エホバの証人の聖書

“エホバ”復元問題

 新世界訳聖書には、新約聖書の翻訳においても“エホバ”を訳語として用いるという、他の翻訳にはほとんど見られない特徴があります。

 一般に教会が用いる聖書翻訳では、旧約聖書における神名“エホバ”が“”という訳語に置き換えられているため、エホバの証人はこれを不愉快に思っています。エホバの証人が聖書を刊行するにあたって、これまで諸教会が聖書から抹消してきたエホバの名を復元したのは当然のことと言えるでしょう。ただ、聖書原典と比較すると、新世界訳聖書には余分に神名を復元する傾向が見られます。
 特に問題となるのは新約聖書です。新約聖書の原典に神の名前は一度もでてきませんが、新世界訳聖書はそのさまざまなところでエホバを“復元”しています。この翻訳の方針は、反エホバ主義の立場に立ち、旧約聖書からエホバの名を抹消している諸教会の激しい拒絶反応を引き起こしています。


 本格的な内容に入る前に、まず、新約聖書の翻訳に際して“エホバ”を用いることの利点を扱いたいと思います。この利点を知ることは非常に重要です。

 その際立った証明となる聖句はローマ 10:13でしょう。まず、これを新共同訳聖書で見てみます。

ローマ 10:13
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 これは、教会で頻繁に用いられている聖句です。教会に通う方なら、この言葉は何度も聞いておられるでしょうし、その意味も牧師から聞いて繰り返し学んでおられるでしょう。
 では、初歩的な質問をしてみます。ここで言うところの「主」とは誰のことでしょうか?
 教会に通う人であれば、ほとんどの方が迷うことなく「それはイエスです」とはっきり答えられることでしょう。
 ところが、これを新世界訳聖書で見てみると、こうなっています。

ローマ 10:13
新世界訳聖書(エホバの証人)
エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。

 エホバの証人の聖書では、「主」が「エホバ」になっています。イエスではなくエホバです。どうしてでしょうか。
 新世界訳聖書が「主」を「エホバ」と訳出するのは、ローマ 10:13の言葉が旧約聖書のヨエル 2:32(新共同訳聖書ではヨエル 3:5)からの引用だからです。

ヨエル 2:32
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし,エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる。エホバの述べたとおり,シオンの山とエルサレムに,また生き残った者たちの中に逃れ出た者たちがいるからであり,その者たちをエホバは呼び寄せているのである」。

 聖書には二人の主がいます。一人の主は神エホバ、もう一人の主は神の子イエスです。ですから、聖書に「主」という言葉が出てきたなら、読者は「これはどちらの主だろうか」と考える必要があります。ローマ 10:13の場合、引用元を参照すると、それがイエスではなくエホバであることを簡単に確認できます。

 つまるところ、教会員たちは大きな勘違いをしていることになります。また、キリスト教の諸教会は教会員たちに間違いを教えていることになります。実際にはエホバの名を呼び求めるよう教えなければならないのに、エホバをイエスに差し替えて、イエスの名を呼び求めるよう教えています。しかも、教会で用いる聖書を調整して、だれかが引用元の聖句を調べてもエホバの名前が出てこないようにしています。

ヨエル 3:5
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
しかし、の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

 キリスト教のほとんどの教会は反エホバ主義の立場に立って、聖書からエホバの名を抹消し、教会員がそれをイエスと読み間違えるよう仕向けてきました。一方のエホバの証人は、ローマ 10:13の「主」を「エホバ」と訳出することによって露骨な仕方で諸教会に対抗しています。こんなことをされたら、諸教会としてはたまったものではないでしょう。

 似たような聖句をもう一つ取り上げてみましょう。ペテロ第二 3:9です。

ペテロ第二 3:9
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
ある人たちは、遅いと考えているようですが、は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

 この「主」とはだれですかと質問すれば、やはりほとんどの教会員が「イエスです」と答えることでしょう。しかし、新世界訳聖書ではこのように訳出されています。

ペテロ第二 3:9
新世界訳聖書(エホバの証人)
エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。

 どうしてでしょうか。その答えはマタイ 24:36にあります。

マタイ 24:36
新世界訳聖書(エホバの証人)
「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。

 ハルマゲドンの予定日はただエホバのみが知っています。イエスでさえそれを知りません。ですから、ハルマゲドンの予定日を引き延ばすことのできる主はエホバしかいません。

 こういった聖句を見ると分かるように、新約聖書中の「主」がエホバである場合に「エホバ」という訳語を用いることには、キリスト教世界の現状に照らして極めて重要な意義があります。そのような翻訳は、「主エホバ」を「主イエス」と読み違えるキリスト教諸教会の慣行を強制的に改めさせ、反エホバ主義を駆逐する役割を果たします。
 キリスト教世界から見れば、新世界訳聖書は爆弾聖書です。新世界訳聖書には諸教会を土台から吹き飛ばすほどの力があります。


 では、本題に入っていくこととしましょう。

 非常に不思議なのは、新約聖書に神の名前がただの一度も出てこないということではないでしょうか。
 神の名前は旧約聖書においては頻繁に用いられています。私の手持ちのコンコルダンスによると、旧約聖書に“エホバ”は6828回でてきます。これに対して“神(エロヒーム)”は2602回ですから、旧約聖書では神を「神」と呼ぶより「エホバ」と呼ぶことの方がはるかに多かったことが分かります。ところが、新約聖書ではその回数が0になっています。
 もちろん、新約聖書の神は旧約聖書の神と同じであり、何ら変わるところはありません。新約聖書がエホバを無視しているということもありません。

ルカ 1:68
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
「ほめたたえよ、イスラエルの神であるを。主はその民を訪れて解放し、
新世界訳聖書(エホバの証人)
「イスラエルの神エホバがほめたたえられますように。ご自分の民に注意を向け,その救出を成し遂げられたからです。

 ただ、肝心の神名が、出てくるべきところに出てこないということです。
 そして、新約聖書のやり方を見ていると、もう一つの点に気づかされます。それは、新約聖書において“エホバ”は省略されているのではなく置き換えられているということです。たとえば、「エホバ神」と言うべきところ、「エホバ」を省いて単に「神」と言うのではなく、「エホバ」を「主」と置き換えて「主なる神」と言ったりしています。これは、やろうと思えば、新世界訳聖書が現にしているようにして本来の正しい言い回しに訂正することが可能であることを意味しています。

 それにしても、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか……。

 ここで、すこし別の論点に注目してみましょう。
 新約聖書にはただの一度さえも神の名前がでてきません。これがいくつかの問題の解決を難しくしています。たとえば、「イエスは神の名前を発音したか」という問いです。当時は、幾つかの異なる考え方に基づいて、神の名前の発音が行われたり、行われなかったりしたようですので、これについてはいろいろなことが考えられます。
 そこで、イエスが旧約聖書を引用したり朗読したりした場面に注目してみましょう。

マタイ 4:4
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし[イエス]は答えて言われた,「『人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない』と書いてあります」。

マタイ 4:7
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
イエスは、「『あなたの神であるを試してはならない』とも書いてある」と言われた。
新世界訳聖書(エホバの証人)
イエスは彼に言われた,「『あなたの神エホバを試みてはならない』とも書いてあります」。

マタイ 4:10
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神であるを拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
新世界訳聖書(エホバの証人)
その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。

マタイ 5:33
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
新世界訳聖書(エホバの証人)
「さらにまた,古代の人々に対し,『誓いをして履行しないようなことがあってはならず,あなたはエホバに対する自分の誓約を果たさねばならない』と言われたことをあなた方は聞きました。

マタイ 21:42
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
新世界訳聖書(エホバの証人)
イエスは彼らに言われた,「あなた方は聖書の中で読んだことがないのですか。『建築者たちの退けたその石が主要な隅石となった。これはエホバから生じたのであり,わたしたちの目には驚嘆すべきものである』とあるのです。

マタイ 22:37
新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であるを愛しなさい。』
新世界訳聖書(エホバの証人)
[イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。

 他にも多数ありますが、これくらいにしておきます。

 新約聖書の中で、イエスは神の名前“エホバ”をことごとく別の言葉に言い換えています。多くの場合、“主”と言い換え、ところによっては“神”と言い換えています。このことからすると、イエスは当時のユダヤ人の主流に従って神の名前を“主”に呼び換えていた、と考えることもできます。
 ところが、話はそれほど簡単ではありません。というのも、新約聖書の中にはそもそも“エホバ”が一度も出てこないからです。“エホバ”の名が出てくるべきあらゆる状況においてその名がことごとく置き換えられているという事実を考えるなら、新約聖書の記述から「イエスは神の名前を発音したか」という問いの答えを得ることは難しいようです。仮にイエスが神の名前を発音していたとしても、それを新約聖書に記録する段階で書き換えられたでしょうから。
 もしも、新約聖書があるところで神の名前を用い、別のところでは用いないのでしたら、先のような聖句を手がかりに「イエスは神の名前を言い換えていた」あるいは「言い換えなかった」と結論することができるでしょう。しかし、神名に関する新約聖書の立場が一貫している以上、まず最初に「神の名前は一切用いない」というルールがあって、それが新約聖書の記述全体を支配しているということを考えなければなりません。

 そこで、再び同じ質問が浮上してきます。
 どうして、新約聖書はここまで一貫して神の名前から遠ざかっているのでしょうか。あえてそうする理由があったのでしょうか。あったとしたら、それは何なのでしょうか。これは新約聖書最大の謎であり、謎には謎解きが必要です。


 そこで、この問題に意欲的に取り組んだものとして、まずはK・ワーケンホースト氏による「「主」か「ヤーウェ」か」という論文に注目したいと思います。
 彼はこう述べています。

この問題を研究するにあたり、新約聖書全体を研究することは今不可能であるから、ここで一応パウロの神学に限ってみる。パウロはモーセの律法を救いの道として受け取ったユダヤ人の信仰を激しく攻撃したが、なぜ主の名を発音することを禁じる律法を捨てるように指導しなかったのか。パウロは迷信を鋭く拒否したのに、なぜ主の御名に対するユダヤ人の恐れを非難しなかったのであろうか。その理由は確かに、パウロ神学に深く根ざしている。(表記等修正)

