エホバの証人の聖書

“エホバの証人”とは

 このサイトを訪れた方の中には、『エホバの証人』の名称の由来に関心を持たれる方も多いと思います。
 “エホバの証人”という名称は、聖書のイザヤ 43:10に由来しています。

新世界訳聖書(エホバの証人)「「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。」

 この名称について、ある程度詳しい、満足できる資料をここに示したいと思います。


 聖書の中には「メシア預言」となっている部分があります。メシア預言はもともと、バビロンに征服されて捕囚となったイスラエルを、メシアとなったキュロスという王が救い出すというテーマを中心として形成されたものでした。(他のテーマも複雑に絡んできますが説明は割愛します。)しかしその預言は、イエス・キリストに関して真に成就します。
 メシア預言のキリストにおける成就においては、キュロスはイエスに、イスラエル(ヤコブ)、エルサレム(シオン)は神の王国に、バビロンはサタンに属する宗教世界に置き換えられます。(他は同じく割愛。)この置き換えこそが、イエスを真のメシアとするキリスト教の根源です。
 このメシア預言は、イエス・キリストが救い主であることを示す以上のことをしており、メシアに関係した様々な事柄を予告しています。「エホバの証人」に関するこの聖句も、実はそのメシア預言の一部です。

 さて、メシア預言の『エホバの証人』に関する部分はこのような記述から始まります。メシア預言のキリスト教における置き換えを念頭に置きながら読んでください。

イザヤ 2:2-3/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。そして多くの民は必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。」

 この言葉は、終わりの日に、たくさんあるキリスト教の教派の中から、特にエホバを崇拝することで知られる教派が現れることを示しています。彼らは「エホバに教えられる民」となります。

 「ものみの塔」誌1995年4月15日号はこの聖句についてこう述べています。

『イエスは背教が起きることを,小麦と雑草のたとえ話の中で予告され,「小麦」は真のクリスチャンを表わし,「雑草」は偽の,つまり背教したクリスチャンを表わすと自ら説明なさいました。そして,『人々が眠っている間に,敵が』小麦の畑に雑草をまくと言われました。このようにまくことが始まったのは,使徒たちが死の眠りについた後です。たとえ話によれば,そのように真のクリスチャンと偽のクリスチャンとの区別がつかない状態は「事物の体制の終結」の時まで続きます。ですから,だれが真のクリスチャンかということは幾世紀もの間はっきり分かりませんでした。名目だけのクリスチャンが宗教という畑を支配してきたからです。しかし,「事物の体制の終結」の時になると変化が生じます。『人の子が自分の使いたちを遣わし』,偽りのクリスチャンを真のクリスチャンから分けるのです。したがって,その時クリスチャン会衆は容易に見分けられるようになり,使徒たちの時代の会衆のような状態になります。―マタイ 13:24‐30,36‐43。
イザヤの預言とミカの預言はいずれも,そのようにして真の崇拝者が「末の日に」再び集められることを予告しています。イザヤは次のように述べています。「末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。そして多くの民は必ず行って,こう言う。『来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう』」。鋭い目で事実を見るなら,イザヤの預言がわたしたちの時代に成就していることが分かります。―イザヤ 2:2,3。ミカ 4:1‐3。
……エホバの証人は自分たちが現在232の国や地域で行なっている教育の業が,それらの預言を成就するものであることを理解しています。偏見のない人が聖書と照らし合わせてみれば,エホバの証人の信条や行動規範や組織は1世紀のクリスチャン会衆のものと一致しているということがはっきり理解できるでしょう。エホバの証人は自分が信じている事柄を「真理」であると言いますが,自分のほうが優れているというせん越な気持ちからそう言うのではありません。むしろ,神の言葉である聖書を徹底的に調べ,宗教を正しく評価するための規準は聖書しかないと考えて聖書に従うがゆえに,そう言うのです。』

 また、「ものみの塔」誌1994年3月15日号はこう述べています。

『エホバの証人は,すべての国の民の中から一つの全世界的な兄弟関係の中に導き入れられており,そのことが昔から聖書預言の中で予告されていたことを認識し,感謝しています。』

 また、「ものみの塔」誌1990年2月1日号はこう述べています。

『聖霊は,エホバの証人がイザヤ 2章2節から4節の預言を成就するのを可能にする力です。その聖句は,わたしたちの時代に真の崇拝が再び確立され,あらゆる国と宗教から出て来る人々が,流れのようにその崇拝に向かうことを予告していました。』

 ちなみに、「聖書に対する洞察」は、この預言の成就に予型と対型があることを指摘しています。

『イザヤ 2章2節とミカ 4章1節で,「末の日」という言葉は,あらゆる国民から来る人々が「エホバの家の山」に流れのように向かう時に関する預言の前置きとなっています。西暦29年から西暦70年の間の,ユダヤ人の事物の体制の末の日における予型的な成就において,エホバの崇拝は,異教の諸国民が自分たちの偽りの神々に与えている非常に高い地位よりも上に高められました。真の崇拝を高める点で王イエス・キリストが「突破口」を作り,その後にまずイスラエル国民の残りの者が,次いであらゆる国民から来た人々が従いました。(イザ 2:2; ミカ 2:13; 使徒 10:34,35)この事物の体制の末の日における対型的な成就において,エホバの崇拝は天にまで高められてきました。王イエス・キリストは霊的イスラエルの残りの者を清い崇拝に導き,すべての国民から来た大群衆がそれに従ってきました。―啓 7:9。』

 他の資料等を含めると、この聖句には四つの発展的段階があるようです。(1)イスラエルのバビロンへの捕囚、(2)キリスト教の成立、(3)イエスの臨在もしくは終末、(4)千年王国また新世界、です。このことは、メシア預言の全体像を理解するうえで大切な点ですのでよく覚えておいてください。

 彼らについてはこのように述べられています

イザヤ 54:13/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう。」

 「ものみの塔」誌2001年1月1日号はこの聖句についてこう述べています。

『平和が教育と関連づけられていることは注目に値します。今から2,700年ほど前に,預言者イザヤは,「あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう」と予告しました。(イザヤ 54:13)この同じ預言者は,あらゆる国の民がエホバ神の清い崇拝へと流れのように寄り集い,その方の道を学ぶ時が来ることを予見しました。それはどのような結果になるでしょうか。「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばな(く)」なります。(イザヤ 2:2‐4)先ほどの預言に調和して,エホバの証人は世界的な教育活動に携わっています。その活動によってすでに幾百万もの人々が,大方の戦争の根底にある国家主義的な憎しみや人種的な憎しみを克服するよう助けられてきました。
ついには,神の王国のもとで戦争はなくなり,地上には永続する平和と安全が行き渡ります。(詩編 72:7。ダニエル 2:44)そのとき,詩編作者の次の言葉が成就します。「エホバの働きを見よ。神が驚くべき出来事を地に置かれたのを。神は地の果てに至るまで戦いをやめさせておられる」。―詩編 46:8,9。』

 また、「ものみの塔」誌1992年4月1日号はこう述べています。

『エホバの証人の世界的な教育の業は,この現存する邪悪な世に神が終わりをもたらされた後も続けられるでしょう。イザヤ 54章13節は,「あなたの子らは皆エホバに教えられる者とな(る)であろう」と述べています。この教える業は非常に徹底的なものとなるので,イザヤ 11章9節は,「水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちる」と予告しています。この古い世の終わりを生き残る者たちや,新しい世で生まれるかもしれない子供たちだけでなく,復活によって生き返る何十億という人々にも継続的な教育が必要です。最終的に,地上で生活するすべての人が,神の律法の境界内で自由意志を正しく行使することを教えられるでしょう。その結果どうなりますか。「柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだす」でしょう。―詩編 37:11。』

 この聖句にも発展的段階があるようです。

 この言葉はメシアである当のイエスによっても引用されています。

ヨハネ 6:44-45/新世界訳聖書(エホバの証人)「わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。……預言者たちの中に,『そして彼らは皆エホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来ます。」

 彼らはエホバから学ぶ者となった結果、イエス・キリストに引き寄せられます。

 イエスによる引用は、メシア預言のキリスト教における発展性を証明するものです。

 「ものみの塔」誌1999年7月15日号はこの聖句についてこう述べています。

『人々を引き寄せ,キリストのもとに来る人たちを教えておられるのは,神にほかならないのです。イエスはこう言われました。「わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。そしてわたしは,終わりの日にその人を復活させるのです。預言者たちの中に,『そして彼らは皆エホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来ます」―ヨハネ 6:44,45。
この終わりの日に,エホバはどのように人々を引き寄せて,それらの人に「信仰の戸口」を開いておられるでしょうか。(使徒 14:27,脚注。テモテ第二 3:1)一つの主要な方法は,ご自分の証人たちを用いて,救いの音信と,この邪悪な事物の体制に対する裁きの音信を宣明させることです。(イザヤ 43:12; 61:1,2)』

