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「家族の成員に対して敬虔な専心を実践する」
2002年5月1日更新

 聖書(新世界訳)には、「敬虔な専心」という表現があります。この語は、エホバの証人の出版物の中では「エホバ神に対する崇敬の念」などといった表現によって説明されています。
 しばしばエホバの証人は、その熱心さゆえに、この「敬虔な専心」を家庭より優先する宗教と誤解され、非難されてきました。
 それは事実でしょうか。エホバの証人が教育ために用いているこの記事を通して答えを得ることができるでしょう。
「家族の成員に対して敬虔な専心を実践する」
 イエス・キリストの生涯と宣教は、敬虔な専心をどのように表わすべきかについて多くのことを明らかにしています。ヨハネ 19章25節から27節には、次のような一つの感動的な例が記されています。「しかしながら、イエスの苦しみの杭のそばには、その母と、母の姉妹、そしてクロパの妻マリアとマリア・マグダレネが立っていた。それでイエスは、自分の母と、自分の愛する弟子[ヨハネ]がそばに立っているのをご覧になり、母にこう言われた。『婦人よ、見なさい、あなたの子です!』次に、その弟子に言われた、『見なさい、あなたの母です!』それで、その時から、その弟子は彼女を自分の家に引き取った」。
 考えてみてください。イエスはご自分の地的な命を渡す直前に、ご自分の母親マリア(すでにやもめになっていたものと思われる)への愛と気遣いを示され、彼女の世話を、愛する使徒ヨハネに託されたのです。それにしても、イエスの実の兄弟たちの一人ではなくて、ヨハネが選ばれたのはなぜですか。それはイエスが、マリアの単なる身体的、物質的必要ではなく、それ以上にマリアの霊的な福祉を特に気遣っておられたからです。それに、使徒ヨハネ(恐らくイエスのいとこに当たる)は自分の信仰を証明していましたが、それまでのところイエスの実の兄弟たちが信者になっていたことを示すものは何もありません。―マタイ 12:46-50。ヨハネ 7:5。
 では、そのことはどうして敬虔な専心の表われでしたか。使徒パウロはこう説明しています。「本当にやもめであるやもめを敬いなさい。しかし、やもめに子供や孫がいるなら、彼らにまず、自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと、そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです」。(テモテ第一 5:3,4)パウロが述べているように、必要が生じた場合に物質的な援助を与えて親を敬うことは、敬虔な専心の表われです。どうしてそう言えるでしょうか。家族制度の創始者であられるエホバは、親を敬うよう子供たちに命じておられるからです。(エフェソス 3:14,15; 6:1-3)したがって、真のクリスチャンは、そのような家族の責任を果たすことによって親に対する愛が示されるだけではなく、神への崇敬の念と神の命令に対する従順が実証されることを認めています。―コロサイ 3:20と比較してください。
 では、どうすれば、家族の成員に対して敬虔な専心を実践できますか。そのことにはもちろん、イエスが行なわれたように、年老いた親の霊的な必要と物質的な必要を顧みる手配をすることが含まれるでしょう。それをしないなら、敬虔な専心が欠けていることになってしまいます。(テモテ第二 3:2,3,5と比較してください。)献身したクリスチャンは、単に親切心や義務感からではなく、家族を愛するゆえに、またその責任を顧みることをエホバが高く評価しておられることを認めるゆえに、困窮している親のために必要な物を供給します。ですから、年老いた親の世話をすることは敬虔な専心の表われなのです
 家庭における敬虔な専心は、他の方法でも実践できます。例えば、クリスチャンである父親には、物質的な面でも感情的な面でも霊的な面でも、自分の家族を養う責任があります。ですから父親は、物質面で養うことに加え、愛をもって、聖書の定期的な家族研究を取り決めます。また、自分の家族と共に定期的に野外宣教に携わる時間を計画します。休息やレクリエーションの必要性も認め、平衡の取れた考え方をします。また賢明に優先順位を定め、会衆の活動のために家族の世話がおろそかにならないようにします。(テモテ第一 3:5,12)父親がこうしたことを行なうのはなぜでしょうか。単なる義務感からではなく、自分の家族に対する愛からそうするのです。クリスチャンの父親は、エホバが家族の世話を重要視しておられることを認めています。夫として、また父親としての責任をこのように果たすことにより、敬虔な専心を実践しているのです
 クリスチャンである妻も、家庭で敬虔な専心を実践する責任を負っています。どのような責任でしょうか。妻は自分の夫に『服する』べきであり、夫に「深い敬意」を払うべきである、と聖書は述べています。(エフェソス 5:22,33)たとえ夫が信者ではなくても、妻は夫に『服する』必要があります。(ペテロ第一 3:1)クリスチャンの女性は、夫の下した決定が神の律法と矛盾しない限り、それを支持することにより、そのような妻としての服従を実証します。(使徒 5:29)では、妻がこの役割を受け入れるのはなぜですか。自分の夫を愛しているからでもありますが、それだけではなく、それが「主にあってふさわしいこと」、つまり家族のための神の取り決めであることを認めているからです。(コロサイ 3:18)そのようなわけで、妻が自分の夫に進んで従うのは、敬虔な専心の表われです
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