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「長老たち、義をもって裁きなさい」
2000年6月1日更新

エホバの証人の長老は、聖書の命じるところにしたがって会衆の管理を行い、時に裁きを行います。
しかし、エホバの証人に反対する人たちは、長老の開く審理委員会に関する間違った宣伝を行い、いろいろと“実例”なるものを示しながら、「長老による裁きは、エホバの証人の組織における恐怖支配の重要な柱となっている」などと言います。
この記事は、エホバの証人の長老が、どのような考え方のもとに、どのようにして審理を行うべきかを示すものです。
この記事は、裁きに関するエホバの証人の考え方を明らかにし、エホバの証人に対する偽りの宣伝と、それに伴う非難とに答えるものとなるでしょう。

「長老たち、義をもって裁きなさい」
『恐れの気持ちを抱いて身を処する』裁き人たち
 キリストご自身がエホバへの恐れのうちに、また神の霊の助けを得て裁くのであれば、不完全な長老たちはなおのことそうすべきです。審理委員会で奉仕するよう割り当てられた場合には、義をもって裁くための助けを「公平に裁かれる父」に求め、『恐れの気持ちを抱いて身を処する』必要があります。(ペテロ第一 1:17)自分が「言い開きをする」者として、人々の命、人々の「魂」を扱っていることを覚えておくべきです。(ヘブライ 13:17)このことからすると、長老たちは避け得る審理上の誤りを犯した場合、確かに、それについてもエホバのみ前にあって言い開きをしなければならないでしょう。J・H・A・エブラードはヘブライ 13章17節に関する注解の中でこう書いています。「託された魂を見守るのは牧者の務めであり、……牧者はその魂すべてについて、また牧者の過失で失われた魂についても言い開きをせねばならない。これは厳粛な言葉である。聖職者たるものは皆、この畏敬の念[恐れ]を起こさせるまでに責任の重い職務を自ら進んで引き受けたことを熟考せよ」。―ヨハネ 17:12; ヤコブ 3:1と比較してください。
 審理する者として行動する長老たちは、それぞれの事件の本当の裁き主がエホバとキリスト・イエスであることを忘れるべきではありません。イスラエルの裁き人たちに告げられた次の事柄を思い出してください。「あなた方が裁くのは人のためではなく、エホバのため……です。神は裁きの問題においてあなた方と共におられるのです。それで今、エホバの怖れがあなた方に臨むように。……あなた方はこのように行なって、[あなた方に]罪過を招かないようにすべきでしょう」。(歴代第二 19:6-10)事件を裁く長老たちは崇敬の念のこもった恐れを抱いて、本当にエホバが『裁きの問題において自分たちと共におられる』と確信できるよう最善を尽くすべきです。長老たちの決定は、その問題に対するエホバとキリストの考え方を正確に反映しているべきです。霊感を受けた神の言葉に書かれている事柄から明らかな通り、長老たちが象徴的な意味で地上で“縛る”(有罪とする)または“解く”(無罪とする)ものは、天においてすでに縛られた、または解かれたものであるべきです。長老たちがイエスの名によってエホバに祈るなら、イエスは彼らを助けるため「その中に」おられるでしょう。(マタイ 18:18-20,脚注。「ものみの塔」誌,1988年2月15日号,9ページ)審理委員会による聴問会の雰囲気は、キリストが真にその中におられることを示すものであるべきです
全時間の牧者たち
 長老たちは全時間裁くわけではありません。むしろ彼らは全時間の牧者なのです。処罰する者ではなく、いやす者です。(ヤコブ 5:13-16)監督に相当するギリシャ語(エピスコポス)の背後には、保護的な世話という基本的な意味があります。「新約聖書神学辞典」は、「この語[エピスコポス]は[ペテロ第一 2章25節で]牧者[という語]を補い、見守ったり保護したりする牧羊の業を示唆している」と述べています。そうです、長老たちの主要な責務は、羊を見守って保護し、群れの中にとどめておくことです。
 エフェソス会衆の長老たちに話をした時、使徒パウロはしかるべき点を強調しました。「あなた方自身と群れのすべてに注意を払いなさい。神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため、聖霊があなた方をその群れの中に監督として任命したのです」。(使徒 20:28)パウロは処罰することではなく、牧することを強調しています。一部の長老たちは次のような質問を熟考するとよいかもしれません。『もし私たちがより多くの時間と努力を牧羊に充てるなら、審理事件を調査したり扱ったりするのに必要なかなりの時間を節約できるのではないだろうか』。
