JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
ライブラリ
「上位の権威に対するクリスチャンの見方」
2002年5月1日更新

 エホバの証人はしばしば、反社会的な宗教団体であると誤解され、不当に非難されてきました。
 その理由の一つに、聖書の教えるところにしたがってエホバの証人がこの世をサタンのものと見なしていることが挙げられています。このことが、人々の過剰な心配を引き起こしているようです。
 「エホバの証人は世間に対して偏見を抱いている」という偏見のために、ヨーロッパの幾つかの国ではエホバの証人に対する拒絶反応が生じ、マスコミやキリスト教の権威者がエホバの証人のことを反政府団体だとして非難する事件まで発生しています。
 さらには、「エホバの証人はいつも二枚舌を使っている」というような非難も生じています。「エホバの証人がこの世をサタンのものと見なしているのなら、なぜ彼らは世の政府を利用し、益を得ているのか」という批判です。
 また、宗教学者たちは、エホバの証人がこの世の政府をサタンのものと見なしていることや政治的に中立であることを根拠に、「彼らは政治にはまったく無関心である」と言い、エホバの証人に対する誤解の温床となってきました。
 では、事実はどうでしょうか。ここに引用されているのは、エホバの証人の政府に対する接し方を教育するための記事です。この記事が答えを提出するでしょう。
「上位の権威に対するクリスチャンの見方」
「すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです」―ローマ 13:1。
 使徒パウロがローマ人に上記の言葉を書き送ったのは西暦56年ごろのことでした。それから数年後に、パウロは囚人としてローマにいました。どういうわけでそこにいたのでしょうか。エルサレムで暴徒に襲われ、その後ローマの兵士に救出されたのです。彼はカエサレアに連れてゆかれ、偽りを申し立てられて告訴されたものの、ローマの総督フェリクスの前で巧みに自分の立場を弁護します。フェリクスは賄賂欲しさにパウロを2年間投獄しておきます。それで結局パウロは、カエサルによる事件の審理を次の総督フェストに要請します。―使徒 21:27-32; 24:1-25:12。
 これはローマ市民としてのパウロが有していた権利でした。しかし、イエスがサタンを実際の「世の支配者」と呼び、パウロ自身サタンのことを「この事物の体制の神」と言っているのに、パウロがそうした皇帝の権威に訴えるのは矛盾していないでしょうか。(ヨハネ 14:30。コリント第二 4:4)それとも、ローマの権威は、パウロが自分の権利を守るために頼っても差し支えない何らかの「相対的な地位」を占めていたのでしょうか。また、使徒たちが前に述べた、「わたしたちは、自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」という言葉からすると、神への不従順が関係していなければ、どんなときでもクリスチャンが人間の支配者に従うことは許されるのでしょうか。―使徒 5:29。
 パウロはローマ人への手紙の中で、わたしたちがそれらの質問に答えるための助けを与え、人間の支配権に関する円熟した見方を明らかにしています。パウロはローマ 13章1節から7節で、至上の権威であられるエホバ神への全き服従と、「上位の権威」に対する相対的服従との完全な平衡を取るに当たってクリスチャンの良心が果たすべき役割を明確にしています。
上位の権威の実体を明らかにする
 エホバの証人は1962年まで幾年かの間、上位の権威とはエホバ神とキリスト・イエスであると考えていました。しかし、箴言 4章18節と一致して光が増し加わり、この見解は調整されました。このことから、ある人々の思いには幾つかの疑問が生じるかもしれません。その権威とは王、大統領、首相、市長、行政官など、世で世俗の政治権力を振るう人たちのことであり、わたしたちには相対的な意味で彼らに従う義務がある、と言うのは正しいのでしょうか。
 西暦2世紀の著述家イレナエウスによれば、彼と同時代の人々の中に、パウロはローマ 13章1節で「み使いたちの権威に関して、[あるいは]目に見えない支配者たちについて」語っていた、と言う人たちがいました。しかしイレナエウス自身は上位の権威を「実際の人間の権威」とみなしました。パウロの言葉の文脈からすると、イレナエウスは正しかったことになります。パウロはローマ 12章の最後の数節で、クリスチャンは「すべての人」の前でどのように振る舞うべきかを説明し、「敵」にさえ愛と思いやりをもって接することを勧めています。(ローマ 12:17-21)「すべての人」という表現がクリスチャン会衆外の人々に当てはまることは明らかです。ですから、パウロの論議の対象となる「上位の権威」も、クリスチャン会衆外のものであるはずです。その点と調和して、ローマ 13章1節の初めの部分を様々な翻訳がどのように訳出しているかに注目してください。「すべての人は国家の権威に従わなければならない」。(今日の英語訳)「すべての人は統治する権威に服するべきである」。(新国際訳)「すべての人は行政府の権威に従うべきである」。(フィリップスの「現代英語による新約聖書」)
 パウロはさらに、それらの権威は税や貢ぎを要求すると述べています。(ローマ 13:6,7)クリスチャン会衆が税や貢ぎを要求することはなく、エホバやイエス、あるいは他の何らかの「目に見えない支配者たち」がそれらを要求することもありません。(コリント第二 9:7)税は世俗の権威にしか納められません。その点と一致して、パウロがローマ 13章7節で用いている「税」および「貢ぎ」に相当するギリシャ語は、国家に支払われる金銭であることをはっきり示しています。
