JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2003年版(2)
2004年2月1日更新

引用文は適宜語尾等を修正しています

神に問う

 「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、神に対する人々の疑問を取り上げた特集記事を掲載した。
 もしも神が人から質問を受けるとすれば、人は何を訊ねるだろうか。おおかた、このようなものになるだろう。
 「苦しみがこれほど多いのはなぜですか。自分のせいではないのにひどい苦しみに遭う人も少なくありません。なぜこのような状況がこれほど広がっているのですか。なぜ神はこのような苦しみを許しておられるのですか」。
 「わたしたちはなぜ存在しているのですか。人生の目的は何ですか」。
 記事は、そのような問いに聖書から答えるものとなっている。


エホバを求める

 「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、神を求めることをテーマとした研究記事を掲載した。
 「「神はどこにおられるのか」。ある人たちはただ、創造者について基本的な点を、つまりその方の居場所を知ろうとしてそのように尋ねてきました。また、広く影響を及ぼした何かの災難に遭うか、個人的に苦況に陥るかして、神がなぜ介入されないかを理解できずにそう尋ねてきた人々もいます。一方、神の存在そのものを否定して、何も問おうとしない人たちもいます」。
 しかし記事はこのように指摘した。
 「全地に住む幾百万もの人々が、真理に対するひたむきな愛に動かされて、まことの神を探求してきました。その努力は無駄になっていません。神は、わたしたちが神を知り、ご自身の目的について多くを学べるようにしてくださっています」。
 記事は、聖書に記されている記録から、ダビデやエホシャファト、サウル、ソロモン、アサの事例を紹介し、人がどのように神を知り、神に近づけるかを示している。


フィリピンでの輸血拒否

 エホバの証人は輸血を拒否することで知られているが、エホバの証人はこの問題に直面する医師を援助するための専門機関として、ホスピタル・インフォメーション・サービスならびに医療機関連絡委員会の二つの組織を結成している。「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、フィリピンにおける医療機関連絡委員会の活動を取り上げた小記事を掲載した。
 記事によると、現在、フィリピンには21の医療機関連絡委員会があるという。


真の慰めとなる

 「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、真の慰めをテーマとした一連の研究記事を掲載した。
 「エホバは、人間の直面している不幸な事態に遺憾の意を表わす以上のことをされました。救出を可能にするための贖いとしてご自身の独り子を遣わし、み子に信仰を働かせるなら救済されるということを教えてくださったのです」。
 「イエスは、宣教を行ないながら、信仰を抱いて耳を傾ける人たちを慰めただけでなく、その後の幾千年にもわたって人々に慰めを与えるための基礎を据えたのです」。
 さらに記事は、エホバ、イエスに加え、聖霊という慰めが存在することを示した。
 聖霊は、聖書原典ではパラクレートスと呼ばれ、これは英語の“paraclete(慰め手)”の語源となった。記事は、聖霊がいかにしてクリスチャンを慰めるものなのかを解説した。
 記事は、すべての人がこの慰めを必要としていると指摘した。
 「若い人も年配の人も慰めを必要としています」。
 「励ましを与える側の人でさえ、励ましを必要としているでしょう」。
 「すべての真の慰めの神であるエホバは、災いに遭っている他の人たちを気遣うようわたしたちに教えておられます。憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ、嘆き悲しむ人すべてを慰めるようにと教えておられるのです」。
 「わたしたちは必要に応じて、仲間の崇拝者たちにそのような助けを差し伸べます。また、会衆(教会に相当)外の人たちに、さらにわたしたちへの愛を明らかにしたことのない人たちにも愛を示します」。
 記事は、苦しんだり悲しんだりしている人々を慰めるにあたって、聖書を用いることを読者に勧めた。また、具体的な状況をいくつも指摘し、それぞれの場合に、どのような聖書の言葉を選んで読み聞かせることをができるかを具体的に紹介している。


エホバの証人の建設業

 「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、メキシコにおいてエホバの証人の教会施設を建設するための国際的な協力を紹介する記事を掲載した。
 記事は、「インターナショナル・サーバント」や「インターナショナル・ボランティア」の立場にある証人たちの活動を紹介している。


小さな信仰

 「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、ささやかな信仰にさえ、神からの恵みと祝福があることを説く、励みとなる記事を掲載した。
 「それほど際立った仕方で信仰を示したわけではない人たちの信仰の行ないにも神は目を留めておられる、という保証が聖書にはあります」。
 記事はこのように述べて、ささやかな信仰を持つ読者を励ましている。
 「わたしたちは、モーセやギデオンやダビデといった霊的な人たちの目覚ましい行為には決して太刀打ちできないと思うかもしれませんが、彼らの信仰に見倣うことはできます。また、アベルやエノクやザレパテのやもめの示した、つつましい信仰の行ないを思い起こすことができます。エホバはあらゆる信仰の行ないに関心を持たれます。それは、小さな行ないであっても変わりません」。
 さらに記事は、クリスチャンがお互いを、業の多い少ないによってむやみに評価することのないよう勧めた。こう述べている。
 「わたしたちは神を見倣う者として、他の人たちの努力を認める点で敏感でありたいと思います。次いで、そうした努力を高く評価していることを、仲間たちに伝えましょう」。


どこからか声が聞こえるとき

 もしも、誰もいないのにどこからか人の声が聞こえるとしたら、それは何を意味しているだろうか。「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、この問題についての見解を述べた。
 この種の問題を抱えている人たちの中には、自分は悪霊の声を聞いていると考える者がいる。しかし記事は慎重な味方を示し、そのような症状は統合失調症(精神分裂病)に見られるものなので、とりあえずは医者に診てもらうようにとアドバイスを述べた。


良心

 「ものみの塔」誌2003年5月1日号は、良心をテーマに、聖書からザアカイの事例を取り上げた小記事を掲載した。
 「良心を信頼できる導きとするには、正邪の区別に関して正しく教育され、そして、その声に敏感でなければなりません」。
 ザアカイは罪人であったが、変化した。
 「ザアカイの良心は教化され、その良心にザアカイは耳を傾け、答え応じました」。
 記事はこのように述べている。
 「なんと励みになる例なのでしょう。以前にどんな歩みをしていたにせよ、人は変化できるのです。人は、訓練された良心に耳を傾けて、正しいことを行なうことができるのです」。


糖尿病

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、糖尿病を取り上げた特集記事を掲載した。


サンタクロース

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、フランスにおいて1951年に行われた“サンタの処刑”を取り上げた記事を掲載した。
 「サンタクロースが何をしたというのでしょうか。ある聖職者はサンタクロースを異教徒として糾弾し、クリスマスを異教化していると非難していました」。
 「公式声明は、「うそは子どもの宗教心を呼び覚ますことができないし、教育の手段ともなり得ない」と述べています」。
 しかし、サンタクロース伝承に「キリスト生誕の純然たる意義からの逸脱」と「うそ」と「活発な異教信仰」が見られているとしても、サンタクロースは相変わらず人気を博している。
 「サンタクロースが異教に由来することに対するどんな良心のとがめも、大抵の場合は、大衆の支持という岩に乗り上げてしまっています」と記事は述べている。


学校で信仰について話す

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、学校で自分の信仰を公にして成功した一人の少女を紹介する記事を掲載した。


 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、砂を取り上げた教育記事を掲載した。


ミミズ

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、ミミズを取り上げた教育記事を掲載した。


カバ

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、ケニアのマサイ・マラ動物保護区のカバを取り上げた教育記事を掲載した。


クリスチャンの一致

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、クリスチャンの多様性と一致をテーマとした論考を掲載した。
 個人の自由や個性が重んずべきものであることを考えると、キリスト教の信仰はどのようであるべきだろうか。
 記事は、クリスチャンに求められているのは「画一性ではなく、一致である」と鋭く指摘した。
 クリスチャンは「何も考えない自動人形」のようになってはならない。むしろ理性をもって生きるべきである。
 「それゆえクリスチャンは、自分の信じている事柄が、み言葉の真理と調和しているかどうかを確かめます」。
 こうして、クリスチャン社会内では、「教理面でも道徳面でも一致が保たれる」と記事は述べている。


宣伝と性

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、性的なメッセージを含んだ宣伝が商品の売り上げを伸ばす傾向にあり、広告業者は利潤のために道徳の境界線を踏み越えていると指摘した。


国語力の低下

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号がデイリー・ヨミウリ紙からの話として紹介したところによると、日本の子供たちの国語力は大きく低下しているようである。多くの子供たちが「本を読まなくなった」と記事は述べている。


愛されない子供たち

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、同誌2002年9月22日号に掲載された、愛してくれない親を持つ子供たちへ向けられた記事に対する読者の反響を掲載した。


アフリカの太鼓

 「目ざめよ!」誌2003年5月8日号は、ジェンベという太鼓を取り上げた小記事を掲載した。


若い人に健全な助言を

 この時代に、「若い人たちに健全な助言を」ということを考え、実践する人たちがどれほどいるだろうか。「目ざめよ!」誌2003年5月8日号が紹介した話によると、米国カリフォルニア州の裁判所の一カウンセラーは、この目的を達成するために、「目ざめよ!」誌を活用している。
 彼は、「目ざめよ!」誌に掲載される若者向けの記事をテーマごとに分類してファイルし、カウンセリングを受ける若者たちに渡しているという。


託された福音伝道

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、福音伝道の職を信託物と考えるべきことを説く記事を掲載した。


非公式伝道

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、非公式の伝道(聖書伝道の取り決めとは関係なく行われるもの)に積極的であるよう読者に勧める記事を掲載した。


会衆の必要

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、エホバの証人の各会衆が、それぞれの会衆の必要を取り上げるよう指示した。


誉れある結婚

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、エホバの証人の各会衆に対し、聖書が述べる「誉れある結婚」とは何かを会衆内で討議するよう求めた。


子供を進歩させる

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、エホバの証人の各会衆に対し、親が子供にどのようにクリスチャンとしての訓練を施せるかを討議するよう求めた。


神権宣教学校から益を得る

 神権宣教学校の新しいカリキュラムが施行されてから5カ月目に入り、「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、その特色を際立たせ、生徒がカリキュラムから益を得るよう鼓舞するプログラムを実施するよう指示した。


