新世界訳
エホバの証人の聖書

ホーム >> OTHER >> 児童虐待の問題について



#1

 エホバの証人という宗教における児童虐待の問題ということについては、私自身関心を持ってきました。いずれこの問題を総合的に取り上げようと思っていましたが、取り組みを始めるきっかけがないままでした。とはいえ、2019年7月には各会衆の集会にて「研究用 ものみの塔」の討議が行われ、それに時期を合わせるかのように、長老から牧羊訪問(牧会)の申し入れがありましたので、今がその時であると判断しました。
 この文書は、1. 私をテストケースとして、2. 現在進行中の問題を順次取り上げ、その合間に 3. 児童虐待に関する総合的な解説を加えていく、という形式で執筆される予定です。
 この文書の執筆は、私自身にとって極めて残酷なことになると見込んでいます。会衆やその長老たちにとっても試練となるでしょう。






#2

 私は、大阪府守口市寺方会衆に所属しています。とはいえ、体に問題を抱えるようになっているため、集会には出向かず、インターネットを介して集会を視聴しています。会衆との連絡のほとんどはメールで行います。
 この話は、新しく赴任してきた長老が私に牧羊訪問を行おうとしたところから始まります。この方は子供のころからこの会衆におられた方で、一度別の会衆に移転し、長老になって戻ってこられました。彼は、私が牧羊訪問の対象から外されていることを他の長老から聞いていなかったようです。



◇ 2019年05月23日, 山下義人兄弟から私へのメール

こんにちは

 こんにちは。

 初夏の暑さの日ですが,お体はいかがでしょうか。

 さて,群れの方を全員順番に牧羊訪問させて頂いています。

 今回大井一弘兄弟と一緒に崇兄弟のところに牧羊にお伺いしたいと思っています。

 崇兄弟宅に僕たちがお伺いするか,もしくはうちの家にて行いたいと思っています。
 どちらでも大丈夫ですが,崇兄弟はどちらがご都合いいでしょうか。
 あとご都合の悪い日などあれば教えて頂けますでしょうか。

 どうぞよろしくお願いいたします。

感謝とともに
東郷通グループ
山下義人



◇ 2019年05月25日, 私から山下義人兄弟へのメール

宮原です 牧羊訪問について

 牧羊訪問について申し入れを受けましたので、少し考えていましたが、前回のことがありますので、今回もきっと同じようになるだろうからこの申し入れを受けるのは正しくない、という結論になりました。

 前回というのは、だいぶ昔、森兄弟がこの会衆に来てしばらくして、私を牧羊した時の話です。
 この時は、主催監督だった越智兄弟が同席しました。
 越智兄弟は、たいへん申し訳ない、と私に言いました。自分があなたを牧羊して問題を取り扱わなければならないのに、今は仕事が忙しくて後回しになってしまっている、今年の年末には取り掛かりますので、もう少し待ってください、とのことでした。
 森兄弟は私が提出した訴えを知らないようでした。私が受けたのはただの牧羊です。越智兄弟はそこにいただけで何も話しませんでした。
 そこで私は待ったのですが、越智兄弟は牧羊を先のばしするばかりで、結局一度も牧羊は行われませんでした。
 越智兄弟の話では、私以外の会衆の成員に対しては、必ず年に1回は牧羊が行われているとのことです。

 この、森兄弟による牧羊が、私が受けた最後の牧羊です。

 ここで言う問題とは、越智兄弟の前任の小原兄弟に提出した訴えのことです。
 小原兄弟は、私の訴えを受けて牧羊を行いましたが、訴えについて一つの質問をし、今日はこれでおわりですありがとうございました、ほかにもたくさん聞かなければならないことがありますので今後もこのような話し合いを繰り返し行うことになりますがよろしくお願いします、と言っただけした。そして、私は次の面談を待ちましたが、続きはありませんでした。

 その後、小原兄弟、越智兄弟に続いて大井一弘兄弟が主催になると、彼は私に、ぜひとも牧羊をやらせていただきたいのでよろしくお願いいたします、と言いました。ところが、その後彼は私のことを放置し、一度も私は彼からの牧羊を受けていません。

 というわけで、既にそうとうな年数、私は牧羊を受けていません。

 どうも思うに、私はこの会衆の長老たちに、三代にわたって、騙されてきたようです。
 恐らくですが、私が提出した訴えは、手続き上はきちんと処理されたことになっているのだろうと思います。エホバの組織から見ればそこに落ち度は見つからないのでしょう。
 しかし、それでエホバの組織をだませても私は納得しませんので、長老たちとしては私のことは無難に避けて、そのうち牧羊が行われるようなふりをして私を安心させながら、いろいろ理由をつけて私と対面することを先送りしてきたのだと思います。
 私はエホバを信頼してずっと待ち続けてきました。
 というわけで、三代にわたって、主催監督は私のことを放置してきたのだろうと思います。

 今でもこの状態は続いています。私がそのことに気づかないなどということはあり得ませんし、大井一弘兄弟も、まさかそんなことになっているとは知らなかったなどとは言えないでしょう。

 今回義人兄弟の牧羊を受けると、同じことが繰り返されるに違いないと思いました。
 さすがにこれはエホバの御前に大きな罪であると思います。

 そこで、私は、このことを要求します。
 大井一弘兄弟が来て、これまでのことを私に謝罪し、そのうえ懇願して、ぜひ私にあなたの牧羊をさせてください、と言うべきです。そのうえで、私の訴えを扱ってください。
 さらに加えて次のことを要求します。
 私が訴えて提出し、長老が預かったものの中には、コピーも作らず原本を渡したものを含め、複数の文書があります。これらすべてを、一度私に提示してください。
 というのも、こういう要求を加えておかないと、また口先でごまかされ、騙される可能性があると懸念するからです。
 さらに加えて、私がすでに行っている通告もよく承知していることを明言していただきたいと思います。この通告に関する限り、私はエホバの前に誓いを立てたも同然の状況にあります。私はこの通告を譲歩することができません。

 ということで、このメールは大井一弘兄弟に回してください。
 彼がいまさらながらするべきことをし、終えたなら、その後また義人兄弟は私まで牧羊の申し入れをすることができるでしょうし、私も喜んで受けることになるでしょう。



◇ 2019年05月28日, 山下義人兄弟から私へのメール

Re: 宮原です 牧羊訪問について

 親愛なる宮原崇兄弟

 メールの返信ありがとうございます。
 これまで寺方会衆の長老たちから受けてこられた対応に対して崇が傷付いておられる事が伝わってきました。

 長い期間ほったらかしになってしまっていた事に,お詫びいたします。

 牧羊訪問ではなく,崇兄弟と個人的にお話ししたいと思います。一度お茶でもいかがでしょうか。



◇ 2019年05月28日, 私から山下義人兄弟へのメール

Re: 宮原です 牧羊訪問について

 宮原です

 今回私は、相当な事情のもとに、それなりに決意なり覚悟なりを固めて要求を述べています。
 これまでの諸経緯からすると、今このような申し入れがあるというのは全く話にならないことです。
 話を巻き戻すのではなく、過去に私が提示し、要求した項目の確実な実施をお願いします。



◇ 2019年06月11日, 私から山下義人兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 前回のメールをお送りしてから2週間が過ぎました。
 この件はどうなっていますでしょうか。

 考えてみてください。
 私は、これまで私は長老たちによってうまく騙されてきた、こうして問題の取り扱いは先延ばしされてきた、と訴えています。
 それなのに2週間もの間返信をせず私のことを放置した、このことは正しいことではありません。

 このようなことを書いて送らなければならないことを私は悲しく思います。エホバも同じでしょう。



◇ 2019年06月11日, 山下義人兄弟から私へのメール

Re: 宮原です

 親愛なる宮原 崇兄弟

 今現在,宮原兄弟からお送りいただきました件について,長老団で検討中となっております。

 時間がかかっておりまして,お待たせさせてしまい,申し訳ございません。

山下義人



◇ 2019年07月11日, 私から山下義人兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 前回のメールをお送りしてから1か月が過ぎました。
 検討中だと言われたので我慢して待ちましたが、結局何も起きませんでした。
 私はまた長老たちに放置されてしまいました。もう何度騙されたかしれません。
 これはいったいどういうことでしょうか。
 私は相変わらず長老たちに騙され続けています。

 私に対するこのような仕打ちは正しいことではありません。
 そこで、私からあなたにお願いがあります。

 今後は、誰に対しても、このような邪悪な振る舞いは決してしないと、私に約束してください。
 というのも、長老によるこのような仕打ちは、長老を信じて頼る兄弟姉妹たちを苦しめるからです。
 誰に対してももう、このような苦しみを味わわせたりしないと固く約束してください。
 それは、あなたがもう、このような罪を犯し続けることのないためです。

 人の苦しみということをよく考えてください。また、この苦しみが時に深刻な結末をもたらすということをわきまえてください。
 たとえば、私たちの兄弟姉妹の中には精神面の問題を抱えているという方がいます。そのような方はこの会衆にも普通にいます。
 そういった人は、1か月も長老に放置されるということに耐えることができないかもしれません。
 その人は、日々のストレスによって様々な妄想と敵意と反抗心が心に沸き上がるのをとどめることができず、壊れていくでしょう。
 その人が妄想に浸って長老に反抗するのは、その人が悪いからなのでしょうか。実のところ、その人に罪はありません。その人にはストレスに対応する能力がないからです。
 悪いのは、ただでさえ壊れかけているその人をますます壊す、非情な長老です。
 もしあなたが、誰かに対してそのようなひどい仕打ちをする長老であったとしたら、エホバはそれを大目に見たりするでしょうか。
 聖書は、そのような長老はコンクリートブロックを体に巻き付けて海に沈めてしまうべきだ、とさえ述べています。

 そこで、あなたが誰かに対して大きな罪を犯すことのないために、もうこのような悪事は決してしないと約束してください。
 私に対してもエホバに対しても、約束してください。
 どうかお願いします。






#3

 2019年7月14日には、全国のエホバの証人の集会にて、児童の性的虐待に対するエホバの証人の取り組みということが討議されました。これは信者全員が出席する集会です。
 テキストの内容は以下の通りです。



◇ 「ものみの塔」誌『研究用』2019年5月号, ものみの塔聖書冊子協会

研究記事19 愛と公正 邪悪な世において

「あなたは邪悪なことを喜ぶ神ではないからです。悪人は一時もあなたと共に住むことはありません」。詩編 5:4

 1 エホバ神はあらゆる邪悪な事柄を憎まれます。(詩編 5:4-6を読む。)中でも,児童に対する性的虐待は極めて邪悪な行為であり,エホバはそれを強く憎んでおられます。エホバの証人は神に倣い,児童虐待を憎悪しています。会衆でそのような行為を容認することは決してありません。(ロマ 12:9。ヘブ 12:15,16)
 2 どんな種類の児童虐待も「キリストの律法」に反します。(ガラ 6:2)なぜそう言えますか。前の記事で学んだように,キリストの律法,つまりイエスが言葉や手本によって教えた事柄すべては,愛に基づいており,公正をもたらすからです。真のクリスチャンはこの律法に従い,子どもに安心感を抱かせ,本当に愛されていると感じられるようにします。それとは対照的に,児童虐待は公正に反する利己的な行為です。虐待された子どもは安心感を失い,愛されていないと感じます。
 3 残念なことに,児童に対する性的虐待は世界中に広まっており,真のクリスチャンもその影響を受けています。なぜでしょうか。「邪悪な者とかたりを働く者」が非常に多くなっており,会衆に入り込もうとすることがあるからです。(テモ二 3:13)会衆の一員だと言う人が,ゆがんだ欲望に負けて子どもに性的虐待を加えたこともあります。児童虐待が重大な罪と言えるのはなぜですか。長老たちは児童虐待などの重大な悪行の関係する問題をどのように扱えますか。親は子どもをどのように守れるでしょうか。

重大な罪

 4 児童虐待の影響は長く続きます。被害者はもちろん,被害者の家族やクリスチャンの仲間など,被害者を気遣う人たちにも影響を及ぼします。児童虐待は重大な罪です。
 5 児童虐待は被害者に対する罪です。 児童虐待は,人に不当な痛みや苦しみを与える罪です。次の記事で考えますが,加害者は子どもに非常に大きなダメージを与えることになります。子どもの信頼を裏切り,子どもから安心感を奪います。わたしたちは,そうした邪悪な行為から子どもを守らなければなりません。また,被害者を慰め,助ける必要もあります。(テサ一 5:14)
 6 児童虐待は会衆に対する罪です。会衆のだれかが児童虐待を行なうなら,会衆が非難されます。(マタ 5:16。ペテ一 2:12)「信仰のために厳しい戦い」をしている何百万もの忠実なクリスチャンにとっては,心外なことです。(ユダ 3)邪悪なことを行ないながら悔い改めず,会衆の良い評判を損なう人は,会衆から追放されます。
 7 児童虐待は「上位の権威」に対する罪です。クリスチャンは「上位の権威に服[す]」べきです。(ロマ 13:1)それには政府の定めた法律に従うことが含まれます。会衆のだれかが児童虐待など,刑事法に反することをするなら,その人は「上位の権威」に対して罪を犯したことになります。(使徒 25:8と比較。)長老たちは法律を執行する権限を持っていません。しかし,児童虐待をした人が当局による処罰を免れるようかばうことはしません。(ロマ 13:4)罪を犯した人は,自分の行動の責任を問われることになります。(ガラ 6:7)
 8 何よりも,児童虐待は神に対する罪です。(詩 51:4)人が人に対して罪を犯すなら,エホバに対して罪を犯すことにもなります。神がイスラエルに与えた律法から1つの例を考えましょう。律法によれば,隣人から何かを奪い取ったりだまし取ったりした場合,その人は「エホバに対して不忠実に振る舞[った]」ことになりました。(レビ 6:2-4)したがって,会衆のだれかが子どもを虐待して,子どもから安心感を奪い取るなら,その人は神に対して不忠実に振る舞っていることになります。エホバのお名前に大きな非難をもたらします。ですから,虐待は紛れもなく,神に対する重大な罪です。

 9 これまでエホバの組織は,児童虐待について聖書に基づく情報をたくさん提供してきました。例えば,「ものみの塔」や「目ざめよ!」は,性的虐待を受けた人が感情的なトラウマにどう対処できるか,他の人が被害者をどのように支え,励ませるか,親が子どもをどのように守れるかといったことを取り上げてきました。長老たちは,児童虐待という罪をきちんと扱えるよう,聖書に基づく訓練を受けてきました。わたしたちの組織は,会衆が児童虐待という罪をどう扱うべきかについて,これからも検討を続けます。キリストの律法に沿った方法で問題を正しく扱うためです。

重大な悪行の関係する問題の扱い方

 10 長老たちは重大な悪行の関係する問題を扱う際,どんなことを思いに留めますか。キリストの律法に従う長老たちは,会衆の人たちに愛情深く接し,神から見て正しく公正なことを行なう必要がある,ということです。では,重大な悪行について報告を受けた時,どんな事柄を気にかけますか。長老たちは,神の神聖なお名前を汚さないようにすることをいちばん気にかけています。(レビ 22:31,32。マタ 6:9)会衆の兄弟姉妹の幸せも深く気にかけており,悪行の被害を受けた人を助けたいと思っています。
 11 また,会衆のだれかが悪行を犯した場合,長老たちは,可能なら,その人がエホバとの良い関係を取り戻せるよう助けたいとも思っています。(ヤコブ 5:14,15を読む。)悪い欲望に屈して重大な罪を犯すクリスチャンは,ある意味で病気にかかっています。エホバとの良い関係が損なわれているのです。 それで長老たちは,医師のようにその人を助けます。「病んでいる人[この場合,悪行を犯した人]をよくし」ようと努めます。聖書に基づく助言を与えるなら,その人は神との良い関係を取り戻せるかもしれません。しかし,それが可能なのは,当人が本当に悔い改めている時だけです。(使徒 3:19。コリ二 2:5-10)
 12 長老たちは重い責任を負っています。神から世話をゆだねられた会衆の人たちを深く気遣っています。(ペテ一 5:1-3)兄弟姉妹に会衆の中で安心感を抱いてほしいと思っています。ですから,児童虐待を含め重大な悪行について報告を受けたなら,すぐに行動します。どのように行動しますか。13,15,17節の初めにある質問を考えましょう。

 13 長老たちは,児童虐待に関する訴えや報告を聞いた場合,当局に通報するよう求める法律に従いますか。はい。児童虐待を通報するよう求める法律がある所では,長老たちはそれに従います。(ロマ 13:1)そのような法律に従うのは神の律法に反することではありません。(使徒 5:28,29)長老たちは,児童虐待に関する訴えや報告を聞いたなら,当局に通報することを求める法律にどのように従うべきかについて,すぐに支部事務所に指示を求めます。
 14 長老たちは,被害者や被害者の親や虐待に気づいた人に,当局に通報する権利があることを知らせます。では,会衆のだれかが加害者である可能性があり,通報するとそのことが地域の人たちに知られてしまう場合はどうでしょうか。神のお名前に非難がもたらされるのではないかと心配すべきですか。いいえ。神のお名前に非難をもたらすのは,虐待をした本人です。
 15 長老たちが会衆で審理措置を取るために,少なくとも2人の証人が必要なのはなぜですか。これは,公正に関する聖書の高い規準に沿った事柄です。当人の告白がない場合,長老たちが訴えに基づいて審理委員会を設けるには,2人の証人が必要です。(申 19:15。マタ 18:16。テモテ第一 5:19を読む。)では,児童虐待について当局に通報する場合にも2人の証人が必要ですか。いいえ。犯罪の疑いがある問題を長老や他の人が通報する場合には,2人の証人は必要ではありません。
 16 長老たちは,会衆のだれかが児童虐待を行なったとの報告を聞いたなら,それを通報することに関する法律に従います。その後,聖書の指針に沿って調査を行ないます。当人が罪を犯していないと言うなら,証人たちの証言を聞きます。少なくとも2人の証人によって訴えの正しさが確かめられるなら,審理委員会を設けることができます。1人は,訴えている人です。もう1人は,訴えられている人が被害者あるいは他の子どもを虐待した,ということを証言できる人です。 訴えている人以外に証人がいないとしても,その人の訴えが真実ではないとは言えません。2人の証人がいないために悪行が立証されないとしても,長老たちは,心を深く傷つけるような重大な罪が犯された可能性があることを認めます。傷ついている人を継続的に支え,慰めます。また,会衆の人たちに危害が及ばないよう,訴えられた人をよく見守るようにします。(使徒 20:28)
 17 審理委員会はどんな役割を果たしますか。「審理」と言っても,虐待をした人が法律違反で当局から処罰されるべきかどうかを審理つまり判断する,という意味ではありません。長老たちは法の執行に干渉せず,刑事事件の扱いは当局にゆだねます。(ロマ 13:2-4。テト 3:1)長老たちが審理つまり判断するのは,当人が会衆にとどまれるかどうかです。
 18 審理委員会での長老たちの役割は,あくまで宗教的な側面について判断することです。加害者が悔い改めているかどうかを,聖書に基づいて判断します。その人は,悔い改めていないなら,会衆から追放され,会衆に発表が行なわれます。(コリ一 5:11-13)悔い改めているなら,会衆にとどまることができます。しかし長老たちは,今後,会衆内の付加的な務めや特別な責任を与えられることはまずない,ということを当人に伝えるべきです。また,子どもたちの安全を図って,会衆内の未成年の子どもを持つ親たちに,その人が子どもの近くにいる時には注意するよう個別に伝えることができます。その場合には,被害者のプライバシーを守るよう細心の注意を払います。

子どもを守るには

 19 子どもが被害を受けないよう守る責任はだれにありますか。親です。 子どもは「エホバからの相続物」であり,贈り物でもあります。(詩 127:3)エホバは親に,子どもを守る責任を与えておられます。では,どうすれば子どもを虐待から守れるでしょうか。
 20 第一に,虐待について学んでください。どんな人が子どもを虐待するのか,子どもをだますためにどんな手口を使うのかを知る必要があります。どこに,どんな危険が潜んでいるのかを予測しましょう。(箴 22:3; 24:3)加害者のほとんどは,子どもが知っていて,信頼している人です。
 21 第二に,子どもとの良いコミュニケーションを保ちましょう。(申 6:6,7)子どもの話をよく聞いてください。(ヤコ 1:19)多くの場合,子どもは虐待されたことを話したがらないものです。話しても信じてもらえないと思っているかもしれません。加害者から,だれにも言わないようにと脅されている場合もあります。子どもの様子がおかしいことに気づいたなら,親切に質問し,子どもが言うことに根気強く耳を傾けましょう。
 22 第三に,お子さんを教えてください。性について,お子さんの年齢に応じた情報を伝えましょう。だれかに不適切な仕方で触られそうになったなら,何と言い,どう行動すべきかを教えてください。子どもを守るために神の組織が提供している情報を活用してください。(「親子で学びましょう」の囲みを参照。)
 23 エホバの証人は,児童に対する性的虐待を重大な罪また邪悪な行為と見ています。キリストの律法に従うわたしたちは,加害者が処罰を免れられるようかばったりはしません。では,虐待の被害に遭った人をどのように助けることができるでしょうか。次の記事ではその点を考えます。



 児童虐待に対する宗教団体の取り組みとしては先進的な内容が示されていると思います。他の宗教団体にはこのような指針の公表も全信徒への教育もないと思います。

 文書の内容に照らして、寺方会衆にはいくつかの取り組みが必要でしょう。
 「被害者を慰め,助ける必要もあります。……長老たちは……会衆の兄弟姉妹の幸せも深く気にかけており,悪行の被害を受けた人を助けたいと思っています。……傷ついている人を継続的に支え,慰めます。」 これは私に対して行われていません。今のところこの務めは完全に放棄されています。
 「邪悪なことを行ないながら悔い改めず,会衆の良い評判を損なう人は,会衆から追放されます。」 これも行われていないですね。
 「児童虐待を含め重大な悪行について報告を受けたなら,すぐに行動します。」 これは、いちおうはできているんじゃないかと思います。しかし、実質的にはやっていないということになりそうです。
 「長老たちは,被害者や被害者の親や虐待に気づいた人に,当局に通報する権利があることを知らせます。」 そんな説明は受けたことがないです。
 「会衆の人たちに危害が及ばないよう,訴えられた人をよく見守るようにします。」 これもやっていないですね。

 「わたしたちの組織は,会衆が児童虐待という罪をどう扱うべきかについて,これからも検討を続けます。」 これについては、確かに検討すべき事柄がありますので、今後、いろいろと提示していきたいと思います。この点で私はそうとうお役に立てると思います。






#4

 2019年07月16日になって、ようやく大井一弘兄弟の訪問がありました。
 数日前から何度か訪問したが留守だったとのことです。

 彼は私の訴えは知っていたものの、前任の越智和彦兄弟から引継ぎの指示がなく、そのままにしていたということです。
 今回対応が遅れたのは、訴えの取り扱い状況と内容の確認に手間取ったからということでした。

 彼の説明は、私に対する牧羊がずっと行われていないこととつじつまが合わないように思いました。

 今後は日時を決めて面談をするということで合意しました。






#5

◇ 2019年07月18日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 先日の訪問について考えましたが、再度、謝罪を求めることにしました。

 事の重大さや、私が謝罪を求めているということは認識しておられると思います。

 恐縮そうな顔をして「お待たせしました」というようなことは言われたと思います。しかしそれは謝罪ではありません。何か謝罪めいたことを言われることはありませんでした。
 ただ、時間がかかってしまった、今後は面談が行われる、と言うのみでした。

 これまでのいきさつや、エホバの前におけるその罪の重さということを考えた時、謝罪の要求を無視しながら話を進めるのは、エホバの目に全く正しくないことであり、許容することなどできないと考えました。
 それは、私に対してもエホバに対しても、挑発行為というものです。このような仕方で話を進めるべきではありません。

 そこで、今回あらためて謝罪を求めるわけですが、要件を見直しました。
 この件に関わった三代の主催監督全員が、それぞれ書面にて、謝罪を書いて私に提出してください。

 私は、これまで長老たちにはさんざん騙されてきたと考えています。それに加えて先日のやりとりがあったわけです。
 こうでもしなければ、今後あなたが適正に問題を取り扱うという期待は持てません。このことはあなたにも解るはずです。

 よろしくお願いいたします。



◇ 2019年07月20日, 大井一弘兄弟から私へのメール

Re:宮原です

 親愛なる宮原崇兄弟へ

 兄弟のお返事を読ませていただきました。
 兄弟が要求しておられることがらは、私自身だけではなく、長老団全体に関係するものですので、このお返事をすべての長老に見ていただいています。
 長老団で検討し、改めてお返事させていただきます。

 どうぞよろしくお願いします。

大井一弘






#6

 2019年07月21日には、先週の集会の続きが行われました。
 テキストの内容は以下の通りです。



◇ 「ものみの塔」誌『研究用』2019年5月号, ものみの塔聖書冊子協会

研究記事20 虐待の被害者を慰める

「すべての慰めの神……はすべての患難においてわたしたちを慰めてくださ[る]」。コリント第二 1:3,4

 1 人はだれでも慰めを必要としています。他の人を慰める素晴らしい能力も持っています。1つの例を考えましょう。小さな子どもが遊んでいて転び,ひざを擦りむいたので,泣きながらお母さんのところに走っていきます。母親は傷を治せるわけではありませんが,子どもを慰めることはできます。「どうしたの?」と聞いて,子どもの涙をぬぐい,優しい言葉をかけて抱き締めます。そして薬を塗り,ばんそうこうを貼ってあげます。すると子どもはすぐに泣きやみ,また遊び始めます。何日かすると,傷も治ります。
 2 子どもは,はるかに深い傷を負うことがあります。性的虐待を受けた時がそうです。そうした虐待は1度だけのこともあれば,長年にわたって続くこともあります。いずれの場合も,子どもは心に深い傷を負います。加害者がすぐに捕まって処罰されることもありますが,処罰を免れているように見えることもあります。たとえ処罰がすぐに下されたとしても,心の傷は大人になっても消えない場合が少なくありません。
 3 子どものころに虐待を受けた兄弟姉妹が大人になってからもつらい気持ちと闘っている場合,何が助けになりますか。(コリント第二 1:3,4を読む。)エホバはご自分の大切な羊が愛され,慰められることを望んでおられます。では,次の3つの点を考えましょう。(1)子どものころに虐待を受けた人が慰めを必要としているのはなぜですか。(2)だれがそのような人の慰めになれますか。(3)どうすれば慰めになれますか。

慰めが必要なのはなぜか

 4 子どものころに虐待を受けた人は,かなりの年月がたった後も慰めを必要とする場合があります。なぜでしょうか。その理由を理解するには,まず,子どもは大人と全く違うということを知る必要があります。子どもは虐待されると,大人とは全く異なる影響を受けるものです。幾つかの例を考えましょう。
 5 子どもは,自分を育て世話してくれる人との緊密な信頼関係を築く必要があります。そのような信頼関係が築かれると,子どもは安心し,自分を愛してくれる人たちを信頼できるようになります。残念なことに,虐待が最も頻繁に生じるのは家庭です。家族や親族,家族と親しくしている人が加害者になるケースは後を絶ちません。子どもは信頼していた人に裏切られるので,かなりの年月にわたって,人を信頼できなくなります。
 6 無力な子どもに対する性的虐待は残酷な行為で,大きなダメージを与えます。子どもは体も心も成長途上にあり,結婚して性関係を持つことの意味をまだ理解していません。そのような子どもに性的な行為を強いると,大きなダメージを与えることになります。子どもは,性に対して正しい見方ができず,自尊心を持てず,自分と親しくなろうとする人を信頼できなくなります。
 7 子どもには,考えたり,判断したり,危険を予測して回避したりする能力がまだ十分に備わっていません。(コリ一 13:11)ですから,悪い人にとって子どもをだますのはたやすいことです。加害者は子どもに様々なうそをつきます。「全部おまえのせいだ」,「これは2人だけの秘密だよ」,「君の言うことなんか,だれも信じてくれないよ」,「大人と子どもも,好きだったらこういうことをするんだ」といったうそです。子どもはそれを信じ込み,何年もたってからうそだったことに気づきます。そして罪悪感を感じ,自分は汚れてしまった,だれかに愛されたり慰められたりする資格などない,と思うのです。
 8 性的虐待を受けた人が長い間苦しむのも無理はありません。本当に邪悪な犯罪です。性的虐待が広まっていることは,今が終わりの日であることの強力な証拠です。「自然の情愛を持たない者」が増え,「邪悪な者とかたりを働く者とはいよいよ悪に進[んで]」います。(テモ二 3:1-5,13)サタンのたくらみは実に邪悪です。多くの人がサタンを喜ばせるような行動をしているのは残念なことです。しかしエホバは,サタンや,サタンの喜ぶことをする者たちよりもはるかに強力です。サタンの策略もよくご存じです。わたしたちが経験する痛みをすべて知っておられ,必要な慰めを与えてくださいます。「すべての慰めの神……はすべての患難においてわたしたちを慰めてくださり,神によって自ら慰められているその慰めをもって,わたしたちがどんな患難にある人たちをも慰めることができるようにしてくださるのです」。(コリ二 1:3,4)このような神に仕えられるのは,本当にうれしいことです。では,エホバはだれを用いて慰めてくださいますか。

だれが慰めになれるか

 9 身近な人から虐待を受けた人や,親に守ってもらえなかった人は,特に慰めを必要としています。詩編作者ダビデは,エホバがいつも慰めてくださることを知っていました。(詩編 27:10を読む。)ダビデは,家族に捨てられた人をエホバが迎えてくださることを確信していました。どのように迎えてくださいますか。ご自分に忠実に仕える人を用いてそうされます。わたしたちにとって,共にエホバを崇拝する仲間は家族のような存在です。イエスも,自分と共にエホバを崇拝する人を兄弟,姉妹,母と呼びました。(マタ 12:48-50)
 10 クリスチャン会衆は確かに家族のようです。1つの例を考えましょう。使徒パウロは勤勉で忠実な長老でした。良い手本を示し,神に導かれて,「わたしがキリストに見倣う者であるように,わたしに見倣う者となりなさい」と述べました。(コリ一 11:1)ある時には,自分が長老としてどのように奉仕したかについてこう述べました。「乳をふくませる母親が自分の子供を慈しむときのように,あなた方の中にあって物柔らかな者となりました」。(テサ一 2:7)今日,そのような長老たちは,助けの必要な人を聖書を使って慰める際,パウロのように,優しく穏やかに話します。
 11 虐待の被害者を慰めることができるのは,長老たちだけではありません。わたしたちすべてには,「互いに慰め合ってゆ[く]」務めがあります。(テサ一 4:18)特に,エホバを愛する思いやり深いクリスチャン女性は,助けを必要としている姉妹を慰めることができます。エホバ神もご自分を,子どもを慰める母親に例えておられます。(イザ 66:13)聖書には,苦しんでいる人を慰めた女性たちのことが記されています。(ヨブ 42:11)今日でも,心の痛みと闘う仲間の女性を慰めている姉妹たちがいます。エホバはそのような姉妹たちを見て,喜んでおられるに違いありません。場合によっては,長老たちが,苦しみを味わっている女性を援助する際,信頼できる姉妹に同席を依頼するかもしれません。

どうすれば慰めになれるか

 12 兄弟姉妹が話したくないと思っている事柄を詮索しないよう注意すべきです。(テサ一 4:11)では,当人のプライバシーを尊重しつつ,どのように助け,慰めることができるでしょうか。聖書に基づく5つの方法を考えましょう。
 13 相手が必要としていることを行ないましょう。預言者エリヤは自分を殺そうとする人たちから逃げていた時,すっかり意気消沈して,もう死にたいと思いました。そんな時,エホバは強力な天使をエリヤのもとに遣わしました。天使はエリヤがその時必要としていたものを与えました。温かい食べ物を差し出し,食べるよう勧めたのです。(列王第一 19:5-8を読む。)この記述から大切なことを学べます。ちょっとした親切な行ないが大きな力になるということです。食べ物を差し入れたり,ささやかなプレゼントや,親切なメッセージを記したカードを贈ったりすることで,愛や気遣いを感じてもらえるかもしれません。つらい経験をした相手に慰めとなる言葉をかける自信がないとしても,ここに挙げたような方法で助けになることはできます。
 14 苦しんでいる人が安心感を抱けるようにしましょう。エリヤについての記述から別の教訓も学べます。エホバはエリヤに特別な力を与え,ホレブ山まで行けるようにされました。ホレブ山は遠く離れた所にあり,エホバが昔,ご自分の民と契約を結んだ場所でもあります。そこに着いたエリヤはほっとしたことでしょう。ここまで来ればもう安心だ,と思ったかもしれません。どんな教訓を学べますか。虐待の被害者を慰めるには,まず安心感を抱いてもらう必要があるということです。つらい思いをしている姉妹は,王国会館の補助会場よりも,家でお茶でも飲みながらリラックスして話すほうが落ち着くかもしれません。逆に,家よりも王国会館のほうがよい,という人もいます。長老たちはこうした点に配慮すべきです。
 15 話をよく聞きましょう。聖書はこう勧めています。「すべての人は,聞くことに速く,語ることに遅く……あるべきです」。(ヤコ 1:19)あなたは人の話をよく聞きますか。ある人は,聞くことは受け身の行為だと考えます。ただ相手の顔を見て,何も言わないことだと思うのです。でも,話をよく聞くのは,それだけのことではありません。例えば,エリヤがつらい気持ちをようやく打ち明けた時,エホバはじっと耳を傾けました。エリヤが恐怖と孤独感を味わい,自分のしたことはすべて無駄だった,と感じていることに気づきました。そして,そのような気持ちを克服できるよう親切に助けました。話を本当に聞いていたので,そうできたのです。(王一 19:9-11,15-18)
 16 話を聞いている間,どうすれば愛を示せますか。つまり,どうすれば相手の気持ちに寄り添い,優しい思いやりを示すことができるでしょうか。相手を気遣う,短くても温かい言葉で自分の気持ちを伝えることです。こう言えるかもしれません。「つらかったでしょうね。子どもにそんなことをするなんて,ひどいですね」。相手の話をきちんと理解できているかどうかを確かめるために,「それはどういうことか,教えていただけませんか」とか,「さっき……とおっしゃいましたね。それは……という意味だと理解したんですが,合っていますか」と尋ねることができるかもしれません。そのように親切に話すなら,相手はあなたが話を真剣に聞き,きちんと分かろうとしてくれている,と思うでしょう。(コリ一 13:4,7)
 17 「語ることに遅く」あることも必要です。アドバイスを与えたり,相手の考えを正そうとしたりして,話を遮ってはなりません。辛抱強く聞いてください。エリヤはエホバに気持ちを打ち明けた時,強い口調で語りました。エホバの助けによって信仰を強められた後も,また同じことを言いました。(王一 19:9,10,13,14)どんな教訓を学べますか。つらい思いをしている人は自分の気持ちを何度も話したくなる場合がある,ということです。エホバに倣い,辛抱強く耳を傾けましょう。解決策を示そうとするよりも,相手の気持ちに寄り添い,優しい思いやりを表わしてください。(ペテ一 3:8)
 18 つらい思いをしている人と一緒に,心から祈りましょう。ひどく落ち込み,エホバに祈れないでいる人がいます。祈る資格がない,と思うのかもしれません。そのような人を慰めるため,一緒に祈ることができます。祈りの中で,その人の名前を挙げ,その人が自分たちや会衆にとってどれほど大切な存在かを述べましょう。エホバがご自分の大切な羊であるその人を支え,慰めてくださるよう祈ることもできます。そのような祈りは大きな慰めになります。(ヤコ 5:16)
 19 慰めになる言葉を選んでください。話す前に考えましょう。無思慮な言葉は人を傷つけ,親切な言葉は人をいやします。(箴 12:18)親切で慰めとなる言葉を見つけられるよう,エホバに祈ってください。聖書に記されているエホバご自身の言葉ほど強力なものはない,ということを忘れないようにしましょう。(ヘブ 4:12)
 20 過去に受けた虐待のせいで,自分は汚れている,価値がない,愛されていない,愛される資格もない,と思っている人がいます。でもそれは真実ではありません。聖書を使って,エホバがその人をとても貴重な存在と見ていることを伝え,安心させてください。(「聖書から慰めを得る」の囲みを参照。)エホバは,落ち込んでいたダニエルをどのように力づけたでしょうか。1人の天使を通し,ご自分にとってダニエルがどれほど大切な存在かを知らせました。(ダニ 10:2,11,19)今つらい思いをしている兄弟姉妹も,エホバにとって大切な存在です。
 21 だれかを慰める際には,エホバがその人を愛しておられることを伝えましょう。エホバは公正の神でもあられます。虐待という邪悪な行ないは隠しおおせるものではありません。エホバは何もかも見ておられ,悔い改めない悪行者を必ず処罰されます。(民 14:18)その時が来るまでできる限りのことを行なって,虐待を受けた人に愛を表わしましょう。エホバは,サタンやサタンの世からひどい扱いを受けた人の痛みを完全に取り除いてくださいます。そのことを知ると,本当に慰められます。もう少しすれば,つらい事柄は思い出されることも心に浮かぶこともなくなるのです。(イザ 65:17)



 この内容も、全信者によって討議されます。

 文書中にある「君の言うことなんか,だれも信じてくれないよ」という言葉は、私も繰り返し聞かされました。
 母はいつも私にこう言っていました。「おまえの言うことなんか、誰も聞かなし、聞いても信じない。そのうちおまえは一生懸命涙を流しながら『どうか聞いてください。私の言うことは本当です』と訴えるようになるが、そうしたら長老たちも会衆もみんなおまえを完全に無視するようになるだろう。その時が来たらお前の人生は終わりだ。」
 母は「その日が来るのが楽しみだ」と言って私のことを笑っていました。母の意見では、その日は必ず来て私の人生は破綻することになっているのだそうです。






#7

◇ 2019年07月26日, 私から山下義人兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 前回のメールをお送りしてから2週間が過ぎました。お願いの件はどうなっていますでしょうか。

 大井一弘兄弟の訪問があったことはよかったと思っています。しかし、それによってあなたの果たすべき責任が消えてしまったわけではありません。
 誠実であることは、誰かに肩代わりしてもらえるというものではありません。正しいことを行うことも、同様です。
 あなたが行わなければなりません。

 私は「お願い」を述べました。長老の立場にある人が、会衆の成員からの請願を無視することは、大きな罪です。

 私は、あなたの日ごろの立ち振る舞いには良い印象を持っています。物腰が低く、おおらかで、何よりも思いやりが深いというのが、あなたのスタイルです。少なくとも見かけ上、あなたはたいへん心の優しい方であるように見えます。そのようにしか見えません。
 しかし、それが単なる見かけであり、偽りであるとしたらどうでしょうか。



◇ 2019年07月26日, 山下義人兄弟から私へのメール

Re: 宮原です

 親愛なる宮原兄弟

 長らくお待たせ頂く形になってしまい申し訳ありません。

 長老団でどのように対応させて頂くか,検討しておりました。
 わたし個人として動くことではなく,長老団として物事を扱っています。
 長老団としての意向をまとめて,調整者の大井一弘兄弟が代表して宮原兄弟のところに訪問して下さいました。引き続きこの件は長老団によって扱われていきます。

 前回の宮原兄弟のメールにて
 「検討中だと言われたので我慢して待ちましたが、結局何も起きませんでした。
 私はまた長老たちに放置されてしまいました。もう何度騙されたかしれません。
 これはいったいどういうことでしょうか。
 私は相変わらず長老たちに騙され続けています。」
 「私からあなたにお願いがあります。
 今後は、誰に対しても、このような邪悪な振る舞いは決してしないと、私に約束してください。」

 宮原兄弟がおっしゃる「邪悪な振る舞い」を私がしてしまい,わたしの振る舞いや言動で,不快にさせてしまっていましたら,申し訳ありません。

 前回大井一弘兄弟が訪問して下さってから,その後また長老団で扱っております。
 わたし一個人として,何かおこなったり,物事を一人で進めていくとはありません。

 今後の長老団の意向をまとまりましたら,大井一弘兄弟から通知があると思いますのでよろしくお願いいたします。

山下義人



 山下義人兄弟の返信を読んで、私を待たせるにあたっての論理がまったく間違っているということは言えない、と思いました。丁寧な謝罪もあります。
 とはいえ、いくつか問題があると思いました。

 まず、ある大きな問題に個別の問題が絡んだ場合に、個別の問題の取り扱いを大きな問題に含めてしまうべきか、ということがあると思います。私としては、この場合そうするのは不適切であるように思います。「個別の問題は大きな問題から切り離して解決を図ったほうがよい」という考え方があり、今はこれを採用すべきだと思いました。
 さらに、こういうやり方には責任逃れという側面もあります。長老団に判断をゆだね、長老団の判断を待ってそれに従うというのは、謙虚さや従順さという面においては優れているかもしれませんが、その結果私に約束を述べたとしても、彼自身が自分の罪を認めて反省したということはなりません。
 それに、私が非常に気にかけている、再発あるいは事故の防止という点でも、なかなか期待が持てそうにないということがあります。私は、彼のような振る舞いが相手によってはかなり深刻な事態をもたらしうることを指摘したのですが、彼自身が個人としてこのような問題についての自覚を深めなければ、きっと同じような問題は繰り返され、ついには私が懸念する事態も生じると思います。
 あと、私の言葉が彼の良心にどれだけ響いたか不明であるというのも、よくないことだと思いました。私の指摘を読んで、自分のせいでこんなことが起こってしまったらたいへんだ、そんなことになったらどうしよう、と彼が思うようであればよいのですが、そのへんがどうも明らかでないです。しかも、彼はこの場面でも私に対して入念な謝罪を述べており、その内容を見る限り、彼にとってこの問題は、徹頭徹尾、私の機嫌の問題であるように見えます。

 そこで、私から、エホバの組織(教団)に対して、最初の提言を述べたいと思います。

 組織は、“誰かから手紙を受け取った場合、まずはすぐに手紙を受け取った旨の返信を書き送る、そして1週間ごとに追加の返信をする”という規則を作って各会衆の長老団に対して通知すべきだ、と私は提言します。
 「手紙は確かに受け取りました。内容に対する回答は今後になりますが、まずは手紙を受け取った旨を返信いたします。」とか「手紙を受け取って1週間が過ぎましたが、回答は遅れております。もうすこしお待ちください。」という返事を書くことを長老たちに義務付ければ、この種の問題は手っ取り早く解決するということです。
 もちろん、組織は、そのような規則を作って長老たちに義務付けるのですから、自ら率先して手本を示さなければならないと思います。昔から兄弟姉妹の間でよく聞くのは、「協会に問い合わせを行ったが、返事が来たのは何か月もあとだった」という話です。私もそういう経験があります。うちの会衆には「とうとう返事は来なかった」という方もいます。
 組織がよい手本を示さなければ、諸会衆の長老の振る舞いが悪くなっても当然ではないでしょうか。組織が規則を作り、優れた手本を示すなら、うちの会衆の長老の振る舞いもきっとよくなります。このことで誰かが苦しむということもなくなっていくでしょう。

 すでに見ているように、大井一弘兄弟のほうは、過去はともかく直近にはこれができています。いまのところ、このことは長老個人の資質によるところが大きいと思います。






#8

 さてここで、そもそも「児童虐待」ということはいつから考えられるようになったのか、ということを紹介したいと思います。



◇ 「乳幼児精神医学入門」, 本城秀次 (表記等修正)

 1946年にキャフィーは、慢性硬膜下血腫に長管骨の多発性骨折を伴った六例の乳児について記述したが、これが身体的虐待の症例が医学的に取り上げられた最初であるといわれている。……その後1953年に、シルヴァーマンは同様の多発性骨折を呈した三症例のレントゲン像を詳細に検討し、それらが外傷によって生じたものであることを示した。……そして、ケンペ(ケンプ)らは「被虐待児症候群」という名称を提唱した。
 ……医学領域において児童虐待(child abuse)という名称が初めて用いられたのは1965年のことであり……その後、児童虐待という用語が一般に用いられるようになってきた。



 これを読んでショックを受けられる方は多いのではないかと思います。児童に対する虐待ということは昔から常々問題にはなってきましたが、世の中がじゅうぶん認識するようになったのは1960年代くらいからで、それまでは“児童虐待”という専門用語すらなかったらしいです。
 このころまで、児童虐待の被害者は社会からも虐待されることを余儀なくされていました。虐待を訴える子供に対する人々の反応はこうです。まあこの子はなんて悪い子なんだろう。親が子供に暴力をふるうなんてことはあり得ない。それなのにこの子は親が自分に暴力をふるうと言う。なんてひどいことを言うんだ。この子は親から日々の衣食住を与えられているのに、感謝の気持ちはないのだろうか。親の愛を否定するこの子は悪魔の子だ。
 この問題の背景には、レイプ被害者に対する同様の見方があったと思います。当時の世の中には、レイプ被害の訴えというものは、ごく一部の場合を除けば、精神に異常をきたした哀れな女性による妄想か、男性から金銭を搾取しようとする女性詐欺師による創作であろう、という認識があったそうです。レイプの被害を訴える女性が社会から相手にされることは少なかったようです。






#9

 一方の日本では、1933年に「児童虐待防止法」が制定されてますので、「児童虐待」という語自体はかなり昔からあったようです。
 ただ、いま「児童虐待」と言う時のような意味合いはなかったみたいです。



◇ 「明治期における「児童虐待」の社会的構築」, 高橋靖幸, 「子ども社会研究」 19号 (表記等修正)

 1933(昭和8)年に日本で初めて制定された児童虐待防止法は、実のところ屋外で特殊な労働を強いられていた児童を保護することを主要な目的に誕生した。1933年の児童虐待防止法は、児童の門づけ(かどづけ, 大道芸のこと)、軽業(かるわざ, 綱渡りや玉乗りなど)や雛妓(すうぎ, 料亭で踊ったり酒を注いだりする子供)などといった「工場法、工業労働者最低年齢法などでカバーしきれない児童労働に対する保護規定の位置」づけをもつものであったのである。






#10

◇ 2019年07月27日, 私から山下義人兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 あなたの返信を読ませていただきました。
 これは、あなたの担うべき責任を他人に転嫁してしまうことにほかならないと思いました。

 この件は長老団として扱うと言われましたが、その場合でも私の言うことはほとんど変わりません。

 長老団が私の問題を取り扱うことは結構なことだと思っています。しかし、それによってあなたの果たすべき責任が消えてしまったわけではありません。
 誠実であることは、誰かに肩代わりしてもらえるというものではありません。正しいことを行うことも、同様です。
 あなたが行わなければなりません。

 とはいえ、あなたはもう、これは長老団が扱い大井一弘兄弟が回答を提出する問題だと言ってしまわれました。
 私はそのような主張に賛成しませんが、あなたがそう言った以上、あなたにはその発言の責任を取ってもらわなければならないと思います。これは取り消せる発言ではありません。
 そこで、この際私としても、私があなたにお願いした内容を長老団が扱うことを要求することにしました。

 山下義人兄弟が私のメールを1か月も放置した件について、今後は私に対してもほかのだれかに対しても決してそのようなことはしない、という約束を、長老団として書面で作成し、大井一弘兄弟が私まで提出してください。
 また、長老団がこの問題を扱うことになったのですから、処分も決定してください。少なくとも1か月、山下義人兄弟の長老の職務を停止し、そのことを会衆に対して通知してください。

 私としては、あなたが自分の罪を素直に認めて謝り、今後はこのようなことをしないと約束すれば済む話だったと思います。しかし、あなたの態度がかたくなである以上、こう要求するのはしかたありません。

 とはいえ、それだけでは不足だとも思います。
 誰にも、その人の霊的必要というものがあります。あなたにももちろんそれはあって、満たされなければなりません。
 私たちの中には、筋道をたてて話をしても話の内容がわからないという人がいます。論点を示したら別のことを言うという人もいます。良心に訴える話をしても効き目がないという人もいますし、際限なく責任回避を続けるという人もいます。そのような人には、そのような人に見合った配慮が必要だと私は思います。
 そこで、私はあなたに対して、ちょうどパウロがしたように、乳をふくませる母親のように物柔らかな者となりたいと思います。

 そのようなわけで、今ここでは、この問題を私から切り離し、筋道たてて話すこともやめにして、話の内容を絞りたいと思います。
 私としてはそのようなやり方にはまったく賛成ではありませんが、私はあなたに対して物柔らかな者となることを決意しました。

 ぜひ、次のような場面を考えてください。
 この会衆に障害者の姉妹がいるとします。もちろんこれは私ではありません。
 会衆の誰かがこの姉妹をいじめたとします。精神的に追い詰められた姉妹は苦しんで、長老であるあなたを頼りにしたとします。
 あなたはこの姉妹からのメールを受け取りましたが、理由があるからと言って1か月放置しました。すると、その姉妹は自殺してしまいました。
 繰り返し言いますが、これは私のことではありません。

 さて、このような事件が起こったとしたら、あなたは自分のことをどう思うでしょうか。
 どう思うかを忌憚なく書いて私まで送ってください。そうしましたら、私は再度、同じお願いをあなたにすることができると思います。



◇ 2019年07月28日, 山下義人兄弟から私へのメール

Re: 宮原です

 親愛なる宮原兄弟へ

 宮原兄弟が例えで話されたような事が起こってしまうとなら,私ならどう感じるか。
 心が痛みます。

 そのような事が起こらないように,私個人,そして長老団は宮原兄弟との牧羊訪問がしたいと申し出ていますが,宮原兄弟がそれを拒絶されているように感じます。

 過去の事を宮原兄弟は取り上げておられますが,牧者の牧羊訪問を拒絶されてしまいますと,私たちとしては助けるのが難しくなってしまいます。

 私からの返答としましては,前回お送りさせて頂きました内容と変わりはありません。

 長老団からの返答をどうぞお待ち下さい。

山下義人



 どうも長老団のほうでは、私が牧羊訪問を拒絶しているという認識が持ち上がっているようです。

 質問に対する返事がいただけたのはいいのですが、「心が痛みます」と一言だけです。しかも、そのあとの文面を見ると、「この件についてはもうこれ以上返答しない」という宣言をしているようにも見えます。

 要求のほうは無視されたように思います。






#11

 エホバの証人の出版物において「児童虐待」という言葉がはじめて使われたのは、1973年だと思います。(1950年より古いものは調べていません)
 先に挙げた事実 [#8] ということを知らなければ、これは遅いのではないか、と思うかもしれません。このあたりの評価は難しそうです。

 英語版では“child abuse”という語が用いられていますが、日本語版では「児童虐待」となっていません。おそらくですが、まだ日本にはこの語が定着していなかったのではないかと思います。



◇ 「目ざめよ!」誌1973年12月8日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 子どもに対する虐待事件が知られているだけでも過去10年間に五倍になったことに気づいている人は少ないと,アメリカ医学協会に提出された一報告は述べている。「国家の恥」ともされることであるが,こうした虐待はアメリカの五歳以下の子どもの主要な死因となっている。その報告によると,今年中に5万人の子どもが死に,30万人の子どもが回復不能の身体的または精神的障害を負うものとみられる。その広範な影響についてこう述べられている。「それは,さらに多くの暴力をはぐくむ暴力的な病弊である。というのは,虐待された今日の子どもは,もし生き伸びるとすれば,自分の子どもを虐待する親となるからである」。こうした破壊的な悪循環は,いっそうの怒り,憎しみ,犯罪行為を生み出し,「いつの日か,たいていの者が街路にも出られなくなる時が来るであろう」。






#12

 1976年には、エホバの証人の出版物にてはじめて、児童虐待ということが組織的に取り上げられました。二部構成になっています。
 やはり、日本語版には「児童虐待」という言葉がでてきません。



◇ 「目ざめよ!」誌1976年11月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

小さな子供を殴る ― なぜ?

 「これでは,強制収容所での拷問や人間を堕落させるための手引を読んでいるかのようだ」。この言葉を記した新聞記者は何について語っていたのでしょうか。
 子供に対する虐待です。最近の報道によると,そうした虐待行為は米国および世界の他の土地で,今や“流行病”とも言えるほどに多くなっています。
 この流行病はどれほど深刻なものですか。1975年4月21日付のアメリカ医学ニュース紙は,「子供に対する虐待 ― 一日二人の子供が死ぬ“病気”」という見出しを掲げました。一か月後,法医学ジャーナル誌はこう報じました。「今日,子供の最も一般的な死因は,子供に対する虐待行為であると言えるかもしれない。虐待行為や殴打のために死ぬ子供の数は,事故や伝染病で死ぬ子供の数を合わせたよりも多い」。
 1975年の暮れも押し迫ったころ,UPI通信社は次のようなニュースを流しました。「米国では毎年百万人以上の子供が虐待されたり置き去りにされたりする」。米国保健教育福祉省の一役人ダグラス・ベシャロフからの資料に基づいて,その記事はさらにこう述べていました。「最も限定的に見積もっても,毎年2,000人の子供が虐待や置き去りなどの結果として死んでいる,と同氏は語った」。統計によると,そのような虐待を受ける子供は普通五歳以下であり,一歳に満たない子供も珍しくありません。

子供に対するはなはだしい残虐行為

 子供の虐待に関する話は悲痛な思いをさせます。警察の報告書によると,米国ニューヨーク市ブロンクスに住むある男は,四人の幼い子供を次に挙げるような恐ろしい目に遭わせました。

 ● 子供のひざにホットケーキのシロップを塗り,米粒をまいた床の上を四つんばいにならせて小刻みに歩かせる。
 ● 子供を裸にして,高さ2㍍余りのたんすのたなの中に入れ,子供の臀部に熱したロウを注ぎ,一時間以上もそのたんすの中に閉じ込める。
 ● 7歳になる男の子が騒いで起こされたこの男は,その子を天火の中に入れ,天火のとびらを閉め,それに火を付けた。母親が部屋に飛び込んで来て子供を天火から出さなかったら,その子は痛ましい死を遂げていたであろう。

 別の事例では,波の逆巻く海を見下ろす高さ90㍍のがけに生えている木に,生後18か月の男の赤子がぶら下げられているのが発見されました。その子は捨てられていたのです。バージニア・コイニーは,自著「子供たちも人間」の中でこう述べています。「親は子供の小さな手を切り落し,自分の子供にやけどを負わせ,食べ物を与えず,かたわにし,殴り,くさりで縛り,監禁し,さらには殺しさえした」。幼児やよちよち歩きの子供が,身体的な虐待のみならず,言葉の上で,また感情的,さらには性的な虐待を経験することも珍しくありません。
 子供をそのようにひどい目に遭わせる親や大人はどんな型の人間ですか。それは主に精神異常者や低額所得者など,いわゆる不幸せな人々ですか。

『決まった型はない』

 実際のところ,子供に対する虐待行為は人種,経済,また社会的な差異などを超えて,あらゆる人々の間で見られます。バージニア・コイニーはこう述べています。「子供を虐待する親に,決まった型などない……はずである。バルチモアで調査すれば,そうした虐待行為をする親は黒人が多くなり,ソルトレイクシティーで調査をすれば白人が多くなる。人種的な要素は,調査の対象となるグループの構成によって左右される」。同著者はさらに次のような点を指摘しています。
 「子供に対する虐待が,子供への憎しみはおろか,子供ぎらいの結果であることさえまれである。わずかな例外を除くと,専門家たちは,子供を殴る親がその子を愛しているという点で意見が一致している。たとえその子を愛していないとしても,他の子供を愛している。子供を虐待する人が行ないを変えたがっているという事には十分の証拠がある。大抵の場合,適当な権威者に自分の行動を告白するのは虐待をしている当人であり,そうするのは,自分[親]の病気から子供を守りたいと願っているからであるようだ。それは確かに病気と言える。子供に対する虐待は,急性の外傷を引き起こし,再発性の発作を伴う慢性病とされてきた」。
 この“病気”の原因は何ですか。どうしたらこの病気に掛からずに済むでしょうか。

制御されない怒り ― なぜ?

 子供に対する虐待の原因を明らかにするために多くの研究がなされました。ほとんどすべての場合,共通した一つの要素が存在していました。それは何ですか。子供に対する虐待問題の専門家C・ヘンリー・ケンプ博士によると,子供を虐待する親の九割以上は,制御されない怒りのままに子供を虐待します。そうした怒りを引き起こすのは何ですか。
 親の一方あるいは双方が自分に用意のできていないような事態に面すると,往々にして怒りの気持ちが生じます。悲しいことに,夫婦の間に最初の子供ができたということが,その新しい事態である場合も少なくありません。ケンプ博士の協力者であるジェーン・グレイ博士はこう説明しています。「子供の世話をすることが何を意味するか少しも理解していない娘が少なくない。おしめを取り替えたり,熱を下げたり,こぼれた食べ物を片付けたり,夜中に起きたりすることについて彼女たちに教えた者はいない」。自分では何もできない幼児の世話をすることには喜びを見いだしていたのに,子供が歩き始め,小児用寝台やベビーサークルの中からはい出して“あらゆることに手を出す”ようになると,絶望的になり激怒に身を任せてしまう親もいます。また,年上の子供は上手に扱えるのに,幼い子は扱えないという親もいます。
 子供に対する虐待を引き起こす大きな要素は都市の生活です。大気や水の汚染そして騒音公害に囲まれた過密都市は,多くの大人にがまんのならない緊張をかもし出します。そうした大人が“爆発”するときその被害者になるのは,何もできない子供である場合が多いのです。
 デトロイト・ニューズ紙に掲載された一記事は,子供に対する虐待を引き起こす別の要素を指摘してこう述べています。「子供に対する虐待の急増は,大都市デトロイト内外での失業の増加の副産物ではないか,と専門家たちは懸念している」。職を失った父親は,自分は役に立たない人間であるという感情にさいなまれるだけでなく,失業する前の一日一,二時間よりずっと長い時間,子供と一緒に毎日過ごすようになります。大抵の場合,男親は幼い子供のきーきー声や落ちつきのない行動に耐えることができません。
 しかし,子供に対する虐待の根は,普通はもっと深いところ,もっと個人的なレベルにあります。どうしてそう言えますか。

“一人前でない”と考える親

 子供に対する虐待をなくそうとする人々は,親たちに対し,自分をよく見つめるようにと勧めています。そうした親たちは,しばしば自分の子供に対して非現実的な期待を抱きます。なぜでしょうか。米国テキサス州ダラスの小児虐待問題対策事業の指導者であるキャロル・バウドリーはこう指摘しています。「子供を虐待する親の多くは自尊心に欠け,自分が“一人前でない”,つまり自分は自分の両親の期待に添うことができなかったと考えさせられてきた人々である。その結果,自分たちが大人になり,自らの子供を持つようになると,自分の子供に『お前は一人前ではないが,わたしは一人前だ』と言って,自分を示そうとする」。
 幼いころに虐待されたこれらの親たちは愛に飢えており,しばしば実現不可能な事柄を自分の子供に期待します。著述家エドワード・エデルソンは,ケンプ博士を主任として行なわれた研究について注解を述べ,次のように説明しています。
 「それぞれの事例が異なっていることは明白である。しかし,ケンプ博士の研究グループは,ほとんどすべての事例に共通する要素を見いだした。すなわち,虐待された子供は虐待する親になるという点である。自分の親から退けられ,自らの無力さを思い知らされた人々は,他の人々と正常な関係を保つことに困難を覚え,自分の子供に多くのものを期待しすぎる。そうした期待は決して満たされない。正常な子供であれば,そうした親たちの望むような完全な人間にはなれないからである。こうして子供は殴打されることになり,再び同じことの繰り返しが始まる」。
 マサチューセッツ州幼児虐待防止協会の研究結果も,ほぼ同じようなものでした。このグループは,合計180人の子供のいる115家族で,子供に対する虐待の事例を調査しました。その結果によると,子供を虐待する人十人のうち九人までは「深刻な対人問題」を抱えています。そうした人々は大抵孤独で,集団との付き合いというものが,ほとんど,あるいは全くありません。そのような親の多くは,子供(あるいは子供たち)によって,自分の必要とする交わりや愛情の大半を満たそうとします。そして子供を“小さな大人”とみなし,大人としての愛情,動機付け,自制心を示すよう子供に要求するのです。もちろん,幼児やよちよち歩きの子供はそうした期待に添うことができません。ところが,そうした子供たちの失敗は意識的な不従順とみなされ,それ相応の罰が加えられることになるのです。

“新しい道徳”の影響

 近年,性道徳に対する見方は著しく変化しました。今日では,男女ともに,性関係を持つ相手を気ままに変えることが一般化しています。これに対してどんな見方を持っているとしても,こうした変化が子供に対する虐待増加の一因となってきたことに気付いておられますか。一体どうしてそう言えるのでしょうか。
 米国オレゴン大学医学部の小児神経科医ペギー・フェリー博士はこう述べています。「新しい男友達は,小さくて,かんしゃく持ちの子供に対し,しばしば怒りを爆発させる。その子供は,母親の以前の愛人を思い起こさせたり,二人の遊びの邪魔になったりする場合があるからであろう」。この記事の初めに挙げた拷問の手を考え出したのも,そうした“男友達”でした。
 何もできない子供を殴り,拷問に掛け,さらには殺すというような報道が増加しているのは確かに痛ましいことです。これまでのところで,子供に対する虐待の主な原因について考えてきました。では,どうすればこうした原因と取り組み,小さな子供を痛め付けようとする傾向を克服できるでしょうか。



◇ 「目ざめよ!」誌1976年11月8日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記等修正)

子供に対する虐待 ― それに関してあなたの行なえる事

 子供に対する虐待という“流行病”は,今や驚くほど多くなっています。前の記事にも述べたとおり,親に影響を与える様々な情況や態度が,子供に対する虐待につながっています。
 親および他の大人たちは,子供を虐待しようとする傾向にどうしたら打ち勝つことができますか。一つの方法は,子供に対する虐待がもたらす有害な結果を自覚することです。この点について真剣に考えたことがありますか。
 ピッツバーグのある研究チームは,虐待を受けた20人の子供たちを調査しました。その調査の報告書は次のように説明しています。
 「子供たちの大半は,精神的,肉体的,そして感情的に,もはやいやすことができないほどに損なわれている。全く正常であると言えるのは,20人中2人にすぎない。半数以上は体重が平均以下で,中には極端な栄養失調に陥っている子もいた。さらに六人の子供は中枢神経系統に障害の徴候を示した。そのうちの二人の場合,それは明らかに頭部を殴られた結果である。この子供たちのうち三人には,はっきりした身体上の欠陥が見られた。一人は頭蓋骨の奇形,もう一人は下半身の麻痺,三人目は目に永久的な損傷を被っていた。身長も体重も平均以下の子供が二人,知能指数が80以下の子供が,四人そして情緒面での問題を持つ子供が四人いた。この子供たちの半数以上には言語障害も見られた」。
 幼い子供の体を激しく揺することも,同じように悪影響をもたらすのをご存じでしたか。そうすることも,脳に永久的な損傷を与えることになりかねません。子供たちに対して絶えず叫び声を上げたり,子供たちをののしったりするのは,消し去ることのできない害を子供に与える別の事柄です。
 聖書は,神の是認を求める人すべてに対して,次のような訓戒を与えています。「すべての悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪とともにあなたがたから除き去りなさい」。(エフェソス 4:31)これは,子供に対する虐待のほとんどすべての根,すなわち制御されない怒りを非とするものです。

「しかし,わたしは気性が激しいので」

 というのがあなたの問題ですか。どうしたら怒りを爆発させないようにすることができるでしょうか。
 怒りに対する正しい見方を持つことが肝心です。今日の世界が問題や圧力に対処する方法として怒りや暴力を容認していることを,ご自分の経験から知っておられるに違いありません。しかし,そうした態度から生じた二つの世界大戦や他の多くの紛争は,それが有益であることを示していますか。
 聖書によると,怒りや暴力は,強さではなく,むしろ弱さの表われです。こう書かれています。「愚かな者は怒りをことごとく表わし,知恵ある者は静かにこれをおさえる」。(箴 29:11,口語訳聖書)聖書は,怒り狂った人の弱さを例えで描写し,さらにこう述べています。「自分の心を制しない人は,城壁のない破れた城のようだ」― 箴 25:28,口語訳聖書。
 どうしたら怒りを抑えることができるようになりますか。基本的な段階は,聖書の助言をさらに聴くことです。『怒る者と交わることなかれ 憤る人とともに行くことなかれ 恐らくは汝その道にならいてみづからわなに陥らん』。(箴 22:24,25)この助言に従うのは難しくはないはずです。どんな人と交わるかは自分の力でどうにでもなる事柄だからです。穏和な人々との交わりを求めることは,自制心を保つのに役立ちます。
 子供のためにあなたが怒り立たせられるような情況を避けることができますか。買い物をする間子守りを頼んだり,家族の他の人が子供の面倒を見ていてくれる時にまとめて買い物を済ませたりするのはいかがですか。子供が疲れ果ててむずかる場合,自分のしていることを何であれ途中でやめ,ベンチや近くにあってそれと同じ役をする設備のところで子供と一緒に腰を下ろす賢明な親も少なくありません。厳しい言葉よりも,慰めとなる言葉を二言三言語れば,子供たちは大抵静かになります。
 それは,そうした騒ぎを起こすべきでないことぐらい「知っているはず」の子供たちを甘やかす結果になると考える人もいるでしょう。しかし大抵の場合,子供たちは数時間歩き続けたり,エネルギーを消耗したりして,ただ疲れているだけなのです。そのような場合,聖書は不平に耳を傾けるようにと諭しています。「耳を閉じて貧しい者[困っている者,新英語聖書]の呼ぶ声を聞かない者は,自分が呼ぶときに,聞かれない」― 箴 21:13,口語訳聖書。

自分の幼かった時のことを思い出せますか

 子供に対していら立ちを覚えないようにするための大切な方法は,自分が幼かった時にはどうだったかを思い出すことです。子供を持つ女性ジャーナリストの語る次の経験は啓発的です。
 「ある日ひとりの若い男の人が,叫び声を上げてもがいている子供を腕に抱いてバスに乗って来た。その男の人は,女の子を押さえておくだけで精一杯であった。彼は,子供が声を張り上げて泣くので,バスの乗客がいやな顔をするのを百も承知していた。やっと席に座ると,その若い父親は泣き叫ぶ子供をしっかりと腕の中に抱いて,低い落ち着いた声で女の子に語り掛けた。『ジェニーや,いい子だね。お前がどんな思いをしているかはよく分かるよ。おなかがすいて,疲れているのだろう。それはいやだろうね。何が何だか分からなくなっているんだ。どうしても泣きやむことができないのだろう。どうしようもないのはよく分かるよ。そうだ,ゆりかごみたいに揺すってあげよう。もうすぐ家に着くからね。そうしたら,お前のベットに連れて行って,子守り歌を歌ってあげるよ。かわいそうに,泣きやむことができないんだね』」。
 子供に対する父親のこの優しい同情心はどんな結果になりましたか。「数分後,疲れ果てたうえ,物分かりのよい言葉を耳にしたジェニーはおとなしくなり,親指を口にして眠り込んでしまった」。それを見ていたそのジャーナリストは,次のような結論を引き出しました。
 「親が子供の経験していることに対して感情移入を行ない,自分もずっと昔には同じように感じたことを認めるなら,事態は全く違って来る。子供が親をいらだたせようとしている手に負えない小僧であるなどと考えるなら,無性に殴りたくなる。しかしもし,『子供は疲れると前後の見境いが付かなくなるものだ。自分も小さいころはそうだったのだろう』と考えるなら,親と子供の双方にとって有益な育て方ができるようになる」。

