新世界訳
エホバの証人の聖書

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 ギリシャ語 πας (パース) は、「すべて」という意味を持つ語です。
 邦訳聖書においてこの語は、文脈により、「すべての」、「皆が」、「あらゆる」、「だれでも」というように多様に訳出されています。
 聖書におけるこの語の用法は救いについてのさまざまな誤解の要因となってきました。そこで、私はここで、この語の持つ正しい意味をわかりやすくまとめたいと思いました。

 聖書におけるギリシャ語 πας の用法の問題点をわかりやすく示す例として、コリント第一 15:22が挙げられるだろうと私は思います。



コリント第一 15:22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。



 ここでは、ギリシャ語 εν (エン) を領域の意味に(「にあって」と)読むか手段の意味に(「によって」と)読むかで πας の持つ意味が変化します。
 新世界訳聖書はこれを領域の意味に読み、新共同訳聖書はこれを手段の意味に読んでいます。
 これによりギリシャ語パースの何が変化しているでしょうか。パースの意味するところが限定的であるかどうかが変化しています。
 新共同訳聖書の読み方では、二度の「すべての人」という表現が意味しているところは同じです。その読み方によると、人類「すべて」は一度はアダムによる死を経験しますが、後にはキリストによる生を経験することになります。
 一方、新世界訳聖書の読み方では、二度の「すべての人」は同じではありません。片方の「すべて」は死ぬ者であり、もう片方の「すべて」は救われる者です。両者は区別されています。人類は救われる者と救われない者の二つに分けられるということです。

 この例に見るように、聖書におけるギリシャ語パースの用法は多くが限定的です。しかも、パースの限定的用法には、それがさらに発展した形態である排他的用法があります。新世界訳聖書のコリント第一 15:22におけるパースの用法は排他的です。

 ギリシャ語パースが限定的な働きをするということや、さらには排他的な働きをするということは、聖書やギリシャ語に特有の用法であるというわけではありません。これをすこし例を挙げて考えてみましょう。
 あなたはいま、たくさんの人々に呼びかけています。男の人はこちらに来てください、女の人はあちらに行ってください。このように言うとき、こちらに来る人とあちらに行く人とはそれぞれが限定的であり排他的です。しかし、人々はあなたの指示を誤解するかもしれません。誤解をなくすにはどうすればいいでしょうか。「全員」つまりすべてという概念を指示に加えるとよいでしょう。あなたはこのように言います。男の人は全員こちらにきてください、女の人は全員あちらに行ってください。こう言うなら問題は防がれるでしょう。
 さて、ここで「すべて」という概念が限定的また排他的役割をみごとに果たしていることに注目してください。「男の人全員」における「すべて」は「男」という条件によって限定されています。「女の人全員」における「すべて」は「女」という条件によって限定されています。そして、その二つの表現が組み合わせることにより、両者は極めて排他的となります。こちらに来る人に女の人は一人もおらず、あちらに行く人に男の人は一人もいない、ということです。

 このように考えてみると、ギリシャ語パースの用法がその「すべて」という語義にもかかわらずたいていの場合に限定的であることが、不自然なことなどではなく、いたって普通のことであるということが理解できます。



○ ギリシャ語 πας についてのよくある誤解

ギリシャ語 πας は「すべて」、つまり限定的でないことを指す語である。



○ ギリシャ語 πας の用法

非限定的用法
限定的用法
排他的用法
その他の用法



 これまでギリシャ語パースはどのように誤解されてきたでしょうか。
 キリスト教ファンダメンタリストの中には、先に挙げたコリント第一 15:22のような、パースが救いに関して用いられている事例を次から次へと引き合いにだして極端な主張を行う人がいます。彼らはこう言います。聖書がすべての人が救われると述べているんですからすべての人が救われるんです。あなたはそのことを信じないのですか? 信じないとするなら、あなたは神の偉大さということが解っていないのです。

 こういういかにもファンダメンタルな主張に対応するにはどうすればいいでしょうか。エホバの証人には「聖書から論じる」という強力な武器があります。この本はファンダメンタルの極端な主張の数々を網羅した本であり、もちろん、この主張も扱っています。



◇ 聖書から論じる, 「救い」の項

神は,大いなる憐れみのうちに,最終的には人類すべてを救いますか

ペテロ第二 3章9節は万人が救われることを示していますか。そこにはこう記されています。「ある人々がおそいと思っているように,主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ,ひとりも滅びることがなく[「だれも滅ぼされることを望まず」,今英],すべての者が悔改めに至ることを望み,あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。(口語)神は憐れみ深くも,アダムの子孫すべてが悔い改めることを願っておられます。そして,神は寛大にも,悔い改める人々の罪を許すための備えをしてくださいました。しかし,神は,その備えを受け入れることをだれにも強制されません。(申命記 30:15-20と比較。)その備えを拒絶する人は少なくありません。そのような人は,助けようとしてだれかが近くに救命具を投げてくれたのに,それを押しやる溺れている人に似ています。
コリント第一 15章22節は,最終的にはすべての人が救われることを裏付けていますか。そこにはこう記されています。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである」。(口語)前後の節から分かるように,ここでは復活のことが論じられています。だれが復活させられますか。その死をアダムの罪に帰すことができ(21節参照),しかもヘブライ 10章26-29節に述べられている違犯を個人として意識的に犯さなかったすべての人です。イエスがハデスからよみがえらされた(使徒 2:31)ように,ハデスにいるほかの人もすべて復活によって「生かされる」のです。(啓示 1:18; 20:13)その人たちはすべてとこしえの救いを得るのでしょうか。そうした機会が差し伸べられはしますが,ヨハネ 5章28,29節に示されているように,すべての人がその機会をとらえるわけではありません。その聖句には,ある者たちにとって,不利な「裁き」が最終的な結果となることが示されています。
テトス 2章11節のような聖句についてはどうですか。その聖句は,口語訳の表現によれば,「すべての人を救う」ことに言及しています。ヨハネ12章32節,ローマ 5章18節,テモテ第一 2章3,4節など,他の聖句も,改訂標準訳,欽定訳,口語訳,文語訳,新改訳などでは同様の考えを伝えています。これらの節で「すべて」と訳されているギリシャ語の表現はパースという語の活用形です。バインの新約聖書用語解説辞典(ロンドン,1962年,第1巻,46ページ,英文)に示されているように,パースには,「すべての種類」という意味もあります。ですから,前述の聖句において,「すべての」という語の代わりに,「すべての種類の」という表現を用いることもできるでしょう。または,新世界訳がしているように,「あらゆる」という語を用いることもできます。どちらが正しいでしょうか。「すべての」という表現でしょうか。それとも,「あらゆる」という語が表わす考えでしょうか。では,どちらの訳し方が聖書の残りの部分とも調和していますか。それは後者の訳し方です。使徒 10章34,35節,啓示 7章9,10節,テサロニケ第二 1章9節を考慮してみてください。(注記: マタイ 5章11節のこの語の訳し方から明らかなように,他の翻訳者たちもこのギリシャ語にそうした意味のあることを認めています。この語はそれぞれ次のように訳されています。「すべての種類の」,改標,今英; 「様々の」,口語; 「各様の」,文語; 「あらゆる」,共同。)

ある人々が決して救われないことを明確に示している聖句がありますか

テサロニケ第二 1:9,口語: 「彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて,永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」。(下線は追加。)
啓示 21:8,口語: 「おくびょうな者,信じない者,忌むべき者,人殺し,姦淫を行う者,まじないをする者,偶像を拝む者,すべて偽りを言う者には,火と硫黄の燃えている池が,彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
マタイ 7:13,14,口語: 「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」。



 ファンダメンタルの主張が間違っているらしいということは解りました。そうするとどうでしょうか。聖書においてギリシャ語パースが救いに関して用いられている時のその厳密な意味合いは何なのか、聖書はいったいどういうことを考えてこういったところでパースを多用しているのか、という疑問が生じることになります。

 この疑問について考えるにあたっては、すこし救いに関することから脱線して、聖書に頻繁に見られるギリシャ語パースの大げさな用法を確認する必要があります。幾つかの事例を見てみましょう。



マタイ 8:34

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すると,見よ,市[の人々]がイエスに会おうとして出て来た。そして,[イエス]を見たのち,自分たちの地域から出てくれるようにと切に求めるのであった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。



 ここでは、町に住む人全員がイエスに会おうとしてやってきみたいなことが書かれています。
 それはほんとうでしょうか? まさかそんなことはないでしょう。



マタイ 2:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
これを聞いてヘロデ王は動揺し,エルサレムも共に[動揺した]。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も、同様であった。



 エルサレムに住む人全員が動揺したのでしょうか? まさかそんなことはないでしょう。



マルコ 6:33

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ところが,人々は彼らが行くのを見,また多くの者がこのことを知った。それですべての都市から人々が徒歩でそこに駆けつけ,彼らより先に着いてしまった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。



ルカ 5:17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そうしたある日のことであったが,[イエス]は教えておられ,ガリラヤとユダヤのすべての村およびエルサレムから出て来たパリサイ人や律法の教師たちもそこに座っていた。そして,彼がいやしを行なうようにエホバの力がそこにあった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。



 もれや例外はなかったのでしょうか?



ルカ 3:21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,民がバプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。そして,祈っておられると,天が開け,

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
民衆が洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け



マルコ 1:5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そのため,ユダヤの地とエルサレムの住民が彼のもとに出て来て,自分の罪をあらわに告白しつつヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ユダヤの地方とエルサレムの住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。



 ユダヤ人は全員バプテスマを受けたのでしょうか?



マタイ 25:31

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に[到来する]と,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを従えて来るとき、その栄光の座に着く。



 留守番役はいないのでしょうか?

 これらはパースの誇張法です。このような表現が言いたかったのはおそらくこういうことです。とにかく数が多かったんです、どれくらい多かったかと言えば、全部じゃないかと思うくらいだったんです。

 ギリシャ語パースの誇張法は聖書の読者を罠にはめることがあります。聖書を熱心に読む人が、ギリシャ語パースがしばしば誇張表現であることを考慮しなかったために勘違いをする典型的な例を見てみましょう。



マタイ 12:23

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで,群衆はただあっけにとられ,「もしかしたらこれがダビデの子ではなかろうか」と言いだした。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
群衆は驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。

マルコ 11:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すると,祭司長と書士たちがそれを聞いた。そして,どうしたら彼を滅ぼせるかを探り求めるようになった。彼を恐れていたのである。それは,群衆がみな彼の教えに終始驚き入っていたからである。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆がその教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

ルカ 19:48

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それでも彼らは,なすべきうまい策を見いだせないでいた。民はみな,彼[の語ること]を聞こうとして,ずっと付きまとっていたからである。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
どうすることもできなかった。民衆が、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。



 福音書には「民」とか「群衆」といった表現が大量に出てきます。そういった表現にはしばしばパースが伴います。
 そういった福音書の記述を読み進めるなら、読者はどんな印象を抱くでしょうか。福音書が示している表向きのイメージはこのようなものです。当時のユダヤ人たちは、頑固なパリサイ人や祭司たちといったごく一部の例外を別にすれば、全員がイエスを信じ、支持した。
 そういう印象を持つことは避けがたいことです。そうすると、どうなるでしょうか。



マタイ 27:20-22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,祭司長と年長者たちは,群衆がバラバを求め,イエスのほうを滅ぼさせるように説きつけた。さて,総督は彼らにこたえて言った,「あなた方は,二人のうちどちらを釈放して欲しいのか」。彼らは,「バラバを」と言った。ピラトは言った,「では,キリストと言われるイエスはどうするのか」。彼らは皆,「杭につけろ!」と言った。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、は、「十字架につけろ」と言った。

マタイ 27:25

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すると,民はみな答えて言った,「彼の血はわたしたちとわたしたちの子供とに臨んでもよい」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」



 ユダヤ人たちは一斉に態度を変えてイエスを裏切った、と思うことになります。そしてこうも思います。このような理不尽なことが生じたのはなぜなのだろうか。
 このような疑問に対してもっともと思える説明が行われてきました。このような具合です。ユダヤ人たちは、メシアとはローマに対する反乱を起こして自分たちをローマの圧政から開放する革命家のことであると考えていたので、当然、イエスに対して革命の実施を期待した、ところがイエスはそのようなことに全く関心を持たず民衆の期待を裏切ったので、最初のうちはイエスを熱心に支持していたユダヤ人たちもしだいに彼に失望するようになり、やがて憎むようになった、また、彼を最後まで支持していた者も、イエスに死刑が宣告される段階になると、このままでは支持者である自分にまで命の危険が及ぶことを察して態度を変えざるを得なくなった。

 いかにももっともな説明ですが、間違っているようです。
 このことをよく示している記述が聖書にあります。



使徒 3:13,17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
アブラハムとイサクとヤコブの神,わたしたちの父祖の神は,ご自分の僕イエスに栄光をお与えになりましたが,あなた方としてはこの方を引き渡し,ピラトが釈放しようと決めていたのに,その面前でこの方を否認しました。
さて,兄弟たち,わたしはあなた方が,あなた方の支配者たちもそうであったように,無知によって行動したことを知っています。


使徒 13:27-28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,エルサレムの住民とその支配者たちはこの方を知らず,裁く者として行動した際,預言者たちが言い表わした事柄を成就したからです。それらのことは安息日ごとに朗読されているのです。そして,何ら死[に定める]理由を見いだせなかったにもかかわらず,彼らはこの方の処刑をピラトに要求しました。



◇ 読者からの質問, 「ものみの塔」誌2009年6月15日号

イエスは国じゅうを回って人々に宣べ伝えました。そうであれば,イエスの処刑を求めたユダヤ人とその支配者たちについてペテロが,彼らは「無知によって行動した」と述べたのはどうしてですか。―使行 3:17。

ユダヤ人の中には,イエスとその教えについてただ理解していなかっただけの人もいたことでしょう。しかし,それ以外の人たちの場合は,神を喜ばせたいという願いの欠如,偏見,ねたみ,露骨な憎しみなどが霊的な無知の原因となっていました。
……宗教指導者についてはどうでしょうか。その大半は同様の理由で,イエスにほとんど注意を払いませんでした。
……ほとんどのユダヤ人は何も知らなかったわけではありません。それでも,イエスがメシアであるという点については,基本的に「無知」のままでした。



 誤解を完全に正すには、ギリシャ語パースの限定的な働きが意味しているところを正確に理解することが必要です。
 ギリシャ語パースの用法はほとんどの場合において限定的です。それはこういうことです。たとえば、民衆が皆イエスのことを褒め称えたと記述されているところでは、イエスのことを褒めた人たちのみに過剰な注意が向けられ、それ以外の人たちは完全に無視されているのです。
 イエスのそばにはいつもイエスのことを支持する人たちが集まって群れていました。それがどれほど多い数であったとしても、その周辺には、イエスのことを否認した人たちや、そもそもイエスに関心など持つこともなかった圧倒的多数の人々がいました。彼らに比べればイエスの支持者は少数派だったのです。
 ですから、イエスを支持した民衆とイエスの処刑を求めた民衆とは、基本的に別のグループであるようです。

 このようにしてギリシャ語パースの誇張法の多様な事例を見ていくと、救いに関してパースが用いられているところについても、それは誇張法にすぎないのではないか、という疑念が生じることになります。救いに関するギリシャ語パースの表現が誇張法であるのだとすれば、その表現に厳密な意味はないということになります。
 しかしそれは、この話は筋が通らない、ということにほかなりません。そこで、問題を解決するひとつの考え方として、ギリシャ語パースは多様性を表す表現であろう、ということが唱えられるようになりました。
 聖書の中には、救いに関してパースが用いられていて、かつ、多様性という概念がよく合うという記述が幾つもあります。



使徒 10:35

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
どの国民でも,[神]を恐れ,義を行なう人は[神]に受け入れられるのだということがはっきり分かります。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。

啓示(黙示録) 7:9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、



 このような表現では、ギリシャ語パースは国や民族という要素によって限定されていますから、多様性という語義がよく当てはまります。
 しかし、それはギリシャ語パースが救いに関して用いられている様々な箇所において常に決定的ではないのかもしれません。それは多様性を示唆しているのかもしれませんし、示唆していないのかもしれないのです。

 ではここで、ギリシャ語パースと救いの概念というやっかいな問題をみごとに解決する、しかし極端な文法則を考えてみましょう。それはこのようなものです。聖書における“すべての人が救われる”というような表現は、実際には“救われるすべての人”について述べているにすぎない。
 ようするに、救われる人について言えばその人たちは全員が救われるのだからこのような時のギリシャ語パースは救われる人たちが救われる人たちであるという当たり前のことを述べているにすぎない、という考え方です。
 こういった考え方は可能でしょうか。すこし例えを考えてみましょう。今、私とあなたは一緒に食堂に入ったところです。食堂にはたくさんの人がいて食事をしたりあるいは雑談をしたりしています。私が見ると、その中の何人かはお茶を飲んでいました。そこで私はこう言います。おやまあ全員がお茶を飲んでますね。あなたは驚いて、そんなことはないでしょう、と言います。しかし私はこう言い返します。お茶を飲んでいる人に限って言えば、その人は間違いなく全員がお茶を飲んでいるのだから、全員がお茶を飲んでいると言ったとしても間違いはないはずだ。さて、あなたはこんなことを言う私のことをどう思うでしょうか?
 ここでのポイントは、すべてという表現を限定する適切な表現が存在するかしないかということです。適切な限定がないなら、訳のわからないことになります。そのせいで、私は友人から精神状態を疑われることになってしまいました。
 こうして考えてみると、聖書に見られる「すべての人が救われる」という表現の問題とは、そこに適切な限定がないという問題にほかならないということを理解できます。このような時のギリシャ語パースは、実質的に救われる人たちについて述べているにすぎないのです。

 適切な限定という要素についてさらに深く考えてみましょう。適切な限定がないというようなことは生じうることなのでしょうか。



ルカ 14:11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
だれでも自分を高める者は低くされ,自分を低くする者は高められるのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ルカ 19:26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
『あなた方に言うが,すべて持っている者にはさらに与えられ,一方,持っていない者からは,その持っているものまで取り上げられるのだ。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。



 これらの記述はギリシャ語パースの排他的表現です。これらをよく見ると、ギリシャ語パースが繰り返されているわけでないということに気づかされます。この場合、日本語の訳文においてもギリシャ語原文においても、パースの繰り返しは必要でないようです。ようするに、表現がくどくならないように省略することが行われているということです。
 では、これをさらに省略することについて考えてみましょう。後半部分を省略してしまった場合、どういうことになるでしょうか。そのようなことをすると、文意の明瞭さに欠けることになりますが、表現が不自然になるということはないようです。ではさらに、パースを限定している条件の部分も省略してみましょう。どうなるでしょうか。
 このような文になります。「すべての者が低くされるのです」。「すべての者に与えられるのだ」。これでは文意が変わってしまい、不自然になります。
 ここから何が考えられるでしょうか。聖書に見られるような、救いについての適切な限定を持たない表現は、本来あるべき適切な限定が常識の限度を越えて省略された、極端な表現であるかもしれないということです。かなり無理があるように思えますが、全くあり得ないということではありません。



ヨハネ 12:32

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしわたしは,自分が地から挙げられたなら,あらゆる人をわたしのもとに引き寄せます」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

ヨハネ 6:44

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。そしてわたしは,終わりの日にその人を復活させるのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。



 救いに関してギリシャ語パースが使用される例はたくさんありますが、これらを関連聖句と比べる限り、適切な限定がない表現は適切な限定が強引に省略された表現であると考えざるを得ないようです。その限定は多様性を示唆するものであるかもしれませんし、そうでないのかもしれません。

 ギリシャ語パースの用法において極端な省略が生じるのはなぜでしょうか。いろいろな理由が考えられます。これをすこし見てみましょう。

 ギリシャ語パースは基本的に形容詞ですが、その用法には形容詞的用法と述語的用法があります。この両者の区別は曖昧で、多くの箇所でどちらにも読めるという問題を抱えています。



テモテ第二 3:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。



 テモテ第二 3:16の場合、パースを述語的に読むと、その意味は「すべての聖書は」という意味になります。この時代、神の霊感を受けたとされる聖書は2種類ありました。ヘブライ語正典とそのギリシャ語セプトゥアギンタ訳(七十人訳)です。この表現はその両者について語っている可能性があります。あるいは、聖書を構成する個々の書のそれぞれが「聖書」であるという捉え方をしたうえで、それを集合的に扱っているという可能性もあります。ところがこれを形容詞的に読むと、その意味は「聖書全体は」という意味になります。何が違うでしょうか。聖書を一冊の本と捉えたうえで、そのすべてに注目しています。つまり、ギリシャ語パースの形容詞的表現は対象となるものについて述べているにすぎないということになります。パースの形容詞的表現においてその対象はパースを限定する役割を果たし、結果的に他の限定を排除します。これは、ギリシャ語パースの表現においては適切な限定が消失しやすいという可能性を示唆しているようです。

 さらに、パースには代名詞的用法があります。



マルコ 12:44

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らはみな自分の余っている中から入れましたが,彼女は,その乏しい中から,自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れたからです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

ルカ 14:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ところが,彼らはみな一様に言い訳をして断わり始めました。最初の者は彼に言いました,『わたしは畑を買ったので,出かけて行ってそれを見てこなければなりません。お願いします,お断わりさせてください』。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すると、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。



 代名詞的に用いられるパースは、その限定を文から文脈に移動させます。それは、語り手もしくは書き手の集中力が欠けたようなときに適切な限定が消失することを意味しているかもしれません。

 また、ギリシャ語パースには非限定の用法があります。これにはもとから限定というものがありません。



エフェソス 4:15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そうです,わたしたちは真理を語りつつ,愛により,すべての事において,頭であるキリストを目ざして成長してゆきましょう。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

ローマ 11:36

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すべてのものは[神]から,また[神]により,そして[神]のためにあるからです。[神]に栄光が永久にありますように。アーメン。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。



 それに加えて、すでに挙げたような誇張法があります。誇張法では適切な限定などというものは邪魔になるようです。

 しかし、これらの多様な要因よりも重要なのは手間ということではないでしょうか。文を成り立たせるために何かくどくどと述べるべきところがあるとしても、それが面倒なら省いてしまおうと人は考えるものです。

 この、面倒だから省略してしまう、ということをさらに考えてみましょう。次のような表現はどうでしょうか。



ヨハネ 3:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ 6:40

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ヨハネ 11:26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」



 これらは適切な限定が存在する例です。しかし、その限定はほんとうに適切でしょうか?
 もしこの限定がほんとうに適切な限定であるとしたら、どういうことになるでしょうか。つまるところ、イエスを信じさえすれば人は必ず救われるのだという意味になってしまいます。それは、キリストを信じてさえいれば、その人が淫行や盗みといった大きな罪を犯し、そのうえ神をのろったとしても、その人が救われることに全く疑いはないということです。

 しかし、関連している聖句を調べてみると、そうだとは言えないということが解ります。



ローマ 10:9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。

使徒 2:31

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。

ペテロ第一 3:21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。



 イエスを信じるだけでは不十分であるようです。信じたうえで、そのことを宣言し、さらに自分の罪を改め、バプテスマを受けて、神に対して正しい良心を求めなければならないようです。
 そのうえ、キリスト教の教えを守り続けなければなりません。



ヤコブ 2:14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか。



 キリストに信仰を働かせる人が皆救われるということは実際にはあり得ないにもかかわらず、そういうことがあるような表現が使われています。
 救われるために必要な条件ということを厳密に考えると、ほかにもいろいろと言わなければならないことがでてきます。しかし、救いに関する話をする度にそれを全部くどくどと述べるのは現実的ではないので、説明の手間を、極限まで省略もしくは簡略化するということが行われているようです。
 成立期のキリスト教において、そしてその書物である聖書において、救われる条件ということは日常的に省略されていたようです。そうすると、初期キリスト教徒たちはだんだんそういった表現に慣れ、しまいには条件そのものを省いてしまっても違和感を感じない状態になっていたのかもしれません。

 一方、現代のファンダメンタルの教会には、このような省略ということをあまり深く考えないところがあるようです。
 もしかするとあなたはこのような経験をしたかもしれません。キリスト教徒の友人に誘われてはじめて教会に行きます。すると教会の牧師からさっそく洗礼を受けるように勧められました。牧師はこう言います。聖書によると、人は救われるために三つのことを行わなければなりません。イエスを信じること、信じていることを告白すること、そして洗礼を受けることです。この三つを行えば、人は必ず救われると聖書は保証しているのです。そして、それは全く難しいことではありません。すぐにできます。あなたは困惑します。急にそんなことを聞かされても心の準備などできませんし、それに、そんな簡単なことで人は救われるのだろうかと疑問に思います。すると牧師はビデオを持ってきてあなたに見せてくれました。そのビデオはイエスを信じて救われた人がたくさんいることを紹介するビデオで、このように言います。あなたもこれらの救われた人たちの一人になることができるのです。必要なのは、ただイエスを信じることだけです! あなたがイエスを信じ、そのことを告白するなら、その瞬間、あなたは絶対的に、そして永遠に救われるのです。ですから、あなたは救われることをためらってはなりません。

 もちろん、聖書において救われる条件ということが省略されて語られるのは、その条件が現実に省略できるからではありません。言葉において省略されたことは読み手によって復元されなければなりません。適切に復元された諸条件を満たさなければ人が救われるということにはならないでしょう。

 そうすると、救いに関する深刻な疑問が生じます。人が救われるための条件というのは、厳密にはどのようなものなのでしょうか。もしこれがはっきりとしないとするなら、救われることを希望する人たちにとっては大問題です。
 これまで、個人として、あるいは少数のグループとして、このような課題に取り組んだ人は大勢いたようです。しかし、そういった努力が表だって実を結ぶということはほとんどなかったように思います。しかし、19世紀の後半に合理主義と実践主義を掲げたエホバの証人という教派が現れると状況は大きく変わることになります。聖書の地道な研究を通して彼らは救われるための条件とはどのようなものであるかを組織的に解読していきました。そしてその研究の成果は信仰の実践という形で表に現れ、既成のキリスト教諸教会を困惑させることになります。



