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「愛に基づいて説き勧める」
2000年3月1日更新

エホバの証人の会衆には長老と呼ばれる人たちがいて、エホバの証人の世話をしています。
長老たちはまた、必要なときにはその権威を行使し、必要な助言や訓戒を与えます。
この職務に関し、エホバの証人の長老たちは反対者たちからの中傷的な批判にさらされてきました。
エホバの証人をカルトであると主張する人たちの中には、一部の元エホバの証人などと結託して、「エホバの証人の長老はみな心のない人たちであり、会衆の“羊たち”に対し、攻撃的な仕方で自分の要求をしている」などと主張してきた人たちもいます。
また、彼らの中には、エホバの証人に反抗する子どもたちに同調して、エホバの証人の親に関して同様の主張を行う人たちもいます。
では、実際はどうなのでしょうか。
エホバの証人の長老たちや親たちは、会衆の成員や子どもたちに助言を与えることが必要になった場合、聖書の「フィレモンへの手紙」に示されているパウロの模範に倣わなければならないとされています。
その点についてエホバの証人を教えるこの記事を調べるなら、エホバの証人の長老や親たちがどのようにして訓戒を与えているかを知ることができるでしょう。

『愛に基づいて説き勧める』
 西暦60年から61年ごろ、一人の逃亡奴隷がローマを後にし、小アジア南西部の都市コロサイに戻る、約1,400`の旅を始めました。その奴隷は自分の所有者にあてられた手紙を携えていましたが、その手紙を書いたのはほかならぬ使徒パウロでした。現在その手紙は聖書の一部となっており、受取人であるフィレモンの名前が付けられています。
 フィレモンへの手紙は、巧みで説得力のある論議の傑作です。しかし、もっと大切なこととして、その中には今日のクリスチャンのために実際的な教訓が数多く含まれています。その一つは、クリスチャン愛に基づいて互いに説き勧めることの価値です。では、短いながらも力強いこの手紙を細かく調べることにしましょう。
逃亡者が戻る
 フィレモンはクリスチャンで、コロサイ会衆の非常に愛されていた成員でした。(フィレモン 4,5)そこの会衆が彼の家を集会場所として使っていたほどです。(2節)その上、フィレモンは使徒パウロと個人的に面識がありました。それは、彼がクリスチャンになるのを使徒パウロが助けたためであったかもしれません。確かにパウロは、自分が個人的にコロサイで伝道したことはなかったということを示しています。(コロサイ 2:1)しかし、彼は実際にエフェソスで2年を過ごし、「[コロサイを含む]アジア地区に住むすべての者が主の言葉を聞(く)」ほどにまで伝道しました。(使徒 19:10)おそらくフィレモンは、聞いてこたえ応じた人々の中にいたのでしょう。
 いずれにせよ、当時の大勢の裕福な人々と同様に、フィレモンは奴隷の所有者でした。古代において、奴隷であることは必ずしも不面目なことではありませんでした。ユダヤ人の間では、自分自身や家族の成員を奴隷として売ることは、負債を完済するための手段として認められていました。(レビ記 25:39,40)国際標準聖書百科事典は、ローマ時代についてこう注解しています。「大勢の人が様々な理由で自分を奴隷として売った。それは何よりも、貧しい自由人としての生活より楽で心配のない生活を始めるため、特別な職を得るため、立身出世のためであった。……非ローマ人の多くは、解放されたときにはローマ市民になれるという、ローマ法で慎重に規定されていた正当な見込みを抱いて、ローマ市民に自分を売った」。
 しかし、一つの事件が起こります。フィレモンの奴隷の一人、オネシモという名の男が脱走し、ローマに逃げたのです。もしかすると逃亡資金としてフィレモンからお金を盗むことさえしたかもしれません。(18節)ローマでオネシモは、そこで囚人となっていた使徒パウロに出会います。