「いらだたせる」ことのない懲らしめ

 これは,しりをたたくといった体罰すべてを非とするものでしょうか。決してそうではありません。そうした種類の罰が必要な場合は少なくありません。聖書はこう述べています。『子を懲らすことをせざるなかれ むちをもて彼を打つとも死ぬることあらじ もしむちをもて彼を打たばその魂を陰府[墓]より救うことをえん』― 箴 23:13,14。
 しかし,いつでも体罰が必要であるわけではありませんし,どんな子供にも体罰が効果的であるとは限りません。また,極端なまでに体罰を加える親が少なくないことに気付いておられますか。そうした親は理性を失い,矯正のために必要以上に危害を加えるのです。種々の調査の示すところによると,子供を虐待する親の中で圧倒的多数を占めているのは,子供を過度に懲らしめる親です。
 聖書はこの点を警告しています。子供を「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」育てるように勧める一方,使徒パウロは,「あなたがたの子どもをいらだたせ(てはなりません)」と警告しています。(エフェソス 6:4)別の箇所でパウロはこう諭しています。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらいらさせ(る)……ことのないようにしなさい」。(コロサイ 3:21)この言葉に従うなら,残忍な殴打などの身体的な拷問はもちろん,絶え間なく叫び声を上げて子供を責めたり,その他の心理的な侮べつを浴びせたりすることもなくなるでしょう。神に喜ばれる態度として,聖書は,子供を『慈しみ』,子供に対して「物柔らかな者」となる親のことを挙げています。―テサロニケ第一 2:7。

子供を虐待する親に対する助け

 子供に対する虐待の問題を克服するためにはまず親を助けなければなりません。エドワード・エデルソンは,「助けが必要なのは親」という記事の中で次のように指摘しています。
 「ほとんどの場合,子供に対する虐待を治療するには,親が必要としている親密な友情を得させるため,親にそれなりの自尊心や尊厳を培わせることが必要である。そうした親たちの大半は,言い知れぬ孤独を味わいながら生活している。というのは,自分の親から退けられたと同じ仕方で,知人たちから退けられるのではなかろうかと恐れているからである。そうした友情だけが,子供に対する正しい見方を親に持たせることができる。すなわち,子供を親の必要を満たすための小さなおもちゃとしてではなく,命と自らの要求を有する一個の人間とみなすようになれるのである」。
 他の大人との肝要な個人的関係を培うために,子供を虐待する親たちの中には,“子供を虐待しないようにする親の会”や“子供を虐待しないようにする母親の会”などの組織に参集した人々もいます。彼らは,親子の関係を良いものにするため定期的に会合を開いています。場所によっては,事態が険悪になった場合に親が子供を預けておくことのできる,緊急託児所のあるところもあります。そうした施設が近所にありますか。掛かり付けの医師や近くの病院を尋ねてみたり,電話帳を調べてみたりすれば,子供に対する虐待の問題について助けを与えてくれるような人と接触できるかもしれません。
 しかし,有意義な人間関係を培うということになると,そうしたこの世の援助よりも,ずっと効果的なものがあります。それは一体何でしょうか。

本当に役立つ導き

 記された神のみ言葉に関して,使徒パウロはこう書いています。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり……物事を正(す)……のに有益です」。そうした物事の中には,損なわれた親子の関係も含まれています。(テモテ第二 3:16)そうした関係を改善するのに役立つ基本的な原則を幾つか検討してみましょう。
 子供に対する虐待の問題を研究する人々によると,子供を虐待する親は子供の能力を超えた法外な期待を子供に対して抱きます。聖書はそのような利己的な態度を正すのに役立ち,こう述べています。「あなたがたの中のすべての者に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません」。(ローマ 12:3)聖書の明らかにする,次のような真理をさらに認識するなら,そうした助言に従いたいと思うようになるでしょう。『正しくして善を行ない罪を犯すことなき人は世にあることなし』。(伝道 7:20)大人であれ子供であれ,すべての人には欠点があります。そのことを考えれば,幼児やよちよち歩きの子供たちの欠点は,大人の不親切な行為(時には計画的であることもある)ほどとがめ立てすべきでないのではありませんか。
 確かに,子供が故意に“わんぱくな”振舞いをするため,親が不愉快に思うのも当然な場合もあります。そして,前述のとおり,文字通りの「むち」を使って懲らしめることが必要になるかもしれません。しかし,親は懲らしめを与える際に決して自制心を失ってはなりません。親は次のような聖書の助言を思いに留めておくべきです。「引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい」。しかもこの原則は,「だれかに対して不満の理由がある」と正当に言えるような場合にも当てはまります。―コロサイ 3:13。
 性道徳に関する聖書の高潔な規準も,子供への虐待を防ぐものとなります。「淫行から逃れなさい」という聖書の戒めに従う親を持つ子供は,自分の親のところを訪れる“男友達”あるいは“女友達”から残忍な扱いを受けることを恐れる必要はなくなります。―コリント第一 6:18。

他の人々に対する関心のもたらす喜び

 神の言葉は,子供を虐待する親が他の人々との実りある関係を培うという必要を満たす点で,特に優れた助言を与えています。フィリピ 2章3,4節にある次の原則に従えば,物事はうまくゆくに違いありません。「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち,自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」。
 しかし,それは道理にかなったことですか。今日の敵意の満ちた世にあって,他の人々を自分より「上である」かのように扱うのは実際的でしょうか。イエス・キリストは,そうすることが道理にかなっているだけでなく,それによって他の人々が同じように利他的な仕方で当人を扱うようになることを保証しました。イエスはこう言いました。「いつも与えなさい。そうすれば,人びとはあなたがたに与えてくれるでしょう。……あなたが量り出しているその量りで,今度は人びとがあなたがたに量り出してくれるのです」。(ルカ 6:38)こうした助言を実際に適用し,神のみ子が真実を語っていたということを自ら証明してみてはいかがですか。



 文書の内容は、このころアメリカで児童虐待の問題が社会問題として注目されるようになってきたという流れを意欲的に汲み上げたものだと思います。
 これはたいへん立派な内容だと私は思いました。特に日本においては、そうではないでしょうか。






#13

◇ 2019年07月28日, 私から山下義人兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 今回の山下義人兄弟の主張には、内容は短いのに、とがめるべき点が多数あると感じました。
 またそこには、この問題に取り組むためにも優先して扱うべき内容が含まれていました。
 そこで、今回は、これまでの話をいったん中断し、重要な論点のほうに意識を集中したいと思います。
 もちろんこれは、今まで話してきたことを放置するとか、取り消しにするとかいうことではありません。今後必ず、続きをやります。

 私が長老の牧羊を拒絶しているという事実はありません。

 まず、山下義人兄弟に対してですが、私が求めたのは、あなたではなく大井一弘兄弟が牧羊を行ってください、ということです。こう言ったからといって、牧羊訪問を断ったことにはなりません。
 私にはそのように求める正当な理由があります。というのも、もともと、この問題は大井一弘兄弟が引き継いで取り扱うと決まっていたことで、私はその実施を待っていたからです。私は中断されていることを再開することを求めているにすぎません。また、すでに行われている約束の実行を求めているにすぎません。ですから、わたしにはこれを求める権利があります。
 一方あなたは、長老ではあっても、最近この会衆に戻ってきたばかりですので、私の提出した問題の取り扱いに関してはじゅうぶんに資格があるとは言えませんし、大井一弘兄弟に権限がある仕事を自己判断で代行してしまうほどの裁量があるとも思えません。私があなたの牧羊を断ったのは当然のことです。

 続いて大井一弘兄弟に対してですが、私はすでに大井一弘兄弟と面談し、口頭にて、日時と場所を決めて牧羊を受けることを約束しています。
 ただ、大井一弘兄弟が、私の求めている謝罪をすっとばして話を進めようとしましたので、きちんと先に謝罪を済ませてから、牧羊を受けることを求めています。
 このように話が進んだからといって、私が大井一弘兄弟の牧羊を拒絶したのでないことは明らかです。

 さて、このようなことを弁明することになりましたので、私としてはこの言いがかりを祈りのうちによく吟味しました。
 そこで、私からあなたにお願いがあります。

 もし兄弟姉妹の誰かが、長老による牧羊訪問を希望したものの、「あなたではなくほかの長老をお願います」ということを言った場合、その人が長老の牧羊を断ったという扱いにすることは、今後決してしないと約束してください。私に対しても、エホバに対しても約束してください。私に対してであろうと、ほかの誰かに対してであろうと、そういうことはもう決してしないと誓ってください。

 というのも、そういうことはしばしばあり得ることだからです。
 よくないことかもしれませんが、私たちの周りには、特定の長老とはうまく意思の疎通ができないという兄弟姉妹がいます。特定の長老と対立する方もいます。すると、そのような要求は全く正しくないのかもしれませんが、このようなことをお願いする兄弟姉妹が現れるものです。
 そのような時、もしその要求が正しくなく、長老から見て不適切だったとしても、それを退けてはならないと私は思います。その理由はあなたにも解ると思います。
 神は愛です。神は曲がって折れそうな葦を踏みつけにしたりはされません。

 それで、どうかお願いです。このようなことはもうしないと約束してください。あなたがこのような悪しきことを行うのは、私が最後である、もう二度と同じことは繰り返さない、と約束してください。






#14

 2019年07月29日に、大井一弘兄弟と山下義人兄弟の訪問がありました。

 宮原兄弟が長老たちに対して不信感を持っているようなので一度そのことを一緒に話し合いたいとのことでした。
 そこで、日時と場所を取り決めて話し合いを行うことで合意しました。

 私としては、すこしばかり前にも同じことがあったように感じました。
 謝罪をすっ飛ばして話を進めることを再度試みているようにも見えます。






#15

 ところで、この訪問の直前に、私からある方に送ったメールがあります。
 思うところがありましたので、私がどんなことをやっているか、少しばかり示しておきたいと思いました。



◇ 2019年07月28日, 私からある方へのメール (抜粋)

 私のメールを公開したいとのお申し出ですが、わざわざそのように通知いただいて、恐縮に思っています。
 通知もせずに突然公開、というやり方もあるわけですから、親切にお知らせいただいて感謝しています。
 私のほうとしても公開には同意いたします。あなたには権利があり、私はそれを尊重します。どうぞ好きなようにされてください。

 この件ついて裁判ということは考えていません。
 すでに述べましたように、弁護士を通して医療関係者の介入をお願いする可能性はありますが、その場合でも、代理人を立てるくらいでおさめたいと思っています。
 もしこの点で不安が払しょくできないというのでしたら、私に一筆書くようお申し付けください。きちんとした内容の約束を書き、郵送にてあなたまで送らせていただきます。

 また何かありましたらお知らせください。



 続いて、1年ほど前にある方に書いた手紙です。



◇ 1年ほど前, 私からある方に書いた手紙 (抜粋)

 今回の件ではお手数をお掛けしております。

 私としては、    さんとの件について、ここ数日頭を冷やしていました。
 頭を冷やした結果、強く感じたのは、私には    さんに対するやさしさが足りないのではないか、ということでした。

 私は    さんに変わってもらいたいと思っています。その願いに見合った態度を取れていただろうかと思い、いろいろと反省すべき点があることに気づきました。対立をあおっておきながら「聞いてください」と言うのはかなり無謀なことです。
 また、私は、これまでの    さんとのトラブルとその結末を振り返りました。    さんは、私とのトラブルがあるたびに、無理矢理に反省をさせられたり、謝らせられたりしたと思います。それは    さんにとっては圧力でした。正しいやり方ではありません。
     さんは、変わるとき、純粋に自分の意志と努力とによって変わるべきではないでしょうか。だれかが命令したり強制したりしてというはよくありません。
 そこで、私は、今回、    さんにいかなる負担もかけないことにしました。

     さんはすでに私に対して大量のことを述べています。それに対しても私は反論しません。反論の言葉は持っていますが、持ち出しません。    さんには、    さんの攻撃について配慮をお願いしていましたが、これは撤回します。私に一切の配慮は必要ありません。
     さんは今回、私からいかなる反撃を受けることも心配せずに、また、    さんや    さんといった方から制裁を受けることも心配せずに、この手紙を読み、考え、判断することができます。そして、もし、    さんが手紙に対する報復をすると言うなら、やはり私は自分を弁護しません。    さんは全く自由に、思うがままに報復をすることができます。このような状況にあってこそ、    さんは心から変わりえるのです。



 私は、その人生において、あまりにも多く、精神面の問題を抱えた人たちに直面してきたと思います。
 その人たちの問題を『扱う』という立場に立つたびに、私に足りないのはいったいなんなのだろう、と思います。
 何をするにもそうとうな覚悟を必要とします。悲しいことに、私の前を手本を示しながら進んでくれる方はいません。これは私ただ一人の道です。

 いつも強く感じることがひとつあります。それは『保身をしようとしてはならない』ということです。
 私も過去には保身に走るということをあたりまえに思っていた時期がありました。やがて私は、それが自分や周囲の人にとってどれほど毒であるかに気づくようになりました。






#16

 1984年には、近親相姦ということが取り上げられました。子供だったころに性的虐待を受けたという大人の問題について扱われています。



◇ 「目ざめよ!」誌1985年4月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

近親相姦の被害者に対する援助

 近親相姦となる子供に対する強制わいせつ行為とは,年上の近親者が子供たちを性的に犯すことです。これを行なうのは普通,父親,継父,おじ,兄などの近親の男性です。時には近親の女性によってなされることもありますが,男性にくらべるとずっとまれです。「物言わぬ子供たち」という本によると,近親相姦による虐待は,みだらな愛ぶから,口腔と性器の接触,性交に至るまで広範囲に及びます。もちろん,子供と年上の人との愛情のこもった体の接触が悪いというのではありません。しかし,年上の人がそうした接触から性的な刺激を感じたり,子供と二人だけでいる時に,もし子供の母親がいればしないようなことをしたりするとすれば,それは子供を性的に犯す行為につながるおそれがあります。

 「レイチェルはこれまでの生涯のほとんどを罪悪感にさいなまれて過ごし,自分はつまらない人間と思い込み,希望のない孤独感にとらわれていました」。主婦であり母親である英国人のこの人の生活をこれほどまでに傷つけたのは何だったのでしょうか。
 カリフォルニア州に住む16歳の少女は,「いま私の心の底には悩みがあります。この悩みがなくなることはないでしょう。苦しくて,苦しくてたまりません」と言いました。一体何がこの人をそんなに苦しめているのでしょうか。
 どちらの場合も答えは同じです。つまり近親相姦です。二人とも子供の時に父親に犯されたのです。残念なことですが,このような人たちは少なくありません。米国で行なわれた調査によると,少女は5人に一人,少年は10人に一人が大きくなるまでに性に関係したいたずらをされています。この犯罪の加害者は,ほとんどの場合,幼い犠牲者の顔見知りの者で,大抵近親相姦の関係になります。他の国々の報告の内容もほぼ同じです。
 世がさらに堕落していくにつれ,この問題は恐らく一層悪化するでしょう。今でさえ,クリスチャン会衆に入って来る婦人たちの中には,子供の時に近親相姦の犠牲になったために,感情的な問題を抱えている人が少なくありません。カウンセラーを職業とする人や心理学者に助けを求める人たちもいますが,会衆に頼り,クリスチャンの兄弟や姉妹たちの支えを求める人も少なくありません。では,会衆内の円熟した人々には,精神衛生の分野の専門家でなくても,その人たちを助ける方法があるでしょうか。大抵の場合に助けになれる方法はあります。―テサロニケ第一 5:11。
 近親相姦の及ぼす害が本当にゆゆしいものであることを少しでも疑う人がいれば,その人は,犯行から何年もたった後に被害者たちが話すことを考えてみるとよいでしょう。「私は15年間,そうしたことをすべて心に秘めてきました。ですから,何年もの間罪悪感に絶え間なくさいなまれてきました。……男性というものをどれほど憎んだことでしょう!」
 「いたずらという実際の行為よりも,罪悪感に悩まされるほうがもっと苦しいと言っていいでしょう」。
 「正直なところ,あのことが記憶から去らないので,今ごろは自殺していてもおかしくないくらいです」。
 「性行為の記憶があるので結婚はしたくありません。もちろん子供もいりません」。
 ブルース・A・ウッドリング博士(南カリフォルニア大学医学部)と,ピーター・D・コソリス博士(地方検事代理)とによる調査報告は上記の事柄を確証し,次のように述べています。「子供の時か青年期に近親相姦になるいたずらをされたことのある年配の女性は,一般に抑うつ状態にあり,神経質でよく心配する」。メディカル・タイムズに掲載されたワシントン大学の調査報告書にはさらにこう書かれています。「報告されたのは次のような問題であった。罪悪感と抑うつ状態; 自分自身について抱く否定的な人間像; 心の底にひそむ男性不信,社交がうまくないこと,性的機能障害などと関連のある対人関係のむずかしさ」。
 近親相姦はなぜそのように破壊的なのでしょうか。「児童福祉」という雑誌は,父親にいたずらされたある娘の立場に注意を引き,次のように述べています。「いたずらをされた少女は父親の保護や世話を受けている。……利用されることに対する深い怒りをあえて表現しようとはしないし,もしかしたら感じることさえないかもしれない。娘は父親の要求に従わざるを得ない。さもなければ自分が必要としている親の愛を失うおそれがある」。
 かつて被害に遭ったある人は,近親相姦は「子供の信頼と依頼心を醜悪な仕方で踏みにじる……利己的でふらちな行為である」と強く主張していますが,もっともなことです。
 近親相姦の犠牲になった幼い少女たちの中には,男性は性的にしか自分を愛してくれないのだと考え,自分をひどいめに遭わせている男性ばかりか,ほかの男性に対してもませた行為をするようになった少女もいます。また十代になってから性に対する関心が過度に強くなり,乱交さえ行なうようになった少女もいます。深い憤りを抱いている人,自分はつまらない人間と感じている人,とりわけ罪悪感を抱いている人は少なくありません。そのようなことが起きたために,あるいはそのような行為をやめなかったために,または有害な感情を抱くようになったために,罪悪感をおぼえます。また,その行為の間に少しでもそれを楽しむような気持ちを抱いていたなら,また近親相姦が親の夫婦生活に影響を及ぼしたなら,そうしたことのために罪悪感を抱きます。
 こうした感情的不安に対処するために,そういう人たちが助けを得る方法が何かあるでしょうか。

助けにはならない言葉

 かつて,何年もの間近親相姦の被害者になっていたために悩みを抱えていたある女性は,会衆内の長老たちのところに行って,自分が抱えている悩みについて話しました。「そういうことは忘れてしまいなさいと長老たちは言いました」と,彼女は述べています。その忠告の背後には,いやな経験はすべて過去のもので,今となってはどうすることもできないのだから,そういうことは忘れて良いことを考えるようにするのが最善だという,善意から出た論議があったことは疑えません。(フィリピ 4:8)しかし,不幸にして,問題はそれほど簡単なものではありません。
 なぜでしょうか。事故でひどいけがをして腕がきかなくなった人のことを考えてみましょう。その人の友達が助けになろうとしてやって来ます。もしそれらの友達が,『そんなことは忘れてしまいなさい!』と言うとすれば,それは助けになるでしょうか。もちろんなりません。それを忘れる方法などないからです。
 同様に,近親相姦になるわいせつ行為をされた女性の多くは,その出来事を簡単に忘れてしまうことなどできないのです。ある人々の場合それは意識に刻みつけられていて,感情的な傷のようになっています。一人の被害者は次のように言いました。「私は7歳の時に祖父に暴行されました。それも一度や二度ではありませんでした。私はうぶで,何も知りませんでしたから,されるがままになっていました。しかし今はその影響を絶えず感じています。以後ずっとそれはまさに悪夢のようになっています。その記憶は,しばらくの間わきへ押しやることはできても,またすぐに浮かび上がって来て,胸をむかむかさせます。自分が恥ずかしい,汚らわしい者に思えますが,私のほうが悪かったわけではなかったのです」。
 確かに近親相姦(や他の心の痛手になるような経験)の感情的な傷跡は目に見えません。しかし,肉体の傷と同じほど現実のものなのです。ではどのようにすればその傷を持つ人たちを助けることができるでしょうか。一つの方法は,被害者の語ることに耳を傾け,「すっかり話してしまう」ように励ますことです。

助けになるかもしれない言葉

 助言をする人は助けることが大切で,批判的であってはなりません。使徒パウロはクリスチャンたちに,『互いに親切にし,優しい同情心を示す』ことを勧めています。(エフェソス 4:32)助言を与える際には,こうした特質が不可欠です。
 例えば,幼いころ何年間も父親に犯されていたある女性は,「長老たちは(あるいは相談を受けるほかのどんな人も)とびきり親切でなければなりません」と言っています。やはり父親に犯されたもう一人の女性は,「一番大事なことは,ショックを受けたような素振りをしないことです。細かい事柄をいちいち問いただすのではなく,話される事柄を何でもそのまま聞くようにして,冷静な態度を保ち,同情心を示すことです。被害者の感情を理解するようにしていただきたいと思います」。
 冷静な態度を保ち,同情心を示すのは必ずしもやさしいことではありません。ある婦人は自分の問題を話す時によく興奮し,時にはけんか腰になって話すことさえあるのを認めています。それは敬意を欠いた行為でしょうか。そうかもしれません。しかし「優しい同情心」を抱く円熟したクリスチャンなら,そのような態度が自分個人に対するものでないことにすぐ気づくでしょう。それは心の動揺の表われなのです。―フィリピ 2:1-4。
 加えて,近親相姦の被害者に助言を与える人々は,エホバ神と同じように,相手の言うことに耳を傾ける必要があります。(詩編 69:33)性急に意見を述べたり,判断を下したりすべきではありません。(箴言 18:13。ヤコブ 1:19)話を聴いたり,慰めたりすることが本当に助けになるのでしょうか。確かになります。ある被害者は,「年上のある姉妹とそのことについて話して,本当にほっとしました! 私は……その人と一緒に泣きました」と語りました。別の人は,「話を聴いてくれる人がいるということが一番大きな助けになったように思います」と言いました。
 もし被害者の感情的動揺が激しいなら,経験の深い助言者のほうが,その動揺の理由とそれに対処する方法を見定めるよう,その人を助けることができるでしょう。次のような質問は隠れた感情を引き出す助けになるかもしれません。「どんなことがあったか話したいと思いますか。自分自身についてどう考えていますか。お父さん[あるいはおじさん,またはだれでもその人を犯した人]についてどう考えていますか。そのことで自分を責めていますか。そのようなことがあったから自分は他の人たちより悪いと考えていますか」。愛のある助言者なら,答えを聞いてもショックを受けてはいないことを示すでしょう。むしろ,そのような気持ちは別に珍しいものではないということを説明するでしょう。そのことを知って気持ちが軽くなった人たちもいます。
 もし被害者が,自分の経験した事柄のために,自分は価値のない人間だと考えていたらどうでしょうか。祖父,父親,そして継父に犯されたある若い女性は次のように語りました。「助言者は,その人が大いに価値があるということに気づくよう助けるとよいと思います。私も,自分は学校の友達とは違うのだと考えていたものです。友達とくらべて自分は汚れていると思っていました。それから十代の時に何度か問題を起こしたことがありました。しかし今では,エホバがこのことでいつまでも私をとがめだてされることはないということを知っています。エホバは私を価値のある者と見てくださいます」。―詩編 25:8。ヨハネ第一 4:18,19。
 被害者が憤りを感じていることもよくあります。リンダ・T・サンフォードは自著「物言わぬ子供たち」の中でその理由を説明してこう述べています。「子供は大きくなるにつれて性活動の真の意味を知るようになり,大人が自分に対して大変不当な行為をしたことを悟り,裏切られたような気持ちになる。その年上の人を尊敬し,信頼していたのに,大丈夫だと言ったその人の言葉は真っ赤なうそであったことを知るのだ」。
 この種の怒り ― そして被害者が経験する罪悪感 ― の中には,加害者が自分のしたことを率直に認めて謝罪するなら,和らげられるものもあります。ある被害者の父親は近親相姦が露見して逮捕されました。その被害者はこう言っています。「3年ほど前,父はすてきなプレゼントをくれて,『わたしたち二人の間に起きた色々な事柄について本当に済まなく思っていることを知って欲しい』と言いました。私は父が何のことを言っているか分かったので,父の謝罪を受け入れました。今は父と良い関係にあります」。
 しかし残念なことに,加害者の中にはすべてをにべもなく否定するか,自分のしたことのほんの一部しか認めない人が少なくありません。ノイローゼ気味になった女性が助けを求めるころには,その女性を犯した者が死んでいることさえあるかもしれません。しかし怒りは依然として残るでしょう。それでも助言を与える人はその人を助けることができます。その人が怒る気持ちはよく分かること,そしてエホバも,悔い改めない罪人に怒りを抱き続けられるということを親切に指摘できます。―ヨハネ 3:36。
 しかし,怒りに負けてしまうことの危険も巧みに指摘しなければなりません。(エフェソス 4:26)優しく次のような質問をしてこの点をよく考えてみるように助けられるでしょう。「その怒りは役に立っていますか。それとも害を及ぼしていますか。その怒りにひどく影響されているということは,今でもその人があなたの生活に影響を及ぼすのを許しているということですか。その人が罰も受けずにうまく逃げおおせたと本当に思えますか。エホバはひそかに罪を犯した者たちに対してさえ裁きを行なう方ではないでしょうか」。―詩編 69:5。ルカ 8:17。ローマ 12:19。
 ローマ 12章21節を,説教めいた口調にならないように気をつけながら一緒に考えるのも助けになるかもしれません。助言の目的は助けることにあって,懲らしめたり圧力をかけたりすることではありません。被害者に対して,これこれこのように考えるべきだと言うよりも,話をよく聞いてその人が本当にどう感じているかを知り,それから色々な質問をして静かに相手の気持ちを探り,そのように感じる理由を当人が自分で理解するように助けるほうがはるかに有益です。
 話をしていて罪悪感が非常に深いものであることが分かったなら,幼い子供に対する近親相姦は決して子供の責任ではないという点を指摘すべきでしょう。幼い子供たちがよく大人に対して親愛の情を表わす行為をするのは事実です。しかし,子供たちは大人の性に関しては何も知りません。「物言わぬ子供たち」という本が指摘している通りです。「子供は親しさや温かさが性的なものになることなど考えてもいない。近親相姦は,子供の願望の大人的解釈 ― 大人自身の必要によって大いにゆがめられた解釈なのである」。
 子供の時に強制わいせつ行為の犠牲になった人は確かに,神が理解してくださり愛をもって受け入れてくださるということを確信できます。強制わいせつ行為の対象にされた子供とは違ってゆゆしい罪を犯す人々をさえも,もし悔い改めて行状を改めるなら,エホバは許してくださるのです。―コリント第一 6:9-11。

現実的な見方

 感情的な傷を負っている人を助けるのはやさしいことではありません。混み合った王国会館の中で数分で扱えるような問題ではありません。忍耐,愛,親切,努力の繰り返し,そして特に時間が求められます。奇跡的ないやしはありません。ノイローゼ気味の被害者が感情的な安定を得るまでには何度も話し合う ― また祈る ― ことが必要です。いやな経験は忘れられるものではありません。しかし被害者はその記憶と共存することを学ぶことができます。
 例えば,ある被害者はこう言いました。「私は今でも自分は価値のない人間だという気持ちになることがあります。でも,そうではないのだ,と自分に言い聞かせるのです。すると一日ほどでその気持ちは消えてなくなります」と言いました。別の被害者は,「私は聖書から,許すこと,他の人々を助けること,そして自分を哀れむのをやめることを学びました」と語りました。また,「私は皆さんに助けられて,エホバが今でも私を愛してくださっているということを理解するようになりました。……エホバの助けによってすべての問題を克服するつもりでいます」と言った人もいました。―詩編 55:22。

永久的な解決

 イエスは地上におられた時,肉体に傷のある人々,つまり「足のなえた人,不具の人」たちを奇跡的にいやされました。(マタイ 15:30)近づいている新秩序においては,肉体の病気がすべて取り去られるので,その奇跡は何度も繰り返し行なわれます。―イザヤ 33:24。
 感情的な傷に苦しんでいる人々の場合,円熟したクリスチャン男女が,人の心を慰める神の言葉の影響力に頼りながら愛と忍耐をもって援助すれば,その人たちが自分の問題を処理し,なおかつエホバへの奉仕に喜びを見いだすように助けられることが少なくありません。(ヤコブ 5:13-15)しかし,新秩序においては,『以前の苦難は実際に忘れられる』という約束があります。(イザヤ 65:16)ですから,神の僕は皆,神が『彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやなく,以前のものが過ぎ去る』時を,確信をもって待ち望むのです。(啓示 21:4)これこそ,感情的な傷をも含め,すべての病気の最終的ないやしなのです。






#17

 さて、私が山下義人兄弟への最初の返信を書いた時、とても気になったことがあります。いまはますます気になっています。
 「このメールは大井一弘兄弟に回してください」と書いたことです。私としてはこれでいいと思ったのでそう書いたのですが、同時に、これは長老の立場からしたらどうなのだろうと思いました。

 本来、このような状況に対しては、被疑者を隔離する手続きが用意されていなければならないと思います。たとえば、こんな具合です。
 「ある長老が、会衆のメンバーから別の長老に関する訴えを受け取った場合、その長老はただちに巡回監督と連絡を取り、巡回監督の判断を仰いでください。訴えられたほうの長老にその情報を伝えてはなりません。巡回監督は、その訴えの内容を調べ、それを会衆の長老団が扱ってよいかを判断します。巡回監督が、それは会衆の長老団によって扱われるべきでない、と判断した場合、巡回監督は近隣の会衆から3人の長老を指名し、訴えはその長老団によって扱われます。」
 このような手続きは存在しないようです。もしかすると存在するのかもしれませんが、機能していないと思います。

 なぜこのような規則が必要かというと、規則がないと、犯罪者と警察と裁判官が同一人物であるという状況が生じてしまうからです。長老が問題を起こし、長老がそれを取り調べて、長老が処分を決定するということが生じるということです。
 そうすると、母がいつも私に語り、私が生涯にわたって恐れおののいてきたことも生じうるということになります。私が何かを訴えたとします。長老はその訴えを扱いますが、ずさんにしかやりません。そのうち嫌気がさしてしまい、もうこの問題はおしまいだ、もうお前のことは相手にしない、と宣言してしまいます。あるいは、始めから長老は訴えを完全に無視してしまうかもしれません。無視された私は一生懸命涙を流しながら「どうか聞いてください」と訴えますが、長老は「そんな話はもう聞きません」と言って全く相手にしてくれません。そうしたら、エホバの証人としての私の人生は終わってしまうのではないでしょうか。
 私はこの恐れのために、人知れずどれほど涙を流したかしれません。

 しかし、もし被告と裁判官が別であるなら、このような問題が生じる可能性は極めて低くなると思います。長老が私のことを無視したり放置したりしても、その長老は被告の席に移動させられ、新しくやってきた裁判官が判決を下しますので、私のことを強引に無視する長老の努力は無駄に終わるということになります。

 それで私としては、犯罪者と裁判官が同一になってしまうことを防ぐ仕組みを作ることを組織に対して提言したいと思います。

 今の私には、ここで述べているような恐れはもうありません。私は成長して人格的にも成熟し、そのような恐れを克服しました。もう、恐れのために何も言えないということはありません。それは、私がこの文書を書いていることや、文書に掲載されているメールのやり取りを見て、あなたにもわかると思います。






#18

◇ 2019年08月01日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 先日は訪問をありがとうございます。

 いま私にはとても気になっている点があります。山下義人兄弟が、私が牧羊訪問を拒絶しているなどということを主張したことです。
 これは私にとってはとてもショッキングなことでした。いまでもそうです。
 これについて私は彼にお願いをしていますが、いまのところ、返信はありません。

 この状況を放置したまま、あなたとお会いして話し合いをするということになると、「これまで牧羊訪問を拒絶し続けていた宮原兄弟がようやく牧羊訪問に応じてくれた」ということになってしまうのではないかと思いました。
 また、一度このようなことを生じさせてしまうと、今後、私が長老に謝罪を求めたり、発言の撤回を求めたり、お願いを述べたりする度に、「また宮原兄弟は牧羊訪問を拒絶している」ということにされてしまいかねないと思いました。
 その後も延々とこういったことが繰り返されるのではないかと思うと、眠りが妨げられるくらい不安です。

 つきましては、私が牧羊訪問を拒絶しているなどということはないということを、また、今後もこのようなことを心配する必要はないということを、長老団の見解として文書で示していただけないでしょうか。
 山下義人兄弟は態度が悪いと思います。彼に対しては今後も語りかけていきたいと思いますし、必要な約束も取りつけていきたいと思います。しかし、それとは別に長老団としても、見解を示してください。

 このように書きながら私は、これはエホバから長老団への、愛と憐れみのある深い気遣いの現れであるに違いないと思いました。
 エホバが私を通して、長老団がエホバに対する取り返しのつかない罪を犯すことのないよう、まさに必要な時に必要な諭しを与えておられるのだと感じました。

 よろしくお願いいたします。






#19

 1985年には、性的虐待ということが集中的に取り上げられました。四部構成になっています。



◇ 「目ざめよ!」誌1985年4月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

子供に対するわいせつ行為 ― どの母親にとっても悪夢のような出来事

 若い母親にとって,悪夢が現実になりました。4歳になる娘が腹痛を訴えたので,医師のところへ連れて行きました。医師は徹底的に診察した後,重い口調で母親に,お子さんはわいせつ行為の被害者です,と言いました。その子は暴行されたのです。母親はニューヨーク市当局に通報し,当局はすぐにその性的虐待がニューヨーク市ブロンクス区のある託児所で起きたことを突き止めました。
 その託児所を調査したところ,果たして恐るべきことが明らかになりました。一人,また一人と,わいせつなことをされた事実を明らかにしたのです。最終的には,少なくとも30人の子供たちがその同じ託児所で性的虐待を受けたことを明かしました。そのうちの一人は淋病にかかっていました。次いで,別の託児所でも子供たちがわいせつ行為の犠牲になったということが表沙汰になりました。さらに別の託児所のことも明らかになり,結局,ニューヨーク市だけでも七か所の託児所が捜査されなければなりませんでした。
 新たな事件が報道される度に,米国のほかの地方からも,子供に対するわいせつ行為の報告が寄せられるようになりました。スキャンダルは広まり,子供を持つ親たちは互いに,「一体どうなっているの?」と顔を見合わせています。全くどうなっているのでしょう。たまたまわいせつ行為事件が多発したにすぎないのでしょうか。それとも,広く行なわれていたのが,今になって目につくようになったのでしょうか。

まん延する問題

 実を言えば,子供に対するわいせつ行為はずっと前から行なわれてきている事柄で,今日それは確かにまん延しています。1983年にニューヨーク市の婦女暴行対策諮問特別調査委員会の委員長は,『婦女暴行,近親相姦,およびその他の形の性的虐待の犠牲になる幼い子供たちの数は著しく増加している』と報告しました。米国のニューハンプシャー大学の家庭内暴力研究計画のデービッド・フィンケルホール博士は,この問題に関する大規模な調査を実施しました。そして,面接調査を受けた親の9%には,性的虐待を受けていた子供のいることを明らかにしました。女性の15%および男性の6%は,子供のころ自分自身性的虐待を受けていました!
 正確な統計を手に入れるのは困難ですが,米国では,国立児童虐待・放任対策センターに,子供たちに対するわいせつ行為が1年間に5万5,399件あったという記録があります。しかし,これは近親相姦による虐待の事例にすぎません。友人,近所の人,教師,それに見知らぬ人々などによる性的虐待を加えると,その数字はかなり大きなものになります。アメリカ児童福祉連盟のスポークスマンは「目ざめよ!」誌の記者に,「我々の手元にある数字は氷山の一角にすぎない」と語りました。
 レディーズ・ホーム・ジャーナル誌に載せられた一記事は次のように推定しています。「幼女に対する性的虐待のほうが広く見られ,大人の女性に対する婦女暴行の4倍に達する。5歳から13歳までの間に,幼女4人につき一人の割で,露出癖,不穏当な愛撫,婦女暴行,あるいは近親相姦など,大人による何らかの形の性的虐待のえじきにされている。最もよく犠牲になるのは女の子であるが,襲われる子供の20ないし25%は男の子である」。
 医師たちは,そのような性的虐待が長期にわたって有害な影響を及ぼすことを確信しています。そこで,子供を持つ人はこう考えるでしょう。『うちの子は危険にさらされているだろうか。子供たちを守るためにどんなことができるだろうか。子供たちに危害を加えようとするのはどんな種類の人だろうか』。



◇ 「目ざめよ!」誌1985年4月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

子供に対するわいせつ行為 ―『一体だれがそんなことをするのか』

 この質問に対してほとんどの親は間違った答えを出すでしょう。わいせつ行為というと,大抵の人は,子供たちに局部を見せたり車や木立の中へ子供たちを誘い込んだりする,見知らぬ,怪しげな人物を頭に描くでしょう。子供たちをたぶらかして連れ去り,ポルノや売春に使って子供を食いものにするグループがあることも広く伝えられています。そのような事柄も確かに起こりますが,こうした人々は子供にわいせつ行為をする者によくあるタイプとは掛け離れています。では,子供にわいせつ行為をするよくあるタイプの者たちとはどんな人なのでしょうか。
 スーは教会関係のあるグループの世話係をしていた男性にわいせつなことをされていました。その男は青少年のクラブを運営しており,だれからも非常に好感を持てる人だと言われていましたが,スーをはじめほかの少女たちを性的に虐待していたのです。別の少女は身の上相談欄に手紙で,大好きなおじさんがいつもわたしをひざの上にのせてなでまわすのでいやです,と訴えました。ある男性は,幼いころ,家族の親しい友人の成人した息子に絶えず性的に虐待されていたことを覚えています。11歳の少年は同居していたおばにわいせつなことをされました。ニューヨークに住むある女性は,7歳の時に自分の祖父にわいせつなことをされた,と言っています。15歳の少年は,診察の際に医師にわいせつ行為をされました。パムの場合はもっとひどく,何年もの間,実の父親からわいせつなことをされていたのです。また,メアリーは二人の兄と年上のいとこにわいせつなことをされました。
 事実,子供に対する性的暴行のうち,見知らぬ人が行なうのは3分の1足らずだと思われます。通常,被害者は加害者を知っています。虐待するのは多くの場合,親族です。ですから,大抵,子供たちは自分が知っており,信頼している人々にわいせつ行為をされるのです。そのために,子供たちを守るという問題がいっそう難しくなります。

わいせつ行為の現場

 多くの親が思い違いをしていることがもう一つあります。わいせつ行為というと,暴力を伴い,子供が抵抗して,お願いだからやめてと泣き叫ぶ状況を思い起こすことです。少なくとも初めは,そのようなことは全くないかもしれません。性的虐待は最初,上辺ではふざけた,あるいは愛情のこもった接触という形を取ることがあり,そこから発展してゆきます。虐待をする者は年上の者に本来備わっているあらゆる権威を用いて,子供を説得し,子供に圧力をかけることでしょう。子供のころ,早く寝るとか,野菜を全部食べるなど,自分のしたくないことをするように言われても,大人には従うようしつけられたことを覚えていますか。わいせつ行為をする者はこのしつけを悪用するのです。児童虐待の罪で有罪を宣告されたある男は,「従順な子供はいいかもだ」と言いました。
 一人の子供にわいせつな電話が何度も掛かってきました。どうして電話を切らなかったのかと尋ねられると,その少女は,相手が話をしている時にそんなことをするのは失礼だと思った,と語りました。30歳になる一女性は,5歳の時に祖父に迫られたことを覚えています。その女性は祖父から,「良い子はおじいちゃんのためにこういうことをしてくれて,決してお母さんには話さないものだよ」と言われました。5歳の子供で,そのような欺きを見破れる子が何人いるでしょうか。
 また,子供の時に物を買ってもらうことやプレゼントをとても喜んだのを覚えていますか。虐待をする者たちは大抵,児童虐待の関係を始めるために子供にありがちなこの特性を利用します。例えば,学校の用務員から,「お金をあげるから,放課後,事務所で少し付き合ってくれるかな」と言われたら,子供はどうするでしょうか。あるいは,子守に来た人から,「僕のためにあることを先にしてくれたら,遅くまで起きていてテレビを見てもいいよ」と言われたらどうでしょうか。
 子供は生来秘密というものが好きですが,わいせつ行為をする者はこの傾向を悪用することがあります。幼いころ,秘密があると,胸がときめきませんでしたか。ある幼い女の子には,親にはずっと話さなかった秘密がありました。ところがある日,その子がませた,性的しぐさをするのに両親は気づきました。そんなことをどこで覚えたのかと尋ねると,その子は,「それは内緒」と言いました。秘密を守ってはいけないこともあると父親が言い聞かすと,その子は秘密を明かしました。自らも子供を持つ40歳の親類の男性が,その子を押し倒して,性的な暴行を加えていたのです。
 最後に,脅しが伴うこともあります。子供を不安な気持ちにさせる巧妙な脅しです。ある女性の話によると,その人は子供のころ,継父から性的に虐待されました。継父はその女性が6歳の時から4年間性的な虐待を加えたということです。どうして母親にそのことを告げなかったのでしょうか。「そのことを人に言おうものなら,警察がやって来て継父を捕まえ,母は職を失うことになる,と言われました。家族は食べる物に困るようになり,それはみんな私のせいになるというのです」。
 著述家のゲール・シーハイは以上の点の多くを総括してこう述べています。「わたしたちは自分が子供のころ,大人には何でもできるように思えたことを忘れている」。同女史はさらにこう述べています。「親や子守が,普通の入浴や身体検査のふりをして,性行動を始めるのはごく簡単である。子供が,何かいけないことをしているということにようやく気づくのは,内緒だと言われてからである。『これをしたことを,お母さんに言ってはいけないよ』― あとは一言脅しを加えるだけで十分である ―『さもないと,お母さんに嫌われてしまうよ』」。子供はその種の心理的な脅しに立ち向かうことができるでしょうか。

子供にとって最善の身の守り

 これでお分かりのように,わいせつ行為をする者は思いもかけない人物で,世故にたけた,こうかつな術策を用いることがあります。子供に対するわいせつ行為は歴史が始まって以来ずっと存在していると言っても過言ではないかもしれません。しかし,この世代が進行し,いよいよ大勢の人が「自分を愛する者,……自然の情愛を持たない者,……自制心のない者」になるにつれて,その脅威は大きくなってゆきます。(テモテ第二 3:1-3)しかし,子供には非常に強力な身の守りがあります。それは何ですか。それは子供の親です。親は,子供たちにわいせつ行為をしかけようとするほかの大人から子供たちを一番よく守れる大人と言えます。どのようにして子供たちを守ってやれるのかを考えることにしましょう。



◇ 「目ざめよ!」誌1985年4月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

子供に対するわいせつ行為 ― お子さんの身を守ることは可能です

 幼いころ実の兄と義理の兄にわいせつなことをされた若い女性はこう語っています。「怖くて,だれにも話しませんでした。それで,子供を持つ方すべてにお勧めします。『家族であろうとなかろうと,いけない仕方で自分の体に触れることをだれにも許してはならない。そんなことをしようとする人がいたら,怖がらずにその人のことを言いつけるようにとお子さんに是非とも教えてあげてください』」。この女性はさらに,「これはどんな子にでも,いつ何時起きるか分からないのです」と述べています。
 この堕落の一途をたどる世界にあって,わたしたちはわいせつ行為から子供の身を守るためにはっきりした措置を取らなければなりません。成り行きにまかせて,ただ何事も起こらないよう希望しているだけでは賢明とは言えません。

防衛の第一段階

 防衛のための第一段階は,襲われやすい状況に子供を置かないようにすることです。例えば,自分と同じ年ごろの若者と一緒にいるより子供たちと一緒にいることを好むように思える若い人に子守を頼むことには注意するよう親は勧められています。ある臨床心理学者の報告によると,わいせつ行為を行なったために心理学者の治療を受けている者の3分の2は,子守をしている時にその犯罪に走りました。
 スーザン・M・スグロイ博士は,問題を引き起こす結果になったさらに二つの状況を挙げています。子供が大人や十代の若者と(ベッドや部屋で)一緒に寝ること,および大きな家族の集まりの際に大人たちが自分たちの楽しみに熱中して,年長の子供たちが年下の子供たちの世話をしていると思い込んでしまう場合です。
 事実を言えば,子供たちを親の監督下に置いておける時間が長ければ長いほど,わいせつ行為をしかける者が子供たちを襲う機会は少なくなります。アンは3人の子供を持つ母親ですが,一番下の14歳になる男の子に独りでショッピングセンターを歩き回ることや,独りで公衆便所へ行くことをさえ許さないほどです。男の子はそのために非常に束縛されているように思っているかもしれませんが,母親にはそうするだけの理由があったのです。アンは幼いころ,わいせつ行為の犠牲になったことがあるのです。
 しかし,親は四六時中自分の子供をそのようにしっかり見守っているというわけにもゆきません。共働きをしている親は,託児所を利用するか,親族や子守に自分の子供をあずけてゆくよりほか仕方がないでしょう。また子供たちは学校へ行かねばならず,親がいつも一緒にいてやることはできません。親族や友人の訪問もあります。それに,近所の人たちもいます。子供たちが非常に襲われやすいことを考えると,どうしたらその身を守ってやれるでしょうか。実際のところ,道は一つしかありません ―

その危険について子供に話す

 心理学者のデブラ・シャルマンはこう語りました。「子供たちに対して,危険は存在しないというようなふりをするのは愚かなことです。子供たちは自分が襲われやすいことを知っており,当然のことながら身の安全を気遣っています。現実的な方法で危険に対処するための手段を子供に与えてやるのは親の仕事の一部です。そのような情報を正直に,積極的な仕方で与えてやれば,子供を怖がらせるのではなく,安心させることになります」。そうです,子供たちにこの問題について話してやらなければならないのです。
 これは口で言うのは簡単ですが,実際に行なうのはそれほど簡単なことではありません。一番危険なのは友人や親族であるので,特にそう言えます。子供たちを木立の中に誘い込んだり,車に乗せて連れ去ったりする見知らぬ人については,すでに子供たちに警告してあるかもしれません。では,子供たちが知っていて,尊敬し,さらには愛してさえいるかもしれない人々から身を守るための「手段」をどのようにして与えてやることができるでしょうか。

本能に従うようにさせる

 前述の母親,アンの話によると,親族の男性にわいせつ行為をされたときはまだ5歳でした。それでも,自分が何かいけないことをしているということは分かっていました。もっとも,どうやってそれをやめさせるかは分かりませんでした。そして残念なことに,そのことについて親に話すこともできませんでした。当時,話し合いのパイプはあまり良い状態になかったのです。
 アンの経験は,正邪についての自然の感覚を子供たちは普通持っているということを示しています。わたしたちはこの本能を強化してやり,たとえ大人が違ったことを言っても,その本能に従わなければならないことを教えておかねばなりません。はっきりと,「いや,そんなことをしちゃいや!」と言うだけで,わいせつ行為をしかけようとする者を思いとどまらせるのに十分であることも少なくありません。アンの経験はまた,子供たちとの間に話し合いのパイプを開いておく必要性を示しています。
 最近,一夫婦がこの問題について話し合っていました。心配になった二人は,これまでにわいせつなことをされた経験があるかどうか女の子に尋ねてみたところ,ある,と言ったので二人は震え上がりました。家族ぐるみで古くから付き合っていた,信頼していたはずの友人が幾度もそのようなことをしていたのです。その家族は子供たちと非常によく話し合う家族でした。それなのに,なぜその子はその時まで何も言わなかったのでしょうか。話をどう切り出してよいか分からなかっただけでした。ですから一度問題が取り上げられると,待っていましたとばかりに話し出しました。

どのようにして話してやったらよいか

 まず,話を持ち出さなければなりません。一つの提案は,スキャンダルがニュースで報道されたら,親はその機会を活用して子供たちに,「これまでだれかにあのようなことをされたことがある?」と尋ね,それから,だれかがそのようなことをしようとしたらどう行動すべきかをさらに子供たちに話します。
 子供たちに聖書を教える親は,話を切り出すのにその一部を用いることができます。ヤコブの娘ディナの物語を使ったり,人がほかの人に対してしてよい事柄には限界があることを説明します。(創世記 34:1-4)タマルとアムノンに関する物語を使って,たとえ近親者であっても互いに対してしてはならない事柄があるという点を示せるでしょう。(サムエル第二 13:10-16)また,そのような事柄が子供たちの身に実際に生じたら,親はそれを知りたいと思っているということを子供たちが理解しているかどうか確認しなければなりません。親に話しても,怒られはしないということを悟らせるのです。
 メアリーは幼いころわいせつなことをされたので,わいせつ行為をしかける者たちに対して自分の3人の娘たちに用心させるよう細心の注意を払いました。どんな方法でそうしたのでしょうか。子供たちが物心のつくころになるとすぐに,「だれかがいけないところを触ったら,お母さんに話しなさい。怒ったりはしませんからね」と言いました。いけないところがどこなのか,子供たちはどのようにして知ったのでしょうか。メアリーの話によると,子供たちが3歳ぐらいの時にその部位を示してやったということです。入浴させるときや寝る用意をさせるときに,子供たちの体の,ほかの人々が触れてはならないところを指差してやりました。子供たちが少し大きくなってからは,さまざまな状況を示してやりました。「だれにもそこを触らせてはいけません。学校の先生やお巡りさんにも触らせてはいけません。お母さんやお父さんだってお前たちのその場所に触れてはいけないのよ。そしてお医者さんがお前たちのその場所に触れていいのは,お母さんかお父さんがお前たちと一緒にいるときだけです!」
 それには効果があったでしょうか。ある親類の者がメアリーの6歳になる娘と遊んでいた時のことをメアリーは覚えています。その親類の者のしていたことを幼い女の子は気持ちが悪いと思うようになりました。その子はどうしたでしょうか。その男性から離れたのです。その親族に下心があったのかどうかは分かりません。しかし,自分の娘が,「正しくない」とか「変だ」と感じだした時に,その状況から抜け出したことをたいへんうれしく思いました。
 このように,親は子供たちに,見知らぬ人に付いて行かないようにとか,交通量の多い道で遊ばないようにとか,電線に手を触れないようにと言い聞かせるのと同じように,わいせつ行為から逃れることについても話しておかなければなりません。実の親をも含めてほかの人が侵してはならない子供たちの体の境界線について説明すべきです。また,実際に何かが起きるようなことがあれば,親はそのことについて知りたいと思っていることをはっきりと話しておかなければなりません。そして,子供たちをとがめたりはしないということもはっきりさせておきます。

「もしも……?」ゲーム

 大人がより深い経験とより大きな知力を用いて子供たちを欺き,何らかのふさわしくない行動に加わらせ,子供たちが自分独りではその欺きを見抜けないという場合があります。「物を言わぬ子供たち」という本の著者であるリンダ・チャーハート・サンフォードは,事前の措置を取るための手段を提案しています。それは,「もしも……?」ゲームです。ある状況を設定して,子供たちがその状況に置かれたらどうするかを折に触れて尋ねてみます。「もしも子守に来た人が,お兄さんと一緒にお風呂に入ってゲームをしたら,遅くまで起きてテレビを見ていてもいいよ,と言ったらどうする? その人にどんなふうにお話ししたらいいかな?」「もしもだれか知っている人に車に乗せてもらって,触ってはいけないところにその人が触ろうとしたらどうする? どうしたらいいと思う?」「もしも年上の友だちが,お前がいやだと思うような触り方をしたり,服を脱がせて,一緒に秘密の遊びをしようと言ったりしたらどうする?」
 子供たちにその答えを教える際に,親は,大人に向かって,いやです,と言ってよい場合があること,また,秘密を明かさなければならない場合もあることを教えます。「お母さんのところへ行って聞いてきます」などと言うように訓練されていれば,わいせつ行為をしかけようとする人の大半を思いとどまらせることができます。「もしも……?」ゲームで,正しい答えを子供が学べば,自らの身を守るための良い手段を身に着けていることになります。子供が誤った答えをするなら,もう一度質問をして,ほかの答えを示唆するようにします。

用語を教える

 次に挙げるある女性の経験は,わいせつ行為に関して子供たちの直面する別の問題を物語っています。その人はこんな話をしました。子供のころ性的虐待を受け,そのことを母親に話そうとしました。しかしきちんとした用語を知らなかったので,どんなことがあったか説明できませんでした。母親は,だれかが愛情を示そうとしただけで,幼い娘のほうが状況を誤解して誇張しているのだと考えました。
 同様のことがよくあるので,社会事業家は親が子供たちに体の各部の正しい名称を教えることを勧めています。最悪の事態が生じた場合に,子供たちが事態を説明できるよう用語を教えておくことです。

注意をしながらも,平衡を保つ

 我が子がわいせつ行為の犠牲になるかもしれないというのは,親にとって一番ひどい悪夢の一つです。しかし,ほとんどの大人は子供にわいせつなことをしないという点を覚えておかなければなりません。親族のほとんどは子供たちのことを愛してくれており,性的虐待から子供たちを守ることに親と同じほどの関心を抱いているでしょう。
 しかし一方,わいせつ行為の犠牲になることはあり得るのです。そして,それが自分の子の身に起きないようにと願うだけでは不十分です。聖書の箴言は,「災いを見て身を隠す者は明敏である」と述べています。(箴言 22:3)ですから,わたしたちの住む時代のことを考慮に入れると特に,注意深くあるのは賢明です。襲われやすい状況に子供たちを置かないようできる限り努力し,大人でさえ踏み越えるべきでない境界線のあることを子供たちに説明し,その境界線を踏み越えようとする大人がいたら,その人がどんな人であろうと,どう反応すべきかを教えるなら,わいせつ行為を行なう者から子供たちの身を守るためにかなりのことをしていることになります。



◇ 「目ざめよ!」誌1985年4月8日号, ものみの塔聖書冊子協会

最悪の事態が生じた場合

 分別のある予防措置を講ずるなら,事が起きる可能性を著しく減らせるとはいえ,わいせつ行為から子供の身を完全に守れる親はいません。しかし,親が家族の間の対話の土台をしっかり築いておけば,最悪の事態が生じた場合にも,子供たちはそのことを話すかもしれません。しかし,子供たちが大きなショックを受けていたり,恥ずかしがっていたりするために,話そうとしないこともあります。ですから,親は目ざとくなければなりません。研究者たちが言う,何かが起きたことを示す可能性のある兆候を幾つか挙げましょう。
 疑ってみることが必要になるのは,いつもとは違う事柄が生じたときです。教師が特定の子供たちにほかの子たちよりもずっと前に登校することを求めた例もあります。成績の低下や,特定の大人のそばに行くと極端に落ち着かなくなるといった何らかの顕著な兆候が見られないかどうか注意することです。子供のころ兄と父の毒牙にかかった一女性は,「私がクラスの42人中ビリになっても,なぜそうなったのか調べようとする人はいませんでした」と語っています。
 注意をして,頭痛やおう吐,食欲不振,不眠など体に出る症状に気をつけるようにする。性器に関する訴え,つまり痛みなどの訴えは特に重要です。言葉,服装,あるいは振る舞いの点で性的にませているようなところが見られるなら,注意が必要です。問題を示唆するかもしれない,行動の点での急激な変化にも用心するようにします。子供が普通以上に引っ込み思案になったり,家族の成員の一人を避けるような傾向が見られれば,警鐘を鳴らさなければなりません。わたしたちはまた,子供たちが遠回しに何かを言おうとしているときに,それを探るように耳を傾けなければなりません。「あの数学の先生なんかもう嫌い」というような言葉で,子供はこの難しい問題を切り出そうとしているのかもしれません。
 そのような様子が子供たちに見られるなら,親は原因を突き止めるようにしなければなりません。子供は問題を抱えています。そして,それはわいせつ行為にかかわる問題かもしれません。そうであるとすれば,子供は助けを必要としています。不幸にして,その助けが得られない子供たちは少なくありません。わいせつなことをされた子供たちが,事件をでっち上げたとして非難されたこともあります。しかし,子供がそのような事柄をでっち上げることは皆無とは言わないまでも,めったにない,と研究者たちは断言しています。家族を崩壊させないために,近親相姦は覆い隠されてきました。
 しかし,わいせつ行為 ― そして特に近親相姦 ― が露見した場合に,二つの事柄をすぐに行なわなければなりません。
 まず最初に,その子,および他の子供たちも,それ以上性的虐待を受けることがないよう守ってやらなければなりません。どんな代償を払っても,それをしなければなりません。多くの場合,わいせつ行為を行なったとされる人と対決しなければなりません。しかし,何としても,子供が,わいせつ行為をした者に二度と襲われることはないという確信を抱けるようになることが大切です。
 次に,その子には深い愛と感情面での支えを与えてやらなければなりません。親は,幼い被害者が悪いのではないということを是非とも明らかにしなければなりません。その犯罪およびその結果として生じる事柄が何であれ,たとえ近親者が投獄されることになったとしても,その子の責任ではないのです。しかし,そのことは幾度も幾度も口に出して安心させてやらなければなりません。そうすれば,被害者である子供はその言葉を信じるようになり,親もそのように信じているのだと確信するようになります。



 これも、アメリカでの進展に追随したものだと思います。
 遅いということは言えないにしても、早いと言うこともできないと思います。贅沢な願いかもしれませんが、世の中がこのような問題にさかんに注目するようになる前の時点で組織独自の取り組みができていればよかったのに、と思います。






#20

 ここで、私が“謝罪もどき”と呼んでいる問題を指摘したいと思います。

 ここで言う「謝罪もどき」とは、謝罪するにあたって問題を相手の感情の問題にすり替えてしまう、という手法のことです。
 これはエホバの証人の間ではよく知られ、実践されている手法です。エホバの証人はいろいろな方と会って話し合いをしますから、言いがかりを言われることや、別に悪くもないことで非難されることは多々あります。そのような場合、こちらが罪を認めて謝罪するということはできかねますが、だからといって相手に向かってふんぞり返ってしまったのではひどいことになりかねません。そこでこのような時には、相手の立場に立って気持ちをよく考慮し、相手にとってこの問題はどういう問題かということをよく理解したうえで、相手をそういう気持ちにさせた原因が自分にあるということを認めて謝罪する、ということが広く行われています。こういった手法は、エホバの証人の間では知恵というものだと思われています。形式上は自分の非を認めて謝っているのですが、実際には何も認めていませんし反省してもいません。向こう側は謝罪を受けたことに満足し、こちら側は相手に気を遣ってやったと思って満足することができます。
 この手法はエホバの証人だけが使っているわけではないので、誰にも解ると思います。経験もあることでしょう。
 ただ私としては、この宗教においてこういう手法が積極的に実践されていることは問題だと思います。

 さらに問題だと思うのは、この“謝罪もどき”を信者に対して使う長老がいることです。これはかなり無神経なことです。けんかを売っていると言ってもかまいません。なぜなら、エホバの証人同士である以上、謝罪の意図が確実に伝わるからです。つまり、「私は反省なんかしませんよ」というメッセージが相手に伝わるのです。
 こういう手法は、相手が気づかないことを前提にしています。知っている者同士でこういうことをやるのは狂気の沙汰というものだと私は思います。

 それに加えてさらに問題だと思うのは、これをごまかしの手法として使う長老がいるということです。この手法は、良心上の制約がありますので、自分が悪くない場合にのみ使用するということを大前提としています。それを、自分が悪い場合に、悪いのは相手のほうであるということにしてしまう目的で使う長老がいます。それは戦争を吹っ掛ける行為にほかなりません。

 というわけで、2019年07月26日の丁寧な謝罪 [#7] は謝罪もどきです。謝罪が丁寧なのは、謝罪を謝罪もどきにするためのおぜん立てが入念であるからに過ぎません。
 もしかすると誰かが、彼はちゃんと謝罪しているじゃないかと言うかもしれません。しかし、少なくともエホバの証人の間では、このような謝罪は謝罪であるとみなされません。

 この“謝罪もどき”の問題について、組織の指導者たちは自身のことをよく考えなければならないと私は思います。自分は、あるいはこの組織は、このような悪習の広まりに貢献したということはなかっただろうか、と自問すべきです。
 そして組織は、この手法を証人同士で用いることは一切禁止するという規則を作り、特に長老に対しては徹底すべきだと思います。
 さらに、このような手法を外部の人に使うことも手控えるように信者たちを教えるべきだと思います。
 たとえば、このように言うことは認められます。「私はその件では自分は悪いと思わないんです。でも、あなたが怒っている理由はよくわかります。私がそのような気持ちにさせたことを申し訳ないと思います。」 ここから最初の一文を省略することを認めてはなりません。






#21

 2019年08月14日の集会(礼拝)で、山下義人兄弟が教壇に立ち、一部このように発言しました。
 私が(ネット中継を)聞いていることを承知でこのようなことを言っているのですから、私を牽制する意図があると思われます。
 私が長老団に求めている山下義人兄弟の職務停止も実施されておらず、その結果彼は教壇に立ってこのようなことを述べているのですから、長老団としても彼のこの発言をよしとしていると思われます。



◇ 2019年08月14日の集会, 山下義人兄弟の発言

 ……任命された長老たちというのは、「もう任命されたので、もう何をしても大丈夫だ」というわけではありません。この聖書に書かれている資格*を満たし続ける必要があります。もし、満たせなくなってしまっているのであれば、もはや資格がないと判断されてしまいます。
 このように、現代でも、寺方会衆でもこのように5人の長老が任命されていますが、こうした聖書の基準にかなった、資格を満たしている兄弟たちが任命されていますので、やはり、そうした兄弟たちを信頼することができます。……
(* テトス 1:5-9に書かれている資格。)



テトス 1:5-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私があなたをクレタに残したのは,私の指示通りに問題を正し,それぞれの町に長老たちを任命してもらうためです。任命される人は,非難されるところがなく,1人の妻の夫でなければなりません。その人の子供も信仰を持っているべきで,堕落しているとか反抗的だと非難されていてはなりません。監督は,神の家の管理人ですから,非難されるところがあってはならず,意地を張らず,すぐに怒らず,酩酊せず,暴力を振るわず,貪欲に不当な利益を得ようとすべきではありません。人をよくもてなし,善いことを愛し,健全な考え方をし,正しいことを行い,神に尽くし,自制心があり,神の信頼できる言葉にしっかり従った教え方をしなければなりません。そうすれば,健全な教えによって励ますことも,逆らう人を戒めることもできるでしょう。



 発言の内容は建前に過ぎず、実態に合致しないと思いました。この種の問題は証人たちの間では昔から公然と言われ続けてきたことです。
 この点はまた後日詳しく指摘したいと思います。 [#23]






#22

 1997年初頭(雑誌の日付, 実際には1996年末)には、児童に対する性的虐待を行った信者に対する組織の方針が示されました。このような信者は、組織内において教職に就くことができないとされています。
 一方で、その信者は野外奉仕(聖書伝道)には参加できることになっています。このことは後に、いくつかの国で問題視されることになります。



◇ 「ものみの塔」誌1997年1月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

子供にわいせつなことをした人についてはどうか

 バプテスマを受けた大人のクリスチャンが子供にわいせつなことをするとしたらどうでしょうか。そういう罪を犯す人は,エホバから決して許してもらえないほど邪悪なのでしょうか。必ずしもそうではありません。イエスによれば,許されないのは『聖霊に対する冒とく』です。またパウロは,真理を知っていながら故意に罪を習わしにする者には罪のための犠牲は何も残されていない,と述べました。(ルカ 12:10。ヘブライ 10:26,27)ですが,聖書のどこにも,子供を ― 近親姦にせよ何にせよ ― 性的に虐待する大人のクリスチャンは許されない,といったことは述べられていません。確かに,その人が心から誠実に悔いて行ないを改めるなら,その罪は洗われて清くなります。しかし,それでもなおその人は,自分の培った良くない肉的衝動と闘わなければならないかもしれません。(エフェソス 1:7)また,必然的な結果が残るかもしれません。
 わいせつ行為をする人は,住んでいる国や地域の法律によっても違いますが,恐らく,懲役刑に服するか,国から他の刑罰を科されることは避けられないでしょう。会衆は,そうした事態に至らないよう当人をかばうことはしません。それに,その人は重大な弱さを露呈したのであり,これからはその弱さに考慮が払われなければなりません。悔い改めたように思われるのであれば,その人には,霊的な進歩を遂げることや,野外奉仕に参加すること,さらには神権宣教学校での話や奉仕会のプログラムの中の演壇から教えるのではない部分を扱うことも勧められるでしょう。とはいえ,これは会衆内の責任ある立場で仕える資格が得られるという意味ではありません。この点に関しては聖書的などんな理由があるでしょうか。
 一つに,長老は「自制心」のある人でなければなりません。(テトス 1:8)もちろん,わたしたちの中に,完ぺきな自制心を持っている人はいません。(ローマ 7:21-25)しかし,献身した大人のクリスチャンで,子供に対する性的虐待の罪を犯す人は,不自然な肉的弱さがあることを明らかにしています。経験が示すところによると,そのような大人は他の子供たちにもわいせつなことをする可能性があります。確かに,子供にわいせつなことをする人すべてがその罪を繰り返し犯すわけではありませんが,繰り返す人は少なくありません。また,会衆としても,だれが再び子供にわいせつなことをしそうで,だれがしそうでないかを,心を読んで指摘できるわけではありません。(エレミヤ 17:9)ですから,パウロがテモテにあてて書いた,「だれに対しても決して性急に手を置いてはなりません。また,他の人の罪にあずかる者となってはなりません」という助言は,子供にわいせつなことをしてきたバプテスマを受けた大人に関して特に当てはまります。(テモテ第一 5:22)会衆の子供たちを保護するためにも,子供にわいせつなことをしてきたことが知られている人は,会衆内の責任ある立場に就く資格がありません。また,開拓者になることや他の特別な全時間奉仕を行なうこともできません。―出エジプト記 21:28,29に示されている原則と比較してください。
 中には,こう尋ねる人があるかもしれません。『他の種類の罪を犯した人たちの中にも,悔い改めたように見えて,後にまた同じ罪を犯した人がいるのではないでしょうか』。確かに,そういう事はありました。しかし,ほかにも幾つか考慮すべき要素があります。例えば,だれかが不道徳なことをしようとして他の大人に近づく場合,言い寄られた大人はその誘いを退けることができるはずです。ところが子供は,すぐにだまされたり,何が何だか分からなくなったり,おびえてしまったりしやすいものです。聖書も,子供には知恵が欠けていると述べています。(箴言 22:15。コリント第一 13:11)イエスは子供を,謙遜な無邪気さの例として用いられました。(マタイ 18:4。ルカ 18:16,17)子供の無邪気さには,全く経験がないという面も含まれます。子供は大抵,開放的で,人に好かれようとします。それゆえに,自分の知っている信頼する大人で悪事をたくらむ者に虐待されやすいと言えます。ですから,会衆は子供たちを保護すべきであり,エホバのみ前にそうする責任を負っています。
 子供はよくしつけられると,親や長老や他の大人に対して従順になり,敬意を払うようになります。(エフェソス 6:1,2。テモテ第一 5:1,2。ヘブライ 13:7)もしもそれら権威を持つ人の一人が,その無邪気な信頼をいいことに子供を性的な行為に誘うか,子供にそのような行為を強要するとすれば,それは言語道断の倒錯行為です。そのような仕方でわいせつなことをされた人は,被った感情的な痛手から立ち直るまで何年間も悩み苦しむ場合が少なくありません。ですから,子供にわいせつなことをする人は,会衆からの厳しい懲らしめや制限を免れません。重視すべきなのは,権威ある者としての当人の威信ではなく,むしろ会衆の,きずのない浄さです。―コリント第一 5:6。ペテロ第二 3:14。
 子供にわいせつなことをした人は,誠実に悔い改めているなら,聖書の原則を当てはめることの知恵を認めるでしょう。もし邪悪なことを本当に憎悪するようになったのであれば,自分のしたことを忌み嫌い,同じ罪を繰り返さないよう懸命に努力するでしょう。(箴言 8:13。ローマ 12:9)それと共に,その人はエホバの愛の偉大さに感謝するに違いありません。その人のような,罪を悔い改めた人が,聖なる神を依然として崇拝でき,永久に地上に住む「廉直な者たち」の一人となる望みを抱けるのも,その愛のおかげだからです。―箴言 2:21。



