新世界訳
エホバの証人の聖書

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 もしかするとあなたは、このウエブサイトを訪れて、「“エホバ”とはいったいなんだろう?」と思ったかもしれません。
 “エホバ”とは、聖書に出てくる神の名前です。



出エジプト 3:15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神はもう一度モーセに言った。「イスラエル人にこう言うように。『父祖たちの神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバが私をあなたたちの所に遣わした』。これは永遠に私の名であり,私はこの名によって代々記憶される。

イザヤ 42:8

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私はエホバ。それが私の名。私は自分の栄光をほかの誰にも与えず,自分の栄誉をどんな彫像にも与えない。



 ところが、ここ100年ほどの間、この“エホバ”という名は、聖書を正典とする宗教であるユダヤ教やキリスト教から避けられてきました。しかも最近はかなり徹底していて、その結果、世界中どこを見渡しても、エホバの名を用いる宗教はエホバの証人だけという状況が見られるようになっています。






 そこで、この文書の本論に入る前に、いま世界中で猛威を振るっている“反エホバ主義”を取り上げたいと思います。

 先の20世紀は、キリスト教諸教会にとって、そして世界にとって、『“エホバ”撲滅の世紀』と呼べる世紀となりました。
 中世以降のキリスト教は、“エホバ”の使用に消極的ではありましたが、それでも少しは使っていました。しかし20世紀が訪れると、多くの教会が“エホバ”を用いるのを完全にやめ、“エホバ”の使用に反対するまでになります。その発音を不愉快に思うようになったからです。
 現在のキリスト教会とその信徒たちは“エホバ”という単語に対する強烈な嫌悪感を感じるようになっています。日本ではオウム真理教を指す“オウム”という単語に対する拒絶反応が見られていますが、これに近いものが世界中の教会で見られています。
 この強烈な拒絶反応に押されて、メディアも“エホバ”の使用を自粛するようになりました。その結果、世界中どこにおいても“エホバ”の名は使用されなくなっています。“エホバ”の名は一般の人々に知られなくなり、最近は「“エホバ”って何?」と尋ねる方も増えています。
 あろうことか今では、教会に通う信徒たちにも「“エホバ”って何?」と言われる方がいたりします。さらにひどいことに、「“エホバ”というのは悪魔のことです」と言う方もいます。

 今はほとんどの教会が反エホバ主義の教会です。
 もしあなたがこのことを確認したいと思うなら、とりあえず教会に行って、エホバについて話してみるとよいでしょう。あなたは教会に行き、「まことの神エホバ」、「全能者エホバ」について話します。さらに、「キリストによって示されたエホバの愛」や「イスラエルに示されたエホバの憐れみ」、「終わりの時代に臨むエホバの救いと裁き」についていろいろと語ります。するとどうなるでしょうか。
 教会の信徒たちは激しく動揺するかもしれません。教会の牧師はあなたが「エホバ」と発言するのをやめさせようとするでしょう。その教会が反エホバ主義の教会であることが明らかになります。

 最近は、度を超した行動に出る教会も増えているといいます。
 ヨーロッパの古い教会の建造物の彫刻や美術品には「エホバ」が記されたものが多くあります。古代のキリスト教文書や讃美歌、キリスト教を題材にしたクラシック曲にも「エホバ」が出てきます。そのようなものには歴史的、文化的価値があるにもかかわらず、「“エホバ”はだめだ」という理由で、書き換えられたり、どこかにかたづけられたり、ひそかに破壊されたりしているそうです。

 多くの教会が、「神名を発音しないことは、神に対する敬意の表れだ」と唱えてきました。神の名前はあまりに神聖なものなので、汚れた存在である人間の口から発声されてはならないんだ、と彼らは言います。
 もっとも、こういった主張は隠れ蓑です。反エホバ主義の本質は敬意ではなく嫌悪感にあるからです。彼らはこの嫌悪感を隠すことができなくなっていますので、そのような主張をされてもみっともないだけです。

 今、キリスト教会で用いられている「聖書」は、神の名前が書き換えられた聖書です。
 先ほど聖書から挙げた二つの言葉を、教会で用いられている聖書ではどうなっているか、見てみましょう。



出エジプト 3:15

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるが私をあなたがたに遣わされました。』これこそ、とこしえに私の名 これこそ、代々に私の呼び名。

イザヤ 42:8

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
私は、これが私の名。私の栄光を他の者に 私の誉れを偶像に与えることはない。



 エホバが自分の名前を人間に紹介しているような場面でも、エホバは書き換えられています。

 こうして、不思議な状況が生じています。先ほど述べたように、今、世界中のどこを見渡しても、エホバの名を用いる宗教はエホバの証人だけです。そして、エホバの証人はキリスト教の諸教会から激しく拒絶され、世間からも気持ち悪がられています。






 では、発音の問題へと話を進めましょう。
 まずここでは、ユダヤ教における神の名の発声を避ける伝統について扱います。

 キリスト教の土台となったのはユダヤ教です。どちらも聖書を正典としていて、両者は親戚のような関係にあります。
 ユダヤ教は、もともとは神の名前を積極的に用いましたが、ある時期からそれを控えるようになり、やがて完全に禁止するようになりました。
 その原因となったのは、モーセの十戒(じっかい)の中にある次の命令だと言われています。



出エジプト 20:7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたの神エホバの名をむやみに用いてはならない。その名をむやみに用いる人をエホバは処罰せずにはおかない。



 この、「むやみに」という言い回しの意味合いはどうなのか、ということが問題となりました。
 ある人たちは、“エホバ”を口にする回数は少な目にしなければならない、と理解しました。しかし別の人たちは極端に走り、「むやみ」を「全面的に」へと置き換えてしまいました。やがて、この極端な見解がユダヤ教を支配するようになったと考えられています。こうして、神の名前の発声の禁止が教えとして説かれる時代がやってくることになります。

 彼らは、神の名前の発声を禁止する理由を提出しなければなりませんでした。いくつかの理由が主張されたようですが、特に重要とされたのはこの理由です。彼らはこう主張しました。神のお名前は極めて神聖であるので、汚れた人間が口にすることはできない。

 現在では、ユダヤ教神学においてもキリスト教神学においても、この考え方は「迷信である」とされています。十戒は神の名前の発声を禁止してはいません。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 ユダヤ人の間ではある時期に,神の名(四文字語<テトラグラマトン>で表わされる)を発音することさえ間違っているという迷信的な考えが生じました。そのみ名の使用をやめるために,最初,一体どんな根拠が挙げられたのか,確かなことは分かりません。中には,み名は不完全な人間の唇で語るにはあまりにも神聖すぎるとみなされたのだと考える人もいます。しかし,ヘブライ語聖書そのものには,かつて神のまことの僕のだれかが神の名を発音するのをちゅうちょしたことを示す証拠は一つもありません。いわゆるラキシュ書簡などの聖書以外のヘブライ語の文書は,西暦前7世紀後半のパレスチナでは神の名が普通の通信文の中でも使われていたことを示しています。
 ほかには,ユダヤ人ではない諸民族がそのみ名を知れば,誤用する可能性があるので,そうならないようにする意図があったという見方もあります。しかし,エホバご自身が,「わたしの名を全地に宣明させ」(出 9:16。代一 16:23,24; 詩 113:3; マラ 1:11,14と比較),敵対者にさえ知られるようにさせると言われました。(イザ 64:2)実際,そのみ名は西暦紀元前の時代と西暦紀元の初期の何世紀かの間,異教の諸国民に知られており,また使われていました。(ユダヤ百科事典,1976年,第12巻,119ページ)また,そのみ名を魔術の祭儀で使われないように守るのが目的だったと主張する人もいます。もしそうだとすれば,その論拠は薄弱です。み名が使われなくなって,神秘的なものになればなるほど,事態は魔術を行なう人々の目的に一層かなうことになるのは明らかだからです。



◇ 「ものみの塔」誌1981年5月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 エルサレムがローマ人によって滅ぼされるまでに,神のみ名の使用を控える迷信的な傾向が広まっていたことを示す幾らかの証拠があります。これは,神のみ名をいたずらに用いてはならないという十戒の三番目の戒めに対する極端主義者の狂信的な解釈によるもののようです。(出エジプト 20:7,新)しかし,その命令をお与えになった際,神は,聖所で用いるようなごくまれな特別の機会を除いて,ご自分のみ名を一切用いてはならないということを意図しておられたのでしょうか。そう考えることはできません。神のみ名が(ダビデの時代のように)広く用いられていた時代に,神の祝福がイスラエルにそそがれていたことは極めて明白だからです。一方,イエス・キリストが地上の生涯を送り,宣教を行なっておられたころ,ユダヤ人の宗教上の伝統のために神のみ名は使われなくなっていましたが,その時期,同国民全体からは明らかに神の祝福が取り去られていました。当時のユダヤ人の宗教指導者たちは,神とその原則から遠く離れていたため,神のみ名を包み隠すにとどまらず,神のいつくしむみ子の死に対する責めを負う者とさえなりました。それから何年か後の西暦70年に聖なる都市エルサレムとその神殿がローマ軍によって破壊され,ユダヤ人は恐ろしい代償を払うことになりました。



