新世界訳
エホバの証人の聖書

ホーム >> THESIS >> “エホバ”復元問題



 エホバの証人の訳業による聖書、『新世界訳聖書』には、神名“エホバ”の復元という、他の聖書にはほとんど見られない特徴があります。
 ここ100年ほどの間、一般のキリスト教会が用いる聖書からは、神名の除去が行われてきました。エホバの証人はそれを復元した聖書を発行しています。ただ、一般に聖書原典とされているものと比較すると、新世界訳聖書には余分に神名を復元する傾向が見られます。
 この文書では特に新約聖書における神名の復元ということを扱います。

 この文書は「“エホバ”発音問題」の続きとなります。この文書を前提として書いている箇所がいくつかありますので、まずはそちらのほうをご覧になってください。また、「“エホバの証人”とは」のほうにも関連する内容がありますので参考にされてください。

 この文書では、神名は“エホバ”を採用します。一部に“ヤーウェ”が使われていますが、発音が異なるだけで、同じ語です。






 ではまず、新約聖書に神名を復元することの利点を扱いたいと思います。この利点を知ることは非常に重要です。
 その際立った証明となる聖句はローマ 10章13節でしょう。これを、一般の教会において「聖書」とされているものから見てみましょう。



ローマ 10:13

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。



 さて、ここで語られている「主」とは誰のことでしょうか。
 聖書には二人の主が登場します。神とキリストです。この「主」が神であれば、「主の名」は“エホバ”になります。キリストであれば、“イエス”になります。どちらでしょうか。
 聖書についての充分な知識を持っている方であれば、間違えることはないと思います。この「主」は神です。しかし、世の中のほとんどの方は全く判断ができないでしょう。教会に通う信徒たちも、多くは間違えて、キリストのほうだと考えてしまうでしょう。というのも、この人たちは教会で「キリストは主である」と教えられているからです。

 このようなとき、新世界訳聖書を持っていれば、間違えてしまう心配はありません。神名の復元が行われているからです。



ローマ 10:13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバの名を呼ぶ人は皆救われる」のです。



 「主」が「エホバ」に書き換えられています。聖書の読者は正しい意味を読み取ることができます。






 今見たローマ 10章13節の「主」が“エホバ”であることは、その引用元を参照することによって確認できます。
 ところがこの話、それほど簡単ではありません。というのも、引用元では逆の書き換えが行われているからです。二つの聖書を比較しましょう。



ヨエル 2:32 (共同訳系聖書ではヨエル 3:5)

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、の名を呼び求める者は皆、救われる。主が言われたように シオンの山、エルサレムに また、主が呼ばれる生き残りの者のうちに 逃れる者がある。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバの名を呼ぶ人は皆救われる。エホバが言った通り,逃れた人たちがシオンの山とエルサレムにいることになる。エホバが呼び寄せる,生き残る人たちである」。



 聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」の二部構成になっていて、ヨエルの句は旧約聖書に属し、ローマの句は新約聖書に属します。

 教会で用いる「聖書」では、旧約聖書にある“エホバ”はすべて“主”に書き換えられています。そのうえで、新約聖書にある“主”はそのままにします。
 一方の新世界訳聖書は、旧約聖書の“エホバ”は書き換えず、新約聖書にある“主”を“エホバ”に書き換えています。
 どちらも聖書の原典を書き換えていますが、方向性が真逆なのです。

 日本語に翻訳された聖書では、こういうことは判りにくくなっています。この文書で扱う「“エホバ”復元問題」を考える際には、聖書の原典ということを強く意識する必要があるということに気づかされます。






 では練習ということをやりましょう。今度は引用でない場合です。



ペテロ第二 3:9

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ある人たちは遅いと思っていますが、は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバは約束を果たすのが遅いと考える人もいますが,そうではありません。神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。



 さきほど学んだ事柄に基づいて、まず最初に確認しなければならないのは、これは旧約か新約かということです。
 ペテロは新約です。つまり、新世界訳聖書が原典の書き換えを行っているパターンです。

 もしこれが旧約からの引用であれば、引用元を、原典がどうなっているか意識しながら参照すれば、「主」がどちらであるかの判断ができます。しかし、この句には引用元がありません。
 答えを得るヒントはイエスの言葉にあります。



マタイ 24:36

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず,父だけが知っています。



 ここで述べられている「約束の日」は、「キリストの父」である方、つまり神に決定権があり、「神の子」であるキリストはその決定を知ることさえできません。このイエスの言葉から、約束の日を遅くしている「主」はエホバであることが判明します。

 これも、教会に通う方は間違えやすいところですが、新世界訳聖書の読者は安心して読めます。しかし、書き換えが行われているのですから、原典を意識することは忘れないようにしたいものです。






 いよいよ本題へと進みましょう。

 聖書には、神名にかかわる大きな謎がいくつもあると言われています。そのうちの一つが、新約における神名の消失です。
 神の名前は旧約聖書においては頻繁に用いられています。私の手持ちの資料によると、旧約聖書に“エホバ”は6828回でてきます。これに対して“神(エロヒーム)”は2602回ですから、旧約聖書では神を「神」と呼ぶより「エホバ」と呼ぶことのほうがはるかに多いことが分かります。ところが、新約聖書ではその回数が0になっています。

 この問題を詳しく調べると、一つの傾向があることに気づかされます。それは、新約聖書において“エホバ”は消去されているのではなく置き換えられているということです。たとえば、「エホバ神」という表現があったとします。単に神の名前を消失させるのであれば、「エホバ」を省いて「神」とすればよいでしょう。しかし新約聖書は「エホバ」を「主」と置き換えています。



ルカ 1:68

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
「イスラエルの神であるは ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖い

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
「イスラエルの神エホバが賛美されますように。ご自分の民に注意を向け,救出されたからです。

詩編 41:13 (共同訳系聖書では 41:14)

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
をたたえよ、イスラエルの神を 世々とこしえに。アーメン、アーメン。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イスラエルの神エホバが賛美されますように。永遠にわたって。アーメン,アーメン。



 先ほどの練習を思い出しましょう。今回は引用である場合です。ルカは新約、詩編は旧約です。つまり原典は「主」、しかし引用元は「エホバ」。教会で用いる聖書は旧約の「エホバ」を「主」に、新世界訳聖書は新約の「主」を「エホバ」に修正しています。

 つまり、もともと旧約聖書で「エホバ」となっているものが、新約聖書によって「主」と書き換えられ、それが新世界訳聖書で元に戻されているということになります。
 これは、新約において神名は復元できるということを意味しています。しかも容易です。もし神名が新約から根本的な意味で消失していたなら、復元の足掛かりは見つからないことになりますが、そうではありませんでした。

 書き換えは二通りあります。新約聖書は、神名“エホバ”を“主”に、ところによっては“神”に書き換えています。






 この、神名は置き換えられている、ということを、イエスによる引用から総合的に見ていきましょう。そのうえで、そこから浮かび上がる疑問を提起します。
 今回は読解に関する解説はありません。すでに学んだことを実践して、自力で理解していきましょう。



マタイ 4:7

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「『あなたの神であるを試してはならない』とも書いてある。」

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは言った。「『エホバ神を試してはならない』とも書いてあります」。

申命記 6:16

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、を試してはならない。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたはマッサで試したようにエホバ神を試してはなりません。



マタイ 21:42

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった。これはがなさったことで 私たちの目には不思議なこと。』

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは言った。「聖書の中で読んだことがないのですか。『建築者たちの退けた石,それが主要な隅石となった。これはエホバによって生じたのであり,私たちにとって驚くべきものである』とあります。

詩編 118:22-23

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
家を建てる者の捨てた石が 隅の親石となった。これはの業 私たちの目には驚くべきこと。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
建築者たちの退けた石が主要な隅石となった。これはエホバによって生じた。それは私たちにとって素晴らしい。



マタイ 22:43-44

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「では、どうしてダビデが、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのか。『は、私の主に言われた。「私の右に座れ 私があなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは尋ねた。「では,どうしてダビデは,聖なる力によって彼を主と呼んでいるのですか。こう言っています。『エホバは私の主に言った。「私の右に座っていなさい。私があなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで」』。

詩編 110:1

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
は、私の主に言われた。「私の右に座れ 私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバは私の主に告げた。「私の右に座っていなさい。私があなたの敵たちをあなたの足台として置くまで」。



ヨハネ 6:45

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
預言者の書に、『彼らは皆、に教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
預言者の書に,『彼らは皆エホバに教えられる』と書いてあります。父から聞いて学んだ人は皆,私のもとに来ます。

