エホバの証人の聖書

“エホバ”発音問題

 このサイトを訪れる方の中には、『エホバ』が何であるかがよく分からないと言われる方もおられると思います。
 エホバというのは、聖書に出てくる神の名前です。
 しかし最近は、神の名前として「エホバ」を用いるキリスト教派がどんどん減っていて、「エホバと言えばエホバの証人」というイメージがどんどん広がっています。

 そこで、まずは、「反エホバ主義」なるものを取り上げておきたいと思います。
 先の20世紀は、キリスト教世界にとって『“エホバ”撲滅の世紀』と呼べる世紀となりました。
 昔から、キリスト教の大半の教派は、「エホバ」の使用に消極的な態度を示してきましたが、特に20世紀に入ると、多くの教会が、神の名前として「エホバ」を用いるのを完全にやめ、それどころか、「エホバ」を用いることに反対するようになりました。
 その理由として最大のものは、エホバの名を積極的に用いるエホバの証人に対する嫌悪感です。
 そこに、発音の問題、キリスト教の伝統などの理由が続きます。
 発音の問題は、ここでの主要なテーマですので、あとから取り上げます。

 さて、反エホバ主義の教会についてですが、これを見分ける方法は簡単です。
 とりあえず、教会に行って、エホバについて話してみることです。
 教会に行って、「まことの神エホバ」、「全能者エホバ」について話し、「キリストによって示されたエホバの愛」や「イスラエルに示されたエホバの憐れみ」、「終わりの日に臨むエホバの救いと裁き」についていろいろと語ってみましょう。
 教会の牧師が、「エホバ」にいらいらし、あなたが「エホバ」と発言するのをやめさせようとするなら、その教会は反エホバ主義の教会です。

 最近は、度を超した行動に出る教会も増えています。
 ヨーロッパの古い教会の建造物や美術品には、「エホバ」が記されたものが幾つかありますが、そのようなものには歴史的、美術的価値があるにもかかわらず、「“エホバ”はだめだ」という理由で、どこかにかたづけられたり、ひそかに破壊されたりしています。

 反エホバ主義の教会の多くが、「“エホバ”を発音しないことは、むしろ神に対する敬意の表れだ」と唱えてきました。
 ユダヤ人が、昔から神の名前を発音しないことによって神に敬意を示してきたから、あるいは、「エホバ」は神の名前の正確な発音ではないから、というのが彼らの言い分です。
 もっとも、多くの場合、こういった主張は隠れ蓑です。反エホバ主義の本質は、敬意ではなく嫌悪感にあるからです。


 というわけで、続きまして、神の名前を発音しないユダヤ人の伝統について説明したいと思います。

 ここで一つ、注意を促しておきたいと思います。
 この問題について扱っている資料の多くが、生じた事柄を断定するような言い方をしているため、誤解の原因になっています。
 実際には、この伝統の詳しいことは分からないようです。

 ユダヤ人が神の名前を発音しなくなった原因となっているのは、モーセの十戒の3番目のおきてにあると考えられています。

出エジプト 20:7/新世界訳聖書(エホバの証人)「あなたの神エホバの名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずらに取り上げる者をエホバは処罰せずにはおかないからである。」

 ユダヤ人は、「いたずらに」という表現を字義どおりに解釈し、神の名前は頻繁には用いるべきではないと考えた、やがて、この考えは迷信へと発展していき、ユダヤ人はますます神の名前を用いなくなった、というのが定説です。
 このような考え方が迷信であることは、今ではユダヤ教の人々の間でも認められています。「ユダヤ大百科事典」はこう述べています。

『YHWHという名の発音を忌避した……理由は,第三のおきて(出エジプト記 20:7。申命記 5:11)を誤解し,『汝は汝の神なるYHWHの名をいたずらに取り上げてはならない』という意味に読んだことにある。しかしその実際の意味は,『あなたは,あなたの神YHWHの名によって虚偽の誓いをしてはならない』ということである。』(「聖書に対する洞察」より)

 (“YHWH”とは、神の名前を表すヘブライ語の翻字で、『テトラグラマトン』とも呼びます。これが使ってはならないことになりました。そうすると、聖書を読んでいるときに神の名前が出てくると、なんと読むべきかという問題が生じます。ユダヤ人は、「主」を表す“アドナイ”という読みを充てることにしました。綴りは“YHWH”ですが、読みは全く異なる“アドナイ”になります。これについては後述します。)

 多くの資料は、この定説だけを紹介し、この迷信がどのようにして成立していったのかについて深く考察したりはしないようです。「聖書に対する洞察」は、この点についてこう解説しています。

『そのみ名の使用をやめるために,最初,一体どんな根拠が挙げられたのか,確かなことは分かりません。中には,み名は不完全な人間の唇で語るにはあまりにも神聖すぎるとみなされたのだと考える人もいます。しかし,ヘブライ語聖書そのものには,かつて神のまことの僕のだれかが神の名を発音するのをちゅうちょしたことを示す証拠は一つもありません。いわゆるラキシュ書簡などの聖書以外のヘブライ語の文書は,西暦前7世紀後半のパレスチナでは神の名が普通の通信文の中でも使われていたことを示しています。
ほかには,ユダヤ人ではない諸民族がそのみ名を知れば,誤用する可能性があるので,そうならないようにする意図があったという見方もあります。しかし,エホバご自身が,「わたしの名を全地に宣明させ」(出 9:16。代一 16:23,24; 詩 113:3; マラ 1:11,14と比較),敵対者にさえ知られるようにさせると言われました。(イザ 64:2)実際,そのみ名は西暦紀元前の時代と西暦紀元の初期の何世紀かの間,異教の諸国民に知られており,また使われていました。(ユダヤ百科事典,1976年,第12巻,119ページ)また,そのみ名を魔術の祭儀で使われないように守るのが目的だったと主張する人もいます。もしそうだとすれば,その論拠は薄弱です。み名が使われなくなって,神秘的なものになればなるほど,事態は魔術を行なう人々の目的に一層かなうことになるのは明らかだからです。』

 (すこし解説が必要でしょう。「聖書に対する洞察」はここで、起源に関する3つの仮説を挙げて、反論を述べていますが、これは、その仮説が間違っているという趣旨の反論ではありません。ただ、ユダヤ人がどの理由で神の名前を用いなくなったとしても、それは聖書の教えに反している、あるいは根拠のない迷信であると言っているだけです。少しご注意を。)

 いつ、この迷信が生じたのか、そして、いつまでに普及したのかという点についても、多くの資料は断定的な言い方をします。キリストが生まれた1世紀にはその風習が完全に定着していたというのが定説です。
 しかし、「聖書に対する洞察」は、この点についても慎重な見方を示しています。

『神の名の使用をやめるために当初提出された理由があやふやなように,この迷信的な見方が実際に定着したのはいつごろか,ということも極めてあやふやです。中には,バビロンへの流刑(西暦前607-537年)後に定着したと主張する人もいます。しかしこの説は,ヘブライ語聖書の後代の筆者によるみ名の使用回数が減少したとする見方に基づいており,この見方は考察に堪えるものではありません。例えば,マラキ書は明らかに,ヘブライ語聖書巻末の書として(西暦前5世紀後半に)記された文書の一つでしたが,その中で神の名は大変目立ったものとされています。
そのみ名は西暦前300年ごろには使われなくなったとしている参考書は少なくありません。この年代を支持する証拠は,西暦前280年ごろ翻訳され始めた,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳の中に四文字語(テトラグラマトン)(もしくは,その翻字)が出ていない点にあるとされています。確かに,セプトゥアギンタ訳の写本で,今日知られている幾つかの最も完全な写本では,四文字語(テトラグラマトン)の代わりにキュリオス(主),もしくはテオス(神)というギリシャ語を用いる習慣が一貫して守られているのは事実です。しかし,それらの主要な写本の年代はせいぜい西暦4ないし5世紀までさかのぼるにすぎません。それらよりもさらに古代の写本が,断片であるとは言え,幾つか発見されており,神の名が確かにセプトゥアギンタ訳の最初期の写本に出ていたことを証明しています。』

 ある時期までは、聖書のギリシャ語訳であるセプトゥアギンタ(七十人訳)の写本の収集と研究は不完全でした。そして、その当時知られているセプトゥアギンタ写本はみな、神の名前をギリシャ語の「主」で置き換えていました。
 そこで、セプトゥアギンタの翻訳された頃には、神の名前は全く使われなくなったはずだという定説が生じました。
 しかし、今では、神の名前にヘブライ語の“YHWH”を用いたセプトゥアギンタ写本が発見されています。これは、それまで知られていた写本より古く、たとえば1世紀から2世紀のものです。これにより、定説は覆されます。

