JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club
ライブラリ
「監督は自制心のある人でなければならない」
1999年11月13日更新

エホバの証人に反対する人たちは、エホバの証人のことをしばしば「自己批判の能力の欠けた宗教」と呼びます。
そのような人の書いた本の中には、エホバの証人にはそのようなものが「根本的に欠けており」、それは「致命的である」と述べているものさえあるのです。
しかも、「そのような傾向は組織の上層部に行けば行くほど強くなる」という主張が行われることも多々あります。
彼らはエホバの証人のことを、「他の宗派や他の人のことは批判するが、自分たちのことで都合の悪いことがあるとそれを無視したり隠したりして、批判を受け入れないひどい人たちだ」と言い、こうしていかにもエホバの証人が裏表のある宗教であるかのように述べたあと、その裏表のある態度を今すぐやめるようにと警告します。
また、「彼らは、「自分たちは真のキリスト教なので問題というものが全くない」と主張している」と間違った前提を示したあとで、さらに「たとえばわたしがこの本で書いたようなことを彼らは全く無視している」とも述べます。
彼らはそのような自分たちの主張を裏付ける、エホバの証人の社会で起こった実際の問題を詳しく説明し、「信者たちはこのような事実を知らされていないので、この本を通して事実を知れば目が覚めるだろう」と主張します。
しかし、そのような主張は決して真実ではないのです。
ここには、実際にエホバの証人の長老たちを教育するために用意された記事が掲載されています。
しかもこれは「ものみの塔」誌の記事です。
ですから、この記事は長老でない一般の信者たちにも提供されただけでなく、エホバの証人の聖書伝道を通して広く一般の人たちに配布されたのです。
そのような記事において、エホバの証人自身の問題がどのように扱われているのかを知るなら、たとえ反対者が誤った情報を流すとしても、みなさんはその誤った情報の影響から守られることになるでしょう。

「監督は自制心のある人でなければならない」
自制―長老の必要条件
 自分自身も長老だったパウロは、自制の重要性を認識していました。パウロは、エフェソスから自分のところにやって来た長老たちに諭しを与えた時、彼らに、「あなた方自身と群れのすべてに注意を払いなさい」と言いました。自分自身に注意を払うことには、とりわけ、自制して自分の振る舞いに気をつける必要性が含まれていました。テモテへの手紙の中でもパウロは同じ点を指摘し、「自分自身と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい」と述べました。このような諭しから分かるように、パウロはある人たちが人間的な傾向に陥り、自分の説く事柄を実行することよりも説くことを気にかけることに気づいていました。それでパウロは、自分自身に気をつける必要を第一に強調しました。―使徒 20:28。テモテ第一 4:16。
 何年もの間に、長老の聖書的な役割は次第に明らかにされてきました。今日、わたしたちは長老の立場が任命による立場であることを知っています。長老たちはエホバの証人の統治体、またはその直接の代表者たちによって任命されます。そして統治体は「忠実で思慮深い奴隷」を代表しています。(マタイ 24:45-47)クリスチャンの監督つまり長老になるための資格は、おもに使徒パウロがテモテ第一 3章1節から7節およびテトス 1章5節から9節で挙げています。
 パウロはテモテ第一 3章2節と3節で、監督は習慣に節度を守らなければならないと述べています。このためにも、秩序正しい人でなければならないためにも、長老には自制することが求められます。また、監督になる資格のある人は人を殴ったりせず、争いを好みません。このような資格のためにも長老には自制心が必要です。さらに、酔って騒いだり、ぶどう酒にふけったりしないために長老は自制しなければなりません。―テモテ第一 3:2,3の脚注もご覧ください。
 テトス 1章7節と8節でパウロは、監督は自制心がなければならないとはっきり述べました。しかし、これらの節の中で列挙されている他の資格のうち、どれほど多くの資格が自制と関係しているかに注目してください。例えば、監督はとがめのない人、そうです、とがめられるところのない人でなければならないのです。確かに、自制しないなら、長老はこのような要求を満たすことができないでしょう。
他の人を扱うとき