イザヤ 54:13

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたの子らは皆、に教えられ あなたの子らには大いなる平和がある。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたの子たちは皆エホバに教えられ,豊かな平和を味わう。



 聖書には「福音書」と呼ばれる部分があります。これは新約聖書の冒頭にある4つの書で、イエスの言行が記されています。福音書で描写されているイエスは、旧約聖書から引用するとき、必ず“エホバ”を“主”か“神”かに置き換えているように見えます。実際はどうなのでしょうか。






 このような問いが提起されたところで、多くの人が考えるのは、当時のユダヤ人の間に広まっていた神名の発声を禁止する規則です。
 イエスはその規則に従ったのでしょうか。もしそうだとすると、そこにはいろいろと問題があるということになります。

 まずですが、この規則は「人間というものは汚れているから、極めて神聖な神の名前を口にすることはできない」というような論理に基づいています。ところがイエスは、神の子でありメシアであり預言者であるという極めて神聖な存在として現れた方です。特に神の子であるということが大きいです。イエスは神名を使用する特権的地位にあるのですから、たとえばモーセがしたように堂々と神名を用いなければならないはずです。イエスがもしその逆をやったとなると、それはかなりみっともないです。
 それに加えて、福音書に記されたイエスは規則を守っているようで守っていません。この規則には二つの項目があります。まず、“エホバ”と発声する時には代わりに“主”と言わなければなりません。これが基本です。ただし、“エホバ”が“主”とくっついて「主エホバ」となっている場合に限って、「主主」という具合に「主」がかぶるという問題を回避するために“神”と言わなければなりません。ところがイエスはそのルールを無視しています。「主」と言うべきところで「神」と言っているのです。イエス自身が神名の使用を避け、そのうえ福音書がそれを正確に記録したとはなかなか考えられません。どこかで間違いが入ったはずです。
 それに加えて、新約聖書ではあらゆる箇所で神名が置き換えられているということがあります。もし新約聖書が、普段は神名を用いながらイエスの発言に限って神名を用いないのなら、イエスは神名の使用を避けたに違いないということが言えます。しかし神名に関する新約聖書の態度が一貫している以上、まず最初に「神の名前は一切用いない」というルールがあって、それが新約聖書の記述全体を支配しているということを考えなければなりません。つまり、イエスが仮に神名を発声したのだとしても、新約聖書を記述する段階でそれは書き換えられただろう、ということになります。

 ギリシャ語セプトゥアギンタ訳(七十人訳)を指摘する人もいます。イエスの時代に用いられていたこの聖書には神名が出てこないとされています。イエスはその影響を受けたのではないでしょうか。
 しかし、この説は古くなっています。イエスの時代のセプトゥアギンタ訳には神名が記されていることが判明したからです。

 これらの説に対する最大の反論はエホバ御自身です。聖書の中でエホバは、私の名前は世界に広められる、と宣言しています。旧約聖書には「メシア預言」と呼ばれる箇所がありますが、神名の宣明はその重要項目となっています。その役割を果たすために神が選任するのがメシアなのですから、イエスには神名を広める義務というものが課せられています。もしイエスがその責務を果たさなかったとするなら、イエスはエホバを無視したことになります。メシア預言で予告されたことはどうなってしまうんだ、ということになります。

 こうして視点は新約聖書自身に向けられることになります。そもそもの話、どうして新約聖書には1度も神名が出てこないのでしょうか。
 ここでも出てくるのは、今述べた、ユダヤ人の規則とかセプトゥアギンタとかいう説明です。しかしその問題点も同様です。

 この疑問には、もっとしっかりした、内容があり納得できる答えが必要です。






 私はいま、イエスによる旧約聖書からの引用を紹介したあと、「というわけで……新約聖書そのものに問いをすることになります」というふうに話を進めましたが、同じことは別の起点からも言うことができます。

 そのひとつは天使が人間に語った言葉です。



ルカ 1:28-33

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。があなたと共におられる。」マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神であるが、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
天使は来て,言った。「こんにちは,あなたは大いに恵まれた人です。エホバはあなたと共におられます」。しかしマリアはこの言葉にひどく戸惑い,このあいさつはどういうことなのだろうと考えた。天使は言った。「マリア,恐れることはありません。あなたは神の恵みを得ました。あなたは妊娠して男の子を産みます。イエスと名付けなさい。その子は偉大な者となり,至高者の子と呼ばれます。エホバ神は父ダビデの王座を彼に与え,彼は王としてヤコブの子孫を永久に治めます。その王国に終わりはありません」。



 天使が“エホバ”を“主”に置き換えて話すというのは考えられないことです。しかし新約聖書は天使の言葉をそのように記録していて、不自然です。
 もう一つは、天での天使同士の会話です。



ユダ 9

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
大天使ミカエルは、モーセの体のことで悪魔と言い争ったとき、あえて罵って相手を裁こうとはせず、ただ「があなたを戒めてくださるように」と言いました。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
天使長ミカエルは,モーセの体のことで悪魔と意見が分かれて論じ合った時,あえて断罪することも悪く言うこともせず,「エホバがあなたを叱責されますように」と言いました。



 これもだいたい同じです。
 こういったところで、「天使は神名を発声しただろうか?」、「ミカエルは神名を“主”に置き換えただろうか?」と質問をしても無意味です。問題にすべきは新約聖書のほうです。

 さらに言うと、同様のことは、イエスでも天使でもない、例えば弟子たちや、さらには民衆の発言にも言えます。結局のところ、新約聖書からは、誰についても、彼は神名を発声しなかったとは言えないのです。

 たとえば、この記述に注目してください。



マタイ 21:9

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。の名によって来られる方に 祝福があるように。いと高き所にホサナ。」

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さらに群衆は,イエスの前を行く人も後に続く人もこう叫び続けた。「お救いください,ダビデの子を! エホバの名によって来る方が祝福されますように! お救いください,この上なく高い所で!」

詩編 118:26

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
祝福あれ、の名によって来る人に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバの名によって来る方が祝福されますように。私たちはエホバの家であなたたちのために祝福を願う。



 これは民衆がメシアとしてのイエスを歓迎する叫び声を次々と上げるという場面です。このような特別な場面では、民衆は神名を使いたいという気分になったかもしれません。同じ時代に、重要な場面で民衆がそうしたという事例があり、そういうことが考えられます。



◇ 秦剛平訳七十人訳ギリシア語聖書, 出エジプト 3:14 脚注 (表記等修正)

 ヨセフスによれば、対ローマのユダヤ戦争における最後の場面(紀元後七〇年の秋)では、エルサレムの住民たちの一部は大祭司しか知らないはずの神の名を口にして、飢えからの助けを神に願っている。



 しかし、彼らが大声で高らかに神名を叫んだとしても、それは新約聖書によって書き換えられてしまうことになります。






 ではここで、この疑問に対する取り組みを4つ紹介したいと思います。

 1つ目は、「聖書翻訳研究」に掲載されたK・ワーケンホーストによる論文です。
 この問題を扱うにあたってまず彼は、論点をパウロ文書に絞ることにしています。



◇ 「主」か「ヤーウェ」か ― パウロの神学と第2イザヤおよび祭司伝承におけるYHWHの名について, K・ワーケンホースト, 聖書翻訳研究 No.17 Feb.1980 (表記等修正)

 イエススと使徒に関する質問に対する普通の見方からの答えは、ユダヤ人が迷信的な恐怖心から、その聖なる四文字を発音しなかったということである。……イエススと使徒の説教を伝える新約聖書の教えは、旧約聖書の引用の場合、当時のユダヤ人の流行から説明される。……このような考え方は、実際に正しいのであろうか。
 この問題を研究するにあたり、……新約聖書全体を研究することは今不可能であるから、ここで一応パウロの神学に限ってみる。……パウロはモーシェの律法を救いの道として受け取ったユダヤ人の信仰を激しく攻撃したが、なぜ主の名を発音することを禁じる律法を捨てるように指導しなかったのか。パウロは迷信を鋭く拒否したのに、なぜ主の御名に対するユダヤ人の恐れを非難しなかったのであろうか。その理由は確かに、パウロ神学に深く根ざしている。



 新約聖書には「パウロ書簡」と言われる部分があり、パウロによって書かれています。これが新約聖書のおよそ半分を占めていますので、パウロの思想について考えれば、謎の半分は解けたことになります。彼はパウロ書簡から得られた答えは新約聖書全体に応用できると考えているようです。
 彼は幾つかの聖句を取り上げて自説を展開していますが、その中でも興味深いのはコリント第二 3章12節から4章6節についての部分です。ではこの聖句を見てみましょう。