◇ 「戦争のない世界がいつの日か実現しますか」, ものみの塔聖書冊子協会

 しかし,十戒は神のみ名の発音を禁じているのではないでしょうか。決してそうではありません。多くの人が第三のおきてをそのように解釈してきましたが,ユダヤ大百科事典の注解に注目してください。「YHWHという名の発音を忌避した……理由は,第三のおきて(出エジプト記 20:7。申命記 5:11)を誤解し,『汝は汝の神なるYHWHの名をいたずらに取り上げてはならない』という意味に読んだことにある。しかしその実際の意味は,『あなたは,あなたの神YHWHの名によって虚偽の誓いをしてはならない』ということである」。この聖句では,神のみ名を『取り上げること』や,み名の発音が禁じられていないことに注目してください。しかし,それが神のみ名を「いたずらに」取り上げることを意味していたとしても,ケーラーとバウムガルトナーのヘブライ語辞典が,「いたずらに」(ヘブライ語,ラッシャーウ)と訳されているヘブライ語について述べている事柄に注目してください。同辞典によれば,その語には,「理由なく名前を挙げる。……名前を誤用する」という意味があるのです。ですから,このおきては神のみ名の使用を禁じているのではなく,むしろ,み名の誤用を禁じているのです。
 しかし,神のみ名は「発音するには余りに神聖なものである」という論議についてはどうですか。それでも,もし神がご自分のみ名を,人間には発音できないほど神聖なものとみなしておられるなら,み名をそもそも啓示なさるはずがないというのは,道理にかなった見方だと思われませんか。ヘブライ語聖書の原文に神の固有名が6,800回余り出ているということ自体,神が人間に対して,ご自分を知り,み名を用いるよう望んでおられることを示しています。神は不敬な行為を未然に防ごうとしてみ名の使用を制限するどころか,ご自分の民がみ名を用い,それを知らせることを繰り返し勧め,命じてさえおられます。み名を用いることは,神との親しい関係だけでなく,神への愛を示す証拠でした。(詩編 91:14)預言者イザヤは,この問題における神のご意志を明示し,こう述べました。「主[ヘブライ語, יהוה =YHWH=エホバ]を賛美し,そのみ名をふれ告げよ。もろもろの民の中にその行為を知らせよ。そのみ名が高められていることを告げ知らせよ」― イザヤ 12:4。ミカ 4:5; マラキ 3:16; 詩編 79:6; 105:1; 箴言 18:10もご覧ください。
 人間がみ名を発音することがエホバにとって望ましいことでなかったのであれば,エホバはそれを明確に禁じることができたでしょう。しかし,み名の正しい使用と発音を禁じた箇所は聖書のどこにもありません。聖書時代の忠実な人たちはみ名を自由に用いました。(創世記 12:8。ルツ 2:4; 4:11,14)事実,神は,ご自分の民に働きかけて聖なるみ名を忘れさせる者たちを繰り返し非難しておられます。―エレミヤ 23:26,27。詩編 44:21,22(44:20,21,新世)。
 では,この禁令が聖書の一部でないことはこれほどはっきりしているのに,それがユダヤ教思想の一部になったのはどうしてでしょうか。ラビであり,「すべての人のタルムード」という本の著者であるA・コーヘン博士の注解は,何世紀も経過するうちに,徐々に伝統が根をおろしていったことを示しています。コーヘン博士はこう書いています。「聖書時代には,日常の話の際,み名の使用にためらいを感ずることはなかったようだ。固有名にヤーもしくはヤーフーを付け加えることは,バビロンでの流刑後もユダヤ人の間で続いていたが,このことは,四文字で綴られたみ名の使用が禁じられていなかったことを示唆している。しかし,ラビの時代の初期には,み名の発音は神殿での奉仕にのみ限られた」。この時期におけるその後の進展について,コーヘン博士はこう述べています。「会堂における礼拝では,このみ名はJHVHの代わりに,アドーナーイ(わたしの主)と発音された。しかし,伝承によれば,当初の発音は賢人からその弟子たちに7年に一,二回,周期的に伝えられた。(キドゥシン 71a)しばらくするとその習慣さえも途絶え,み名の発音の仕方について確かなことは分からなくなった」。「人間のおきて」がそのような影響をもたらしたのです。―イザヤ 29:13。申命記 4:2。第2部「聖書 ― 神の霊感を受けたものですか」の15,16節をご覧ください。



 神の名の使用が禁止されるようになると、その正確な発音の隠蔽ということが行われるようになりました。正確な発音で神を呼ぶことが禁止され、その状態が数世紀続くと、ユダヤ人のほとんど誰もその発音を知らない状態となってしまいました。キリスト教が誕生した時代には、ごく一部の人が正確な発音を知っていて、儀式的に発音の継承が行われていましたが、やがてそれも行われなくなり、ついに正確な発音の消失が起こってしまいます。現在、その正確な発音を知っている人はどこにもいません。






 では、神の名前を「むやみに」用いてはならないとする十戒の命令はどのように理解するべきなのでしょうか。

 引用した文書には、「あなたの神の名によって虚偽の誓いをしてはならない」という意味だ、という説明があります。これは、聖書の中でエホバ自身がそういうことを説明しているからです。



レビ 19:12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私の名によって偽りの誓いをしてあなたの神の名を汚してはならない。私はエホバである。



 このルールには関連事項がいくつかあります。代表となるのは次の言葉です。



申命記 18:20-22

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
思い上がって私が命じたのではない言葉を私の名によって話したり,他の神々の名によって話したりする預言者がいれば,その預言者は死ななければならない。あなたは心の中で,「エホバが話したのではない言葉だとどのようにして分かるのか」と言うかもしれない。預言者がエホバの名によって話しても,その言葉が実現せず,その通りにならなければ,エホバはその言葉を話していない。預言者が思い上がってそれを話したのである。その人を恐れてはならない』。



 こういった言葉が示しているのは、神の名前には適正な使用法がある、ということです。発声することや、その頻度が問題になっているのではありません。

 誤用ということを、たとえで考えてみましょう。
 高価な器を持っている人が、それをペットの餌やりに使い、使ったあとたわしで磨きます。大金を持っている人が、それを全部パチンコに使い、景品のお菓子を持って家に帰ります。もったいないのではないでしょうか。価値のあるものはその価値に見合った用い方をしたいものです。
 神の名前も同様です。神の価値や品格を下げるような仕方でその名前を用いることは控えたいものです。

 悪用については、聖書の事例を見ましょう。



列王第一 13:1, 7-9, 14-19

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ヤラベアムが犠牲の煙を立ち上らせるため祭壇のそばに立っていた時,神に仕える人がエホバの命令によってユダからベテルにやって来た。
王は,真の神に仕える人に言った。「私と一緒に家に来て,何か食べていってください。あなたに贈り物を差し上げたいのです」。その人は王に言った。「たとえあなたの家の半分を下さっても,あなたと一緒には行きません。ここでは,パンも食べませんし,水も飲みません。エホバから,『パンを食べてはならず,水を飲んでもならない。来た道を戻ってはならない』と命じられたからです」。
老預言者は,真の神に仕える人の後を追い,その人が大木の下に座っているのを見つけた。老預言者はその人に言った。「あなたがユダから来られた真の神に仕える人ですか」。その人は,「はい」と答えた。老預言者はその人に言った。「私と一緒に家に来て,パンを食べていってください」。その人は言った。「私はあなたと一緒に引き返すことも,お誘いに応じることもできません。ここでは,あなたと一緒にパンを食べることも水を飲むこともできません。エホバから,『そこではパンを食べてはならず,水を飲んでもならない。来た道を戻ってはならない』と言われたからです」。老預言者はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。私は,『その人を家に連れて戻り,パンを食べさせ,水を飲ませなさい』というエホバの言葉を天使から聞きました」。(老預言者はその人にうそをついていた。)それで,その人は老預言者の家に一緒に行き,パンを食べ,水を飲むことにした。



 やってはいけないことを無理やりやろうとするとき、エホバの名を用いるなら、強制力が生じ、うまくいくかもしれません。しかし、そのようなことのために神の名前を使ってはいけません。






 さてここで、用語の解説です。
 先ほどの引用には“YHWH”という単語が出てきます。これは、神の名前を示すヘブライ語 יהוה を英語表記にしたものです。
 これはどう読むんだ、と思われるでしょう。すでに指摘したように、その正確な発音は失われています。一般にこの単語は“テトラグラマトン(神聖四字)”と呼ばれます。ユダヤ教徒はこれを“主”を意味する「アドナイ」と読みます。綴りに注目する場合は、英語式に「ワイエイチダブルエイチ」と読むか、ヘブライ語式に「ヨードヘーワウヘー」と読みます。日本語にしたい場合は「エホバ」になりますが、発音について諸説がある関係で、「ヤーウェ」、「エフワー」などほかの選択肢もあります。
 “YHWH”は英語表記です。ラテン語表記の場合は“JHVH”になります。






