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「配偶者をないがしろにしてはなりません」
2002年5月1日更新

 エホバの証人はその信仰のゆえに、自分にとってもっとも親しくあるべき配偶者から抵抗を受けることがあります。実際にそのような状況が生じているところを見るなら、その状況が双方にとってたいへん対処しにくいものであることが分かります。
 エホバの証人を程度の低いカルト教団だと考えている人たちや、エホバの証人のことを理解しない宗教学者たちは、このような状況が生じる理由は日ごろの夫婦間の愛の欠如にあると考えているようです。
 彼らは、「あなたに愛がないからあなたの配偶者は宗教に没頭するようになったのだ」と言います。そこに示されているのは、“家庭を忘れて宗教に没頭する愚かな妻の姿”です。
 彼らは愛を説き、「あなたが十分に愛を示すなら、配偶者は宗教に飽きてあなたの元に帰ってくるでしょう」と述べます。
 しかしながら多くの場合、そのような解説や助言は現実的ではありません。観察者の考え方が単純すぎるため、当事者はその意見についていけません。
 通常、宗教の相違は、夫婦の愛の有無とは関係なしに生じます。問題なのはむしろ、宗教の違いがそのような思いこみを生むことではないでしょうか。
 これから紹介する記事は、そのような思い込みの実例をわかりやすく説明し、その問題にエホバの証人の側がどのように対処できるかを諭しています。
 この記事を読むなら、エホバの証人が家庭や配偶者のことを「忘れている」わけではないこと、そして、誤解によって生じている問題にも信仰をもって立派に対処していることが理解できるでしょう。
「配偶者をないがしろにしてはなりません」
 ある夫婦が(エホバの証人の教会施設である)王国会館を出ようとしています。夫と妻の笑顔を見ると、二人が「一体」となって自分たちの神エホバへの崇拝で結ばれ、幸福を享受していることが分かります。(マタイ 19:6)しかし、最初からそのような一致を享受し、共通の信仰を抱いていたわけではありません。妻の敦子さんが、独りで集会に出席していたこともあったのです。集会から帰宅すると、腹を立てた夫から大きな声でどなられたものです。業を煮やした夫の一孝さんは夕食の整った食卓をつかんでひっくり返し、夕食を全部床にぶちまけました。
 イエスが予告されたとおり、真のキリスト教はある家庭には分裂をもたらしました。(マタイ 10:34,35)とはいえ、一孝さんと敦子さんのように、今では家庭で宗教面での一致を味わい、幸福を享受している人たちもいます。もちろん、そのような一致は偶然に生じたわけではありません。そうした反対を克服し、家庭内に真の調和をもたらすために、信者はどんなことを行なったのでしょうか。その点を調べる前に、一部の配偶者が反対する理由そのものに目を向けてみましょう。
なぜ反対したのか
 「いま振り返ってみると、夫に何も事情を説明しないで集会に出かけていたように思います」と敦子さんは言います。一孝さんは何も知らされず独りで家に残されたので、腹を立てたのです。
 嫉妬心が、反対の炎を燃え上がらせることもあります。若い夫の成夫さんは、妻が付き合い始めた仲間のことで根拠のない疑いを抱くようになりました。「妻が集会に化粧をして出かけたりすると、ほかの男がいるのでは、などと思ったりしていました」。妻の正子さんは、「主人と二人で話し合う機会がほとんどありませんでしたし、真理を学んでほしいと心から勧めることもありませんでした」と打ち明けています。
 主婦の敏子さんも、成夫さんと同様に感じていました。「夫がエホバの証人と研究を始め、会衆と過ごす時間がだんだん増えていったので反対しました。夫が出かけている間は気を紛らすためにお酒を飲むようになりました」。
 敏子さんの言葉は、いま一つの理由を示唆しています。それは、孤独感です。元反対者の中には、配偶者が定期的に集会に出かけるのでそのような寂しさを感じた人たちがいます。「家に独りでいると、見捨てられたように感じました」と、ある夫は述懐しています。別の夫は、「妻と子供が私から離れ、遠い存在となってゆくように感じました」と言います。大抵の男性は、「寂しいから家にいてほしい」とは言い出しにくいので、妻の宗教活動に反対するようになる場合もあるのです。