コリント第二 3:12-4:6

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
このような希望を抱いているので、私たちは堂々と振る舞い、モーセが、やがて消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません。彼らの心はかたくなにされたのです。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが除かれずに掛かったままです。それはキリストにあって取り除かれるものだからです。実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人がに向くならば、覆いは取り去られます。は霊です。そして、の霊のあるところには自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これはの霊の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、憐れみを受けてこの務めに就いているのですから、落胆しません。かえって、恥じて隠したりせず、謀によって歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにし、神の前で自分自身をすべての人の良心に推薦します。私たちの福音が覆い隠されているとするなら、それは、滅びる者たちにとって覆い隠されているのです。彼らの場合、この世の神が、信じない者の心をくらまし、神のかたちであるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。なぜなら、「闇から光が照り出でよ」と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。


◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
このような希望があるので,私たちは決して気後れすることなく語っています。そして,モーセのようなことはしていません。モーセは顔にベールを掛けました。それでイスラエル人は,除き去られることになっていたものの終わりを見つめることはありませんでした。彼らの思考は鈍っていました。今日でも,古い契約が読まれる時に,同じベールが掛かったままになっています。それはキリストによってのみ取り除かれるからです。今日に至るまで,モーセの書が読まれる時にはいつも,彼らの心にベールが掛かっています。しかし,エホバの方に向き直るなら,ベールは取り除かれます。エホバは目に見えない方であり,エホバの聖なる力がある所には自由があります。私たちは皆,ベールをしていない顔で鏡のようにエホバの栄光を反映させながら,変化して神に似た者になっていきます。目に見えない方であるエホバによって変化し,ますます栄光に輝くようになるのです。
それで私たちは,示していただいた憐れみによってこの奉仕をしているのですから,諦めません。私たちは恥ずべき隠れた事柄を退けました。ずる賢く行動したり神の言葉をゆがめたりしません。真理を明らかにすることにより,神の前で,全ての人の良心に自分を推薦します。もし私たちが広める良い知らせにベールが掛かっているとすれば,それは,滅びようとしている人たちにとってベールが掛かっているということです。今の体制の神が,信仰のない人たちの思考を遮り,神に似た者であるキリストについての素晴らしい良い知らせの光が輝き渡らないようにしているのです。私たちは自分について伝道しているわけではありません。伝えているのは,イエス・キリストは主であり,私たちはイエスのために皆さんに一生懸命仕えている,ということです。神は「光が闇の中から輝き出よ」と言った方であり,キリストの顔により,神の素晴らしい知識で私たちの心を明るく照らしてくださいました。



 「エホバの方に向き直るならベールは取り除かれます」という表現に注目してください。これは旧約聖書の出エジプト記 34章34節からの借用です。ここで言う借用とは遠回しな引用のことです。



出エジプト 34:34

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
モーセは、の前に行って主と語るときは、出て来るときまで覆いを外していた。そして彼は出て来て、命じられたことをイスラエルの人々に告げた。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし,エホバの前に行って話す時にはベールを外した。それから出ていって,与えられた命令をイスラエル人に告げた。



◇ 「主」か「ヤーウェ」か ― パウロの神学と第2イザヤおよび祭司伝承におけるYHWHの名について, K・ワーケンホースト, 聖書翻訳研究 No.17 Feb.1980

 「主の方に向き直れば、その覆いは取り去られる」という 3:16 の背景には、確かに出 34:34の御言葉があると考えるべきである。



 彼は、証明はできないものの、この記述では「主」の意味するところがエホバからイエスに変化していくと考えます。



◇ 「主」か「ヤーウェ」か ― パウロの神学と第2イザヤおよび祭司伝承におけるYHWHの名について, K・ワーケンホースト, 聖書翻訳研究 No.17 Feb.1980 (表記等修正)

 パウロは出34章に従って、「主に向く」ことを「イエススに向く」という意味で受け取った。
 これがいつも神聖四文字(ヤーウェ)を現わすかどうかは論じられている。そこでますます、イエススの姿が「主」という形で述べられているのではないかと感じられる。事実パウロはここで、旧約時代に礼拝の目的になった主の御名の四文字のうちに、新約時代に主の御名であるイエススのことが含まれていたと述べたのであろう。……人間になった形の神にのみ、人間に発音できる名、人間の救いをもたらす名が与えられている。それは「イエスス」である。



 そしてさらにこう考えます。パウロはエホバとイエスを“父”と“子”として区別していたが、それでも、ギリシャ語の“主”という語にエホバの意味とイエスの意味の両方が含まれるよう工夫した。その工夫を行ったために、そしてほかにも幾つかの神学的理由があったために、神の名はパウロにとって決して使うべきでない名になった。

 彼は結論をこう述べます。



◇ 「主」か「ヤーウェ」か ― パウロの神学と第2イザヤおよび祭司伝承におけるYHWHの名について, K・ワーケンホースト, 聖書翻訳研究 No.17 Feb.1980 (表記等修正)

 それでは、わたしたちは旧約時代の神のために、救いをもたらさない名を造ることが正しいのであろうか。パウロは旧約聖書で述べられている「主」の内に、父なる神も御子イエススも含まれているとして、神の本質と御旨の統一とを重視した。わたしたちはそれに従わないで、旧約の神の名を「ヤーウェ」と呼ぶならば、旧約の神と新約の神との対立を説くことになるのではなかろうか。






 2つ目は、エホバの証人に対する反対活動をしている岩村義男による、「神のみ名は「エホバ」か」と題する書籍です。
 彼は本の前書きにこう書いています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記等修正)

 本書では、……私たちが救われるために知っていなければならない神のみ名とは、「エホバ」ではなく、「主イエス・キリスト」の名であることにスポットライトを当てています。



 彼は6章で、聖書の言葉を示しながら、「クリスチャンは“エホバの証人”ではなく“イエスの証人”である」という主張を展開します。



イザヤ 43:10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバはこう宣言する。「あなたたちは私の証人である。私に仕える者であり,私が選んだのである。あなたたちが私を知り,私に信仰を持ち,私が変わらないことを理解するために。私の前に存在するようになった神はおらず,私の後にもいない。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 「エホバの証人」という聖句は、『新世界訳』にもありません。「わたしの証人」と述べられているだけです。興味深いことに「わたし」に関しては、イザヤ 44章6節では、「万軍のエホバ、エホバはこのように言われた。『わたしは最初であり、わたしは最後であり……』」と言及されており、実はイエスのことを指しています。



イザヤ 44:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバ,イスラエルの王,イスラエルを救う者,大軍を率いるエホバはこう言う。『私は最初であり,最後である。私のほかに神はいない。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社 (表記等修正)

 そこで、証人たちににこう質問してみてください。
 「使徒 1章8節の中でクリスチャンはだれの証人と言われていますか?」



使徒 1:8

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし,聖なる力があなたたちに働く時,あなたたちは力を受け,エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります」。



 7章では、「イエスは“エホバの名”ではなく“イエスの名”を宣べ伝えた」という主張が展開されています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 証人は、イエスが御父のみ名エホバを明らかにしたと信じています。出所として彼らがよく用いる聖句はヨハネ 17章6,26節です。



ヨハネ 17:6, 26

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は,あなたが世から取って託してくださった人たちにあなたのお名前を明らかにしました。この人たちはあなたのものでしたが,私に託してくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。
私はあなたのお名前を彼らに知らせました。これからも知らせます。あなたが私を愛してくださったように彼らが愛を示し,私が彼らと結び付いているためです」。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 けれども、イエスは弟子たちに「エホバ」のみ名を明らかにされた、とは書かれていないことに注目しなければなりません。では、だれのみ名を明らかにされたのでしょうか。11節と12節の文脈からそれは判断できます。



ヨハネ 17:11-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は世からいなくなりますが,この人たちは世にいます。私はあなたのもとに向かいます。聖なる父よ,あなたは私にあなたのお名前を託してくださいました。そのお名前のためにこの人たちを見守ってください。私たちが一つであるように,彼らも一つになるためです。私は,彼らと一緒にいた時,私に託してくださったお名前のためにいつも彼らを見守りました。私は彼らを守り,誰も滅びていません。滅びるあの者だけは別ですが,それは聖句が実現するためでした。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 それでイエスは、ご自分のみ名を明らかにされたのです。「わたしに与えてくださったご自身のみ名」とは、文字のとおりにとれば、「エホバ」ではなく「イエス」です。