 奴隷の境遇から逃げた、『以前には無用な者だった』奴隷は、今やクリスチャンとなりました。彼はパウロの思いのままに働き、監禁されていたその使徒のために有用な奉仕をしました。オネシモがパウロの「優しい愛情たる人」という立場を得、パウロにとって「愛する兄弟」となったことに何の不思議もありません。―11,12,16節。
 使徒パウロは、オネシモが自分のもとにとどまってくれたらと思ったことでしょう。しかし、フィレモンにはオネシモの所有者としての法的な権利がありました。ですからオネシモは自分の法律上の主人への奉仕に戻らなければなりませんでした。ではフィレモンは彼を迎え入れるでしょうか。腹を立てて、厳しい罰を与える自分の権利を要求するでしょうか。わたしは仲間のクリスチャンです、というオネシモの主張の真実さを疑うでしょうか。
愛のうちに問題を解決する
 パウロはオネシモについてフィレモンに手紙を書こうと思い立ち、いつものように秘書を使うのではなく、自分の手で手紙を書きます。(19節)ちょっと時間をとって、この短いフィレモンへの手紙全体を読んでみましょう。まず、パウロが自己紹介をして、フィレモンとその家族の者に「過分のご親切と平和」があるようにと述べてから、『主イエスとすべての聖なる者たちに対するフィレモンの愛と信仰』をほめていることに気づくでしょう。―1-7節。
 パウロにとって、使徒としての自分の権威に訴え、『当然行なうべきことをフィレモンに命じる』のは容易だったでしょう。しかし、その代わりにパウロは『愛に基づいて説き勧め』ます。パウロは、オネシモが本当にクリスチャンの兄弟になったのだ、それもわたしにとって有用な者であることを実証した兄弟となった、と保証します。この使徒は、「わたしは[オネシモ]を自分のためにとどめておき、わたしが良いたよりのためにこうして獄につながれている間、あなたに代わってずっと仕えて欲しいとも思います」と認めています。「しかし、」とパウロは続けて、こう述べます。「あなたの同意なしには、どんなことも行ないたくありません。それは、あなたの良い行ないが、強いられたものではなく、あなた自身の自発的な意志によるものとなるためです」。―8-14節。
 こうして使徒パウロはフィレモンに対し、戻って来た以前の奴隷を兄弟として受け入れるよう強く勧めます。「わたしにするように、彼を親切に迎えてあげてください」とパウロは書きます。オネシモが奴隷の身分から自由にされるのは当然だと言っているのではありません。パウロは、当時存在していた社会秩序を変えようと扇動していたのでもありません。(エフェソス 6:9; コロサイ 4:1; テモテ第一 6:2と比較してください。)とはいえ、奴隷と主人としての関係は、オネシモとフィレモンの間にその時存在していたクリスチャンのきずなによって和らげられるはずです。フィレモンはオネシモのことを、「奴隷以上のもの、愛する兄弟」とみなすことでしょう。―15-17節。
 しかし、オネシモが負っていたかもしれない負債についてはどうですか。もしかするとそれは盗みによるものだったかもしれません。ここでも、パウロは自分とフィレモンとの友情に訴えて、こう言います。「もし彼があなたに何か悪いことをしたのでしたら、あるいはあなたに何か負っているのでしたら、それをわたしの勘定としてください」。パウロは、フィレモンが快く許す精神を示し、パウロが求める以上のことをしてくれるものと確信していることを言い表わします。パウロは間もなく釈放されると考えていたので、近い将来フィレモンのところに泊めてもらうよう手はずを整えることさえしています。さらに幾つかのあいさつを伝え、フィレモンに「主イエス・キリストの過分のご親切」があるようにと祈って、パウロは手紙を結んでいます。―18-25節。
今日のクリスチャンのための教訓
 フィレモンの書には、今日のクリスチャンのための実際的な教訓がたくさん含まれています。一例を挙げると、この書は、仲間の信者がわたしたちに対して重大な悪行を犯した時でさえ許す必要があるということを思い起こさせてくれます。イエス・キリストは、「あなた方が人の罪過を許すなら、あなた方の天の父もあなた方を許してくださるのです」と言われました。―マタイ 6:14。
