JWPC - Jehovah's Witnesses Press Club

2011年『エホバの証人の年鑑』の要約

2011年01月04日掲載



ものみの塔聖書冊子協会は、毎年初頭に『エホバの証人の年鑑』を発行しています。
2011年版には、おおよそ2010年中のエホバの証人の活動の報告に加え、パプアニューギニア、エストニアにおけるエホバの証人の歴史のレポートが収録されています。
『エホバの証人の年鑑』は一般には入手が困難ですので、こちらに要約と解説を掲載することにしました。

引用は適宜文末等を調整していますのでご承知置きください。要約の過程で内容がおおざっぱになってしまうところもありますのでこれもご承知置きください。



トピック

➤ 最近、ものみの塔聖書冊子協会は手話言語での訳業に力を入れています。手話言語は発声言語とは語彙や文法が異なります。そのため、手話言語での訳業は発声言語の簡単な移植という訳にはいきません。現在までに、ものみの塔聖書冊子協会は46の手話言語でビデオコンテンツを配信しています。特に注目できるのは、聖書(新世界訳)が6言語で発行されていることです。これは聖書翻訳の歴史における画期的な出来事であると言えるでしょう。

➤ エホバの証人の賛美歌が刷新されました。作曲にあたっては、一般のキリスト教会の賛美歌のスタイルは避けたそうです。原始キリスト教復興の立場に立つエホバの証人としては、諸教会の賛美歌に見られるような非聖書的な、あるいは過度に感動的なメロディや歌詞は避けたということです。

➤ アゼルバイジャンでは、エホバの証人の出版物が「キリスト教諸宗派の人々の感情を損なう」という理由で発禁処分となっているとのことです。

➤ ベルギーでは、税務当局がエホバの証人は営利団体であるとする見解を示してエホバの証人組織に対する課税処置を行いましたが、裁判で覆ったとのことです。

➤ エリトリアでは女性や幼児を含む58人の信者が投獄されており、その安否もよくわかっていないとのことです。

➤ ポルトガル政府はエホバの証人を「伝統ある」宗教団体と認定しました。これは「最高位」の認定で、今後、エホバの証人は政府に公認された宗教団体として、病院や刑務所の訪問などの奉仕を行うことになるとのことです。

➤ プエルトリコの最高裁はエホバの証人の「特定の医療処置(主に輸血)を拒む権利」を認める判決を下しました。この判決の注目点は、患者が意識を失ったときでもその権利は有効であるとしていることです。エホバの証人の輸血拒否については、あれやこれやと理由をつけてそれを無効にしようとする努力が幅広く行われており、日本においても、証人の患者が意識を失うと「患者は判断能力を喪失している」などと言って非信者の親族に意見を求め、輸血を強行するというやり口が見られています。プエルトリコではこのような手法が使えなくなったようです。

➤ ロシア政府はエホバの証人を「過激派」と認定し、過激派を取り締まる法律に従って組織を解散させたり出版物を発禁にしたりしています。ヨーロッパ人権裁判所はこれを違法とする判決を下し、2004年以降エホバの証人が被った損害を賠償するようロシア政府に求めています。

➤ セルビアでエホバの証人が宗教団体として認可されました。正教会が有力な国ではエホバの証人は認可されないというのが約束事となっており、セルビアにおいてもようやく改善が見られたということのようです。

➤ ハイチの大地震ではエホバの証人は154人が死亡したとのことです。エホバの証人はハイチの被災者のために、病院と、1,700戸の仮設住宅を設置しました。

➤ おなじくハイチでは、新世界訳聖書のハイチ語版が刊行されました。



統計

➤ 日本のエホバの証人は、会衆の数が3,118、伝道者数が218,698名となりました。

➤ 世界のエホバの証人は、会衆の数が107,210、伝道者数が7,508,050名となりました。

➤ 国家による禁令により地下活動を余儀なくされているため統計情報が伏せられている国が30あります。

➤ エホバの証人組織は、清貧もしくは清貧に準ずる立場にある信者を支援するため、およそ140億円を支出しました。



最近の小話

➤ スリナムにおいて村長をしていたパセシンさんは、伝統を誇りとしており、そのせいでエホバの証人に反対していました。ある日、呪術医がやってきて彼には邪悪な霊がついていると言ったせいで、彼は殴打されて瀕死の状態になりました。エホバの証人はそんな彼のために飛行機を用意して病院まで送り、彼は一命を取り留めたとのことです。