 彼は幾つかの聖句を取り上げて自説を展開していますが、その中でも興味深いのはコリント第二 3:12-4:6についての部分です。まずはこの聖句を見てみましょう。

コリント第二 3:12-4:6
新世界訳聖書(エホバの証人)
それゆえ,このような希望があるので,わたしたちは大いにはばかりのない言い方をしています。そして,除き去られることになっていたものの終わりをイスラエルの子らがじっと見つめることのないようにと,モーセが自分の顔にベールを掛けたときのようなことはしていません。彼らの知力は鈍っていました。同じベールが今日まで,古い契約の朗読の際に取られずに残っているのです。というのは,それはキリストによって除き去られるものだからです。実際,今日に至るまで,モーセが読まれるときにはいつも,彼らの心の上にベールが掛けられています。しかし,転じてエホバに向かうとき,ベールは取り除かれるのです。さて,エホバは霊です。そしてエホバの霊のある所には自由があります。そして,わたしたちすべては,ベールをしていない顔で,エホバの栄光を鏡のように反映させながら,霊なるエホバのなさるそのとおりに,栄光から栄光へと,同じ像に造り変えられてゆくのです。
そのようなわけで,わたしたちはこの奉仕の務めを自分たちに示された憐れみにしたがって持っているのですから,あきらめるようなことはしません。むしろ,わたしたちは恥ずべき隠れた事柄を捨て去ってしまい,こうかつに歩むことなく,また神の言葉を不純にすることもありません。かえって,真理を明らかにすることにより,神のみ前で自分をすべての人間の良心に推薦するのです。そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば,それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり,その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。わたしたちは,自分自身ではなく,キリスト・イエスを主として,また自分自身をイエスのためのあなた方の奴隷として宣べ伝えているからです。神は,「光が闇の中から輝き出よ」と言われた方であり,キリストの顔により,神の栄光ある知識をもって明るくするため,わたしたちの心を照らしてくださったのです。

 彼は、この記述において、旧約聖書においてヤーウェである「主」が巧みな仕方で「主」であるキリストに言い換えられていると指摘しています。
 ここでの最初の注目点は、「転じてエホバに向かうとき,ベールは取り除かれるのです」という表現が旧約聖書の出エジプト記 34:34からの借用であろうということです。つまり、ここの「主」はイエスではなくエホバです。

「主の方に向き直れば、その覆いは取り去られる」という 3:16 の背景には、確かに出 34:34の御言葉があると考えるべきである。

 聖句を見てみましょう。

出エジプト 34:34
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかしモーセは,エホバの前に入って話す時には,そこから出るまでベールを外しているのであった。そののち彼は出て行って,自分の命じられたことをイスラエルの子らに話した。

 続いて、「エホバは霊です」以下の表現に注目します。彼は、ここでの「主」の意味するところが、証明はできないものの、エホバからイエスに変わったと考えます。

続いてパウロは 3:17-18で4回ほど、「主」という語を繰り返した。これがいつも16節と同じく聖四文字(エホバ)を現わすかどうかは論じられている。そこでますます、イエスの姿が「主」という形で述べられているのではないかと感じられる。17節では「主」は「キリスト」を指していると思われる。(表記等修正)

 そこで彼はこのように語ります。

事実パウロはここで、旧約時代に礼拝の目的になった主の御名の四文字(エホバ)のうちに、新約時代に主の御名であるイエスのことが含まれていたと述べたのであろう。(表記修正)

 彼の論旨はこうです。パウロはエホバとイエスを父と子として区別していたが、それでも、ギリシャ語の「主」という語にエホバの意味とイエスの意味の両方が「含まれる」よう工夫した、その工夫を行ったために、そしてほかにも幾つかの神学的理由があったために、神の名はパウロにとって決して使うべきでない名になった。


 今度は別の研究に注目したいと思います。職業的反対者である岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」という本の前書きでこう書いています。

(この本は)私たちが救われるために知っていなければならない神のみ名とは、「エホバ」ではなく、「主イエス・キリスト」の名であることにスポットライトを当てています。(一部補記)

 すこし内容を見てみましょう。本格的な議論の始まりとなる第6章では、「クリスチャンは“エホバの証人”ではなく“イエスの証人”である」という彼の主張が展開されています。

「『あなた方はわたしの証人である』と、エホバはお告げになる」。
「エホバの証人」という聖句は、『新世界訳』にもありません。「わたしの証人」と述べられているだけです。興味深いことに「わたし」に関しては、イザヤ 44章6節では、「万軍のエホバ、エホバはこのように言われた。『わたしは最初であり、わたしは最後であり……』と言及されており、実はイエスのことを指しています。
そこで、(証人)にこう質問してみてください。
「使徒 1章8節の中でクリスチャンはだれの証人と言われていますか?」
(一部補記)

 では聖句を見てみましょう。

使徒 1:8
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。

 ここでの「わたし」はイエスですので、答えは「イエスの証人」となります。

 7章では、「イエスは“エホバの名”ではなく“イエスの名”を宣べ伝えた」という主張が展開されています。

証人は、イエスが御父のみ名エホバを明らかにしたと信じています。出所として彼らがよく用いる聖句はヨハネ 17章6,26節です。(表記等修正)

ヨハネ 17:6
新世界訳聖書(エホバの証人)
「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました。

ヨハネ 17:26
新世界訳聖書(エホバの証人)
そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。

けれども、イエスは弟子たちに「エホバ」のみ名を明らかにされた、とは書かれていないことに注目しなければなりません。では、だれのみ名を明らかにされたのでしょうか。11節と12節の文脈からそれは判断できます。

ヨハネ 17:11-12
新世界訳聖書(エホバの証人)
「そしてまた,わたしはもう世におりませんが,彼らは世におり,わたしはみもとに参ります。聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。わたしは,彼らと共におりました時,わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした。

それでイエスは、ご自分のみ名を明らかにされたのです。「わたしに与えてくださったご自身のみ名」とは、文字どおりにとれば、「エホバ」ではなく「イエス」です。

 8章では、「クリスチャンは“エホバの名”ではなく“イエスの名”を宣べ伝える」という主張が展開されています。

証人がエホバのみ名を主張する聖書的根拠はローマ 10章13節です。

ローマ 10:9-14
新世界訳聖書(エホバの証人)
その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです。聖書は,「彼に信仰を置く者はだれも失望させられない」と言っています。ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。すべての者の上に同じ主がおられ,この方はご自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです。「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか。また,宣べ伝える者がいなければ,どうして聞くでしょうか。

9節から見ていきますと、「主」、「彼」、「この方」とは同一人物であることがわかります。『新世界訳』では、13節の「主」だけをヨエル 2章32節の引用ということで、「エホバ」に“誤訳”しています。先入観なしに、つまり教理を抜きに文脈から判断すれば、どなたが通読しても、13節の「主」はイエスのことだとわかります。(表記修正)

 このあと、9章と11章では、クリスチャンはエホバではなくイエスに祈るという主張が、10章では、聖書の言う「天の父」とはイエスであるという主張が、12章では、クリスチャンはエホバではなくイエスに信仰を働かせるという主張が、13章では、クリスチャンはエホバの名においてではなくイエスの名においてバプテスマを受けるという主張が、14章では、クリスチャンはエホバの名のためではなくイエスの名のために迫害されるという主張が、15章では、クリスチャンはエホバの名によってでなくキリストの名によって集まるという主張が、16章では、人はエホバの名によってでなくイエスの名によって罪の許しを得るという主張が、それなりに聖書的な根拠を引き合いに出しながら展開されます。

 ちなみに、この本の発行元によると、この本を読んでみごとエホバの証人をやめた長老がいるとのことです。


 上記の二つの例に見るように、この問題についての神学的見解には二つの主要な流派があるようです。つまり、聖書が旧約から新約へと移行した時に導きや救いを求める対象がエホバからイエスへ移行したという緩やかな見解と、そもそもエホバは実体がイエスだったとか新約聖書はエホバを無視しているとかいう過激な見解です。いずれにせよ、反エホバ主義的であることには変わりがありません。

 それにエホバの証人の見解を加えると流派は三つになります。エホバの証人の見解に反エホバ主義的な要素はありませんが、過激さの点ではどの見解にも負けていないと言えるでしょう。エホバの証人の取った見解は、「もともと新約聖書にも神の名前はあったが、原典から写本が作成された初期の段階でそれが「主」や「神」に置き換えられてしまった」というものです。
 これは究極的な見解です。このように考えれば、新約聖書に神の名前が一度も出ていないのを見ても悩むことはありません。しかし、この見解の最大の問題点は「どこにその根拠があるのか」ということです。聖書の原典などいまやどこにも存在しませんので、証明しようもありません。「そうだと信じたい人はそう信じればいい」としか言いようがありません。この見解が正しいという証拠がない一方で、間違っているという証拠もないのですから。
 では、これは全く話にもならない見解なのかというと、そうでもありません。エホバの証人の唱えるこの学説には、直接的な証拠こそないものの、歴史に基づいた確かな論拠があります。

 新約聖書の背景には、旧約聖書と新約聖書との間の橋渡しをするギリシャ語七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)があります。この写本を調べると、神名について3種類の分類を見いだすことができます。一つは「エホバ」を「主」と置き換えたもので、大部分の写本がこれにあたります。もう一つは「エホバ」をヘブライ文字で記したもので、非常に古い写本にこのようなものが見つかります。最後は、その中間にあたる写本で、ヘブライ語の「エホバ」を別の記号などに置き換えたものです。

 これについて、聖ヒエロニムスの記録にこのような記述があります。

我々は今日に至るまで,ある種のギリシャ語の書物に神の名,つまり四文字語が古代の文字で表わされているのを目にする

四文字語であるが,彼らはこれをアネクフォーネートン,すなわち口に出せない事柄とみなしており,それはこれらの字母,つまりヨード,ヘー,ワーウ,ヘーで書かれている。一部の無知な者たちはギリシャ語の本の中でその語を目にすると,文字が似ているため,習慣的に,それをΠΙΠΙ(PIPI)と読んでいた。 (引用は「聖書に対する洞察」より)