○ エホバの証人に特徴的な思想

合理主義
現実主義
実践主義
実証主義



 エホバの証人の努力により、救われるための条件についてどのようなことが判明したでしょうか。
 たとえば次の聖句を見てください。



マタイ 24:13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。



 ここから、ファンダメンタルが唱えるような、キリストを信じさえすれば救われるのだという考え方は甘い、ということが解ります。

 では、終わりまで耐え忍ぶということにはどういうことが含まれているでしょうか。このように質問を述べてより具体的に推論を推し進めるのがエホバの証人のやり方です。



ヘブライ 3:14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
初めに抱いた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて,わたしたちは本当にキリストにあずかる者となるのです。

ペテロ第二 2:20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
確かに,主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れた後,再びその同じ事柄に巻き込まれて打ち負かされるなら,その人たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。

ヘブライ 10:26-27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがあるからです。



 キリストを信じる人たちの中には、罪を習わしにし、世の汚れに染まっている人たちがいますが、そういう人は救われないようです。
 そうすると今度は、ここで言う罪や世の汚れとはいったい何か、ということを考えなければなりません。そもそもそういうことを知らなければ、それを避けることもできないからです。



ヨハネ 17:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。

テモテ第一 2:4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
[神]のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。

ルカ 11:52

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「律法に通じたあなた方は災いです! あなた方は知識のかぎを取り去ったからです。あなた方自身が入らず,また,入ろうとする者たちをも妨げたのです」。

ローマ 1:28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって神を奉ずることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不適当な事柄を行なうにまかされました。



 聖書自身が、そのような知識がなければ人は救われないと述べています。
 しかし知識というものは抽象的かつ包括的なものですから、正確な知識がなければ人は救われないと聖書が述べたところで、その知識とは具体的に何かということが考えられなければなりません。そこで、それを実際に考え、救われるために必要な知識のリストをまとめよう、というのがエホバの証人の考え方です。

 実際にそのような研究を行うと、知識に関するリストだけでもかなりの量になりそうです。救われるための条件の全体像となると、もっと膨大なものとなるでしょう。なかなかやっかいなことです。

 エホバの証人がそのようなことを考えて聖書を綿密に研究し、ある程度まとまった結論をだしてそれを実践するようになると、キリスト教の諸教会はその方法論に激しく抵抗しました。批判と言うにとどまらない激しい非難の言葉を浴びせ、エホバの証人のことを異常者呼ばわりしたのです。

 諸教会はなぜそこまで過激な反応を示したのでしょうか。一言で言うなら、そうしなければ我が身が危なかったからです。
 キリスト教諸教会はどこか頭がおかしいのではないか、という疑問が暗に提出されていたのです。キリスト教諸教会は一般的に、救われるための条件ということを深く考えてきませんでした。しまいにはファンダメンタリストのような極端な考え方に没頭する人たちまで現れる始末です。しかし、すこし冷静になって考えると、これはかなり異常なことです。キリスト教に限らず宗教というものは救いを説くものなのですから、人はどうすれば救われるのかという命題に教会が真剣に取り組むのは当然ではないでしょうか。ところがそれが行われてこなかったのです。そこが問題です。
 しかし、もしこれまで諸教会がこの命題に真剣に向かい合わなかったことこそが正常であり立派なことであるとすれば、異常なのはエホバの証人のほうであるということになり、この件についての問題はみごとに解決されるのではないでしょうか。そこで、諸教会はわざわざ、労を惜しまず、手間暇を尋常でないほどかけて、エホバの証人を非難することに取りかかりました。そして、そうするにあたって諸教会が白羽の矢を立てたのが、エホバの証人問題の専門家を自称するファンダメンタル教会の牧師たちでした。結局のところ、諸教会としてはファンダメンタルに頼るよりほかなかったのです。

 彼らは自分自身が宗教問題の発生源であるにもかかわらず、そのようなことはあっさり棚に上げ、にわかに宗教問題の専門家に大変身すると、いかにももっともらしくエホバの証人の宗教問題について解説を述べました。
 「エホバの証人はみな、教団によって押しつけられた極端な戒律にしばられたたいへん窮屈な生活を送っています。何と、そのような戒律は3,000もあるのです。彼らは毎日、何をするにしてもいつも、今自分のやっていることが教団の作った規則に従うことであろうかということを確認しなければなりません。しかも彼らは、教団が作った戒律をよく守らなければ自分は救われないと思いこまされています。そんな彼らには心の平安というものがありません。証人たちの心の中で、自分は何かの規則を破ってしまって救いを得られないのではないかという不安が増幅して恐怖となり、こうして彼らはみな教団の奴隷状態になっています。いまや証人たちの顔からは笑顔が消え、みんな死んだような目をしているではありませんか。エホバの証人社会は鬱の発生率が極端に高く、自殺者も後を絶ちません。そんな彼らを救うために、いまこそキリスト教諸教会は一致結束して立ち上がるべきなのです。鍵となるのは、彼らへの愛と聖書の教えです。さあみなさん、エホバの証人の救いのために一緒に祈りましょう。そして、彼らの目が開かれてキリストへ導かれるように、エホバの証人に真理の御言葉を語りかけてまいりましょう。」

 いかにもファンダメンタルらしい内容です。大げさすぎますし、その大げさなところを差し引くと聖書を否定する内容だけが残ります。



マタイ 7:13-14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。

ローマ 11:22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあります。一方あなたに対しては神のご親切があります。ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。

ローマ 6:22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので,神聖さの面で自分の実を得ており,その終わりは永遠の命です。



 自身の都合にあわせ、聖書に忠実であるふりをしながら聖書の教えを臆面なく否定する、というのがファンダメンタルの得意とする手法です。
 聖書は、救われるためには窮屈な生活が必要だと述べていますし、救いを得られないことについては恐れを抱くべきだと述べていますし、キリスト教徒は神の奴隷になるべきだとも述べています。ファンダメンタルのお得意とする詐欺的な話術によって、そういった聖書の救いの教えがみごとに否定されています。
 では、ファンダメンタルによって提出された、エホバの証人を否定するにあたってのこのような過激なやり方に対して、諸教会はどう反応したでしょうか。これはあまりにひどい、とか、何を言うにも限度というものがある、とか否定的なことを言ったでしょうか。あるいは、やはりファンダメンタル教会のやることは我々のやることとはひと味もふた味も違う、などといやみの言葉でも述べたでしょうか。そうではありませんでした。むしろ諸教会はこれを喜んで受け入れたのです。

 やがて、これらの専門家たちは、エホバの証人の救出活動を行って獲得した改宗者たちの手記を公表するようになりました。
 「私は組織に忠実なエホバの証人でした。ものみの塔こそが真の宗教であると信じ、疑うことなく組織の命令に従う組織の奴隷となっていました。その忠実で思慮深い奴隷たちが教えをころころと変更しその度にこれは新しい光であると述べることについても、何ら疑問を持つことはありませんでした。そんな私は、組織が作った何千もの戒律を守るための生活に追われ、心のゆとりもなく、こうして完全にキリストの救いを見失っていたのです。そんなあるとき、組織が大いなるバビロンと呼びサタン視する伝統教会の信徒たちがみな幸福そうにしているのを見て、疑問に思ったのです。聖書の教えを守っているからいつも幸福であるとされる自分たちが、彼らと違ってこんなにも不幸に見えるのはなぜだろうか、と思いました。疑問を感じることは組織から禁止されていましたから、そう思った時私は怖くなりました。しかし私は疑問を振り捨てることができず、答えを求めて一人で苦悩し、ついにそれまで開いたことのなかった聖書を自分の手で開いておそるおそる読み始めるようになりました。そして、聖書に忠実であると称されるこの組織の教えることが聖書の教えとは全く異なっているということに気づかされたのです。幸運なことに、そのようなときに出会うことができたのが、エホバの証人の救出を専門とする伝統教会の牧師でした。牧師様は、真理に対して心を閉ざそうとする私に辛抱強く接し、聖書を巧みに使いながら思いやり深く語りかけてくださいました。やがて、私の心はキリストに対して開かれ、私の顔には笑顔が戻るようになりました。もはや私は組織の奴隷ではなくなったのです。残念なことに、エホバの証人をやめた今でも時折、昔のように不安に襲われることがあります。あれをしなければならない、これをしてはならない、という規則集を守っていないせいで自分は救われないのではないかという考えが頭をよぎるのです。そのようなとき、私は聖書を読みます。そして教会で牧師と共にイエス様に祈りを捧げます。そうするとキリストが私の助けとなってくださり、私の心には平安が戻ります。いまでは私はエホバの証人ではなくキリストの証人です。神は確かに私を救ってくださいました。」
 すると諸教会はみなその内容にいたく感激し、エホバの証人問題の専門家にしきりに同調して、人によっては涙を流しながら、わざとらしくも「エホバの証人はなんてかわいそうな人たちなんだ」というような台詞を繰り返して述べるようになりました。

 執拗にかわいそうだと言われ続けることになったエホバの証人の側から見れば、これはキリスト教世界によるある種の自殺にほかならないように見えました。



ヨハネ 3:19-21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,裁きの根拠はこれです。すなわち,光が世に来ているのに,人々が光よりむしろ闇を愛したことです。その業が邪悪であったからです。いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします」。

ルカ 11:34-35

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
体のともしびはあなたの目です。あなたの目が純一なときには,あなたのからだ全体もまた明るくなります。しかし,それがよこしまなときには,あなたの体もまた暗くなります。それゆえ,用心していなさい。もしかすると,あなたのうちにある光は闇であるかもしれません。

ヨハネ 9:41

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは彼らに言われた,「あなた方が盲目であったなら,あなた方には罪がなかったでしょう。しかしあなた方は今,『わたしたちは見える』と言います。あなた方の罪は残るのです」。



 一方で、エホバの証人はキリスト教諸教会からの改宗者を得るようになりました。それは、救いということについて真剣に考える人たちでした。
 これらの人たちは、救われるための条件について述べた聖書の次の言葉を考慮しました。



ヘブライ 3:7-8, 12-13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,聖霊が述べるとおりです。「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように,荒野で試した日のように心をかたくなにしてはならない。
兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい。むしろ,「今日」ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,[人を]欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい。



 ここで聖書は、ハルマゲドンのことを「今日」と述べています。人は、ハルマゲドンの時になると、心をかたくなにするのではなく柔和にして、救われるための行動を起こさなければなりません。しかし、ハルマゲドンが来た時点でそのような努力を始めてもこれはまず間に合いませんし、それに加えてハルマゲドンがいつ来るかもわかりません。それはもしかすると今日かもしれないし、明日かもしれません。そこで聖書は、ハルマゲドンという意味での「今日」ではなく文字通りの「今日」、行動を起こすように求めています。人は、救われるための条件はこうですということを聞いたとき、では明日からやります、とか、とりあえず検討します、と答えてはだめだということです。救いの条件には、あれをしなさい、これをしてはいけません、ということだけでなく、すぐ実行しなさいということも含まれているのです。
 そうすると、救われることを真剣に考える人は急いで事を行わなければならないということになります。しかしそうするにあたって自分の教会は全く助けになりませんので、その人は自身の救いを達成する努力をしっかりサポートしてくれる教会を捜すことになります。しかしそのような教会はエホバの証人しか見あたりませんので、その人は内心でこれはなんということだとぼやきながら、必然的にエホバの証人に改宗することになります。

 さらに、信者個人としてではなく教会として救われるための条件というものもあります。



マタイ 7:16-20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうに,あなた方はその実によってそれら[の人々]を見分けるのです。

ヨハネ 15:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です。[父]は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。

ローマ 11:17-24

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしながら,枝のうちのあるものが折り取られ,他方あなたが,野生のオリーブでありながらその[枝]に交じって接ぎ木され,そのオリーブの肥えた根にあずかる者となっていても,それらの枝に対して勝ち誇ってはなりません。しかし,たとえそれらに対して勝ち誇るとしても,あなたが根を支えているのではなく,根があなたを[支えている]のです。ここであなたは言うでしょう,「わたしが接ぎ木されるために枝は折り取られたのだ」と。そのとおりです! 彼らは信仰の欠如のゆえに折り取られ,一方あなたは信仰によって立っているのです。高ぶった考えを抱かず,むしろ恐れの気持ちでいなさい。神が本来の枝を惜しまなかったのであれば,あなたを惜しまれることもないからです。それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあります。一方あなたに対しては神のご親切があります。ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。また彼らも,信仰の欠如のうちにとどまっていなければ,接ぎ木されることになるのです。神は彼らを再び接ぎ木することができるからです。というのは,あなたが本来野生のオリーブの木から切り取られ,自然に反して園のオリーブの木に接ぎ木されたのであれば,まして,本来それに属するこれらのものは自らのオリーブの木に接ぎ木されるはずだからです。

マタイ 25:29

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すべて持っている者にはさらに与えられ,その者は満ちあふれるようになるのである。しかし,持っていない者は,その持っているものまで取り上げられるのである。



 救われる教会には確実に救われるための仕組みがあります。信者としての質の低い者をその教会から追放し、周辺の教会から見込みのある信者を引き抜いてくるという仕組みです。結果的にその教会の質は向上し、周辺の教会の質は低下します。
 こういった新陳代謝を活発に行っている教会はやはりエホバの証人しかありません。そこで、救われるための条件ということを真剣に考える人にとって、今自分が属している教会を離れてエホバの証人となることはますます必然的であるということになります。

 さて、この文書を読んでいる方の中には一般の教会に通う信徒の方もおられると思います。あなたはこう思うかもしれません。エホバの証人が救われるための条件ということの研究を行ってその成果を上げているのであれば、ぜひともその内容を知っておきたいものだ。
 そのような人のために、エホバの証人の法人団体であるものみの塔聖書冊子協会から「永遠の命に導く知識」という本と「自分を神の愛のうちに保ちなさい」という本が出版されています。1冊目は救われるために必要な知識を、2冊目は行動を主に扱っています。この2冊の本に代わるものはほかにないようです。
 この本は、救われるための条件として聖書が示している事柄をとても親切な言葉遣いで教えてくれます。たとえばこのようなことが書かれています。



◇ 「自分を神の愛のうちに保ちなさい」, ものみの塔聖書冊子協会 (抜粋)

悪態や冒とくなどの卑わいな言葉は,今の世の中では日常的に使われています。多くの人は,言いたいことを強調するためや語彙の不足を補うために,汚い言葉を随所に挟みます。コメディアンはしばしば,性に関する下品な言葉で人を笑わせます。しかし,卑わいな言葉は笑い事などではありません。2,000年ほど前に,霊感を受けた使徒パウロは,「卑わいなことば」を捨て去るようにとコロサイの会衆に助言しました。(コロサイ 3:8)エフェソスの会衆にあてた手紙の中でも,「卑わいな冗談」を,真のクリスチャンの間では『口に上ることさえあってはならない』事柄に含めています。―エフェソス 5:3,4。
卑わいな言葉はエホバにとって不快なものです。エホバを愛する人にとっても不快です。わたしたちはエホバへの愛ゆえに,卑わいな言葉を退けます。パウロは「肉の業」の一つとして「汚れ」を挙げており,それには不潔な言葉も含まれます。(ガラテア 5:19-21)事は重大です。繰り返し助言されても悔い改めず,甚だしく不道徳で下劣な腐敗した事柄を示唆あるいは助長する言葉を習慣的に使う人は,会衆から排斥されかねないのです。
エホバは,言葉という賜物を用いて他の人の名誉を傷つけたり分裂を生じさせたりする人を大目に見ることはなさいません。「兄弟の間に口論を」生じさせる者を憎まれます。(箴言 6:16-19)「中傷する者」と訳されるギリシャ語ディアボロスは,サタンの呼び名としても使われています。サタンは「悪魔」であり,神を中傷するよこしまな者です。(啓示 12:9,10)わたしたちは,語る事柄によって“悪魔”になってしまうことは何としても避けたいと思います。「口論」や「分裂」といった肉の業を引き起こす中傷的な話が会衆内に占める場はありません。(ガラテア 5:19-21)
聖書は,クリスチャン家庭や会衆に絶対にあってはならない種類の言葉について警告しています。パウロはクリスチャンにこう訓戒しています。「すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを……あなた方から除き去りなさい」。(エフェソス 4:31)「ののしりのことば」という部分は別の翻訳では,「よこしまな言葉」,「有害な言葉」,「侮辱的な言葉」などと訳されています。ののしりのことばには,下劣な悪口や痛烈な批判も含まれます。
聖書は,極めて強い言い方で,ののしりを非としています。ののしりとは,侮辱的な,軽蔑的な,あるいは口汚い言葉で人をけなすことです。習慣的にそのような話し方をする人は,自分を危険な立場に置くことになります。ののしる人は,改善するよう幾度も援助を与えられてもこたえ応じないなら,会衆から除かれかねないのです。改めないなら,王国の祝福も得られないかもしれません。(コリント第一 5:11-13; 6:9,10)ですから,不健全,不真実,不親切な言葉を使う習慣のある人は,神の愛のうちにとどまることは決してできません。



 この本には多くの美点があります。命令がましく「あれをしなさい」、「これをしてはなりません」と述べる代わりに、「神を愛し、神の愛のうちにとどまりましょう」と述べるスタイルを採用して、読者をやさしく励ましています。また、救われる条件を聖書から示すだけではなく、その言葉の意味を丁寧に説明し、さらにはヒントの言葉を述べて、読者がその具体的な実践を心がけることができるよう助けています。親切であっても、救いに関する聖書の基準を緩めたりせず、その教えを守らない信者にはどのような制裁があるかをはっきりと述べています。いま、同じような内容の本がどこに見つかるでしょうか。

 もちろん、あなたがこの本に書かれていることを実践するにあたってはしかるべき覚悟が必要です。エホバの証人が聖書によって示す救われるための条件はたいへん厳しいもので、あなたの生活をきつく縛るものだからです。しかも、その範囲は広く、上に挙げたような日常会話から始まって果ては夫婦の寝床に至るまで、プライベートのあらゆる領域に及びます。これにはつらいところがあるのではないでしょうか。
 宗教学者や宗教問題の専門家たちは、そしてキリスト教の諸教会は、このような教えを説くエホバの証人はカルトである、と述べています。教団が信者の私生活に過度に干渉し、拘束しているからです。しかも、教えに従わない者には除名処分を執行し、毎年、信者の1パーセントを除名しています。これは、教団が聖書の教えを巧みに利用して信者を脅迫し隷従させているということではないでしょうか。そうすると、この本の教えることを実践するあなたはカルト教団に洗脳されたカルト信者だということになります。これはなかなか不名誉なことではないでしょうか。



テモテ第二 4:3-5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
人々が健全な教えに堪えられなくなり,自分たちの欲望にしたがって,耳をくすぐるような話をしてもらうため,自分たちのために教え手を寄せ集める時期が来るからです。彼らは耳を真理から背け,一方では作り話にそれて行くでしょう。しかし,あなたはすべての事に冷静さを保ち,苦しみを忍び,福音宣明者の業をなし,自分の奉仕の務めを十分に果たしなさい。

ヘブライ 13:6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ですから,わたしたちは勇気を持って,「エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人がわたしに何をなしえよう」と言います。

ゼパニヤ 2:1-3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
集い寄れ,そうだ,集合せよ,恥辱にも青ざめることのない国民よ。法令が[何も]産み出さないうち,[その]日がもみがらのように過ぎ去ら[ないうち],エホバの燃える怒りがあなた方に臨まないうち,エホバの怒りの日があなた方に臨まないうちに,地の柔和な者たち,[神]の司法上の定めを守り行なってきたすべての者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ。恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう。

ヘブライ 10:35-39

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえあなた方は,はばかりのないことば[で語る態度]を捨ててはなりません。それには当然与えられる大きな報いがあります。あなた方には忍耐が必要なのです。それは,神のご意志を行なった後,約束[の成就]にあずかるためです。あと「ほんのしばらく」すれば,「来たらんとする者は到来し,遅れることはない」のです。「しかし,わたしの義人は信仰のゆえに生きる」,そして,「もししりごみするなら,わたしの魂はその者を喜ばない」とあります。しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者です。



 聖書によると、キリスト教の諸教会はやがて聖書の健全な教えに耐えられなくなり、特にハルマゲドンの直前の時期になると、その教えに忠実に従う教会を攻撃して恥を被らせるまでになります。救われるためにはこの屈辱に耐え抜いてエホバの名を呼び求める者となる勇気と覚悟が必要です。しりごみしていてはいけません。

 さて、聖書におけるギリシャ語パースの用法について考える際に見過ごせない要素に、例外の存在があります。聖書には「一部の例外を除けば」という意味で用いられるパースが大量にあります。これを見てみましょう。
 このような用例の代表となるがコリント第一 15:27-28です。



コリント第一 15:27-28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
[神]は「すべてのものを彼の足の下に服させた」からです。しかし,『すべてのものが服させられた』と言うとき,すべてのものを彼に服させた方が含まれていないのは明白です。しかし,すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。



 「すべてのものを彼の足の下に服させた」もしくは「すべてのものが服させられた」となっているところで用いられているパースは、文法上は非限定のパースです。非限定のパースには「例外がない」という表向きのニュアンスがあります。そこで、聖書の読者は神学上の問題にぶつかることになります。それは、神がイエスにすべてのものを服させたと言うとき、その「すべて」には神自身も含まれているのだろうか、という問題です。
 聖書は自らその問いに答えています。この場合、「すべて」に神は含まれていないというのが正しい答えです。
 聖書はさらに説明を加えています。これはわかりやすく言うとこういうことです。神はイエスにすべてのものを服させたが、そのイエスが神に服するので、結局すべてのものは神に服したことになるのだ。

 例外を除外するパースの用法の多くにおいて鍵となるのは着眼点です。パースはその着眼点に対して相対的な役割を果たします。例えば、注目されるある人がいて、それに対して「その他大勢」とか「残り全員」という具合です。
 聖書の翻訳においては、パースのこのようなニュアンスがそのまま訳出されることがあります。そう訳すほうが訳文の意味合いがより厳密になるようです。



マタイ 26:33

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしペテロは答えて言った,「ほかのみんながあなたに関してつまずいても,わたしは決してつまずきません!」

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。

コリント第二 9:13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼らはこの奉仕の務めが実証するものによって神の栄光をたたえます。つまり,あなた方が,自ら公に言明するとおり,キリストに関する良いたよりに柔順であり,また彼ら,そしてすべての者に対する寄付において寛大であるからです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。

フィリピ 2:20-21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方のことを真に気づかう,彼のような気持ちの者は,わたしにとってほかにいないのです。ほかの者はみな自分の益を求め,キリスト・イエスの益を[求めて]いません。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。



 新世界訳聖書には、例外を除外するパースの用法の厳密な訳出を行ったためにキリスト教諸教会から非難を受けているという聖句が幾つかあります。その代表例となるのがコロサイ 1:16-17です。



コロサイ 1:16-17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。



 ここで用いられているギリシャ語パースは神の子イエスを主眼としています。そこでまず、このパースはイエスを例外として除外するパースであると言うことができます。さらに、神学上の課題についても考えることが必要です。イエスがイエス以外のすべてのものを創造したというのであれば、その「すべて」に神は含まれるのでしょうか。含まれない、というのが答えになります。そうすると、新世界訳聖書の訳文における「[他の]」という訳語には「神エホバと御子イエス以外の」という厳密な意味合いがあることが理解できます。

 キリスト教諸教会は、この聖句の場合、ギリシャ語パースに「[他の]」という訳語をつけることで、訳文に重大な欠陥が生じると主張しています。どのような違いが生じるのでしょうか。



○ コロサイ 1:16-17についてのファンダメンタルな主張

この聖句はキリストが創造者であることを示している。
しかし、新世界訳聖書がしたようにここに「他の」という訳語を加えると、キリストは「すべて」の側に含まれるということになり、結局のところキリストは創造者ではなく被造物である、という意味になってしまう。



 このような主張が行われていますが、的はずれです。



◇ 「ものみの塔」誌1988年6月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

全能の神は天においてみ子を直接に創造してから,ちょうど熟練した職人が自分の代わりに,訓練を受けた徒弟に仕事を行なわせるように,「彼によって」,あるいは「彼を通して」他のものを創造されました。それら「彼によって」創造されたものにイエス自身は含まれていませんでした。神はすでに彼を創造しておられたからです。それで彼は「初子」,「独り子」と呼ばれています。



 さて、これまで、聖書におけるギリシャ語パースの多様な訳出を見てきましたが、特に例外を除外するパースの訳出には神学上の深刻な問題があるようです。

 新世界訳聖書を見ていても、例外を除外する用法でありながら「ほかの」という訳語がつかない例が多くあります。たとえば、先ほど紹介したような、キリストと創造者にかかわる聖句においても、「ほかの」という訳語がつかない例が幾つもあります。



ヨハネ 1:3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになったものは一つもない。

コリント第一 8:6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです。また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあり,わたしたちもこの方を通してあるのです。



 他の聖書翻訳にも同じような問題がありますが、その傾向は異なります。つまり、どこで「ほかの」という訳語が挿入されるかという点が翻訳ごとにバラバラなのです。どうしてこのようなことが生じるのでしょうか。どのパースに「ほかの」の訳語を充てるべきかということについて、きちんとしたルールというものが存在しないからです。翻訳者が気まぐれに判断しているのというが実情です。

 さらに、新世界訳聖書においては、角括弧を用いて「[ほかの]」と訳出する場合と、用いずに「ほかの」と訳出する場合が見られます。



使徒 10:36

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
[神]はイスラエルの子らにみ言葉を送って,イエス・キリストによる平和の良いたよりを宣明されました。この[イエス・キリスト]は[ほかの]すべての者の主なのです。

ローマ 8:32

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのためにこれを引き渡してくださったその方が,どうしてそのご親切によって,[み子]と共にほかのすべてのものをも与えてくださらないことがあるでしょうか。



 これがどうしてなのかは、論点がそれてしまうのでとりあえず後回しにします。

 さらに、「ほかの」という語は、ギリシャ語パースが使用されていないところでも、訳文の意味を厳密に、あるいはわかりやすくするために使用されています。



コリント第一 9:23

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしは良いたよりのためにすべての事をするのです。それを[他の人々]と分かち合う者となるためです。



