新世界訳
エホバの証人の聖書

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 燈台社襲撃事件で逮捕された大森ユリ(安田ユリ)姉妹については、ほとんど研究がされていませんので、すこしばかり書いておこうと思いました。

 大森ユリ姉妹は、大森家の養子でした。
 大森家は日本のエホバの証人の歴史の最初期からその活動に深い関わりを持っていたようですが、その活動内容は全く知られていません。ユリ姉妹は2世ということになります。
 ユリ姉妹の証言によると、1927年、明石純三氏が東京に燈台社を設立しようとした時、アメリカのものみの塔聖書冊子協会は金銭面での支援を拒否したそうです。そこで、大森家が資金を用意し、燈台社が設立されました。
 そんな事情で、大森家の要望にこたえ、明石氏はユリ姉妹を燈台社の職員として迎えることになります。
 ユリ姉妹は、一般の通訳の仕事もしていました。特に政治家からの信用があり、東条英機を筆頭にさまざまな政治家から登用され、彼らがロシアや中国に出る時には呼ばれて随行したということです。
 燈台社研究において謎とされている事柄の一つに、明石氏はどうやって政治家たちとのパイプを作り上げたのか、という疑問があります。おそらくユリ姉妹がルートとなったのでしょう。
 1939年に燈台社襲撃事件が起こり、エホバの証人はほぼ全員、130名ほどが逮捕されました。ユリ姉妹は燈台社で逮捕された26名のうちの一人です。
 ところが、ユリ姉妹は特別な待遇を受けました。ユリ姉妹の話によると、襲撃にあたった特別高等警察には、上層部のだれかから、大森家は逮捕の対象から除外するように、という指示が出ていたらしいです。ユリ姉妹は燈台社に入っていましたから逮捕するのはやむを得なかったようですが、そのあと、姉妹は刑務所の事務所で事務の手伝いをさせられ、特に迫害を受けたということはなかったそうです。
 特別高等警察は、彼女はすぐに棄教した、という記録をつけて姉妹を放免することにしたようです。そのため、長きにわたってユリ姉妹は棄教者であるとされていました。
 放免されたユリ姉妹は途方に暮れました。なにしろ、釈放されたのは自分だけですから。養父はアメリカのものみの塔聖書冊子協会と連絡を取ろうとしましたがうまくいかなかったようです。
 どうしたわけか、戦後、大森家は活動を再開した明石純三氏とも連絡が取れませんでした。
 養父は亡くなる時、姉妹に遺言を述べて、信仰を棄てないように、そして、どこかにエホバの証人の生き残りがいるはずだからその人たちを探し出して一緒になるように、と述べました。しかしユリ姉妹はその時、父に対して何も言えなかったということです。姉妹としては、当面の霊的必要を満たすために一般の教会に通うことも検討しましたが、さすがにそれはできなかったそうです。
 戦後ユリ姉妹が住み着いたところは、エホバの証人にとって長い間空白地帯となっていたところでした。一説によると、その地域へ宣教者を派遣する計画は、宣教者たちがそれを遠慮するという理由で繰り返し頓挫したそうです。
 1976年(頃)、ようやくユリ姉妹はエホバの証人の戸別訪問を受けます。
 その時姉妹の受けた衝撃は大きかったようです。なにしろ、教派としてのエホバの証人は壊滅したと思っていましたから。
 その後、ユリ姉妹は2度目のバプテスマを受けることにしました。異例な決定ですが、統治体はその決定を尊重したようです。

最後に、個人的な話ですが。
 2004年4月1日午前8時40分、祖母が息を引き取りました。
 死への苦しみの中にあって最後まで信仰を貫くのを見ることができたのは慰めでした。
 祖母は燈台社の貴重な生き残りですし、とても言い表せないくらい信仰の豊かな人でしたし、何よりも私に信仰の真の意味を教えてくれた貴重な方です。
 私に対する祖母の最後の言葉は「聖霊に感謝しなさい」でした。
 祖母の意見では、私はエホバから他の人にはないような特別な能力を授かっているそうです。しかしそれは、ただ感謝すべき理由であって、誇る理由では決してない、だから、あなたは決して誇らず、ただ神に感謝して、へりくだった人となりなさい、というのが祖母の最後の言葉でした。
 いまはただ、祖母のうえにエホバからのより高き是認があることを祈ります。