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「長老たち―温和な霊をもって他の人たちに再調整を施しなさい」
2000年11月1日更新

エホバの証人に反対する人たちは、エホバの証人のことをカルトだと主張し、特にエホバの証人の世界で行われる指導のあり方に異論を唱えます。
彼らは、エホバの証人の秩序は、信者に過剰に罪悪感を抱かせ、なおかつ神の裁きを強調することによって維持されているという理論を唱えています。
証人たちは、罪の呵責と裁きを受けることに対する恐怖によって支配されており、こうして教団に隷従させられている、と彼らは結論しています。
そのような主張をもっともらしく見せるため、彼らはそのような不当な支配の実例なるものを盛んに紹介します。
では、事実はどうなのでしょうか?
この記事は、エホバの証人の長老たちが、排斥にはならないものの、誤った歩みをした会衆の成員をどのように扱うべきかを教えるために用意されたものです。
エホバの証人の世界では、些細な罪を犯した人はいったいどのように扱われるのでしょうか?
この記事を読むなら、満足のいく答えを見いだすことができるでしょう。

「長老たち―温和な霊をもって他の人たちに再調整を施しなさい」
真のクリスチャンの心は、りっぱな実を生み出す霊的な庭に例えられるでしょう。それは、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制を通常豊かに生み出す庭です。そうであるべきではないでしょうか。結局のところ、これらはエホバ神がご自分の献身した僕たちにお与えになる聖霊の実なのです。(ガラテア 5:22,23)しかし、心の庭を天のみ父に喜んでいただける状態に保つことを願うクリスチャンは皆、受け継いだ罪という雑草と精力的に闘い続けなければなりません。―ローマ 5:5、12。
時折、敬虔な人の不完全な心に好ましくないものが芽生えることがあります。当人は、霊的に申し分のない経歴の持ち主かもしれません。しかし、その後問題が生じます。恐らく、不健全な交わりや思慮の欠けた決定が根底にあるのでしょう。会衆の長老たちはどうすればそのような人を霊的に援助できるでしょうか。
使徒の助言
過ちを犯したクリスチャンを援助するに当たって、長老たちは使徒パウロの次の助言に従う必要があります。「兄弟たち、たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも、霊的に資格のあるあなた方は、温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め、それと共に、自分も誘惑されることがないよう、おのおの自分を見守りなさい」。(ガラテア 6:1)仲間の信者が「それと知らずに何か誤った歩み」をした場合、長老たちにはできるだけ速やかに援助の手を差し伸べる責任があります
人に「再調整を施す」とはどういう意味でしょうか。このギリシャ語(カタルティゾー)には、「正しい配列にする」という意味があります。網を繕うことを指してこの同じ語が用いられます。(マタイ 4:21)また、人の手足の骨接ぎを指して使われることもあります。医師は患者に不必要な痛みを生じさせないよう、慎重に骨接ぎをします。同様に、兄弟や姉妹が霊的に正しい配列になるよう援助するには、気遣いや巧みさや思いやりが必要です
他の人に再調整を施そうと努める際、長老たちは温和な霊を表わすことにより、自分たちが霊性を備えていることを明らかに示します。確かに、気質が温和なイエスなら、そのような事柄を温和な仕方で扱われるはずです。(マタイ 11:29)長老たちは、誤った歩みをしたエホバの僕に対してこの特質を示すべきです。なぜなら長老自身、心の意向に反して不意に罪を犯すことがあり得るからです。過去にそのようなことがなかったとしても、これから先に生じるかもしれません。
これら霊的に資格のある男子は、愛のうちに仲間の崇拝者の『重荷を負う』べきです。実際、長老たちは兄弟姉妹がサタン、誘惑、肉の弱さ、陥りがちな罪と闘うのを援助したいと願っています。これは確かに、クリスチャンの監督が「キリストの律法を全う(する)」方法の一つです。―ガラテア 6:2。
真の意味で霊的に資格のある男子は謙遜な人、つまり、「取るに足りない者であるのに、自分は相当な者であると考える人がいるなら、その人は自分の思いを欺いている」ということを意識している人です。(ガラテア 6:3)長老たちは、正しいことや助けになることを行なおうとどれほど一生懸命に努めたとしても、完全で、愛ある同情心を持たれる神のみ子、イエス・キリストには及びません。しかし、だからといって最善を尽くさなくてもよいというわけではありません。
長老たちは、自分のほうが信心深いと言わんばかりのごう慢な態度で仲間の信者を非難するのは間違いであることを知っています。イエスがそうなさるとは考えられません。イエスはご自分の命を友のためだけでなく、敵のためにさえなげうたれたのです。長老たちは兄弟姉妹が困難から抜け出して天のみ父とその義の規準に近づくよう助ける際に、同様の愛を示すよう努力します。長老たちが仲間の崇拝者に再調整を施すにあたり、どんな段階を踏むのが助けになるでしょうか。