会計検査

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、エホバの証人の各会衆が会計検査を行うようにと指示した。


ヨーロッパでの施設建設

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、東欧など、ヨーロッパの比較的貧しい国々において、どのような施設が新築されているかを写真によって紹介した。
 貧しい国々においては、教会施設の建築はまず費用の面で挫折を余儀なくされる。しかし、これらの建設活動は、世界中からの寄付によって費用がまかなわれたものである。
 記事は、この寄付に対する感謝を表明し、このように述べている。
 「王国会館基金をさらに支持することによって数多くの国の王国会館建設を早めようとするわたしたちの努力に、エホバが引き続き豊かな祝福を注いでくださいますように。その結果、資金や人の限られている国でさらに多くの王国会館が加えられるでしょう」。


全時間伝道はキャリア

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、全時間伝道をキャリアとするよう読者に勧める記事を掲載した。
 「神の奉仕者は、人の内面を扱い、最善の生き方を教え、霊的、道徳的教育を施します。ですから、開拓奉仕を簡単にこなせる仕事と見なすのではなく、専門的な訓練を必要とする価値ある生涯の仕事と考えてください」。
 また、記事はこのようにも述べている。
 「教える業を通して、粘り強さ、エホバに依り頼む態度、謙遜さ、み言葉の力に対する認識などを身につけることができます。この業に真剣に取り組み追求するなら無上の喜びを味わうことができます」。
 また、全時間伝道が行えない人については、記事はこう述べている。
 「すべての人が全時間奉仕を行なうことができるわけではありません。エホバは「心がどうかを見る」方なので、心の願いを十分にご存じです」。
 「わたしたちのだれも仲間のクリスチャンにとって何が魂をこめた奉仕なのかを判断する権限は与えられていません」。


聖書を際立たせる

 「わたしたちの王国宣教」2003年5月号は、聖書伝道の現場において聖書を積極的に用いるよう勧める記事を掲載した。


大洪水と教訓

 「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、聖書に記されている洪水物語から人々が何を学ぶべきかを示す特集記事を掲載した。


信仰により生き方を変える

 「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、リヒャルトという男性が聖書を学び、どのように生き方を変えたかを紹介する記事を掲載した。
 この男性は、エホバの証人の助けを得て、破綻した家族生活を立て直すことができたという。
 記事は、エホバの証人と対立する教派が悪意ある情報を流していることに触れ、こう述べている。
 「一部の人たちは、誤った情報を与えられエホバの証人は家庭を破壊していると非難しています。しかし、ヒリャルトのような人たちの例は、そうした主張が間違っていることを証明しています」。


啓示の書から学ぶ

 「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、聖書の黙示録(啓示の書)の最初の部分に記されている、イエス・キリストからの諸会衆へのメッセージの内容を考察する研究記事を掲載した。
 記事は、このメッセージから学べるさまざまな点を指摘している。


クリスチャンの競争

 聖書には、クリスチャンが勝利すべき競走についての記述がある。「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、その具体的な適用を扱った教訓的な記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「わたしたちは皆、自分の『足のためにいつもまっすぐな道を作る』必要があります」。
 「決定を下すときには、エホバの助けを願い求めます。聖書に収められている助言、またクリスチャンの集会や長老たちから与えられる助言、聖書に基づく出版物が述べる助言などを受け入れて適用するのは、とても重要です」。
 「決定を下すときには、次のように自問するとよいでしょう。『今から5年か10年先に、この決定に満足しているだろうか。それとも後悔しているだろうか。決定が、自分を霊的に不安定にするものではなく、霊的な進歩に役立つものであることを確認するよう心掛けているだろうか』」。


いちじく

 「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、聖書にでてくるいちじくに関する記述を取り上げた記事を掲載した。
 最後に記事は、イエスが終わりの日について「いちじくの木から学びなさい」と語ったことに触れ、この述べている。
 「わたしたちは歴史上の重大な時に暮らしているので、ぜひともいちじくの木から教訓を学びたいと思います」。


タティアノス

 「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、西暦2世紀の著述家であるタティアノスを取り上げた記事を掲載した。
 この時期、キリスト教は、禁欲主義を実践するグノーシス主義と闘っていた。
 「イレナエウスは異端的な教えに対する生涯にわたる闘いに着手しました。いっぽう、イレナエウスの友人フロリヌスは、その同じ教師から学んだにもかかわらず、グノーシス運動の最も顕著な指導者ウァレンティノスの教えに染まりました。この時期の思想に光を当てているのは、西暦2世紀の注目すべき著述家タティアノスの著作です」。
 「タティアノスの著作は、この人が護教家、つまり自分の信仰を擁護して大胆に語る著述家であったことを明らかにしています。異教の哲学には、厳しい敵対的な態度を取りました」。
 「タティアノスの著作を注意深く調べると、この人物が聖書によく通じ、それに深い敬意を抱いていたことが分かります」。
 「しかし、タティアノスは結婚は悪魔によるものとしました」。
 記事は、「タティアノスはなぜこれほど聖書からそれたのでしょうか」と問いかけ、クリスチャンである読者に対し、背教のわなに陥らないよう勧めている。


イエスの死と契約の効力とバプテスマ

 「ものみの塔」誌2003年5月15日号は、最近「ものみの塔」誌が公表した、バプテスマについての教理上の修正についての補足点を述べた。
 聖書によると、メシアであるイエスは、「多くの者のために一週の間契約の効力を保つ」ことになっている。
 記事は、この言葉の意味を解説した後、それによって「神との関係を持つための、また罪の許しを得るための基盤全体が変わった」と指摘した。
 そこで、古い契約が効力を失ったとき、「信者となったユダヤ人は、この新たな取り決めを受け入れる必要がありました。どのようにでしょうか。神に献身することによって、またイエス・キリストの名において水に浸されてバプテスマを受けることによってです」と記事は述べている。


病気を広める昆虫たち

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、昆虫が広める種類の病気を総合的に取り上げた特集記事を掲載した。


ノルウェー沿岸急行船

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、ノルウェー沿岸急行船を取り上げた教育記事を掲載した。


養子としての生活

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、養子である子供たちへ向けた教育記事を掲載した。
 記事は、養子であることをつらく感じる読者にさまざまなアドバイスを述べている。
 「養子としての生活に喜びを見いだすには、気落ちさせる考えと闘うことがぜひとも必要です」。
 「育て親の欠点のために、従うのが非常に難しい場合があります。そのような時、自分が養子であることを盾に取って、従う義務を多少とも免れられないものかと考えてしまうとしても、驚くには当たりません。しかし実際、免れるのでしょうか」。
 記事は、ただ養父母との関係を保つのではなく「絆を強める」よう読者を励ました後、このように述べている。
 「養子である若い人たちの中には、捨てられるのではないかという恐れと闘っている人が少なくありません。愛する人たちを失うのではないかという病的な恐れに支配されてはなりません(注:恐れそのものを捨てる、忘れるという意味ではなく、恐れが引き起こす、怒りや自己憐憫といった悪作用を避けるという意味。つまり「病的な恐れを捨てる」)。むしろ、家族全員と他の人に対する愛をさらに身につけてゆきましょう。何よりも、天の父エホバ神に対する愛を深めてください」。


数学を使おう

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、数学を日常的に用いることを勧める教育記事を掲載した。


リマ

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、ペルーのリマを取り上げた教育記事を掲載した。


家庭の安定

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、離婚家庭においては健康問題が50パーセント増加している、また家出が2倍、虐待が5倍となっていると指摘した。
 二親に恵まれた家庭では、たとえ貧しくても、このような問題は起こりにくいと記事は指摘している。


子供の睡眠不足

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、子供の睡眠不足が深刻であると警告した。US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌はこう指摘しているという。
 「睡眠の負債を抱える子どもはたいてい注意持続時間が短く、いらいらしており、かっとなりやすく、せっかちである」。


コンピュータと余暇

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、コンピュータを利用したテクノロジーが人々から余暇を奪っていると指摘した。
 コンピュータは家庭に仕事を持ち込んで暇を奪う、仕事の効率はよくなるがストレスは増大する、そのうち生産性に影響がでるような症状が現れる、と記事は指摘している。


若者と献血

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、日本における、献血を増やすための新しい試みを紹介した。献血に若者が関心を持つよう、献血所にゲームやお菓子などを用意しているという。


法王グッズ

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、法王グッズの売れ行きが危機的状況にあるようだ、と指摘した。
 「2002年の法王のポーランド訪問が大々的に報道されたにもかかわらず、需要はほとんどなかった」と記事は述べている。


成功は大切か

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、子供が成功することについて述べた「目ざめよ!」誌の記事に対する異論を紹介した。
 日本の一読者はこのように指摘し、意見を述べている。
 「この特集記事にはとても残念に思われる所がありました。たとえば、「成功」という言葉が何度も用いられています。私も記事の提案を実行してきたと思うのですが、そのページの写真の親と同じレベルの成功を収めてはいません」。
 また、こう述べている。
 「成功とは、子どもが全時間の福音宣明者や宣教者になることだけではないと思います」。
 「目ざめよ!」誌は「成功したかどうかは、尺度によって異なると思います」と述べ、その意見に同意した。


ボールドウィン通り

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、世界一急な坂道と呼ばれるボールドウィン通りを紹介する小記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が読者を大会講演に招待

 「目ざめよ!」誌2003年5月22日号は、今年の10月に日本各地で開催される大会において、「今日だれが神に栄光を帰しているか」と題する聖書公開講演が行われることを告知し、読者を大会に招待した。