 8章では、「クリスチャンは“エホバの名”ではなく“イエスの名”を宣べ伝える」という主張が展開されています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 証人がエホバのみ名を主張する聖書的根拠はローマ 10章13節です。



ローマ 10:13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
「エホバの名を呼ぶ人は皆救われる」のです。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 9節から見ていきますと、「主」「彼」「この方」とは同一人物であることがわかります。『新世界訳』では、13節の κυρίος (キュリオス) だけをヨエル2章32節の引用ということで、「エホバ」に“誤訳”しています。先入観なしに、つまり教理を抜きに文脈から判断すれば、どなたが通読しても、13節の κυρίος (キュリオス) はイエスのことだとわかります。



ローマ 10:9-14

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたは,イエスは主であると口で人々に伝え,神はイエスを生き返らせたと心の中で信仰を抱くなら,救われるのです。人は,心で信仰を抱くことによって正しいと見なされ,口で人々に伝えることによって救われます。聖句には,「彼に信仰を持つ人は失望しない」とあります。ユダヤ人とギリシャ人とに違いはありません。全ての人を治める主がいて,その方はご自分に呼び掛ける全ての人に恵みを豊かに与えます。「エホバの名を呼ぶ人は皆救われる」のです。しかし,信仰を持っていなければ,どうして呼び掛けられるでしょうか。また,聞いたことがなければ,どうして信仰を持てるでしょうか。また,伝道する人がいなければ,どうして聞けるでしょうか。



 このあと、9章と11章では、クリスチャンはエホバではなくイエスに祈るという主張が、10章では、聖書の言う「天の父」とはイエスであるという主張が、12章では、クリスチャンはエホバではなくイエスに信仰を働かせるという主張が、13章では、クリスチャンはエホバの名においてではなくイエスの名においてバプテスマを受けるという主張が、14章では、クリスチャンはエホバの名のためではなくイエスの名のために迫害されるという主張が、15章では、クリスチャンはエホバの名によってではなくキリストの名によって集まるという主張が、16章では、人はエホバの名によってではなくイエスの名によって罪の許しを得るという主張が、聖書を示しながら展開されます。






 この2つは、近年キリスト教会で流行している“反エホバ主義”に合うように調整された見解で、エホバをイエスによって上書きし、実質的に消去しようとするものです。この種の文書はキリスト教諸教会内でいくつも流布されていますが、どれも内容にかなり無理があり、そもそも論理的に成立していないとしか言いようのない非常にみっともない部分も見られます。

 ここでは、救いということについてのみ指摘しておきたいと思います。

 聖書には、人はイエスの名によってのみ救われる、という教えがあります。



使徒 4:12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さらに,ほかの誰も私たちを救うことはできません。地上の人々に与えられた名のうち,その方の名によってしか救いは得られません」。



 ところが聖書には、イエスの名によって救われることとエホバの名によって救われることの両方の記述があります。これは少なくとも表面上は大きな矛盾です。
 そこで、キリスト教会ではある時期から、イエスの名による救いを説いてエホバのことは無視してしまうことが流行するようになりした。さらに近年では、イエスの名による救いだけを認めてエホバの名による救いを否定するという教会も増えています。こうして、教会は救いに関する聖書の矛盾を強引な方法で解決しています。

 しかしこれは、両者が同一視されているということです。エホバは神で、イエスは神の子です。親子ですから強い絆があります。そしてその両者は一致していると聖書は語ります。



ヘブライ 1:3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神の子は,神の栄光を反映し,神の本質を完全に表していて,力強い言葉によって全てのものを支えています。そして,私たちを罪から清めた後,天で威光に輝く神の右に座りました。



 聖書が提示している同一視の視点は、エホバが主体でイエスが従属です。
 この主体と従属という視点は、聖書が救いについて語るところで常に示されています。



ヨハネ第一 4:9-10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神は独り子を世に遣わし,その方によって私たちが命を得られるようにしてくださいました。このことから,神が私たちを愛してくださっていることが明らかになりました。私たちが神を愛したというより,神が私たちを愛し,私たちの罪を償う犠牲としてご自分の子を遣わしてくださったのです。これこそが愛です。



 ですから、名と救いについての矛盾は、単に視点の問題です。人が救われるにあたって、自分に近いほうにある表面を見るか、遠いほうにある本質を見るか、それによって、記述上、どの名によって救われるかが変わります。しかし、両者は本質的に同一、救いもまた同一ですので、どちらかに注目したとしても、他方を否定するということは必要ありませんし、そういうことが成り立つということもありません。

 花が咲いていてきれいだと思うことはないでしょうか。きれいなのは花ですのでつい花のほうに目が向きますが、花の美しさを支えているのは幹と根です。もちろん花は本体ではありません。今のキリスト教会はエホバとイエスについて適正な見方ができなくなっています。救いということを考えるにあたり、イエス・キリストにのみ注意が向けられ、エホバ神に注意が向かないというのは、エホバに対してもイエスに対しても、無神経で失礼というものです。

 露骨に言ってしまうと、障害ということがあります。言葉を聞いてそこに含まれる関連性ということを正しく把握できないのは、発達障害や学習障害といった、脳に障害がある人の傾向です。統合失調ということもあります。この傾向はこの種の文書に特徴的です。






 3つ目はエホバの証人によって提出された仮説です。
 エホバの証人は、「もともと新約聖書には神名があったが、写本が作成された初期の段階でそれが“主”や“神”に置き換えられてしまった」と考えています。
 どうしてそのようなことをエホバの証人は考えたのでしょうか。それは、そう考えることによって、神名に関するすべての疑問が見事に解決するからです。イエスや天使がなぜ神名を用いなかったのかと問う必要はなくなります。新約聖書に神名が1度すらも出てこないのはなぜなのかと問う必要もなくなります。神名を使わないのは聖書自身の説く教えに反している、神名を世界に広めなければならないという義務にも反している、と指摘する必要もなくなります。それは究極の答えだと言うことができます。

 しかしこの説には深刻な疑念が伴います。直接的な証拠がないのです。
 もしこれが先に挙げた2つの見解のような教義的推論であれば、証拠の提示は必要ありません。これといった証拠もなくただ推論すればよいのです。しかし原典がどうということを言うのであれば、聖書原典の提出が必要ですし、初期の写本がどうと言うのであれば、初期の写本の提出が必要です。しかしこのような資料は現存していません。
 そこでエホバの証人が提出するのが、いくつかの間接的な証拠です。これはすでに「“エホバ”発音問題」で紹介しています。たとえば、キリスト教成立期のユダヤ人の文書の中に、福音書の中の神名についての記述があるという具合です。

 ここでは、まだ紹介していない、キリスト教が成立してから300年ほどあとの資料を見ましょう。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 近くは西暦4世紀に,ラテン語ウルガタ訳の翻訳者ヒエロニムスがサムエル記と列王記の序文の中で,「また,我々は今日に至るまで,ある種のギリシャ語の書物に神の名,つまり四文字語<テトラグラマトン>[すなわち,יהוה]が古代の文字で表わされているのを目にする」と述べています。ヒエロニムスは西暦384年にローマで書いた1通の手紙の中でこう述べています。「[神の]9番目[の名]は四文字語<テトラグラマトン>であるが,彼らはこれを[アネクフォーネートン],すなわち口に出せない事柄とみなしており,それはこれらの字母,つまりヨード,ヘー,ワーウ,ヘーで書かれている。一部の無知な者たちはギリシャ語の本の中でその語を目にすると,文字が似ているため,習慣的に,それをΠΙΠΙ[ローマ字のPIPIに対応するギリシャ語の字母]と読んでいた」―「ギリシャ語聖書パピルス」,F・デュナン著,カイロ,1966年,47ページ,脚注,4。



 この記述は幾つかの可能性を示唆しています。まず、キリスト教は成立後300年くらいの間は神名を使用していたようです。しかし、その初期からこの手紙が書かれたころまでのどこかの時点で、おそらくユダヤ教の影響により、神名の発声が禁止されていました。発声が禁止されたせいでその発音は知られなくなり、しかたなく“ピピ”と発音されるようになっていました。

