JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
エホバの証人出版情報
2003年版(3)
2004年5月1日更新

引用文は適宜語尾等を修正しています

真の教会

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、“真の教会”をテーマとした特集記事を掲載した。
 記事は、もともと「イエス・キリストはただ一つの教会を設立された」と指摘した。
 「イエスの教えによると、神が人々を真理と命へ導くためにお用いになる手だては一つしかありません」。
 「「新神学辞典」によると、1世紀の会衆(教会)を、「今日、我々がカトリック教会に言及するときに思い描くような、世界的規模の普遍的団体」とみなすべきではありません。なぜでしょうか。「そのような組織された普遍的団体は明らかに存在しなかったという単純な理由による」と、同辞典は述べています」。
 「しかし、会衆は組織されていました。個々の会衆はそれぞれ独自に活動していたのではなく、どれもエルサレムの統治体の権威を認めていました。使徒たちとエルサレム会衆の年長者たちによって構成された統治体は、キリストの『一つの体』である会衆の一致を保つうえで有用な働きをしました」。
 「使徒たちの死後ほどなくして、会衆から背教した教師たちが出て、会衆を牛耳るようになりました」。
 「4世紀までに、教会社会と市民社会の融合、教会と国歌の併合がなされました」。
 「とはいえ、本物のクリスチャンは各時代を通して、個人またはグループとして、キリストの教えを固く守るべく最善を尽くしたに違いありません。しかし、はっきり識別できる、目に見える組織を構成しなくなりました」。
 しかし記事は、この「終わりの日」に、真の教会は再び組織化し、「ますますはっきり識別できるようになる」と述べた。
 「イエス・キリストは、事物の体制の終結と呼んだ時期にご自分のただ一つの真の会衆が回復されることを明確に予告しました」。
 そこで記事は、読者に対し、「自分の教会が、1世紀のクリスチャン会衆の残した型に厳密に倣っているかどうか、またイエス・キリストの教えに忠節な態度で付き従っているかどうか、時間をかけてお確かめになる」ことを勧めている。


エホバは確信

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、エホバを確信とし、エホバに頼ることをテーマとした一連の特集記事を掲載した。
 「エホバに依り頼むことの意味を誤解している人は少なくありません。そのような信頼は単なる感情、つまり心のうちに自然とわき上がる一種の至福感である、と考える人がいます。また、神に依り頼むとは、あらゆる困難から神が守ってくださり、あらゆる問題を解決し、日常のあらゆる難題をこちらの望みどおりの結果へと導いてくださる、しかも直ちにそうしてくださると期待するという意味だ、と信じる人さえいるようです」。
 そのような間違った信頼は、往々にして無活動という形で表れる。記事はこう読者を諭している。
 「信頼は、単なる感情をはるかに超えたものであり、非現実的なものではありません」。
 「神に依り頼んでいると唱えることと、それを行動で示すこととには、大きな違いがあります。真のクリスチャンとしてわたしたちは、エホバに依り頼んでいると言う以上のことを行なうべきです」。
 最後に記事はこう述べている。
 「エホバに対する信頼は単に感覚的なものではありません。むしろ、この信頼には、日々の生活で下す理性的な決定が含まれます」。


集会で賛美する

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、クリスチャンの集会で神を賛美する一つの方法である、集会で注解することについて考える記事を掲載した。


エネレス・ムザングの手記

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、マラウイでの迫害に耐えて信仰を貫いた、エネレス・ムザング(女性)による手記を掲載した。
 「父は中央アフリカ長老教会の牧師でした」。
 「ある日、父の友人で、やはり牧師である人が訪ねてきました。その人はわたしたちに、この近所にはエホバの証人が住んでいるようだが、彼らとは関わりを持たないようにしなさい、と注意しました。エホバの証人は悪霊にとりつかれているから、気をつけないと、あなた達も悪霊にとりつかれる、というのです。その警告を聞いて不安に駆られたわたしたちは別の村に引っ越しました」。
 「とはいえ、夫は聖書を深く愛していたので、程なくして証人たちの一人と話すようになりました。エホバの証人が来るとき、わたしは絶対に家にいないようにしました。証人たちを恐れていたからです」。
 「夫がバプテスマを受けると、わたしはかんかんになって怒りました。その日以来、主人と口をきかなくなり、食事の準備もしませんでした。夫は3週間ほど、わたしのこうした仕打ちに耐えました。その後、わたしを呼んで、そばに座るようにと優しく言い、自分がなぜエホバの証人になることにしたのかを話してくれました。それで私もエホバの証人と聖書研究を始めることにしました」。
 「わたしたちがエホバの証人と交わっていることを聞いた親たちは、激しく反対しました。家族は手紙をよこし、二度ときてくれるなと書きました」。
 「政府与党の役員たちは、エホバの証人の中立の立場に気づくと、強制的に党員カードを買わせようとしました。夫とわたしがそうすることを拒んだので、青年同盟の一団は我が家のトウモロコシ畑をめちゃくちゃにしました。それは翌年の主な食料源でした」。
 「1964年8月の深夜、わたしは遠くから聞こえてくる歌声で目を覚ましました。それはグレワムクルという、人々から恐れられていた秘密結社でした。わたしは急いで子どもたちを起こし、茂みの中に逃げました。グレワムクルは草ぶき屋根の我が家に火を放ちました。家は焼け落ち、中の持ち物も全部焼けてしまいました」。
 「1967年9月、エホバの証人を一斉に検挙する運動が嵐のように国中に吹き荒れました」。
 「エホバの証人対する禁令は、1967年10月20日から1993年8月12日まで、ほぼ26年間続きました。それは苦難の時期でした」。
 「1972年10月、政府の布告が暴力的迫害の新たな波を引き起こしました。その布告は、エホバの証人をすべて解雇し、村に住む証人たちをすべて家から追い払うよう命じるものでした。証人たちは動物のように狩り立てられました」。
 「マラウイの青年同盟の若者10人が我が家に押し入り、わたしを捕まえ、近くのサトウキビ畑に引きずっていきました。畑でわたしを打ちたたいた後、死んだものと思って去っていきました」。
 一命を取り留めた彼女は難民として国外に脱出したが、マラウイに送還されてしまったという。
 このような厳しい人生経験をしたにもかかわらず、彼女は決して信仰を失わなかったという。


結婚祝い

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、アメリカなどの国々で一般的となっている、ウェディング・レジストリ(ウェディング・リスト)の習慣についてのコメントを掲載した。
 記事は、この制度を利用するクリスチャンの新郎新婦が「非常に高価な商品を選んでリストを作成する」ことがあるなら「非常に残念なこと」であると述べた。
 また、「一部の地域では、贈り主が誰であるかを結婚式の出席者全員に知らせることが習慣になっています。クリスチャンであるなら、贈り主の名前を公表することによって誰かを不快にさせたり、恥ずかしい思いをさせたりすることは避けたいと思うはずです」とも述べている。
 最後に記事はこう述べた。
 「そうです、贈り物をすることは、神の言葉に収められている原則と調和して行なうなら、いつでも幸福の源となるのです」。


老人を敬う

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、クリスチャン社会内において老人を敬うべきことを説く記事を掲載した。
 「神に仕える高齢の人をエホバは価値ある貴重な存在とみなしておられます」。
 「老齢の人を敬うことは神聖な務めであり、神への服従と関連しています」。
 そこで記事はこのように読者に問いかけている。
 「わたしたちはエホバと同じ見方をしているでしょうか。高齢のクリスチャンの兄弟姉妹を大切にしていますか」。


貧しい人々の希望

 「ものみの塔」誌2003年9月1日号は、神が貧しい人々をキリストによって救ってくださることを説く小記事を掲載した。


ファッション

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、ファッションをテーマとした特集記事を掲載した。
 記事は、「ファッションの世界には、その魅力の裏に無視できない面がある」と指摘した。たとえば、「ファッションを気にし過ぎると、外見のことばかり考えるようになりがちになる」という。
 「非常にスリムな体型が礼賛されるため、それに捕らわれてしまう若い女性が非常に大勢います」。
 「外見を過度に重視すると、人の価値が中身よりも“パッケージ”で決まるという考えを受け入れることになります」。
 そこで記事は、「流行のファッションで装うことには良い面もあれば望ましくない面もある」と述べ、ファッションに対する「バランスの取れた見方」が必要だと読者を諭している。


チューイング・スティック

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、アフリカで人々が用いているチューイング・スティックを取り上げた教育記事を掲載した。


エクアドルの爆発事故

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、2002年11月にエクアドルのリオバンバ市で生じた爆発事故におけるエホバの証人の救援活動を報告する記事を掲載した。


コククジラ

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、コククジラを取り上げた教育記事を掲載した。


学校のレポートで

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、学校でのレポートのテーマに、ナチス時代のドイツのエホバの証人を取り上げた生徒の話を掲載した。