➤ フィリピンのエスメラルドさんは、エホバの証人であるミゲルさんの孫を殺害して刑務所に入っていました。ミゲルさんは彼に「愛を示すため」刑務所を訪問し、彼を助けているとのことです。



パプアニューギニアにおけるエホバの証人の歴史

➤ パプアニューギニアは、オーストラリアよりも赤道側に位置する国です。経度は日本やタスマニア島とほぼ同じです。面積は日本の1.2倍です。

➤ パプアニューギニアは迷信が強く、心霊術が盛んな国で、人々は悪霊や先祖の霊を本気でおそれています。

➤ この国で使われる言語は800もあります。

➤ パプアニューギニアの諸教会には紳士協定があり、各教会は教区を持ち、これを互いに侵さないことになっています。エホバの証人は諸教会からつまはじきにされているため、教区を与えられていません。エホバの証人が伝道活動を行うと、協定を破ったとして非難されたり制裁を受けたりします。

➤ エホバの証人はこの国で1932年から活動しています。

➤ パプアニューギニアでは言語の数が多いことに加えて文盲の方が多いので、伝統的に「絵による説教」という手法が用いられてきました。

➤ パプアニューギニアのエホバの証人は、トク語とヒリモツ語の発展に大きく貢献しました。

➤ この国にはカーゴ・カルトと呼ばれるよからぬ宗教集団がありました。エホバの証人はこの団体に積極的に伝道し、団体の終焉に貢献しました。

➤ エホバの証人の組織は1960年に政府により認可されましたが、その前にも後にもかなりの嫌がらせがありました。

1960年以降、キリスト教世界の各教会と退役軍人会と地元メディアが結託し、エホバの証人を中傷して禁止に追い込むための活動に乗り出しました。……教会の指導者たちはエホバの証人を「反キリスト、教会の敵」と糾弾しました。新聞は事実無根の記事を載せ、エホバの証人は破壊活動を行い、その教えが登校拒否、税の不払い、カーゴ・カルト、さらには不衛生をさえ助長していると書き立てました。
教会の僧職者は信徒たちに、わたしたちから何も買ってはいけない、何も売ってはいけない、話してもいけないと言い、土地の使用契約を取り消すよう圧力をかけることまでしました。
エンガ州ワバクの教会の伝道団は偽りの話を広めました。例えば、二人の証人が死体を掘り起こしてそれを食べた、と言いました。
➤ オダさんは他宗派の教会で聖書講演を行いました。しかし聖書の教えをそのまま述べたせいで牧師からのひんしゅくを買ったようです。
ルター派の教会で話をすることになり、私が選んだテーマは、血に関する神の律法(聖書の教え)でした。教会に集まった600人は一心に注意を払いました。人の血を食べるとその人の霊が自分の体に宿ると、多くの人は信じていたからです。教会の牧師はひどく腹を立てました。
➤ ドンさんは教会から地元からの退去を求められ、家を撤去されてしまいました。教会の手回しで引っ越し先も見つからなくなってしまい、船での生活を余儀なくされたとのことです。

➤ ランスさんはロンドン伝道協会の牧師から教区からの退去を求められましたが、なんと教区民はランスさんの肩を持ち、退去する彼のあとに全員がついていったとのことです。

➤ カリブさんは自身の体験をこのように語っています。
父と父の親族はカトリック教会を脱退してエホバの証人になりました。このことがきっかけで警察は過激な行動に及びました。警察が燃えるたいまつを草葺きの屋根に投げつけ、家はあっという間に炎に包まれました。家が焼け落ちるのを泣きながら見守るしかありませんでした。
➤ ワギ・バレーで、ジムさんは、教会の伝道団に指揮された子供たちに石を投げられましたが、このような後日談を語っています。
2007年になってバンズに旅行しました。すると幾人かの兄弟が近づいてきてわたしを抱擁し、涙ながらわびました。その人たちは子どものころ、わたしたちを村から追い払おうと石を投げ、悪態をついたとのことです。その中の一人は、かつてはルター派の牧師で、子どもたちをそそのかしていた人でした。
➤ ベルントさんはルター派の牧師と対決しました。
ある時、ルター派の牧師と70人ほどの男たちから成る暴徒がほかの村からやってきて、エホバの証人を追い出して王国会館を破壊しようとしました。ベルントは牧師に近づき、ルター派の伝道団が神の名をアヌトゥと呼ぶのはなぜか尋ねました。(国によっては、信徒をたやすく獲得するために、その国の部族神などの神をそのまま聖書の神とすり替えることが行われている。) 牧師が、聖書に出ていると答えたので、ベルントは、どこにあるかと尋ねました。牧師は自分の聖書を開きましたが、いくら捜してもそのような聖句は見つかりません。それでベルントは詩編83編18節を読むよう勧めました。牧師はその聖句を声に出して読み始めます。そしてエホバという名前にさしかかると、聖書を閉じて、「これはうそだ!」と声を上げました。
➤ 1963年には、政府が英断を下し、英国国教会が大聖堂を建てるために提供するはずだった土地をエホバの証人に提供することにしたという事件がありました。英国国教会は激しく抗議しましたが、通らなかったそうです。