 通常、エホバの証人の間で聖書伝道は「神聖な奉仕」と認識されています。しかしこの規則により、該当者はそれを「罪の償い」と見なすようになると思います。そしてその償いは、その人の生涯にわたって続けられることになります。

 社会から激しく叩かれたということはあるのですが、私としては、これはなかなかよい規則だと思います。






#23

 続いて、エホバの証人の長老の資格の問題ということについて書きたいと思います。これは、2019年08月14日の集会の件 [#21] のところで扱うと言っていたものです。

 昔からエホバの証人の間では、「よほどの大きな事件を起こさないかぎり長老が処分されることはない」ということが批判されてきました。エホバの証人という社会制度においては、長老に対する処分は罷免しか用意されていないらしいです。もしかすると罷免以外の処分が制定されているのかもしれませんが、機能していないと思います。
 問題を次々と起こす長老は昔から今に至るまでたくさんいます。しかし、もうこれは解任するしかないという問題を起こすまで、その長老が何かの処分を受けることはありません。長老としての資質が問われることもありません。その長老が調子に乗りすぎ一発退場級の大問題を引き起こしてはじめて、その長老に処分が下り、彼は解任されることになります。ふつう、どこかの会衆で長老が降ろされたという話があれば、それはほぼ例外なくそういう話です。

 私はこのことを相当おかしな話だと思います。もちろんほかの信者たちもみなそう思っています。長老たちもそう思っています。みんなこの問題を口にします。しかし、何も変わりません。どこかの会衆で長老が降ろされたという話があると、みなこう思います。常々問題を引き起こす長老がいてのさばっていたのがようやく処分されたに違いない、きっと会衆の兄弟姉妹はずっと我慢させられてきたのだろう、彼らにはご苦労様と言いたい。そんなことが繰り返されていますが、何も変わりません。

 最近は、エホバの証人であればだれもが指摘するこの問題を完全に無視する長老も増えてきました。彼らは会衆に対し、エホバの証人の長老たちは清い、あなたたちは長老の資質を疑ってはならない、などという教義を臆面なく説きます。このような長老にはゆるぎない安心感があるようです。彼らが自分の行く末を心配することはありません。
 このことは、私と長老たちとの珍妙なやりとりにも色濃く反映されていると思います。この程度の不品行を繰り返したとしても、長老たちとしては心配することなど何もないのです。

 そもそもの話、どうして長老に対する処罰が多段階になっていないのでしょうか。世の司法制度を見ても、軽い犯罪から重い犯罪に至るまで、段階的に処罰が制定されて執行されているじゃないですか。重大犯罪に対する死刑の執行しか制定されていない国がどこにありますか。今の制度で長老の資質を担保できるでしょうか。

 というわけで、私としては組織に対し、長老に対する処分を多段階にすることを提言したいと思います。しかも、その制度は日常的に運用されている必要があります。
 具体的にはこのような感じです。長老に対する1週間、1か月、半年、1年といった期間の謹慎処分が制度化されます。長老が些細な問題を起こすたびに、必ずそのうちのどれかが執行されます。問題があってもおとがめなしという選択肢は認めません。その結果、どこの会衆でも、長老が謹慎処分を受けることは日常となります。いつも会衆の長老のうち誰かが謹慎中であるということは、エホバの証人の間では普通のこととなります。

 この「処分が日常となる」ということはとても大切なことだと私は思います。そして、そのように制度を改革するのであれば、第一に統治体(最高機関)がそれを実行しなければならないと私は考えます。
 統治体にも謹慎処分というものはないらしいです。証人たちの誰も、統治体の誰かが謹慎中であると聞いたことはありません。そこで、まず統治体が手本を示さなければなりません。






#24

 話が1年と少しばかり戻るのですが、1995年には、いわゆる『抑圧された記憶』についての組織の方針が示されました。



◇ 「ものみの塔」誌1995年11月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

「打ちひしがれた霊」を持つ人々のための慰め

 今日,サタンの世は,「いっさいの道徳感覚を通り越し」た状態にあります。(エフェソス 4:19。ヨハネ第一 5:19)姦淫や淫行は,世界的な流行病のようになっています。結婚の半数かそれ以上が離婚に終わる国も少なくありません。同性愛は広く容認されています。性的暴行である強姦は,しばしばニュースの種となります。ポルノ産業は巨額の収益を上げています。―ローマ 1:26,27。
 倒錯行為の中でも最も忌まわしいのは,罪のない子供たちに対する性的虐待です。子供に対する性的虐待は,サタンの世の知恵のように「動物的,悪霊的」です。(ヤコブ 3:15)米国だけでも,「教師や医師が当局に届け出る,事実を確認できる性的暴行件数は,毎年40万件を上回る」と,タイム誌は伝えています。こうした虐待の被害者が大人になるとき,多くは依然として痛む傷を抱えています。しかも,その傷は現実のものです。聖書は言います。「人の霊[精神的な傾向,内面の感情や考え]は病苦に耐えることができるが,打ちひしがれた[傷ついた,苦しんでいる]霊については,だれがこれを忍ぶことができようか」― 箴言 18:14。
 神の王国の良いたよりは,「心の打ち砕かれた者」や「落胆した霊」を持つ人を含め,あらゆる人々の心に訴えます。(イザヤ 61:1-4)ですから,感情的な痛みを持つ人の多くが,「だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」という勧めに応じるのもうなずけます。(啓示 22:17)そのような人にとって,クリスチャン会衆は慰めの得られる場所となります。彼らは苦しみが過去のものとなる時の近いことを知って歓びます。(イザヤ 65:17)とはいえ,当面は『慰められ』,傷を『包帯で包んでもらう』必要があるかもしれません。パウロは適切にもクリスチャンにこう助言しました。「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい」― テサロニケ第一 5:14。

“抑圧された記憶”

 近年,周囲の人には理解しがたい理由があって「心の打ち砕かれた」人たちがいます。それは,“抑圧された記憶”なるものに基づいて,自分は子供の時に性的虐待を受けた,と言う大人たちです。 性的いたずらをされたなどと思っていなかった人が,不意にフラッシュバックを経験し,幼いころ,ある大人(もしくは大人たち)から虐待を受けたという“記憶”がよみがえる人たちもいます。クリスチャン会衆の中にも,そういういやな思いをしている人がいるでしょうか。幾つかの国では,確かにいます。そして,それら献身した人たちは,深い心痛,怒り,罪悪感,恥ずかしさ,孤独感などを感じているかもしれません。彼らはダビデと同じように,自分が神から遠ざけられているように感じ,「エホバよ,なぜ遠く離れて立っておられるのですか。なぜ苦難の時にご自分を隠しておられるのですか」と叫ぶかもしれません。―詩編 10:1。
 精神衛生の専門家も,こうした“記憶”の様々な面を十分に把握してはいません。それでも,そのような“記憶”は献身したクリスチャンの霊性に影響を及ぼしかねません。したがってわたしたちは,このようなケースを扱う際,確信をもって神の言葉に導きを求めます。聖書は『すべての事における識別力』を与えています。(テモテ第二 2:7; 3:16)聖書はまた,関係者すべてが,「優しい憐れみの父またすべての慰めの神……すべての患難においてわたしたちを慰めてくださ(る)」エホバに信仰を置くよう助けるものともなります。―コリント第二 1:3,4。

それは本当にあったことか

 世では,こうした“記憶”の正体と,それが実際に起きた事とどれほど合っているか,という点について議論が戦わされています。エホバの証人は「世のものではない」ので,こうした議論には加わりません。(ヨハネ 17:16)伝えられるところによれば,そうした“記憶”は正確であることもあります。一例として,保険会社の損害査定人であるフランク・フィッツパトリックが,ある司祭から性的いたずらをされたことを“思い出した”後,自分も同じ司祭に虐待されたと,ほぼ100人もの人が名乗り出ました。この司祭は虐待の事実を認めたということです。
 しかし,注目すべきなのは,自分の“記憶”の確証を得られない人がかなりいる,という事実です。この苦悩を経験した人の中には,自分を虐待した特定の人,もしくは虐待された特定の場所をはっきりと思い出すことができる人もいました。しかし,後日それを打ち消す確かな証拠により,自分の“記憶にある”細かな点が事実ではあり得ないことが判明しました。

逃れ場を設ける

 そのようなことがあるとしても,この種の“記憶”のために「打ちひしがれた霊」を持つ人をどのように慰めることができるでしょうか。隣人愛に富むサマリア人に関するイエスのたとえ話を思い出してください。ある人が強盗たちに襲われて殴打され,持ち物をはぎ取られてしまいました。通りがかりのサマリア人は,けがをした人を見て哀れに思いました。では,どうしましたか。殴打されたことについて一部始終を執ように聞こうとしたでしょうか。あるいは,このサマリア人は,強盗たちの特徴を聞き出して,すぐに追いかけましたか。そんなことはしませんでした。その人は,けがをしていたのです。それでサマリア人は,優しく傷の手当てを行ない,親切に近くの安全な宿屋に連れてゆき,そこで回復できるようにしました。―ルカ 10:30-37。
 もちろん,体に負う傷と,子供のころ実際に性的虐待を受けたために生じる「打ちひしがれた霊」とには違いがあります。ですが,どちらも大きな苦痛をもたらします。したがって,けがをしたユダヤ人のためにこのサマリア人が行なった事柄は,苦悩している仲間のクリスチャンのために何ができるかを示しています。まず優先すべきなのは,親切に慰めて,回復するよう助けることです。
 悪魔が忠実なヨブを悩ましたのは,感情的苦しみか身体的な苦しみのどちらかによって忠誠を破らせることができる,という自信があったためと思われます。(ヨブ 1:11; 2:5)それ以来,サタンはしばしば苦しみ ― 自分が直接引き起こすものも,そうでないものもある ― を用いて,神の僕たちの信仰を弱めようとしてきました。(コリント第二 12:7-9と比較してください。)悪魔が今,児童虐待を利用し,その被害に遭った(あるいは,その被害に遭ったという“記憶”に悩まされている)多くの大人の「落胆した霊」に付け入って,クリスチャンの信仰を弱めようとしていることを疑えるでしょうか。苦痛を味わってはいても不動の忠誠を保つ人は,サタンに攻撃された時のイエスのように,「サタンよ,離れ去れ!」と言っていることになります。―マタイ 4:10。

霊的な強さを保ちなさい

 「忠実で思慮深い奴隷」は,児童虐待によって生じる霊的苦しみと感情的苦しみを扱う際に役立つ情報を掲載してきました。(マタイ 24:45-47)経験からすれば,苦しんでいる人は,『主の力,またその力の強大さ』に頼って,「完全にそろった,神からの武具」を身に着けることができるならば助けが得られます。(エフェソス 6:10-17)この武具には聖書の「真理」が含まれます。真理はサタンが究極の敵であることを暴き,サタンとその手先が活動している闇を切り裂きます。(ヨハネ 3:19)次に,「義の胸当て」があります。苦悩している人は,義の規準を守るよう努めなければなりません。例えば,中には自分を傷つける,つまり不道徳を犯したいという強い衝動に駆られる人がいます。そのような人は,そうした衝動に抵抗するたびに勝利を収めているのです。
 霊的な武具には,「平和の良いたより」も含まれます。他の人にエホバの目的について話すなら,聞く人はもとより,話す人も強められます。(テモテ第一 4:16)もしあなたが「打ちひしがれた霊」を持っていて,良いたよりについて話すことに困難を覚えているのであれば,他のクリスチャンがこの肝要な業に携わる際,一緒に付いて行くよう心がけてください。そして,「信仰の大盾」を忘れてはなりません。エホバがあなたを愛しておられ,あなたが失ったものをすべて取り返してくださる,という信仰を持ってください。イエスもあなたを愛しておられ,その証拠にあなたのために死んでくださった,ということをためらわずに信じてください。(ヨハネ 3:16)サタンは常に,エホバは自分の僕たちを気遣っていない,と偽って唱えてきました。これもサタンの真っ赤なうそ,陰険なうそです。―ヨハネ 8:44。ヨブ 4:1,15-18; 42:10-15と比較してください。
 もし心の痛みのために,エホバがあなたを気遣っておられることが信じにくいのであれば,エホバは確かに気遣っておられると固く信じる人たちと交わるのがよいでしょう。(詩編 119:107,111。箴言 18:1。ヘブライ 10:23-25)サタンがあなたから命の賞を奪い取ることを断固阻止してください。「救いのかぶと」が武具の一つであることを覚えておきましょう。「霊の剣」もそうです。聖書は聖霊による霊感を受けており,サタンは聖霊を打ち負かすことができません。(テモテ第二 3:16。ヘブライ 4:12)いやす力を持つみ言葉は,感情的な痛みを和らげることができます。―詩編 107:20; コリント第二 10:4,5と比較してください。
 最後に,耐え忍ぶための力を絶えず祈り求めてください。(ローマ 12:12。エフェソス 6:18)イエスの心からの祈りは,感情面の極度の苦もんを耐え抜くようイエスを支えました。それは,あなたにとっても助けになります。(ルカ 22:41-43)祈るのは難しいと感じておられますか。もしそうであれば,あなたのために,またあなたと共に祈るよう,他の人に頼んでください。(コロサイ 1:3。ヤコブ 5:14)聖霊は,あなたの祈りを支えてくれます。(ローマ 8:26,27と比較してください。)痛みを伴う体の病気と同様,感情的な深い痛手の中には,この事物の体制においては完全にいやされないものもあるかもしれません。しかし,わたしたちはエホバの助けによって耐え忍ぶことができます。そして,忍耐することは,イエスの場合と同様,勝利となります。(ヨハネ 16:33)「民よ,いつでも[エホバ]に依り頼め。そのみ前にあなた方の心を注ぎ出せ。神はわたしたちのための避難所である」― 詩編 62:8。

虐待したとされる人についてはどうか

 実際に子供を性的に虐待する人は強姦者であり,そういう者とみなさなければなりません。その種の被害を受けた人には,虐待した人を告訴する権利があります。とはいえ,虐待されたという“抑圧された記憶”だけが告訴の根拠なのであれば,性急に告訴すべきではありません。この場合に最も大切なのは,被害者が感情面である程度の安定を取り戻すことです。しばらく時間がたてば,当人は自分の“記憶”をより正しく評価できるようになるでしょう。そして,もし望むなら,何をするかを決めることができます。
 ドナの場合について考えてみましょう。伝えられるところによれば,ドナには摂食障害があり,カウンセラーに相談しましたが,それは能力の疑わしいカウンセラーだったようです。やがて彼女は父親を近親相姦の容疑で訴え,父親は裁判にかけられました。陪審は評決に行き詰まったため,父親が投獄されることはありませんでしたが,父親には10万㌦(約900万円)の訴訟費用が請求されました。ところが,これだけもめた後,ドナは両親に,わたしは虐待されていなかったみたい,と言ったのです。
 ソロモンは賢明にも,「性急に訴訟を起こそうとして出て行ってはならない」と述べています。(箴言 25:8)もし,加害者の疑いをかけられている人が,依然として子供たちを虐待しているとみなせるもっともな理由があるならば,注意を促す必要があるかもしれません。そのような場合,会衆の長老たちは助けになれます。もしそのような理由がなければ,早まった行動をしないでください。結局,問題にしないでよいと思えるかもしれません。それでも,もし加害者の疑いをかけられている人と対決したいと思えば(予想される反応について自分がどう感じるかをまず検討した後),そうする権利があります。
 “記憶”にさいなまれる人の心がいえてゆく時期に,気まずい状況が生じるかもしれません。例えば,ある人は,自分に性的いたずらをしたという鮮明な印象が残っている人と毎日顔を合わせるかもしれません。こうしたケースをどう扱うかについて規則を設けることはできません。「人はおのおの自分の荷を負うのです」。(ガラテア 6:5)親族,あるいは肉親の一人が加害者に思えることもあるかもしれません。しかし,加害者の疑いのある人を特定するとなると,“抑圧された記憶”の中にはあいまいな性質のものがある,ということを覚えていなければなりません。そのような状況にあって,事の白黒がはっきりしていないのであれば,少なくとも時折訪問したり,手紙を書いたり,電話したりするなどの方法で家族との接触を保つことは,聖書的な歩み方に付き従おうという本人の心がけを示すものとなります。―エフェソス 6:1-3と比較してください。

長老たちには何ができるか

 児童虐待のフラッシュバック,あるいは“抑圧された記憶”に直面している会衆の成員が長老たちに相談する場合,普通は援助のために二人の長老が指名されます。これらの長老たちは,当面は感情的な苦痛に対処することに注意を集中するよう,苦しんでいる人を親切に励ますようにします。“記憶にある”虐待者の名前は,それがだれであろうと固く内密にしておくべきです。
 長老たちのおもな務めは,牧者として行動することです。(イザヤ 32:1,2。ペテロ第一 5:2,3)とりわけ長老たちは,「優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着け(る)」よう,心を砕かなければなりません。(コロサイ 3:12)親切な態度で話に耳を傾けてから,人をいやす聖書の言葉を語るようにしましょう。(箴言 12:18)つらい“記憶”に悩まされている人の中には,様子を知るために定期的に訪問したり,電話をかけたりする長老たちに感謝を示す人々がいます。そうした接触のために多くの時間を割く必要はないとはいえ,そのことにはエホバの組織の気遣いが表われます。苦しんでいる人にとって,クリスチャンの兄弟たちが自分を本当に愛していることを知るのは,感情的な平衡を取り戻す点で大きな助けになるでしょう。
 もし被害者が告発したいと思うならばどうでしょうか。 その場合,二人の長老たちはその人に,マタイ 18章15節の原則に調和して,その人が告発しようとしている人のところに自分から行って,問題について話すのが望ましいということを助言することができます。もし告発を考えている人が,相手に直接会って話すことが感情的にできないならば,電話や手紙でもできます。そうすれば,告発される人は,告発に対する答えをもって,エホバのみ前で自らの立場を明らかにする機会を得ることになります。その人は,自分が虐待したはずがないことを示す証拠さえ提出できるかもしれません。もしかしたら,告発された人が告白し,和解に至ることもあるかもしれません。そうなれば,本当によいことです。もし告白がなされたなら,二人の長老たちは聖書的な原則に従って問題を継続して扱うでしょう。
 告発されても,もし当人がそのような事実はないと言うなら,長老たちは告発した人に,審理措置は何も講じられないことを説明すべきです。そして会衆は告発された人を引き続き潔白な人とみなすでしょう。聖書によれば,審理措置は,二人または三人の証人がいなければ取ることはできません。(コリント第二 13:1。テモテ第一 5:19)たとえ二人以上の人が,同じ人からの虐待を受けた“覚えがある”としても,そうした回想は至って当てにならない性質のものであるため,裏づけとなる他の証拠がない限り,審理上の決定を下す根拠にはなりません。これは,その種の“記憶”が事実無根とみなされる(もしくは,事実とみなされる)という意味ではありません。しかし,審理によってある問題を明らかにするに当たっては,聖書の原則に従わなければなりません。
 告発された人が悪行を否定するものの,実際には有罪である場合はどうでしょうか。その人は,いわば“うまくやりおおせる”のでしょうか。もちろん,それはできません。当人が有罪か潔白かという問題は,安心してエホバのみ手にゆだねることができます。「ある人たちの罪は公に明らかで直接裁きに至りますが,そのほかの人の場合も,その罪はおって明らかになります」。(テモテ第一 5:24。ローマ 12:19; 14:12)箴言の書はこう述べています。「義なる者たちの期待は歓ぶことであり,邪悪な者たちの望みは滅びうせる」。「邪悪な者が死ぬとき,その望みは滅びうせる」。(箴言 10:28; 11:7)最終的には,エホバ神とキリスト・イエスが公正をもって永遠の裁きを行ないます。―コリント第一 4:5。

悪魔に抵抗する

 献身した人々が身体的,もしくは感情的な極度の苦痛を経験しても耐え忍ぶ時,それは彼らの内面的な力と神への愛の何と優れた証拠になることでしょう。また,彼らを支えるエホバの霊の力の何と立派な証しとなることでしょう。―コリント第二 4:7と比較してください。
 「堅い信仰をもって[サタン]に立ち向かいなさい」というペテロの言葉は,そのような人に当てはまります。(ペテロ第一 5:9)これは,たやすいことではないかもしれません。時には,物をはっきりと,また論理的に考えるのが難しいことさえあるでしょう。それでも元気を出してください。悪魔も,そのずる賢い行為も,間もなく消え失せます。確かにわたしたちは,このような時を待ち望むのです。「神みずから……彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:3,4。



 この文書の意図を正しく理解するためには、このころアメリカで“抑圧された記憶”の問題が社会問題として大きく取り上げられていたという事情を知っておかなければなりません。日本人でこの話を知っている人はまずいないと思います。

 虐待を受けた子供には、虐待の記憶を失ってしまう傾向があると言われています。失われる記憶のうち、完全に失われたものを「抑圧された記憶」と言います。ところが、その子が大人になってから、失われた記憶が突然よみがえってくることがあるそうです。
 このような事象があることが知られるようになると、今度は、抑圧された記憶を思い出させる専門の医師や心理学者やカウンセラーという人々が現れるようになりました。これらの人たちは大活躍し、自分には性的虐待の経験はないと思っている女性たちに積極的に働きかけて、次々と抑圧された記憶を引き出すようになります。

 そうすると今度は、そのようにして引き出した記憶がすこしも正しくないという事例が発生することになります。



◇ 「抑圧された記憶の神話」, E・F・ロフタス, K・ケッチャム (表記等修正)

 1990年の初頭、……アメリカでは大きな論争が起きていました。多くの家庭で次のような事態が生じていたのです。問題を抱え、うつ、不安、また神経過敏を訴える人が、カウンセラーに助けを求めます。……カウンセラーがこう尋ねます。「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは子どもの頃、虐待されたのではないですか?」。……そして度を越えた「記憶作業」が行われることもあります。……そしてその結果、生涯の長い期間にわたる、数々の暴力的な外傷が浮かび上がってくることがあるのです。
 ……多くの家族が疑わしい記憶のために崩壊し、無実の人がたくさん起訴されました。……けれども、そのような訴訟が北アメリカで何百件も起きた後、……偽りの信念をもたされた人びとの多くが、記憶は偽りであったと気づき始めています。かつてかかっていたカウンセラーを医療過誤で訴えている人もたくさんいます。



 具体的な例を見てみましょう。



◇ 「抑圧された記憶の神話」, E・F・ロフタス, K・ケッチャム (表記等修正)

 ナンシーはこう証言した。彼女は祖父母の性器を触るよう強要され、また祖母は彼女の性器に「手をまるごと」、「頭」さえ入れた。また祖父母は部屋ほどもある機械をボタン操作し、機械についている手が彼女を「痛くした」……これらの告発を裏付ける証拠は皆無だった。にもかかわらず、1993年2月12日、ともに61歳のサウザ夫妻は性的虐待、暴行、殴打などの複数の罪で有罪となった。



 いまのは序の口です。



◇ 「抑圧された記憶の神話」, E・F・ロフタス, K・ケッチャム (表記等修正)

 結局、5人すべてが性的虐待の記憶を回復した。最初のうち、心の情景には一人の虐待者、たいていは父親か母親か兄しかいなかった。だがイメージが拡大してくると、叔父、伯母、従兄弟、祖父母、牧師、友人、近所の人などが出てくるようになった。また、記憶が展開し始めた頃の虐待は、身体や性器への接触、愛撫などだった。だが時がたつにつれ、イメージのパノラマには姦通、レイプ、強姦などが含まれるようになった。5人のうちの何人かの心の情景には、悪魔崇拝、残酷な拷問、血液を飲む儀式、殺人までもが現われた。



◇ 「抑圧された記憶の神話」, E・F・ロフタス, K・ケッチャム (表記等修正)

 ミッチェルは毎回、催眠を受けた。数か月たつと、彼女は5歳の頃、母親からオリに閉じ込められたことや、悪魔信者の残酷な集会の「記憶」などを思い出すようになった。「マラキ」という男が取り行う血のしたたる儀式、黒い服をまとった残忍な看護婦、歌い踊る十数人の大人たち。彼らは生きた鶏を歯で裂き、胎児を真っ二つに切り、その身体をミッチェルの腹になすりつけ、十字架で彼女を犯し、無理やり聖書に排尿や脱糞をさせたりした。



◇ 「抑圧された記憶の神話」, E・F・ロフタス, K・ケッチャム (表記等修正)

 2人の姉妹が70代半ばの母親と最近亡くなった父親をレイプ、強姦、オーラルセックスの強要、電気刺激による拷問、儀式による赤ん坊殺害の罪で告発した。
 ……姉は……4,5歳の頃……祖母が兎を捕まえ、片方の耳を切り落し、その血を彼女にふりかけ、殺しなさいとばかりにナイフを差し出したのだという。嫌だと言うと母親が彼女の腕に熱湯をかけた。……見知らぬ集団(悪魔崇拝のメンバーであることを後で知った)にナイフで犬の腹を裂くよう命令されたこともあった。彼女はまた、悪魔教の秘密を暴くと迫った男がたいまつの火で焼かれるのを無理やり見させられたことも思い出した。……集団はまた、彼女に、出産したばかりの新生児を殺させもした。
 陪審員は告発された女性に対し、娘を放任したとして有罪判決を下した。だがそれ以上の罪は課さず……この判決に対する上告は失敗に終わった。



 無罪であるはずの被疑者に有罪判決が下される例も幾つかあり、そのうちこの問題はメディアで大きく取り上げられるようになりました。

 そうすると、エホバの証人組織としては、この問題にどう取り組むか方針を決めて公表するよう信者たちから迫られることになります。これはほかの宗教ではあまり見られない現象だと思います。ほとんどの宗教団体はこの問題を気にかけず、信徒たちが対応を求めることもなかったと思います。

 内容については、やむをえないとしか言いようのないところが多くあると思います。たとえば、「たとえ二人以上の人が,同じ人からの虐待を受けた“覚えがある”としても,そうした回想は至って当てにならない性質のものであるため……」という記述がありますが、いま見たように、抑圧された記憶は家族や友人に“感染”してしまうものらしいです。

 こののち、この文書は反対者によって利用されることになります。エホバの証人という宗教は児童虐待者を保護する宗教であるというのが彼らの言い分です。
 エホバの証人以外の宗教がこのような批判を受けているという話は聞いたことがありません。それらの諸宗教がこの種の文書を公表しないからだと思います。






#25

 物心がつくようになると、私はいろいろなところでいろいろな人に、自分が虐待されていることを話すようになりました。そのころの私には性に関する知識はまだありませんでしたので、おかあさんががぼくを殴るとかハダカにするという話し方をしました。
 それに対する会衆の反応は、「あなたのお母さんがそんなことをするはずがない」というものでした。
 それでも私が虐待について話し続けたため、やがて、この問題には会衆を挙げて対応すべきだという方針が出てくるようになりました。この方針を考えたのは、山出正夫兄弟とその妻の恵子姉妹らしいです。それに長老団が賛同し、会衆も協力して、私への対処を進めるということになりました。
 最初のころ決められた方針はこんな感じです。私が虐待について話しているのを会衆の誰かが聞いたり目撃したりした場合、その人はそれを山出夫妻に報告します。山出夫妻はそれを長老団と私の母に報告します。これらの人たちで対応を協議し、私が話をした相手に注意喚起の通知を行います。

 私の年齢が上がってくると、なんとかしてこの子を黙らせることはできないだろうか、ということが言われるようになりました。山出夫妻の提案により、だいたい次のような方針が決められ、会衆に通知されました。1. もし崇君が虐待について話し始めた場合、聞き流す。2. それでも話し続ける場合は、別の話題を口にして話をそらすようにする。3. それでも話し続ける場合には、そのような話は聞きたくないと言う。4. それでも話し続ける場合は、完全に無視してしまう。
 これはかなりの効果があったと思います。しかし、それにより私が完全に黙ってしまうということにはなりませんでした。

 そのうち、会衆は私のことを「親に対して反抗的だ」とか「頭がおかしい」とか「悪霊がついている」などと言うようになりました。こうして会衆は、私に対してより毅然とした対応をする必要に迫られることになります。
 そうした流れの中で特に大きな問題として浮上してきたのが、私と同年代の子供たちに対する“悪影響”を何とかして防がなければならないということです。

 さて、もしかするとあなたは、この話を読んで、なんだこれはと思うかもしれません。こんなのは異常じゃないかと言うかもしれません。
 そこで誤解がないように言い添えておきますが、当時はこれが普通でした。世の中のどこにおいても、親からの虐待を訴える子供がこのように扱われた時代があったのです。



◇ 「子ども虐待という第四の発達障害」, 杉山登志郎 (表記等修正)

 (社会の)子ども虐待への対応は六段階に分けられる……これはどの国においても、同じパターンで発展していくという。
 第一段階は虐待の否認である。ケンプが初めて被殴打児症候群を報告した1960年代のアメリカ合衆国においてもそうであったし、我が国においても1980年代まではそうであった。第二段階は、社会が虐待の存在に気づく段階である。ここで初めて……重大な問題であることが認識されるようになる。



 もっとも、私の会衆の場合、問題はこれがいまだに第一段階のままであることです。






#26

◇ 2019年09月01日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 前回のメールにてお願いをしてからちょうど1か月がたちました。
 待ちましたが、いまだ対応がありません。

 お願いした件がどうなっているか、報告をよろしくお願いいたします。



◇ 2019年09月01日, 大井一弘兄弟から私へのメール

Re:宮原です

 親愛なる宮原崇兄弟へ

 お返事が遅くなり申し訳ありません。

 兄弟は、ご自分が牧羊訪問を拒絶していないということと、今後もこのようなことを心配する必要はないということを、長老団の見解として文書で示していただくよう求めておられました。

 そのような約束を文書で行うことはありません。

 わたしたちは引き続き、兄弟と直接話し合うことを願っています。

 前回訪問したさいにお話しした通り、この話し合いは牧羊ではなく、兄弟と和睦し、関係を回復するために行いたいと願っているものです。私たちも兄弟にたいして十分な気遣いができなかったことをお詫びし、兄弟が2006年から2007年にかけて小原兄弟に書面で提出した事柄について、できる限り説明し、兄弟のお気持ちをお聞きしたいと思っています。

 しかし兄弟が求めておられる、わたしと、この問題と関係のある過去の調整者の文書による謝罪や、グループ監督であった山下義人兄弟の応対に対する処分に応じることはありません。

 兄弟が対話に応じてくださることを心から願っています。

 私個人としては、崇兄弟のことは、小学生の頃からずっと共に歩んできた本当に大切な友です。私が至らない点もあり、兄弟に多くの心痛を与えてしまったことは本当に申し訳なく思っています。崇兄弟の健康と兄弟が捧げる奉仕の上にエホバの聖なる力が十分に注がれることをお祈りしています。

大井一弘



 これは、事実上のゼロ回答というものだと感じました。

 もし、自分に非があって被害者から訴えられているのに何かの理由があって謝罪も約束もできないという場合、もっと腰を低くしながら「この件について謝罪も約束もできませんが、この件が繰り返されないように努力しますということは約束させていただきます。どうかこれ以上は容赦ください。」などと言うことができると思います。処罰をしないの件についても同様で、「処罰はしませんが口頭でよく注意しておきますので」と言うことができます。彼の手紙にはその種の工夫がどこにもありません。普通の人なら、こういう言葉が必要だと強く感じるところでしょう。人間として健全であれば、そうするよりしない方がはるかに困難となるはずです。ですからこの手紙には、彼、そして長老団が、自分たちのことを後ろめたく思っていないということが強く示唆されていると感じました。
 謝罪になっている部分を見ると、これまでに比べ“謝罪のランク”がやや上がっているように思いますが、それでもまたこれは私の気分の問題だということになっていると思います。「私が至らない点もあり」などの表現がありますが、これは「私にも少しは原因があるわけですが、主な原因はあなたのほうにあります」と言っているようにも見えます。ようするにこれは私が先に指摘した“謝罪もどき” [#20] の一形態で、彼としては自分の罪状を認めるつもりなどないのだと思います。
 「できる限り説明し、兄弟のお気持ちをお聞きしたい」と述べていますが、ここには「誠心誠意問題に対応し、解決を図ります」と付け加えるべきです。これだと、「予定されているのは口先の作業だけです」と宣言したのと同じです。






#27

 続いて、私が“最小化の原則”と呼んでいる問題を扱いたいと思います。

 ここで言う「最小化の原則」とは、人や組織が、手間やリスクを最小にしようとして実践する諸般の手法のことを指しています。あいにく私は、世の中でこの概念が何という用語で呼ばれているのか知りません。近いものとしては「企業のリスクマネジメント」というような言い方があります。

 企業の内部で人間関係のトラブルが生じた場合を考えてみましょう。一般的に、このような時に企業が考えることは、問題を拡大させず迅速に収束させることです。ほんとうは、事情を正しく調べて、正しい側を弁護し、間違った側に処罰を与えるべきですが、そうするとは限りません。企業にとって益になるのであればそうしますし、益にならないのであればそうしません。そういったことのために、事情の報告を無視してしまうとか、意図的に調査を怠るとか、当事者を遠ざけてしまうということが行われることになります。
 企業のサポートが顧客とトラブルを抱えた場合も同様です。一見して、企業のサポートは顧客を気遣いその利益を図っているように見えますが、たいていの場合、動機はそのようでありません。企業が気にかけるのは、トラブルが騒ぎに進展しさらに炎上する事態を防がなければならない、ということです。正しく顧客に対応することが問題の拡大を防ぐのであればそうしますが、そうでない場合は別の方策をとることになります。そういったことのために、自身の非をなにがなんでも認めないとか、嘘をついて顧客をごまかしてしまうということが行われることになります。

 私が問題だと思うのは、エホバの証人の長老たちの中には、この“最小化の原則”に傾倒しまくる人がいるということです。そのような長老は、それが自分や組織にとってどれほど不利益か、ということを常に考えていて、リスクとか不利益とか劣勢とかいう要素をすべて完全に回避しようとします。

 その最大の手法は「無視する」ことです。最小化の原則におけるもっとも最小の状態は消滅した状態です。何か問題が生じても、責任ある立場の者がそれを無視してしまえば、なかったと同じにできるかもしれません。もし問題を無視することができない場合、問題にかかわる様々な要素を無視することにします。要素の無視を最大化することにより、最小化という結果が得られます。
 次に代表的な手法は「謝罪しない」ことです。謝罪をすればたいてい、そのあとに処分とか補償とか約束とかいう負担がついてくることになります。ですから、謝罪をすることは最小化の原則に対する重大な違反です。謝罪さえしなければそういう問題は根本的に回避できます。もちろん、謝罪しないためには、罪を認めないことが不可欠です。仮に罪を認めざるを得なくなったとしても、罪を細分化してできるだけ多くの要素を無視したうえで、細かいことのみを謝罪するようでなければなりません。
 次の手法は「約束しない」ということです。約束をすればそれを守らなければならなくなりますし、もし守らなかったら罪に問われることになります。このような負担を生じさせるので、約束をすることは最小化の原則に反します。もっとも、多くの問題では約束することを完全に回避することは不可能なので、工夫が必要です。たとえば、通常なら文書でするべき約束を口頭で済ませてしまうなら、あとになってごまかすことができます。
 謝罪と約束についての極端な手法に、あれやこれやと話を入れ替えた末に謝罪や約束はすべて相手にさせてしまうというものがあります。自分のほうは何ら謝罪も約束もせず、相手にはさせるということです。
 「無視する」と被りますが、「不利な事実を認めない」ということも大切です。多少なりとも自分を不利にする事実というものがあれば、自分の側からそれに触れるということはしません。相手がそれに言及しても聞き流します。回答を求められても別のことを言います。どうしても回答をしなければならなくなったら、少しだけ回答し、あとでその内容を否定するようなことを言っておきます。

 私は、長老が「謝罪することだけはどんなことがあっても決してしてはならない」と公然と言うのを聞いたことがあります。真実の神であり偽りを否定する神でもあるエホバを神とし、その言葉である聖書の導きに堅く従うエホバの証人という宗教において、その教えのどこをどう解釈したらそのような価値観が出現するのか、まったく理解できません。

 “最小化の原則”のもっとも深刻な被害は、その被害者ではなく加害者のほうに生じます。理由は定かでありませんが、一般的に、その原則の実践者は「自分は正しいことをしている」と錯覚してしまうのです。
 実際には真逆のことが行われるにもかかわらずです。最小化の原則が正しいことを正しい通りに行うということはまずありません。ほぼすべての場合において、最小化の原則は、正しいことをなんとしてでも回避しようとします。何としてでも正しいことを行わないでおこうとします。それなのに、その人は自分は正しいことをしていると確信するのです。もちろん、正しいことであれば熱心に行わなければなりません。熱心に行えは、自分は正しいことをこんなにも努力して行っているんだという気分になれます。最小化の原則の実践にはさまざまな障害が伴いますが、それらの障害に果敢に立ち向かって乗り越えれば、正しいことのために戦っている人だけが味わうことができる充足感を得ることができます。こうして、最小化の原則は、その実行者の人間としての基本的な部分を破壊してしまうのです。
 しかも、エホバの証人には「エホバの方法」という悪魔の言葉があって、それが破壊を劇的にします。もし、最小化の原則の実践こそが「エホバの方法」であるなら、どうでしょうか。エホバは正しいことを教える方ですから、最小化の原則に従う長老は、神の正しさを実践していることになります。エホバは愛と思いやりに富んだ方ですから、最小化の原則に従う長老は、そうやってエホバの愛と思いやりを会衆に届けていることになります。こうしてある長老たちは、見かけ上のエホバに忠誠を尽くしてしまったせいで自分の信仰を根底から覆しています。

 そこで私は組織に対して次のことを提言します。
 私が“最小化の原則”と呼んでいるものについて、組織は何かの用語を作り、その定義化を推し進めます。その内容を長老たちに通知し、具体例を挙げるなどしながら入念に周知を図ります。そのうえで、最小化の原則は悪魔サタンの教えであり、エホバ神に仕える神聖な民には全くあってはならない汚れだと宣言します。神は最小化の原則にしたがって会衆を扱う長老たちを憎んでおり、彼らに是認と救いを与えることはないと警告します。
 もちろん、そうするためには、組織自身が手本を示すことが必要です。組織は、自分たちが手順化して文書化したさまざまな項目について、最小化の原則が、言い換えるなら悪魔の霊感の表現が、入り込んでいないかを入念にチェックし、それらを徹底して除去しなければなりません。






#28

 続いて、私が“代替機制(だいたいきせい)”と呼んでいる問題を扱いたいと思います。

 ここで言う「代替機制」とは、何らかのやるべきことをほかの方法で済ませ、やったことにしてしまう手法です。代替機制は基本的に「できないこと」に対する対策を意味しますが、手法としての代替機制にはすり替えという要素があります。

 むかし、研究生の聖書研究(求道者に対する教育)について「半年で打ち切る」というルールがありました。しかし、聖書の研究を始めて半年で信者になれる人はそんなに多くなく、中には10年以上かかる方もいたりしますので、だんだんルールは骨抜きになっていきました。しまいには、聖書研究を打ち切るという概念自体が消滅してしまい、いったん始まった聖書研究は、研究生がやめると言わないかぎりいつまでも続けられるようになりました。
 しかし、1995年に研究用の新しいテキスト「永遠の命に導く知識」の本が刊行されると、状況は一変することになります。組織は、消滅していた半年ルールを復活させ、規則としたのです。
 この時、私は「これはたいへんなことになるんじゃないか」と心配しました。日本のような国では研究の数が激減することになりますし、そうしたら、数が減った不面目をごまかそうとする動きが生じるかもしれません。実際、研究の数はだいぶ減ってしまいました。増やすことができなくなったのです。
 やがて、組織は「玄関先での研究」ということを強調するようになりました。これまで「再訪問(関心を持つ人に対する定期的な訪問)」とされていたものでも、「聖書と出版物の一つを使って話し合いを定期的に行なっている」なら、それを「研究」として報告しましょう、ということでした。
 しかし信者側には抵抗する動きがありました。研究でないものを研究として報告していいのか、それは不正ではないか、というようなことが言われたのです。そもそもの話、半年で研究を打ち切るという方針とこの方針とをどうやって両立できるのでしょうか。こんなことをするくらいなら、すべてを元に戻したほうがはるかにましです。
 すると今度は、新しい方針を受け入れるよう信者たちを『励ます』ということが言われるようになりました。そのために動員されたのが、各会衆の長老たちです。組織は繰り返し「励ます」ということを長老に求めました。「もし会衆の成員の中に、再訪問で討議を行っているけど研究の報告はできないと思っている方がいれば、「報告はできるんですよ、ぜひ報告してください」と言って励ましてあげましょう」ということが指導されました。長老たちに抵抗する動きはなく、やがて信者たちもその励ましを受け入れるようになっていきました。
 つまり、聖書研究の水増しが堂々と行われるようになったのです。それまで、奉仕の報告は正しくやらなければならないということが言われ、厳密に実践されてきました。それが骨抜きになったのです。

 この事件は、エホバの証人社会において、様々なルールが骨抜きになる引き金になったと私は思います。
 たとえばこのようなことが行われるようになっています。エホバの証人がある家を訪問します。家の人は、聖書の話は結構ですよ、と言います。すると証人は、では聖書の話ではなく家庭のコミュニケーションの話はどうでしょうか、と言いながら聖書を開き、読んで聞かせます。いま、エホバの証人の間では、このようなやり方をよしとする風潮が広がっていて、それを手本と見なす人さえいる始末です。

 ここで私が気にかけないわけにいかないことがあります。長老たちが「あなたは牧羊を拒否している」と勝手なことを言い、加えて「では牧羊ではない話し合いはいかがでしょうか」と言っている [#26] ことです。それより前には「お茶でもどうですか」と言っています [#02] 。これがうまいやり方だとされているということはないでしょうか。長老には牧羊訪問を行う義務があります。しかし、信者が牧羊を断る場合もあります。このような時、今挙げたような言い方で巧みに信者を誘い、それで牧羊をしたことにしてしまう長老がいるなら、それは見事なやり方だ、こんな工夫をする長老は立派な長老だと見なされることはないでしょうか。
 そもそもの話、私がもう何年も牧羊を受けていないことについて、長老たちはどういう記録をつけているのでしょうか。正しく記録をつけたら組織に目をつけられるじゃないですか。ここで私が思い当たるのは、長老との奉仕(聖書伝道)です。私が長老と組になって奉仕をすることがあると、長老は必ず「コーヒーでもどうですか」と言います。それで二人は喫茶店に入って雑談でもすることになるのですが、これが牧羊として記録されていることはないでしょうか。(念のために言い添えておきますが、過去に私が牧羊を拒否したことはありません。)
 長老たちが牧羊の拒否という考えに固執している背景には、すでに型が出来上がっているということがあると私は思います。山下義人兄弟が「お茶でもどうですか」と言った時点で、この話は「信者が牧羊訪問を断った場合」に相当すると格付けされているのではないでしょうか。
 というわけで、私の心の中は長老たちに対する疑いでいっぱいです。(念のために言い添えておきますが、今、私が牧羊を拒否しつつあるわけではありません。)

 私としては組織に対して言わざるを得ない苦情があります。長老と信者との関係をここまで信頼できかねるものにしてしまったのはどういうことですか。

 代替機制にも、それに傾倒しまくる長老が見られます。このような長老は、正しいことや善いことをする必要に迫られると、なんとかして代わりをやって済ませようということを考えます。
 最小化の原則 [#27] と代替機制の組み合わせは凶悪です。たとえどんなことがあっても正しいことなんか絶対にやらないぞ、という長老が誕生するのです。

 私がさらに心配するのは、今後は排斥(除名処分)のような重大な手続きにも手抜きが生じるのではないかということです。排斥はたいへん重い処分ですので、そう簡単にはできないように規則でがっちり固めてあります。今後はこの制度の骨抜きが行われるようになるかもしれません。そうすると、本来行われるべき手続きなしで排斥される信者も出てくるのではないでしょうか。
 ほかにもいろいろと問題が生じるでしょう。しかも、エホバの証人には「エホバの方法」という悪魔の言葉があります。もし、規則を骨抜きにすることこそが「エホバの方法」であるとするなら、どうでしょうか。これはぜひとも、せっせとやるべきだということになります。こんなことがあってよいものでしょうか。

 そこで、私から組織に提言があります。
 組織は長老たちに対して、「奉仕と呼ばれているものには神聖なものとそうでないものとがある」ということを説くべきだと私は考えます。神聖な奉仕には最上の物や最大の努力を捧げなければなりません。最上の犠牲を捧げなければならないのですから、代わりにこれで済ませておこうということは認められません。そして、もしもできないことがあって仕方なく代わりをやる場合、それは代わりをやったということにしかならないということを明確化する規定を作ります。神聖な奉仕である限り、やっていないのにやったことにしてしまうということはあってはならないのです。






#29

 というわけで、今度は「エホバの方法」ということについて扱いたいと思います。

 エホバの証人社会では、エホバの方法で物事を行うことの重要さが説かれています。すると当然、エホバの方法とは何か、ということが問題になってきます。私は、エホバの証人の現状を見て、エホバの方法は次のように区別されると考えます。1. 実際にエホバの方法であるもの, 2. エホバの方法であるか曖昧なもの, 3. エホバの方法とは関係のないもの, 4. エホバの方法ではないもの。
 このような分類が生じる背景には「エホバの方法」の定義づけがあります。エホバという神がいて、エホバを崇拝するエホバの証人という宗教が生まれ、エホバの組織(教団)が構築され、エホバの組織から指導や指示が出されるようになると、それらの指導や指示のすべてが「エホバの方法」であると言われるようになりました。
 たとえば、組織が各会衆に対し、王国会館(教会)の屋根は緑にしなさい、と言ったとします。そこで各会衆の兄弟姉妹たちは緑のペンキを持ってきて王国会館の屋根をせっせと塗ります。これは3になります。組織からの指示ではありますが、本来の意味における「エホバの方法」とは関係のないことです。しかし、これもエホバの方法であると見なされます。
 このようなことが日々繰り返されるのを見て、私はこう思います。エホバの方法であることと、エホバの方法であると見なされていることとは違う。そこで、上のような分類が生じることになります。

 私は、この問題にはそうとうな危機感を募らせています。もし、エホバの組織のすることがすべてエホバの方法であるなら、エホバは存在しないということになります。善悪の基準も存在しないことになります。それは、エホバに仕える証人たちの信仰と良心の両方が破壊されることを意味しています。
 実際、エホバの方法とされるものの中には4に分類されるものがあります。これは露骨に言い替えると、4. 実際には悪魔の方法であるもの、となります。先に述べた“最小化の原則” [#27] や“代替機制” [#28] がそれにあたります。そのようなとき、「エホバの方法」は悪魔の言葉に変身します。これは私にとってたいへん恐ろしいことです。

 エホバの組織が「エホバの方法」という言葉を連呼するようになって、もっとも迷惑を被っているのは、ほかならないエホバご自身です。エホバは悪魔なのでしょうか。

 そこで、私は組織に対して次のことを要求します。
 組織は、『誰かが何かのことを指して「これはエホバの方法です」と言った場合、それは実際にエホバの方法でなければならない』という規則を作って公布してください。もし、実際にはエホバの方法でないものを指して、これはエホバの方法であるなどと言う人がいたら、それは神の名の悪用であり、冒涜でもあるから、厳しい処罰を下すと規定してください。エホバの名は極めて神聖なものであるので、軽々しく振りかざすべきではない、そのようなことをする者は厳格な処分を免れない、と明言してください。もし誰かが、これはエホバの方法ですと言って事を行ったのに、失敗した場合、その動機や事情にかかわらず、神の名を用いて失態を招いたことの結果責任が問われると規定してください。また、組織は今後、「エホバの方法」という言葉の使用はできるだけ自粛し、代わりに、「エホバから見て正しいこと」とか「エホバが喜ばれること」とか「エホバへの賛美になること」という表現を使うようにしてください。

 いまここで、私は「提言」と言わず「要求」と言いました。なぜなら、これは神の御名に関することだからです。
 私は、エホバの証人の社会内にある様々な問題や事件について、組織に対してちくいち高圧的な態度をとりたいとは思っていません。組織や統治体に対して責任を問いたいと思うこともまずありません。しかし、神の名についてのこととなると話は全く別です。この件に関する限り、私は何も容赦しません。私はエホバの証人です。
 そこで、私はさらに、統治体に対して、この問題についての謝罪を要求します。統治体は謝罪を行い、インターネットを用いて全世界の会衆と信者に謝罪を配信してください。繰り返して言いますが、私はこの要求を少したりとも譲歩しません。






#30

◇ 2019年09月04日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です

 今回、あなたからの返信を読んでいる時に、驚くようなことがありました。
 神経的症状と思われる症状が現れたのです。
 ここしばらく私は、過剰な不快感や不安によって引き起こされる頭痛や不眠に悩まされていました。とはいえ、これらは私が今まで経験してきた様々な精神的圧迫に比べればたいしたこともありませんし、我慢すれば済むように思っていました。しかし、今回はどうやらそう言っていられないようです。
 症状は多様で、繰り返し現れます。今は、見聞きしたり考えたりするという基本的なことが困難です。このような経験をしたのは人生で初めてです。
 私は職業柄、「私は長老のせいでこんなふうにおかしくなってしまいました」という方とのかかわりが常にあります。中には「長老に殺される」みたいなことを言う方もいます。ですから、そのような人たちがどのような経験をし、どのような精神状態をたどるか、知識としては知っていましたが、いま、その一端を経験して本当の意味で知ることができました。
 経験してみて、これはまったく抵抗できない、と感じました。自分の力で抑え込んだりできるものではありません。大量の放射線を浴びた人がそのあと自分のことをどうしようもなくなるのと同じだと思いました。
 私としては、このような状態を経験したことは悪くないと思っています。経験するなら理解が得られます。助けを求めている人の役に立ちます。私に向かって、涙を流しながら「あなたに私のことがわかりますか」と叫ぶ人に対して、「大丈夫です、私にはわかります」と言うことができます。
 とはいえ、この症状をこれ以上進行させてはならないとも思います。私はその職業柄、このような問題を抱えた人がそのあとどういう経過をたどるか、よく知っています。たいていの場合、その人は、物事を筋道たてて理解することが困難になり、感情の制御ができなくなり、妄想と現実の区別がつかなくなり、最後には自分が何を言っているのかすらわからなくなります。

 あなたの返信の内容ですが、これはこれで正常ではないと思いました。普通、健康な精神状態にある人は、このような文書を書けないと思います。誰かが「書け」と命令しても無理ですというくらいです。

 あなたには謝罪を拒否する権限があるというのでしょうか。エホバが特別に、あなたにそのような権限を与えたのであなたはそれを行使しているのでしょうか。
 言いがかりを訂正することについてはどうですか。長老の立場になれば、会衆の成員に対して、言いがかりの訂正はしませんと宣言できるのでしょうか。
 そのうえで「対話」ということを言われますが、一体なにを対話するつもりなのでしょうか。

 あなたは「この話し合いは牧羊ではなく」と念押しをしておられます。これはどういうことでしょうか。まるで私が牧羊を拒否し続けているみたいではないですか。私の弁明は全く無視されていませんか。
 このままの状態で私があなたの言う話し合いに応じたらどういうことになりますか。「宮原崇兄弟が牧羊訪問を拒否し続けるので、これは牧羊ではありません話し合いですと言ってうまくなだめました。」、「そうしたら宮原兄弟も態度を和らげて話し合いに応じるようになりました。」ということになってしまうのではありませんか。

 あなたは相変わらず謝罪らしきことを述べています。「十分な気遣いができなかった」とか「私が至らない点もあり」という言葉です。重大な罪がありそれを謝罪しなければならないときに、論点をそらして罪の内容をすり替え、そのうえでそれを単なる努力不足にしてしまうという器用な発言を繰り返す人がいますが、そのような人は、単刀直入に言って、うそつきです。その謝罪は偽りの謝罪です。そのような謝罪をする長老はエホバの証人をやめて政治家に転向するべきです。

 そこで、私としては、改めて、言いがかりの撤回と約束を書面にて提出するよう求めます。
 要求するにあたっては、要件を見直し、追加しました。
 私が牧羊訪問を拒絶しているなどということはないということを、また、今後もこのようなことを心配する必要はないということを、長老団の見解として文書で示してください。それに加えて、山下義人兄弟と大井一弘兄弟には、それぞれ個別に、私に対する謝罪と再発防止策の、文書での提出を求めます。

 念のために明言しておきますが、あなたにこれを断る権限はありません。私はこのことを求める正当な理由を持っており、あなたには罪を悔い改めるというエホバに対する責務があります。謝罪も約束もしませんなどと宣言することは認めません。

 さらに、今回は期限を切ります。必ず1週間以内に回答してください。






#31

 会衆の大人たちにとって問題だったのは、私が他の子供たちと遊ぶことです。遊ぶなら、そこで私が虐待のことを話す可能性があります。それは大人たちの言い方では“子供たちに対する悪影響”というものでした。
 そこで、これも山出夫妻の主導によることらしいですが、このようなことが決められました。1. 子供が家にいて、崇君が遊びに来た場合、「今日は用事がある」とか「宿題がまだ」などと言って遊びを断る(よう子供たちを訓練する)、2. 子供たちが外で遊んでいるところに崇君が来た場合、(1が使えないので、)30分を目途に「予定がある」とか「門限がある」などと言って引き上げる(よう子供たちを訓練する)。

 その一方で大人たちは、私専用の“遊び相手”を用意しました。遊び相手兼見張り役です。この子には、毎日私の遊び相手になることによって、私が他の子のところに遊びに行くことを阻止し、また、私が何か問題となることを言ったりした場合には大人たちに報告するという任務が与えられました。こうして私の友達となったのが、大井一弘君です。私がいまメールのやり取りをしている相手です。

 彼にすれば、大人たちがこういうことを勝手に決めてしまったことはかなり迷惑なことだったようです。私としか遊べないということですから。彼は常々このことの不満を述べていました。そこで彼が考えたのが、『山出家の子供たちと一緒に遊ぼう』作戦です。まず彼は、私のことで大人たちが何を考え相談し決めたかをよく説明し、私に理解させました。そのルールをかいくぐる作戦はこうです。その日の門限の1時間前に作戦は開始されます。まず、彼が山出家に遊びに行き、遊び始めます。そののち、30分後に私が偶然そこに現れます。すると、その後30分間、山出家の子供たちと私たちは一緒に遊ぶことができます。

 というわけで、しばらくの間この作戦は実行されたのですが、やがて彼は「もうできない」と言いました。彼が言うには、作戦がばれてしまい、山出家から大井家まで「今後もこのようなことを行うのであればうちの子供たちは一切あなたの子と遊ばせないことにする」と通告があったそうです。

 その後、作戦のターゲットは勘場家へと移ることになります。しかし、勘場家のほうはすでに対策ができていて、なにをやってもうまくいきませんでした。
 そのうち彼は私に対してかんしゃくを繰り返して、「もし君が勘場家に行こうとするなら僕はもう二度と君と遊ばない」などということを言うようになりました。もっとも、彼にとってこの宣言は実行できることではなかったようです。彼は大人たちから指示を受けており、私の遊び相手をやめることなどできなかったのです。

 もし私がだれか新しい遊び相手を見つけたりすると、彼は大人たちに報告し、大人たちは手回しをして、新しい遊び相手は私から離れていきました。こうして彼は、私にとって“唯一無二の親友”となりました。






#32

◇ 2019年09月11日, 大井一弘兄弟から私へのメール

Re:宮原です

 親愛なる宮原崇兄弟へ

 今回の宮原兄弟のメールの回答ですが、私たち長老団は、引き続き兄弟と直接話し合うことを願っております。

 わたしたちは、イエスが述べたマタイ7:23,24節に従い、兄弟との関係を回復したいと願っています。そのための話し合いにどうか応じていただけないでしょうか。

 その話し合いの中で、これまで十分な気遣いを示せなかったことを謝り、兄弟が訴えておられる事柄について、できるかぎり説明し、宮原兄弟のお気持ちを聞きたいと思っています。

 どうぞよろしくお願いします

あなたの兄弟
大井一弘
山下義人
植田修
大井紀治



マタイ 7:23-24

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その時,私ははっきり言います。『あなたたちのことは全く知りません。不法なことをする人たち,離れ去りなさい!』それで,私のこれらの言葉を聞いて実行する人は皆,岩の上に家を建てた思慮深い人のようです。



 ちょうど一週間で返信が来ました。それはよかったのですが、内容はひどいものだと思います。
 長老団としては、私が先に書いたことは全部無視してしまうことにしたようです。私が神経症状を訴えているとなると、これは慎重に考えたうえで気遣いの言葉でも言うべきだと思いますが、そういったことを長老団が気にした様子は見られません。普通ならどんな具合ですかと聞き返すと思いますが、それすらありません。相手の都合は全部無視しながら自分たちの都合は通す方針なのだと思います。
 それでこの内容となると、もはやこれは脅迫文ではないでしょうか。私の病気がひどくなるよう仕向けているようにも見えます。
 示されている聖句は、「おまえはやっかい者だ。追い出してやろう。それが嫌なら、せいぜい知恵を絞って、今からでも長老に従うことだ。」と言っているように見受けます。この句のこのような使い方を見たのは初めてですね。
 「できるかぎり説明し」。これは、話すつもりのないことは絶対話さないという意味だと思います。「宮原兄弟のお気持ちを聞きたい」。これは、話は聞くがなにもしないという意味だと思います。そのうえで、長老から私への一方的な“和解”の要求があるのでしょう。

 ところでですが、今回は長老の署名が増えていて、しかも5人いる長老団のうち1人の署名がありません。気になります。このメールが来る直前の集会には来ていました。






#33

◇ 2019年09月12日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 あれから、神経の症状はすこしましになっています。とはいえ、なくなってしまったわけではなく、波もあるようですので十分に注意しているところです。

 私は、当初から一貫して、長老に対して牧羊の実施を求めています。
 しかし、牧羊の実施のために必要な謝罪と約束を行うことを長老団が拒絶し続けているので、困っています。
 私は、エホバの目から見て正しい、そして喜ばれる方法で物事を行いたいと心から願っています。
 エホバは寛大な方ですので、たとえ罪人であるとしても、その御座に近づく者を祝福してくださいます。ですから、長老団がエホバに対する信頼を表して悔い改め、エホバにふさわしく行動するなら、エホバの聖霊の導きを得て物事はうまく運ぶことになるでしょう。

 ところでですが、私から1点通知があります。
 私は、山下義人兄弟が最初のメールを送りつけた直後から、一連の出来事についての記録を含む、資料集を作っています。この文書の目的は“エホバの証人と児童虐待の問題”を総合的に扱うことで、そこには、私と長老とのメールでのやり取り、各種資料からの引用、私の経験談、所見が含まれています。
 私は、この資料を公開して一般の方にも読んでいただくことにしました。
 もともとは、ある程度私の件が進展し、解決が見えてきたところで公開に進もうと思っていましたが、なにしろいまの私は神経症状のため自分に自信が持てず、今後どうなるか全くわからないですので、いま出せるものはとにかく出しておこうと判断するしかありませんでした。
 公開はだいたい2週間後を見込んでいます。それまでの間、関係者への内覧の期間を設けます。
 もし、あなたがその内容を内覧しておきたいということでしたら、私までその旨お申し入れください。URLをお知らせします。






#34

 2019年09月18日の集会で、森厚樹兄弟が長老ではなくなったという発表がありました。






#35

 一般公開が近づいてきましたので、いくつかの告示をしたいと思います。

 本文書の基本的な位置づけは『学術資料』です。次いで『提言』です。これを告発文のたぐいと見なす人はいると思いますし、実際そういう側面がありますが、それは目的のための手続きということになります。

 私の名前と所属会衆名と長老と元長老とその妻の氏名は伏せないことにしました。教会があって事件が起こっているのに、牧師(責任者)の氏名が非公表であるということはあってはならないでしょう。

 本文書には私とその会衆に関わる事件が示されていますが、これをエホバの証人という宗教の共通問題と見なすことはお控えください。

 私としては、私にかかわる諸問題は長老団の協力を得ながら解決に向かって進展し、その報告が本文書に載せられるものと期待していました。しかしそうならなかったことについて、基本的な原因は長老個人の資質にあると認識しています。

 長老は責任者ですので彼らに対する批判が起こるのは当然だと考えます。しかし、会衆(一般信者)に対する誹謗中傷はお控えください。

 本文書はいわゆる“背教文書”ではなく、私自身も“背教者”ではありません。私が“悪霊に取りつかれている”ということもありません。エホバは生きている神であり、加えて天使たちも見ていますので、エホバの証人の方々はこの種の誹謗中傷をお控えください。






#36

◇ 2019年09月21日, 大井一弘兄弟から私へのメール

Re:宮原です

 親愛なる宮原崇兄弟へ
 あなたから9月12日にいただいたメールの内容について長老団で検討させていただきました。

 先日のメールであなたは、「エホバの証人と児童虐待の問題”を総合的に扱う」文書を作成し、一般の人たちにも読めるよう公開する予定であると書いておられます。

 私たちは繰り返し直接話し合うことをお願いしていますが、あなたは応じてくださいません。そして、私たちの内部の事柄を広く一般に知らせようとしておられます。

 あなたが行おうとしておられる事柄は、エホバのお名前と組織に誉れをもたらすものでしょうか。また、そのような情報を仲間の証人が見て、エホバとエホバの取り決めに対する確信を深めることができるのでしょうか。

 私たち長老団はあなたの行おうとしておられる事柄は、エホバとエホバの組織の評判を不当に傷つける恐れがあり、エホバの証人の一致を弱め、分裂をもたらす危険があることを警告します。そのような文書や資料を公開することはどうかやめてください。

守口市寺方会衆の長老団
大井一弘
植田修
山下義人
大井紀治



 私の考え方では、これは長老団がエホバを人質に取って私を脅迫したということにほからないです。

 エホバは、自分の名声に傷がつき、その民に災難が生じるとしても、それでも正しいことを選択する神です。そんなエホバのせいで、エホバの民にどれほど悲惨なことが繰り返し降りかかったかは、聖書に書かれています。
 もしこのことがエホバにとってよろしくないことであるというのなら、エホバが私の邪魔をすればよいのではないでしょうか。エホバは神なのですからなんだってできるでしょう。もっとも、もしそんなことになったりしたら、私としてはがっかりです。エホバという神もこの程度なのか、と思います。悪魔サタンも大喜びしながら「エホバという神は自分に都合の悪いことを隠蔽する神なんだ」と宣伝して回るでしょう。

 児童虐待が論点である以上、エホバとその組織の評判が下がるのはやむを得ないでしょう。

 それにしても、この人たち、「じゃあとりあえず中身を見せてもらってから判断しましょう」とは考えないんですね。私は事前に内容を見せると言っているのですが。






#37

◇ 2019年09月23日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 ここしばらく神経の症状は緩やかになっていて安心していましたが、また再発してしまいました。
 あなたからのメールが届いたのに気づいてすぐ、まだ読まないうちに症状が現れました。
 やはりこれは自分ではどうにも制御できないもののようです。トラウマのようなものが関係していて、なにかのトリガーに遭遇すると症状が現れるのでしょう。これは一生続くことになるかもしれません。

 パウロは良い知らせを携えて各地を旅行し、神の言葉を広め、会衆を設立し、励ましました。
 このようにして人々に会うことがパウロのやり方でしたが、長くは続きませんでした。
 パウロは障害に直面しました。諸会衆の人々と会えない状況に置かれてしまったのです。
 実のところ、それは悪魔サタンの妨害によることでした。悪魔は真理の言葉が人々に達することを阻もうとしたのです。
 仕方なくパウロは、諸会衆に対して手紙を書くことにしました。そうするよりほかなかったのです。
 それはもしかすると、サタンに対するパウロの敗北のように思えたかもしれません。しかし、そこに神の知恵が働きました。
 その結果、どうなりましたか。パウロの書いた言葉は聖書になりました。
 書き記された言葉により、世界が救われることになったのです。こうしてサタンは神の前に敗北しました。

 私の場合も同じです。
 私はあなたと会って話すことを切望しましたが、妨害があり、その願いはかなえられませんでした。その結果、多くの言葉が文書によって記されました。
 妨害は悪魔によるものでしたが、神の知恵が働きました。こうして、あなたにとって私の言葉は神の言葉となりました。
 あなたは、そしてあなたに連なる長老団は、私の書き記した言葉を読むことによって救われるのです。
 それだけではありません。その言葉の益は全世界の兄弟姉妹たちに及びます。私の言葉を通して、神の民は救いを得るのです。

 というのも、あなたたちは、悪魔サタンの業を行う時、エホバの御名を唱えながらそれを行うからです。
 あなたたちは、悪魔サタンの業を行なおうとして、エホバに祈ります。エホバの名を呼び求め、エホバを賛美し、エホバの霊の導きを求め、エホバの是認を求め、エホバの祝福を求め、ついにエホバに対する感謝の言葉を述べ、そのようにしてから、悪を行うのです。
 ですから、神はあなたたちが罪のもとに囚われるようにしました。あなたたちは自分が罪を遂げるのをとどめることができないのです。

 そのようなわけで、私が自分の書いた言葉を世に示すのは正しいことです。






#38

 2019年09月26日、この文書を公開しました。






#39

◇ 2019年09月27日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 告知していました文書の公開を実施しましたのでお知らせします。
 私のウエブサイトにてだれでも閲覧できるようになりました。