 また、「ものみの塔」誌1992年11月15日号はこう述べています。

『エホバの賛美者たちは本当に祝福されています。この幸福な群衆の中にいられるのは何と大きな特権なのでしょう。わたしたちはエホバの証人として,神の言葉 聖書の諭し,律法,教え,約束,預言などを受け入れています。わたしたちは,聖書から学び,「エホバに教えられる」ことをうれしく思います。―ヨハネ 6:45。』

 その時彼らはこのように宣言します。

ミカ 4:5/新世界訳聖書(エホバの証人)「もろもろの民は皆,それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む。」

 こうして、エホバを神とする民と、それ以外の神を神とする他の民との違いが生じます。

 「ものみの塔」誌1999年3月1日号はこの聖句についてこう述べています。

『これは諸国民が依然として偽りの神々を崇拝している間に成就しはじめます。事実,清い崇拝が高められ,神の僕たちの生活の中で正しい位置に復興したのは,「末の日」であるこの現代のことです。』

 また、「ものみの塔」誌1998年9月1日号はこう述べています。

『今,神の,目に見える組織内にいる者すべては,ミカと共に,「わたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」と言います。(ミカ 4:5)現代のこの組織は,聖書の中で「み名のための民」と呼ばれている「神のイスラエル」を中心としています。(使徒 15:14。ガラテア 6:16。イザヤ 43:6,7。ペテロ第一 2:17)したがって,エホバの組織の一員であるとは,神の名に保護を求め,神の名において保護を受ける人々の一人であるということになります。』

 また、「ものみの塔」誌1981年10月15日号はこう述べています。

『「慎みをもってあなたの神と共に歩む」ためには,キリスト教世界の人々も,偽りの宗教の世界帝国の中にいる人々と同様,現在「エホバの山に,ヤコブの神の家」に流れて来るあらゆる国籍の人々に加わらなければなりません。一人一人が天のシオンから出るエホバの教えを受け入れ,神が今示しておられる道にそって歩まなければなりません。……それは,エホバの独り子の弟子となり,その独り子と同じ種類の証人になるという意味です。何になるのですか。献身し,バプテスマを受けたエホバの証人になるのですか。その通りです。それはとりもなおさず,ミカ書 4章5節(新)に記されている選択を行なうということです。「もろもろの民は皆,自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めなく,すなわち永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。』

 また、「ものみの塔」誌1973年3月15日号はこう述べています。

『それは唯一の正しい決定です。それは,イエス・キリストご自身が先頭に立って,専心の献身をもって崇拝する唯一の神を支持する決定です。』

 また、いくつかの資料は、1986年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世がイタリアのアッシジにおいて行った平和祈祷の際に、あらゆる宗教・宗派の著名な宗教家が集まったにもかかわらず、エホバの名を用いて祈ることは行われなかったと指摘しています。

 そこで、エホバは彼らに一つの命令を発します。

イザヤ 43:8-11/新世界訳聖書(エホバの証人)「「目があるのに盲目の民を,耳を持っているのに耳の聞こえない者たちを連れ出せ。諸国の民をみな一つの場所に集め,国たみを共に集めよ。彼らのうちにこのことを告げ得る者がだれかいるか。また,彼らは最初のことでさえわたしたちに聞かせることができるか。彼らにその証人を出させ,彼らが義と宣せられるようにしてみよ。また,彼らに聞かせて,『それは真実だ!』と言わせてみよ」。
「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。わたしが―わたしがエホバであり,わたしのほかに救う者はいない」。」

 彼らには『エホバの証人』としての職務が与えられます。彼らは、エホバを神としないすべての人に対し、エホバこそが真実の神であり、人間を救うことのできる方であることを証言します。

 この聖句にはメシア預言を包含する広範囲な発展的段階があります。そのいくつかを挙げます。

 モーセによるエジプト救出後について、「ものみの塔」誌1995年9月1日号はこう述べています。

『モーセはイスラエル人を自由へと導いた後,エホバと,ヤコブを通してアブラハムの子孫となった人々との間の契約の仲介者となりました。その結果,エホバの特別な所有物としてのイスラエル国民が存在するようになりました。(出エジプト記 19:5,6)こうして初めて,国民全体による証しが行なわれることになりました。その時から約800年後にイザヤを通して語られた次のエホバの言葉は,原則として,その国民が存在するようになった当初から当てはまりました。「『あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである』」。(イザヤ 43:10)』

 キュロスによるバビロン解放後について、「ものみの塔」誌1995年9月1日号はこう述べています。

『エホバはイスラエルがバビロンから解放されることを,神々に対する試みとされました。エホバは諸国民の神々に証人を出すようにと挑戦し,イスラエルを指してご自分の証人であると言われました。……解放されれば,証しの機会がさらに開かれることになるのです。
……その時が到来して,ペルシャ人キュロスは,預言されていたとおりバビロンを征服しました。……このように,エホバはイスラエルを,不完全な,時には反抗的な人々から成る国民であったにもかかわらず,引き続きご自分の証人としてお用いになりました。キリスト教以前の世界において,その国民は,その神殿と祭司職により,真の崇拝の世界的中心となっていました。』

 イエスの時代について、「ものみの塔」誌1995年9月1日号はこう述べています。

『キリスト教以前の人のうち最後の,また最も偉大な証人となったのは,バプテストのヨハネです。(マタイ 11:11)このヨハネは,選ばれた方の到来を発表する特権を与えられ,イエスを約束のメシアとして紹介しました。(ヨハネ 1:29‐34)イエスはエホバの最も偉大な証人,「忠実で真実な証人」です。』

 イエスの死後について、「ものみの塔」誌1998年2月1日号はこう述べています。

『イスラエルは王国であっただけでなく,油そそがれた祭司団を持ってもいました。西暦33年,神のイスラエルが肉のイスラエルに取って代わり,エホバの「僕」また「証人」となりました。(イザヤ 43:10)それ以降,イザヤ 43章21節および出エジプト記 19章5,6節に記されている,イスラエルに対するエホバの言葉は,神の霊的イスラエルに当てはまるようになりました。神の新しい霊的国民は今や,「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」として,『エホバの卓越性を広く宣明する』責任を担うようになりました。』

 現代について、「ものみの塔」誌1990年1月1日号はこう述べています。

『エホバの証人は,イザヤ 43章10節にある,ご自分の契約の民に対するエホバの約束の成就として,勇気をもって自分たちの名を受け入れてきました。……イエスはエホバの証人の指導者であり,彼らはイエスの残された手本に従います。』

 これらの点に関しては、「エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々」の本にある程度まとまった説明があります。

 さて、あらゆる国の民を集めて証言するという、エホバの証人に対する神の命令を果たすための実際の方法は一つしかありません。実際に諸国民を集めることはできませんから、エホバの証人は人の住んでいるところならどこへでも赴き、世界中で証言を行うことになります。
 こうして、世界中のあらゆる国においてエホバの証人の証言が示されます。信じる人もいれば信じない人もいますが、いずれにせよ人々は、「エホバの証人」が確かに存在して、エホバという神をふれ回っていることを知ります。そして、終わりが来ます。
 イエス自身もこのことをこう述べています。

マタイ 24:14/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。」

 このことに関連して、「来たるべきわたしたちの世界政府―神の王国」という本はこう述べています。

『すべての国は,異邦人の時あるいは「諸国民の定められた時」をお定めになったエホバ神の前における自分たちの立場が変わったことを告げ知らされています。(ダニエル 4:16,23,25,32。ルカ 21:24)どのようにしてですか。それはマタイ 24章14節のイエス・キリストの予告通り,エホバがご自分の王国の「大使」を諸国に遣わして,『王国のこの良いたよりをあらゆる国民に対する証しのために人の住む全地で』宣べ伝えさせることによってです。それら王国の「大使」は神の「選ばれた者たち」であり,イエス・キリストの霊的「兄弟」です。(コリント第二 5:20。エフェソス 6:20。ヨハネ 20:17。ヘブライ 2:11,12)それら大使による奉仕とあらゆる国民に対する王国の宣布により,諸国民は,神の油そそがれた王,すなわち鉄の杖を持つイエス・キリストの前に集められているのです。……このようにしてあらゆる国民は通知を受け,共通の立場に立ち,同様の責任を負う者として,王座についておられる王の前に集められているのです。―マタイ 24:31。イザヤ 43:9と比較してください。』