 パウロが「圧制的なおおかみ」に注意するよう警告したのは事実です。しかし、パウロはそれらの者たちが「群れを優しく扱わないこと」を非難したのではありませんでしたか。(使徒 20:29)また、パウロは忠実な監督たちがそれらの「おおかみ」を追い出すべきであることを示唆しましたが、それと同時に彼の言葉は、長老たちが群れの他の成員を「優しく」扱うべきであることを示しているのではないでしょうか。羊が霊的に弱くなって落伍する場合、その人は何を必要としているのでしょうか。打ちたたかれることですか、それともいやしでしょうか。処罰されることですか、それとも牧羊でしょうか。(ヤコブ 5:14,15)ですから、長老たちは牧羊の業のために定期的に時間を取るべきです。そうするなら、罪に屈したクリスチャンに関する時間のかかる審理事件にあまり時間を費やさずにすむという、喜ばしい結果になるでしょう。確かに、長老たちの第一の関心事は、安心感とさわやかさを与えて、エホバの民の間に平和と穏やかさと安全を促進することであるべきです。―イザヤ 32:1,2。
恵み深い牧者また裁き人として奉仕する
 クリスチャンが誤った歩みをする前にもっと徹底的な牧羊がなされるなら、恐らくエホバの民の中での審理事件の数は減ることでしょう。(ガラテア 6:1と比較してください。)それでも、人間の罪と不完全さのために、クリスチャンの長老たちは時々悪行の事件を扱わなければならないでしょう。長老たちにとってどんな原則が導きとなりますか。それらの原則はモーセの時代や初期クリスチャンの時代から変わっていません。イスラエルの裁き人に対するモーセの次の言葉は今でも有効です。「あなた方の兄弟たちの間の聴問を行なうとき、あなた方は……義をもって裁かねばならない。裁きにおいて不公平であってはならない」。(申命記 1:16,17)公平さは、審理委員会で奉仕する長老たちにとって非常に肝要な知恵である「上からの知恵」の一つの特徴です。(ヤコブ 3:17。箴言 24:23)そのような知恵は、長老たちが弱さと邪悪さの違いを見分けるための助けとなるでしょう。
 長老たちは正邪に関するエホバの規準に従って、『義をもって裁かねばなりません』。(詩編 19:9)とはいえ、長老たちは義なる人となるよう努力すると同時に、パウロがローマ 5章7節と8節で区別している意味において善良な人となるようにも努めるべきです。「聖書に対する洞察」という本(英文)の「義」の項はこの聖句について注解し、こう述べています。「そのギリシャ語の用法が示すところによると、善良さの点でよく知られている、もしくは際立っている人とは、情け深くて(善いことをしたい、もしくは他の人に益をもたらしたいと願う)、恵み深い(そのような善良さを積極的に表わす)人です。そのような人は単に公正が要求する事柄を行なうことを考えるだけでなく、他の人に対する健全な思いやりや、他の人に益や助けを与えたいという願いに動かされて、それ以上の事を行ないます」。(第2巻,809ページ)義にかなっているだけでなく善良でもある長老たちは、親切な思いやりをもって悪行者を扱うでしょう。(ローマ 2:4)そのような長老たちは憐れみと同情心を示したいと思うはずです。そして、たとえ最初のうち自分たちの努力に悪行者がこたえ応じないように思えても、悔い改めの必要を悟るようその人を助けるため、可能な事柄を行なうはずです。
聴問会におけるふさわしい態度
 審理委員会による聴問会が必要とされる状況では、監督たちは自分たちが依然として牧者であり、「りっぱな羊飼い」のもとでエホバの羊を扱っているのだということを忘れるべきではありません。(ヨハネ 10:11)苦難に遭っている羊に対する通常の援助に関してパウロが述べた諭しは、審理委員会による聴問会の際にも同等の効力をもって当てはまります。パウロはこう書きました。「兄弟たち、たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも、霊的に資格のあるあなた方は、温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め、それと共に、自分も誘惑されることがないよう、おのおの自分を見守りなさい。互いの重荷を負い合い、こうしてキリストの律法を全うしなさい」―ガラテア 6:1,2。
 審理委員会で奉仕する長老たちは、自分たちのことを処罰を与えるために会合している高位の裁き人と考えるのではなく、むしろ聴問会を牧羊の業の別の面とみなすべきです。エホバの羊の一人が苦難に遭っています。その人を救うために長老たちは何ができるでしょうか。群れから迷い出たその羊を助けるのはもう手遅れでしょうか。手遅れでないことを願います。長老たちは、ふさわしい場合に憐れみを示すことについて積極的な見方を保つべきです。これは、重大な罪が犯された場合に長老たちがエホバの規準を下げるべきだということではありません。しかし、酌量すべき情状を念頭に置くなら、可能な場合に憐れみを差し伸べる助けになるでしょう。(詩編 103:8-10; 130:3)悲しいことに、中には非常にかたくなな態度をとる悪行者がいるので、長老たちは毅然とした態度を示さざるを得ません。それでも長老たちは決して過酷な態度は示しません。―コリント第一 5:13。
