エホバの証人の聖書

ギリシャ語 eis と救いの概念

 ここのテーマとなっている、ギリシャ語 eis と救いの概念については、これまでにも幾人かのエホバの証人がその問題を取り上げてきました。
 よく知られているものとしては、tokumei 氏による NEVER EXIT というサイトに載せられたものが挙げられると思います。
 私としては、このテーマに関する標準的な資料の確立へ向けて、たたき台となるものをこの場に提供したいと思いました。

 救いと関連して用いられるギリシャ語 eis が、聖書翻訳においてどのように表れているかを示すものとして、特にローマ 10:10が挙げられると思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「人は、義のために心で信仰を働かせ、救いのために口で公の宣言をするからです。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

 ギリシャ語 eis は目的を表す語として、また結果を表す語として用いられます。
 ローマ 10:10において、新世界訳聖書の訳文は、聖書における救いが目的であるという解釈を示しています。
 一方、新共同訳聖書は、聖書における救いが結果であるという解釈を示しています。
 この聖句において、ギリシャ語 eis は両方の意味を示しているのでしょう。


 続いて、ローマ 5:21が挙げられると思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと同じように、過分のご親切もまた、わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ、義によって王として支配するためでした。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

 ここでは、新世界訳聖書も、新共同訳聖書も、ローマ 6:22を考慮に入れたようです。

新世界訳聖書(エホバの証人)「しかし、今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので、神聖さの面で自分の実を得ており、その終わりは永遠の命です。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」

 文脈が、「永遠の命」が将来のものであることを示していますので、新世界訳聖書は eis に「見込みを伴う」という語を、新共同訳聖書は「導く」という語を用いています。
 どちらの訳も、翻訳に際してよく文意を考慮しています。


 続いて、ローマ 6:16が挙げられると思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「あなた方は、自分を奴隷としてだれかに差し出してそれに従ってゆくなら、その者に従うがゆえにその奴隷となり、死の見込みを伴う罪の[奴隷]とも、あるいは義の見込みを伴う従順の[奴隷]ともなることを知らないのですか。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」

 新共同訳聖書はここで eis に「至る」という訳語をあてています。
 これは eis のごく普通の訳し方になります。
 一方、新世界訳聖書は、この聖句が「罪が死に至る」ことと「従順が義に至る」こととを対比していること、さらに、罪の結果としての死が将来のものであることを考慮し、先の聖句と同様、「見込みを伴う」という訳語を用いています。


 続いて、ローマ 6:19が挙げられると思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「わたしは、あなた方の肉の弱さのために人間的な言い方をします。あなた方は、[かつて]自分の肢体を、不法の見込みを伴う不法と汚れに対する奴隷として差し出したように、今は自分の肢体を、神聖さの見込みを伴う義に対する奴隷として差し出しなさい。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」

 ここで新世界訳聖書は、この聖句の中の対比が、先の 6:16と文脈上合致していると考えたようです。
 一方、新共同訳聖書はそのようには考えず、eis に「[……の]中に生きている」、「生活を送る」という訳語を用いています。
 この考え方は、すでに示したローマ 6:22の訳文にも反映されています。

 この聖句の標準的な訳はこのようになります。

口語訳聖書(プロテスタント)「わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。」

新改訳聖書(ファンダメンタル)「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」

 この聖句では、「清くなる」ことが、現在のことなのか将来のことなのかが問題になると思います。


 続いて、ユダ 21が挙げられると思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして、永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ちなさい。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」

 ここでも、ローマ 6:22が考慮に入れらているようです。
 新共同訳聖書は、ローマ 5:21と同様、eis に「導く」という訳語を用いています。
 一方、新世界訳聖書は「目ざす」という訳語を用いています。
 ギリシャ語 eis には、目的の意味がありますから、このように訳すこともできます。
 ただし、訳文の意味は両者で異なっています。
 ここでは、クリスチャンが永遠の命を目的とする(目指す)ことについて述べているのか、それとも結果とする(導く)ことを述べているのかが問題になると思います。

口語訳聖書(プロテスタント)「神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

新改訳聖書(ファンダメンタル)「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」


 今度は、ローマ 7:10を挙げてみたいと思います。

新世界訳聖書(エホバの証人)「そして、命に至らせるおきて、わたしはこれが、死に至らせるものであることを見いだしました。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」

 ここでは、ローマ 6:16とは逆に、新世界訳聖書が「至る」という訳語を用いています。


 ほかにも、同様の問題を調べたいという方のために、関係する聖句のリストを挙げておきます。

 マタイ 7:13,14, 18:8, 19:17, 25:46, マルコ 9:43,45, ルカ 2:34, ヨハネ 4:14, 36, 5:24, 29, 6:27, 12:25, 使徒 8:20, 11:18, 13:48, ローマ 5:16,18, 9:22,23, コリント第二 2:16, テモテ第一 1:16, 6:9, ヘブライ 10:39, ペテロ第一 1:3, 2:2, ペテロ第二 3:7, ヨハネ第一 3:14, 黙示録(啓示) 17:8,11。

 コンコルダンスの流し読みで列挙しましたので、もれがあるかもしれません。
 もれにお気づきの方はメールでお知らせください。


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