 こうして、エホバの証人は終わりのための準備をし、終わりが来るのを待ちます。彼らは終わりを生き延びます。

イザヤ 26:20-21/新世界訳聖書(エホバの証人)「「行け,わたしの民よ,あなたの奥の部屋に入り,あなたの後ろで扉を閉じよ。糾弾が過ぎ行くまで,ほんのしばらくの間,身を隠せ。見よ,ご自分に対する地の住民のとがに関して言い開きを求めるため,エホバはその場所から出て来られるからである。その地は必ずその流血をあらわにし,もはやその殺された者たちを覆い隠すことはない」。」

 「ものみの塔」誌2001年3月1日号はこの聖句についてこう述べています。

『この警告は,西暦前539年のバビロンの倒壊を生き残るにはどうすべきかをユダヤ人に示すものでした。それに留意した人々は自分の家から出ないようにして,市街を行く征服軍の兵士から危害を加えられないようにしたことでしょう。』

 また、記事は続けてこう指摘しています。

『今日,この預言の言う「奥の部屋」は,世界中にあるエホバの民の幾万もの会衆と関連があるようです。』

 そこで、「ものみの塔」誌2001年3月1日号はこう述べています。

『ですから現在,二重の業が進められています。その業とは,(1)サタンの邪悪な世界体制に対するエホバの裁きを告げ知らせること,そして(2)保護されるように,神ご自身の民から成る社会を建て,確立することです。(エレミヤ 1:10; 24:6,7。イザヤ 26:20,21)』

 とはいえ、「ものみの塔」誌1979年9月1日号では、このようにも指摘されています。

『エホバの目的とその目的が達成されることについて大いに啓発されたとはいえ,将来に属する事件の正確な時についても,サタンの事物の体制の完全な終わりに関する多くの聖句がどのように成就するかについても,詳細の不明な点がまだたくさんあります。エホバの民に言われた預言もこれに含まれます。イザヤ書 26章20節(新)の,「行け,わたしの民よ。告発が過ぎ越すまでほんのわずかの間自分を隠せ」という預言などがそれです。
しかし,より当面の重要な事柄として,エホバのしもべたちは,エホバの証人というエホバから与えられた名前からもわかるとおり,その間に成し遂げねばならない大仕事と,保たねばならない立場があることに気づいています。』

 しかし、「目ざめよ!」誌1984年3月22日号において、度を過ぎた行動は否定されています。

『「行け」,「入り」,「閉じよ」そして「隠せ」という命令は,行動が求められていることを示しています。神がわたしたちにご自分の指示を漸進的に明らかにされる時,そのすべてにしっかりと付き従い,神ご自身が備えてくださった安全な場所に巧みに導いていただかなければなりません。
……これは,幾年か前にアメリカのある“生き残るためのグループ”がしたように,社会から身をひいて,生き残るための計画を自ら進んで立てることを決して意味してはいません。そうした人々の行なった生き残るための備えが,ハルマゲドンでの保護を保証する性質のものでないことは明らかです。』

ゼパニヤ 3:8/新世界訳聖書(エホバの証人)「『ゆえに,わたしが獲物に向かって立ち上がる日までわたしを待て』と,エホバはお告げになる,『わたしの司法上の決定は,諸国民を集め,わたしがもろもろの王国を集め寄せて,その上にわたしの糾弾を,わたしの燃える怒りをことごとく注ぐことだからである。わたしの熱心の火によって全地はむさぼり食われるのである』。」
 ここで注意すべき点があります。イザヤ 26:20-21は基本的にバビロン捕囚からの解放の時期を念頭に置いているように思えます。一方、ゼパニヤ 3:8はその前の段階である、バビロンによるエルサレムの攻略を念頭に置いています。メシア預言のキリスト教以後の適用において、この聖句はキリスト教世界に重点的に適用されるようです。

 「ものみの塔」誌1996年3月1日号はこの聖句についてこう述べています。

『西暦前632年にはニネベが,バビロニア人,メディア人,およびスキタイ人と思われる北からの大集団の連合軍により攻め取られ,滅ぼされました。歴史家のウィル・デュラントはこう述べています。「ナボポラッサル率いるバビロニア人の軍隊は,キャクサレスの率いるメディア人の軍隊,およびコーカサスのスキタイ人の大集団と連合し,北部の城塞をいとも簡単に素早く攻略した。……一撃のもとに,アッシリアは歴史から姿を消した」。ゼパニヤが預言していたのはまさにそのことでした。―ゼパニヤ 2:13‐15。
また,エホバを待っていたユダヤ人の多くは,生き長らえてエホバの裁きがユダとエルサレムに対しても執行されるのを見ました。……エルサレムはその不忠実さのゆえに,二度にわたってバビロニア人に攻囲され,ついに西暦前607年に攻め取られて滅ぼされました。(歴代第二 36:5,6,11‐21)モアブとアンモンについては,ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば,エルサレムの陥落後5年目にバビロニア人が両国に戦いを仕掛け,これを征服しました。預言どおり,その後モアブとアンモンは存在しなくなりました。』

 また、「ものみの塔」誌1996年3月1日号はこう述べています。

『今日,エホバの司法上の決定は,ゼパニヤの時代におけるよりはるかに広い範囲にわたって諸国民を滅びのために集めるということです。(ゼパニヤ 3:8)キリスト教徒であると主張するそれら諸国の民は特に,神から見てとがめられるべき者たちです。ちょうどエルサレムがエホバに対する不忠実さの恐るべき代償を払ったのと同じように,キリスト教世界も自分たちの不品行のことで神に対して責めを負わなければなりません。ゼパニヤの時代にユダとエルサレムに対して宣告された神からの裁きは,キリスト教世界の諸教会や分派に,より一層の効力をもって当てはまります。それら諸教会や分派はまた,神の名を汚す,多くは異教に起源を持つ自分たちの教理によって,清い崇拝を汚してきました。また,自分たちの健康な息子たちを幾百幾千万人も,戦争という現代の祭壇の上で犠牲にしてきました。さらに,対型的なエルサレムの住民は,いわゆるキリスト教に,占星術や,心霊術の行ないや,バアル崇拝を思わせる下劣な性の不道徳を混ぜています。―ゼパニヤ 1:4,5。』

 この終わりは“ハルマゲドン”とも呼ばれます。ハルマゲドンの大災害を生き残るために、人はエホバに頼らなければなりません。

ヨエル 2:30-32/新世界訳聖書(エホバの証人)「そしてわたしは天と地に異兆を与える。血と火また煙の柱である。畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日の来る前に,太陽は闇に変わり,月は血になるであろう。しかし,エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる。エホバの述べたとおり,シオンの山とエルサレムに,また生き残った者たちの中に逃れ出た者たちがいるからであり,その者たちをエホバは呼び寄せているのである。」

ゼパニヤ 2:1-3/新世界訳聖書(エホバの証人)「集い寄れ,そうだ,集合せよ,恥辱にも青ざめることのない国民よ。法令が[何も]産み出さないうち,[その]日がもみがらのように過ぎ去ら[ないうち],エホバの燃える怒りがあなた方に臨まないうち,エホバの怒りの日があなた方に臨まないうちに,地の柔和な者たち,[神]の司法上の定めを守り行なってきたすべての者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ。恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう。」

マラキ 4:1-3/新世界訳聖書(エホバの証人)「見よ,炉のように燃える日が来るからである。そして,すべてのせん越な者,また悪を行なうすべての者はまさに刈り株のようになる。それで,来たらんとするその日は必ず彼らをむさぼり食うであろう」と,万軍のエホバは言われた。「こうしてそれは,彼らに根も大枝も残さない。しかし,わたしの名を恐れるあなた方には,義の太陽が必ず照り輝き,その翼には いやしが伴う。あなた方はまさに出て行って,肥えた子牛のように地をかきなでるであろう。」

 そして、驚くような変化が生じます。エホバは世に対する復讐を遂げましたが、その後、回復の事業に着手し始めます。

イザヤ 35:1,5-6,10/新世界訳聖書(エホバの証人)「荒野と水のない地域とは歓喜し,砂漠平原は喜びに満ち,サフランのように花を咲かせる。
その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる。荒野に水が,砂漠平原に奔流が噴き出るからである。
そして,エホバによって請け戻された者たちが帰って来て,歓呼の声を上げつつ必ずシオンに来るであろう。定めのない時まで続く歓びが彼らの頭の上にあるであろう。彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るのである。」