 本来は理解のある配偶者が、友人や親族からの圧力に負けて反対するようになるケースもあります。東洋では、妻は一般に「夫と結ばれるよりも家に嫁ぐもの」と言われています。親族からの圧力は容易に不和を生み出します。隆さんの妻はクリスチャンで、実家の仏壇を拝もうとしませんでした。「しかも、実家が近くにありました。私は母親から圧力を受けたため、妻を脅して暴力に訴えるようになりました」と隆さんは説明しています。
 話し合いの不足、嫉妬、孤独感、親族からの圧力など誤解が大きく膨れ上がり、暴力という形で爆発することがあるのです。かつて妻に暴力を振るっていたある男性は、「宗教に妻子を奪われたくなかった」と述べています。別の夫は、「だれもいない家に帰ることに我慢がならなかった」と言います。『口で言ってもそうした狂信行為をやめさせられないのなら、一、二発くらわせてやるしかない』という理屈をつけたのかもしれません。
 幸いなことに、これまでに取り上げた夫婦はみな、後ほど崇拝の一致を見るようになりました。つらい経験はもはや過ぎ去りましたが、そのような経験をした人たちは、実際に役立つアドバイスを与えることができます。そのようなアドバイスは、一触即発の状態を鎮め、崇拝の面で依然分裂している家庭において崇拝の一致をさえもたらす助けとなるでしょう。
真理に固く付き従う
 水の中で溺れかけている人に手を差し伸べて引き上げたいと思うなら、自分自身の足場がしっかりしていなければなりません。そうでないと、結局は自分も水の中に落ちてしまいかねません。同様に、自分の配偶者を援助する上で鍵となるのは、命を救う真理に自分自身が固く付き従うことです。かつて反対者だったある夫はこう述べています。「私が猛烈に反対している時でも妻は決して集会を休もうとせず、子供の手を引いて出かけました。すぐに集会を休んでいたなら、妻の信仰は本物ではないと見たかもしれません」。
 夕食の食卓をひっくり返した一孝さんは、自分の態度が変化したきっかけを明らかにし、その後の進展をこう話しています。「最後には交通費を渡さなくなりました。それでも妻は、子供を連れてすべての集会に出かけました。そうするために、自分の持ち物を少しずつ売っていたようでした。私は反対する気力を失い、バカバカしく思うようになりました。そればかりか、私が見るようにと妻が置いておいた雑誌を読むようになったのです」。
配偶者と意思を通わせる
 「夫を一緒に誘って、私が夫婦で聖書を学びたいと思っていることを知らせるべきでした」と、一孝さんの妻の敦子さんは言います。「夫は私と家族のことを心配していました。意思をよく通わせていれば、夫もあまり不安を抱かなかったと思います」。ですから、相手に分かってもらう上で鍵となるのは、意思をよく通わせることです。『内密の話し合いのないところには計画のざ折がある』と聖書は諭しています。(箴言 15:22)このような状況において、自分の宗教活動に関して配偶者と行なう「内密の話し合い」は十分に考え抜かれた、巧みなものでなければなりません。「賢い者の心はその口に洞察力を示させ、その唇に説得力を加える」と聖書は述べています。(箴言 16:23)また、話すのに良い時を思慮深く選ぶのも同様に大切です。―伝道の書 3:7。
 どのように話すかは、何を話すかということと同じほど重要であると言えるでしょう。使徒パウロは、「あなた方の発することばを常に慈しみのあるもの、塩で味つけされたものとし、一人一人にどのように答えるべきかが分かるようになりなさい」と訓戒しています。(コロサイ 4:6)自分の話を慈しみのあるもの、味わい深いものとするなら、配偶者がその話に耳を閉ざそうとすることは少なくなるでしょう