 この「ある種のギリシャ語の書物」とは何でしょうか。筆頭に上がってくるのはギリシャ語訳の旧約聖書です。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 西暦2世紀の年代のものであるアキュラのギリシャ語訳には,依然としてヘブライ文字の四文字語<テトラグラマトン>が出ていました。西暦245年ごろ,著名な学者オリゲネスはヘクサプラ(対照訳),つまり霊感を受けて記されたヘブライ語聖書の6欄写本を作りました。その写本は,(1)元のヘブライ語やアラム語の本文のほかに,(2)ギリシャ語の字訳,およびギリシャ語の(3)アキュラ訳,(4)シュンマコス訳,(5)セプトゥアギンタ訳,ならびに(6)テオドティオン訳を併記したものです。今日知られているその断片写本の証拠について,W・G・ウォデル教授はこう述べています。「オリゲネスのヘクサプラでは……アキュラ,シュンマコス,および七十訳[セプトゥアギンタ]のギリシャ語訳はすべて,JHWHをΠΙΠΙで表わしていた。ヘクサプラの第2欄では四文字語<テトラグラマトン>はヘブライ文字で書かれていた」。(「神学研究ジャーナル」,オックスフォード,第65巻,1944年,158,159ページ)ほかに,オリゲネスのヘクサプラの元の本文では,四文字語<テトラグラマトン>を表わすのにすべての欄でヘブライ文字が使われていたと考えている人もいます。オリゲネス自身,「最も正確な写本では,み名はヘブライ文字で,ただし今日のヘブライ[文字]ではなく,最も古いヘブライ文字で出て来る」と述べました。



 そして、次に挙げられるのが新約聖書です。
 こういった資料は、新約聖書の原本に神名が記されていたことの直接的証拠とはなりませんが、複数あることで、ある程度の説得力をもってその可能性を示しています。

 “ピピ”に関する諸資料から、このようなことを推察することができます。
 初期のギリシャ語の聖書には“エホバ”のところだけをヘブライ文字で書くという規則があった。しかし、ギリシャ語を使う人たちにはそれが読めず、代わりに“ピピ”と読んだ。やがて、この文字は神を示す一種の略号であると理解されるようになった。最終的に、読み手の不便を解消するために、“エホバ”はギリシャ語の“主”や“神”に書き換えられていった。

 もしそうだとすると、書き換えは、イエスの直系の弟子ではない人たちによって行われた可能性があります。これは、先に指摘した、福音書のイエスが規則を守っていないことの説明になりそうです。書き換えを行った人たちは規則を解っていなかったということになります。

 ここで私説を紹介します。これは、ヘブライ語の神名の含まれるギリシャ語写本において、神名の書かれる部分の文字が詰まっていないことと、神名を使わない写本では数種の略号が用いられていることに基づきます。
 当時のギリシャ語は文字を詰めて書きました。単語と単語の間にも空白をつけません。しかし、ヘブライ語の神名のところをよく見ると左右に空白があります。また、筆跡を調べると、神名のところだけ別の人が書いているということが判ります。
 こういった現象から導き出される私の結論はこうです。初期のギリシャ語聖書において、その大部分であるギリシャ語の記述はギリシャ語専門の写本家によって書かれたが、神名のところは空けておかなければならなかった。その後、ユダヤ人の、しかも神名を書く資格を認められた専門の写本家が神名を書き加え、写本を完成させた。しかし、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳がギリシャ語を話すユダヤ人から異国人のものへと変わっていくにつれ、写本の製作にあたって資格ある写本家を用意することが難しくなった。そのため、資格ある写本家がいないところで作成された写本には代わりの書体や略号が用いられた。やがて、この問題を根本的に解消するために、これらの使用は廃止され、“主”や“神”が用いられるようになった。

 様々な状況証拠に基づき、エホバの証人はこのように考えます。新約聖書の原典は、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳聖書の最初の手法で記されたに違いない、しかし、その写本が作成されるときには、後代のセプトゥアギンタ訳聖書において採用された手法に準じて、ヘブライ語の神名は“主”と“神”に置き換えられたに違いない。
 直接的な証拠があるわけではありませんが、これは当時の歴史状況から十分に推測しうる説だと言えるでしょう。

 直接的な証拠はなんとかして見つけられないものでしょうか。今となっては見込みはほとんどありませんが、まったくということでもないのでしょう。神名の記された新約聖書の写本が見つかってしまうかもしれません。あるいは、略号の記された写本が出てくるかもしれません。そうすると、そういう写本が存在していることが判明した以上、新約聖書の原本には神名が記されていたと結論するよりほかなくなるでしょう。






 またまた私説で恐縮ですが、4つ目に、純粋に神学的な仮説を示したいと思います。それは、聖書のメシア預言はエホバ崇拝の衰退と復興を予告していることに基づいています。

 “終わりの時代”におけるエホバ崇拝の復興がメシア預言において重要なテーマとなっていることは、「“エホバの証人”とは」にて非常に詳しく解説しています。その要点はこんな感じです。



イザヤ 2:2-3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
最後の日々に,エホバの家の山は,山々の頂より高くしっかりと据えられ,どの丘よりも高くそびえる。全ての国の人々が流れのようにそこに向かう。多くの人々が行って,こう言う。「さあ,エホバの山に登ろう。ヤコブの神の家に行こう。神はご自分の道について教えてくださる。私たちはその道を歩もう」。律法がシオンから,エホバの言葉がエルサレムから出る。

イザヤ 54:13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたの子たちは皆エホバに教えられ,豊かな平和を味わう。

ミカ 4:5

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人々は皆,それぞれ自分の神の名によって歩む。しかし私たちは,いつまでも永遠に,私たちの神エホバの名によって歩む。

イザヤ 43:8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
目があるのに見えない民,耳があるのに聞こえない民を連れ出せ。全ての国は1つの場所に集合し,人々は集まれ。彼らのうち誰がこれを告げられるか。誰が最初の事柄を私たちに聞かせられるか。彼らに証人を出させ,自分たちの正しさを証明させてみよ。聞く者たちに,『それは真実だ!』と言わせてみよ」。
エホバはこう宣言する。「あなたたちは私の証人である。私に仕える者であり,私が選んだのである。あなたたちが私を知り,私に信仰を持ち,私が変わらないことを理解するために。私の前に存在するようになった神はおらず,私の後にもいない。私,この私がエホバであり,ほかに救い主はいない」。



 これは、キリスト教の一教派“エホバの証人”の由来となっている預言ですが、教派としてのエホバの証人はとりあえずどこかそのへんに置いておくことにして、聖書自身が述べるところの“エホバの証人”のシナリオに注目しましょう。

 メシア預言がこのようなシナリオを立てている以上、その実現のためには、人々がエホバの名前を忘れてしまう時代が実際に来なければなりません。そこでエホバは、(別の言い方をするなら、そこで新約聖書の筆者たちは示し合わせて、) ひとつの巧妙なトリックを仕掛けることにしたのではないでしょうか。つまり、表向きの理由や事情はどうあれ、その裏では、エホバの名前を忘れることこそが画策されていたのではないかということです。彼らにとっての表向きの理由は、この文書においてすでに挙げたものかそれに類するものだったでしょう。しかしその真意はメシア預言の確実な成就にこそあったというわけです。
 もし、旧約聖書と同じように新約聖書にもエホバの名がたくさん出てくるようなことがあれば、メシア預言が示すエホバ崇拝復興のシナリオは実現しようがなかったでしょう。キリスト教の信仰が存在する限り、そこにはたしかにエホバに対する信仰もあって、いつまでたっても聖書の預言するところの終わりの時代は来ないという状態が生じるでしょう。それは聖書自身にとって非常にまずいことですので、聖書としては、新約聖書に神名の忘却を仕掛けるしか選択肢がなかったのでしょう。

 もっとも、ここで私の憶測する陰謀などというものは、それを考えた当人以外には誰も容易に知り得ないものですので、「その証拠は?」と聞かれても、私としては困ってしまうところです。ただ、歴史的事実として私が言えるのは、キリスト教は成立初期に旧約聖書のメシア預言から急速に離れ、そのうえ新約聖書に神名を使わなかったために、予告されたとおりに神名を忘れてしまったということです。

 もしこの説が正しいとするなら、このようにも言えます。新約聖書は、将来エホバ崇拝の復興が果たされる時に備え、神名の復元ができるような書き方で書かれている。






 ではここで、さきほどそのへんに置いておいた、教派としてのエホバの証人の話をしたいと思います。

 彼らが“エホバの証人”を名乗ることができたということは、実に強運なことであったと私は思います。
 というのも、メシア預言が予告する“エホバの証人”の出現には、その前提となる状況、つまりエホバ崇拝の衰退が必要だからです。その状況もなしにどこかの教派が“エホバの証人”を名乗ろうとしてもそれは先走りというものでしょう。ところが、その必須である状況が実際に生じていたのですから、そのこと自体が事件であったと私は思います。しかも、この特別な状況を実現するにあたり、当のエホバの証人はなんら努力を払いませんでした。気がついたら状況がそうなっており、あとはどこかの教派が「我々こそがメシア預言の語るところのエホバの証人である」と名乗り出るだけという局面になっていました。
 またおもしろいことに、エホバの証人自身としても最初からこの名称の獲得を目指していたわけではありませんでした。彼ら自身、気がついたら、自分から「私たちはエホバの証人である」と宣言しなければならないという状況になっていました。

