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「真理の水で親族をさわやかにしてください」
2002年5月1日更新

 一般的なキリスト教会は長年に渡り、エホバの証人のことを“キリスト教の異端”だと考えてきました。そのため、「エホバの証人は異端であるばかりか、カルトである」という極端な意見も、吟味されることなくあっさり受け入れられています。
 エホバの証人に対する一般社会の理解が進み、エホバの証人の社会的評価が向上してゆく一方で、エホバの証人に対する対立教会の拒絶反応はだんだん厳しくなっているというのが現状です。
 特に最近は、一部プロテスタント教会の牧師たちによって、「エホバの証人は家庭を破壊する宗教である」という宣伝が組織的に行われるようにさえなっています。キリスト教の出版社からは、そのような“エホバの証人の実態”をまことしやかに語る本まで出版されています。
 ここで紹介されている教育記事は、エホバの証人となった人が非信者の親族にどのように接するべきかを扱ったものです。
 エホバの証人は、非信者の親族という問題をどのようにみなし、対処しているのでしょうか。反対者たちが言うように、正常とは到底思えない狂信的な行動に走り、むやみに対立を助長しているのでしょうか。
 エホバの証人が実際に教育に用いているこの記事は、そのような疑問にはっきりと答えるものです。
「真理の水で親族をさわやかにしてください」
 ソロモンは、「遠い地からもたらされる良い報告は、疲れた魂に対する冷たい水のようだ」と言いました。(箴言 25:25)疲れた魂にとって、来たるべき楽園での永遠の命についての良い報告をあなたから聞くのは、心を奮い立たせる経験となるでしょう。このようにして、あなたの口は、「命の源」となるのです。―箴言 10:11。イザヤ 52:7。
 水は土にしみ込んで生長を促しますが、洪水となると災害になり得ます。また、冷たい飲み物としての水はさわやかなものですが、吹雪や雹の嵐に遭いたいと思う人はいません。わたしたちの口から発せられる言葉は水に例えられていますから、自分の教えによく注意することが必要です。(テモテ第一 4:16)親族に宣べ伝える時には、この“水”が及ぼす様々な影響について、特に意識していなければなりません
親族に「水を注ぐ」
 古代において、ラハブは家族が生き残る道を開きましたし、コルネリオは親族の前で証言をしました。(ヨシュア 2:13; 6:23。使徒 10:24,30-33)ペテロの兄弟アンデレは、ペテロがイエスの弟子になるよう助けました。(ヨハネ 1:40-42)現在でも、親族に聖書の真理を語っているエホバの証人は少なくありません。箴言 11章25節は、「他の者に惜しみなく水を注ぐ者は、自分もまた惜しみなく水を注がれる」と約束しています。
 ヨーロッパに住むある婦人は、自分が新たに抱いた信仰について、フィリピンにいる両親や兄弟姉妹に伝えたいと思いました。こう報告しています。「手紙を書くたびにそうしました。自分がバプテスマを受ける前に家族に数冊の書籍を送り、エホバの証人に訪問してほしいと思うかどうかを尋ねました」。非常に喜ばしいことにこの人の家族は訪問に同意し、今ではそのうちの8人がエホバを崇拝しています。親せきに「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌の予約をプレゼントしたことから、良い結果を得たエホバの証人もいます。
 しかし、家族が興味を示さないときにはどうすればよいのでしょうか。イエスもそのような状況に直面されました。一時期、「実のところ、その兄弟たちは彼に信仰を働かせていなかった」からです。しかし後に、イエスの兄弟たちは使徒たちと共に、「思いを一つにして」ひたすら祈っていました。(ヨハネ 7:5。使徒 1:14)何が心の変化を生じさせたのでしょうか。イエスは昇天される前に親族を援助されたようです。どのようにですか。異父兄弟ヤコブに現われて、親族たちが信仰を持つよう助けられたのです。(コリント第一 15:7)ですから、親族を援助する努力をやめてはなりません。ふさわしい時期が来るまで辛抱強く待ち、聖書の真理について未信者の親族と話せるようになったエホバの証人は少なくありません。
 しかし、親族に「水を注ぐ」とは、話し過ぎて溺れさせてしまうことではありません。ユーゴスラビアのある夫婦は、「親族にはいつでも伝道し過ぎるきらいがあります」と注解しています。一人の旅行する監督は、「見当違いの熱意を示して、やり過ぎる兄弟たちが少なくありません」という所見を述べています。ルートウィヒは自分が聖書を研究し始めたころのことを思い出し、こう述べています。「それから私は、聖書から学んだことをほとんど何もかも、母に何時間も説明し続けました。そのため、特に父とは口論になることも珍しくありませんでした」。
“知恵の井戸”でありなさい
 聖書には、「賢い者たちの舌は知識をもって善を行ない、愚鈍な者たちの口は愚かさをもってほとばしる」、また『義なる者の心は答えるために思いを巡らす』と書かれています。(箴言 15:2,28)このように、わたしたちの発する言葉が、さわやかで人を築き上げる響きを持つためには、健全な思いや知恵や識別力が求められます。いつ、何を、どれほど話すかが重要なのです
 例えば暑い日には、喉が渇いている人にとって一杯の冷たい水は本当にさわやかなものです。(マタイ 10:42)それでも、頭からバケツで水をかけてもらいたいと思う人はいないでしょう。先に注解を引用した巡回監督は、「最善の結果を得ているのは、程よく証言して親族の好奇心を呼びさますことができた人たちです」と語っています。反対している親族が言わば渇きを覚えたなら、質問し始めてください。そうすれば実りの多い聖書的な話し合いにつながることも珍しくありません。