慈善活動

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、慈善活動をテーマにした特集記事を掲載した。
 記事は、キリスト教の信仰と慈善行為との関係についてこのように述べている。
 「その主な動機となるのは、神に対する深い愛と、神の憐れみ深く寛大な性格に倣いたいという願いです」。
 「神への愛は、慈善を行なうよう人を動かします」。
 「神は、ご自分に見倣って寛大な精神を示す人を高く評価され、そのような人に報いをお与えになります」。
 「イエスは、神ではなく施す人に栄光を与えるためになされる、これ見よがしの言動を戒めました。初期のクリスチャンはこの訓戒を当てはめ、これ見よがしの言動を避け、困窮している人を助ける際には、個人的に世話をしたり贈り物をしたりする道を選びました」。
 一方で、記事はこのようにも述べている。
 「イエスは、貧しい人に対する慈善的な施しだけが神に喜ばれる施しではないことを明らかにしました」。
 「慈善は褒めるべき有益な行ないであるとはいえ、キリストの弟子であることにはもっと多くのことが伴います」。
 「イエスがいちばん関心を持っていたのは、他の人を霊的(宗教的)な面で助けることでした。率先して貧しい人を助け、病気の人をいやし、飢えている人に食物を与えたとはいえ、イエスがおもに行なったのは、宣べ伝える訓練を弟子たちに施すことでした」。
 記事は、聖書伝道を通して「霊的な贈り物」を人々に差し出すことがもっとも益となる行為であることを説いている。


パウロと自足

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、パウロが実践した自足を取り上げる教訓的な論考を掲載した。
 「パウロは宣教を全く無償で行ないました。神への奉仕に全く専念していたので、物質的な所有物はほとんどありませでした」。
 では、パウロはなぜ幸福な人であると言えるのだろうか。
 「パウロに幸福と満足をもたらした主な要素は、自足感でした」。
 記事は聖書からパウロの実践した自足の理念を紹介した後、このように述べた。
 「今日、多くの心配事や不満を抱え込む人は少なくありません。自足の秘訣を知らないか、無視しているからです。そういう人は、自足の精神を培うよりも、お金や、お金で買えるものに信頼を置こうとします。その結果、多くの人がお金や物質の追求の犠牲になっています」。
 記事は、自足の秘訣を学んだ人の具体的な事例を紹介した後、このように読者を諭している。
 「今は自分の生き方をよく考えるべき時です。貧しい境遇にあるなら、憤慨しないように、さらには苦々しさやそねみに満たされないように用心してください。一方、どんな物質的所有物があっても、それをふさわしい位置に置き、それに支配されないようにするのは賢明です」。


テロ時代におけるクリスチャン

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、テロとクリスチャンをテーマにした研究記事を掲載した。
 テロに関する世界情勢の変化は、長年にわたり平和主義と政治的中立を標榜してきたエホバの証人を試みるものとなっている。この新たな試練にエホバの証人はどのように立ち向かうべきだろうか。
 「エホバの証人が政治的な中立を保つことはよく知られています。大半の人は、平時にはこの立場を快く認めますが、非常事態が発生するとあまり肝要ではなくなります。多くの場合、戦争に伴う恐れや不安感により、国家主義的な感情が大いに高まります。そのため、一部の人は、全国的な運動を支持しようとしない人の考えを理解しにくく感じます。しかし、真のクリスチャンは、『世のものとなってはならない』というイエスの命令に従うべきことをわきまえています」。
 「見せかけだけのクリスチャンがしばしば「剣」にものを言わせてきたことは歴史上の事実ですが、エホバの証人はそのようなことを行ないません」。
 「エホバの証人は第一に、自らがテロ活動に関与することは決してありません。第二に、人々にキリスト教の原則を教えており、その原則に従う限り、人はいかなる暴力を振るうこともありません」。
 記事は最後にこう述べている。
 「真のクリスチャンとしてわたしたちは、クリスチャンの中立を保つことの必要性をよく理解しており、それを保とうと決意しています」。


エホバの戦いと救い

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、聖書に記されている「マゴグのゴグ」による戦いと「ハルマゲドン」の戦いとの関連を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事によると、ハルマゲドンは、政治権力を表す「マゴグのゴグ」による「神の民」への攻撃が引き金になるという。
 しかし、「神の民」であるクリスチャンは、その攻撃に対してこのように応じる。
 「ハルマゲドンにおいて、キリストの追随者たちは闘うにはおよびません。それまでの間、クリスチャンは引き続き、人的な武器ではなく霊的な武器を持って悪と闘います。そのようにして『善をもって悪を征服してゆく』のです」。
 そのようにしてクリスチャンとしての忠誠を保つなら、聖書の描くハルマゲドンのシナリオが現実のものとなるとき、「報いとしての救い」を経験することになるだろうと記事は述べ、読者を励ましている。


レジナルド・ウォールワークの手記

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、妻と共に宣教者としての立派な奉仕を果たした、レジナルド・ウォールワークによる手記を掲載した。


香をたくのはどうか

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、香の使用にかかわる問題点を指摘する記事を掲載した。
 「多くの宗教の儀式や礼拝で香が用いられています。加えて、芳香を家庭で楽しむために香をたくようになった人が増えています。クリスチャンとしては、香をたくことをどう見るべきですか」。
 その答えは聖書と、初期のキリスト教信仰から導かれる。
 「律法契約は、西暦33年にキリストが新しい契約を制定したときに排され、祭司が聖なる香を捧げる規定も排されました」。
 「初期クリスチャンにとって、香の使用は異教信仰のしるしでした」。
 「初期クリスチャンはまた、たとえ命を失うことになろうとも、ローマ皇帝の“神性”を認めて香をたくことを拒みました」。
 「香が偶像礼拝に用いられていたため、初期クリスチャンは香の売買に携わろうとしませんでした」。
 ところが、今ではかなり実状は異なっている。
 「キリスト教世界の多くの教会で、香は儀式や典礼で用いられています」。
 それに対して記事はこのように鋭く指摘した。
 「エホバは、偽りの宗教の慣行と真の崇拝を融合させようとする人たちを強く非としています。そこで、真のクリスチャンは、偽りの崇拝やオカルトと関わりのあるものをすべて避けるように注意します」。
 一方で、記事は極端な態度を戒め、このように述べている。
 「香が宗教儀式や心霊術に使用されているゆえに、香をたくことはすべて間違いになるでしょうか。必ずしもそうではありません。ただ芳香を楽しむために、家で香をたきたいと思う人もいることでしょう」。
 最後に記事は、聖書から、クリスチャンが香に代わって捧げるべきものがあることについて触れ、こう述べている。
 「今日のクリスチャンとしては、文字どおりの香を用いませんが、天の父に対する深い感謝と敬意を反映する祈りをささげます」。


ペットの安楽死

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2003年6月1日号において、ペットを安楽死させることに関する見解を公表した。
 記事の中で統治体は、「クリスチャンは、動物を扱う際にも神のご意志にそって行動したいと思う」と前置きした後、「動物に対する残酷な扱いは神のご意志に反している」と指摘した。
 さらに統治体は、「神は創造者であられるので、人間と動物との間の正しい関係を定める権利を持っておられる」と述べ、「神は、人間が動物を利用し殺すのは間違っていないことを明示された」と指摘した。
 結論として、統治体はこう述べている。
 「人間は動物を支配する権威を有していますが、その権威を誤用すべきではなく、神の言葉の諸原則に沿って用いるべきです。ペットが老齢、重傷、難病などで苦しみ、普通に考えて回復の見込みが全くなく、ペットがずっと苦しむままにしないのが憐れみのあることだと判断するなら、クリスチャンはそのペットを安楽死させることにするかもしれません」。


コスモス

 「ものみの塔」誌2003年6月1日号は、コスモスを取り上げた小記事を掲載した。


変わりつつある価値観

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、価値観の変化を考える特集記事を掲載した。
 価値観が変化していく中で拡大する問題に「道徳上の大きな混乱」があると記事は指摘した。
 「価値観が悪い方向に変わっているのも不思議ではありません。道徳指針を持たないこと、また物質中心の目標や自己中心的な個人主義が重視されてきたことが、貪欲で他の人の感情にむとんちゃくな文化を育ててきました」。
 記事は、「敬虔な価値観を守る統治」の必要性を訴え、「聖書からくる価値観」の益を紹介するものとなっている。


 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、水を取り上げた教育記事を掲載した。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、15問の聖書クイズを掲載した。
 たとえば、このような内容になっている。
 「4.たいていのヘブライ語学者は、神の名をどのように発音することを好みますか」。
 答えは「ヤハウェ」である。


オーストラリア望遠鏡国立施設

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、オーストラリアにある巨大な電波望遠鏡施設を取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、この望遠鏡の撮ったさまざまな天体写真を解説付きで掲載している。


「卑猥な話」とは

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、「卑猥な冗談」や「とげとげしい言葉」についての聖書の立場を論じる教訓的な論考を掲載した。
 話す能力は神からの賜物であるが、「この賜物を誤用する人がいる」と記事は指摘した。
 「侮辱、悪態、不敬な言葉、冒とく、下品な話、卑わいな言葉は、人の感情を害することがあり、時として身体的な負傷よりも痛手となります」。
 「普通の言い方ではこちらの気迫が伝わらない場合、汚い言葉を使うことは強力な一手になるはずだ」などと考える者も多い。しかし、記事はこう問いかけている。
 「クリスチャンは、人の感情を害する言葉を発することに対してそのような無神経な態度を取ってもよいでしょうか」。
 答えははっきりとノーである。
 記事は、聖書の述べる「卑わいな冗談」とは何かを論じた。
 「卑わいな冗談とは、面白がらせようとしてきわどい話をすることです。今日では大方、性的な事柄に関係した話です。そして、自分のことを下品とは考えていない人々の中にも、そうした話を面白がる人は少なくありません。ですから、多くのコメディアンが、変態的行為も含め性行動をネタにするとしても驚くには値しません。テレビやラジオ番組だけでなく多くの映画も、卑わいな冗談を売り物にしています」。
 「卑わいな言葉や話は神を不快にさせます。それは道徳に反しており、人を傷つけるものなのです」。
 記事はさらにこう述べている。
 「クリスチャンは、腹立たしいときにしてしまいがちな、怒りを爆発させることや卑わいな言葉を発することをしないように、と訓戒されています」。
 「真のクリスチャンは、あしざまな言い方を別に悪くないとするような態度に染まらないようにすべきです」。
 「時には、ある人を非難したいという衝動が抑えにくいこともあるでしょう。不当なことをされたなら、相手に面と向かって、あるいは陰で、容赦のない、とげとげしい言葉をもって罰を与えてもかまわない、と思えるかもしれません。それでも、クリスチャンはそのような衝動に屈しないようにします」。
 また、最後にこのように読者を諭している。
 「今日、ののしりの言葉や卑わいな言葉が飛び交っているため、クリスチャンはこの有害な影響力に感化されないよう対策を講じていなければなりません。その一つは隣人を愛することです」。
 「隣人に対する誠実な気遣いや愛があれば、人をいやす言葉を常に用いるように促されます」。