 引き続きよろしくお願いいたします。






#40

◇ 2019年09月28日, 大井一弘から私兄弟へのメール

Re:宮原です

 親愛なる宮原崇兄弟へ

 あなたが私たちの警告に応じず、ご自身のサイトに情報を公開されたことは、非常に残念です。

 あなたの主張がどのようなものであれ、あなたが行っていることは、エホバとその組織に誉れをもたらすものではありません。仲間の兄弟たちの一致を促進するものではなく、かえって混乱を生じさせるものです。
 私たちはあなたに繰り返し警告し、記事の公開を中止するよう求めます。

 また、あなたはご自身のサイトで、エホバの証人に反対する団体や個人の主張をそのまま引用しておられます。その理由がどのようなものであれ、背教的なものにどんな形であれ一切触れてはならないという統治体の聖書に基づいた指示と真っ向から対立しているのではないでしょうか。そして、ご自身だけでなく、仲間のエホバの証人を霊的な危険にさらしています。あなたは新世界訳聖書を擁護すると標榜して、普通なら知り得ないような背教者や反対者の主張を公開しているのですからいっそう危険であるとわたしたちは憂慮しています。

 それでわたしたちは、あなたが開設しているサイトの公開も中止していただくように求めます。

 そして、どうか直接の話し合いに応じてください。

守口市寺方会衆の長老団
大井一弘
山下義人
植田修
大井紀治



 私が自身のウエブサイトにてこの文書を公表したと見ると、それらしい理由をつけてウエブサイト自体の閉鎖を要求してきました。
 理由づけが間違っているとは必ずしも言えないと感じましたが、みるからに言いがかりですし、この状況でこういう話の進め方はどうなのか、とも思いました。

 このままだと私のウエブサイトがエホバの証人にとっての危険文書に指定されてしまいかねないと思いました。
 これまで私はこのウエブサイトの運営を非常にうまくやってきていて、身内からのこの種の攻撃に直面することもほとんどなかったのですが、地元の長老団が手のひらを返したとなると、状況は今日を境に大きく変わるのかもしれません。






#41

 ここまで話が進んだところで私が気になってきたことがあります。大井一弘兄弟の振る舞いと“攻撃性パーソナリティ”との類似性です。
 「攻撃性パーソナリティ」というのは医学の用語で、単刀直入に言うと精神障害の一種を指します。

 類似しているところを挙げると、こんな感じです。



◇ 「他人を攻撃せずにはいられない人」, 片田珠美 (表記等修正)

 ……話を聞かないとか、関心のないふうを装うといったやり方で相手の存在を一切無視することによって、存在価値を決して認めようとしない。……まず、冷たい態度をとる。……「あなたに対しては、何かを言う価値も、何かをする価値もない」ということを見せつけるためである。……答えないのも、しばしば使われる手である。これは、相手に対して「あなたに関心なんかない。あなたに答えるために費やす時間もエネルギーも、もったいない」と伝えているようなものである。話に耳を傾けようとせず、さげすむようなまなざしを向けて、相手の要求も欲求も一切考慮しないという態度を示す。
 ……なぜこんなことをするのだろうか。……無価値化によって、世界を、善=価値のある存在と、悪=価値のない存在の、2つに分けることができるからである。もちろん、この分割によって、攻撃欲の強い人は、善の側に立つことができるわけである。しかも、他人の価値を低下させれば、自分とは異なる考え方や見方を排除することができるので、自分のライフスタイルに疑問を感じなくてすむ。……そこに安住していられるわけである。……他人の意見や批評の価値を一切認めなければ、その影響を受けずにすむ。
 ……攻撃欲の強い人は、価値があるのは自分の意見だけで、相手は抵抗せずに賛同すべきだという信念に突き動かされていることが多い。……他人の考え方を尊重しようとすれば、自分自身の決断を変更しなければならないかもしれない。場合によっては、自分の落ち度、誤り、過失などを認めざるをえないかもしれない。そういう居心地の悪い事態を避けるために、他人の考え方を一切考慮しないようにして防衛する。
 ……もともと、他人の考え方も、選択や行動の自由も認めていないような場合もある。

 ……攻撃欲の強い人の「たくらみ」にあなたが気づいて、話し合おうとしても、向こうはうまく逃げるだろう。答えないかもしれないし、聞こえないふりをするかもしれない。……表向きは、一応話し合っているように装いながら、話をわきにそらすかもしれないし、逆にあなたをとがめるかもしれない。場合によっては、感情を害したとか、憤慨したとかいう理由で、話し合いを早めに切り上げようとするかもしれない。……もちろん、話し合いを要求すれば、応じてくれるかもしれない。だが、ほんの形だけのことであり、結局のところ、何も変わらない。ときには、自分の言いたいことだけを一方的にしゃべりまくる。
 ……中には、他人の意見を聞いて、自分の考え方をきちんと説明するなんて、身を危うくするだけだと思い込んでいるような人もいる。譲歩しなければならないかもしれないし、自分の間違いを認めなければならないかもしれないからである。
 ……そうなれば、お互いに話し合いを拒否するようになり、拒否の応酬を一体どちらが始めたのか、そもそも、きっかけは何だったのか、わからなくなるだろう。
 ……あなたが事実を突きつけても、壁にぶつかるだろう。いくら証拠を見せても、攻撃欲の強い人は、せいぜい一部しか認めようとしない可能性が高い。自分にとって都合がよいように……過去の出来事を再構築しようとする場合さえある。……そのため、厄介な事実を否認するだけでなく、ときにはねじ曲げて、自分が種をまいたもめ事や不和であっても、その責任が相手にあるかのような言い方をする。






#42

◇ 2019年09月30日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 聖書の時代、ユダヤ人社会ではこのようなことが繰り返し生じていました。

 ある家に、病に苦しむ娘がいます。家族はこの苦しみをなんとかしてあげたいと思いますが、できることはほとんどありません。
 それでもなにかできることをしようとして、家族の一人が水をもってきてお湯を沸かし始めます。
 かまどから煙が立ち上ると、その煙を見てパリサイ人たちがやってきます。
 彼らは言います。「今日は安息日だから、お湯を沸かすことは許されない。いますぐやめなさい。」
 家族たちはパリサイ人に懇願します。「どうか見逃してください。娘はいまにも死にそうなのです。」
 しかし、パリサイ人たちは引き下がりません。彼らはこう言います。
 「安息日のおきては、主なる神が、その忠実で思慮深い僕であるモーセを通して命じたものです。どのような理由があるとしても、このおきてを破るべきではありません。」
 さらにパリサイ人は言います。
 「律法によると、病人は汚れていて、触れることは許されていません。あなたたちが娘の看病をするのは結構ですが、娘に触れて看護することは許しません。」

 このような悲しい出来事が繰り返されるのを見て胸を痛めた方がいました。それはイエスです。
 イエスは言いました。
 「これらの苦しむ人たちのために、私は安息日の主となりましょう。その私が許すのです。ですからもう、同じようなことが起こってはなりません。」

 この話は過去の話でしょうか。決してそうではありません。
 私が従事している、背教と擁護の分野においては、いまでも、これとほとんど変わらないことが繰り返し生じています。
 背教の犠牲となった兄弟姉妹たちは、会衆や家族から見捨てられてきたのです。
 ですから私は、自らを「安息日の主」と宣言されたキリストを信仰をもって見つめ、その方から決して目をそらしません。

 そのようなわけで、私からあなたに大切なお願いがあります。それは、苦しんで助けを求めている人に助けの手を伸ばそうとしている人たちの努力を妨げないでください、ということです。
 さらに加えて、私はあなたに懇願します。どうかこのことを見逃してください。助けを求めている人は今もいるからです。

 実のところ、あなたはこのことで謝罪をするべきです。
 これまであなたが私に対して犯してきた罪は、大きなものであるとはいえ、私一人に対するものでした。しかし今回は違います。その罪は、私ではない、そして非常に大勢の、弱くて苦しみに耐えている人たちに対する罪です。
 ですからあなたは、これらの人たちの前で、土下座し、地面に頭を繰り返しぶつけながら、謝罪の言葉を述べなければなりません。
 しかし、あなたがそのようにして謝罪すべきなのは、それらの人たちにであって私にではありません。
 そのようなわけで、私はあなたに、謝罪の要求ではなくお願いの言葉を述べるのです。






#43

◇ 2019年10月30日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 私からお願いと懇願をお送りしてからちょうど1か月が過ぎました。
 お願いと懇願の件はどうなっていますでしょうか。回答をよろしくお願いいたします。

 私からのお願いと懇願を1か月も放置したことは正しいことではありませんでした。
 それは聖霊を悲しませる行為です。聖霊はあなたの祈りが神に届くのを引き続き妨げるでしょう。

 この件に関して、一点通知があります。
 私は、この件をイエスの述べた次の言葉にしたがって取り扱うことにしました。

『それで,あなたが供え物を祭壇に持ってきて,仲間が自分に対して何か反感を抱いていることをそこで思い出したなら,供え物を祭壇の前に残して,出掛けていきなさい。まず仲間と仲直りし,それから戻ってきて,供え物を捧げなさい。』

 私は以前から、この聖句について疑問に思うことがありました。
 イエスは、このような状況ではまず「供え物を祭壇の前に残す」ことをしなければならないと教えました。しかし、私は実際にそのようにした人を見たことがないのです。
 たとえばこのような具合です。「私は開拓奉仕者です。今私は会衆の一人の兄弟と不和の関係にあります。私は何としてでもこの不和を解決したいと思っています。そこで、その決意の表明として、まずはイエスの言葉に従い、この不和の問題が解決するまで私の特権である開拓奉仕の職務を自ら停止します。」
 あるいはこのようです。「私は長老です。今私は会衆の一人の兄弟と不和の関係にあります。私は何としてでもこの不和を解決したいと思っています。そこで、その決意の表明として、まずはイエスの言葉に従い、この不和の問題が解決するまで私の特権である長老の職務を自ら停止します。」
 イエスが教えを説いているにもかかわらず、エホバの民の中にそのようにする人が一人もいないことを私はずっと気にかけてきました。とはいえ、そういうことを気にかける私自身も、これまでそのようなことをしたことはありませんでした。これは、イエスの前にあっての不信仰で不誠実な態度だと思います。このような人をイエスはどうご覧になるでしょうか。

 これはあなたにも言えることです。あなたは、この聖書の言葉に従って行動したことが一度でもあるでしょうか。ないはずです。イエスの言葉に従って行動したいと思う気持ちすらないに違いありません。もしそのような気持ちがあったなら、私との間にこれほどの問題が生じているのですから、すでに宣言を行って自分の職務を停止しているはずです。
 繰り返して言いますが、あなたがこのイエスの言葉に従ったことなど一度もありません。

 そこで、私は行動を起こすことにしました。
 私は、あなたと、そしてあなたと連なる長老団と不和の関係にあります。そこで、この問題を祈りのうちに深く考慮した結果、イエスの言葉に従い、私の公の奉仕の特権を停止することにしました。
 これは、全ての奉仕を停止するということではありません。私の働きを必要としている人たちがいます。そのような人たちに対する助けの手を控えることはしません。しかし、いわゆる公の奉仕については、当面、この問題が解決するまで、停止します。「祭壇への供え物」である奉仕報告も提出しません。

 このように書きながら、私はこう思います。これは100年を超えるエホバの証人の歴史全体を見渡しても特異なことではないだろうか。
 イエスが教えを説いているのに、そのようにする人が1人も現れなかったからです。もしかすると、ほんとうに私が初めてなのかもしれません。

 しかし同時に、このようにも思います。祭壇の前に供え物を残して出ていった人は、もし不和の問題を解決できなかったなら、どうなるのだろう。
 私の場合、どうなるかは明白であるように思います。現状では、あなたは私の言うことのほとんどを無視しています。もしあなたがそのような態度をとり続けるなら、私はちょうどパウロが言ったように、「自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離される」ことになります。神への公の奉仕に戻ってくることができなくなるのです。
 それでも、私はこのことを宣言し、実行します。それは、正しいことを必ず遂げようという私の決意の表明、神とキリストに対する信仰と信頼の表明です。

 あなたはどのように私のことを無視し続けているでしょうか。自分にとって多少なり不都合であったり不愉快であることは全面的に放置することによってです。
 たとえば、私が神経の症状を訴えていることはその一例です。もし私があなた以外の誰かの原因によってこのような病気になったのなら、あなたは喜んで、労を惜しまず、すぐに、私の助けになろうとしたでしょう。しかし、その原因が自分自身にあることに気づくと、あなたはこのことを徹底して放置しました。それはあなたの心の邪悪さです。

 そこで私は、自ら宣言するとともに、あなたにも招待を差し伸べることにしました。
 あなたも、私のこの宣言に倣い、自ら同じ宣言をするのはいかがでしょうか。
 そのようにするなら、イエスはあなたのことを喜んでくださるに違いありません。エホバも、とどめていた聖霊を再びあなたまで送り届けてくださるようになるでしょう。
 私とあなたがエホバの前で同じ宣言を行い、問題解決に向けた同じ決意を表明するなら、エホバはその決意を見て私たちを導いてくださり、私たちは共に奮闘して正しい道を進むことになるでしょう。
 そうなるなら、いま私たちが抱えている問題も、それがどれだけ大きくて困難なものであるとしても、解決へと向かうのでしょう。



マタイ 5:23-24

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それで,あなたが供え物を祭壇に持ってきて,仲間が自分に対して何か反感を抱いていることをそこで思い出したなら,供え物を祭壇の前に残して,出掛けていきなさい。まず仲間と仲直りし,それから戻ってきて,供え物を捧げなさい。



ローマ 9:2-3

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしの心には大きな悲嘆と絶えざる苦痛があります。わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。



◇ 2019年10月30日, 大井一弘から私兄弟へのメール

 わたしはこれまで、あなたが小原兄弟に書面で提出した事柄について、直接話し合いたいとお伝えしてきました。しかし、あなたは書面による謝罪を求め、これまでの私的なやり取りをご自分のホームページで公開することまでしています。これは当事者の間で問題を明らかにし、和睦するように勧める聖書の原則に調和していないのではないでしょうか。

 わたしは、あなたが公開を中止し、話し合いに応じてくださることを再度お願いいたします。

 また、あなたがご自分のホームページで、反対者や背教者の陳述を引用していることは、その危険を知らせ、背教者の考えを聞くことさえしてはならないと警告する忠実で思慮深い奴隷と聖書の言葉に対立するものです。忠実で思慮深い奴隷は、繰り返し背教的な考えに触れることの危険について親切に教え諭しているのではないでしょうか。それはご自分との関係を決して危険にさらしてほしくないというエホバの優しい愛情の現れであり、あなたもその事はよく理解しておられるのではないでしょうか。

 背教的な攻撃に打ち勝つのは、彼らの論議を上回る知識や論議ではなく、エホバとエホバの教え、そしてエホバの組織に対する揺るぎない愛ではないでしょうか。では、背教者の攻撃から仲間を救いたいという動機であっても、エホバの組織からの指示に調和しない方法でそうしようとするなら、それは実際には誰を喜ばせていることになるのでしょうか。

 どうかもう一度じっくりと考えていただけないでしょうか。どうか、コラやダタンやアビラムと同じ道をたどらないでください。

 もし、公開を中止し、直接話し合いに応じていただく気持ちになりましたら、どうぞご希望の日時をお知らせください。

 わたしは日中であれば集会の時間と午後2時から6時までの仕事の時間以外であれば、基本的にいつでも大丈夫です。候補の時間を2,3あげていただければ、より確実に計画することができると思います。

 兄弟が、エホバの平和により、穏やかで平安な心を築くことができるよう心からお祈りしています。

 なお、このメールはどんな方法であれ、公開することを許可しません。

大井一弘



 彼にとってあまりに都合のよい主張だと思います。

 『当事者の間で問題を明らかにし、和睦するように勧める聖書の原則に調和していない』との指摘ですが、この原則に従うべき期間はこうだと聖書が指定した期間はとうの昔に過ぎてしまったと思います。この問題を取り扱うのにすでにどれほどの年数がかかっているでしょうか。これは話を巻き戻すことにほかならないと思います。
 聖書がこのような原則にいつまでも固執することを教えていないことは明らかです。状況によっては問題を日の下にさらすこともよしとするというのが聖書の立場です。特に指導者が不品行をやらかし、そのうえ何度注意されても改めない時は、もう文章に書いてしまって名指しで批判してよいというのが聖書の考え方で、現に聖書自身が何度もやっています。
 エホバの証人の公式の聖書解釈と教理においても、この原則は、問題を長老に訴えた時点で運用が終了することになっています。
 念のため強く言っておきます。聖書の教えによれば、些細な罪を明らかにするのは罪ですが、大きな罪を隠蔽することはそれ以上に罪です。神の憐れみは無制限ではありません。そして、人の罪を見た者にはその罪を明らかにする義務が生じます。最初は当事者間で秘密裏に、しかし後には公にです。
 ただ、私としては、この問題をもう一度最初からやりなおすということがあってもいいとは思います。しかし、そのためには少なくともいくつか、長老の側にやるべきことがあります。あなたはその要件をひたすら無視し続けるのではなく、わきまえるべきです。

 『しかし、あなたは書面による謝罪を求め、これまでの私的なやり取りをご自分のホームページで公開することまでしています。』 この言い方だと、文書で謝罪を求めることはやってはいけない悪いことだということになってしまいます。そのうえ、文書の公開も悪いということになります。すでにこれまでのやり取りがあります [#26] ので、これは言い回しの問題ではなく、彼自身実際にそう認識しているのだと思いました。
 しかし私はすでにこれらについての弁明を述べました [#05], [#37] 。あなたは私の言葉に正面から向かい合うべきです。

 『私的なやり取り……』。そもそもの話、長老の職務は公務です。特に悪事を繰り返した場合、その言行を暴露されることは、その職責を担った瞬間から覚悟しておくべき事柄です。

 『背教……』のくだり、これについても私は「お願いと懇願」を述べています [#42] 。彼はそれを聞き流しただけでなく、私のことを『コラやダタンやアビラムと同じ道をたどる』とまで言っています。はたして私はコラやダタンやアビラムと同じ道をたどろうとしているのでしょうか。
 考えてみてください。池に子供を蹴落とす人がいれば、その子供を救おうとして池に飛び込む人もいるでしょう。両者は同じなのでしょうか。
 これは私に対する侮辱というものです。しかし事の本質はそこではありません。これは私の助けを必要としている“子供たち”にとって冷酷な仕打ちです。この愛のなさ、それこそが問題です。

 『背教的な攻撃に打ち勝つのは、彼らの論議を上回る知識や論議ではなく、エホバとエホバの教え、そしてエホバの組織に対する揺るぎない愛ではないでしょうか。では、背教者の攻撃から仲間を救いたいという動機であっても、エホバの組織からの指示に調和しない方法でそうしようとするなら、それは実際には誰を喜ばせていることになるのでしょうか。』
 これはなかなか鋭い指摘だとは思うのですが、実際には、私が述べたたとえの中のパリサイ人の発言のバリエーションにすぎません [#42]
 これは虚構というものです。言葉のうえでは100パーセント正しくても、中身は100パーセント腐っています。イエスの言い方では「白く塗った墓」です。ようするに、きれいごとを言って人を助けようとしないわけです。パリサイ的な信仰の持ち主がイエスに言わせれば「悪魔を父としている」ということの際立った事例というものです。

 このときイエスは「私は見て見ぬふりをしてあげましょう」とは言いませんでした。「私はそれを許可します」と言ったのです。
 そもそも、このような状況下でほかに選択肢があるんでしょうか。統治体は悪魔なのでしょうか。
 この問題については裁判になった事例がいくつもあると聞いています。その時のエホバの証人側の主張はこうです。エホバの証人組織とその統治体は、誠実な人を救うためといった合理的な理由がある場合には信者が背教者の文書を読んで反論することを許可しています。ですから、背教者の文書を読むことに関するこの宗教の規則がマインドコントロールであるということはありません。

 『このメールはどんな方法であれ、公開することを許可しません。』 これについては彼に覚悟してもらうしかありません。そもそも彼にこんなことを命じる権限はないのです。
 一方の私は、児童虐待と長老からの迫害の犠牲者であるという立場にありますから、事の次第を暴露する権利があります。それどころか、暴露するにあたっては加害者からの圧力に屈してはならないという道義的責任まであります。

 私の宣言と招待は完全に無視されました。内容が内容なだけに、よくこんなことができたな、と思います。
 この人の無視をする能力は鉄壁のようです。遠慮ない言い方でその悪を指摘された直後であっても揺るいだりはしません。私は自分が神経症状に苦しんでいることを蒸し返したのですが、それも無視です。
 その心には良心の呵責というものが存在しないのでしょうか。

 彼は多様な正義を掲げ、見せかけの敬虔さと思いやりを示すことまでしていますが、本心で言っているのではないのでしょう。自分さえよければあとはどうでもよいのです。






#44

◇ 2019年11月02日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 私としては、私からのお願いと懇願、それに加えて宣言と招待を、あなたが無視するのではなく吟味することを求めています。これらはどれをとっても極めて重要です。無視してよいものではありませんし、取り下げることもできません。
 あなたが、これらを無視して同じ要求を繰り返したのは正しいことではありませんでした。そこに言いがかりを加えて、私の善行をコラの罪と同類に置いたのは、重大な罪です。
 もしあなたが、繰り返し戒めを受けながら同じ罪を繰り返し、戒めを述べる者に報復まで仕掛けているなら、それは聖書が述べるところの「カインの道、そしてコラの罪」になります。あなたが私に述べた言葉は、私にではなくあなたに降りかかるのです。

『本当に惨めな人たちです。カインの道をたどり,利益を求めてバラムの誤った歩みに陥り,コラの反逆的な言葉を語って滅びを身に招いたからです。』

 あなたが私の言葉を無視し続けているのはどういうことでしょうか。



ユダ 11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
本当に惨めな人たちです。カインの道をたどり,利益を求めてバラムの誤った歩みに陥り,コラの反逆的な言葉を語って滅びを身に招いたからです。






#45

 このような状況ですので、ここで再び、私から組織に対する提言を述べたいと思います。

 組織は、“長老は会衆からの請願を無視してはならない”という規則を作るとよいでしょう。
 なぜかというと、長老は演壇から信者たちに向かって「エホバは祈りを聞いてくださる方です」と説いているからです。






#46

 2019年10月31日の集会にて、まもなくウエタケフミオ兄弟が「一時的な特別開拓者」として寺方会衆に赴任すると発表されました。
 彼は長老ですので、会衆の長老は5人になります。






#47

 そのうち会衆内では、私の問題に対する子供たちの備えがもっと必要だということが言われるようになりました。すでに私を他の子供たちからなるべく隔離する処置がとられていましたが、完璧にすることはできなかったため、依然として子供たちは私からの“悪影響”にさらされていたのです。

 そこで、山出夫妻が音頭をとり、子供たちを集めて講習会を行うことになりました。
 講習会は山出家の自宅で定期的に開催されます。講習会では山出家の息子たちが私の役をやり、これまで私がやらかした“問題発言”の数々を再現します。それに対して子供たちがどのように対応すべきかを山出夫妻が指導し、実演を子供たちに見せ、真似をさせます。

 ただ、この講習会はあまりうまくいかなかったようです。私はその現場にいたわけではありませんから詳しくは知りませんが、話がここまで進んだところで、会衆内には異論もでるようになっていたようです。






#48

 2019年11月27日の集会にて、ウエタケフミオ兄弟が寺方会衆に赴任したと告知されました。






#49

◇ 2019年12月02日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 私からのお願いと懇願、それから宣言と招待を、あなたが吟味するよう催促してから1か月が過ぎています。
 回答をよろしくお願いいたします。

 私の言葉を聞き流し、1か月も放置したことは正しいことではありませんでした。
 必ず、私の言葉を吟味したうえで回答をよろしくお願いいたします。

 この1か月の間、私はあなたの問題行動について考えていました。
 これほどまでの邪悪の行いが、あなたの心の中の何から生じているのだろうかと考えました。
 いろいろなことを思い、あなたの心には愛と思いやりが欠落していることを思い起こしました。
 あなたは日常的には普通の人であるように見えます。しかし、心の奥底には愛がありません。このことは、昔から今に至るまで常々露呈してきたことでした。あなたにとって不愉快なことが少しでもあると、あなたは愛のなさを露呈します。非常に不愉快なことがあると、あなたは攻撃者に変貌します。これは今に始まったことではありません。
 いまそれが再び、過激な仕方で露呈していると思います。

 さらに私は、会衆のことも考えました。
 あなたの邪悪な振る舞いは、それが明らかになって以来、会衆を試みるものとなっています。それは非常に危険なことです。

 あなたは私の言葉を無視し続け、自分の要求だけを言い続けています。
 あなたが長老団と共にこのような手本を示しているのを見て、会衆はあなたに連なって私のことを無視するべきか判断を迫られています。
 会衆にとって長老の権威は軽いものではありません。きっと多くの人が惑わされるでしょう。

 ある人は、長老がしたことは正しいと思って、進んであなたの悪に加わり、私を無視することになります。別の人は、長老がしたことは間違いだと思いますが、長老はエホバが立てた権威だから従うべきだという理由で、あなたの悪に加わり、私を無視することになります。また別の人は、長老がしたことは間違いだと思いつつも、それを口に出したり行動で示したりするのは怖いと思うので、あなたの悪に加わり、私を無視することになります。さらに別の人は、それは自分には関係のないことだから気にする必要もないなどと自分に言い聞かせて、あなたの悪に加わり、私を無視することになります。
 このようにして、邪悪な長老であるあなたに導かれ、会衆は一致団結し、私を無視することになります。
 では、どうなのでしょうか。このようにして会衆が一致を達成したとして、エホバはそれを天からご覧になられて、喜ぶでしょうか。

 会衆は抑圧にもさらされることでしょう。
 聖書も、聖書の教えに基づく組織の教えも、会衆は罪を見たならその者をとがめなければならないと義務付けています。
 このような教えを説くとき、組織は「血の罪」という言い方をします。この義務を果たさない者を神は人殺しと見なすという意味です。罪を犯した者を救おうとしなかった者は、神から見て殺人者なのです。
 しかし会衆は、いまあなたが私に対して取っている態度を見て、ためらうようになるでしょう。あなたが私を見せしめにしているからです。

 ある人は、長老が罪を犯すのを見たからといってとがめるべき理由は全くないと考え、当然のごとく黙るでしょう。別の人は、長老が罪を犯すのを見たとしても、エホバの権威に逆らってはよくないという理由で、黙るでしょう。また別の人は、長老がしたことは罪だと思いつつも、それをとがめれば自分が報復の対象になるに違いないと思うので、黙るでしょう。さらに別の人は、それは自分にとって気にすることではないと考え、黙るでしょう。
 このようにして、邪悪な長老であるあなたに威圧され、会衆は平和を達成することになります。
 では、どうなのでしょうか。このようにして会衆が平和を達成したとして、エホバはそれを天からご覧になられて、喜ぶでしょうか。

 このような悪はすでに会衆をむしばみ始めています。
 それは私やあなただけでなく会衆にとっても悲惨な結果をもたらします。

 そこで私は次のことをあなたに要求します。

 あなたは、あなたがこれまで繰り返し私のことを無視したことを心から反省し、謝罪の言葉を書いて私に提出してください。さらに、今後はこのような邪悪な振る舞いはしない、もうあなたが長老団から無視されることはないと約束し、それも書面にして提出してください。
 私はその書面をネット上に掲載し、あなたがついに反省に至ったことを世に告知します。あなたは、同じ書面を王国会館の掲示板に貼り、会衆に告知してください。
 会衆はそれを読めば、目を覚まし、悪の道から義の道に立ち返るでしょう。こうして会衆は神の裁きから救われることになります。

 いまあなたは、その心にほんとうに愛と思いやりを持っているかを問われているのです。

 考えてみてください。いまあなたが私に対して行う邪悪な業は、私を心身ともに極限まで苦しめるものですが、それでも私を苦しめるにすぎません。あなたが助けを必要としているたくさんの人々に対して発した冷酷な言葉も、それら助けを必要としている人たちを放置するにすぎません。これらは大きな罪ではありますが、死をもたらしているわけではありません。
 しかし、会衆の人たちに対してはそのようではありません。もしあなたの心の内に会衆に対する愛がなければ、会衆は取り返しのつかない罪を犯して死ぬことになるのです。

 あなたが会衆を殺すことになるのです。
 それでもあなたは、自分の都合を優先させ、悪の道を進みますか。






#50

◇ 2019年12月09日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 私からメールを送って1週間が過ぎました。

 私は回答を求めています。さらに催促もしています。
 それに加えて、さらに催促いたします。

 回答をよろしくお願いいたします。






#51

 さらに会衆内では、私のことをみんなでそろって無視することの重要性ということが説かれるようになりました。これも山出家の主導によることらしいです。

 こういうことが言われました。
 もし、会衆の成員10人がいて、9人が崇君のことを無視しても、1人が崇君のことを無視しなかったら、9人の努力が無駄になる。自分の話を聞いてくれる人が現れると、崇君はそれはもううれしくなって、とってもうれしそうな顔をしながら自分の話を始めてしまうじゃないか。この子は黙らせなければならないのに、そんなことになったらなにもかも台無しだ。そういう親切なことをしている者は会衆の裏切り者だ。いま大切なのは、自分のことは誰に話しても聞いてもらえないんだとこの子が学習することで、それは、会衆の成員全員が一致協力して崇君を無視したときにはじめて達成できることじゃないか。

 さらに、私をどのように無視するのか、ということについて山出夫妻はこのように言いました。
 『要求を一方的に述べ、返事は一切聞かない』ということに尽きる。この子には、何か要求すべきことがあった場合にのみ話しかけ、要求を述べる。相手が要求について質問をしてきても無視する。抗議してきても相手にしない。それでこの子が泣いたり叫んだりしても、決して情に屈してはならない。

 私に対して親切にふるまう人たちも会衆内にはいたのですが、この人たちは、会衆の一致を乱している危険人物だなどと非難され、だんだん私から離れていきました。






#52

◇ 2019年12月16日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 さらに1週間が過ぎました。
 回答をよろしくお願いいたします。






#53

 長老団が私の懇願や宣言といったことを全く無視するようになり、そのうえ、集会ではいつもと全く変わらない振る舞いをしているのを見て、私としてはまた気になってきたことがあります。
 すでに、私に対する長老の振る舞いが「攻撃性パーソナリティ」と類似しているということについて書いていますが [#41] 、今度は、攻撃性パーソナリティの中には“善良な攻撃性パーソナリティ”があるということが気になってきました。この会衆の長老たちには善良な攻撃性パーソナリティとの類似性があります。

 ここで言う「善良な攻撃性パーソナリティ」は総称です。この精神障害を持った人をどのように分類したり定義したりするかについては専門家の間でも意見の相違があって、用語も様々だったりします。
 例えば、ある専門家はこれを攻撃性パーソナリティではなく“自己愛性パーソナリティ”に分類しようとします。他者のことを気遣っているように見えても実際には自分のことを気にかけているからです。またある専門家は、攻撃性を隠すことがたいへん上手だからという理由で、これを“潜在的攻撃性パーソナリティ”と呼びます。良心の声を完全に無視できるという理由でこれを“サイコパス”と呼ぶ人もいます。“邪悪(なパーソナリティ)”という言い方も頻繁に見られます。ほかにもいろいろあります。さらにこのことをややこしくしているのは、善良な攻撃性パーソナリティには類例があるということです。たとえば“代理ミュンヒハウゼン症候群”といったものがあります。



◇ 「良心をもたない人たち」, マーサ・スタウト (表記等修正)

 私たち(専門家)が邪悪とみなす人たちの大半は、自分はまったく悪くないと考えている。サイコパスは自分のくだした決断にも、またその結果にも責任をもとうとしない。じつのところ、自分とは関係ないとして悪しき行為の結果から目をそらすこと……は反社会性人格障害の基本である。



 聖書の用語が使われることもあります。専門家たちは口をそろえて、善良な攻撃性パーソナリティにはこの言葉が見事に当てはまると言います。



マタイ 7:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。



◇ 「他人を支配したがる人たち」, ジョージ・サイモン (表記等修正)

 「マニピュレーター」は、聖書に書かれた「ヒツジの皮をまとうオオカミ」にじつによく似ている。人あたりもよく、うわべはとても穏やかなのだが、その素顔は悪知恵にあふれ、相手に対して容赦がない。……だが、一方で好戦的なその意図だけはとにかく他人の目から隠そうと必死だ。こうした人格の持ち主たちを「潜在的攻撃性パーソナリティ」と私は呼ぶ。
 ……マニピュレーターが法律を破ることはない。……他人に暴力的な怒りを爆発させることもない。……このタイプ特有の計算高さや狡猾さ、支配的な人間関係という特徴を正確にとらえようとする試みがくりかえされてきた。反社会性パーソナリティ(ソシオパス)から、凶暴な自己愛性パーソナリティ、およそありとあらゆる名がマニピュレーターに冠せられ、……“邪悪”とさえ呼ばれた。彼らが発している微妙な怒りの気配から、受動攻撃性と呼ぶ者も少なくはなかった。



 用語や定義の混乱はまだまだ続きそうです。というわけで、混乱を避けるために、私はこれらの総称として「善良な攻撃性パーソナリティ」という言葉を使うことにします。

 善良な攻撃性パーソナリティには向いた職業というものがあると言われています。



◇ 「他人を支配したがる人たち」, ジョージ・サイモン

 ある種の職業や公的機関、特定分野では、潜在的攻撃性パーソナリティに対し、公然と人を搾取できる格好の機会が提供されている。その好例が政界であり、法曹界、宗教界だと言えるだろう。



 宗教家の事例を見てみましょう。



◇ 「他人を支配したがる人たち」, ジョージ・サイモン

 信徒集会を世話する牧師は、ジェームズの裏表のない献身とその情熱に感心していた。聖書の勉強会を乞われるたび、ふたつ返事で信者の家々を訪れていたので、毎回毎回その必要があるわけではないと牧師はよく諭していた。しかし、ジェームズは、主に仕えることでその御力にふれ、普段以上に信者の世話を焼くことができると答えていた。
 熱のこもった説教を聞きたいばかりに日曜礼拝に集まる信者の数も増えていく。信者はジェームズの献身ぶりをよく讃えたが、本人はいつも顔を赤らめ、聖職者として人のために働けるのは言葉にはできない喜びと満足を得られること、そして神のしもべであることの幸せを会う人ごとに説いていた。
 みんなジェームズを気に入り敬意を寄せているようだ。



 専門家たちは口をそろえて、世の中の普通の人たちは善良な攻撃性パーソナリティの危険を見抜くことができないと言います。むしろ逆に思うそうです。

 善良な攻撃性パーソナリティにどのように治療を行うかということについては、専門家たちも迷走状態です。多くの専門家は、この人たちは治療できません、頑張って治療を試みたのですが学習してひどくなってしまいました、と言います。治療は可能だと主張する人もいますが、彼らが推奨するのは“行動療法”です。善良な攻撃性パーソナリティにとって権威である誰かが規則を作ったり命令をしたりすると、彼らはそれによく従います。治療の専門家をそのような立場に立たせて指導を行おうという発想は治療とは言い難いものです。

 善良な攻撃性パーソナリティは見かけの善良さを隠れ蓑にしながら深刻な被害を生じさせます。弱者の人生を破壊してしまうのです。
 弱者を支えようと努力しているように見えますが、逆の結果が生じます。善良な攻撃性パーソナリティの周囲では、人生が破綻する人、心を病む人、しまいには自殺する人が現れます。しかも周囲の人たちは、誰が原因でこういう事態が生じているのか理解しません。それで人が不幸になったり死んだりしても、だれもその人を非難しませんし、警察がやってきてその人を逮捕することにもなりません。



マタイ 7:15-20

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうに,あなた方はその実によってそれら[の人々]を見分けるのです。



 イエスはこう言っていますが、そもそも「実を見分ける」ことが困難だったりします。

 善良な攻撃性パーソナリティに対するもっとも過激な呼び名は「悪魔」です。聖書の言葉を借りて「サタンの奉仕者」という言い方もできるでしょう。



コリント第二 11:14-15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それも不思議ではありません。サタンが光の使いに成り済ましているからです。それで,サタンの奉仕者たちが正しい奉仕者に成り済ましているとしても,驚くことではありません。いずれ彼らは行いに応じた終わりを迎えます。






#54

 ところで、今日の日々の聖句は私にとってとても気になるものでした。



◇ 「聖書を調べる」2019, 2019年12月16日の項

あなた方の愛を偽善のないものにしなさい。(ロマ 12:9)

 サタンはエデンの園で,エバの最善の利益を気にかけているふりをしました。利己的で偽善的な行動をしていたのです。(創 3:4,5)ダビデに対するアヒトフェルの友情も偽物でした。自分の利益のためにダビデを裏切ったからです。(サム二 15:31)今日でも,会衆を分裂させる背教者や反対者は,「滑らかな話しぶりやほめことば」を使います。愛のあるふりをしますが,動機は利己的です。(ロマ 16:17,18)偽善的な愛を示すのは恥ずべきことです。神の特質である自己犠牲的な愛を示すふりをして,人を欺いているからです。しかし,エホバを欺くことはできません。イエスも,偽善的な人々は「最も厳しく」罰せられると述べました。(マタ 24:51)それでこう自問するのは良いことです。「わたしはいつも真の愛を示しているだろうか。利己的な動機はないだろうか。人を欺いてはいないだろうか」。塔研17.10 8-9ページ6-8節



 何がどう気になるかというと、私としてはこの言葉はいま長老たちにあてはまると思うのですが、逆に私のことを背教者呼ばわりしてこういう言葉を私にあてはめる人がいるらしいのです。






#55

 さて、私が善良な攻撃性パーソナリティについて書いた [#53] のを読んで、あなたはこのように疑問に思ったかもしれません。
 もしここに書いてあることが真実だとしたら、ほんとうに善良な人と偽物とはどうやって区別できるんですか。もしかして、見るからに善良そうに見える人は全員偽物だとあなたは言いたいのですか。あなたは自分の会衆の長老たちが精神障害だと言いたいのですか。
 よくわかりません、はっきりとしたことは言えません、というのが私の答えです。この判断は専門家でも難しかったりするそうです。結論まで出すことは、別に専門家でもない私の手に負えることではありません。

 この、判断が難しいということを、もうすこし具体的に掘り下げてみましょう。

 善良な攻撃性パーソナリティについて研究する専門家たちは、善良な攻撃性パーソナリティの大きな特徴の一つは“魅力的な外見”だと指摘します。彼らは見るからに善良そうに見えます。そして、そのような外見を生み出しているのは、その人の“良心の欠落”なのだそうです。
 そうすると、あなたはこう言い返すかもしれません。良心がない人が善良そうに見えるのですか、それは逆ではありませんか、理解できません。
 もしかするとあなたは気づいていないかもしれません。良心というものには、人を悪人にしない役割のほかに、人を善人にしない役割もあります。というのも、良心はその人の正体を見抜くからです。あなたがどの程度善良であるかを良心は知っていて、その程度を越えた振る舞いをあなたがしようとしたとき、良心はそれに抵抗し、あなたは偽善者だという内なる非難の声をあげます。その結果あなたは、あなたのもともと持っている資質程度にしか善良な振る舞いができなくなります。
 一方、善良な攻撃性パーソナリティは、もともと良心がなかったり、非常に弱かったり、あるいは完全に無視できたりするので、良心が制約になることなどありません。それは偽善であるという良心の批判に影響されることなく、別の言い方をすれば、当人の本来の資質とは全く無関係に、その人はいかにも善良そうなひととなりを発揮することができます。
 このことからすると、もしあなたの前に見るからに善良そうに見える人がいた場合、その人が善良な攻撃性パーソナリティである可能性は否定できないということが言えます。
 しかし、ちょっと待ってください。世の中にはほんとうに善良な人もいるのではないでしょうか。
 たとえば世の中には、生まれた時からすでに卓越した善良さを素質として備えていたという人がいます。そういう人の多くは、子供のうちは内に秘めた善良さをどう発揮すればよいのか解らないために、たいして善良な子には見えなかったりします。あるいは私のように、そのような素質が自分にあるということにまったく気づかない場合もあるでしょう。そういった人は、人生のある段階から、人間的成熟に伴って、内にある善良さが外に向かってあふれ出てくるのを止められなくなることがあります。
 またある人は、良心の声があまりに強くなってしまい、良心が自分に向かって鞭をふるってしきりに命令を下すことに抵抗できないという心理状況に陥ります。もしかするとその人は、過去に取り返しのつかない大きな罪を犯して生きる喜びを失ったのかもしれません。
 また、精神疾患が原因である場合もあります。うつになる人の中には、人々を幸福にする善良な世界が頭の中に広がっていて、現実世界よりもそちらのほうが当人にとって影響が大きかったので、その世界の住人になってしまったという人がいます。
 これらの人たちはたいへん善良であるように見えるかもしれませんが、そのようなひととなりになるにあたってのメカニズムが違うので、善良な攻撃性パーソナリティではありません。

 つまり、善良な攻撃性パーソナリティの主要な特徴ひとつをとってみても、その特徴を備えているから彼は善良な攻撃性パーソナリティに違いないと結論することはできないのです。

 とはいえ、いまや私には気になることがたくさんあって数えきれないほどです。
 すでに述べたとおり、この会衆の長老たちは集会ではいつもと変わらない様子です。そして、集会ではこのようなことが繰り返し話されるのです。

 「エホバは愛のある神です。会衆のすべての人を気遣い、その祈りを聞いてくださいます。ですから長老たちもエホバに倣い、会衆のすべての人の言葉に耳を傾けて助けになろうと努力します。長老が会衆の誰かを見捨てたりすることはありません。会衆の皆さんも、一人一人が互いに対して同じようでなければなりません。」
 「長老たちはいつも、誰かの助けになろうと努力しています。何かできることがあれば今すぐ進んで行えるよう常に用意しています。皆さんも同様です。このようにして会衆全体が自分を犠牲にして人々に奉仕するとき、会衆は神からの平和を享受し、幸福になれるのです。」
 「長老たちは謙遜でなければなりません。もし会衆の誰かが長老を批判したら、喜んでその声に耳を傾け、態度を改めます。このようにして長老が良い手本を示すので、会衆は長老を信頼し、喜んでその教えや指示に従うことができます。みなさんも、同じようにして、家族から、職場の仲間たちから、信仰の仲間たちから信頼を得ることができます。」

 この種のことを述べるテキストも大量にあって、常に活用されます。最近の例ではこんな感じです。



◇ 「ものみの塔」誌『研究用』2019年9月号, ものみの塔聖書冊子協会

 謙遜な人はイエスに引き寄せられました。(マタ 19:13,14。ルカ 7:37,38)イエスとパリサイ派の人との違いを考えましょう。パリサイ派の人は冷淡で,高慢でした。(マタ 12:9-14)イエスは温かく,謙遜でした。パリサイ派の人は野心的で,高い立場を自慢していました。イエスは野心に気を付けるよう教え,自分を立場の低い召し使いと見るよう勧めました。(マタ 23:2,6-11)パリサイ派の人は,不安をあおり脅しつけることによって人を従わせようとしました。(ヨハ 9:13,22)イエスは親切な行いと優しい言葉によって人々が爽やかさを感じるようにしました。
 イエスのように人に接することを心掛けていますか。こう自問してください。「私は温和で謙遜な人として知られているだろうか。地味な仕事を喜んで行い,人の役に立とうとしているだろうか。親切だろうか」。
 イエスは和やかで心地よい雰囲気をつくり,共に働く仲間を訓練しました。(ルカ 10:1,19-21)弟子たちに質問するよう促したり,意見を聞こうとしたりしました。(マタ 16:13-16)弟子たちは,良い環境で育った植物のように,良い教えをたくさん与えられて成長しました。イエスの教えを取り入れ,良い行いという実をならせました。
 あなたは何かの責任を任されている人ですか。そうであれば,こう自問してください。「職場や家でどんな雰囲気をつくっているだろうか。平和をつくり出しているだろうか。周りから見て質問しやすい人だろうか。喜んで意見を聞いているだろうか」。パリサイ派の人のようにならないようにしましょう。彼らは,質問されるのを嫌がり,反対意見を述べた人を迫害しました。(マル 3:1-6。ヨハ 9:29-34)



 もし長老たちが健全な良心を持っている人たちであれば、ここで言うような「迫害」を実行しながら同時にそれを戒める教えを説くことなどできないはずです。会衆の前で、演台に立ち、微笑み、教えを口にしようとしても、口が震えて声が出てこないはずです。
 ところが、長老たちにそのような気配は全くありません。まるで逆です。長老たちの見かけ上の善良さと微笑みは絶えることがないようです。






#56

◇ 2019年12月23日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 さらに1週間が過ぎました。
 これはいったいどういうことでしょうか。
 回答をよろしくお願いいたします。






#57

 今日、すこし驚くニュースが入ってきました。カトリック教会が「性的虐待の守秘義務を廃止」したそうです。



◇ 世界キリスト教情報, 2019年12月23日号 (表記等修正)

教皇、性的虐待の隠蔽防止へ守秘義務を廃止

 バチカン(ローマ教皇庁)は12月17日、カトリック教会内での小児性愛事件隠蔽(いんぺい)撲滅に向けフランシスコ教皇が進める取り組みの一環として、教会が司祭たちに対して定める守秘義務の対象から性的虐待などのケースを除外する方針を、公営バチカン・ニュースを通じ発表した。
 教皇フランシスコは、教会関係者による未成年者への性的虐待などのケースに関し、「教皇レベルの機密」を廃止することを決定した。教皇は、教会関係者による未成年者への性的虐待等のケースで、調査や裁判への協力をより可能にするために「教皇機密」を廃止する……改正を行った。
 ……今回の改正により、これら重大犯罪の「弁護士および検察官」の役を、今後、司祭のみでなく、信徒も担えるようになった。



 守秘義務については、この文書のもうすこし後の部分で書くつもりです。

 児童虐待の問題を論じるときにしばしば出てくるのが「守秘義務」の問題です。教会の牧師には法律によって守秘義務が課されており、牧師は、児童虐待についての情報を関係者に公表することはもちろん、警察に通報することさえできない、ということが言われています。
 一部の国ではこのことでエホバの証人がマスメディアに叩かれる事件もありました。エホバの証人はカトリックと同様に児童虐待を隠蔽する宗教なのだそうです。

 しかし私の意見では、法律上の守秘義務には裏技のようなものがあって、教会の内規によって調整が可能だったりします。その気になれば無効にだってできます。そうだとすると、法律が義務付けているから黙っているしかないんだ、と考える必要はなくなります。
 私は今後、このことをここに書いて、組織に対して方針の転換を提言するつもりでしたが、今回、それに近いことをカトリックがやったと思います。

 組織がこのままゆるゆるとこの問題に対する取り組みをしているようでは、このあとなにをやってもそれはカトリックの後追いであるというみっともない状況に陥るのではないか、と私は思いました。

 この件については、寺方会衆の長老団にひとこと苦言を言っておきたいと思います。
 これまで何十年も、そして今でさえ、あなたたちがどうしようもない態度をとり続けているせいで、まだやるべきことがなにもできていませんし、そのうえこの文書の制作においても本来書くべきことがどんどん後回しになってしまい、とうとうカトリック教会に先を越されてしまったじゃないですか。
 あなたたちは、自分たちのやっていることは正しいことでエホバへの賛美になるとでも思っているのでしょうか。






#58

 善良な攻撃性パーソナリティーの見分けが難しいという問題 [#55] は、被害者の訴えを通して加害者を見ようとした場合に醜悪なものとなります。
 普通、虐待は被害者がそれを訴えてはじめて明るみになるものです。加害者が自ら行為を申告することなどまずありません。そして、善良な攻撃性パーソナリティーは見せかけの善良さを固守していますので、その問題は被害者の告発をもってしても明らかになりにくいのです。

 私は昔からかなり熱心に、長老からの被害を訴える兄弟姉妹たちの話を聞いてきました。そうすると、これらの人たちにおおかた共通している問題というものがあることに気づかされます。被害を訴えているのはたいてい、精神面で問題を抱えている人たちであるということです。インターネットが普及するようになると、ブログなどで被害を訴える人も現れていますが、傾向は同じです。
 これらの層の人たちは、自分が被害者であることを訴えるとき、正しく、あるいは上手に話をすることができません。正常な精神を持ち備えた人にとっては非常に聞き難いことを延々と話す、書くという方もいたりします。言うことは筋が通っていませんし、内容がころころ変わります。
 そうすると、被害者の周囲にいる人たちは、被害者の訴えを信じません。この人は頭がおかしくて被害妄想に浸っているに違いない、相手にしないでおこう、と思うのです。

 もし私が、被害者の会衆に行って周辺の方々に話を聞いたとしても、こう聞かされることになります。うちの長老はとっても良い人ですよ、そんなことをするはずがありません。あの人は昔からああなんです、言うことを真に受けてはなりません。大勢からそう言われると、私としてもその見解に同調せざるを得なくなります。これらの人たちの言うとおり、被害者は妄想に浸っているだけなのかもしれないのですから。
 しかも、現場を見てみると、加害者とされる人が被害者に対して献身的に奉仕しているということも少なからずあります。被害者側の妄想と反抗が度を越していて、善意を差し伸べる手にかみついているように見えます。

 加害者の観点から見ると、これはたいへんおいしい話だということになります。ようするに、加害行為をするにあたってターゲットの選択さえ適切であるなら、黒字経営になるということです。被害者が被害を訴えたとしても、困ることはありません。被害者の声を聞き流しながら、自分は潔癖であるという振る舞いをすれば、周りの人たちは自分のことを信じてくれますし、弁護もしてくれます。被害者であるのはこっちのほうであるということになり、周囲の同情も集まります。

 やがて被害者は、会衆から軽蔑され無視され放置されることになります。こういう状況が生じた後、たいていの場合、被害者はいなくなります。エホバの証人社会にとどまることができなくなるのです。心の病がひどくなる人もいます。そうなるともう手遅れです。






#59

◇ 2019年12月30日, 私から大井一弘兄弟へのメール (誤記修正)

宮原です

 宮原です。

 またさらに1週間が過ぎてしまいました。

 人のことを無視し続けることは、嘘をつき続けることに似ています。
 無視することがやめられなくなるのです。
 無視された相手は、どうして私のことを無視するのですか、無視するのをやめてください、と言いますが、あなたはその言葉も無視しなければならなくなります。
 無視された人が苦しむのを見ても、それで叫び声を上げるのを聞いても、涙を流して悲しむのを見ても、あなたはその人を無視し続けなければなりません。
 この苦しみの末に私が病気になったのに、あなたは私を無視し続けています。もし私が自殺したとしても、あなたは私を無視するでしょう。
 まあ、私が死ねば、形ばかりの涙くらいは流してくれるかもしれません。もっともらしい弔辞の言葉も言えるでしょう。それだけです。
 私が最初ではないはずです。きっとあなたは、すでに何人か殺しているのでしょう。
 それは悪魔サタンの道です。それは死の道です。まず心が死にます。やがて神の裁きの日が訪れ、あなたは文字通り死ぬことになります。
 さらに、あなたは仲間を巻き添えにしなければなりません。兄弟姉妹たちに対して、あなたたちも無視することに加わりなさいと言って招待の言葉を差し伸べるのです。
 その招待に応えない人たちに対して、あなたは圧力をかけたり、脅迫を行ったり、制裁を科したりすることになります。
 こうして多くの者があなたと共に邪悪の道を進み、あなたと共に死に至るのです。






#60

 大井一弘兄弟が私のことを完全に無視するようになってからしばらくたち、それでいて集会での様子に変わったところがないため、私としては「善良な攻撃性パーソナリティ」ということをかなり気にするようになっているところですが [#53], [#55], [#58] 、今日、元日の集会では、繰り返し「善良さ」ということが語られ、私としては自分に罪でもあるかのようにその言葉が心に刺さりました。
 虐待された兄弟姉妹にそういう精神状態が生じることは、様々な事例を見聞きしてよく知ってはいるんですが、実際に自分の番が回ってくると、これはたまらない、と思います。
 特に心に刺さったのは、大井一弘兄弟が「長老の資格」について論じた資料を読んだことです。これは規定のプログラムにないもので、彼に思うところがあってわざわざ取り上げたように思います。



◇ 「ものみの塔」誌 1974年8月1日号, ものみの塔聖書冊子協会

 特に長老たちに対して述べられている要求があります。そうした要求は,神の「羊」に対し,親切で有用な,しかも毅然とした指示や導きを与える能力に重きを置いたものであり,牧者また教える者としての長老たちの務めを反映しています。それらの要求の中には次の点があります。……

善良さを愛し,義にかなう。

 『義にかなっている』とは,神の律法,つまり正邪に関する神の規準に従っているという意味です。その人は,公正で,偏り見ることなく,情実に左右されません。(ルカ 1:6。ヨハネ 7:24。ヤコブ 2:1,4,9)「善良」であるということは,それが単に正義の要求する以上のことにまで及ぶという点で,義にかなった状態と異なっています。(マタイ 20:4,13-15。ローマ 5:7)善良さを愛する人は,自分に要求され,あるいは期待されている以上のことを他の人のために行ない,他の人のためになる親切な行為を寛大な態度でなし,他の人に対して暖かさと思いやりを働かせます。またその人は,他の人の善良さを見,感謝し,ほめます。―テトス 1:8。ルカ 6:35。使徒 9:36,39。テモテ第一 5:10。



 わざと私に当てつけているようにも見えます。
 ちょうどこの時期に、私のことを徹底的に無視しながらこういう教えを披露する無神経さというものは、私にはなかなか理解できません。

 わざとやっているとすれば、精神的に弱っている私にとどめを刺そうとしているということになるのではないかと思いました。
 今の私はついに自殺をほのめかすことまでしてしまった状態にあるのですが、どうなんでしょうか。

 実際問題、こういうことがあると神経症状がひどくなってくるので困ります。ほんとうにどうにもこうにもなりません。
 正月早々から長老に殺されてしまいそうでたいへんです。






#61

 善良な攻撃性パーソナリティーが弱者をネタにして旨味を吸い上げる典型的なシナリオを見てみましょう。

 Aさんは障害者を介護する施設で看護師として働いています。Aさんは人あたりが良く、介護の仕事を積極的に行いますので、入居者たちから感謝され、同僚からも高く評価されています。
 さて、この施設には、他の障害者よりも障害が重くて介護の手間がかかるBさんがいます。加えてBさんは、障害のせいでうまく話すことができないという問題を抱えています。そこで、AさんはBさんをターゲットにすることにしました。
 Aさんは、Bさんの介護に積極的に取り組み始めました。その献身的な働きぶりは入居者や同僚の目に留まります。Aさんはこれらの人たちにこう言います。Bさんはほかの入居者より世話を必要としているではありませんか。私が余分に手間をかけるのは当然です。
 一方で、他の入居者や同僚に目撃されない場面では、AさんはBさんの世話を怠るようになりました。一定時間ごとに寝返りをさせる、トイレの世話をする、というような業務を行わず、Bさんを困らせるようになりました。当直が一人しかいないときには、食事を持ってこないということもありました。
 やがてBさんは、うまく動かせない口を一生懸命動かして、寝返りをしたい、トイレをしたい、食事をしたい、とAさんに訴えるようになりました。しかしAさんはそれを無視します。
 しばらくするとBさんの話し方に変化が生じるようになります。寝返りの世話をしてください、トイレの世話をしてください、食事を食べさせてください、という具合に、「お願い」が「要求」に変化するのです。
 Bさんが要求を述べるようになったので、Aさんは周囲の人たちにそのことを相談するようになります。Aさんはこう言います。Bさんのことで困っていて相談したいことがあるので聞いていただけないでしょうか。「Bさんはほかの方より障害が重いので決してBさんが悪いということではないんですが」とAさんは前置きし、こう続けます。「最近、Bさんが私に対して不満を述べることが増えてきているんです。私としてはBさんのために努力しているつもりなんですが、それなのに、Bさんは不満を述べるだけでなく、高圧的な態度であれやこれやと命令を言うようになっているんです。」 さらにAさんは続けます。「このことを私はとっても気にしているんです。私としては一生懸命やっているつもりなんですが、やり方が間違っているのでしょうか。今後Bさんにはどうしたらよいでしょうか。」 Aさんは最後にこう言います。「私ができることには限りがあります。どうか皆さんもBさんには気を遣ってやってください。」
 そのうちBさんは、自分がAさんからたびたび放置されていることを周囲に対して訴えるようになりました。ところが、周囲の人たちはだれも、Bさんの訴えをまともに聞いてくれません。ほとんどの人はBさんの訴えを無視します。聞いてくれた人は、「感謝する気持ちが必要です」とか「人の悪口を言うのはやめましょう」とか言って、Bさんに反論します。
 やがて、施設内ではBさんについての悪評が出回るようになります。人々はこう言います。「BさんはAさんに対してたいへん反抗的で、まるでAさんがBさんを世話していないかのような話を広めている。もしBさんの話を外部の人が聞いたら、Aさんのことをどう思うだろうか。」 それに対してAさんはこう反論します。「Bさんにはもっと気を遣ってやってください。私の努力が足りていないのです。」
 そのうち、Bさんは施設の誰からも相手にされなくなりました。やがて、施設の責任者の判断で、Bさんはよその施設に移されることになりました。
 Bさんは困惑します。世話を受けていないことを訴えることにした時、Bさんは、周囲の人たちは親身になってその話を聞いてくれはずだと思っていました。そしてこれらの人たちが、訴えが真実であることを確認したうえで状況を改善してくれると信じていました。しかし、実際に起こったのはそれとは真逆のことでした。どうしてこういうことが起こっているのか、Bさんはまったく理解できません。
 施設を去る時、BさんはAさんを見かけます。Aさんはいつものように微笑んで、施設の入居者や同僚となにやら会話を交わしています。本来なら、その罪を暴露され、処罰に直面しているはずの人が、まったくそのような目に遭っていないのです。Bさんはそれを見てますます困惑します。
 新しい施設に着いて、Bさんは責任者からこう告げられます。「あなたが前の施設で何をやったかは聞いています。よく反省して同じことを繰り返さないようにしてください。」

 このシナリオの場合、Aさんが旨味を吸い上げているのは、Bさんからというより、施設の入居者や同僚たちからです。Aさんが「Bさんに気を遣ってください」と周囲の人たちに繰り返し言ったのは、その言葉が逆の結果をもたらすことを計算したからです。Aさんの周囲の人たちは、Aさんの正体に気づかず、自分たちがBさんに対して何をしてしまったか気づくこともありません。
 このときAさんにとって重要なのは、Aさんにとって至上の価値を持つもの、つまり人々からの敬意を得られるということです。善良な攻撃性パーソナリティは、人々から崇拝されることを何よりも望みます。その目的のために人々を欺き操るその様子は、まるで悪魔サタンのようです。






#62

 2020年01月05日、今日の昼頃に、大井一弘兄弟から電話がかかってきました。

 この電話での会話はウエタケフミオ兄弟が同席して聞いている、さらに、「ものみの塔聖書冊子協会(教団組織)からこの問題を再調査するよう指示されたので、再調査の面談を行いたい」ということでした。組織の指示があるので面談は今週中に行いたいとのことでした。
 日時を決めてこの二人と再調査のための面談を行うことを約束しました。

 どうやらウエタケフミオ兄弟は大井一弘兄弟の監督者になっているようです。
 もしそうだすると、彼がこの会衆に来たのは私に対応するための指導を大井一弘兄弟に行うためだということになり、彼が私からのメールを徹底的に無視するようになったのは彼が彼にそう指示したからだということになりそうです。
 ところがそこに組織から指示が降って来たので、これまでの方針をすべて脇に置いて指示に従うことになったということのようです。

 今回も謝罪はありませんでした。また謝罪をすっ飛ばして話を進めようとしているように思います。よくこんなことができるなと思います。

 あと、もうひとこと言っておくと、「再調査」とは何でしょうか。すでに一度調査が行われているみたいな言い方じゃないですか。






#63

 今日の集会で扱われたテキストの主題は「終わりが来る前に兄弟姉妹との絆を強める」というものでした。
 主題聖句は格言(箴言) 17:17です。



格言(箴言) 17:17

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
真の友はどんな時にも愛を示す。苦難の時に頼れる兄弟である。



 司会は山下義人兄弟が行いました。彼の様子は相変わらずです。

 今の私は病状がますますひどくなってきていて、もうなんでもかんでもいろいろな言葉が次々神経に刺さるようになっているんですが、こういう状態でこのような集会に参加するというのはなかなか悲惨なことだと感じました。






#64

◇ 2020年01月05日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 電話にて同意した面談の件ですが、あれから少し考え、いったん延期にするのが適正だと判断しました。

 私はすでに繰り返し、あなたが行った様々な悪事について指摘し、あなたを説得しようと努力してきました。謝罪や約束ということも求めています。これらを放置したままあなたが私に面談を要求し私が従うということは、筋が通っていませんし、なによりもそれはエホバの目から見て正しいことではありません。
 私はあなたとは異なり、今回の件では、エホバの目に正しくエホバに喜ばれることをしっかり行おうと固く決意しています。だからこそ、これほどのことが起こり、このような事態に至ったのです。このことについては、私はエホバの前に誓いを立てたも同然です。譲ることはできません。

 直近の問題のひとつを取っても、そうです。
 つい先日まで、あなたはあれほどまで徹底して私のことを無視し続けてきました。そこに協会からの指示があると、あなたは態度を豹変させました。まるでそんなことなどなかったかのように私に語りかけ、一言の謝罪もなく対話を再開しようというのは、どうでしょうか。それは私にとっては屈辱以外のなにものでもありませんし、エホバも憤られます。
 私としては、あなたがこれほどの悪を行なうことを許してしまうわけにはいきません。

 今回、あなたは対話を再開するにあたって、対話を再開するという自分の要求だけを述べ、実のところ私のことは無視していました。
 これまであなたがずっと一貫して採ってきた態度です。あなたは自分からの要求がある時には私のところまで来て要求を述べますが、私の要求はまったく聞いていません。
 このまま面談を行っても、何が起こるかは明白です。結局のところ、あなたはさらに罪を犯すことになります。エホバはあなたに対して憤り、裁きを下されるでしょう。
 私としては、そのような悪とは戦わなければなりません。あなたの心の中に深く根付いて決して引き抜けない、そのような悪と戦うのです。

 そこで今こそ、これまであなたが行ってきた悪事とそれに対する私の説得をすべて、一つも欠くことなくあなたに聞いていただき、解決することが必要だと判断しました。
 これらを解決してから、協会が要求する再調査のための面談に進むことができるでしょう。

 これまで私が要求してきたすべての謝罪について、改めて謝罪を要求します。これらの謝罪を文書にし、私まで提出してください。
 また、私が求める提案や宣言や懇願というものについても、文書にて回答を求めます。何一つ欠けがないようにしてください。
 また、寺方会衆の集会にて30分ほど時間を取って一連の事件の説明会とし、会衆内に、私に対するいかなる不名誉も、またいかなる誤解も混乱もないようにしてください。
 また、この説明会においては長老団が会衆に謝罪し、その後、謝罪文を会衆の掲示板に貼ってその内容を周知してください。
 加えて、これらすべての項目について再発の防止策を取り決め、寺方会衆の規則とし、それを私と会衆に対して公表してください。この規則には罰則も明記してください。

 また、今回私が面談を延期したことは決して私が面談を拒否したということではない、と確認する書面を発行し、私まで提出してください。

 それに加えて、今回この件に唐突に関与してきたウエタケフミオ兄弟に対しては、確認すべき項目があります。

 あなたがこの会衆に来てまだほんのわずかですが、すでにあなたには、私に対して告白し謝罪しなければならない多くの罪があるように思います。
 これらについて、あなた自らすべてを告白し、謝罪してください。これも文書にてお願いいたします。
 それに加えて、私の文書にある主要項目すべてについてあなたの見解を述べたものを、文書にて提出してください。

 そもそも外部から来たばかりであるあなたが、私は大井一弘兄弟を指名しているというのに、彼を差し置いてなにか権威を振るえるとでも思っているのでしょうか。
 あるいは、大井一弘兄弟はあなたや協会の操り人形なのでしょうか。もしあなたたちが、彼を利用するだけ利用して切り捨てるつもりでいるとすれば、私がそれを許しません。
 この要求に対する返答次第では、私はあなたにもとの会衆に帰ってもらうよう協会に要求するつもりです。



◇ 2020年01月05日, 大井一弘兄弟から私へのメール

Re:宮原です

 大井一弘です。

 メールを受け取り、兄弟の要求しておられる事柄について確認いたしました。






#65

 先日の電話の録音です。



◇ 2020年01月04日, 大井一弘兄弟から私への電話



 非常に丁寧な話し方です。「さあいまから君と僕は友達になりましょう」みたいな感じです。これまで彼が私に対してこれほどの他人行儀で話したことはなかったと思います。

 「体調どうですか」。この一言はなかなかひどいと思いました。
 本来なら、「私のせいであなたの体調をここまでひどくしてしまい申し訳ありません」と言って詫びるところだと思います。まるで他人事です。自分は関係ないと言わんばかりです。もし彼でない誰かがこのような言い方をするのでしたら結構だと思いますが、彼にこんな言い方でこんな言葉を言う権利はないと私は思います。これは屈辱というものです。
 しかも、私が「まあまあですね」と答えるともうこの件はおしまいで、「具体的にどんな感じですか」と聞き返すこともなく用件のほうに話を進めています。

 謝罪はなく、何か罪を自覚しているふうですらありませんでした。見かけ上の善良さを固守しようとしているように見えます。
 私としては、今後はこの人を「私はじゅうぶんに自分の罪を自覚するようになりました」という話し方をする状態にもっていきたいと思っているのですが、とにもかくにもこれまで私が苦労しながらやってきたことがなにも功を奏していないみたいで、なかなかたいへんそうです。

 こんな電話をかけてくるところからしても、彼には自分にとっての要件のみを確実に遂げる強い意志があるのだと思います。まあ、今回のことは上からの指示であるわけですし。
 メールで指摘していることと重なりますが [#64] 、こんな話し方をする長老と面談に臨んでも、まともな話し合いはできないでしょう。

 この電話のあと、私の体調はひどくなるばかりです。ここしばらくは寝てばかりですね。さすがにこれは、そのうち再起不能にまでなってしまいそうで怖ろしいです。






#66

 今週は巡回監督(会衆の指導をする監督)の訪問の週で、それで巡回監督が講演を行う日となりましたが、インターネットでの参加から排除されてしまいました。
 コールがあって一度はつながりましたが、1分ほどで切断されました。他の方は配信を受けていましたが、私だけカヤの外です。集会が終わって、他のメンバーが「ありがとうございました」と送信するのを見るだけとなりました。

 通知はありましたが説明はありませんでした。



◇ 2020年01月19日, ネット配信担当からのメール

Re: 宮原ですスカイプお願いします。

 すみません。スカイプ接続できません。






#67

 善良な攻撃性パーソナリティのやっかいな特徴の一つに、『攻守の入れ替えがうまい』というものがあります。善良な攻撃性パーソナリティのこの能力のせいで、彼らを改心させようとする努力のほとんどは無効にされてしまいます。



◇ 「他人を支配したがる人たち」, ジョージ・サイモン (表記等修正)