 さらに、聖書自身が「ほかの」、あるいはその同義語や類語を用いています。



コリント第一 9:27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
むしろ,自分の体を打ちたたき,奴隷として引いて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が何かのことで非とされるようなことにならないためです。



 そうすると、どういう問題が生じるでしょうか。翻訳された聖書を読む人には、聖書が「ほかの」という表現をどこでどのように用いているかが全くわかりません。それは、聖書が「ほかの」という概念にどのような神学的意味合いを持たせているかということについての理解の妨げとなります。

 それにしても、新世界訳聖書において、「ほかの」という訳語に角括弧がついている場合とついていない場合があるのはどうしてなのでしょうか。この文書の本論へと話を進める前に、この点を済ませておきましょう。

 これがどうしてなのかを知るには、英文新世界訳聖書に注目する必要があるようです。



コロサイ 1:16-17

◇ 英文新世界訳聖書 (NW/NWT) [1950年版] ◇ (エホバの証人)
because by means of him all other things were created in the heavens and upon the earth, the things visible and the things invisible, no matter whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All other things have been created through him and for him. Also, he is before all other things and by means of him all other things were made to exist,

◇ 英文新世界訳聖書 (NW/NWT) [1984年版] ◇ (エホバの証人)
because by means of him all [other] things were created in the heavens and upon the earth, the things visible and the things invisible, no matter whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All [other] things have been created through him and for him. Also, he is before all [other] things and by means of him all [other] things were made to exist,



 英文新世界訳の初版は現在の版とどう異なっているでしょうか。角括弧が使用されていません。新世界訳聖書に見られる角括弧は後の改訳の際に付け加えられたものです。
 では、角括弧はどのようないきさつがあって加えられたのでしょうか。

 エホバの証人の歴史を通して、カトリック教会をはじめとする伝統的諸教会は、エホバの証人という宗教はキリスト教における異端であり、その逸脱は甚だしいのでそれをキリスト教と呼ぶことさえできない、という見方を一貫して固持してきました。そのような“偽キリスト教”が“独自の聖書翻訳”である新世界訳聖書を発行したことは、諸教会にとってたいへんゆゆしいことでした。これら諸教会は、エホバの証人とその新世界訳聖書に対してごうごうたる非難の声を上げて、これはとんでもない失敗聖書翻訳である、というようなことを言わないわけにはいかないという心理状態にあったのです。
 もっとも、何の根拠もなしにそのようなことを唱えるわけにはいきません。それなりに整った総合的な批評というものが必要です。そこで諸教会はまたしても、こういうときにたいへん便利な存在であるファンダメンタルに頼ることにしました。結局のところ、諸教会としてはファンダメンタルに頼るよりほかなかったのです。

 すると彼らは、自分自身が欠陥聖書翻訳の発生源であるにもかかわらずそのようなことはあっさり棚に上げて聖書翻訳の専門家に大変身すると、いかにももっともらしく新世界訳聖書について批評を述べました。
 「新世界訳という聖書は、エホバの証人のいいかげんな教理に合わせて好き勝手に訳文が書き変えられた改竄翻訳です。それだけではありません。恐ろしいことに、彼らは聖書の訳文の至るところで原典には無い語を勝手に挿入しているのです。こちらのこのリストを見てください。このような問題箇所は数百もあるのです。もちろん、原典に無い語を勝手に加えるようなことは聖書自身によって固く禁じられているわけですから、これまで諸教会から発行されたどの聖書においても、そのような悪事がなされたということはありませんでした。それをエホバの証人はやったのです。聖書によって絶対にしてはならないとされていることをやったのですから、もう、エホバの証人の聖書は聖書であると言うことができません。これはまちがいなく偽物の聖書です。」



啓示(黙示録) 22:18-19

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしは,すべてこの巻き物の預言の言葉を聞く者に証しする。これらのことに付け加える者がいれば,神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。また,この預言の巻き物の言葉から何かを取り去る者がいれば,神は,命の木から,また聖なる都市の中から,すなわち,この巻き物に書かれているものから彼の分を取り去られるであろう。



 ファンダメンタルによって提出された新世界訳聖書の批評を受けて、諸教会はどう反応したでしょうか。諸教会は口々に、「またか」、「これはあまりにもひどい」、「もういいかげんうんざりしてきた」などと言い、「やっぱりファンダメンタルのやることは当てにはならないから、我々のほうで彼らの言うことをきちんと検証し、おかしなものは省き、使えるものだけを残したうえ、我々の管理と監視のもとで適正に批評を行っていくべきだ」と言って、時間をかけてきちんと内容を検証した批評を用意したうえで新世界訳聖書の攻撃に取りかかったりなどしませんでした。だって、そんなことをしたらほとんど何も残らないじゃないですか。
 そこで諸教会は、新世界訳聖書に対する批評においてもファンダメンタルの言うことをそのまま採用することにしたのですが、このような強引なやり方を実施するにあたっては、ある人々に黙ってもらうことがどうしても必要でした。その人々とは、本物の聖書翻訳の専門家たちです。これら専門家たちは、実際に聖書を翻訳する仕事をしており、聖書翻訳の常識をわきまえています。諸教会がこぞって新世界訳聖書を攻撃したということは、彼らにとっても迷惑な話でした。聖書の翻訳において原典にない語を訳文に挿入することは普通に行われていることです。これをおかしいように言って非難するということを派手にやられると、自分たちの仕事がやりづらくなるじゃないですか。それでもし、彼らが諸教会に対してなにかと苦言を述べる事態になるなら、新世界訳聖書に対する攻撃は失敗してしまうことになります。
 この課題を解決するうえで指導的役割を果たしたのが、カトリック教会、特にバチカンにある教皇庁です。カトリック教会は、エホバの証人とその新世界訳聖書は三流以下の存在であり、これを無視することは学者として一流であることを示すステータスシンボルである、というイメージを流布しました。それに合わせて諸教会は声をそろえてこう言いました。「エホバの証人の聖書は偽物の聖書です。きちんとした学者で、新世界訳聖書がまともな聖書であることを認める者は一人もいません」。
 こうなってくると、状況は脅しのようになります。世間から「きちんとした学者」と思ってもらうには諸教会による後押しが不可欠です。ですから、なにはともあれ新世界訳聖書の側をもつような発言は避けなければなりません。しかしだからといって、諸教会に同調して新世界訳聖書を非難すれば、学者として不誠実であるということになり、世間の評判は上がっても学界内での信用は下がるということになります。残された選択肢は一つです。黙っているよりほかありません。
 学者たちは状況を理解しました。諸教会が新世界訳聖書を攻撃するやり方は彼らにとってずいぶんと迷惑だったのですが、その「迷惑」という一言をうっかり口にすることもできないということを彼らは悟りました。だって、そんなことを言ったら学者の仕事で食べていけなくなるじゃないですか。こうして、彼らにとって新世界訳聖書は、取り上げる気にならないから取り上げない聖書というよりは、取り上げたくても取り上げられない聖書になってしまいました。

 こうして、新世界訳聖書を発行したあとエホバの証人はかなり困った状況に置かれることとなります。本来、自分たちのことを高く評価したり支援してくれたりするはずの学者たちから何の助けも得られなかったのです。それどころか、本来なら「ちょっとまて、それは違う。」などと言わなければならないようなひどい内容のファンダメンタルな反対論についても彼らは何も言ってくれませんでした。エホバの証人はキリスト教世界や聖書学の世界から孤立したまま独自に自衛手段を講じなければならなくなります。
 こうして、新世界訳聖書における角括弧の使用が始められることになります。これにより問題はかなり改善されました。新世界訳聖書の読者は、新世界訳聖書においてどの語が訳文への挿入であるのかを容易に判別することができるようになりました。また、新世界訳聖書と他の聖書翻訳を読み比べることによって、訳文への挿入という点において新世界訳聖書が特に変わっているわけではないということに気づくようになりました。

 新世界訳聖書の翻訳者たちは、角括弧の使用にあたって、ギリシャ語パースに挿入される「ほかの」という語の扱いに悩んだようです。ギリシャ語パースの場合、「ほかの」というような挿入があるほうが訳文の意味合いがより厳密になるのですから、これはギリシャ語パースの字義通りの訳であって角括弧の使用は必要ない、ということが言えます。彼らは結局、諸教会によってここが改竄だと言われているところを中心に挿入句が目立つところに絞って角括弧を使用し、その他の場所では角括弧は使用しないことにしました。
 ようするに、やっかいごとはごめんだということです。この場合角括弧はいらないと言い張って諸教会から挿入だと言われている部分をそのままにしておくと、あれやこれやと言われ続けて面倒なことになりますし、だからといって、該当する部分すべてで角括弧を使用するのも見るからに過剰反応で無駄なことのように思えます。この際、対応は状況に合わせて適当に、ということでいいのではないでしょうか。このようなわけで、新世界訳聖書においては、ギリシャ語パースに挿入される「ほかの」という訳語に角括弧がついている場合とついていない場合があります。

 では、聖書自身は「ほかの」という語や概念をどのように用いているのでしょうか。
 この論題において主題となるのは次の聖句です。



申命記 29:14-15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「さて,わたしはただあなた方とだけこの契約またこの誓いを立てているのではない。それは,今日わたしたちの神エホバの前でわたしたちと共にここに立つ者に加えて,今日わたしたちと共にここにいない者たちに対してもなのである。



 もしかするとあなたはこのように言うかもしれません。「ほかの」という語はないようですが。ここで念頭に置いてほしいのは、聖書における「ほかの」という概念は、「ほかの」と同じ働きをする多様な表現と置き換えられているという点です。ですから、聖書における「ほかの」という語の用法は、翻訳された聖書においてだけでなく、聖書原典においてもつかみづらいのです。

 この言葉は、モーセが約束の地に入ろうとしているイスラエル人たちに対して語った言葉です。神とイスラエルとの間の契約と誓いは、この時モーセの言葉を聞かなかった者たちのためにも用意されていました。
 この時、モーセの言葉を聞いていたイスラエル人たちはどう思ったでしょうか。「今日わたしたちと共にここにいない者たち」とは、きっとこれから生まれてくる子供たちのことであろう、と思ったかもしれません。しかし、聖書は異なる意味を考えていました。このモーセの言葉における「今日わたしたちと共にここにいない者たち」とは、非イスラエル人のことです。そして、この主題はモーセの言葉が発せられた直後から発展を始めることになります。

 この「今日わたしたちと共にここにいない者たち」が非イスラエル人であると言えるのはどうしてでしょうか。これについてはいろいろなことが言えるのですが、その中でも特に注目したいのは次の聖句です。



創世記 22:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』」。



 これは、エホバがアブラハムに約束を述べる場面です。これは新約聖書ではこのように述べられていて、「胤」はメシア(キリスト)であるイエスを指しているのですが……



ガラテア 3:8,16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,聖書は,神が諸国の人々を信仰によって義と宣することを予見し,前もってアブラハムに良いたよりを宣明しました。すなわち,「あなたによってすべての国民が祝福されるであろう」と。
さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。それが大勢いる場合のように,「また[多くの]胤に」とではなく,一人の場合のように,「またあなたの胤に」と述べてあり,それはキリストのことなのです。



 ……これを創世記の関連聖句で見てみるとこのように書かれています。



創世記 12:2-3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そうすればわたしは,あなたから大いなる国民を作り,あなたを祝福し,あなたの名を大いなるものにする。あなたは祝福となりなさい。そしてわたしはあなたを祝福する者たちを祝福し,あなたの上に災いを呼び求める者をのろう。地上のすべての家族はあなたによって必ず自らを祝福するであろう」。

創世記 18:18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
いや,アブラハムは必ず大いなる強大な国民となり,地のすべての国の民は彼によって自らを祝福することになるのだ。



 ここでは、「胤」という表現ではなく「大いなる国民」というような表現が用いられています。もちろん、アブラハムの国民とはイスラエル人のことです。モーセがイスラエルを導いていた時代には、まだ「胤」のことは考慮されていませんでしたから、エホバによるこの約束は、イスラエル国民が非イスラエル国民を祝福するという意味に取られていました。

 この後、イスラエルはモーセの後継者となったヨシュアに率いられて約束の地へ入っていきます。すると、このような事件が起こります。



ヨシュア 9:3-27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
また,ギベオンの住民も,ヨシュアがエリコとアイに対して行なった事柄について聞いた。そして彼らは,自分たちのほうから抜け目のない行動を取った。行って自分たちの食糧を用意し,ろばのためにすり切れた大袋,またすり切れて張り裂け,かがり目を付けたぶどう酒の皮袋を持ち,すり切れて継ぎ合わせたサンダルを足にはき,すり切れた衣を身にまとった。その食糧の中のパンは乾いたぼそぼそのものばかりであった。そうして彼らはギルガルの宿営にいるヨシュアのもとに行き,彼およびイスラエルの人々にこう言った。「遠くの土地からわたしどもは参りました。それで今,わたしどもと契約を結んでください」。これに対しイスラエルの人々はそれらのヒビ人に言った,「もしかしたらあなたはわたしたちの近辺に住んでいるのかもしれない。そうだとしたら,どうしてあなたと契約を結べるだろうか」。すると彼らはヨシュアに言った,「わたしどもはあなたの僕です」。そこでヨシュアは彼らに言った,「あなた方は何者か。どこから来たのか」。これに対して彼らは言った,「僕どもは,非常に遠い土地から,あなたの神エホバのみ名に関することでやってまいりました。その名声について,エジプトでなさったすべての事柄について聞いたからです。また,ヨルダンの向こう側にいたアモリ人の二人の王,すなわちヘシュボンの王シホンと,アシュタロテにいたバシャンの王オグに対してなさったすべての事についても[聞きました]。そのために,わたしどもの年長者たち,そしてわたしどもの土地に住むすべての民も,このように申しました。『旅のための食糧を手に取り,その方たちに会いに行きなさい。そして,是非ともこう言いなさい。「わたしどもはあなた方の僕です。ですから今,わたしどもと契約を結んでください」』。わたしどものこのパンも,ここの皆さんのところに来るため出発した日に自分たちの食糧として家から持って来た時にはまだ熱かったのですが,今では,ご覧ください,乾いてぼそぼそになっております。また,これらはわたしどもが新たに満たしたぶどう酒の皮袋ですが,ご覧ください,それも張り裂けてしまいました。これらわたしどもの衣やサンダルも,非常な長旅のためにすり切れております」。そこで人々は彼らの食糧を幾らか手に取ってみたが,エホバの口に問い尋ねることはしなかった。こうしてヨシュアは彼らと和を結び,彼らを生き長らえさせる契約を結んだ。それで集会の長たちも彼らに対して誓いをした。
ところが,三日の終わり,彼らと契約を結んだ後になって,人々は,彼らが近くにおり,自分たちの近辺に住んでいることを聞いた。そこでイスラエルの子らは出かけて行って,三日目に彼らの都市に来た。彼らの都市は,ギベオン,ケフィラ,ベエロト,キルヤト・エアリムであった。それでも,イスラエルの子らは彼らを討たなかった。集会の長たちがイスラエルの神エホバにかけて誓ったからであった。けれども,集会のすべての者は長たちに対してつぶやきはじめた。これに対し長たち全員は集会のすべての者にこう言った。「わたしたちとしては,イスラエルの神エホバにかけて彼らに誓いをした。だから今になって彼らを傷つけることは許されない。彼らに誓ったその誓いのためにわたしたちに憤りが臨まぬよう彼らを生き長らえさせることにするが,その代わり彼らに対してこのようにしよう」。そうして長たちはこう言った。「彼らを生かしておいて,全集会のためにまきを集める者,水をくむ者とならせ,こうして長たちが彼らに約束したとおりにしよう」。そこでヨシュアは彼らを呼び,それに話してこう言った。「どうしてあなた方は,『非常に遠く離れた所の者です』などと言って,わたしたちをだましたのか。その実,わたしたちのただ中に住んでいるではないか。だから今,あなた方はのろわれた者だ。奴隷の地位,そしてわたしの神の家のためにまきを集め,水をくむ者として[の地位]は決してあなた方から離れないであろう」。すると彼らはヨシュアに答えて言った,「僕どもははっきりと知らされたからです。すなわち,あなたの神エホバはその僕モーセに命じて,この全土をあなた方に与え,この地に住むすべての民をあなた方の前から滅ぼし尽くすようにされたということを。それで,あなた方のためにわたしどもは自分の魂について非常な不安を抱くようになりました。それでこのようにしたのです。ですが今,ご覧ください,わたしどもは,あなたの手中にあります。わたしどもに対しあなたの目に良いと思え,正しいと思えることをそのとおり行なってください」。そこで彼はそれらの人々に対してそのとおりに行ない,これをイスラエルの子らの手から救い出して殺さなかった。そうしてヨシュアはその日,彼らを,集会のため,またエホバの祭壇のために,その選ばれる場所においてまきを集める者,水をくむ者とし,今日に至っている。



 ギベオンの人々はイスラエルに和平を求めるにあたってモーセの律法をよく調べたようです。律法には次のような記述があります。



申命記 20:10-18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「一つの都市に近づいてそれに対して戦おうとする場合,あなたはそれに対して和平の条件をも告げなければならない。そして,もしそれが平和な答えをし,あなたに対して[門を]開くのであれば,そこにいるすべての民は強制労働のためあなたのものとなり,あなたに仕えなければならない。しかし,もしそれが和平せず,あなたと戦って,あなたがこれを攻囲しなければならないのであれば,あなたの神エホバは必ずそれをあなたの手にお与えになるであろう。あなたはそこにいるすべての男子を剣の刃で討たねばならない。ただし,女と幼子と家畜,またその都市にあるすべての物,そのすべての分捕り物をあなたは奪って自分のものとする。あなたの神エホバが与えてくださるあなたの敵からの分捕り物をあなたは食べるのである。
「あなたがこのようにするのは,遠く離れたすべての都市に対してであり,これら諸国民の都市[に対して]ではない。これらの民の都市についてのみ,あなたの神エホバはそれを相続分としてあなたにお与えになり,あなたは息あるものをいっさい生かしておいてはならないのである。あなたの神エホバが命じたとおり,あなたは彼らを,すなわちヒッタイト人とアモリ人,カナン人とペリジ人,ヒビ人とエブス人を必ず滅びのためにささげるべきなのである。それは,彼らがその神々に対して行なったすべての忌むべき事柄をあなた方に教えて行なわせ,あなた方が自分の神エホバに対して罪をおかすことのないためである。



 ギベオンの人々にとって問題だったのは、この規定の後半部分に記されている適応の除外に自分たちが含まれていたことです。ギベオンの都市はエホバがイスラエルに与えると約束した「約束の地」の領域にあり、その領域に住む人々は確実に殺されることになっていました。ですから、和平協定を締結するためにはなんとしてでもイスラエルを騙す必要があったのです。ギベオンの人々はうまくやり通しました。

 この出来事は、その少し前に記録されているエリコの出来事と共に、神学上の問題を解決するものとなっています。エホバがイスラエル人に約束の地を与えると約束し、そこに住んでいる者たちを皆殺しにするよう命じたところで、ほんとうにこれらの人たちを皆殺しにしてよいものなのか、という問題です。エホバは愛と義の神ですから、その答えはノーであるはずです。ギベオンの出来事により、皆殺しにされることになっている人々も、エホバの御名を呼び求める者となるなら実際には助かり得るということが示されました。わかりやすく一言で言うなら、イスラエルの奴隷になればよかったのです。
 この時、ギベオンに住む人でイスラエルの奴隷にはなりたくないという人はギベオンを出て行ってしまったでしょう。逆に、エホバに救われることを望んでギベオンに入ってくる者もいたでしょう。

 彼らの中には、奴隷になるなんて扱いがひどいのではないか、と思う者もいたことでしょう。しかし、ここで聖書が言う「奴隷」の立場というのはそんなに不名誉な立場ではありませんでした。この「奴隷」になった人々はエホバに仕えるレビ人を支援する職にあずかりました。これは、ギベオン人が聖別され、イスラエル社会において地位を得たことを意味しています。
 この出来事がもととなって、ギベオン人や、ギベオン人と同様の奴隷となった人たちは「ネティニム」と呼ばれることになります。今私がここで論じていることから言うと、「ネティニム」とは、モーセが述べた「今日わたしたちと共にここにいない者たち」の最初の現れです。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, ヨシュア 9:27, 脚注

「そうして……彼らを……とし」。字義,「そして[彼]は……彼らを……として与え」。ヘ語,ワイイッテネーム(ナータンの変化形。「ネティニム」という語はこれから派生した)。



 そののち、ネティニムとなる人たちは徐々に増えていったようですが、ギベオンに見たような大規模な転向の事例はありませんでした。事態が大きく進展するのはダビデ王の時代です。

 ダビデはエルサレムに神殿を建てることを思いついた人物です。ところが、その願いはかないませんでした。そのいきさつについて聖書はこのように説明しています。



サムエル第二 7:1-17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,王は自分の家に住み,エホバが周りのそのすべての敵から彼を守って休ませられたとき,王は預言者ナタンにこう言うのであった。「さあ,見よ。わたしは杉の家に住んでいるが,[まことの]神の箱は天幕布のただ中にとどまっている」。するとナタンは王に言った,「すべてあなたの心にあることを―さあ,行ないなさい。エホバはあなたと共におられるのですから」。そして,その夜,エホバの言葉がナタンに臨んで,こう言ったのである。「行って,わたしの僕ダビデにこう言うように。『エホバはこのように言われた。「あなたがわたしにわたしの住む家を建てるというのか。わたしは,イスラエルの子らをエジプトから連れ上った日より今日まで家に住んだことはなく,いつも天幕,すなわち幕屋の中で歩き回っていたのである。わたしがイスラエルのすべての子らの中を歩き回ってきた間中,わたしが,わたしの民イスラエルを牧するよう命じたイスラエルの部族の一つと話して,『あなた方はなぜわたしに杉の家を建てなかったのか』と言った言葉が一言でもあっただろうか」』。それで今,あなたはわたしの僕ダビデにこのように言うのだ。『万軍のエホバはこのように言われた。「わたしがあなたを牧草地から,羊の群れを追うところから取って,わたしの民イスラエルの指導者とした。それでわたしは,あなたがどこへ行こうとも,あなたと共にいるであろう。わたしはあなたの前からあなたのすべての敵を断ち滅ぼそう。わたしは必ず,地にいる大いなる者たちの名のような大いなる名をあなたのために作るであろう。そして,わたしは必ず,わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め,彼らを植えるであろう。彼らはまさしくそのいる所に住まい,もはや動揺することはない。不義の子らが,初めにしたように,再び彼らを苦しめることはない。それはわたしが,わたしの民イスラエルを指揮するよう裁き人を立てた日以来のことである。わたしはあなたをすべての敵から守って休ませよう。「『「そして,一つの家をエホバはあなたのために造ると,エホバはあなたにお告げになった。あなたの日が満ち,あなたがまさしくあなたの父祖たちと共に横たわるとき,わたしは必ずあなたの内部から出るあなたの胤をあなたの後に起こす。わたしは本当に彼の王国を堅く立てる。彼こそわたしの名のために家を建てる者である。わたしは必ず彼の王国の王座を定めのない時までも堅く立てる。わたしは彼の父となり,彼はわたしの子となる。彼が不当なことをするときには,わたしもまた,人の杖,アダムの子らのむち打ちをもって彼を戒めよう。しかしわたしの愛ある親切は,わたしがあなたのゆえに除いたサウルからそれを除いたように,彼から離れることはない。そして,あなたの家とあなたの王国は確かにあなたの前に定めのない時までも動くことがない。あなたの王座は,定めのない時までも堅く立てられたものとなる」』」。これらのすべての言葉と,このすべての幻とにしたがって,そのようにナタンはダビデに話した。



 ここでエホバの言う「家を建てる者」とは、ダビデの息子ソロモンのことです。ソロモンはダビデの跡を継いでイスラエルの王となることになっていました。ダビデはソロモンに、このエホバの言葉を説明します。



歴代第一 22:6-11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その上,彼はその子ソロモンを呼んだ。イスラエルの神エホバのために家を建てるよう彼に命じるためであった。そこでダビデはその子ソロモンに言った,「わたしとしては,我が神エホバのみ名のために家を建てることが心に掛かっていた。しかし,エホバの言葉がわたしに臨んで言った,『あなたはおびただしく血を流し,大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建てることはない。あなたはわたしの前で地にたくさんの血を流したからである。見よ,あなたに男の子が生まれる。彼は,穏やかな人となり,わたしは必ずその周囲のすべての敵から彼を守って休ませる。彼の名はソロモンと呼ばれ,わたしは彼の時代にイスラエルに平和と平穏を与えるからである。彼がわたしの名のために家を建て,彼はわたしにとって子となり,わたしは彼にとって父となる。そして,わたしは必ずイスラエルの上に彼の王権の座を定めのない時までも堅く立てる』。「そこで,我が子よ,エホバがあなたと共にいてくださり,あなたについて語られた通り,あなたが成功を収め,あなたの神エホバの家を建てるように。



 ここですこし、紛らわしいので気をつけたい点があります。「エホバが周りのそのすべての敵から彼を守って休ませられた」という表現がありますが、ここで言うところの「敵」つまり非イスラエルに対するイスラエルの戦いは終わっていませんでした。「エホバが休ませられた」という表現は神学上の先走りです。
 エホバはダビデに対してこのように命じていたということになります。『イスラエルの敵がすべて征服されるまで、あなたはイスラエルの王座に座していなさい。そして、あなた自ら軍の軍司令官となって敵たちのただ中に出て行き、征服していきなさい。そうするなら、私はあなたの右腕となってあなたを助け、敵の王たちを征服させましょう。そして、そののち、あなたの息子ソロモンが、平和の王となって末永くイスラエルを統治するでしょう。』
 エホバの言葉により、ソロモン王は戦争をしないことになっていました。そこで、ダビデは戦争に励み、敵たちを征服していきます。



歴代第一 18:2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それから,彼はモアブを討ち倒し,モアブ人は貢ぎ物を運ぶダビデの僕となった。