 話をさらに複雑にしているのが、2世紀以降に文書にして保存された、ユダヤ人の伝統体系です。「聖書に対する洞察」はこう述べています。

『年に一度の贖罪の日に関して,ダンビー訳のミシュナはこう述べています。「また,神殿の中庭に立つ祭司たちや民は,大祭司の口から発せられて言い表わされたみ名を聞くと,ひざまずいて身をかがめ,ひれ伏して,『その王国の栄光のみ名が,限りなく永久にほめたたえられますように!』と言うのであった」。(ヨマー 6:2)ソター 7章6節は祭司が日ごとに述べる祝福の言葉について,こう述べています。「彼らは神殿ではみ名を書かれている通りに発音したが,地方では代わりの言葉で発音した」。サンヘドリン 7章5節は,冒とくした者も,『み名を発音したのでない限り』,有罪とはならず,また冒とくの罪が関係する裁判では,証拠がすべて審理されるまで代わりの名が使われ,その後,おもな証人が多分,神の名を用いて,『自分の聞いた事柄をはっきりと言う』よう個人的に求められたと述べています。サンヘドリン 10章1節は,「来たるべき世に何の分も持っていない」者たちを列挙して,「アバ・サウルはこう言う。また,み名をその正しい文字で発音する者も」と述べています。しかし,このような消極的な見方があるにもかかわらず,ミシュナの最初の部分には,「人は[神の]み名[を使って]仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり,その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5。』

 結局、いつの時代に神の名前が使われなくなったかはよく分かりません。ユダヤ人のラビであるA・マルモルスタインは、「神に関する古代のラビ的教理」の中でこう述べています。

『[神の名の使用に関する]この禁令がユダヤ人の間で全く知られていない時代があった。……エジプトでもバビロニアでも,ユダヤ人は日常の会話やあいさつの中で神のみ名,つまり四文字語(テトラグラマトン)を使うことを禁じた律法を知らなかったし,守ってもいなかった。ところが,西暦前3世紀から西暦3世紀まで,そのような禁令があり,部分的に守られていた。』(「神を探求する人類の歩み」より)

 恐らくですが、神の名前を発音しない風習は西暦前3世紀に始まったという指摘に注目してください。
 そこで、新たな疑問が生じます。そのような慣行はいつ完成を見たのでしょうか。
 この質問を考慮するのに欠かせないのは、ギリシャ語聖書(新約聖書)には神の名前がただの1回も記されていないという問題です。
 このことは、従来の定説に従ってごく簡明に説明されてきました。ギリシャ語セプトゥアギンタではすでに神の名前の使用が全く行われなくなっていたので、新約聖書もその型に倣った、とです。しかし、先に指摘したように、この定説はすでに覆されています。
 新約聖書の写本の収集と研究も、セプトゥアギンタと同様、不完全なものです。もしかすると、セプトゥアギンタの研究に起こったことと同じことが、ギリシャ語聖書についても起こり、ギリシャ語聖書のごく初期の写本に、神の名前を使用したものが発見されるかもしれません。
 この可能性を考慮するに当たって無視することのできない文書があります。先にも紹介した、ユダヤ人の伝承文書です。これについて、「ものみの塔」誌1993年11月1日号はこのように述べています。

『ユダヤのこの宗教書の最初の部分はシャッバート(安息日)という題になっていて,安息日の行動を律する膨大な量の規則が収められています。ある部分では,安息日に聖書の写本を火から救い出すのはふさわしいかどうかが論じられ,その後に次のようなくだりが続きます。「そのことは本文の中で述べられている。空白[ギルヨーニム]とミニムの書物,我々はそれを火から救い出すことはしない。ジョゼ師は言った。週日,人はそれらに含まれている神のみ名を切り取り,それを隠し,残りを焼かなければならない。タルフォン師は言った。もしそれらが私の手に入り,それらを神のみ名もろとも焼かなかったとしたら,自分の息子を埋葬することになるように」―H・フリードマン博士による翻訳。
ミニムとはだれでしょうか。この言葉には「分派の信者」という意味があるので,サドカイ人かサマリア人を指していたということも考えられます。しかしフリードマン博士によると,このくだりの中ではユダヤ人のクリスチャンを指していた可能性が非常に高いようです。では,フリードマン博士が「空白」と訳したギルヨーニムとは何でしょうか。二つの意味が考えられます。これは巻き物の余白の部分か全く空白の巻き物だったのかもしれません。あるいは,この言葉を皮肉と取れば,ミニムの書物だったのかもしれません。それらの書物は真っ白な巻き物と同じくらい無価値なものであるかのような言い方をしているわけです。幾つかの辞書ではこの二番目の意味として「福音書」という訳語を挙げています。このことと調和して,先に引用したタルムードの一部の前に出てくる文は,「ミニムの本は空白[ギルヨーニム]のようである」となっています。
同様に,ローレンス・H・シフマンの著した「ユダヤ人とはどういう人だったか」という本では,先に引用したタルムードの一部は次のように翻訳されています。「我々は(安息日には)福音書やミニム(『異端者』)の本を火から救うことはしない。むしろ,それらはそれがある場所で焼かれる。それらもその中のテトラグラマトンも。ヨセ・ハ・ゲリリ師は言っている。週の間,人はそのテトラグラマトンを切り取り,それを隠し,残りを焼くべきである。タルフォン師は言った。私の息子を埋葬することになるように。もし(これらの本が)手に入ったのに,テトラグラマトンと共にそれを焼いてしまわなかったなら,と」。シフマン博士はさらに,ここで言うミニムとはユダヤ人のクリスチャンのことであると論じています。
タルムードのこの部分は本当にユダヤ人の初期クリスチャンのことを述べていたのでしょうか。もしそうなら,これはクリスチャンが福音書や書物の中に神のみ名,つまりテトラグラマトンを含めていたという強力な証拠となります。そして,タルムードがここで確かにユダヤ人のクリスチャンのことを述べていたという可能性は非常に高いのです。』

 少し解説しますと、ユダヤ人はキリスト教迫害の一環として、福音書を集めて焼いていたようです。その時に、福音書の中に神の名前が記されていたので、それをご丁寧に切り取ってから、残りを焼いていたということです。
 もしもこれから先、神の名前が含まれる福音書の写本が発見されたら、ギリシャ語聖書に関する現在の定説は大きな打撃を受けるでしょう。この文書はその可能性を示しています。

 しかし、私がこれまで論じてきた事柄をすべて覆し、話を振り出しに戻してしまう説もあります。それは、神の名前の綴りの問題に関わるものです。
 ギリシャ語セプトゥアギンタなどの写本に出てくる神の名前は、テトラグラマトン、つまりヘブライ語です。しかも、古代ヘブライ文字が用いられることさえあります。さらに、ヘブライ語の聖書写本の中にも、ヘブライ語方形文字を用いて記されているのに、神の名前だけが古代ヘブライ文字になっているものがあります。
 このようなヘブライ語写本のひとつである「ハバクク書注解」について、「旧約聖書の本文研究」はこう述べています。

『特に注目すべきなのは、神名ヤハウェが古ヘブル文字で記されていることである。……このようなやり方がかつて広く行われていたにちがいない。…… יהוה は ― 古ヘブル文字で書かれようと、方形文字で書かれようと ― אדני を示す表意文字としての意義を持っていたにすぎなかったのである。』

 (ここのところ、環境によってはヘブライ語が表示されなかったり、左右が入れ替わったりしますのでご注意を。)

 この本は、ヘブライ語文書において、神の名前がわざわざ古代ヘブライ文字で綴られているのは、それを“אדני (アドナイ)”つまり「主」と読み替えるためであるという説を支持しています。これはほとんど定説でしょう。
 (ただしこれには、「では、同じく古代ヘブライ文字で綴られている“エル(神)”はなんと読まれたのか」という疑問がつきます。)
 そうすると、ギリシャ語写本において神の名前がヘブライ語で出てくるのも、それに準じてのことではないかと考えられます。つまり、綴られても発音はされなかったのではないかということです。そうすると、ギリシャ語セプトゥアギンタにおける神の名前の出現を理由に、神の名前を用いなくなったユダヤ人の風習について詳細を論じるのはかなり的外れということになります。

 さて、神の名前を発音しないユダヤ人の伝統については、とりあえずこのへんで話を終えたいと思います。将来、もうすこし勉強を重ねた後に、これとは別の追加の記事を書く予定です。


 続きまして、ヘブライ語の発音の問題に話を進めたいと思います。

 神の名前に発音の問題が生じたもう一つの要素となっているのは、ヘブライ語文字の性質です。
 ヘブライ語文字は表音文字としては完全ではなく、子音を表すアルファベットに、母音を表すアルファベットを組み合わせることがありません。つまり、ヘブライ語は子音文字によって綴られており、綴りから読みを推測することはしばしば困難となります。

 すこし説明が難しいかもしれません。たとえば日本語の場合、「あいうえお」、「かきくけこ」、「さしすせそ」のうち、「あいうえお」は母音です。「かきくけこ」と「さしすせそ」は子音に母音が組み合わさっています。基本的に、子音は母音と組み合わされて発音されます。特に日本語はそうです。日本語ではこれらを「ア行」、「カ行」、「サ行」と呼びますが、ヘブライ語には、この「行」を表す文字(つまり子音文字)のみしかありません。
 (ここで一つ注意を。この問題について述べた資料の多くは、「ヘブライ語文字には母音がない」と述べています。これは正しいのですが、ある意味厳密な表現ではありません。ヘブライ語には実質的に母音を表す文字があります。)