 さらに、上位の権威に服するようにというパウロの勧めは、「カエサルのものはカエサルに」返すことを命じるイエスの言葉とも調和します。この場合の「カエサル」とは世俗の権威のことです。(マタイ 22:21)またそれは、後にパウロがテトスに書き送った言葉とも一致しています。「政府や権威者たちに服し、自分の支配者としてそれに従順であるべきことを引き続き彼らに思い出させなさい。また、あらゆる良い業に備えをし(なさい)」。(テトス 3:1)したがって、クリスチャンが地域社会の仕事を行なうよう政府から命令される時、その仕事が何らかの非聖書的な奉仕に代わる妥協的な代替作業でない限り、あるいはイザヤ 2章4節に記されているような聖書的原則を破る仕事でない限り、その命令に従うのは全く正しいことです
 ペテロも、わたしたちがこの世の世俗の権威に服すべきであることを認め、こう述べました。「人間の創造したものすべてに、主のために服しなさい。上位者としての王に対してであろうと、あるいは、悪行者を処罰し、善行者をほめるために王から遣わされた総督に対してであろうとそのようにしなさい」。(ペテロ第一 2:13,14)この言葉に従って、クリスチャンはテモテに対するパウロの次の訓戒にも注意を払うでしょう。「そのようなわけで、わたしはまず第一に勧めます。あらゆる人について、また王たちや高い地位にあるすべての人々について、祈願と、祈りと、取りなしと、感謝をささげることとがなされるようにしてください。それはわたしたちが……平穏で静かな生活をしてゆくためです」 ―テモテ第一 2:1,2。
 世俗の権威を「上位の」と呼ぶと、エホバに帰せられるべき誉れを幾分差し引くことになるでしょうか。そうではありません。エホバは単に上位の存在であるのではなく、それをはるかに上回る方だからです。エホバは「主権者なる主」、つまり「至上者」であられます。(詩編 73:28。ダニエル 7:18,22,25,27。啓示 4:11; 6:10)人間の権威にきちんと服したからといって、至上の権威を持たれる主権者なる主エホバへの崇拝から何かを差し引くことにはなりません。では、それらの権威はどの程度上位にあるのでしょうか。他の人間との関係において、また彼ら自身の活動の領域においてのみ、上位であるにすぎません。彼らは人間の地域社会を統治かつ保護する責任を持っています。そのため公務の遂行に関係した種々の規定を設けます。
「神によってその相対的な地位に据えられている」
 エホバ神の至上権が世俗の権威よりも上にあることは、世俗の権威が「神によってその相対的な地位に据えられている」という表現から分かります。しかし、この表現から一つの質問が生じます。パウロがこの言葉を書いてから数年後に、ローマ皇帝ネロはクリスチャンに対する残忍な迫害を開始しました。では、神ご自身がネロをその地位に据えられたのでしょうか。決してそうではありません。これは、個々の支配者が神に選ばれ、“神の恩寵によって”その地位に据えられるということではありません。むしろ、サタンは時々無情な人間を支配者の地位に据えるよう巧みに事を運び、エホバがそれを許すと共に、忠誠を保つご自分の僕たちにそのような支配者が試練をもたらすことをも許されるということです。―ヨブ 2:2-10と比較してください。
 しかし確かにエホバは、ご自分の高潔な目的を推進するため、特定の支配者や政府の場合には自ら介入されました。例えば、アブラハムの時代にカナン人はカナンの地にとどまることを許されていました。ところが後代、エホバは彼らを追い払い、アブラハムの胤にその地をお与えになりました。イスラエル人が荒野をさまよっていた時、エホバは彼らがアンモンやモアブやセイル山を撃破することを許されませんでしたが、シホンとオグの王国を滅ぼすことはお命じになりました。―創世記 15:18-21; 24:37。出エジプト記 34:11。申命記 2:4,5,9,19,24; 3:1,2。
 イスラエルがカナンに定住した後も、エホバはご自分の民に影響を与える種々の権威に直接的な関心を示し続けられました。イスラエルが罪を犯したときなど、エホバは時々彼らが異教徒の権威のもとに置かれることをよしとされ、イスラエルが悔い改めた時には彼らの地からその権威を除去されました。(裁き人 2:11-23)また最終的には、ユダが他の多くの諸国民と共に、バビロンの支配下に置かれることを許されました。(イザヤ 14:28-19:17; 23:1-12; 39:5-7)イスラエルがバビロンに流刑にされた後、エホバは世界強国の興亡を予告されましたが、それらの列強はバビロンの時代から現代に至るまで、神の民に影響を与えることになりました。―ダニエル 2,7,8,11章。
 モーセはエホバについて次のように歌いました。「至高者が諸国民に相続分を与えた時、アダムの子らを互いに引き離した時、もろもろの民の境界を定めて、イスラエルの子らの数を顧慮された。エホバの受け分はその民、ヤコブはその受け継がれる割り当て分だからである」。(申命記 32:8,9。使徒 17:26と比較してください。)そうです、神はここで、ご自分の目的を遂行するために、どの権威が残り、どの権威が滅ぼされるかを定められたのです。このようにして神はアブラハムの子孫に相続地を割り当て、後には彼らをその地に復帰させました。それは約束の胤が預言通りやがてそこに出現し得るようにするためでした。―ダニエル 9:25,26。ミカ 5:2。
 しかし大抵の場合、エホバは人間が、相互の関係からすれば権威のある、しかし神ご自身よりは常に劣った地位を占めるのを許しておられるという意味で、支配者たちを相対的な地位に据えておられるのです。ですから、イエスはポンテオ・ピラトの前に立った時、その支配者に対して、「上から与えられたのでない限り、あなたはわたしに対して何の権限もないでしょう」と告げました。(ヨハネ 19:11)これは、ピラト自身が神からその地位に据えられたということではなく、イエスの生死を左右する権威がピラトにあるのは、神の許しによるに過ぎないという意味でした。