 「イザヤの預言―全人類の光」第一巻はこの聖句についてこう述べています。

『イザヤがこの言葉を書いたのは西暦前732年ごろです。それから125年ほど後,バビロニア人がエルサレムを滅ぼし,ユダの民は流刑に処され,その故国は人の住まない荒廃した状態で放置されます。(列王第二 25:8‐11,21‐26)こうして,不忠実になるならイスラエルの民は流刑に処されるというエホバの警告どおりになります。(申命記 28:15,36,37。列王第一 9:6‐8)ヘブライ民族が異国に捕囚になると,十分にかんがいされていた畑や果樹園は,手入れされないまま70年間放置され,荒野のようになります。―イザヤ 64:10。エレミヤ 4:23‐27; 9:10‐12。
しかし,イザヤの預言は,その地が永久に荒廃したままにはならないと予告しています。紛れもないパラダイスへと回復されるのです。……ユダヤ人は流刑から帰還すると,再び自分たちの畑を耕し,かんがいすることができ,その地はかつての豊かな実りを取り戻します。
……イザヤ 35章の西暦前6世紀における成就は限定的なものです。……エホバの予定の時に,別のイスラエル,つまり霊的なイスラエルが存在するようになりました。(ガラテア 6:16)イエスは地上での宣教期間中に,この新しいイスラエルの誕生のための舞台を整えました。清い崇拝を回復し,またその教えによって,真理の水が再び流れ始めるようにしたのです。
使徒パウロは,霊的なイスラエルの成員にあてた手紙の中でイザヤ 35章3節の言葉に言及し,「垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにしなさい」と述べました。(ヘブライ 12:12)ですから,イザヤ 35章の言葉は西暦1世紀にも成就していたのです。
わたしたちの時代はどうでしょうか。イザヤの預言には別の成就が,つまり今日のクリスチャン会衆に関するもっと全面的な成就があるのでしょうか。そのとおりです。
……1919年に事態は変化しました。エホバはご自分の民を捕らわれから連れ出されたのです。民は,それまで自分たちの崇拝を腐敗させていた偽りの教えを退けるようになり,その結果,いやしを受け,霊的なパラダイスに入りました。そのパラダイスは今日でも全地で拡大しつづけています。霊的な意味で,盲人は見えるように,耳の聞こえなかった人は聞こえるようになっています。つまり,神の聖霊の働きに十分に注意を払い,エホバから離れないことの必要性を常に意識するようになっているのです。(テサロニケ第一 5:6。テモテ第二 4:5)真のクリスチャンはもはや口のきけない状態にはなく,意欲的に「叫びを上げ」,他の人に聖書の真理を宣明しています。(ローマ 1:15)霊的に弱い,「足のなえた」ような人たちも,今では熱意や喜びを表わしています。『雄鹿のように登って行く』ことができるかのようです。
……将来はどうですか。イザヤの預言はいつの日か身体的な意味で成就するのでしょうか。そのとおりです。……その時が来ると,盲人,耳の聞こえない人,足のなえた人,口のきけない人は身体的にとこしえにわたっていやされます。悲嘆と溜め息は逃げ去ります。歓びがまさに定めのない時まで,永久に続くのです。―啓示 7:9,16,17; 21:3,4。』

 その時、神はこう宣言します。

イザヤ 65:17,19-22,25/新世界訳聖書(エホバの証人)「「いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない。
そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。その中で泣き声や,悲しげな叫び声が聞かれることはもはやない」。
「数日[しか生きない]乳飲み子も,自分の日を全うしない老人も,その場所からはもはや出ない。
そして,彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けて[その]実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである。
「おおかみと子羊が一つになって食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。蛇に関しては,その食物は塵となる。これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない」と,エホバは言われた。」

 「イザヤの預言―全人類の光」第二巻はこの聖句についてこう述べています。

『この預言はまず,西暦前537年,ユダヤ人の残りの者がエルサレムに戻った時に成就しました。その時の「新しい天」となっていたのは何でしょうか。エルサレムに中心を置き,大祭司ヨシュアによって支えられた,ゼルバベルの総督職です。回復したユダヤ人の残りの者は,「新しい地」を構成しました。つまり,そのような支配に服し,その地での清い崇拝の再興を助けた,清められた社会です。(エズラ 5:1,2)そうした回復の喜びによって,それまでの苦しみはすべて覆い隠されました。以前の苦難は思い出されることもありませんでした。―詩編 126:1,2。
とはいえ,使徒ペテロがイザヤの預言と同様のことを述べ,その預言に将来の成就があることを示した,という点を思い起こしてください。こう書いています。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)1914年,待望久しい新しい天が存在するようになりました。その年に誕生したメシア王国は天そのものから支配しており,エホバはその王国に,全地に対する権威を授けておられます。(詩編 2:6‐8)キリストおよび14万4,000人の共同支配者のもとにあるその王国政府が,新しい天です。―啓示 14:1。
新しい地についてはどうでしょうか。古代の成就の場合と同様,新しい地は,新しい天的な政府の支配に喜んで服する人々で構成されることになっています。今でさえ,正しく整えられた幾百万もの人々がその政府に服し,聖書に収められているその政府の法律に従おうと努力しています。その人々は,あらゆる国,言語,人種から来ており,統治している王イエス・キリストに仕えるため,共に働いています。(ミカ 4:1‐4)現在の邪悪な事物の体制が過ぎ去った後,このグループは新しい地の中核となります。新しい地は最終的に,神を恐れる人々で成る全地球的な社会となり,その人々は神の王国の地的領域を受け継ぎます。―マタイ 25:34。
「啓示」の書は,来たるべきエホバの日に関して使徒ヨハネが見た幻を記述しています。その日に,この事物の体制は除き去られます。その後,サタンが底知れぬ深みに入れられます。(啓示 19:11‐20:3)そうした記述の後,ヨハネはイザヤの預言の言葉と似た事柄を述べ,「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た」と書いています。この栄光に満ちた幻の説明の続きの部分には,エホバ神がこの地の状態を根本的に改善なさる時のことが述べられています。(啓示 21:1,3‐5)「新しい天と新しい地」に関するイザヤの約束が,神の新しい世で素晴らしい成就を見ることに疑いの余地はありません。新しい政府である天のもとで,新しい地的な社会は,霊的にも物質的にもパラダイスを楽しみます。「以前のこと[病気や苦しみなど,人間が直面している数多くの災い]は思い出されることも,心の中に上ることもない」という約束は,本当に慰めとなります。何であれわたしたちがその時に思い出すものが,現在多くの人の心に重くのしかかっているような深いきずや痛みを引き起こすことはありません。』

 そして、人類の死との決別が宣言されます。

黙示録(啓示) 21:1,4,5/新世界訳聖書(エホバの証人)「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。
また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである。
そして,み座に座っておられる方がこう言われた。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」。」

 この聖句は、聖書の記述の最終部分ですから、メシア預言の発展的段階の最終部分についてのみ当てはまります。ここをはじめ、啓示の書の多くの記述は、メシア預言に発展的段階があることを前提として、その最終部分を語る、という内容となっています。
 この時、メシア(つまりイエス・キリスト)はエホバから遣わされた証人また支配者として特別な役目を果たします。メシアはエホバの名のもとに、世界を裁き、新しい支配を始めます。

イザヤ 41:25-42:8/新世界訳聖書(エホバの証人)「「わたしは[ある者を]北から奮い立たせた。彼は来る。彼は日の昇る方からわたしの名を呼び求める。そして,彼は代理支配者たちを襲う。[彼らが]粘土[であるか]のように,また,湿った材料を踏みつける陶器師のように。
「だれが始めから何かを告げて,我々が知ることができるようにしたか。あるいは,過ぎ去った時から[何かを告げて],『彼は正しい』と,我々が言えるようにしたか。告げる者は実際だれもいない。聞かせ得る者は実際だれもいない。あなた方の言うことを聞いている者は実際だれもいない」。
最初の者がおり,シオンに,「見よ,彼らはここにいる!」と[言い],わたしはエルサレムに良いたよりを携えて来る者を与えるであろう。
そして,わたしはずっと見ていたが,人はだれもいなかった。また,それらの者のうちには,助言を与えている者もだれもいなかった。そして,わたしは彼らに尋ねつづけて,彼らに返答させようとした。見よ,彼らはみな存在しないものである。その業は無である。その鋳像は風であり,実在しないものなのである。
見よ,わたしがしっかりととらえているわたしの僕を! わたしの魂が是認したわたしの選んだ者を! わたしは彼のうちにわたしの霊を置いた。彼は諸国の民への公正をもたらすであろう。彼は叫びもせず,[声を]上げもせず,ちまたでその声を聞こえさせもしない。彼は砕かれた葦を折らず,薄暗い亜麻の灯心については,それを消すこともない。彼は真実のうちに公正をもたらす。彼は地に公正を定めるまで,薄暗くなることもなく,打ち砕かれることもない。島々もその律法を待ち望むのである。
天の創造者,それを張り伸ばす偉大な方,地とその産物を張り広げる方,[地]上の民に息を,[地]を歩む者たちに霊を与える方,[まことの]神エホバはこのように言われた。「わたし自ら,エホバが,義をもってあなたを呼び,あなたの手を取った。そして,わたしはあなたを安全に守り,あなたを民の契約,諸国民の光として与えるであろう。[あなたが]盲人の目を開き,捕らわれ人を牢から,闇の中に座っている者たちを留置場から連れ出すためである。
「わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えず,わたしの賛美を彫像に[与える]こともしない。」