 さらに、監督は仲間の信者を扱うときに辛抱強くなければならず、そのためには自制が必要です。例えば、ガラテア 6章1節にはこう書かれています。「兄弟たち、たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも、霊的に資格のあるあなた方[おもに長老たち]は、温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め、それと共に、自分も誘惑されることがないよう、おのおの自分を見守りなさい」。温和な霊を表わすためには自制が必要です。また、この点では、自制は自分を見守ることにも関係しています。同様に、苦難に遭っている人から長老が助けを求められるとき、自制は非常に大切です。その人のことをどう思っているとしても、長老は親切で、辛抱強く、思いやりがなければなりません。性急に助言を与えるより、むしろ喜んで耳を傾け、本当にその人が心を悩ませていると思われる事柄をその人から引き出さなければなりません。
 とりわけ、取り乱している人を扱うときには、ヤコブ 1章19節のこの諭しが適切です。「わたしの愛する兄弟たち、このことを知っておきなさい。すべての人は、聞くことに速く、語ることに遅く、憤ることに遅くあるべきです」。そうです、特に怒りや感情的な反応に面した場合には、長老は同じ仕方で応じないよう注意深くなければなりません。感情の高ぶった言葉に感情の高ぶった言葉で対抗して『悪に悪を返さ』ないためには、自制が必要です。(ローマ 12:17)同じような仕方で応じても、事態をさらに悪化させるだけです。それで、ここでも神の言葉は長老たちに良い助言を与え、『温和な答えは激しい怒りを遠ざける』ことを思い起こさせています。―箴言 15:1。
長老の集まりや審理委員会による聴問会における自制
 クリスチャンの監督たちにとって、自制するよう注意する必要のある別の分野は、長老の集まりの時です。真理と公正のために遠慮せず、しかも穏やかに話すためには、時には非常な自制心が必要です話し合いを牛耳ろうとする傾向を避けるにも自制が必要です。長老の一人がそのような傾向を持っているなら、もう一人の長老がその長老に助言を与えるのは親切なことでしょう。―ヨハネ第三 9と比較してください。
 さらに、長老の集まりにおいて、長老の一人は熱心さのあまりつい感情的になり、声を荒げてしまうことさえあるかもしれません。そのような行ないは自制の欠如を如実に物語るものです。それは本当に二重の意味で自滅的です。一方では、自制を失えば失うほど感情が論理を曇らせ、それによって、その長老は自分の立場をますます弱めることになります。またもう一方では、感情的になればなるほど、とかく仲間の長老の心を乱し、彼らの反感を買うことにもなりがちです。そのほかにも、長老たちが注意していないと、意見のはっきりした食い違いのために長老たちの足並みが乱れるかもしれません。そうなるなら、長老たち自身と会衆に害が及びます。―使徒 15:36-40と比較してください。
 長老たちが不公平や権威の乱用を避けるためにも、自制は大いに必要とされます。誘惑に屈し、自分の言動が不完全な人間の考えに左右されてしまうことには何の苦労もいりません。長老の子供の一人もしくは他の親族が悪行を犯したことが分かったときに、その長老が断固たる行動をとらなかったということが幾度も生じています。そのような状況で、正しい行動が血のつながりによって妨げられないようにするには自制が必要です。―申命記 10:17。
 自制が非常に重要になる別の状況は、審理委員会による聴問会が行なわれるときです。感情に流され過ぎないよう、長老たちは強力な自制心を働かせなければなりません。長老たちがいとも簡単に涙に動かされるようであってはなりません。それと同時に、背教者を扱っている場合のように、非難の言葉が飛び交い、自分が中傷されるようなときには、平静さを失わないよう気をつけなければなりません。そのような場合、「主の奴隷は争う必要はありません。むしろ、すべての人に対して穏やかで(ある)ことが必要です」というパウロの言葉は非常に適切です。圧力のもとで穏やかであるためには自制が必要です。パウロは続けて、「主の奴隷」は『苦境のもとでも自分を制し、好意的でない人たちを温和な態度で諭さ』なければならないことを示しています。温和さを示すにも、反対に対処するときに自分を制するにも、強力な自制心が必要です。―テモテ第二 2:24,25。
異性に対する自制