公平な権威
 エデン以来、サタンはイエスに豪語したとおり、人類の間で広範な自由を享受し、その自由を用いて地上の事柄を牛耳ってきました。(ヨブ 1:7。マタイ 4:1-10)とはいえこれは、この世のすべての支配者がサタンの支配に直接服しているという意味ではありません。1世紀のネロや20世紀のアドルフ・ヒトラーのように、ある人々は紛れもないサタンの精神を表わしてきました。しかしそうではなかった人たちもいます。キプロスの執政官代理セルギオ・パウロは「そう明な人」で、「神の言葉を聞くことを……求めた」とあります。(使徒 13:7)アカイアの執政官代理ガリオは、パウロを非難するユダヤ人から圧力が加えられるのを拒みました。(使徒 18:12-17)他の多くの支配者たちも、自分の権威を良心的に、誉れとなる方法で行使してきました。―ローマ 2:15と比較してください。
 啓示の書には、1914年から始まった「主の日」に、エホバが人間の権威を巧みに動かし、サタンの目的を挫折させることが予告されています。啓示の書に描かれているとおり、サタンが油そそがれたクリスチャンに向けて放つ迫害の洪水は「地」によって飲み込まれます。(啓示 1:10; 12:16)「地」の中に、つまり地上に現存する人間社会の中にある諸要素は、エホバの民をサタンの迫害から保護します。
 実際にそうなったでしょうか。確かにそうなりました。例えば、1930年代と40年代に、米国のエホバの証人は甚だしい圧力を受け、暴徒の攻撃や度重なる不当な逮捕に苦しめられました。米国の最高裁判所が何度か彼らの業の合法性を認める判決を言い渡したため、エホバの証人は救助されました。他の場所でも、権威者たちが神の民の救援のためにやってきました。40年ほど前のことですが、ローマ・カトリックの暴徒がアイルランドのコーク市で二人のエホバの証人を襲撃しました。その際、地元の警官が証人たちの救援にかけつけ、裁判所は襲撃した者たちを懲らしめました。まだ昨年のことですが、フィジーで高位の首長たちの会議が開かれ、エホバの証人の活動を禁止する法案が審議されました。一人の首長がエホバの証人を擁護する意見を大胆に語り、その法案はすぐに却下されました。
 そうです、世俗の権威は必ずしもサタンの目的を推し進めるわけではありませんクリスチャンはサタン自身に服することなく、上位の権威に従うことができます。実際、神がその権威の存在を許しておられる限り、クリスチャンはそれらの権威に服するでしょう。では、そのような服従は何を意味するでしょうか。また、クリスチャンはその見返りに上位の権威に何を期待できるでしょうか。
「上位の権威が果たす役割」
「それはあなたの益のための神の奉仕者……です。しかし、もしあなたが悪を行なっているのであれば、恐れなさい」―ローマ 13:4。
 今から2年前に、ニューヨーク・ポスト紙は、ロンドンで開かれた主教たちの会合について憤慨した調子の社説を掲載しました。それはランベス会議といい、英国国教会の500人余りの主教たちが出席しました。同紙を憤慨させたのは同会議が提出した決議でした。それは、「万策尽きて、武力闘争を唯一の公正への道として選ぶ」人々に対する理解を表明するものでした。
 この決議はテロ行為を是認するに等しい、と同紙は述べましたが、主教たちは強まりつつある一般の傾向に同調していたに過ぎません。彼らの態度は、アフリカを解放するための最も手っ取り早い、また最も確実かつ安全な方法としてゲリラ戦を勧めたガーナのカトリック司祭、「解放の戦いをとことん戦う」と誓ったアフリカのメソジスト派の主教、さらにはアジアと南アメリカで反徒と共に既存の政府と戦ってきたキリスト教世界の多くの宣教師たちの態度と異なるところがありません。
真のクリスチャンは「権威に敵対」しない
 イエスは1世紀当時、ご自分の追随者たちについて、「わたしが世のものでないのと同じように、彼らも世のものではない」と言われました。(ヨハネ 17:14)革命を推し進めるいわゆるクリスチャンはだれであれ皆、大いに世のものです。そのような人はイエスの追随者でもなければ、『上位の権威に服して』もいません。(ローマ 13:1)そういう人は、使徒パウロの次の警告に注意を払うとよいでしょう。「権威に敵対する者は、神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは、身に裁きを受けます」―ローマ 13:2。
 キリスト教世界の大勢の人々とは対照的に、エホバの証人は武器を用いた暴力行為と一切関係を持ちません。ヨーロッパに住むある男の人はその点に気づき、次のように書いています。「宗教と政治が生み出したものを見て、私は既成の社会秩序を打ち倒すことに身を投じました。テロリストの一味に加わり、あらゆる種類の武器を扱えるように訓練されました。武装強盗にも度々加わりました。ですから絶えず命の危険にさらされていました。時たつうちに、自分たちが負け戦をしていることが分かってきました。人生に対する強い絶望感に打ちのめされ、挫折していました。そんな時、一人の証人が我が家を訪れました。その女性は神の王国のことを私に話しました。そういう話を聞いている暇などないと言ってから、妻なら聞くと私は言いました。実際、妻はその話に耳を傾け、家庭聖書研究が始まりました。結局、私もその研究に参加することに同意しました。人類を悪に駆り立てている力が何かを理解して、私は言葉では言い表わせないほど気持ちが楽になりました。また、すばらしい王国の約束は、支えとなる、人生の希望と目的を私に与えてくれました」。