産後うつ

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、産後うつを取り上げた教育記事を掲載した。


ナイロビ国立公園

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、ナイロビ国立公園を取り上げた教育記事を掲載した。


二酸化炭素によるシックハウス

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号がタイム紙からの話として伝えたところによると、学校の教室における二酸化炭素の欠乏が“シックスクール症候群”の一因となっているようである。


体外浮遊体験

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号がスイスの研究から紹介したところによると、いわゆる体外浮遊体験を引き起こす脳神経が発見されたようである。
 「その女性は、右大脳皮質の角回という部分が刺激されるたびに、自分が体を離れて体を見下ろしているような感じがする、と述べた」。


ロザリオの祈りが拡張される

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、教皇ヨハネ・パウロ二世が「使徒的書簡」なるものを公布し、カトリックの伝統である「ロザリオの祈り」に第四環を加えたと報じた。


結婚の期待と破綻

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、ドイツからの報告として、結婚に対する過度の期待が若者たちの間に広がっており、これが離婚の一因となっていると指摘した。


軍隊アリ

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、軍隊アリを取り上げた小記事を掲載した。


「目ざめよ!」誌が地域大会に読者を招待

 「目ざめよ!」誌2003年6月8日号は、世界各地で(日本では今年秋に全国各地で)行われるエホバの証人の「神に栄光」地域大会に読者を招待した。


人々の関心をとらえる

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、聖書伝道の現場において、人々の関心事をよく考慮に入れるように勧める記事を掲載した。


宣教奉仕は主要な仕事

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、聖書伝道を重要な仕事と見なすよう勧める記事を掲載した。


聖書を用いる

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、聖書伝道の現場においてどのように聖書を用いることができるかを討議するための筋書きを掲載した。
 筋書きはこのように指摘している。
 「単に聖句を読むだけでは十分ではない。説明し、例証し、適用する必要がある」。


インタビュー

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、各会衆に対し、会衆のメンバーの聖書伝道の取り組みに関するインタビューを行うよう指示した。


夏の聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、この夏の時期に、聖書伝道の現場において「敬虔な行ないに励む」よう読者に勧める記事を掲載した。


退職後は聖書伝道を

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、退職後に聖書伝道に励むよう勧める記事を掲載した。
 働く人にとって退職は人生の大きな転機である。
 「退職した結果、張り合いがなくなって手持ちぶさたになり、老化が早く進む、ということもよくあります」。
 聖書伝道に携わるのはどうだろうか。
 「クリスチャンの宣教奉仕に携わって活動的であることは、健康の増進や生活の質の向上にもつながります」。
 退職後に宗教活動に励むなら会衆にも益をもたらすことができる。
 「退職した年配の人たちの見聞と敬虔な特質は、その人の属する会衆を富ませるものとなっています」。
 「その人たちが自分にできることを心を込めて行なっている姿は、見る人に大きな励みになります」。
 さらに、記事はこのように指摘している。
 「ほとんどの人がいつかは世俗の仕事を退職しますが、クリスチャンにとって神への奉仕からの引退はありません」。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、2003年5月と6月に行われた神権宣教学校の復習のための質問用紙を同梱した。
 たとえば、このような質問が掲載されている。
 「ヨシヤはたいへんな子ども時代を過ごしたにもかかわらず、正しい道を選ぶうえで何が助けとなりましたか」。
 「エホバはイスラエル人に、どんな意味で『忘れてはならない』と言われましたか。わたしたちはどうすれば忘れないようにすることができますか」。
 「イエスは、ヨハネ 3章3節に記されているように、『再び生まれる』という表現を用いて、どんなことに言及しておられましたか」。
 「「新世界訳」の本文にヨハネ 7章53節から8章11節が含まれていないのはなぜですか」。
 「イエスはどのように、天に昇られたと「同じ様で来られ」ましたか」。


必要の大きな地域で

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、「必要の大きな所での一時的な奉仕」と呼ばれる伝道計画に参加した人たちの活躍を取り上げた記事を掲載した。


ビデオ鑑賞

 「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、「わたしたちの時代に対する警告の例」と題する聖書ドラマのビデオから学んだ事柄を討議するための質問集を掲載した。


神の名前を知らせる

 聖書の中でクリスチャンは「み名(神の名)のための民」と呼ばれている。「わたしたちの王国宣教」2003年6月号は、この実践に焦点をあてた記事を掲載した。
 「わたしたちが宣べ伝える(聖書伝道を行う)最大の理由は、エホバを公に賛美し、全人類の前でみ名を神聖なものとするためです」。
 「わたしたちはエホバの証人という名称を採択しました」。
 「神の民はそれ以来、「世界中どこでもエホバという名前を喜んで使う人がいるとすれば、その人はエホバの証人であることがすぐに分かる」ほどに神のみ名を知らせてきました」。
 「「み名のための民」として、わたしたちは神の基準を擁護しなければなりません」。
 では、どのようにしてそうするのだろうか。記事はこう述べている。
 「人々がエホバの証人について最初に気づくことの一つは、多くの場合、そのりっぱな行状です。敬虔な原則を軽くみたり神の崇拝を生活の中で二の次にしたりして神のみ名を汚すようなことは決してしたくありません。むしろ、生き方によって、神のみ名を担う特権を大切にしていることを示せますように」。


イエスは実在したか

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、イエスが架空の人物ではなく、実在した人物であることを示す特集記事を掲載した。


韓国手話大会

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、韓国で行われた手話による大会を紹介し、その大会開催までの道のりを振り返る記事を掲載した。
 記事によると、韓国におけるろう者への聖書伝道の取り組みは、特に1970年代になってから本格化した。1976年には最初の手話会衆がソウルにでき、その勢力は拡大していった。
 ものみの塔聖書冊子協会は、これらの人たちのために、手話による聖書教育ビデオを幾つも発行しているという。
 掲載されている写真によると、ものみの塔協会の手話スタッフは、手話における聖書用語の考案や普及にも努めているようである。


神は公平

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、神の公平さに注目する研究記事を掲載した。
 記事は、エホバの公平だけでなく、その子であるイエスの公平についても指摘し、このお二方の模範に読者が倣うよう勧めるものとなっている。


美点に注目する

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、人の美点に注目することの大切さを説く研究記事を掲載した。
 「エホバはすべての人に対して善良に行動されます。神の僕たちも、他の人の良い点を見ようとして神に見倣うように努めるべきです」。
 記事は、聖書伝道の現場において、また家庭において、さらに会衆においてクリスチャンが人の美点を探すべきことを説いている。
 記事はこう述べている。
 「人の良い点を見ようとすると、その人の落ち度を覆うようにしようという気持ちが強まります。兄弟たちの、褒めることのできる面を探そうとすることでしょう。批判的な精神は避けるに違いありません」。
 「このようにして、会衆で家令(長老)の務めを果たす人たちだけでなく、クリスチャンの兄弟姉妹すべてが、その忠実さゆえに慕わしい存在となってきます。こうしてわたしたちはその人々に引き寄せられ、クリスチャンの友情というきずなが強まります」。


ギレアデ聖書学校卒業式

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、2003年3月8日に執り行われた、ギレアデ聖書学校の第114期卒業式の内容を報告する記事を掲載した。


アレクサンデル6世

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、カトリックのローマ教皇アレクサンデル6世の生涯を取り上げた批判的な記事を掲載した。
 ロドリゴ・ボルジア(アレクサンデル6世)は、若いうちから「いくつもの華やかな聖職特典を手に入れ、莫大な富を蓄え、絶大な権力を行使し、王子さながらの贅沢な生活を送った」という。
 「彼は幾人もの相手と不倫な関係を結び、終生囲っていた情婦との間に4人の子どもをもうけ、さらに他の女性たちとの間にも幾人かの子がいました」。
 「教皇インノケンティウス8世が1492年に亡くなると、教会の枢機卿たちは後継者を選出するために集まりました。ロドリゴ・ボルジアが、豪華な見返りを約束したり冷笑的な言葉を浴びせたりしながら、仲間の枢機卿たちを買収し、十分な票を集めたことに疑う余地はありません。ロドリゴは、その教皇選挙会(コンクラーペ)を制して教皇アレクサンデル6世となりました」。
 その後も、彼は多くの恥ずべき行いを行い続けたという。
 記事は、このように問いかけている。
 「これまで幾世紀もの間、宗教指導者たちは一般に、イエスが確立し、その真の追随者が例示した真のキリスト教の型にかなった生き方をしてきたでしょうか。現在ではどうでしょうか」。
 「イエスは世俗の王侯貴族などではありませんでした。非常につつましい生活を送りました。イエスは、当時の政治問題にかかわるのを避けました。ところが、これまで幾世紀もの間、さまざまな宗教組織は、権力や物質上の利益を求めて、政治支配者たちに連れ添ってきたというのが事実ではないでしょうか」。


悪魔は人の心を読みとるか

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、「悪魔サタンは人の思いを読みとることができるか」という質問に答えた。
 このように答えている。
 「断定はできませんが、サタンも悪霊たちもわたしたちの考えを読みとることはできないようです」。
 しかし記事は、「サタンは思いを読み取れなくても、わたしたちの行動パターンを識別し、追い求めている娯楽を観察し、話している事柄を聞くことはできます。わたしたちの表情やそぶりからも、思考や感情を知る手がかりを得るかもしれません」とも述べている。


鳥から学ぶ

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、鳥から学ぶよう勧めたイエスの言葉を紹介する小記事を掲載した。
 記事には、アフリカチャイロツバメの巣とヒナたち、またメンダカハタオリのオスと巣の写真が添えられている。


ポーランドの大学で

 「ものみの塔」誌2003年6月15日号は、ポーランドの大学で、テストの点数を上げるために教師に贈り物をする風習に抵抗しているエホバの証人を紹介する小記事を掲載した。