禁書目録の歴史

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、「禁書目録」の歴史を紹介する教育記事を掲載した。
 禁書目録の歴史は、幾らかの予備的段階の後に、1555年に教皇パウルス4世が目録の作成を命じたところから始まる。最初の目録は1559年に刊行された。
 この目録には、聖書を封印する当時のカトリックの方針を反映して、「一般民衆の言語に訳された聖書はどれも禁じる」と書かれていた。
 この目録はカトリックのインデックス聖省によって繰り返し改訂され、1966年に効力を失うまで、キリスト教文化に重大な影響を与えてきたという。記事はこう指摘している。
 「「目録」の歴史から明らかなように、あらゆる「汚染された本」の中でも、とりわけ教会当局を悩ませていた本がありました。それは一般民衆の言語による聖書です。「目録」によって自国語の聖書が厳しく禁じられるようになったため、イタリアと神の言葉との関係は、根本的に変わってしまいました」。


 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、蘭を取り上げた教育記事を掲載した。


繁栄と神

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、「物質的な繁栄は神からの祝福のしるしか」というテーマを扱った論考を掲載した。
 記事は、「神は、ある人を貧困に陥れて懲らしめ、別の人に繁栄を与えて祝福するということはなさいませんでした」としつつも、「神はある人たちに富をお授けになった」と認め、その問題を論じている。


教会名簿

 これまで、イタリアのカトリック教会は、教会を脱退した信者を受礼名簿から削除することを拒絶してきたが、「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、カトリック教会がこの方針をいくらか変更したと報じた。


ミサの出席者が減少

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、スペインにおいて、定期的にミサに出席する人の割合が18.5パーセントにまで下がったと報じた。


エルサレム大円形パノラマ

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、カナダのケベック州サンタンヌ・ド・ボープレにある、「エルサレム大円形パノラマ」を紹介する記事を掲載した。


若い人に善悪を

 「目ざめよ!」誌2003年9月8日号は、ロシアのエホバの証人の事務所に届けられた手紙を紹介した。
 手紙は、「皆さんは特に子どもたちに善悪の区別を教える大切な仕事を行っている」と指摘している。


外国語での活動

 「わたしたちの王国宣教」2003年9月号が報告したところによると、昨奉仕年度(2002年9月から2003年8月)中、新たに外国語の12の「群れ」と4つの会衆が設立されたという。
 また、ものみの塔聖書冊子協会の日本支部では、64の言語で聖書文書が印刷されていると記事は報告している。


謙遜さ

 「わたしたちの王国宣教」2003年9月号は、さまざまな状況における謙遜さの価値を説く記事を掲載した。
 一つに、記事はこのように述べている。
 「わたしたちは良いたよりをあらゆる人に謙遜に伝えます。ぶしつけな人や尊大な人に同じ態度でやり返したりしません」。


排斥者に

 「わたしたちの王国宣教」2003年9月号は、各会衆の長老に対し、除名された人や棄教した人で「復帰を望んでいるかもしれない」人に対する援助を実施するよう指示した。


夫婦生活と聖書

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、結婚生活を成功させるために聖書の教えが役立つことを紹介する特集記事を掲載した。
 「対立が生じたときは、問題を解決したいと心から願うべきです」。
 「結婚している人たちは考え方を調整し、「わたしのもの」から「わたしたちのもの」という考え方に、「わたし」から「わたしたち」という考え方に切り替える必要があります」。
 「夫婦双方が、結婚しても心の中では独身でいるということをやめ、心の中でも結婚していなければなりません」。
 「夫婦関係を単に持続させることではなく、愛情に満ちたものにすることを目指すべきであるという点を忘れてはなりません」。
 記事は、巧みに聖書を引用しながら、ほかにもさまざまな仕方で読者を諭している。


聖書は人を変える力

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、エホバの証人と聖書を学ぶことによって、破綻した生活を改め、生まれ変わった、ロルフ-ミヒャエルを紹介する記事を掲載した。


よい会話を心掛ける

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、クリスチャンにふさわしい会話をテーマとした研究記事を掲載した。
 「エホバの僕であるわたしたちは、傷つけて打ち壊す会話ではなく、人をいやして築き上げる会話をしたいと思っています」。
 「どんなに良い意図を抱いてはいても、自分の話すことがいつも他の人を築き上げるとは限らず、創造者の賛美とならないこともあり得ます。ですから、自分の話すことがらに注意を払うべきことを学ばなければなりません」。
 「築き上げる会話の習慣を培うためにまず認識すべきなのは、話す内容は心にある事柄を反映する、という点です」。
 「話すことがらの質を向上させる一つの方法は、意味深い黙想をすることです」。
 続いて記事は、話すにあたって、真実を話すよう心掛けること、まじめであること、正しいことを話すこと、善良であることなどを説いた。たとえば、貞潔であることについてはこう述べている。
 「貞潔とは、考えや行状における清さという概念を伝えています。中傷、卑わいな冗談、性的な事柄を暗示する話などは、わたしたちの会話に全くふさわしくありません」。


絶えず祈る

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、絶えず祈るよう読者を諭す研究記事を掲載した。
 記事は、なぜ人が神に祈るべきなのか、祈ることにはどのような益があるかを論じている。


箴言から学ぶ

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、聖書の箴言 13章から得られる教訓に読者の注意を引く記事を掲載した。
 「生活の質を向上させ、命を危険にさらさないようにするうえで、箴言による神の助言は助けになります」。
 記事は、その具体的な事例を多く挙げた。たとえばこのように述べている。
 「聖書や仲間の信者からの懲らしめをエホバからのものとして受け入れるとき、それによって自分の道を正すようにするとき、わたしたちは懲らしめから益を得ています。それに対して、あざける者は懲らしめにこたえ応じません。そして、懲らしめよりもきつい、叱責にも応じません」。


ルター

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、宗教改革者として知られるマルティン・ルターを取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、ルターの理解した信仰義認の教義、免罪符に対する反対、聖書の翻訳、結婚、そして彼が残した遺産を読者に紹介している。
 彼は信仰の人であったが、欠点もあった。記事は、「ルターの著作には、「非常に強い使命感」と共に、「過度の怒り」、および「謙遜さと愛の欠如」が見られます」と指摘している。


自らのうちに命を持つ

 聖書の中には、似た表現であっても意味の異なる事例が見いだせる。「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、そのような例の一つを取り上げた考察を掲載した。
 問題となっているのは、ヨハネ 5章26節と6章53節である。
 5章26節において、キリストが「自らのうちに持つ命」とは、文脈を読むと理解できるように、イエスが持つ、人を復活させる能力を指すという。
 一方、6章53節においては、キリストに信仰を働かせる者が得る永遠の命を指すという。


神の約束

 「ものみの塔」誌2003年9月15日号は、神の約束を信頼すべきことを説く小記事を掲載した。


コミュニケーション

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、動物や人間のコミュニケーションを扱った特集記事を掲載した。


発展途上国で健康を守る

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、発展途上国に住む読者に向けて、衛生を保ち、病気にかからないようにするにはどうしなければならないかを指導する実践的な記事を掲載した。
 記事は、「食べ物の入ったお鍋にはふたをする」などの事項を、写真つきで指導している。


ツルのダンス

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は世界各国のツルを取り上げた教育記事を掲載した。


ケネス・タナカの手記

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、科学者であり、またエホバの証人である、ケネス・タナカ(男性)による手記を掲載した。
 彼はもともと宗教を全く信じておらず、熱心に学業に取り組み、学士号と修士号を取得して、地質学者として宇宙の研究に取り組んでいた。彼はNASAの火星探査計画にも関与している。
 「反宗教的な見方に凝り固まってはいた私ですが、澄み切った砂漠の夜空に広がる壮大な天体パノラマを見て、神が宇宙を創造したに違いないと結論しました」。
 彼はエホバの証人と聖書を研究して、やがてそれを受け入れるようになったという。彼はこのように語っている。
 「科学者である私は軽信を好みません。しかし、しっかりした根拠のある信仰には深い敬意を抱いています」。


ピニャータ

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、メキシコをはじめとする国々で用いられているピニャータを取り上げた教育記事を掲載した。


カナダの支部が表彰を受ける

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、エホバの証人のカナダの支部事務所が、地元ホールトンヒルズから、「ホールトンヒルズの全住民の生活の質を向上させるための努力と献身」を讃える表彰を受けたと報告した。


入れ墨はどうか

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、タトゥー(入れ墨)の問題について考える記事を掲載した。
 記事は、入れ墨をする若者たちの精神的な問題に触れた後、モーセの律法では入れ墨が禁じられていたことに読者の注意を引いた。
 「今日、クリスチャンはモーセの律法下にはいませんが、入れ墨が律法で禁じられていることを思うと身が引き締まります」。
 記事は、入れ墨に対しておおかた否定的な内容となっている。


プライバシーの記事

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、同誌2003年1月22日号に掲載されたプライバシーについての特集記事に対し、スペインでプライバシーについてのベストセラー本を出した人物から届いた賞賛の言葉とアドバイスを紹介した。


葦の舟

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、聖書に出てくる「葦の舟」の意味について寄せられた読者からの意見を掲載した。
 「目ざめよ!」誌は他の資料から別の見解を紹介し、その内容を補っている。


聖書年

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、オーストリアとドイツとフランスとで、2003年が「聖書年」とされていることを紹介する記事を掲載した。
 記事によると、聖書はこれまでに2287の言語で50億冊ほど発行されているという。