 では、ヘブライ語文字をどのように読むかというと、そこにはある程度の法則があります。たとえば、ヘブライ語動詞の基本形は「パアル(カル)態」と呼ばれ、ヘブライ語3文字で表記し、「パアル」の母音で発音します。読者は、ヘブライ語の法則に精通することにより、子音だけの綴りから、多くのヘブライ動詞を読むことができます。
 しかし、問題は名詞です。名詞は動詞よりもやっかいで、結論的には、綴りと読みの組み合わせを丸暗記していくよりほかにありません。
 そこで、必要なのが口頭による伝承です。実際にヘブライ文字を読むことによって、発音は人から人に伝えられなければなりません。人々の間で用いられなくなった名詞は、すぐにも発音が分からなくなります。

 もしも、ヘブライ語が表音文字として完全であれば、ユダヤ人が迷信により神の名前の発音を禁じても、その発音が失われることはなかったことでしょう。

 後代になり、この問題を解決しようとした人たちが現れました。マソラ学者とも呼ばれる書士(聖書の写本家)たちです。彼らは、表音のために必要な母音を、文字ではなく符号という形でヘブライ語文字に加えることを考案しました。この母音符号は「ニクダ」と呼ばれ、現在も広範に用いられています。またマソラ学者は、何かとわかりにくく、読者を混乱させる、ヘブライ語文法の問題も解決しようとして、分離符などの、文法を示す符号も考案しました。
 彼らはこの技術を駆使して聖書本文を修飾しました。これは「マソラ本文」と呼ばれます。現在、「聖書本文」とか「原典」とか呼ばれているものは、まず例外なくこの「マソラ本文」です。たとえば、校訂本文のビブリア・ヘブライカはマソラ本文の校訂本です。

 さて、聖書全体に渡って正しい発音と文法上の読みを付け加えるに当たって、問題となったのが神のみ名の発音です。神の名前はヘブライ語文字を英語のアルファベットに書き換えると“YHWH”となります。マソラ学者は「主」を表すヘブライ語アドナイからニクダをとり、それを“YHWH”に充てることにしました。こうして、神の名前の発音を正しく表記することは避けられました。
 アドナイはヘブライ語で4文字、ニクダは3箇所、1文字目の下と2文字目の上と3文字目の下につきます。これをとってYHWHの1文字目と2文字目と3文字目につけると、1文字目の発音が不自然になります。それが喉音のための母音(「複合シェバー」)だからです。それで、ヘブライ語の発音のルールに基づいて、これを半母音に置き換えます。これで、最初の母音は「ア」から「エ」と変わります。こうして、「YeHoWaH (יְהֹוָה)」という発音ができました。日本語では「エホバ」と呼ばれます。
 さて、「エホバ」は英語では“Jehovah(ジェホーバー)”となります。これは英語の起源をたどるとよく理解できます。昔、“J”は今の“Y”、“V”は今の“W”の発音で読まれていました。つまり、元々は“Yehowah(イェホーワー)”と読まれていました。しばしば「テトラグラマトンは“YHWH”ないし“JHVH”」と説明されるのはそのせいです。すこし脱線しますが、“Jesus(ジーザス)”も、もともとは「イェースース」です。

 マソラ学者が神の名前にアドナイのニクダを充てたことについては、二つの理由が考えられています。
 一つは、神の名前の発音は完全に失われていて、マソラ学者にもそれは分からなかった、というものです。そこでマソラ学者は、神の名前を「主(アドナイ)」と読み替えるユダ人の慣行を参考に、アドナイからニクダを借りたと言われています。
 もう一つは、マソラ学者は神の名前の発音を知ってはいたが、表記するのを忌諱したというものです。正しい発音を示すなら、それを読む人が『神の名前を発音するという罪』なるものを犯してしまうので、神の名前を「主(アドナイ)」と読み替えるユダ人の慣行を参考に、アドナイからニクダを借りたと言われています。


 そうすると、「神の名前のそもそもの発音はなんだったのだろう」という疑問が生まれてきます。続きまして、この点を扱います。

 あらかじめ結論を言っておきますと、神の名前のそもそもの発音は恐らく“Yahweh(ヤーウェもしくはヤハウェ)”です。事情はすでに述べましたとおりですから、“エホバ”は神の名前としては誤読であり、正しい発音ではありません。

 しかし、神の名前が“ヤーウェ”であるとは断言はできません。それが推論によるからです。
 まず、聖書には神の名前の短縮形が記されており、これが“Yah(ヤーもしくはヤハ)”であることが分かっていますので、テトラグラマトンの最初は“Yah”だろうと推測されています。さらに、後の部分を推測すると、“ヤーウェ”の他に、“ヤフーア”など幾つかの候補が挙がりますが、その中でも、もっとも無難な選択肢が“ヤーウェ”です。
 これは、いくつかのキリスト教著述家が記した文書に、似た発音が示されていることによっても示されます。この点について「聖書に対する洞察」はこう述べています。

『初期クリスチャンの著述家による,み名のギリシャ語の翻字は,ギリシャ語で発音してもヤハウェに似ているイアベやイアウーエのようなつづりで,やや類似した方向を示しています。』

 ただし、こうも述べています。

『とはいえ,この問題に関する学者の意見は決して一致を見ておらず,中にはさらに,「ヤフワ」,「ヤフーア」,「エフーア」など他の発音を支持する人もいます。』

 神の名前の正確な発音に関する結論は、『それが無難だから“ヤーウェ”』というものです。決定的な根拠がありませんので、これ以上検討してもあまり意味はありません。

 さて、“Yahweh”ですが、やっかいなことに日本語では3通りの綴りがあります。“ヤーウェ”、“ヤハウェ”、それから、“ヤハウェ”の“ハ”が小文字になっているものです。“ヤハウェ”については、標準的な翻字のルールに従えば、“ハ”を小文字で書くのが正解です。しかし、パソコン等の文字セットに小文字の“ハ”はありませんので、通常の字を用いるようです。
 私は、綴りの如何にかかわらず『ヤーウェ』と読むことにしています。


 さて、エホバの証人の場合、「神の名前はエホバでなくてはならない」というような決まり事はありませんから、“ヤーウェ”が用いられることもありますが、基本的には“エホバ”が神の名前として用いられます。
 エホバの証人はなぜ“ヤーウェ”ではなく“エホバ”を好んで用いるのでしょうか。
 「神のみ名は永久に存続する」はこのように説明しています。

『多くの人はエホバという発音のほうを好みます。なぜでしょうか。それが広く用いられており,なじみがあるのに対し,ヤハウェのほうはそうでないからです。それでも,もともとの発音に近いと思われる形を用いるほうが良いのではありませんか。実際にはそうではありません。それは,聖書の中のいろいろな名前を表わす慣習ではないのです。
 最も顕著な例として,イエスの名を考慮してみましょう。イエスはナザレで育ちましたが,イエスの家族や友人が日常の会話の中でイエスをどのように呼んでいたか,あなたはご存じですか。エシュア(あるいはおそらくエホシュア)といった名であったと思われますが,真実のところ,だれにも確かなことは分かりません。イエスでなかったことは明らかです。
 しかし,イエスの生涯の記録をギリシャ語で書き記す際,霊感を受けた筆者たちはもともとのヘブライ語の発音を残そうとはしませんでした。むしろ,その名をギリシャ語でイエースースと訳出しました。今日では,聖書を読む人々の言語に応じてさまざまに訳出されています。英語の聖書を読む人はJesus(“ジーザス”と発音)という名を目にします。イタリア語ではGesu(“ジェスー”と発音)とつづります。また,ドイツ語のつづりはJesus(“エーズス”と発音)です。
 わたしたちのほとんどが,いや事実上わたしたちのすべてがそのもともとの発音を実際には知らないので,イエスという名を用いるのをやめるべきでしょうか。そのようなことを提唱した翻訳者は一人もいません。わたしたちはその名を用いることを望んでいます。それによって,神の愛するみ子,イエス・キリスト,わたしたちのためにご自身の命の血を与えてくださった方を示せるからです。聖書にあるその名をすべて取り除いて,「師」や「仲介者」といった単なる称号で置き換えるのはイエスに敬意を示すことでしょうか。もちろんそうではありません。わたしたちは自分たちの言語で普通に発音されるその名を用いてイエスのことを示せます。
 聖書に出てくるすべての名について同じようなことが言えます。わたしたちはそれらの名を自分たちの言語で発音し,もともとの発音をまねようとはしません。例えば,“イルメヤフ”とは言わずに「エレミヤ」と言います。同様に,預言者イザヤは当時おそらく“エシャヤフ”という名で知られていたものと思われますが,わたしたちは彼のことをイザヤと呼びます。これらの人の名のもともとの発音を知っている学者たちでさえ,彼らのことを話す際には古代の発音ではなく,現代の発音を用います。
 そして,これと同じことがエホバのみ名にも言えます。たとえ,現代のエホバという発音が厳密にはもともとの発音どおりではないにしても,それは決して神のみ名の重要性を損なうものではありません。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」とイエスが語りかけた,創造者,生ける神,至高者のことがそれによって示されます。
 ヤハウェやヤーウェという発音を好む翻訳者が少なくありませんが,エホバ(Jehovah)という形が幾世紀ものあいだ人々に親しまれてきたので,新世界訳をはじめ,幾つかの翻訳は引き続きその形を用いています。
 ……それでは,ヤハウェやヤーウェといった形を用いるのは間違っているのでしょうか。そのようなことはありません。それはただ,エホバという形がほとんどの言語で「国語化」されているため,そのほうが読者はすぐに反応しやすいということによります。大切なのは,神の名を用い,それを他の人々に宣明することです。こう命じられています。「あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ」―イザヤ 12:4。』