 マニピュレーターを問い詰め、相手の好ましからざる一面や行為について話し合おうにも、相手は話題をすり替え、問題をはぐらかす……大切な問題で正面から向かい合っていても、気がついたら肝心な話題に話がおよばないのはどうしてなのかと頭をひねるばかりだ。

 ……私のクリニックには、知性や機知に恵まれ、いわゆる心理学というものにも通じている人も少なくない。けれどもそれほどの人たちでさえ、潜在的な攻撃性を秘めた者を相手にした場合、その人格を理解したうえで対応しようと試みても、これという結果は得られない。そればかりか、状況をさらに悪化させているとしか思えない。
 ……被害者側がマニピュレーターを相手にその行動の反省を迫り、責任感の必要を説き、あるいはその悪行を認めさせようと、説得をとことん試みてもまったくの徒労に終わってしまう。



 この「どうしてなのか」ということについては、専門家の間では研究が進み、そのメカニズムというものがある程度判明するようになっています。



◇ 「他人を支配したがる人たち」, ジョージ・サイモン (表記等修正)

 人と争うことが本当に必要な場合なのか、そしてその判断に誤りはないかを学ぼうとしない。……黙ってしたがうことこそが最善の対処法になるときもある事実を認められない。……意味のある闘い方、フェアな闘い方を知ろうとしない。……負けを認めることによって得られるかもしれない前向きな可能性が理解できない。……自分を無敵の存在だと見なすようになっている。……人の弱点を敬して、同情を寄せることができない。



 やっかいなことに、善良な攻撃性パーソナリティは、表面上はあらゆる善良な資質を持ち備えています。ただしそれらの資質は本物ではありません。
 たとえば「愛」という資質の場合、彼らは表面的な愛を示すことが要求される場面では見事に愛を示してみせますが、本物の愛を示すことが要求される場面ではそれを拒絶します。このルールは、謙遜に振る舞う、思いやりを示し親切にする、約束を守る、間違いを認めて謝罪する、などあらゆる善良な資質において露わになります。
 上に引用した諸般の欠陥についてもそうで、日常的にはまったくであっても、ここぞという局面になると見事に発現したりします。ふだんはきちんとした話し合いができる人が大変身を遂げ、全く話し合いができない人になってしまうのです。彼のことをふだんから知っている周囲の人たちは驚くことになります。

 この点について、私個人の経験に由来する指摘を述べたいと思います。

 私がこれまで多数の善良な攻撃性パーソナリティと対峙して気づいたのは、少なくともその一部の人たちには、(日常的にはそうではなくても、いわゆる“本番”が来た時には)『決して防御側に回らない』という傾向があるということです。この種の人たちはあたかも無敵のバリアで全身が守られているかのようです。
 普通の人は、自分にとって都合が悪い話を聞かされる状況に陥ると、なんとかしてそれを避けようとするものです。自分を守ろうとして、とぼけたりはぐらかしたりします。ごまかしきれなくなると、それには事情があったんだ、などと弁明を言って自分を守ろうとします。
 しかし善良な攻撃性パーソナリティにはこの防御の感覚が乏しかったり、なかったりします。彼らも最初はとぼけたりはぐらかしたりしますが、それは自分を守ろうとしてではありません。彼らがはぐらかすのはそれが自分にとっての論点ではないからです。そのようなわけで、ごまかしきれなくなったとき、普通の人との決定的な違いが現れます。彼らはごまかしきれなくなった罪状を単に放置するばかりで、弁護しません。
 私が見たところでは、彼らの根底には『罪を自覚することを拒絶する』というメカニズムがあるようです。つまり、人が内心で「自分は罪を犯してしまった」と自覚した時に取るあらゆる思考と行動を彼らは拒絶しているのです。
 加えて、彼らは優劣ということを強く自覚しているようです。彼らはどのような意味においても劣勢の立場に立たないよう努力していて、誰かに罪状を追及されるとか、誰かに対して弁明を述べるといった立ち位置に立つことをなんとしてでも避けようとします。だから彼らは、自分が正しいと思ってもそう主張したりはしなかったりします。
 優位な地位に立つべきなのは自分自身なのです。そこで、攻守の入れ替えが生じてしまうというわけです。






#68

 今日の集会も参加することができませんでした。



◇ 2020年01月22日, ネット配信担当からのメール

Re: 宮原ですスカイプお願いします。

 すみません。
 これから先,スカイプ接続できません。
 申し訳ありません。



 やはり説明はありませんでした。

 今後も参加できないというのは、私にとってはかなりの打撃です。非常に困ります。






#69

 今日、大井一弘兄弟と植竹史雄兄弟の訪問がありました。



◇ 2020年01月23日, 大井一弘兄弟と植竹史雄兄弟の訪問



 聞きたくないことを無視したり聞き流したりしながら自分の話を進めるのがたいへん上手だと思いました。私は耐えられなくなってギブアップしてしまいました。

 一方的に進行する会話に流されつつ特に問題に思ったのは、電話にて私を王国会館に呼び出した際に [#62] 言っていた、話の目的が変わっていることです。二人は私をだまして呼び出そうとしたということになりそうです。再調査の指示ということはでっち上げだった可能性があります。もっともらしいことを言ってうまく呼び出すことに失敗したので、もう再調査の話はなかったことにし、ダイレクトに目的を遂げようとするようになったということになりそうです。
 話の目的は、「あなたが背教者の考えを広めている問題について話し合うこと」なのだそうです。
 どうやら、長老団としては私のウエブサイトをなんとかすることを考えているようです。今日の訪問のとりあえずの目的は、このウエブサイトの執筆者が私であることを私の口から確認することにあるように思いました。長老たちが私の罪状を取りまとめようとしているようにも見えます。彼らが「話し合いたい」と言うのも、罪状を確定させるための手続きを進めるためにそれらしいことを言っているにすぎないのではないかと疑いました。そうすると、そのうち私は背教者の汚名を着せられて排斥(追放処分)にされかねないとも思いました。植竹史雄兄弟は殺し屋ならぬ“始末屋”なのかもしれません。

 今回も謝罪はありませんでした。私の病状についての言及もありませんでした。
 インターネットを通した集会への参加を拒絶している理由については、文書で提示するとの約束が得られましたが、その際口頭で聞いたところでは、「ネットへの掲載は集会の目的ではない」とのことでした。






#70

◇ 2020年01月24日, 私から大井一弘兄弟へのメール

宮原です

 宮原です。

 先日の訪問について考えていました。
 いろいろと考えた末、以下の通り依頼することとしました。

 当面の間、私への訪問を自粛してください。よろしくお願いいたします。

 今回の訪問は、端的に要約するとこのようになると思います。

 「私たちはあなたと話し合いがしたいのです」
 「そのためにはまず謝罪と約束が必要ですのでお願いします」
 「私たちはあなたと話し合いがしたいのです」
 「話を巻き戻さないでください」
 「私たちはあなたと話し合いがしたいのです」

 私に向かって「さあ話し合いましょう」と語りかけている時でさえ、あなたたちは私のことを無視しているのです。それがあなたたちのやり方です。

 私は、一人のエホバの証人として、言い換えるならエホバの前に立つ者として、自分の身近にいる人たちの救いをいつも願っています。
 その心は、主に、そして強く、エホバの民の中にいて助けを必要としている弱い兄弟姉妹の救いに向けられていますが、それでもその愛は、あなたたちのような加害者たちにも向けられます。
 私は、あなたたちがこれ以上罪を犯し続けることを願わないのです。私はそのために文字通りその命を削って努力してきましたが、あなたたちはその間隙を突こうとします。

 繰り返して言います。私はあなたたちが罪を犯し続けることを願いません。
 それは私のためというより、他の人のためです。エホバの民の中には、あなたのような人たちの非情な振る舞いによって苦しんだ末に自らを崩壊させてしまう人がいます。私はそのような人たちを見てきました。最終的にはあなたたちも自分の身を亡ぼすのでしょう。今の私にはそれを見ることが耐えられません。
 そのような人たちのうちの、もしかするとその一人でも救えないとは限らないので、私のような者がいて日々このような努力を重ねているのではないでしょうか。その努力は、たしかにあなたたちにも振り分けられます。私としては出し惜しみをするつもりはありません。あなたたちは私の言葉に従うことによって救われるのです。

 また、私の犯した罪ということもあります。
 今回、私があなたたちを追い払ったことは、理由があるとはいえ、正しいことではありませんでした。こう言ったのです。「もういい!」。そして私は扉を閉じてしまいました。
 このようなことがあると、私の良心は激しく痛みます。いま、このような苦しみに私はあまり耐えることができません。
 もし私が昔の私であったなら、このようなことを笑って済ますことさえできたでしょう。しかし今の私はそのようではありません。
 私があなたたちに訪問を自粛するよう依頼したのは、私が今以上に罪を犯さないためでもあります。

 私もまた、私がいつも助けたいと願っている人たちと同じように、心が弱い、ということにどうか配慮してください。
 全く正直に告白します。私は心が弱い者です。それに加えて良心の束縛にも置かれています。実のところ、私は弱さと良心のゆえにまったく自由ではありません。
 そのうえ、すこし圧力にさらされたくらいで平静さを失い罪を犯すという有様です。こんなにもみっともないことがあるでしょうか。
 どうか私のことを哀れんでください。

 今回の訪問があったので、私がこれらのことを記録につけ公開していることは良いことだという確信が深まりました。

 やはり、あなたたちはすでに何人か殺しているのだろうと私は思います。同じことは今後も繰り返されるのでしょう。
 しかし、ある兄弟姉妹たちは、私がつけた記録を見ることによって守られるでしょう。その人は、私に比べてさらに弱く、あなたたちのような長老からの精神的打撃に耐えることができない人です。
 その人たちは、この記録を見て、とても親切そうに見える長老たちの中には悩みを打ち明けて頼ってはならない危険人物が混ざっていることを知るでしょう。その人は用心してそのような長老とは関わらないようにし、こうして悪魔の罠から命を救われるのです。

 また、神の民の中には、決して見かけではない真の信仰と良心を育んでいる兄弟姉妹たちがいます。私のつけた記録はその人たちにとっても導きになります。
 というのは、邪悪な道を行く長老たちは、エホバの名の記された小旗をしきりに振り、休みなくエホバの名をたたえながら、その会衆を悪の道へと導くからです。
 しかし彼らは、この記録を見て、一部の長老たちの内に潜む恐るべき悪を見破るべきことを知るようになるでしょう。心に備えができているなら、いざという時に自分を守ることができるようになります。もしかすると、こうしてその人は命を救われるのかもしれません。

 どうかよく聞いて知ってください。エホバは今の私に見るような、愛と知恵によってご自身を示し、悪と闘われるのです。
 エホバはご自分の手の内にある者たちの中から最も弱い者を立てて、民の光とされました。その光は邪悪な者たちに対しても救いを差し伸べる愛の光です。
 その光を掲げる者は、偽りに敵対しますが、実のところ、喜んでそうしているわけではありません。実際には苦しんでいるのです。
 もう一度言います。どうかよく聞いて知ってください。私はあなたたちの救いのために苦しんでいるのです。
 私はあなたたちに対して反抗的なのでしょうか。あるいは、不平不満を募らせているのでしょうか。もしそうだとすれば、どうして神の光を掲げることができますか。

 あなたたちは、神の会衆を気遣っているように見えますが、実際には破壊する者です。
 あなたたちが見かけにおいてしきりに心配する背教は、あなたたちの内にあります。それは偽りのエホバ、その実体は悪魔サタンです。
 あなたたちの神はあなたたちを奴隷にしています。あなたたちに悪の道を強制し、悪の道を邁進するようむちを振るっているのです。
 そこであなたたちは、真理の言葉を聞く耳を閉ざすところから始めなければならなくなります。物事を曲解することにも忙しくならなければなりません。その道筋はあらゆる悪と汚れに満ちていて、清いところが全くありません。

 その打撃は私に向けられているものとあなたたちは思うのでしょう。
 しかし実際には、あなたが打撃を加えようとする対象はエホバの組織です。狙いを定めるのは悪魔サタンだからです。あなたがその邪悪な目的を遂げるとき、エホバの組織はそのかかとを砕かれることになります。






#71

 今回大井一弘兄弟に送ったメール [#70] は、訪問 [#69] があった翌朝に送信したものでした。
 あの会話の後、私は症状がひどくなり、はやく寝てしまいたいと思ったのですが、それでも我慢して夜の間にメールを仕上げ、送信しました。
 どうしてかというと、聖書にパウロのこのような教えが記されていることを思い出したからです。



エフェソス 4:26

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
腹が立っても,罪を犯してはなりません。怒ったまま日が沈むことがないようにしましょう。



 今回は自分に起因する問題があるというのに、そのまま眠ってしまい問題を翌朝以降に持ち越すのは正しくないということに気づかされました。

 今回は聖書の教えの通りに行動することができましたので、そのことはよかったと思います。しかし、このような時にいつでもそうできるかということについてはなかなか自信がありません。
 周囲はどうだろうと私は思いました。私の会衆の兄弟姉妹たちには、あるいは世界中の兄弟姉妹たちには、憤りの罪を犯したときに、その問題を解決するまで眠らないという習慣があるでしょうか。ないと思います。エホバの民の間でこのようなことが習慣になっていて当たり前であればよいのに、と私は思うようになりました。そうなっていれば、たとえばこの文書に記録されている一連のやり取りにおいても、私も長老も共に繰り返し自分の罪を清め、謝罪を交換し合うということが生じていたと思います。
 今回私が努力して自分の罪を清めたとしても、相手は応じるだろうか、とも思いました。長老たちはこんなことは気にしないように思います。もし長老たちがこのことを気にすると主張するのなら、彼らにはやるべきことがあります。というのも、文脈を含めると、この言葉はこうなっているからです。



エフェソス 4:17-27

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それで,私は主によって語り,勧めます。もうクリスチャンではない人々のように,むなしい考えに従って歩んではなりません。彼らは思考が闇に覆われていて,神による命から遠く離れています。神について知ろうとせず,心が無感覚だからです。道徳感覚がまひしていて,恥知らずな行いにふけり,あらゆる汚れた事柄を貪欲なまでに行います。しかし皆さんは,キリストはそのような方ではないと学びました。確かにキリストの言葉を聞き,その教えを受けたのではないでしょうか。イエスが教えた真理を学んだはずです。皆さんは,古い人格を脱ぎ捨てるようにと教えられました。その人格は,以前の生き方に基づくもので,悪い欲望に引きずられて腐敗していきます。考え方を新しくする努力を続けましょう。そして,新しい人格を身に着けましょう。その人格は神の意志に沿って形作られるものであり,本当の正しさと忠実さに基づいています。皆さんは偽りを捨て去ったのですから,隣人に真実を語りましょう。私たちは皆で1つの体を構成しているのです。腹が立っても,罪を犯してはなりません。怒ったまま日が沈むことがないようにしましょう。悪魔に隙を与えてはなりません。



 うちの会衆の長老たちは、こんな教えは見事に無視してしまうと思います。いま長老たちは嘘偽りにまみれていて、まったく態度を改めそうには見えません。

 私たちエホバの証人は、聖書の教えをいつも厳密に解釈して実践していると自負しています。しかし、そう言っている割には、聖書の教えの基本的な事柄ができていないと思い知らされました。

 私はこの文書の中で、私自身が生涯の初めから経験してきた抑圧のことを思い起こしています。抑圧に満ちた人生を背負いながら、私は心の中で強い願いを育んできました。それは、善良なこと、そして真実なことを、誰か一人でもいいから、人の内に見たい、という願いです。端的な言い方をするなら、うそをつかない人を見つけたい、ということです。誰かが誰かに親切に振る舞った時、それが嘘偽りなく親切であるのを見たい、ということでもあります。私のその願いはかなえられませんでした。かなえられないことでその願いは日々強くなっていき、今日に至っています。
 それは、私から見た周囲の世界が、信頼に値しない、信頼すると裏切りに遭ってしまう世界であることを意味しています。たとえば今私が対峙している長老たちを見てください。彼らからの言葉を聞く度に私は、「この言葉はその言葉の通りの意味で述べられているのだろうか」と疑わなければなりません。このような時、私の心の中には、長老たちの語る言葉はいつも真実であってほしいという強い強い願いが湧き出てきて、自分では抑えられなくなります。その願いが全くかなえられないので、私はひどく苦しみます。
 やがて私は、誰か他人ではなく、自分自身こそが、その素質を持っているのだということに気づくようになりました。私は「誰かが私にほんとうの親切を示してくれたらいいのに」と考えていたわけではなかったのです。しかし、そのことに気づかなかった間、私はその隠された資質に基づいて成長したりなどしませんでした。むしろそこには、私の強い願いとは全く異質の自分があったのです。このことではやはり、いまに至るまで私は苦しんでいます。その苦しみは増えるばかりです。

 さて、次のような場面があったと考えてください。私と大井一弘兄弟と植竹史雄兄弟の三人がいて、そこに天使が光り輝く姿で現れます。天使の手には剣が握られていて、こう言います。今からあなたたちは対話を始めてください。ただし、嘘や偽りがあってはなりません。相手をだまそうとしてはなりません。もし、そのような言葉を言ったなら、私はただちにこの剣であなたを打ちます。
 そうするとどうでしょうか。この長老たちは1分ももたないと思います。10秒すらもたないでしょう。長老たちは、満面の笑みを浮かべ、私の手を握りながらこう言います。「宮原兄弟。私たちはいまあなたと話し合いができることをほんとうにうれしく思います。」 この言葉を言い終えないうちに天使は二人に切りかかり、それで対話は終了です。この長老たちはそういう人たちです。

 では、私と対話するのが長老たちではなくあなただったらどうでしょうか。話し合う内容は私のウエブサイトについてです。
 さっそく私は質問します。「私のウエブサイトは“背教者の主張を広めるウエブサイト”なのでしょうか?」
 こういうものの言い方は卑怯というものです。このウエブサイトは“背教者の主張に対する反論を広めるウエブサイト”です。その中には背教文書の引用がありますから、理屈としてはそういう言い方もできますが、するべきではありません。それは言いがかりというものです。
 続けて私は質問します。私はこのウエブサイトがとても役に立っていると思っていますが、それは“この人がそう思い込んでいるだけ”で、実際は逆なのでしょうか。

 今回長老たちが私に言いがかりをつけて言っていること [#40] , [#69] は、私がこのウエブサイトを開設したころ、つまり今から20年ほど前に持ち上がった疑問です。
 当時は、インターネットを通した背教者の宣伝がエホバの証人社会に与える影響が深刻で、誰かがそれに対処しなければならないが人がいないということが言われていました。人がいないのは、エホバの証人の社会にそのような人を用意する仕組みというものが根本的に欠けていたからです。私がその役を担うことになった時、私はそうとうな覚悟を求められました。戦って死ぬ覚悟が求められたのです。それも、背教者と戦ってではなく、仲間であるエホバの証人たちと戦ってです。
 そして持ち上がってきたのが、君のやっていることはほんとうに役に立っているのか、という攻撃です。その内容はいま長老たちが言っていることと基本的に同じです。当時は背教者の文書の悪影響が目も当てられないくらいひどかったですから、それに反論する文書をネット上に載せることが大きな効果を上げることは間違いないとしても、そのための背教文書の引用がそれ以上に悪影響になってしまうのではないかということが手厳しく指摘されたのです。
 私は当初その批判に答えることができませんでした。実績がなかったからです。やがて、実績はいろいろな仕方で形となって現れてくるようになり、自然と、このような攻撃は消えていきました。
 たとえば、わかりやすい例として 「1975年ハルマゲドン説」 という文書を挙げることができます。この文書を公表したころ、エホバの証人たちはこの問題についてかなり混乱した状態にありました。エホバの証人社会自体がこの事件を正しく伝えていなかったのです。そこにインターネットを通して背教者の提供する情報が入ってきて、ひどいことになっていました。しかし、私が文書を公表して1年2年たつと状況は大幅に改善されました。面白いことに、その効果の幅は私のウエブサイトを訪問する人数を上回るものでした。そこにはなんらかの波及効果というものがあったようです。

 私の推定では、いまは日本のどの会衆にも5人くらいは私の恩恵にあずかった信者がいます。間接的に益を受けた信者はもっといるでしょう。やはり私の推定ですが、私がいなければ、いまの日本のエホバの証人の数は10パーセント程度少なくなっていたでしょう。これは、私のウエブサイトの諸文書を読んでいただいて、兄弟姉妹たちにも実感していただけると思います。私が書く文書は一定の品質が保たれ、目的に対する確実性が担保されています。この質の高さが、これほどの成果をエホバの証人社会にもたらしてきたのです。
 しかもいま、インターネット上にある背教文書の悪影響というものは、ほとんどなくなっています。それが私の功績によるものかは私にもわかりませんが、すこしは役に立ったに違いありません。というわけで、いま私のウエブサイトに背教文書が引用される問題について再考するとしても、そもそも背教文書の影響自体が非常に少なくなっているので、全くとは言えないにしても、それほど心配することもないだろうということが言えそうです。

 さらに私はあなたに質問します。「背教とはなんでしょうか?」
 おおざっぱに言って、背教の定義は二通りに分類できます。一つは、エホバの証人社会の外部にあって外部からエホバの証人社会を攻撃するものです。もう一つは、エホバの証人社会の内部にあって密かにエホバの証人社会を腐敗させるものです。
 私が問うのは、聖書が述べる背教はどっちかということです。例えば次の聖句で述べられている背教はどちらの背教でしょうか。



ヨハネ第二 8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
よく気を付けて,私たちが働いて生み出したものを失わないようにし,十分な報いを得られるようにしなさい。キリストの教えを踏み越え,その教えに従い続けない人は皆,神と結び付いていません。キリストの教えに従い続ける人は,父とも子とも結び付いています。キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。あいさつの言葉を掛けるなら,その人の悪い行いに加わることになります。



 説明は後にしますが、聖書が背教ということを述べるとき、それは基本的に内部の背教です。しかもそれは、使徒と長老たちを発生源としています。これは、エホバの証人社会においては巡回監督と長老ということになります。
 そこで私はあなたに質問を続けます。あなたはこの教えを実践したことがありますか。

 実のところ、私自身も、そうしたことはまだ一度もありません。
 つまるところ、このエホバの証人という宗教は、聖書の教えをよく守っているように見えても、基本的なことができていなかったりします。






#72

 というわけで、聖書の考える背教は外部ではなく内部にあるという話をしたいと思います。

 エホバの証人の方々は聖書をよく読んでいますから、聖書にそういう話が出てくるのはよく知っていると思います。しかし、組織があまりそういうことを教理として教えないので、よくわかっていないように見受けます。
 背教に関する原始キリスト教の感覚は、現代のエホバの証人のそれとは大きく異なっています。それは構造上の違いによるものです。いまからそのことを見ていきましょう。

 まず、エホバの証人の感覚で読むと当時のそれと違う意味になってしまう聖句を挙げたいと思います。



ヨハネ第一 2:19

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
彼らは私たちから去っていきましたが,もともと仲間ではありませんでした。もし仲間だったなら,ずっと私たちと一緒にいたはずです。しかし,彼らは去っていったので,皆が私たちの仲間なのではないということが明らかになりました。



 こういう言葉を読んでほとんどの証人たちが思うのは、断絶(棄教もしくは脱退)ということです。エホバの証人という宗教団体があって、その信者であることをやめてその宗教から去って行った、という具合です。しかし、原始キリスト教の場合、この言葉をそういう意味にとることはできません。この句が言っているのは、背教者がヨハネのもとを去って行き、ヨハネの仲間ではなくなった、ということです。背教したからといって、棄教したわけではありません。

 これに関連した聖句の一つにガラテア 2:11-14があります。



ガラテア 2:11-14

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,ケファがアンティオキアに来た時,明らかに間違ったことをしたので,私は面と向かって指摘しました。ケファは,ヤコブの所からある人たちが来るまでは異国の人々と一緒に食事をしていたのに,彼らが来ると,そうするのをやめて離れていきました。割礼を受けた人たちを恐れたからです。残りのユダヤ人たちもケファと一緒にこの偽善的な行動を取り,バルナバさえも影響されてそうしました。私は,彼らが良い知らせの真理に沿って歩んでいないのを見て,皆の前でケファにこう言いました。「ユダヤ人であるあなたが,異国の人のように生活し,ユダヤ人のようには生活していないのに,どうして異国の人々にユダヤ人の習慣に従って生活させようとするのですか」。



 ここではヤコブのもとを去った背教者たちのことが、反対側の視点から述べられています。
 もう一つはテサロニケ第二 2:2です。



テサロニケ第二 2:2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神からのものに思える言葉や,口伝えの知らせ,また私たちから送られたかのような手紙により,エホバの日が来ているという趣旨のことを聞いたとしても,すぐに動揺して分別を失ったり,慌てたりしないでください。



 ここで言われている「私たち」とは明らかにパウロのことです。それを私たちと言うのは、パウロには仲間がいてその人たちを含めていたからです。ヨハネの言う「私たち」も同じで、クリスチャンのコミュニティ全体を指しているわけではありません。

 当時は、キリスト教社会の至るところに背教者が現れていました。彼らには会衆を移動して背教を布教して回るという傾向があり、聖書にはその問題に関する言及が複数あります。



ガラテア 1:6-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
皆さんは,キリストの惜しみない親切によって招いてくださった神から早くも離れつつあり,別の種類の良い知らせに耳を傾けています。そのことに私は驚いています。別の良い知らせなどというものはありません。ある人たちが皆さんを惑わし,キリストについての良い知らせをゆがめようとしているのです。たとえ私たちであれ天使であれ,私たちが伝えた良い知らせとは異なる事を良い知らせとして皆さんに伝えるとすれば,その者はとがめられるべきです。私たちがすでに述べた事を,私は今もう一度言います。皆さんが受け入れたのとは異なる事を良い知らせとして皆さんに伝えている者は,誰であれとがめられるべきです。



 ガラテアのクリスチャンたちは、よそからやってきた背教者の教えに従っていました。それは、その背教者が、たとえて言うなら天使のような、信者たちにとって敬意を払うべき地位にあったからです。おそらく、この背教者は使徒だったのでしょう。

 コリントの会衆ではこの問題がかなりひどくなっていました。



コリント第二 11:3-6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし,エバが蛇のずる賢さによって惑わされたように,皆さんも何かのことで考え方が腐敗させられて,キリストに示すべき誠実さや貞潔さを保てなくなるのではないかと心配しています。実際,誰かが来て,私たちが伝えたのとは別のイエスを伝えたり,皆さんが持つようになったのとは別の精神を持たせようとしたり,皆さんが受け入れたのとは別の良い知らせを告げたりすると,皆さんはすぐに許容してしまいます。私は,そちらの優秀な使徒たちと比べて自分に何一つ劣ったところはないと思っています。たとえ話し方が未熟だとしても,知識については決してそうではありません。私たちが全てのことに関してあらゆる方法で皆さんにはっきり示した通りです。



 「優秀な使徒」という言い方は、背教者がパウロと比較してそう言われているという意味です。つまり、これは背教した使徒に起因する問題です。



コリント第二 12:11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は無分別になりました。皆さんがそうならせました。私は皆さんから推薦されるはずだったからです。私は,取るに足りないとしても,そちらの優秀な使徒たちと比べて何一つ劣ったところはないのです。



 本来、コリントの会衆は、パウロから使徒としての訪問を受けるはずでした。それなのに、どこからかパウロよりも優秀そうな使徒が先回りしてやってきて、パウロの立場を奪ってしまったのです。
 しかし、コリントの会衆はそれによって完全に汚染されてしまったわけではありませんでした。会衆は混乱のさなかにあり、いまにも空中分解しそうでした。



コリント第一 1:10-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
兄弟たち,私たちの主イエス・キリストの名によって勧めます。皆さんが語る事柄は一致しているべきです。分裂があってはなりません。同じ思い,同じ考え方でしっかりと団結してください。私の兄弟たち,皆さんの間に不和があることをクロエの家の人たちから聞きました。皆さんがそれぞれ,「私はパウロに従う」,「いや,私はアポロに」,「私はケファに」,「私はキリストに」と言っているとのことです。

コリント第一 11:18-20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
まず,会衆として集まる時,皆さんの間に分裂があると聞いています。私はある程度その話を信じています。やがて皆さんの間に分派も生じるに違いありません。その結果,誰が神から良いと認められているかも明らかになるでしょう。皆さんは1つの場所に集まってはいても,主の晩餐を食べるためにそうしているとは言えません。



 さて、ここに「一致」とか「分裂」いう言葉が出てくることに注目しましょう。これについても、現代のエホバの証人と原始キリスト教との間には感覚の相違があります。
 現代のエホバの証人は、自分たちの社会は全体としてはそこそこ清いと認識しています。そのような社会では、全体の一致を促進することで清さが増すという効果が期待できます。しかし、原始キリスト教はそんな感じではありませんでした。背教が至る所に根を下ろしていて、単に一致ということを志したのでは、清さは達成できなかったのです。ここで言う一致とは、真理との一致です。つまりそれは、真理に従わない人たちとの決別を意味しています。

 現代のエホバの証人の間では、長老に従順であることの重要性が説かれています。それは長老が「エホバによって任命されたエホバの権威」だからです。長老に敬意を払うことはエホバとキリストに敬意を払うことであると見なされているのです。しかし、原始キリスト教にそういう考え方はほとんどありませんでした。聖書にもそのようなことはほとんど書かれていません。代わりにこう書かれています。



ヨハネ第一 4:1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
愛する皆さん,預言を何でも信じるのではなく,神からのものかどうかを見極めてください。多くの偽預言者が世の中に現れているからです。



 聖書は、長老や使徒たち(ヨハネの言い方では預言者)について、まずは疑え、ということを言っています。それでその正体を見きわめ、正しい預言者を選別してからそれに従うようにしなさいと教えています。



テモテ第二 2:20-21

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,大きな家には,金や銀の器具だけでなく,木や土の器具もあります。立派な用途のための器具もあれば,つまらない用途のための器具もあります。それで,後者のような人たちから離れている人は,立派な用途のための器具となります。神聖にされたもの,持ち主の役に立つもの,あらゆる良い活動のために用意ができたものとなるのです。



 ここでパウロの言う「器具」とは、使徒と長老たちのことです。パウロはテモテにこの言葉を書いていて、婉曲表現を用いることによって巧みに、テモテが自分の会衆にいる背教者と決別するよう指示しています。
 さらに露骨に言ってしまうと、パウロのこの言葉もそうです。



テモテ第二 3:1-17

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
このことを知っておきなさい。終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,自慢ばかりし,傲慢で,神や人を冒瀆し,親に従わず,感謝せず,不忠実になります。自然な愛情を持たず,全く人に同意しようとせず,中傷し,自制心がなく,乱暴で,善いことを愛しません。人を裏切り,強情で,思い上がり,神ではなく快楽を愛し,信心深く見えても実際には神を敬っていません。こういう人たちから離れなさい。その中のある男性たちは,人々の家に入り込み,弱い女性たちをたぶらかします。その女性たちは多くの罪を負っていて,さまざまな欲望に流されており,常に学びながらも決して真理の正確な知識を得ることができません。ヤンネとヤンブレがモーセに反対したように,これらの人も真理に反対し続けます。彼らは考え方が完全に腐敗しており,クリスチャンの信条に従っていないので退けられています。彼らがこれ以上進むことはありません。ヤンネとヤンブレの場合と同じように,彼らの愚かさが皆に明らかになるからです。一方あなたは,私の教え,生き方,目的にしっかり従い,私の信仰,辛抱強さ,愛,忍耐に倣ってきました。そして,私がアンティオキア,イコニオム,ルステラで経験したような迫害や苦しみを知っています。私はそうした迫害に耐え,主はその全てから救い出してくださいました。神への専心を貫き,キリスト・イエスに従って生きようとする人は皆,同じように迫害を受けます。邪悪な人々や詐欺師たちは,惑わしたり惑わされたりしながら,ますます悪くなっていきます。あなたは,自分が学び,納得して信じるようになった事柄から離れないようにしなさい。あなたはそれを誰から学んだかを知っており,幼い時から聖なる書物に親しんできました。その書物はあなたを賢くし,キリスト・イエスへの信仰による救いを得られるようにします。聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます。それにより,神に仕える人は十分な能力を持つことができ,あらゆる良い活動を行う用意が完全に整います。



 ここで言うところの「終わりの時代の人々」とは使徒と長老たちのことです。異教徒のことではありません。パウロはやはりテモテに対して勧めの言葉を語っています。テモテ第二 3:1-17の意味はテモテ第二 2:20-21と同じです。それは同じ内容の繰り返しに過ぎません。

 では、原始キリスト教の社会にこのような状況をもたらした構造上の問題とは何でしょうか。
 それは簡単に言うなら、当時は電話もインターネットもなかったということです。当時のキリスト教社会は、背教者に関する情報を共有することができなかったのです。もしある会衆に背教者が現れて会衆から追放されても、その情報は遠くの会衆には伝わらないので、背教者はよその会衆に移動して居座ることができたのです。

 聖書にはその問題に対処しようとした痕跡があります。それがヨハネによる3つの手紙です。ヨハネの手紙は3通とも短く、手紙というよりは通達となっています。1通目は背教の問題について指摘し、2通目は背教者と関わらないように警告し、3通目はその名前を挙げています。どうやら、ヨハネは手紙によって背教者の情報を各会衆に通達する試みを始めたらしいです。
 しかし、これはうまくいなかったようです。これらの手紙はすべての会衆には宛てられませんでしたし、第三の手紙までで終わっています。この後、次々と同様の手紙が発行され、届け先も世界中の諸会衆に拡大していった、ということにはならなかったのです。当時は手紙を届けるということがたいへんな手間でした。そういうことはできなかったのです。

 ここで私たちにとって問題なのは、「現代のエホバの証人はこのような構造上の問題を持たないので背教についての原始キリスト教の教えは無視できる」と言えるかということです。
 言えないというのが答えです。というのも、すでに挙げた聖句に「終わりの時代に」ということが書いてあるからです。
 といっても、私がそう指摘するだけなら、きっとあなたは「そんな教えは受け入れられない」と言うでしょう。「どこにそのような背教があるんですか」とも言うはずです。そこで私が、その実例をエホバの民に示すことになりました。

 いま、私がこの文書によって示しているのが、その証明です。エホバの民の心が閉ざされているので、神は私にこの証明を提示する役割を与えてくださいました。
 パウロが終わりの時代に現れるだろうと予告した劣悪な長老たちは、いまエホバの民の中に大量に発生しているのです。






#73

 今日は母から手紙がありました。
 悩みましたが、いくつかの理由を考えて、そっくりそのまま載せることにしました。

 ひとつには、私がこの文書を書き始めてから今に至るまで、可能な限りすべてのことを完全に、議事録的に記録していることがあります。この方針を維持しないと、この文書の信頼性は下がり、文書の目的は果たせなくなるかもしれません。このような心配は、兄弟姉妹には特にわかると思います。というのも、私たちエホバの証人はいつもこう言うからです。私はすべての事情を知っているわけではありません。伝えられている内容は不正確かもしれません。話は聞きましたが、判断はしません。



◇ 2020年01月28日, 母から私への手紙 (表記等修正)

崇へ 母より

 崇、久しぶりです。尋ねることもできず、今に至っています。仕事、身体、どうでしょうか。
 「共に食事できた」と仲間から聞くこともあってほっとすることもありました。以前、大井兄弟と奉仕している所に出会って、嬉しく涙が出そうになりました。

 私は洋子のことがあってから、一年何ケ月も過ぎるのに毎日がごうもんのような日々に思えます。生きる事が、とてもつらいです。エホバ神と仲間の支えによって、やっと、暮らしています。身体もこわし、何度もほっさが出て車で病院につれていってもらっています。主人も、体調もよくなく、家庭があれて、今でもずっとたいへんなことが、多かったですが、今一番、分解しそうです。難しい状況、忍耐しなければならない事が多く、もう限界と思うことも、ありますが、苦しい時はこのようなものなんでしょうね。自分のことを中心に考え過ぎないよう、又、広く視点を広げ、一日一日をいっしょうけんめい生きようと、思っています。世界、仲間をみると、ほんとうに皆、色々な違った試練を持っておられます。今はこのような時代ですね。乗り越えられるようエホバに祈り力を得、なるだけ心配せず、平安でいたいと思います。どんな私でも、エホバが大切に思い、愛して下さっていることを強く認識し、信仰を強めてゆきたいです。

 先日、新しく来られた植竹兄弟と大井兄弟と、話がありました。まだ崇とは会えていないとのことでした。聖書をよく調べてネットにのせているようですね。その中に長老に対する批判があるようですね。多くの方の目にふれるものです。どう考えますか。

 エホバの民であっても皆、不完全な人間同士ですね。自分の身内のことを悪く言うのではなく、不足があっても、良く言いあってこそ、平和や一致に寄与しますね。私達が不完全な考えや思想を大きくするなら、他の人と自分を傷つけるのではと思います。不満を個人的に感じる事を公にすることとは違います。エホバに対して行っていることになりませんか。

 崇が、いくら色々、わかっていることがあったとしても、エホバより、又、想像された物の力や、神の愛には、とどかないと思います。今も、エホバの御意思は、目的にそって、すすめられています。私達は共働する者ですね。

 崇も、「個性の強い、集会出席できなくなっている、身体や心の様子など、知って、それでも、深く愛し、教え、永遠の命を与え、神の子供としたいと、大切に思い扱っておられること」を認め、感謝しているのではないでしょうか。

 私達は、他の人ではなく、自分を吟味し、エホバに導きを求めるべき低い者です。良い奴隷として、集会で学び、できる奉仕を心をこめて行い、エホバの行動される時を忍耐し喜んで待つ者ではないでしょうか。それを越えることも、不足のあることも、あってはなりません。私が洋子を産んだ時、小さい亮をつれて集会にいき、話されたことを私の枕もとで話してくれました。今も時々、思い出します。あの時は、ありがとう。私の人生でずっと、支えになってなっています。純粋な信仰を持っていた崇に励まされました。私達は不完全、状況も変わります。でも心を守ってゆきたいですね。エホバへのすばらしい信仰を、いつまでも持ち続けて下さい。

 広く広く、視野を広げるなら、崇の好きな、自然が、又動物や虫が、静かで、美しく、かわいらしく、おだやかです。ユーチューブには、膨大な宇宙の不思議、どんなに力を持たれる神か、科学の研究を通して、よくわかって、ときめくこともできます。又自分を見ると、理解力、判断力、喜ぶ心、など、そして戦争のない状況など、恵まれています。

 私達はエホバとイエスに信仰を持つものです。会衆の長老、統治体など見る必要がありません。不完全な人間を要(もち)いていて、不足があること、現実ではないでしょうか。あたりまえのことです。エホバが人間の不完全さに影響を受けることはありません。私たちも、人間から影響を受けて間違った考えを持つべきではありません。エホバの公正や力や愛が強いこと、信頼できます。

 知識は人を思い上がらせるとありましたね。しかし知恵は自分を他の人に、益を及ぼします。

 エホバ、イエス、仲間。愛し、協力していける私たちは幸いですね。

 十分、身体、気をつけて下さい。

母より。



コリント第一 8:1-3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,偶像に捧げられた食物について取り上げます。私たちは皆,知識を持っています。知識は人を思い上がらせますが,愛は人を向上させます。自分はあることについて知っていると思う人は,本当に知るべきところまでは知っていません。しかし,神を愛している人は,神に知られています。



 ことの認識が長老団のそれとだいたい一致しているように思います。つまり、長老団に対する批判をインターネットに載せたのは大問題だということです。母としても、長老たち同様、それ以外の論点は放置するつもりのようです。
 この手紙は長老団の指示によって書かれたものかもしれません。






#74

 さて、ここまで話が進んだところで [#72] 、私自身今日までかなり悩んできた、やっかいな疑問が出てくることになります。
 聖書は、そして聖書を生み出した原始キリスト教は、背教文書の扱いについてどのようなことを考えているのでしょうか。また、だれかが背教者の考えに反論することについてはどう考えているのでしょうか。

 エホバの証人の教理では、この疑問に対する答えは明快です。背教者の文書は一切読むべきではないし、反論しようと考えるべきでもない、というのがエホバの証人の正式な教理です。



◇ 「ものみの塔」誌 2004年2月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 背教者の主張を論ばくするには,彼らの述べることに耳を傾けたり文書を読んだりする必要があると考えるのは間違いです。背教者のねじけた有害な論法は,霊的な害を招き,急速に広がる脱疽のように信仰を汚染することがあります。(テモテ第二 2:16,17)むしろ,背教者に対する神の反応の仕方に見倣ってください。ヨブはエホバについて,「神の前には背教者は出られない」と述べました。―ヨブ 13:16。



◇ 「ものみの塔」誌 2012年5月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 エホバは罪を憎まれます。わたしたちもそうすべきです。悪行からはできるだけ遠ざかるべきであり,実際に罪をおかすことなくどれほど悪行に近づけるか,などと考えてはなりません。例えば,背教という罪に警戒する必要があります。背教に屈するなら,神の栄光を反映できません。(申 13:6-9)ですから,背教者や,兄弟であると主張しながら神を辱める人とは決してかかわりを持たないようにしましょう。家族の成員であってもそれは同じです。(コリ一 5:11)背教者や,エホバの組織に批判的な人たちの話を論駁しようとしても,益はありません。実際,文書であれインターネットであれ,彼らの書いたものを詳しく調べるのは霊的に危険なことであり,不適切なことです。―イザヤ 5:20; マタイ 7:6を読む。



 このような時、その根拠として頻繁に挙げられるのが、すでに挙げた [#71] ヨハネの聖句です。



ヨハネ第二 8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
よく気を付けて,私たちが働いて生み出したものを失わないようにし,十分な報いを得られるようにしなさい。キリストの教えを踏み越え,その教えに従い続けない人は皆,神と結び付いていません。キリストの教えに従い続ける人は,父とも子とも結び付いています。キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。あいさつの言葉を掛けるなら,その人の悪い行いに加わることになります。



 もし背教者の言葉に耳を傾けたりその文書を読んだりするなら、彼らを「家に迎え入れる」ことになるので、聖書の命令に反する、ということが言われています。私としても、これはそのとおりだと思います。

 もう一つ、テモテの聖句も挙げられます。



テモテ第二 2:14-19

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
これらのことをいつも人々に思い起こさせてください。言葉のことで争わないようにと,神の前で教えてください。そうした争いは聞く人たちに害を及ぼし,何のためにもなりません。自分を神に差し出して,良いと認められるように力を尽くしなさい。真理の言葉を正しく用いることができ,恥じることが何もない働き手になるのです。そして,聖なる事柄を汚す無駄話を退けなさい。そうした話により人々はますます神を敬わなくなり,彼らの言葉は壊疽のように広がっていきます。そういう人たちの中にヒメナオとフィレトがいます。この人たちは真理からそれていき,復活はすでに起きたと言って,ある人たちの信仰を損なっています。それでも,神が据えた強固な土台は揺らぐことがなく,次の言葉が刻まれています。「エホバはご自分のものである人たちを知っている」。「エホバの名を呼ぶ人は皆,不正を退けるべきである」。



 この聖句は背教者の教えを「退ける」ように教えています。これは背教者の話を聞かないことを意味しているように見えます。
 ところが、この記述には構造があります。テモテ第二 2:14-19はテモテ第二 2:23-26と組になっているのです。

 私はこのウエブサイトにて繰り返し、聖書を読むときには「構造」ということに注目しなければならない、と指摘してきました。構造について知りたい方はとりあえず、 コリント第一 7:21の項コリント第一 7:36の項 を読んでおいてください。

 テモテ第二 2:14-19と組になっているテモテ第二 2:23-26はこうなっています。



テモテ第二 2:23-26

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さらに,愚かで無意味な議論を避けなさい。そうした議論は争いを生むからです。主の奴隷は争う必要はありません。必要なのは,誰にでも穏やかに接すること,教える資格があること,不当な扱いを受けても自分を抑えること,好意的でない人たちを温和な態度で教えることです。もしかしたら神は,その人たちが悔い改めて真理の正確な知識を得られるようにされるかもしれません。そしてその人たちは,悪魔に捕らわれて悪魔の望み通りに行動していたことに気付き,本心に立ち返って悪魔のわなから逃れるかもしれません。



 この二つの句が同じことを述べていることに気づかれたでしょうか。
 ここの部分を構造で表記すると、A1-B1-A2-B2になります。Bの組み合わせは、すでに示したテモテ第二 2:20-21とテモテ第二 3:1-17です [#72] 。こういうとき、パウロは論点の共通性を明示するために構造を使います。AとBが付随して同じ振る舞いをすることによって、AとBは互いに、それが同一内容の繰り返しであることを証明するのです。



テモテ第二 2:14-3:17

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[A1]これらのことをいつも人々に思い起こさせてください。言葉のことで争わないようにと,神の前で教えてください。そうした争いは聞く人たちに害を及ぼし,何のためにもなりません。自分を神に差し出して,良いと認められるように力を尽くしなさい。真理の言葉を正しく用いることができ,恥じることが何もない働き手になるのです。そして,聖なる事柄を汚す無駄話を退けなさい。そうした話により人々はますます神を敬わなくなり,彼らの言葉は壊疽のように広がっていきます。そういう人たちの中にヒメナオとフィレトがいます。この人たちは真理からそれていき,復活はすでに起きたと言って,ある人たちの信仰を損なっています。それでも,神が据えた強固な土台は揺らぐことがなく,次の言葉が刻まれています。「エホバはご自分のものである人たちを知っている」。「エホバの名を呼ぶ人は皆,不正を退けるべきである」。

[B1]さて,大きな家には,金や銀の器具だけでなく,木や土の器具もあります。立派な用途のための器具もあれば,つまらない用途のための器具もあります。それで,後者のような人たちから離れている人は,立派な用途のための器具となります。神聖にされたもの,持ち主の役に立つもの,あらゆる良い活動のために用意ができたものとなるのです。ですから,若い時に抱きがちな欲望から逃れ,清い心で主に頼る人たちと共に,正しさと信仰と愛と平和を追い求めなさい。

[A2]さらに,愚かで無意味な議論を避けなさい。そうした議論は争いを生むからです。主の奴隷は争う必要はありません。必要なのは,誰にでも穏やかに接すること,教える資格があること,不当な扱いを受けても自分を抑えること,好意的でない人たちを温和な態度で教えることです。もしかしたら神は,その人たちが悔い改めて真理の正確な知識を得られるようにされるかもしれません。そしてその人たちは,悪魔に捕らわれて悪魔の望み通りに行動していたことに気付き,本心に立ち返って悪魔のわなから逃れるかもしれません。

[B2]このことを知っておきなさい。終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,自慢ばかりし,傲慢で,神や人を冒瀆し,親に従わず,感謝せず,不忠実になります。自然な愛情を持たず,全く人に同意しようとせず,中傷し,自制心がなく,乱暴で,善いことを愛しません。人を裏切り,強情で,思い上がり,神ではなく快楽を愛し,信心深く見えても実際には神を敬っていません。こういう人たちから離れなさい。その中のある男性たちは,人々の家に入り込み,弱い女性たちをたぶらかします。その女性たちは多くの罪を負っていて,さまざまな欲望に流されており,常に学びながらも決して真理の正確な知識を得ることができません。ヤンネとヤンブレがモーセに反対したように,これらの人も真理に反対し続けます。彼らは考え方が完全に腐敗しており,クリスチャンの信条に従っていないので退けられています。彼らがこれ以上進むことはありません。ヤンネとヤンブレの場合と同じように,彼らの愚かさが皆に明らかになるからです。一方あなたは,私の教え,生き方,目的にしっかり従い,私の信仰,辛抱強さ,愛,忍耐に倣ってきました。そして,私がアンティオキア,イコニオム,ルステラで経験したような迫害や苦しみを知っています。私はそうした迫害に耐え,主はその全てから救い出してくださいました。神への専心を貫き,キリスト・イエスに従って生きようとする人は皆,同じように迫害を受けます。邪悪な人々や詐欺師たちは,惑わしたり惑わされたりしながら,ますます悪くなっていきます。あなたは,自分が学び,納得して信じるようになった事柄から離れないようにしなさい。あなたはそれを誰から学んだかを知っており,幼い時から聖なる書物に親しんできました。その書物はあなたを賢くし,キリスト・イエスへの信仰による救いを得られるようにします。聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます。それにより,神に仕える人は十分な能力を持つことができ,あらゆる良い活動を行う用意が完全に整います。



 というわけで、A1をその対であるA2とあわせて読むと、「争うな」とか「退けよ」というような命令が、「背教者の言うことは聞くな」の意味では用いられていないことに気づかされます。この文が言っているのは、背教者とは穏やかに話し合え、彼らの教えに反論して彼らを救え、ということなのです。
 もし、A2の言葉が「背教者の言うことは聞くな」の意味であるなら、訳の分からないことになります。次のような場面を想像してください。テモテが背教者と話し合います。その様子はたいへん穏やかですし神の言葉を語ってもいるのですが、相手の言うことは全く無視するばかりで、反論して彼らの間違いを指摘することもないという感じです。お互いが相手に語っていますが、話し合いは決して成立しません。もしテモテがそんなことをしたとするなら、それはテモテが狂っているということではないでしょうか。

 そうすると「家に迎え入れるな」と述べたヨハネ第二 8-11のほうはどうなるのか、ということになりますが、この二つの聖句には決定的に異なる要素があります。テモテの聖句は教えの対象が長老ですが、ヨハネの聖句は一般信者が対象です。しかも、ヨハネの第二の手紙はこのような書き出しになっていて、この一般信者ということをことさら示しています。



ヨハネ第二 1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
年長の者から,選ばれた女性とその子供たちへ。私はあなたたちを本当に愛しています。私だけでなく,真理を知った人たち皆が,あなたたちを愛しています。



 原始キリスト教では、女性信者は全員が一般信者でした。こう前置きすることで、ヨハネはその禁止令がパウロの教えと矛盾しないようにしているのです。

 私の意見では、聖書は背教ということについていたって当たり前のことを述べています。つまり、一般の信者は背教を避けるべきだが、長老はそれに立ち向かえ、ということです。

 もし、一般の信者が背教者の言葉に耳を傾けたりその文書を読んだりして影響を受けてしまったらどうでしょうか。パウロが手紙の中でいろいろ書いているじゃないか、というのが答えです。使徒や長老には、背教の犠牲者たちを助けて毒抜きをしっかりと行う務めがあるということになります。

 とすると、どうでしょうか。今この時代に、エホバの証人の長老たちはこの務めが果たせているでしょうか。






#75

 上のようなことを指摘しましたので、一点はっきりさせておくことがあります。それは、聖書は背教文書についてまったく方針を述べていないということです。
 聖書が気にしているのは、背教者の教えと、背教者そのものだけです。

 聖書が背教文書について述べたかもしれないところを見てみましょう。すでに引用したテサロニケ第二 2:2です。



テサロニケ第二 2:2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神からのものに思える言葉や,口伝えの知らせ,また私たちから送られたかのような手紙により,エホバの日が来ているという趣旨のことを聞いたとしても,すぐに動揺して分別を失ったり,慌てたりしないでください。



 まず、ここで述べられている手紙とは何かということがあいまいです。それは背教文書かもしれませんし、そうでないかもしれません。そしてパウロは、それを真に受けるなとは言いますが、読むなとか捨てろとかいうことは言いません。
 これより具体的な記述は聖書にありません。

 聖書には、信者が異教の文書を焼き捨てたことが記されています。



使徒 19:18-20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
信者となっていた多くの人がやって来ては自分の行いを告白し,正直に告げるのだった。実際,魔術を行っていたかなり大勢の人が自分の書物を持ち寄って,皆の前で燃やした。それらは計算してみると,銀5万枚の価値があった。こうして,エホバの言葉は力強く広まって勢いを増していった。



 これはキリスト教に改宗した人がそれまで信じていた宗教の文書を捨てたということです。一方で聖書には、キリスト教徒が背教者の文書を焼き捨てたという記述はありません。

 学者たちは、原始キリスト教には大量の偽福音書と偽使徒書簡が出回っていたと指摘しています。しかも、彼らはこう続けます。原始キリスト教の指導者たちはこれらの問題に対して全く無頓着であった。
 この件に関する学者たちの見解ははっきりしています。原始キリスト教を担った指導者である、十二使徒、使徒たち、長老たちはみな、正典文書・偽典文書の問題を完全に無視したのです。






#76

 テモテへの手紙の中で「終わりの時代」の背教について書いたパウロは、遠回しな言い方を用いてそれを書きました [#72] 。しかし別のところではかなり直接的に書いています。



テサロニケ第二 2:3-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
誰にも,どんな方法によっても惑わされないようにしてください。まず背教が生じて,不法の者つまり滅びる者が明らかにされてからでなければ,その日は来ないからです。その者は,神と呼ばれているものや崇拝されているもの全てに逆らい,自分の方が上だと考え,ついには神殿の中に座って人々の前で神のように振る舞います。私が皆さんと一緒にいた時にこういうことを話していたのを,覚えていないでしょうか。皆さんは今,不法の者が定めの時まで明らかにされないよう,何が抑制力となっているかを知っています。不法のひそかな力はすでに働いていますが,それがひそかなのは,抑制力となっている者が除かれる時までのことです。その時になると不法の者が明らかにされますが,主イエスは口から出る力によってその者を除き去ります。自分の臨在が知れ渡る時にその者を滅ぼすのです。不法の者が存在するようになるのは,サタンの働きによります。不法の者はサタンの力によって,あらゆる強力な行い,偽りの奇跡,不思議なことを見せ,あらゆる不正な手段を用いて,滅びに向かう人々を欺きます。その人々が滅びるのは当然の報いです。救いをもたらす真理を愛そうとしなかったからです。そのため神は,彼らが欺きの影響を受けて偽りを信じるままにします。こうして彼らは皆,真理を信じないで不正を好んだために,断罪されます。



 ここでパウロは、大規模な背教が生じる理由として、「抑制者」がいなくなることを述べています。

 パウロはなぜこのような過激なことを語ったのでしょうか。理由は幾つかありますが、特に大きかったのはイエスが語ったたとえです。



マタイ 13:24-30, 36-43

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは別の例えを用いてこう言った。「天の王国は畑に良い種をまいた人のようです。人々が眠っている間に,敵がやって来て,小麦の間に雑草をまいて去りました。茎が伸びて実を生み出すと,その時に雑草も現れました。それで,奴隷たちが来て家の主人に言いました。『ご主人さま,畑にまいたのは良い種ではありませんでしたか。それなのに,どうして雑草が生えるのでしょうか』。主人は言いました。『敵の仕業です』。奴隷たちは言いました。『では,行ってそれを抜きましょうか』。主人は言いました。『いいえ,雑草を抜く時に小麦も一緒に引き抜くといけません。収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら,刈り取る者たちにこう言います。まず雑草を抜き,焼くために縛って束にし,それから小麦を倉に集めなさい,と』」。
それから,イエスは群衆を解散させた後,家に入った。弟子たちが来て,「畑の雑草の例えを説明してください」と言った。それでイエスは言った。「良い種をまく人は人の子です。畑は世界です。良い種は王国の子たち,雑草は邪悪な者の子たち,雑草をまいた敵は悪魔です。収穫は体制の終結で,刈り取る者は天使たちです。それで,体制の終結の時には,雑草が抜かれて火で焼かれるようなことが生じます。人の子は天使たちを遣わし,天使たちは,人に罪を犯させる人たちと不法なことを行う人たちを王国から取り除き,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。その時,正しい人たちは父の王国で太陽のように明るく輝きます。耳のある人は聞きなさい。



 イエスはこの教えを、さまざまなたとえを用いてかなりしつこく説いています。



マタイ 13:47-50

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
また,天の王国は,海に下ろされてあらゆる種類の魚を集める引き網のようです。網がいっぱいになると,人々は浜辺に網を引き上げ,腰を下ろして,良いものを入れ物に集め,良くないものを投げ捨てました。体制の終結の時にもそのようになります。天使たちは出ていって,正しい人の中から邪悪な人をより分け,火の燃える炉に放り込みます。彼らはそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。

マタイ 25:31-46

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人の子は栄光を帯びて,全ての天使と共に来ると,その時,栄光の座に座ります。全ての国の人々が彼の前に集められ,人の子は,羊飼いが羊をヤギから分けるように,人々を分けます。そして羊を自分の右に,ヤギを自分の左に置きます。それから王は,右にいる人たちに言います。『さあ,私の父に祝福された人たち,世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。私が飢えると食べ物を与え,喉が渇くと飲み物を与えてくれたからです。よそから来ると温かく迎え,裸でいると服を与えてくれました。病気になると世話をし,牢屋にいると訪問してくれました』。その時,正しい人たちはこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ,よそから来たのを見て温かく迎え,裸なのを見て服を差し上げたでしょうか。いつ,病気であったり牢屋にいたりするのを知って訪問しましたか』。王は答えます。『実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです』。それから王は,左にいる人たちに言います。『災いを宣告された人たち,私から離れ,悪魔と邪悪な天使たちのために用意された永遠の火に入りなさい。私が飢えても食べ物を与えず,喉が渇いても飲み物を与えてくれなかったからです。よそから来ても温かく迎えず,裸でいても服を与えず,病気であったり牢屋にいたりしても世話をしてくれませんでした』。その時,その人たちもこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか』。その時,王は答えます。『実のところ,これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです』。この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます」。



 さらにこのようにも言っています。



マタイ 7:13-27

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。一方,命に至る門は狭くてその道は狭められており,それを見つける人は少ないのです。羊のふりをしてやって来る偽預言者たちに警戒していなさい。その人たちは実際には,むさぼり食うオオカミです。その人たちは実によって見分けられます。いばらからブドウを,アザミからイチジクを集めることなどあるでしょうか。同じように,良い木は皆,立派な実をならせ,腐った木は皆,悪い実をならせます。良い木が悪い実をならせることはできず,腐った木が立派な実をならせることもできません。立派な実をならせていない木は皆,切り倒されて火に投げ込まれます。このように,その人たちは実によって見分けられるのです。
私に向かって『主よ,主よ』と言う人全員が天の王国に入るのではなく,天にいる私の父の望むことを行う人だけが入ります。その日には,多くの人が私に向かって『主よ,主よ,私たちはあなたの名によって預言し,あなたの名によって邪悪な天使たちを追い出し,あなたの名によって多くの強力な行いをしなかったでしょうか』と言います。その時,私ははっきり言います。『あなたたちのことは全く知りません。不法なことをする人たち,離れ去りなさい!』 それで,私のこれらの言葉を聞いて実行する人は皆,岩の上に家を建てた思慮深い人のようです。大雨が降って洪水が押し寄せ,風が激しく吹き付けても,その家は崩れ落ちませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また,私のこれらの言葉を聞いても実行しない人は皆,砂の上に家を建てた愚かな人のようです。大雨が降って洪水が押し寄せ,風が強く吹き付けると,その家は完全に崩れ落ちました」。



 ここで挙げたたとえについて、それはイエスによる世界の裁きにあてはまるという認識があったりしますが、それは正しくありません。イエスが教えているのは神の会衆に対する裁きです。

 イエスによると、神の民には背教が混ざり、収穫の時つまり終わりの時代になるとその正体を現します。
 イエスがこのようなことを教えているわけですから、パウロもその教えに賛同することになります。

 イエスがこのような教えを説いたのはなぜでしょうか。これにもいくつか理由がありますが、特に、メシア預言のこの言葉があります。



エゼキエル 9:1-10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それからその方は,私に聞こえるように大声でこう言った。「この都市を処罰する者たちよ,それぞれ破壊するための武器を持って,集まりなさい!」 見ると,北を向いている上の門の方から6人の者が,それぞれ打ち砕くための武器を持ってやって来た。彼らと共に,亜麻布の服を着て腰に秘書官のインク入れを着けた者がいた。彼らは入ってきて,銅の祭壇のそばに立った。すると,ケルブの上で輝いていた,イスラエルの神の栄光が,昇って家の戸口の所に移った。その方は,亜麻布の服を着て腰に秘書官のインク入れを着けた者に呼び掛け始めた。エホバはその者に言った。「この都市,エルサレムの中を巡りなさい。そして,この都市の中で行われているあらゆる忌まわしい事柄のために嘆き悲しんでいる人たちの額に,印を付けなさい」。またその方は,私に聞こえるように他の者たちにこう言った。「彼の後に付いて都市の中を巡り,人々を討ちなさい。あなたたちの目は彼らを惜しんではならず,あなたたちは一切同情してはならない。老人も,若者も,乙女も,子供も,女性も,全て殺さなければならない。ただし,印がある人には近づいてはならない。私の聖なる所から始めなさい」。それで彼らは家の前にいた長老たちから始めた。その方はさらに彼らに言った。「家を汚し,庭を死体でいっぱいにしなさい。行きなさい!」 それで彼らは出ていき,都市の中で人々を討った。彼らが人々を討っている間,1人残された私は,ひれ伏して叫んだ。「ああ,主権者である主エホバ! あなたはエルサレムに激しい怒りを浴びせ,イスラエルの残っている人たちを皆滅ぼされるのですか」。すると,その方は言った。「イスラエルとユダの国民の過ちは非常に大きい。この土地は流血に満ち,この都市は腐敗に満ちている。彼らは,『エホバはこの土地を捨てた。エホバは見ていない』と言っている。それで,私の目は彼らを惜しまず,私は同情しない。彼らに自分たちの歩みの報いを受けさせる」。



 ここではメシア預言の基本的なルールを思い起こす必要があります。説明は省きますが、ここで述べられている「エルサレム」は「キリスト教」を意味します。この聖句はキリスト教が神から残酷な処罰を受けることを述べています。
 「家の前にいた長老たち」という表現があります。昔のイスラエルの諸都市では、その都市の指導者たちが「家の前」つまり都市の門のところに座って、人々からの相談を受けたり裁判を行ったりしていました。天使はこの人を処罰して裁きを済ませたりはしません。なんと市民のほうもほとんど殺してしまいます。
 パウロはこのことをこのように言っています。



ローマ 9:27-29

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さらに,イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「イスラエルの子孫の数は海の砂のように多いが,残りの者だけが救われる。エホバは地上の人々に責任を問い,速やかにそれを終わらせる」。イザヤはこうも予告していました。「大軍を率いるエホバが私たちに子孫を残してくださらなかったなら,私たちはまさにソドムのようになり,ゴモラと同じようになっていただろう」。



 ここで言う「子孫」とは、大虐殺を生き残る人のことです。ほんのわずかな人だけが生き残るということです。

 では、少し話を戻して、パウロの言った「抑制」とは何かということを考えたいと思います。この聖書の言葉が今エホバの証人という宗教にあてはまるとして、その実体は何でしょうか。

 外形的な要素としては、このようなことを挙げることができます。



◇ 「ものみの塔」誌 2014年11月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 これまでの方法はこうでした。長老と奉仕の僕の任命に関係した推薦はすべて,地元の支部事務所に送られ,統治体によって任命された兄弟たちが推薦を検討し,任命を適宜行ないます。次いで支部事務所は,その任命について長老団に知らせます。それから長老たちは,新たに任命されたことを当人に伝え,その割り当てを進んで受け入れる気持ちがあるかどうか,また実際に任命を受ける資格があると思うかどうかを尋ねます。その後,会衆に任命の発表が行なわれました。
 ……(原始キリスト教)当時の任命がどのように行なわれたかについて,聖書は詳しく述べていませんが,……任命がエルサレムにいる使徒や年長者たちではなく,旅行する監督たちによって行なわれていたことは明らかです。
 エホバの証人の統治体は上記の聖書的な先例に倣い,長老と奉仕の僕の任命手順に調整を加えました。2014年9月1日以降,任命は次のように行なわれています。巡回監督は,巡回区内でなされた推薦を注意深く検討します。会衆を訪問する際,もし可能であれば,推薦されている兄弟と宣教で一緒に働き,その兄弟を知るようにします。巡回監督は,地元の長老団と共に推薦について話し合った後,巡回区内の諸会衆の長老と奉仕の僕を任命する責任を負っています。これは,1世紀の型にいっそう倣った手順と言えます。



 最近になって、組織(教団)とその統治体(最高機関)が長老を任命する手続きが廃止になっています。これは別の言い方をすると、組織は背教した長老を見つけても解任できなくなったということです。
 しかし、それよりはるかに重要な、内面的要素があります。それは会衆の良心です。もし、神の会衆を構成する信者たちの良心が強いなら、長老が小さな悪を行ったとしてもそれを大目に見たりはしないでしょう。しかし、最近は違います。このところのエホバの証人社会では、長老たちが少々の悪事を行ってもそれをとがめないばかりか従うことさえするという傾向が見られています。

 ペテロは、これらの教えを総括して「裁きは神の家から始まる」と述べました。加えて「義人はかろうじて救われる」とも言っています。



ペテロ第一 4:16-19

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし,クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば,恥じてはなりません。クリスチャンであり続けて,神をたたえてください。今は,裁きが神の家から始まる,定めの時です。裁きがまず私たちから始まるのであれば,神の良い知らせに従順でない人たちはどんな結末を迎えるでしょうか。「正しい人が辛うじて救われるのであれば,神を敬わない人や罪人はどうなるでしょうか」。ですから,神の意志に従って苦しみを受けている人たちは,引き続き善を行いつつ,信頼できる創造者に自分を委ねましょう。



 では、今この文書を読んでいるあなたがエホバの証人の一人であるとして、このことをどう思いますか。






#77

 聖書の予告どおり、実際に会衆内に背教者がいてその正体を現すことがあったら、会衆としてはどう振る舞ったらよいのでしょうか。
 すでに何度も指摘しているように、寺方会衆はまさに今、この問題に直面しています [#49], [#59] 。他の会衆でも同様のことは生じるのでしょう。そして、聖書によると、背教した長老に従う信者は神の裁きを受けて死ぬことになります。

 歴史を調べると、世の中には、人々が邪悪な指導者を支持し、その指導者がそそのかすままに皆で悪の道を突き進んだという事例がたくさんあります。そのような諸事例には不思議なところがあります。人間の心には良心というものがあるのにどうして彼らは邪悪な指導者を支持したのでしょうか。そして指導者が命ずるままに悪を実行できたのはなぜでしょうか。
 様々な人により、この疑問に対する答えを得ようとしてさまざまな試みが行われてきましたが、その中にこのようなものがあります。



◇ 「良心をもたない人たち」, マーサ・スタウト (表記等修正)

 一九六一年と六二年に、コネティカット州ニューヘヴンで、イェール大学の教授スタンレー・ミルグラムが驚くべき心理学実験をおこなった。ミルグラムは良心に逆らってまで権威にしたがおうとする人間の傾向を実証しようと考えた。