熱帯雨林を救え

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号は、熱帯雨林の保護を考える特集記事を掲載した。


悲惨な経験と恐怖

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号は、現代社会における不安の高まりを指摘し、さまざまな恐れから自分を守る方法を指南する記事を掲載した。
 「わたしたちは、聖書で言う「恐ろしい時代」に生活しています」。
 一例として、2001年9月11日のテロ事件が指摘された。この事件のショックは広範囲に及び、心的外傷を抱えた子供たちも見られる。
 このような時、聖書の述べる「明せきな思考力」は助けになると記事は指摘した。
 「感情に打ちのめされそうに思えるとき、それに対処する一つの方法は、「明せきな思考力」を呼び起こすことです」。
 「事実を熟考することは、災害に対して釣り合いのとれた見方をする助けとなります」。
 「明せきな思考力をもって対処するなら、わたしたちは悲しい出来事のゆえにエホバご自身に向かって激怒したり、神を責めたりすることを避けられます」。
 また、記事はさまざまなアドバイスを述べている。
 「悲惨な出来事が生じたなら、神に近づく必要があります。怒って遠ざかることがないようにしてください」。
 「サタンが直接あらしや洪水などの自然災害を引き起こしている、と結論づけないようにしましょう」。
 「(恐怖を感じる人は)悲惨な事件に関する生々しい報道を見すぎないようにすることです」。
 最後に記事はこう述べている。
 「これから先、恐らく地上の苦難は増し加わるでしょう。しかし、聖書の希望をしっかり保つなら、悲惨な出来事があっても首尾よく対処することができるでしょう」。


くじゃく

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号は、インドクジャクを取り上げた教育記事を掲載した。


ルチア・ムッサネットの手記

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号は、熱心な修道女からエホバの証人に転向した、ルチア・ムッサネットによる手記を掲載した。
 彼女は幼いころからキリスト教の信仰に熱心で、両親の反対を押し切って修道院に入ったという。彼女は修道院に入ったにもかかわらず、もともと教養があったことから大学に通うことができ、後には学校の教師として働くこともかなったという。
 「私の心からの願いは、貧しい人たちを助けることでした。そうした人たちのことを本当に気の毒に思いました。それでさまざまな社会事業を組織しましたが、その一つは、身寄りのない末期患者を助けることでした。移民の子どもたちの教育プログラムも計画しました。さらに、貧しい人たちのために仕事や住まいを探し、医療サービスの提供にもかかわるようになりました」。
 「私は、教会の宗教信条と調和した生活を送るよう努めました。それでも、カトリック教会の活動の中には私を悩ませるものもありました。例えば、洗礼や堅信礼を受ける前には、それらの段階が何を意味するのかを親子で学ぶことになっています。ところが、たいていの人は一度も勉強会に来ませんし、来た人もまじめに学ぼうとしませんでした。しかも、一つの聖堂区で洗礼や堅信礼を受けられないと、別の聖堂区に行って受ける人たちがいたのです。そうしたことは私にとって、表面だけを取り繕った偽善的な行為でした」。
 「私はいつも聖書に深い敬意を抱き、聖書を知りたいと願っていました。修道院で聖書を学んだことは一度もありませんでしたが、自分で読みました。1960年代半ばにローマの大学へ通っていた際、私はバチカンの援助によって4年間の神学課程を履修しました。しかし、教科書として聖書は含まれていませんでした。その後、世界教会運動の集まりに数多く出席しました。諸教派合同の、あるいは非カトリック組織の主催する集まりもありました。そうした集まりに出席して、ますます聖書の教えを知りたくなりました。同じ聖書を教えていると主張する団体の間に、ひどい混乱が見られたからです」。
 やがて、彼女はエホバの証人の集会にも出席するようになった。そして、エホバの証人が立派にキリスト教の信仰を実践していることに感銘を受け、自分もエホバの証人に改宗するべきだと考えるようになった。そして、さまざまな反応があったという。
 「家族の者は、気が狂ったと思ったようです。私はつらい気持ちになりました」。
 「私はついに修道院長の所へ行き、自分が修道院から去る決意を抱くに至った理由を説明しました。そう決意した理由を聖書から示そうとしましたが、院長は、「聖書のことで何か知りたい点があれば、聖書の専門家に尋ねることができます!」と言い、聞こうとはしませんでした」。
 「私の決定に、カトリック教会はショックを受けました。道義に反しているとか、気が狂っているとか言って非難しました」。
 「ある人たちは、私のしていることを勇気ある行動とみなしました。私が間違った道に進もうとしていると考え、心を痛めていた人たちもいましたし、私のことを不憫に思う人もいました」。
 「1985年7月4日にカトリック教会を脱退しました。脱退した人たちがどう扱われてきたかを知っていた証人たちは、私の身の安全を心配し、1カ月ほどかくまってくれました」。
 「1985年12月14日に私がバプテスマを受けた(正式にエホバの証人になった)時には、地元のテレビ局や新聞社は私の行動が常軌を逸していると考え、私のことを取り上げました」。
 彼女は修道院を出たとき無一文となったが、教師の仕事をしながら聖書伝道に励む日々を送ったという。
 1993年には、聖書伝道の新たな決意を抱いてアルバニアに移住し、現在まで熱心に奉仕を行っている。
 彼女は最後にこう述べている。
 「振り返ってみると、私は貧しい人や恵まれない人、困窮している人を助けたい、また神への奉仕に没頭したいと切望していました。ですから、エホバに感謝しています。エホバは私の霊的な渇きがいやされるようにしてくださったからです」。


マドリード

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号は、スペインのマドリードを取り上げた教育記事を掲載した。記事にはマドリードの美しい宮殿や公共施設の写真と解説が多数掲載されている。


福音より慈善活動

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号がイタリアのラ・スタンパ紙よりの引用として指摘したところによると、このごろの宣教師たちは宣教師たる者の仕事である聖書伝道を行わず、貧しい人や恵まれない人たちのために慈善活動ばかり行っているという。


わがまましたいほうだい

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号がポーランドの「ブプロスト」誌からの話として指摘したところによると、このごろの親たちは「小さい子どもたちに何でも好きなようにさせるという大間違いの子育てをしている」という。
 子供はどんどんわがままになり、要求は増え、親はそれを聞き入れる、こうして状況は悪くなっているようである。


王室エホバ団

 「目ざめよ!」誌2003年6月22日号は、スウェーデンの王室エホバ団を取り上げた小記事を掲載した。


愛することを学ぶ

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、愛を学ぶことを取り上げた特集記事を掲載した。
 「現代社会は人間が必要としている温かな愛のこもった関係よりも、富や権力、名声、セックスに重きを置きがちです。教育者たちの中にも、世俗的な目標や地位を強調し、そうしたものを成功の尺度にする人が少なくありません」。
 記事は読者にこのように問いかけた。
 「人はどのようにして愛を学ぶのでしょうか。心理学を学ぶことによってですか。自己啓発の本を読むことによってでしょうか。あるいは、ロマンティックな映画を見ることによってですか。そうではないでしょう」。
 記事は、愛というものは経験を通して学ぶべきものであることを強調し、さらに、愛には行動が伴うべきであることを説いた。
 「純粋な愛は、単なる愛情や感傷ではありません。常に他の人の最善の益を図って行動します」。
 「聖書を読むだけでは不十分です。それ教えを当てはめなければなりません」。
 記事はさらに踏み込んで、愛を守り、損なうことがないよう読者へ呼びかけた。
 「人が悪い霊(悪い精神)を吸収するのは、物質主義的で自己中心的な考えや、暴力的な態度、さらにはこの世でごく普通に見られる、愛に関するゆがんだ、そして多くの場合、倒錯した見方に身をさらす時です。純粋な愛において成長したいと思うなら、世の霊(世の世的な精神)に断固として抵抗しなければなりません」。
 「愛を表わす人たちは、人生における失望や心痛を知り、認めながらも、それらによって仲間に対する愛が損なわれるままにはしません」。
 最後に記事は、読者が愛を固守するだけでなく、他の人がそうする助けともなるよう励ましている。


エホバに近づく

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、2002年から2003年にかけて各国で発行された、「エホバに近づきなさい」と題する本を要約する一連の研究記事を掲載した。
 「神は『まずわたしたちを愛して』くださいました」。
 「エホバはわたしたちがとこしえにわたって命を保つことができるようにしてくださいます」。
 「そのような愛ある神に、わたしたちは引きつけられるのではないでしょうか」。
 記事は、聖書の神エホバの4つのご性質を取り上げるものとなっている。
 その一つ、公正について、記事はこのように述べている。
 「神の公正は、人をはねつけるような冷たくて厳しい特質ではなく、エホバに引きつけるような親しみ深い特質です。エホバは公正に動かされて、僕たちに対する忠実と忠節を示されます。神の公正がそれを保証しているのです」。
 「神の公正は、苦しむ人々の必要に敏感です。エホバは偏見やえこひいきとは無縁です」。
 記事は、神の最大のご性質は愛であると強調した。
 「わたしたちをエホバに引き寄せる点で、神の愛以上に強力なものはありません」。
 「聖書には、神は力であるとか、神は公正である、あるいは知恵であるなどとは書かれていません。しかし、「神は愛である」と書かれています。エホバはまさに愛を具現した方です」。
 記事は、愛をはじめとする神の特質を知ることが、いかに人の心を動かし、神へと近づかせるかを強調するものとなっている。


多発性硬化症と闘う

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、多発性硬化症と闘っているフリアン・アリアス(男性)による手記を掲載した。
 彼は、病気のために解雇され、つらい思いをさせられたが、このように綴っている。
 「自分の気持ちと今後に関する不安について、心をこめてエホバに祈りました。同じ信仰を持つ妻も、大いに力となってくれました」。
 「よくなった面もあります。他の人の健康問題をよく理解して同情できるようになりました」。
 彼はエホバの証人の医療機関連絡委員会で働くようになり、新たに満足を得るようになったという。彼はこう述べている。
 「私は会社役員のいすの代わりに車いすに座るようになりましたが、他の人に仕えることに打ち込むようになったので、実際には以前よりも充実した生活を送っています。与えることによって苦しみを和らげることができます。私はパウロと同じく、確信をもって次のように言うことができます。「自分に力を与えてくださる方のおかげで、わたしは一切の事に対して強くなっているのです」」。
 手記には、彼の息子の次のようなメッセージが添えられている。
 「父の忍耐と積極的な精神は、わたしにとってすばらしい模範です」。


