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「愛がなければ、何の価値もない」
2000年7月1日更新

エホバの証人は地道に神のご意志を行うことで知られています。
それは、聖書に記されているイエスの手本に従うものであり、誉めるべきものですが、一方で、エホバの証人に反対する人たちはその動機を疑い、エホバの証人を非難してきました。
そのような人たちは、『エホバの証人は血も涙もない冷酷な命令実行者であり、愛が欠けている』、『彼らにとって重要なのは、愛ではなく、単なる外見上の奉仕である』などと主張します。
こういった批判意見は、“元エホバの証人”の立場にある一部の人たちの証言によって強化されてきました。
こういった人たちによる宣伝は、『エホバの証人の熱心さには愛が伴っていない』という誤解を至る所で生じさせています。
この点についてエホバの証人は何を考えているでしょうか。
以下の記事は、エホバの証人にとって愛とは何かを証人たちに教えるために用意されたものです。
この記事をお読みになるなら、エホバの証人の熱心な宗教活動の背後にある愛の理念を正しく理解できることでしょう。

「愛の勝った道に付き従う」
愛がなければ,何の価値もない
パウロは次のように論じました。「たとえわたしが人間やみ使いのいろいろなことばを話しても,愛がなければ,音を立てる一片のしんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています」。(コリント第一 13:1)霊によって伝授された人間の言語や天のみ使いのことばを話したとしても,愛がなければ,何の価値もありませんでした。パウロは人々が理解できない言語で1万の言葉を話すより,むしろ教訓的な五つの言葉を話すほうを望みました。(コリント第一 14:19)愛のない人は「音を立てる一片のしんちゅう」,つまりうるさい銅鑼か,耳障りな「ただ鳴り響くシンバル」のような者となったことでしょう。愛の伴わない異言は,神の栄光をたたえその民を助けるために,慰めをもたらしたり霊的に築き上げたりする手段とはなりませんでした。今日わたしたちは,クリスチャン宣教の際に理解しやすい言葉を用いることによって愛を示します。
使徒パウロは次にこう述べています。「たとえ預言の賜物を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません」。(コリント第一 13:2)[西暦1世紀には,]奇跡的に預言を行なうことや,神聖な奥義に関する特別な理解,さらには霊によって伝授される知識は他の人の益となりましたが,その賜物を持つ人に愛がないなら,その人にとっては益とならなかったことでしょう。パウロは,他の人を助けるために神聖な奥義の特別な理解を用い,知識の賜物により自分たちが難船を生き残ることを予告できました。(使徒 27:20-44。コリント第一 4:1,2)しかし,たとえパウロに『すべての知識や全き信仰』があったとしても,愛がないなら,エホバの目には何の価値もなかったでしょう。
今日エホバの証人は,エホバの霊により聖書預言や神聖な奥義を理解することができ,そのような知識を他の人々に分け与える面でエホバの霊に導かれています。(ヨエル 2:28,29)エホバの霊はまた,山のような障害を克服するのに必要な信仰を生じさせます。(マタイ 17:20)こうした事柄を実際に行なうのはエホバの霊なので,そこから個人的な栄光を求めるのは間違っています。わたしたちが神の栄光のために,また神と仲間の人間に対する愛をもって物事を行なわないなら,何の価値もありません。―ガラテア 5:6。
愛のない犠牲は益にならない
パウロはこう述べました。「ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません」。(コリント第一 13:3)たとえパウロが,ほかの人たちに食物を与えるために自分の所有物すべてを施したとしても,愛がなければ益にはならなかったことでしょう。わたしたちが贈り物をするとき,神は,その物質的な価値のためでも,またうそをついたアナニアとサッピラのように施す者としての誉れを求めるからでもなく,その背後にある愛ゆえに報いてくださるのです。(使徒 5:1-11)パウロは,ユダヤにいる信者たちへの救援の奉仕に関連し,愛をもって自分を与えることによって立派な模範を示しました。―コリント第一 16:1-4。コリント第二 8:1-24; 9:7。
たとえ真理に対する証人として愛の伴わない殉教の死を遂げたとしても,神にとっては何の価値もありません。(箴言 25:27)イエスはご自分の犠牲に関して語られましたが,それについて誇ることはされませんでした。イエスは,誇るのではなく,愛ゆえに進んでご自分を与えられたのです。(マルコ 10:45。エフェソス 5:2。ヘブライ 10:5-10)イエスの霊的な兄弟たちは,自分の栄光を求める殉教という形ではなく,地味ではあるものの,エホバに栄光をもたらしその方への愛を実証するという仕方で,神への奉仕において『自分の体を生きた犠牲として差し出し』ます。―ローマ 12:1,2。

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