新世界訳
エホバの証人の聖書

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啓示(黙示録) 1:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方の兄弟であり,イエスと共になって患難と王国と忍耐をあなた方と分け合う者であるわたしヨハネは,神について語り,イエスについて証ししたために,パトモスと呼ばれる島に来ることになった。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしは、あなたたちの兄弟であり、ともにイエススと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハンネスである。わたしは、神が語られたことと、イエススが証されたこととを証したために、パトモスと呼ばれる島に流されていた。

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
あなたたちの兄弟でもあり、イエス・キリストのうちにあって、患難と王国と忍耐とをあなたたちと共にわかち合っている私ヨハネは、神の言葉〔を伝え、〕またイエス・キリストについて証言〔した〕ために、パトモスとよばれる島にいた。



 ここでは、「神の言葉とイエスの証言」という言い回しをどう解釈するかが課題になるようです。
 「言葉」あるいは「証言」を発しているのは誰かということが曖昧だからです。



◇ 新約聖書のギリシア語, “λόγος”の項, ウィリアム・バークレー

 ギリシア語の所有格は「主格的用法」と「目的格的用法」のいずれにも考えられる。……所有格が主格的であるならば、神、主、キリストが与えた言葉の意味になる。目的格的であるならば、神、主、キリストに関して語る言葉の意味である。この両方が……含まれている可能性はきわめて大きい。



 誰が発した言葉であるかにこだわらなければ、新共同訳聖書や新改訳聖書に見られるように「神の言葉とイエスの証し」というような単純な訳文を採用できるでしょう。一方、新世界訳聖書は、それがヨハネによる言葉であると判断しています。新世界訳の訳では、神は語られる対象であるということになります。共同訳聖書はこのあと取り上げる啓示 1:2に合わせて両方の意味を採ったようです。岩波訳聖書はやはりこのあと取り上げる啓示 6:9に意味を合わせています。

 この句では、文そのものがそのことを示唆しているという理由により、言葉はヨハネによって語られていると判断するのが順当なようですが、はっきりそう言えるということでもなさそうです。

 啓示 1:2は同じことを述べていますが、表現に違いがあります。



啓示(黙示録) 1:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
[ヨハネ]は,神の語られた言葉と,イエス・キリストの行なった証し,すなわち自分の見たことすべてについて証しした

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ヨハンネスは、自分の見たすべてのこと、つまり、神が語られたことと、イエスス・キリストが証されたこととを証した

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
そのヨハネが、自分の見たことすべてを〔語って、これが〕神の言葉とイエス・キリストの証言〔であること〕を証言する



 ここでは「証言」という言葉が2度用いられていますから、神もしくはキリストと、ヨハネの両者による言葉が述べられていると考えることができるでしょう。「神の言葉」、「イエス・キリストの証言」の部分だけに注目すると、語っているのは神とキリストです。しかし、文が示しているのはヨハネが神とキリストについて語っている場面となりますので、実態としてはヨハネが語っていると判断してもよいでしょう。

 啓示 6:9を見てみましょう。



啓示(黙示録) 6:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
また,彼が第五の封印を開いた時,わたしは,神の言葉のために,またその行なっていた証しの業のためにほふられた者たちの魂が祭壇の下にいるのを見た。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
子羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉を守り、信仰を証したために殺された人たちの魂を、わたしは祭壇の下に見た。

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
〔子羊が〕第五の封印を解いた時、私は祭壇の下に、神の言葉〔を宣べ伝え〕、また自分たちが立てた証言〔に忠実であり続けた〕ために殺された者たちの魂を見た。



 この句では「証言を立てる」の「立てる」の部分で複数形が用いられていることが決め手になります。これまで見てきた聖句では、選択肢は神、イエス、ヨハネといずれも単独ですが、ここにはキリスト教徒たち、つまりグループの選択肢が出現しています。そして「立てる」のところで複数形が用いられているのですから、少なくとも「証言」のところでの動作主はキリスト教徒たちであるということになります。しかし「言葉」の動作主はあいまいです。共同訳聖書は、このあと取り上げる啓示 12:17に文意を合わせています。

 ここで参考になるのは啓示 12:17です。



啓示(黙示録) 12:17

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエススがなさった証を守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
そこで、龍は女に激怒して、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神の誡めを守り、イエス〔について〕の証言を堅持している者たちと戦うために出て行った。



 啓示 12:17は基本的には啓示 6:9と同じ人たちについて述べています。違うのは、もう死んでいるか、それともまだ生きているかだけです。ここで気になるのは、啓示 6:9の「神の言葉」が「神の掟」と言い換えられているように見えることです。このように言うと、その発生源は神以外には考えられないということになります。そうすると、啓示 6:9の「神の言葉」は神からの言葉であると考えてよいのかもしれません。

 最後は、啓示 20:4です。



啓示(黙示録) 20:4

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
またわたしは,[数々の]座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストと共に千年のあいだ王として支配した。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエススのなさった証と神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間統治した。

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
また私は多くの座〔があるの〕を見た。そして、審きを託された人々がそれらの座に座った。〔私は〕イエスについて証言し、神の言葉〔を伝えた〕ために、首をはねられた人々の魂も〔見ることができた〕。それに、獣も獣の像も礼拝せず、その刻印を額や手に受けることをしなかった者たちも〔そこにいた〕。彼らは生き返って、キリスト共に一千年間統治した。



 啓示 6:9とのかかわりから、「証言」の動作主はクリスチャンであるように思えますが、共同訳聖書は異なる文意を採用しています。

 こうして一連の句を見ていくと、啓示の書における「神の言葉とイエスの証言」の表現はあいまいで一貫性に欠けており、ここはこう理解すべきという明確な結論が出せないことに気づかされます。このようなところでは、文脈や文意をよく考慮して、より可能性の高い文意を探るという努力が必要になってくるようです。






 職業的反対者の岩村義男氏は「神のみ名は「エホバ」か」の本の中で、啓示 1:9についてこのように主張しています。



◇ 「神のみ名は「エホバ」か」, 岩村義男, いのちのことば社

 「神について語り」は本文に忠実ではありません。『王国行間逐語訳』では、「神のことば λόγος(ロゴス) のゆえに」です。翻訳を見るかぎり、「エホバの証人」は、偽りの証人ではありませんか。また「イエスについて証しした」は、字義どおりには「イエスの証人」(the witness of Jesus)です。ヨハネは、聖書のことばとイエスの証人であったゆえに、パトモス島に幽閉されたのです。



 岩村氏は「証言」を「証人」に読み替えようとしているようです。英訳本で用いられる“witness”に反応しているのかもしれません。

 岩村氏の言うことには相変わらずというところがあるのですが、こう言われてみると、聖書の翻訳とはほんとうに難しいものだということを改めて思い知らされます。