エホバに近づく

 「目ざめよ!」誌2003年9月22日号は、ものみの塔聖書冊子協会が発行している「エホバに近づきなさい」と題する書籍を宣伝する記事を掲載した。


神はなぜ介入してくれないのか

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、神に関して人々が抱かざるを得ない疑問を扱った特集記事を掲載した。
 「人類史を通じて、悲劇や災害は人々の心に疑問を抱かせてきました。善良で愛に富む神がこれほどの苦しみや不公正を見ながら手をこまねいているように思えるのはどうしてだろう、と考える人は少なくありません」。
 「飢きん、戦争、病気、死などの現実に直面して、多くの人は創造者が人間のことを気にかけておられるという考えをきっぱり捨てます」。
 記事は、このような疑問を取り上げ、神の介入とはいったい何なのかを聖書から論じている。


迫害と忍耐

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、迫害と忍耐をテーマとした一連の研究記事を掲載した。
 記事は、本来の「殉教者」は「狂信者」とは本質が異なることを指摘し、その事例としてイエスの死を挙げた。
 記事によると、現代においても、時にクリスチャンは殉教を余儀なくされるという。「エホバの証人はしばしば迫害されてきた」からである。また今でも、「証人たちの業は28もの国において禁止もしくは制限されており、少なからぬ数の人たちが信仰のゆえに身体的な虐待や損失を被っている」という。
 記事は、殉教者であることと殉教志向であることとの違いに読者の注意を向けた。
 「クリスチャンであるわたしたちは、死に至るまで忠実であることを勧められていますが、必ずしも、信仰のために死ぬことを勧められているのではありません。つまり、信仰のために進んで苦しみを忍び、必要なら死ぬこともいといませんが、それを望んでいるわけではありません」。
 そこで記事は、迫害に面したとき、迫害から逃げることは間違いではないと指摘した。たとえば、聖書にはイエスやパウロといった人物が迫害から逃れたことが記されている。
 しかし、迫害に立ち向かうべき時もあるという。
 記事はさらに、「迫害されても決して仕返しをしない」ことの大切さを説いた。
 「聖書のどこにも、イエスやその追随者たちが何らかの抵抗運動を組織したとか、迫害者たちと闘うために暴力に訴えたとかいうことを示す箇所はありません。それどころか、「だれに対しても、悪に悪を返してはなりません」と、使徒パウロはクリスチャンに助言しました」。
 最後に記事は、信仰のゆえに迫害を受けることがあったとしても、それを喜びとするようにと勧めている。


懲らしめを理解する

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、「懲らしめの目的を理解する」ことの重要性を説く、教訓的な記事を掲載した。
 「今日の多くの人は、どんなものであれ懲らしめにはマイナスの意味合いがあると考えています。しかし聖書は、異なった観点から懲らしめを取り上げています」。
 記事は、懲らしめを正しく理解するために、「懲らしめと罰との違い」について論じた。
 「エホバの懲らしめは愛を動機としており、受ける人を益することを目標としています。他方、神が処罰を下される場合は必ずしも、それを受ける人の矯正や教育を目指しているとは限りません」。
 「エホバは、懲らしめを受け入れるようにと勧める場合、悔い改めない罪人に対する処罰のことを述べておられるのではありません」。
 「懲らしめの目的を理解することは、クリスチャンが正しい態度で懲らしめを受け入れたり与えたりする助けになります」。
 続いて記事は「懲らしめを与えること」について語った。
 「家庭内やクリスチャン会衆内のすべての人は、懲らしめの目的を理解していなければなりません」。
 「懲らしめの目的を理解しているクリスチャンの親は過酷な扱いをしません。ヒステリックな怒りの爆発や、わめき、侮辱的あるいは軽蔑的な言葉は、愛のある懲らしめとはとても言えず、クリスチャンの生活に占める場はありません」。
 「長老たちは、懲らしめを受け入れようとしない人を扱うときでさえ、温和な態度で諭さなければなりません」。
 「親やクリスチャンの牧者など、懲らしめを与える聖書的な権威を持つ人は、そのような責任を真剣に受け止めるべきです。この人にはこの先ずっと矯正の見込みはない、などと決めつけてはなりません。与える懲らしめが復しゅう心や敵対心に基づく処罰になってしまうことがあってもなりません」。
 「人間は、処罰を与える点で、自分をエホバであるかのように考えてはなりません。また、だれも、親や会衆内の特定の長老の手に陥るのは恐ろしいと感じるようであってはなりません」。
 記事は、与えられた懲らしめを喜んで受け入れるよう読者を励ました後、結びとしてこう述べている。
 「エホバの懲らしめは、わたしたちに対する深い愛の表明です。懲らしめを受けるにしても与えるにしても、神の懲らしめの目的を銘記し、次の聖書の賢明な助言に留意しましょう。「懲らしめをとらえよ。それを放してはならない。それを守れ。それはあなたの命だからである」」。


越野あさのさんの手記

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、越野あさのさんによる手記を掲載した。


死者のためのバプテスマ

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、聖書に出てくる、「死者のためのバプテスマ」という表現についての論考を掲載した。
 前田護郎訳では、この表現は「死者に代わって洗礼を受ける……」と訳出されている。生きている人が、死んでいる人の救いのために、死んでいる当人に代わってバプテスマを受けることができるという解釈である。
 しかし、記事はこのように述べた。
 「しかし、パウロが用いた言語のギリシャ語と聖書を詳しく調べると、別の結論に導かれます。油注がれたクリスチャンは、キリストのような忠誠の死に至る生涯の歩みへのバプテスマを受けるとパウロは述べていたのです」。


ウクライナの迫害

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、「エホバの証人の年鑑」2002年版に収録された、ウクライナにおけるエホバの証人の歴史に対する読者の反応を紹介する記事を掲載した。
 ウクライナのエホバの証人はは52年間の間禁令下にあったが、その間も信仰を守り続けた証人たちの記録に多くの言葉が寄せられている。


突き棒を蹴る

 「ものみの塔」誌2003年10月1日号は、聖書に出てくる「突き棒をける」という表現を取り上げた教訓的な小記事を掲載した。


農畜産の危機

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、世界的な農畜産の危機の現状を読者に紹介する特集記事を掲載した。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、15問の聖書クイズを掲載した。


性同一性障害者

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、性同一性障害と同性愛を取り上げた論考を掲載した。
 記事は、性同一性障害や同性愛の感情を持つ人が、神に喜ばせたいと願うゆえにその傾向と闘うべきことを説き、そのような人がたとえその性向を克服できないとしても、「神はその人を忠実な僕、ご自分の目に清い人とご覧になる」と諭している。


モザイク画

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、モザイクを取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、モザイク画とキリスト教との関係も取り上げている。
 「西暦4世紀に、モザイクはキリスト教の教会に使われるようになりました。その多くは聖書の物語を描いたもので、礼拝者たちを教えるのに役立ちました」。
 しかし記事は、キリスト教モザイク画がプラトン主義の影響を色濃く受けていたことも指摘している。


風車

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、風車を取り上げた教育記事を掲載した。


ピッチ湖

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、トリニダード・トバゴにあるピッチ湖を取り上げた教育記事を掲載した。


宗教に無関心

 「目ざめよ!」誌2003年10月8日号は、朝日新聞からの引用として、日本においては、宗教に全く関心を持たない人の割合が、男性77パーセント、女性76パーセントであることが分かったと報じた。


徹底的な証し

 「わたしたちの王国宣教」2003年10月号は、聖書の述べる「徹底的な証し」を実践するよう読者に求める記事を掲載した。


聖書を用いる

 「わたしたちの王国宣教」2003年10月号は、伝道の現場において聖書を用いることの大切さについて考えるための質問を掲載した。
 たとえば、「質問に答えるときに聖書を用いるのはなぜですか」と質問されている。


大会の復習

 「わたしたちの王国宣教」2003年10月号は、昨奉仕年度(2002年10月から2003年9月)中に各地で開催された特別一日大会の内容を振り返るプログラムの筋書きを掲載した。


賢明な決定

 「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、「賢明な決定」をテーマとした特集記事を掲載した。
 「自分には重要な決定を下す能力が十分あるように思い、助けを差し伸べられても受け入れない人がいるかもしれません」。
 「わたしたちには大抵、他の人の忠告に耳を傾けなかったばかりに賢明でない決定を下してしまった、という経験があるものです」。
 賢明な決定を下すためにはどうすればよいだろうか。
 「どんな結果になるかを事前に見極めるようにしましょう。短期的な益に魅せられて、長期的に見た場合の望ましくない結果に目をつぶらないよう気をつけてください」。
 「慌てて決定すると、大抵の場合、賢明ではない結果になります」。
 「自分とよく似た事柄について他の人がどんな決定を下したかを聞くことは参考になります」。
 「良心は、自分が生活の指針とする基本的な原則に調和した決定を下す助けとなります」。
 記事はさらに、人が「命を保つために神のご要求を学び、神を崇拝する」という賢明な決定を下すべきことを読者に説いている。


サントメ・プリンシペ

 「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、サントメ・プリンシペにおけるエホバの証人の歴史を取り上げた記事を掲載した。
 この国においてエホバの証人の活動が始まったのは1950年代である。あるモザンビークのエホバの証人が、聖書伝道を行った罪で逮捕され、強制移住させられたことによって、活動が始まった。
 後に、アンゴラからも同様にしてエホバの証人がやって来た。
 「サントメで刑に服していた兄弟たちは、1966年までに皆アフリカの本国に帰っていきました。後に残された地元住民のグループは、聖書を研究するために集まり合ったという理由で、迫害され、殴打され、投獄されました」。
 しかし、1975年以降、状況は好転するようになり、1993年に法的認可が与えられてからは、エホバの証人は妨げなく活動するようになった。
 この国では、ものみの塔聖書冊子協会が発行している教育用出版物が、そのまま国営ラジオの教育番組になっているという。