 (長くなりそうなので資料掲載を割愛します。この聖句については、エホバの証人に限らずキリスト教世界の注解書にも資料はいろいろとあるのではないかと思います。マタイ 12:17-21を起点に調べてください。)
ミカ 5:4/新世界訳聖書(エホバの証人)「また彼は必ず立って,エホバの力により,その神エホバの名の優越性によって牧羊の業を行なう。そして彼らは必ず住みつづける。そのとき彼は地の果てに至るまで大いなる者となるからである。」
 (これも長くなりそうなので資料掲載を割愛します。この聖句については、文脈のミカ 5:2について、マタイ 2:6とヨハネ 7:42を起点に調べると資料が見つかるでしょう。)
 その時、メシアはこう宣言します。

イザヤ 49:1-3,8-10,13/新世界訳聖書(エホバの証人)「島々よ,わたしに聴け。遠くにいる国たみよ,注意を払え。エホバご自身がわたしをまさに腹[の時]から呼ばれた。わたしの母の内なる所から,わたしの名を語り告げられた。それから,わたしの口を鋭い剣のようにされた。そのみ手の陰にわたしを隠された。そして,徐々にわたしを磨かれた矢とされた。わたしをご自分の矢筒の中に覆い隠された。そしてわたしにこう言われた。「イスラエルよ,あなたはわたしの僕である。わたしはあなたのうちにわたしの美を示す」と。
エホバはこのように言われた。「わたしは善意の時にあなたに答え,救いの日にあなたを助けた。わたしは絶えずあなたを保護した。あなたを民のための契約として与えるためであった。それは土地を復興させ,荒廃した世襲所有地を再び所有させ,捕らわれ人たちに『出よ!』と言い,闇にいる者たちに『現われよ!』と[言う]ためだったのである。彼らは道のほとりで牧草を食い,踏みならされたすべての道で牧草を食うであろう。彼らは飢えることも,渇くこともない。また,焼けつくような熱や太陽が彼らを打つこともない。彼らに哀れみを抱いている方がこれを率いて,水の泉のほとりに導くからである。
天よ,喜びの叫びを上げよ。地よ,喜びに満ちあふれよ。山々は快活になって喜びの叫びを上げよ。エホバはご自分の民を慰めてくださった。そしてご自分の苦しむ者たちに哀れみを示してくださるからである。」

 (これも割愛します。イザヤ 49:6からイザヤ 42:6、そして使徒 13:47へと進み、ここから資料を探してください。また、コリント第二 6:2からも資料を探してください。)
 そしてエホバは、メシアに新しい名前を授けます。

エレミヤ 23:5-6/新世界訳聖書(エホバの証人)「「見よ,日がやって来る」と,エホバはお告げになる,「わたしはダビデにひとつの義なる新芽を起こす。そして,ひとりの王が必ず治め,思慮深く行動し,この地に公正と義を行なうであろう。彼の日にユダは救われ,イスラエルも安らかに住むであろう。そしてこれが,すなわち,“エホバはわたしたちの義”[という名]が,彼の呼ばれる名となるであろう」。」

 (これも割愛します。迂遠になりますがマタイ 2:23から資料を探してください。)
イザヤ 9:6-7/新世界訳聖書(エホバの証人)「わたしたちのためにひとりの子供が生まれ,わたしたちにひとりの男子が与えられたからである。君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう。ダビデの王座とその王国の上にあって,君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは,今より定めのない時に至るまで,公正と義とによってこれを堅く立て,支えるためである。実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう。」
 (メシア預言の中ではあまりにも有名な句につきこれも割愛します。)
 このことについてはこのようにも語られています。

フィリピ 2:6-11/新世界訳聖書(エホバの証人)「彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえ,むしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした。」

 終わりの日のエホバ崇拝の復興に始まって、「エホバの証人」による証言、ハルマゲドン、メシアによる支配、メシア支配のもとでの神からの世界の祝福、死との決別というステップを経て、ついにエホバの権威は至上のものとして確立されます。

マラキ 1:11/新世界訳聖書(エホバの証人)「「日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなり,あらゆる所で犠牲の煙が上り,進物,すなわち清い供え物がわたしの名に対してささげられるようになるのである。わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなるからである」と,万軍のエホバは言われた。」


 このようにしてメシア預言をみてみると、その中で「エホバの証人」に一定の役割が与えられていることがわかります。また、メシア預言が常に、エホバの権威の証言また立証を念頭に置いて語られていること、またそれが『エホバを中心としたメシアの概念』を形成していたことが理解できます。
 ところが、予告されたメシアであるイエス・キリストが到来し、キリスト教が成立すると、キリスト教は急速にメシア預言から離れていきました。キリスト教は、「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」から単に「メシアを中心として信奉するキリスト教」へと変調していきます。これは早くも新約聖書成立期に現れ始め、現在にまで引き継がれています。
 こうして、「エホバを中心としたメシア預言」はキリスト教世界にとってじゃまな存在になりました。その関係で、教会に通う信者たちのほとんどはメシア預言を知りません。その概要すらも知らないものです。教会が教えないからです。そのうえ、教会が用いる聖書は肝心の「エホバ」が抹消された聖書です。聖書のメシア預言が繰り返し「エホバを中心としたメシア支配」について語っていても、それは骨抜きにされています。

 しかしこれは、メシア預言の見地からすれば好ましいことでした。というのも、メシア預言は終わりの日におけるエホバ崇拝の復興とエホバの証人の起こりを予告しているからです。そのための大前提として、キリスト教世界におけるエホバ崇拝の衰退が起こっていることが必要です。そこで、メシア預言は、キリスト教世界におけるエホバ崇拝の衰退とエホバの名の忌避についてもいろいろと予告しています。

 (これについても、逐一聖書から引用しているとさすがに長くなるので割愛します。ここから先、細かい資料等は最低限しか示しません。)
 そして、これらのメシア預言は、終末期におけるキリスト教世界に対する一つの訓示となっています。終わりの日に、キリスト教世界は「メシアを中心として信奉するキリスト教」という逸脱から脱却して「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」へと還り、さらには「エホバの証人であるキリスト教」へと変貌を遂げなければならないという訓示です。
 現実問題として、キリスト教世界はそのようにしませんでした。そこで、そうしたいと思う人たちが集まって、「エホバの証人」というキリスト教派を形成しています。

 さて、「エホバの証人」が起こるときには、それに対抗する偽の証人も起こることが予告されています。そのうちの一つが、メシア預言における『偽預言者』、エホバの名によって偽りの証言をする偽りの証人です。

 ここで、偽の証人が起こるいきさつについて知っておかなければなりません。
 メシア預言は、イスラエルが70年の間バビロンに捕囚になること、それからメシアが到来することを予告しています。メシアが来る前に、イスラエルは戦争に負け、70年も苦しむことになっていました。

エレミヤ 25:8-14/新世界訳聖書(エホバの証人)「「それゆえ,万軍のエホバはこのように言われた。『「あなた方がわたしの言葉に従わなかったので,いまわたしは[人]をやって,北のすべての家族を連れて来る」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしの僕,バビロンの王ネブカドレザルのもとに[人をやって],彼らを来させ,この地とその住民と周囲のこれらすべての諸国民を攻めさせる。わたしは彼らを滅びのためにささげ,彼らを驚きの的,[人々が見て]口笛を吹くもの,定めのない時に至るまで荒れ廃れた所とする。そして,わたしは彼らの中から歓喜の音と歓びの音,花婿の声と花嫁の声,手臼の音とともしびの光を滅ぼす。そして,この地はみな必ず荒れ廃れた所,驚きの的となり,これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない」』。
「『そして,七十年が満ちたとき,わたしはバビロンの王とその国民に対して言い開きを求めることになる』と,エホバはお告げになる,『彼らのとがを,カルデア人の地に対してである。わたしはそれを定めのない時に至るまで荒れ果てた所とする。そして,わたしはその地に,わたしがそれに対して語ったすべての言葉,すなわちエレミヤがすべての国の民に対して預言した,この書に記されているすべてのことをもたらす。それらの者が,多くの国の民と大いなる王たちが,彼らを僕として使役したからである。わたしは彼らにその働きとその手の業とにしたがって報いる』」。」