 ここから考えられるのは、初期のギリシャ語の聖書の中では「エホバ」のところだけをヘブライ語で書くルールがあったのだろうということです。しかし、ギリシャ語を使う人たちにはそれが読めないので、さんざん考えた末に“PIPI”と読んでみたり、ユダヤ人がこれを「アドナイ(ヘブライ語で「主」)」と読むのに倣って「キュリオス(ギリシャ語で「主」)」と読んだりしていました。やがて、エホバを表すヘブライ語の4文字は主を表す一種の記号として理解されるようになり、その結果、同じ意味を持つとして他の記号も用いられるようにもなりました。最終的に、この風習に伴う読み手側の不便を解消するために、「エホバ」はギリシャ語の「主(キュリオス)」で表記されるようになったようです。

 私説となりますが、これのバリエーションとなる説も考えられると思います。これは、ヘブライ語の神名の含まれるギリシャ語写本において、神名の書かれる部分の文字が詰まっていないことによるものです。当時のギリシャ語は文字を詰めて書きました。単語と単語の間にも空白をつけません。しかし、ヘブライ語の神名のところはよくみると左右に空白があります。また、そこに記されているヘブライ語の「エホバ」の筆跡を調べると、そこのところだけ別の人が書いているということがうかがえます。こういった現象から導き出される結論はこうです。初期のギリシャ語聖書において、その大部分であるギリシャ語の記述はギリシャ語専門の写本家によって書かれたが、神名のところは空けておかなければならなかった。その後、ユダヤ人の写本家、それもおそらくそこに神名を書くことの資格を認められた写本家が神名を書き加え、写本を完成させた。しかし、ギリシャ語七十人訳がギリシャ語を話すユダヤ人のものである時代からギリシャ語を話す異国人のものである時代へと変わっていくにつれ、写本の製作にあたって資格ある写本家の確保が難しくなった。そのため、資格ある写本家がいないところで作成された写本には、代わりの書体や略号が用いられた。やがて、この問題を根本的に解消するために、これらの使用は廃止され、「キュリオス」が用いられるようになった。

 そのようなわけで、新約聖書の書かれた時代には、神名が「エホバ」でも記号でもなく「主(キュリオス)」となった写本が普及していました。そこで、エホバの証人はこのように考えます。新約聖書の原典は、ギリシャ語七十人訳聖書の最初の手法で記されたに違いない、しかし、その写本が作成されるときには、七十人訳聖書においてすでに確立された手法にしたがって、ヘブライ語の神名は「主」に置き換えられたに違いない。
 何らの証拠があるわけではありませんが、当時の歴史状況から十分に推測しうる説だと言えるでしょう。


 これらとは別に、神学的要素を完全に排除した説もあります。これは、「“エホバ”発音問題」の記事にて紹介済みの通りです。

このことは、従来の定説に従ってごく簡明に説明されてきました。ギリシャ語セプトゥアギンタではすでに神の名前の使用が全く行われなくなっていたので、新約聖書もその型に倣った、とです。

 この説は聖書を馬鹿にするものです。聖書とその信仰にとって最も重要である神名が、ただ「もう使われていないから」という理由で、ついには聖書自身からも無視されるようになった、ということですから。神学的理由としては候補になりません。


 またも私説で恐縮ですが、これにもう一つの神学的説明を加えたいと思います。

 旧約聖書のメシア預言には、エホバの名前が人々から忘れ去られる時代があって、その後、終わりの日にエホバ崇拝の復興が起こるという予告の言葉があります。これについては、「“エホバの証人”とは」の記事ですでにかなり詳しく扱っています。

イザヤ 2:2-3
そして,末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。そして多くの民は必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。

 この言葉は、終わりの日に、たくさんあるキリスト教の教派の中から、特にエホバを崇拝することで知られる教派が現れることを示しています。彼らは「エホバに教えられる民」となります。彼らについてはこのように述べられています。

イザヤ 54:13
そして,あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう。

 その時彼らはこのように宣言します。

ミカ 4:5
もろもろの民は皆,それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む。

 そこで、エホバは彼らに一つの命令を発します。

イザヤ 43:8-11
「目があるのに盲目の民を,耳を持っているのに耳の聞こえない者たちを連れ出せ。諸国の民をみな一つの場所に集め,国たみを共に集めよ。彼らのうちにこのことを告げ得る者がだれかいるか。また,彼らは最初のことでさえわたしたちに聞かせることができるか。彼らにその証人を出させ,彼らが義と宣せられるようにしてみよ。また,彼らに聞かせて,『それは真実だ!』と言わせてみよ」。「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。わたしが―わたしがエホバであり,わたしのほかに救う者はいない」。

 彼らには『エホバの証人』としての職務が与えられます。彼らは、エホバを神としないすべての人に対し、エホバこそが真実の神であり、人間を救うことのできる方であることを証言します。

 これは、キリスト教一教派としての“エホバの証人”の由来となっている預言です。しかし、とりあえず教派としてのエホバの証人はどこかに置いておくことにして、聖書自身が述べるところの“エホバの証人”のシナリオに注目してください。
 旧約聖書のメシア預言がこのようなシナリオを立てている以上、その成就のためには、実際に人々がエホバの名前を忘れてしまう時代が来なければなりません。そこでエホバは、(別の言い方をするなら、そこで新約聖書の筆者たちは示し合わせて、)ひとつの巧妙なトリックを仕掛けることにしたのではないでしょうか。つまり、表向きの理由はどうあれ、その裏では、エホバの名前を忘れることこそが画策されていたのではないかということです。彼らにとっての表向きの理由は、この記事においてすでに挙げたものかそれに類するものであったことでしょう。しかしその真意はメシア預言の確実な成就にこそあったというわけです。
 もし、旧約聖書と同じように新約聖書にもエホバの神名がたくさん出てくるようなことがあれば、エホバ崇拝復興のシナリオは成立しなかったことでしょう。キリスト教の信仰が存在する限り、そこにはたしかにエホバに対する信仰もあって、いつまでたっても聖書の預言するところの終わりの日は来ないという状態になっているでしょう。それは聖書自身にとって非常にまずいことですので、聖書としては、自らの立てた制約に自らが拘束されざるをえなかったのではないかと私は思ったりします。

 もっとも、ここで私の考えている「裏の真意」などというものは、それを考えた当人以外には誰も容易に知り得ないものですので、「その証拠は?」と聞かれても、私としては困ってしまうところです。ただ、歴史的事実として私が言えるのは、上の記事に書いたように、キリスト教は成立初期に旧約聖書のメシア預言から急速に離れていったということ、そのうえ新約に神名を使わなかったために、ついにはメシア預言にそういうことが予告されていることを忘れてしまい、神名も忘れてしまったということです。


 ここで、聖書上の「エホバの証人」と教派としての「エホバの証人」の関わりということに少し触れたいと思います。

 エホバの証人という教派がこの名称を名乗ることができたということは、実に強運なことであったと私は思います。なにしろ、メシア預言が述べるところのエホバの証人の出現には、その前提となる状況が必須なわけですから。その状況もなしにどこかの教派が「エホバの証人」を名乗ったとしてもそれは時代錯誤というものです。ところが、その必須である状況が実際に生じていたのですから、そのこと自体が事件であったと言えます。しかも、この特別な状況を実現するにあたり、当のエホバの証人はなんら状況実現の努力を払いませんでした。気がついたら状況がそうなっており、あとはどこかの教派が「我々こそがメシア預言の語るところのエホバの証人である」と名乗り出るだけという局面になっていました。これは早い者勝ちであったわけです。そしてその立場の獲得者となったのがエホバの証人でした。これは、道ばたに札束の詰まったカバンが放置してあって、たまたまそこを通りかかった人がそれを拾ってお金持ちになるというような状況にたとえられると思います。
 またおもしろいことに、エホバの証人自身としても最初からこの名称の獲得を目指していたのではありませんでした。エホバの証人自身、気がついたら、自分から「私たちはエホバの証人である」と名乗りでなければならないという状況になっていました。

 実は、新約聖書には神名「エホバ」のほかにもう一つ「語ってはならない」とされるものがあります。それは「パラダイス」に関する真理です。すこしこれを聖書から見てみましょう。

コリント第ニ 12:2-4
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四年前に―それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てであったかどうかも知りません。神が知っておられます―そのような者として第三の天に連れ去られました。そうです,わたしはそのような人を知っています―それが体においてであったか体を離れてであったか,わたしは知りません。神が知っておられます― その人はパラダイスに連れ去られ,人が話すことを許されず,口に出すことのできない言葉を聞いたのです。

 このルールは新約聖書の中でよく守られています。新約聖書は「パラダイス」なるものがあるということを何度か示していますが、それが何かについては全く語っていませんし、それに関係する事柄もほとんど示していません。そのため、キリスト教諸教会はこれまで2000年近くの間、パラダイスについての研究を全くと言っていいほど行ってきませんでした。それは一例を挙げるなら、新共同訳新約聖書略解がローマ 8:19のところで、「(この教え)は、従来必ずしも真剣に受け取られてきたとは言えない」とし、さらに「多少キリスト教的常識からすると奇異な感を与える言葉である」と語ったあと、その場の思いつきで書いたとしか思えないような明らかに間違った解説を示していることの未熟さにも示されているとおりです。
 では、聖書の中にパラダイスに関する情報は全くないのかというと、そうでもありません。ポイントは、このルールが守られているのが新約聖書に限られているということです。新約聖書には少ししか情報がありませんが、旧約聖書のメシア預言にはその情報が多くあります。

イザヤ 35:5-7
新世界訳聖書(エホバの証人)
その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる。荒野に水が,砂漠平原に奔流が噴き出るからである。そして,熱で渇き切った地は葦の茂る池となり,渇いた地は水の泉と[なる]からである。ジャッカルの住まい,[その]休み場には,葦やパピルスの植物と共に青草があるであろう。