自制

 「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、自制をテーマとした一連の研究記事を掲載した。
 「誰でも認めることですが、言うべき時に「ノー」と言うのはいつも易しいわけではありません」。
 「多くの人が、自分は自制の点で何も問題はないと感じているようです。そのような人は気ままに生活しています。意識して、あるいは無意識に自らの不完全な肉の命ずるままに振る舞い、自分や他の人に及ぶ結果をほとんど顧みません。「ノー」と言えない、あるいは言おうとしないことはこれまでのどの時代よりも顕著になっています」。
 「自制は生まれつきのものではありません。培わなければならないものです。自制をかなりの程度まで表わすには決意と努力が求められます」。
 「クリスチャンは世の欲望(世の世的な欲望)に対して「ノー」と言おうと懸命に努力しています。そうするなら創造者に対して「はい」と言っていることになる、という点をわきまえているのです」。
 記事は、自制することには、自分の欠点を乗り越えることなど、非常に難しい面があることを指摘しつつ、励ましの言葉を述べた。
 「目標に達する早さより、進歩し続けようという断固たる努力の方が重要です」。
 「周りの人は、何らかのときにクリスチャン人格をうまく表わせなかった仲間のクリスチャンに対して誤った評価を下すことを絶対に避けます」。
 「クリスチャン兄弟たちからの助けを確信することができます。行くべきでないところに行かないように、見るべきでないものを見ないように、すべきでない事をしないように引き止めてくれる親や配偶者や友を大切にしましょう。その人は、本気で「ノー」と言える自制の力を発揮するのを助けてくれているのです」。
 「わたしたちには二重の苦闘があります。悪を行なわないようにする一方で、善を行なうよう自分を強いる必要もあるのです」。
 「エホバはその努力を高く評価してくださいます。何度つまずこうとも、決して努力をやめてはなりません」。


子供への悪影響

 このごろの子供たちは、社会から多大の悪影響を受けながら育つ。「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、現代社会に特徴的な悪影響の問題に若い読者の注意を向ける教訓的な記事を掲載した。
 記事は、「信仰のない仲間たちの下品な話や反抗の精神や暴力的な振る舞いは、不注意で無防備な若者に伝染する」と指摘し、「聖書の原則に敬意を払わない人々に囲まれて生活しているクリスチャンの若者はそのような誘惑に警戒する必要がある」と述べた。
 また、「今の時代、エホバの証人の若者たちは、不健全な交友や不健全な娯楽、ポルノ、人を堕落させる形態の音楽に関する警告に留意する必要がある」とも述べた。
 記事は、そのような問題に対処するために、聖書からの学びを欠かすべきではないことを強調している。


創造者は複数

 「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、創世記 3章22節にある「わたしたち」という表現の意味を考察する記事を掲載した。
 聖書の創世記 1章26節には、神が「わたしたちの像に人を造ろう」と述べるくだりがある。この「わたしたち」とは誰のことを指しているのだろうか。
 記事は、これをヘブライ語文法における「強意の複数」あるいは「熟慮の複数」と見る定説(つまり、創造者はおひとりであるという説)に触れ、創世記 3章22節の「わたしたちのひとり」という表現によってそれが否定されることを指摘している。
 「わたしたちのひとり」という表現が可能なのは、「わたしたちが」複数であるからに他ならない。よって、この「わたしたち」を『単数を意味する複数形』として理解することは難しい」と記事は説明している。


ヤコブの信仰

 「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、聖書から、ヤコブの信仰のほどを紹介し、クリスチャンの読者を鼓舞する記事を掲載した。


不信者との結婚

 聖書には、クリスチャンが非信者と結婚することを禁じる句がある。「ものみの塔」誌2003年10月15日号は、その意味について考察する小記事を掲載した。
 聖書は、そのような結婚を、異なる種類の動物をくびき(二頭の動物の首をつなぐ器具)でつなぐことになぞらえている。地面を耕す際に異なる家畜をくびきでつなぐことは、動物の虐待につながるためモーセの律法で禁じられていた。聖書が非信者との結婚を禁じるのは同じ考え方に基づいているという。宗教の違う者同士が結婚することはそれに似ており、危険なので聖書はそれを禁じているのだと記事は説明している。


抗生物質が効かない!

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、抗生物質が効かない“スーパー細菌”の問題を扱った特集記事を掲載した。


ポリネシアにおける“エホバ”

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、ポリネシアにおける神の名前の普及を取り上げた記事を掲載した。
 これらの地域では、19世紀にやってきたキリスト教宣教者たちが、「エホバは唯一まことの神であり、み子イエス・キリストは人類の救い主である」と人々を教えた。
 「島人たちは、偶像崇拝をやめてエホバを崇拝することを、挙手によって表決した。さらに一区画の土地が取り分けられ、教会と牧師館の用地としてエホバに献じられた」。
 こういった歴史があるため、この地方における聖書には、エホバの証人の新世界訳聖書のように、新約聖書中にも「エホバ」の名が出てくると記事は指摘している。


カフカスの洪水災害

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、ロシアのカフカス地方で起こった洪水災害に際してエホバの証人が行った救援活動の内容を報告する記事を掲載した。
 この活動は地元で高く評価され、新聞の記事にもなり、市からの感謝状も届いたという。


アーネスト・パンダチャクの手記

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、アフリカで宣教者として奉仕した、アーネスト・パンダチャク(男性)による手記を掲載した。
 彼はカナダに生まれた。11歳の時に学校で国旗掲揚を拒否したために6カ月の停学処分を受けたという。卒業後、開拓伝道者として奉仕するようになり、1949年以降はケベックでの迫害に直面するようになった。
 「当時はカトリックのモーリス・デュプレッシが州知事で、この人はケベック州からエホバの証人を追い出すと宣言しました」。
 「逮捕や暴動、さらには狂信的な人たちが乱入してきてクリスチャンの大会が中断されるという事態にも直面しました」。
 彼は1951年に結婚し、1953年にはギレアデ聖書学校を卒業し、宣教者としてアフリカで奉仕するようになった。
 1988年には彼はカナダに戻り、今はある会衆の長老として奉仕している。


ヒメバチ

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、ヒメバチを取り上げた教育記事を掲載した。


親の七光

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、親の存在が大きくて重圧を感じる若者たちを諭す教育記事を掲載した。
 たとえば、ある若者はこのように語っている。
 「父は広く知られ尊敬されていたので、僕はいつも、学校でも家でも模範的でなければならないと感じていました。それが人前でりっぱに振る舞わなければならないという大きな圧力になりました」。
 記事は、そのような状況をなんとか打開しようとして反抗という手段に訴える若者がいることを指摘し、その問題点を指摘した。
 「反抗するなら悲惨な結果を招きかねません」。
 「反抗するなら、悪いイメージがいつまでも人々の記憶に残るかもしれません」。
 さらに記事はこう読者を諭している。
 「あなた自身のアンデンティティーは、家族から離れようとすることによってではなく、家族の長所から学ぶことによって確立されます」。
 「結局のところ、人々は(親ではなく)あなたの言動によってあなたを記憶にとどめるのです。「語ることにも、行状にも、愛にも、信仰にも、貞潔さにも」手本となってください。そうすれば、人々は、一個人としてのあなたを愛し、敬うでしょう」。


ココナツ

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、ココナツを取り上げた小記事を掲載した。


家族を亡くしたとき

 「目ざめよ!」誌2003年10月22日号は、ものみの塔聖書冊子協会から発行されている「愛する家族を亡くしたとき……」の小冊子を紹介する記事を掲載した。


信頼

 最近は人を信頼するということが難しくなっていく一方である。「ものみの塔」誌2003年11月1日号は、人を信頼するよう努力し、自らも信頼できる人となるよう読者を励ます特集記事を掲載した。
 「信頼している人に失望させられるのは、珍しいことではありません」。
 しかし記事はこのように指摘した。
 「とはいえ、他の人を信頼できないと、自分自身が幸福でなくなります」。
 では、どうすれば人を信頼できるだろうか。ほんとうに信頼できる人を見つけることによってである。記事はこのように読者に勧めた。
 「信頼する人を選ぶ際に慎重でなければなりません。自分が信頼する人を選ぶ時に、敬虔さの基準に従うのは賢明です。わたしたちの周りに、神を恐れていることを行動によって示している人々がいるでしょうか。それらの人は神の行動の基準を守ろうと決意しているでしょうか。正しくないことは行なうまいとする高潔さがありますか。自分の利を図るために、あるいは自分の思い通りに事を運ぶために状況を操作したりしないという正直さがありますか。そうした特質を示している男女は確かに信頼に値します」。
 また記事はこのようにも読者を諭した。
 「だれを信頼できるかを判断する際には、辛抱強くなければなりません。だれか信頼している人に裏切られたように思えるなら、裏切りと思えるものが、信頼できない精神態度の現れか、一時的な肉の弱さの現れかを考えるのはよいことです」。
 最後に記事は、読者自身に注意を向け、こう諭している。
 「人を信頼する際に慎重でありたいと思うなら、公平な態度で次のように自問すべきです。『自分は信頼の置ける人間だろうか。信頼性に関して道理になかったどんな基準を、自分や他の人に期待すべきだろうか』」。