 さらにメシア預言では、神の裁きはイスラエルから始まることになっています。メシアはイスラエルを救うに当たって、まずはイスラエル内にいる偽善者たちを一掃します。そうして、イスラエルを偽善者のいない国民にしてから世界を裁き、イスラエルを救います。こうして救われる者は「イスラエルの残りの者」と呼ばれます。

イザヤ 4:2-3/新世界訳聖書(エホバの証人)「その日,エホバが芽生えさせるものは,飾りのため,栄光のためのものとなり,その地の実は,逃れたイスラエルの者たちにとって誇るべきもの,美しいものとなるであろう。そして,シオンに残っている者とエルサレムに残された者たち,すなわちエルサレムにおける命のために書き留められるすべての者は,[神]にとって聖なるものと言われることになる。」

イザヤ 10:20-23/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,その日には,イスラエルの残っている者とヤコブの家の逃れた者は,自分たちを打つ者にもう決して頼らず,必ずエホバに,イスラエルの聖なる方に真実に寄りかかる。ほんの残りの者,ヤコブの残りの者が力ある神のもとに帰る。イスラエルよ,たとえあなたの民が海の砂粒のようになったとしても,彼らの中の残りの者だけが帰って来る。定められている絶滅が洪水となって義のうちに進むのである。主権者なる主,万軍のエホバが,絶滅と厳しい決定を全地の中で執行されるからである。」

ゼパニヤ 3:12-13/新世界訳聖書(エホバの証人)「そしてわたしは必ずあなたの中に,謙遜でへりくだった民を残す。彼らはまさにエホバの名に避け所を得るであろう。イスラエルの残っている者たちは,何も不義を行なわず,偽りを語らず,その口にたばかりの舌が見いだされることもない。彼らは食物を得,まさに身を伸ばして横たわり,[これを]おののかせる者はいないのである。」

 このことについてはこのようにも述べられています。

ペテロ第一 4:17/新世界訳聖書(エホバの証人)「[今]は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。」

 ハルマゲドンによって真っ先に滅ぼされるのがキリスト教世界であり、ほんのわずかの人しか救われない、というメシア預言は、キリスト教世界を震撼させるものです。そこで、エホバの名を忘れるキリスト教世界の中から、エホバの名によって「ハルマゲドンは来ない」と証言する偽の証人が現れ、エホバの証人に対抗します。

 さて、バビロン捕囚の時代よりはるか昔に、モーセは偽の預言者についてこのように語りました。

申命記 18:20-22/新世界訳聖書(エホバの証人)「『しかし,話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し,あるいは他の神々の名において話す預言者,その預言者は死ななければならない。そして,あなたが心の中で,「エホバが話されたのではない言葉をどのようにして知るのか」と言う場合であるが,もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない』。」

 後に、この聖句はメシア預言の主要なテーマの一つとなりました。予告されたバビロン捕囚に関連してこのテーマは発展していきます。
 このテーマの第一幕では、エホバの預言者たちがバビロン捕囚の到来を予告したのに対し、偽預言者たちはバビロンによる捕囚など起きないと語ります。しかし、エホバはその偽預言者に死を宣告します。

エレミヤ 14:14-16/新世界訳聖書(エホバの証人)「すると,エホバはさらにわたしに言われた,「預言者たちがわたしの名によって預言していることは偽りである。わたしは彼らを遣わしたことも,彼らに命じたことも,彼らに語ったこともない。彼らは偽りの幻と,占いと,無価値なものと,その心のたばかりとをあなた方に預言として語っているのである。それゆえ,わたしの名によって預言し,わたしが遣わしもしなかったのに,この地には剣も飢きんも起こらないと言っている預言者たちに関して,エホバはこのように言われた。『それらの預言者は剣と飢きんとによって終わりに至る。そして彼らが預言を与えているその民は,飢きんと剣のためにエルサレムのちまたに投げ出される者となり,彼らを―彼ら,その妻と息子と娘たちを―葬る者はだれもいない。そして,わたしは彼らの上にその災いを注ぎ出す』。」

エレミヤ 6:14-15/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,彼らはわたしの民の崩壊を軽くいやそうとして,平和がないのに,『平和だ! 平和だ!』と言う。彼らは自分たちのしたことが忌むべきものであったので,恥じたであろうか。彼らは少しも恥じることなく,恥辱を感じることさえ知るようにはならなかった。それゆえ,彼らは倒れてゆく者たちの中で倒れる。わたしが彼らに言い開きを求めなければならないその時に,彼らはつまずくであろう」と,エホバは言われた。」

 真の預言者は、バビロンによる侵略と捕囚をエホバの名によって語ります。偽の預言者はエホバの名によりそれを否定します。どちらもエホバの名によって語ります。両者の間には深刻な対立が生じ、この対立から「エホバの重荷」という言葉が生まれます。両者はその言葉を互いに投げ合います。

エレミヤ 23:16-17,19-21,30-33,36,39-40/新世界訳聖書(エホバの証人)「万軍のエホバはこのように言われた。「あなた方に預言している預言者たちの言葉に聴き従ってはならない。彼らはあなた方をむなしいものにならせているのである。彼らが語るのは自分の心の幻である―エホバの口から[のもの]ではない。彼らは,わたしに不敬な態度を取っている者たちに向かって何度も何度も言う,『エホバは,「あなた方は平安を得るようになる」と語られた』と。また,彼らは自分の心の強情さのままに歩むすべての者[に向かって],『災いがあなた方に臨むことはない』と言った。
見よ,エホバの風あらしが,激しい怒りが必ず出て行く。それは渦を巻く大あらし。それは邪悪な者たちの頭上に渦を巻く。エホバの怒りは,ご自分の心の考えを成し遂げて実現するまで元に戻らない。末の日にあなた方は理解をもってそれに考慮を払うであろう。
「わたしは預言者たちを遣わさなかった。だが,彼らは走った。わたしは彼らに語らなかった。だが,彼らは預言した。
「それゆえ,いまわたしは預言者たちを責める」と,エホバはお告げになる,「[彼ら]は各々その友からわたしの言葉を盗み取っている者たちである」。
「いまわたしは預言者たちを責める」と,エホバはお告げになる,「[彼ら]は,自分の舌を用いて『お告げ!』と述べ立てる者たちである」。
「いまわたしは偽りの夢の預言者たちを責める」と,エホバはお告げになる,「[彼ら]は,人々に語り,その偽りと誇りのゆえにわたしの民をさまよわせる者たちである」。
「しかしわたしは,彼らを遣わしもせず,彼らに命じもしなかった。それゆえ,彼らはこの民に決して益をもたらさない」と,エホバはお告げになる。
「そして,この民,または預言者,または祭司が,『エホバの重荷は何か』と言ってあなたに尋ねるとき,あなたも彼らに言わなければならない,『「あなた方がそれである―ああ,何という重荷であろうか! そして,わたしは必ずあなた方を見捨てるであろう」と,エホバはお告げになる』。
しかし,エホバの重荷をあなた方はもう述べてはならない。各々にとって,重荷はその人自身の言葉となるからである。あなた方は,生ける神,万軍のエホバ,わたしたちの神の言葉を変えたのである。
それゆえに,ここにわたしはいる! そして,わたしはあなた方を決定的に放置する。わたしはあなた方を,また,わたしがあなた方とあなた方の父祖たちに与えた都市を,わたしの前から捨て去る。そして,わたしはあなた方の上に定めのない時に至るそしりと,定めのない時に至る辱めとを置く。それは忘れられることがない」』」。」

 しばらくして、バビロン捕囚が実際に生じたため、エホバの真の預言者がどちらであるかが証明されます。このことは第二幕への導入となりました。

 エホバの真の預言者たちは、バビロン捕囚の前から、捕囚の期間は70年に渡り、その後メシアが来るだろうと予告しています。そして、バビロン捕囚末期には、この預言者の言葉に注意を払う者たちが『物見の塔』から警告の言葉を発するようになります。