 つまるところ、エホバの証人が“エホバ”を用いるのは便宜的な理由によります。そちらの方が便利だ、ということです。
 人により用いる発音が違っていても、エホバに対する信仰、またイエスに対する信仰は同じです。大切なのは信仰であって業ではないというわけです。

 これはある意味、究極の選択みたいなものです。『無難だから“ヤーウェ”』を取るか、『便利だから“エホバ”』を取るか、という頭の痛い問題です。


 エホバの証人に反対する人たちの中には、この発音の問題をあげつらう人もいます。また、そういう論調に影響される人もいます。
 彼らがよく、「エホバは正しい発音ではない、そんなこともわからないのか」とエホバの証人に言います。
 彼らが何をどう勘違いしているかは明白ですし、それくらいの反対論ならそんなに気にする必要もないと思いますが、そういう意見が多数、書物の形で出ているのは問題だと思います。

 「新キリスト教辞典」で「エホバの証人」を調べると、エホバの証人についてのめちゃくちゃな記述がいろいろと載っています。何から何までひどい内容ですが、特に神の名前の発音についてはこう述べています。

『神名への誤解に基づく執着
 「エホバの証人」の「エホバ」という神名は、正しい読み方ではない。本来、旧約聖書のヘブル語原典には子音4文字 YHWH を記すのみであったのを、便宜上 eoa の三つの母音を補ってエホバと読んだが、これが神の真の御名であるという誤解も生じた。今日では、正しい読み方は YaHWeH とすべきであるとされている。しかし、「ものみの塔」においては「エホバ」という名称を絶対視し、この名にこだわることが神への(しかし実際には組織への)忠誠のしるしとされる。』

 エホバの証人は「エホバ」の発音を絶対視しているそうです。それに、「しかし実際には組織への」などという言葉を加えるところがなんとも悪意に満ちているように見えます。
 キリスト教世界の出版物中におけるエホバの証人に関する記述では、こういったものは少なくありません。というより、こういう記述が定番になっています。もともと、現代キリスト教会の主流は反エホバ主義ですから。

 今度は高度な事例を紹介したいと思います。
 職業的反対者として有名な、日本バプテスト教会連合大野キリスト教会中澤啓介牧師は、「聖書から『知識』を論ずる」というマニュアルを公表しています。
 これはどういうものかというと、エホバの証人が研究生(求道者)を教えるための教科書として用いているものに「永遠の命に導く知識」という本があるのですが、これを用いてエホバの証人に聖書を教えてもらうふりをしながら、逆に、教えてくれているエホバの証人を質問責めにして棄教させよう、という活動のためのマニュアルです。
 一部の教会の信者がこのマニュアルを活用していることが報告されています。いかにもエホバの証人から聖書を教わることに関心があるかのように装って研究を申し込んでくるそうです。

 本論に入る前に、話が脱線してしまうのですが、すこし、出だしの部分を見てみましょう。これがなかなか面白いですので。
 まず、「知識」の本の最初の節はこうなっています。

『愛する人の温かい抱擁。親しい友とおいしい食事を共にしながらの談笑。元気よく遊ぶ我が子を見守る喜び。こうした時は人生におけるきらめくような一時です。しかし,多くの人にとって人生は,深刻な問題を次々に引き起こすもののように思えます。もしあなたがそのような経験をしてこられたのであれば,元気を出してください。』

 二番目の節に続きます。

『神のご意志は,あなたがすばらしい環境の中で,しかも最善の状態で,永続する幸福を味わうことなのです。これは単なる夢ではありません。実際,神はそのような幸福な将来へのかぎをあなたに示しておられるからです。そのかぎとは知識です。』

 マニュアルによると、研究生となった人は最初の節を読んだ後、“エホバの証人のマインドコントロール”を解くために、研究司会者に対して次の6つの質問をします。

『1.エホバの証人は、ここに記されているような「愛する人の温かい抱擁。親しい友とおいしい食事を共にしながらの談笑。元気よく遊ぶ我が子を見守る喜び」を、ほんとうにすばらしいことだと考えていますか。私が出会った多くのエホバの証人からは、このような生活は、この世的なこと、霊的ではない状態、楽園の生活から見ると無価値なこと、といった印象を受けるのですが、いかがでしょうか。
2.エホバの証人の信徒同志の間、あるいは神権家族の間では、このような姿、行動、状況が、他の人たちと比べ、数多く見られますか。親戚を見回してみてください。学校のサークル活動やボランティアの仲間たちを見てください。
3.エホバの証人は、このような生き方をしているエホバの証人以外の人々を見て、幸福な人たちだと感ずるのでしょうか。また、そう感じることを勧め、励ましているのでしょうか。
4.「次々に起こってくると言われている深刻な問題」とは、具体的にどのような問題を考えたらよいのでしょうか。
5.「多くの人にとっては」と言われていますが、人生をこのように悲観的に見る人は、日本人の中では、何パーセントぐらいの人を想定したらよいでしょうか。
6.そのように悲観的に受け止める人は、エホバの証人の中では、一般の人と比べ、多いと思いますか。それとも少ないと思いますか。』

 二つ目の節を読んだあとはこう質問します。

『1.神のご意志が「すばらしい環境の中で、しかも最善の状態で、永続する幸福を味わうこと」にあるとは、聖書のどの聖句から言うことができますか。
2.この書物は、「幸福な将来」を問題としていますが、「幸福な現在」はないのでしょうか。
3.現在、すばらしい環境を生み出すように、最善の状態で生きることができるように、永続する幸福を味わうことができるように、努力している人々に対して、神はどのようなご意志はもっておられるのでしょうか。
4.幸福な将来は「知識」がかぎなのでしょうか。神に関するある知識は必要ですが(前提としますが)、知識以上のものが必要なのではないでしょうか。聖書が「知識」を問題にしているようには思えないのですが。聖書のどの句からそのような結論を導き出しているのでしょうか。
5.イエスは「幸いな人」について、マタイ5:3-11において、お話しくださいました。それは、本書において述べられている「幸福な将来」とは大部イメージが違います。イエスが語られた「幸いな人」についても考慮した方がよいのではないでしょうか。
6.聖書はどのような人を「幸福な人、幸いな人」と言っているでしょうか。はたして、この『知識』が述べているイメージと同じでしょうか。次のような聖句から、聖書的な「幸福観」について考えてください。
 自分の手の勤労の実を食べるとき(詩篇.128:2)、神と契約を結んでいるとき(エレミヤ書.32:40-41)、神に裁かれない人(ローマ.14:22)、神のことばを聞いてそれを守る人(ルカ.11:28)、見ずに信じる者(ヨハネ.20:29)、受けるのではなく与える人(使徒.20:35)、行ないとは別の道で神によって義と認められる人(ローマ.4:6)、不法を赦され、罪をおおわれた人(ローマ.4:7)、主が罪を認めない人(ローマ.4:8)、試練に耐える人(ヤコブ.1:12、5:11)、義のために苦しむ人(Iペテロ.3:14)、キリストの名のために非難を受ける人(Iペテロ.4:14)、預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人(黙示録.1:3)、主にあって死ぬ死者(黙示録.14:13)、目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者(黙示録.16:15)、小羊の婚宴に招かれた者(黙示録.19:9)、第一の復活にあずかる者(黙示録.20:6)、預言のことばを堅く守る者(黙示録.22:7)、自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者(黙示録.22:14)。』

 どうやら、このマニュアルによると、エホバの証人は将来の幸福ばかり願って、現在の幸福というものを否定しているようです。ずいぶんとひどい宗教です。また、エホバの証人はボランティアなどの活動を行う人の幸福が理解できないそうです。これもまた深刻な問題です。さらに、救われるためには知識のみが必要だと考え、知識以上のものの価値を認めていないようです。ずいぶんと危険なことです。また、聖書は苦難や試練の中にも幸福を見いだす崇高な価値観を教えていますが、それも理解できていないようです。とても残念なことです。
 そうであれば、是非とも説得することが必要だ、ということになるでしょう。説得の効果はすぐ現れるはずです。
 というわけで、このマニュアルを使う研究生を世話された方はそうとううんざりされるようです。「そういう当たり前のことがわからない人」扱いされるというのはなんとも辛いことだろうと思います。

 さて、本論に入りましょう。「知識」の本には、エホバの発音について述べた部分もあります。神の名前を用いることの意義が強調されています。(教理上基礎的なことですから。)
 それに対し、このマニュアルはこのような質問を用意しています。