審理委員会による聴問会の目的
 個人間で重大な問題が生じた場合には、賢明な長老たちはまず、当事者たちがマタイ 5章23節と24節、またはマタイ 18章15節の精神にしたがって問題を個人的に解決しようとしたかどうかを確かめます。解決できずにいる場合には、恐らく一人か二人の長老が助言を与えれば十分でしょう。審理措置が必要なのは、排斥につながりかねない由々しい罪が犯された場合だけです。(マタイ 18:17。コリント第一 5:11)審理委員会を設けるには、しっかりした聖書的な根拠が必要です。(「ものみの塔」誌,1989年9月15日号,18ページをご覧ください。)審理委員会を設ける場合には、その特定の事件に関して最も適した長老たちを選ぶべきです。
 長老たちは審理委員会による聴問会を通して何を成し遂げるよう努めますか。まず、真実が明らかでなければ、義をもって裁くことは不可能です。イスラエルにおいてそうであったように、重大な問題は「徹底的に調べ」なければなりません。(申命記 13:14; 17:4)ですから、聴問会の一つの目標は、事件に関する事実を明らかにすることです。しかし、愛をもってそうすることができますし、またそうするべきです。(コリント第一 13:4,6,7)いったん事実が明らかになれば、長老たちは、会衆を保護し、会衆内にエホバの高い規準と神の霊の自由な流れを保つため、何であれ必要な事柄を行ないます。(コリント第一 5:7,8)しかし、聴問会の目的の一つは、可能な場合にはいつでも、危険にさらされている罪人を救うということです。―ルカ 15:8-10と比較してください。
 どんな場合でも、告発された人を神の羊ではないかのように扱うべきではありません。その人は優しく扱われるべきです。もし罪が犯されたのであれば、義にかなった裁き人の目的は、その罪人が再調整し、自分の歩みの間違いを理解し、悔い改めて『悪魔のわな』から救い出されるよう助けることです。そのためには、「温和な態度で諭す」「教えの術」が求められるでしょう。(テモテ第二 2:24-26; 4:2)では、罪人が罪を犯したことをその場で認め、本当に心を刺され、エホバに許しを請い求める場合はどうでしょうか。(使徒 2:37と比較してください。)その人が誠実に助けを望んでいると委員会が得心するのであれば、たいていの場合、排斥する必要はないでしょう。―「ものみの塔」誌,1983年4月1日号,30ページ,4節をご覧ください。
 一方、執ような背教、エホバの律法に対する故意の反逆、全くの邪悪さなどの明白な事件に直面した場合、審理委員の務めは、悔い改めない違反者を排斥して会衆の他の成員を保護することです。悪行者に敬虔な悲しみの欠けていることが明らかな場合、審理委員会には、その人を何とか悔い改めさせようとして何度も会ったり、言うべき事柄を教えたりする義務はありません。 最近の数年間では、世界中で排斥された人の数は伝道者の約1%です。つまり、囲いの中にとどまっている約100人の羊につき一人が、少なくとも一時的に失われているということです。一人の人を囲いの中に入れるために要する時間と努力を考えるなら、毎年何万もの人が『再びサタンに引き渡されて』いることを知ると悲痛な思いがするのではないでしょうか。―コリント第一 5:5。
 長老たちは審理事件を扱い始める時に、会衆における罪の事件の大半には邪悪さではなく弱さが関係していることを覚えておくべきです。失われた羊に関するイエスの例えを決して忘れるべきではありません。イエスはその例えを次のような言葉で結ばれました。「あなた方に言いますが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にあるのです」。(ルカ 15:7)確かに、「エホバは……ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので(す)」。(ペテロ第二 3:9)願わくは、世界中の審理委員会がエホバの助けを得て最善を尽くし、悪行者が悔い改めの必要を悟って永遠の命に至る狭い道を再び歩み始めるのを助けることによって、天に喜びをもたらしますように。―マタイ 7:13,14。

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