イザヤ 21:6-9/新世界訳聖書(エホバの証人)「エホバはこのようにわたしに言われたからである。
「行って,見張り番を立て,その見るところを告げさせよ」。
すると,彼は一対の乗用馬[の引く]戦車,ろばの戦車,らくだの戦車を見た。そして,彼は注意を集中して厳密な注意を払った。それから,ライオンのように呼ばわりはじめた,「エホバよ,わたしは昼間ずっと物見の塔の上に立っております。わたしは夜ごとに自分の見張り所に就いております。そして,いま,人の乗った戦車が,一対の乗用馬[に引かれて]やってきます!」
そして,彼は語って言いはじめた,「彼女は倒れた! バビロンは倒れた。その神々の彫像を[神]はことごとく地に砕かれた!」」

 バビロンはメシアの前に倒れ、そして滅びることになっていました。そこで、エホバの証人が誕生し、メシア登場への道を整えていきます。また、「バビロンから出なさい」という呼びかけも行われます。

イザヤ 48:20-21/新世界訳聖書(エホバの証人)「あなた方はバビロンから出よ! カルデア人のところから走り去れ。歓呼の声を上げて告げ知らせ,これを聞かせよ。それを地の果てにまで届かせよ。言え,「エホバはその僕ヤコブを買い戻された。そして,[神]が彼らを荒れ廃れた場所を通って行かせたときにも,彼らは渇きを覚えなかった。[神]は彼らのために岩から水を流れ出させ,岩を裂いて水が流れ出るようにされた」と。」

イザヤ 52:11-12/新世界訳聖書(エホバの証人)「立ち去れ。立ち去れ。そこから出よ。汚れたものには何にも触れるな。エホバの器具を運んでいる者たちよ,彼女の中から出て,身を清く保て。あなた方は恐れ慌てることなく出て行き,逃げ走ることなく行くからである。エホバは実にあなた方の前を行き,イスラエルの神はあなた方の後衛となられるからである。」

イザヤ 55:12-13/新世界訳聖書(エホバの証人)「「あなた方は歓びをもって出て行き,平安をもって導き入れられるからである。山も丘も歓呼の声を上げてあなた方の前で快活になり,野の木もみな手をたたく。いばらのやぶの代わりに,ねずの木が生え出る。刺毛のあるいらくさの代わりに,ぎんばいかが生え出る。そして,それはエホバにとって必ず名高いもの,定めのない時に至るまで存続する,切り断たれることのないしるしとなる」。」

 真の預言者による預言を疑う理由はもはやありません。物見の塔からの声も、エホバの証人による証言も真実です。もし、その言葉に言い逆らう者がいれば、その者は偽預言者の子らだということになります。その者はエホバの真の証人に敵対する偽の証人となります。

 第三幕は、イエス・キリストがハルマゲドンの裁きを行う時です。この第三幕は、第一幕と第二幕の両方の性質を受け継ぎます。しかし、幾らかの違いもあります。その中でも大きいのは、「その日がいつかは予告されていない」という点です。ハルマゲドンは突然にやってくることになります。そのため、『目覚めよ!』という呼びかけが新たな要素として加わります。

テサロニケ第一 5:3,6/新世界訳聖書(エホバの証人)「人々が,「平和だ,安全だ」と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの劇痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません。ですからわたしたちは,ほかの人々のように眠ったままでいないようにしましょう。むしろ目ざめていて,冷静さを保ちましょう。」

ルカ 21:34-36/新世界訳聖書(エホバの証人)「「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。」

 しかし、目覚めていることに疑問を差しはさむ者もいます。

マタイ 24:43-51/新世界訳聖書(エホバの証人)「「しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。
「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。」

 このように、ハルマゲドンの前には、メシアであるイエスの「忠実で思慮深い奴隷」の中から造反者が現れることになっています。その者は、いつ来るかわからないハルマゲドンを今日にも明日にも来るものと信じて待っている仲間を見ているうちに、だんだんばかばかしくなり、ついには彼らと決別し、迫害するまでになります。
 彼らはこのように語ります。

ペテロ第二 3:3-4/新世界訳聖書(エホバの証人)「というのは,あなた方はまずこのことを知っているからです。つまり,終わりの日にはあざける者たちがあざけりを抱いてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,「この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が[死の]眠りについた日から,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか」と言うでしょう。」

 つまり、「あなたたちはこれまで、ハルマゲドンはもう来る、もう来ると言って来たが、まだ来ないじゃないか。どうせこれからも来ないだろう。ばかばかしい。」と言います。聖書は、ハルマゲドンがいつ来てもいいようにしっかりと目覚めているよう教えていますが、そんなことはどうでもよくなります。こうして、その者は自分がメシアに忠実ではなく、思慮深くもないことを示します。

 こうして、メシア預言のキリスト教への適用における、偽預言者また偽のエホバの証人の実態が明らかになります。それは、まだハルマゲドンが来ないことを理由に、ハルマゲドンが来ること自体に疑問を差しはさみ、偽りの平和と安全を預言して、人々を安心させる者です。彼らはハルマゲドンの教えを「エホバの重荷」とみなし、エホバの真の証人を偽預言者呼ばわりします。
 聖書の言葉によれば、その者はハルマゲドンで死ななければなりません。

 このようにして偽の証人が対抗するとはいえ、エホバの証人の証言は拡大します。

マタイ 24:14/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。」

 そして、聖書のメシア預言はその最終段階、すなわちハルマゲドンへと進んでいきます。それは、聖書巻末の書、黙示録(啓示の書)に記されています。

黙示録(啓示) 16:13-14,16/新世界訳聖書(エホバの証人)「そしてわたしは,かえるのように[見える]三つの汚れた霊感の表現が,龍の口から,野獣の口から,偽預言者の口から出るのを見た。それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行ない,また人の住む全地の王たちのもとに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。
そして,それらは[王たち]を,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた。」

 イエス・キリストが世界を裁く直前に、悪魔サタンは諸国民を一つに集めます。これは、エホバの証人の証言活動の成果でもあります。
 ハルマゲドンが始まると、まずは「大いなるバビロン」が裁かれます。

黙示録(啓示) 18:1-8/新世界訳聖書(エホバの証人)「これらのことの後,わたしは,別のみ使いが天から下って来るのを見た。彼は大いなる権威を持っており,地は彼の栄光によって明るく照らされた。そして,彼は強い声で叫んで言った,「彼女は倒れた! 大いなるバビロンは倒れた。そして,悪霊たちの住みか,あらゆる汚れた呼気のこもる場所,またあらゆる汚れた憎まれる鳥の潜む場所となった! 彼女の淫行の怒りのぶどう酒のためにあらゆる国民が[いけにえ]にされ,地の王たちは彼女と淫行を犯し,地の旅商人たちは彼女の恥知らずのおごりの力で富を得たからである」。
また,わたしは天から出る別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい。彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の[数々の]不正な行為を思い出されたのである。彼女自身が返したとおりに彼女に返し,二倍を,つまり,彼女が行なったことの二倍を彼女に行ないなさい。彼女が混ぜ物を入れた杯に,二倍の混ぜ物を彼女のために入れなさい。彼女が自分に栄光を帰し,恥知らずのおごりのうちに暮らしたその分だけ,彼女に責め苦と嘆きを与えなさい。彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。やもめなどではない。嘆きを見ることは決してない』と言いつづけているからである。そのために,彼女の災厄は一日のうちに来る。それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう。彼女を裁いたエホバ神は強い方だからである。」

 ここで、「大いなるバビロン」とは何かを考えてみましょう。ここまでお読みになられて、メシア預言の発展性を理解されている方にはそれほど難しくはありません。

 黙示録の「大いなるバビロン」に関する記述は、基本的な要素の多くにおいて、旧約聖書のメシア預言における「バビロン」に関する記述と共通になっています。つまり、「大いなるバビロン」は、メシア預言におけるバビロンの最終形態として描写されています。
 ここで、すでに引用した聖句を一つ思い出してみましょう。

イザヤ 52:11-12/新世界訳聖書(エホバの証人)「立ち去れ。立ち去れ。そこから出よ。汚れたものには何にも触れるな。エホバの器具を運んでいる者たちよ,彼女の中から出て,身を清く保て。あなた方は恐れ慌てることなく出て行き,逃げ走ることなく行くからである。エホバは実にあなた方の前を行き,イスラエルの神はあなた方の後衛となられるからである。」

 これは、旧約聖書のメシア預言の「バビロンから出よ」という呼びかけの詳細を述べたものです。
 新約聖書において、この言葉にどのような意味が付されているかを見てみましょう。