 では、神の名を発声することについてのユダヤ人の迷信は、キリスト教にどのような影響を与えたでしょうか。

 キリスト教を研究する学者たちは昔から、成立期のキリスト教は神の名前を全く使用しなかったと考えていました。今も多くの学者がそのように考えています。
 その根拠となっているのは、聖書の新約部分です。聖書は、ユダヤ教徒によって書かれた“旧約聖書”と、キリスト教徒によって書かれた“新約聖書”の二部構成となっています。この新約聖書には神の名前が一度もでてきません。これは、最初期のキリスト教がエホバの名を使用しなかったとする説の強力な根拠となります。
 学者たちは、その説の背景には“ギリシャ語セプトゥアギンタ訳聖書”があると指摘してきました。これは“七十人訳”とも呼ばれます。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、キリスト教が誕生したころにはほとんど用いられなくなっていて、代わりにギリシャ語訳の聖書が用いられました。学者たちはこう言いました。キリスト教徒が使用したこの聖書には神の名前がでてこない、このことがキリスト教に必然的な影響を及ぼした。

 ところが、この見解に異議を唱えた人たちがいます。それはエホバの証人です。その反論は1950年に始まりました。

 エホバの証人がまず指摘したのは、当時知られていたセプトゥアギンタ訳の写本断片はすべて、キリスト教成立期より100年以上あとのものだということです。どこかから、イエスの時代と同じか古い写本を見つけてこないかぎり、きちんとした結論は出せません。
 そのような写本はどこにあるというのでしょうか。なんと、エホバの証人はそれを提出してみせました。
 「死海文書(しかいもんじょ)」と呼ばれる古文書群があります。これはイエスの時代と同じかそれより古いもので、セプトゥアギンタも含まれています。当時、この文書は公開が禁止されていて、その内容を知る方法はほとんどありませんでした。写本は現存しているのにその内容が確認できないということです。しかし、エジプトで発見された同時代のセプトゥアギンタの一つの断片が公開になったことがあります。エホバの証人はそれを見逃しませんでした。そのあとこの人たちがこの写本の管理者たちとどういう交渉をしたのかは定かでありませんが、エホバの証人はこの聖書の写真をたくさん撮影し、出版してしまいます。
 それは多くの学者たちにとって驚くようなものでした。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録, 1ハ, 「古代ギリシャ語訳における神のみ名」

 七十訳パピ写,ファド266号は,次の箇所で,神のみ名をヘブライ語の方形文字で記された四文字語<テトラグラマトン>( יהוה )によって表わしています: 申 18:5,5,7,15,16; 19:8,14; 20:4,13,18; 21:1,8; 23:5; 24:4,9; 25:15,16; 26:2,7,8,14; 27:2,3,7,10,15; 28:1,1,7,8,9,13,61,62,64,65; 29:4,10,20,29; 30:9,20; 31:3,26,27,29; 32:3,6,19。このように,このコレクションでは,申命記中の章節の確認されている箇所に四文字語<テトラグラマトン>が49回出て来ます。さらに,このコレクションには,聖書のどの部分か確認されていない断片,すなわち断片116,117,および123番に四文字語<テトラグラマトン>が計3回出ています。エジプトで発見されたこのパピルスは西暦前1世紀のものとされています。
 このパピルスの一断片が,1944年に,W・G・ワデルにより,JTS(第45巻,158-161ページ)に出版されました。ものみの塔聖書冊子協会のギレアデで教育を受けた二人の宣教者が,1948年にエジプトのカイロで,このパピルスの18の断片を写真に撮り,それを出版する許可を得ました。その後,このうちの12の断片が「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」(英文),1950年,13,14ページに出版され,これに載った写真を基に次の三つの研究が行なわれました。(1)A・バッカリ,「パピルス・ファド266号。『クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳』,ブルックリン(ニューヨーク),1950年,13ページに出版された断片写本の批評的分析」(Papiro Fuad,Inv. 266. Analisi critica dei Frammenti pubblicati in: ‘New World Translation of the Christian Greek Scriptures.’Brooklyn[N.Y.]1950p. 13s.),「教父研究」(Studia Patristica,第1巻,第1部,クルト・アーラントおよびF・L・クロス編,ベルリン,1957年,339-342ページ)に掲載。(2)W・バース,「パピルス・ファド266号」(Papyrus Fouad Inv. No. 266),「オランダ神学」誌(Nederlands Theologisch Tijdschrift,第13巻,ワーゲニンゲン,1959年,442-446ページ)に掲載。(3)ジョージ・ハワード,「申命記の最古のギリシャ語本文」(The Oldest Greek Text of Deuteronomy),「ヘブライ・ユニオン大学年報」(Hebrew Union College Annual,第42巻,シンシナティ,1971年,125-131ページ)。
 パウル・カーレは,「福音研究」(Studia Evangelica,クルト・アーラント,F・L・クロス,ジャン・ダニエルー,ハラルト・リーセンフェルト,W・C・ファン・ウニク編,ベルリン,1959年,614ページ)で,このパピルスについて注解し,次のように書きました。「同じパピルスの他の断片も,ものみの塔聖書冊子協会によるこのパピルスの写真から複写された。その写真は新約聖書の英訳,ニューヨーク,ブルックリン,1950年の序文に載っている。このパピルスの一つの特徴は,神のみ名がヘブライ語の方形文字による四文字語<テトラグラマトン>で表わされていることにある。このパピルスの出版されている断片写本の研究が,私の求めによりバッカリ神父の手で行なわれ,次の結論が得られた。すなわち,バチカン写本より400年ほど前に書かれたに違いないこのパピルスには,我々のもとに残っている申命記のセプトゥアギンタの本文の中でも,恐らく最も完全な本文が含まれているものと思われる」。



 セプトゥアギンタ訳が翻訳されたのは西暦前3世紀であることが判っています。キリスト教誕生のおよそ300年前ということになります。学者たちはこれまで、神の名前のないセプトゥアギンタ訳しか見たことがなかったため、この聖書の原本に神の名前はなかった、と決めつけていました。しかし、エホバの証人の示した写真により、その見解は撤回を迫られることになります。そののち、同様の写本がほかにも発見され、死海文書も公開されて、もともとセプトゥアギンタには神の名前が記されていたがのちの時代に消されてしまった、イエスの時代のセプトゥアギンタ訳にはまだ神の名前があった、ということがはっきりしてきました。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 そのみ名は西暦前300年ごろには使われなくなったとしている参考書は少なくありません。この年代を支持する証拠は,西暦前280年ごろ翻訳され始めた,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳の中に四文字語<テトラグラマトン>(もしくは,その翻字)が出ていない点にあるとされています。確かに,セプトゥアギンタ訳の写本で,今日知られている幾つかの最も完全な写本では,四文字語<テトラグラマトン>の代わりにキュリオス(主),もしくはテオス(神)というギリシャ語を用いる習慣が一貫して守られているのは事実です。しかし,それらの主要な写本の年代はせいぜい西暦4ないし5世紀までさかのぼるにすぎません。それらよりもさらに古代の写本が,断片であるとは言え,幾つか発見されており,神の名が確かにセプトゥアギンタ訳の最初期の写本に出ていたことを証明しています。



 最近では、2021年3月に新しい写本が公表されています。



◇ 「新たな「死海文書」断片を発見 ― 専門家ら今後の可能性も示唆 ― 2021年3月18日」, KiriShin (キリスト新聞), キリスト新聞社 (表記等修正)

 イスラエル考古学庁は3月16日、十二小預言書「ゼカリヤ」「ナホム」を含む新たな聖書断片を発見したと公表した。……巻物本文はギリシア語で書かれ、神名だけがヘブライ語だと聞く。現在英語で書く時さえ『YHWH』と転写され、発音するのもはばかられる『神聖四文字』の問題ではないか。……



 さらにエホバの証人が指摘したのは、新約聖書もセプトゥアギンタ訳と同様だということです。新約聖書は西暦1世紀に書かれましたが、その原本や最初期の写本は失われ、現在入手できるのは100年程度あとの写本です。これがセプトゥアギンタにおいて神の名前が消された時期と重なるため、新約聖書についても、原本は神の名前を記し、後代の写本でそれが消されたということが考えられるというのです。
 学者たちのほとんどはこの指摘を無視しました。この主張については写本の提出がなかったからです。しかし、エホバの証人は状況証拠を提出します。