 特に、今日のクリスチャン会衆内で権威のある立場にいる人は、フィレモンの書から益を得ることができます。パウロが、当然行なうべきことをフィレモンに命じるために使徒としての権威を用いたりしなかった点は注目に値します。それだけでなくパウロは、自分に仕えるためにオネシモがローマにとどまることを許してくれるよう要求することもありませんでした。パウロは他の人たちの所有権を尊重しました。また、権威主義的なやり方で従わせることもできるかもしれないが、フィレモンにとっては心から行動するほうが良い、ということも認識していました。パウロは、心からの反応を引き出すために、愛に基づいて懇願しました
 ですから、今日のクリスチャンの長老たちは、力を濫用したり、群れを扱う際に権威主義的な厳しい方法を用いたりして「神の相続財産である人々に対して威張る」ようなことは決してすべきではありません。(ペテロ第一 5:1-3)イエスは、「あなた方は、諸国民の支配者たちが人々に対して威張り、偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません」と言われました。(マタイ 20:25,26)一般的に監督たちは、命令するよりも愛情深く懇願するほうが、群れの成員たちがはるかに良くこたえ応じることに気づいています。意気消沈している人は、快く時間をとって問題に耳を傾けてくれ、思いやりのある助言を与えてくれる監督たちに感謝します。
 さらにパウロの手紙は、ほめることと巧みさの価値を長老たちに思い起こさせます。パウロはまず、『聖なる者たちの優しい愛情がフィレモンによって新たなものにされた』ことを認めています。(7節)この誠実なほめ言葉によって、フィレモンは一層聞き入れやすい気持ちになったに違いありません。今日でも同様に、助言や忠告はたいてい誠実で温かいほめ言葉によって和らげることができます。そして、そうした助言はぶっきらぼうな、またはあからさまなものではなく、聴き手の口にもっと合うように惜しみなく「塩で味つけされたもの」であるべきです。―コロサイ 4:6。
 さらに使徒パウロは、フィレモンが正しいことを行なってくれるという確信を言い表わして、こう述べています。「わたしは、あなたが応じてくれることを信じて書いています。あなたがわたしの言う以上のことをさえしてくれるのを知っているのです」。(21節)長老の皆さん、あなたは仲間のクリスチャンに対する同じような確信を言い表わしていますか。そのような言葉は、正しいことを行ないたいと思うよう彼らを助けるものとなるのではないでしょうか。
 興味深いことに、多くの場合親は、自分の子供たちに対する確信を言い表わすと、やはり良い効果があるということに気づくものです。進んで従うこと―要求を満たすだけでなく、それ以上のことを行ないたいという気持ち―の価値を認めるなら、親は子供たちにある程度の尊厳を与えることができるものです。親としての命令や要求は、可能な場合には、優しく愛のこもった口調で述べるべきです。感情移入を示し、理由を述べるようにします。ほめ言葉を与えるのがふさわしい時には子供たちを温かくほめます。そして、特に人前では、自分の子供をひどく批判しないようにしましょう。
 同じように考えると、夫たちも機会あるごとに妻を称賛し、道理にかなっていることや優しさといった特質を表わすことができます。そうすれば、妻にとって従うことは楽しいこと、またさわやかさや喜びの源となるのです。―箴言 31:28。エフェソス 5:28。
 フィレモンがパウロの手紙にどのようにこたえ応じたかということは、はっきりとは述べられていません。しかし、彼に対するパウロの確信が間違っていたとは考えられません。今日のクリスチャンの長老たち、親たち、夫たちが、強要や命令や強制によってではなく、『愛に基づいて説き勧める』ことにより、他の人との関係において同様の成功を収めてゆけますように

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