 妻から教わることに抵抗を覚える夫は少なくありません。それで妻は機転を利かせる必要があります。喜久代さんはものみの塔協会の出版物を上手に活用しました。こう述べています。「郵便で『目ざめよ!』誌を受け取るとすぐ、主人の興味をひくような記事を探して雑誌を読みました。そして、その記事を読んでもらえる機会を祈り求めました」。喜久代さんはトイレに雑誌を置き、夫が記事を読んだかどうか確かめるため毎日どのページが開かれているかをチェックしました。読み進んでいないように思えると、新しい雑誌と交換しました。現在、喜久代さんの夫は奉仕の僕で開拓者です。
りっぱな行状が及ぼす影響
 しかし、配偶者が宗教に関する話し合いに応じない場合はどうでしょうか。他のクリスチャンと知り合いになれば、火のような反対も収まり、聖書研究を始めるようになるかもしれません。現在長老の政夫さんは、一時期、自宅にエホバの証人が出入りすることを禁止しました。当時を振り返ってこう述べています。「妻から『どうしても』王国会館の建設を手伝ってほしいと言われたことがきっかけで、とうとうエホバの証人との研究に応じました。大勢の人々が楽しそうに、しかも無料で働いているのに感銘を受けたのです」。
 配偶者が宗教についてだれとも話し合おうとしないなら、どうすればよいでしょうか。使徒ペテロは、「み言葉に従順でない者がいるとしても、言葉によらず、[配偶者]の行状によって……引き寄せられるためです」と訓戒しています。例えば、クリスチャンの妻のどんな行状が夫を引き寄せるのでしょうか。「もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした、心の中の秘められた人」を明らかにする、『深い敬意のこもった貞潔な行状』である、とペテロは述べています。―ペテロ第一 3:1-4。
 あるクリスチャンの妻は、反対者の夫が不正事件に巻き込まれた時にこの原則を適用しました。夫は社会的立場を失い経済的にも苦境に立たされましたが、妻からも子供からも不満の声を聞かされませんでした。「こんな時にりっぱな振る舞いができるのは聖書研究をしているおかげだと思いました」と、その夫は述べています。何年にも及ぶ反対の後、この夫は聖書を読むようになりました。後にエホバの証人となった別の夫は、「妻は“かかあ天下”的存在でしたが、急に私を家族の頭として敬うようになりました」と言っています。「会社の友人を家に招いても、喜んでもてなし、私の友人を大切にしてくれました」と言う夫もいます。
 子供たちのりっぱな行状も、反対者の心を和らげることができます。かつて妻に反対していたある父親は、自分の態度が変化したきっかけを尋ねられて、こう述べました。「当時2歳半だった息子は、私が暴力を振るいそうになると、『愛は辛抱強く、また親切です』などと大きな声で言いました」。(コリント第一 13:4-7)よく訓育されたこの男の子に動かされて、父親は聖書を調べるようになりました。研究してほしいと子供からせがまれて聖書を調べてみる気になった父親は少なくありません。
 最後の点として、朗らかな態度で接し、ユーモアのセンスを示せば、配偶者の態度に驚くほどの変化が見られることもあります。ある夫は信者である妻に、何でも好きなものを持って家を出て行き、二度と帰って来ないようにと言いました。すると妻は、「子供もお金も物も何も欲しくありません」と述べてから、少し大き目のふろしきを広げて、「私の一番大切なものは、あなたですので、このふろしきの中にはあなたが入ってください。私が持って行きたいのはあなたです」と言いました。夫は反対をやめて、聖書研究をするようになり、今では長老として奉仕しています。
 真理に固く付き従い、意思をよく通わせ、健全な交わりを設け、りっぱな行状を示すなら、配偶者は信者となるよう助けられるかもしれません。元反対者のある夫は、「配偶者が信者になるような素振りを見せなくても、その心の中では、いろいろと変化してきていることが十分にあり得ます」と述べています。ですから、あきらめないことです。未信者の配偶者を持つ人すべてに使徒パウロが与えた励ましの言葉に留意してください。「妻よ、あなたは夫を救えないとどうして分かるのですか。また、夫よ、あなたは妻を救えないとどうして分かるのですか」―コリント第一 7:16。
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