 クリスチャンは神とキリストの大使もしくは公使です。(イザヤ 61:1,2。コリント第二 5:20。エフェソス 6:19,20)彼らはそういう立場にあるので、この世の紛争に関しては中立を保ちます。ある政治体制が他の体制よりも経済的に繁栄しているかに見え、ある体制は他より多くの自由を許しているように見えるとしても、クリスチャンが特定の体制を他の体制よりも強く奨励したり高く評価したりすることはありません。彼らはどの体制も完全ではないことを知っています。神の王国が取って代わるまでそれらの体制が存続するのは、「神の取り決め」なのです。(ダニエル 2:44)したがって、クリスチャンは王国の良いたよりを宣べ伝えることによって、他の人のとこしえの福祉を図りながら、平和裏に上位の権威に服し続けます。―マタイ 24:14。ペテロ第一 3:11,12。
法律に従う
 国の政府は法体系を定めますが、それらの法律の大半は良いものです。「全世界が邪悪な者の配下にある」という事実からすると、これは驚くべきことでしょうか。(ヨハネ第一 5:19)そうではありません。エホバはわたしたちの最初の父親であるアダムに良心をお与えになったので、正邪に関するその内部的感覚は人間の作った法律の多くの点に反映されています。(ローマ 2:13-16)古代バビロニアの法律制定者ハンムラビは、自分が作成した法典の序文にこう書きました。「その時[彼らは]、強者が弱者を圧迫しないよう、民の福祉を図ること、国内に公正を行き渡らせること、邪悪な者と悪を滅ぼすことを、我ハンムラビに、神を恐れる篤信の王に命令した」。
 ほとんどの政府は、自分たちが制定する法律の目指すところも同じだと言うでしょう。つまり、市民の福祉を図り、社会の秩序を守るということです。ですから、殺人や盗みなどの反社会的な行為を罰し、制限速度や駐車に関する法律など、幾つもの規定を設けます。だれであれ政府の法律を故意に破る人は、権威に逆らう立場に立ち、「身に裁きを受けます」。だれからの裁きでしょうか。必ずしも神からの裁きではありません。ここで裁きと翻訳されているギリシャ語は、エホバの裁きよりも、民間の訴訟手続きを指す場合があります。(コリント第一 6:7と比較してください。)だれかが不法行為をするなら、上位の権威はその者を罰する権利を有しています
 エホバの証人は人間の権威に敵対しないという良い評判を得ています。会衆内の一個人が法律を破るような事態が生じた場合、会衆はその人が合法的な処罰を免れるよう援助したりはしません。もしだれかが、盗み、殺人、中傷、脱税、強姦、詐取、法律で禁じられた麻薬の使用などによって合法的な権威に敵対するなら、その人は会衆から厳しく懲らしめられることになります。その場合、世俗の権威から罰せられても、自分は迫害されていると考えるべきではありません。―コリント第一 5:12,13。ペテロ第一 2:13-17,20。
恐れるべきもの
 パウロは上位の権威に関する論議を続け、次のように言います。「支配者たちは、善行にではなく、悪行にとって、恐れるべきものとなるのです。それで、あなたは権威に対する恐れを持たないでいたいと思うのですか。善を行なってゆきなさい。そうすれば、あなたはそれから称賛を受けるでしょう」。(ローマ 13:3)権威が加える罰を恐れるべきなのは忠節なクリスチャンではなく、悪行者たちです。つまり、「悪行」すなわち犯罪行為に携わる者たちです。そのような不法分子に脅かされる時、エホバの証人が、権威を持つ警察や軍からの保護を受けるのはふさわしいと言えるでしょう。―使徒 23:12-22。
 上位の権威の制定した法律を守るクリスチャンに対してパウロは、「あなたはそれから称賛を受けるでしょう」と言っています。その一例として、ブラジルのエホバの証人が地域大会後に受け取った手紙のことを考えてみましょう。それは市のスポーツ課の責任者から寄せられた手紙でした。「皆さんの穏やかな振る舞いは、最大級の賛辞に値します。この騒然とした世の中に、今も神を信じ、神を崇拝している人がこんなにも大勢いることが分かって慰められました」。市営競技場の責任者は、「出席者が非常に多かったにもかかわらず、完ぺきな組織のおかげで、この催しに汚点を残すような事故は全くありませんでした」と書いてきました。市長室からは次のような手紙が届きました。「皆さんが規則をよく守られ、また実に優れた秩序維持を自発的に行なわれたことに対して、私たちが喜んでいることをこの機会にお伝えしたいと思います。皆さん方が今後どんな催しをなさるにしてもそれが成功を収めるよう願っております」。
 「善行」という語は、上位の権威の制定する法律に従う行為を指しています。さらに言えば、わたしたちが行なっている宣べ伝える業は悪行ではありません。これは人間ではなく、神から命じられた業です。政治的な権威はその点を認めるべきです。それは公の奉仕であり、こたえ応じる人たちの道徳性を向上させます。ですからわたしたちは、他の人々に宣べ伝えるわたしたちの権利が上位の権威によって保護されることを希望します。パウロは良いたよりを宣べ伝える業を法的に確立するため、権威に訴えました。(使徒 16:35-40; 25:8-12。フィリピ 1:7)同様にエホバの証人は近年、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、ベニン、ミャンマー(ビルマ)などで自分たちの業の法的な認可を求め、それを得ることができました。
『それは神の奉仕者です』
 パウロは世俗の権威について、次のように言葉を続けます。「それはあなたの益のための神の奉仕者……です。しかし、もしあなたが悪を行なっているのであれば、恐れなさい。それはいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり、悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです」―ローマ 13:4。