エホバを喜ばせる女性

 「ものみの塔」誌2003年11月1日号は、聖書から、神を喜ばせる貴重な女性について論じる一連の研究記事を掲載した。
 「神は何よりも霊的(精神的)な特質を喜びとされます。物質や外面のことで頭がいっぱいになっている今の世界で、自分の霊性を優先させてゆくのは易しいことではありません」。
 「この世界は人の外見を非常に重んじます。女性については特にそうです。しかし、エホバがおもに関心を持たれるのは内なる人であり、それは年齢と共にいっそう美しくなるものです」。
 記事は、聖書のさまざまな事例から、立派な女性とは何かを論じた。
 また記事は、反対者の夫のいる女性、結婚していない女性、ひとり親である女性を取り上げ、そのような試練となる状況の下で、どのようにしてその女性が神を喜ばせる者となれるかを論じている。


リチャード・エイブラハムソンの手記

 「ものみの塔」誌2003年11月1日号は、ヨーロッパで宣教者として奉仕したリチャード・エイブラハムソンによる手記を掲載した。


寄付

 「ものみの塔」誌2003年11月1日号は、寄付をテーマとした記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「聖書の真理に飢えている人たちを助けるため、毎年膨大な数に上る聖書、書籍、小冊子などの出版物が印刷されています。さらに、10億冊を優に越える「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌も生産されています」。
 「それらのすべての備えに必要な資金は、もっぱら自発的な寄付によって賄われています」。


エリヤの「二つの分」

 「ものみの塔」誌2003年11月1日号は、聖書に記されている、エリシャがエリヤの霊の「二つの分」を求めた出来事の意味について注解した。
 記事は、エリシャが「預言者の子ら」の第一人者だったたことを指摘し、「エリシャは霊的な意味で、長子に与えられるような二倍の受け分を求めていたのでしょう」と述べている。


石油

 「目ざめよ!」誌2003年11月8日号は、石油をテーマとした特集記事を掲載した。


アマゾン

 「目ざめよ!」誌2003年11月8日号は、アマゾン川を取り上げた教育記事を掲載した。


ピグミー

 「目ざめよ!」誌2003年11月8日号は、ピグミーを取り上げた教育記事を掲載した。


プラハ

 「目ざめよ!」誌2003年11月8日号は、チェコ共和国のプラハを取り上げた教育記事を掲載した。
 記事には多くの写真が掲載されている。


信仰を異にする親族

 「目ざめよ!」誌2003年11月8日号は、信仰の相違がある家族とどのように接することが大切かを論じる記事を掲載した。
 信仰が違う親族のことをエホバの証人はどう考えるべきだろうか。
 「わたしたちは自分の親をないがしろにすべきではありません。親がわたしたちの宗教を認めていないのが事実だとしても、そのことで親子関係が解消されるわけではないのです。またそれらの聖書の原則は、他の肉親や配偶者にも同様に当てはまります。クリスチャンは明らかに、道義的にも聖書的にも、親族に愛を示す責務を負っています」。
 また、親族が反対者となる場合については、このように述べた。
 「反対する人たちはただ、聖書の教えをわたしたちと同じようには理解していないということだけなのです。聖書はキリスト教の追随者たちに、「温和な態度で」、「深い敬意をもって」未信者に接するよう励ましました」。
 「家族が聖書の真理を受け入れない理由が、親族であるクリスチャンにないがしろにされたから、ということであってはなりません」。
 一方で記事はこのようにも述べている。
 「真のクリスチャンは、たとえ自分の親族のためであっても、他の人を喜ばせようとして自分の信仰を曲げることはしません」。


クラウドベリー

 「目ざめよ!」誌2003年11月8日号は、クラウドベリーを紹介する小記事を掲載した。


日々の生活と思い煩い

 「わたしたちの王国宣教」2003年11月号は、日々の思い煩いから自分を守るべきことを説く記事を掲載した。
 「イエスは、日常生活のいろいろな事柄に気を奪われないようにと警告なさいました」。
 どのようなものがクリスチャンの思い煩いとなるだろうか。記事はこのように指摘している。
 「今日の世界には、貴重な時間を容易に奪いかねない、気を散らすものがあふれています。インターネットを見たり、Eメールを読んだり送ったり、コンピューターゲームで遊んだりすることに時間を費やしすぎるなら、コンピューターの使用はわなになります。テレビ、映画、趣味、世俗の読み物、スポーツなどに多大の時間を費やし、霊的な活動のための時間やエネルギーがほとんど残らなくなることもあり得ます」。


褒める

 「わたしたちの王国宣教」2003年11月号は、褒めることの大切さを説く記事を掲載した。
 記事は、心から人を褒めることの大切さをこのように説いている。
 「人を本当にさわやかにするには、誠実に褒めなければなりません。心から話しているか、それとも単に「舌でへつらっている」だけかは分かるものです。他の人の良い点にに注目するよう自分を訓練するなら、心からの褒め言葉を述べることができるでしょう」。


新しい印刷体制

 「わたしたちの王国宣教」2003年11月号は、現在進められている、エホバの証人の印刷施設の再編の概要を説明する記事を掲載した。


神との関係を深める

 「わたしたちの王国宣教」2003年11月号は、神と親密な関係を築くことに焦点をあてた記事を掲載した。
 「エホバとの親しい個人的な関係を築くには、努力が要ります。単に型どおりのクリスチャン活動を続ける以上のことが求められます」。
 記事は、どのようにしてクリスチャンである読者が神に近づいていくことができるかを具体的に示している。


楽園

 「ものみの塔」誌2003年11月15日号は、聖書の述べる楽園(パラダイス)をテーマとした特集記事を掲載した。
 記事は、聖書の述べる楽園が地上のものであることを説明し、さらにこう述べている。
 「歴史を通じて多くの人々は、自分たちはやがて地上を去って天へいくと信じてきました。禁欲主義者たちにとって、地とあらゆる物質的なものは悪です。こうしたさまざまな考えを生み出した人たちは、楽園の地について神が述べた事柄を知らなかったか、あえて無視したかのどちらかです」。


聖書を正しく教える

 「ものみの塔」誌2003年11月15日号は、聖書の言葉を正しく扱い、弟子を生み出す聖書伝道をテーマとした一連の研究記事を掲載した。
 記事は、そのような伝道者として、聖書からパウロの模範を引き合いにした。
 「パウロは、自分の命さえ救われればよい、と考えていたでしょうか。いいえ、パウロは利己的な人ではありませんでした」。
 「パウロは慎み深い働き人で、ただ自分個人の技能に頼るのではいけないことを認めていました。パウロと同様に、わたしたちが弟子を作るために用いるおもな道具は、聖書全巻です」。
 「パウロは、自分の栄達に関心があったのではありません。また、神の同労者の一人として公に知られることを恥じてはいませんでした」。
 「「何ら恥ずべきところのない働き人」となるために、神の言葉の真の教えからそれてはなりません。自分の個人的な見解で教えるべきではありません。あくまでも聖書を基軸とすべきです」。
 さらに記事はこのように読者を諭した。
 「わたしたちは、神の言葉の真理をふれ告げることによってみ言葉を正しく扱いますが、ただそれだけで終わってはなりません。行状をみ言葉にかなったものとしなければならないのです」。
 そのようにして聖書を教える者となる時、聖書の教えは人を動かす強い力となる。
 「神の言葉は人の最奥のところを刺し通して人を内側から変えさせ、考え方や愛好するものにも影響して、その人を神に受け入れられる敬虔な働き人とならせます。神の言葉は、人が自ら思っている姿や他の人に見せている姿と比べて、内奥ではどうなのかを明らかにします。邪悪な人も、内なる自分を覆い隠して、表向きは情け深く、あるいは信心深く見せることができます。よこしまな人は、邪悪な目的のためにうわべを繕います。誇り高い人は、かっさいを受けたいときには、見せかけの謙遜を装います。しかし神の言葉は、心の内を真に明らかにさせて、謙遜な人が古い人格を脱ぎ捨てて「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着ける」ように力強く促すことができます」。
 記事はさらに、聖書伝道を正しいものとするためのさまざまな論点を取り上げ、論じている。


エイドリアンの場合

 「ものみの塔」誌2003年11月15日号は、暴力的な性格を持ち、自堕落な生き方をしていたものの、エホバの証人と聖書を学ぶことによって変化を遂げることのできた、エイドリアン(男性)を紹介する記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「第一に、聖書は、脱ぎ捨てる必要のある望ましくない人格特性を明らかにします。第二に、聖書は神の聖霊の生み出す望ましい特質を表わすことを強く勧めています。エイドリアンは、神のご要求についての理解を深めることによって、自分を調べることができ、培う必要のある人格特性と除去すべき人格特性を見極めることができました」。