 では、いったい何が、キリスト教世界における“エホバの証人”の台頭に至らせたのでしょうか。

 実は、新約聖書には神名エホバのほかにもう一つ「語ってはならない」とされるものがあります。それは“パラダイス”に関する真理です。



コリント第二 12:2-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私はキリストと結ばれたある人を知っています。その人は14年前に第三の天に連れ去られました。肉体で行ったかどうかは知りません。神が知っています。私は確かにその人を知っています。肉体で行ったかどうかは知りません。神が知っています。その人はパラダイスに連れ去られ,話すことができない言葉,人が語ることを許されない言葉を聞きました。



 この規則は新約聖書の中でよく守られています。新約聖書は“パラダイス”というものがあるということを何度か示していますが、それが何かについては全く語りませんし、関係する事柄もほとんど示しません。そのため、キリスト教会はこれまで2000年近くの間、パラダイスについての研究を全くと言っていいほど行ってきませんでした。
 では、聖書の中にパラダイスに関する情報は全くないのかというと、そうでもありません。ポイントは、この規則が守られているのが新約聖書に限られているということです。新約聖書には少ししか情報がありませんが、旧約聖書のメシア預言にはその情報が多くあります。



イザヤ 35:5-7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その時,目が見えない人は見えるようになり,耳が聞こえない人は聞こえるようになる。その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,口が利けない人は歓声を上げる。荒野に水が湧き出て,砂漠平原に川が流れる。熱で乾き切った地面はアシが茂る池になり,乾燥した地面は泉になる。ジャッカルが休んでいたすみかには,青草やアシやパピルスが生える。

イザヤ 65:17, 20-25

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は新しい天と新しい地を創造している。以前の事柄は思い出されることも,心に浮かぶこともない。
「そこには,数日しか生きない乳児も,寿命を全うしない老人もいなくなる。罪人は100歳であっても災いを受け,100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。人々は家を建てて住み,ブドウ園を造って実を食べる。建てた家に他人が住むことはなく,植えた物を他人が食べることもない。私の民の寿命は木の寿命のようになり,私が選んだ者たちは働く喜びを存分に味わう。彼らは無駄に労苦することはなく,生まれる子たちが苦しむこともない。彼らとその子孫は,エホバに祝福された民だからである。彼らが呼び掛ける前に私は答え, 彼らがまだ話しているうちに私は聞き入れる。オオカミと子羊が一緒に食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。蛇は土を食物とする。これらは私の聖なる山のどこにおいても,荒らしたり危害を加えたりしない」と,エホバは言う。



 新約聖書のほうは、このようなことは知りませんというふりをし続け、最後の部分で唐突にこのように宣言します。もちろん具体的な説明はなしです。



啓示(黙示録) 21:1-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
また私は,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。さらに見ると,聖なる都市である新しいエルサレムが,花婿のために着飾った花嫁のように,天から,神のもとから下ってきた。その時,王座から大きな声がした。「見なさい! 神の天幕が人々と共にあり,神は人々と共に住み,人々は神の民となります。神が人々と共にいるようになるのです。神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。以前のものは過ぎ去ったのです」。



 というわけで、パラダイスに関する情報を得るには旧約聖書のメシア預言を調べる必要があります。

 エホバの証人の歴史の初期、彼らが『国際聖書研究者』という教派名を名乗り、まだその名称を名乗ろうなどと思っていなかったころ、彼らが特に注目したのがこの“パラダイス”の教えでした。旧約聖書のメシア預言を調べればパラダイスが何かという疑問が解けるということに気づいた彼らは、精力的にメシア預言の研究に取り組むことになります。
 その結果、パラダイスに関するさまざまなことが判明しました。新約聖書の述べる“新しい天地”については、何を指しているのかこれまでよく分かっていませんでしたが、パラダイスを指しているということが明確になりました。“千年王国”についても、これがパラダイスであるとの明解な結論が得られました。この真理を明らかにしたことで、彼らは『千年期黎明派』というもう一つの教派名で呼ばれるようになります。

 さて、旧約聖書の示すメシア信仰と新約聖書の示すメシア信仰には一つの大きな違いがあります。旧約聖書で示されるメシア信仰が「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」であるのに対し、新約聖書で示されるメシア信仰は「単にメシアを信奉するキリスト教」であることです。ですから、彼らが熱心に旧約聖書のメシア預言を調べたことは、彼らが単にメシアを信奉することの不備に気づき、「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」に目覚めることを意味していました。
 聖書の中にはエホバ崇拝の復興のための隠された仕組みがあり、彼らは知らずにその罠を踏んでしまったのです。

 しかもこの時、幸運にも、この目覚めのステップを阻んでいた最大の障害が取り払われていました。1901年、彼らが熱心に旧約聖書のメシア預言を調べ始めたころのことですが、旧約聖書に神名“エホバ”が復元されたアメリカ標準訳聖書が刊行されました。それまで教会から刊行されていた「聖書」は、反エホバ主義の立場に立ち、旧約聖書から神名を除き去っていました。ですから、このような聖書でメシア預言を熱心に調べたとしても、読者が「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」に目覚めることはあり得ませんでした。しかし、反エホバ主義についてのキリスト教世界の一時的な気変りによって、今から考えるなら全くあり得ないようなこと、教会からエホバの名を復元した聖書が刊行されるということが起こってしまったのです。ですから、彼らがパラダイスの謎を解き明かそうとして熱心に旧約聖書のメシア預言を調べていたころ、ちょうど彼らが手にした聖書にはエホバの名があったのです。

 そしてついに『エホバの証人』の名称の採用が実施される日が来ました。それは1931年のことです。その年のエホバの証人のイベントで名称は公布され、信者たちの総意により採択されました。
 この時のいきさつについて、A・H・マクミランはこのように回顧しています。



◇ 「エホバの証人の年鑑」, 1976年版, ものみの塔聖書冊子協会

 A・H・マクミランは,88歳の時,同じ都市におけるエホバの証人の「霊の実」大会に出席しました。1964年8月1日,そこにおいてマクミラン兄弟は,その名前が採択されたいきさつを興味深く語りました。
 「わたしは,……新しい名称もしくは名前……を受け入れた1931年にコロンバス大会に出席する特権を得ました。わたしは,その名前を採用する計画に対して意見を求められた5人のうちのひとりだったので,簡潔にこうお話ししました。その名称は,わたしたちが何を行なっているか,またわたしたちの務めは何かを世の人々に伝えるので,すばらしい名前だと思う。それ以前にわたしたちは聖書研究者と呼ばれたが,なぜかというと,わたしたちはまさしく聖書研究者だったからである。他の国の人々がいっしょに研究するようになって,わたしたちは国際聖書研究者と呼ばれた。しかし,今やわたしたちはエホバ神の証人であり,その名称は,わたしたちがどのようなものであり,何を行なっているかをそのまま一般の人々に伝える。……
 「実際のところ,そのように導かれたのは全能の神であった,とわたしは信じます。というのは,ラザフォード兄弟自身がわたしに次のような話を聞かせてくれたのです。ラザフォード兄弟は,その大会の準備をしていたある夜目を覚まして,『特別な講演とか音信もないのに,いったいなぜわたしは国際大会を提案したのだろう。なぜみんなをここへ集めるのだろうか』とつぶやきました。そして,そのことについて考え始めると,イザヤ書 43章が頭に浮びました。彼は夜中の2時に起きると,机に向かい,王国は世界の希望という講演と新しい名前に関する話の筋書を速記しました。あの時彼が行なった話はすべて,その夜,つまり朝の2時に準備されたのです。わたしは,主がラザフォード兄弟を導かれたことに対して,昔も今も一点の疑いも持っていません。それはまさしく,わたしたちの名前としてエホバが望んでおられるものであり,わたしたちはその名前を与えられて大きな喜びと幸福を感じています」。