 ……実験では、おたがいに見ず知らずの二人の男が実験室にやってくる。記憶と学習にかんする実験とうたわれた、参加者募集の広告を見てきたのだ。実験者は、二人の男にこれは「学習における体罰効果」の実験だと説明する。二人のうち一人が「学習者」になり、別室に連れていかれ、椅子に座らされる。学習者は「よぶんな動きをふせぐため」と称して、腕を椅子に縛りつけられ、手首には電極がつながれる。そして二つの単語を組み合わせた言葉を記憶し、まちがえたら電気ショックをあたえられると言われる。まちがいをするたびに、そのショックが強くなるのだ。
 もう一人の男は、この学習実験で「教師」役になると説明される。教師役は学習者が椅子に縛られ、電極につながれているのを見せられたあと、別室に通される。そこには「ショック送電器」と名づけられた、大きくて不気味な機械がある。ショック送電器には三〇個のスイッチが横に並んでおり、それぞれに一五ボルト刻みで一五ボルトから四五〇ボルトまでの電圧が記されている。……学習者の答えが不正解だったら、教師はスイッチを押して電気ショックをあたえねばならない。実験者は教師役に、最低のショックからはじめて、学習者が一回まちがえるごとにショックの強度を一段階上げるよう指示する。
 ……教師が「学習テスト」を進めていくうちに、問題が生じてくる。学習者が、苦しそうな声をあげはじめるのだ。七五ボルトのところで学習者はうめき声をあげる。一二〇ボルトで、学習者はショックが苦痛だと叫ぶ。一五〇ボルトで、学習者は実験をやめてくれと訴える。ショックがさらに強まると、学習者の声はますます悲惨になり、二八五ボルトで、苦しそうな悲鳴を上げる。
 実験者は、ショック送電器の前にいる教師役のうしろに立ち、静かな声でときどき励ますような言葉をかける。「どうぞつづけてください」 「この実験では、もっと続ける必要があるんです」 「学習者がいやがっても、すべての言葉を正確に覚えるまで、あなたにやってもらわないと」。

 ミルグラムは同じ実験を、四〇人の被験者にたいしておこなった。すべて「日常生活では責任感も良識もそなえた」人たちだった。……実験の目的は被験者(教師役)が、ミルグラムという権威者に、倫理にもとる行為を強制されたとき、いつまで逆らわずにいられるかを調べることだった。悲鳴をあげて訴える者にたいして、たんに権威者から命じられたというだけで、どこまで電気ショックをあたえつづけられるだろうか。
 ……四〇人の被験者のうち三四人が、学習者がやめてくれと叫んだあとも、彼にショックをあたえつづけた。二五人が、実験者の言いつけに一度も逆らわず、別室の男がいかに懇願しようと叫ぼうと、最後(四五〇ボルト)までスイッチを押し続けた。



 このようなひどい結果がどうして生じてしまったのかということについては様々な考察があります。多くの人は、「権威」というものが人の良心を簡単に抑圧してしまうというメカニズムを考えるようです。しかし私としては、これはもっと単純な、「対立するにあたっての親近感」の問題であるように思えます。
 Aさんに、1番親しいBさんと2番目に親しいCさんがいたとします。するとAさんは、Bさんと対立することを恐れた結果必要に迫られるとCさんを殴ったり蹴ったりするようになる、というのが私の考えるメカニズムです。この実験の場合、権威者が現れて被験者のうしろに立つことにより、権威者が学習者よりも「親しい」と被験者に認識される状況が生じたので、被験者は権威者と対立することを避けようとしてボタンを押し続けたということになります。もし、学習者が被験者の家族であったなら、こういうことにはならなかったでしょう。

 この実験をエホバの証人の会衆に当てはめて考えてみると、どうなるでしょうか。指示を行うのは長老で、学習者と被験者はともに信者です。長老はこう言います。「これはエホバの組織の指示です」、「エホバに従ってください」、「エホバの愛を疑ってはなりません」。するとどういうことになるでしょうか。

 この実験の場合、一人、指示を拒否したうえでこのように言った人がいるとのことです。



◇ 「良心をもたない人たち」, マーサ・スタウト (表記等修正)

 終了後にミルグラムが、別室の男にショックを与えた責任はだれにあると思うかと彼に訊ねたとき、彼は実験者に責任があるとは言わなかった。かわりに、「責任はすべて私にあると思う」と答えた。



 この人はなかなか立派な人だと私は思います。ほとんどの人はこれほどの良心を持ってはいません。

 こういうことが神の会衆に起こると思うでしょうか。起こるというのが聖書の答えです。もう一度その言葉を見てみましょう。



テサロニケ第二 2:3-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
誰にも,どんな方法によっても惑わされないようにしてください。まず背教が生じて,不法の者つまり滅びる者が明らかにされてからでなければ,その日は来ないからです。その者は,神と呼ばれているものや崇拝されているもの全てに逆らい,自分の方が上だと考え,ついには神殿の中に座って人々の前で神のように振る舞います。私が皆さんと一緒にいた時にこういうことを話していたのを,覚えていないでしょうか。皆さんは今,不法の者が定めの時まで明らかにされないよう,何が抑制力となっているかを知っています。不法のひそかな力はすでに働いていますが,それがひそかなのは,抑制力となっている者が除かれる時までのことです。その時になると不法の者が明らかにされますが,主イエスは口から出る力によってその者を除き去ります。自分の臨在が知れ渡る時にその者を滅ぼすのです。不法の者が存在するようになるのは,サタンの働きによります。不法の者はサタンの力によって,あらゆる強力な行い,偽りの奇跡,不思議なことを見せ,あらゆる不正な手段を用いて,滅びに向かう人々を欺きます。その人々が滅びるのは当然の報いです。救いをもたらす真理を愛そうとしなかったからです。そのため神は,彼らが欺きの影響を受けて偽りを信じるままにします。こうして彼らは皆,真理を信じないで不正を好んだために,断罪されます。



 パウロはここで、背教した長老を「不法の者」と呼んでいます。「不法の者」は「滅びに向かう人々」を欺きます。これは会衆の信者たちのことです。
 しかも、パウロは何と言っているでしょうか。信者たちは騙されたのだから神が大目に見てくれるでしょう、とは言いませんでした。彼らが死ぬのは当然だ、神も助けたりなどしない、と断言したのです。

 では、いま寺方会衆の兄弟姉妹たちはどうすべきなのでしょうか。
 私のするべきことについては、イエスの次の言葉があります。



ルカ 17:1-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは弟子たちに言った。「信仰の妨げとなるものが生じることは避けられませんが,その経路となる人には災いがあります! その人にとっては,これら目立たない人1人の信仰を妨げるよりは,石臼を首に掛けられて海に投げ込まれる方がよいのです。注意していなさい。仲間が罪を犯すなら強く警告し,悔い改めるなら許してあげなさい。その人が1日に7回あなたに罪を犯し,7回戻ってきて『悔い改めます』と言うとしても,許さなければなりません」。



 私は確かにその言葉の通りにしてきました。イエスが教えたのは「背教者を救え」ということです。
 しかしイエスは、この言葉をもう一つの視点からも述べました。これが会衆のするべきことです。



マタイ 18:6-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし,私に信仰を持つそのような目立たない人1人の信仰を妨げる人は,ロバの回す石臼を首に掛けられて深い海に沈められる方がよいでしょう。世は,信仰の妨げとなっているので,災いがあります! もちろん,信仰を妨げるものが生じるのは仕方ありませんが,その経路となる人には災いがあります! そこで,もし一方の手か足があなたの信仰の妨げとなるなら,それを切り離して捨て去りなさい。片方の手や足を失って命を得る方が,両手や両足があるまま永遠の火に投げ込まれるよりは,よいのです。また,もし一方の目があなたの信仰の妨げとなるなら,それをえぐり出して捨て去りなさい。片方の目を失って命を得る方が,両目があるまま火の燃えるゲヘナに投げ込まれるよりは,よいのです。



 もし、あなたの会衆に背教した長老が現れたなら、たとえそれがあなたにとって目や手足のように大切な存在であったとしても、勇気を出して決別しなさい。そうしてあなたは自分の命を救いなさい、というのが聖書の諭しです。

 では、今の寺方会衆は、この聖書の言葉通りのことができるでしょうか。できないと私は思います。
 今、神の会衆の上にはパウロが述べた神の呪いがあります。この呪いによって、寺方会衆は悪の道を進むよりほかなくなるのだろうと私は思います。






#78

◇ 2020年02月09日, 私から大井一弘兄弟へのメール (誤記修正)

宮原です

 宮原です。

 前回の訪問があってから、もう2週間以上が過ぎています。
 集会への参加が妨げられている件についての説明の提出を待っていますが、どうなっていますでしょうか。
 私は説明の文書での提出を求めていますし、その際にあなたの同意も得られました。提出をよろしくお願いいたします。

 これについては、また同様のことを指摘することになります。あなたがこの約束を2週間以上放置したことは正しいことではありません。

 今日、私はあなたに、これまでとすこし異なる質問をすることにしました。それは「あなたはどう思いますか」ということです。
 これまで私は、あなたが重ねてきた邪悪な行いについて指摘するたびに、エホバがそれをどう思うか、ということにあなたの注意を向けてきました。というのも、私たちエホバの証人にとって善悪の基準はエホバだからです。ですから、エホバがあなたのことをどう思うかについて語れば、あなたの心も動くだろうと期待したのです。
 しかし、結果を見る限り、このような言葉があなたの心に達することはありませんでした。悲しいことに、あなたの心はエホバと共にはありません。それはあなたに連なる長老団も同じです。

 そこで、私は思いました。この人たちはこれだけの悪事を行った。エホバがどう思うかということは抜きにして、この人たち自身は、自分たちのやったことをどう思っているのだろうか。

 私は神経の症状に苦しんでいます。
 この問題が私に生じたのはあなたからの抑圧のせいでした。そして、症状が現れて以来、私はあなたにその症状を訴え続けていますが、あなたは私の訴えを無視し続けています。
 私がそのことに抗議したとしても、あなたの態度は同じです。完全に無視です。
 このような振る舞いをエホバがどうご覧になるかは明白です。でも、今はエホバを脇に置いておくとして、あなたは、それをどう思いますか。
 私の病気を無視し続けていることを、あなたはどう思いますか。悪いことだと思いますか。やってはならないことをしてしまったと思いますか。それとも、自分は何も悪くないと思いますか。あるいは、そんなことは自分にとって全くどうでもいいと思いますか。

 今、私に対してこのような振る舞いをしているので、さらに尋ねます。あなたはこれまでに、私以外の誰かに対しても、同じことをやったことがあるのではないですか。もしあるとすれば、その時のことを振り返って、あなたは自分のことをどう思いますか。相手の人について、あなたはその人のことをどう思いますか。

 私はお願いと懇願をしました。
 たとえを用いてそうしました。そのたとえはなにか架空のものではなく、実際にあったことをたとえの形にしたものでした。そして、その内容は、間違いなく確実に、私やあなたにあてはまります。しかも、それは私やあなたの周囲にいる人たちの命にかかわるのです。
 しかし、あなたはその願いを全く無視しました。私は、あなたに対して繰り返し、このお願いと懇願を無視するのではなく考慮するように求めましたが、それでもあなたは無視し続けました。
 あなたは、このたとえを読んで、どう思われましたか。ここに書いていることはそのとおりだ、とか、これは全く正しい、とか思われましたか。それとも、このたとえには何の価値もないと思われましたか。それに続く私の懇願については、あなたはどう思われましたか。その懇願には価値があると思いましたか。それとも、全く価値などないと思いましたか。

 あなたが私のお願いと懇願を無視しているので、さらに尋ねます。あなたはこれまでに、私がたとえを使って示した場面に実際に直面し、助けを求める人の声を無視したことがあるのではないですか。その人を助けずに放置したことがあるのではないですか。助けようとする人を脅してやめさせたことがあるのではないですか。もしあるのなら、その時のことを振り返って、あなたは自分のことをどう思いますか。相手の人について、あなたはその人のことをどう思いますか。

 私が神経の症状に苦しむようになったのは、あなたが私に対するいかなる約束も謝罪も拒否し、そのうえ、仲間の長老をかばって、長老に対してはいかなる謹慎処分も科さないと宣言したからです。
 あなたは、このような宣言を行った自分のことを自分でどう思いますか。正しいことをしたと思いますか。それとも悪いことをしたと思いますか。

 私が病気になったので、さらに尋ねます。あなたはこれまでに、同じようにして誰かを追い詰めて病気にしたことがあるのではないですか。そうして病気になった人に追い打ちを加えてさらに苦しめたことがあるのではないですか。では、その時のことを振り返って、あなたは自分のことをどう思いますか。あなたのせいで苦しんだ人に対して、あなたはどう思いますか。

 私は宣言と招待も行いました。それは、聖書に記されたイエスの言葉に基づく宣言と招待です。これもあなたは無視し続けています。
 あなたはどう思っていますか。私の宣言を聞いて、これは立派なことだと思いますか。強い信仰の表れだと思いますか。それとも、これはくだらないことだと思いますか。
 招待のほうはどうですか。あなたはそれを受けて、これは素晴らしい招待だと思いましたか。それとも、まったくばかばかしいと思いましたか。

 ここで、私はひとつ、あなたやその長老団の正体を暴露しなければなりません。
 それは、あなたたちが今回やったことは「隠蔽」ということにほかならないということです。
 当初、私が訴えを起こしたとき、あなたたちはそれを引き延ばそうとしていました。というより、無視したというのが正しい言い方です。私が催促をしなければ、あなたたちはこの問題を無限に引き延ばしていたでしょう。それがあなたたちのやり方です。私が催促を繰り返すと、あなたたちは見かけ上は問題を扱うようになりましたが、それでも実際には問題をうまく回避しようとしていました。
 すでにあなたたちは児童虐待の問題を隠蔽し続けていました。そしてまた、今回も同じようにしてそれを隠蔽しようとしたのです。
 しかし今回は異なる展開がありました。あなたたちの悪は暴露されたのです。隠蔽と、隠蔽のための努力が記録の形でネット上に公開されたと知ると、あなたたちはその情報をなんとかして消去してしまおうと奮闘し始めました。本来扱うべき問題はそっちのけにしてです。それまであなたたちは私のことをやんわりと無視していましたが、もはやなりふり構わず徹底して無視するようになりました。
 あなたたちは、いかにも正義感の強い立派な人間に変身すると、もっともらしく私に言いました。あなたが背教者の問題を扱うウエブサイトを作っていることは正しいことではありません。長老団はそのような行為に一切同意できません。さらにあなたたちは、思いやりのある人間に変身して、私に言いました。長老団はあなたが背教者の悪影響を受けることを心配しています。長老団は、あなたのせいで会衆の兄弟姉妹たちが背教者の教えにさらされることを心配しています。
 しかし、それらの言葉は真実ではありません。
 あなたたちが考えていることはただ一つ、自分たちに対する告発をネット上から消去してしまうことです。それは「隠蔽」です。
 私が集会から締め出されたことも、隠蔽です。表向き別のもっともな理由を掲げたとしても、実のところその本質はあからさまです。あなたたちは自分たちが二枚舌を器用に使う偽善者であると暴露されることを防ごうとしているのです。それがあなたたちの正体だからです。

 そこで、私はあなたの心に問います。あなたはこのことをどう思いますか。会衆内の深刻な問題を隠蔽してきたことをあなたはどう思いますか。今になってもまだ隠蔽しようとしていることをどう思いますか。隠蔽が暴露されるとなりふり構わずそれを消し去ろうとしたことをどう思いますか。もはや私のことなど全く気にしなくなったことをどう思いますか。暴露をやめさせようとして私に言いがかりをつけ、私を迫害したことをどう思いますか。さらなる暴露に直面しないために私を集会から締め出したことをどう思いますか。

 どうなのでしょうか。私の言葉はあなたの心には決して到達しないのでしょうか。
 そのようなことはないはずです。あなたにも心があります。
 実のところ、あなたがそれを知っているように、私もこのことを知っています。つまり、あなたには理解する十分な知的能力があり、私が語ったり書いたりしたことはみな、そしてあなたが私にしたことについても、完全に理解しているということです。あなたに理解力が不足しているなどということはありません。知識や経験が足りていないということもありません。
 あなたが私に対して罪を犯すとき、それがあなたに自覚できないということはありません。あなたが私のことを無視するとき、それがどういうことかあなたには理解できないなどということもありません。すべてはあなたの心によって理解されているのです。

 もちろん、あなたは、自分がどこにいるかも、どこに向かおうとしているかも知っています。

 そこで私はあなたの心に語りかけます。
 いまあなたを取り囲んでいる者たちはあなたにとってよくありません。
 それはあたかも、あなたの悪はあなた一人では足りないと言っているかのようです。もしかするとあなたは悪の道を踏み外してしまうかもしれないのでそうならないように支えてあげよう、というわけです。
 特に、植竹史雄兄弟、この人は危険な存在です。
 私が見たところ、この人はある種の殺人者です。彼は、兄弟姉妹を真理から逸脱させ、偽の真理すなわち背教へと誘い、最後には多くの者たちを巻き込みながら自らも悲惨な結末に至る者です。彼はあらゆる人にとって危険な者ですが、とりわけあなたにとっては致命的です。なぜなら、彼はあなたに罪を実行させるからです。そして、ひとたび罪を実行したら、もうその罪から引き返せないように仕組んでもいます。こうして、あなたは罪の奴隷になります。これまであなたは自分の力で罪を犯してきましたが、これからは彼の操り人形になるのです。

 私自身の思うところでは、私にとってはもちろん、あなたにとっても、残された時は短くなっています。
 ぜひ、あなた自身の心でわきまえてください。このことの終わりはもうすぐ来ることになります。そのとき、私もあなたも共に、神の道に立ち返り、生きていなければなりません。






#79

 ここしばらく、長老たちからの言いがかりによって必要に迫られたせいで、聖書の述べる背教とは何かということについて書く流れとなりましたが [#71], [#72], [#74], [#76], [#77]テモテ第一 3:11の項 にて、だいたい同じことを異なる視点から解説しましたので、そちらも参照してください。この論点がよく解るようになると思います。






#80

 さて、このような状況に至ってしまいましたので、ここでまた、組織に対して新しい提言をしたいと思います。
 組織は、信者たちに対する全国レベルの調査を行い、次のような経験がある信者に報告を求め、その実態を確認してください。

○ ある信者が、長老の言動に問題があることを発見し、(そのような場合に実施するよう聖書が義務付けている)対話と説得を試みたところ、長老から「それは長老に対する反抗だ」と言われた。

○ ある信者が、長老が職務を怠っていることに気づき、(手厳しく非難することもできるがここは親切なやり方で済ませようと思って)改善のお願いをしたところ、長老から「長老に対する不平不満を募らせるのはエホバに対する不敬だ」と言われた。

○ 長老が問題行動を起こしたので、その被害者である信者が謝罪を求めたところ、「それはエホバとその組織に対する敵対行為だ」と言い返された。

○ そんな長老に対して「それはおかしいんじゃないですか」と言ったところ、「聖書は長老の助言を繰り返し無視した者に厳しくするよう指示している」、「聖書は長老に対して繰り返し反抗する者に制裁を加えるよう指示している」という説明を受けた。

○ このようなやり取りについて会衆の兄弟姉妹に相談したところ、長老から「あなたは長老に対する不満を会衆内にばらまいて会衆を分裂させているので断固とした処置を取らざるを得ない」と通告された。

○ それでも筋を通して長老に話を聞いてもらおうと努力したところ、長老から『話し合い』に呼び出されてしまった。話し合いの場で長老は、たいへん親切そうな表情と言葉遣いを使い「私はぜひともあなたの助けになりたいと願っています」と白々しいことを言った。長老はその信者を“悪魔サタンの反抗の精神に汚染された人物”、“ぜひとも悪魔サタンから救出しなければならない人物”として扱い、聖書からの「謙遜」や「従順」の教えをしきりに説いて態度を改めさせようとした。そのうえで長老はこのように言った。「エホバは愛のある神ですから、あなたのような罪のある人であっても、悔い改めるなら喜んで赦してくださいます。でも、このようにしてエホバから差し伸べられる救いの手をあなたが払いのけるなら、エホバはその人を容赦されません。あなたは会衆から追放されることになります」。

○ ついに長老は、その信者が“背教者”であるという嫌疑を持ち出し、この人は“危険人物”であるという情報を会衆内に流布するようになった。こうして、その信者は仲間の信者たちから避けられたり無視されたりするようになった。

 こういった話があちこちにあるということは、エホバの証人社会の間では公然と知られた話となっています。自分が反省したり謝罪したりすべき状況なのに、逆に信者を威圧し黙らせるという醜悪な長老があちこちにいるのです。
 そのことを「おかしいじゃないか」と言う信者もたくさんいますが、その人もまた同じ危険にさらされることになります。
 ときにこの種の不品行が会衆内での大きな騒動に発展することもありますが、結局のところ信者たちは、右往左往した挙句に長老と対立しない選択をすることになります。問題は封印され、問題を取り上げた信者や被害者は放置されることになります。
 話がこじれにこじれまくった挙句に排斥(公式の追放処分)になってしまった人もいるのではないかと思います。

 この文書で扱っている私の事例においても、このことはあからさまです。
 大井一弘兄弟と山下義人兄弟の訪問があって“長老たちに対する不信感”について話し合いたいと言われたことがありました [#14] 。この時私は、長老が犯したいくつかの不品行について「それによって傷つく人もいるわけですから、そんなことはもうしないと約束してください」というようなことをお願いしていました [#02], [#10], [#13] 。ところがこの時、長老たちは「あなたは長老たちに不信感を抱いている」ということしか話しませんでした。自分の罪状について一切触れることなく話を進めるのは、この手法の典型的なパターンというものです。そして長老たちは終始一貫して、現在に至るまで徹底して、自分たちの罪状を無視してきました。協会が再調査を指示したという話 [#62], [#65] は私を呼び出すための嘘だったようですし、しかも、呼び出した目的は「あなたが背教者の考えを広めている問題について話し合う」ことだったと言っています [#69] 。この背教者云々の話も、私が20年間このウエブサイトを運営して特に大きな問題とならなずに済んでしまった話 [#71] で、それがなぜ今になってこうも問題にされるのかと問えばその答えはあからさま [#39], [#40] だったりします。
 ようするに、長老たちは初めから今に至るまで一貫して、自分の罪状を回避し、そのために私の口を封じようとしているのです。

 さらに私が問題だと思うのは、こういう手法を長老が採るところでは、どこからともなくその手法を指導する人物が現れるということです。私の場合は植竹史雄兄弟です。こういった人たちの努力のおかげで、この手法は長老たちの間にかなり普及しています。

 この指導における極めて特徴的な要素は、話術です。いま長老たちの間には『私はいかにもあなたのことを気遣っているように見えます話法』というようなあやしい話術が普及していて、このような手法を実践するためのテクニックとして積極的に用いられています [#65], [#69]
 私は、エホバの証人の長老たち以外の人がこういう話術を使うのを見聞きしたことがありません。これは普通の感覚からすればあまりに異常です。話すにあたっての抑揚のつけ方とか笑顔の作り方といったものが健全性の範囲を大幅に逸脱しています。こういう話し方をする長老を目の当たりにした人は得体のしれない怖ろしさを感じるはずです。大井一弘兄弟も、植竹史雄兄弟の指導を受け、彼と一緒に練習までして、それでああいう話し方をするようになったのだと思います。

 私としては、この手法とそれを使う長老に関わる問題は割と簡単に根絶できたと思います。というのも、この問題を指摘する声はエホバの証人社会内に常に存在してきましたし、問題自体もあからさまだからです。組織がこれらの告発に耳を傾け、長老に処罰を加え、規則を作ってそれを禁止し、見たら通報するよう信者に義務付ければ、この問題はすぐにも一掃されたでしょう。しかし、組織はそれを行いませんでした。今となっては、溜まりに溜まったつけをどうするかを考えなければならないという有様です。特に被害者たちの救済をどうするかを考えなければならないでしょう。
 このような状況では、まずは全国調査を行う、ということが妥当な打開策であると私は思います。これは基本的に「隠蔽」に類することですので、対処するにあたっては「もう何も隠さない」方向でやっていく必要がある、ということもあります。






#81

 ここで、誤解がないようにすることも必要だということで、しばらく前に書いた“謝罪もどき” [#20] の話をしたいと思います。

 この謝罪もどきの問題については、エホバの証人社会が抱える多くの構造上の問題についてそうであるように、昔から、それを指摘する内部の声というものがあります。もちろん、組織はその声を聞くべきです。

 「謝罪もどき」については、私がこの提言を書く少し前に、教材の中にこのような記述がありました。



◇ 「ものみの塔」誌『研究用』2017年10月号, ものみの塔聖書冊子協会

 平和な関係を保つ。わたしたちは,誤解されたとか不当に扱われたと感じる時にも,兄弟たちとの平和な関係を保つためにできる限り努力します。(ローマ 12:17,18を読む。)だれかの感情を傷つけてしまった時には,謝るべきです。でも,心から謝らなければなりません。「そのように感じさせてしまったのなら,ごめんなさい」と言うよりも,自分の間違いを認め,「傷つけることを言ってしまって,ごめんなさい」と言うほうがよいでしょう。



 組織が謝罪もどきの問題に言及しているように見えます。ただ、自分が悪いことを認めることが説かれているとはいえ、代わりに勧められている謝り方は謝罪もどきの修正版に過ぎないようにも見えます。

 この文書だけだと、これは内容が薄いうえに単発でしかない、こんなのは偶然の産物だ、ということが言えるのですが、2020年の1月になって、このような記述が出てきました。



◇ 「若い人は尋ねる ― 謝らなきゃダメですか」, jw.org

 誠実に謝る。「そんなふうに感じさせちゃってごめんね」は謝っていることにはなりません! 「自分が悪かったと素直に認めるなら,相手も見直してくれると思います」とジャネルは言います。



 同じ教えが繰り返されました。私の知る限りでは、これらはエホバの証人文書におけるこの種の記述の1例目と2例目になります。
 もしかすると今後は、謝罪することの大切さを説く教材ではこのような指導が繰り返されるのかもしれません。

 今のところ、これらの指導によるエホバの証人社会の意識改革ということは生じていません。このことは寺方会衆の長老たちの言動からも明らかです。一度ノウハウとして社会全体に定着してしまったものですから、今見た程度の指導で払拭できる見込みはまったくありません。
 これは、私が提言で述べたように「規則化」してしまうか、長期にわたって同じ教えを繰り返すしかないと思います。

 いまエホバの証人社会には“平気で嘘をつくエホバの証人”とか“平気で嘘をつく長老”といった人たちの問題が増えつつあると私は思います。そしてその要因はたくさんあります。謝罪もどきはその一要素に過ぎません。組織には私を含めていろいろな方が指摘したり提言したりしたことをもっと意欲的に聞いていただきたいと心から願います。






#82

 今日は玄関に母からの書き置きがありました。



◇ 2020年03月05日, 母から私への書き置き (表記等修正)

崇へ

 仕事、うまくいっていますか。
 身体のほう、どうですか。
 何か、つらいことがあったのでしょうか。
 昔のことを思い出し、考え、色々と心が乱されているのではと心配です。
 エホバ神を離れては何も希望がありません。
 今は忍耐の時ですね。
 結果をよく考えて何ごとも行って下さい。
 恵まれた状況にある人も、恵まれず、つらい状況の人もいます。
 神は、すべてをご存知ですし、一人一人を大切に貴重なものとみて下さっています。
 優しく、礼儀正しく、まじめな崇であること、私を含め、皆も、認めています。
 仲間の10の内、8良くて、2悪いとしても、8をみていきましょう。
 コロナウイルス、たいへんで、集会はないようです。
 霊の働くところに身を置くよう努力して下さい。
 十分、御身体に気をつけて、平安の内に過ごして下さい。

母より

 デンワ、通じず、奉仕の帰りによってみました。



 はっきりとはしませんが、どうやら、私が集会から締め出されていることに言及しているように思います。前回の手紙 [#73] と併せて解釈すると、私が長老や統治体に不満を抱いていて、そういう態度を改めなければ集会には参加させてもらえない、ということを言っているのかもしれません。
 それ以外の論点は引き続き無視されているように思います。

 書かれているように、コロナウイルス流行への対応により、集会が取りやめとなっています。15日の巡回大会もとりあえず中止です。

 少し前に書いていますが [#78] 、私の個人的見解では私たちにはもう時間がありません。長老たちは態度を変えませんし、母もこんな調子です。すでに見込みは非常に薄いように思います。






#83

 私は母から「おかあさんだいすき」と言う訓練を受けるようになりました。

 こんな具合です。母が他人の役をしてこう質問します。崇君のお母さんは崇君に優しくしてくれますか? すると私は、とっても嬉しそうな表情をし、とっても嬉しそうな声で、「うん」と言わなければなりません。
 いろいろなパターンがありました。お母さんの作ってくれるご飯はおいしいですか、とか、お母さんは身の回りの世話をよくしてくれますか、などです。
 この訓練では、食事を食べさせてくれるということと服を着させてくれるということを言うことが特に重んじられました。それは私が、母がぼくを無理やりハダカにするとか食事を与えてくれないという話を繰り返したからです。

 もし、これがうまくできなかったら、殴られたり、食事を与えられなかったり、無理やり服を脱がされたり、最悪の場合は首を絞められたりすることになりましたので、私はとにかく必死になって、うれしそうな顔をし、うれしそうな声を出して、母から教えられたとおりに振る舞わなければなりませんでした。

 母は私にこう言い放ちました。これは山出兄弟と姉妹が私にこうしろと要求したからやっているんだ。私はこんなことはやりたくないが、要求されたから仕方なくやっているんだ。だから、悪いのは私ではなくて山出兄弟姉妹だ。恨むなら山出家を恨め。






#84

 昨日、会衆の長老団からの通達が届きました。
 手紙の日付は12日ですが届いたのは13日です。



◇ 2020年03月13日, 守口市寺方会衆長老団からの通達

大阪府守口市寺方会衆
570-0083 大阪府守口市京阪本通2-3-4

2020年3月12日
守口市寺方会衆

親愛なる宮原崇兄弟

児童虐待についての訴えに関して

 新型コロナウイルス感染症に関する報道が続いていますが、お元気でお過ごしでしょうか? 本日は兄弟がこれまで訴えてこられた児童虐待の問題について、書面の形でお詫びとお知らせをお伝えいたします。

 寺方会衆長老団は兄弟が訴えておられる児童虐待の問題の扱いに関して、長期間にわたりそれが解決まで至っていないことをお詫びいたします。申し訳ありません。

 そして、長老団は宮原崇兄弟に対して重大な罪が犯された可能性があることを認めます。ものみの塔2019年5月号研究記事19「愛と公正 邪悪な世において」14節には「長老たちは、被害者や被害者の親や虐待に気づいた人に、当局に通報する権利があることを知らせます。」と書かれています。それでこの書面を通し、長老団は宮原兄弟が訴えておられる児童虐待の件に関して、この件を当局に通報する権利が宮原兄弟にあることをお伝えしたいと思います。

 宮原兄弟もご存じの通り、同じ研究記事の16節には次のような一文がありました。「訴えている人以外に証人がいないとしても、その人の訴えが真実ではないとは言えません。2人の証人がいないために悪行が立証されないとしても、長老たちは、心を深く傷つけるような重大な罪が犯された可能性があることを認めます。傷ついている人を継続的に支え、慰めます。また、会衆の人たちに危害が及ばないよう、訴えられた人をよく見守るようにします。」長老たちはこの記事のすすめに従って物事を扱いたいと希望しています。

 今後、コロナウイルスの影響がどこまで拡大するかわかりませんが、くれぐれもお体に気を付けてお過ごしください。

温かいクリスチャン愛と共に
守口市寺方会衆長老団



 この書面の内容は、すでに私から、長老たちはこれからこれをやらなければならないと指摘済みのものです [#03]

 前向きに評価できるとは思いますが、今になってそれはないだろう、というところもあります。

 これだけ話をこじらせ、その過程で多くの重大な罪を犯し、告発を受けたうえ、これは背教だと断罪される事態にまでなったのに、要求された謝罪や約束といったものを全てすっとばして話を巻き戻し、それでこのような手紙を送ってきたとなると、私としてはそれを評価したいという気持ちはあるのですが、当面は保留、後回しにするしかないと思います。この手紙は、長老たちが今、今ですね、今やるべきことを今きちんとしてから、内容の吟味と検証、そして正式な受け取りに進めたいと思います。






#85

 通達を受けてから1週間が過ぎました。
 私としてはこの通達を前向きに受けたいと思ってはいるのですが、今の状況では、そのまま受けるというわけにもいきません。今私は受け取りを保留しています。一方、長老団としては私の期待に応えるつもりは毛頭ないようで、何もなく1週間が過ぎてしまいました。
 そこで、このままだとこの通達の何がどう問題になるかということのひとつを指摘したいと思います。

 話すにあたって、私の心情ということを言っておきたいと思います。長老団は、やるべきことをまずしてから、このような通達を行うべきでした。それをせずにこのような通達を行ったとなると、いろいろと問題が生じてしまいます。しかし私としては、そのような問題をむやみに取り上げたいという気分ではないのです。ですから、今からでも、長老団がするべきことをするようであればということを願うのです。
 ひとつ話すと私が言うのは、少なくとも今は、長老団の罪を断罪するためではなく、長老団に今するべきことを促すためです。私はこのことを、私だけでなく寺方会衆の長老団にとっても、エホバからの深い愛と気遣いの表れであると考えています。邪悪で罪深い者がまさに罪を遂げようとし、そのせいで弱者が倒れようとしている時でさえ、エホバは愛にあふれておられて、邪悪な者に救いの手を差し伸べるのです。
 そのようなわけで私は受け取りを保留しているのです。

 今回の通達では、長老団は一見して私の体調のことを気遣っているかのような言葉を繰り返し書いています。コロナウイルスがどう、というくだりですね。くれぐれもお体に気をつけて、と言っています。しかし現状では、これは果たして気遣いなのだろうか、と言わなければなりません。というのも、私は自分が神経の症状に苦しんでいることを繰り返し執拗に訴えており、長老団はその訴えを徹底して無視し続けているからです。しかもこの症状は、長老が私を抑圧したことに起因しています [#30], [#32], [#33], [#37], [#43], [#59], [#60], [#63], [#65], [#69], [#78]
 もし長老団が、この私の訴えを無視したりせず、ちゃんと聞いて、自分たちの罪を認め、謝罪し、和解した後、神経の症状はどうですかと気遣い、さらに続けてコロナウイルスはどうですかと言うのでしたら、それはとても良いことだと思います。しかし、そのような善良な振る舞いなど微塵もなく、神経の症状についての私の訴えを無視したままこのようなことを言ったとなると、どうでしょうか。これは、この人たちはあまりにも私を馬鹿にしている、馬鹿にするにもほどがある、あまりにも屈辱的で我慢できかねる、ということになるのではないでしょうか。

 繰り返して私の心情を吐きたいと思いますが、私としてはこのようなことを長老団に対して言いたいという気分ではないのです。とはいえ、すでに生じてしまった諸般のことがありますから、言いたくないことでも言わざるを得ず、現に言ってきたというところがあります。今回、私は相当に自分を抑え、長老団に再度、もう何度目になるかわからないくらいですがまた再度、エホバからの愛の手を差し伸べているのです。

 直接的な言い方はしていませんが、長老団はまたしても、私と面談することを求めています。しかも今回は、私を「支え、慰めたい」と言っています。これは、一見してたいへんよさそうなことに思えますが、私の訴えを無視し続けながらというのはどうなんでしょうか。
 私は、長老が要求する面談にいずれは応じたいと心から願っています。しかし、長老団が私の訴えを全く無視し続ける状態でこのような面談に臨むと、このような会話が行われることになるかもしれません。

「宮原兄弟、今日は長老団との面談に応じてくださって心より感謝しています。長老団は宮原兄弟のことを心から気遣い支えたいと願っています。ところで最近はだんだん暑くなってきていますがお体は大丈夫でしょうか。会衆の兄弟姉妹の中には暑さで倒れてしまった方もおられます。宮原兄弟はお体をどのように気遣っておられるでしょうか。」
「私は今神経の症状でとても苦しんでいます。その症状はこれこれこうで、毎日の生活がとてもたいへんです。私がこうなってしまったのはあなたたちのせいですので、この問題について話し合う必要があります。」
「宮原兄弟、私たち長老団は宮原兄弟の体調のことを心から心配しています。最近はコロナウイルスの蔓延についても連日騒がれていますが、宮原兄弟はいかがでしょうか。」
「私は神経の症状について話し合いたいと言っているのですが。」
「宮原兄弟はいろいろと体調が悪いのに、誰に対しても不平不満を言わず、毎日努力してその苦しみを忍んでおられると聞き及んでいます。長老団としては、兄弟の強い信仰にはいつも励まされているんですよ。」
「私は神経の症状について話し合いたいと言っているのですが。」
「宮原兄弟、私たち長老団は、宮原兄弟が書かれた文章を読んで、宮原兄弟の心の中にある苦しみを知り深く同情しています。ですから、宮原兄弟の苦しみが少しでも和らぐよう、今からあなたと一緒にエホバに祈りたいと思います。今からエホバへの祈りを捧げますので、宮原兄弟もぜひ祈りに加わってください。」
「その祈りには、私が神経の症状で苦しんでいることや、その原因が長老団にあるということも含めていただけるのでしょうか。」
「では一緒に祈りを捧げましょう。」

 私がどうしても気にかけざるを得ないのは、神経の症状が出ている私が現状の長老団と面談したりすると、彼らによって一撃で精神を破壊されかねないということです。私はすでに、この種の殺人行為に長老団の注意を喚起しています。これまでこの種の殺人行為は行われてきたとか、あなたたちもやったことがあるに違いないとか、いまや私が殺されてしまいそうだ、ということを言いました [#30], [#59], [#60], [#70] 。しかし、長老団はこの指摘も無視し続けていて、そればかりか、私に対してやるき満々であるようにさえ見えます。彼らは見かけ上の善良さを固守しつつ私に致命傷を負わせようとしているようです。

 さすがに、私はこんな殺人行為の犠牲者にはなりたくないです。それに加え、このような狂った長老たちによって人生を破壊されてしまった兄弟姉妹たちがいることを思うと、心が休まりません。今、エホバの証人社会内では、これほどまでに残酷なことがあちこちで半ば公然と行われていて、それをとがめる者はなく、犠牲者は放置され続けているのです。

 長老が引き続きやるべきことをやらないようだと、私も引き続きこのような指摘を書き加えなければなりません。もちろんこれは勧めというものです。しかし長老団が応じなければ、やがてこの勧めは断罪になってしまうことでしょう。
 せっかく、少なくとも一つの点では好意的に見ることのできる通達というものを書いてよこしてきたのですから、彼らには一歩ずつでも前に進んでほしいと私は心から願います。






#86

 続いて、ここに書かれている謝罪 [#84] ははたして謝罪と言えるのか、ということを指摘したいと思います。

 長老たちがすでにこの件をこじらせまくっているという事情があります。そのため謝罪に関する私の要求は手厳しくなっていて、「この件に関わった三代の主催監督全員がそれぞれ書面にて謝罪を書いて私に提出してください」と言うまでになっています [#05] 。私としては、これは諸事情を考えると全く当然のことだと思うのですが、寺方会衆の長老団はそれを拒否し [#26] 、今に至るまで拒否したままです。そのうえでこんな軽い内容の謝罪を持ってこられても、それを私が受け取るということにはならないでしょう。謝罪をするというなら、状況に応じた謝罪が必要です。

 そもそもの話、先に指摘したことと重なりますが [#85] 、物事には順番というものがあります。もし長老団が、これまで私に対して容赦なく浴びせてきた非礼な振る舞いの数々を恥じて謝罪し、それらについての私の許しを一度得たうえで、あらためて初めからこの問題の扱いをやり直したいと申し出、それでこのような謝罪をするのでしたら、それは良いことだと言えます。すでに私はこう言っています。「私としては、この問題をもう一度最初からやりなおすということがあってもいいとは思います。しかし、そのためには少なくともいくつか、長老の側にやるべきことがあります。あなたはその要件をひたすら無視し続けるのではなく、わきまえるべきです。」 [#43] しかし、そう言われているにもかかわらずその言葉を無視してこのような謝罪を持ってきたとなるとどうでしょうか。寺方会衆の長老団は話を巻き戻すことによって自分たちの罪をなかったことにしようとしているに違いない、ということになります。

 世の中には“ごまかすための謝罪”というものがあります。この長老たちがやっていることはまさにそれではないか、ということになります。この長老団は謝罪の言葉を述べている時でさえ相手のことを無視している、とも言えます。

 それに加えて、今回長老団は、今後は「ものみの塔」誌に書かれている方針にしたがってこの問題を扱いたいと申し出ています。それなら、これまでそうしてはこなかったことを謝罪に加えておくべきでしょう。どの項目がどのようにできていなかったのかを自ら告白し、謝罪し、今後は態度を改めることを約束するべきです。そういう前置きなしに、これからそうしたい、とだけ言うのはどうなんでしょうか。






#87

 さらに、ここに書いていること [#84] に自主性などないのでは、ということを書きたいと思います。

 この通達は、組織が長老に義務付けていることのうちまだできていなかったことを、いまさら実行したり、これから実行すると明言したりするという内容にとどまっています。問題は、そこにほかの要素がないことです。
 怠慢だった寺方会衆の長老団が、義務付けられていることをようやくやるつもりになったという点では誉めることができると思いますが、それだけですか、ということも言えそうです。

 どうなんでしょうか。道義ということを無視し、強制されたこと以外は一切やろうとしない人がいるとすれば、その人の人間性はどこにあるのでしょうか。
 見かけ上の誠意というものはきちんと書かれていると思います。あまりに軽い謝罪、もしかしてこれは心の伴わない嘘の謝罪ではないでしょうか。繰り返される気遣いの言葉、これも単に書式に従っているだけで、同様ではないでしょうか。実のところ、寺方会衆の長老団は、内心では何ら罪悪感も気遣いも持たず、ただ必要に迫られて事務的にこの文書を作成したにすぎないのではないでしょうか。

 こういう疑いを払拭するには、何が必要ですか。

 もし長老団が、あらかじめ誠意をよく示しており、そのうえで今回も誠意を書き送り、そこにこのような通達が加わっているのであれば、それは良いことだと私は思います。やはり、物事には順番というものがあります。私はこの文書の受け取りを保留しているのですから、長老団はいま自分たちが何を急いでするべきかをよく考えるべきです。






#88

 今日、2020年04月04日、記念式(キリストの死の記念式)についての案内が届きました。
 (これは年に一度執り行われる宗教行事です。)



◇ 2020年04月03日, 守口市寺方会衆長老団からの案内 (個人情報等省略)

大阪府守口市寺方会衆
570-0083 大阪府守口市京阪本通2-3-4

2020年4月3日
守口市寺方会衆

親愛なる宮原崇兄弟へ

 宮原兄弟へわたしたちがお手紙差し上げてから、約1ヶ月が過ぎました。兄弟の心身の調子はいかがでしょうか。わたしたちの手紙が少しでも穏やかな気持ちを保つ助けになっていれば幸いに思います。

 さて、宮原兄弟も新型コロナウィルス感染症が拡大する中、今年の記念式がどのような仕方で開かれるのか深い関心を払っておられると思います。わたしたちの会衆では支部からの指示に従い、できるだけ小規模のグループに分けて集まり、    アプリを活用したテレビ会議システムで会衆の全てのグループを結んで記念式を執り行うことになりました。詳細は同封しました4月7日の記念式についてのお知らせをご覧ください。(お知らせには記念式のためのミーティングIDなど内密の情報も含まれているため、どうぞ公表は控えてください)
 宮原兄弟は可能なら、メイン会場となる    兄弟の家で記念式に出席していただきたいと思います。記念式の開始時間は午後7時です。もし出席が難しいようでしたら、お知らせにもありますようにご自宅で    アプリを用いて参加していただくことができます。もしご自宅での参加を望まれるようでしたらグループ監督の大井一弘兄弟までメールでご連絡ください。また表象物の準備でサポートが必要でしたら、その旨もご連絡いただけるでしょうか。どうぞよろしくお願いします。
 また現在、集会については宮原兄弟には JW Stream の視聴の案内をしております。しかし、3月の半ばごろから会衆の集会も会議システムを活用して行われるようになっており、兄弟にもその益を得ていただきたいと願っています。もし兄弟が集会の内容をご自分のサイトで取り上げたりなさらないことを約束してくださるなら、会議システムを用いた寺方会衆の集会に喜んで招待したいと思っています。お返事をお待ちしております。
 新型コロナウィルス感染症の影響がいつまで続くか分かりませんが、どうぞお身体に気をつけてお過ごしください。兄弟の健康と生活をエホバの聖なる力が支えてくださいますように。

温かいクリスチャン愛と共に
守口市寺方会衆長老団



 この人たちは相変わらず、肝心なことは無視したうえで見かけ上の善良さを固守し続けていると思います。よくこんなことができるな、と思います。
 このような内容だと、またいろいろと手厳しく言わなければならないことがあると思います。とはいえ、いまは大半を置いておきたいと思います。ここでは一点だけ扱います。

 集会の内容に限らずですが、長老が公の場でまた問題発言をするようなら、やはりここで取り上げることになります。

 たとえば次のような場合を考えてみてください。あなたは病気にかかって病院に行きましたが、医師は医療過誤をやってしまいました。ひどい目に遭ったあなたはそのことをブログに書きます。すると病院からこのような通達が来ます。あなたのやったことは個人情報保護の観点から好ましくありません。それに病院に対する患者たちの信頼も損なっています。もしあなたがブログを削除するなら私たちは喜んであなたの治療を継続しますが、そうでないならもう治療はしません。病院からも出ていってください。さて、この話、どこがどう狂っているでしょうか。
 もう少したとえを考えてみましょう。あなたはある事件の被害者で、多大の被害を被っています。そんなあなたのところに加害者がやってきて、十分な額の慰謝料を支払い、さらに積み増しを提示したうえで、訴えを取り下げてくださいと要求したとします。これは正当な取引です。一方、このようだとどうでしょうか。加害者はあなたのところにやってきてこう言います。あなたは犯罪の被害に遭ってお困りのようですね。あなたが訴えを取り下げたら、私は喜んであなたの生活の便宜を計ってあげましょう。

 すでに一度言っていますが [#43] 、道義的責任ということがあります。長老団がこのような提案をしたということは事実上の脅迫であり、また不正な取引の提示でもあります。それは隠蔽です。要求に従えば、私は屈服したことになります。
 そもそも、私を集会から締め出したこと自体が不当な行為でした。長老団は、このことで私に対して謝罪をし、被害を補填し、そのうえ懇願をして、また私が集会に参加するようにしなければなりません。
 それなのに、これはなんなのでしょうか。私は、加害者からの要求を呑んでようやく集会に参加させていただくという立場にあるのでしょうか。






#89

 いよいよ記念式の時が近づいてきました。
 この時期を迎えて、いま、私がとても気にしているテキストがあります。ちょうど1年ほど前の集会で扱われたものです。



◇ 「ものみの塔」誌『研究用』2019年2月号, ものみの塔聖書冊子協会

研究記事9 愛と公正 古代イスラエルにおいて

 わたしたちは皆,愛されたい,公正な扱いを受けたいと願っています。しかし,その期待を何度も裏切られると,自分には価値がないのだろうかと感じ,希望を失ってしまうかもしれません。
 エホバは,わたしたちの願いをご存じです。わたしたちを深く愛し,わたしたちが公正に扱われることを願っておられます。(詩 33:5)……あなたは自分が愛されていないと感じていますか。不公正な扱いのために今も苦しんでいますか。では,……エホバがご自分に仕える人々をどれほど深く気遣っておられるかを考えましょう。

 ……モーセの律法を調べると,エホバが公正を愛しておられることも分かります。(詩 37:28。イザ 61:8)エホバは,人々への公正な接し方の点で完全な手本を示しておられます。イスラエル人は,エホバから与えられた律法に従った時には祝福されました。しかし,公正で義にかなった規準を無視した時には苦しみました。

 ……教訓: エホバに仕えると主張している人がエホバの規準を無視し,会衆のだれかに害を及ぼすとしても,それはエホバのせいではありません。エホバはわたしたちを愛しておられます。わたしたちが不公正に苦しむ時,そのことをご存じです。母親が赤ちゃんの苦しみを感じるよりも敏感に,わたしたちの苦しみを感じ取られます。(イザ 49:15)問題にすぐ介入されるとは限りませんが,他の人に害を及ぼした人が悔い改めないなら,しかるべき時にその人の責任を問われます。

 モーセの律法には,イスラエル人の生活全般に関する規定が含まれていました。ですから,任命された年長者たちは,人々を正しく裁かなければなりませんでした。エホバの崇拝に関する事柄を扱うだけではなく,争い事や犯罪について裁く責任もありました。
 ……エホバは,……年長者や裁き人たちに,律法を公平に施行することを求めました。彼らは公正を愛するべきであり,人々を厳しく扱うべきではありませんでした。(申 1:13-17; 16:18-20)

 ……教訓: エホバは,完全な手本を示しておられます。決して不公正なことを行なわれません。(詩 89:14)ご自分の規準に従う忠実な人を祝福し,権力を乱用する人を処罰されます。(サム二 22:21-23。エゼ 9:9,10)邪悪なことを行ないながら処罰を免れているように思える人がいるとしても,エホバはふさわしい時に必ずその人を処罰されます。(箴 28:13)悔い改めない人は,「生ける神の手に陥るのは恐ろしいこと」だと思い知るでしょう。(ヘブ 10:30,31)

 律法は特に,孤児ややもめや外人居留者などの弱者を保護しました。イスラエルの裁き人たちはこう命じられていました。「あなたは,外人居留者や父なし子に対する裁きを曲げてはならない。また,やもめの衣を質に取ってはならない」。(申 24:17)エホバは非常に弱い立場にいる人たちを深く気遣われました。そして,彼らを虐待する人々の責任を問われました。(出エジプト記 22:22-24を読む。)

 ……教訓: エホバは,責任ある立場の人が自分の監督下にある人すべてを愛情深く気遣うことを望んでおられます。また性犯罪を憎み,すべての人,特に,非常に弱い立場にある人が保護され,公正に扱われることを願っておられます。

 愛と公正は,呼吸と命のように不可分の関係にあります。愛のあるところには公正があり,公正のあるところには愛があるのです。エホバが公正な方であることを知ると,エホバへの愛が深まります。エホバとエホバの正しい規準を愛するようになると,他の人を愛したい,公正に扱いたいと願うようになります。



 私自身としては、この会衆の長老たちが罪を悔い改めて正しい行いをするようになることを願ってきました。彼らにエホバからの厳しい裁きが執行されることを要求しているのではありません。
 しかし、そんな私としても、いつまでもそういうことを言っていられるわけではないという問題があります。いずれ、神の憐れみは裁きに変わります。



ルカ 13:6-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスはさらにこの例えを話した。「ある人が,ブドウ園に1本のイチジクの木を持っていました。実があるかと見に行きましたが,見つかりませんでした。それでブドウの栽培人に言いました。『このイチジクの木に実があるかともう3年も見に来ていますが,一つも見つかりません。切り倒してしまいなさい! なぜ土地を無駄にしているのですか』。栽培人は答えました。『ご主人さま,あと1年そのままにしてください。周りを掘って肥やしをやります。この先,実を結ぶようであればそれでいいですし,そうでなければ切り倒してください』」。



 罪人に対する憐れみというものは、必ずしも神とキリストから発生しているわけではありません。神とキリストとしてはすでにあきらめているのに、その罪人を気遣って嘆願する人がいるから、その人の言うことを聞いてやっているのだ、ということもあるのです。
 しかし、こんな状況がいつまでも続くということがあるでしょうか。






#90

 寺方会衆の中で事実上の隔離処分を受けていた私ですが [#31] 、状況を変える出来事が生じました。子供たちがいる信者が三家族、相次いで寺方会衆に引っ越してきたのです。

 寺方会衆の人たちは、これらの家族に対して“宮原崇君についての寺方会衆の方針”に従うよう要求しましたが、これらの人たちはそれを拒否しました。この人たちは口々にこう言いました。こんなことはあってはならないことだ、ひどすぎる、私がもといた会衆ではこのようなことがあることなど全く考えられない、私とその家族がそんな要求に従えるはずがない。
 すると寺方会衆の人たちはこの人たちに対して一斉にこう言いました。『汚染された』。これらの人たちのせいで寺方会衆が汚染された、汚染源となっている方々には寺方会衆を出ていってもらいたい。するとこれらの人たちはますます憤慨して、会衆を出ていくことを断固拒否しました。
 会衆を出ていかなかったこれらの人たちをどうするかが会衆内で話し合われ、「仕方ないからこの人たちを会衆においてはあげるが、会衆の一員としては扱わない」ということが決議され、会衆内に周知徹底されました。
 このような決定が下されたことを通告された三家族は、そのことに驚愕し、まさに顔面蒼白という状態になりました。
 そしてどうなったかというと、三家族はそのことにしきりに抗議し、決議の撤回を要求し続け、会衆外の責任ある人物に訴えることもしましたが、この人たちがどれだけ努力を払って訴えても、まったく何も改善されませんでした。寺方会衆の人たちはそのような抗議の声を完全に無視し続けましたし、そのうえ近隣の会衆の長老たちもその話を聞き流し、巡回監督はこの問題に介入しようとしませんでした。これらの被害者たちは寺方会衆の人たちだけでなく近隣の会衆からも組織からも無視されてしまったのです。

 というわけで、これらの人たちには災難が降りかかりましたが、私は特に制限を受けることなくこれらの家族の子供たちと遊べるようになりました。また、この家族の反目のせいで、私に課されていた制裁のいくつかがかなり骨抜きになりました。
 私は思います。もしこの出来事がなかったら、きっと私はいまここに生きてはいなかっただろう。

 三家族の中でも特に不満の声が大きかった方がいます。開拓奉仕者だったからです。
 エホバの証人という宗教を知らない人のためにすこし説明します。この宗教では信者は全員が奉仕者でなければならないということになっています。その中でも、奉仕に邁進する人が開拓奉仕者です。開拓奉仕者は会衆の貴重な宝であるとされ、会衆内で敬意を払われますし、種々の優遇処置もあります。ところが、この方はそのような待遇を受けられませんでした。この方は言いました。私は開拓奉仕をやっているのに、会衆内のほかの開拓者と同じように扱ってもらえない、おかしいじゃないか。ところが寺方会衆の人たちはその抗議を無視し続けました。それでも、この方は抗議することをやめませんでした。
 そして、このような状況が、10年、20年、そしてもっと、際限なく続いたのです。20年くらいたったころにはこの制裁はかなり骨抜きになってしまい、この方自身が「最近はだいぶましになった」と言うまでになりました。しかし現在でも、この制裁自体は撤回されておらず、残っています。

 しばらく前、私がこの文書の連載を始めるより前のことですが、この三家族の子供たちの一人と一緒に食事をすることがありました。もちろん、彼はすでにじゅうぶんに大人になっています。
 彼は私に、「いま自分は寺方会衆に憤慨している」と言いました。「寺方会衆に『宮原兄弟には気をつけろ』と言って回っている人たちがいるから」とのことでした。すると同席していた姉妹がこう言いました。「私はあの人たちが広める崇兄弟の悪口を聞いても真に受けないようにしています」。
 というわけで、寺方会衆内には今も、私に対する諸般の制裁を遵守したうえで、それを会衆内に徹底しようと努力し続けている方たちがいたりします。

 これはこの会衆において公然と行われてきたことです。よその会衆の人たちが聞いたら唖然とするしかない話だと思います。






#91

 2020年3月13日の通達 [#84] についていくつも書いてきましたが、さらにもうひとつ、長老が提示した指針は状況に対して適切か、ということを扱いたいと思います。私は長老たちに対する善意からこれを「保留、後回し」にしたのですが、長老たちがその善意を無視し続けている以上、これはもう話を進めていくしかありません。

 要点を明確にするためにたとえを見てみましょう。

 ある人が乱暴な車の運転をして事故を引き起こし、あなたの家族の命が犠牲になったとしましょう。遺族となったあなたのもとに加害者の契約する保険会社の弁護士がやってきてこう言います。当社には加害者との間に保険契約があり、その契約内容にしたがってこの問題を扱うこととなりました。弁護士は続けてこう言います。この保険契約で定められた損害額の支払いは1000万円が上限です。それ以上の支払いはありません。これは規則ですので守らなければなりません。1000万円の支払いで同意してください。さて、あなたはその要求に同意できるでしょうか。
 支払額に同意できないあなたは加害者と直接話し合うことにしましたが、加害者はこう言います。私は保険会社にすべてをお任せしています。事故の補償は保険会社が決めたとおりにします。それ以上のものはお支払いできません。
 話し合いがまとまらなかったため、あなたは裁判所にこの問題をもっていくことにしました。すると、裁判の場に保険会社の担当者が現れてこう説明します。加害者が弊社と契約した保険は簡易なものです。傷害に対する補償のみを想定していて、被害者が死亡した場合の補償は想定に含まれていないのです。説明を聞いたのち、裁判所はこのように裁定します。加害者が保険会社とどのような契約をしたかは、また、その契約にどのような運用規則が伴っているかは、被害者の受けた被害とその補償額に何の影響も与えない。よって、加害者は保険会社の支払いの不足分を遺族に支払え。

 長老団が今回持ち出しているのは「ものみの塔」誌『研究用』2019年5月号に載せられている指針ですが、これについても同じようなことが言えそうです。

 私の件は、私が児童虐待を受けたという単純なものではありません。会衆が長期に渡ってそれを隠蔽し、口封じのために被害者である私を威圧したり迫害したりしたという話です。彼らは私に対する誹謗中傷を広めることもしました。今でもこの会衆には、この兄弟には悪霊がついているとかこの人は会衆の一致を乱す背教者だとかいうことを言って回っている人たちがいます。彼が何かを訴えても決して耳を傾けてはならない、と念押しして回っているのです。
 「ものみの塔」誌に掲載された指針はそのような要素を考慮しているでしょうか。していません。ここで問題なのは、児童虐待という困難な問題に取り組むにあたって、共通の指針なるものが一つだけしか用意されていないことです。条件に応じて複数の指針が用意されているとか、問題の深刻さに応じて指針がランク分けされているとか、そういう工夫がありません。しかも、その指針は最低限の条件しか考慮していません。具体的には、会衆やその長老団が被害者に対して謝罪をし補償金を支払うような状況は考慮されていない、という具合です。

 長老団はこの指針にしたがって私の問題を扱いたいと言っていますが、私はそれに同意できるでしょうか。
 そもそもの話、この長老団は徹底した責任逃れに終始した挙句にこのような申し入れをしてきたのですから、それによって自身の責任の大半を消滅させようとたくらんでいるのではないでしょうか。

 では、もし私がこの問題を裁判所にもっていったら、どうなるでしょうか。長老団は自分たちの規則を説明してその正当性を主張するかもしれませんが、裁判所はその規則を「果たすべき責務を意図的に怠る」ための道具であると判断するでしょう。
 裁判所が私の肩を持つ判決を下すと、メディアがそれに注目するでしょう。特に海外のメディアはさかんに報じるでしょうし、それは諸外国で行われる同様の裁判に影響を与えるでしょう。エホバの組織は、いわゆる「不作為」に対する責任を問われることになります。

 もちろん、当然のことですが、寺方会衆の長老団は状況に似合った指針を私に提示すべきです。そういう指針の提示がない限り、私がそれに同意することなどあるはずもありません。






#92

 この「不作為」には、「ルール」ということが関係しています。問題に対処するルールが決められているせいで、問題に対処できなくなってしまうのです。

 もしあなたが飛行機の操縦士だったとします。航空機メーカーと航空会社は、飛行中にトラブルが発生する場合に備えて膨大な量のマニュアルを作成し、トラブル時にはそのルールに従うように操縦士を訓練しています。たいていは、このマニュアルによってトラブルを乗り越えることができますが、まれに、このマニュアルにしたがって問題に対処したのにうまくいかず、大事故に至ることがあります。そして、さらにまれなことですが、マニュアルに従ったために大事故が起こるということもあります。
 たとえばこのような場合です。何かの原因で、飛行機内の3つのシステムが同時にダウンします。あなたと副操縦士は急いでマニュアルを参照しますが、今起こっている状況にぴったり合う項目がありません。二人は必死になってマニュアルのページをめくり、3つのシステムのうち2つが同時にダウンした場合の対処法が記されているページを発見します。これが、マニュアルに載せられている情報のうちもっとも現状に近いものです。そこで二人はこのページに記されている手順にしたがって問題への対処を始めますが、それが致命傷になり、飛行機は墜落してしまいます。あなたに求められていたのは、マニュアルに記載のない独自の判断をすることでした。
 この業界では、マニュアルには生じうるあらゆるトラブルへの対処法が記されていなければならないことになっています。ですから、こうして飛行機が墜落する事故が起こると、これはマニュアルの内容が問題だという話になります。適切なルールが記載されていないなら追加が行われますし、内容が不適切なら改訂されます。さらに、操縦士に対しても、問題が生じた時にはマニュアルを参照して従うように、という指導が継続的に行われます。

 聖書には、このような問題の最たる例という欠陥があります。聖書の規則集の中には児童虐待に関する項目が存在しないのです。その欠陥がもたらす結果は悲惨なものです。
 古代イスラエルにおいて、ある家庭で児童虐待の問題が起こり、被害者が祭司と長老に助けを求める事態になったとします。祭司と長老は、モーセの律法に基づいてこの問題に対処しようとしますが、律法にはそもそも児童虐待に関する項目がありません。そこで彼らは、この状況に最も近い項目を捜し始め、ついに答えを見つけます。モーセの律法の中で、この状況に最も近い規則はこの規則です。



レビ 20:9

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「『自分の父や母の上に災いを呼び求める者がいるなら,その者は必ず死に処せられるべきである。彼は自分の父や母の上に災いを呼び求めたのである。彼の血は彼自身の上にある。



 児童虐待の被害を訴えた人は、“親を冒涜する者”であるとされ、処刑されてしまいます。
 これは、もののたとえというような架空の話ではありません。記録には残っていないものの、実際にあったに違いないという話です。

 そして、これは私に関する話でもあります。エホバの証人という聖書の教えに几帳面に従うこの宗教において、私が児童虐待の犠牲者であることを訴えた時に、私の前に立ちはだかったのが聖書のこの言葉でした。会衆は私に対し、この聖句を示しながら、あなたのやっていることは親に対する反抗ということにほかならない、と手厳しく言いました。古代イスラエルなら死刑にされてしまうところだ、とも言いました。もっとも、だからといって私を死刑にするわけにもいかないので、会衆は死刑に匹敵するような厳しい制裁を私に科すことにしました。そして、この聖書の言葉は今でも私に対して公然と語られていますし、制裁も続いています。

 通常なら、何かの規則集に欠陥があり、そのせいで悲惨な事故が生じたなら、その規則集を改訂したり追記したりすることが行われるものです。しかし、この問題の場合、規則集となっているのは聖書です。エホバの証人という宗教にそれを修正する権限は与えられていません。こういう問題があるのを見て、「これはおかしいじゃないか」とか、「これは何とかしなければならない」と声をあげる人もいません。聖書は神の言葉ですので、その欠陥を指摘することは誰にも許されていないのです。






#93

 引っ越してきた三家族 [#90] のうちの一家族は母子家庭でした。子供たちを養うため母親は働いていて、子供たちはほったらかしになっていました。しつけができていなかったので、子供たちの振る舞いはよくありませんでした。
 その様子を見て、寺方会衆の人たちは母親を攻撃し、こう言いました。この人はエホバの証人なのに、子供の世話としつけができていない。こんなダメな一家に引っ越してこられたせいで、寺方会衆の品格は下がってしまった。迷惑だからあなたたちにはこの会衆から出ていってもらいたい。
 母親は憤慨してこう言い返しました。私が働かなければ子供たちは養えないのです。子供のしつけができていないのは事実ですが、このような場合、長老たちが段取りをして会衆が援助を行うのではないですか。よその会衆ではそれが普通じゃないですか。私は子供のために働きますから、寺方会衆の手の空いた姉妹たちが代わる代わるやってきて子供たちの世話と教育をするように取り決めてくれませんか。
 母親から援助の申請を受けたので、寺方会衆ではこの申請をどうするかが話し合われました。もっとも、この三家族はすでに私の件で制裁を受けていて、会衆の一員としては扱われないことになっています。そこで、会衆はこの申請を拒否することにし、その旨を母親に通告しました。
 それを聞いて母親はこう言いました。よその会衆ではこんなことは絶対にないですよ。

 寺方会衆はますますこの母親を攻撃するようになり、寺方会衆から出ていくように執拗に要求しました。母親も負けじと反論をしましたが、寺方会衆はその声を無視しました。
 母親は、こんな仕打ちはあまりにもひどいと言い続けました。会衆内の様々な人たちに反論を言い、近隣の会衆に助けを求め、立場ある人たちに訴えることもしました。しかし誰もこの母親の訴えを聞き入れず、問題への介入といったことも行われませんでした。この母親はまた、諸会衆だけでなく組織からも無視されてしまったのです。

 会衆から放置されたこの家の子供たちはよい育ちをしませんでした。子供たちが放置され、問題を抱えるようになり、散り散りになっていくのを見て、母親は「私は今にも狂ってしまいそうだ」としきりに訴えましたが、その声も無視されてしまいました。






#94

 2020年05月12日の日々の聖句(聖書日課)はイザヤ 5:20でした。これは今の寺方会衆とその長老たちによくあてはまると思いました。



◇ 「聖書を調べる」, 2020年05月12日, ものみの塔聖書冊子協会

悪を善と言う人たち……には災いがある!(イザ 5:20)

 人間は創造された時から良心を持っています。アダムとエバはエホバの命令に背いた時,エホバから隠れようとしました。良心が痛んだからです。良心があまり訓練されていない人は,欠陥のあるコンパスで航海する船に似ています。正確なコンパスがないと危険です。風や海流によって簡単に針路からそれてしまうでしょう。コンパスをきちんと調整していれば,正しい針路を進むことができます。正邪の感覚である良心は道徳上のコンパスのようです。正しい方向に進むには,良心を訓練しなければなりません。良心が正しく訓練されていないと,簡単に悪いことを行なってしまいます。良心が警告を発しないからです。(テモ一 4:1,2)「悪を善」とさえ考えるかもしれません。



イザヤ 5:20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
善を悪と言い,悪を善と言う人たち, 闇を光とし,光を闇とする人たち, 苦いものを甘いとし,甘いものを苦いとする人たちには災いがある!