タヒチ語訳聖書

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、タヒチにおける聖書翻訳の偉業を取り上げた教育記事を掲載した。
 1835年に完成した最初のタヒチ語訳の訳業は30年ほどになったという。そもそも文字というものがなく、文法と発音の形態が特殊であったからである。
 その訳業を推し進めたのは、もともとレンガ職人であったヘンリー・ノットである。ノットは内戦にもめげずに訳業を進め、ついにその志を果たしたという。


死とサタンの力

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、聖書がサタンのことを「死をもたらす手だてを持つ」と表現していることを取り上げた論考を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「パウロは、サタンは死をつかさどる究極的な力を持っている、と言おうとしているのではありません。むしろ、(結果として)死をもたらす、サタンの能力もしくは潜在能力について述べているのです」。
 「わしたちは、サタンが意のままに命を奪い去ることもできると考えて恐れる必要はないのです」。


若い人向けビデオ

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、ものみの塔聖書冊子協会が作成した、若者向けの教育ビデオを紹介した。
 「このビデオを見て、多くの若い人は、自分の行動を真剣に考えるよう励まされました」と記事は報告している。


メンフィス

 「ものみの塔」誌2003年7月1日号は、エジプトのメンフィスを取り上げた小記事を掲載した。
 メンフィスは、聖書の、アノンに対する裁きの記述の中で暗に言及されていると記事は指摘している。


「目ざめよ!」誌の発行言語数が減少

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会の発行する「目ざめよ!」誌は2003年7月8日号において、同誌の発行言語数を86から85に更新した。なお、「目ざめよ!」誌の前年の平均発行部数は2275万5000部である。


広がる凶悪犯罪

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、凶悪犯罪の広がりの問題を考える特集記事を掲載した。


空の旅を安全に

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、飛行機に乗る人が知っておくべき安全のためのトピックを取り上げた記事を掲載した。


バルセロナ

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、バルセロナの美しい建築を取り上げた教育記事を掲載した。


ケン・ベインの手記

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、一度は信仰からそれたものの、今は立ち返り、立派に信仰を実践しているケン・ベインによる手記を掲載した。


ツール・ド・フランス

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、ツール・ド・フランスを取り上げた教育記事を掲載した。


催眠術はどうか

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、催眠術についての否定的な論考を掲載した。
 記事は、催眠術が「一種の治療法」として用いられている一方で、心霊術との関連も深いことを指摘した。
 「クリスチャンは、催眠術に伴う明らかに非聖書的な側面を無視することはできません」。
 記事はこのように結論を述べいる。
 「聖書の原則に照らして、エホバの証人は、催眠術や自己催眠にかかわるのを避けます」。


ココヤシ

 「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、タンビリとも呼ばれる、ココナッツの一種を取り上げた小記事を掲載した。


感謝と奉仕

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、神に対する感謝が奉仕へと人を促すことを諭す記事を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「示された憐れみに対する感謝の表明として業に励むことができます」。
 「わたしたちは神の憐れみに対する感謝の念に動かされて勤勉でありたいものです」。


グループ伝道

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、グループによる伝道活動を取り上げた記事を掲載した。


信仰と生活

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、信仰が生活を豊かにするというテーマで討論を行うための筋書きを掲載した。


小冊子を用いた聖書研究

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、「満足のいく生活」の小冊子を用いて人々に聖書を教える際のアドバイスを掲載した。


ものみの塔聖書冊子協会がカレンダーなどを発行

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、ものみの塔聖書冊子協会から、2004年の「日ごとに聖書を調べる」(聖書日課)、カレンダーが発行されることを告知し、読者に予約を勧めた。


巡回大会に備える

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、巡回大会に備えるプログラムを掲載した。


外人たちへの伝道活動

 「わたしたちの王国宣教」2003年7月号は、さまざまな国の人々が住み着いている地域での聖書伝道に焦点をあてた記事を掲載した。


エホバの証人の宗教学

 エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会は、他の宗教について調べたいと願うエホバの証人のために「神を探求する人類の歩み」という本を出版しているが、「目ざめよ!」誌2003年7月8日号は、デンマークの有名な著述家エリック・ホーストによるこの本の書評を紹介した。
 彼は、この本を「これまでに読んだ宗教史の中で、一番優れた、きわめて史実に忠実な、偏りのない作品」として褒め、「この本はどなたにでも自信を持ってお薦めします」と述べている。


人と人の結びつき

 「ものみの塔」誌2003年7月15日号は、人と人との関わりの大切さを説く特集記事を掲載した。
 「懸念を増す一つの傾向が社会学者の注意を引いています。この問題は特に、先進国に住む人々の間に広がってきました。世間との交際を絶つ人の数が急速な増加の傾向にあります。人々は“自分の好きなように生きる”ことを望み、“自分の世界にだれかが立ち入る”ことに強く抵抗します。こうした態度のために人間社会はますます感情面での問題を抱えたりうつ病や自殺の起きやすい状態になってきた、という意見もあります」。
 「自分を孤立させることは賢明ではありません。わたしたちは皆、他の人から得られる力や助けを必要としています」。
 記事はこのように読者を諭している。
 「貪欲や利己心のゆえに自分を孤立させるようになった人は少なくありません。それは生活に幸福も満足ももたらしていません。そのような精神に屈する人々の間で多く見られるのは欲求不満や絶望感なのです」。
 「愛を受けるのは良いことですが、他の人に愛を示すことも非常に健全なことです」。
 さらに記事は、このような諭しを実践へと変えていく力として、エホバの証人の共同体の役割を紹介し、神への信仰の必要性を説いている。


サンドラの場合

 「ものみの塔」誌2003年7月15日号は、麻薬中毒者であり自殺志願者であったサンドラ(女性)がどのように、聖書の教えに導かれて幸福を得たかを紹介する記事を掲載した。
 「サンドラに聖書を教えた人は、サンドラが次の点を理解するよう助けました。つまり、人間は傷つきやすく、その点をエホバ神はご存じである、ということです。エホバができないことをするよう期待されることはないのを知って、サンドラはうれしく思いました。自分は無価値な人間だという気持ちを克服するよう助けられました」。
 「サンドラは自分の弱さに悩まされましたが、闘い続けました。弱さを克服できるようエホバの助けを真剣に祈り求め、憐れみを請いました」。
 やがて彼女は回復し、現在では幸福そうである。記事は現在の彼女の写真を掲載している。


ハルマゲドンを待つ

 「ものみの塔」誌2003年7月15日号は、聖書の“ハルマゲドンを待つ”という概念を取り上げた一連の研究記事を掲載した。
 「エホバの日(ハルマゲドン)を生き残ることを「熱烈に願い求める」人は、その願いを「聖なる行状と敬虔な専心」によって明らかにします」。
 「聖なる者となるには、身体的、精神的、道徳的、霊的清さを保たなければなりません。今日、そのような純粋さを保つのは易しいことではありません。この世の道徳規準は着実に低下しているからです」。
 「わたしたちの道徳規準と世の基準との隔たりは広がっているでしょうか。もしそうでないとしたら、それはむしろ憂慮すべきことです。自分個人の基準は世よりは高いとしても徐々に下がりつつある、というようなことはないでしょうか」。
 記事は、聖書のペテロ第二 3章11節から12節に読者の注意を引いた。そこには、「エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める」、新共同訳聖書では「神の日の来るのを早める」という表現がある。これは心の中でその日を待ち望むことによって、心の中でその日を早めることを意味する。
 記事は、読者が心の中でその日を遅らせてはいないかと問いかけた。
 「インターネットでポルノを見るなどの不道徳を行いながら、頭の中でその日を先に延ばし、不潔な事柄で思いを汚していても自分を清める時間はまだある、と考えていないでしょうか」。
 「聖なる行状を保ち、待ち望んでいることを行動で証明するのです」。
 さらに記事は、ハルマゲドンを待つことに含まれているさまざまな点を列挙した。その一つ、「安らかな者となるべき」という点についてはこのように述べている。
 「この要求にかなうには、エホバおよび隣人と平和で安らかな関係にあることが必要です。平和を保つには、互いの間に愛がなければなりません」。
 さらに記事は、ハルマゲドンを待つことが人々に対する見方に与える影響を具体的に論じている。
 「「エホバの大いなる日」を待つ人は、エホバがご覧になるとおりに人々を見る必要があります。神のご意志は、あらゆる人が救われることです。わたしたち自身は、人々に対してエホバと同じ見方をしていますか」。


正しい思考

 「ものみの塔」誌2003年7月15日号は、「正しく考え、賢く行動する」ことを考える教訓的な記事を掲載した。
 人は「信じたいことだけを信じるという誤り」に陥ることがある。間違いを正しいと信じてしまうのである。
 「正しく考える能力を損なう一つの要素は、自信過剰になる傾向です」。
 また、プロパガンダのおとりにかかる者もいる。
 「真理を伝えるふりをしながら実際にはそれをゆがめている人々がいます。そのような人々は、目的を遂げるためなら、証拠を恣意的に用い、感情をあおる言葉や、紛らわしい半面だけの真実、卑劣な当てこすりを語り、あからさまなうそまで使うことがあります」。
 「プロパガンダを広める人々の手法はねらい通りの結果を生んでいるでしょうか。確かにそう言えます。この種のたばかりによって自分の思考が毒されるのを決して許してはなりません」。
 記事は自己欺瞞、つまり自分を欺くという問題に注目した。
 「自分がしっかり抱いている持論を捨てるのはもとより、検討し直すことさえ非常に難しいものです。そのため、間違った信念や思い違いを何とか正当化しようと言い訳をひねり出すことによって、自分を欺いてしまうかもしれません」。
 「この種の自己欺瞞に陥っているかどうかは、自分の信念に異議が唱えられると腹を立てるかどうかで分かります。たとえ自分の意見が正しいという確信があっても、腹を立てず、心を開いて相手の言葉に注意深く耳を傾けるのが賢明です」。
 記事は、心を正しくするための助けとして聖書を紹介した。
 「思考を正しく保つ助けを自ら進んで求めなければなりません」。
 「神の言葉の真理で思いと心を満たすように自ら努めるなら、真の知恵と洞察力と識別力を得ることができます」。