◇ 「ものみの塔」誌1993年11月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)の福音書や残りの部分についてはどうでしょうか。セプトゥアギンタ訳に神のみ名が出てくるわけですから,これらの書物の初期の写本にも ― 少なくともセプトゥアギンタ訳から引用された部分には ― 神のみ名が出ていたであろうと考えられてきました。そういうわけで,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」には,エホバという名前が200回以上出てくるのです。これを不当なことだと批判する人もいます。しかし,「新世界訳」を支持するものが意外なところにあるようです。それはバビロニア・タルムードです。
 ユダヤのこの宗教書の最初の部分はシャッバート(安息日)という題になっていて,安息日の行動を律する膨大な量の規則が収められています。ある部分では,安息日に聖書の写本を火から救い出すのはふさわしいかどうかが論じられ,その後に次のようなくだりが続きます。「そのことは本文の中で述べられている。空白[ギルヨーニム]とミニムの書物,我々はそれを火から救い出すことはしない。ジョゼ師は言った。週日,人はそれらに含まれている神のみ名を切り取り,それを隠し,残りを焼かなければならない。タルフォン師は言った。もしそれらが私の手に入り,それらを神のみ名もろとも焼かなかったとしたら,自分の息子を埋葬することになるように」― H・フリードマン博士による翻訳。
 ミニムとはだれでしょうか。この言葉には「分派の信者」という意味があるので,サドカイ人かサマリア人を指していたということも考えられます。しかしフリードマン博士によると,このくだりの中ではユダヤ人のクリスチャンを指していた可能性が非常に高いようです。では,フリードマン博士が「空白」と訳したギルヨーニムとは何でしょうか。二つの意味が考えられます。これは巻き物の余白の部分か全く空白の巻き物だったのかもしれません。あるいは,この言葉を皮肉と取れば,ミニムの書物だったのかもしれません。それらの書物は真っ白な巻き物と同じくらい無価値なものであるかのような言い方をしているわけです。幾つかの辞書ではこの二番目の意味として「福音書」という訳語を挙げています。このことと調和して,先に引用したタルムードの一部の前に出てくる文は,「ミニムの本は空白[ギルヨーニム]のようである」となっています。
 同様に,ローレンス・H・シフマンの著した「ユダヤ人とはどういう人だったか」という本では,先に引用したタルムードの一部は次のように翻訳されています。「我々は(安息日には)福音書やミニム(『異端者』)の本を火から救うことはしない。むしろ,それらはそれがある場所で焼かれる。それらもその中のテトラグラマトンも。ヨセ・ハ・ゲリリ師は言っている。週の間,人はそのテトラグラマトンを切り取り,それを隠し,残りを焼くべきである。タルフォン師は言った。私の息子を埋葬することになるように。もし(これらの本が)手に入ったのに,テトラグラマトンと共にそれを焼いてしまわなかったなら,と」。シフマン博士はさらに,ここで言うミニムとはユダヤ人のクリスチャンのことであると論じています。
 タルムードのこの部分は本当にユダヤ人の初期クリスチャンのことを述べていたのでしょうか。もしそうなら,これはクリスチャンが福音書や書物の中に神のみ名,つまりテトラグラマトンを含めていたという強力な証拠となります。そして,タルムードがここで確かにユダヤ人のクリスチャンのことを述べていたという可能性は非常に高いのです。そのような見解を支持する学者がいますし,タルムードの文脈はさらにその見解を支持しているようです。先にシャッバートから引用しましたが,その部分の続きには,ガマリエルとクリスチャンのある裁判官との物語が出ており,その物語では山上の垂訓の一部が遠回しに言及されています。
 後代になって,背教したキリスト教がイエスの分かりやすい教えから離れた時に初めて,神のみ名は自称クリスチャンの間で使われなくなり,ついにはセプトゥアギンタ訳や福音書や聖書のほかの書の写本から取り除かれてしまったのです。



 初期キリスト教時代のユダヤ人たちは、キリスト教を熱心に迫害していました。それで福音書を集めて焼いていたようです。その時、神の名前を神聖視するユダヤ人たちにとって問題となったのは、その福音書に神の名前があることです。福音書と一緒に神の名前を燃やす罪を犯さないよう、彼らは福音書から神の名前を切り取って大切に保管していました。つまり、新約聖書に神の名前はあったことになります。

 さらにエホバの証人は新約聖書からも指摘を行います。新約聖書、厳密に言うと現在手に入る新約聖書の写本には、たしかに神の名前が出てきませんが、神の名前についての記述は複数見つかります。その代表例はイエスのこの言葉です。



ヨハネ 17:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は,あなたが世から取って託してくださった人たちにあなたのお名前を明らかにしました。この人たちはあなたのものでしたが,私に託してくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。



 すでに見たように、イエスの時代、神の名前の発声は禁止され、その発音は伝授によってのみ伝えられていました。イエスは、旧約聖書で予告されたメシアとして、また神の子として自分を世に示した方ですから、当然、神の名前の正確な発音を知っていなければならず、弟子たちにそれを伝授しなければなりませんでした。発音を知らない者がメシアを名乗ることなどありえません。イエスはそれを行ったと明言しています。

 現在でもほとんどの学者は、エホバの証人によるこれらの指摘を無視しています。とはいえ、全く無視することができなくなってもいます。たとえばこのような資料があります。



◇ 参照資料付き新世界訳聖書, 付録, 1ニ, 「クリスチャン・ギリシャ語聖書中の神のみ名」

 クリスチャン・ギリシャ語聖書における四文字語<テトラグラマトン>の使用について,ジョージア大学のジョージ・ハワードは,「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature,第96巻,1977年,63ページ)にこう書きました。「エジプトおよびユダヤ砂漠における最近の発見によって,キリスト教時代以前における神の名の使用を直接に見ることが可能となった。これらの発見は,新約研究において,とりわけそれらが初期キリスト教文書と文学的類似点を示しており,新約[聖書]の著者たちが神の名をどのように用いたかを説明するものとなり得るという点で重要である。我々は,つづくページで一つの理論を展開しようとしている。その理論とはすなわち,新約における旧約[聖書]の直接および間接引用箇所には当初,神の名 יהוה (および恐らくはその省略形)が記されており,時を経るうちに,それがおもに代用語 κς[「主」を意味するキュリオスの省略形]に置き換えられたというものである。我々の見解からすると,四文字[語]がこうして除かれたことにより,初期の異邦人のクリスチャンの思いの中に『主なる神』と『主なるキリスト』の関係について混乱が生じた。このことは,新約本文そのものの写本伝承に反映されている」。



 最近のものでは1992年に発行されたアンカー聖書辞典があります。これは現在もっとも信頼できる聖書辞典だと言われています。



◇ 「新約聖書の釈義 ― 本文の読み方から説教まで」, G.D.フィー (表記等修正)

 何巻もからなる聖書辞典のうち……現在、最も優れたものは : David Noel Freedom (ed.), The Anchor Bible Dictionary; 6vols. (New York: Doubleday & Co., 1992). これが断然最善で最も新しい内容の聖書辞典である。



◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版], 付録, A5, 「ギリシャ語聖書中の神の名前」

 「アンカー聖書辞典」(英語)の「新約におけるテトラグラマトン」という見出しの下には,こう書かれています。「新約が書かれた当初,旧約からの引用箇所の一部もしくは全部に,テトラグラマトンつまり神の名ヤハウェが出ていた,と言える証拠がある」。



 エホバの証人の主張する学説が徐々に浸透しているようです。

 そのようなわけで、最初期のキリスト教は神の名前を使用したようです。






 続いて、ヘブライ文字はもともと発音が判らないという問題を見ていきましょう。

 ヘブライ語の文字には、いくらかの例外があるとはいえ基本的には、子音を表す文字しかありません。別の言い方をすると、多くの言語で行われているように、子音を表すアルファベットに母音を表すアルファベットを組み合わせることができません。
 たとえば日本語の場合、「あいうえお」、「かきくけこ」、「さしすせそ」のうち、「あいうえお」は母音です。「かきくけこ」と「さしすせそ」は子音に母音が組み合わさっています。これを英語表記で記すと、「あいうえお」は母音を表す文字を用いて“aiueo”、「かきくけこ」は子音を表す文字に母音を表す文字を組み合わせて“kakikukeko”となります。
 だいたいどの言語でも言えるのは、文字は発音と連動しているということです。文字を見れば、どう発音すべきかが判ります。ところがヘブライ文字にはそのような仕組みがありません。

 母音の情報なしにヘブライ文字をどのように読むかというと、そこにはある程度の、そして非常に複雑な規則があります。たとえば、ヘブライ語動詞の基本形は「パアル(カル)態」と呼ばれ、ヘブライ語3文字で表記し、「アー + ア + ウ」の母音で発音します。読者は、ヘブライ語の法則に精通することにより、子音だけの綴りから多くのヘブライ動詞を読むことができます。
 しかし、問題は名詞です。名詞は動詞よりもやっかいで、結論的には、綴りと読みの組み合わせを丸暗記していくしかありません。
 そこで必要となるのが口頭による伝承です。ヘブライ語を話すことによって、発音は人から人に伝えられなければなりません。人々の間で用いられなくなった名詞は、すぐにも発音が分からなくなります。

 このヘブライ文字の性質が、神の名前の正確な発音の消失につながることになります。ユダヤ人の間で神の名前の発声が禁止されたあと生まれた子供たちは、聖書を読み、そこにテトラグラマトン(神の名前の綴りのこと)が記されているのを見ても、どう読んだらよいかさっぱり判らなかったのです。

 後の時代、西暦6世紀ごろから、この問題を解決しようという人たちが現れました。マソラ学者と呼ばれる人たちです。彼らは、表音のために必要な母音を、文字ではなく符号という形でヘブライ語文字に添えることを考案しました。この母音符号は「ニクダ」と呼ばれ、現在も広範に用いられています。さらにマソラ学者は、何かとわかりにくく読者を混乱させるヘブライ語文法の問題も解決しようとして、分離符などの文法を示す符号も考案しました。
 彼らはこの技術を駆使して聖書本文を修飾し、西暦10世紀ごろまでに新しい形態の聖書を完成させました。これは「マソラ本文」と呼ばれます。現在、「聖書本文」とか「原典」とか呼ばれているものは、まず例外なくこの「マソラ本文」です。聖書本文の印刷本「ビブリア・ヘブライカ」もマソラ本文です。