『……今日の研究家たちは、ほぼ全員四文字語を「ヤーウェ」(あついは「ヤハウェ」)と発音していたことを認めています。そのことは、新世界訳からでも証明できます。例えば、啓示19:1,3,4,6には「ヤハを賛美せよ」と訳しています。これは、ヤーウェの省略形です。とすれば、もし名前を使うのであれば、「ヤーウェ」と発音すべきではないでしょうか。
 では、四文字語はどのようにして「エホバ」と発音するようになったのでしょうか。四文字語は、ユダヤ人の間では、「アドナイ」と呼ぶことが習慣化していました。実は、四文字語に、この「アドナイ」の母音をつけますと、「エホバ」となるのです。ということは、エホバは、完全な人造語なのです。それは、13世紀のカトリック修道士ライムンダス・マルティーニによって考案されたのです(『信仰の短剣』、1278年)。このような人造語を、神様に使うことをどう思いますか。
 結局、エホバという名前は、最近600年間使われているだけです。それ以前は、全く存在しなかった呼び名です。間違っていたとはいえ、何世紀かにわたって使われてきた以上、そのまま使うのがよい、と主張するものみの塔の主張をどう思いますか。ものみの塔は、これまで、長い間習慣化されてきたことであっても、間違いに気づいたら、すぐ訂正すると誇ってきたグループではないのでしょうか。
 キリスト教世界は、エホバという発音が間違いだったことに気づきますと、正しい呼び名「ヤーウェ」と呼び変えるようになりました。神のお名前に関しては、どちらの姿勢が正しいと思いますか。ものみの塔はこれまで、「調整」という名目で、さまざまの教理を変えてきました。あなたは、神の名前「エホバ」も「ヤーウェ」と呼び変えるよう調整されると思いますか。そうされたら、従いますか。
 ……「神の比類のないみ名は、この神を他のすべての神々と区別するのに役立つ」と言われます。聖書の神は、名前を呼ばなければ、他の神々と区別できないのでしょうか。四文字語を使わないで、聖書の神を表している箇所は、聖書にたくさんあります。本章4節の1項目に紹介しています神様の称号を、もう一度考えてみてくださいませんか。
 人を区別する仕方は、名前を呼ぶことも一つの方法です。しかしそれだけではありません。日本の総理大臣と言えば、橋本さんと言わなくても十分に区別がつきます。名前よりは、称号の方がその本性を、他より区別するのに有効だと思うのですが、いかがでしょうか。
 聖書は、クリスチャンに対して、「アバ父」と呼ぶ霊を与えている、と教えています。(ローマ8:15)。神との親しい関係を表現するのでしたら、「お父さん」と読んだ方がよいのではないでしょうか。あなたは、自分のお父さんに向かって、太郎さん、道夫さん、などと呼んで、自分のお父さんを他の人から区別しようとしますか。
 なぜ、「多くの翻訳者は神のみ名を使っていない」のでしょうか。それには正当な理由があります。ヘブライ語聖書が七十人訳ギリシャ語聖書に翻訳されたとき、四文字語(ヤーウェ)を「キュリオス」と訳しました。その伝統にのっとっているわけです。そのことをどう考えますか。
 ……四文字語の語源をどのように理解しても、それが動詞「ハヤー」(なる)に由来することを認めるのであれば、その発音は「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」となることは明白です。エホバの証人は、どうして正確な呼び名を使わずに、エホバという人造語を使うのでしょう。』
(一部表記修正)

 たいていのエホバの証人なら、このような質問をされたらやがて研究を投げてしまうだろうと思います。私だって投げると思います。「発音が正確でないというのなら、発音しない方がいいのではないですか」くらいで質問が終わるなら、何ということもないのですが、ここまで言うようだとさすがに引いてしまいます。

 この内容をどう評価すべきかについては、「神のみ名は永久に存続する」からの引用がすでにある程度の答えを提出していますが、さらによく考えるために、続きまして、聖書翻訳と原音主義というテーマに触れたいと思います。


 というわけで、原音主義に話を進めなければならないんですが、すこし気が変わりまして、手を抜かず、まずは中澤氏の主張する中から、まだ扱っていない点を細かく考察してみようと思います。原音主義についてはそれからにします。

 1つ目、「ヤハ」について。中澤氏は、「神の名前がヤーウェであることは新世界訳聖書から証明できる」と言っています。新世界訳聖書で「あなた方はヤハを賛美せよ」と訳されている語は、ヘブライ語「ハレルヤ」のギリシャ語形です。この語の最後の「ヤ」(「ヤー」もしくは「ヤハ」)が神の名前の省略形であるということは、エホバの証人の間では常識であっても、ほかにはほとんど知られていません。教会に通っている人たちもまず知りません。中澤氏はわざわざこのことを指摘してくれています。日常的に教える側にいる人と教わる側にいる人の立場が逆転するところがおもしろいと思います。
 さて、聖書の中には、神の名前の省略形が3つあります。ひとつは、中澤氏の指摘している「ヤハ」です。この省略形は単独でも用いられます。もうひとつは、「エホ」です。さらに「エホ」の省略形として「ヨ」があります。たとえば、モーセの後継者である「ヨシュア」の名は「エホシュア」の省略名であり、「ヤーウェ(もしくはエホバ)は救い」という意味があります。一方、預言者「イザヤ(正しくはイェシャヤ)」は「ヤーウェ(もしくはエホバ)の救い」という意味があります。ここには、語の先頭に神の名前が来ると「エホ」、末尾だと「ヤ」になるという決まりがあります。
 神の名前の正確な発音ということを考えるとき、まず最初に結論しなければならないことは、「省略形が「ヤー(ヤハ)」だから、神名のはじめの2文字は「ヤー(ヤハ)」と読むのだろう」ということです。この考えはそれだけだと安易なものですが、神名の翻字を載せたいくつかのギリシャ語文献がこの説を強化しています。この考えは、「頭が「ヤー」なら、続く2文字は「ウェ」とでも読むのだろう」、と続きます。これもやはりそれだけだと安易な考えですが、同じ文献により強化されます。聖書学者のほとんどが神名ヤーウェ説を支持するのはそのせいです。
 ですから、「神の名前は「ヤー」の形で名残をとどめているようだ」と言うことができます。これを言い換えれば、「「ヤー」は神の名前が「ヤーウェ」であることの重要な根拠のようだ」ということです。彼が言いたいのはこのことのようです。「そのことは新世界訳聖書の訳文からも説明できる」と彼は指摘しています。「説明」という言葉を使わずに「証明」という言葉を使うのはどうかと思いますが、間違いというわけでもありません。

 2つ目、マルティーニについて。まず、この表現は誤解を生むかもしれませんので訂正しておきます。このような言い方をすると、神名に「アドナイ」の母音をつけること自体マルティーニの考案による、と思う方も現れることでしょう。それは違います。「エホバ」の綴りはユダヤ人のマソラ学者によって考案されたものです。ただ、彼らはそれを綴り通りには発音せず、少なくともキリスト教世界で最初にそれをやったのはマルティーニだということです。
 この人とその「信仰の短剣」という著作については、エホバの証人の出版物にも出てきます。この本では版によって2種類の名前(ヨホゥア、イェホワ)が使われていることも指摘されています。
 これは、しばしば教会の牧師が「エホバはエホバの証人の神だ」とか、「エホバはエホバの証人が作った名前だ」とかいった間違ったことを公言している関係で、エホバの証人が引き合いに出してきたことです。「最初に“エホバ”を使ったのは実はカトリックの人なんですよ」という具合です。同じ事実が、ある時は擁護論に、ある時は批判論に益するところ、なかなかおもしろいと思います。
 「使用」という言葉を使わずに「考案」という言葉を使うのはどうかと思いますが、間違いというわけでもありません。(“間違いというわけではない”というのは彼の言葉遣いの傾向です。彼はこの手法で身を固めていますから、慣れが必要です。)
 「エホバ」が人造語であるというのは全く正しい指摘です。

 3つ目、キリスト教世界の調整なるものについて。彼によりますと、キリスト教世界は、神の名前の正しい発音が“ヤーウェ”であることが分かると、謙虚にも“エホバ”の使用をやめ、“ヤーウェ”を用いるようになったそうです。
 たしかに、キリスト教世界の神学者たちは“エホバ”の使用を控えて“ヤーウェ”を使用するようになっていますので、彼の言っていることは嘘ではありません。また、一部の限られた教会はヤーウェを用いるようにしていますので、彼の言っていることが嘘だということはありません。また、フランスなど、ごく一部の国ではカトリック教会の公式の聖書に“ヤーウェ”が用いられていますから、彼の言っていることが嘘だというわけではありません。また、日本聖書教会が発行している新共同訳聖書には、たった1回だけですが、“ヤーウェ”が出てきますので、やはり彼の言っていることが嘘だということはありません。彼の言っていることが“嘘ではない”根拠はほかにもたくさんありそうです。
 彼の言うことが間違っているということはないのですが、現実には、“ヤーウェ”の発音は“エホバ”ほどに普及していません。その理由は、結局のところ反エホバ主義にあります。“エホバ”と“ヤーウェ”とはただ発音が違うだけですから、やはり諸教会はその名を使うことを嫌うのです。
 今後、“ヤーウェ”の発音が“エホバ”より普及するようになれば、エホバの証人もそれに応じて変化するでしょう。今でもエホバの証人は両方の発音を使います。エホバの証人の間でも“ヤーウェ”の使用率は上がっていくでしょうし、最後には“ヤーウェの証人”へと改名もするでしょう。もっとも、そうなればキリスト教世界に何が起こるかは明白です。過ぐる20世紀は“エホバ撲滅の世紀”となりましたが、21世紀は“ヤーウェ撲滅の世紀”となることでしょう。所詮はキリスト教世界です。キリスト教世界はそんなものです。エホバの証人が“ヤーウェの証人”に改名したら、まじめな学者たちがたいそう困ると思います。