エホバの証人のカレンダー

 「ものみの塔」誌2003年11月15日号は、2003年の「エホバの証人のカレンダー」に対する反響を取り上げた記事を掲載した。


誕生石

 エホバの証人の統治体は、「ものみの塔」誌2003年11月15日号において、誕生石の使用に関する見解を公表した。
 記事において、統治体はまず、「クリスチャンがある種の宝石のついた指輪をするかどうかは、個人的に決定すべき事柄です」と述べた。
 続いて、誕生石の問題点を指摘した。
 「誕生石を身につけると幸運や健康に恵まれると一般に考えられています。中世において、占い師たちは誕生石を身につけるよう人々に勧めました。しかし、クリスチャンが出来事の職業的予告者の導きに従うのは、聖書的に見て間違ったことです」。
 最後に統治体は、「非常に大切なのは動機です」と述べ、エホバの証人が誕生石の使用について深く考えるよう勧めている。


バラクの信仰

 「ものみの塔」誌2003年11月15日号は、聖書にでてくるバラクの信仰を取り上げた記事を掲載した。


環境保護

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、環境破壊と環境保護とを取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は現在の環境保護についてこのように指摘している。
 「人類は身動きがとれなくなっています。問題があり、何とかしなければならないことは、だれでも知っています。誠実な努力を払っている国もありますが、環境問題はおおむね悪化しています」。
 「事実をいえば、ほとんどの人が環境について心配しているとはいえ、多くの人はゴミを道端に捨て、残飯を川に投棄し、使わない照明をつけっぱなしにすることを何とも思いません。これらは小さなことに思えるかもしれませんが、地上に住む何十億もの人がそれぞれ地球を優しく扱うように注意すれば、結果は違ってくるでしょう」。
 最後に記事は、環境保護にかかわる聖書からの希望を紹介している。


多発性硬化症

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、多発性硬化症について詳しく論じる記事を掲載した。
 記事は、多発性硬化症のメカニズム、型、検査法、治療法を取り上げている。


石鹸

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、石鹸の使用を勧める小記事を掲載した。
 記事はこのように述べている。
 「いつも手を洗うことによって、わたしたちは家族に対し、また接触するすべての人に対して、クリスチャンの愛を示しているのです」。


クジャク

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、クジャクを取り上げた教育記事を掲載した。


アメリカ最大の地震災害

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、1811年から1812年にかけて、ミシシッピ川周辺で起きた空前の地震災害を取り上げた教育記事を掲載した。


北西航路

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、北西航路を取り上げた教育記事を掲載した。


よくできるお兄さん

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、自分の兄弟姉妹が優秀であるために引け目を感じている子供たちを励まし、アドバイスを与える記事を掲載した。


電球

 「目ざめよ!」誌2003年11月22日号は、電球をソケットにはめるときに電球に働く指の力の伝播に注目する小記事を掲載した。


神を信じる理由

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、神を信じる正しい理由とは何かを考える特集記事を掲載した。


フランスのテレビ番組

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、フランス国営テレビがエホバの証人の施設を取材して放映した番組を見てエホバの証人に好意を持った人を紹介する記事を掲載した。
 記事はこう述べている。
 「時々、エホバの民の信用を落とそうとする人たちでさえ意図せずに、心の正しい人を真理に向けさせることがあります」。
 記事に紹介されているアンナ(女性)は、その番組に写っている支部の様子を見て、健全なイメージを受けたという。


喜び

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、クリスチャンの喜びと幸福に焦点をあてた研究記事を掲載した。
 「イエスの言葉は、幸福がわたしたちの手の届くものであることを保証しています」。
 記事はまず、世の悪のゆえに「激こうする」ことのないよう読者に勧めた。
 「不法の増加のゆえに不安になるときには、エホバにいっそう頼る必要があります」。
 どのようにしてそうすることができるだろうか。聖書を読み、研究し、それを人々に教えることによってである。
 エホバの証人が直面する反対についてはどうだろうか。記事はこう述べている。
 「エホバの証人に関する誤った情報が伝えられることがよくあります。しかしエホバは、心の正直な人々の目を開き、エホバの証人の公の宣教奉仕がエホバと隣人への愛を動機としたものであることに気づかせてくださいます。それと同時に、多くの人によって誤り伝えられようとも、わたしたちの廉直な行状が隠されたままで終わることはありません」。
 また記事はこのように読者に勧めた。
 「今は、喜びや霊的な安全を奪い去りかねない性急な行動を慎むべき時です。また、サタンの世の腐敗的な影響にいよいよ強く抵抗すべき時です。そして、道徳的な清純さを保ち、エホバのみ前での義なる立場を決して危うくしないようにすべき時です」。
 「わたしたちはまだ様々な苦悩から解放されてはいませんが、互いに支え合い、憂いに沈んだ人たちを慰めます」。


感謝

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、感謝することをテーマとした研究記事を掲載した。
 「わたしたちは、感謝の欠けた世界で暮らしています。この世の神、悪魔サタンは自己中心的な態度の最大の提唱者であり、その誇りと反抗の精神が人間社会に広く浸透しているのです」。
 そこで記事はこのように読者を諭した。
 「わたしたちはサタンの世のただ中にいるので、世の態度によって腐敗させられることがないよう用心する必要があります」。
 記事は、クリスチャンが示す感謝とは何か、どのようにそれを示すかを論じた。
 ひとつに、記事はこのように問いかけている。
 「わたしたちは、宣教奉仕に心をこめ、また進んで行なう精神をもって参加しているでしょうか。それとも、それを果たすべき単なる務めとみなしていますか」。
 次いで記事はこのようにも述べた。
 「エホバ神はわたしたちの状況をよくご存じであり、わたしたちの限界も知っておられます。ご自分の僕たちが進んでささげる犠牲を、その多少にかかわりなく、高く評価されます。だれもが同じ量をささげると期待しておられるわけではありませんし、実際のところ、わたしたちはそうすることはできません。わたしたちの奉仕がエホバに受け入れられるかどうかは、量ではなく、どのようにそれを行なうか、つまり喜んで心をこめて行なうかにかかっています」。
 また、記事は寄付についても触れ、こう述べた。
 「エホバへの感謝を反映するのは寄付の額ではありません。むしろ、与えるときの精神です」。
 最後に記事は、エホバの証人各自が「どのように感謝を示しているか再吟味する」ことを勧めている。


聖書の命令と良心

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、良心がかかわるような事柄であるにもかかわらず、聖書に規定や命令が記されていない物事をどう扱うかという難しいテーマを取り上げた記事を掲載した。
 「わたしたちの天の父エホバは、み言葉を通して数々の明確な命令を与えておられます。とはいえ、明確な命令が与えられていないことも少なくありません」。
 「それで、ある人たちは、聖書の明確な律法がない場合は自分の好きなようにしてよいと考えます」。
 しかし、記事は鋭くこのように指摘した。
 「そのように考える人は往々にして、賢明でない決定をし、後で深く悔いることになります。聖書には律法だけでなく神の考え方を示すものも含まれている、という点を見落としているのです」。
 「わたしたちは聖書を研究してエホバの物の見方を知るにつれ、聖書で訓練された良心をはぐくみ、神の道にそった選択ができるようになります。そしてそうする時、神の心を喜ばせ、賢明な決定の結果として生じる数々の益を受けます」。
 記事はさらにこう述べている。
 「聖書を法律文書のようにみなして、そこにすべての責務が事細かに記載されていると考えてはなりません。エホバの心を喜ばせるのは、自分の歩みを規定する具体的な律法がない場合にも、神のお考えを反映する行動をとろうとする人です」。
 記事はより具体的な内容に進み、聖書から何かを学んだ時、「それに類する事柄」という概念をしっかり持つよう読者を諭した。
 「医師から、もっと果物や野菜を食べ、パイやアイスクリームやそれに類するものは食べないように、と言われたとしましょう。ケーキがどちらの部類に入るかを判断するのは難しいでしょうか。同じ原則は、読み物、映画、テレビ番組、コンピューターゲーム、ウェブサイトなどにも当てはまります」。
 最後に記事はこう述べている。
 「神の律法は人の従順を試みるのに対し、神の原則は人の霊性の深さと神を喜ばせたいという願いの深さを試みる、と言えるかもしれません。何をするにしても、天の父がうれしいと思われるように行動する時、自分自身の喜びも増し加わるのを感じるでしょう」。


マリア・ケラシニスの手記

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、ギリシャにおいて数多くの困難に直面しながらも信仰を貫いた、マリア・ケラシニス(女性)による手記を掲載した。
 「両親は子供たちをギリシャ正教会の敬虔な信徒として育てました」。
 「18歳のころ、近くの村に住んでいる従兄の姉妹カティナがエホバの証人の出版物を読んでおり、教会に行かなくなった、ということを知りました。わたしはとても心配し、正しいと思っていた道にカティナを連れ戻そうと思いました。そして、カティナが我が家に来た時、散歩に誘い、途中で司祭の家に立ち寄りました。司祭はまず、ひとしきりエホバの証人をあざけって、カティナを惑わした異端者だと言いました。話し合いは3時間も続きました。カティナはよく準備した聖書に基づく論議で、司祭の主張がどれも間違っていることを証明しました。とうとう司祭はカティナに、君はこんなにきれいで賢い女の子なのだから、できるあいだに青春を謳歌すべきだ、神に関心を持つのは年を取ってからでよいだろう、と言いました」。
 司祭はマリアの父に、「親戚の子をすぐに追い出しなさい」と命じたという。
 彼女はカティナの影響を受け、エホバの証人から聖書を学ぶようになった。そのため、多くの困難に直面した。
 「やがて姉夫婦は、わたしが食事のときに十字を切らないことや、イコンの前で祈らないことに気づきました。父は涙ながらにわたしの考えを変えさせようとしました。父たちは問題を終わらせようとして、教会へ戻りなさいと言いましたが、わたしの考えは変わりませんでした」。
 「激しい反対は3年間続き、その間はエホバの証人と連絡を取ることも出版物を受けとることもできませんでした」。
 とはいえ、状況は変化し、1952年には結婚してエホバの証人の夫を持つことができるようになった。
 「1958年、主人は旅行する監督として奉仕するよう招待されました。当時、エホバの証人の活動は禁令下にあり、状況はたいへん困難でした」。
 しかし1961年からはベテル(エホバの証人の支部施設)で働くことになった。
 現在、彼女はベテルの人たちからの世話を受けて幸福に暮らしているという。