役立つ段階
祈りを込めてエホバに頼り、温和な気質を言動に表わしなさい。
イエスは気質が温和で、導きを求めて天のみ父に熱烈な祈りをささげ、常にみ父の喜ばれることを行なわれました。(マタイ 21:5。ヨハネ 8:29)長老たちも何か誤った歩みをした人に再調整を施すことに努める際、同じようにするべきです。長老は気質の温和な従属の牧者として、相手を脅すのではなく、励ましたり築き上げたりする話をします。話し合いを行なうときは、援助が必要なクリスチャンができるだけ気楽に考えを言い表わせるような雰囲気づくりに努めます。そのために、話し合いの始めに心からの祈りをささげるのは大きな助けになります。温和に助言される人は、助言を与える人がイエスと同様、神の喜ばれることを行ないたいと願っていることを知っていると、助言に対してもっと進んで心を開くものです。結びの祈りは、愛と温和な気質を反映させた仕方で与えられた助言を当てはめる必要を当人に銘記させるものとなるでしょう。
祈りの後に誠実な褒め言葉を述べなさい。
親切や信頼性や勤勉さなど、当人のりっぱな特質について褒め言葉を述べることができるでしょう。恐らく何年にも及ぶエホバへの忠実な奉仕の記録に触れることができるかもしれません。このようにして、長老たちは当人を気遣っていること、また当人に対してキリストのような関心を抱いていることを示します。イエスはテアテラ会衆に音信を伝える際、まず次のような褒め言葉を述べられました。「わたしは、あなたの行ない、また、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を、そして、あなたの最近の行ないが以前のものより多いことを知っている」。(啓示 2:19)この言葉を聞いた会衆の成員は、イエスが自分たちのりっぱな働きに気づいておられることを確信できました。この会衆には「イゼベル」の影響力を容認するという欠点がありましたが、ほかの点ではよくやっていました。そしてイエスはそれらの兄弟姉妹に、自分たちの熱心な活動が見過ごされていないことを知ってほしいと思っておられました。(啓示 2:20)同じように、長老たちもふさわしい時には褒め言葉を述べるようにすべきです。
誤った歩みを、状況からして必要とされる以上に重大な問題として扱わないようにしなさい。
長老たちは神の羊の群れを保護し、神の組織を清く保たなければなりません。しかし、霊的な過ちのために強い助言が必要であっても、一人か二人の長老の裁量で処理することができ、審理委員会による聴問の必要がない場合もあります。多くの場合、クリスチャンが誤った歩みをするのは故意の邪悪さではなく人間の弱さが根底にあります。長老たちは群れを優しく扱い、次の点を覚えておくべきです。「憐れみを実践しない人は、憐れみを示されることなく自分の裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します」。(ヤコブ 2:13。使徒 20:28-30)それで長老たちは問題をおおげさにするのではなく、悔恨の情を示している仲間の信者を、同情心に富まれる憐れみ深いエホバ神のように温和に扱うべきです。―エフェソス 4:32。
誤った歩みにつながった可能性のある要素に理解を示しなさい。
長老たちは仲間の信者が心の内を吐露する時、注意深く耳を傾ける必要があります。『神は、砕かれ、打ちひしがれた心をさげすまれません』から、長老たちもそうであるべきです。(詩編 51:17)配偶者からの感情面での支えが不足していることが問題の根底にあるのかもしれません。長い間重度のうつ状態に悩まされたため、いつもなら備わっている感情面での強さが衰えていたり、賢明な決定を下すのが極端に困難になったりすることがあるかもしれません。愛ある長老たちは、こうした要素を考慮に入れます。というのは、パウロは兄弟たちに「無秩序な者を訓戒(する)」よう勧めはしましたが、同時に「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ、弱い者を支え、すべての人に対して辛抱強くありなさい」とも勧めたからです。(テサロニケ第一 5:14)長老たちは神の義の規準を下げるべきではありませんが、神がなさるように、酌量すべき要素を考慮に入れるべきです。―詩編 103:10-14; 130:3。
仲間のクリスチャンの自尊心を傷つけないようにしなさい。
わたしたちは兄弟姉妹の品位を損なったり、当人は無価値な人間であるという印象を与えたりすることが決してないようにしたいものです。むしろ、当人のクリスチャンとしての特質や神への愛に確信を抱いていることを告げるなら、その人は間違いを正すよう励まされるでしょう。パウロが、自分は寛大さに関してコリントの人たちの「進んでする気持ち」や「熱心さ」について他の人々に誇っていると述べたとき、コリントの人たちは寛大であるよう励まされたことでしょう。―コリント第二 9:1-3。