歴代第一 18:6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その後,ダビデはダマスカスのシリアに[守備隊]を置き,シリア人は貢ぎ物を運ぶダビデの僕となった。そしてエホバは,ダビデがどこへ行っても,彼にいつも救いを施された。

サムエル第二 10:19

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そのすべての王たち,ハダドエゼルの僕たちは,自分たちがイスラエルの前に撃ち破られたのを見ると,速やかにイスラエルと和を講じ,これに仕えるようになった。シリア人は恐れて,それ以上アンモン人を救おうとはしなかった。

サムエル第二 12:31

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,その中にいた民を,彼は連れて来て,石のこぎりや鉄の鋭利な道具や鉄の斧[を使う仕事]に就かせ,彼らをれんが作りに従事させた。こうして,彼はアンモンの子らのすべての都市にこのようにするのであった。ついに,ダビデと民のすべてはエルサレムに帰った。



 戦争により、ダビデは多くの捕虜を得、多くの国を支配するようになります。これらの国々はイスラエルに奴隷と資金を供給しました。
 神の命令による戦争が終わったとき、ダビデはエホバへ歌を捧げます。



サムエル第二 22:44-45

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それに,あなたはわたしの民のとがめだてからわたしを逃れさせてくださいます。わたしを諸国民の頭になれるよう保護してくださいます。わたしの知らなかった民―彼らがわたしに仕えます。異国の者たちもへつらいながらわたしのもとに来る。もろもろの耳は従順にわたし[の言うこと]を聞く。



 この時期は、ダビデによって美しい歌が次々と創られた時期でもあります。説明は省きますが、詩編の中で最も愛されてきた23編もこのころのものです。そして、ダビデによる一連の作は、詩編68編においてみごとに最高潮を迎え、72編で閉じられることになります。

 ダビデは、ソロモンが神殿を建てる時のために周到な準備を行いました。



歴代第一 22:2-5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,ダビデはイスラエルの地にいる外人居留者を集めるようにと言い,それから彼らを[まことの]神の家を建てるのに用いる四角に切った石を切り出す石工に任じた。そして,門の扉に用いるくぎや留め金のための鉄をダビデはおびただしく用意し,また銅も量りきれないほどおびただしく[用意した]。また,杉材も数えきれないほど[用意した]。シドン人とティルス人がダビデのもとに杉材をおびただしく持って来たからである。そこでダビデは言った,「我が子ソロモンは若くて,か弱い。しかも,エホバのために建てられる家は全地に対し,麗しい栄誉の点で並外れて壮大なものとなるべきである。それで,わたしは彼のために用意をしておこう」。こうして,ダビデは死ぬ前におびただしく用意をした。



 神殿は、イスラエル人ではなく非イスラエル人の奴隷によって建てられることになっていました。人材も、資材も、ほとんどは諸外国からの貢ぎ物です。
 ダビデは神殿を建設する準備だけでなく、神殿の運用の準備も行いました。そして、その中にはネティニムとなった諸外国の人々が含まれます。



エズラ 8:20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それに,ダビデと君たちがレビ人の奉仕のために与えたネティニムのうちから,ネティニム二百二十人[を連れて来た]。これらの者は皆,[その]名によって指名されていた。



 準備を行ったダビデは、その歌の中で奴隷やネティニムについて触れ、このように表現します。



詩編 68:18 (19)

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたは高い所に上られました。 あなたはとりこを連れ去られました。 あなたは人々という形の賜物を取られました。 そうです,強情な者たちをもです。神ヤハよ,[彼らの中に]住むために。



 この聖句は、新約聖書においては、パウロによって次のように引用され……



エフェソス 4:7-10

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,キリストが無償の賜物をどのように量り出してくださったかに応じて,わたしたち一人一人に過分のご親切が与えられました。それゆえにこう言われます。「高い所に上った時,彼はとりこを連れ去った。彼は人々[の]賜物を与えた」。さて,「彼は上った」という表現ですが,これは,彼が下方の領域,つまり地にも下ったこと以外の何を意味するでしょうか。下ったその方が,すべての天のはるか上に上った方でもあるのです。それは,彼がすべてのものを満ち満ちたものとするためでした。



……「高い所」とは天のことであるとされているのですが、ここでは、歌のもともとの意味に注目してください。



詩編 68:8, 17-18 (9,18-19)

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
地は激動し, 天もまた,神のゆえに滴り, このシナイは,神,イスラエルの神のゆえに[激動した]。
神の戦車は幾万,幾千となくある。 エホバご自身がシナイから聖なる場所に入って来られた。あなたは高い所に上られました。 あなたはとりこを連れ去られました。 あなたは人々という形の賜物を取られました。 そうです,強情な者たちをもです。神ヤハよ,[彼らの中に]住むために。



 この歌の中でダビデが言いたかったのは、将来、ソロモンが神殿を完成させる日に、エホバはシナイ山からエルサレムにお引っ越しされるだろう、ということでした。この歌における「高い所」とはエルサレムの神殿のことです。

 ダビデは、エホバが「とりこ」つまり捕虜をとってそれを「人々の賜物」とするだろう、と歌います。この「とりこ」とは、ダビデが捕虜とした周辺諸国の人たちの中から選ばれて、ネティニムとされた人たちのことを指しています。

 さて、話が脱線するような流れになって恐縮なのですが、ここでパウロによる引用について考えてみましょう。パウロの引用では、「高い所」とは天であるということになっています。これはほんとうにそうなのでしょうか。パウロの記述を注意深く読むと、必ずしもそうではないことに気づかされます。
 これは、一部の写本におせっかいな書き足しがあることに注目するとよくわかります。新改訳聖書は、この書き足しを訳文にしていますので見てみましょう。



エフェソス 4:9

◇ 新改訳聖書 ◇ (ファンダメンタル)
──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。



 もとの記述にはなかった「まず」という語が付け加えられています。
 「まず」という語がつくことにより、この文の意味はこうなります。イエスが天に昇るためには、それに先だってイエスが地に下ることが必要であった。イエスはいったん地上に降りてきてから、その後、天へ戻っていったということです。
 しかし、パウロは「まず」という言葉を書きませんでした。ここが注目すべき点です。
 ここで、パウロが用いた次のような表現に注目してください。



ガラテア 2:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それから十四年後,わたしはバルナバと一緒に,またテトスも伴って,再びエルサレムに上りました。



 パウロは、自分がエルサレムに行ったことを「エルサレムに上った」と表現しています。これは慣用表現です。エルサレムに行くことは状況の如何にかかわらず「上る」と言うのです。ですから、実際には上っているのではなく下っている場合もあります。
 ここで、標高差ということを考えてください。エホバのもとの住まいはシナイ山であり、この標高はおよそ2,300メートルです。エホバが移転されたエルサレムの標高はおよそ800メートルです。そうするとどうでしょうか。表現は「上った」となっていますが、実際には下っているのではないでしょうか。
 そうすると、パウロが引用した文章においても、「高い所」とはエルサレムのことである、ということが言い得ます。
 このパウロの引用において、「高い所」という表現には三通りの意味があります。それは、この句がメシア預言であり、よってその意味が転換するということを示唆しています。ですから、パウロはここで、転換のための橋渡しとして、三通りに読める文章を書く必要があったのです。この橋渡しがなければ、パウロは聖書の意味を読み替えたのではなく読み間違えたのだということになってしまいますから。

 もともとパウロは二通りに読める文章を書くのが大好きという人です。聖書の中で何度もこういうトリックを使っています。この、パウロの記述の中には二通りに読める文章がいくつもある、ということをすこし覚えておいてください。このテーマはこの文書の終盤で再び出てきますから。パウロはある時、窮地に立たされたせいで、再び、三通りに読める文書を書くという難題に取りかかることになります。そして、そうして書かれた難解な記述は、この文書の主題であるギリシャ語パースと深い関係があるのです。

 ダビデの後、ソロモンが王になると、神殿の建設が始まります。その時、ダビデが諸国から集めた奴隷たちが活躍します。



列王第一 9:15-23

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,これはソロモン王がエホバの家と,自分の家,塚と,エルサレムの城壁,ハツォルとメギドとゲゼルとを建てるために徴募した,強制労働に徴用された者たちについてのいきさつである。(エジプトの王ファラオがかつて上って来て,ゲゼルを攻め取り,これを火で焼き,その都市に住んでいたカナン人を殺した。こうして彼はソロモンの妻である自分の娘に別れの贈り物としてこれを与えた。)次いでソロモンはゲゼルと下ベト・ホロン,この地にある,バアラトと荒野にあるタマル,およびソロモンのものとなったすべての倉庫の都市,兵車の都市,騎手のための都市,彼がエルサレムや,レバノンや,その支配下の全土に建てたいと望んでいたソロモンの望ましいものを建てた。イスラエルの子らのものではないアモリ人,ヒッタイト人,ペリジ人,ヒビ人,およびエブス人の残った民全員,すなわち,イスラエルの子らが滅びのためにささげることのできなかった,この地の彼らの後に残されたその子らについては,ソロモンは強制奴隷労働に彼らを徴募して,今日に至っている。それで,イスラエルの子らをソロモンは一人も奴隷にしなかった。彼らは戦士であり,彼の僕であり,君であり,兵車の御者や騎手の副官と長であったからである。これらの者はソロモンの工事をつかさどった代官の長,五百五十人で,工事に従事した民の現場監督であった。



 この奴隷たちはネティニムでしょうか。



歴代第二 2:17-18 (16-17)

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そこでソロモンは,その父ダビデが行なった人口調査の後,イスラエルの地にいる外人居留者だった人々全員を数えたが,十五万三千六百人であった。それで彼はその中から七万人を荷物運搬人に,八万人を山で[石を]切る者に,三千六百人を民を奉仕に従事させるための監督者にした。



 歴代誌の記述からすると、必ずしもそうではないようです。神殿の建設には、参加可能なすべての非イスラエル人が投入されました。これらすべてをネティニムと見なすには数が多すぎます。これらの人たちの大半はネティニムではなかったので、神殿の建設事業が終わると、神殿の奉仕を離れることになりました。とはいえ、彼らは一時とはいえ、ネティニムに準ずる神への奉仕を行いました。

 そうするとどうでしょうか。神殿の建設に多大な貢献をした非イスラエル人たちはその報いを受けるべきではないでしょうか。彼らはイスラエル人たちと同じように神殿でエホバを崇拝したいと思うかもしれませんし、エホバからの祝福にもぜひあずかりたいと思うかもしれません。もし、神殿とその神がイスラエル人だけのもので、イスラエル人でない人には何の祝福の分け前もないのだとするなら、それはひどいのではないでしょうか。
 そこでソロモンは、神殿の献納式の際、このように祈りの言葉を述べます。



列王第一 8:41-43

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「そしてまた,あなたの民イスラエルのものではないのに,あなたのみ名のゆえに遠い地から実際にやって来る異国の人のためにも,(それは,彼らがあなたの大いなるみ名と,強いみ手と,差し伸べたみ腕とについて聞くからですが,)そのような人が実際に来て,この家に向かって祈るなら,あなたが天から,すなわちあなたの住まわれる定まった場所からお聴きになり,すべてその異国の人があなたに呼び求めるところにしたがって行なってください。それは,地のすべての民があなたのみ名を知って,あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり,またあなたのみ名が私の建てたこの家に付されてとなえられていることを知るためです。



 ソロモンのこの祈りにより、神殿はエホバを崇拝するすべての民族のものである、ということが定められました。

 こうしてついに、アブラハムに語られたエホバの約束は実現することになります。ソロモン王の統治により、昔からイスラエル地域に住み着いていて、皆殺しにされるはずだった人たちがエホバの崇拝者となって生き残ることになりました。それだけでなく、イスラエル地域の外に住む人たちも、望むならエホバの崇拝者になることができるようになりました。こうして、すべての国民にエホバからの祝福がもたらされるようになりました。ソロモン王は、アブラハム契約における「胤」の最初の現れです。

 そして、ダビデがその歌の中で歌った事柄が、実に見事に成就することになります。



詩編 72:10

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
タルシシュと島々の王たち― 彼らは貢ぎを納めます。 シェバとセバの王たち― 彼らは贈り物を差し出します。

列王第一 10:1-10

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,シェバの女王はエホバのみ名に関連してソロモンのうわさを聞いていた。それで彼女は難問で彼を試そうとしてやって来た。ついに彼女は非常に見事な随行員と,バルサム油や非常に多くの金および宝石を運ぶらくだを伴って,エルサレムに到着した。彼女はソロモンのところに来て,その心に掛かっていたすべてのことを彼に話しだした。一方,ソロモンは彼女にそのすべての事柄を語り続けた。王に隠されていて,彼女に語らなかった事柄はひとつもなかった。シェバの女王はソロモンのすべての知恵と,彼の建てた家と,その食卓の食物,その僕たちの座っている様,給仕人たちの食卓での奉仕,彼らの衣装,[王]の飲み物,[王]がエホバの家でいつもささげるその焼燔の犠牲を見るに及んで,彼女の内にはもはや霊がなかった。それで彼女は王に言った,「私が自分の土地であなたの事柄とあなたの知恵とについてお聞きした言葉は真実でした。それに,私は来て,この目が見るまでは,その言葉を信じませんでした。ご覧ください,私はその半分も告げられていませんでした。あなたは知恵と繁栄の点で,私のお聴きした,聞かされたことをしのいでおられます。何と幸いなのでしょう。あなたの部下たちは。何と幸いなのでしょう。いつもあなたの前に立って,あなたの知恵を聴いている,これらあなたの僕たちは。あなたの神エホバがほめたたえられますように。[神]はあなたをイスラエルの王座に就かせて,あなたのことを喜ばれました。エホバは定めのない時までもイスラエルを愛しておられますので,司法上の裁きと義を行なうよう,あなたを王として任じられたのです」。それから,彼女は金百二十タラントと,非常に沢山のバルサム油と宝石を王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほどの大量のバルサム油に匹敵するものは,もはや二度と入って来なかった。



 この時代のイスラエルは、周辺諸国からの大量の貢ぎ物を次々と得て繁栄を極めます。

 しかし、ソロモンの時代が過ぎると、イスラエルの繁栄には陰りが生じ、やがて国家自体が破綻するという事態に陥ります。イスラエルが落ちぶれていくにつれ、聖書の主要なテーマであるメシア預言は輝きを増し加えていきます。メシア預言は、ソロモン時代の栄光を懐かしみながら、大胆に発展していくこととなります。
 実のところ、ソロモンの統治には、メシア預言の見地からすれば不満足な要素がたくさんありました。たとえば、ソロモンの時代にはすべての国民がエホバの祝福を受けることになりましたが、そうは言っても、実際には諸外国のごく一部の人たちがエホバの崇拝者に転向したにすぎませんでした。これでは不足ではないでしょうか。今後はもっと大規模に同じようなことが起こってほしいものです。
 では、この後メシア預言がどのように発展していったかを駆け足で見ていくことにしましょう。



エレミヤ 4:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「イスラエルよ,もしあなたが帰って来る気があるなら」と,エホバはお告げになる,「あなたはわたしのもとに帰って来てもよい。そして,もしあなたがわたしのためにその嫌悪すべきものを取り去るなら,あなたは逃亡者として行くことはないであろう。そして[もし]あなたが,『エホバは真実と公正と義とをもって生きておられる!』と確かに誓うなら,諸国民は彼によって自らを実際に祝福し,彼によって自らを誇るであろう」。

ダニエル 7:13-14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしが夜の幻の中でずっと見ていると,見よ,天の雲と共に人の子のような者が来るのであった。その者は日を経た方に近づき,彼らはこれをその方のすぐ前に連れて来た。そして,その者には,支配権と尊厳と王国とが与えられた。もろもろの民,国たみ,もろもろの言語の者が皆これに仕えるためであった。その支配権は,過ぎ行くことのない,定めなく続く支配権,その王国は滅びに至ることのないものである。

イザヤ 42:5-7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
天の創造者,それを張り伸ばす偉大な方,地とその産物を張り広げる方,[地]上の民に息を,[地]を歩む者たちに霊を与える方,[まことの]神エホバはこのように言われた。「わたし自ら,エホバが,義をもってあなたを呼び,あなたの手を取った。そして,わたしはあなたを安全に守り,あなたを民の契約,諸国民の光として与えるであろう。[あなたが]盲人の目を開き,捕らわれ人を牢から,闇の中に座っている者たちを留置場から連れ出すためである。

イザヤ 49:6-7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それから,[神]は言われた,「ヤコブの各部族を起こし,イスラエルの保護された者たちを連れ戻すために,あなたがわたしの僕となることは極めてささいなことであった。わたしはまた,諸国民の光のためにあなたを与え,わたしの救いが地の果てに至るようにさせた」と。イスラエルを買い戻される方,その聖なる方,エホバは,魂の軽んじられる者に,国民に憎み嫌われる者に,支配者たちの僕にこのように言われた。「王たちは自ら見て,必ず立ち上がる。君たち[もである]。忠実な者であるエホバ,あなたを選ぶイスラエルの聖なる者ゆえに,彼らは身をかがめるであろう」。

イザヤ 65:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしは,[わたしを]求めたことのない者たちにわたしを尋ね求めさせた。わたしは,わたしを探し求めたことのない者たちにわたしを見いださせた。わたしは,わたしの名を呼び求めていなかった国民に,『わたしはここにいる,わたしはここにいる!』と言った。

イザヤ 55:5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
見よ,あなたは自分の知らない国民を呼び,あなたを知らなかった国の者たちがまさにあなたのもとに走って来る。あなたの神エホバゆえに,イスラエルの聖なる方のためにである。その方があなたを美しくされるからである。

ハガイ 2:7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「『またわたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。わたしはこの家を栄光で満たす』と,万軍のエホバは言われた。

ゼカリヤ 2:11 (15)

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「またその日,多くの国の民が必ずエホバのもとに加わり,まさしくわたしの民となる。わたしはあなたのうちに住む」。それであなたは,万軍のエホバ自らわたしをあなたにお遣わしになったことを必ず知るであろう。

ゼカリヤ 8:20-23

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「万軍のエホバはこのように言われた。『今後,もろもろの民また多くの都市の住民がやって来るであろう。一つの[都市の]住民が必ず別の[都市の住民]のところに行って,こう言う。「さあ,真剣な気持ちで行ってエホバの顔を和め,万軍のエホバを求めようではないか。わたし自身も一緒に行く」。こうして多くの民また強大な国民がまさにやって来て,エルサレムで万軍のエホバを求め,エホバの顔を和めようとするであろう』。 「万軍のエホバはこのように言われた。『その日には,諸国のあらゆる言語から来た十人の者が,ユダヤ人である一人の者のすそをとらえ,まさしくとらえてこう言う。「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」』」。

イザヤ 60:1-22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「女よ,起きよ,光を放て。あなたの光が到来し,あなたの上にエホバの栄光が輝き出たからである。見よ,闇が地を,濃い暗闇が国たみを覆うからである。しかし,あなたの上にはエホバが輝き出て,あなたの上にその栄光が見られるようになる。そして,諸国民は必ずあなたの光のもとに,王たちはあなたの輝き出るその輝きのもとに行くであろう。「あなたの目を周囲に上げて,見よ! 彼らはみな集められた。彼らはあなたのもとに来た。あなたの息子たちは遠くからやって来る。脇腹に抱えられて世話を受けるあなたの娘たちも。その時,あなたは見て,必ず光り輝き,あなたの心臓は実際にわなないて広がるであろう。海の富があなたのもとに向かうからである。諸国民の資産もあなたのもとに来る。波打つらくだの大群があなたを覆う。ミディアンとエファの若い雄のらくだが。シェバからのものすべて―彼らはやって来る。金と乳香を運んで来る。そして,エホバの賛美を告げ知らせる。ケダルの羊のすべての群れ―それらもあなたのもとに集められる。ネバヨトの雄羊―それらもあなたに仕える。それらは是認を得てわたしの祭壇に上り,わたしはわたしの美の家を美しくするであろう。「雲のように,巣箱の穴に向かうはとのように飛んで来るこれらの者はだれか。島々はわたしを待ち望むからである。タルシシュの船もまた,初めの時のように。それは,遠くからあなたの子らを,彼らと共にその銀と金を,あなたの神エホバの名のもとに,イスラエルの聖なる方のもとに携えて来るためである。その方があなたを美しくされるからである。そして,異国の者たちは実際にあなたの城壁を築き,その王たちはあなたに仕えるであろう。わたしは憤りをもってあなたを打つが,必ず善意をもってあなたを憐れむからである。「そして,あなたの門は常に実際に開かれていて,昼も夜も閉じられることがない。それはあなたのもとに諸国民の資産を携えて来るためである。そして彼らの王たちは率先するであろう。あなたに仕えない国民や王国は滅びうせ,諸国民は必ず荒廃に帰するからである。「レバノンの栄光があなたのもとに来る。ねずの木,とねりこ,いとすぎも時を同じくして。わたしの聖なる所の場所を美しくするために。わたしはわたしの足[を置く]その場所に栄光を与えるであろう。「そして,あなたを苦しめる者たちの子らは,身をかがめてあなたのもとに行かなければならない。あなたを不敬な仕方で扱う者たちは皆,必ずあなたの足の裏に身をかがめ,あなたをエホバの都市,イスラエルの聖なる方のシオンと呼ばなければならなくなる。「あなたは,その中を通る者がだれもいない,完全に捨てられ,憎まれるものとなる代わりに,わたしはあなたを定めのない時に至るまで存続する誇るべき物,代々にわたる歓喜として据えるであろう。そして,あなたは実際に諸国民の乳を吸い,王たちの乳房を吸うのである。あなたは必ず,わたし,エホバがあなたの救い主であり,ヤコブの強力な者があなたを買い戻す者であることを知るであろう。わたしは銅の代わりに金を携え入れ,鉄の代わりに銀を,木の代わりに銅を,石の代わりに鉄を携え入れる。わたしは平和をあなたの監督たちとして任命し,義をあなたに労働を割り当てる者たちとして[任命する]。「あなたの地で暴虐が聞かれることも,あなたの境界内で奪略や崩壊が[聞かれることも]もはやない。そして,あなたは必ず自分の城壁を“救い”,自分の門を“賛美”と呼ぶであろう。太陽はもはやあなたにとって昼の光とならず,月ももはや輝きのためにあなたに光を与えない。そして,エホバはあなたにとって必ず定めなく続く光となり,あなたの神はあなたの美と[なる]。あなたの太陽はもはや沈むことなく,あなたの月も欠けることはない。エホバがあなたのために定めなく続く光となり,あなたの嘆きの日々は終了するからである。そしてあなたの民は,皆が義なる者となり,定めのない時に至るまで土地を所有するであろう。[彼らは]わたしの植える新芽,わたしの手の業であり,それは[わたし]が美しくされるためなのである。小さな者が千となり,小なる者が強大な国民と[なる]。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」。

イザヤ 61:1-11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
主権者なる主エホバの霊がわたしの上にある。それは,エホバがわたしに油をそそぎ,柔和な者たちに良いたよりを告げるようにされたからである。[神]はわたしを遣わして,心の打ち砕かれた者を[包帯で]包み,とりこにされた者たちに自由を,捕らわれ人たちには[目が]大きく開かれることをふれ告げ,エホバの側の善意の年とわたしたちの神の側の復しゅうの日とをふれ告げ,嘆き悲しむすべての者を慰め,シオンについて嘆き悲しむ者たちに割り当てて,彼らに灰の代わりに頭飾りを,悲しみの代わりに歓喜の油を,落胆した霊の代わりに賛美のマントを与えるようにされた。彼らは必ず義の大木,エホバの植えたものと呼ばれる。それは[神]が美しくされるためである。そして,彼らは久しく荒れ廃れたままであった場所を必ず建て直し,先の時代の荒廃した場所をも興し,荒れ廃れた都市,代々にわたって荒廃している所を必ず新しくするであろう。「そして,よそからの者たちが実際に立って,あなた方の羊の群れを牧し,異国の者たちはあなた方の農夫やぶどう栽培者となる。一方あなた方は,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう。あなた方は諸国民の資産を食べ,彼らの栄光を受けつつ自分のことを意気盛んに話すであろう。あなた方の恥の代わりに,二倍の受け分があり,屈辱の代わりに,彼らは自分の分け前について喜び叫ぶであろう。それゆえ,彼らは自分の地で二倍の受け分をも所有することになる。定めのない時まで続く歓びが彼らのものとなる。わたし,エホバは,公正を愛し,強奪を不義と共に憎んでいるからである。そして,わたしは彼らの賃金を真実をもって与え,定めなく存続する契約を彼らに対して結ぶであろう。そして,彼らの子孫は諸国の民の中においても実際に知られるようになり,彼らの末孫はもろもろの民の中で[知られるようになる]。彼らを見る者は皆,彼らがエホバの祝福された子孫であることを彼らについて認めるであろう」。わたしは必ずエホバにあって歓喜する。わたしの魂はわたしの神にあって喜びに満ちる。[神]は救いの衣をわたしに着せてくださった。義のそでなしの上着でわたしを包んでくださった。それは祭司にならって頭飾りを着ける花婿のようであり,飾り物で美しく装う花嫁のようだ。地が新芽を生じさせるように,園がそこに種をまかれるものを芽生えさせるように,主権者なる主エホバも同じように義と賛美を諸国民すべての前に芽生えさせられる。

イザヤ 66:18-21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「そして,彼らの業と考えに関してであるが,わたしはすべての国民と国語を共に集めるために来る。彼らは必ず来て,わたしの栄光を見ることになろう」。「そして,わたしは彼らの中にしるしを置き,逃れた者たちのある者を諸国民のもとに遣わす。タルシシュ,プル,およびルド,弓を引く者たち,トバルとヤワン,遠くの島々[に]。それはわたしについての報告を聞いたことも,わたしの栄光を見たこともない者たちである。彼らは必ず諸国民の中でわたしの栄光について告げるようになるであろう。そして,彼らはすべての国の民の中から,あなた方の兄弟を皆エホバへの供え物として,馬,兵車,覆いの付いた車,らば,速足の雌のらくだに載せて,わたしの聖なる山,エルサレムに実際に連れて来るであろう」と,エホバは言われた,「イスラエルの子らが清い器に供え物を入れて,エホバの家に携えて来るように」。「そして,彼らからもまた,わたしはある者を祭司のため,レビ人のために取るであろう」と,エホバは言われた。