エゼキエルの口

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、聖書に記されている、エゼキエルが「口のきけない者」となったという記述について注解した。
 「その期間中、エゼキエルは文字どおり口がきけなかったのでしょうか。もちろんそうではありません。というのは、その「口のきけない」状態になった後も、エルサレムの没落を喜ぶ周囲の国々を主な対象とした預言を語っているからです」。
 記事は、エゼキエルが「口のきけない者」となるという記述は、イスラエルに関して述べられており、イスラエルに対して預言する言葉のない状態を示していると指摘した。


エホバの証人は迷惑か

 エホバの証人のことを単に「迷惑な存在」と考える人は多い。実際はどうだろうか。「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、その問いに答える記事を掲載した。
 記事はこう答えている。
 「クリスチャンは、神の律法に反しない限り、公共の益となる活動に参加します」。
 「とはいえエホバの証人は、もっと大切な良い業にも関心を抱いています。証人たちは繰り返し隣人を訪ね、神の王国の良いたよりを伝えます。また、聖書の原則を学んで生活に当てはめるよう人々を助けます」。
 記事は、「エホバの証人の行なう奉仕の価値を理解せず、迷惑だと考える人がいるかもしれません」と指摘した後、「エホバの証人による訪問はクリスチャンの社会奉仕の一環であり」、「日常生活の様々な問題に対処できるよう人々を助けることによって地域社会の福祉に貢献する」ものであると述べている。


エホバを捨てる

 「ものみの塔」誌2003年12月1日号は、聖書が、エホバの崇拝者であるふりをしていても実際にはエホバを捨てている人を指して用いた「水溜め」の比喩を取り上げた小記事を掲載した。


 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は税を巡る不満と論争を取り上げた特集記事を掲載した。
 記事は、クリスチャンが税についてどう考えるべきかも扱い、たとえ税制に不条理なところがあるとしても、税金を支払うようにと読者を諭している。


相沢靖の手記

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、医師でありエホバの証人でもある相沢靖氏による手記を掲載した。
 彼は癌で亡くなった遺体を解剖する仕事をしているうちに、癌と輸血との関係に気づくようになったという。
 「わたしは、輸血は単にがんを移転させるだけではないだろうかと感じていました」。
 やがて彼は妻に勧められて聖書を学ぶようになった。
 「聖書がクリスチャンに『血を避ける』ようにと述べていることを学びました」。
 「そして、1976年5月にバプテスマを受けました」。
 そのため、彼は病院で困難に直面することになった。
 「外科の医師団はわたしを取り囲み、「あなたがエホバの証人であるなら、輸血が必要な患者が運ばれてきた時にはどうするつもりか」と迫ってきました」。
 結局、輸血は別の医師がすることで折り合いがついたという。
 彼が担当した患者に、エホバの証人の宣教者であり、白血病の末期患者がいた。本来なら延命のために輸血を受けながら数カ月で死ぬというところだが、この患者は輸血なしの彼の治療を受け、7年間生きながらえることができたという。
 今彼は、いろいろな病院に出向いてエホバの証人にかかわる手術を手伝うなどの活動を行っているという。


パラカス国立保護区

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、ペルーのパラカス国立保護区を取り上げた教育記事を掲載した。


欲望との闘い

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、欲望との戦いについての聖書的な考え方を考察する記事を掲載した。
 「多くの人にとって、間違った欲望を克服するための闘いは熾烈を極めます。性的満足への不道徳な渇望と闘っている人もいます。ギャンブル、たばこ、違法な薬物、アルコールなどにやみつきになっている人もいます」。
 記事は、人が愛によって欲望と闘うべきことを説いた。
 「神を愛するのであれば、神を喜ばせることが最大の願いとなるはずではないでしょうか。もしそうなれば、間違った欲望がいかに根深いとしても、神を喜ばせたいという正しい願いが闘うための助けとなります」。
 「人に対する利他的な愛があれば、他の人を傷つけかねない一切の行動を避けようとするでしょう」。
 記事は、欲望に対処するために、聖書の教えを学び、聖霊の助けを求めるべきことを説き、「間違った欲望に打ち勝つことは可能である」と読者を励ましている。


聖書クイズ

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、15問の聖書クイズを掲載した。


家庭菜園

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、家庭菜園を取り上げた教育記事を掲載した。
 記事は、「野菜作りは教育的であり、辛抱強さなどの特質を学べます」と述べている。


子供の熱

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、子供が発熱した際に親がすべき事柄をアドバイスする教育記事を掲載した。


教会に対する不信

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、世界経済フォーラムが行った信頼度調査の内容から、教会は警察や軍隊ほどには信頼されていないと指摘した。


薬物乱用

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、同誌2003年4月8日号の、子供の薬物乱用をテーマにした特集記事に対する感謝の声を掲載した。
 その人は、麻薬中毒者のコンサルタント業務を指導する仕事をしており、この記事に感謝を述べたいと思ったという。
 この人は「自分はカトリック教徒ですが、「目ざめよ!」誌を愛読しています」とも述べている。


オラバ城とトゥルゾー家の家紋

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、スロバキアのオラバ城にあるトゥルゾー家の紋章の下に神の名前「エホバ」が刻まれていることを紹介する小記事を掲載した。


エホバをよく理解する

 「目ざめよ!」誌2003年12月8日号は、ものみの塔聖書冊子協会が発行する「エホバに近づきなさい」と題する本を宣伝した。


クリスチャンの一致

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、クリスチャンの一致をテーマとした記事を掲載した。
 「たがうことのない神の目的は、理知あるすべての被造物を真の崇拝において一つに結びあわせることです」。
 そこで記事は、読者がどのように一致に貢献することができるかを説いている。


地域大会に備える

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、2004年の地域大会の主題が「神と共に歩む」であることを告知し、大会に備えるよう読者に勧める記事を掲載した。


神権宣教学校の復習

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、神権宣教学校の復習のための質問用紙を掲載した。
 たとえば、次のような質問が掲載されている。
 「聖書において、『流されること』、『離れること』、『離れ落ちること』は、それぞれどのように異なりますか」。


2004年の神権宣教学校

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、2004年の神権宣教学校のカリキュラム調整の一部概要を述べる記事を掲載した。


輸血代替医療のビデオ

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、輸血代替医療と患者の権利とを取り上げたビデオについて討議するための質問集を掲載した。
 補足的な点として、記事はこのビデオについてこう述べている。
 「このビデオで取り上げられている治療法を受け入れるかどうかは、各人が、聖書によって訓練された自分の良心にそって個人的に決定すべき事柄です」。


輸血拒否の法的書面

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、エホバの証人が活用する輸血拒否のための法的書面の記載方法について簡単に指導する記事を掲載した。


再訪問

 「わたしたちの王国宣教」2003年12月号は、関心を持つ人を繰り返し訪問するよう求め、指導する記事を掲載した。
 記事は「良心的に再訪問する」ことの大切さを説き、また「家の人に誠実に個人的な関心を示す」よう求めている。


イエスの家族

 「ものみの塔」誌2003年12月15日号は、イエスの家族に焦点をあてた特集記事を掲載した。
 記事は、「イエスの肉親には、両親、4人の弟、少なくとも2人の妹がいた、ということを推測できます」と指摘した。
 記事は、イエスが「家計のやりくりに苦労する」貧しい家に生まれたなどの情報と共に、イエスの両親の信仰に関する考察を述べている。
 最後に記事は、イエスの兄弟たちの反目と改心について触れ、非信者の親族を持つ読者に対する励ましとしている。