ウガリット遺跡

 「ものみの塔」誌2003年7月15日号は、ウガリットの遺跡を取り上げた教育記事を掲載した。
 興味深い点として、記事は、この遺跡から発見された種々の文書が聖書の翻訳に役立っていることを、箴言 26章23節などの事例を挙げながら紹介している。


エウセビオス

 「ものみの塔」誌2003年7月15日号は、キリスト教初期の司教であり、「教会史の父」とも呼ばれるエウセビオスを取り上げた記事を掲載した。


ポルノ

 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、ポルノを取り上げた特集記事を掲載した。
 「反ポルノ活動家は、ポルノが人間関係を破壊し、女性を卑しめ、子どもを虐待し、性に対する倒錯した有害な見方を生じさせる、と述べます。一方、支持者たちは、ポルノを自由な表現であるとし、批判する人たちを堅苦しいとみなします」。
 しかし記事ははっきりと立場を表明し、ポルノは有害であると指摘した。
 記事は、各種研究からその裏付けを紹介したうえで、このように指摘している。
 「ポルノは愛情に満ちた関係を破壊します。ポルノを見ることは愛に反することです」。


完全主義の若者

 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、完全主義に陥って悩んでいる若者たちへ向けた教育記事を掲載した。
 記事の指摘するところによると、完全主義の傾向は、「才能に恵まれた若者や成績優秀な若者によく見られる」という。
 「向上を目指して努力し、高くても現実的な目標を定めるのは良いことです。しかし、完全主義者は物事を達成するとはどういうことかについて、根本的に不健全な見方をしています」。
 記事は、完全主義者に見られるさまざまな症状を取り上げた後、「考え方をいくらか変える必要がある」と述べている。


セビリア

 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、セビリアを取り上げた教育記事を掲載した。


 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、傘の歴史を取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、傘と宗教の関係についても説明している。


サウナ

 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、サウナの歴史を取り上げた教育記事を掲載した。
 補足的な点として、記事は気をつけなければならないサウナについて述べている。
 「残念なことに、国によっては“サウナ”という言葉が買春の行なわれるところを指す場合があります。ですから、利用するサウナが健全な目的のための本物のサウナであることを確かめてください」。


花粉

 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、花粉を取り上げた教育記事を掲載した。


ゼブラガイ

 「目ざめよ!」誌2003年7月22日号は、ゼブラガイを取り上げた小記事を掲載した。


貧困問題に対処する

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、貧困の問題について考える特集記事を掲載した。
 記事は、聖書が貧困の問題にさらされている人たちへの希望の根拠となること、また、聖書の教えの幾つかが貧困に対処する助けとなることを示している。


チェコからの報告

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、チェコ共和国からの一報告を掲載した。


真理

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、「真理」に焦点をあてた一連の研究記事を掲載した。
 記事はこのようにクリスチャンの読者を諭している。
 「真実を知っていることと、真実さを守ることとは全く別問題です」。
 「わたしたちは、エホバがみ言葉の中で語っておられる事柄を真剣な態度で受け止めるべきです」。
 「クリスチャンは目をさましていて、真理を、真実な事柄をしっかりと守らなければなりません」。
 「人は単に唇ではなく、「心に」真実を語らなければなりません」。
 さらに、記事は真理とは何かを問題にした。
 「真理とは個人的見解の問題ではありません」。
 「わたしたちは宗教上の不真実のみなぎる時代に生きています」。
 「あなたは聖書の真理を理解していますか。心の正しく整えられていない人は、どれほど聡明、また教育があっても、聖書の真理を理解することができません。ごう慢な人、高慢な人は、神の言葉に収められた数々の貴重な真理を把握できません」。
 続いて記事は、クリスチャンが真理に即して行動すべきことを説いた。
 「イエス・キリストは、自分の教えた事柄によって、また生き方および死に至る歩み方によって真理を確証しました。真のクリスチャンは、他の人に対して真実さをもって行動する点でイエスが残された模範に倣います。クリスチャンは真実さを貫きます。それは生き方なのです」。


ただで与える

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、聖書の「ただで与えなさい」という言葉の意味を論じる考察を掲載した。
 「残念ながら、キリストの追随者であると唱える多くの人は、「ただで与える」態度を示してきませんでした。エホバの証人はイエスとその初期の弟子たちに倣うよう努めます」。
 「今日の真のクリスチャンの主な動機は、エホバを喜ばせたいという願いであって、自分を富ませたいという思いではありません。神の奉仕者は、音信を他の人に伝えるからといって物質的な支払いを期待することはできません」。
 記事は最後に、「クリスチャンは、自分が神に仕える動機を絶えず吟味しなければならない」と述べ、その動機は愛でなければならないと説いている。


トム・ディダーの手記

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、アラスカでの聖書伝道に従事したトム・ディダー(男性)による手記を掲載した。


一夫多妻について

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、一夫多妻についての聖書の記述に関して寄せられた質問に答えた。
 この記事によると、確かに神は一時期一夫多妻を認めたが、それは一夫多妻に関する神の見方が変わったからではないという。
 記事は、「一夫多妻が一時的に容認されたにすぎない」と述べ、今ではそれは容認もされないことであると指摘している。


巧みな人となる

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、巧みさを取り上げた教訓的な記事を掲載した。
 人に対して思いやりのある振る舞いをするには、巧みさが必要である。
 「これは単なる技術ではありません。他の人を傷つけたくないという純粋な願いが伴っているのです」。
 記事は、「人が巧みさの欠けた振る舞いをする一般的な要因」を挙げ、それを「時刻表どおりに運行しようとするあまり、客の前を素通りするバスの運転手によく似ている」と述べている。


娘を亡くして

 「ものみの塔」誌2003年8月1日号は、娘を亡くして以来背負っていた苦しみを、エホバの証人の訪問を受けることによって和らげることができた一女性による手紙を掲載した。
 「エホバの証人の方は深い同情を込めて私の話に耳を傾けてくださいました」と手紙は振り返っている。
 この人は、聖書の教えに反しているもののカトリック教会ではよく聞かれる、「神が与え、取り給うた」という言葉を信じており、それゆえにカトリック教会からは慰めを得られなかったようである。


世界規模の異常気象

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、世界の異常気象を取り上げた特集記事を掲載した。


エホバの証人の救援活動

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、ドイツ、オーストリア、メキシコ、韓国での災害の際にエホバの証人が行った救援活動を報告する記事を掲載した。


楽園タヒチ

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、キリスト教の楽園伝説とタヒチの関係を取り上げた教育記事を掲載した。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、16問の聖書クイズを掲載した。


オンドル

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、オンドル(朝鮮式床暖房)を取り上げた教育記事を掲載した。


民族間の憎しみ

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、民族同士で憎しみを抱くことについての論考を掲載した。
 「聖書時代の人類に対する神の扱いを表面的に見る人は、間違った結論を出すことがあります。つまり、神は現に民族間の憎しみを支持していたと考えてしまうのです。しかし、よく調べてみると分かるように、神がその人々を裁かれたのは、彼らが神の律法を不道徳な仕方で軽視したからであって、民族的背景のゆえではありません」。
 記事は、聖書が昔から諸民族の救いを説いてきたことを強調した。
 「クリスチャンが人を民族的背景で判断したくなる衝動に抵抗するのはよいことです」と記事は述べている。


教会にカード端末

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、カナダではクレジットカード端末を用いて信者から寄付を集める教会が増えていると報告した。


エホバの証人と地域社会

 「目ざめよ!」誌2003年8月8日号は、最近のスペインでのエホバの証人の活動を報告する小記事を掲載した。
 スペインでは幾つかの自治体が、エホバの証人の聖書伝道活動が地域社会の益となるものと認定している。その関係で、いくつかの市からエホバの証人施設のための土地が提供されるようになっているという。


さわやかにさせる聖書伝道

 「わたしたちの王国宣教」2003年8月号は、聖書伝道によって人がさわやかさを得ることを取り上げた記事を掲載した。
 「聖書の音信は、それを受け入れて生活に適用する人すべてをさわやかにします。さわやかな聖書の真理を他の人に伝える人自身も、さわやかになります」。
 記事は、聖書伝道に参加することによってさわやかになることを示した後、このようにも述べている。
 「イエスはわたしたちにできる以上のことを要求する方ではありません。限界があるとしても、神が喜んでくださることを確信できます」。


善良を実践する

 「わたしたちの王国宣教」2003年8月号は、クリスチャンがエホバの善良さに見倣う者となるべきことを説く記事を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「エホバの善良さに見倣える一つの方法は、信仰において結ばれていない人にも誠実な関心を示すことです」。
 「わたしたちはエホバに見倣って他の人を許すことにより、善良さを愛していることを示せます」。


近づいた国際大会

 「わたしたちの王国宣教」2003年8月号は、近づいた国際大会に備えるための記事を掲載した。
 今年の国際大会には、世界各地から1万人のゲストが訪れることになっている。これらの人々を心地よくもてなし、大会を成功させるための努力が行われている。記事はその概要を紹介し、読者にも協力を求めるものとなっている。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2003年8月号は、神権宣教学校の復習のための問題用紙を掲載した。
 質問用紙には、たとえばこのような質問が載せられている。
 「慎み深くて「健全な思い」を持つ人とはどんな人ですか」。
 「クリスチャンは、互いに辛抱強く忍び合わなければなりませんが、どんなことには寛容ではありませんか」。


特別一日大会

 「わたしたちの王国宣教」2003年8月号は、特別一日大会に備える記事を掲載した。


開拓伝道

 「わたしたちの王国宣教」2003年8月号は、開拓伝道に従事することによってもたらされる祝福を取り上げた記事を掲載した。
 記事は開拓伝道から祝福を得るために必要な素質についてこう述べている。
 「開拓者は、ただ事情が許すというだけでなく、強い信仰、神と隣人に対する純粋な愛、進んで犠牲を払う態度を持っていなければなりません」。


