその教えに倣っていることを示し、読者にも聖書からの学びを勧めるものとなっている。


メキシコからの報告

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、メキシコにおいて行われた特別な伝道活動の報告を掲載した。
 メキシコでは従来から『開拓者ルート』と呼ばれる特別な伝道活動が行われていた。これは僻地に住む人々へ達するためのものである。
 1996年10月から、この活動に、“特別開拓伝道者”の資格を持たない聖書伝道者も加わることができるようになると、若者たちを初めとする大勢の伝道者がこの活動に参加するようになったという。
 今では、容易には足を踏み入れることのできなかったメキシコの僻地に、大量の伝道者が派遣されている。記事はこのように報告している。
 「2002年の初めにはすでに、約2万8300人の開拓者がこの開拓者ルートに参加していました。14万件を越える聖書研究を司会し、200万時間以上を宣べ伝える業にささげました。聖書の真理を学ぶよう援助するために、ほぼ12万1000冊の書籍と、73万部近くの雑誌を配布しました」。


クリスチャンの若者たち

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、クリスチャンの若者たちにとってたいへん励ましとなる、一連の研究記事を掲載した。
 敬虔な生き方を追い求めるクリスチャンの若者にとっては、世の一般的な慣行さえ誘惑となりうる。記事は、このように述べて年若い読者を励ました。
 「例えば、学校の友達は面白そうなパーティーに出かけ、薬物を使い、お酒を飲み、気軽にデートをし、結婚せずに性関係を持つかもしれません。時々、そのような生き方に引かれることがありますか。その人たちが自由とみなすものを少し味わってみたいと思いますか。たとえそうだとしても、自分は心根が悪いとか、クリスチャンには向いていないなどと決め込まないでください」。
 記事は、読者が引き続きクリスチャンとしての敬虔な生き方にとどまるよう勧め、こう述べた。
 「不敬虔な行ないには、高い値札が付いています。それは決してお買い得ではありません。この世は、苦痛を味わうことなしに、そうした楽しみが得られると信じ込ませようとしています。しかし、それは全くのところ不可能なことです。質の劣ったそのような生き方によって、若い時をどうして無駄にしてよいでしょうか」。
 続いて記事は、神が若者たちに敬虔な生き方を求めているのはなぜかを論じ、世の若者たちに普通に見られるような反抗者の論理に反駁した。
 「エホバは、あなたを含め、すべての人の命を貴重なものと見ておられます。エホバがみ言葉の中で、世のものとならないよう説き勧めておられるのは、生活の楽しみをそぐためでも、自由を制限するためでもありません。むしろエホバは、邪悪な者のゆえにあなたを見守っておられるのです。エホバは、あなたが成功することを望んでおられ、その目標に達するように促しておられるのです」。
 「エホバは深い感情をお持ちであり、人間の良い行動や悪い行動に応じてさまざまな心情を持たれます。あなたが間違った歩みをするなら、創造者に痛みを与えることになるのです。エホバはあなたを愛し、あなたの福祉を気遣っておられます」。
 続いて記事は、読者である若者に、神に仕える者としての自分の動機を考えるようにと勧めた。
 「神に仕える者は、愛を動機としてではなく、利己的な理由で仕えていると、サタンは主張します」。
 「あなたは自分の行動によって、サタンの嘲弄とエホバの返答のいずれかへの支持を表明することになります。あなたはどちらを擁護しますか」。
 続いて記事は、神に仕える若者たちにエホバが報いることを指摘した。
 「エホバは、あなたが神への奉仕においてこれまで行ない、今なお行い続けている事柄を自分が忘れるとすれば、それを実際には不義の行為、つまり罪とご覧になります」。
 そして記事は、そのようにして報いてくださる神に若者たちがどのように仕えることができるかを示した。
 「証人の若者の中には、聖書の話を聞いてくれる人を見いだし、自分の確信に添ってしっかり立ったゆえに同年代の仲間からいっそうの敬意を得た人も少なくありません」。
 「もちろん、ただ神について語るだけで、エホバの心を喜ばせることができるわけではありません。自分の行ないを神の基準に合わせることも必要です」。
 記事はこのように述べている。
 「クリスチャンの多くの若者は、信仰のために厳しい戦いをしており、それを通して喜びを得ています。時に困難に面しても、生きる真の目的があり、真の将来があることをわきまえているのです」。
 「エホバに仕えることに伴う祝福は長く続きます。あなたも、神について学び、また語るための努力にエホバが報いてくださることを確信できます。実際、神はあなたの働きと、こうしてみ名に示した愛とを忘れたりされることは決してないのです」。