エホバを信頼すれば問題を克服できることを示しなさい
神を信頼してみ言葉の助言を当てはめれば、必要な再調整が施されるという点を当人が理解できるよう援助することに真剣に努めてください。そのためには、わたしたちの語る事柄が聖書と聖書に基づいた出版物に根ざしていなければなりません。わたしたちには二つの目標があります。つまり、(1)援助を必要としている人が、エホバの見方を知って理解するよう助けること、(2)当人がどのようにこれら神からの指針を多少なりとも見過ごしたり、それに従わなかったりしたかを示すことです。
聖書から助言すると共に、親切ではあっても的を射た質問をしなさい。 この方法は、心を動かすのに大変効果的な場合があります。エホバは預言者マラキを通して、ご自分の民がどのように迷い出たかを理解させるために質問をお用いになりました。「地の人が神から奪い取るだろうか」と尋ねてから、「それなのに、あなた方はわたしから奪い取っている」と付け加えられました。(マラキ 3:8)イスラエルは、モーセの律法の要求にしたがって作物の十分の一を寄進することを怠ったので、エホバから奪い取っているも同然でした。この事態を正すため、イスラエル人は神が豊かに祝福してくださるという信仰を抱いて、清い崇拝に関する責務を果たす必要がありました。長老たちも、考えを刺激する、思いやりのある質問を用いることにより、今日行なうべき正しい事柄には天のみ父を信頼し、この方に従うことが含まれるという点を強調できます。(マラキ 3:10)この考えが心に伝われば、兄弟が『自分の足のためにまっすぐな道を作る』よう助けるのに大いに寄与します。―ヘブライ 12:13。
助言を受け入れることの益を強調しなさい。
効果的な助言には、誤った歩みを続ける場合の結果について訓戒することと、事態を正す結果得られる益を思い出させることの双方が含まれます。イエスは時宜にかなった警告をお与えになった後、ラオデキアの霊的に無関心な会衆の人々に対して、それまでの歩みを悔い改めて熱心な弟子になるなら、自分と共に天で支配する見込みを含む際立った特権にあずかることを保証されました。―啓示 3:14-21。
助言に注意が払われているかどうかに関心を示しなさい。
よい医師が折を見て自分の接いだ骨がきちんとついているかどうかを確かめるのと同じように、長老たちも当人が聖書の助言を当てはめているかどうかを見定めるよう努めるべきです。次のように自問できるでしょう。さらに何らかの助けが必要だろうか。同じ助言を―もしかすると以前とは違った方法で―繰り返すべきだろうか。イエスは、謙遜であることの必要性について弟子たちに繰り返し助言しなければなりませんでした。かなりの期間を通じて、助言や例えや教訓となる実例を用いながら、忍耐強く弟子たちの考え方に再調整を施すことに努めました。(マタイ 20:20-28。マルコ 9:33-37。ルカ 22:24-27。ヨハネ 13:5-17)同様に、長老たちは兄弟姉妹が霊的健康を完全に回復するよう促すことを意図した、聖書に基づく話し合いの場をさらに設けることにより、当人の再調整が完了するのを見届けることができます。
何らかの改善が見られたら、褒め言葉を述べなさい。
誤った歩みをした人が聖書の助言を当てはめようと誠実な努力を払っているなら、温かく褒めてください。これは最初に与えられた助言の効力を強め、いっそう改善を図るよう当人を励ますものとなるでしょう。パウロはコリント人への第一の手紙の中で、幾つかの点について毅然とした助言を与える必要に迫られました。コリントの人々がこの手紙にすばらしい仕方で応じたことをテトスから聞いた後すぐに、パウロは次のような手紙を書き送って彼らを褒めました。「今は歓んでいます。単にあなた方が悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなた方は敬虔な態度で悲しみました」―コリント第二 7:9。
歓びのいわれ
確かに、パウロは自分の与えた助言がコリントの人々の助けになったことを聞いて歓びました。同様に、今日の長老たちも、仲間の崇拝者が長老たちの愛ある援助に快くこたえ応じたために誤った歩みから立ち直るとき、大きな喜びを味わいます。悔恨の情を示しているクリスチャンが、敬虔な特質の実を豊かに生み出そうとして、とげのある雑草のような罪を心の中から根こそぎ取り除くのを援助する時、本当に喜ぶことができます。
長老が、何かの誤った歩みをした人に首尾よく再調整を施せば、その人は徹底的な霊的破滅を招く道から立ち返ったと言えるかもしれません。(ヤコブ 5:19,20と比較してください。)そのような援助に対し、援助を受けた人はエホバ神に感謝を表わすべきです。長老たちの愛ある助けや同情心や理解について心からの感謝の言葉を述べるのもふさわしいことです。そして、霊的に完全に回復した折には、関係者すべては温和な霊をもって再調整が施されたことを歓ぶことができるのです。

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