 国の権威は特定の方法で、時折、神の奉仕者として仕えてきました。キュロスがそれを行なったのは、ユダヤ人にバビロンから戻って神の家を建てるよう命じた時でした。(エズラ 1:1-4。イザヤ 44:28)アルタクセルクセスは、その家を再建するための寄付を持たせてエズラを派遣した時、また後ほどネヘミヤにエルサレムの城壁を再建するよう命じた時、神の奉仕者でした。(エズラ 7:11-26; 8:25-30。ネヘミヤ 2:1-8)ローマの上位の権威は、パウロをエルサレムの暴徒から救出し、難船に遭ったパウロを保護し、パウロがローマに自宅を持てるよう取り決めて、神の奉仕者の働きをしました。―使徒 21:31,32; 28:7-10,30,31。
 同様に、世俗の権威は現代においても神の奉仕者として仕えてきました。例えば、1959年にカナダの最高裁判所は、扇動的な文書や中傷的な文書を発行したとして告発されていたケベックのあるエホバの証人を無罪とする判決を下しました。そのようにして、当時のケベック州知事、モーリス・デュプレシーの偏見をくじいたのです。
 さらに国の政府は、神の王国が責任を担うようになるまで公共の秩序を守ることにより、一般的に神の奉仕者として仕えます。パウロによれば、権威はその目的のために「剣を帯びて」います。剣は、権威が有する罰を加える権利の象徴です。普通の場合、その罰には投獄や罰金が含まれますが、国によってはこれに死刑も含まれます。 一方、死刑を科さないことにした国も多くありますが、そうするのもその国の権利です。
 ダニエル、3人のヘブライ人、ネヘミヤ、モルデカイなどがバビロニアやペルシャの政府の責任ある立場を受け入れることができた理由は、上位の権威が神の奉仕者であるという事実によって説明できます。彼らはそのようにして神の民の益を図り、国の権威に訴えることができました。(ネヘミヤ 1:11。エステル 10:3。ダニエル 2:48,49; 6:1,2)今日でもあるクリスチャンは、公務員として働いていますしかし彼らは世から離れているので、政党に入ったり、政治的地位を求めたり、政治組織の中で政策を立案する地位を受け入れたりはしません
信仰の必要性
 しかし、もし権威が腐敗を容認し、圧制をさえ黙認するとしたらどうですか。クリスチャンはその権威を、もっと優れていると思われる権威に替えることを試みるべきでしょうか。政府の不公正や腐敗は少しも新しいものではありません。ローマ帝国は1世紀に奴隷制のような不公正を推し進めました。腐敗した役人も大目に見られていました。聖書には、不正を行なった収税人、不義な裁き人、賄賂を求めた州の総督などのことが記されています。―ルカ 3:12,13; 18:2-5。使徒 24:26,27。
 当時のクリスチャンも、しようと思えばそうした権威の悪用をやめさせることを企てることができましたが、実際にはそうしませんでした。例えばパウロは、奴隷制度の廃止について宣べ伝えたり、奴隷の所有者であったクリスチャンに奴隷を解放することを命じたりするのではなく、むしろ奴隷とその所有者に対して、互いにクリスチャンらしい同情心をもって接するよう諭しています。(コリント第一 7:20-24。エフェソス 6:1-9。フィレモン 10-16。ペテロ第一 2:18もご覧ください。)同様に、クリスチャンは革命運動に関与しませんでした。彼らは非常に忙しく「平和の良いたより」を宣べ伝えたのです。(使徒 10:36)西暦66年には、ローマ軍がエルサレムを攻囲し、その後に撤退しました。ヘブライ人のクリスチャンはその都市を守る反逆の徒と共にいるのではなく、イエスの指示に従って「山に逃げ」ました。―ルカ 21:20,21。
 初期クリスチャンはその時の社会的状況に耐えて生活し、聖書の原則に従うよう助けることによって人々の生活の改善を図りました。歴史家のジョン・ロードは自著「古代ローマ世界」の中で、「キリスト教の真の勝利は、国民全体の諸制度、政治体制、法を表面的に変えることではなく、むしろキリスト教を信奉する人々を善良な人間に変えてゆくことのうちに見られた」と書きました。現代のクリスチャンがそれとは異なる行動を取ってもよいでしょうか。
国が助けにならないとき
 1972年9月、中央アフリカのある国で、突然エホバの証人に対する残虐な迫害が始まりました。幾千人もの人がすべての持ち物を奪われ、殴打、拷問、殺害などの残虐行為にさらされました。上位の権威は証人たちを保護する務めを果たしたでしょうか。いいえ、果たしませんでした。むしろ暴力行為を奨励したので、それら悪意のないクリスチャンたちは安全のため隣国に逃れることを余儀なくされました。
 エホバの証人は憤慨し、そのような拷問者たちに反抗して立つべきではありませんか。そうではありません。クリスチャンはそのような侮辱に対してもじっと忍耐し、イエスに倣って謙遜に行動すべきです。「彼は……苦しみを受けても、脅かしたりせず、むしろ、義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました」。(ペテロ第一 2:23)クリスチャンは、イエスがゲッセマネの園で捕縛された時、剣でイエスを守ろうとした弟子をイエスが叱責されたこと、また後にポンテオ・ピラトに対して、「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら、わたしに付き添う者たちは、わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ、わたしの王国はそのようなところからのものではありません」と言われたことを覚えています。―ヨハネ 18:36。マタイ 26:52。ルカ 22:50,51。