 4つ目、神の名前がもともとヘブライ語「ハヤー」に由来することを考えるとその発音が「ヤーウェ」であることは明白であると彼は主張しています。指摘通り、神名は「ハヤー」に由来しますが、だからといってあっさり発音の問題が解決されるわけではありません。いくつか資料を調べてみましたが、『「ハヤー」が語源だからその発音は“ヤーウェ”に間違いない』と書いている資料は見つかりませんでした。彼はどこからこのような説を持ってこられたのでしょうか。


 さて、原音主義についてですが、この記事を書くに際してインターネットを調べて驚いたのは、カトリック教会の原音主義についての記述が未だインターネットには存在しないということです。
 たとえば、共同訳聖書に原音主義が採用されたいきさつを説明する文書として一つだけ見つかったものは、カトリックの原音主義の立場には一切触れず、日本の旧文部省の方針を引き合いに出していました。これでは詐欺のようなものです。
 書籍等も調べてみましたが、現在手持ちのものからよい資料は見つかりませんでした。そこでとりあえずは、私自身の見聞からこれを書いていきたいと思います。出典等はありませんがご了承ください。また、よい資料をお持ちの方は私まで是非メールをください。

 カトリックの原音主義は、宗教改革の時代に、カトリック教会とプロテスタント勢力との教理上の論争の中から誕生したものです。
 当時、カトリック教会は、聖書の聖典はラテン語のウルガタ訳であると主張し、聖書原典や、他の言語に訳された聖書を異端視ししていました。一方、新興プロテスタント勢力は、意欲をもって聖書の翻訳と普及に取り組み、カトリックの立場を根底から脅かすようになりました。カトリック教会は、プロテスタント勢力を弾圧し、彼らの聖書を焼き捨てましたが、プロテスタント勢力とその聖書を撲滅することはかないませんでした。
 そこでカトリック教会は、プロテスタントによる翻訳の聖書が「改竄された聖書」であるというプロパガンダを流布して、プロテスタントの聖書の信用を落とす策に打って出ました。その方策の中でも最も効果的と思われたのが、発音に関するいいがかりです。
 プロテスタントの翻訳者は、原典の正確な発音にはこだわらず、人名や地名を受け入れやすい発音に整形しました。そこに目をつけたカトリック教会は、原典と訳本の発音の違いを意地悪く取り上げ、「プロテスタントの翻訳者は原典の文字の発音の仕方も分からないのに翻訳を行っている」と言い、「満足に原典を読めない彼らが訳した聖書は初歩的な間違いだらけで話にならない、それは神を冒涜するものである」などと付け加えました。
 この宣伝は、一般の教会員には相当な影響があったと思います。後にカトリック教会もヘブライ語やギリシャ語の原典から聖書を翻訳して出版するようになりましたが、それは、プロテスタントの聖書に惹かれていった教会員をカトリックに引き戻すためでした。カトリック教会は、「カトリックが出版した聖書は、プロテスタントが出版した聖書とは異なり、訳文が正確で信頼できる」と宣伝しました。
 ところが実際には、カトリックの翻訳による聖書はかなり不正確なもので、そのうえ改竄もされていました。しかし人名や地名の発音だけは正確でした。
 その後、カトリック教会は長きにわたり、「発音が正確であること」は正確な聖書翻訳の必要条件であると主張してプロテスタント教会と対峙してきました。実は今でもこの対立は続いています。すでに実質的な効力はなく、単なる面子の問題となっていますが、まだやってます。

 さて、ここで今の日本を代表する新共同訳聖書の訳業について触れないわけにはいかないでしょう。
 日本において、カトリックとプロテスタントが一緒になって聖書を翻訳するという“共同訳”プロジェクトが始まると、当然のごとく、原音主義が問題となりました。一説によると、翻訳者たちの打ち合わせの時、カトリックの翻訳者たちは原音主義の採用を主張して譲らなかったそうです。プロテスタント側に言わせれば、原音主義を受け入れることは不愉快限りないことです。これはカトリック教会の面子の問題ですから、受け入れれば自分たちはカトリック教会に懐柔されたことになり、大問題です。一方のカトリック側にすれば、ここで原音主義が採用されないとなるとそれはもう面目丸つぶれです。
 というわけで、一つの妥協案が提案され、採択されたと言われています。それは、「カトリックの原音主義は採用する、しかし、翻訳の指針はプロテスタント側が立てる」というものです。折しも、聖書協会連盟(プロテスタント側の団体)は、『動的等価法』という聖書翻訳の手法の普及に努めており、プロテスタント側の翻訳者は『動的等価法』の採用を求めていました。この二つを交換取引の材料にすれば、カトリック側は面目を保ち、一方のプロテスタント側は面子を捨てて実利を得ることになります。
 こうして、原音主義と動的等価法を織り交ぜた「共同訳聖書」新約部分が完成し、公表されました。
 この聖書では、「イエス」はより原典に近い「イエスス」と表記されています。「エレミヤ」は「イルメヤ」、「アロン」は「アハロン」と表記されます。「イザヤ」は「イシャヤ」、「ソロモン」は「シェロモ」です。
 この聖書が公表されたときの諸教会の拒絶反応はたいへんなものでした。(詳しくは書きません。)
 共同訳聖書は二重に読みにくい聖書です。ひとつの問題は原音主義です。人名や地名などの固有名詞がほとんど違うものに入れ替わってしまったこの聖書は、固有名詞置き換えための一覧表でもない限り、さっぱり理解できません。現に、共同訳聖書には付録としてこの一覧表がついています。もう一つの問題は動的等価法です。この新しい手法で訳した聖書は、訳文が大きく変わってしまうため、やはり読みにくくなります。
 翻訳者たちはこの後、旧約の訳業に取りかかりましたが、新約に対する評価があまりによくないものだったため、このまま同じ方針で訳業を続けることができませんでした。翻訳者たちは、原音主義も動的等価法も捨て、従来の形式的な聖書翻訳の手法で旧訳の訳業にあたり、また新規に新約の訳業に取りかかりました。
 こうして、失敗作の烙印の押された共同訳聖書に代わるものとして、新しい共同訳である新共同訳聖書が完成しました。
 さて、翻訳者たちが原音主義を捨てることにしたとき、ひとつ、問題になったことがあったそうです。それは「“イエスス”を“イエス”に戻すべきか」という問題です。ある人は、発音が正確でないことは、イエスに対する冒涜になると考えていました。ですから、「“イエスス”だけはそのままにしておきたい」という意見もありました。しかし翻訳者たちは、もう発音にこだわる必要は一切ないと考えました。そして、ひとつの見解を述べました。それは『発音がどうあろうと、その信仰は変わらない』というものです。
 イエスに対して抱く信仰の質は、イエスの名を「イエス」と呼んでも、「イエスス」と呼んでも、変わらないはずです。英語圏に住む人はイエスのことを「ジーザス」と呼びますが、日本のそれに比べて彼らの信仰が劣るということはありません。聖書自身、「人は業によらず信仰によって生き、義と宣せられる」と教えています。大切なのはキリストに対して示される信仰そのものであって、発音については、それが間違いだろうと、造語であろうと、気にする必要はないのです。

 日本における共同訳事業は、「原音主義は信仰にとって無益であり、行きすぎるとむしろ害となる」という貴重な教訓を残しました。新共同訳聖書の「イエス」についてキリスト教世界の翻訳者が言っていることは、エホバの証人が「エホバ」について言っていることと同じです。大切なのはエホバに対する信仰であり、発音ではないのです。

 さて、ここで、「聖書思想事典」[新版]から引用を行いたいと思います。この本は、“エホバ”が造語であることを指摘した後、このように述べています。

『このようにして、ヤーウェという名は、アドーナーイ・キュリオス・エホバといった言葉のなかに隠れてしまうことになるけれども、ヤーウェそのものの実体は、どのような名称が用いられようとも、それと関係ないほどあまりにも明確であったから、いろいろの訳語が使われたからといって、その影響を受けるようなことは全くない。』

 この本は、神の名前をほとんど用いないキリスト教世界の風習を擁護しようとしてこのようなことを述べているのですが、キリスト教の著名な著作のなかにこういった言葉があるのを見るとき、イエススにせよヤーウェにせよ、あえて正確な発音にこだわる必要はないということがあらかじめ示されているように感じます。


 そこで、原音主義の話題から少し踏み込んで、エホバにせよヤーウェにせよ、神の名前を用いないキリスト教世界の風習について扱いたいと思います。

 すでに少し指摘しましたが、キリスト教諸教派は一般に、エホバであろうとヤーウェであろうと、その名前を使用してはいません。その名は神学が関連している場面において用いられるにとどまり、一般にはまず用いられません。先に引用した「聖書思想事典」も、その風習を擁護しています。
 実のところ、どうなのでしょうか。神の名前の発音が違っていることが、信仰にとって無害であることはわかりました。神の名前を用いないことも、信仰にとって無害なのでしょうか。
 この点について、「聖書思想事典」[新版]はこう語っています。