 名称の採用は、当時のリーダーの思いつきによることでした。実のところ、彼らはエホバの証人を名乗ることの神学的意義や価値を正しく理解していたわけではありませんでした。とはいえ、この大会で“エホバの証人”の名称を採用する決議が提示されると、彼らは歓呼してそれを支持しました。そのとき彼らが挙げた歓声はかなり遠いところまで響いて人々を驚かせたと伝えられています。
 もし、彼ら以外のキリスト教派においてこのような決議が示されたとしても、信者たちはただ動揺するばかりだったでしょう。周囲一帯には彼らの歓喜ではなく騒ぎ声が鳴り響いたことでしょう。諸教会がエホバについて深く考えるということはないからです。
 しかし、この人たちだけは異なっていました。彼らはメシア預言の研究を通して、エホバについて知り、エホバに対する信仰を培い、ついにはエホバを信仰の中心に据えるようになっていました。ですから、聖書から『エホバの証人』という名称が示されたとき、彼らは「その名称を採用するのはほんとうによいことだ」と心から思うことができました。
 やがて、教派としてのエホバの証人は成熟への道を進んで行き、自分たちの手で翻訳した聖書を刊行するようになります。そのとき、その訳本名として選ばれたのが『新世界』、つまり新しい天地、パラダイスの教えでした。そして、彼らが聖書を刊行するにあたっては、新約聖書から取り払われた神名“エホバ”を復元することがふさわしいと考えられました。

 神名を復元した聖書が刊行されると、それによりもう一つの隠された真理が明らかになります。それまで、新約聖書は「単にメシアを信奉するキリスト教」を人々に教えていました。しかし、それは神名が“主”や“神”と書き換えられることによって生じた錯覚に過ぎませんでした。たとえ神名が置き換えられたとしても、実のところその意味するところは変わりません。それは“エホバ”です。そして、新約聖書において神名は復元できるのです。
 こうして新世界訳聖書が刊行されたとき、「旧約聖書だけでなく新約聖書も、ほんとうは「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」を教えているのだ」という極めて重大な真理が明らかになりました。こうして、およそ1900年の時を経てついに、エホバに関する不可解な闇はキリスト教から吹き払われたのです。

 そのようなわけで、彼らが“エホバの証人”を名乗ったことで、その後に、それに見合う実質が伴うようになってきました。ですから、これらすべてのことを考えるとき、これは実に強運なことではなかったか、と私は思います。






 ここからは、神名の復元の技術ということを扱います。

 新約聖書において神名の復元を行うとなると、そうすることには問題点も伴うわけですから、ルール作りが必要となります。新世界訳聖書はこの問題にどのように取り組んでいるでしょうか。これを少し見てみましょう。

 まず最初に決めなければならないのは『神名を復元することは許容される』というルールでしょう。そもそもこの方針がなければ神名の復元は不可能です。

 新世界訳聖書は、神名が“主”もしくは“神”に置き換えられている場所に限って復元を行っています。すでに見てきたように、新約聖書には神名が“主”もしくは“神”に置き換えられた箇所がたくさんあります。この方針のもとでの神名の復元は根拠が取りやすいと言えるでしょう。神名が復元されたテキストが聖書本文と大きく変わるということもないでしょう。

 神名を復元した結果生じる表現が旧約聖書における神名の用法と一致しない場合には、神名の復元を控えたほうがよいでしょう。これについては「インペリアル聖書辞典」の示したルールが決定の基準にされています。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『エホバ』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 インペリアル聖書辞典はエホバの項の中で,エローヒーム(神)とエホバとの相違を実によく例証し,エホバという名について次のように述べています。「それはどんな箇所でも固有の名であり,人格的な神を,そしてただその方だけを表わしている。一方,エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており,確かに普通は至上者を表わすが,必ずしも,またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim,つまりまことの神と言う場合があるが,決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら,エホバとはまことの神だけの名だからである。また,わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは,わたしの神と言う場合,エホバのことを意味しているからである。また,イスラエルの神について語りはするが,決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに,生ける神について語りはするが,決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」― P・フェアベアン編,ロンドン,1874年,第1巻,856ページ。



 この実践例としてルカ 2章26節と啓示 11章15節を見てみましょう。



ルカ 2:26

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
また、が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さらに,エホバのキリストを見るまでは死なない,と聖なる力によって神から啓示されていた。



啓示(黙示録) 11:15

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、さまざまな大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の国は、私たちのと そのメシアのものとなった。主は世々限りなく支配される。」

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
第7の天使がラッパを吹いた。すると,天でたくさんの大きな声がした。「世の王国は,私たちのと,その方のキリストの王国となりました。主はいつまでも永遠に王として治めます」。



 キリストの主である方は必ずエホバです。ですからこの二つの句で語られている「主」はエホバであるということになります。しかし新世界訳聖書は、片方では神名の復元を行いませんでした。そこに「私たちの」という言い回しがあるからです。

 さらに、新世界訳聖書は二人の主の混在を許容しています。一例として、テサロニケ第二 2章13-14節を見てみましょう。



テサロニケ第二 2:13-14

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
しかし、に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。神は、霊による清めと、真理の信仰によって、あなたがたを救いの初穂としてお選びになったからです。神は、このことのために、すなわち、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、私たちの福音を通してあなたがたを招かれたのです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバに愛されている兄弟たち,私たちは皆さんについて,いつも神に感謝せずにはいられません。神が初めから,救いのために皆さんを選んでくださったからです。皆さんが真理に信仰を持ったために,神はご自分の聖なる力によって皆さんを神聖なものとしました。私たちが広めている良い知らせを通して,神は皆さんを招き,皆さんが主イエス・キリストの栄光を受けられるようにしてくださいました。



 この句の読解についてはあとで取り上げたいと思います。
 ここでは、文脈中に二度「主」が出てきます。あとのほうの「主」が「主イエス」を示していることは明白です。一方、はじめのほうの「主」は「エホバ」と訳出されています。新世界訳には、この聖句のように二人の主が混在する訳文がしばしば見られます。
 このような混在があるのはおかしいと考える人たちがいます。文脈中に「主」がイエスであると特定できる個所が見つかればその文脈全体にわたって「主」はイエスであると判断すべきである、というのがその主張です。
 しかしこれは錯覚です。というのも、聖書というものは、神とキリストが混在する文章が普通に見られる書物だからです。私たちは普段からそのような聖書の文章を何の疑いもなく読み、聖書には二人の“主”がいることを認識します。それは、聖書が“主”という表現を複数回使用している場合、その主が一人である可能性より二人である可能性のほうが高いと認識すべきことを意味しています。そこで新世界訳はこのような主張を退けています。

 新世界訳聖書では、神名の復元にあたってヘブライ語訳本が多数参照されています。新約聖書のヘブライ語訳では、昔から、訳文中に神名を復元することが慣例となってきました。一方、新世界訳聖書が神名の復元を行うまで、他の言語におけるこの種の取り組みはほとんどありませんでした。ですから、神名の復元にかかわる知識と経験はヘブライ語訳の領域に一極集中していると言うことができます。新世界訳聖書がこれを参照したのは当然のことと言えるでしょう。
 これについても、おかしいと言う人たちがいます。参照されるヘブライ語訳本のほとんどが中世以降のものなので、これを古代訳や古写本と同等に扱うべきではない、というのがその主張です。
 しかしこれも錯覚です。新世界訳聖書はヘブライ語訳本を研究資料として利用しているからです。この種の資料は、どちらかというと新しいもののほうに価値があります。新しいヘブライ語訳本のほうが新しい研究を反映しているだろうということです。
 この点、多少の例外であるのが、新世界訳聖書において“J2(エ2)”とされている、「試みを経た石」という書物の中に収録されているマタイ福音書です。これは1385年に書かれたものですが16世紀頃の写本が存在しており、新世界訳聖書はこれを参照しています。これについては、書物自体は1385年の著作であっても、その中にあるマタイ福音書はもっと古いものからの転載らしいということが言われています。これは西暦1世紀から4世紀のものであろうとも言われていますので、これに限っては古代訳の範疇に加えてよいかもしれません。

 新世界訳聖書は、“主の日”という表現を神名復元の特例として扱っています。この表現が“ハルマゲドン”を示している場合は神名を復元して“エホバの日”と訳出し、ハルマゲドン前の“終わりの時代”の期間を指している場合はそのまま“主の日”と訳出しています。
 これはどうしてかというと、“ハルマゲドン”という言葉は旧約聖書のメシア預言が語る“エホバの日”を指しているからです。そのうえ、新約聖書には二種類の“主の日”が記されていて、ものすごく紛らわしいですので、訳し分けをすることによって読者の混乱を防いでいます。






 では、さきほど出てきたテサロニケ第二 2章13-14節の読解をやりましょう。
 新約聖書にはパウロがテサロニケの諸会衆に宛てて書いた手紙が2通収録されています。第二の手紙には、第一の手紙で“神”と書いたものが“主”になっているという箇所が2カ所あります。この句はそのうちのひとつです。