コリント第二 6:14-7:1/新世界訳聖書(エホバの証人)「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか。また,光が闇と何を分け合うのでしょうか。さらに,キリストとベリアルの間にどんな調和があるでしょうか。また,忠実な人が不信者とどんな分を共に持つのでしょうか。そして,神の神殿と偶像にどんな一致があるでしょうか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神が言われたとおりです。「わたしは彼らの中に住み,[彼らの]中を歩くであろう。そしてわたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる」。「『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』と,エホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」。「『そうすればわたしはあなた方を迎えよう』」。「『そしてわたしはあなた方の父となり,あなた方はわたしの息子また娘となる』と,全能者エホバは言われる」。
それゆえ,わたしたちにはこのような約束があるのですから,愛する者たちよ,肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め,神への恐れのうちに神聖さを完成しようではありませんか。」

 ここでは、旧約聖書のメシア預言から多くの言葉が引用され、そのキリスト教における置き換えが示されています。その中に、バビロンから出ることに関するこの言葉が含まれています。
 さて、ここで聖書はバビロンを何に置き換えているでしょうか。諸宗教です。ですから、キリスト教において、「バビロンから出る」とは、キリスト教に改宗する人が、それまで信じていた宗教ときっぱり縁を切ることを意味していました。また、すでにキリスト教の信者である人が、諸宗教と一切関係を持たないことを意味していました。
 ですから、黙示録における「大いなるバビロン」とは、終わりの日にあってサタンの側に属する諸宗教を表しています。ものみの塔出版物の表現を用いるなら、背教したキリスト教世界を含む、偽りの宗教の世界帝国です。

 そして、世界が裁かれます。また、偽預言者も裁かれます。

黙示録(啓示) 19:19-21/新世界訳聖書(エホバの証人)「そしてわたしは,野獣と地の王たちとその軍勢が,馬に乗っている方とその軍勢に対して戦いをするために集まっているのを見た。そして,野獣は捕らえられ,それと共に,[野獣]の前でしるしを行ない,それによって,野獣の印を受けた者とその像に崇拝をささげる者とを惑わした偽預言者も[捕らえられた]。彼らは両方とも生きたまま,硫黄で燃える火の湖に投げ込まれた。しかし,そのほかの者たちは,馬に乗っている者の長い剣で殺された。その[剣]は彼の口から出ているものであった。そして,すべての鳥は,彼らの肉[を食べて]満ち足りた。」

 そして千年王国の支配が始まります。

黙示録(啓示) 20:4/新世界訳聖書(エホバの証人)「またわたしは,[数々の]座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストと共に千年のあいだ王として支配した。」

 千年王国のあとにはいわゆる“最後の審判”があります。

黙示録(啓示) 20:7-10/新世界訳聖書(エホバの証人)「さて,千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らをむさぼり食った。そして,彼らを惑わしていた悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方が[すでにいる]ところであった。そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。」

 そして、メシア預言はついに大団円の時を迎えます。

黙示録(啓示) 21:1-5/新世界訳聖書(エホバの証人)「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。
そして,み座に座っておられる方がこう言われた。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」。また,こう言われる。「書きなさい。これらの言葉は信頼できる真実なものだからである」。」

 こうして、聖書の物語は完結します。ハッピーエンドです。


 さて、ここで今一度、聖書のこの言葉を考えてみたいと思います。

マタイ 24:14/新世界訳聖書(エホバの証人)「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。」

 新改訳聖書のチェーン引照付版の注釈は、この聖句のことをこのように説明しています。

『福音の世界宣教も終末の前兆の一つである。激しい世の迫害や教会自体の堕落にもかかわらず、御国の福音は着実に地の果てまで宣べ伝えられていく。』

 私が興味深いと思うのは、ここに「教会自体の堕落にもかかわらず」という表現があることです。この表現は何を示唆しているのだろうか、と私は思います。

 この答えを出す前に、「良いたより」もしくは「福音」という言葉に注意を向けましょう。
 このマタイの聖句にしてもそうですが、イエスは「良いたより」のことを「王国の良いたより」と呼びました。(マタイ 24:14, マルコ 1:15, ルカ 4:43, 16:16)
 良いたよりにおけるメシアがイエスであることは明らかですが、それでもイエスは、自分と「良いたより」を区別しました。(マルコ 8:35, 10:29)
 しかし、イエスの死後、その信者たちは「王国の良いたより」という言葉はほとんど用いませんでした。代わって「イエス・キリストの良いたより」という言葉を多用しました。(マルコ 1:1, 使徒 5:42, 8:12,35, 10:36, 11:20, 17:18, 20:24, ローマ 1:9, 15:19, 16:25, コリント第一 4:15, 9:12, コリント第二 2:12, 4:4, 9:13, 10:14, 11:4, ガラテア 1:7,16, エフェソス 3:8, フィリピ 1:27, テサロニケ第一 3:2, テサロニケ第二 1:8)

 このことについては、「聖書に対する洞察」にも指摘があります。

『これは,イエスが地上で宣教を行なわれた期間中,良いたよりの主題,もしくは中心点となりました。しかし,イエスの死後,弟子たちが王国を「近づいた」,あるいは間近に迫っているものとしてふれ告げたという記録はありません。むしろ,彼らが宣べ伝えた良いたよりは,イエスは救いのための贖いの代価として命をなげうった後,天へ昇って神の右に座している,というものでした。』

 そのことが間違っているというわけではありません。「王国の良いたより」とは、「エホバがメシアであるイエスを王とする良いたより」ですから。特に、イエスのこの言葉を考えるなら、それは適切だったと言えます。

使徒 1:8/新世界訳聖書(エホバの証人)「しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう。」

 しかし、そもそも「良いたより」とは何だったのでしょうか?

 イエスにとって「良いたより」とは、メシア王国について述べた旧約聖書のメシア預言のことでした。その王が自分であることをイエスは理解していましたが、それはメシア預言全体から見れば、重要ではあっても一つの要素にしかすぎません。だからこそ、イエスはそれを「王国の良いたより」と呼びました。
 一方、イエスの弟子たちが「イエス・キリストの良いたより」という表現を多用すると、その意味するところはゆるやかに変わっていきました。やがて、「良いたより」という語は、旧約聖書のメシア預言ではなく、新たに編纂された、イエス・キリストについての伝記、つまり福音書を意味するようになりました。こうして、メシア預言こそが「良いたより」であった時代は過ぎ去りました。決定的な変化です。
 こうして、先にこの文書の中で私が述べたところの「変調」が生じ、キリスト教は急速にメシア預言から離れて、「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」から単に「メシアを中心として信奉するキリスト教」へと様変わりしていきました。

 というわけで、イエスが「王国の良いたより」という言葉を用いたのは、あくまでメシア預言を指してのことでした。では、イエスが「王国の良いたよりは」と述べたあと、「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と述べたのであれば、イエスは何を指してそう言ったのでしょうか。それは間違いなく、メシア預言の中の、エホバの証人による諸国民への証言に関する記述です。

 好意的な解釈として私はこれを言うのですが、新改訳聖書の注解者は、このことをよく理解していたのではないでしょうか。といいますのも、「教会の堕落」は、メシア預言のキリスト教への置き換えによってのみ、ここでの主要なテーマになるからです。そのテーマにおいては、キリスト教の信徒たちの数がたとえ星の数のように多かったとしても、救われるのはほんの少し、残りの者たちだけとなります。この注解者は、このことを理解していて、それをもっとも穏やかな仕方で表現したのではないか、と私は思ったりします。

 また、これらのことを思い巡らすとき、聖書のメシア預言の成就が非常に困難な条件の下で達成されていること、しかも、その苗は聖書そのものの中に植えられていたことに気づかされます。
 たとえば、終わりの日にエホバの崇拝が復興することに関する預言は、まずエホバへの崇拝が衰退していなければ成就のしようがありません。それについては、現存する新約聖書の写本に神の名前が記されているものが一つもない、ということが決定打となりました。そして、今指摘した、「良いたより」についての変調がその流れを加速しました。その苗はまさに聖書の中にあります。
 偽預言者たちについてもそうです。メシア預言が「エホバの重荷」と呼んだ論争は、確かに今、エホバの証人を中心として生じているのではないでしょうか。やはり、その苗は聖書の中にあります。それは、偽預言者について述べたモーセの言葉のメシア預言における発展を考慮しない人にとっては、エホバの証人こそがその偽預言者に見えるという罠です。

 この現代にエホバの証人というキリスト教の教派が起こり、メシア預言において彼らが回復するとされる事柄を回復しようとしたとき、実に驚くべきことに、その回復すべき事柄はたしかにそこにあったのです。これは不思議なことではないでしょうか。


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