『神は、イエス キリストにおいて、もはや一つの名を介してではなく、「あらゆる名に勝る名」(フィリピ 2:9)を介して自らを知らせるのである。』

 この本によりますと、聖書が「あらゆる名に勝る名」と述べているイエスの名を唱えてさえいれば、神の名前を唱えることは必要ありません。この考えは正しいのでしょうか。

 こういった考えにはいくつかの問題があります。ひとつは、イエスが「あらゆる名に勝る名」を与えられたとしても、それは神の名前よりは劣るということです。ここで示されている「あらゆる名」に神の名前は含まれていません。そこで新世界訳聖書は、ここに「[他の]」という言葉を挿入して、「[他の]あらゆる名に勝る名」と訳出しています。(このことについては、コロサイ 1:16-17をご覧ください。) もう一つの問題は、神の名前を用いないことにより、エホバに対するキリスト教世界の信仰は現に弱まっているということです。非常に憂慮すべきことですが、キリスト教世界内には、「イエスに対する信仰があれば、エホバに対する信仰は一切いらない」と信じている人がたくさんいます。また、「エホバが何であるか知らない」という教会員もたくさんいます。

 エホバの証人はこの風習に対して批判的です。「ものみの塔」誌2002年12月1日号は、この問題をこのように扱っています。

『米国のある著名な僧職者は,「あなたは神を知っていますか」と題する講話を行ないました。その話のなかでヘブライ語聖書を何度も引用しましたが,一度も神の名に言及しませんでした。もちろんその人は聖書を読み上げましたが,それは,エホバもしくはヤハウェという名が出ておらず,だれを指すかがはっきりしない,名のない「主」を用いている聖書翻訳からでした。
その僧職者は,エレミヤ 31章33,34節を引用した時,非常に重要な点を見落としました。「『もはやだれも自分の隣人に,だれも自分の兄弟に,「主を知れ」[ヘブライ語,「エホバを知れ」]と言って教えることはない。彼らはすべて,その最も小なるものから最も大なるものまでわたしを知るからである』と主[ヘブライ語,エホバ]は言われる」。その人が用いた翻訳は,それがだれかをはっきり示す,エホバという神の名を省いていました。』

 ここで指摘されているように、キリスト教世界は一般に、神の名前をわざわざ「主」と置き換えて、神の名前が出てこないようにした聖書を用います。「ものみの塔」誌は続けてこう述べます。

『ユダヤ教やキリスト教世界の僧職者と翻訳者は,自分たちの聖書翻訳の多くからそのみ名を意図的に省いてきました。その人たちは,神の名を認めることを拒んでいながら,どうして神を知っているとか,神と良い関係にあると主張することなどできるでしょうか。
神の名を用いることさえしないなら,イエスの模範的な祈り,とりわけ,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」という部分に,どんな価値があるでしょうか』。

 『神の名前を用いないことには神との信仰の関係を築くことはできない』というのがエホバの証人の主張です。これには、キリスト教世界の信仰の現状という確立された論拠があります。

 長きにわたり、キリスト教世界はこのような指摘を無視してきましたが、キリスト教世界のすべての人がいつでもそうだったわけではありません。特にアメリカでは特筆すべき出来事が生じました。アメリカ標準訳聖書の翻訳と刊行です。
 アメリカ標準訳聖書の刊行の動機づけとなったのは、イギリスのオックスフォード大学とアメリカのケンブリッジ大学の支持のもと、両国の翻訳者たちが共同で行った、ジェームズ王欽定訳聖書の改訳事業です。この改訳により改正訳聖書が世に出ることになります。この時にどのようないきさつがあったかについて、「英訳聖書の歴史」という本はこのように説明しています。

『イギリスの改訳委員会の要請を受けたアメリカの神学者たちは、各教派を代表する委員を選定し、デイを長とする旧約班と、セイヤを長とする新約班を編成して協力した。アメリカの委員会は、イギリスの委員会の案よりも更に自由で現代的改訂を希望した。例えば神名には God や Lord の代わりに Jehovah を用いることを提案した。しかし彼等の要望はイギリス側委員の3分の2以上の賛成が得られなければ採択されないことになっており、結局改正訳の旧約および新約の註として付加されるにとどまった。』(一部表記修正)

 ちょうどエホバの証人の歴史が始まったのと同じころ、1870年代に、アメリカの諸教会が共同で編成した翻訳者たちがこのようなことを望んだというのは興味深いことです。

 自分たちの意向が聞き入れられなかったことで不満を抱いた翻訳者たちは、改正訳聖書に取って代わる、新しい聖書の翻訳事業に取りかかりました。これがアメリカ標準訳聖書です。
 アメリカ標準訳聖書の序文はこのように述べています。

『アメリカ標準訳の訳者たちは慎重な考慮の末,神のみ名は神聖であるゆえに発音すべきではないとするユダヤ教の迷信は,旧約聖書の英語訳,あるいは他のいかなる言語の訳においても,もはや幅を利かすべきではないとの確信を全員が一致して得るに至った。幸いなことに,現代の諸宣教師の手による数多くの翻訳でもそのような迷信は幅を利かせていない。……数々の神聖な事柄を連想させてやまない,この固有のみ名は,それが疑いもなく記されてしかるべき神聖な本文中の箇所に今や復元されたのである』。(訳文は「聖書に対する洞察」より)

 アメリカ標準訳聖書は、新世界訳聖書と同様に、神の名前「エホバ」を用いました。
 ところが、アメリカ標準訳聖書が改訳されるころには、アメリカの翻訳者たちの考えは全く様変わりしていました。反エホバ主義が台頭し、改訂標準訳聖書から「エホバ」は除かれました。その序文はこう述べています。

『次の二つの理由から,当委員会はジェームズ王訳のより親しみある用法[つまり,神のみ名を省くこと]に戻った。(1)“Jehovah”(エホバ)という語は,ヘブライ人がこれまで用いたみ名のいかなる形をも正確には表わしていない。また(2)他の神々がいて唯一の神を区別しなければならないかのように,唯一の神に対して何らかの固有名詞を用いることはキリスト教時代以前のユダヤ教において行なわれなくなっていた。それはキリスト教会の普遍的信仰にとっても全く不適切なことである』。(訳文は「神のみ名は永久に存続する」より)

 改訂標準訳聖書はさらに改訂され、新改訂標準訳聖書になりましたが、やはり神の名は省かれました。新改訂標準訳聖書の序文には、改訂標準訳と同じ文面が示されています。
 2001年には、改訂標準訳聖書の新規の改訳となる、英語標準訳聖書が刊行されました。この聖書もまた神の名前を省いています。
 こうして、アメリカ標準訳聖書による“エホバ”復興の試みは挫折しました。今、それを真剣に行っているのは、エホバの証人と、その新世界訳聖書だけです。


 さて、話を締めくくるにあたって、再び新共同訳聖書に触れたいと思います。

 共同訳聖書の翻訳者たちは、旧約の訳業の段階で原音主義を捨ててしまったのですが、これは、反エホバの主義の観点からみれば望ましいことでした。
 原音主義を強力に推し進めた場合、旧約聖書にある神の名前はどうしても“ヤーウェ”と訳さなければなりません。しかし、それは諸教会にとって不愉快なことです。原音主義に関する方針が転換されたことにより、この問題は回避されました。
 しかし、共同訳の翻訳者たちは、聖書のなかに全く神の名前が出てこないというのもよくないのではないかと考えました。(そのように主張する人が翻訳者の中にいたものと推測されます。) そこで、ただ1カ所だけで神の名前を訳出することにしました。(そうすることで妥協がはかられたものと推測されます。)
 それは、創世記 22:14です。実際に見てみましょう。

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」

 見てのとおり、地名の中に神の名前が用いられている聖句です。これは、共同訳聖書の翻訳者たちが、神の名前を訳出する聖句をひとつ決めるにあたり、どういう基準でそれを行ったかを如実に表しています。
 翻訳者たちは、たとえば、詩編 83:18(19)をその聖句に選んだりはしませんでした。

詩編 83:19/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「彼らが悟りますように あなたの御名は主 ただひとり 全地を超えて、いと高き神であることを。」

新世界訳聖書(エホバの証人)「それは,人々が,その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者であることを知るためです。」

 また、イザヤ 42:8を選んだりもしませんでした。

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。」

新世界訳聖書(エホバの証人)「わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えず,わたしの賛美を彫像に[与える]こともしない。」

 「地名に神名が含まれている聖句を選ぶなら、新共同訳聖書の読者が仮にその部分を読んだとしても、きっとそれが神の名であることには気づかないだろう」ということが、選択の根拠となったものと思われます。

 これは、読者を欺く腹黒い行為だと思います。しかし、それだけではありません。原音主義を捨てることにした新共同訳聖書は、「地名や人名の発音は別に正確でなくてもいいんだ」ということで、それよりももっと大きなことをやってのけました。