マラキ 1:11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなり,あらゆる所で犠牲の煙が上り,進物,すなわち清い供え物がわたしの名に対してささげられるようになるのである。わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなるからである」と,万軍のエホバは言われた。

イザヤ 25:6-9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,万軍のエホバはすべての民のために,この山で,油を十分に用いた料理の宴を必ず催される。それは,滓[の上にたくわえられたぶどう酒],髄と共に油を十分に用いた料理,滓[の上にたくわえられ],こされた[ぶどう酒]の宴である。そして[神]はこの山で,すべての民を覆い包んでいる覆いの顔と,すべての諸国民の上に織り合わされている織物を必ず呑み込まれる。[神]は実際に死を永久に呑み込み,主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐわれる。また,ご自分の民のそしりを全地から取り去られる。エホバご自身が[そう]語られたからである。そして,人はその日,必ず言うであろう,「見よ,これがわたしたちの神である。わたしたちは[神]を待ち望んだので,[神]はわたしたちを救ってくださる。これがエホバである。わたしたちはこの方を待ち望んだ。わたしたちは喜びに満ち,その救いを歓ぼう」。



 これらについて逐一解説を述べると長くなりますので、ここでは一つだけ、エホバの証人にとって定番となっている聖句に注目することにしましょう。



ミカ 4:1-3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められる。もろもろの民は必ず流れのようにそこに向かう。そして,多くの国の民が必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。そして,[神]は多くの民の間で必ず裁きを行ない,遠く離れた強大な国々に関して事を正される。それで彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。



 この記述は、「末の日に」という一語を無視すれば、ソロモンの統治についてそのままを述べているように見えます。
 ソロモンの時代、エルサレムの神殿が完成すると、その栄光はどの宗教のそれよりも優れたものとなりました。神殿は諸外国の人々にも開放され、異教徒だった人々がたくさんやってきてエホバの崇拝者になります。ソロモンは戦争をしないということが決められていましたので、イスラエルによる侵略に備えて備蓄されてきた武器が不要になり、リサイクルされます。
 もちろん、この記述は過去のことを述べているのではありません。これはメシア預言ですので、将来のことを述べていますし、その意味も読み替えられることになります。



○ メシア預言における予型論

ソロモンとその栄光は、のちの時代に現れるメシアとその栄光を予示するものである。



 この後、メシア預言は旧約聖書から新約聖書へ、ユダヤ教からキリスト教へと舞台を移すことになります。キリスト教は、どのようにその命題を達成していくのでしょうか。

 言うまでもないことですが、予告されたメシアとして登場したのはイエスです。そしてその言行は福音書に記録されました。
 福音書を読んでいくと、イエスの弟子がイエスにこのように質問したことが記されています。



ルカ 12:41

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その時ペテロがこう言った。「主よ,この例えはわたしたちに話しておられるのですか,それとも,みんなにもですか」。



 ここではギリシャ語パースが用いられています。
 おもしろいことに、これに対するイエスの答えは全然違うところに記されています。



マルコ 13:37

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,わたしがあなた方に言うことは,すべての者に言うのです。ずっと見張っていなさい」。



 ここでもパースが用いられています。
 どうして質問と答えが別々の場所にあるのかといったことはこの際放置します。ただ、この一点は承知しておいてください。ルカによる記述は、答えがマルコによる福音書にあることに気づかないまま読み進めた場合、読者が文意を読み誤るように仕組まれています。
 では、この罠を回避したところで、みなさんはこの文章をどのように読まれるでしょうか。

 ほとんどの方はこう理解されると思います。この表現は、弟子たちと弟子たちを含むすべての人について語っているのだ。一方、聖書におけるギリシャ語パースの用法について予備知識がある方なら、これは弟子たちとほかのすべての人について語っている、と理解するでしょう。これは文脈に照らせば妥当な解釈です。
 しかし、この言葉がそのような意味であるなら、質問したことにも答えを述べたことにもそれが福音書に記されたことにも、神学的な意義というものはあまりないということになります。
 ここでの主眼点は弟子たちではなくイスラエル人であるということはないでしょうか。そうなら、そこには充分すぎる神学的意義があると言えます。
 イエスは旧約聖書で予告されたメシアとして到来した方なのですから、当人にしても、その弟子にしても、メシア預言がメシアに要求している事柄を知っており、強く意識していたはずです。福音書の筆者もそうでしょう。そうなら、ペテロがイエスにこのような質問を述べることは、神学上どうしても必要だったでしょうし、イエスが答えを述べることも同様だったでしょう。福音書の読者も、同じことを強く意識していれば、この記述はそのように読めるはずです。

 福音書にはこの考えを裏付ける記述があります。



マタイ 24:1-3

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,イエスが[そこを]たって神殿から去って行かれるところであったが,弟子たちが神殿の建物を示そうとして近づいて来た。[イエス]はそれにこたえてこう言われた。「あなた方はこれらのすべてのものを眺めないのですか。あなた方に真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」。[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。



 マタイ24章はエホバの証人にとって重要な記述ですので頻繁に引用されています。それだけに、冒頭のくだりを読んで不自然な点に気づく証人は多いのではないでしょうか。
 このあとの記述を読むと、確かに、イエスは質問に答えてエルサレムの神殿の荒廃と世の終わりとを関連づけて述べています。イエスがこのように答えたことは、イエスがエルサレムの荒廃をメシア預言の一部として捉えていたことを指しています。つまり、エルサレムの荒廃についての口述は世の終わりの予見へと意味が転換するということです。
 しかし、イエスがそういう視点を示すよりも先に弟子たちがこのような質問を述べたとすると、これではまるで弟子たちがその答えをすでに知っていたかのようではないですか。
 この記述は、イエスの弟子たちが、エルサレムの荒廃について述べたイエスの一言をこのように理解したことを示しています。イエスはいつもユダヤ人(イスラエル人)に語りかけていたが、それはユダヤ人だけでなく全世界に対して語りかけていたのだ。また、イエスはユダヤに起こる事柄について多くのことを述べたが、それはユダヤだけでなく全世界に起こる事柄を述べていたのだ。だから、今イエスはエルサレムの神殿が荒廃することについて述べたのだけど、それは当然、世界が荒廃するのだという話でもあるに違いない。

 イエス自身もこのように答えています。



マタイ 24:14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。



 「王国の良いたより」とは、イエスがユダヤ人たちに語りかけてきたメッセージのことです。しかしイエスは、それは全世界に対するメッセージでもあると考えていました。ただし、イエスが考えていたのは、自分の死後、弟子たちがそれを世界に広めるだろうということでした。

 そのようなわけで、メシアとしてイエスが現れた時期は、旧約聖書のメシア預言によって語られた諸国民への祝福がまさに姿を見せようとしていた時期でした。そして後に、それが単なる預言ではなく神聖な奥義(おくぎ)であることが明らかになります。

 この神聖な奥義について、イエスはこのように語り、将来のための基礎を据えます。



ヨハネ 10:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。



 この言葉は、かつてモーセがイスラエルの人々に対して述べた「今日わたしたちと共にここにいない者たち」についての布告の、イエス・キリストにおける現れです。

 ここでまた同じようなことを問いましょう。このとき、弟子たちはこの言葉をどう理解したでしょうか。「ほかの羊」とは非イスラエル人のことであろう、ということを確信したに違いありません。

 イエスは昇天の際に弟子たちにこのように命じます。



マタイ 28:19-20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。



 しかし弟子たちはイエスの死後すぐに世界宣教に取りかかったわけではありませんでした。彼らはエルサレムを拠点としてユダヤ人とユダヤ教への改宗者を対象にキリスト教の新しい教えを広めます。
 その時、ペテロは弟子たちを代表して発言し、このようなことを述べます。



使徒 2:38-39

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。この約束はあなた方とあなた方の子供たち,また遠く離れたすべての人,わたしたちの神エホバがそのもとに召される人すべてに対するものなのです」。



 この言葉は、かつてモーセがイスラエルの人々に対して述べた「今日わたしたちと共にここにいない者たち」についての布告の、キリストの弟子における現れです。

 ここで興味深いのは、ペテロが「あなた方の子供たち」について述べていることです。これは、ペテロがモーセの言葉を意識してこの言葉を述べたということを示唆しているようです。その結果、ペテロの言葉は、少なくともモーセの言葉よりは誤解のないものとなりました。
 この言葉を聞いて信じ、バプテスマを受けたおよそ3,000人のユダヤ人たちは、この言葉の意味をどう理解したでしょうか。彼らは旧約聖書のメシア預言を知っていましたから、「遠く離れたすべての人」とは諸国からキリスト教に転じる人々のことであるに違いないと思ったはずです。
 このことは、後日エフェソスの会衆に対してパウロが述べたこの言葉によって確証されることになります。



エフェソス 2:17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして彼は来て,遠く離れた者であったあなた方に平和の良いたよりを,また近い者たちにも平和を宣明したのです。



 ペテロがユダヤ人たちに「遠く離れたすべての人」についての言葉を述べてからしばらくすると、一連の出来事により、「神聖な奥義」の実体が示されるようになります。
 その中でも特に注目すべきなのはこの出来事です。



使徒 10:9-48

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
次の日,彼らが旅を続けてその都市に近づいて来たころ,ペテロは祈りをするため第六時ごろに屋上に上った。しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり,天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。
さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。そして彼らは呼ばわって,またの名をペテロというシモンがここに客となっているかどうかと尋ねた。ペテロが幻について思い巡らしていると,霊が言った,「見よ,三人の人があなたを探しています。それでも,立って,階下に降り,何も疑わないで彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのですから」。そこでペテロは階下のその人たちのところに降りて行って,こう言った。「さあ,わたしがあなた方の探している者です。どういうわけであなた方はここに来ておられるのですか」。彼らは言った,「義にかなった人で,神を恐れ,ユダヤ国民全体からも良く言われる士官コルネリオは,聖なるみ使いにより,あなたをお呼びして自分の家に来ていただき,あなたの言われることを聞くようにとの神の指示を受けました」。それで彼は,その人たちを招き入れてもてなした。
次の日,[ペテロ]は立って彼らと一緒に出かけた。そして,ヨッパの兄弟たちも幾人か一緒に行った。その翌日,彼はカエサレアに入った。もとより,コルネリオは彼らを待ち受けており,自分の親族や親しい友人たちを呼び集めていた。ペテロが入ると,コルネリオは彼を出迎え,その足もとにひれ伏して敬意をささげた。しかし,ペテロは彼の身を起こして言った,「立ちなさい。私も人間です」。そして,彼と語り合いながら中に入り,大勢の人が集まっているのを見て,こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。そのようなわけで,わたしを呼びに来られた時,わたしは何の異存もなくやって来ました。それで,あなた方がわたしを呼んだ理由をお尋ねします」。
それに対してコルネリオは言った,「この時刻から数えて四日前,わたしは第九時に家で祈りをしておりました。すると,ご覧ください,輝く衣を着た人がわたしの前に立って,こう言いました。『コルネリオよ,あなたの祈りは聞き入れられ,あなたの憐れみの施しは神のみ前で覚えられました。それゆえ,ヨッパに人をやって,またの名をペテロというシモンを呼びなさい。この人は海辺にある,皮なめし工シモンの家に客となっています』。そこでわたしはすぐあなたのもとに人をやったのですが,あなたはよくここに来てくださいました。それで今,わたしたちは皆,あなたが話すようにとエホバから命じられているすべての事柄を聞こうとして,神のみ前にいるのです」。
そこでペテロは口を開いてこう言った。「わたしは,神が不公平な方ではなく,どの国民でも,[神]を恐れ,義を行なう人は[神]に受け入れられるのだということがはっきり分かります。[神]はイスラエルの子らにみ言葉を送って,イエス・キリストによる平和の良いたよりを宣明されました。この[イエス・キリスト]は[ほかの]すべての者の主なのです。あなた方は,ヨハネの宣べ伝えたバプテスマの後にガリラヤから始まり,ユダヤ全体にわたって話題となった事柄を知っています。すなわち,ナザレから来たイエスのことで,神がどのように聖霊と力をもってこの方に油そそがれたかということです。この方は善いことを行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうを回りました。神が共におられたからです。そしてわたしたちは,[イエス]がユダヤ人の土地で,またエルサレムで行なったすべての事柄の証人です。しかし彼らはまた,杭に掛けてこの方を除き去ったのです。神は三日目にこの方をよみがえらせ,さらに,彼が[人々に]明らかになることをお許しになりました。民のすべてに対してではなく,あらかじめ神に任命された証人たちに,このわたしたちに対してです。わたしたちは,その死人の中からのよみがえりの後,この方と飲食を共にしたのです。またこの方は,民に宣べ伝えるように,そして,これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと,わたしたちにお命じになりました。この方についてはすべての預言者が証しをし,彼に信仰を持つ者は皆,その名によって罪の許しを得ると[述べて]います」。
ペテロがまだこれらのことについて話しているうちに,聖霊がみ言葉を聞いているすべての人の上に下った。そして,割礼を受けた人々で,ペテロと一緒に来ていた忠実な者たちは驚嘆した。無償の賜物である聖霊が諸国の人々の上にも注ぎ出されていたからである。彼らが[いろいろな]国語で話し,神をあがめているのを聞いたのである。これに答え応じてペテロは[言った],「わたしたちと同じように聖霊を受けたこの人々に,だれか水を禁じてバプテスマを受けさせないでいることができるでしょうか」。そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けるようにと彼らに命じた。それから彼らは,幾日かとどまるようにと彼に頼んだ。



 重要なのは、ユダヤ人ではない人に聖霊が注がれたということです。聖霊が注がれるのでなければ、それは神聖な奥義であったとは言えないでしょう。

 ここで、「この[イエス・キリスト]は[ほかの]すべての者の主なのです」という表現に注目してください。
 ここではギリシャ語パースが用いられています。文脈を調べると、このパースはイスラエルを着眼点として除外するパースであることがわかります。パースを限定する条件はその着眼点によって必然的に決定されますから、これは国民の多様性を示すパースであると言うこともできます。
 そうすると、このときのギリシャ語パースは、モーセの言葉以来、聖書の中に繰り返し登場してきた「イスラエルに対してほかの者」という概念を一語で表現しているということになります。ギリシャ語パースの持つ「すべて」という語義は、失われてはいないものの、二次的なニュアンスとなります。
 このようなところでパースが用いられることは必然だったと言うことができるでしょう。聖書の大部分において「イスラエルに対してほかの者」という概念を示すときに用いられる表現は「諸国民」です。しかし「諸国民」という表現には「すべての」というニュアンスがありません。一方、ギリシャ語パースには「ほかの」というニュアンスを持つ用法があります。神に不公平のないことが示されたこの時に、ペテロがギリシャ語パースを用いたのは自然なことだったのではないでしょうか。

 さて、ここで言うところの「神聖な奥義」とはどういうことでしょうか。イエスの表現を借りるなら、「一つの群れになる」ということです。



ヨハネ 17:20-21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしは,これらの者だけでなく,彼らの言葉によってわたしに信仰を持つ者たちについてもお願いいたします。それは,彼らがみな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,彼らもまたわたしたちと結びついていて,あなたがわたしをお遣わしになったことを世が信じるためです。

エフェソス 3:5-6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ほかの世代において,この[奥義]は,今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには,人の子らに知らされていませんでした。すなわちそれは,諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて,共同の相続人,同じ体の成員,わたしたちと共に約束にあずかる者となる,ということです。

ガラテア 3:28

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方はキリスト・イエスと結ばれて一人の[人]となっているからです。

エフェソス 2:12-16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そのころあなた方はキリストを持たず,イスラエルの国家から疎外され,約束にかかわる[数々の]契約に対してはよそ者であり,希望もなく,世にあって神を持たない者だったのです。しかし,かつては遠く離れていたあなた方が,今やキリスト・イエスと結ばれ,キリストの血によって近い者となりました。[キリスト]はわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。またそれは,両方の民を一つの体とし,苦しみの杭を通して神と十分に和解させるためでした。彼は自分自身によってその敵意を抹殺したからです。



 この神聖な奥義を実現させるのは神の聖霊です。神の聖霊が人に臨む時、その人は神の養子となり、こうして神の子であるイエスと義兄弟の絆を持つようになります。



エフェソス 1:3-5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちの主イエス・キリストの神また父がほめたたえられますように。[神]はわたしたちを,キリストとの結びつきのもとに,天の場所において,霊のあらゆる祝福をもって祝福してくださったからです。それは,世の基が置かれる前から[キリスト]との結びつきにおいてわたしたちを選び,わたしたちが愛のうちに,そのみ前にあって神聖できずのない者となるようにしてくださったとおりのことでした。[神]はそのご意志にかなうところにしたがい,わたしたちをイエス・キリストを通してご自身の養子とするようあらかじめ定めてくださり,こうして,

コリント第一 12:12-13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
体は一つであっても多くの肢体に分かれており,また体の肢体は多くあっても,その全部が一つの体を成しますが,キリストもそれと同じなのです。まさしくわたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと,奴隷であろうと自由であろうと,みな一つの霊によって一つの体へのバプテスマを受け,みな一つの霊を飲むようにされたからです。

ガラテア 4:6-7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
では,あなた方は子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。ですから,もはや奴隷ではなくて子です。そして,子であれば,神による相続人でもあります。



 このようにしてキリストと結ばれた者たちのことを聖書はなんと呼んでいるでしょうか。
 エホバの証人であれば、「小さな群れ」とか「14万4千人」といった表現を用いるでしょう。



ルカ 12:32

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。

啓示(黙示録) 12:12-13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。



 しかし聖書自身は、これらの表現を用語としては用いていません。
 聖書が用いているのは「聖なる者」という語です。ただし、この語の用法には混乱があります。

 ついに、聖書は神聖な奥義に関するひとつの重大な結論に達します。それは、キリストと結ばれた者はだれであろうと神にとってはイスラエル人であるということです。逆に言えば、たとえ肉のイスラエル人であっても、キリストと結ばれていないなら、その者は神にとってはイスラエルではないということです。



マタイ 3:7-9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
パリサイ人とサドカイ人が数多くバプテスマに来るのを見かけた時,[ヨハネ]は彼らにこう言った。「まむしらの子孫よ,来ようとしている憤りから逃れるべきことを,だれがあなた方に暗示したのですか。それなら,悔い改めにふさわしい実を生み出しなさい。そして,『わたしたちの父にアブラハムがいる』などと自分に言ってはなりません。あなた方に言っておきますが,神はこれらの石からアブラハムに子供たちを起こすことができるのです。

ローマ 2:28-29

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
外面の[ユダヤ人]がユダヤ人ではなく,また,外面の肉の上での割礼が[割礼]でもないのです。内面の[ユダヤ人]がユダヤ人なのであって,[その人の]割礼は霊による心の[割礼]で,書かれた法典によるものではありません。その人に対する称賛は,人間からではなく,神から来ます。

ローマ 4:11-12

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして彼はしるし,すなわち割礼を,無割礼の状態で得ていた信仰による義の証印として受けたのです。それは,無割礼の状態で信仰を持つ人すべての父となり,その人たちが義とみなされるためでした。それで,[彼は]割礼のある子孫の父ですが,割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく,無割礼の状態にありながら,わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても[父]なのです。

ガラテア 6:15-16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
割礼も無割礼も重要ではなく,ただ新しく創造されることが[重要]なのです。そして,この行動の規準にしたがって整然と歩むすべての人,その人たちの上に,そうです神のイスラエルの上に,平和と憐れみとがありますように。



 このようにして、イスラエル人(ユダヤ人)であるということの意味は劇的な転換を遂げることになります。聖書は最終的に、肉のユダヤ人をユダヤ人とはみなさなくなります。



○ キリスト教における新しいユダヤ人の定義

神にとってのユダヤ人とは、キリストと結ばれ、神から見たユダヤ人の生き方をしている人たちのことである。



 ところが、このようなあまりにも革新的な考え方のせいで、キリスト教は神学上の深刻な問題に直面することになります。考えてみてください。キリスト教にとってイスラエルとは“肉的イスラエル”ではなく“霊的イスラエル”であり、それはキリスト教に改宗したユダヤ人と、同じくキリスト教に改宗した非ユダヤ人とによって構成されます。この霊的イスラエルこそが、メシア預言において祝福を受けるとされるイスラエルの実体であるとされます。そうだとするなら、メシア預言において諸国民とされている人たちはいったい誰になるのでしょうか。
 たとえば次のような聖句を考えてください。この場合の諸国民は誰になるのでしょうか。



イザヤ 61:5-6

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「そして,よそからの者たちが実際に立って,あなた方の羊の群れを牧し,異国の者たちはあなた方の農夫やぶどう栽培者となる。一方あなた方は,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう。あなた方は諸国民の資産を食べ,彼らの栄光を受けつつ自分のことを意気盛んに話すであろう。



 キリスト教に改宗した人が国籍に関係なくみなイスラエルの立場に立つのだとすれば、彼らはいったい誰から祝福を受けるのでしょうか?

 この深刻な問題を解決するために提出されたのが、“霊的イスラエル”に対して“異邦人(諸国民)”である人たちがいるであろう、というさらに革新的な考え方です。このことは、聖書の巻末の書である啓示の書(黙示録)においてこのように表現されています。



啓示 7:4-10, 13-15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。ユダの部族の中から一万二千人が証印を押され,ルベンの部族の中から一万二千人,ガドの部族の中から一万二千人,アシェルの部族の中から一万二千人,ナフタリの部族の中から一万二千人,マナセの部族の中から一万二千人,シメオンの部族の中から一万二千人,レビの部族の中から一万二千人,イッサカルの部族の中から一万二千人,ゼブルンの部族の中から一万二千人,ヨセフの部族の中から一万二千人,ベニヤミンの部族の中から一万二千人が証印を押された。これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」。
すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。



◇ 「啓示の書―その壮大な最高潮は近い!」, ものみの塔聖書冊子協会

これは文字通りの肉のイスラエルを指しているのではないでしょうか。いいえ,そうではありません。啓示 7章4節から8節の一覧表は,通常の部族の一覧表とは異なっているからです。(民数記 1:17,47) ここの一覧表は明らかに,肉のユダヤ人を部族によって見分けるためではなく,霊的なイスラエルのための同様の組織的な構造を示すためのものです。このイスラエルは釣り合いが取れています。この新しい国民の成員は,12部族の各々から1万2,000人ずつ取られて,ちょうど14万4,000人になります。



◇ 「聖霊―来たるべき新秩序の背後にある力」, ものみの塔聖書冊子協会

この数知れぬ「大群衆」は,数を限定されている14万4,000人の霊的イスラエル人の一部ではありません。彼らは「生ける神の証印」をもってその額に証印を押されてはいません。神の子羊と共に天のシオンの山に立っているとも述べられてはいません。彼らは「神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」とも述べられていません。国籍について言えば,14万4,000人が霊的なイスラエル人であるのに比べ,彼らは異邦人,あらゆる国民から来た人々です。



◇ 「ものみの塔」誌1978年10月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

「大群衆」は謙そんにも,イザヤ 61章6節(新)の中で「エホバの祭司」また「わたしたちの神の奉仕者」と呼ばれている人々と共に霊的パラダイスの中で奉仕することを,誉れとし特権とみなしました。……こうして今日の「よそ人」また「異国人」は,残りの者が,エホバの霊で油そそがれているゆえに彼らにかかっている責務を遂行できるよう彼らを助けます。……「大群衆」の人々はこのように,み座にいます宇宙の主権者なる主に神聖な奉仕をささげる者として描かれています。……その「よそ人」また「異国人」の「大群衆」はきたるべき「大患難」を生き残ります。



○ キリスト教における新しい異邦人の定義

神にとっての異邦人(諸国民)とは、霊的イスラエルに追従し仕える人々のことである。



 この聖句をギリシャ語パースの観点から見るとどうなるでしょうか。



啓示 7:4, 9

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。
これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。



 最初のパースは、霊的イスラエルの部族によって限定されていますので、限定的なパースです。続くパースも同様ですが、先に述べられた霊的イスラエルがそこに含まれていませんので、例外を除外するパースであるとも言えます。

 ところが、結論を先に述べておくと、これは間違いです。問題は、このパースはどこまで排他的なのかということです。例外を除外するパースは、表向きは排他的であっても、実際の用法を見てみると、本来は共通のグループを主眼点とその残りという具合に分類しているに過ぎなかったりする場合があります。つまり、例外を除外するパースの排他的働きはしばしば不明瞭です。もし、この句のパースがそのようであれば、ここで述べられている二つのグループは実際には一つのグループである可能性があります。一方、パースの排他的用法では、その排他的な働きは顕著です。結論としては、これらのパースは排他的用法です。述べられている二つのグループが共通のグループである可能性はありません。この点についてはあとで詳しく説明します。

 続いて、先ほど言及した用語の混乱について深く考えましょう。聖書は、聖霊を受けてキリストと養子縁組により結ばれ神の子となった者を「聖なる者」と呼びます。しかし、聖書の記述を調べると、「聖なる者」という用語はユダヤ教のクリスチャン、つまりユダヤ人のクリスチャンと割礼を受けてユダヤ教に改宗した非ユダヤ人クリスチャンとにも用いられています。聖書にはこの二つの用法が混在しています。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
 これにはキリスト教の成立の過程が関係しています。キリスト教の最初期において、キリスト教に転向したのは、ユダヤ教の人々、つまりユダヤ人とユダヤ教に改宗した非ユダヤ人だけでした。その人たちだけが「聖なる者」になり得たのです。そののち、非ユダヤ教の人々もキリスト教に転向するようになり、彼らも聖霊を受けて「聖なる者」になりましたが、「聖なる者」の最初期の用法はその後も用いられ続け、こうして混乱が生じました。聖書がこの混乱について気にしている様子はありません。混乱したままです。

