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「すべての人に対して辛抱強くありなさい」
1999年11月13日更新

エホバの証人は信仰の熱心な人々であることが知られています。
そのためある人たちは、その熱心さのゆえにエホバの証人のことをかたくなな人々と決めつけてきました。
そのような人たちは、エホバの証人は実際には気違いであり、少し状況が難しくなると薄弱な信仰を逃れ道として自己満足に陥り、決して他の人たちとは折り合おうとしないと主張してきました。
では、事実はどうでしょうか。
実際にエホバの証人を教え、訓練するために書かれたこの記事が答えを与えることでしょう。

「すべての人に対して辛抱強くありなさい」
外部の人たちに対して
 クリスチャンが働く職場では、人間の不完全さと利己心に起因する不快な状況が生じるかもしれません。平和を保つために巧みに振る舞い、不当な仕打ちを耐え忍ぶのは知恵の道です。これがどれほど賢明なことかを示しているのは、そねみの気持ちを持った同僚からひどく不愉快な仕打ちを受けたクリスチャンの経験です。その兄弟はそのことで言い争わず、辛抱強かったため、やがて悩みの種であったその従業員との聖書研究を始めることができました。
 エホバの民は、クリスチャン会衆外の人たちに証言する際、特に辛抱強くある必要があります。クリスチャンは時々ぞんざいで荒々しい反応に直面します。そのようなとき、同じようにやり返すのは正しいこと、あるいは賢明なことでしょうか。そうではありません。それは辛抱強さを表わすことではないからです。知恵の道は、「温和な答えは激しい怒りを遠ざけ、痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす」という賢明な箴言を思い起こし、それに従うことです。―箴言 15:1。
辛抱強さを示す点で信仰と希望は助けになる
 わたしたちが辛抱強さを示し、過酷な状況を耐え忍ぶ上で、何が助けになるでしょうか。その一つは神の約束に対する信仰です。わたしたちは神の言われることをそのまま信じなければなりません。聖書はこう述べています。「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。しかし、神は忠実であられ、あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、むしろ、あなた方がそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。(コリント第一 10:13)言い換えれば、長い経験を持つある人が述べているように、「もし神が許しておられるのなら、耐えることができます」。そうです、わたしたちは辛抱強くあることによって、耐えることができるのです。
 信仰と密接に関連しているのは、神の王国に対する希望です。王国が全地を支配する時、わたしたちを苦しめる邪悪な状況はすべて除き去られます。この点に関して詩編作者ダビデはこう述べました。「怒りをやめ、激怒を捨てよ。激こうし、そのためにただ悪を行なうことになってはならない。悪を行なう者たちは断ち滅ぼされるが、エホバを待ち望む者たちは、地を所有する者となるからである」。(詩編 37:8,9)神がこれら試みとなる状況をすべて間もなく除き去られるという確実な希望は、わたしたちが辛抱強くあるための助けとなります。
 もしわたしたちが未信者である配偶者に苦しめられるとしたら、わたしたちはどのように行動すべきですか。神に助けを求め続け、反対者がエホバの崇拝者になるという望みを絶やさないことです。クリスチャンの夫を持つある妻は、時々夫の食事の準備や夫の服をきれいにする仕事を拒みました。きたない言葉を使うこともあれば、何日か夫と口をきかないこともありました。魔術を使って夫に呪いをかけようとしたことさえあったのです。「でも、その都度、私は祈りのうちにエホバに頼りました。私には確信がありました。エホバは、私が辛抱強さという良い特質を培い、クリスチャンとしての平衡を失わないようにするための助けを与えてくださるという確信です。妻の心の態度はいつの日か変化する、という望みも抱いていました」と、夫は述べています。妻は20年間そのように夫をあしらっていましたが、そののち妻に変化が生じはじめました。夫はこう言っています。「辛抱強さという霊の実を培えるようエホバが私を助けてくださったことに、私は深く感謝しています。いま私は、妻が命の道を歩み始めるという結果を見ているからです」。
祈り、謙遜さ、愛は助けになる
 祈りも、辛抱強さを表わす上で大きな助けになります。パウロはこう勧めました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ、事ごとに祈りと祈願をし、感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば、一切の考えに勝る神の平和が、あなた方の心と知力を、キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。(フィリピ 4:6,7)「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば、神が自らあなたを支えてくださる。神は義なる者がよろめかされることを決してお許しにならない」という訓戒にも、ぜひ忘れずに注意を払いましょう。―詩編 55:22。
 霊の実の辛抱強さを培うためのさらにもう一つの大きな助けは、謙遜さです。誇り高い人には忍耐力がありません。そういう人は何かというと腹を立て、すぐに怒り、どんな気に入らない扱い方に対しても我慢ができません。これはみな、辛抱強さの反対です。しかし、謙遜な人は自分を過度に重視しません。サウル王につけ狙われ、ベニヤミン人シムイに軽べつされた時のダビデのように、エホバを待ちます。(サムエル第一 24:4-6。サムエル第二 16:5-13)ですからわたしたちは、「全くへりくだった思いと温和さとをもち、また辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍び」つつ歩むことを願うべきなのです。(エフェソス 4:2)さらに、『エホバのみ前にあって謙遜になる』べきです。―ヤコブ 4:10。
 とりわけ無私の愛は、わたしたちが辛抱強くあるための助けになります。実際、『愛は辛抱強い』のです。愛は他の人たちの最善の益を心がけるようわたしたちを促すからです。(コリント第一 13:4)愛はわたしたちが感情移入を行ない、言わば相手の立場に立って物を考えるのを可能にします。さらに愛は、辛抱強くあるようわたしたちを助けます。「[愛は]すべての事に耐え、すべての事を信じ、すべての事を希望し、すべての事を忍耐(する)」からです。「愛は決して絶えません」。(コリント第一 13:7,8)確かに、「エホバに向かって賛美を歌う」の本に含まれている200番の王国の歌の歌詞にあるとおりです。