イザヤ 66:17-25
新世界訳聖書(エホバの証人)
「いまわたしは新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない。しかし,あなた方はわたしが創造しているものに永久に歓喜し,[それを]喜べ。いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである。そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。その中で泣き声や,悲しげな叫び声が聞かれることはもはやない」。
「数日[しか生きない]乳飲み子も,自分の日を全うしない老人も,その場所からはもはや出ない。人は百歳であっても,ほんの少年として死ぬからである。罪人については,その者が百歳であっても,その身の上に災いを呼び求められるであろう。そして,彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けて[その]実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである。彼らはいたずらに労することなく,騒乱のために産み出すこともない。彼らはエホバの祝福された者たちからなる子孫であり,彼らと共にいるその末孫もそうだからである。そして,彼らが呼ばわる前に,わたし自身が答え,彼らがまだ話しているうちに,わたし自身が聞くことになる。
「おおかみと子羊が一つになって食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。蛇に関しては,その食物は塵となる。これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない」と,エホバは言われた。

 ひとたびこのことに気づくなら、そこから多くの収穫があります。たとえば、新約聖書の述べる「新しい天地」についてはこれまでよく分かっていませんでしたが、メシア預言を調べることにより、これが実はパラダイスであるということが分かります。新約聖書は「新しい天地」についてもそういうものがあると述べるだけで何らその説明を行っていませんが、旧約聖書のメシア預言を調べると、その意味するところがあっさりと理解できるようになります。

 エホバの証人の歴史の初期、彼らがまだその名称を名乗ろうなどと思っていなかったころ、彼らが特に注目したのがこの「パラダイス」の教えでした。旧約聖書のメシア預言を調べればパラダイスが何かという疑問が解けるということに気づいた彼らは、精力的にメシア預言の研究に取り組み、こうして、やはり新約聖書が詳しい説明を述べていない「千年王国」についても、これがパラダイスであるとの明快な結論を得るに至りました。彼らは当初、「千年期黎明派」という名前で呼ばれるようになります。
 さて、旧約聖書の示すメシア信仰と新約聖書の示すメシア信仰には一つの大きな違いがあります。旧約聖書で示されるメシア信仰が「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」であるのに対し、新約聖書で示されるメシア信仰は「単にメシアを中心として信奉するキリスト教」であることです。(これについても「“エホバの証人”とは」の記事で説明していますので適宜参照してください。) ですから、彼らが熱心に旧約聖書のメシア預言を調べたことは、彼らが単にメシアを信奉することの不備に気づき、「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」に目覚めることを意味していました。
 しかもこの時、幸運にも、この目覚めのステップを阻んでいた最大の障害が取り払われていました。1901年、彼らが熱心に旧約聖書のメシア預言を調べていたころのことですが、旧約聖書に神名「エホバ」が復元されたアメリカ標準訳聖書が刊行されました。それまで刊行されていた聖書翻訳は、反エホバ主義の立場に立ち、旧約聖書から神の名前を除き去っていました。ですから、このような聖書でメシア預言を熱心に調べたとしても、読者が「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」に目覚めることはあり得ませんでした。しかし、反エホバ主義についてのキリスト教世界の一時的な気変りによって、今から考えるなら全くあり得ないようなこと、つまりキリスト教世界からエホバの名を復元した聖書が刊行されるということが起こりました。ですから、彼らがパラダイスの謎を解き明かそうとして熱心に旧約聖書のメシア預言を調べていたころ、ちょうど彼らが手にした聖書にはエホバの名があったのです。そしてこれもまた、当人の努力には負わない状況の変化でした。
 こうして、彼らの信仰においてエホバの占める立場が次第に大きくなっていき、やがてエホバに対する信仰が当たり前のものになり、ついに「エホバの証人」としての名称が採用される時になりました。それは1931年の大会ことです。この時のいきさつについて、A・H・マクミラン「信仰の行進」という本の中でこう述べています。

ラザフォード兄弟自身がわたしに次のような話を聞かせてくれたのです。ラザフォード兄弟は,その大会の準備をしていたある夜目を覚まして,『特別な講演とか音信もないのに,いったいなぜわたしは国際大会を提案したのだろう。なぜみんなをここへ集めるのだろうか』とつぶやきました。そして,そのことについて考え始めると,イザヤ書 43章が頭に浮びました。彼は夜中の2時に起きると,机に向かい,王国は世界の希望という講演と新しい名前に関する話の筋書を速記しました。あの時彼が行なった話はすべて,その夜,つまり朝の2時に準備されたのです。(「エホバの証人の年鑑」1976年版より)

 エホバの証人の名称の採用は、当時のものみの塔会長の思いつきによることでした。実のところ、彼らはエホバの証人の名称を名乗ることの神学的意義や価値を正しく理解していたわけではありませんでした。とはいえ、この大会で「エホバの証人」の名称を採用する決議が提示されると、彼らは歓呼してそれを支持しました。そのとき彼らが挙げた歓声はかなり遠いところまで響いて人々を驚かせたと伝えられています。もし、彼ら以外のキリスト教派においてこのような決議が示されたとしても、信者たちは「エホバ?なにそれ?」という反応を示し、その決議は決して採択されなかったことでしょう。周囲一帯には彼らの歓喜ではなく騒ぎ声が鳴り響いていたことでしょう。諸教会がエホバについて深く考えるということはないからです。しかし、彼らだけは異なっていました。彼らはメシア預言の研究を通して、エホバについて知り、エホバに対する信仰を培い、ついにはエホバを信仰の中心に据えるようになっていました。ですから、聖書から「エホバの証人」という名称が示されたとき、彼らは「その名称を採用するのはほんとうによいことだ」と心から思いましたし、彼らがあらかじめそういう境地に達していたからこそ、ラザフォード会長としてもこのような発案をすることができました。
 やがて、教派としてのエホバの証人は成熟への道を進んで行き、自分たちの手で翻訳した聖書を刊行するようになります。そのとき、その訳本名として選ばれたのが「新世界」、つまり新しい天地、パラダイスの教えでした。そして、彼らが聖書を翻訳するにあたっては、新約聖書から取り払われた神名「エホバ」を復元することがふさわしいと考えられました。こうして、彼らが神名を復元した聖書を刊行したとき、それによりもう一つの真理が明らかになりました。それまで、新約聖書は「単にメシアを中心として信奉するキリスト教」を人々に教えていました。しかし、それは神名を「主」に置き換えることによって生じた錯覚に過ぎませんでした。たとえ神名が「主」に置き換えられたとしても、実のところその意味するところは変わりません。たとえ「主」と表記されても、その意味するところは「エホバ」です。新約聖書の「主」を一律キリストと読み間違えるキリスト教の悪習を改めるために神名を復元した新約聖書を刊行したとき、旧約聖書だけでなく新約聖書も、ほんとうは「エホバを中心としてメシアを信奉するキリスト教」を教えているのだ、という極めて重大な真理が明らかになりました。こうして、1900年以上の時を経てついに、エホバに関する不可解な闇はキリスト教から吹き払われたのです。

 こうして、彼らが「エホバの証人」を名乗ったことで、その後に、それに見合う実質が伴うようになってきました。ですから、これらすべてのことを考えるとき、これは実に強運なことではなかったか、と私は思います。


 一方のキリスト教諸教会は、エホバの証人がその名称を採用したことに対してたいへんな拒絶反応を示しました。「キリスト教というのはイエスを信奉するからキリスト教であるのに、エホバを信奉するとはどういうことだ」とか「あれはエホバ教であってキリスト教ではない」などと嫌みを言ったりしました。「そもそもエホバって何だ?」と言った人も多くいました。
 キリスト教諸教会はこれまでも反エホバ主義の立場にありましたが、実態としてはエホバ神を無視しているだけでした。しかし、エホバの証人という教派が出現したことで、彼らはエホバに関する厳しい選択を迫られることになります。もはやエホバを無視することが困難になりましたので、エホバを受け入れるか拒否するか、このどちらかを選ばなければならなくなりました。そして後者の選択をした結果、キリスト教世界のエホバに対する態度は無視から拒絶反応へと変化しました。1931年以降、キリスト教世界内における反エホバ主義は劇的な発展を遂げて現在に至っています。
 そのようなわけで、現在、キリスト教諸教会信者のほとんどは、「エホバ」とは異端とカルトときちがい集団の代名詞であると考えています。たとえば私が聖書伝道中に出会ったある教会信徒は「わたしはエホバがだいっきらいです」と私に向かって言いましたが、このような考えは決して珍しいものではありません。

 エホバの証人の台頭に触発されて反エホバ主義が過激に進展した結果、反エホバ主義によるところの正しいキリスト教とは何であるかということが盛んに説かれるようになりました。先に挙げた岩村氏の見解もそのようなものです。これを詳しく見てみましょう。

○ クリスチャンはエホバの証人ではなくイエスの証人である

 これはこの種の主張の基礎であると言うことができるでしょう。すでに示したように、根拠となっているのはこの聖句です。

使徒 1:8
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。

 これは、イエスが昇天する直前に弟子たちに語った言葉です。この言葉から、クリスチャンはイエスの証人とならなければならないということが分かります。そこで、反エホバ主義の立場に立つ諸教会は上記のように指摘し、エホバの証人はエホバの証人をやめてイエスの証人にならなければならないと結論します。
 この考え方について、「ものみの塔」誌1985年1月1日号はこのように述べています。

イエスご自身,この民に使命をお与えになり,「あなた方は……地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と言われました。「わたしの証人」―イエスのこの言葉は,エホバではなく,ただイエスについてのみ証しが行なわれなければならないという意味ですか。そのようなことは決してありません!