ボアズとルツの結婚

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、聖書に記されている、ボアズとルツの結婚の物語を取り上げた記事を掲載した。


記事を振り返る

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、ここ数カ月、「ものみの塔」誌に掲載された事柄を振り返る問答集を掲載した。
 たとえば、「仕事に対する平衡の取れた見方を培うのに何が助になりますか」という質問にはこう答えている。
 「仕事を尊ぶよう子どものころから訓練するのは有益です。聖書はわたしたちに、良い職業倫理を持ち、怠惰を避けるよう勧めています」。


万人の救済

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、「エホバは普通の人々を顧みられる」と題する論考を掲載した。
 神の恵みを得るためには、人は特別であるべきなのだろうか。記事はそのような考えを否定するものとなっている。
 「神が普通の人々に個人的な関心を払っておられると信じることのできる理由があります」。
 記事は、その理由を指摘した後、このように述べた。
 「今日でも同様に、神はわたしたちに誠実な関心を払っておられます。だれも自分は愛されていないとか価値がないなどと感じるべきではありません」。
 「わたしたちは、この世からどうみなされようと、真理を愛しているなら神の目に特別な存在なのです」。


愛ある親切

 「ものみの塔」誌2003年4月15日号は、聖書の「愛ある親切と真実があなたから離れることのないように」という言葉を強調する小記事を掲載した。


子供の生活について考える

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、子供の生活が危機にさらされていることを指摘する特集記事を掲載した。
 「おそらくあなたも、子どもは皆、それなりに安心して無邪気に子ども時代を過ごせるようであるべきだと考えておられるでしょう。しかし悲しいことに、そのようにして幼い時を過ごせない子どもたちが多いのです。考えてみてください。幾万人、いえ、おそらく幾百万人もの子どもたちの夢が打ち砕かれています」。
 記事は、特に先進国において顕著な、いわゆる“つめこみ”の問題を取り上げた。
 「親が子どもの成功を強く願うのは理解できます。とはいえ、その願いが心配事に変わってしまうと、親は子どもに負担をかけすぎ、あまりに早くから、過度のプレッシャーを与えてしまうかもしれません」。
 「子どもの才能や関心を伸ばすことは間違いではありません。しかし、行きすぎという危険があるでしょうか」。
 また記事は、親が子供を贅沢にさせるという問題を取り上げた。
 「仮に、大衆的メディアにしたがって考えるとすれば、何でも欲しいものを持たせるのが子どもに理想の生活と言えるかもしれません。ある親たちは、子どもにすてきな家や好むままの楽しみ、高価な衣服など、できる限り物質面の快適さを得させようとして極端なまで一生懸命に働きます」。
 「そのような親は「金銭と引き換えに親を退役」しようとしているのです」。
 そこで記事は、聖書から巧みに、親が子供の生活を大切にすべきことを説いている。
 また記事は補足的な点として、「早すぎる思春期の問題」に触れた。
 近年、思春期の訪れが早くなっていると言われている。そのために生じうる問題に親は対処すべきである。
 「このような傾向は親にとっても子どもにとってもかなりの問題となります」。
 「幼い少女たちが、心と知力の準備もできないまま、ただ体つきのために大人とみなされるなら、ただ性的に利用されて、純潔を失ってしまう場合が少なくありません。年齢のわりに大人びて見える女の子たちは、ミツバチにとっての花のみつのようなものです。年上の男の子の気を引いてしまいます。圧力に屈して幼い年齢で性的な行動に携わるなら、その代償は高くつきます」。