➤ 1966年に、エホバの証人の児童7人が学校での国旗敬礼を拒否して放校されるという事件がありました。しかし行政官がこの処置を取り消し、児童たちは復学できたとのことです。

➤ 1980年代以降、ギレアデ聖書学校を卒業した宣教者がパプワニューギニアに派遣されるようになりました。

➤ 1989年にブーゲンビル島で内戦が起こると、エホバの証人は内戦地域への救援物資の輸送を行いました。

➤ 1994年に火山の噴火によりラウバル市が壊滅し、エホバの証人は救援活動を行いました。

➤ 最近は以前のような反対も事件もほとんど起こらなくなっているとのことです。



エストニアにおけるエホバの証人の歴史

➤ エストニアは、ロシアとラトビアとフィンランド湾との間に位置する国です。

➤ 1925年に政教分離が実施されるまでロシア正教会がこの国の国教でした。

➤ エホバの証人はこの国で1923年頃から活動しています。

➤ エホバの証人の組織は1932年に政府により認可されました。

➤ 1927年から、エホバの証人はラジオの番組を放送するようになりました。しかし、キリスト教諸教会が反対活動を行った結果、1934年に放送は打ち切られました。
僧職者は、エストニアの当局が共産主義と関係のある活動に強い不安を抱いていることを知り、エホバの証人は共産主義者と結びついているという偽りの主張をしました。エストニア当局は敏感に反応し、1934年にラジオによる講演を禁止しました。
➤ 1935年、カトリック教会とナチス・ドイツの圧力により、エホバの証人の文書は押収され、エホバの証人組織は解散させられました。それ以降、エホバの証人に対する家宅捜索と文書の没収が繰り返し行われるようになりました。

➤ 1940年、エストニアはソ連に併合され、エホバの証人に対する迫害は厳しくなりました。

➤ 1941年、エストニアはナチス・ドイツに併合されました。

➤ ろう者であるヤーンさんは無実の罪で処刑されてしまいました。
ろう者の兄弟ヤーン・パッラトは、1942年にタルトゥで伝道していた時、ドイツ軍に逮捕されました。兄弟は政権転覆を企てたとして投獄されました。刑務所で、その場に居合わせた幾人かが、兄弟が外に連れ出されるのを目撃し、次いで数発の銃声を聞きました。兄弟が連れ戻されることはなく、再び姿を見た人もいませんでした。
➤ 1944年、エストニアは再びソ連に併合されました。このころから多くのエホバの証人がシベリアの収容所に送られるようになります。

➤ レンピットさんはシベリア送りになりました。
シベリアのノリリスク収容所における10年の刑を言い渡されました。ニッケル鉱山の露天掘りという重労働を科されました。収容所の生活環境は劣悪で、作業による疲労は極限に達しました。北極圏の冬は厳しく、気温が零下30度以下にまで落ち込むこともありました。
➤ 1949年、エストニアのエホバの証人はスターリンに対する手紙を送りました。迫害をやめるよう求めましたが、それに対する返事は「エホバの証人の組織を抹殺せよ」というものでした。

➤ 1951年、KGB(ソ連国家保安委員会, いわゆる秘密警察)はエホバの証人組織内部にスパイを送り込み得た情報をもとに、ほぼすべての信者とその親族を逮捕してシベリアに送りました。

➤ アドルフさんはこのように語ります。
5年間、地下の炭坑で働きました。交代勤務を終えて地上に出るころには、真っ暗になっており、日の光を何か月も見ませんでした。支給される食料も十分ではありませんでした。そのため、記憶力や時間の感覚がおかしくなりました。持っているものや受け取ったものは何でも、兄弟たちの間で均等に分けました。皆が困窮していたので、持ち物を互いに分け合うことを学びました。
➤ ファンニさんは、フィンランド国籍を持っていたため、シベリア送りにされませんでした。
迫害が始まった時、ファンニはフィンランドに戻ることもできました。しかし、自己犠牲の精神を示して、地元の少人数の伝道者たちのもとにとどまったのです。そのため多くの困難を経験し、貧しい生活を送りました。この愛情深い姉妹は95歳で亡くなるまで70年間、エホバに忠実に奉仕しました。亡くなった時もエストニアに住んでいました。
➤ 1953年にスターリンが死亡するとエホバの証人に対するソ連の政策は変更になり、証人たちには恩赦が与えられるようになりました。