 また、「ものみの塔」誌1971年3月15日号はこのように述べています。

イエスは,オリブ山にいた弟子たちへの別れのことばの中で,ご自分の天の父なる神の証人であることを廃して,「わたしの証人」,つまりイエスの証人になるようにと弟子たちに命じられたのではありません。

 そもそも聖書にはエホバの証人になることとイエスの証人になることとの二つの教えがあるのだから、クリスチャンは両方の証人になればいい、という考え方です。エホバは神でイエスは神の子なのですから、これは少しも難しいことではありません。かえって、どちらか一方を選べというほうに無理があります。どっちも似たようなものなのですから。

黙示録(啓示) 3:14
新世界訳聖書(エホバの証人)
「また,ラオデキアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこのように言う。

 ここで、イエスは自分のことを「忠実で真実な証人」と呼んでいますが、これは「忠実で真実なエホバの証人」という意味です。これについては、イエス自身がこのように述べています。

ヨハネ 8:28
新世界訳聖書(エホバの証人)
それゆえイエスは言われた,「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしが[その者]であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。

ヨハネ 12:49
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしは自分の衝動で話したのではなく,わたしを遣わした父ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。

ヨハネ 14:10
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。

 イエスにはイエスの考え方や方法というものがありましたが、イエスはそれをあえて控え、父つまりエホバの考え方と方法で物事を行いました。エホバの方法を守るイエスの態度が徹底していたからこそ、イエスは後に自分のことを「忠実で真実な証人」であると言うことができました。イエスがエホバの考え方や方法に自分の考え方や方法を混ぜなかったことを考えるなら、クリスチャンがイエスの証人でなければならないということが何を意味しているかがはっきり理解できます。それは、クリスチャンがイエスの考え方や方法に自分の考え方や方法を混ぜないことを意味しています。そして、そのようにして証人となるべき対象であるイエスがエホバの証人であったのですから、イエスの証人であれということはすなわちエホバの証人であれということにほかなりません。
 エホバの証人には神権宣教学校という学校がありますが、この教科書には「イエスについて証しする」という項目があります。エホバの証人である者はイエスの証人でもなければならないというのがエホバの証人の考え方です。

○ クリスチャンはエホバの名によってではなくイエスの名によってバプテスマ(浸礼もしくは洗礼)を受けなければならない

 これ以降に挙げる各主張は、最初に挙げたもののバリエーションであると言うことができるでしょう。根拠となっているのはこのような聖句です。

使徒 2:38
新世界訳聖書(エホバの証人)
ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。

 このような表現は聖書の中に多数ありますので、クリスチャンがイエスの名によってバプテスマを受けなければならないことが分かります。そこで、反エホバ主義の立場に立つ諸教会は、エホバの証人はエホバの名によってバプテスマを施すのをやめてイエスの名によってバプテスマを施すようにならなければならないと論じます。
 一方、エホバの証人はイエスのこの命令に注目します。

マタイ 28:19-20
新世界訳聖書(エホバの証人)
それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。

 これはイエスの命令ですから守らなければならないというのがエホバの証人の見解です。そして、ペテロをはじめとするイエスの弟子たちもこの命令を守っていたに違いないと考えます。単に「イエスの名によるバプテスマ」という表現が用いられるとしても、その意味するところは「父と子と聖霊の名によるバプテスマ」であったということです。そのようなわけで、エホバの証人はイエスの名によってバプテスマを受けていますし、エホバの名によってもバプテスマを受けています。
 ちなみに、ペテロは続けてこう語っています。

使徒 2:39
新世界訳聖書(エホバの証人)
この約束はあなた方とあなた方の子供たち,また遠く離れたすべての人,わたしたちの神エホバがそのもとに召される人すべてに対するものなのです」。

 ペテロは「イエスの名によるバプテスマ」という表現を用いましたが、イエスだけを認めてエホバを否定していたわけではありません。

○ クリスチャンはエホバの名によってではなくイエスの名によって迫害を受ける

 根拠となっているのはこのような聖句です。

マタイ 10:22
新世界訳聖書(エホバの証人)
そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。

 これはイエスの言葉ですので、クリスチャンがイエスの名によって迫害を受けるということが分かります。そこで、反エホバ主義の立場に立つ諸教会は、エホバの証人はイエスではなくエホバの名によって迫害を受けているのでキリスト教であるとは言えないと言います。
 しかしエホバの証人は次のような聖句に注目します。

ヨハネ 15:21
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし彼らは,わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方を知らないからです。

 イエスを遣わした方とはエホバです。イエス自身が、イエスの名による迫害はエホバを否定するところから始まると述べています。また、このような記述もあります。

黙示録(啓示) 13:3-8
新世界訳聖書(エホバの証人)
そして,大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ,また,四十二か月のあいだ行動する権威が与えられた。そして,それは口を開いて神を冒とくした。そのみ名と住まい,さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。そして,聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され,あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。

 この記述は、終わりの日におけるクリスチャンへの迫害について述べているところです。「そのみ名」とはエホバのことです。このように、聖書はクリスチャンがイエスの名とエホバの名の両方によって迫害されることを述べています。ここで気をつけなければならないのは、新約聖書には神の名前を使用しないという暗黙のルールがあるため、エホバに関することがわかりにくくなっているという点です。ですから読者は文意に注意を払わなければなりません。文意を正しく読み取る能力があるなら、問題は解決します。

ヤコブ 5:10-11
新世界訳聖書(エホバの証人)
兄弟たち,苦しみを忍び,辛抱する点で,エホバの名によって語った預言者たちを模範としなさい。ご覧なさい,忍耐した人たちは幸福である,とわたしたちは言います。あなた方はヨブの忍耐について聞き,エホバがお与えになった結末を見ました。エホバは優しい愛情に富まれ,憐れみ深い方なのです。

 聖書はイエスの名による迫害について述べていますが、エホバを否定してそのように述べているのではなく、むしろエホバの名による迫害を前提に、それに続くものとしてそれを扱っています。
 ちなみに、先に挙げた岩村義男氏の「神のみ名は「エホバ」か」には「新約聖書の「名」とは、いつも決まってイエス」という法則が示されていますが、これも上記見解のバリエーションだと言えるでしょう。

○ クリスチャンはエホバにではなくイエスに信仰を働かせる

 根拠となっているのはこのような聖句です。

ローマ 3:25-26
新世界訳聖書(エホバの証人)
神はこの方を,その血に対する信仰によるなだめのための捧げ物として立てられました。これはご自身の義を示すためでした。神は過去に,すなわちご自分が堪忍を働かせていた間になされた罪を許しておられたからです。こうして今の時期にご自身の義を示し,イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました。

 そこで、反エホバ主義の立場に立つ諸教会は、エホバの証人はイエスにではなくエホバに信仰を働かせているのでキリスト教であるとは言えないと言います。
 しかしエホバの証人は次のような聖句に注目します。

ヨハネ第一 5:10
新世界訳聖書(エホバの証人)
神のみ子に信仰を置く者は,自分について証しされています。神に信仰を持っていない者は,[神]を偽り者としているのです。なされた証し,つまり,神が証人としてご自分の子に関してなさった[証し]に信仰を置いていないからです。

 聖書はイエスとエホバの両方に信仰を働かせるよう教えている、というのがエホバの証人の見解です。イエスにだけ信仰を働かせていては不十分であり、エホバに対してだけでもやはりそうであるということです。

○ クリスチャンが広めるのは「王国についての良いたより」でも「エホバについての良いたより」でもなく「イエス・キリストについての良いたより」である。

 根拠となっているのはこのような聖句です。

ローマ 15:19
新世界訳聖書(エホバの証人)
そのためわたしは,エルサレムから,そして巡回しながらイルリコに至るまで,キリストについての良いたよりを徹底的に宣べ伝えました。

 聖書の中にはクリスチャンがイエスについての良いたよりを広めたという模範が示されているというのが彼らの主張です。
 しかし、エホバの証人はこれらの聖句も考慮します。

マタイ 24:14
新世界訳聖書(エホバの証人)
そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。
マルコ 1:14-15
新世界訳聖書(エホバの証人)
さて,ヨハネが捕縛されたのち,イエスはガリラヤに行き,神の良いたよりを宣べ伝えて,こう言われた。「定めの時は満ち,神の王国は近づきました。あなた方は悔い改めて,良いたよりに信仰を持ちなさい」。

 聖書は同じ良いたよりを示す複数の表現を用いており、それぞれ微妙なニュアンスの違いがあります。「王国の良いたより」という表現には「神は天に王国を設立してメシアであるイエスをその王とされた」という意味合いがあります。「神の良いたより」という表現には「神はイエスをメシアとして立てて人類を救ってくださった」という意味合いがあります。「イエス・キリストについての良いたより」という表現には「イエスはメシアとなって人類を救ってくださった」という意味合いがあります。ここで反エホバ主義者にとって重要なポイントは、3つの表現の中にエホバを抜きにして定義できる表現がひとつあるということです。そこで彼らはそのひとつだけに注目して正しいキリスト教のありようを唱えますが、エホバの証人はそのような考え方に同意しません。

○ 聖書の主題は「王国」ではなく「イエス・キリスト」である。

 この主張は、エホバの証人の出版物で「聖書の主題は王国である」ということがくり返し語られていることに対する反論です。根拠となっている聖句は先の主張のものと同様です。
 しかし、エホバの証人はやはりこのような主張に同意しません。王国がメシアのものである以上、「聖書の主題は王国である」という言葉には「聖書の主題はイエスである」という意味合いが含まれていますし、その逆もしかりです。さらに、反エホバ主義者によって「聖書の主題はイエスである」という主張が唱えられるとエホバが否定されてしまうということが問題だと考えます。「聖書の主題は王国である」という言い方には、「エホバが王国を設立してイエスを王にした」というニュアンスがあります。この言い方ではエホバが主でありイエスが従であることになりますから、反エホバ主義者はこれをなんとか否定しようとしますが、エホバの証人はそのような考え方に強く抵抗します。


 上記のような反エホバ主義の思想を持っている人たちに対して、私は「知らない」と言わなければなりません。しかも、強い調子でそう言わなければなりません。というのも、これは聖書の言うところの「聖霊に対する冒涜」にあたるからです。聖書はこの罪についてこのように述べています。

マタイ 12:31-32
新世界訳聖書(エホバの証人)
「このようなわけであなた方に言いますが,人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。たとえば,人の子に逆らう言葉を語るのがだれであっても,その者は許されるでしょう。しかし,聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者は許されないのです。この事物の体制においても,また来たるべき[体制]においてもです。