一致兄弟団

 「ものみの塔」誌2003年12月15日号は、15世紀の「一致兄弟団(チェコ兄弟団)」を取り上げた記事を掲載した。
 この信仰集団は「命に至る狭められた道を探し求めた」という。記録によれば、彼らはこのような誓いを立てた。
 「我々は、専ら聖書を読むことを基礎として、また、黙想、謙遜さと辛抱強さ、敵を愛すること、敵に善を行ないその幸福を願うこと、敵のために祈ることなどに関し、我らの主および聖なる使徒たちにより示された模範を規範として管理することを決議する」。
 記事はこう指摘している。
 「しかし何十年かたつうちに、一致兄弟団はその名前にかなった生き方をしなくなりました。兄弟団の信条をどれほど文字どおりに実行すべきかについて論争が起こり、それを契機として分裂が生じました」。
 この結果、一致兄弟団は多数派と少数派とに別れた。多数派は現在のモラビア教会となっている。
 しかし、少数派はより狭き道を追い求めた。少数派によるこのような言葉が残されている。
 「2本の道を同時に歩んでいる人に、今後も神のもとにとどまれるという保証はほとんどない。彼らが進んで神に自らを差し出し神に服することはまれにしかなく、しかもそれは小さな事柄に限られている。大きな事柄においては自分の思い通りの道を歩むのである。汚されていない心と正しい良心を持つ者―日々、主キリストに従い、自らの十字架を負いつつ狭められた道を歩んでいる者たち。我々はそのような者として数えられることを切望する」。
 少数派は迫害の対象となり、ついにはついえてしまったという。
 記事は最後にこう注解している。
 「彼らは長く続いてきた霊的な闇を払い去ることに成功しませんでした。それでも彼らが抱いていた、狭められた道を探し求め、反対に直面してもそれに従いたいという強い願いは、今日のクリスチャンにとって注目に値します」。


油断なく見張る

 「ものみの塔」誌2003年12月15日号は、聖書がハルマゲドンについて述べている事柄に読者の注意を引き、聖書の述べる「油断なく見張る」とはどういうことかを示す一連の研究記事を掲載した。
 記事は、今の時代が「道徳が崩壊する」時代であると指摘し、このように問いかけた。
 「人間世界の物事が悪化してゆく傾向をあなたはどう見ていますか。近年の悲痛な出来事に無関心、さらには無感覚な人も少なくありません。世界的に影響力があり知性的とされる人たちも、時代のしるしの意味を悟っておらず、宗教界の指導者たちもこの点で正しい導きを与えてきませんでした」。
 そこで、イエスの教えに従って「見張っている」ことが必要であると記事は述べた。
 「悪に対する憎しみを培い、不道徳につながるような状況を避けていることは、まさに急務です」。
 「エホバの日(ハルマゲドン)に対して用意のできていることを示すためには、今日広く見られるある種の態度を避け、ある独特の霊的状態に陥らないようにし、ある種のライフスタイルを避ける必要があります」。
 どのようなことを避けるべきだろうか。ひとつに、記事はこのように述べた。
 「今日多くの人に広く見られるのは、自己満足の態度です。わたしたちはそのような考え方に影響されないように用心しなければなりません」。
 さらに記事は、日々の生活に押し流されて信仰がおろそかにならないようにと読者を諭した。
 最後に記事はこう述べている。
 「エホバの大いなる日(ハルマゲドン)を辛抱強く待ちながら、敬虔な専心の行ないを神への心からの専心のうちに行なっていけますように」。


ギレアデ聖書学校卒業式

 「ものみの塔」誌2003年12月15日号は、ものみの塔ギレアデ聖書学校の第115期卒業式が行われたことを報告する記事を掲載した。
 記事によると、115期生は48名で、宣教者として派遣される国は17になるという。


天における神のご意志

 「ものみの塔」誌2003年12月15日号は、主の祈りの一節である、「神のご意志が天で行われるように地上においても行われるように」という表現について考察した。
 「この願いは、二つのいずれかの意味に取れます。第一に、神のご意志が、すでに天で行なわれているように地上でも行なわれるようにという請願と取るか、第二に、ご意志が天においても地においても充分に行なわれるようにという願いと取るかです」。
 記事は、「後者の見方が聖書にいっそう調和している」と指摘している。


驚嘆する心

 「ものみの塔」誌2003年12月15日号は、「驚嘆する心がありますか」と読者に問いかける小記事を掲載した。
 「小さな子供たちが、初めてものを見たり、触ったり、聞いたりして、不思議そうに目を丸くするのを見ると、うれしくなるのではないでしょうか。しかし残念なことに、そのような好奇心を抱いたり、新しいものに接して驚いたりすることは、たいてい、年齢が進むにつれて少なくなります」。
 記事は、読者が「神に感謝しつつ、驚嘆する心をはぐくむ」べきことを説いている。


赤ちゃんときずな

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、生まれてきたばかりの赤ちゃんに対する福祉を取り上げた啓発的な特集記事を掲載した。
 「赤ちゃんが生まれてくるのは、厳しくて冷たい世界、ストレスだらけの世界です」。
 「新生児は、知的、感情的、精神的に成長してゆく必要があります。愛撫やスキンシップなど、優しい世話を必要とします」。
 記事は、「自分の赤ちゃんを見て愛着を感じない母親がいる」と指摘した。そのような親を持つ赤ちゃんはサイレントベビーとなってしまう可能性がある。
 「日本のある医師たちによると、泣いたり笑ったりしない赤ちゃんが増えています。親とのふれあいやスキンシップが得られないからです。これは強いられたあきらめの状態と言えます。感情面で極端な仕方でなおざりにされると、感情移入をする能力が取り返しのつかないほど損なわれるようです」。
 記事は、「どんな接し方が最善かは親が決めなければなりません」と断りつつも、親がどのように赤ちゃんに接することができるかを具体的にアドバイスしている。


ハーブ療法

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、ハーブ療法の益と危険について考える教育記事を掲載した。


薬用植物

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、薬用植物の研究とその功罪を取り上げた小記事を掲載した。


人前で話す

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、若い読者に、人前で上手に話せるようアドバイスする記事を掲載した。
 記事は、「スピーチを演技と考えない」よう読者に勧め、また聴衆を「敵ではなく味方と見る」ようにとも勧めた。
 記事は、上手に話せるようになるための具体的な方法を幾つか紹介している。


アイリーン・ブランポの手記

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、オールド兄弟団(オールド・オーダー・ドイツ・バプテスト兄弟団)の家に育ったものの、エホバの証人へと転向した、アイリーン・ブランポ(女性)による手記を掲載した。
 彼女はオールド兄弟団についてこのように語っている。
 「自動車やトラクターや電話はもとより、ラジオその他のどんな電気製品も所有したり用いたりするのは間違いである、と教えられて育ちました」。
 「女性の信者は簡素で飾り気のない服装をし、髪を切らず、いつもかぶり物をしていました」。
 「教会の考えでは、(聖書が教えるところの)世のものとならないことには、現代風の服装をしない、化粧をしない、アクセサリーをつけないことが含まれました。そうしたものは、罪深い誇りの表われと思っていました」。
 「日曜日にはどんな肉体労働もしないことになっていました」。
 彼女は17歳の時に同じオールド兄弟団の信者と結婚した。
 転機はこのようにして訪れたという。
 「1960年代の終わりごろ、夫の弟で、やはりオールド兄弟団の信仰のうちに育ったジェシーが兵役を拒否して刑務所に入れられました。ジェシーはそこにいる間に、エホバの証人に出会いました。そして充分に聖書研究を行なった後、バプテスマを受けてエホバの証人になりました。このことにわたしたちはひどくがっかりしました」。
 「ジェシーは自分の学んだ事柄をわたしの夫に話し、夫が「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を定期的に受け取れるようにしました」。
 「父は証人たちに対して強い偏見を抱いていて、「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌は絶対に読むべきではないと思っていました」。
 「それでわたしは夫が間違った教えを取り入れるのではないかと心配しました」。
 とはいえ、彼女自身、オールド兄弟団には疑問を持つようになり、1983年には棄教してしまったという。
 「1983年から1985年まで、時間を取って国じゅうを旅し、メノーやクエーカーなどの“質素”な宗教グループを次々に調べていきました。質素な服装によって世から離れていることの必要を理解できないのであれば、真の宗教のはずはないと思っていたのです」。
 「夫は息子を何人か連れて、エホバの証人の王国会館に行くようになりました。わたしはとても動揺しました」。
 エホバの証人の女性は髪を切り、よい服装をする。そのことが彼女には受け入れられなかったが、証人たちはそんな彼女の拒否反応にもかかわらず辛抱強く接してくれたという。
 「わたしたちはエホバの証人が真の愛を示す人々であることを確信しました」。
 こうして1987年に、彼女はついに自分の生き方を変えてエホバの証人となることができたという。
 最後に彼女は、「神に喜んでいただきたいという強い願いを持ちながらも、その良心が聖書そのものより周囲の環境によって訓育されてきた人に深い同情を覚えます」また、「証人たちが示してくれた辛抱強さと愛を思うと、感謝の涙があふれます」と述べている。


メキシコ支部の見学会

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、メキシコ支部の一般見学会の様子を報告する記事を掲載した。


森林はサービスを提供する

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、森林が「世界のためのサービス」を提供していると指摘する教育記事を掲載した。
 「そのサービスの中には、二酸化炭素の吸収と蓄積、土壌流失や洪水の防止、栄養素のリサイクル、降水量の調節、絶滅危惧種の生息地や野生穀物の生育地の提供などがあります」。
 記事は、「森林は切り倒したり焼き払ったりするよりもそのままにしておく方がずっと価値が大きいのです」と述べている。


子供の精神障害

 「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、スペインのABC紙からの話として、スペインの子供たちの22パーセントが何らかの精神障害を抱えていると指摘した。


サルとヒトの遺伝子

 サルとヒトの遺伝子は非常に似通っていると言われる。「目ざめよ!」誌2003年12月22日号は、ニュー・サイエンティスト誌から引用し、最新の研究がこの認識を修正するものであることを指摘した。


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