テモテ第一 4:1-2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神からの言葉は次のことを明らかにしています。後の時代にある人たちは信仰を捨て,神からのものに思える偽りの言葉や,邪悪な天使の教えに注意を向けるようになります。偽善者たちの語る偽りに惑わされるのです。その偽善者たちの良心は,焼き印を押された皮膚のようにまひしています。






#95

 三つ目の家族の母親は、エホバの証人としてはかなり個性が強いという方でした。それで、いろいろと問題をかかえこんでいました。
 寺方会衆に来たことで状況はひどくなりました。寺方会衆はいつもこの人のことを「汚染源」だと呼ばわり、当然と言わんばかりに有形無形の制裁を加えていました。
 そのような状況にあって彼女が始めたのが、問題事例の収集です。彼女は、エホバの証人社会内でさまざまな問題が未解決のまま放置されていることに気づき、それをなんとかしたいと思いました。それで、事例を収集し、寺方会衆の様々な人たちにそれらの話を披露して、意識の改革を促しました。

 私もこの方からはいろいろな話を聞かされました。そのうちの一つはこんな感じです。ある会衆でいじめの問題が起きました。王国会館での集会中にある子供が別の子供をトイレに呼び出していびっていたということです。そのため、いじめられた子供の親は長老に対応を求めましたが、長老は何もしなかったそうです。そうのち、いじめられた子供は集会に来なくなってしまいましたので、親はそのことで訴えを起こし、いじめをした子供と、それを止めなかった親と長老は処罰を受けるべきだと言いましたが、それも無視されたそうです。親は必死になってほうぼうに訴えましたが、同じ会衆の信者たちも、近隣の会衆の人たちも、巡回監督も、そして組織も、なにもしてくれなかったそうです。

 彼女がこのような話を次々披露したので、寺方会衆はこの方のことを相手にしなくなりました。会衆の人たちは、彼女に危険人物とか背教的人物とかいうレッテルを貼り付け、彼女とは会話もしないよう努力しました。

 さて、このような話をいろいろ聞いていると、ひとつの共通点があることに気づかされます。それはひとことで言うなら『無視』です。
 エホバの証人社会内でいじめのような問題が発生するというのは非常にまれなことです。世の中と違って、この宗教にいじめの問題はほとんどありません。それは、他の事例においてもおおかた同じです。そこで、エホバの証人社会に様々な問題があるとしても、それぞれは非常にまれなケースで共通点も乏しい、ということが言えます。ところが、1. ひとたび事件が発生し、2. 被害者が声をあげると、3. 誰もその人を相手にしなくなる、という現象は頻繁に見られます。エホバの証人社会では、声をあげる人は無視されるのです。

 私自身にも、いろいろな人からの話を聞いてまわった時期がありました。そこで多かったのは、「私は、誰からも相手にされなくなってしまう事態を恐れて、それで声をあげることを控えているんです」という声です。ほんとうは声をあげて訴えたいんだけど、それをするとどういう状況に直面するかよく解っているので、とてもじゃないけどそれはできないということでした。






#96

 ちょうど1年となりました。






#97

 さてここで、私が職業としている“擁護派エホバの証人”ということについて書いておきたいと思います。

 私としては、こういうことはあまり言いたくないですし、過去に言うこともほとんどなかったのですが、仕方ないと思うのです。
 今私は、良心に訴える議論を展開して長老を説得しているところですし、エホバの組織に対する提言ということも書いています。そして、これからさらに書いていくこともあります。そうすると、私に向かって「あなたはいったいどういう権限があってこういうことをしているのか」ということを言う人もいたりします。このようなことを言う人はさらにこうも言います。「あなたは自分のことを『擁護派』と言っていますが、聖書のどこにその裏付けがあるのですか」。
 実際問題、こういう権威付けもなしに今やっていることを続けるのは困難です。というわけで私は、私らしくもなく、自らに権威付けを行って権威を振りかざそうとしています。

 “擁護派”ということの根拠となる基本的な聖句はこの聖句です。



ネヘミヤ 9:26-27

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ところが,彼らは不従順になり,あなたに逆らい,あなたの律法に背を向けました。あなたのもとに戻るようにと警告したあなたの預言者たちを殺し,非常に不敬な行いをしました。そのため,あなたは彼らを敵たちの手に渡し,彼らは苦しい目に遭いました。しかし,彼らがその苦難の時にあなたに向かって叫んだので,あなたは天から聞き,深い憐れみのゆえに,敵から彼らを助け出す救い主たちをお与えになりました。



 ここで言うところの「救い主」は「裁き人」の言い替えです。



裁き人(士師記) 2:11-16

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イスラエル人はエホバから見て悪いことを行い,バアルに仕えた。こうして父たちの神エホバ,エジプトから連れ出してくださった方を捨てた。ほかの神々,周囲の民の神々に従い,それらにひれ伏してエホバを怒らせた。エホバを捨てて,バアルやアシュトレテの像を崇拝した。エホバはイスラエルに対して怒りに燃え,彼らを略奪者たちに渡して,略奪されるままにした。神がイスラエルを周囲の敵に引き渡したため,彼らはもう敵に対抗できなかった。彼らがどこに行っても,エホバの手が彼らに及び,災難をもたらした。エホバが言った通り,エホバが誓った通りであり,彼らは窮地に陥った。エホバは裁き人たちを立て,その人たちがイスラエルを略奪者から救うのだった。



 ここで気づかなければならないのは、聖書が「裁き人」と呼ぶ職業名の不思議です。「裁き人」の文字の意味は「裁判官」とか「刑執行者」という意味です。しかし、裁き人についての聖書の記述を読んでも、彼らはそういう役割を果たしていません。
 たとえば、このような記述があるのですが……



裁き人(士師記) 12:7-13:1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ギレアデの人エフタはイスラエルを6年間裁いた後,死んでギレアデの自分の町に葬られた。エフタの後,ベツレヘムの人イブツァンがイスラエルを裁いた。イブツァンには30人の息子と30人の娘がいた。娘たちを氏族外の男性に嫁がせ,30人の女性を迎えて息子たちと結婚させた。彼はイスラエルを7年間裁いた。イブツァンは死んで,ベツレヘムに葬られた。イブツァンの後,ゼブルン族のエロンがイスラエルを10年間裁いた。ゼブルン族のエロンは死んで,ゼブルンの領地のアヤロンに葬られた。エロンの後,ピルアトンの人ヒレルの子アブドンがイスラエルを裁いた。アブドンには40人の息子と30人の孫がいて,70頭のロバに乗っていた。彼はイスラエルを8年間裁いた。ピルアトンの人ヒレルの子アブドンは死んで,エフライムの領地,アマレク人の山にあるピルアトンに葬られた。イスラエル人は再びエホバから見て悪いことを行うようになった。エホバは彼らを40年間フィリスティア人の手に渡した。



 ……「裁き人はイスラエルを裁いた」という表現があるからといって、彼らがイスラエルを裁いたということは全くありません。彼らは、外敵であるフィリスティアと戦ってイスラエルを守ったのです。このことを「裁いた」と言うのです。聖書の述べる「裁き人」の正しい意味は「擁護者」です。
 ですからこれは用語の問題、そして翻訳の問題です。聖書には“擁護派”という人たちが存在しているのです。

 裁き人の中でも特に有名なのがサムソンです。彼の擁護派としての活動の始まりはこのようでした。



裁き人(士師記) 13:24-14:4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その後,マノアの妻は男の子を産み,サムソンと名付けた。男の子は成長し,エホバはその子を祝福し続けた。やがて,ツォルアとエシュタオルの間のマハネ・ダンで,エホバの聖なる力がサムソンに働くようになった。サムソンはティムナに下っていき,ティムナで,あるフィリスティア人女性を見た。そして上っていって,自分の両親にこう話した。「ティムナで,あるフィリスティア人の女性が目に留まりました。彼女を私の妻として迎えてください」。両親は言った。「親族や私たちの民の中から女性が見つけられないのか。無割礼のフィリスティア人の中から妻を迎えなければならないのか」。サムソンは父に言った。「彼女を迎えてください。私にふさわしい女性なのです」。両親は,このことがエホバから出ていることが分からなかった。彼はフィリスティア人と戦う機会をうかがっていたのである。その頃フィリスティア人はイスラエルを支配していた。



 エホバの聖霊がサムソンに降りてきて、それでサムソンがどうしたかというと、彼はフィリスティアの土地に出かけていき、彼らと仲良くなってしまいます。しかも、しまいにはフィリスティアの女性と結婚しようとします。

 イスラエルの視点から見た時、サムソンはどのように見えたでしょうか。
 そもそもの話、「裁き人」という職はエホバがモーセを通して施行した律法の枠組みに入っていない職です。というわけで、エホバに忠実なイスラエル人にとって、裁き人は非正規の職業でした。そこに現れたのがサムソンです。彼らはサムソンを「背教者」と呼んだでしょう。
 いまのエホバの証人の言い方を借りれば、「エホバの組織と調和していない」とか「エホバの方法で物事を行っていない」とか「忠実で思慮深い奴隷の指導に従っていない」ということになります。ところがそんなサムソンこそが、エホバによって用意された「救い主」だったのです。

 さて、そうするとあなたはこう反論するかもしれません。それはもう過去の話じゃないですか。今は裁き人の時代ではありません。今この時代にエホバが裁き人を立てられることなどありえません。
 ところが、聖書のメシア預言の中にはこのような記述があるのです。



イザヤ 19:18-22

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その日,エジプトには,カナンの言語を話し,大軍を率いるエホバに尽くすことを誓う5つの町があることになる。その1つは「打ち壊す町」と呼ばれる。その日,エジプトの真ん中にエホバのための祭壇ができ,境界の所にエホバのための柱ができる。それはエジプトで,大軍を率いるエホバについてのしるしまた証しとなる。人々が虐げられてエホバに向かって叫ぶと,神は彼らを救う偉大な救い主を遣わす。エホバはエジプト人に知られるようになり,エジプト人はその日にエホバを知り,犠牲と供え物を捧げ,エホバに誓約をしてそれを果たす。エホバはエジプトを打つ。打って癒やす。人々はエホバのもとに帰り,神は彼らの願いに応え,彼らを癒やす。



 この記述が書かれたころ、エジプトのエレファンティネ島にはユダヤ人の入植地があり、そこには偽の神殿が建っていました。エホバは、この実際には背教者である人たちを救ってあげると言います。そのために現れるのが「彼らを救う偉大な救い主」です。現代のキリスト教にありがちな感覚からすると、こういう表現はイエス・キリストを指しているに違いないということになりますが、イエス・キリストは正規の救い主ですから、果たしてそうなのかということになります。

 この預言は、エホバが用意した正規の救いでは救えない人をなんとか救うためのエホバの工夫を示しています。この「彼らを救う偉大な救い主」はイエス・キリストかもしれませんし、そうでないかもしれませんが、いずれにせよ、この非正規の救いは何らかの具体的な形で、言い換えるなら、非正規な振る舞いをする人たちによって示されることになります。






#98

 今日は母から手紙がありました。



◇ 2020年06月09日, 母から私への手紙 (表記等修正)

崇へ

 30度を越える暑さになりました。体調をくずす季節ですね。いかがですか。仕事のほうはうまくいっていますか。
 コロナの為、家族を亡したり、経済的影響を受けたり、精神的につらい思いをしている人も、多い様ですね。
 愛する会衆の仲間も、このような時なので、楽しい時を過すことも、少なくなっています。崇も仲間との交わりがなく、孤独でいるのではないですか。

「悲観的な人は、どの日も悪い日で、陽気な心の人には、毎日、宴会である」 格言 15/15
「良い日には善良さを示しなさい。逆境の日には、どんな日も、神がつくったことを考えなさい。神は、人が未来に何が起きるかを見過せないようにしたのだ」 伝道 7/14

 このような聖句、どう思いますか。ストレスに弱いか、強いか、考え方にかかっています。考え方によって、被害者になることも、善いことを行う者となることもできます。水と油です。自分の益となることを考え、害となること考えず、今をのりきることができます。
 以前は、よく笑う、崇でしたが、ある時から、変化したこと、泣いて、言ったことが、ありましたね。それから、ずっと、その事、心配しています。そのこと、ネットなどで、調べている様子もありましたが、どのような状態でしょうか。
 小さい時から、崇は崇なりに、会衆と交わり、家族との生活で、又、学校生活で、つらいことばかりでなく楽しいことも、いっぱい、あったように思います。又、崇自身も、会衆の為、家族の為、仲間の為に、いっぱい、愛情を注いでくれたことを、知っています。それで、今も、会衆からも、家族からも、崇を高く評価し、まじめで、精一杯がんばっていること、誰もが認めています。そのように評価されており、皆が崇を愛していること、認めることできますか。なによりも、エホバ神が、崇のすべて(弱さ、強さ、性格など)知った上で、深く愛し、命を与え、世話して下さっているのではないでしょうか。集会、奉仕、エホバへの愛、仲間への愛、増し加っていますか。
 今は、自分の状況をよく知り、受け入れ、エホバ神の教えを、しっかり心に入れ、識別力を働かし、愛を培い、いっしょうけんめい、のりきる時代です。誰もが、会衆や家庭、仲間のことで、傷つけられたことはないという人はいないと思います。すべて許し、忘れ、前のものに向かって進んでいます。大会で「愛は人を向上させる」という題が主題です。私達は困難、試練、落胆などがあると、心を固くなにし、愛を示せず、より多く、不完全さを表わしてしまうのが、現実です。神に対し、良い心を、願い求めたいですね。
 崇が一番、知っていると思いますが、統治体も、会衆も、個人も、不完全な人間でなり立っています。エホバ神が、私達、皆を、楽園に導くために、用いておられます。会衆の頭を、エホバ神が、今、この時代に、王国の王となられているイエスキリストを用いておられることは、私達にとって、なんと恵みでしょう。それで十分ですね。
 家庭でハンバーグなど作ったとき、崇にも、食べてほしいと、思います。是非、家に寄って下さい。スーちゃんも「にゃ~ん、来てね」と、待っていますよ。そして、色々、助けてください。
 くれぐれも、食べ物に気をつけ、暑い夏を乗り越える為、体力をつけて下さいね。事故も多いです。注意を働かし楽しく仕事をして下さい。
 「喜び」が、崇の中でいっぱいになり「とりで」となることを願います。

母より






#99

 さてここで、「エホバの日を思いに留めて生きる」という本を紹介したいと思います。
 この本は、聖書の「十二預言書」の伝えているメッセージをまとめた本です。今この時期に、エホバの証人の立場にある人が真剣に読まなければならない本だと思います。
 その理由はこのようなところにあります。



◇ 「エホバの日を思いに留めて生きる」, ものみの塔聖書冊子協会

 裁きの音信は主に偽りの宗教に向けられているので,そうした預言の成就は自分には関係がないと思うクリスチャンがいるかもしれません。しかし,アモスがイスラエル人に告げた「エホバの日を待ちこがれている者は災いだ!」という言葉には,すべての人にとって現実的な意義があります。アモスの時代のイスラエル人の中にも,エホバの日は自分たちに祝福だけをもたらすと考える人たちがいました。神がご自分の民のために行動なさる日だと思い込んでいたのです。そのため,その日を待ちこがれてさえいました。しかし,うぬぼれの強い者たちにとってエホバの日は「暗闇であり,何の光もない」であろうと,アモスは述べています。そのようなイスラエル人は,エホバの憤りを受ける側にいたのです。―アモス 5:18。
 ……この記述があなたにとっても現実的な意義を持つことがお分かりですか。思い出してください。アモスが音信を伝えた人々は,神に献身した者という立場にありました。それでも,彼らの行動や態度には調整が必要だったのです。ですからあなたも,その重大な日を迎える用意ができていることを示しているか,何らかの調整をすべきかと自問し,自分の生き方を吟味してみることが大切ではないでしょうか。



 聖書には、異教徒たちからなる世界に神の裁きが望むという予告があります。それは「エホバの日」そして「ハルマゲドン」と呼ばれます。
 しかし、聖書をよく読みこんでいくと、そのような記述の多くが、一見して異教徒に向けられているように見えたとしても、実際には神の会衆に向けて書かれていることに気づくようになります。それは偽装された裁きの音信で、ひそかに、クリスチャンに対する裁きを予告しているのです。
 私はこの文書においてすでにそのような事例を示していますが [#72], [#76] 、このような聖書の警告はまだほかにもたくさんあります。この本は、そのような視点を積極的に取り上げていているほとんど唯一の教材です。

 この本の特徴のもう一つの面は、背教的な長老の問題にかなり積極的に言及していることです。この本がそのようなテーマを取り上げていることにはかなり強烈な意味があります。ようするに、こういう長老はハルマゲドンで神の裁きにあって死んでしまうだろう、ということが示されているのです。
 というわけで、この本から、寺方会衆の長老たちにあてはまる記述を拾っていきましょう。



◇ 「エホバの日を思いに留めて生きる」, ものみの塔聖書冊子協会

 これは単なる古代の出来事で自分とは関係がない,などと考えてはなりません。エホバがイスラエル人に対して法的な言い分をお持ちになった理由に注目してください。「知識をあなたが退けたゆえに,わたしもあなたを退けて,祭司としてわたしに仕えることをやめさせる」とあります。彼らはエホバに献身しており,家族もみな献身していましたが,個人としては「神についての[真の]知識」が欠けていたのです。―ホセア 4:1,6。



◇ 「エホバの日を思いに留めて生きる」, ものみの塔聖書冊子協会

 ユダとイスラエルの人々は神のみ名を担っていましたが,多くの場合,その崇拝には神に是認されない事柄が含まれていました。預言者たちは,民が真の崇拝と偽りの崇拝を見分けるのを助けようとしました。神はヨエルを通して,「あなた方は心をつくし,断食と涙とどうこくとをもってわたしに帰れ」と訴えかけておられます。(ヨエル 2:12)神は民が『心をつくして』ご自分のもとに来ることを望んでおられた,という点に注目してください。この問題には心が関係していたのです。
 ……「真の公正をもってあなた方の裁きを行なえ。互いに対して愛ある親切と憐れみとを実行せよ。……また,互いに対し心の中で悪をたくらんではならない」とあります。
 ……心のこもった崇拝にはどんなことが含まれるでしょうか。……道徳に関する神の規準を守らなければなりませんでした。……神は預言者たちを通し,愛ある親切,公正,柔和,憐れみ,慎みを培って発揮することを強調なさいました。エホバがそれらの特質をどのように強調なさったかに注目してください。『わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかった。また,全焼燔の捧げ物より,むしろ神を知ることであった』。「あなた方自身のために義のうちに種をまけ。愛ある親切にそって刈り取りを行なえ」。(ホセア 6:6; 10:12; 12:6)ミカはこう宣明しました。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。(ミカ 6:6-8)預言者ゼパニヤも神の民に,『地の柔和な者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ』と強く勧めました。(ゼパニヤ 2:3)このような態度は,神に是認される崇拝に不可欠です。



◇ 「エホバの日を思いに留めて生きる」, ものみの塔聖書冊子協会

 預言者たちは,糾弾し断罪しただけではありません。ご自分のもとに戻るようエホバが民に強く勧めておられる,ということも示しました。……「さあ,わたしたちは是非ともエホバのもとに帰ろう。自らわたしたちを引き裂かれはしたが,またいやしてもくださるからだ。わたしたちをしきりに打たれはしたが,また包んでもくださる。……そして,わたしたちはエホバを知るであろう。知ろうとして追求するであろう」。(ホセア 6:1-3)確かにエホバ神は公正のうちにまずイスラエルに,そしてユダに裁きを執行されました。とはいえ,民はそのようにして打たれたことを,霊的健康を回復させるためのステップと見るべきでした。(ヘブライ 12:7-13)強情で気まぐれな民がエホバのもとに帰るなら,エホバは「いやし」,「包んで」くださるでしょう。……エホバは何と憐れみ深い神なのでしょう。ご自分のもとに進んで帰って来る者たちを包んでくださるのです。



◇ 「エホバの日を思いに留めて生きる」, ものみの塔聖書冊子協会

 エホバをもっとよく知って見倣うには,その方の公正を把握することがどうしても必要です。公正はエホバの本質の一面なので,その公正を理解しなければ,エホバを知っているとは言えません。
 ……例えば,仕事の際に物事を書面に残すのを渋る人がいます。合意した仕事の手抜きや新たな要求の追加がしやすくなる,と考えるのです。また,契約書を渡すとしても,分かりにくい但し書きを付け加えて契約内容をゆがめ,相手に不当な害を被らせてまでも自分の利を求める人がいます。商人であれ客であれ,雇い主であれ従業員であれ,このようなことをする人が公正の神を本当に知っていると言えるでしょうか。
 ……12預言書を見ると,公正がひどく欠如した時期が何度かあったことが分かります。権威ある立場にいて公正の手本となるべき人たちが,そうしていなかったのです。(出エジプト記 18:21; 23:6-8。申命記 1:17; 16:18)ミカはこう訴えかけています。『さあ,聞くように。ヤコブの頭たち,イスラエルの家の司令者たちよ。公正を知ること,それがあなた方の務めではないか。善いことを憎んで悪を愛し,民から皮を,その骨から生肉を引きちぎる者たちよ』。―ミカ 3:1-3。イザヤ 1:17。
 ……さらにミカは,農村の生活に基づく別の例えを用い,『報いを求めて裁きを行なう』君たちが,おどろ,あるいはいばらの垣根のようであると述べています。(ミカ 7:3,4)おどろやいばらの垣根だらけの場所を通るとどうなるか,想像してみてください。おそらく引っかき傷ができ,服が破れるでしょう。指導者たちは神の民にそのような影響を与えていました。兄弟たちを公正に扱うどころか,不実で堕落した者となっていました。―ミカ 3:9,11。
 ゼパニヤも同様の点を指摘し,「その中にいる君たちはほえたけるライオン,その裁き人たちは朝まで骨をしゃぶることのなかった夕べのおおかみであった」と述べています。(ゼパニヤ 3:3)想像できますか。神の民の指導者たちが,飽くことを知らない獰猛なライオンのように義を無視していたのです。裁き人たちが,飢えた貪欲なおおかみのようにあらゆるものをむさぼり食い,朝には骨しか残らなかったのです。そのような状況で,どうして公正が施行されるでしょうか。民を世話するどころか餌食にする指導者たちにより,公正がずたずたに引き裂かれていました。
 明らかに,神に献身した国民のこれら指導者たちは神を知っていませんでした。知っていたなら,ゼカリヤ 8章16節の言葉に従っていたことでしょう。こうあります。「あなた方はこれらの事をすべきである。すなわち,互いに対して真実を語れ。真実と平和の裁きとをもってあなた方の門の内で裁きを行なえ」。イスラエルの年長者たちは都市の門に集まり,第一印象や個人的な好みではなく神のお考えに沿って司法上の問題を扱うことになっていました。(申命記 22:15)エホバは,富んだ人や著名な人をえこひいきするなどの不公平な態度について警告を与えておられました。
 ……使徒パウロはクリスチャンに手紙を書いた際に,ゼカリヤ 8章16節の一部を引用しました。(エフェソス 4:15,25)ですからわたしたちは,公正に関する12預言書の警告と助言が今日の会衆にも適合することを確信できます。年長者つまり監督たちは,エホバを知ってその公正を反映する面で模範となるべきです。
 ……ですからクリスチャンの監督も,「真の公正をもって」裁き,「愛ある親切と憐れみ」を発揮するように努力しなければなりません。そのようにして,エホバを知るようになっていることを表わすのです。



◇ 「エホバの日を思いに留めて生きる」, ものみの塔聖書冊子協会

 ヨナは,聖書以外の本の筆者には見られないような,隠し立てのない,慎み深い態度を示しました。自分の不従順や,エホバへの信頼を欠いた時の出来事を包み隠さず述べています。自らの使命に対して,また神がニネベ人を容赦されたことに対して自分が取った間違った態度を覆い隠そうとしていないのです。わたしたちが見倣うべき何と立派な慎みの手本なのでしょう。
 ……わたしたちはだれしも,不親切なことを言ったりしたりして,後ほどその事実を思い知らされた,という経験があります。そんな時,恥ずかしく思ったり,幾らか罪の意識を感じたりするものです。そのような感情のゆえに,間違いを否定する人もいれば,言い訳として真実を曲げた“説明”をする人もいます。あるいは,気まずい状況で,都合の悪い事柄には触れずに事実をうまく言い換えたくなるかもしれません。そのような場合,語った内容に偽りはなくても,まるで違った印象を与えることになります。世間でよくある真っ赤なうそではないとしても,本当の意味で『おのおの隣人に[あるいは兄弟に]対して真実を語っている』ことになるでしょうか。(エフェソス 4:15,25。テモテ第一 4:1,2)クリスチャンが兄弟に対して,相手は真実でない不正確な事を信じ込むだろうと承知のうえで曖昧な言い方をする時,神はどうお感じになるでしょうか。
 ……預言者が「欺くこと」と『口の中にこうかつな舌を持つ』者とを非としているという点を,わたしたちは意識すべきです。
 ……神は,わたしたちが行なうよう望んでおられる善良な事柄も,預言者を通して明らかになさいました。ゼカリヤ 8章16節にこうあります。「あなた方はこれらの事をすべきである。すなわち,互いに対して真実を語れ。真実と平和の裁きとをもってあなた方の門の内で裁きを行なえ」。……相手の側は,聞いたり読んだりする事柄が真実であると期待してよいはずです。






#100

 エホバの証人の子供は小学生くらいになると「神権宣教学校」の生徒になり、演壇に立って5分の講話を行うよう割り当てられます。

 私が神権宣教学校の割り当てを受けると、母は私に「女の人の声で話す訓練」ということを強要するようになりました。私は嫌がったのですが、母は引き下がりませんでした。
 母は私を脅迫して、言うことを聞かないなら今後は食事を一切与えない、おまえなんか死んだっていい、と言いました。母が食事をくれないことは幼少のころから日常的に起こっていたことですし、そのせいで私は普段からかなり飢えていましたので、従うよりほかありませんでした。
 訓練の間、母は繰り返し「もっと女の人の出すような声で」ということを要求し続けました。それができなければ食事は与えないと言いました。私は必死になり、女の人のような話し方を頑張りました。
 最初の割り当ての日、集会に行くとき、母は、もしうまくできなかったら帰っても家に入れない、と言いました。それで私は、集会で、大勢の兄弟姉妹の見ている前で、恐怖に震えながら、一生懸命女の人の話し方で割り当てを果たしました。

 割り当てを終え、集会が終わると、会衆の人たちが集まってきて、どうしてあんな女性みたいな声で話をしたのか、と聞いてきました。そこで私は、母からそのように強要されている、うまくできなければ食事は与えられない、と説明しました。
 すると、会衆の兄弟姉妹たちはただちに、いま私の言ったことは全く聞かなかったことにして、そのままそこから立ち去って行きました。そしてこの人たちがこの問題に言及することは、もう二度とありませんでした。

 寺方会衆の人たちには、すでに「この子が話しても一切相手にしてはならないことのリスト」というものができあがっていました。しかも、それを徹底するよう監視する人もいるという具合です [#51] 。この日、リストには新たな一行が書き加わり、彼らはそれに従ったのです。

 この後も、私は母に脅迫されるまま、中学のころまで、女の人の声で割り当てを果たし続けることになります。そして、会衆の人たちも、こうして繰り返されるこの問題を延々と無視し続けることになります。
 母はこのことを面白がっていました。

 さて、ここで私としては一点はっきりさせておくべきことがあります。それは、「知らないことと隠蔽することとは違う」ということです。どちらの場合も、当人は「そんなことは知らなかった」と言うかもしれませんが、その実態は真逆です。
 私と寺方会衆の場合、事の発端は、私が虐待を訴えた時に会衆が「そんなことはあるはずがない」と言ったところにあります。もし彼らが、心の底から本当にそう思ったからそのように言ったのであれば、その後様々な事実が明らかになるにしたがって、認識と反応を改めざるを得なくなったはずです。ところがそのようなことは全く起こらず、こうして寺方会衆の人たちは自らの正体を露わにしました。
 彼らはそれを知らなかったのではありません。話が本当だと信じられなかったのでもありません。ですから、これは「隠蔽」です。そして、寺方会衆の人たちは、母の共犯者です。






#101

 私が神権宣教学校の割り当てを果たすようになると、その都度、私は会衆からの誹謗中傷にさらされることになりました。

 当時の割り当ては、聖書のどこを読むかだけが指定されていて、何を話すかは自由でした。話の題も自由に決めます。話すことが少々間違っていたとしても何の問題もありません。なにしろこれは「学校」ですし、そのうえ生徒は子供です。生徒の中にはヘンテコリンなうえに間違いだらけという講話を連発する方もいますが、せいぜい親切で前向きな助言をもらえるくらいです。
 ところが、私の場合はかなり異なる反応がありました。私は背教者呼ばわりされたのです。

 会衆の人たちは口々にこう言いました。この子は身勝手にも独自の聖書解釈を広めようとしている。この子はなんて高慢なんだ。エホバに対して反抗的だ。背教者だ。こんな危険な子とは一切かかわってはならない。このような非難の言葉は、実際に私が何を話したかに関係なく浴びせられました。
 困った私は、講話の際にはエホバの証人の出版物の記述をほぼそのまま読み上げたりしたのですが、それでも何も変わりませんでした。演壇から何か話せば、その都度話の内容は曲解され、「これは危険な教えだ、背教だ」と言われるのです。

 私が集会で注解(コメント)をするようになると、この問題は劇的になりました。講話は月に1度程度ですが、注解は月に10回くらいあります。それらの一言一言にこのような非難の言葉がついてきたのです。
 これについても、私は同じ対策を講じ、「読む注解」ということをやりました。自分の言葉で語らず、テキストを読む、ということです。これを何年か続けましたが、会衆の反応は全く変わりませんでした。とにかくこいつは背教者なんだ、ということらしいです。

 こういうことが延々と続くことには、寺方会衆にとって極めて重要な、一つの効果がありました。もとの話が何であったかがわからなくなってしまうのです。
 そもそもの話、私が会衆の誰からも相手にされなくなり、そのうえ迫害までされたのは、私が児童虐待の被害を訴えたからでした。
 メカニズムとしてはこんな感じです。私が児童虐待の被害を訴える → 会衆はその声に耳を傾けないことにする → 相手にしないことを正当化する理由が必要になる → 彼が背教しているからという理由が考案される → 彼が背教しているという具体的証拠が必要になる → 具体例がたくさん示される → 具体例は日々新しく追加される → こうしてついに元の理由は消えてなくなってしまう。

 ですから、これは「隠蔽」です。

 さて、すこし話が脱線しますが、子供のころのこのような経験は、私がじゅうぶんに大人になってから一つの大きな成果を生み出すことになります。
 私は、それまでさんざん言われてきたこと、つまり「独自の聖書解釈を説く」とか「背教する」とか「エホバに逆らう」ということが何なのか、実のところ全く知りませんでした。しかしついに、私はそれを知りたいと思うようになりました。そして、そのようなことを調べ始めた時、私には、普通のエホバの証人だったら感じるようなためらいや恐れの気持ちはありませんでした。というのも、すでに私は存分に背教者呼ばわりされていましたので、そういうことに気が引けてしまう気持ちがゼロになっていたのです。
 こうして、ようやく背教とは何かを知るようになった私は、背教の悪影響に対する保護活動に身を投じるようになります。この文書が掲載されているこのウエブサイトも、その活動の一部です。そして、その活動がエホバの証人とその周辺の社会にもたらした成果は驚くほどのものでした [#71]

 話を戻します。日々このような誹謗中傷にさらされるうちに、私には気づいたことがあります。一つ目に、世の中には「自分で自分の記憶を上書きするタイプの嘘」というものがあるということです。このタイプの嘘をつく人は、自分が嘘をついていることを自覚することが困難だったりします。寺方会衆の人たちはそのような嘘に染まっていました。二つ目に、そのような嘘に染まった人たちは、甚だしいまでに自身の精神を損なうということです。それは、私の言い方では「転回」です。

 ここで言う「転回」の語義は「転換」とだいたい同じです。転換するのは「正論」とか「正義」とか「真実」といったものです。この精神状態に陥った人は、何が真実なのか、何が正義なのか、何が正論なのか、といったことが頭の中で常に入れ替わっていて、真理を選択しようと努力した結果、真理を選択することができなくなってしまいます。
 これらの人たちは、日常生活のレベルでは割と正しい選択ができます。深く考えないからです。しかし、状況が重大になったり、切羽詰まってきたりすると、話が変わってきます。その人は、正しい選択をするために深く考える必要に迫られ、こうして、ことが深刻になればなるほど、その人が正しい選択をする確率は下がっていきます。






#102

 というわけで、続けて「異常行動」ということについて指摘したいと思います。

 ここで言う異常行動とは何かを、たとえで説明しましょう。
 ある学校のある教室で、数学のテストが行われているところです。テストの内容は難しく、生徒たちの大半は困り果てています。すると、一人の生徒が立ち上がり、こう叫びます。「このような問題を一人で解こうとするのはよくない。難しい問題にはみんなで一致協力して立ち向かうべきだ!」 すると周りの生徒たちもその言葉に賛同し、口々にこう言います。「ぼくのお父さんも、一人で問題を抱え込むのはよくない、周囲の人に助けを求めることも時には必要なんだ、と言っていたよ」。「大切なのはクラスのみんなが互いに支え合うことなんだ」。こうして、生徒たちはみんなで協力して問題を解き始めます。
 この話の問題点は何でしょうか。それは、「正論」あるいは「正義」の選択が適正でないというところです。そして、その背景には、事実に対する認識の選択が適正でないという問題が潜んでいます。
 この世の中には様々な正論があります。一つの正論は、ある状況にうまく適用できても別の状況には適用できないものです。そのようなわけで、正論の選択は、状況に対して適正でなければなりません。もしこれを間違えるなら、訳の分からないことになります。

 一連のやりとりにおいて、寺方会衆の長老団にはどのような異常行動があったでしょうか。言い換えると、正論の選択の異常があったでしょうか。
 これは非常にたくさんあります。主なものを見ていきましょう。

 山下義人兄弟には、メールに対する返信の遅れを繰り返すという問題行動がありました。問題を指摘された彼は、その問題を長老団で扱ってもらって彼らの判断に従うことにしました。 [#7]
 この場合の正しい選択は、自分の罪を自分で考え、自分で反省し、自分で悔い改めて、自分で謝罪するというものでした。

 そこで、私が彼を説得して、自分で悔い改めるべきことを説くと、彼はその言葉尻をとらえて話をすり替え、「あなたの言うことは解りますが、あなたが牧羊を拒絶しているので話が進まなくて困っています」というふうに話を進めました。 [#10]
 この場合の正しい選択は、私の言うことをずれなく正確に理解したうえで、話を逸らしたりせずに、彼自身がどうかを考えることでした。

 そこで私は、私は牧羊を拒否などしていないと弁明しましたが、何が起こったでしょうか。私は大井一弘兄弟から、「あなたは長老団に不信感を持っているのでその件について話し合う必要がある」と言われました。 [#14]
 この場合の正しい選択は、これは長老の行動が問題であるとの認識を述べることでした。

 私がこのやりとりをネット上に掲載すると、大井一弘兄弟は「長老に謝罪を求めるだけでなくそれをネットに公開することまでするとは、和睦についての聖書の教えに反する行為だ」ということを言い、掲載の撤回を要求してきました。 [#43]
 この場合の正しい選択は、彼が自分の罪を認めて反省し、謝罪したうえで、腰を低くして掲載の中止をお願いすることでした。

 さらに彼は、私のウエブサイトのことを「背教者の教えを引用する危険なウエブサイト」と呼ばわり、閉鎖を要求してきました。 [#43]
 この場合の正しい選択は、彼がウエブサイトを正しく評価し、ウエブサイトの運営はこれまで通り続けてよいと述べることでした。

 これらはすべて、いま論じているところの「異常行動」です。長老たちは、常に正論を選択してはいますが、その選択が狂っているのです。

 それは、道具の選択が異常であることにもたとえられます。もしあなたのそばに、メガネを使ってうどんを食べる人、自転車を使って泳ぐ人、腹筋を使って腕立て伏せをする人、といった人がいたら、あなたはどう思うでしょうか。
 どんなに簡単なことであっても、やり方を間違えるなら、あまりにも困難なことになってしまったり、全くできなくなってしまうということがあります。

 一方、児童虐待の問題は非常に難しい問題です。特に私の場合は、会衆からの抑圧や迫害という要素もあります。このような場合、問題に首尾よく対処するには、選択が求められるひとつひとつの場面において常に適正な判断をし、それを積み重ねていくしか方法がありません。ところが、今回の長老たちの一連の行動を見てみると、彼らはほぼ一貫して、延々と、間違った判断を繰り返しています。これでは話がこじれるのも当然です。

 ここまでひどいと、それは氷山の一角なのだろう、ということも考えなければなりません。それはこの種の異常行動を繰り返す人の特徴というものです。
 たとえば、私は組織にいくつもの提言を書いていますが、長老たちはこれを「エホバの組織に対する反抗である」と判断しているかもしれません。私の言葉の多くを無視したことについては、「エホバの名に傷をつけないための判断である」とか「会衆の一致を守るための措置である」とか実にそれらしいことを言っているかもしれません。
 こういう考え方のせいで、寺方会衆の長老たちは自分の罪を自覚することができなくなっているのかもしれません。正論の不適切な選択という技を繰り出している限り、正しいのは自分のほうであるという認識の芽生えは避けられません。もし彼らがそのようなまやかしをこよくなく愛しているとするなら、どうでしょうか。






#103

 寺方会衆の長老たちに見られるこのような振る舞いは、私がすでに何度も述べた「善良な攻撃性パーソナリティ―」 [#53], [#55], [#58], [#61], [#67] に特徴的に現れる振る舞いなんだそうです。私個人としては、普通の人にもこういうことはあるんじゃないかと思いますが、そこには何かの差があるのでしょう。

 この現象について、多くの専門家は「良心と羞恥心の欠落」が根本原因だと指摘しています。善良な攻撃性パーソナリティ―にはこの二つがないか、あっても無視されるため、普通の人なら必ず思いとどまるようなことが次々とできてしまうらしいです。

 しかし、これとは別の説明もあります。



◇ 「平気でうそをつく人たち ― 虚偽と邪悪の心理学」, M・スコット・ペック (表記等修正)

 精神科医のあいだでしばしば「一時性精神分裂」と呼ばれているものがある。サラのように、通常は世の中でうまくやっており、本格的な精神分裂病になることもなく、また入院も必要としないが、一時的に、とくにストレスを受けたときに思考の混乱を見せ、それが明らかに「典型的」な精神分裂症のように見える人たちの症状を、われわれ精神科医はこう呼んでいるのである。もっともこれは、公式の診断カテゴリーとなっているものではない。というのも、これについて明確に規定すべき条件が十分にわかっていないからである。それどころか、これが真の精神分裂病と実際に関係があるのかどうかさえ、わかっていない。
 しかしながら、こうした明瞭性の欠如にもかかわらず、この問題は提起すべきものである。というのは、精神科医の診察を受けている邪悪な(善良な攻撃性パーソナリティ―の)人たちの多くは、この一時性精神分裂があると診断されているからである。逆の言い方をすれば、われわれが一時性精神分裂病者と呼んでいる人たちの多くは邪悪な(善良な攻撃性パーソナリティ―の)人たちである。両者がまったく同じというわけではないが、この二つのカテゴリーには大きく重なりあった部分があるように思われる。



 この指摘については、なるほど、と思うところがあります。

 この記述にでてくるサラは、話をごまかそうとしてこんなことを言っています。これが一時性の精神分裂であると診断されるそうです。



◇ 「平気でうそをつく人たち ― 虚偽と邪悪の心理学」, M・スコット・ペック (表記等修正)

 「でも、あいにくですけど、私には先生のモルモットになる気はありませんし、先生に助けていただくことなんか何もありません。私にはどこも悪いところなんかありませんもの。助けが必要なときには、牧師さんのところにまいります。牧師さんは私を理解してくださいます。私がどんな目にあっているか、牧師さんにはわかっていただけます。私に必要な力は、みんな神が与えてくれます。」



 見たところこれは、1. 「医者は私をモルモットにしようとしている」というでっち上げを持ち出したうえで、2. モルモットにされること(正しくは、医者から指導を受けること)を拒否し、そのうえで、3. 「私は神と牧師の指導に従います」と宣言することによって自分の罪状を認めることを回避している、というものです。

 しかし、私としては、もっとエホバの証人らしい思考をしたいと思います。
 私が問うのは、「悪霊(邪悪な天使)たちは今どこにいるのか」ということです。

 聖書によると、「終わりの日」に先立って、天では、聖なる天使たちを率いたキリストと悪霊たちを率いたサタンとの戦争があります。サタンは戦争に負け、サタンと悪霊たちは天から追放されて地上に降りてきます。こうして、サタンの悪影響にさらされて人類社会は不安定になり、終わりの日が始まります。
 そして、はっきりと述べていないものの聖書が強く示唆しているところによると、地上に降り立った悪霊は地上に打ち上げられた魚のようです。悪霊たちは誰かに取りついていないと長くは生きられないらしいです。

 では、私は問います。いま悪霊たちは誰に取りついているのでしょうか。悪霊たちはこの世の中のどこかにいるに違いないです。どこにいますか。
 この問いは、言い換えるとこのようになります。いま、悪霊たちが特に取りつきたいと思うのはどのような人たちでしょうか。そのような人たちに、その証拠は見つかりますか。






#104

 その問いの答えは必然的に、「エホバの証人の会衆の長老たちにである」ということになります。では、その証拠となるのは何でしょうか。
 私が特に思うところでは、悪霊と共にある長老の際立った特徴となっているのは「エホバの名をしきりに用いる」ことです。どうしてかというと、悪霊たちにとってはそれが快感だからです。考えてみてください。エホバに仕える会衆のただなかに長老という皮をまとった悪霊が居座り、悪を行う。悪を行うにあたってはしきりにエホバの名を用いてエホバを侮辱する。すると会衆はエホバの名によって盲目にされ、長老の行う悪を見過ごすばかりか、協力までしてしまう。これは最高ではないでしょうか。

 寺方会衆の長老団についてはどうでしょうか。詳細な証拠が山ほどあります。この文書で扱われている内容に限ってもかなりあります。

 一つに、この長老団は私と対立することを避けようとせず、抗争を挑んだ、ということがあります。
 考えてみてください。私は「擁護派エホバの証人」です。私はこの職を何十年も務めてきました。そのことを長老たちはよく知っています。当然、この職務を果たすにあたって私が示してきた資質も知っています。世についての知識がどれほどあるか、とか、聖書に対する理解がどれほど深いか、とか、どれほどの経験を積んでいるか、とか、不測の問題が生じた時に対処する能力はどれほどか、とか、嘘や詭弁に対する考察はどれほど深いか、とか、悪を暴いて論駁する話術がどれほど優れているか、とか、悪魔の罠に囚われた人を救出するために自分を犠牲にする覚悟がどれほどあるか、というようなことです。
 もし彼らが単に悪を行うだけの長老なら、これだけのことを知っているのですから、「こいつと対立するのはやばい」と思うはずです。そんなことをしたら自分の身を破滅させかねないじゃないですか。もし対立が避けられないなら、よく用心して、弱みを突かれないように振る舞いを巧妙にしたでしょう。ところが、この長老たちはそのような工夫もなく、自分たちが悪を行ういつものやり方で私に挑んできました。長老たちが私にやったことは、その良し悪しを別にしても、まったく賢くないということが言えます。
 では、長老たちをこのような愚かな行動に駆り立てたのは誰でしょうか。それは悪霊たちではないでしょうか。悪霊たちにとって擁護派エホバの証人は天敵のような存在です。悪霊たちには私に対する恨みがあります。ですから悪霊たちは、寺方会衆の長老たちが私に遠慮したり手を引いたりすることを一切許可しなかったのではないでしょうか。

 さらに、長老たちは私のウエブサイトの閉鎖を要求しました [#40]。長老たちは、私のウエブサイトがどれほど役に立ってきたかをよく知っています。これを閉鎖してしまうとどのような人たちにどれほどの損失が生じるかも知っています。それでも彼らはウエブサイトの閉鎖を要求しました。これも、同じ理由により、悪霊の命令によることではないでしょうか。

 さらに、彼らが聖書をどのように用いたかということがあります。先にも指摘したように [#102] 、この長老たちは、自分の罪状が問われているというのに、「あなたは長老団に不信感を持っているのでその件について話し合う必要がある」と狂ったことを言いました。その時に、「聖書のこの言葉にしたがって話し合うことになります」といって示した聖句は何だったでしょうか [#32]。このような言動が悪霊たちから出たのでないとすれば、それは何なのでしょうか。

 もしかして、これらはすべて神から出ているのでしょうか。エホバが聖霊(聖なる力)を彼らに送り、聖霊が彼らを導いたので、長老たちはこれらの悪をためらうことなく行うようになったのでしょうか。まさか、そんなことはないでしょう。
 悪霊たちは無能なのでしょうか。年を取ったせいでもうろくしてしまったのでしょうか。もし邪悪な長老がいて、悪を行おうとして奮闘しているのを見たなら、彼らはただそれを見ているだけにしておくでしょうか。彼らは長老のもとに集まってきて、悪を行う長老を支えるのではありませんか。






#105

 さてここで、私から寺方会衆の長老団に対する通告があります。

 私は、寺方会衆の長老たちに対して次の聖句の命令を適用することとしました。



ヨハネ第二 8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
よく気を付けて,私たちが働いて生み出したものを失わないようにし,十分な報いを得られるようにしなさい。キリストの教えを踏み越え,その教えに従い続けない人は皆,神と結び付いていません。キリストの教えに従い続ける人は,父とも子とも結び付いています。キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。あいさつの言葉を掛けるなら,その人の悪い行いに加わることになります。



 寺方会衆の長老団の背教はすでに明白ですし、しかも、私からの再三の訓戒にもかかわらず彼らはまったく悔い改める様子を見せませんので、いよいよ、私は聖書のこの命令の通りにしなければならなくなりました。
 今後、私は、寺方会衆の長老と会うことがあっても挨拶をしません。また、「家に迎え入れる」こと、つまり長老との面談に応じることもありません。これまで私は長老による牧羊の実施を求めてきましたが、この要求は破棄されました。

 さらに、私には全国のエホバの証人たちに対しても手厳しく言うべきことがあります。

 というのも、兄弟姉妹の中には、この文書の中で私が組織に対して述べた提言のひとつ、謹慎処分の制定 [#23] について批判を言う人たちがいるからです。そのような規則は聖書に書かれていないじゃないか、神とキリストに決定権があることに個人が口出しするな、と言うのです。
 なるほどその意見はもっともだ、と私は思います。しかし私は反論します。そういう考え方をするのなら、あなたたちは聖書の教えに従えばいいんじゃないですか。

 私が問題にしているのは、いま示したヨハネ第二 8-11の言葉です。すでに指摘したように、この聖句が基本的に扱っているのは背教した使徒と長老たちです [#71], [#72]。これらの人たちは、背教したからといって会衆を去るわけではありません。居座ってしまうのです。それで、信者の側に対応が必要になる、ということを聖句は言っています。それで私は言います。あなたたちはこの教えを実践すればいいじゃないですか。あなたたちはいったい何をしてるんですか。

 この聖句は背教した長老を家に迎え入れることと挨拶をすることとを禁じていますが、実際にはさらに広い意味があります。一つには、長老が神への奉仕に携わっている時、信者はそれに参加してはならない、ということです。さらには、長老が演壇から講話をしている時、信者はその講話を受講してはならない、ということです。ほかにもあります。聖句に書かれている二項目は、こういったたくさんある項目を要約しているのです。
 そして、書かれていないものの中に非常に重要な項目があります。それは祈りです。背教した長老が祈りを捧げるとき、信者たちはその祈りに加わってはなりません。祈りに和してアーメンと言ってもなりません。なぜなら、その祈りに加わる人は、神にではなく悪魔に祈りを捧げることになるからです。彼らが祈りを捧げるエホバはエホバではありません。それは、エホバの皮をまとった悪魔サタンです。

 ところが、聖書時代のクリスチャンたちと異なり、現代のエホバの証人のほとんどは、この聖句が長老に適用されるということを考慮しません。兄弟姉妹たちはこのようなことを考えています。会衆の長老たちは神の聖霊に導かれて背教から会衆を守る役割を果たします。もしある会衆に背教者が現れるなら、長老はその者の名を会衆に示し、ヨハネ第二 8-11の命令に従って背教者から離れるように通達します。会衆はその通達に従い、こうして会衆は背教から守られます。このような考え方をしている限り、背教者に長老は含まれないことになってしまいます。
 しかし、考えてみてください。全世界にはエホバの証人の会衆があり、長老もたくさんいます。それらの長老たちは全員がエホバの聖霊に導かれ誰一人として背教していないのでしょうか。背教しそのうえ悪霊を宿している長老は一人もいないのでしょうか。そのようなことはないはずです。たくさんいる長老たちの中に背教者がいることは大前提です。問題なのはその割合はどれほどかということです。そして、たとえ世界にたった一人であったとしても背教した長老がいるなら、その長老のいる会衆はこの聖句の命令に従ってその長老を退けなければなりません。ですからこの命令は無効になどならないのです。

 さらに考えてください。もし、あなたの会衆に背教した長老がいたとします。彼は会衆にこのように言ったりするでしょうか。この会衆には背教した長老がいます。それは私です。ですから会衆の皆さんは聖書の命令に従って、私に対して挨拶もしないように心がけてください。そのようなことはあるはずがありません。ですから、この聖書の命令は、信者個人に対する、神からの直接の命令です。エホバの組織が指示するから、長老が指示するから、それに従うというものではありません。あなたには、この命令を、自分で考え、自分で判断し、自発的に実行する、神からの責務が課されています。

 その責務を一人一人の信者が忠実に果たすなら、どうでしょうか。背教した長老は、背教を悔い改めて会衆に許しを請うか、長老を辞任するか、それとも会衆を出ていくかの判断を迫られるのではないでしょうか。そうすれば、謹慎処分についての私の提言は不要になります。聖書の中に長老に対する謹慎処分についての規則がないのは、この命令があるからではないでしょうか。

 では、あなたたちは聖書のこの命令を守っているでしょうか。あなたの近隣の会衆でこういうことが生じたことは一度でもありますか。あなた自身は、この聖書の命令に従ったことが一度でもありますか。ないはずです。しかも、ちょうど今私がその命令を実践することを宣言したので、あなたは驚いたのではないですか。それなのに、あなたたちは私に向かって何を言っているのですか。






#106

 さらに、またひとつ、私から組織に提言を述べたいと思います。今回の提言には初期の話を蒸し返すところがありますが、話には流れというものがありますので、いま述べます。

 提言の内容を明示するためにたとえを示したいと思います。
 ある学校でひどいいじめの問題が生じ、問題になります。いじめをした子は、いじめられた子とその親と教師たちから手厳しく反省を求められる事態に直面します。状況が自分にとって不利であることを悟ったその子は、とっさに、僕はお父さんとお母さんの判断を仰ぎます、と宣言します。その子はさらにこう言います。もしお父さんとお母さんが反省しなさいと言うなら、僕は反省します。謝罪しなさいと言うなら、僕は謝罪します。いじめはもうやめなさいと言うなら、もうやめます。でも、お父さんとお母さんがそう言わないなら、反省も謝罪もしませんし、いじめをやめもしません。そこにその子の両親が現れてこう言います。この子がいじめを反省することはありません。謝罪することもありません。もちろん、いじめをやめることもありません。するとその子はこう叫びます。僕はお父さんとお母さんに従順です。この僕がお父さんとお母さんに逆らうことなどありません。この言葉を聞いた人たちは思います。なんだ、この親子はグルじゃないか。これはどうしようもない親子だ。このようだと、いじめの問題はまったく解決する見込みがありません。

 もちろんこのたとえは、山下義人兄弟と長老団による悪事を指しています [#02], [#07], [#10], [#13], [#26] 。少なくとも寺方会衆では、こういう恥知らずな行為がまかり通っています。そもそもこの件は彼が自分で決着をつけるべきことでした [#102] 。そして、山下義人兄弟は今も、私は長老団の決定に従順ですという態度を取っています。これは相当に狂った話です。

 この時のやりとりを分析すると、長老たちには自分の罪を認めて反省することを回避するさまざまなテクニックがあることが見て取れます。ひとつは、すでに指摘した「謝罪もどき」です [#20] 。一見して反省しているように見えても実際には何も反省していないため、もう同じ罪は犯しません、というような約束は得られませんし、何かの処罰が生じることもありません。それに加えて、今語っているもの、つまり“委任”があります。自分の罪を反省しないという見るからに間違った行為も、誰かの指示によるなら、「自分は指示に従ったに過ぎない」と言い訳ができます。
 委任の対象が神聖なものであるなら、それ以上のことが言えます。たとえばこのように言えます。「私は謙遜な態度でエホバに仕えます」。「私はエホバとその組織の指示に忠節に従います」。長老たちの中にはこのような言い方をする人までいます。「もしあなたが、自分は正しくて相手が間違っていると確信しているとしても、エホバに対して謙遜な思いを持っているなら、その件についての組織の判断と指示に従うはずです。」、「自分が正しいからといって、神の方法を退けて自分の方法で物事を推し進めようとするのは正しいことではありません。」、「大切なのは聖書に何が書かれているかです。私たちは人間の知恵にではなく神の知恵に頼らなければなりません。」、「エホバが是認して祝福するのは、エホバが立てられた権威の指導に服する人たちです。」。
 ようするに、複数の長老が協力して、エホバをうまく使えば、長老の罪は消せるのです。しかも、“委任”による罪の隠蔽は、複数の人がそれぞれの役割を果たすことによって成り立つということもあって、公然と行われることになります。これはエホバの御名に対する冒涜ではないでしょうか。

 そこで、私は組織にこのように提言します。組織は、私が言うところの“委任”について、不適切な委任を行った人物と、その委任を受けた人物を公に処分する制度を作ってください。公にです。特に、委任を受けた人物には、委任した人物より重い処分が下されるようにしてください。抑止力とするためです。またそうするにあたっては、この罪を、エホバの御名に対する冒涜の罪と位置づけてください。

 このような提言を述べたのですから、当然、寺方会衆の長老団はその見本にならなければなりません。そこで、私は寺方会衆の長老団について次の通り要求します。山下義人兄弟は、不適切な委任を行い、現在に至るまで自分の罪の反省を免れているため、その罪に対するものとして1年と、罪を免れた期間のおよそ1年を合わせた、2年の間、長老の資格と権限を停止してください。また、その委任を受けて彼を助けた長老団は、その倍の、4年の間、長老の資格と権限を停止してください。

 ただし、もし、寺方会衆の兄弟姉妹が私のところまでやってきてこのように申し入れるなら、話は別です。私たちは、あなたが指摘してくれた、背教した長老についての聖書の指示 [#105] に従うことにしました。私たちはこの長老たちと会っても挨拶をしませんし、その祈りに加わることもしません。
 もし会衆がそのように言うのなら、なるほどそれは神の御心にかなう正しいことですし、謹慎処分も不要になりますので、私は寺方会衆の長老団に対する要求を取り下げ、兄弟姉妹たちにこの問題をゆだねたいと思います。






#107

 聖書の巻末の書、「啓示の書(黙示録)」には、「主の日」に「征服者」が背教した長老たちの正体を暴くことが予告されています。



啓示(黙示録) 2:2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
『私はあなたの行いと,労苦と忍耐を知っています。また,あなたが悪い人たちを容赦せず,使徒だと自称するものの実は違う人たちを試して,彼らがうそつきだと見抜いたことも知っています。



 啓示の書の冒頭には、キリストから7つの会衆(教会)への訓戒の言葉が記されています。この言葉は、そのうちの1番目、エフェソスの会衆に対する訓戒の中にあります。

 ここで述べられている「使徒たち」は使徒たちと長老たちの総称です。エフェソスのクリスチャンはこれらの人たちが背教していることを「試して見抜き」ます。これは、エフェソスのクリスチャンが背教している長老たちを罠にかけ、その正体が露わになるように仕向けたということを暗示しています。

 この7つの会衆に対する訓戒の本質は、預言です。この記述は、すくなくとも見かけ上は1世紀終わりごろの諸会衆に向けた言葉となっていますが、啓示の書に収められているのですから、実際には終わりの時代の諸会衆に起こることの予告です。しかも、この一連の記述は命令を伴った預言です。「諸会衆は背教した長老たちの正体を暴露しなさい」、そして「暴露するだろう」と述べているのです。

 では、現在のエホバの証人に、このことはできているでしょうか。率直に言って、まったくできていません。
 聖書の中でキリストが「しなさい」と命令しているのにやっていない、「するだろう」と予告したのにそうなっていない、ということです。これはひどいのではないでしょうか。何としてでも正さなければなりません。

 しかしこれはなかなかたいへんなことになりそうです。
 まず、全世界のエホバの証人の会衆において、その信者たちには長老たちを検分する義務が課されなければなりません。長老たちはそのことに対して文句など言えません。信者たちに向かって「これはエホバが立てられた権威に対する不敬である」と言うことはできせん。「エホバに対する反抗である」と言うこともできません。「会衆の一致を乱す行為である」とも言えません。もちろん、長老が信者たちに制裁を下すこともできません。
 そして、会衆がある長老を背教者だと判断したなら、その判断は尊重されなければなりません。しかも、エホバの組織はキリストの手本に倣ってその会衆を褒めなければなりません。出版物で取り上げたり、大会でインタビューを行ったり、ビデオを製作して配信したりしなければなりません。もちろん、正体の暴露をやめるよう要求することなどできません。

 果たして、この人たちにこのことはできるでしょうか。






#108

 啓示の書に記された諸会衆への訓戒を読む人は、この訓戒の中に同じような言い回しがいろいろとでてくることに気づかなければなりません。



啓示(黙示録) 2:1-7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エフェソスにある会衆の使者に書き送りなさい。右手に7つの星を持ち,7つの金のランプ台の間を歩く者が,こう言います。『私はあなたの行いと,労苦と忍耐を知っています。また,あなたが悪い人たちを容赦せず,使徒だと自称するものの実は違う人たちを試して,彼らがうそつきだと見抜いたことも知っています。さらに,あなたはよく忍耐しており,私の名のために辛抱してきました。疲れ果ててはいません。しかし,とがめるべき点があります。あなたが,初めの頃に抱いていた愛を失ったことです。それで,自分がどこから落ちたかを思い出し,悔い改めて,初めの頃にしていたことを行いなさい。もしそうせず,悔い改めないなら,私はあなたの所に行って,あなたのランプ台を取り去ります。とはいえ,あなたには褒めるべき点もあります。ニコラオ派の行いを憎んでいることです。私もそれを憎んでいます。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げる次のことを聞きなさい。私は,征服する人に,神のパラダイスにある命の木の実を食べることを許します』。

啓示(黙示録) 2:8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
スミルナにある会衆の使者に書き送りなさい。『最初にして最後の者』,死んで生き返った者が,こう言います。『私はあなたの苦難と貧しさを知っています。しかし,あなたは実際には豊かです。また私は,ユダヤ人だと自称するものの実は違う人たち,サタンに従っている人たちから,あなたが冒瀆されていることを知っています。受けようとしている苦しみを恐れてはなりません。悪魔は,あなたたちのうち幾人かを牢屋に投げ込んでいきます。そのようにして,あなたたちは十分に試され,10日の間苦難に遭います。たとえ死ぬことになっても,忠実であり続けなさい。そうすれば,あなたに命の冠を与えます。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げる次のことを聞きなさい。征服する人は,決して第二の死から害を受けることはありません』。

啓示(黙示録) 3:7-13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
フィラデルフィアにある会衆の使者に書き送りなさい。聖なる者,真実な者,ダビデの鍵を持つ者,扉を開けて誰も閉じられないようにし,扉を閉じて誰も開けられないようにする者が,こう言います。『私はあなたの行いを知っています。見なさい,私はあなたの前に扉を開けました。誰もそれを閉じることはできません。私は,あなたに少しの力があり,あなたが私の言葉を守って,私の名を否定しなかったことを知っています。私は,サタンに従っている人たち,すなわち,ユダヤ人だと自称するものの実は違い,うそをついている人たちを来させて,あなたの足元にひれ伏させます。そして,私があなたを愛していることを理解させます。あなたが私の忍耐に関する言葉を守ったので,私も,世界中で生じる試練の時にあなたを守ります。その時に,地上に住む人たちは皆,試されます。私は速やかに来ます。あなたの冠を誰にも取られないよう,持っているものをしっかり守り続けなさい。征服する人を,私は神の神殿の柱とします。その人はもうそこから去ることはありません。私はその人に名を記します。私の神の名と,私の神の都市すなわち天の神のもとから下る新しいエルサレムの名と,私の新しい名です。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げることを聞きなさい』。



 ここで特に注目したいのは、スミルナ会衆とフィラデルフィア会衆に対する訓戒の中にある「偽ユダヤ人」に関する言い回しが、エフェソス会衆に対する「偽使徒」のそれと同じであるということです。
 これは言い替えです。1世紀当時、使徒と長老の職についている人のほとんどはユダヤ人でした。ここで述べられている「ユダヤ人」は使徒と長老たちを指しています。

 このことに気づくかどうかで、これらの記述の読み方は大きく変わることになります。
 聖書には、二通りに読めるように書かれたという記述がたくさんあります。多くの場合、表面的な意味は“おとり”です。聖書の読者の大半はおとりのほうに誘われていき、その本当の意味を悟ることはありません。聖書はそのように仕組まれているのです。最初に「使徒」とされたものが「ユダヤ人」と言い替えられているのはそのためです。
 この記述は、表面的な読み方をする限り、ユダヤ教徒によるキリスト教徒への迫害について述べているように思えます。しかし、よく意味を考えると筋が通らないことに気づかされます。ここで述べられている迫害は、背教した長老たちによる征服者に対する迫害を示しています。これらの記述は、徹頭徹尾クリスチャン会衆内で生じることを述べています。

 そして、この3つの記述にはストーリー性があります。
 征服者になる人は、まず背教した長老の正体を暴露します。その結果、征服者は背教した長老から迫害を受けます。しかし、やがて背教した長老は征服者の前に屈服します。ついに、征服者は神からの祝福を得ます。

 この記述は征服者が「征服する」ことについて述べています。何を征服するのでしょうか。背教した長老たちです。






#109

 さてここで、練習問題ということをやりたいと思います。
 というのも、このあと、私は極めて重要なことを公表しようとしているからです。
 こういう話にはついていけないという方もたくさんいると思いますので、心の準備をしていただこうということです。

 聖書の次の言葉を見てみましょう。



コリント第一 6:18

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
性的不道徳から逃げ去りなさい! ほかの罪はどれも人が自分の体の外で犯すものですが,性的に不道徳な行為をする人は自分の体に対して罪を犯しているのです。



 この記述は「淫行(性的不道徳)」について語っています。淫行は「自分の体」に対する罪であると言っています。これはどういう意味でしょうか。

 この記述は、先に指摘したところの“二通りに読める記述”の一例です。表面的な意味はすぐにつかめますが、よく考えると筋が通りません。



◇ 「目ざめよ!」誌2009年10月号, ものみの塔聖書冊子協会

 「淫行を習わしにする人は自分の体に対して罪をおかしている」と聖書は述べています。(コリント第一 6:18)ここ数十年,この言葉の真実さは裏付けられてきました。エイズなどの性感染症で非常に大勢の人が亡くなっています。それだけではありません。研究によれば,性的に活発な若者のほうがうつ病になったり自殺未遂をしたりする可能性が高いようです。さらに,乱れた性生活が望まない妊娠につながり,堕胎に至ることもあります。



 これはこれでなるほどと思わされるのですが、すこし考えてみてください。暴飲暴食は自分の体の外で犯す罪なのでしょうか。淫行は相手や生まれてくる子供に対する罪にはならないのでしょうか。

 この記述の隠された意味は、文脈をよく考えることによって明らかになります。



コリント第一 6:15-20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
皆さんは,自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのですか。では,私はキリストの体の一部を取って,それを娼婦と結び付けてよいのでしょうか。決してそうではありません! 娼婦と結ばれる人が娼婦と一体になることを知らないのですか。「2人は一体となる」と述べられています。しかし,主と結ばれる人は,精神の面で主と一つになります。性的不道徳から逃げ去りなさい! ほかの罪はどれも人が自分の体の外で犯すものですが,性的に不道徳な行為をする人は自分の体に対して罪を犯しているのです。皆さんの体が聖なる力の神殿であることを知らないのですか。神から受けた聖なる力が皆さんの中にあります。そして皆さんは,皆さん自身のものではありません。代価によって買われたからです。ぜひとも,皆さんの体で神をたたえてください。



 「自分の体」という表現は、「キリストの体」の言い替えです。というわけで、この「自分」は、あなたや私ではなくキリストを指します。淫行はキリストに対する罪であるということです。

 ここで重要なのは、隠された意味に気づくとき「淫行(性的不道徳)」の意味は変わるということです。聖書は二通りの淫行を定義しています。二つ目の意味は「背教」、特に広い意味での背教です。その詳細は文脈のコリント第一 6:9-10に示され、6:13で「淫行」と言い替えられています。さらにその前にはコリント第一 5:9-13の言葉があります。この記述は、背教した者は淫行の者であり、キリストに対して罪を犯している、ということを述べているのです。






#110

 コリント第一 6:18についての補足的な説明を三回に分けて書きます。今回は1回目です。

 まず、コリント第一 6:9-10に示されている各種の不品行が6:13では「淫行(性的不道徳)」と呼ばれているところですが……



コリント第一 6:9-10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
正しくない人が神の王国を授けられることはない,ということを知らないのですか。思い違いをしてはなりません。性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人,盗む人,貪欲な人,酩酊する人,ののしる人,脅し取る人が神の王国を授けられることはありません。

コリント第一 6:13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
食物は腹のため,腹は食物のためにあります。しかし,その両方が神によって存在しなくなります。体は性的不道徳のためにではなく主のためにあり,主は体のためにいます。



 ……ここのところがどうなっているのかさっぱり解らないという方はたくさんおられるはずです。

 「食物は腹のため,腹は食物のため」は言葉遊びです。「食べる」という行為が成立するためには「食べる側」と「食べられる側」の両方が必要であるということをひねった言い方で言っています。クリスチャンとキリストの関係もそれと同様だとパウロは言います。つまり、クリスチャンとキリストとが一つの体に結ばれる関係は、キリストから見ればクリスチャンが、クリスチャンから見ればキリストが必要だという関係です。このような風変わりな推論から、クリスチャンの体はキリストにとっての必要物であるという要点が導かれます。そこで、その体を「淫行(性的不道徳)」に用いるのは転用というものである、とパウロは示唆します。さらにパウロは、「食物と腹は存在しなくなる」と書きます。これは、クリスチャンとキリストの関係は極めて重要でしかも永遠のものであるということの、かなりひねった言い方です。

 さてここで、コリント第一 6:9-10にある「性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人,盗む人,貪欲な人,酩酊する人,ののしる人,脅し取る人」という表現をここに詰め込むことを考えてください。これをそのまま使ってしまうと、文章がくどくなってしまって美しくないという美的センスの問題が生じてしまいます。こういう時、パウロは言葉遊びが好きですから、言い替えを用いて一言で済ませてしまいます。
 その結果、この文章は二通りに読める状態になります。表向きの読みでは、「淫行」の意味はその言葉通りの意味です。キリストと一体になるために予約済みであるクリスチャンの体は、キリストと一体になる日まで他の何者とも一体になってはならないということが説かれています。しかし、この表向きの意味には筋の通らないところがあります。そもそも、クリスチャンがキリストと一体となるという時の「一体」はセックスのことではありません。もしこれがセックスのことなら、問題となるのは淫行ではなくセックスです。男と女が結婚して寝床で愛し合うのもだめだということになります。

 そのうえで、パウロはコリント第一 6:18の言葉を述べます。この意味は、クリスチャンとキリストの関係を夫婦の関係に置き換えるとかなり解りやすくなります。
 あなたが結婚したとしましょう。結婚するまで、あなたの体はあなた一人のものでしたが、結婚してからは、配偶者のものになります。さて、結婚しているあなたが淫行の罪を犯したら、それは誰に対する罪でしょうか。配偶者に対する罪になります。
 しかし、パウロが言っているのは夫婦の関係ではなく、クリスチャンとキリストの関係です。