 このように、聖書には“絶対に許されない罪”というものが規定されています。この罪を犯した者は、たとえ悔い改めても救われません。キリストの贖いの救いをもってしても救われません。聖書自身がそのように述べているので、私としても彼らに対しては「もう知らない」としか言いようがありません。
 ここで、やはり神名の復元ということを考えなければなりません。ここでのポイントは「聖霊」という表現がエホバを指しているということです。文脈に「人の子」という表現があり、これは聖書によく出てくる「キリスト」の言い換え表現です。「キリスト」が置き換えられた「人の子」と比較して「聖霊」という語が出てくるこの聖句において、「聖霊」はほぼ直接的にエホバを指しています。そこで、ふさわしく神名を復元するとこうなります。

「このようなわけであなた方に言いますが,人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。たとえば,人の子(イエス)に逆らう言葉を語るのがだれであっても,その者は許されるでしょう。しかし,聖霊(エホバ)に言い逆らうのがだれであっても,その者は許されないのです。この事物の体制においても,また来たるべき[体制]においてもです。

 ここから幾つかの点を理解することができます。ひとつは、新約聖書においては「主」や「神」といった表現のみが「エホバ」の置き換え表現ではないということです。新世界訳聖書はこの2つの表現からしか神名を復元していませんので、読者は聖書を読む時、それ以上の努力を払って神名を復元する必要があります。もうひとつは、すでに述べたとおり、エホバを冒涜した者は絶対に救われないということです。「私はイエスが好きでエホバは嫌いです」とか「私たちはエホバの証人ではなくイエスの証人です」とか「エホバではなくイエスが神様です」などということを言っている人は、すでに聖霊を冒涜してしまったので、あとで涙を流しながら悔い改めてももう救われません。
 そもそも、キリスト教世界に反エホバ主義が存在すること自体が根本的に間違っているのですから言い訳のしようもありません。たとえば、釈迦を否定する仏教徒やアッラーを否定するイスラム教徒がいるとしたらどうでしょうか。その人は異常者でしょう。ところが、このところのキリスト教にはそのような異常者がどんどん増えています。しかしその神がキリストを遣わして人類を救ったのです。しかも救うにあたっては、あなたがどんなに罪人であっても信仰を示すならとにかく救ってあげましょうなどと言って大サービスをしてくれているわけです。その神をキリスト教徒が否定するというのはどうでしょうか。
 こういった行為に対して言うべきことは非常に多くあります。たとえば船があってそれにオールがついているとしましょう。だれかが、私は船は嫌いなのでオールだけでいいなどと言いながら船からオールを取り外し、オールを大切に抱えながら海原に出ていくとするならどうなるでしょうか。その人はおぼれてしまうのではないでしょうか。その人がおぼれているところに救助の船がやってきて救助の浮き輪を投げます。その人が、私は浮き輪には感謝するが救助の船は嫌いだなどと言いながら救助の船から遠ざかっていくとするならどうなるでしょうか。

 聖書はこの罪を犯している人についてこうアドバイスしています。

ヨハネ第一 5:16
新世界訳聖書(エホバの証人)
自分の兄弟が死を来たさない罪を犯しているのを目にするなら,その人は[その兄弟のために]求めるでしょう。そうすれば,[神]はその人に,そうです,死を来たすような罪を犯していない者たちに命をお与えになるでしょう。死を来たす罪があります。この罪については,お願いするようにとは言いません。

 そんなのはもう放っておけ、ということです。だから私は知りません。

 イエス・キリストにしてもこういう話は迷惑極まりないのではないでしょうか。ここでメシアをテーマとした聖書の世界観ということを考えてほしいのですが、天では天の王座にエホバが座していて、その右にイエスがいて、こういう会話が行われているかもしれません。

エホバ「おいおまえ、これはいったいどういうことだ?」
イエス「どういうことだと申されますと?」
エホバ「近頃地上ではイエスが神様だとかいってこのわたしを無視する者が増えているではないか。」
イエス「まったく、その通りでございます。」
エホバ「まったくその通りで済むものか。この裏切り者め。わたしを罠にはめたな。」
イエス「そんな、滅相もない!」
エホバ「何を言うか。おまえのやっていることは今から6,000年前にサタンがやったこととたいして変わらんではないか。わたしが油断している間に工作して、自分が神に成り代わろうとしているではないか。いかにもわたしに忠実であるふりをしおって、その実わたしから玉座をかすめ取ろうとしておるのであろう!」
イエス「そんなことはございません!」
エホバ「そんなことないのならどうしてこのような事態になっておるのだ。説明しろ。」
イエス (ポケットからハンカチをとりだしてしきりに汗を拭きながら)「そもそも私は今から2,000年前にあなたの指示どおりメシアとしての役割を果たし、その際何も余計なことはやっておりません。あのころは何事も順調にいっていたのでございます。ところがあなたは私に命じて定めの時まで自分の右でおとなしくしていろなどと言われるものですから、私はこの2,000年ほどあなたの命じるとおりあなたの右にいまして、ひたすらあくびをしたりためいきをついたりしながらあなたの次なる指示が来るを待っているのでございます。その間に人間たちがなにやら勝手に私のことを神様にしてあなたのことを軽んじておりますが、これは人間たちが勝手にやっていることでございまして、私はなんら関わってはおりません。」
エホバ「そうするとおまえは状況がこのように悪化するまで人間たちを放置していたというのか。なんとも無責任な話ではないか。」
イエス「なにしろあなたがとにかく何もせずにおとなしくしておれと命じられたものですから。」
エホバ「おお、そうであった。なんたる不始末……。しかしこのような事態、もっともな言い訳があれば済まされるというものではないぞ。」
イエス「それにつきましては、ひとつ提案がございます。あなたご自身の定められたところでは間もなくあなたは私に再び命令を下されましてハルマゲドンの戦いを始められることになっております。そうしますと私も自由に裁量を振るうことができるようになりますから、この問題に効果的に対処しまして私に対するあなたの疑念を見事に振り払いいたしますので、あなたはそれをご覧になってよしとするというのはいかがでしょうか?」
エホバ「なるほど。」

 世界中に10億人のキリスト教徒がいるというのは一見して結構なことですが、彼らがみんなでエホバを無視しながらイエスをあがめたりすると、むしろ状況は悲惨なものとなるということです。

 上の会話のハルマゲドン云々ということについて、イエスはこのように述べています。

マタイ 7:21-23
新世界訳聖書(エホバの証人)
「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。

 この句はしばしば前半だけが注目されたために誤解されてきました。口先だけで主を呼び求めても業が伴っていないなら無意味である、という具合です。しかし、後半の部分をよく見ると、滅ぼされる側の人間も業を行っていることがわかります。イエスのこの話では、業を行っていない者ははじめから除外されています。大切なのはどのような業を行うかということです。
 ここでも、神名の復元ということを考えなければなりません。神名を復元するとこうなります。

「わたし(イエス)に向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父(エホバ)のご意志を行なう者が[入る]のです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなた(イエス)の名において預言し,あなた(イエス)の名において悪霊たちを追い出し,あなた(イエス)の名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。

 神名を復元すると、イエスが述べたことは極めて明瞭になります。イエスのこの預言の言葉によると、ハルマゲドンの来る頃には、エホバのことを無視したり否定したりしながらイエスの名によって立派な業を行うことが大流行します。たとえば、諸教会によってキリストの名を冠した病院や孤児院が建てられるかもしれません。難民キャンプが運営されるかもしれませんし、貧しい人々のために学校が作られるかもしれません。キリストの名のもとに救いが説かれるでしょうし、バプテスマも施されるでしょう。そういった業はいずれも立派なものですが、たとえどんなに立派な業であってもエホバを否定しながら行うのであれば、それは聖霊に対する冒涜になりますので、結局その人は死の裁きを受けます。
 イエスにしても、そう裁かざるを得ないところです。イエスは自分の父であるエホバをこよなく愛していますから、エホバを否定しながら自分に信仰を示す人たちのことをとても不愉快に思います。そのうえ、こういう人たちのせいで天における自分の立場が悪くなっているのですから、それはもう熱心に彼らを裁くことでしょう。
 そこでイエスはこう言います。「わたしは決してあなた方を知らない」。
 そのようなわけで、念のためにもう一度言っておきますが、私も彼らのことは知りません。全く知りません。迷惑なのでどこかに行ってください。


 さて、イエスが神の右で待っているということはヘブライ 10:12-13に記されていますが、そのとモチーフとなっているのは詩編 110編に記されているメシア預言の記述です。

ヘブライ 10:12-13
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかしこの[方]は,罪のために一つの犠牲を永久にささげて神の右に座し,それ以来,自分の敵たちが自分の足の台として置かれるまで待っておられます。

 ここでこの預言が意味するところを考えてみましょう。

詩編 110:1-2,5-6
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしの主に対するエホバのお告げはこうです。「わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,わたしの右に座していよ」。あなたの力の杖を,エホバはシオンから送り出して,[こう言われます。]「あなたの敵のただ中で従えてゆけ」。エホバ自らあなたの右にあって,その怒りの日に必ず王たちを打ち砕かれます。[神]は諸国民の中で裁きを執行し,死体を満ちあふれさせます。人口の多い地を治める頭たる者を必ず打ち砕かれるのです。

 この預言の後半はハルマゲドンについての記述となっています。ここで、ハルマゲドンの前とその時とでエホバとイエスの位置関係が逆になっているということに注目できます。一見すると、イエスがエホバより偉くなっているように見えます。これは何を意味しているでしょうか。
 これを説明する言葉はイエス自身が語っています。

ヨハネ 5:22,30
新世界訳聖書(エホバの証人)
父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を求めるからです。

 イエスのこの言葉は詩編 110編のメシア預言をモチーフとしています。ハルマゲドンの時、裁きを行うのはイエスですが、この時イエスは自分の考えを棄ててエホバのご意志通りの裁きを施行します。結果、その裁きは徹頭徹尾エホバの裁きとなります。こうして、イエスがハルマゲドンの裁きを施行するとき、エホバは比喩的な意味でイエスの右手の武器となります。ですから、メシア預言はイエスがエホバより偉大になるということを述べているのではありません。むしろここではエホバに対するイエスの完璧なまでの従属性が示されています。
 イエスはハルマゲドンの時、「これはエホバの裁きである」と言いながらエホバの裁きを施行します。つまるところ聖書は、ハルマゲドンが、イエスが行うものであっても、徹頭徹尾エホバによるエホバのための戦争であるということを示しています。イエスはその道具であるにすぎません。