➤ 1950年代の終わりごろから、エホバの証人を攻撃するプロパガンダが新聞などによって流布されるようになりました。
新聞の紙面に、わたしたちの活動がアメリカ政府によって主導され、アメリカの裕福な資本主義者に利用されている、という記事が掲載されました。映画館では兵役を拒否したシルベルの裁判の模様を収めた短い映画が上映されました。
➤ KGBは、エホバの証人を混乱させるため、偽の「ものみの塔」誌を発行しました。

➤ 1986年以降、ソ連がペレストロイカ政策を実施すると、エホバの証人に対する迫害はやみ、自由に活動できるようになりました。また、経済混乱のなか、海外からの支援物資も受け取れるようになりました。

➤ 2009年、新世界訳聖書のエストニア語版が刊行されました。



メッセージ

年鑑には、ところどころに、以下のようなメッセージが記されています。
サタンの世に問題があふれているとしても、わたしたちが望みを失うことはありません。わたしたちは神に希望と信頼を置きます。
大きな困難に全く遭わないという意味ではありません。……互いに対する愛、またもちろんエホバに対する愛によって、わたしたちは強められ忍耐できるのです。
ほかにどんな宗教組織が、愛ゆえに労苦し自ら進んで人々に霊的な援助を与える、これほど多くの奉仕者を持っているでしょうか。
エホバの祝福と愛に富む導きによって、証人たちはあらゆる良い業において実を結び、また神に関する正確な知識を増し加えつつ、神にじゅうぶん喜ばれる者となることを目ざしてエホバにふさわしい仕方で歩むよう努めていきます。そして、あらゆる力をもって神の栄光ある強大さのほどにまで強力にされ、十分に耐え忍ぶ者、また喜んで辛抱する者となります。



信仰

➤ ボボギさんは、エホバの証人になろうとしたコイアリ族の人々が牧師から脅されたり警察に調べられたりするという状況に屈せず、このように宣言しました。
コイアリ族の人がすべて離れるとしても、私は離れない。
➤ 宣教者のジョンさんはこのように述べました。
真の宣教者は、あらゆる人に対してあらゆるものとなります。木の切り株に腰掛けるよう勧められたら、座ってください。それが用意できる最善のものだからです。ごつごつしたベッドをあてがわれたら、それに寝てください。心を込めて作ってくれたものだからです。食べ慣れないものが出されても、食べましょう。愛を込めて準備されたものだからです。
➤ グレンさんはこのように述べました。
わたしの聖書研究生の中に、村でパン屋を営むヘボコという年配の男性がいました。ヘボコは文字が全く読めず、何か月か研究しても、基本的な真理をわずかしか覚えていませんでした。その人を教えることに意味があるのだろうかと思っていました。ある朝、ヘボコの家のそばに来ると、声がしたので立ち止まって聞きました。ヘボコが声を出してエホバに祈っていたのです。その祈りは、神のお名前と神の王国についての真理を教わったことを心から感謝するものでした。この誠実な祈りを聞いて、エホバが人の知的な能力ではなく心をご覧になるということに気づかされました。エホバはご自分を愛する人のことをよく知っておられるのです。
➤ シベリアの労働収容所での25年の刑を宣告された、当時63歳のアウグストさんはこのように述べました。
こんなに長い刑を宣告していただいて光栄です。あと10年くらい生きられれば上等だと思っていたのに、25年も生きろと言うわけですか。
➤ シベリア送りにされたヘルミさんは当局者に対してこう言いました。
あなたたちに追放されたおかげで、シベリアの美しい山々を見に行けました。そんな遠くまでの旅費など、わたしにはとても出せませんでした。
➤ 元裁判官で今はエホバの証人であるユーリーさんは、自分がかつて迫害したビクトルさんにこう言いました。
法廷では、裁判官と被告人として違う席に座りました。でも、このような裁判が再び行なわれるとすれば、今度は同じ側に座ることになるでしょう。


↑冒頭へ戻る
ホームへ戻る