 「愛は善きを見 兄弟結び

 誤れる者を 優しく励ます」。
喜んで辛抱する?
 パウロは、コロサイにいる自分の仲間の信者が、エホバにふさわしい仕方で歩み、エホバを喜ばせ、あらゆる良い業において実を結ぶために、神のご意志に関する正確な知識に満たされるようにと祈りました。彼らはそのようにして、「あらゆる力をもって神の栄光ある強大さのほどにまで強力にされ、十分に耐え忍ぶ者、また喜んで辛抱する者とな(る)」のです。(コロサイ 1:9-11)とはいえ、どうして人は「喜んで辛抱する」ことができるでしょうか。矛盾しているのではありません。聖書で言われている喜びを抱くということは、うきうきした陽気な気分になるというだけのことではないからです。霊の実である喜びには、神のみ前に正しいことを行なったという、深い満足感が含まれます。それはまた、辛抱強さを示した結果、約束の報いを受けるという希望の表われでもあります。そのようなわけで、イエスはこう言われました。「人々がわたしのためにあなた方を非難し、迫害し、あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき、あなた方は幸いです。歓び、かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです。人々はあなた方より前の預言者たちをそのようにして迫害したのです」―マタイ 5:11,12。
 イエスはそのような喜びを抱いておられました。実際、「この方は、自分の前に置かれた喜びのために、恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え」ました。(ヘブライ 12:2)この喜びにより、イエスは辛抱強くあることができたのです。同様に、使徒たちがむち打たれ、「イエスの名によって語るのをやめる」ようにと命令された時に生じた事柄も考慮してください。使徒たちは「彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ、サンヘドリンの前から出て行った。そして彼らは毎日神殿で、また家から家へとたゆみなく教え、キリスト、イエスについての良いたよりを宣明し続けた」とあります。(使徒 5:40-42)キリストの追随者たちは喜んで辛抱できるということを示す、見事な実例です。
 復しゅうをせず、最善のことを望んで怒ることに遅くあるよう、そうです、辛抱強くあるようわたしたちに勧めている神の言葉は、確かに賢明な諭しを与えています。会衆内の兄弟姉妹たち、家族の成員、職場の人たち、クリスチャン宣教を行なう際に会う人たちと仲良くやってゆくためには、いつも祈ることと、神のこの霊の実が必要とされます。では、辛抱強さを表わす上で何が助けになるでしょうか。それは、信仰、希望、謙遜さ、喜び、そして愛です。確かに、そのような特質があれば、わたしたちはすべての人に対して辛抱強くあることができます。

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