名を残す

 「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、死んで“名を残す”ことを考える特集記事を掲載した。
 あなたは死ぬとき、どのように人々から評価されるだろうか。記事は、聖書にでてくるさまざまな人物を取り上げ、よい名を残すと言うことがどういうことなのかを説いている。


ミカ書

 「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、聖書のミカ書を考察する一連の研究記事を掲載した。
 「この書は、神に仕えると唱えながら忠実でない人を神がどう扱われるかについて、警告となる事柄を予告しています。さらに、今の困難な時代にどう行動し、希望を揺るぎないものにできるかという点に関する神からの助言も与えています」。
 記事はミカ書の言葉を現代のキリスト教世界に適用し、このように批判した。
 「ミカの時代と同様、今日でも神に仕えると唱える人は多くいます。しかし、その人たちは分裂し、仲間同士で戦争までしてきました。キリスト教世界の裕福な人が貧しい人を虐げてきた例は少なくありません。キリスト教の宗教指導者は、聖書で明確に非とされている行ないをますます容認するようになっています」。
 しかし、エホバの証人はそうであってはならないと記事は諭した。
 「罪を習わしにするなら、エホバは祈りに答えてくださいません。裏表のある生活をし、神に忠実に仕えるふりをしながら、悪行を覆い隠している場合、答えてくださらないことは明らかです」。
 「エホバは、ごう慢で邪悪な人の祈りには何の注意も払われません」。
 「エホバの名によって歩むとは、エホバはわたしたちの神です、と言うだけのことではありません。エホバの名によって歩んでいるなら、神に献身し、魂のこもった愛に動かされて、神に忠実に仕えるよう努力します」。
 記事は、正しく神に仕える者に対する神の要求が何であるかを論じた。
 「エホバを愛する人はみな、エホバの名によって歩みたい、神のご要求を満たしたいと思っています。しかし、健康の衰え、高齢、家族に対する責任などの問題があるときはどうでしょうか。それらの人に対するエホバのご要求は道理にかない、達成可能なものです」。
 それは、ミカ書に記された次の言葉の通りである。
 「何を携えてわたしはエホバに向かい合おうか。何を携えて高みにおられる神のみ前に身をかがめようか。全焼燔の捧げ物を、当歳の子牛を携えて向かい合うのだろうか。幾千頭の雄羊、幾万流の油をエホバは喜ばれるのだろうか。わたしの反抗に対してわたしの初子を、わたしの魂の罪に対してわたしの腹の実を与えるのだろうか。地の人よ、何が善いことかを神はあなたにお告げになった。そして、エホバがあなたに求めておられるのは、ただ公正を行ない、親切を愛し、慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。
 エホバが人に求めているのは誠意である。業を行い、それが多ければよいというものではない。そこで記事はこのように読者を諭している。
 「わたしたちは、これらの特質を示したいという願いを抱かなければなりません。どうしたらそれらを表わせるかを考え、実際の行動でそれらを示さなければなりません」。
 「わたしたちは、会衆の一員である人たちと接する際に同情心と親切を示す必要があります。力になり、同情を示したいと思います」。
 「わたしたちの周囲には、公正の欠如、不信感、社会生活や家族生活の破綻があります。しかし、神の僕であるわたしたちは、この不義の世のただ中にいても、不正なやり方という世の霊(精神)がクリスチャン会衆に入り込むのを許しません。むしろ、正直さや忠誠に関する原則を守るように努め、それらを日常の生活で表わします。わたしたちはすべてのことにおいて正直に行動します」。
 「わたしたちは、王国(福音)を熱心にふれ告げる者として奉仕し、どんな人にも偏りなく神のみ名を知らせます」。
 「エホバからの親切を愛するようにというご要求を満たすのは、その人にとって重荷ではなく喜びです。親切を愛しているからです」。
 「高齢のため、あるいは健康の衰えのために、エホバへの奉仕においてできることが限られるかもしれません。それでも、気落ちすることはありません。エホバが期待しておられるのは、魂をこめてご自分に仕え、事情の許す範囲でできる事柄を行なうことです」。


エホバを求める

 「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、神を求めることをテーマとした論考を掲載した。


信仰が家庭を結びあわせる

 「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、聖書に対する信仰が、家族をつなぐ絆となった事例を紹介する小記事を掲載した。
 あるエホバの証人には、熱心なカトリック信者である両親がいてエホバの証人を迷惑と考えていたが、人の人格を変化させる聖書の教えがこれらの家族を結びつけていったという。


記事を振り返る

 「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、「ものみの塔」誌に載せられた最近の記事の内容を振り返る記事を掲載した。


訃報

 「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、エホバの証人の統治体のメンバーである、ミルトン・G・ヘンシェル兄弟(「兄弟」は敬称)が2003年3月22日に82歳で死去したと告知した。
 記事は、ヘンシェル氏が親切さにおいて定評のある人物だったことを紹介している。


死に対する正しい見方

 愛する人を亡くす経験をすると、死に対する見方が正しくないために混乱することがある。しかし、死についての聖書の見方に接するなら、慰めとなる。「ものみの塔」誌2003年8月15日号は、死者の状態と復活の希望とを紹介する小記事を掲載した。


いじめ

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、いじめの問題を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、いじめ問題の根底にある、人の感情の問題を巧みに取り上げている。たとえば、「他の誰かを低めて優越感を感じる」ことは人間の本質的な性質である。また、「いったん苦痛を経験させられると、人にも味わわせたいと思う」のはよくあることである。「人を威嚇したり言葉で脅したりすることが、思いどおりに物事を進める最善の方法だと家庭で教えられる」子供たちも多いという。
 記事は、いじめの精神的被害についても論じた。
 「いじめられる子どもが味わう無力感は極めて深刻で、結果として自殺行為や仕返し殺人に至る場合がある」。
 「いじめが長引くと、被害者の自尊心は徐々に破壊され、健康上の深刻な問題が生じ、一生が損なわれてしまうこともあります」。
 記事は、いじめの問題は「力の問題」であるため、いじめられている側の者が問題を解決しようとしてもうまくいかないと指摘した。大切なのは周囲からの保護である。
 「いじめの加害者も被害者も助けを必要としています」。
 「いじめる子は、力に頼らず人と接することを学ばなければなりません。いじめる子は多くの場合、人と接する方法が分からず、自分が脅している相手の気持ちをよく理解できません。そのような子どもは、よく監督される必要があり、正しく意志を通わせることを教えてもらわなければなりません」。
 「いじめる子は、別の行動パターンを教わって身に着けない限り、大きくなってからもずっと他の人をいじめます。配偶者や自分の子ども、職場の部下にもそうします」。
 「親は、共感訓練を学校などに任せきりにするべきではありません。自分の子どもが人をいじめるのを望まないのであれば、相手の尊厳を認めた接し方を、言葉と行ないで教える必要があるのです」。
 「いじめられている子どもは、いじめに対処していく実際的な手段を知る必要があります」。
 「親は、子どもがいじめっ子に対して賢く行動できるように、早いうちから備えさせることができます。いじめをなくすことは、家庭での教育から始まります」。
 「親が、辛抱強くまた思いやりをもって子どもの関心や心配事に耳を傾け、子どもにとって近づきやすい存在となるなら、子どもの内面に、必要とされ、愛されているという意識を育てることができます。家庭は、安全な避難所、また尊厳と愛のみなぎる場所となります」。
 また記事は、いじめの問題に対処するのに聖書が役に立つことを読者に紹介し、聖書がいじめ問題克服の優れた教材となることを示している。


航海と航空の航法

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、航法の発展を取り上げた教育記事を掲載した。


ナキガオオマキザル

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、ナキガオオマキザルを取り上げた小記事を掲載した。


地域共同体としてのエホバの証人

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、オーストラリアのある高校生のエホバの証人が、共同体としてのエホバの証人をテーマとしたレポートを書き、最高点を得たという出来事を紹介する小記事を掲載した。


完璧主義の弊害を乗り越える

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、完全主義の罠にはまっている若者たちを助ける教育記事を掲載した。
 まず記事は、完全主義について聖書の神がどう考えているかを紹介した。
 「幸いなことに、神はわたしたちのだれに対しても、完璧さを要求したり期待したりなさいません」。
 続いて、完全主義を克服するための具体的な助けを記事は差し伸べた。
 「時おり間違いを犯すことを予期すべきです。現実には、思いどおりに一番になれる人はごくわずかです。かりに一番になれたとしても、大抵それは、もっと優秀な人が現われるまでの時間の問題です」。
 「期待に調整を加えて、自分の能力と限界にあったものとしましょう。向上を目指してください。ただし、完全さを目指してはなりません。具体的で達成可能な目標を定めましょう」。
 「自分の間違いに関してユーモアのセンスを示しましょう。また、ののしりの言葉は、たとえ自分自身に対するものであってもエホバに容認されないということも忘れないようにしましょう」。
 また記事は、聖書の次の言葉を実践するように完全主義者の読者に勧めている。
 「誰かに対して不満の理由がある場合でも、引き続き互いに忍び、互いに惜しみなく許し合いなさい」。


プレステージの悲劇

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、2002年11月にスペイン沖で生じた、石油タンカーの座礁事故を取り上げた記事を掲載した。


インスタント食品とテレビとコンピューター

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、健康を損なう生活スタイルについて警告する小記事を掲載した。


サンクトペテルブルク

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、ロシアのサンクトペテルブルクを取り上げた教育記事を掲載した。


洋風の結婚式

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、日本では、クリスチャンが0.8パーセントしかいないにもかかわらず、結婚式の61.2パーセントが教会式で行われると指摘した。


世界最大の結晶

 「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、メキシコにある世界最大の結晶を取り上げた小記事を掲載した。


落とし物を届ける

 エホバの証人は拾得物を着服しないことで知られている。「目ざめよ!」誌2003年8月22日号は、そうして持ち主に届けられた拾得物にまつわる小話を掲載した。


戻る