 さて、聖書にニクダを加えるにあたって、問題となったのが神の名前です。
 マソラ学者は神の名前の正しい発音を知りませんでした。すでに失われていたからです。彼らも、当時のユダヤ教の教えに従い、この単語を「主」を意味する「アドナイ」に読み替えていました。そこでマソラ学者は、神の名前には「アドナイ」の母音を添えることにしました。
 マソラ学者には、聖書本体の文字を変える権限はありません。神の言葉であり神聖であるとされるテキストは保護されていて、その上下に符号をつけることしかできません。そこで、ユダヤ教に「ここはアドナイと読みましょう」という規則があったとしても、テキストを書き直すことはできませんでした。そのようなわけで、アドナイの母音には、「ここはアドナイと読みなさい」という指示の意味があります。

 ところが、このようなことをしたところでさらに問題が生じてしまいます。テトラグラマトンに別の語の母音をつけたせいで、ヘブライ語としては不自然でうまく読めない単語が誕生することになってしまったのです。そこでマソラ学者は、アドナイの母音を修正して、これをなんとか普通に読めるようにします。

 以下はその詳細ですが、次の点に留意してください。ヘブライ語は右から左に文字を綴る言語です。日本語とは逆になります。

 「アドナイ」はヘブライ語で4文字で、ニクダは3箇所、(右から)1文字目の下と2文字目の上と3文字目の下につきます。これをとってテトラグラマトンの1文字目と2文字目と3文字目につけると、1文字目の発音が不自然になります。それが喉音のための母音(「複合シェバー」)だからです。それで、ヘブライ語の発音の規則に基づいて、これを半母音に置き換えます。これで、最初の母音は“a”から“e”と変わります。こうして“YeHoWaH ( יְהֹוָה ) (エホワー)”という綴りと発音ができました。日本語では「エホバ」と呼ばれます。
 ところが、これでも不自然さは残ります。問題となるのはテトラグラマトンの(右から)3文字目の「ワウ」という文字です。この文字には、直前の文字につく母音が“o”である場合に限って、前の文字とくっついて“w”から“o”に変更になるという規則があります。変更になった場合“w”の発音はなくなります。しかし、今見た場合、“o”に変身したはずのワウの下に“a”がついています。そこでこのワウは無理矢理“owa”と読むことになりますが、これはヘブライ語の表記の規則に違反していて不自然です。そこで、違反を解消するために、2文字目から“o”のニクダを除去して“u”にする変更が行われました。こうして“YeHuWaH ( יְהוָה ) (エフワー)”という綴りと発音ができました。日本語では「エフワー」になります。
 マソラ本文にはこの二つの表記が見られます。たとえば、聖書に神の名前が最初に出てくるのは創世記 2章4節ですが、こちらはエフワーです。

 さてここで、この件に関する私の個人的見解を言っておきたいと思います。
 マソラ学者によるニクダの変更は全く余計なことだったと私は思います。というのは、彼らの意図はテトラグラマトンを「アドナイ」と読ませることにあったからです。だったら、これは読めないままにしておけばよかったのではないでしょうか。なぜこの人たちは、これを読めるように修正する必要を感じたのでしょうか。よくわかりません。
 そうするとどういうことが言えるでしょうか。私が思うところでは、マソラ学者は、マソラの時代より前にあった「代名」の使用を復活させることを考えていたようです。つまり、正しい発音でないなら神の名前を発音してもよいという規則が昔あったので、この際テトラグラマトンとアドナイをくっつけて新しい代名を定義し、普及させよう、と彼らは考えたようです。あるいは、代名に関する規則はその時代にも残っていて、マソラ学者はただその規則に従ったのかもしれません。
 世界中の学者たちは口をそろえて、「これはアドナイと読むべきでありエホバと読むのは全くの勘違いである」と言っていますが、どうなのでしょうか。マソラ学者がわざわざ親切に読めるよう調整してくれたものを読んではいけないと言えるんでしょうか。
 繰り返して言っておきますが、もしアドナイと読ませることが目的でアドナイのニクダをつけたのなら、それを変えてしまってはいけないでしょう。






 ヘブライ語の表記と発音の話をしましたので、ついでに、英語の表記と発音について触れておきます。

 神の名“エホバ”は英語では“Jehovah”と綴り、“ジェホーバー”と発音します。これはどうしてでしょうか。
 原因はラテン語表記にあります。ラテン語では“J”は“Y”の発音、“V”は“W”の発音になります。つまり、ヘブライ語の“YeHoWaH”はラテン語表記(ラテン語の翻字)では“Jehovah”になります。これがそのまま英語に持ち込まれ、英語の読み方で“ジェホーバー”と読まれるようになりました。

 話が脱線してしまいますが、もうひとつついでに、イエスを指す“Jesus”についても扱いましょう。
 イエスの本名は“エホシュア”です。この名前には短縮形があって“エーシュア”となります。新約聖書はギリシャ語で書かれていますから、これがギリシャ語で綴られることになります。冒頭の“エーシュ”はギリシャ語にほぼそのまま変換して、“イェースー”になります。最後の“ア”ですが、ギリシャ語には単語の語尾に関するいろいろとやっかいなルールがあって、末尾の“ア”は女性に限ることになっていますので、男になるよう“ス”に差し替えます。こうして“イェースース”が聖書に記されるイエスの名前になりました。これをラテン語表記(ラテン語の翻字)で表記すると“Jesus”になります。これが英語に持ち込まれ、英語の読み方をして“ジーザス”となりました。






 そうすると、「神の名前のほんとうの発音はなんだったのだろう」という疑問が生まれます。

 神の名前の正確な発音は失われていますが、推測することは可能です。
 まず一つ目のヒントとして、テトラグラマトンの由来は明白です。それは聖書の中で、エホバ自身によって明示されています。



出エジプト 3:13-15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
モーセは真の神に言った。「私がイスラエル人の所に行って,『父祖たちの神が私を皆さんの所に遣わした』と言うとしても,『その方の名は何か』と言われたら,何と言えばよいでしょうか」。神はモーセに言った。「私は自分がなろうとするものとなる」。さらに言った。「イスラエル人にこう言うように。『私はなるという方が私をあなたたちの所に遣わした』」。神はもう一度モーセに言った。「イスラエル人にこう言うように。『父祖たちの神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバが私をあなたたちの所に遣わした』。これは永遠に私の名であり,私はこの名によって代々記憶される。



 テトラグラマトンの原型となったのは「なる」もしくは「ある」を意味する“ハーワー”という語だということが解ります。そこで、テトラグラマトンはハーワーの変化形のようなものだと推論できます。ヘブライ語の基本的な考え方として、動詞の前にヨードがつくのは三人称未完了態です。その場合、ヨードを“イ”、“イェ”、“ヤ”、“ヤー”と読む変化があります。さらに絞り込んでこれを使役+指令形だと考えると、その発音は“ヤーウェ(紛らわしいですが“ヤ”+“ハウェ”)”になります。
 この「なる」と「ある」ということについては、ヨハネ 8:58の項に補足となる説明がありますので適宜参照してください。

 二つ目に、聖書にはテトラグラマトンの短縮形が4種類あり、これらは発音が判っています。まず、基本的なものが2種類、“エホ”と“ヤー”です。それから“エホ”をもっと短縮した“エー”です。さらに“エー”は“ヨ”と発音されることもあります。

 さてここで、先ほどの話を思い出された方もいるでしょう。イエスの本名は“エホシュア”でした。これは「エホバは救い」という意味です。



◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版], マタイ 1:21, 脚注

イエス: エシュアあるいはヨシュアというヘブライ語の名前に対応する。これらはエホシュアの短縮形で,「エホバは救い」という意味。



 聖書のヘブライ語を扱う学者たちはこのように推論しました。
 まず、“エホ”と“ヤー”のうち、“エホ”は無視してしまうことにします。残るのは“ヤー”です。テトラグラマトンの短縮形は“ヤー”であるということになります。このことから、テトラグラマトンの冒頭の部分は“ヤー”と読むのだろうと決めつけてしまいます。冒頭の部分を“ヤー”と読んだうえで、残りの部分について、ヘブライ語の自然な発音ということを考えます。いくつか選択肢がありますが、すでに述べた三人称使役形ということを考え、もっとも可能性のありそうな“ウェ”を選択します。
 こうして、神の名前の正確な発音とされる“Yahweh(ヤーウェ)”の考案と普及が生じました。

 これは推論というものです。推論するならほかにも選択肢は大量にあります。ヘブライ文字には母音がないため、この4文字に母音を充てるとなると、単純な計算では5(あいうえお)の4乗=625通りの発音があるということになります。さらにやっかいなことに、テトラグラマトンの4文字は、なんとすべて、状況次第で母音に化けてしまうという変則的な文字です。考え始めるときりがありません。これは嫌がらせみたいなものです。