ヨエル 2:31-32
新世界訳聖書(エホバの証人)
畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日の来る前に,太陽は闇に変わり,月は血になるであろう。しかし,エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる。エホバの述べたとおり,シオンの山とエルサレムに,また生き残った者たちの中に逃れ出た者たちがいるからであり,その者たちをエホバは呼び寄せているのである」。

ゼパニヤ 1:14-18
新世界訳聖書(エホバの証人)
「エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る。エホバの日の響きは悲痛である。そこでは,力ある者も叫び声を上げる。その日は憤怒の日,苦難と苦もんの日,あらしと荒廃の日,闇と陰うつの日,雲と濃い暗闇の日,角笛と警報の日であり,防備の施された都市を攻め,隅の高い塔に攻め寄せる。こうしてわたしは人々に苦難を臨ませる。彼らは必ず盲人のように歩き回るであろう。エホバに対して罪をおかしたためである。そして,彼らの血はまさに塵のように,そのはらわたは糞のように注ぎ出される。その銀も金もエホバの憤怒の日には彼らを救い出すことができない。[神]の熱心の火によって全地はむさぼり食われる。[神]は地に住むすべての者の滅び,まさに恐るべき[絶滅]をもたらすからである」。

 これらの聖句ではハルマゲドンは「エホバの大いなる日」と呼ばれています。これをハルマゲドンが直接語られている記述と比べてみましょう。

啓示(黙示録) 16:14,16
新世界訳聖書(エホバの証人)
それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行ない,また人の住む全地の王たちのもとに出て行く。全能者なる神(エホバ)の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。そして,それらは[王たち]を,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた。

 こうしてハルマゲドンについての聖句を調べると、聖書自身も、ハルマゲドンをもっぱらエホバのものとして説明していることが分かります。

 ハルマゲドンは「エホバの復讐の日」とも呼ばれます。これも調べてみましょう。

イザヤ 34:8
新世界訳聖書(エホバの証人)
エホバは復しゅうの日を,シオンに関する訴訟のための応報の年を持っておられるからである。

イザヤ 35:4
新世界訳聖書(エホバの証人)
心に思い煩いのある者たちに言え,「強くあれ。恐れてはならない。見よ,あなた方の神(エホバ)はまさに復しゅうをもって,神は実に返報をもって来られる。[神]ご自身が来て,あなた方を救ってくださる」と。

 この表現は、ハルマゲドンの執行者であるイエスについての記述の中にも見られます。

イザヤ 61:1-2
新世界訳聖書(エホバの証人)
主権者なる主エホバの霊がわたしの上にある。それは,エホバがわたしに油をそそぎ,柔和な者たちに良いたよりを告げるようにされたからである。[神]はわたしを遣わして,心の打ち砕かれた者を[包帯で]包み,とりこにされた者たちに自由を,捕らわれ人たちには[目が]大きく開かれることをふれ告げ,エホバの側の善意の年とわたしたちの神(エホバ)の側の復しゅうの日とをふれ告げ,嘆き悲しむすべての者を慰め,

 メシアであるイエスについて言及されているところでも、やはりハルマゲドンはもっぱらエホバのものとして説明されています。

 ここで興味深いのは次の二つの言葉です。

ミカ 5:15
新世界訳聖書(エホバの証人)
そして,怒りのうち,激怒のうちに,わたし(エホバ)に従わなかった諸国民に対して復しゅうする」。

テサロニケ第二 1:8
新世界訳聖書(エホバの証人)
その際[イエス]は,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。

 ここでエホバはイエスと入れ替わっています。このような記述は幾つかありますが、どうしてこのようなことになるのでしょうか。
 これについてもイエスが自身が説明しています。

ヨハネ 8:28
新世界訳聖書(エホバの証人)
それゆえイエスは言われた,「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしが[その者]であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父(エホバ)が教えてくださったとおりに話しているのです。

ヨハネ 12:49-50
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしは自分の衝動で話したのではなく,わたしを遣わした父(エホバ)ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。またわたしは,[父]のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ,わたしの話すこと,[それは,]父(エホバ)がわたしにお告げになったとおりに話している[事柄]なのです」。

 イエスは、「イエスについての良いたより」はエホバから出ているということ、そしてそのイエス自身がエホバの言葉を語っているということを証言しています。このことに注目するとき、詩編 110編の場合と同様、エホバとイエスとは比喩的に立場を入れ替えて表現することができます。
 こういった事例から、ハルマゲドンがイエスのものであるとする少数の聖句については、二つの考え方ができることが分かります。1.その執行者がイエスであるということについて述べている。2.エホバに対するイエスの従属性ゆえに言い換えが可能である。結論としては、やはりハルマゲドンは徹頭徹尾エホバの裁きであるということになります。

 このことを正しく理解するなら、テサロニケ第二 1:8は神名を正しく復元してこのように読むことができます。

その際[イエス]は,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に(エホバの)報復をするのです。

 一見しただけではこのようなところでの神名の復元は考えられないことですが、聖書が示しているハルマゲドンの概念を念入りに調べて把握することによってはじめて、ここは神名を復元しなければならないところなんだということが分かるようになります。

 このように聖書の様々な記述を調べると、聖書を読む際に読み手による神名の復元が求められる個所が非常に多くあることに気づかされます。もっとも、こういったことを根拠にして聖書の訳文中に神名を“復元”するとなると、そうすることには問題点もあるわけですから、そうするにあたってのルール作りが必要となります。新世界訳聖書はこの問題にどのように取り組んでいるでしょうか。これを少しみてみましょう。

 まず最初に挙げなければならないのは、訳文中に神名を復元することは許容される、というルールでしょう。そもそもこの方針がなければ訳本における神名の復元は不可能です。
 新世界訳聖書は、神名が「主」もしくは「神」に置き換えられている場所に限って神名の復元を行っています。すでに見てきたように、新約聖書は神名を「主」もしくは「神」に置き換えた事例を多く持っています。この方針のもとでの神名の復元は根拠が取りやすいと言えるでしょう。神名が復元された訳文が聖書本文と大きく変わるということもないでしょう。
 神名を復元した場合に生じる表現が旧約聖書における神名の用法と一致しない場合には、神名の復元を控えるほうが賢明でしょう。これについて、「インペリアル聖書辞典」の示したルールが決定の基準にされています。

ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim,つまりまことの神と言う場合があるが,決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら,エホバとはまことの神だけの名だからである。また,わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは,わたしの神と言う場合,エホバのことを意味しているからである。また,イスラエルの神について語りはするが,決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに,生ける神について語りはするが,決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである。(引用は「聖書に対する洞察」より)

 その一例としてルカ 2:26と啓示 11:15を見てみましょう。

ルカ 2:26
新世界訳聖書(エホバの証人)
さらにこの人には,エホバのキリストを見るまでは死を見ないということが,聖霊によって神から啓示されていた。

啓示(黙示録) 11:15
新世界訳聖書(エホバの証人)
また,第七のみ使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きてこう言った。「世の王国はわたしたちのとそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」。

 ここではキリストの所有者である「主」について語られていますので、それがエホバであると特定することができます。しかし、啓示 11:15ではその前に「わたしたちの」という表現がついますので、神名を復元すると「わたしたちのエホバ」という言い回しとなってしまうという理由により、神名の復元は控えられています。
 新世界訳聖書は文脈中に二人の主が混在することを許容しています。一例として、テサロニケ第二 2:13-14を見てみましょう。

テサロニケ第二 2:13-14
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし,エホバに愛される兄弟たち,わたしたちは,あなた方について常に神に感謝しなければなりません。神は,霊をもって神聖な者とすることにより,また真理に対するあなた方の信仰によって,あなた方を救いのために初めから選び出してくださったからです。ほかならぬこの定めに,[神]はあなた方を,わたしたちの宣明する良いたよりを通して召してくださったのであり,それは,わたしたちのイエス・キリストの栄光を得るためなのです。

 ここでは、文脈中に二度「主」が出てきます。あとのほうの「主」が「主イエス」を示していることは明白です。一方、はじめのほうの「主」は「エホバ」と訳出されています。新世界訳には、この聖句のように二人の主が混在する訳文がしばしば見られます。
 それに対して、このような混在があるのはおかしいと考える人たちがいます。文脈中に「主」がイエスであると特定できる個所が見つかればその文脈全体にわたって「主」はイエスであると特定すべきである、というのがその主張です。しかしこれは錯覚です。この聖句は「神」と「キリスト」が混在する文章になっています。このような文章は聖書の中に非常に多くありますし、それでこそ聖書です。私たちは普段から「神」と「キリスト」が混在した聖書の文章を何の疑いもなく読んでいますし、聖書には二人の「主」がいることも知っています。それは、聖書が「主」という表現を複数回使用している場合、その主が一人である可能性より二人である可能性のほうが高いと認識すべきことを意味しています。ところが、そのような認識に至らない人も多くおられて、そのような人は、見れば「神」と「キリスト」がごちゃごちゃと混在しておりその中に「主」という表現が複数混ざっているというようなところでも、「主はどちらか一方であるはずだ」と主張したりします。新世界訳はこのような認識を錯覚として退けています。ちなみに、先に挙げたK・ワーケンホースト氏の論文も二人の主が混在していることを前提として話を進めており、繰り返しの引用となりますが、このように述べています。