 トルコの証人であるヒューリエは、聖書文書の中から未信者の夫の興味を引きそうな記事を開いて置いておくことにより、成功しました。子供たちに聖書物語を読み聞かせ、夫も聴いているようであれば、夫の益となる説明を加えました。「今日はこんなことを学んだのだけれど、あなたはどう思われるかしら」と気軽に尋ねてみることもありました。また、自分の振る舞いについては、このような規範を思いに留めました。「いつも穏やかで、怒ったり、攻撃的になったりしない。自分は何でも知っているという態度を取らない。とにかく謙遜で、控えめであるようにする」。ヒューリエの夫はとうとう王国の真理を受け入れ、今では全時間奉仕者として仕えています。
 マリヤンは信仰を受け入れるよう親族の幾人かを援助してきました。「物事を押しつけるのではなく、ふさわしい時期を待ってください」とマリヤンはアドバイスしています。「親族が真理については話さないでほしいと言うときには、それを尊重すべきです。辛抱強くあり、愛を示さなければならないのです」。特に親族が反対しているときには、伝道の書 3章7節が役に立ちます。その聖句は、「黙っているのに時があり、話すのに時がある」と述べています。これは、他の人の意見に口を挟まずに喜んで辛抱強く耳を傾け、敬意を払うことを前提としています。かつては激しく反対していたものの、態度を変えたペーターは、「親族と話しているときに感情的になるのは、分別を欠いています」と述べています。
良い行状に語らせなさい
一人の未信者の夫は、クリスチャンの妻を何年にもわたって悩ませ、家から締め出してしまうことさえありました。ある時などは非常に憤って、妻がしまい忘れていた書籍を破り捨ててしまいました。この夫の態度を変えたものは何でしょうか。この人はこう説明しています。「妻が確信に満ちてエホバに頼っていられるのは、一体なぜだろうかと自問し続けました。妻は上手に家事を切り盛りし、良い妻であり、子供たちにとっても良い母だったので、とがめようがありませんでした」。ある日この夫は、セミナーで行なう5分間の話の題材を探していたので、妻は2冊の「目ざめよ!」誌を夫に渡しました。夫は気乗りしない様子で雑誌をぱらぱらめくって見ていましたが、鉛筆の製造についての役に立ちそうな記事を見つけて目を見張りました。このようにして、雑誌に対する関心が呼び起こされたのです。今ではこの家族は、エホバの崇拝において結ばれています。
 使徒ペテロは、妻が未信者の夫を、『言葉によらず、深い敬意のこもった貞潔な行状によって』勝ち得ることができると諭しましたが、これは家族のほかの成員にも当てはまります。(ペテロ第一 3:1,2)ある夫婦が、ルーマニア人の両親が奉じていた昔からの非聖書的な伝統や宗教から離れたとき、家族は猛烈な反対者となりました。妻が義理の母親から襲われたことさえあり、この義母は嫁を殺そうとしました。ニコリックは、「このことで自分たちの意気を挫かれたり、憤ったりしないようにしました。すべての思い煩いをエホバに委ねました」と伝えています。その11年後、ニコリックの両親と、実の姉妹二人とその夫たちがバプテスマを受けて証人となりました。何がきっかけとなったのでしょうか。「立派な手本とクリスチャンの行状です。別の言い方をすれば、私たちは多くの時間を使って真理について話すことはしませんでした。むしろ真理を実践するようにしたのです」。
希望を捨ててはなりません
 親族が真の神を崇拝し始めるのを見るのは大きな喜びをもたらしますが、ある親族が反対し続ける場合はどうでしょうか。どう反応すればよいのですか。イエスは、真の崇拝が時として親族の間に深刻な分裂をもたらすことを予見されました。(マタイ 10:34-37)マリカはエホバの証人になったとき、親族すべてから見捨てられました。マリカは崇拝の点では妥協しませんでしたが、「親族たちにも自分の見解や意見を持つ権利があること」を認めました。親族は彼女の態度に動かされ、以前のようにマリカを尊敬するようになりました。
 ルートウィヒは、両親が別の生き方を選ぶとしても、親を愛し続けなければならないことを認識していました。「あなたの父と母を敬いなさい」、『あなた方の発することばを常に慈しみのあるもの、塩で味つけされたものとしなさい』、「弁明できるよう……備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」、そして「主の奴隷は争う必要はありません」といった、この問題に関連した聖書の言葉を何度も思い出しました。(エフェソス 6:2。コロサイ 4:6。ペテロ第一 3:15。テモテ第二 2:24)「両親に電話したり家を訪ねたりする時にはいつでも、知恵を求めてエホバに祈りました。すると私たちの関係は次第に打ち解けた友好的なものになってゆきました」とルートウィヒは述べています。
 あなたの親族の心の中で、いつかは真理の種が花を咲かせるという希望を断ってはなりません。妻よりも31年後にバプテスマを受けてエホバの証人となったある夫は、こう述べています。「過去を振り返ると、妻にはずいぶん辛抱させたと言わなければなりません。妻が何度も私のためにエホバに祈っていたことはよく知っていました」。
 あなたの口から発せられる言葉が、いつでも新鮮な水のように、人を力づけ、渇きを癒すものでありますように。そうです、あなたの親族を含め、あらゆる人に「幸福な神の栄光ある良いたより」を分け与えてください。(テモテ第一 1:11。啓示 22:17)そうすれば、イエスの次の言葉が当てはまることになるでしょう。「わたしに信仰を持つ者は、まさに聖書が言ったとおり、『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです」―ヨハネ 7:38。
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