 そこで学者たちが言うのは、ヘブライ語としてのなるべく自然な発音を、ということなのですが、そもそも、神が人間に自分の名前を示すにあたって、人間の感覚で自然な発音にする必要などというものがあるのでしょうか。
 私はこう思います。逆の選択肢も有力ではないですか。神の名前のオリジナリティを確保するため、これまで誰も採用したことがなく今後採用される可能性もまずない、つまり不自然極まりない発音が採用されたということは十分に考えられるじゃないですか。現に、短縮形の“エホ”は不自然ですが聖書に大量に出てきます。

 それで、初歩的で素朴な質問というものがあります。なぜ学者たちは、正確な発音を推察する最初の段階で“エホ”を除外したのでしょうか。みるからに怪しいじゃないですか。これらの学者たちは反エホバ主義者にちがいない、彼らは世の中からエホバを消し去ろうとしてヤーウェを考案したのだ、と言われても仕方ないのではないでしょうか。
 この疑問について、私から追加を言っておきたいと思います。聖書の歴史の中で、神の名前の短縮形の使用には分布があります。“エホ”は初期、“ヤー”は後期です。どうして後期のものが候補になるんでしょうか。普通、聖書学者という人たちは、初期に不自然な候補があり後期に自然な候補があれば、必ず不自然なほうを選択するのではないでしょうか。

 私個人としては、『神の名前の正しい発音の候補には「自然な“ヤー”系」と「不自然な“エホ”系」の二通りがある』という考え方が必要であるように思います。“エホ”系の第一候補は“エホワー”、つまりマソラ本文にある発音と同じになります。もしかしてもしかすると、マソラ学者は大当たりを引いたのかもしれません。

 神の名前の正しい発音を探る別のアプローチとして、他の言語の古文書を調べるという手法もあります。それらの言語の多くは表音言語ですので、ヘブライ人の神についての言及があるところで、その正確な発音が記されている可能性があるというわけです。
 この手法において特に注目されるのは、死海文書や、比較的初期のキリスト教文書ですが、これらには、正確な発音を見極めるには時代がやや遅いという問題があります。ほかにも候補は多くあり、記されている発音は様々です。“ヤーウェ”に近いものがあれば、“エホワー”に近いものもあります。しかもややこしいことに、これらには一時期ユダヤ人の間で用いられていた代名や、短縮形変化形といったものが混じっているはずです。この手法でもはっきりとした結論には至りません。






 さて、今度は日本語の綴りの話です。

 “Yahweh”については、やっかいなことに日本語表記では3通りの綴り方があります。“ヤーウェ”、“ヤハウェ”、それから、“ヤハウェ”の“ハ”が小文字になっているものです。
 聖書のヘブライ語から日本語への翻字のルールがいくつかあります。そのうちの代表的なもので“Yahweh”を表記すると、ヘブライ語の“ハ”には「強い“ハ”」と「弱い“ハ”」とがあって、ここは弱い“ハ”ですから、小文字のハを使って“ヤハウェ”と綴ることになります。これは“ヤーウェ”と読みます。ところがパソコン等の文字セットには小文字の“ハ”がありませんので、しかたなく通常の字を用いることになります。すると、これを「Yahaweh」と呼んでしまう人が続出することになります。ややこしいことに、神の名前の発音には諸説があって“Yahaweh”もないわけではなかったりします。だから“ヤハウェ”を「Yahaweh」と読んでも絶対に間違っているとは言えなかったりします。
 私は、“Yahweh”を書く際にはなるべく“ヤーウェ”を使用し、どの綴りであってもなるべく「ヤーウェ」と読むようにしています。

 “エホバ”については、古い字体を用いて“ヱホバ”と綴る場合があります。読み方は同じです。






 神の名前の発音ということについて、エホバの証人はどのようなことを考えているでしょうか。

 その教派名からも明らかなように、エホバの証人は基本的に“エホバ”の発音を用いています。彼らによって発行されている「新世界訳聖書」も神の名前を“エホバ”と訳出しています。
 神の名は絶対にエホバでなければならないということはありません。必要なら、彼らも“ヤーウェ”を用います。このあたりの考え方についてはこのように説明されています。



◇ 「神のみ名は永久に存続する」, ものみの塔聖書冊子協会 (表記等修正)

 それでは,ヤハウェやヤーウェという発音はどのようにして生じたのでしょうか。これらの形は,神のみ名のもともとの発音を推定しようとする現代の学者たちが提唱してきたものです。すべての学者ではないものの,一部の学者の間で,イエスの時代より前のイスラエル人は神のみ名をおそらくヤハウェと発音したであろうと考えられています。もっとも,確かなことはだれにも分かりません。そのように発音されたのかもしれませんし,そうでないのかもしれません。
 それでも,多くの人はエホバという発音のほうを好みます。なぜでしょうか。それが広く用いられており,なじみがあるのに対し,ヤハウェのほうはそうでないからです。それでも,もともとの発音に近いと思われる形を用いるほうが良いのではありませんか。実際にはそうではありません。それは,聖書の中のいろいろな名前を表わす慣習ではないのです。
 最も顕著な例として,イエスの名を考慮してみましょう。イエスはナザレで育ちましたが,イエスの家族や友人が日常の会話の中でイエスをどのように呼んでいたか,あなたはご存じですか。エシュア(あるいはおそらくエホシュア)といった名であったと思われますが,真実のところ,だれにも確かなことは分かりません。イエスでなかったことは明らかです。
 しかし,イエスの生涯の記録をギリシャ語で書き記す際,霊感を受けた筆者たちはもともとのヘブライ語の発音を残そうとはしませんでした。むしろ,その名をギリシャ語でイエースースと訳出しました。今日では,聖書を読む人々の言語に応じてさまざまに訳出されています。英語の聖書を読む人はJesus(“ジーザス”と発音)という名を目にします。イタリア語ではGesù(“ジェスー”と発音)とつづります。また,ドイツ語のつづりはJesus(“エーズス”と発音)です。
 わたしたちのほとんどが,いや事実上わたしたちのすべてがそのもともとの発音を実際には知らないので,イエスという名を用いるのをやめるべきでしょうか。そのようなことを提唱した翻訳者は一人もいません。わたしたちはその名を用いることを望んでいます。それによって,神の愛するみ子,イエス・キリスト,わたしたちのためにご自身の命の血を与えてくださった方を示せるからです。聖書にあるその名をすべて取り除いて,「師」や「仲介者」といった単なる称号で置き換えるのはイエスに敬意を示すことでしょうか。もちろんそうではありません。わたしたちは自分たちの言語で普通に発音されるその名を用いてイエスのことを示せます。
 聖書に出てくるすべての名について同じようなことが言えます。わたしたちはそれらの名を自分たちの言語で発音し,もともとの発音をまねようとはしません。例えば,“イルメヤフ”とは言わずに「エレミヤ」と言います。同様に,預言者イザヤは当時おそらく“エシャヤフ”という名で知られていたものと思われますが,わたしたちは彼のことをイザヤと呼びます。これらの人の名のもともとの発音を知っている学者たちでさえ,彼らのことを話す際には古代の発音ではなく,現代の発音を用います。
 そして,これと同じことがエホバのみ名にも言えます。たとえ,現代のエホバという発音が厳密にはもともとの発音どおりではないにしても,それは決して神のみ名の重要性を損なうものではありません。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」とイエスが語りかけた,創造者,生ける神,至高者のことがそれによって示されます。―マタイ 6:9。
 ヤハウェやヤーウェという発音を好む翻訳者が少なくありませんが,エホバ(Jehovah)という形が幾世紀ものあいだ人々に親しまれてきたので,新世界訳をはじめ,幾つかの翻訳は引き続きその形を用いています。しかもこれには,他の形の場合と同様,YHWHまたはJHVHで表わされる四文字語<テトラグラマトン>の四つの文字が含まれています。
 ……それでは,ヤハウェやヤーウェといった形を用いるのは間違っているのでしょうか。そのようなことはありません。それはただ,エホバという形がほとんどの言語で「国語化」されているため,そのほうが読者はすぐに反応しやすいということによります。大切なのは,神の名を用い,それを他の人々に宣明することです。こう命じられています。「あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ」― イザヤ 12:4。



 エホバの証人が“エホバ”を用いるのは便宜的な理由によります。日本でもそうですが、世界的に見ても、長年にわたって広く用いられてきたのは“エホバ”のほうです。そうすると、昔から使われてきた言い回しを引き続き使用するのが無難だということになります。
 たとえ発音が間違っていても、エホバに対する信仰、またイエスに対する信仰の価値が下がるということはありません。聖書の表現を借りるなら、「大切なのは信仰であって業ではない」ということです。
 これはある意味、究極の選択みたいなものです。間違っているけど広く使われてきた“エホバ”を取るか、学術的に推奨されているもののあまり使われてこなかった“ヤーウェ”を取るか、これはなかなか難しい問題です。






 ここで再び、キリスト教諸教会に猛威を振るい、社会全体にも影響を及ぼしている、“反エホバ主義”ということについて考えたいと思います。

 21世紀に入ると、キリスト教会の“エホバ嫌い”は病的と言えるレベルにまで達してしまいました。この世の中には「虫唾が走る」とか「蕁麻疹が出る」などという言い回しがありますが、そんな感じです。いま、キリスト教信者の中には「エホバという語を聞いただけで気が狂いそうになる」という方がたくさん見られるようになっています。
 エホバに対する嫌悪感がどんどんひどくなっていく過程で、一時期、“ヤーウェ”が受け入れられそうな雰囲気がありましたが、今ではこちらのほうも避けられるようになっています。おそらくですが、今後は“ヤーウェ”に対する反応も同様になっていくものと思われます。
 諸教会は、神の名前の発声を避ける理由として「神の御名に対する深い敬意」ということを説明します。しかし最初に指摘したように、これは建前になっています。