ガリレオ裁判

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、ガリレオ裁判を取り上げた教育記事を掲載した。
 ガリレオ裁判は、しばしば誤った仕方で引き合いに出されていると記事は指摘した。
 「ガリレオの例は、科学と宗教がどうしても相いれないことを証明している、と結論する人は少なくありません」。
 記事は、相いれなかったのは、科学と宗教ではなく、科学と宗教上の迷信であったことを指摘した。実のところ、聖書は天動説を否定などしておらず、ガリレオも異端ではあり得なかったのである。
 記事は、補足的な点として、「太陽が空中でとどまる」ことについての聖書の記述についてこのように解説した。
 「公正な見方をする読者であれば、太陽が空中でとどまることに関する記述が、科学的な分析を意図したものではなく、目撃者である人間の見地からどう見えたかという単純な観察にすぎないことを、すぐに認めるでしょう」。
 また記事は、単なる言い回しの問題についても触れた。
 「天文学者たちも、太陽、月、惑星、星などが昇ったり沈んだりすると述べることがよくあります。それは、そうした天体が文字通り地球の周りを回るという意味ではなく、空を横切るように見えるという意味です」。
 また記事は、カトリック教会が1992年にガリレオの“名誉回復”を行ったことを茶番とみなす意見を幾つか紹介している。
 「迫害者は、その迫害による被害者の名誉を回復する立場にはいない」。


イギリスのハリネズミ

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、イングランド北部に生息するハリネズミを紹介する教育記事を掲載した。


後遺症により試みられる

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、交通事故の後遺症により、精神的につらい状態に陥ったものの、信仰によってその危機を乗り越えることのできた、スタンリー・オムベバによる経験談を掲載した。
 「私は自分の惨めな境遇について思い悩んだり、くよくよしたりして多くの時間を浪費していました」。
 しかし、彼は神への信仰を失わず、聖書の言葉を希望として立ち直っていったという。
 彼はこのように述べている。
 「このけがに対処することは、私の人生における最もつらい戦いとなりました。そして戦いは今でも続いています。自分の命と信仰がこれほどの危機にさらされたことはありません。謙遜さ、道理をわきまえること、そして感情移入について多くのことを学びました。この問題に耐え、がんばり通すうえで、エホバへの全幅の信頼と確信はいつも支えとなりました」。


ピーナッツ

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、ピーナッツを取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、ピーナッツ栽培の歴史、ピーナッツの利用法などを取り上げた後、補足的な点として、ピーナッツアレルギーについて触れ、読者の注意を喚起している。


養子であるなら

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、養子であることを悩みにしている若者たちを励ます記事を掲載した。
 養子であることには様々な葛藤がある。記事は、その怒りを「間違った仕方で、あるいは間違った対象にぶつける」ことがないよう読者を諭した。
 「これまで受けた愛のほうに目を向け、それを高く評価するなら、感じている何かの苦痛を和らげられるかもしれません」。
 また記事は、養子であることの苦しみと喜びとを描いた3つの写真を示し、たとえつらいことがあるとしても、「養子になったのは、引き取って世話をするほどだれかがあなたを愛してくれた証拠」であると説いている。


いい加減な“10大ニュース”

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、イギリスにおいてアンケート調査が行われ、ここ100年の10大ニュースのトップに“皇太子妃の死去”が挙げられたと報じた。
 記事は、「大半の人にとって歴史は、最近テレビで何を見たかによって大体決まる」と指摘している。


離婚と子供の退学

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、離婚家庭の子供は、成績の不良により学校を退学する確率が2倍となると指摘した。


頭痛と薬

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、頭痛持ちの10パーセント近くが頭痛薬の後遺症で頭痛に悩んでいると指摘し、頭痛薬の乱用を戒めた。


ジャングルの危機

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、ロイター通信からの話として、「思い切った対策を講じない限り、大型類人猿のすめるジャングルは30年以内にほぼ消滅する」と報じた。


昆虫の耳

 「目ざめよ!」誌2003年4月22日号は、昆虫の耳についての最近の研究の成果を紹介する記事を掲載した。


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