 それらアフリカの証人たちはイエスの模範を思いに留め、勇気をもってパウロの次の諭しに従いました。「だれに対しても、悪に悪を返してはなりません。すべての人の前に良いものを備えなさい。できるなら、あなた方に関するかぎり、すべての人に対して平和を求めなさい。わたしの愛する者たち、自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの、わたしが返報する、とエホバは言われる』」。(ローマ 12:17-19。ヘブライ 10:32-34と比較してください。)アフリカの兄弟たちは、今日のわたしたちすべてにとって、何という励みになる模範なのでしょう。権威が立派に行動しようとしないときでも、真のクリスチャンは聖書の原則を放棄しません
 しかし、上位の権威はクリスチャンに対して何を期待できるでしょうか。また、上位の権威が正当に要求できる事柄には限界がありますか。
「上位の権威に対する、わたしたちの相対的な服従」
「したがって、あなた方がどうしても服従するべき理由があります」―ローマ 13:5。
 フランツ・ライターと5人の若いオーストリア人が断頭台で処刑されたのは、1940年1月7日のことでした。彼らはビーベルフォルシェル、つまりエホバの証人でしたから、良心上ヒトラー帝国のために武器を取ることができず、死んでゆきました。第二次世界大戦中に信仰のために死んだ証人は幾千人もおり、ライターもその一人でした。強制収容所で長年忍耐した人々はその数をさらに上回ります。その人たちは皆「悪を行なって」、上位の権威であるナチの「剣」に苦しめられたのでしょうか。(ローマ 13:4)決してそうではありません! 続くパウロの言葉からすると、それらのクリスチャンは権威の手にかかって苦しんだにしても、ローマ 13章にある神の命令に従っていたことが分かります。
 ローマ 13章5節で、パウロはこう書いています。「したがって、あなた方がどうしても服従するべき理由があります。その憤りのためだけではなく、あなた方の良心のためでもあります」。パウロはその前の箇所で、権威が「剣」を帯びているということは、権威に服するべき十分な理由である、と述べました。しかし今度は、もっと強力な理由として良心を挙げます。わたしたちは「清い良心を抱きつつ」神に仕えるよう努力します。(テモテ第二 1:3)聖書は上位の権威に服するようわたしたちに命じており、わたしたちは神の目に正しいことを行ないたいので従うのです。(ヘブライ 5:14)実際、聖書によって訓練された良心は、わたしたちを調べる人がだれもそばにいないときでも、権威に従うようわたしたちを促します。―伝道の書 10:20と比較してください。
「それゆえに、あなた方は税を納めてもいるのです」
 ナイジェリアでは数年前に納税をめぐる暴動が起きました。死者が数人出たので、権威は軍隊を導入しました。集会が行なわれていた王国会館に入って来た兵士たちは、その集まりの目的を告げるよう要求しました。指揮官はそれがエホバの証人の聖書研究の集会であることを知ると、「エホバの証人は税の問題で騒ぎ立てるような人たちではない」と言って、兵士たちを退去させました。
 それらナイジェリアの証人たちは、「それゆえに、あなた方は税を納めてもいるのです。彼らは、まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです」というパウロの言葉どおりに生活していることで評判でした。(ローマ 13:6)イエスは『カエサルのものはカエサルに返しなさい』という規範を示した時、税を納めることについて話しておられました。(マタイ 22:21)世俗の権威は道路を建設し、警察を通して保護を与え、図書館、交通機関、学校などを設け、郵便その他の多くの事業を行ないますわたしたちはそうした備えをしばしば利用しますですから税を納めることによってそれらに対し支払いをするのは至極当然なことです
「すべての者に、その当然受けるべきものを返しなさい」
 パウロはこう続けています。「すべての者に、その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を、貢ぎを要求する者には貢ぎを、恐れを要求する者にはしかるべき恐れを、誉れを要求する者にはしかるべき誉れを」。(ローマ 13:7)「すべての者」という語は、神の公僕であるすべての世俗の権威を包含します。例外はありません。自分の好みに合わない政治体制のもとに住んでいても、わたしたちは税を納めます宗教団体に免税措置が取られる国に住んでいるなら、会衆はそれを活用しますし、クリスチャンも他の市民と同じく、自分たちの納める税を軽くする法的な備えを何でも利用しますしかし、クリスチャンは不法な手段で納税を回避すべきではありません。―マタイ 5:41; 17:24-27と比較してください。
 しかし、税が不公正なものに感じられる場合はどうでしょうか。また税金の一部が、無料の中絶、血液銀行、中立に関するわたしたちの見方とは矛盾する計画など、わたしたちには同意できない事柄のための費用にあてられる場合はどうでしょうか。それでもわたしたちはすべての税を納めます。税金の使い道に関して責任を負わなければならないのは権威です。わたしたちには権威を裁く任務は与えられていません。神は「地の裁き主」であられ、諸政府がどのように権威を行使してきたかに関し、ご予定の時にそれらの政府と清算をされます。(詩編 94:2。エレミヤ 25:31)それが行なわれる時まで、わたしたちは税を納めます。
 権威がわたしたちを迫害する場合はどうですか。それでも、サービスは日々行なわれているので、税を納めます。アフリカのある国で迫害を受けていた証人に関して、定期刊行物「サンフランシスコ・イグザミナー」は、「彼らは模範的市民とみなしてよい。まじめに税金を払い、病人の世話をし、文盲と戦っている」と述べました。そうです、それら迫害されている証人たちは税を納めたのです。
「恐れ」と「誉れ」