 2008年には、カトリック教会において、聖書や祈祷書において神の名前の使用を禁止する通達が発行されました。



◇ 「「神の名」について」, 司教協議会への手紙, カトリック, 2008年6月29日 (表記等修正)

教皇の指示により、教皇庁教理省に従って、当教皇庁典礼秘跡省は、典礼の場における、「神聖四字」で示される神の名の翻訳と発音に関して、以下のことがらといくつかの指針を司教協議会にお伝えするのが適切だと考えました。

 ……聖書に記された神のことばを完全かつ忠実に保ち、伝えることができるようにするために、聖書の諸書の近代語への翻訳は皆、原典を忠実かつ正確に置き換えることを目指しています。こうした文章上の努力は、最大限完全かつ正確に、内容に関する削除や付加を行わず、聖書そのものに属さない解説の注解や言い換えを行わずに原典を翻訳することを求めます。
 神ご自身の聖なる名に関して、翻訳者はできるかぎりの忠実さと尊崇をもたなければなりません。とくに『リトゥルジアム・アウテンティカム(2001 年 3 月 28 日)』(41)が述べるとおり、「じつに上述した『七十人訳』にすでに示される、はるか昔からの伝統に従い、ヘブライ語の神聖四字で表され、ラテン語で『ドミヌス(主)』と訳された全能の神の名は、いかなる近代語においても同じ意味をもつことばで訳さなければならない」。
 これほど明快な規定があるにもかかわらず、近年、神聖四字として知られ、ヘブライ語のアルファベットの4つの子音で YHWH と記される、イスラエルの神の固有の名を発音する習慣が広まってきています。神聖四字を発音する習慣は、朗読聖書に収められた聖書箇所の朗読や、祈りや賛歌において行われます。発音は、文字や発音によるさまざまな形で行われます。たとえば、Yahweh、Yahwè、Jahweh、Jahwè、Jave(ヤハウェ、ヤーウェ)、Yehovah(エホヴァ)などです。
 ……キリスト紀元前数世紀にさかのぼる旧約のギリシア語訳である、いわゆる七十人訳は、ヘブライ語の神聖四字を規則的に、「主」を意味するギリシア語の「キュリオス」と訳しました。七十人訳のテキストはギリシア語を話す最初の世代のキリスト者の聖書となりました。新約聖書のすべての書もギリシア語で書かれました。そこで、このギリシア語を話す最初の世代のキリスト者も、初めから、神聖四字をけっして発音しませんでした。……

以上の説明に照らして、以下の指針を守らなければなりません。
1 典礼、聖歌、祈りの中で、神聖四字の形で示された神の名を用いたり、発音したりしてはならない。
2 教会の典礼で用いるための聖書本文の近代語訳に際して、指針『リトゥルジアム・アウテンティカム』41 ですでに定められたことを守らなければならない。すなわち、神聖四字は「アドナイ/キュリオス」と同じ意味のことばである”Lord”, “Signore”, “Seigneur”, “Herr”, “Señor”(主)などと訳さなければならない。
3 典礼と関連して、ヘブライ語の「アドナイ」と神聖四字の YHWH が代わる代わる用いられる本文を翻訳する際、七十人訳のギリシア語訳とヴルガタのラテン語訳に見られるのと同様に、「アドナイ」は「主」と訳し、神聖四字 YHWH には「神」ということばを用いなければならない。



 カトリック教会は別の建前を述べています。なんと、神の名前を使わないことは聖書原典に忠実なことだ、というのです。
 セプトゥアギンタ訳(七十人訳)についてのエホバの証人の指摘も無視されています。

 この通達を受け、日本のカトリック教会では文書の総点検が行われ、“エホバ”や“ヤーウェ”の削除が行われました。聖書からも神の名前は除去されてしまいました。



ミカ 7:7

◇ フランシスコ会聖書研究所訳聖書 [1992年版] ◇ (カトリック)
しかし、わたしはヤーウェを待つ。わたしの救いの神を待ち望む。わたしの神は耳を傾けてくださる。

◇ フランシスコ会聖書研究所訳聖書 [2011年版] ◇ (カトリック)
しかし、わたしはを仰ぎ見る。わたしの救いの神を待ち望む。わたしの神は耳を傾けてくださる。



 さて、ここで私がとても不思議に思うのは、神の名前の発音には、なにやら特有の“気持ち悪さ”があるということです。
 キリスト教会でも過去にこんな発言がありました。



◇ 「ものみの塔」誌1979年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記等修正)

 セントポール-ミネアポリス大司教管区世界教会運動委員会のメンバーであるジョセフ・サマーズは,聖書に出てくる神のみ名に関して,ナショナル・カトリック・リポーター誌に次のように書いています。「その名前は私には不敬で不作法なように思われる。……これは神学的に見ても誤っており……さらに悪いことに,その名前は実にばかげて聞こえる」。
 聖書中に神のみ名は幾千回も表われており,そのみ名は英語のYHWHに相当するヘブライ語の子音から成り立っています。テトラグラマトンと呼ばれるこの文字は“ヤーウェ”(Yahweh)もしくは“エホバ”(Jehovah)と訳されています。この神のみ名は「ばかげて」いますか。



 これは、おおかたどの言語でも共通して言えることのようです。日本でも、“エホバ”という語を聞いた時、「なにか精神に異常をきたしたような、得体の知れない気持ち悪さを感じる」と言う方がたくさんおられます。しかもその度合いは半端ないといいます。
 そうすると、神の名前“エホバ”には、人々がそれを嫌悪するための二つの仕組みがあることになります。一つは見せかけの敬意と忠誠心です。もう一つは気持ちの悪さです。この二つの仕組みのせいで、キリスト教会にも、社会全体にも、エホバに対する嫌悪と拒絶ということが生じています。

 その結果、どういう状況が見られるでしょうか。世界を見渡すとたくさんの宗教があり、キリスト教の宗派もたくさんありますが、“エホバ崇拝”ということをやっているのはエホバの証人だけです。この人たちだけが“エホバ”を使用し、それ以外の人たちはそろって彼らのことを気持ち悪がっています。そのせいで、エホバ崇拝における二番手が現れる気配は全くありません。
 これは考えると非常に不思議なことです。この不思議ということについては「“エホバの証人”とは」のほうにいろいろと書いていますのでぜひご覧ください。






 このような事情があって、現在「聖書」とされているものの大半には神の名前がありません。

 キリスト教世界では、19世紀のアメリカで、エホバの名前を聖書に載せようという運動がありました。しかし、この努力は20世紀に逆の結果をもたらすことになります。

 「アメリカ標準訳聖書」の刊行の動機づけとなったのは、イギリスのオックスフォード大学とアメリカのケンブリッジ大学の支持のもと両国の翻訳者たちが共同で行った、「ジェームズ王欽定訳聖書」の改訳事業です。この改訳により「改正訳聖書」が世に出ることになります。この時、神の名前の取り扱いについて、このようないきさつがありました。



◇ 「英訳聖書の歴史」, 永島大典 (表記等修正)

 イギリスの改訳委員会の要請を受けたアメリカの神学者たちは、各教派を代表する委員を選定し、デイを長とする旧約班と、セイヤを長とする新約班を編成して協力した。アメリカの委員会は、イギリスの委員会の案よりも更に自由で現代的改訂を希望した。例えば神名には God や Lord の代わりに Jehovah を用いることを提案した。しかし彼等の要望はイギリス側委員の3分の2以上の賛成が得られなければ採択されないことになっており、結局改正訳の旧約および新約の註として付加されるにとどまった。



 自分たちの意向が聞き入れられなかったことで不満を抱いた翻訳者たちは、改正訳聖書に取って代わる新しい聖書の翻訳事業に取りかかりました。これがアメリカ標準訳聖書です。この聖書は、20世紀が始まったばかりの1901年に刊行されます。
 アメリカ標準訳聖書の序文はこのように述べています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『主』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 1901年に出版されたアメリカ標準訳の翻訳委員会は,この慣行に倣うのをやめるにあたり,次のように述べました。「アメリカ標準訳の訳者たちは慎重な考慮の末,神のみ名は神聖であるゆえに発音すべきではないとするユダヤ教の迷信は,旧約聖書の英語訳,あるいは他のいかなる言語の訳においても,もはや幅を利かすべきではないとの確信を全員が一致して得るに至った。幸いなことに,現代の諸宣教師の手による数多くの翻訳でもそのような迷信は幅を利かせていない。……数々の神聖な事柄を連想させてやまない,この固有のみ名[エホバ]は,それが疑いもなく記されてしかるべき神聖な本文中の箇所に今や復元されたのである」― ア標,序文,4ページ。