 ここで少し、以前に述べたことを思い起こしてみましょう。神の名前の正確な発音は知られていませんが、その短縮形の発音は知られています。それは「エホ」と「ヤー」で、「エホ」はさらに短縮すると「ヨ」になります。
 では、新共同訳聖書が何をやってのけたのかを見てみましょう。

△エホアシュ(「エホバは授けてくださった」)の場合

列王第二 11:21/新世界訳聖書(エホバの証人)「エホアシュは,治めはじめたとき,七歳であった。」

列王第二 12:1/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「ヨアシュは王位についたとき、七歳であった。」

△エホアダ(「エホバはご自身を美しく装われた」)の場合

歴代第一 8:36/新世界訳聖書(エホバの証人)「アハズは,エホアダの父となり,代わってエホアダはアレメト,アズマベト,ジムリの父となった。代わって,ジムリはモツァの父となり,」

歴代第一 8:36/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「アハズにはヨアダが生まれ、ヨアダにはアレメト、アズマベト、ジムリが生まれ、ジムリにはモツァが生まれ、」

△エホアディンもしくはエホアダン(「エホバは楽しみ」)の場合

列王第二 14:2/新世界訳聖書(エホバの証人)「彼は治めはじめたとき,二十五歳で,エルサレムで二十九年間治めた。そして彼の母の名はエホアディンといって,エルサレムの出であった。」

列王第二 14:2/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヨアダンといい、エルサレムの出身であった。」

△エホアハズ(「エホバがとらえてくださるように」、「エホバはとらえてくださった」)の場合

列王第二 13:4/新世界訳聖書(エホバの証人)「やがて,エホアハズがエホバの顔を和めたので,エホバはこれを聴き入れられた。イスラエルに対する虐げをご覧になられたのである。シリアの王が彼らを虐げたためである。」

列王第二 13:4/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「しかし、ヨアハズが主をなだめたので、主はこれを聞き入れられた。主はイスラエルが圧迫されていること、アラムの王が彼らに圧迫を加えていることを御覧になったからである。」

△エホザバド(「エホバは授けてくださった」)の場合

歴代第二 17:18/新世界訳聖書(エホバの証人)「また,その指揮下にはエホザバドがおり,彼と共に戦のための用意を整えた者十八万人がいた。」

歴代第二 17:18/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「次のヨザバドは武装兵十八万を率いていた。」

△エホシャファト(「エホバは裁き主」)の場合

列王第一 22:2/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,三年目に,ユダの王エホシャファトはイスラエルの王のところに下って行ったのである。」

列王第一 22:2/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「三年目になって、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王のところに下って来た。」

△エホシュア(「エホバは救い」、後にヨシュアとして知られる)の場合

民数記 13:16/新世界訳聖書(エホバの証人)「これらが,その地を探らせるためにモーセが遣わした者たちの名である。そしてモーセはヌンの子ホシェアをその後もエホシュアと呼んだ。」

民数記 13:16/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「以上は、モーセがその土地の偵察に遣わした人々の名である。モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。」

△エホツァダク(「エホバは義としてくださる」)の場合

歴代第一 6:15/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,エホバがネブカドネザルの手によってユダとエルサレムを捕らえて流刑に処されたときに去って行ったのは,エホツァダクであった。」

歴代第一 5:41/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「主がネブカドネツァルの手によってユダとエルサレムの人々を捕囚として連れ去らせたとき、このヨツァダクも引いて行かれた。」

△エホナダブ(「エホバは進んでことをなさる」)

列王第二 10:23/新世界訳聖書(エホバの証人)「それから,エヒウはレカブの子エホナダブと共にバアルの家に入った。そこで彼はバアルの崇拝者たちに言った,「注意深く捜して見て,ここに,あなた方と共に,エホバの崇拝者はひとりもおらず,ただバアルの崇拝者だけがいるようにしなさい」。」

列王第二 10:23/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「そこでイエフはレカブ人ヨナダブと共にバアルの神殿に入り、バアルに仕える者たちに言った。「主に仕える者があなたたちと一緒にいることがないよう、ただバアルに仕える者だけがいるように、よく調べて見よ。」」

△エホナタン(「エホバは与えてくださった」)の場合

エレミヤ 37:20/新世界訳聖書(エホバの証人)「では今,王であるわたしの主よ,どうか,お聴きください。恵みを求めるわたしの願いが,どうか,あなたのみ前に聞き入れられますように。わたしを書記官エホナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで死ぬことのないためです。」

エレミヤ 37:20/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「王よ、今どうか、聞いてください。どうか、わたしの願いを受け入れ、書記官ヨナタンの家に送り返さないでください。わたしがそこで殺されないように。」

△エホハナン(「エホバは恵みを示してくださった」、「エホバは慈しみに富んでおられた」)の場合

エズラ 10:6/新世界訳聖書(エホバの証人)「さて,エズラは[まことの]神の家の前から立ち上がって,エルヤシブの子エホハナンの大食堂に行った。彼はそこへ行ったものの,パンも食べず,水も飲まなかった。彼は流刑にされた人々の不忠実なことを嘆き悲しんでいたからである。」

エズラ 10:6/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「エズラは神殿の前を立ち去り、エルヤシブの子ヨハナンの祭司室に行き、そこで一夜を明かしたが、パンも水も取らなかった。捕囚の民の背信を嘆き続けていたからである。」

△エホヤキム(「エホバは起きあがらせてくださる」)の場合

列王第二 23:34/新世界訳聖書(エホバの証人)「その上,ファラオ・ネコはヨシヤの子エリヤキムをその父ヨシヤの代わりに王とし,彼の名をエホヤキムと改めた。また,エホアハズを捕らえて,エジプトへ連れて行き,そこで彼はついに死んだ。」

列王第二 23:34/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「ファラオ・ネコはヨシヤの子エルヤキムを父ヨシヤの代わりに王とし、名をヨヤキムと改めさせた。一方、ヨアハズはエジプトに連れて行かれ、そこで死んだ。」

△エホヤキン(「エホバは堅く立ててくださった」)の場合

列王第二 24:12/新世界訳聖書(エホバの証人)「ついにユダの王エホヤキンは,その母や,僕たち,君たち,廷臣たちと共にバビロンの王のもとに出て行った。それでバビロンの王は王であった第八年に彼を捕らえた。」

列王第二 24:12/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。」

△エホヤダ(「エホバが知ってくださるように」)の場合

列王第一 2:35/新世界訳聖書(エホバの証人)「そこですぐ王はエホヤダの子ベナヤを彼の代わりに軍隊の上に立てた。また祭司ザドクを,王はアビヤタルの代わりに立てた。」

列王第一 2:35/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「王は彼の代わりにヨヤダの子ベナヤを軍の司令官とし、アビアタルの代わりに祭司ツァドクを立てた。」

△エホヤリブ(「エホバが闘ってくださるように」、「エホバは[わたしたちに対する]法的な訴えを処理してくださった」)の場合

歴代第一 24:7/新世界訳聖書(エホバの証人)「それから,くじが出た。すなわち,第一はエホヤリブに。第二はエダヤに,」

歴代第一 24:7/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「第一のくじはヨヤリブに当たった。第二のくじはエダヤに、」

△エホラム(「エホバは高い(高められる)」)の場合

列王第二 8:24/新世界訳聖書(エホバの証人)「ついにエホラムはその父祖たちと共に横たわり,父祖たちと共に“ダビデの都市”に葬られた。そして,その子アハジヤが彼に代わって治めはじめた。」

列王第二 8:24/新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「ヨラムは先祖と共に眠りにつき、先祖と共にダビデの町に葬られた。その子アハズヤがヨラムに代わって王となった。」

 新共同訳聖書は聖書の中の「エホ」を全部「ヨ」に置き換えてしまいました。
 このようなわけで、通常なら聖書に200回ほど出てくる「エホ」は、新共同訳聖書にただの1度も出てきません。エホバについてはその痕跡さえも残してやらない、ということらしいです。

 ……最後に、私は勇気を奮い起こしてこの言葉を述べたいと思います。

 私は最初に、「先の20世紀は“エホバ”撲滅の世紀となった」と述べました。全くその通りではないでしょうか。私はそう思います。また、私はこうも思います。先の20世紀がこのようであったのなら、この21世紀はいったいどうなるのだろうか、と。

 私たちのうちにある光が実際のところ闇であるとすれば、その闇はいったいどうなるのでしょうか……。


予告です。

 今、神の名前『エホバ』は、キリスト教世界による様々な攻撃に見舞われ、消し去られようとしています。

 キリスト教世界に抵抗し、その名前を擁護するのはエホバの証人です。エホバの証人はあえてキリスト教世界と対立する道を選びました。これからもそうでしょう。

 キリスト教世界はエホバの名を消そうとして大きなことを行いましたが、一方のエホバの証人は、エホバの名を興そうとしてやはり大きなことを行いました。
 いわばこれは、エホバの証人による、エホバのための、キリスト教世界に対する逆襲です。その根拠となっているのは、そして論争の核心となるのは、エホバに対する信仰そのものです。エホバの証人はエホバに対する信仰を棄てませんでした。

 そのようなわけで、続きまして『“エホバ”復元問題』というテーマのもとに、続編となる新たな文書を起こしたいと思います。お待ちください。


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