 ローマ 13章7節にある「恐れ」とは、臆病な恐れというよりも世俗の権威に対する敬意であり、権威の制定した法律を破ることへの恐れです。この敬意は、必ずしも権威ある立場にある人ではなく、その人が置かれている立場のゆえに示されます。聖書によれば、ローマのティベリウス帝に関する預言的な記述の中で、同帝は「軽んじられた者」と呼ばれています。(ダニエル 11:21)しかしティベリウスは皇帝でしたから、クリスチャンはティベリウスを皇帝として恐れ、かつ誉れを帰さなければなりませんでした。
 誉れに関して言えばわたしたちは、宗教上の立場に基づく称号を付与してはならないというイエスの命令に従います。(マタイ 23:8-10)しかし、世俗の権威に関しては、彼らに誉れを帰するためにどんな称号で呼ぶことが求められようと、その称号で彼らを呼ぶことを厭いません。パウロはローマの総督たちに語りかける際、「閣下」という語を用いました。(使徒 26:25)ダニエルはネブカドネザルを「我が主」と呼んでいます。(ダニエル 4:19)今日のクリスチャンは、“閣下”や“陛下”といった称号を用いることができます。また、判事の入廷時には起立することもできますし、支配者の前で謹んで身をかがめることも、もしそういう習慣があるのであれば、差し支えないでしょう
相対的な服従
 エホバの証人は人間の権威に服するのに、フランツ・ライターをはじめ非常に多くの人たちが、あのような苦しみを経験したのはなぜですか。それは、わたしたちの服従が相対的なものであり、権威は自分が要求できる事柄に聖書的な一定の限界があることを必ずしも認識していないからです。もし権威が、訓練されたクリスチャンの良心に反する事柄を要求するなら、神が定めた限界を超えることになります。イエスは「カエサルのものはカエサルに、しかし神のものは神に返しなさい」と述べて、その点を指摘されました。(マタイ 22:21)カエサルが神に属するものを要求するとき、わたしたちは神が優先権を持っておられることを認めなければなりません。
 これは危険で油断のならない立場でしょうか。決してそうではありません。実際は、大半の文明国で認められている原則を敷衍したものに過ぎないのです。15世紀のこと、ペーター・フォン・ハーゲンバッハという人が、自分の権威のもとにあったヨーロッパの一地域で恐怖政治を行ない始めたということで裁判にかけられました。自分は領主ブルゴーニュ公の命令に従ったに過ぎないという当人の弁明は却下されました。残忍なことを行なっていても、上位の権威の命令に従ってそうしているのであれば責任はないというこの主張は、それ以来幾度もなされてきましたが、最も有名なのは、ニュールンベルクの国際裁判でナチの戦犯たちが行なった主張です。その主張は大抵却下されました。その国際裁判で下された判決には、「各人には国際的な義務があり、その義務は、個々の国家から課された国民的服従の責務を超越する」とあります。
 神の僕たちは、上位の権威に対する良心的服従には限界があることを常に認めてきました。エジプトでモーセが誕生したころ、ファラオは生まれたばかりのヘブライ人の男児を皆殺しにするよう、二人のヘブライ人の産婆に命じました。しかし産婆は新生児を生かしておきました。二人がファラオに従わなかったことは間違っていましたか。そうではありません。産婆は神から与えられた自分たちの良心に従ったので、神は二人を祝福されました。(出エジプト記 1:15-20)イスラエルが流刑にされてバビロンにいた時、ネブカドネザルはヘブライ人のシャデラク、メシャク、アベデネゴを含む臣下たちに、自分がドラの平野に立てた像の前で身をかがめるよう要求しました。しかし3人のヘブライ人はそれを拒否しました。彼らは間違っていたのでしょうか。間違っていませんでした。王の命令に従うことは、神の律法に対する不従順を意味したからです。―出エジプト記 20:4,5。ダニエル 3:1-18。
『自分たちの支配者として、神に従いなさい』
 同様に、ユダヤ人の権威が、イエスについて宣べ伝えるのをやめるようペテロとヨハネに命令した時、彼らは、「神よりもあなた方に聴き従うほうが、神から見て義にかなったことなのかどうか、あなた方自身で判断してください」と答えました。(使徒 4:19; 5:29)彼らは黙っているわけにはゆきませんでした。クリスチャン・センチュリー誌は初期クリスチャンが取った別の良心的な立場に注意を引き、こう述べています。「初期クリスチャンは軍務に携わらなかった。ローランド・バイントンは、『新約聖書時代の終わりから、西暦170年ないし180年の10年間にかけて、クリスチャンが軍隊に入ったことを示す証拠は何もない』と述べている。(「戦争と平和に対するクリスチャンの態度」[アビングドン,1960年],67,68ページ)……スウィフトによると、殉教者ユスティヌスは、『クリスチャンが暴力行為に携わらないのを当然のことと受け止めている』」。
 どうして初期クリスチャンは兵役につかなかったのでしょうか。それは、一人一人が注意深く神の言葉と律法を研究し、聖書によって訓練された良心に基づいて個人的な決定を下したからに違いありません。彼らは中立でした。つまり『世のものではなかった』のです。中立ですから、世の紛争においてどちらかの側を選ぶことはできませんでした。(ヨハネ 17:16; 18:36)さらに、彼らは神に属していました。(テモテ第二 2:19)国家のために命を投げ出すとすれば、神に属するものをカエサルに与えることになったでしょう。また、彼らは愛によって結ばれた国際的な兄弟関係の一部でもありました。(ヨハネ 13:34,35。コロサイ 3:14。ペテロ第一 4:8; 5:9)仲間のクリスチャンを殺すかもしれない武器を取り上げることなど、彼らの正しい良心が許しませんでした。