テサロニケ第一 1:2-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私たちは,皆さんについて祈る時,いつも神に感謝しています。皆さんの忠実な働き,愛に根差した労苦,主イエス・キリストに希望を抱いて示す忍耐を,父である神の前で絶えず思い起こすからです。に愛されている兄弟たち,皆さんが神に選ばれたことを私たちは知っています。

テサロニケ第二 2:13-14

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバに愛されている兄弟たち,私たちは皆さんについて,いつも神に感謝せずにはいられません。神が初めから,救いのために皆さんを選んでくださったからです。皆さんが真理に信仰を持ったために,神はご自分の聖なる力によって皆さんを神聖なものとしました。私たちが広めている良い知らせを通して,神は皆さんを招き,皆さんが主イエス・キリストの栄光を受けられるようにしてくださいました。



 この二つの句は内容が類似しており、同一の事柄を言い換えているにすぎないようです。このことが、この「主」がエホバであると判断する根拠となります。

 ではもうひとつのほうはどうでしょうか。



テサロニケ第一 5:23

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
平和のが,皆さんを全く神聖なものとしてくださいますように。そして,皆さんの精神と命と体が,全ての点で健全であり,私たちの主イエス・キリストの臨在の際に非難されるところがないものでありますように。

テサロニケ第二 3:16

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
平和のが,あらゆる方法でいつも皆さんに平和を与えてくださいますように。主が皆さんと共にいてくださいますように。



 二つの句を比較することにより、「平和の主」という表現がエホバを指していることが確認できます。
 新世界訳聖書がここで神名を復元していないのはなぜでしょうか。それは、これを「平和のエホバ」と訳出すると先に紹介した神名の用法のルールに抵触するからのようです。ここから、新世界訳聖書が神名の復元についてかなり慎重である様子を見ることができます。






 こうして新世界訳聖書の新約において神名が復元された箇所は237箇所です。これは少なすぎるようです。
 旧約聖書の場合、“神(ヘブライ語エロヒーム)”という語の出現回数が2,602回であるのに対し神名“エホバ”の出現回数は6,828回です。それに対し、新約聖書における“神(ギリシャ語テオス)”の出現回数は1,317回ですから、単純に比率を合わせると復元されるべき神名の推定数は3,456回となります。237回というのはずいぶん少ないと言わなければならないでしょう。

 これは、「神名の復元」という神学上のテーマに対して新世界訳聖書の取っている立場が不十分であることを示しています。そうすると、新世界訳聖書で行われた神名の復元にはもっと補強が必要だということが言えそうです。

 新世界訳聖書は“主”もしくは“神”という語からのみ神名を復元しています。この考え方を修正すべきかもしれません。神名は“神”や“主”といった語句に置き換えられただけでなく、別の語へも置き換えられ、さらには削除されることもあったと考える必要がありそうです。
 もし、この新しい仮定が正しいなら、聖書の中にはその痕跡が残っているのではないでしょうか。これはなかなか興味深いテーマです。そこで、私はここで微力ながらも新説を提起し、その痕跡は確かにあるという主張を示したいと思います。






 聖書研究の分野においては、これまで多くの仮説が生み出され、捨てられてきました。そのような仮説の一つに“神聖受動態仮説”と言われるものがあります。現在、この仮説を支持している人は滅多にいません。
 新約聖書、特に福音書では、神が動作主である受動態表現において「神」が省略される傾向があります。神聖受動態仮説を唱えた人たちはこの現象をこのように説明しました。新約聖書の筆者たちは、神に対する畏敬の念の表明として“神”という語の使用を控えるようになったに違いない。
 これは全く説得力のない主張でした。受動態表現を別にすれば、新約聖書には“神”という語の使用を控える傾向もその理由もないからです。
 この仮説を唱えた人たちは気づかなかったようです。もし使用を控えたのが“神”ではなく神名“エホバ”であるとしたらどうでしょうか。話はまったく変わってきます。

 いま私は、新約聖書から神名は削除されたかもしれないということを考えているのですが、神聖受動態仮説はこの仮定によく合います。ギリシャ語の受動態表現では動作主の省略は容易です。それで受動態表現の“エホバ”は他の表現における“エホバ”に比べて削除しやすいと言えます。するとどうでしょう。新約聖書写本の作成の際、写本家は、削除しやすい神名は削除してしまい、削除しにくい神名は“主”や“神”に置き換えるという調整を行ったのかもしれません。

 では、この新しい神聖受動態仮説に基づいて、実際に神名を復元してみましょう。復元を行うのは、神聖受動態表現が連続しているマタイ 5章1-10節です。



マタイ 5:1-10 神名を復元した場合

イエスは群衆を見て,山に登った。そして腰を下ろすと,弟子たちがそばに来た。イエスは口を開き,教え始めた。
「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。
嘆き悲しむ人たちは幸福です。エホバから慰められるからです。
温和な人たちは幸福です。エホバから地球を与えられるからです。
正しいことを切望している人たちは幸福です。エホバにより満たされるからです。
憐れみ深い人たちは幸福です。エホバから憐れみを受けるからです。
心の純粋な人たちは幸福です。神を見るからです。
平和をつくる人たちは幸福です。エホバから神の子と呼ばれるからです。
正しいことをして迫害されてきた人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。



 そうすると、エホバに関する表現が連続する記述に挟まっている「神を見る」という表現も、もとは「エホバを見る」であった可能性が考えられます。この言い回しだと神名の除去ができないので「神」に置き換えられたに違いない、と推論できます。






 もうひとついきましょう。
 聖書の中には、本来「神」であるべきところが「人」になっていて変だと指摘されている箇所があります。
 その代表例はルカ 6章38節です。ここを原典で見ると、明確に「人」と書かれているわけではありません。
 ではここでも神名を復元してみましょう。



ルカ 6:38, 神名を復元した場合

いつも与えなさい。そうすれば,エホバは与えてくれます。あなたたちの衣服に惜しみなく注ぎ込み,押し入れ,揺すって入れ,あふれるほどにしてくれます。人に量って与えるのと同じはかりで,エホバからも量って与えてもらえます」。



 このように、さまざまな可能性を考慮することで、もともと神名があったかもしれない箇所はさらに多く見つかるようです。






 この文書も最後になりました。

 あなたは、もし「聖書」を読むことがあるとしたら、どの「聖書」を読みたいと思われるでしょうか。
 この世の中には「聖書」と題のついたものがたくさんあります。その代表は教会で用いられる「聖書」です。そして、それらの聖書には神の名前“エホバ”がありません。それは消去されています。
 教会に通うことになったとしたら、どういう教会に通いたいでしょうか。エホバの名を用い、エホバに祈りを捧げる教会でしょうか。それとも、エホバの名を用いず、エホバを行方不明にしたうえでイエスで上書きしてしまう教会でしょうか。
 私が願うのは、人々が聖書を通してエホバを知り、エホバに近づき、エホバに祈りを捧げることです。そうすると、選択肢は一つしかありません。

 考えてみれば不思議なことではないでしょうか。エホバは聖書の神なのに、聖書を信じる人たちの大半から避けられているのです。
 私の意見では、これはある種の試験です。神の名前の発音が不明になり、聖書からも消えた時、人々は、ほんとうに神を信じ愛しているかを試みられることになります。埋められてしまったものを一生懸命掘り返し、再び元の位置に据えようとする人たちこそ、本物の信仰者です。

 というわけで、私はこの文書を読んでくださったみなさんに、エホバの証人による『新世界訳聖書』を読むことをお勧めします。そしてできることでしたら、世の中の大半の人のようにしてエホバに対する嫌悪感を募らせるのではなく、ぜひ親しみを育んでください。ほかの聖書では決してできないことです。



アモス 8:11, イザヤ 65:13, マタイ 4:4, マタイ 22:37-38, 連結

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)

主権者である主エホバは宣言する。『私がこの土地に飢饉を送り込む時が来る。パンの飢饉でも水の枯渇でもない。エホバの言葉の飢饉である』。

そのため,主権者である主エホバはこう言う。「私に仕える者たちは食べるが,あなたたちは飢える。私に仕える者たちは飲むが,あなたたちは喉が渇く。私に仕える者たちは喜ぶが,あなたたちは恥をかく』。

イエスは答えた。「『人は,パンだけではなく,エホバの口から出る全ての言葉によって生きなければならない』と書いてあります」。

イエスは言った。「『あなたは,心を尽くし,知力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない』。これが最も重要な第一のおきてです」。