 ここでさらにもう一つ、用語について理解しておくべき点があります。新約聖書においてはクリスチャンをユダヤ教のクリスチャンと非ユダヤ教のクリスチャンに分ける考え方が強く影響力を及ぼしたため、多くの場合、新約において「ユダヤ人」と言えばそれはユダヤ教のクリスチャンを表しています。つまり、新約におけるユダヤ人にはユダヤ教に改宗した非ユダヤ人が含まれます。

 では、聖書に見られる「聖なる者」の用法の混乱はどのようでしょうか。これを実際に見てみましょう。



コリント第一 1:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神のご意志によりイエス・キリストの使徒となるために召されたパウロと,わたしたちの兄弟ソステネから,コリントにある神の会衆,キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの[主]である方の名を呼び求めているすべての人たちへ:



 ここでは、聖なる者たちとほかのすべての人たちとが分けられています。クリスチャンとなった人であってもある人々は聖なる者ではないかのような言い方です。ここではユダヤ人クリスチャン(ユダヤ教のクリスチャン)と非ユダヤ人クリスチャンとに言及がなされていると考えることができるでしょう。
 同じような言い回しはパウロの書簡の冒頭に頻繁に見られます。



コリント第二 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神のご意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロと,[わたしたちの]兄弟テモテから,コリントにある神の会衆,ならびに全アカイアのすべての聖なる者たちへ:

エフェソス 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神のご意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから,[エフェソスに]いる聖なる者たち,およびキリスト・イエスと結ばれた忠実な者たちへ:

フィリピ 1:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテから,フィリピにいる,キリスト・イエスと結ばれたすべての聖なる者,ならびに監督たちと奉仕の僕たちへ:

コロサイ 1:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
神のご意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロと,[わたしたちの]兄弟テモテから,コロサイにいる,キリストと結ばれた聖なる者たち,また忠実な兄弟たちへ:
わたしたちの父なる神からの過分のご親切と平和があなた方にありますように。



 このような表現がいくつもあると、どうでしょうか。聖書の勉強に励んでいても、聖なる者という表現にユダヤ人クリスチャンを指す用法があることを知らないという人はたくさんいます。その人は、聖なる者とはキリストと結ばれた者のことであると思っていますから、これはどういうことだろうと思うことになります。原始キリスト教においてキリスト教の信者となった人たちには、キリストと結ばれて聖なる者となれた人とそうなれなかった人との二種類があるのでしょうか。もしそうだとしたら、たいへんです。現代のキリスト教会は洗礼を受けてキリスト教徒になった人は聖なる者であると教えていますから、それが嘘であるということになります。
 果たして、クリスチャンとなった者はすべてが聖なる者となるのでしょうか。この答えを知るには聖書が「聖なる者」という表現をどのように用いているかを分析する必要があるでしょう。そして、このような疑問を抱いて調査を始めた人はこの問題が深刻であると気づかされることになります。

 コリント人への手紙を見てみましょう。



コリント第一 7:14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
信者でない夫は妻との関係で神聖なものとされ,信者でない妻は兄弟との関係で神聖なものとされているからです。そうでなければ,あなた方の子供は実際には清くないことになります。でも今,彼らは聖なる者なのです。



 短絡的に読むなら、子供の信者は大人の信者と同様に聖なる者であると指摘されているように思えます。しかし、事実はそうでないようです。この記述は、信者でない者が聖なる者とみなされることについて述べており、同じ論理によって子供も聖なる者とみなされるということを述べているわけですから、子供の信者は実際のところ聖なる者ではないということが理解できます。この記述は、大人の信者は聖なる者であるが子供の信者は聖なる者でないということを述べているようです。あるいは、子供はそもそも信者でないということを示しているのかもしれません。

 エフェソス人の手紙を見てみましょう。



エフェソス 1:13-19

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしあなた方も,真理の言葉,すなわちあなた方の救いについての良いたよりを聞いた後,この方に望みを置きました。そして信じた後,やはりこの方により,約束の聖霊をもって証印を押されたのです。それはわたしたちの相続財産に関する事前の印であり,また,[神]ご自身の所有物を贖いによって釈放し,その栄光ある賛美とすることを目的としています。そのゆえにわたしも,あなた方が主イエスに対し,またすべての聖なる者たちについて抱く信仰について聞くにつけ,あなた方のことを感謝してやみません。わたしは自分の祈りの中で引き続きあなた方のことを述べています。わたしたちの主イエス・キリストの神,栄光の父が,ご自身についての正確な知識という点で知恵と啓示の霊をあなた方に与えてくださるようにするため,[また,]あなた方の心の目が啓発されて,[神]があなた方を召してくださったその希望は何か,聖なる者たちのための相続財産として[神]が擁しておられる栄光ある富は何か,そして,わたしたち信じる者に対する[神]の力の卓抜した偉大さがどんなものかを,あなた方が知るようになるためです。それは[神]の強大な力の働きによるのであり,



 13節ではエフェソスの信者たちが聖なる者となったと読めますが、続く記述ではどうもあいまいです。読みようによっては、彼らはまだ聖なる者ではないというふうにも理解できます。ひどい読み方をすると、エフェソスのクリスチャンは聖なる者の所有物を分けてもらえる立場にあるとか、聖なる者の所有物の立場にあるなどとも考えることができます。
 ここでの聖なる者とは誰でしょうか。ユダヤ人クリスチャンのことであると考えることも、エフェソスのクリスチャンを除いたすべての聖なる者であると考えることもできそうです。



エフェソス 1:15

◇ リビングバイブル ◇ (ファンダメンタル)
こういうわけで、私は、主イエスに対するあなたがたの信仰と、ほかのクリスチャンに対する愛とを耳にして以来、



 エフェソス人への手紙には似たような表現がさらにあります。



エフェソス 2:19, 3:16-19

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それゆえ,あなた方はもはや決してよそ者や外人居留者ではありません。聖なる者たちと同じ市民であり,神の家族の成員なのです。
その栄光の富にしたがい,その霊による力をもって,あなた方の内なる人を強くしてくださり,[あなた方の]信仰により,あなた方の心の中に,愛をもってキリストを住まわせてくださるようにするためです。これは,あなた方がしっかり根ざして土台の上に堅く立つため,そうしてあなた方が,すべての聖なる者たちと共に,幅と長さと高さと深さがどれほどであるかを悟ることも,知識を超越したキリストの愛を知ることも十分できるようになり,こうしてあなた方が神の与えてくださる満ち満ちたさまに余すところなく満たされるためなのです。



 ここでも、エフェソスのクリスチャンは聖なる者であるということを述べているように読めますが、あいまいです。エフェソス人のクリスチャンは聖なる者であれば当然満たしているはずの条件をまだ満たしていないという書き方になっています。
 リビングバイブルはこの問題を訳文の改変によって克服しようと努力したようですが、結果的に、何が問題であるかを説明した状態になっています。



エフェソス 3:18-19

◇ リビングバイブル ◇ (ファンダメンタル)
そして、〔神様の子供とされた者にとっては当然のことですが〕神様の愛が実際にどれほど長く、どれほど広く、どれほど深く、どれほど高いかを知り、また理解できますように。 さらに、それを身をもって経験できますように。 もっとも、この愛はあまりにも大きいので、それを見極め、完全に把握することは、とても無理ですが。 こうして、あなたがたはついに、神ご自身によって満たされるのです。



 コロサイ人への手紙も似たり寄ったりです。



コロサイ 1:4, 9-12

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それは,キリスト・イエスに関するあなた方の信仰と,あなた方のため天に蓄えられている希望のゆえにあなた方が聖なる者たちすべてに対して抱く愛とについて聞いたからです。
そのゆえにもまた,わたしたちは,[それについて]聞いた日以来,あなた方があらゆる知恵と霊的な把握力とにより,[神]のご意志に関する正確な知識に満たされるようにと祈り求めてやみません。それは,あなた方があらゆる良い業において実を結び,また神に関する正確な知識を増し加えつつ,[神に]じゅうぶん喜ばれる者となることを目ざしてエホバにふさわしい仕方で歩むためであり,また,あらゆる力をもって[神]の栄光ある強大さのほどにまで強力にされ,十分に耐え忍ぶ者,また喜んで辛抱する者となり,あなた方を光にある聖なる者たちの相続財産にあずかるにふさわしい者としてくださった父に感謝をささげるためです。



 テサロニケ人への手紙はどうでしょうか。



テサロニケ第一 3:13

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
これは,その聖なる者たちすべてを伴ったわたしたちの主イエスの臨在の際に,わたしたちの神また父のみ前にあって,あなた方の心を確固たるもの,神聖さの点で責められるところのないものとしていただくためなのです。

テサロニケ第二 1:10

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それは彼が来て,その聖なる者たちとの関係で栄光を受ける時,またその日,信仰を働かせたすべての者との関係で,[そうです,]わたしたちのした証しがあなた方の間で信仰をもって迎えられたゆえに,彼が驚異の目で見られる[時]のことです。



 ハルマゲドンの時テサロニケのクリスチャンは聖なる者の立場に立たないというような表現になっています。

 ヘブライ人への手紙はユダヤ人のクリスチャンに向けて書かれました。つまりこの手紙の読者ははじめから聖なる者であるということになります。



ヘブライ 6:9-12

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,愛される者たちよ,わたしたちはこのように語りながらも,あなた方に関しては,より良い事柄,また救いを伴う事柄を確信しています。神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,[こうして]み名に示した愛とを忘れたりはされないからです。しかしわたしたちは,あなた方一人一人が同じ勤勉さを示して,希望に対する全き確信を終わりまで保つようにと願います。それは,あなた方が怠惰になったりせず,むしろ,信仰と辛抱とによって約束を受け継ぐ人々に見倣う者となるためです。

ヘブライ 12:14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
すべての人に対して平和を追い求めなさい。また,神聖なものとされることを[追い求めなさい]。それなくしてはだれも主を見ることはありません。



 あなたたちはまだ聖なる者ではないので聖なる者となるよう努力しなさい、ということを述べているように見えます。ここで用いられている「主を見る」という表現はキリストと結ばれて天に召されることを指す婉曲表現ですから、これらの記述を別の意味に読み替えることは困難です。

 ガラテア人の手紙はどうでしょうか。すでに示した聖句にもう一度注目しましょう。



ガラテア 6:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,この行動の規準にしたがって整然と歩むすべての人,その人たちの上に,そうです神のイスラエルの上に,平和と憐れみとがありますように。



 表面的に読むと、ガラテアのクリスチャンはすなわち聖なる者であるということを述べているように思えます。しかし、先に見たヘブライ人への手紙の表現と比較すると、ガラテアのクリスチャンはこれから努力して聖なる者とならなければならないということを述べているようにも思えます。
 もしかすると、この聖句は翻訳を間違えているかもしれません。ガラテア人への手紙には、他のパウロの手紙に見られるような聖なる者に言及する挨拶の言葉がありません。その代わり手紙の末尾にこの表現があります。ですからこの表現は「新しい行動の基準にしたがって歩むすべての人と神のイスラエル」について語っているのかもしれません。

 しかし一方でこのような表現があります。



ガラテア 3:26-27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
現にあなた方は,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。



 この句は、エホバの証人とキリスト教諸教会が救いについて議論する場において、諸教会側から頻繁に提示されます。この部分だけを見ると、一般のキリスト教会が認めているように、洗礼を受けたクリスチャンは全員が聖なる者であるということになります。
 しかし、ここで考えなければならないのは、これまで何度も見てきたように、こういう時のギリシャ語パースはしばしばその意味をなさないという点です。このような場合のパースは、キリストへのバプテスマを受けた者のうちキリストと結ばれて聖なる者となった者に限って言えばそれは聖なる者である、ということを述べているにすぎないのかもしれません。逆に言うと、キリストへのバプテスマを受けても信仰が足りずキリストを身に着けていない人がいればその人は聖なる者ではない、ということを言っているのかもしれません。

 このように、聖なる者についての聖書の記述は混乱しています。結論としてはどういうことが言えるでしょうか。よくわからない、と言うよりほかありません。この問題を解決するには聖なる者についての聖書の記述を調べるだけでは足りないようです。もっと別の観点からの考察が必要です。

 ただ、今見た内容からギリシャ語パースの用法についてさらに考察を深めることができます。聖書が聖なる者について言及する時、頻繁にギリシャ語パースが使用されるのはなぜでしょうか。たとえばコリントのクリスチャンたちと聖なる者たちとについて述べる際、ギリシャ語パースは別になくてもよいのではないでしょうか。エフェソスのクリスチャンが聖なる者に対して信仰を抱いていることを述べる際も同様です。それなのに実際にはギリシャ語パースは多用されています。ここから以下のようなことが考えられます。このような場合、ギリシャ語パースの「すべて」という語義は根本的に無視され、単にその排他性に注意が向けられているのかもしれません。つまり、クリスチャンを二つのグループに分けて考えた時、その両者の間にはっきりとした区別と格差があるということのみを、ギリシャ語パースは伝えているのかもしれません。そうだとすると、救いに関する場面で用いられるパースについても同じことが言えるでしょう。そのようなときのパースは、救われる者と滅びる者との間にある根本的な隔たりを示唆しているのかもしれません。

 聖なる者についての問題を解決するにはどういった考察が効果的でしょうか。もしかするとある人は、代名詞の問題について深く考えることが必要だ、と言うかもしれません。確かに、私がこの文書の結論として述べようとしている事柄からすると、それは必要でしょう。しかし私にはそれを話すつもりが全くありません。これから私が書くのは、バプテスマについてです。

 キリスト教のバプテスマのルーツとなったのはヨハネによって行われていた悔い改めのバプテスマです。キリスト教のバプテスマを始めるに際し、イエスは自らヨハネのもとに行き、バプテスマを受けることにします。



マタイ 3:13-17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その時,イエスはガリラヤからヨルダンに,ヨハネのところに来られたが,彼からバプテスマを受けるためであった。しかし,[ヨハネ]は彼をとどめようとして言った,「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたが私のもとにおいでになるのですか」。イエスは答えて言われた,「この度はそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなったことをすべて果たすのはふさわしいことなのです」。そこで[ヨハネ]はとどめるのをやめた。バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,[イエス]は,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。見よ,さらに天からの声があって,こう言った。「これはわたしの子,[わたしの]愛する者である。この者をわたしは是認した」。



 イエスがバプテスマを受けるとすぐに聖霊がイエスに下り、イエスは聖霊を受けた者となりました。
 バプテスマというのは本来、洗礼ではなく浸礼であり、全身を水に沈めます。そして、イエスが水から上がると聖霊が下ったとありますから、バプテスマと聖霊の注ぎは連続しているように思えます。しかし、並行記述を見ると少し違うということが分かります。



ルカ 3:21-22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,民が皆バプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。そして,祈っておられると,天が開け,聖霊がはとのような形をとって彼の上に下り,また天から声があった。「あなたはわたしの子,[わたしの]愛する者である。わたしはあなたを是認した」。



 バプテスマと聖霊の注ぎとの間には幾らかの時間があるようです。イエスの場合、バプテスマを受けることと聖霊を受けることとは同時に起こりませんでした。

 イエスの12人の弟子たちはどうでしょうか。意外に思うかもしれませんが、福音書には弟子たちがイエスからバプテスマを受けたという記述がありません。復活したイエスの言葉からすると、もしかすると十二使徒はヨハネからしかバプテスマを受けていないのかもしれません。



使徒 1:5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ヨハネは確かに水でバプテスマを施しましたが,あなた方はこれから幾日もたたないうちに聖霊をもってバプテスマを施されるからです」。



 しかし、イエスが十二使徒を使ってバプテスマを行わせていたことを考えると、おそらくですが、十二使徒はイエスからバプテスマを受けたのでしょう。



ヨハネ 4:1-2

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,イエスがヨハネより多くの弟子を作ってバプテスマを施していることがパリサイ人たちの耳に入ったが,そのことにお気づきになった時―だが実際のところ,イエスご自身はバプテスマを施すことはされず,その弟子たちがそうしていたのであるが―



 キリスト教のバプテスマを受けていない者がキリスト教のバプテスマを施すというのは変だ、ということです。

 聖霊の注ぎについてはどうでしょうか。先に示した聖句で聖霊の注ぎは「聖霊のバプテスマ」と呼ばれています。聖書の記述によると、十二使徒を含むイエスの弟子たちは、イエスの死後しばらくするまで、だれも聖霊を受けませんでした。つまり、イエス直系の弟子たちの場合も、バプテスマを受けることと聖霊を受けることとは同時に起こりませんでした。

 弟子たちに対する聖霊の注ぎはイエスの約束によるものです。



ヨハネ 14:15-21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「もしわたしを愛するなら,あなた方はわたしのおきてを守り行なうでしょう。そしてわたしは父にお願いし,[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊であり,世はそれを受けることができません。それを見ず,また知らないからです。あなた方はそれを知っています。それはあなた方のもとにとどまり,あなた方のうちにあるからです。わたしはあなた方を取り残されたままにはしておきません。わたしはあなた方のもとに来るのです。あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ないでしょう。しかしあなた方はわたしを見ます。わたしは生きており,あなた方も生きるからです。その日にあなた方は,わたしが父と結びついており,あなた方がわたしと結びついており,わたしがあなた方と結びついていることを知るでしょう。わたしのおきてを持ってそれを守り行なう人,その人はわたしを愛する人です。さらに,わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。そしてわたしはその人を愛して,自分をはっきり示します」。



 イエスは昇天後、エホバに願いを述べて「助け手」つまり聖霊を弟子たちに注ぎます。するとどうなるでしょうか。かつてイエスがバプテスマを受け、聖霊を注がれ、エホバと結ばれたように、今度は弟子たちが、エホバと結ばれたイエスと結ばれることになります。そして、その人はイエスを愛してイエスのおきてを守り行う人です。これは何を意味しているでしょうか。たとえバプテスマを受けてもイエスの教えを守っていない人がいるならその人には聖霊が注がれないということのようです。

 復活後イエスは弟子たちに現れてこのように述べます。



ルカ 24:48-49

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,見よ,わたしはあなた方の上に,わたしの父によって約束されているものを送ります。しかしあなた方は,高い所からの力を授けられるまでは,市内に滞在していなさい」

使徒 1:4-5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,彼らと会合しておられた時に,この指示をお与えになりました。「エルサレムを離れないで,父が約束され,またわたしから聞いたものを待っていなさい。ヨハネは確かに水でバプテスマを施しましたが,あなた方はこれから幾日もたたないうちに聖霊をもってバプテスマを施されるからです」。



 そしてついにイエスの約束通りのことが起こります。



使徒 2:1-4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,ペンテコステの[祭りの]日が進行していた時,彼らは皆一緒に同じ場所にいた。すると突然,激しい風の吹きつけるような物音が天から起こり,彼らの座っている家全体を満たした。そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってあちらこちらに配られ,彼ら各々の上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,霊が語らせるままに異なった国語で話し始めたのである。



 文脈は、およそ120名の弟子たちがこの時聖霊を受けたことを示しています。



使徒 1:15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,そうした日のこと,ペテロは兄弟たちの真ん中に立って,こう言った(その群れの人々は全部で百二十名ほどであった)。



 彼らは聖霊を受けただけでなく、その奇跡の力によって“異言”と呼ばれる能力を授かります。

 ここで気になるのは、聖霊を受けたのがエルサレムにいた120名だけだったという点です。イエスはこれまで様々なところを回って大勢の人にバプテスマを施しました。それらの人々はユダヤの全域にばらばらに住んでいましたが、彼らには何も起こりませんでした。エルサレムで120名が聖霊を注がれたその同じ時にユダヤの全地方に散った弟子たちにも同じことが、とはならなかったのです。
 どうしてでしょうか。それは彼らが復活したイエスの「エルサレムを離れないように」という指示に従わなかったからです。
 聖書によると、イエスは復活したのち大勢の人たちに現れました。多いときは一度に500人もの弟子たちと面会しました。



コリント第一 15:3-8

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
というのは,わたしは,最初の事柄の中で,[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,さらに,ケファに現われ,次いで十二人に[現われた]ことです。そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっていますが,[死の]眠りについた人たちもいます。そののち彼はヤコブに,次いですべての使徒たちに現われました。しかし,すべての者の最後として,あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように,わたしにも現われてくださいました。



 彼らの大半はイエスの指示に従いませんでした。彼らはイエスを信じていたには違いないでしょうが、信仰が足りなかったために、私には日常の生活があるからと言って自分の家に帰ってしまったのでしょう。彼らはバプテスマを受けていましたが、聖霊を受けませんでした。



使徒 2:5-11, 37-41

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ところで,エルサレムには,天下のあらゆる国から来たユダヤ人で,敬虔な人々が住んでいた。そして,この音が起こった時,大勢の人が共にやって来て,あっけに取られてしまった。彼らが自分の言語で話しているのをめいめいが聞いたからである。実際,彼らは非常に驚き,不思議がって言いだした,「まあ,見なさい,話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか。それなのに,わたしたちがそれぞれ自分の生まれた[国の]言語を聞くとはどうしてなのか。パルチア人,メディア人,エラム人,そして,メソポタミア,またユダヤとカパドキア,ポントスとアジア[地区],それにフリギアとパンフリア,エジプト,そしてキレネのほうにあるリビア各地の住民,またローマから来てとう留している者で,ユダヤ人も改宗者もおり,[また]クレタ人やアラビア人なのに,そのわたしたちが,神の壮大な事柄について彼らがわたしたちの国語で話すのを聞いているのだ」。
さて,これを聞くと,彼らは心を刺され,ペテロやほかの使徒たちに言った,「皆さん,兄弟たち,わたしたちはどうしたらよいのですか」。ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。この約束はあなた方とあなた方の子供たち,また遠く離れたすべての人,わたしたちの神エホバがそのもとに召される人すべてに対するものなのです」。そして彼は他の多くの言葉で徹底的な証しをし,しきりに説き勧めて彼らに言った,「この曲がった世代から救われなさい」。そのため,彼の言葉を心から受け入れた者たちはバプテスマを受け,その日におよそ三千人の魂が加えられた。



 神の聖霊の奇跡により、一度に3,000人もの信者が生まれます。信者になったのはユダヤ人でした。それはユダヤ教に改宗した非ユダヤの人々も含む「ユダヤ人」です。

 これら3,000人の人々はバプテスマを受けましたが、聖霊はいつ受けたのでしょうか。私がこのように質問を述べると、聖書の知識に通じたキリスト教徒の方々は不意を打たれるかもしれません。だって、彼らはバプテスマを受けると同時に聖霊を受けたに決まっているではありませんか。ところがです。聖書には肝心の記述がないのです。ペテロが「バプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊を受けるでしょう」と述べたとは書かれています。そこで彼らはバプテスマを受けたとも記録されています。しかし、すると彼らにも聖霊が下ったとか、その結果彼らも次々と異国の言葉で語り始めたというような記述がないのです。



使徒 2:43-47

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
実に,恐れがすべての魂に臨むようになり,多くの異兆やしるしが使徒たちを通して起こりはじめたのである。信者となった者たちは皆ともにすべての物を共有し,また,自分たちの所有物や財産を売っては,それぞれの必要に応じて,その[収益]をすべての者に分配するのであった。そして,思いを一つにして日々絶えず神殿におり,また個人の家々で食事をし,大いなる歓びと誠実な心とをもって食物を共にし,神を賛美し,民のすべてから好意を受けた。同時にエホバは,救われてゆく者たちを日ごとに彼らに加えてゆかれた。



 つまり、この3,000人がバプテスマと同時に聖霊を受けたかどうかはわからないのです。しかし文脈が暗に答えを示しています。彼らはこの時聖霊を注がれなかったようです。



使徒 4:1-4, 23-31

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,[二人]が民に話している間に,祭司長たち,そして神殿の指揮官やサドカイ人たちがそのもとにやって来たが,彼らが民を教え,イエスに起きた死人の中からの復活についてはっきり告げ知らせているので,いらだっていた。そして,彼らに手をかけて捕らえ,次の日まで拘留した。すでに夕方になっていたからである。しかし,話されたことを聴いた人々のうち大勢の者が信じ,男の数はおよそ五千人になった。
釈放されたのち,彼らは自分たちの仲間のところに行き,祭司長や年長者たちが言った事柄すべてを伝えた。それを聞くと,彼らは思いを一つにし,神に向かい声を上げてこう言った。 「主権者なる主よ,あなたは,天と地と海とその中のすべてのものを造られた方であり,また,聖霊を通じ,あなたの僕,わたしたちの父祖ダビデの口によって言われました,『なぜ諸国民は騒ぎ立ち,もろもろの民はむなしい事柄を思い巡らしたのか。地の王たちは立ち構え,支配者たちは一団となってエホバに逆らい,その油そそがれた者に逆らった』と。まさしく,ヘロデとポンテオ・ピラトの両人は,諸国の人々と共に,またイスラエルの諸民と共に,あなたの聖なる僕イエス,あなたが油そそいだ方に逆らってこの都市に実際に集まりました。あなたのみ手とみ旨によって,起こることがあらかじめ定められた事柄を行なうためでした。それで今,エホバよ,彼らの脅しに注意を向け,あなたの奴隷たちがあらんかぎりの大胆さをもってみ言葉を語りつづけることができるようにしてください。そして,いやしのためにみ手を伸ばしてくださり,あなたの聖なる僕イエスの名によってしるしや異兆が起きますように」。こうして祈願を終えると,彼らの集まっていた場所は揺り動いた。そして彼らはひとり残らず聖霊に満たされ,神の言葉を大胆に語るのであった。



 そののちしばらくして、バプテスマとは直接関係がないのですが、このような出来事が起こります。



使徒 6:1-7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,そのころ,弟子が増えていた時であるが,ヘブライ語を話すユダヤ人に対してギリシャ語を話すユダヤ人がつぶやくということが起こった。そのやもめたちが日ごとの分配の面で見過ごされていたからである。そこで十二人の者は,大勢いた弟子を自分たちのもとに呼んで,こう言った。「食卓に[食物を]分配することのためにわたしたちが神の言葉を差し置くのは喜ばしいことではありません。それで,兄弟たち,あなた方の中から,霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです。しかしわたしたちのほうは,祈りとみ言葉の奉仕とに専念することにします」。こうして話されたことは大勢の者全員の喜ぶところとなった。それで彼らは,信仰と聖霊に満ちた人ステファノ,およびフィリポ,プロコロ,ニカノル,テモン,パルメナ,またアンティオキアの改宗者ニコラオを選び出した。そして彼らを使徒たちの前に立たせると,[使徒たち]は祈ってから彼らの上に手を置いた。