 ところが、ちょうどそのころから“反エホバ主義”の急速な拡大が生じることになります。アメリカ標準訳聖書がその呼び水になったとさえ言えます。アメリカの諸教会は、エホバの名の出てくるこの聖書をだんだん嫌うようになっていきます。やがてこの聖書は改訳され「改訂標準訳聖書」になります。改訂標準訳聖書は1952年に完成しました。
 改訂版の聖書では「エホバ」は除かれました。その序文はこう述べています。



◇ 「神のみ名は永久に存続する」, ものみの塔聖書冊子協会

 改訂標準訳の序文には次のように記されています。「次の二つの理由から,当委員会はジェームズ王訳のより親しみある用法[つまり,神のみ名を省くこと]に戻った。(1)“Jehovah”(エホバ)という語は,ヘブライ人がこれまで用いたみ名のいかなる形をも正確には表わしていない。また(2)他の神々がいて唯一の神を区別しなければならないかのように,唯一の神に対して何らかの固有名詞を用いることはキリスト教時代以前のユダヤ教において行なわれなくなっていた。それはキリスト教会の普遍的信仰にとっても全く不適切なことである」。



 その後、改訂標準訳聖書は新改訂標準訳聖書になりました。さらに2001年には、改訂標準訳聖書の新規の改訳となる「英語標準訳聖書」が刊行されます。これらも神の名前を省きました。
 現在、アメリカではアメリカ標準訳聖書は無視された存在となっています。

 日本でも似たようなことが生じました。1887年に完成した「文語訳聖書」が“ヱホバ”を用いましたが、1955年に完成した「口語訳聖書」では神の名前は除去されました。

 しかし、このような変化により、神の名前があらゆる聖書から消えてしまうということにはなりませんでした。というのも、エホバの証人が、1950年以降「新世界訳聖書」の刊行を行ったからです。この聖書には“エホバ”の名前が使用されています。
 新世界訳聖書の英語版は1961年に完成しました。さらに、この聖書は各国語版でも刊行されました。2021年3月の時点で、新世界訳聖書は、手話言語を含めると276の言語で発行されています。発行部数はおよそ2億4000万部です。

 エホバの証人は決して大きな宗教団体ではありませんが、それでも、聖書の普及という点ではたいへん大きな役割を果たしています。その聖書に神の名前が含まれることで、神の名前は消滅を免れています。もしエホバの証人が新世界訳聖書を発行しなかったら、“エホバ”の名は世の中から消えてしまっていたでしょう。






 最後に、日本の聖書において実施された、神の名前の短縮形の除去について指摘します。

 すでに話したように、神の名前には“エホ”と“ヤー”の短縮形があり、“エホ”はさらに短縮して“エー”と“ヨ”になります。このうち“エホ”は人名によく使われ、聖書に頻繁に出てきます。
 この“エホ”の存在が問題になりました。教会で用いられる聖書からはすでに“エホバ”が除去されていましたが、“エホ”が残っていては目障りというものです。そこで1987年に刊行された「新共同訳聖書」においては、“エホバ”に加えて“エホ”の除去も実施されました。

 では、人名ごとのその比較を見ていきましょう。

△ エホアシュ (「エホバは授けてくださった」)



列王第二 11:21 (共同訳系聖書では 12:1)

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホアシュが王になったのは7歳の時だった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ヨアシュは王位についたとき、七歳であった。



△ エホアダ (「エホバはご自身を美しく装われた」)



歴代第一 8:36

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
アハズの子はエホアダ。エホアダの子は,アレメト,アズマベト,ジムリ。ジムリの子はモツァ。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
アハズにはヨアダが生まれ、ヨアダにはアレメト、アズマベト、ジムリが生まれ、ジムリにはモツァが生まれ、



△ エホアディンもしくはエホアダン (「エホバは楽しみ」)



列王第二 14:2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
アマジヤは25歳で王になり,エルサレムで29年治めた。彼の母はエホアディンといい,エルサレムの人だった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヨアダンといい、エルサレムの出身であった。



△ エホアハズ (「エホバがとらえてくださるように」、「エホバはとらえてくださった」)



列王第二 13:4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
やがてエホアハズはエホバに恵みを求めた。エホバは,シリアの王がイスラエルに加えてきた圧迫を見ていたので,その願いを聞き入れた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、ヨアハズが主をなだめたので、主はこれを聞き入れられた。主はイスラエルが圧迫されていること、アラムの王が彼らに圧迫を加えていることを御覧になったからである。



△ エホザバド (「エホバは授けてくださった」)



歴代第二 17:18

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
また,エルヤダの指揮下に,エホザバドと戦いのために武装した18万人がいた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
次のヨザバドは武装兵十八万を率いていた。



△ エホシャファト (「エホバは裁き主」)



列王第一 22:2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
3年目に,ユダのエホシャファト王はイスラエルの王の所に来た。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
三年目になって、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王のところに下って来た。



△ エホツァダク (「エホバは義としてくださる」)



歴代第一 6:15 (共同訳系聖書では 5:41)

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホツァダクは,エホバがネブカドネザルの手によってユダとエルサレムを捕らえて連れ去った時に捕囚にされた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
主がネブカドネツァルの手によってユダとエルサレムの人々を捕囚として連れ去らせたとき、このヨツァダクも引いて行かれた。



△ エホナダブ (「エホバは進んでことをなさる」)



列王第二 10:23

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エヒウはレカブの子エホナダブと共にバアルの家に入り,バアル崇拝者たちに言った。「よく確認して,ここにエホバの崇拝者がいないようにしてください。バアルの崇拝者だけにするのです」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
そこでイエフはレカブ人ヨナダブと共にバアルの神殿に入り、バアルに仕える者たちに言った。「主に仕える者があなたたちと一緒にいることがないよう、ただバアルに仕える者だけがいるように、よく調べて見よ。」



△ エホナタン (「エホバは与えてくださった」)



エレミヤ 37:20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
王よ,どうか聞いてください。恵みを求める私の願いをかなえてくださいますように。私を秘書官エホナタンの家に送り返さないでください。送り返されたら,私はそこで死んでしまいます」。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
王よ、今どうか、聞いてください。どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように。」



△ エホハナン (「エホバは恵みを示してくださった」、「エホバは慈しみに富んでおられた」)



エズラ 10:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エズラは真の神の家の前から立ち去り,エルヤシブの子エホハナンの部屋に行った。しかし,何も食べず,水も飲まなかった。捕囚の地から帰還した人々の不忠実さを嘆いていたからである。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
エズラは神殿の前を立ち去り、エルヤシブの子ヨハナンの祭司室に行き、そこで一夜を明かしたが、パンも水も取らなかった。捕囚の民の背信を嘆き続けていたからである。



△ エホヤキム (「エホバは起きあがらせてくださる」)



列王第二 23:34

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その上,ファラオ・ネコはヨシヤの子エリヤキムを父ヨシヤの代わりに王にし,名前をエホヤキムに改名させた。また,エホアハズをエジプトに連れていき,エホアハズはそこで死んだ。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ファラオ・ネコはヨシヤの子エルヤキムを父ヨシヤの代わりに王とし、名をヨヤキムと改めさせた。一方、ヨアハズはエジプトに連れて行かれ、そこで死んだ。



△ エホヤキン (「エホバは堅く立ててくださった」)



列王第二 24:12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ユダのエホヤキン王は,母親や家来や高官や廷臣たちと共にバビロンの王に降伏した。バビロンの王は治世の第8年にエホヤキンを捕らえた。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。



△ エホヤダ (「エホバが知ってくださるように」)



列王第一 2:35

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
王はヨアブの代わりにエホヤダの子ベナヤを軍隊の長に任命し,祭司ザドクをアビヤタルの代わりに任命した。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
王は彼の代わりにヨヤダの子ベナヤを軍の司令官とし、アビアタルの代わりに祭司ツァドクを立てた。



△ エホヤリブ (「エホバが闘ってくださるように」、「エホバは[わたしたちに対する]法的な訴えを処理してくださった」)



歴代第一 24:7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
第1のくじはエホヤリブに当たった。第2はエダヤに,

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
第一のくじはヨヤリブに当たった。第二のくじはエダヤに、



△ エホラム (「エホバは高い(高められる)」)



列王第二 8:24

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホラムはやがて死に,「ダビデの町」に父祖たちと共に葬られた。代わりにエホラムの子アハジヤが王になった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ヨラムは先祖と共に眠りにつき、先祖と共にダビデの町に葬られた。その子アハズヤがヨラムに代わって王となった。



 “エホ”の短縮形が“ヨ”であることをうまく使って“エホ”を消しています。
 このようなわけで、通常なら聖書に200回ほど出てくる“エホ”は、新共同訳聖書にただの1度も出てきません。エホバについてはその痕跡さえも残さない、ということらしいです。

 エホバの証人を除くすべての教会にとって、新共同訳聖書は安心して利用できる聖書です。読んでいるうちにイライラし、そのうち頭の中が「うわあああ」となってしまう心配はもうありません。






次の文書の案内です。

 この文書では、次の2つの点が指摘されました。聖書のうち、新約聖書と呼ばれる部分には神の名前が出てきません。しかし、どうやら新約聖書の原典では神の名前が使用されたようです。
 というわけで、次の文書では、エホバの証人によって行われている事業、新約聖書における神名の復元ということを掘り下げていきたいと思います。