 それに加えて、クリスチャンは皇帝崇拝のような、一般化していた宗教的慣習に同調することはできませんでした。その結果、クリスチャンは「変わり者で危険な人物[とみなされ]、ほかの人々は当然ながら彼らを胡散臭そうに見」ました。(W・A・スマート著、「聖書は今も語る」)クリスチャンは、『恐れを要求する者にはしかるべき恐れを返す』べきであるとパウロは書きましたが、クリスチャンはエホバをより深く恐れ敬うことを忘れませんでした。(ローマ 13:7。詩編 86:11)イエスご自身こう言われました。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ、魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」―マタイ 10:28。
 わたしたちはクリスチャンとして、今日でも同様な挑戦に直面します。何かの像や象徴に対する崇拝的な動作であれ、救いを人間や組織に帰することであれ、わたしたちはどんな現代版の偶像礼拝にも参加できません。(コリント第一 10:14。ヨハネ第一 5:21)それに、初期クリスチャンと同様、クリスチャンとしての中立の立場を曲げることもできません。―コリント第二 10:4と比較してください。
「温和な気持ちと深い敬意」
 使徒ペテロはわたしたちの良心的な立場について書き、「神に対する良心のゆえに悲痛な事柄に耐え、不当な苦しみを忍ぶなら、それは喜ばしいこと……です」と述べました。(ペテロ第一 2:19)そうです、クリスチャンが迫害に遭っても確固とした立場を取るのは神にとって喜ばしいことであるばかりか、クリスチャンの信仰が強くされ精錬されるという別の益をもたらします。(ヤコブ 1:2-4。ペテロ第一 1:6,7; 5:8-10)ペテロはこのようにも書きました。「たとえ義のために苦しみを受けることがあっても、あなた方は幸いです。しかし、彼らの恐れるものを恐れてはなりません。またそれに動揺してもなりません。むしろ、あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし、だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し、その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」。(ペテロ第一 3:14,15)実に有益な諭しです。
 権威がクリスチャンの立場を誤解したために、あるいはキリスト教世界の宗教指導者がエホバの証人のことを権威に誤り伝えたために迫害が生じた場合、その権威に事実を示せば、圧力を弱めることができるかもしれません。温和な気持ちと深い敬意を抱くクリスチャンが、暴力に訴えて迫害者に反撃を加えることはありませんが、活用できるあらゆる法的手段を用いて自分の信仰を擁護することはあります。その後は問題をエホバのみ手にゆだねます。―フィリピ 1:7。コロサイ 4:5,6。
 また、クリスチャンが深い敬意を抱いていれば、自分の良心に反することは避けながらも、できる限り権威に従うようになります。例えば、もし会衆の集会が禁止されるなら、クリスチャンは目立たない方法を探して、エホバの食卓で食物を取り続けます。至上の権威であられるエホバ神はパウロを通して、わたしたちにこう告げておられるからです。「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い、ある人々が習慣にしているように、集まり合うことをやめたりせず、むしろ互いに励まし合い、その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)しかし、そのような集まりは慎重に開くことができます。出席者がたとえわずかでも、神がその取り決めを祝福してくださることは確信できます。―マタイ 18:20と比較してください。
 同様に、ある権威は良いたよりを公に宣べ伝える業を禁止してきました。それらの権威のもとに住むクリスチャンは、至上の権威がイエスご自身を通して言われた、「あらゆる国民の中で、良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」という言葉を覚えています。(マルコ 13:10)したがって、彼らはどんな犠牲を払うことになっても至上の権威に従います。使徒たちは可能な所では、公に、また家から家に宣べ伝えましたが、人々に伝えるには、非公式の証言など他の方法もあります。(ヨハネ 4:7-15。使徒 5:42; 20:20)聖書のみを用いるなら、宣べ伝える業を妨害しないという権威も少なくありません。このことから、すべてのエホバの証人が聖書から論じるよう十分に訓練される必要のあることがよく分かります。(使徒 17:2,17と比較してください。)クリスチャンが大胆であると同時に敬意を示すなら、上位の権威の憤りを招くことなくエホバに従う方法を見いだせる場合が少なくありません。―テトス 3:1,2。
 しかし、権威が冷酷にクリスチャンを迫害する時もあります。そのような場合は、清い良心を抱き、耐え忍びつつ正しいことを行なうほかはありません。年若いフランツ・ライターは、信仰を曲げるか死ぬかの二者択一を迫られました。ライターは神への崇拝をやめることができなかったので、勇敢にも死の道を進みました。死の前夜、フランツは母親に次のような手紙を書きました。「私は明朝処刑されます。私は神によって力づけられていますが、それは過去に亡くなった真のクリスチャンすべてが常にそうであったのと同じです。……お母さんが死にいたるまで堅く立つなら、わたしたちは復活によって再び会うでしょう」。
 いつの日か全人類はエホバ神のただ一つの律法のもとに置かれることになるでしょう。その時までわたしたちは正しい良心を保ち、神の取り決めを守り、あらゆる点で主権者なる主エホバに従うと同時に、上位の権威に相対的に服従する態度を保たなければなりません。―フィリピ 4:5-7。
戻る