 やもめの世話にかかわるトラブルを解決するために7人の男子が任命されます。さて、この7人は聖霊を注がれた人だったでしょうか。私がこのように質問を述べると、あなたは直ちに抗議するかもしれません。だって、“彼らは信仰と聖霊と知恵に満ちている”と聖書に書かれているではありませんか、答えが書いてあるのですから質問するまでもないでしょう。ところがです。この問題はそれほど簡単ではないのです。すこし要点を整理しましょう。私たちは今、聖霊を注がれることについて考えています。それは、聖霊の力が人に宿ることによってその人がキリストと結ばれて「聖なる者」もしくは「神の子」となることを指しています。しかし、聖霊の注ぎの効果はそれだけではないのです。聖書には聖霊を注がれてもキリストと結ばれなかった人がたくさん出てきます。



◇ 神の霊に導かれる―1世紀そして現代, 「ものみの塔」誌2011年12月15日号

エホバは聖霊によって,独り子を死人の中から天の不滅の命によみがえらせましたが,その同じ霊を用いて,油そそがれた人たちに「養子縁組の霊」,つまり神の子としての意識を与えます。(ローマ 8:11,15を読む。)エホバが宇宙全体の創造に用いたのも聖霊でした。(創 1:1-3)さらにエホバは,その同じ霊により,ベザレルには幕屋に関連した特別な仕事の資格を得させ,サムソンには並々ならぬ強さが必要な行動を取らせ,ペテロには水の上を歩けるようにさせました。ですから,神の霊を持っていることと,神の霊によって油そそがれていることを,混同しないようにしましょう。後者は霊の働きの特殊な一面にすぎません。霊による油そそぎは神の選びに依存しています。神の聖霊はいつの時代も,そうです,霊による油そそぎが始まる前の数千年間も,さまざまなかたちで忠実な僕たちの上に働いてきました。確かに西暦33年のペンテコステには,聖霊の新しい働きが始まりましたが,それは永遠に続くわけではありません。霊によるバプテスマはいずれ終わりますが,神の民が永遠にわたり神のご意志を行なえるよう,聖霊は引き続きその民の上に働きます。



 キリストと結ばれるという効果は期間限定のものです。その期間に生きなかった人は聖霊を注がれてもキリストと結ばれたりはしませんでした。

 聖霊を注がれてもキリストと結ばれなかった人の判りやすい例として、アポロを挙げることができます。



使徒 18:24-25

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,アポロという名のユダヤ人で,アレクサンドリア生まれの雄弁な人がエフェソスに着いた。彼は聖書によく通じていた。この[人]はエホバの道を口伝えに教えられており,霊に燃えていたので,イエスに関する事柄を正しく話したり教えたりするようになったが,ヨハネのバプテスマについて知っているのみであった。



 この人はキリスト教のバプテスマを受けていませんでしたので、聖霊を受けていてもキリストと結ばれてはいなかったようです。

 もう一人、バプテスマを施したヨハネを挙げることができます。



ルカ 1:15

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼はエホバのみ前で偉大な者となるからである。しかし,彼はぶどう酒や強い酒をいっさい飲んではならない。彼は,まさにその母の胎[にいる時]から聖霊に満たされる。

ルカ 16:16

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「律法と預言者たちとはヨハネまででした。その時以来,神の王国は良いたよりとして宣明されており,あらゆるたぐいの人がそれに向かって押し進んでいます。

マタイ 11:11

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に真実に言いますが,女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です。

ヨハネ 3:5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
イエスは答えられた,「きわめて真実にあなたに言いますが,水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできないのです。



 ヨハネは生まれる前から聖霊を注がれていましたが、イエスが死ぬより先に死にました。つまり、ヨハネがキリストと結ばれることはありませんでした。

 そうすると、先の質問の答えはどうなるでしょうか。実はよくわからない、となります。とはいえ、これについても文脈が暗に答えを示しています。



使徒 6:7

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
その結果,神の言葉は盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった。



 使徒たちが手を置いた結果トラブルは解消され、とは書かれていないことに注目してください。聖書はトラブルがどうなったかという点を全く無視しています。そんなことよりも大切なことがあるからです。ここでは「神の言葉が盛んになった」という言い回しが用いられており、手を置いた結果聖霊の注ぎによって異言や異兆が起こるようになったということが暗に示されています。この記述は、按手(手を置くこと)によって神からではなく人から聖霊を授けることができるということが偶然発見されたということを報告しているようです。それまでは聖霊を受けるために集団で熱烈な祈りを捧げていましたが、もうそれは不要だということです。

 この7人のうちの1人であるフィリポはサマリアに行きます。



使徒 8:5, 14-17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そのひとりフィリポは,サマリア市に下り,人々にキリストを宣べ伝えはじめた。
サマリアが神の言葉を受け入れたことを聞くと,エルサレムにいる使徒たちはペテロとヨハネを彼らのもとに派遣した。それでふたりは下って行き,彼らが聖霊を受けるようにと祈った。それは彼らのうちのだれにもまだ下っておらず,彼らはただ主イエスの名においてバプテスマを受けていただけだったからである。それからふたりが彼らの上に手を置いてゆくと,彼らは聖霊を受けるようになった。



 サマリアにはユダヤ教の分派である「サマリア人」が住んでいました。この人たちはいわゆる「ユダヤ人」つまりユダヤ教徒であるとは見なされていませんでしたが、紛れもなくエホバの崇拝者でした。さて、これまでバプテスマを受けてキリスト教に改宗できたのはユダヤ教の立場にある人々だけでした。では、サマリア人たちにキリスト教の救いは及ぶのでしょうか。その疑問に対する答えがここで示されました。彼らはバプテスマを受けただけでなく聖霊も受けましたから、彼らのキリスト教への改宗をこの時神が認めたのだということが解ります。

 フィリポはバプテスマを施しましたが、手を置いて聖霊を授けることはしませんでした。そこでわざわざ十二使徒のうち二人が出ていって聖霊を授けます。フィリポはなぜ手を置かなかったのでしょうか。文脈が暗にその答えを示しています。

 この辺までくると皆さんもそろそろ流れがつかめるようになってきたと思います。ルカによって記されたバプテスマに関する物語では、本来なら直接的に解説すべきことを極力省いて間接的に示すという手法が用いられています。そこで重要になるのが文脈です。理解すべき要点は文脈によって暗示されているのです。ですから、これに続く記述も、たまたまこの時にそのような出来事があったからそこに記されている訳ではありません。ルカがここで示したいという要点があるからこの話はこの位置に挿入されているのです。



使徒 8:18-21

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,使徒たちが手を置くことによって霊が与えられるのを見た時,シモンは彼らに金を差し出して,こう言った。「わたしにもその権威を与えて,だれでもわたしが手を置く人が聖霊を受けられるようにしてください」。しかしペテロは彼に言った,「あなたの銀はあなたと共に滅びてしまうように。あなたは神の無償の賜物を金銭によって手に入れようと考えたからです。この事においてあなたにはあずかる分も受け分もありません。あなたの心は神から見てまっすぐではないからです。



 フィリポが手を置かなかったのは、そうする権限を持っていなかったからです。手を置いて聖霊を与える業務はごく一部の人の独占的職権によるものでした。
 おそらくですが、シモンはバプテスマを受けていましたが聖霊を受けることはできませんでした。それは、聖霊を与える職権を独占した者がそれを拒否すればだれも聖霊を受けられないということを示唆しています。別の言い方をすれば、だれが聖霊を受けるか受けないかを特権階級に属する一部の人が独断で決めることができたということです。

 この職権はどのような人に与えられたのでしょうか。聖書はそれをはっきり示してはいませんが、いろいろな記述から、使徒職を持つ者にその職権は与えられたと推論することができます。ここで言う「使徒」とは広い意味での使徒です。イエス直系の十二人の使徒のほかにも使徒となった人がいました。たとえばパウロは、この時点ではまだキリスト教徒の迫害者であり殺人者でしたが、のちにキリストからの委任を受けて使徒となります。聖書にはほかにも数人の使徒が登場します。

 手を置く権限を持たなかったフィリポですが、このあとすぐに使徒職を委任されることになります。



使徒 8:26

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,エホバのみ使いがフィリポに語って言った,「立って,南へ,エルサレムからガザへ下る道に行きなさい」。(これは砂漠の道である。)



 フィリポはエチオピア人の宦官(かんがん)のもとに遣わされ、彼にバプテスマを施します。



使徒 8:27-39

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そこで彼が立って出かけて行くと,見よ,エチオピアの宦官が[やって来た]。エチオピア人の女王カンダケのもとで権力のある人であり,その財宝すべてをつかさどる人であった。彼は崇拝のためにエルサレムに行ってきたのであるが,その帰りに,兵車の中に座って預言者イザヤ[の書]を声を出して読んでいるところであった。そこで霊がフィリポに言った,「近づいて,この兵車と一緒になりなさい」。フィリポは並んで走り,彼が預言者イザヤ[の書]を声を出して読んでいるのを聞いて,こう言った。「あなたは自分の読んでいる事柄がほんとうに分かりますか」。彼は言った,「だれかが手引きしてくれなければ,いったいどうして[分かる]でしょうか」。そして,乗って,一緒に座るようにとフィリポに懇願した。さて,彼が声を出して読んでいた聖書の句はこうであった。「羊のように,彼はほふられるために連れて来られた。そして,毛を刈る者の前で声を出さない子羊のように,彼は口を開かない。辱めを受けている間,裁きは彼から取り去られた。だれが彼の世代について詳細を語るだろうか。彼の命は地から取り去られるからである」。宦官は答えてフィリポに言った,「お願いします,預言者はだれについてこう言っているのでしょうか。自分自身についてですか,それともだれかほかの人についてですか」。フィリポは口を開き,聖書のこのところから始めて,イエスについての良いたよりを彼に告げ知らせた。さて,彼らが道を進んで行くと,水のあるところに来た。すると宦官は言った,「ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか」。――そうして彼は,兵車に,止まるように命令し,ふたりは共に,フィリポも宦官も水の中に下りて行った。そして[フィリポ]は彼にバプテスマを施した。彼らが水から上がって来ると,エホバの霊がフィリポを急いで連れ去り,宦官はもう彼を見なかったが,歓びながら自分の道を進んで行った。



 彼が宦官であるということは何を示しているのでしょうか。宦官とは、王宮で王族に使えるために去勢された男性を指しています。聖書の規定では、去勢された男性はユダヤ教に改宗することができませんでした。



申命記 23:1

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「睾丸を打ち砕いて去勢された者,また陰茎を切り取った者は,エホバの会衆に入ることを許されない。



 つまり、この宦官はユダヤ教に改宗して「ユダヤ人」となった人ではありませんでした。エホバを信じており、エホバの崇拝者でしたが、「ユダヤ人」にはなれなかったのです。

 ルカはここでも巧みな仕方で要点を隠蔽しています。最初にバプテスマを受けてキリスト教に改宗した人々はみな「ユダヤ人」つまりユダヤ人とユダヤ教に改宗した非ユダヤ人たちでした。続いて「サマリア人」がキリスト教に改宗することを許されました。フィリポが聖霊によって宦官のもとに遣わされたということは、神が、これからはエホバ崇拝者であれば誰であろうとキリスト教に改宗してよいと表明されたことを意味しています。
 バプテスマを受けた宦官が水から上がると、聖霊がフィリポを連れ去ってしまいました。フィリポは使徒職を受けたのですから、聖霊によって連れ去られなければ宦官に手を置いたでしょう。しかし、聖霊がそれを許しませんでした。フィリポが連れ去られたということは、神が、ユダヤ人もしくはサマリア人でない人々はキリスト教に転向してバプテスマを受けることができるが聖霊を受けることはできないと表明されたことを示唆しています。

 ルカの書き方は巧みだとは思われないでしょうか。説明すべき要点のすべてを説明しないで済ませてしまったのですから。それで私としては、この際、宦官の物語にかかわるすべてのことを話してしまおうと思います。

 この物語は、エチオピアの宦官がイザヤ書の巻物を入手したあたりから始まります。彼はエホバの崇拝者でしたから、ユダヤ教に改宗して「ユダヤ人」になりたいと願っていましたが、宦官であるためその願いはかないませんでした。そんな彼のもう一つの願いは聖書の巻物を入手することです。しかし、ユダヤ人たちは聖書の巻物を神聖視しており、その扱いに神経質です。宦官であるためにユダヤ教徒になれないような人に聖書の巻物を売ってくれる人はなかなかいないに違いありませんが、まったく入手不能ということでもありません。宦官はついに聖書を手に入れます。それがイザヤの巻物でした。
 彼はさっそくイザヤ書の朗読を始めます。すると、次のような記述が目に留まりました。



イザヤ 56:3-8

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
そして,エホバに連なった異国人は,『エホバはきっとご自分の民からわたしを取り分けるであろう』と言ってはならない。宦官も,『見よ,わたしは乾いた木だ』と言ってはならない」。
わたしの安息日を守り,わたしの喜びとしたことを選び,わたしの契約をとらえている宦官に,エホバはこのように言われたからである。「わたしはわたしの家で,わたしの壁の内側で,彼らに記念物と名を,すなわち息子や娘たちに勝ったものを与えよう。わたしは定めのない時に至る名を,断ち滅ぼされることのない[名]を彼らに与えるであろう。
「エホバに連なって,これに仕え,エホバの名を愛し,その僕になろうとする異国の者たち,安息日を守ってこれを汚さないようにし,わたしの契約をとらえているすべての者,それらの者をわたしはまた,わたしの聖なる山に連れて来て,わたしの祈りの家の中で歓ばせる。彼らの全焼燔の捧げ物とその犠牲は,わたしの祭壇の上で受け入れられるためのものとなる。わたしの家はすべての民のための祈りの家とも呼ばれるからである」。
イスラエルの追い散らされた者たちを集めている,主権者なる主エホバのお告げになったことはこうである。「わたしは彼の既に集められた者たちに加えて,他の者たちをも彼のもとに集めるであろう」。



 エホバのもとに集められることになっていた「他の者たち」には、ユダヤ教に改宗できないと定められていた宦官も含まれていました。この記述において宦官は、ユダヤ教の枠組みから疎外されてしまったために改宗することができない特殊な立場にある人々を代表しています。つまり、同様の立場にあるあらゆる人について神は同じ方針をもっているということです。

 これは私についての記述であるに違いない、とエチオピアの宦官は確信しました。というのも、宦官でありエホバの崇拝者でもあるという人は世の中にそう何人もいるわけでないですし、なによりも、彼は信仰の人だったからです。
 そこで宦官はエルサレムへの旅に出ます。神殿で全焼燔の犠牲をささげ、改宗のバプテスマを受けるためです。そして、宦官はいけにえを携えてエルサレムの神殿域へ入っていきます。

 ところが、宦官が思ったように話は進みません。この時、宦官が直面したであろう事態を推測させる事件が聖書には記録されています。



使徒 21:27-32, 22:24-29

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,その七日が完了しようとしていた時,アジアから来たユダヤ人たちは,彼が神殿にいるのを見て,全群衆を混乱させようとし,彼に手をかけてこう叫んだ。「イスラエルの人たち,手伝ってくれ! これは,いたるところで,すべての者に,この民と律法とこの場所に逆らったことを教える男だ。そのうえ,ギリシャ人を神殿に連れ込んで,この聖なる場所を汚すことさえしたのだ」。これは,先にエフェソス人のトロフィモが彼と一緒に市内にいるのを人々が見たからで,パウロが彼を神殿に連れ込んだものと思ったのである。そのため,市全体が騒動になり,民は駆け寄って来た。そして彼らはパウロを捕まえて神殿の外に引きずり出した。それからすぐに戸が閉じられた。こうして彼らが[パウロ]を殺そうとしている間に,エルサレムじゅうが混乱しているとの知らせが部隊の司令官のところに届いた。それで彼は直ちに兵士と士官たちを連れ,彼らのところに駆け下りた。軍司令官と兵士たちを見かけると,彼らはパウロを打ちたたくのをやめた。
軍司令官は,彼を兵営の中に連れて行くように命じ,またむち打って取り調べるようにと言った。どんな理由で人々が彼に向かってこのように叫びたてるのかを十分に知ろうとしてであった。しかし,むち打ちのために[兵士]たちが彼[の手足]を伸ばした時,パウロはそこに立っている士官に言った,「ローマ人で有罪の宣告を受けてもいない者を,あなた方はむち打ってもよいのですか」。すると,士官はこれを聞いて軍司令官のところに行き,「どうされますか。この人はローマ人なのです」と報告した。そこで,軍司令官は近づいて来て,彼に言った,「わたしに言いなさい。あなたはローマ人なのか」。彼は,「そうです」と言った。それに対して軍司令官は言った,「わたしは市民としてのこの権利を多額[の金]を出して買い取ったのだ」。パウロは言った,「わたしは生まれながらに[それを]持っています」。そのため,拷問にかけて彼を取り調べようとしていた人たちは,すぐに彼から離れた。そして軍司令官は,彼がローマ人であること,また自分が彼を縛ったことをはっきり知って,恐れを抱いた。



 エルサレムにいたユダヤ人たちは、神殿を汚した者は死ななければならないと固く信じていました。彼らは狂信に走り、神殿で崇拝する宦官について述べたイザヤの預言の言葉を無視していました。そのようなわけで、神殿に入った宦官は命の危険にさらされることになります。
 神殿は大騒ぎになり、宦官は捕らえられて裁判にかけられます。彼はイザヤの預言の言葉を引き合いに出して自分を弁護しますが、黙っているように命じられます。宦官は死刑こそ免れましたが、鞭打ち刑を受けます。当時の鞭打ち刑は過酷なもので、それによって受刑者が死ぬこともあります。

 こんなはずではなかった、と宦官は思います。そして、帰りの兵車の中で再びイザヤ書を読み始めます。すると今度は次の言葉が目に留まりました。



イザヤ 53:7-8

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
彼は激しい圧迫を受け,苦しめられるままに任せていた。彼はそれでも口を開こうとはしなかった。彼はほふり場に向かう羊のように連れて行かれ,毛を刈る者たちの前で黙っている雌羊のように,自分も口を開こうとはしなかった。拘束と裁きのゆえに彼は取り去られた。だれが彼の世代[の詳細]を思いに留めるだろうか。彼は生ける者たちの地から断たれたからである。彼はわたしの民の違犯のゆえにむち打たれた。



 イザヤ書はメシア預言です。この記述はメシアが死ぬことについて描写しており、イエスに成就しました。しかし宦官にそんなことは判りません。
 宦官は信仰の人でしたから、これは私についての記述なのかもしれない、と勝手に推論しました。預言は「彼」が死ぬと述べています。自分はこのまま死ぬのだろうか、と宦官は思いました。

 そこへ、天使に導かれてフィリポが登場します。フィリポはイエスについてはよく理解していますが宦官の事情については何も知りません。フィリポはこの宦官が奇想天外な聖書解釈をしていることに驚き、彼の間違いを正します。
 宦官は信仰の人でしたから、フィリポが神から遣わされた人で真理を持っているに違いないと結論し、フィリポの言葉を受け入れます。イザヤの預言は宦官が死ぬことを述べていたのではありません。預言はメシアが死ぬことを述べており、こうして死んだイエスは宦官を含めたすべての者の救い主です。その救いにあずかるために宦官はキリスト教に改宗しなければなりません。
 そこで宦官は、信仰に促されて、バプテスマを受けることを申し出ます。

 当時のバプテスマは全裸になって行われました。よく見る挿絵では腰布をつけていたりしますが、あれは絵にするために書き足しているにすぎません。バプテスマを授けるにあたってフィリポは二つのことに気づきます。この人はひどい傷を負って全身の皮がむけてしまっているということ、そして、この人は宦官だということです。このときはじめて、フィリポはすべての事情を察知します。そうです、まさに今、イザヤが語り、イエスに成就し、フィリポが宦官に解き明かした預言の言葉が、もう一度、異なる仕方で成就しているのです。宦官は間違えてなどいなかったのです。

 もし全身が傷だらけの人が水に沈むとするとどうなるでしょうか。耐え難い痛みが生じるはずです。しかし宦官は喜びにあふれ、怖気づいたりはしません。宦官は血を流し、痛みに耐えながらバプテスマを受けます。この時、宦官は後にパウロが述べたような死を体験していました。



ローマ 6:3-4

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。ですから,彼の死へのバプテスマ[を受けたこと]によって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。



 宦官が水から上がるとフィリポは聖霊によって連れ去られ、いなくなってしまいました。ですから、宦官はバプテスマを受けても聖霊を注がれませんでした。しかし、神からの贈り物が何もなかったわけではありません。宦官は、全身から痛みが消えていることに気づきます。見れば、打ち傷はすべて癒されているではありませんか。むしろ若返ったくらいです。



ヨブ 33:23-25

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
もし彼のためにひとりの使者,
千のうちの一人,代弁者があり,
人にその廉直なことを告げるならば,
そのとき,[神]はその人を恵んで言われる,
『坑に下るのを彼に免れさせよ!
わたしは贖いを見いだした!
彼の肉は若いころよりもみずみずしくなり,
その若い時の精力の日に返るように』。



 こうして、宦官は喜びにあふれながらエチオピアへと帰っていきます。

 もしかするとあなたは私にこう質問するかもしれません。そんなことがどうして判るのですか、まるで現場にいてその様子を見てきたみたいじゃないですか。これがルカの、そして聖書の書き方であるというのが私の答えです。
 聖書はしはしば要点を隠ぺいする仕方で記述されます。そのような時には、もし読者が要点を悟らなくても違和感がないように記述が調整されますが、必要に応じて隠された要点のヒントとなる記述も加えられます。こうして、未熟な読者は用意された誤解へと導かれ、成熟した読者は隠された真理を発見することになります。すでに私が述べたいくつかの点を思い起こしてください。ルカは弟子たちがイエスにした質問の正しい答えを隠ぺいしました。パウロは高い所についての記述をすり替えました。この二人はどうしてそのようなことをしたのでしょうか。それは、旧約聖書にそのような記述がたくさんあることに気づいていたからです。私は詩編23編について、これはダビデが特定の時期に創作した一連の作品の一部であると述べました。そう言えるのは、詩編23編には二通りの読みがあるからです。隠されたほうの意味を悟れば、答えは明らかになります。詩編23編については、私はこの文書の中にヒントを忍ばせておきました。聖書の成熟した読者なら、気づくはずです。

 さて、聖書に記されているバプテスマの物語を読み解いていくことで、バプテスマと聖霊の注ぎとの関係について何が明らかになったでしょうか。それは、キリスト教に改宗してバプテスマを受けた人すべてが神の聖霊を受けて聖なる者となったのではない、ということです。



○ バプテスマと聖霊の注ぎについての現代キリスト教の一般的な信条

バプテスマを受けた者は同時に聖霊を注がれる。
バプテスマを受けた者すべては聖なる者である。

○ バプテスマと聖霊の注ぎについての聖書の真理

バプテスマと聖霊の注ぎは同時ではなかった。
バプテスマを受けた者すべてが聖なる者であるという訳ではない。



 しかし、注意しなければならない点があります。聖書が記しているバプテスマの物語は、原始キリスト教の初期の出来事について述べているという点です。聖書をさらに調べていくと、原始キリスト教の中期および後期には状況がかなり変わってくるということが分かります。

 原始キリスト教の中期以降、どのように状況が変化したでしょうか。その結果、聖なる者となることについてどのような変化が生じていたでしょうか。ある人は、代名詞の問題を扱えば簡単じゃないか、と言うでしょう。しかし、すでに述べたように、私にはそれを話すつもりが全くありません。次に私が書くのは、パウロとその思想についてです。

 パウロはキリスト教を激しく迫害する人でした。しかし、ある事件をきっかけにキリスト教に改宗して大活躍するようになり、新約聖書中に多くの文書を残してキリスト教の教えの確立に貢献します。



使徒 9:1-22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかしサウロは,主の弟子たちに対する脅しと殺害の息をなおもはずませながら大祭司のもとに行き,ダマスカスの諸会堂への手紙を求めた。だれでもこの道に属する者を見つけたら,男でも女でも縛ってエルサレムに連れて来るためであった。
さて,彼が旅行をしてダマスカスに近づいたその時,突然天からの光が彼のまわりにぱっと光り,彼は地面に倒れ,「サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか」と自分に言う声を聞いた。[サウロ]は言った,「主よ,あなたはどなたですか」。彼は言った,「わたしはイエス,あなたが迫害している者です。しかし,起きて,市内に入りなさい。そうすれば,あなたのすべきことは告げられるでしょう」。ところで,一緒に旅をしていた人たちはものも言えずに立っていた。確かに声の響きは聞こえたが,だれも見えなかったのである。しかし,サウロは地面から起き上がった。すると,目は開いているのだが,何も見えなかった。それで人々はその手を取って彼を導き,ダマスカスの中へと案内した。そして,三日のあいだ彼は何も見えず,また食べも飲みもしなかった。
ダマスカスにはアナニアという名の弟子がいたが,主は幻の中で,「アナニアよ!」と彼に言われた。彼は言った,「主よ,わたしはここにおります」。主は彼に言われた,「立って,“まっすぐ”という通りに行き,ユダの家で,サウロという名の,タルソスの人を捜しなさい。見よ,彼は祈っており,幻の中で,アナニアという名の者が入って来て,視力を取り戻せるように手を自分の上に置いてくれるのを見たのです」。しかしアナニアは答えた,「主よ,わたしは多くの人からこの男について聞いております。エルサレムにいるあなたの聖なる者たちに対し,害となる事をどれほど多く行なったかということを。そしてここでは,あなたのみ名を呼び求める者を皆なわめにかけようとして,祭司長たちから権限を受けているのです」。しかし主は彼に言われた,「行きなさい。わたしにとってこの者は,わたしの名を諸国民に,また王たちやイスラエルの子らに携えて行くための選びの器だからです。彼がわたしの名のためにいかに多くの苦しみを受けねばならないかを,わたしは彼にはっきり示すのです」。
そこでアナニアは出かけて行ってその家の中に入り,彼の上に手を置いてこう言った。「サウロ,兄弟よ,来る道であなたに現われた主,イエスが,わたしを遣わして,あなたが視力を取り戻し,聖霊で満たされるようにされました」。するとすぐに,その両目からうろこのような物が落ち,彼は視力を取り戻した。そして,起き上がってバプテスマを受け,食事をして元気づいた。
彼は幾日かの間ダマスカスの弟子たちのもとにいることになったが,すぐに諸会堂でイエスのことを,すなわちこの方こそ神の子であると宣べ伝えはじめた。しかし,彼[のことば]を聞く者はみな非常に驚き,「これは,エルサレムでこの名を呼び求める者たちを痛めつけた人であり,そうした者たちを縛って祭司長のもとに引いて行くという目的のためにここに来たのではなかったか」と言うのであった。しかしサウロはますます力を得,これがキリストであることを論証して,ダマスカスに住むユダヤ人たちをろうばいさせるのであった。