 長老たちは異性を扱うに際して、自制するために鋭い注意を払わなければなりません。長老が一人で姉妹を牧羊訪問するのは賢明ではありません。他の長老か奉仕の僕に同行してもらうべきです。この問題を理解していたと思われるパウロは、「年長の婦人には母親に対するように、若い婦人には姉妹に対するように貞潔をつくして当たりなさい」と長老テモテを諭しました。(テモテ第一 5:2)あたかも父親であるかのような仕草で姉妹の体に手を置く長老も見受けられます。しかし、そのような長老は自分自身を欺いているのかもしれません。クリスチャンの純粋な兄弟愛の代わりに、ロマンチックな衝動がそのような仕草の動機となっていることも十分に考えられるからです。―コリント第一 7:1と比較してください。
 ある長老たちが会衆の姉妹を扱うときに自制しなかったため、真理がはなはだしく傷つけられてきました。数年前、ある長老は、エホバの証人でない夫を持つクリスチャンの姉妹と姦淫を犯したために排斥されました。その元長老の排斥が発表されたちょうどその晩、腹を立てた夫がライフルを手にずかずかと王国会館に入ってきて、罪を犯した二人に向けて発砲しました。二人とも命に別状はなく、ライフルはすぐに取り上げられました。しかし翌日、ある大手新聞の第一面に、『教会で発砲事件』という見出しのニュースが載りました。その長老が自制を欠いたために、会衆とエホバのみ名に何というはなはだしい非難がもたらされたのでしょう。
他の分野での自制
 長老が講演をするときにも、大いに自制が求められます。講演者は信頼性と平衡の点で手本を示すべきです。中には、笑わせることだけを狙った面白いことをたくさん言って、聞き手を楽しませようとする人がいます。これは、聴衆を喜ばせたいという誘惑に屈していることを表わしているのかもしれません。もちろん、何であれ誘惑に屈することは自制の欠如です。講演をするときに時間を超過するのは、準備不足だけでなく、自制の欠如も表わしているとさえ言えるでしょう。
 勤勉な長老であればだれでも、自分の時間とエネルギーを要求する様々な事柄の平衡を保つという挑戦に対処しなければなりません。どちらか一方の極端に走らないためには自制が必要です。会衆で必要とされる事柄を気遣うあまり、家族をなおざりにしてきた長老もいます。それで、ある姉妹が長老からすばらしい牧羊訪問を受けたことをその長老の妻に話した時、その妻は強い口調で、「たまには私も主人に牧羊訪問してほしいわ」と言いました。―テモテ第一 3:2,4,5。
 長老は、個人研究に費やす時間と野外宣教や牧羊訪問に費やす時間の平衡を保つためにも自制を必要とします。人間の心は人を欺きやすいので、長老は自分にとって一番楽しい事柄のために時間を過度に用いやすいものです。読書好きな長老であるなら、個人研究に時間を用い過ぎている場合がよくあります。家から家の宣教はやや難しいと感じている長老であるなら、宣教を怠る口実として牧羊訪問を持ち出すかもしれません。
 長老は内密を保つという責任を負っているので、しっかりと自制するよう用心しなければなりません。この点で適切なのは、「他の人の内密の話を明かしてはならない」という諭しです。(箴言 25:9)経験が示すところによると、この点は長老たちが違犯することの多い要求の一つと言えるかもしれません。長老に賢くて愛のある妻がいて、お互いの意思の疎通が十分に保たれている場合、長老は内密な性質の問題について話し合ったり、それをちょっと話題にしたりする傾向があるかもしれません。しかし、それは正しいことではなく、非常に無分別なことです。そもそも、それは信頼を裏切る行為です。霊的な兄弟姉妹は長老のところに来て秘密を打ち明けますが、それは問題が極秘に保たれることを確信しているからです。また、内密の問題を自分の妻に話すなら不必要な重荷を妻に負わせることになるということからしても、妻に話すのは間違ったこと、無分別で愛のないことです。―箴言 10:19; 11:13。
 確かに自制は非常に重要であり、特に長老にとっては極めて重要なものです。長老たちはエホバの民の間で指導の任に当たるという特権をゆだねられているゆえに、より大きな責任を持っています。長老たちには多くのものが与えられているので、多くのことが要求されるでしょう。(ルカ 12:48; 16:10。ヤコブ 3:1と比較してください。)他の人に対して立派な模範を示すのは、長老の特権であり責任です。それだけでなく、任命された長老たちは、他の人以上に益や害をもたらす立場にあり、多くの場合それは自制するか否かにかかっています。『監督は自制心のある人でなければならない』とパウロが述べたのも不思議ではありません。

戻る