続いてパウロは 3:17-18で4回ほど、「主」という語を繰り返した。これがいつも16節と同じく聖四文字(エホバ)を現わすかどうかは論じられている。

 新世界訳聖書では、神名の復元にあたってヘブライ語訳本が多数参照されています。新約聖書のヘブライ語訳では、昔から、訳文中に神名を復元することが慣例となってきました。一方、新世界訳聖書が神名の復元を行うまで、他の言語におけるこの種の取り組みはほとんどなされてきませんでした。ですから、神名の復元にかかわる経験と知識はヘブライ語訳の領域に一極集中していると言うことができます。新世界訳聖書がこれを参照したのは当然のことと言えるでしょう。
 これについても、おかしいと言う人たちがいます。参照されるヘブライ語訳本のほとんどが中世以降のものなので、これを古代訳や古写本と同等に扱うべきではない、というのがその主張です。しかしこれも錯覚です。新世界訳聖書はヘブライ語訳本を研究資料もしくは出典資料として利用しているからです。新世界訳聖書においてこれらの資料の占める立場は写本や古代訳のそれと同等ではありません。ですから、このように主張する人は、新世界訳聖書がやっていないことをおかしいからやめるようにと勧めていることになります。これは研究資料ですから、どちらかというと、古いものより新しいもののほうに価値があります。新しいヘブライ語訳本のほうが新しい研究を反映しているだろう、ということです。彼らは、参照するならもっと古いものが必要だ、などと言いますが、これはそういうものではありません。
 この点、多少の例外であるのが、新世界訳聖書において“J2(エ2)”とされている、「試みを経た石」という書物の中に収録されているマタイ福音書です。これは1385年に書かれたものですが16世紀頃の写本が存在しており、新世界訳聖書はこれを参照しています。これについては、書物自体は1385年の著作であっても、その中にあるマタイ福音書はもっと古いものからの引用ではないかということが言われています。これは西暦1世紀から4世紀のものであろうとも言われていますので、これについては古代訳の範疇に加えてよいかもしれません。

 新世界訳聖書は、「主の日」という表現を神名復元の特例として扱っています。この表現がハルマゲドンを示している場合は神名を復元して「エホバの日」と訳出し、ハルマゲドン前の「終わりの日」の期間を指している場合はそのまま「主の日」と訳出しています。

 ではここで、二人の主の混在の例として先ほど挙げた、テサロニケ第二 2:13-14をすこし掘り下げて考えてみたいと思います。

テサロニケ第二 2:13-14
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし,エホバに愛される兄弟たち,わたしたちは,あなた方について常に神に感謝しなければなりません。神は,霊をもって神聖な者とすることにより,また真理に対するあなた方の信仰によって,あなた方を救いのために初めから選び出してくださったからです。ほかならぬこの定めに,[神]はあなた方を,わたしたちの宣明する良いたよりを通して召してくださったのであり,それは,わたしたちの主イエス・キリストの栄光を得るためなのです。

 「エホバ」と訳出されている部分は本文では「主」です。ここを「エホバ」と訳出することにはどの程度の妥当性が見られるでしょうか。
 文脈を見ると、この文が神を中心にしており、その文の中に「主イエス」が配置されている様子を見ることができます。そうすると、ここの「主」がエホバである可能性は高いということが考えられます。しかし、事はそれほど簡単ではありません。というのも、繰り返し述べることになりますが、聖書において二人の主は混在しており、そのことからすると、もしこの「主」がイエスであったとしてもあまり違和感はないように思えるからです。これだけですと、この「主」がエホバである可能性はやや高い、という程度の結論が妥当でしょう。このような場合、はっきりとした結論を得るには文脈を越えた考察が必要になってきます。
 実は、この聖句は、テサロニケに宛てられた二つの手紙おいて、最初に「神」だった表現が「主」に変えられたとされる2カ所の一つです。これを見てみましょう。

テサロニケ第一 1:2-4
新世界訳聖書(エホバの証人)
わたしたちは祈りの中であなた方すべてについて述べる際いつも神に感謝しています。あなた方の忠実な働きと愛の労苦,またわたしたちの主イエス・キリストに対する希望のゆえに[あなた方が]わたしたちの神また父のみ前で[示す]忍耐を絶えず覚えているからです。に愛される兄弟たち,わたしたちはあなた方に対する[神]の選びを知っているのです。

テサロニケ第二 2:13-14
新世界訳聖書(エホバの証人)
しかし,エホバに愛される兄弟たち,わたしたちは,あなた方について常に神に感謝しなければなりません。神は,霊をもって神聖な者とすることにより,また真理に対するあなた方の信仰によって,あなた方を救いのために初めから選び出してくださったからです。ほかならぬこの定めに,[神]はあなた方を,わたしたちの宣明する良いたよりを通して召してくださったのであり,それは,わたしたちの主イエス・キリストの栄光を得るためなのです。

 この二つの聖句は内容が類似しており、実質的に同一の事柄を言い換えているにすぎないと見ることができます。このことに注目するとき、問題の「主」がエホバであると考える有力な根拠が得られたことになります。

 もう1つのほうも見ておきましょう。

テサロニケ第一 5:23
新世界訳聖書(エホバの証人)
平和のご自身が,あなた方を全く神聖なものとしてくださいますように。そして,あなた方[兄弟たち]の霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ,わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。

テサロニケ第二 3:16
新世界訳聖書(エホバの証人)
では,平和のご自身が,あらゆる方法であなた方に絶えず平和を与えてくださいますように。主があなた方すべてと共におられますように。

 これも実質的に同一の表現と見ることができるところです。このことから、「平和の主」という表現がイエスではなくエホバを指しているということをほぼ断定することができます。
 新世界訳聖書がここで神名を復元していないのはなぜでしょうか。それは、これを「平和のエホバ」と訳出すると先に紹介したインペリアル聖書辞典のルールに抵触するからのようです。ここから、新世界訳聖書が神名の復元についてかなり慎重である様子を見ることができます。

 こうして新世界訳聖書の新約部分において復元された神名の数は237箇所になります。

 この237という数は多すぎると考える人たちがいます。しかしこれは少ないと言わなければならないでしょう。私の手持ちのコンコルダンスによると、旧約聖書の場合、「神(エロヒーム)」という語の出現回数が2,602回であるのに対し神名「エホバ」の出現回数は6,828回です。新約聖書における「神(テオス)」の出現回数は1,317回ですから、単純に比率を合わせると復元されるべき神名の推定数は3,456回となります。実際に復元された数は237ですからこれはずいぶん少ないと言わなければならないでしょう。
 これは、「神名の復元」という神学上のテーマについて新世界訳聖書の取っている立場がそのテーマに対して不十分であることを示しています。

 新世界訳聖書は「主」もしくは「神」という語からのみ神名を復元しています。これについて、前提となっている考え方を修正すべきかもしれません。つまり、神名は「神」や「主」といった語句に置き換えられただけではなく、削除もされているのではないかと考える必要がありそうです。
 具体的には、前提となる仮説をこのように修正しなければならないでしょう。「新約聖書原典には神名が記されていたが、原典から写本が作成される初期の段階において削除されるか他の語に置き換えられるかした」。
 もし、この仮説が正しいとするなら、当然のことながら、聖書の中にはその明瞭な痕跡が残っているのではないでしょうか。これはなかなか興味深いテーマです。そこで、私はここで微力ながらも新説を打ち立て、その痕跡は確かにあるのではないかという主張を提起したいと思います。

 聖書の研究という分野においては、これまで多くの仮説が生み出されてきました。その中には、内容がおかしいとか説得力がないという理由により退けられたものも多くあります。そのような神学的仮説の一つに“神聖受動態仮説”と言われるものがあります。現在、この仮説を支持している人は滅多にいません。
 これは、新約聖書の表現をより厳密に考察しようとする努力の結果生み出されたものです。そのような努力の結果、新約聖書、特に福音書においては、『神が動作主である受動態表現において動作主である「神」が省略される傾向がある』ということが指摘されるようになりました。そのような記述がいくつも発見されたため、それがなぜなのかを説明しようとする試みが始まりました。そして、神聖受動態仮説を唱えた人たちはこの現象をこのように説明しました。「新約聖書の筆者たちは、神に対する畏敬の念の表明として「神」という語の使用を控えるようになったに違いない」。
 これは全く説得力のない説明でした。この学説を否定する根拠はおおまかに2つあります。一つは、受動態表現において動作主が省略されることはよくあるという点です。受動態表現では主語が受動者になるため、動作主の言及が抜けてしまうことがあります。もう一つは、新約聖書にはそのようなことをする動機がないという点です。「新約聖書には神名の使用を避ける動機はあっても“神”という語の使用を避ける動機は全くない」と反論されて、彼らは返答に窮しました。
 新約聖書の受動態表現においてしばしば「神」が省略されるのが事実であっても、その理由がきちんと説明できないというようでは話になりません。こうしてこの仮説は廃れていくことになったのですが、私が思うに、この仮説の支持者たちは自分たちが返答に窮した反論にこそ活路があるということに気づかなかったようです。つまり、『“神”が省略された』という説明には全く動機が見つかりませんが、『神名が省略された』という説明には十分な動機が見つかるのですから、彼らは仮説を少し調整して「“神”もしくは神名が省略されている」などと唱えればよかったのです。

 さて、ここで私は『新約聖書原典には神名が記されていたが、原典から写本が作成される初期の段階において削除されるか他の語に置き換えられるかした』という仮定を考えているのですが、神聖受動態仮説はこの仮定によく合います。先に述べたように、受動態表現では動作主の省略が容易ですから、動作主の「エホバ」は他の表現における「エホバ」に比べて削除しやすいと言えます。するとどうでしょう。新約聖書写本の作成の際、写本家は、削除しやすい神名は削除してしまい、削除しにくい神名は「神」や「主」に置き換えるという調整を行ったかもしれません。そして、そのようなことが行われたと考える根拠は、新約本文中に確かにあるのです。

 では、この新しい神聖受動態仮説に基づいて、新約聖書中に実際に神名を復元してみましょう。復元を行うのは、神聖受動態表現が連続しているマタイ 5:1-10です。

マタイ 5:1-10
その群衆をご覧になった時,イエスは山に上られた。そして腰を下ろされると,弟子たちがそのもとに来た。それからイエスは口を開いて彼らを教えはじめ,こう言われた。
「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。
「嘆き悲しむ人たちは幸いです。その人たちはエホバから慰められるからです。
「温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
「義に飢え渇いている人たちは幸いです。その人たちはエホバによって満たされるからです。
「憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちはエホバからの憐れみを受けるからです。
「心の純粋な人たちは幸いです。その人たちは神を見るからです。
「平和を求める人たちは幸いです。その人たちはエホバから『神の子』と呼ばれるからです。
「義のために迫害されてきた人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。





(執筆中)

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