 パウロはもともとサウロという名でも呼ばれていて、ここではその呼び名が用いられています。

 この記述は、パウロはバプテスマを受けるより前に聖霊を受けてしまった、という書き方になっています。そもそもキリスト教徒ではなく、そればかりかキリスト教の迫害者であるという人が、頼んでもいないのに唐突に聖霊を受け、奇跡によって目が見えるようになり、聖霊による奇跡に驚いて改宗し、バプテスマを受けたという記述です。
 この流れは不自然に思えます。パウロがバプテスマの前に受けた聖霊はキリストと結ばれるという効果の伴わないものだった、そしてパウロはバプテスマの後に改めて聖霊を受けキリストと結ばれた、ということは考えられないでしょうか。
 聖書がこのあとの部分で述べようとしていることからすると、そのように考えることはできないようです。パウロはバプテスマの前に聖霊によってキリストと結ばれたようです。パウロの改宗の出来事は聖書にとって重要な出来事ですが、その記録はバプテスマをテーマとした一連の話に組み込まれて、後の記述のための前置きという役割を果たしています。つまり、パウロの改宗についての記述は、バプテスマの前に聖霊を受けてキリストと結ばれる人もいるんですよ、ということを示唆するという目的があったから、バプテスマに関する一連の記述の中に挿入されているのです。

 アナニヤに対する宣言にあるように、パウロはこの時3つの使徒職を受けます。諸国民への使徒職、ユダヤ人たちへの使徒職、王たちへの使徒職です。ここで言うユダヤ人とは、すでに繰り返し述べているように、ユダヤ教に改宗した諸国民を含むという意味のユダヤ人です。

 こうして唐突にキリスト教に転向させられたばかりか使徒職まで授けられてしまったパウロですが、そんなパウロには大きな悩みがありました。それは、『そもそも律法とは何か』ということです。
 当時のユダヤ教社会には、モーセの律法を厳密に実践しようとする“パリサイ派”という教団が存在していました。パウロはその教団の指導者であったガマリエルの弟子であり、いわばエリートの卵といった立場にありました。
 モーセの律法を厳密に実践するということは、ユダヤ人の伝統であり、義務です。それがエホバとユダヤ人との間の契約だからです。しかし、時代の変化とともに律法はあまり実践されなくなっていました。パリサイ派の人たちはその間違いを正すことに熱心でした。



使徒 22:3-5

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしはユダヤ人で,キリキアのタルソスで生まれましたが,この都市においてガマリエルの足下で教育され,先祖の律法の厳格さに応じた教えを受けており,今日のあなた方すべてと同じように神に対して熱心な者です。そして,この道[の者]を死に至らせるまでも迫害し,男も女も縛って獄に引き渡しました。この点は,大祭司も年長者会の全員もわたしのことを証しできます。わたしはこの人たちからダマスカスにいる兄弟たちへの手紙も手に入れ,そこにいる者たちも罰するため,縛ってエルサレムに連れて来ようと道を進んでいました。

ガラテア 1:13-14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
もとよりあなた方は,以前ユダヤ教に入っていたころのわたしの行状について聞きました。つまり,わたしは甚だしいまでに神の会衆を迫害したり荒らしたりし,自分の民族の同年輩の多くの者に勝ってユダヤ教に進んでいました。自分の父たちの伝統に対してはるかに熱心であったからです。



 律法とは、イスラエルをエジプトから導いたモーセがエホバから受け取った十戒を皮切りとする一連のおきてであり、その中には、割礼の実施、安息日の遵守、儀式上の汚れからの清め、といった要素があります。特に割礼は、ユダヤ教への改宗の際に行われる儀式でもあることから、律法の要であると考えられていました。

 パウロは考えました。律法というものは、神から与えられたもので、神聖だ、しかし、律法は「救い」ということとどういう関係にあるのだろう。
 なぜパウロはこのようなことを悩んだのでしょうか。それは、単純な言い方をするなら、神がただ一人だからです。



ガラテア 3:20

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,ただ一人の者しか関係していない場合には,仲介者はいません。しかし神はただひとりなのです。



 考えてみてください。もし人を救う神が複数いるとしたら、エホバ神がユダヤ人に律法を与え、律法によって救いを施しても、何の問題もないということになります。ほかの国の人々はほかの神々が救い、こうして全人類が救われればよいからです。しかし、実際に神は一人しかいません。あいにくほかの神々は皆ニセモノであり、人を救うことなどできないのです。では、どうでしょうか。救うことのできる神がたった一人しかいないのに、その神がユダヤ人に律法を与えたとなると、人類にとって神の救いが足りないという問題が生じるのではないでしょうか。
 冷静になって考えると、神がイスラエルに律法を与えたということ自体が大問題です。神は一人しかいないのに、その一人しかいない神がそんなことをしてしまうと、特定の国の人々だけが救われる結果になってしまうじゃないですか。これはひどいのではないでしょうか。神ともあろう者がそんなことをしてしまってよかったのでしょうか。エホバという神には神を名乗るだけの資質とか資格とかいうものはあるのでしょうか。全人類を救おうとしないなんて、こんな神を神と呼べますか。

 もっとも、この問いに対する答えはあります。すでに見てきたように、メシア預言は、いずれは救いが全人類に及ぶということを予告していました。それはどのようにしてでしょうか。全人類がエホバ崇拝に転向することによってです。
 律法に熱心だったパウロは、こう考えていました。神がユダヤ人を選んでユダヤ人だけを救われるようにされたのであれば、人類のほうが神のやり方に合わせればいいじゃないか、要は、皆がユダヤ教に改宗し、モーセの律法を守って、救われればいいんだ。
 キリスト教に転向した時も、パウロは同じように考えたでしょう。このころのパウロの考え方はこうです。メシア預言によって予告されたメシアがイエスであることはよくわかった、イエスによって建てられたキリスト教こそが正しいユダヤ教であることも理解した、だから私は、このキリスト教をもってして世界中の人々を律法へと導かなければならない。

 しかし、こんな考え方をしていたパウロに大事件が起こります。



使徒 10:1-48

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
さて,カエサレアにコルネリオという名の人がいた。イタリア隊と呼ばれる[部隊]の士官であったが,篤信の人であり,自分の家の者たちすべてと共に神を恐れ,民に憐れみの施しを多く行ない,絶えず神に祈願をささげていた。その日のちょうど第九時ごろ,彼は幻の中で,神のみ使いが自分のところに入って来て,「コルネリオ!」と言うのをはっきり見た。この人は彼を見つめ,恐れ驚いて,「主よ,何でしょうか」と言った。[み使い]は彼に言った,「あなたの祈りと憐れみの施しとは記念として神のみ前に上りました。それで今,人をヨッパに遣わして,ペテロとも呼ばれるシモンという人を呼びなさい。この人は皮なめし工のシモンという人のところに客となっており,その人の家は海辺にあります」。自分に話したみ使いが去るとすぐ,彼は家僕ふたりと,自分にいつも付き添っている者の中から篤信の兵士ひとりを呼び,いっさいのことを話して,彼らをヨッパに派遣した。
次の日,彼らが旅を続けてその都市に近づいて来たころ,ペテロは祈りをするため第六時ごろに屋上に上った。しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり,天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。
さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。そして彼らは呼ばわって,またの名をペテロというシモンがここに客となっているかどうかと尋ねた。ペテロが幻について思い巡らしていると,霊が言った,「見よ,三人の人があなたを探しています。それでも,立って,階下に降り,何も疑わないで彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのですから」。そこでペテロは階下のその人たちのところに降りて行って,こう言った。「さあ,わたしがあなた方の探している者です。どういうわけであなた方はここに来ておられるのですか」。彼らは言った,「義にかなった人で,神を恐れ,ユダヤ国民全体からも良く言われる士官コルネリオは,聖なるみ使いにより,あなたをお呼びして自分の家に来ていただき,あなたの言われることを聞くようにとの神の指示を受けました」。それで彼は,その人たちを招き入れてもてなした。
次の日,[ペテロ]は立って彼らと一緒に出かけた。そして,ヨッパの兄弟たちも幾人か一緒に行った。その翌日,彼はカエサレアに入った。もとより,コルネリオは彼らを待ち受けており,自分の親族や親しい友人たちを呼び集めていた。ペテロが入ると,コルネリオは彼を出迎え,その足もとにひれ伏して敬意をささげた。しかし,ペテロは彼の身を起こして言った,「立ちなさい。私も人間です」。そして,彼と語り合いながら中に入り,大勢の人が集まっているのを見て,こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。そのようなわけで,わたしを呼びに来られた時,わたしは何の異存もなくやって来ました。それで,あなた方がわたしを呼んだ理由をお尋ねします」。
それに対してコルネリオは言った,「この時刻から数えて四日前,わたしは第九時に家で祈りをしておりました。すると,ご覧ください,輝く衣を着た人がわたしの前に立って,こう言いました。『コルネリオよ,あなたの祈りは聞き入れられ,あなたの憐れみの施しは神のみ前で覚えられました。それゆえ,ヨッパに人をやって,またの名をペテロというシモンを呼びなさい。この人は海辺にある,皮なめし工シモンの家に客となっています』。そこでわたしはすぐあなたのもとに人をやったのですが,あなたはよくここに来てくださいました。それで今,わたしたちは皆,あなたが話すようにとエホバから命じられているすべての事柄を聞こうとして,神のみ前にいるのです」。
そこでペテロは口を開いてこう言った。「わたしは,神が不公平な方ではなく,どの国民でも,[神]を恐れ,義を行なう人は[神]に受け入れられるのだということがはっきり分かります。[神]はイスラエルの子らにみ言葉を送って,イエス・キリストによる平和の良いたよりを宣明されました。この[イエス・キリスト]は[ほかの]すべての者の主なのです。あなた方は,ヨハネの宣べ伝えたバプテスマの後にガリラヤから始まり,ユダヤ全体にわたって話題となった事柄を知っています。すなわち,ナザレから来たイエスのことで,神がどのように聖霊と力をもってこの方に油そそがれたかということです。この方は善いことを行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうを回りました。神が共におられたからです。そしてわたしたちは,[イエス]がユダヤ人の土地で,またエルサレムで行なったすべての事柄の証人です。しかし彼らはまた,杭に掛けてこの方を除き去ったのです。神は三日目にこの方をよみがえらせ,さらに,彼が[人々に]明らかになることをお許しになりました。民のすべてに対してではなく,あらかじめ神に任命された証人たちに,このわたしたちに対してです。わたしたちは,その死人の中からのよみがえりの後,この方と飲食を共にしたのです。またこの方は,民に宣べ伝えるように,そして,これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと,わたしたちにお命じになりました。この方についてはすべての預言者が証しをし,彼に信仰を持つ者は皆,その名によって罪の許しを得ると[述べて]います」。
ペテロがまだこれらのことについて話しているうちに,聖霊がみ言葉を聞いているすべての人の上に下った。そして,割礼を受けた人々で,ペテロと一緒に来ていた忠実な者たちは驚嘆した。無償の賜物である聖霊が諸国の人々の上にも注ぎ出されていたからである。彼らが[いろいろな]国語で話し,神をあがめているのを聞いたのである。これに答え応じてペテロは[言った],「わたしたちと同じように聖霊を受けたこの人々に,だれか水を禁じてバプテスマを受けさせないでいることができるでしょうか」。そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けるようにと彼らに命じた。それから彼らは,幾日かとどまるようにと彼に頼んだ。



 ここには、神を敬って崇拝するコルネリオという人物が登場します。この人は律法を守る人でしょうか。文脈がその答えを示しています。ペテロの受けた啓示から、コルネリオは律法が食べてはならないと規定する食物を食べる人だったということが解ります。コルネリオは神を信じていましたが、ユダヤ教には改宗していませんでした。ユダヤ教に改宗したなら律法を守っているはずです。
 そんなコルネリオとその仲間たちに聖霊が注がれます。しかも、聖霊には奇跡が伴っており、その奇跡の内容が、彼らが聖霊によってキリストと結ばれたことを暗示しています。つまり、彼らはキリスト教に改宗してバプテスマを受けたわけではないのに、その前に聖霊を受けてキリストと結ばれてしまった、ということです。

 この時ペテロにとって重要だったのは、救いを施すにあたって『神に不公平はない』ということが劇的に示されたということでした。私がすでに述べたように、これは神聖な奥義です。そして、神聖な奥義にはモーセの律法に関する新しい規定が含まれていました。簡潔に言うなら、この日を境にキリスト教徒はモーセの律法を守らなくてもよくなった、ということです。ペテロは神の決定を受け入れ、自らも律法を守らない生活をするようになります。

 パウロにとって、この出来事はペテロが感じた以上に衝撃的な出来事だったに違いありません。
 この事件が起こるまで、パウロはキリスト教徒の中では浮いた存在でした。なにしろ、改宗するより前に聖霊を受けたのです。このような人はほかにいませんでした。さらに、改宗する直前までキリスト教の迫害者であり、大きな罪を追っていました。これほどの大きな罪が許されて信者となった人はほかにいなかったでしょう。
 ですから、コルネリオとその親族や友人たちに聖霊が注がれたことを聞いた時、パウロとしてはうれしかったに違いありません。自分の弟分ができたように思えたでしょう。ところがです。
 彼らは律法を守る人ではありませんでした。ここが問題です。

 コルネリオにまつわる出来事は、律法に関する限り、パウロとしては全く受け入れられないことだったでしょう。狂信的なまでに律法を信奉していたパウロとしては、「そんなことは間違っている、撤回しろ、やり直せ!」と叫ばずにはいられない気分だったはずです。たとえそれが神とキリストからの啓示だったとしてもです。しかし、そんな気分になったところで、はたして声を上げることなどできるでしょうか。
 考えてみてください。パウロ自身はキリスト教の迫害者だったのに聖霊を受けたのです。人殺しもやっています。その罪に比べたら、律法を守らないことなど些細なことではありませんか。パウロは神に向かって文句を言える立場でしょうか。
 こうして、パウロは強制的に口を封じられることになります。最も熱心に律法を守る人が、神の知恵により、その強烈な思想を完全に破壊されたのです。
 こうしてパウロは、こういうことでもなければ決してこのような変化は遂げなかっただろう、という大転換を遂げることになります。

 この時、パウロには相談する相手がいませんでした。というのも、だれかがパウロに向かって「今日から律法は禁止」と言ったわけではなかったからです。そういう人がいれば、パウロはその人と議論を交わすことができたでしょう。ところが誰も、そして何も、パウロに向かっては語りませんでした。パウロはただ出来事について知っただけです。パウロはただ一人で苦悶し、だれにも頼ることなく自分一人で答えを出さなければなりませんでした。



ガラテア 1:15-17

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,母の胎からわたしを分け,その過分のご親切によって[わたしを]召してくださった神が,わたしに関連してご自分のみ子を啓示することをよしとされ,こうしてわたしがその[み子]についての良いたよりを諸国民に宣明することになった時,わたしは直ちに血肉と協議したりはしませんでした。また,エルサレムに上って,わたしより先に使徒となっていた人たちのところへ行くこともせず,ただアラビアに行き,それから再びダマスカスに戻って来ました。



 そしてこの時、パウロは契約の効力ということを思い起こさなければなりませんでした。というのも、それがルカによって暗示されている事柄だからです。
 ルカは相変わらず肝心なことは書かない方針です。ここでルカがこっそり言いたいのは、旧約聖書のメシア預言には律法の契約が終了することが予告されており、その予言通りのことがついに起こったんだ、ということです。ですから、聖書の読者はコルネリオに関する記述を読んだところで、次の聖句を思い起こさなければなりません。



ダニエル 9:24-27

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
「あなたの民とあなたの聖なる都市に関して定められた七十週がある。これは,違犯を終結させ,罪を終わらせ,とがの贖いをし,定めのない時に至る義を携え入り,幻と預言者とに証印を押し,聖の聖なる所に油をそそぐためである。そして,あなたが知り,また洞察するべきことであるが,エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられてから指導者であるメシアまでに,七週,そしてさらに六十二週があるであろう。それは元どおりにされ,公共広場や堀と共にまさしく建て直されるが,それは苦境の時になされるであろう。
「そして,その六十二週の後にメシアは断たれる。自らのためには何も持たないであろう。
「そして,その都市と聖なる場所とは,やって来るひとりの指導者の民がこれを滅びに至らせる。それで,その終わりは洪水によるものとなる。そして,終わりに至るまで戦争がある。定められているものは荒廃である。
「また彼は多くの者のために一週のあいだ契約の効力を保たねばならない。そして,週の半ばに,彼は犠牲と供え物とを絶えさせる。



 聖書の読者がこのことに気づかなければならないということは、聖書の記述の中のパウロも、やはりそのことに気づかなければならなかったということを暗示しています。

 ダニエル書に記されているのは、7週と62週と1週を合わせた70週の預言です。特に最後の週についての記述が重要です。この場合“週”とは7年のことですので、最後の1週は7年となります。預言によると、最後の週の半ばにメシアは自ら犠牲となって死に、モーセの律法の中で規定されている犠牲と供え物の儀式を終わらせます。これは、イエスが死んだ時に成就しました。



ヘブライ 10:10-14

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
ここに述べた「ご意志」のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされているのです。また,祭司はみな,公の奉仕を行なうため,また同じ犠牲を何度もささげるために,日ごとに自分の持ち場につきます。そうした[犠牲]が罪を完全に取り去ることは決してできないからです。しかしこの[方]は,罪のために一つの犠牲を永久にささげて神の右に座し,それ以来,自分の敵たちが自分の足の台として置かれるまで待っておられます。彼が,神聖にされつつある者たちを永久に完全にしたのは,一つの[犠牲の]捧げ物によるのです。



 神の子であるイエスの死の犠牲は動物の犠牲に比べて救いをもたらす効力が絶大なので、もう動物の犠牲は必要なくなりました。
 このようにして律法の規定の一部が無意味になる一方で、律法の契約そのものはさらに3年程度効力を保つと預言は述べます。つまりこの預言は、最後の週の終わりに律法契約は終了しますよ、ということを何気に予告していることになります。

 そうすると、モーセの律法というものは、それ自体が救いなのではなく、救いであるメシアへ到達するための道具に過ぎないということになります。ひとたびメシアが到来すれば、その役割は終わることになります。

 一人で考えたパウロはこのように結論します。



ガラテア 3:19-22

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
では,律法はなぜ[与えられたの]ですか。それは違犯を明らかにするために付け加えられたのであり,約束のなされた胤が到来する時にまで及ぶのです。そして,それはみ使いたちを通し,仲介者の手によって伝えられました。さて,ただ一人の者しか関係していない場合には,仲介者はいません。しかし神はただひとりなのです。それでは,律法は神の約束に反するのですか。断じてそのようなことはないように! 命を与えることのできる律法が与えられていたのであれば,義は実際には律法によってもたらされたはずだからです。しかし,聖書はすべてのものを共に罪の拘禁のもとに置き,こうして,イエス・キリストに対する信仰から生じる約束が,信仰を働かせる者たちに与えられるようにしたのです。



 あいにくこの訳文では文意が伝わりにくいですので、パウロの思想に合わせてすこし手直ししましょう。



ガラテア 3:19-22, 修正

では,律法はなぜ[与えられたの]ですか。それは違犯を明らかにするために付け加えられたのであり,約束のなされた胤が到来する時にまで及ぶのです。そして,それはみ使いたちを通し,仲介者の手によって伝えられました。さて,ただ一人の者しか関係していない場合には,仲介者はいません。しかし神がただひとりであることからすると,律法は神の約束に反するのでしょうか。断じてそのようなことはないように! 命を与えることのできる律法が与えられていたのであれば,義は実際には律法によってもたらされたはずだからです。しかし,聖書はすべてのものを共に罪の拘禁のもとに置き,こうして,イエス・キリストに対する信仰から生じる約束が,信仰を働かせる者たちに与えられるようにしたのです。



 パウロがここで述べている約束とは、パウロ自身が示す通り、アブラハムに与えられた胤の約束です。この約束は救いに直結するものです。

 パウロはこのように考えました。神がイスラエルに律法を布告するにあたって仲介者であるモーセを用いたことや、モーセに対する律法の伝達にあたって天使たちを用いたことは、考えればおかしなことではあるがとりあえずそれはよしとしよう、そんなことよりはるかに問題なのは、律法を発行した神が一人しかいないことだ、それでは全人類に対する救いの約束が否定されてしまったも同然ではないか。

 パウロはさらに考えます。細かいことを言うなら、天使たちやモーセが用いられたことも問題だ、ただ一人の者しか関係していない場合、仲介者は不要なはずだからだ。



ガラテア 3:15-18

◇ 新世界訳聖書 ◇ (エホバの証人)
兄弟たち,わたしは人間的な例えで話します。有効にされた契約は,たとえそれが人間のものであっても,だれも押しのけたり,それに付け加えたりはしません。さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。それが大勢いる場合のように,「また[多くの]胤に」とではなく,一人の場合のように,「またあなたの胤に」と述べてあり,それはキリストのことなのです。さらに,わたしはこの点を述べます。神によって以前に有効にされていた契約について言えば,四百三十年後に存在するようになった律法は,これを無効にしてその約束を廃棄するのではありません。相続財産が律法によるのであれば,それはもはや約束にはよらないからです。ところが神は約束によってそれをアブラハムに親切にお与えになったのです。



 ここでパウロは“人間的な例え”ということを述べています。パウロが何を言おうとしているのかを正確に理解するため、レストランを舞台とした4つの例えを考えてみましょう。

 1つ目の場面はこうです。あなたは今レストランでメニューを調べているところです。あなたはステーキの値段を確認して、ステーキを注文することにしました。やがて、シェフが注文されたステーキを仕上げてテーブルまで持ってきましたが、このように言います。このステーキを受け取るには追加の料金が必要です、追加の支払いにあなたが同意していただかなければ、ステーキはお渡しできません。
 2つ目の場面はこうです。あなたはレストランでステーキを注文したところです。ところがシェフが持ってきたのはスパゲティでした。シェフはこう言います。ステーキのご注文をお請けしたことはよく承知しております、しかしスパゲティをお持ちしました、どうぞお召し上がりください。
 3つ目の場面はこうです。あなたはレストランでステーキを注文して待っているところです。シェフはステーキを持ってくるとあなたではなく隣のテーブルにいる別の客に差し出し、こう言います。ステーキを注文したのはあちらの方ですが、あなたにお渡しいたします。
 4つ目の場面はこうです。ステーキの注文を受けたシェフは向かいにある食堂に出かけていき、そこでステーキを注文します。やがて食堂からステーキが運び込まれ、あなたのところに届けられます。シェフは言います。あなたはこのレストランでステーキを注文したつもりかもしれませんが、それはたいしたことではありません。

 これらの話はどれもおかしな話です。もしあなたがこのような状況に置かれたなら、どう思うでしょうか。パウロが言いたいのは、このようなものの感覚は人間だけでなく神にも適用可能である、ということです。

 考えてみてください。胤に関する約束は神がアブラハムに親切に与えたものです。つまり、プレゼントです。プレゼントですから、ただのはずです。パウロの言い方では相続財産です。相続財産はもらうものであって、費用を支払って買うものではないはずです。だとすると、430年もあとになって神が律法をイスラエルに与えたというのはどういうことでしょうか。これは、支払いを請求するということにはならないでしょうか。なにかをプレゼントすると言っておきながら支払いを請求するというのはおかしなことじゃないですか。神は約束を破棄されたのでしょうか。
 加えて言うと、律法による救いは胤による救いとは全く別のものではないでしょうか。人々は神の約束を信じて胤による救いを待っていたのに別の救いが与えられたとすると、これは神による約束のすり替えにはならないでしょうか。
 さらに、胤による救いは全世界に与えられることになっています。当然、全世界が救われる時には、胤が神と人々の仲介者になるはずです。そして、その胤とはキリストのことです。では、イスラエルと神との間にあって仲介者となったモーセと、そのモーセを手助けした天使たちはなにをやっているのでしょうか。このようなことを許したら、胤であるキリストが来た時に仲介者の仕事が減ってしまうじゃないですか。あるいはなくなっているかもしれません。これは、胤であるキリストに言わせれば、胤の地位の横流しということにはならないでしょうか。胤がただひとりであり、キリストであるのなら、仲介者となる者の席もまたひとつであるはずです。ただ一人の者しか関係していないのですから、モーセは存在してはならないのです。
 また、胤に関する約束は、胤が到来し、胤が救うことを約束するものです。では、救われる側の人々にとって、律法を持ってきたモーセはなんなのでしょうか。胤の代わりに別の者が救いを持ってやってきたということにはならないでしょうか。
 そして、これらすべてを決定的に悪くしているのが、神がただひとりであるという変えがたい事実です。神というものは、代わりや追加を用意するということができない存在なのです。これらすべてを合わせて考えた時、神のやっていることはもはや支離滅裂であると言うよりほかありません。




(執筆中)