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「長老が直面する危険」
2002年5月1日更新

 聖書の教えるところにしたがって、エホバの証人の各会衆には「長老」もしくは「監督」と呼ばれる人たちが任命されています。
 しかし、エホバの証人の織りなす社会に対する知識不足のため、エホバの証人の長老が会衆内で果たす役割はしばしば誤解されてきました。
 中には、エホバの証人はカルトであり、教団幹部に相当するような人はみな威圧によって信徒たちをコントロールしている、信徒たちは恐れに支配されていると考える人さえいます。
 では、実のところはどうなのでしょうか。長老たちを教えるために書かれたこの記事が事実を知る助けになるでしょう。
「長老が直面する危険」
 クリスチャンの監督になることを切望している人は、どのような意味で「称賛するに足る大望」を抱いているのでしょうか。大望とは、特別な目的を達成するための熱烈な欲求のことです。確かに、大望には高潔なものも、高潔でないものもあります。しかし、他の人々に仕えたいと思って、謙遜に監督の職をとらえようと努めるなら、その人の奉仕は廉直な動機によって行なわれており、霊的な祝福をもたらすことができます。それでも、自分の心を守らなければなりません。―箴言 4:23。
 大望を抱く人の中には栄光を求める人もいます。仲間の人間を支配したがる人もいます。目立った立場や力をむさぼることは、丈夫そうに見える木をさえ倒す腐った根のようです。クリスチャンも、動機の悪いそうした大望に屈する恐れがあります。(箴言 16:18)使徒ヨハネはこう述べました。「わたしは会衆に幾らかのことを書き送りましたが、デオトレフェスは、彼らの中で第一の地位を占めたがって[「何事でも頭になりたがって」、フィリップス訳]、わたしたちからは何事も敬意をもって受け入れません。ですからわたしは、自分が行ったら、彼が行ないつづけている業、わたしたちについてよこしまな言葉でしゃべっていることを思い出します。また、彼はこうしたことで満足せず、自分が兄弟たちを敬意をもって受け入れないだけでなく、受け入れようとする者たちを妨害して、会衆から追い出そうとさえします」。(ヨハネ第三 9,10)デオトレフェスの大望はクリスチャンにふさわしくありませんでした。尊大さや、野心をもって他の人々を支配しようとすることが、イエスの真の追随者の間に占める場はありません。―箴言 21:4。
 正しい動機で自分の務めを顧みるクリスチャンの監督は、利己的な大望を追い求めません。クリスチャンの監督としてのこのりっぱな仕事を神から与えられた特権とみなし、「強いられてではなく、自ら進んで行ない、不正な利得を愛する気持ちからではなく、真剣な態度で」神の羊の群れを牧します。「また神の相続財産である人々に対して威張る者のようにではなく、かえって群れの模範となり」ます。(ペテロ第一 5:2,3)そうです、監督たちは誇りの気持ちを培ったり、不正に力を振るったりしないよう用心すべきです
 長老は他のクリスチャンに対して威張ってはなりません。長老は彼らの仲間の働き人であり、『彼らの信仰に対する主人』ではないからです。(コリント第二 1:24)特定の使徒たちが目立った立場を求めた時、イエスはこう言われました。「あなた方は、諸国民の支配者たちが人々に対して威張り、偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません。かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません。ちょうど人の子が、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」。(マタイ 20:20-28)長老は主要な牧者ではなく、従属の牧者に過ぎません。長老が群れの羊に対して威張るなら、その長老は誇りの精神を表わしているのです。特に、もし長老が誇り高い自分の大望を推し進めようとして他の人々に働きかけたとしたら、有害な結果が生じるでしょう。箴言の中に次のような言葉があります。「すべて心の高慢な者はエホバにとって忌むべきもの。手が手に合わさろうとも、人は処罰を免れない」―箴言 16:5。
 ですからクリスチャンの長老たちは、『神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となる』べきです。誇りは霊的に有用な者となるのを妨げます。謙遜な者だけが、神のご意志を行なうための正しい心と思いの状態を保っているからです。「神はごう慢な者に敵対し、謙遜な者に過分のご親切を施される」のです。(ペテロ第一 5:5,6)そうです、エホバは謙遜な思いを持った人々を祝福されます。そのような人々の中から、資格ある人がクリスチャンの長老として奉仕するよう任命されるのです。
 エホバの証人の現代の歴史には、敬虔な人々が行なった謙遜な奉仕に関する記述が満ちあふれています。例えば、かつては巡礼者つまり旅行する監督であり、長い間ベテル奉仕を行なった、物腰の柔らかなW・J・ソーンのことを考えてみましょう。この兄弟について、あるクリスチャンはこう述べました。「わたしはソーン兄弟のおっしゃったことで、今日までわたしの助けとなったことばをどんなことがあっても決して忘れません。その兄弟のことばを引用しますと、『自分をあまりに偉く見るようになった時にはいつも、いわば自分を隅に連れていって、こう言います。「おまえはほんのちりに過ぎないのだ。おまえにはどんな誇るものがあるというのだ」』」。これは、長老も他の人々も示さなければならないりっぱな特質です。次のことを忘れてはなりません。「謙遜とエホバへの恐れからもたらされる結果は、富と栄光と命である」―箴言 22:4。
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