#111

 2回目です。

 ここでパウロは「淫行(性的不道徳)」について語っていますが、その全体を俯瞰するとかなり不自然な内容になっていることに気づかされます。



コリント第一 5:1-8

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は皆さんの中で性的不道徳が行われていると聞いています。異国の人々の間にさえ見られないような性的不道徳で,自分の父親の妻を自分のものにしている人がいるとのことです。しかも,皆さんはそれを誇っているのですか。誇るのではなく嘆き,そういうことをした人を追放すべきではないでしょうか。私の体が皆さんの所になくても,私の心はそこにあり,私は実際に皆さんと共にいるかのように,その人をすでに断罪しました。皆さんは,私たちの主イエスの名によって集まる時,主イエスの力と共に私の心もそこにあることをわきまえ,そのような人をサタンに引き渡して悪い影響力を除き去らなければなりません。主の日に会衆の健全な精神が守られるようにするためです。皆さんが誇っているのは良くないことです。少しのパン種が生地全体を発酵させることを知らないのですか。古いパン種を取り除き,新しいパン生地であってください。皆さんの中に酵母はないはずです。私たちの過ぎ越しの子羊であるキリストが犠牲にされたからです。それで,古いパン種や,悪意と邪悪のパン種を用いるのではなく,誠実と真実の無酵母パンを用いて祭りを行いましょう。



 ここには「異国の人々の間にさえ見られないような淫行」という言い回しがありますが、近親相姦は当時の社会では普通のことでしたのでかなり違和感があります。
 さらに、コリントのクリスチャンがそのことを「誇っている」と書かれていますが、これは「胸を張って自慢している」という意味です。コリントの会衆が近隣の会衆に対してこのようなことを自慢し、近親相姦を諸会衆にもお勧めしているということになってしまいますが、これはどうなのでしょうか。
 この疑問をさらに深刻にするのが、パウロのこのような言葉です。



コリント第一 1:4-9

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は,神がキリスト・イエスを通して皆さんに惜しみない親切を示したことについて,いつも神に感謝しています。皆さんはキリストと結ばれてあらゆるものを豊かに受け,話す能力も知識も十分に持っているからです。実際,皆さんはキリストについての知らせを十分に理解しています。結果として皆さんは,必要なものを全て与えられ,主イエス・キリストが明らかにされるのをひたすら待っています。神はまた,皆さんを強くして終わりまで支え,主イエス・キリストの日に何の非難も受けないようにしてくださいます。神は信頼できる方であり,皆さんはその方に招かれて,神の子である主イエス・キリストと結び付きました。

コリント第一 6:9-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
正しくない人が神の王国を授けられることはない,ということを知らないのですか。思い違いをしてはなりません。性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人,盗む人,貪欲な人,酩酊する人,ののしる人,脅し取る人が神の王国を授けられることはありません。皆さんの中には,以前そのような人もいました。しかし,洗われて清くなり,神聖なものとされました。主イエス・キリストの名によって,また私たちの神の聖なる力によって,正しいと認められました。

コリント第一 7:1-5

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,皆さんからの手紙に書かれていたことを取り上げます。男性は女性に触れない方がよいでしょう。しかし,性的不道徳が広く見られるので,男性はそれぞれ自分の妻を持ち,女性はそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は,妻に与えるべきものを与えなさい。妻も,夫に与えるべきものを与えなさい。妻は自分の体について権限を持っておらず,夫が持っています。夫も自分の体について権限を持っておらず,妻が持っています。夫も妻も,与えることを拒んではなりません。ただし,同意の上で一定の期間を置く場合は別です。そのようにして祈りに専念した後に再び共になるのであれば,自制心が欠けているせいでサタンから誘惑され続けるということはないでしょう。



 コリントの会衆はかなり潔癖な会衆であったようです。それは、性の禁欲についてパウロに意見を求めたことからもわかります。近親相姦をおおっぴらに行っている会衆が禁欲についての指導を求めたりするでしょうか。これらの記述を見る限り、コリントの会衆に淫行の人はいないように思えます。淫行の人がいてしかも会衆がそれを自慢しているという指摘とはまるで話が合いません。






#112

 3回目です。

 この矛盾を最終的に解決するのは「構造」です。
 もしあなたが、この文書をしっかりと読んで理解している方なら、ここで「構造」ということが出てきたとしてもさほど驚かないでしょう。すでに私は、コリント第一 7:20-24とコリント第一 7:25-40とに構造があるということを指摘しました [#74] 。コリント第一 5:1-6:20はその前のところにあります。



コリント第一 5:1-6:20

[D1] 私は皆さんの中で性的不道徳が行われていると聞いています。異国の人々の間にさえ見られないような性的不道徳で,自分の父親の妻を自分のものにしている人がいるとのことです。しかも,皆さんはそれを誇っているのですか。誇るのではなく嘆き,そういうことをした人を追放すべきではないでしょうか。私の体が皆さんの所になくても,私の心はそこにあり,私は実際に皆さんと共にいるかのように,その人をすでに断罪しました。皆さんは,私たちの主イエスの名によって集まる時,主イエスの力と共に私の心もそこにあることをわきまえ,そのような人をサタンに引き渡して悪い影響力を除き去らなければなりません。主の日に会衆の健全な精神が守られるようにするためです。

[C1] 皆さんが誇っているのは良くないことです。少しのパン種が生地全体を発酵させることを知らないのですか。古いパン種を取り除き,新しいパン生地であってください。皆さんの中に酵母はないはずです。私たちの過ぎ越しの子羊であるキリストが犠牲にされたからです。それで,古いパン種や,悪意と邪悪のパン種を用いるのではなく,誠実と真実の無酵母パンを用いて祭りを行いましょう。

[B1] 私は皆さんへの手紙の中で,性的に不道徳な人と接するのをやめるようにと書きました。それは,この世の性的に不道徳な人や,貪欲な人,脅し取る人,偶像を崇拝する人と全く接しないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,皆さんは世から出なければならないことになります。それで,私は今こう書きます。兄弟と呼ばれる人で,性的に不道徳な人,貪欲な人,偶像を崇拝する人,ののしる人,酩酊する人,脅し取る人がいれば,そのような人とは接するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません。

[A] 私は外部の人たちを裁く立場にあるでしょうか。皆さんは内部の人たちを裁くのであり,神が外部の人たちを裁くのではありませんか。「皆さんの中から悪い人を除きなさい」。皆さんの中には,仲間と争いが生じたときに,聖なる人たちの前には出ず,あえて法廷に行ってクリスチャンではない人たちの前に出る人がいるのですか。皆さんは,聖なる人たちが人類を裁くことになるのを知らないのですか。人類を裁くのですから,ごくささいな事柄を審理できて当然ではないでしょうか。私たちが天使たちを裁くことになるのを知らないのですか。天使たちを裁くのですから,今の生活上の事柄を扱えて当然ではないでしょうか。それなのに,今の生活上の事柄で審理すべき問題がある場合,会衆から信用されていない人たちに裁かせるのですか。私がこうしたことを話すのは,恥を知ってほしいからです。皆さんの中に,兄弟たち同士の問題を裁ける賢い人は一人もいないのでしょうか。兄弟が兄弟を訴えるために法廷に行き,クリスチャンではない人たちの前に出るとは,いったい何事でしょう。互いに訴訟を起こしている時点で,皆さんはすでに敗北しています。なぜ不当な扱いを受けるままにしないのですか。なぜだまし取られるままにしないのですか。そうするどころか,皆さんは不当な扱いをし,だまし取っています。しかも兄弟たちにそうするとは,いったい何事でしょう。

[B2] 正しくない人が神の王国を授けられることはない,ということを知らないのですか。思い違いをしてはなりません。性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人,盗む人,貪欲な人,酩酊する人,ののしる人,脅し取る人が神の王国を授けられることはありません。皆さんの中には,以前そのような人もいました。しかし,洗われて清くなり,神聖なものとされました。主イエス・キリストの名によって,また私たちの神の聖なる力によって,正しいと認められました。

[C2] 全てのことが私には許されていますが,全てのことがためになるわけではありません。全てのことが私には許されていますが,私はどんなものにも支配されたりしません。食物は腹のため,腹は食物のためにあります。しかし,その両方が神によって存在しなくなります。体は性的不道徳のためにではなく主のためにあり,主は体のためにいます。神は力を用いて主を生き返らせましたし,私たちをも生き返らせてくださいます。

[D2] 皆さんは,自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのですか。では,私はキリストの体の一部を取って,それを娼婦と結び付けてよいのでしょうか。決してそうではありません! 娼婦と結ばれる人が娼婦と一体になることを知らないのですか。「2人は一体となる」と述べられています。しかし,主と結ばれる人は,精神の面で主と一つになります。性的不道徳から逃げ去りなさい! ほかの罪はどれも人が自分の体の外で犯すものですが,性的に不道徳な行為をする人は自分の体に対して罪を犯しているのです。皆さんの体が聖なる力の神殿であることを知らないのですか。神から受けた聖なる力が皆さんの中にあります。そして皆さんは,皆さん自身のものではありません。代価によって買われたからです。ぜひとも,皆さんの体で神をたたえてください。



 見ての通り、これは核を持つシンメトリ(対称構造/集中構造)です。[A]が核となり、そこから対称に類似の論点が配置されています。
 核から上部、[B1]-[D1]は、会衆に不品行を行う者がいた場合、会衆はその人を排除して会衆を清めなければならないということを述べています。下部、[B2]-[D2]は、信者は一人一人が自分を清めなければならないということを述べています。自分にも他人にも同じように、ということです。
 そうすると、[D1]は[D2]と対応しているということになります。[D2]の「淫行」が一種の比喩であり実際の淫行を表していないのですから、[D1]の淫行も比喩であるに違いありません。

 この一連の文章においてパウロが言いたいのは、クリスチャンはキリストにその体をお捧げするという立場にあるのだから、その体は何から何まで徹底して潔白でなければならない、ということです。淫行という重大な罪が問題なのではなく、もっと些細なことが問題だということです。






#113

 それでは解き明かしを行いましょう。ついに「征服者」は現れ、神の啓示を隠していた覆いは取り払われるのです。



啓示(黙示録) 2:1-7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エフェソスにある会衆の使者に書き送りなさい。右手に7つの星を持ち,7つの金のランプ台の間を歩く者が,こう言います。『私はあなたの行いと,労苦と忍耐を知っています。また,あなたが悪い人たちを容赦せず,使徒だと自称するものの実は違う人たちを試して,彼らがうそつきだと見抜いたことも知っています。さらに,あなたはよく忍耐しており,私の名のために辛抱してきました。疲れ果ててはいません。しかし,とがめるべき点があります。あなたが,初めの頃に抱いていた愛を失ったことです。それで,自分がどこから落ちたかを思い出し,悔い改めて,初めの頃にしていたことを行いなさい。もしそうせず,悔い改めないなら,私はあなたの所に行って,あなたのランプ台を取り去ります。とはいえ,あなたには褒めるべき点もあります。ニコラオ派の行いを憎んでいることです。私もそれを憎んでいます。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げる次のことを聞きなさい。私は,征服する人に,神のパラダイスにある命の木の実を食べることを許します』。



 征服者は、背教した長老たちの存在を見抜き、その正体を暴きます。



啓示(黙示録) 2:8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
スミルナにある会衆の使者に書き送りなさい。『最初にして最後の者』,死んで生き返った者が,こう言います。『私はあなたの苦難と貧しさを知っています。しかし,あなたは実際には豊かです。また私は,ユダヤ人だと自称するものの実は違う人たち,サタンに従っている人たちから,あなたが冒瀆されていることを知っています。受けようとしている苦しみを恐れてはなりません。悪魔は,あなたたちのうち幾人かを牢屋に投げ込んでいきます。そのようにして,あなたたちは十分に試され,10日の間苦難に遭います。たとえ死ぬことになっても,忠実であり続けなさい。そうすれば,あなたに命の冠を与えます。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げる次のことを聞きなさい。征服する人は,決して第二の死から害を受けることはありません』。



 背教した長老たちは、自分の正体が見抜かれると、征服者を迫害するようになります。



啓示(黙示録) 2:12-17

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ペルガモンにある会衆の使者に書き送りなさい。長くて鋭い両刃の剣を持つ者がこう言います。『私はあなたがどのような所に住んでいるかを知っています。サタンの座がある所です。それでもあなたは私の名を尊んでいます。そして,私の忠実な証人アンテパスが,サタンの住むあなたたちの所で殺された時でさえ,あなたは私への信仰を否定しませんでした。しかし,とがめるべき点が幾つかあります。あなたの所にはバラムの教えを固く守っている人たちがいます。バラムの教えを受けたバラクは,イスラエル人が罪を犯すように仕向けました。彼らが偶像に犠牲として捧げられた物を食べ,性的に不道徳な行為をするようにしたのです。また,あなたの所にはニコラオ派の教えを固く守っている人たちもいます。ですから,悔い改めなさい。そうしないなら,私は速やかにあなたの所に行き,私の口から出る長い剣で彼らと戦います。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げる次のことを聞きなさい。私は,征服する人に,隠されたマナの幾らかを与えます。また,白い小石を与えます。その小石には,それを受ける人以外は誰も知らない新しい名が書かれています』。



 ここで、背教した長老たちは「バラク」と言い替えられています。彼らは会衆の信者たちを背教に導きます。



啓示(黙示録) 2:18-29

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
テアテラにある会衆の使者に書き送りなさい。燃える炎のような目と,良質の銅のような足を持つ,神の子がこう言います。『私は,あなたの行いと,愛と信仰と奉仕と忍耐を知っています。そして,最近あなたが,初めの頃より多くのことを行っているのを知っています。しかし,とがめるべき点があります。あなたがあのイゼベルのような女性を容認していることです。彼女は女預言者だと自称し,私の奴隷たちを教えて惑わし,性的に不道徳な行為をさせ,偶像に犠牲として捧げられた物を食べさせています。私は彼女に悔い改めるための時間を与えましたが,彼女は性的不道徳を悔い改めようとしません。私は彼女を病気にならせます。また,彼女と姦淫をしている人たちが悔い改めず,彼女に倣った行いをやめないなら,その人たちを大きな苦難に遭わせます。そして,彼女の子供たちを,死に至る病気によって殺します。それにより全ての会衆は,私が人の奥底の考えと心を探る者であることを知るでしょう。私はあなたたち一人一人の行いに応じて報います。テアテラにある会衆のほかの人たち,つまり,イゼベルの教えに従っておらず,いわゆる「サタンの奥深い事柄」を知らない人たちには,こう言います。私はほかの重荷をあなたたちに負わせることはしません。ただ,私が行くまで,あなたたちが持っているものをしっかり守りなさい。征服する人,私が命じたことを終わりまで守り通す人に,私は国々を治める権威を与えます。その人は,私が父から権威を与えられたのと同じように,鉄のつえをもって人々を処罰し,土の器のように粉々に砕きます。私はその人に明けの星を与えます。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げることを聞きなさい』。



 今度は、背教した長老たちは「イゼベル」と言い替えられます。彼らと、彼らによって背教に導かれた人たちは、呪いに直面することになります。



啓示(黙示録) 3:1-6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
サルデスにある会衆の使者に書き送りなさい。神の7つの聖なる力と7つの星を持つ者が,こう言います。『私はあなたの行いを知っています。あなたは生きているといわれていますが,実は死んでいます。目を覚ましなさい。そして,死にかけている残りの人たちを力づけなさい。あなたの行いは私の神から見て十分であるとは言えません。それで,あなたが受けたものや聞いたことについて常に考え,それを守り続けて,悔い改めなさい。あなたが目覚めないなら,私は必ず泥棒のように来ます。私がどの時刻にあなたの所に行くか,あなたには決して分かりません。とはいえ,サルデスにある会衆には,自分の衣服を汚さなかった人がわずかながらいます。その人たちは白い衣服を着て私と共に歩きます。そうするのにふさわしいからです。征服する人は,そのようにして白い衣服を着ることになります。私はその人の名前を命の書から決して消さず,私の父と天使たちの前でその人の名を認めます。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げることを聞きなさい』。



 征服者にならない人たちは、自分たちのことを高く評価して、自分たちは救われるだろうと思っています。しかし実際は逆です。



啓示(黙示録) 3:7-13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
フィラデルフィアにある会衆の使者に書き送りなさい。聖なる者,真実な者,ダビデの鍵を持つ者,扉を開けて誰も閉じられないようにし,扉を閉じて誰も開けられないようにする者が,こう言います。『私はあなたの行いを知っています。見なさい,私はあなたの前に扉を開けました。誰もそれを閉じることはできません。私は,あなたに少しの力があり,あなたが私の言葉を守って,私の名を否定しなかったことを知っています。私は,サタンに従っている人たち,すなわち,ユダヤ人だと自称するものの実は違い,うそをついている人たちを来させて,あなたの足元にひれ伏させます。そして,私があなたを愛していることを理解させます。あなたが私の忍耐に関する言葉を守ったので,私も,世界中で生じる試練の時にあなたを守ります。その時に,地上に住む人たちは皆,試されます。私は速やかに来ます。あなたの冠を誰にも取られないよう,持っているものをしっかり守り続けなさい。征服する人を,私は神の神殿の柱とします。その人はもうそこから去ることはありません。私はその人に名を記します。私の神の名と,私の神の都市すなわち天の神のもとから下る新しいエルサレムの名と,私の新しい名です。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げることを聞きなさい』。



 一方、征服者となった人たちは、キリストの助けによって勝利します。その人たちには、予定された「試練の時」に保護されることが約束されます。



啓示(黙示録) 3:14-22

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ラオデキアにある会衆の使者に書き送りなさい。アーメンである者,忠実で真実な証人,神に最初に創造された者が,こう言います。『私はあなたの行いを知っています。あなたは冷たくも熱くもありません。冷たいか熱いかのどちらかであってほしいと思います。あなたが生ぬるく,熱くも冷たくもないので,私はあなたを口から吐き出そうとしています。あなたは,「私は裕福で,富を得た。何一つ必要なものはない」と言いますが,自分が惨めで,痛ましく,貧しく,目が見えず,裸であることに気付いていません。ですから,火で精錬された金と,白い衣服と,目薬を私から買うように勧めます。金は,豊かになるために,白い衣服は,それを着て裸の恥をさらさないために,目薬は,それを塗って見えるようになるためにです。私は愛する人を戒め,矯正します。それで,悔い改めて熱心になりなさい。見なさい,私は戸口に立って戸をたたいています。私の声を聞いて戸を開ける人の家に私は入り,その人と一緒に夕食を取ります。征服する人には,私と共に私の座に座ることを許します。私が征服して,父と共に父の座に座ったようにです。耳のある人は,聖なる力が各地の会衆に告げることを聞きなさい』」。



 背教者と征服者との戦いに関わろうとしない人もいます。この、背教者に従うわけではないけど征服者になることもない人たちに対して、キリストは警告の言葉を述べます。

 このように、7つの会衆に対するキリストの訓戒は、終わりの時代にある種の“内戦”が起こることを示しています。
 厳密に言うと、この一連の訓戒は、征服者というより、征服者となり得るすべての人、つまり信者全員に対して語られています。信者のうちのある者は征服者になるが、別の者は背教者に従うだろう、また多くの者は優柔不断な態度を取り続けて征服者にならないだろう、ということです。






#114

 啓示の書の訓戒には「ニコラオ派」についての言及があります。これは何を指しているのでしょうか。

 12人の使徒たちは、雑多な事務処理を任せるためにチームを作りました。ニコラオはそのメンバーの一人です。



使徒 6:1-6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
弟子が増えていたその頃,ギリシャ語を話すユダヤ人から,ヘブライ語を話すユダヤ人に対する苦情が出始めた。ギリシャ語を話すやもめたちが毎日の配給を受けていなかったからである。そこで12人は,大勢いた弟子を呼び集めて,こう言った。「食卓に食物を配るために私たちが神の言葉を教えることができないのはよくありません。それで兄弟たち,あなたたちの中から,聖なる力と知恵に満ちた評判の良い男性を7人選び出してください。私たちがこの必要な仕事のためにその人たちを任命します。私たちは,祈ることと神の言葉を教えることに専念します」。皆はそのことを喜び,信仰が強く聖なる力に満ちた人ステファノ,フィリポ,プロコロ,ニカノル,テモン,パルメナ,またアンティオキアの改宗者ニコラオを選び出した。そして使徒たちの所に連れていった。使徒たちは祈ってから7人に手を置いた。



 現代のエホバの証人において、このチームにあてはまるのは、エホバの組織、つまり「ものみの塔聖書冊子協会」です。ですから、その規則や指導の中に「ニコラオ派の教え」というものが混ざることになります。

 そのような教えは存在しているでしょうか。確かに存在しています。たとえばそれは、私がすでに指摘した“最小化の原則”や“代替機制”といったものです [#27], [#28] 。このような教えは、神とキリストにとって忌まわしいものです。
 征服者になる人は、この教えを心から憎んでいなければなりません。ですから、組織に向かって「私はエホバの組織の指導と指示に完全に従います」などと言う人は征服者になることができません。そのような人は、自分は強い信仰の持ち主であると思うのかもしれませんが、実際には逆です。信仰などないことが、組織の命じることならどんなことにでも従ってしまうという醜い形で現れるのです。

 そして、そこには仕組みというものがあります。
 ニコラオ派の教えを憎む人は、その信仰のゆえに、長老になれないか、なってもすぐに降ろされることになります。すでに私は、問題を起こす長老が簡単には罷免されないことを指摘しました[#23] 。するとこういうことになります。組織からの指示であればどんなことにも従う長老は、組織から良い長老であると見なされますので、長老を降ろされる心配はありません。問題を起こす長老も、よほどのことがない限りまず降ろされません。しかし、組織の方針と指示に従わない長老は、強い信仰と善良さの持ち主であったとしても、いとも簡単に長老の座から引きずり降ろされます。こうして、長老の職は背教者たちによって占められるようになり、そこに征服者はいなくなります。

 こうして、戦いの準備は整います。






#115

 征服者について語ったところで、私には全ての証人たちに向かって問いかけたい言葉があります。それは「あなたの心の中に善良さはありますか」ということです。

 善良さということについては、聖書にこのような言葉があります。



ローマ 5:7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
正しい人のために死ぬ人はまずいません。もしかすると,善い人のためなら,死のうとする人がいるかもしれません。



 この聖句の意味については、たとえばこのようなことが言われています。



◇ 「ものみの塔」誌2085年10月1日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記修正)

 「義なる」人は法律を守る人です。規準にかない,自分の分を果たします。しかしそれ以上のことはほとんど行なわないかもしれません。したがって,人々の敬意は得ても,心まで勝ち得るとは限りません。その人のためなら死んでもよいという気持ちになる人はほとんどいないでしょう。ところが,「善良な」人は単に義務を果たしたり,悪行を避けたりするだけにとどまりません。それ以上のことを行ないます。善良さに動かされて,人のために尽くす,つまり他の人のために物事を行ないます。
 ……善良さは受け身のものではなく,躍動感のあふれる能動的なものです。「善良な」人から親切や寛大さを示され,その人の払う自己犠牲の恩恵に浴した人は,その人のためなら死んでもよいという気持ちになることさえあります。



 すばらしい解説が示されていますが、実はこれ、私が先に述べたところの「おとり」 [#108], [#109] です。この言葉に隠された本当の意味を知るには、文脈を見る必要があります。



ローマ 5:6-8

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[B1] 私たちがまだ弱かった間,キリストは定められた時に,神を敬わない人たちのために死んでくださいました。
[A] 正しい人のために死ぬ人はまずいません。もしかすると,善い人のためなら,死のうとする人がいるかもしれません。
[B2] しかしキリストは,私たちがまだ罪人だった間に,私たちのために死んでくださいました。そのことにより,神はご自分の愛を私たちに示してくださっています。



 義(正しい状態)と善良さについてのパウロの言葉は用語の説明です。別の言い方をすると、いつものようにパウロは言い替えを使っています。ここでパウロは「弱い人」そして「罪人」の状態について語っていますが、それらは、人が義なる者でなく、そのうえ善良ですらなかった、ということを一言で言っているのです。

 言い替えに気づくことにより、ローマ 5:7の意味は大きく変わることになります。では、隠された意味を見ていきましょう。

 まず「正しい人のために死ぬ人はまずいません。」とあります。この「まずいません」は「必要ない」という意味です。パウロはここで、もし罪のない人がいたとすれば、その人に贖いは必要ないということを述べています。もちろん、そのような人はどこにもいません。
 ここを聖書の原典で読んでみると「人」という言葉はありません。「死ぬ何かはまずいません」という言い回しになっていて、翻訳の際には「人」と書き足すことになっています。しかしパウロはここで、こっそり、人ではなく天使のことを考えています。人は人の贖いになれないからです。
 続いて「もしかすると,善い人のためなら,死のうとする人がいるかもしれません。」とあります。ここも原典では同じ言い方です。人は誰一人として罪のない人にはなれませんが、それでも努力すれば、善良な人になることはできます。しかし、天使たちの誰かが、この人は罪人なのかもしれませんがこんなにも善良な人なのだからこの人のために私は贖いになりましょう、と申し出るほどに善良な人はやはり一人もいませんでした。
 そこにキリストが登場します。キリストは、私たち人間が、義なる者ではなく、だからといって善良ですらなかったのに、それなのに贖いとなってくださった、とパウロは言います。キリストを贖いとする神の愛は、徹頭徹尾神の側の資質によるものです。神や天使たちから見たとき、私たち人間には彼らの同情を引き寄せるような資質の持ち合わせは何もなかったのです。

 そこで私が証人たちに期待し、問いかけているのは、天使の同情を引くほどの善良さです。
 もしキリストの贖いが存在しなかったら、ということを考えてください。私やあなたが救われたいと思うなら、せいぜい頑張って、たくさんいる天使たちのうち誰かの同情でも引くくらいしか方法がありません。何を頑張ることになるでしょうか。善良さです。人はどんなに努力しても罪のない者になることなどできませんが、善良になることは可能なのです。しかしそれは簡単なことではありません。

 そして、善良であることは、啓示の書の述べる「征服者」の条件です。というのも、聖書にはこう書かれているからです。



ゼパニヤ 2:3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバのもとに行け,地上の全ての温厚な人たち,神の正しい規定を守る人たちよ。正しいことをせよ。温厚であるようにせよ。エホバの怒りの日にあなたたちは隠されるだろう。






#116

 その人は、神の霊に導かれつつ、自分の道を自分一人で進むことができる人です。



ガラテア 6:1-6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[D1] 兄弟たち,誰かが道を踏み外したなら,たとえ気付かずにそうした場合でも,クリスチャンとして十分に資格がある皆さんは,その人を優しく正すことに努めてください。そして,自分も誘惑されることがないように注意してください。
[C1] 仲間同士,重荷を負い合いましょう。そうすればキリストの律法を実践していることになります。
[B1] 本当は何者でもないのに,自分は大した者だと考える人は,
[A1] 間違った見方をしています。
[A2] 一人一人,自分の行いについてよく考えましょう。
[B2] そうすれば,人と比べて喜ぶのではなく,自分自身のことを喜べます。
[C2] 人はそれぞれ,自分の荷を自分で負うのです。
[D2] 神の言葉を教えられている人は,教える人と,良いもの全てを分け合ってください。



 この文には、ひとつ、わずかに不自然なところがあります。原典を見ると、「クリスチャンとして十分に資格がある皆さん」が複数形で語られているのに対し、続く「自分も誘惑されることがないように注意してください」は単数形で語られています。これはパウロが間違いをしたのではないかということが言われていますが、はたしてそうなのでしょうか。

 パウロはここで、文章を放射状に組み直して読むことを想定しています。ようするに、前半は下から上に向かって読みましょう、ということです。
 前半は霊に導かれない人について、後半は霊に導かれる人についての記述です。では、隠された意味を見ましょう。

 霊的な人は、自分のことを正しく評価できますので、他人のことなど気にすることなく自分に満足することができます。さらにその人は、自分の荷を自分一人で負うことができます。そのような人は、霊的でない人を助ける人になります。
 霊的でない人は、自分について間違った評価をしていますので、ほんとうは何者でもないのに、自分はたいした者だと思い込んでいます。そのような人は、自分で自分の荷を負うことができません。その人は誘惑されて道を踏み外さないよう努力しても失敗しますので、霊的な人から助けてもらう必要があります。

 文脈を見ると、パウロはここで霊に導かれる人のことを語っています。そこで、霊に導かれる人とそうでない人との対比が示されているのです。

 征服者になる人は、会衆内での迫害に直面し、会衆内で孤立させられることになりますので、神の霊に導かれてこのような資質を獲得していることが必要です。
 もし神の霊に導かれていないなら、どうなるでしょうか。その人は「生きているように見えて実は死んでいる」状態にあります。その人は、自分には信仰があり、クリスチャンの奉仕も立派に行ってきた、と自負しているでしょう。しかし、征服者になるべき時が来ると、その人は、自分がこれまで培ってきた信仰も、積み上げてきた業績も、全く役に立たないことを思い知らされることになります。こう書かれているからです。



マタイ 25:1-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その時,天の王国は,ランプを持って花婿を迎えに出た10人の乙女のようです。そのうち5人は愚かで,5人は思慮深い人でした。愚かな乙女たちはランプを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い乙女たちは,ランプと共に,油を瓶に入れて持っていきました。花婿が遅れている間に,皆,眠くなって眠り込んでしまいました。真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』と叫ぶ声がしました。そこで,乙女は皆起きて,ランプを確認しました。愚かな乙女たちは思慮深い乙女たちに言いました。『油を分けてください。今にもランプが消えそうです』。思慮深い乙女たちは答えました。『みんなの分はなさそうです。それより,油を売る人たちの所に行って自分の分を買ってください』。その5人が買いに行っている間に花婿が来て,用意ができていた乙女たちは結婚の披露宴のために花婿と一緒に中に入り,戸が閉められました。その後,残りの乙女たちも来て,『旦那さま,旦那さま,開けてください』と言いました。花婿は答えました。『はっきり言いますが,あなたたちのことは知りません』。






#117

 このウエブサイトにて マタイ 11:28-30の項 を掲載しました。
 そこには、「征服」という言葉が征服を意味していないこと、二度死ぬことを指していることが指摘されています。






#118

 征服者になる人は、イエスが教えた仕方で自分を捨てることができる人です。



ルカ 14:28-32

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
例えば,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,完成させるだけのものを持っているかどうかを確かめるのではないでしょうか。そうしないなら,土台を据えても仕上げられないかもしれず,見ている人たちは皆あざけり始めるでしょう。『この人は建て始めたが仕上げられなかった』と言うのです。また,ある王が別の王との戦いに出ていく場合,まず座って,2万の軍勢で攻めてくる相手に1万の軍勢で立ち向かえるかどうかを協議するのではないでしょうか。実際,立ち向かえないなら,相手がまだ遠くにいる間に,使節団を遣わして和平を求めます。



 イエスはこの言葉をどのような意味で語ったのでしょうか。それは文脈を含めて見ると明らかになります。



ルカ 14:26-35

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
「私のもとに来て,自分の父親,母親,妻,子供,兄弟,姉妹,さらには自分の命以上に私を愛さないなら,私の弟子になることはできません。自分の苦しみの杭を運びながら私に付いてくる人でなければ,私の弟子になることはできません。例えば,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,完成させるだけのものを持っているかどうかを確かめるのではないでしょうか。そうしないなら,土台を据えても仕上げられないかもしれず,見ている人たちは皆あざけり始めるでしょう。『この人は建て始めたが仕上げられなかった』と言うのです。また,ある王が別の王との戦いに出ていく場合,まず座って,2万の軍勢で攻めてくる相手に1万の軍勢で立ち向かえるかどうかを協議するのではないでしょうか。実際,立ち向かえないなら,相手がまだ遠くにいる間に,使節団を遣わして和平を求めます。同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません。確かに塩は良いものです。しかし,塩が塩気を失ったら,何によって塩気を取り戻せるのですか。それは土にも肥やしにも適さず,捨てられます。聞く耳のある人は聞きなさい」。



 イエスがここで言おうとしていたのは、世の中とクリスチャンとでは「当たり前」の観念が違うということです。世の中では、何かをする時には打算と勝算ということを考えますが、彼らにとってそれが当然であるのと同じくらいに、クリスチャンにとって当然であることがあります。それは、一言で言うなら「捨てる」ということです。
 イエスは、費用を計算することを勧めているのではありません。費用を計算しないことを勧めているのです。それこそが、クリスチャンにとっての常識です。というのも、クリスチャンになるということは、死ぬことが前提だからです。たとえるなら、塔は倒れ、軍は破られます。「苦しみの杭を運びながら私に付いてくる」とイエスは言います。そうして死ぬことが目的で生きるのだとすれば、人は成功する算段を考えたりするでしょうか。

 このイエスの言葉は事実上の自殺令です。「何もかも捨てたうえ、死んでしまいなさい」ということです。イエスの視点から見れば、このことが理解できない人は、使えない塩のようです。

 征服者になる人は、イエスのこの言葉をよく理解し、実行する人です。その人は、父や母をはじめ自分の持っているあらゆるものを失い、ついには自分の命をも失うことになりますが、そのことを免れようとはしません。浅ましくも打算に基づいて行動し、恥をさらして、イエスの顔に泥を塗るようなことはありません。






#119

 このことに関係のある、ルカ 16:10の項を掲載しました。

 イエスはこのように語っています。



ルカ 18:29-30

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは弟子たちに言った。「はっきり言いますが,神の王国のために,家,妻,兄弟,親,あるいは子供に別れを告げた人は皆,この時期に何倍も得て,新しい体制で永遠の命を得ます」。






#120

 ここで私の現況を報告したいと思います。

 現在の私は、宣言をして公の奉仕を停止した状態にあります。これは、長老と和解するための最大の努力の表明として、イエスの言葉にあえて従ったためでした [#43] 。これは不発になりましたが、もうそのままになっています。

 その後、長老は私を集会から排除しました [#66], [#68] 。口頭でのいちおうの理由の説明はありましたが、私が求めた正式な説明はありません。どうやら長老たちは、私を背教者に仕立て上げる算段をしているようです [#69]
 その後、長老は条件つきで集会の参加を認めるという書面をよこしてきましたが、これは不正な取り引きの申し入れでしたので断るしかありませんでした [#88]
 集会の参加が阻止されてしばらくすると、エホバの証人の公式サイト経由で別の会衆の集会に参加できる招待が届きました。寺方会衆の長老たちにこの種の決定をする権限はないはずですが、書面に言及があることから、関与してはいるようです。当初、この集会には普通に参加できましたが、やがて私が視聴できる内容が絞られるようになり、さらにしばらくすると参加自体ができなくなりました。

 さらに長老は、会衆の連絡網から私を除外しました。通常なら回ってくる諸般の連絡事項がまったく届かなくなっています。
 この12月になってから、公式サイトの動画を観て、それで11月に何かキャンペーンがあったらしいということに気づきましたが、内容は知りません。会衆の誰かが私のところを訪ねてきて近況を報告してくれることもなく、今寺方会衆がどうなっているのか、私は全く情報を得られていません。

 何度か母から手紙が届きましたが、もう届かなくなりました [#73], [#82] 。これは長老が母に指示をしてやっていることだと思います。

 文書も届かなくなりました。最後に受け取ったのは2020年3月発行の分です。

 ようするに、今の私は、寺方会衆の長老団によって完全に干されています。これらの処遇について、通知すらありません。

 このような状況に置かれて私が特に思うのは、公の奉仕のことです。

 皆さんもご存知の通り、2019年12月ごろから、コロナウイルスの世界的流行が生じています。そのため、世界中のエホバの証人が公の奉仕に携われない状況となっています。一方、私は2019年10月30日に宣言を行いました。いま振り返ると、これはまさにぎりぎりのタイミングだったのです。
 私はこれまでずっと、自分がエホバの証人でありながら聖書の教えのいくつかが実践できていないことに自責の念を感じていました。この宣言もそのひとつです。というわけで、宣言をした時、いつの日かこれをやりたいという私の願いはかなえられました。そして、その結果はまさに報いでした。
 今、世界中の兄弟姉妹は公の奉仕を休んでいますが、それは奉仕ができなくなったからであって、キリスト・イエスの教えに従い自ら進んでそうしたからではありません。それはただの休み、無駄な休みというものです。しかし、私の休みは神聖な奉仕です。私は自分自身を神への犠牲として差し出しました。この時期に、世界中の兄弟姉妹の中でただ一人、私だけがその栄光を手にすることができました。そして私は、キリストから、啓示の書の覆いを除く極めて重要な仕事を委任されました [#72], [#107], [#108], [#113], [#114], [#115], [#116], [#117], [#118], [#119]
 他にも、聖書に書かれていながらできずにいた幾つものことを私は実践することができました。たとえば、謝罪や、挨拶に関する規定です [#71], [#105]

 さて、そのような私には、いま特に気になる聖書の言葉があります。



ペテロ第一 3:16-21

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
健全な良心を保ってください。そうすれば,皆さんについてどんな悪いことを言う人も,キリストに従う皆さんの良い振る舞いを見て恥ずかしく思うでしょう。皆さんが善を行って苦しむことを神が許すなら,そうなる方が悪を行って苦しむよりもよいのです。正しい方であるキリストは,正しくない人たちの罪のために一度限り死にました。皆さんを神に導くためです。キリストは人間として死にましたが,天での命を受けました。そして,捕らわれている天使たちの所に行って知らせを伝えました。その天使たちはノアの時代に不従順だった者たちです。その時代,神が辛抱して待っていた間,箱船が建造され,それに乗ったわずか8人の人が水の中を通って救われました。これに相当するものであるバプテスマ(肉体の汚れを除くことではなく,健全な良心を神に願い求めること)により,今皆さんはイエス・キリストの復活を通して救われています。



 イエスは復活した後、牢獄にいる悪霊たちのところに行って伝道しました。どうしてでしょうか。このどうしようもない者たちの中に、もしかするとまだ救える者が混じっているかもしれないからです。
 それで私は、私も同じことをやりたいと強く願うのです。






#121

 私は、バプテスマを受け、3年ほど開拓奉仕を行うことになります。
 この開拓奉仕の期間には、非常に多くの異常なことがありました。書いていくと相当な量になります。

 いろいろ考えた末、書くことを4つに絞ることにしました。私にはすでに、寺方会衆における「転回」ということに言及していますが [#101] 、この問題に的を絞りたいと思います。






#122

 1つ目です。

 開拓奉仕を始めると、私はさらに多くの中傷にさらされることになりました。
 たくさんの中傷によって被害を被ったのは、寺方会衆のほうでした。彼らの記憶や思考は、彼ら自身の考案した中傷によって書き換えられていったのです。

 たとえば、こんなことがありました。ある家を訪問したところ、その家の方から「今は忙しいので帰ってください」と言われました。そこで私は「忙しい時に訪問して申し訳ありませんでした」と答えて帰りました。これはよくある話で、何も不審なところはありません。
 ところが、現場に居合わせた一人の姉妹がこう言い始めました。「崇兄弟は家の人に謝っている」。彼女はさらにこのようなことを主張しました。私たちエホバの証人は、エホバ神の代理人として家々に神の言葉を伝える身分なのだから、謝ることなどあってはならない、悪いのは「忙しい」と言って神の言葉を聞かなかった家の人のほうなのだから、家の人こそが謝るべきだ。それなのにこの人は家の人に謝って、エホバの御名を汚している。

 よその会衆にはこんなことを主張する人などまずいないと思います。いても無視されるのではないでしょうか。しかし、寺方会衆は違いました。私に対する中傷は、誕生すると会衆に広まり、根を張ることになります。
 こうして、寺方会衆には、奉仕の際に家の人に謝ることは正しくないというルールができあがりました。
 それだけではありません。会衆の人たちは私にこう言いうようになりました。これまで寺方会衆の兄弟姉妹たちは、エホバの証人の守るべきルールを守り、たとえ家の人が「忙しい」と言っても決して謝罪などしないようにしてきたのに、あなたはそのルールを破っている。これは大問題だ。あなたには寺方会衆を出ていってもらいたい。

 この話、どこがどう狂っているでしょうか。一つ目に、正邪が入れ替わっています。人に迷惑をかけた時に謝罪するのは正しいことですが、このことが、謝罪しないことこそが正しいという逆の基準によって上書きされています。二つ目に、記憶が入れ替わっています。寺方会衆は、ある日突然湧いて出てきたこのルールを、会衆によって昔から守られてきたルールであると認識するようになりました。

 似たような話は際限なく続きました。
 ある日、一人の姉妹がこのようなことを言い始めました。「崇兄弟は家の人が1回断っただけで帰っている」。その姉妹はこう言います。私たちはエホバから託された重要な言葉を家々に伝えているのだから、1回断られたくらいで帰ってしまうのは正しいことではない。こうして寺方会衆には、家の人が何度も断ってからでなければ帰ってはならない、というルールができあがりました。しかも、これはエホバの証人の守るべき正しいルールとして昔から守られてきた、という改竄された記憶つきです。
 別の日にはこのようなことが言われました。「崇兄弟は奉仕の時に「聖書」という言葉を使っている」。ついに会衆の人たちはこう言うようになりました。奉仕の際に「聖書」という言葉を使うことは禁止されたことなのに、あなたは平然とそれを破っている。なんといいますか、ここまでくると、私としてはただひたすら唖然とするしかありませんでした。

 私は寺方会衆のでっち上げたルールに全く従いませんでした。すると会衆の人たちはこう言いました。宮原崇兄弟はエホバとその組織に対して反抗的だ。背教的だ。この人は危険人物だ。悪影響があるから彼の話を聞いてはならない。

 というわけで、私が開拓奉仕をしていた期間、会衆と地元社会との関係は極めて険悪なものになっていきました。家の人が10回断ってもまだ帰らずに玄関先に居座る人、上から目線で一方的に話して相手の迷惑を気にもかけない人、問題が起こっても決して謝罪しない人、寺方会衆にはそういう人たちが普通にいて、しかもだいたい2週に1度の頻度で区域を回っていましたから、地元の人たちとの関係が悪化するのは当然です。
 このことは近隣の会衆からも指摘されるようになりました。寺方会衆の区域の人たちの反応は厳しい、訪問した時に家の人が断る断り方が異常だ、と言われました。ところが、寺方会衆の人たちはそのような指摘を聞き入れませんでした。寺方会衆に言わせると、それは周辺の会衆がゆるいということです。彼らは身勝手にもこう認識しました。寺方会衆は近隣の諸会衆に対して立派な手本を示しているのに、諸会衆は手本に倣おうとしない。さらにこんなことも言いました。このままだと寺方会衆はよその会衆によって「汚染」されそうだ。この会衆では過去に、よその会衆から転入してきた人たちによってひどい汚染に見舞われた事件があった [#90] 。正直言って、周辺の諸会衆は寺方会衆に比べるとレベルが低すぎるので、もう誰にも転入などしてもらいたくない。寺方会衆はこの方針を近隣の会衆に対して通知すべきだ。

 私が開拓奉仕をやめると、このような問題は徐々に解消されていきました。そして、寺方会衆の兄弟姉妹の記憶からも、この問題はなくなっていきました。今寺方会衆にこのような問題が存在しないのは、彼らがその罪を反省したからではなく、完璧に無視したからです。






#123

 2つ目です。

 ある日、私が会衆の幾人かの人たちに対して、「寺方会衆の長老たちは他会衆の長老たちから相手にされていない」ということに言及したことがありました。私はそのことに言及しただけだったのですが、話を聞いていた人たちの中にはそのことに憤慨する人もいて、議論となってしまいました。
 その人たちは、いったい何の根拠があってそのような間違ったことを言うのですか、と言って私に詰め寄ってきました。それで私はこう答えました。あなたたち、この会衆の長老が大会で演壇に上がるのを一度でも見たことがありますか。ここ10年の間にそのようなことは一度でもありましたか。
 エホバの証人の大会は、地域大会、巡回大会、特別一日集会といったものがあります。どれも終日聖書からの講話があり、これらの話し手には地元の長老たちが割り当てられます。巡回大会などはその規模が小さい割に講話の量が多いですので、長老たちには割り当てがどんどん回ってきます。なのに、寺方会衆の長老たちには決して順番が来ないのです。

 寺方会衆の人たちは、自分たちが諸会衆からどう見られどう扱われているかということを正しく認識していませんでした。それは、彼らが自分たちの思考や記憶を書き換えてしまっているからです。それで彼らが思うのは、寺方会衆は近隣の諸会衆に比べてたいへん立派である、この会衆はよい会衆だ、というようなことでした。
 ところがこの時ばかりは、そうやってごまかすことができない状況が生じました。私の反論が巧みで、否定できない証拠を突きつけたからです。私に詰め寄った人たちは、私の指摘が全くその通りであることを無理やり認めさせられ、引き下がっていきました。

 私は詳しいことは知らないのですが、この後、寺方会衆内ではひと騒動が起こったらしいです。彼らが束になって組織に苦情を述べたか懇願をしたのか私はよく知りませんが、とにかくそれで、寺方会衆の2人の長老が大会で演壇に上がることになりました。

 1人目は、主催監督(主任牧師)です。割り当てられたのは、10分間のインタビューの司会をするというものでした。これは講話をする割り当てではありませんし、話すのは相手方ですから、あってないような役回りです。まあ、割り当てを作る側からすれば、とりあえず様子見をしてやろうということなのでしょう。
 長老が演壇に立つのを見て、寺方会衆の兄弟姉妹たちは大喜びしました。なにしろ寺方会衆の歴史始まって以来の快挙です。
 ところが、この後、騒動が起こりました。インタビューで自分の経験談を語った姉妹のところに兄弟姉妹たちが集まってきて、こう言いました。そんな話は知りませんでした。びっくりしました。あれはいったい何の話なんですか。このように言われて、姉妹は泣き出してしまいました。
 もともと、この姉妹は自分の経験をありのままに話す予定だったそうです。ところが、大会前の打ち合わせの時に、司会の長老から「こんな話では聴衆に対する励ましにならない」と言われたのだそうです。さらに長老は、自分のでっち上げた「たいへん励みになる話」を話すようこの姉妹に圧力をかけ、姉妹はそれに屈してしまったとのことです。

 2人目は、わずか1分間のインタビューの相手のほうです。これも様子見でしょう。
 内容は、いま寺方会衆ではベテル見学の準備をしています、というものでした。「ベテル」はものみの塔聖書冊子協会の支部施設の愛称で、場所は神奈川県になります。距離がありますので、数日がかりの旅となります。ベテルに行くのにバスを借りることにしました、とか言ってインタビューは終わりです。
 寺方会衆の兄弟姉妹たちはこの内容を聞いて困惑しました。というのも、寺方会衆ではちょうど先月にベテル見学が行われたからです。それで、インタビューの後、近隣の会衆の人たちが寺方会衆の兄弟姉妹たちをあちこちで呼び止めて、これはどういうことなんですか、と問いただす事態になりました。
 寺方会衆の兄弟姉妹たちがそれぞれどのように問いに答えたかは私の知るところではありませんが、ある人たちはこう言ったらしいです。あれは“インタビュー形式の実演”です。「実演」とは寸劇のことです。エホバの証人はそういう言い方をします。寸劇であれば、内容が事実である必要はないのでしょう。
 しかし、エホバの証人の大会において“インタビュー形式の実演”などというものは存在しませんし、存在するはずもありません。だって、そんなものがあったりすると、大会で誰かが経験談を語っても、それが本当の話か作り話かわからなくなるじゃないですか。

 というわけで、大会の後しばらく、私は近隣の会衆の人たちから「あの嘘つき長老のいる寺方会衆」と露骨に言われたりして、かなり困惑することになりました。そして再び、寺方会衆の長老たちには大会の割り当てが回ってこなくなりました。

 寺方会衆の長老たちは、あれやこれやと厄介な問題を量産する人たちでした。その後も問題を起こし続け、それでとうとう、組織の指示のもと、外部から人が来て寺方会衆の調査が実施されることになります。ところが、調査のためにやってきた方は厄介な壁にぶつかることになりました。どの問題について調査しても、関係者たちはみな口をそろえて「そんな話は知りません」と答えるのです。寺方会衆の人たちの頭の中には、厄介事に関する記憶というものが存在しないようでした。

 そのうち、寺方会衆の悪名は全国レベルで知られるようになってしまい、私もいろいろな人からきついことを言われました。

 しかし、寺方会衆の人たちは、不都合なことはあっさり忘れてしまうことのできる人たちでした。
 結局、残ったのは私に対する悪評です。彼らはこう言いました。宮原崇兄弟には長老たちに対する敬意が欠けている。長老たちに対して不平不満を募らせており、反抗的だ。この人は長老の評判を下げるようなことを言うので、彼の言うことを聞いてはならない。






#124

 3つ目です。

 私の家は灯台社の家系で、私は一応ながら4世ということになります。

 母は、灯台社の生き残りである祖母とその宗教とに激しい憎悪を抱いていました。それで、なんとか無事にエホバの証人への移籍をすませた祖母に対していろいろな嫌がらせをしていました。そのうちの一つが、一般のキリスト教の教会に通うことです。祖母の住む家に一番近い教会をわざわざ選び、電車や車で1時間以上かかるのに、私を連れて通っていました。そんなわけで、この家系は4代に渡って全員、教会に通った経験があります。

 さっそく話が脱線してしまうのですが、このことは、いま擁護派としての奉仕を行っている私にとって貴重な経験となっています。このことについて想う時、私はこの聖句を思い出します。



マタイ 2:14-15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そこでヨセフは起き,夜のうちに子供とその母親を連れ,エジプトに行って,ヘロデの死までとどまった。こうして,エホバが預言者を通して「私はわが子をエジプトから呼び出した」と語ったことが実現した。



 この聖句については、もうすこし後のところで説明する予定です。

 さて、たいへんな労力と時間とをかけて祖母に対する嫌がらせをしていた母ですが、善良なことこのうえない、そして自身も教会に通った経験を持つ祖母に対して、このようなやり方はほとんど効果がありませんでした。そこで母は、もっと効果の上がる別の方法を模索するようになります。
 そのうちの一つが、祖母が溺愛した孫を虐待することです。母の目標は、単に私を虐待することではなく、「できそこない」に育て上げることでした。そうやって祖母を悲しませようという魂胆です。このあたりの母のやり方については、この文書では基本的に取り上げていません。ひとつ、「女の人の声で話す訓練」ということを書きましたが、[#100] それくらいです。ほかにもいろいろありましたが、これは私にとってなかなか言ったり書いたりできることではなかったりします。
 そして、母はついに名案を思いつくことになります。それは背教者になることです。そうしたら、今度こそ祖母は心から苦しむだろう、と母は考えました。

 背教者になる人は、一度、エホバの証人にならなければなりません。そこで母は、自分が嫌悪してやまないこの宗教の信者になることにします。
 母は大胆にも、この計画を地元のエホバの証人たちに話していました。

 そんな母の「研究司会者」になったのが、この文書に繰り返し出てくる山出姉妹です。わかりやすく言うと世話人です。
 この人は、母の研究司会者になったというよりは、母に取りついたという感じでした。背教者になることが信者になる目的であるという母の話は聞かなかったことにして、かいがいしく母の面倒を見、スピード出世させて信者に仕立て上げました。その途中、母が私を虐待しているというような深刻な問題が多々露見しましたが、それらも見事に隠蔽してしまうのでした。
 この人は、母に取りつく以前に、会衆に対して取りついていました。この人は、長老である夫と結託して、会衆が母の問題に目を向けないよう大胆な方策を次々と実施しました。そして会衆も、それに対してなんら抵抗したりしませんでした。母の件に限らずですが、普段からこの夫婦は、自分たちの手にかかればどんな問題も見事に消去できます、という感じでした。先に取り上げた主催監督も [#123] 「この夫婦はこういうところがとても便利だ」と普通に話していました。一度は大勢の前で感謝の言葉を述べたことがあります。この寺方会衆はここ10年ほど一人の排斥者も出していないが、それはこの夫婦の尽力のおかげだ、というのです。

 ところが、エホバの証人になったあと、母は長くその立場に留まることになります。母がいよいよやる気になったのは、私が開拓奉仕をやっていた頃です。それで母が取り組んだのは、たとえば、誕生日、クリスマスの祝い、といったことでした。
 うまくいけば、母は会衆から背教者として扱われ、排斥か断絶かになるところでしたが、そうはなりませんでした。というのも、寺方会衆の人たちはどんな問題に直面してもそれを完璧に無視できる人たちだったからです。母の行った背教活動はすべて空振りになってしまいました。その結果、母は今でもエホバの証人をやっています。

 その中でも過激だったのは輸血に関する背教活動でしょう。
 母は会衆の様々な兄弟姉妹たちに賛同を求めてこう言いました。私は輸血拒否の教えに反対です。これは、私がエホバの証人になった時から一貫して取ってきた態度です。エホバは愛の神なのですから、輸血を禁止することなどありません。子供を持つ親なら、子供のために必要なら輸血を選択するはずです。
 エホバの証人は、輸血をしない意思を示す宣言書や委任状を作成します。この文書について母はこう言いました。こんなものはしょせん“紙切れ一枚”というものです。この書面にサインして輸血を受けない意思を表明しても、実際に輸血が必要な状況になったら、輸血しますと言えば済むことじゃないですか。私はそうします。

 寺方会衆の人たちは、母が会衆内で熱心に背教活動を行うのを見て、見ぬふりをしました。そして、不思議なことが生じました。
 今言及したように、エホバの証人は輸血を受けない意思を示す書面を作成します。その書面には、代理人と証人の署名欄があります。当人が意識不明で病院に担ぎ込まれたようなときには代理人もしくは証人が代わって当人の意思の表明を行うという仕組みです。そして、母が輸血の教えに対する反旗を翻したあと、書面への署名を母に求める人が増えたのです。

 もしかすると、あなたはこう思うかもしれません。信者の中には、内心では輸血拒否の教えに賛同できない信者が結構いて、そういう人が期待を込めてこの人のところに来ているのだろう。しかし、私が見たところでは、これはそういう話ではありません。寺方会衆の人たちは、母が背教活動を行うのを見た後、いつものように、『問題に気づかなかった場合に当然とるであろう行動』を集団でとっていたのです。
 ですからこれは精神構造というものです。この会衆の人たちの問題に対する取り組み方です。

 ある日、私は母に問いただしました。背教者になるつもりでエホバの証人になったのに、どうしてまだエホバの証人をやっているのか。母は少し困惑した表情を見せたあと、こう言いました。いざエホバの証人になってみると、これがたいへん居心地がよかったものだから、それでつい居座ってしまった。母はさらにこう言いました。私は山出姉妹にあこがれてしまった。それで私もあの姉妹のようになりたいと思い、努力するようになった。
 徹頭徹尾偽善者でしかない母から見て、山出姉妹は偽善者であることの完璧な手本でした。母は彼女に敬意を払ったのではありません。母は彼女をしのごうと、あわよくば打倒してしまおうとしていたのです。

 ある日、会衆の兄弟姉妹たちが集まっていて、唐突に山出夫妻のことが議題になったことがあります。会衆内でこれこれの問題が生じているのだけど、またあの夫婦が首を突っ込んできて問題をなかったことにしようとしている、どうしたものか、ということでした。普段、私はこういう会議には呼ばれることなどないのですが、突発的に話し合いが始まったせいで、私も加わることになってしまいました。
 私は言いました。長老たちに報告してやめさせるべきだ。ところが兄弟姉妹たちは答えました。長老たちに報告しても無駄だ、長老団はあの夫婦の味方じゃないか。何もしないにきまっている。それで私は言いました。じゃあここにいる人のうち誰かがあの夫婦に直接文句を言いに行けばいい。するとこう返事が返ってきました。ここにいる面々の中に、あの夫婦に逆らえる人は一人もいない、なぜなら、寺方会衆の成員たちはみなあの夫婦に“借り”があるのだから。そのうちの一人が言いました。ようするに、私達はみんなあの夫婦に弱みを握られているんですよ。
 借りというのは隠蔽のことらしいです。この夫婦に悪事を隠蔽してもらった過去のある人は、この夫婦に首を差し出したも同然です。
 話し合いの結果、この件はあの夫婦に好きにやらせておいて、会衆としては見て見ぬふりをしておこうということが決められました。

 この時、私は思いました。この人たち、問題が起こってもそのことに気づかず、気づいてもまったく気にかけず、記憶もしていないように見えるが、実際にはよく理解しているんじゃないだろうか。

 10年間排斥者がいないという長老の発言の後、母が言うには、この会衆には小児性愛者がもう一人いるのに排斥にはなっていない、とのことでした。ただ、母はこのことを詳しく話しませんでしたので、具体的なことはさっぱりわかりません。






#125

 ここまで書いたところで、私には悩むことがあります。
 はたして人は、自分で自分を洗脳するような怖ろしいことを、できるものなのでしょうか。そうすると、私はどうなのでしょうか。

 ここで私が思い返すのは大井一弘兄弟のことです。

 もともと、私の擁護派としての立場やそのウエブサイトに対する彼の態度は「非公式ですが認めます」というものでした。この方針は彼とは関係のないところで交渉、決定、約束されたことですので、彼はそれに従うしかありません。
 ところが、この文書がネット上に掲載されると、彼はこの方針についての記憶をすっかり失ってしまったようです。それで唐突に彼が思ったのは、「宮原崇兄弟は背教者の文書を引用する危険なウエブサイトを運営しているじゃないか」、「これは宮原崇兄弟にとってたいへん危険なことだし、会衆に対する悪影響もあるのだから、なんとかしてやめさせなければならない」ということでした。仮にも彼は、「自分の悪事がネットに掲載されるのはまずい」、「これは私の進退にかかわってしまうことだから、なんとしてもやめさせなければならない」とは思わなかったのです。それで彼は、ウエブサイトの閉鎖ということを私に求めてきました [#40] 。しかも、そのあとには、「どうか、コラやダタンやアビラムと同じ道をたどらないでください。」とまで言っています [#43]

 でも、私は思います。これはそういう話なんでしょうか。
 もし、彼がほんとうに、このように私や会衆のことを心配しているのなら、この20年間の彼は何だったのでしょうか。
 この時の彼は、他人のことを深く気遣い、エホバとエホバの組織に対して敬意を払っているように見えて、実際には徹頭徹尾自分のことだけを気にかけていたということはないでしょうか。他人のことなど実はどうでもよく、エホバも気にしないということはないでしょうか。そうだとすると、彼の記憶や思考は入れ替わってしまったのでしょうか。それとも、彼は単に大胆な嘘を語っているにすぎないのでしょうか。

 その後、彼が電話をかけてきたり訪問したりするということがありました。私が驚いたのは、この時の彼がそれまでの彼と全く別人であるように見えたということです [#62], [#65], [#69]
 まず電話ですが、とにかく話し方が異常です。はっきり言って気持ち悪いです。なんだこれ、という感じです。人間というものはこんなふうに変われるものなのでしょうか。
 そして訪問ですが、驚くべきことに、彼の頭の中からは私に関する記憶がすっかり吹き飛んでしまって、それで彼としては、このウエブサイトを運営しているのが誰なのか、私に問い尋ねて確認しなければならなくなったらしいです。
 話し方はますます異常になっているという感じです。さらに仰天することに、一緒に来られた植竹史雄兄弟の異常さはそれを上回るものでした。もういちど言いますが、気持ち悪いです。実際、私はこの気持ち悪さに耐えることができませんでした。

 つじつまはあってると思います。もし彼が、この20年ほどの私についての記憶を喪失したのなら、今になって唐突にこのウエブサイトの存在に気づくことになります。当然、このウエブサイトを作っているのが誰なのか、きちんと確認しなければならない、と思うはずです。20年間、私や会衆について何か心配したことがなく、この時唐突に心配し始めたことも、それまではウエブサイトの存在に気づいていなかったのですから、当然だということになります。
 もちろん、そのようになるためには、記憶の喪失ということが完璧でなければなりません。彼にはそれができたのでしょうか。それとも、これらはすべて芝居なのでしょうか。

 そして、私は自分にこう問いかけます。はたして自分はどうなのだろうか。私は、もしその必要に迫られたら、彼と同じように記憶も思考も人格までも入れ替わってしまうのだろうか。私はあんな気持ちの悪い話し方で人に話しかけるようになるのだろうか。私は自分の罪や悪に全く気づくことなくただ他人のことを気遣って胸を痛めたりするのだろうか。






#126

 植竹史雄兄弟に対する私の評価は、寺方会衆やその長老たちへの評価とは全く異なります。

 私は、寺方会衆の兄弟姉妹たちに多くの転回が生じる様子を見てきました。大井一弘兄弟についても、ちょっと不愉快なことがあるくらいで簡単に記憶と思考が入れ替わってしまうのを見てきました [#49] 。ですから、はたしてほんとうにそうだろうかと疑問に思うところはありますが [#125] 、彼らは転回を遂げているのだろうと私は考えます。
 一方の彼には、私がそのように推論する根拠など何もありません。ここで決定的な要素となるのは、彼がこの会衆に来た理由です。
 彼は“問題解決請負人”として寺方会衆にやってきて、来るなり早々に大井一弘兄弟に取りつき、指導ということを始めました [#62], [#80] 。しかも彼は正しい指導を行ったのではありません。彼が指導したのは、問題の「隠蔽」をどうやってうまくやるかということでした。
 それだけではありません。彼は、精神に問題を抱えている大井一弘兄弟をうまく操り、彼に私を脅迫させて、ネット上からこの文書を消滅させることを画策したようです。私にはそう推定する根拠があります。

 ですから、彼の話し方がとりわけ異常だったのは、大井一弘兄弟のように、記憶や思考が入れ替わってしまったからではありません。それは、嘘をつき、人をだまし、罠にかけて破滅させようという、彼の心の中にある邪悪な決意の自然な表れであったに違いありません。これは全く異なるメカニズムです。

 手本を示そうとしたから、とも言えます。異常なことの手本はより異常な仕方で表れるものです。

 ですから、この人物はろくでもない人物です。
 私はこの人に、この世の中から消えてなくなっていただきたいと思うようになりました。彼が存在しているだけで、絶えず新しい被害者が生まれるからです。
 彼の影響力のもとでは、加害者すら被害者です。彼らは彼に唆されるままに悪の道を走り、取り返しのつかない罪を遂げ、最後には神の裁きに直面するのです [#78]

 しかし、彼でさえ、転回ということから全く逃れることはできないだろうと私は考えます。
 彼は自分のことをこのように考え、確信すらしていることでしょう。
 私は正しくて立派なことのために奮闘しているところだ。今も、厄介な問題に取り組み、解決しようとしている。そのために必要な指導を長老たちに行い、手本を示した。神とキリストは天からご覧になって私のことを認め、喜んでいるに違いない。裁きの日には私を誉め、祝福と救いを与えてくださるだろう。私はこのような特別な仕方でエホバとキリストに仕えることができて幸福だ。ああ私はなんと善良な人間なんだ。
 このような転回がなければ、彼は決してこんな狂った人にならないはずです。






#127

 4つ目です。

 このころ、若い開拓者の兄弟が親元を離れて一人暮らしを始めるということがありました。
 彼には親からの支援がなかったようで、そのうえ会衆からの援助もありませんでした。そのため彼は、貧乏生活人が多いエホバの証人でも今時こんな人はいないだろうというくらいの貧乏な生活を行う羽目になっていました。そして、会衆に彼のことを救ってやろうという人はいませんでした。
 私は彼からこんな話を聞きました。彼の家にはガスコンロ以外に調理器具がなく、食パンを焼くことすらできない。それで、ガスコンロについているグリルで食パンを焼いてみたところ、真っ黒こげになった。

 さて、あなたは、この話を聞いてどんな気分になったでしょうか。健康な精神を持ち備えているなら、同情心を感じ、胸が痛むはずです。でも、世の中にはそうでない人もたくさんいます。寺方会衆には、このような話を聞くと鼻先で笑って面白がるような人たちも多く、それが彼に支援が届かないことの原因になっていました。誰とは言いませんが、彼の破綻を期待している人もいたのです。

 私は、彼にオーブン機能つきの電子レンジをプレゼントしようと思いました。そうすれば、食パンを焼くことができますし、皿の上で冷たくなってしまったヤキソバを温めるといったこともできます。
 さらに私はこう思いました。彼は開拓奉仕をやっているのだから、寺方会衆の開拓者たち、特に開拓者の姉妹たちが彼を支えるという体制を作っていきたい。
 しかしそれは私にとってはかなり困難な目標でした。私自身が会衆からコケにされまくっているからです。私が会衆内でそういう声をあげても、無視されるだけでしょう。

 そこでまず、私は兄弟たちの中から“共同の発起人”を集めて、彼らと共に会衆に提案をもちこむことにしました。そうするなら、少なくとも無視されてしまうことにはならないでしょう。私が説得したのは二人の兄弟、そのうちの一人は大井一弘兄弟でした。うれしいことに、二人は共同の発起人となることに同意しました。もっとも、この二人は口先で同意しただけでしたが。
 続いて私は、会衆に対してこの計画を明らかにし、開拓者の姉妹たちに呼びかけました。私はこう言いました。今回の援助は、誰がいくらお金を出すというようなことではなく、会衆のみんなで彼を支えてあげることが大切だという趣旨にしたがうものです。ですから、姉妹たちが拠出する金額は少額、500円で結構です。不足分は、発起人の3人が補填します。誰がいくらを出したかは彼には教えません。
 500円という額を設定したのは、会衆内にはこういうことに不満をあらわにする人たちがいるからです。とにかく額を絞っておかないと、彼女たちを煽ることになってしまいます。
 そして、恐れていたことが生じてしまいました。そのうちの一人が私のところに詰め寄ってきて、こう言ったのです。「あんなのに500円も出せない」。さらに彼女は言いました。「ふざけるな、と言いたい」。

 私は急いで彼女の説得にかかりました。あなただって、今は親と一緒に暮らしていますが、そのうち一人立ちすることになるでしょう。結婚する日も来るでしょう。その時にはあなたが援助を受ける番になるんですよ。今日の支出はその日のための投資です。
 私は彼女を説得しているつもりでしたが、全くの見当違いでした。彼女のほうは、まず「あなただって」と言われたことで激怒しました。そのあと「結婚するでしょう」と言葉が続いたことでぶち切れしました。それで彼女はさらに私に詰め寄りながら言いました。「なんであんたからそんなこと言われんとならんの」。「これはどういうことなん」。「馬鹿にしてるんか」。

 このあと、この姉妹は開拓者の姉妹たちを引き連れて彼のほうに移動しました。彼女は彼に迫ってこう言いました。あなたにオーブン機能のついた電子レンジなどいらないでしょ。そんなものは必要ないと言いなさい。いまから宮原兄弟のところに行って、そんなものはいりませんと言って断ってきなさい。
 これは何と言いますか、私の予想をはるかに超えた展開でした。よその会衆では絶対に見られない光景だと思います。私はただただ唖然として状況を見ているしかありませんでした。崇拝の場所である王国会館(教会)でなにをやってるんだ、と思いました。
 そして、彼は彼女たちの要求を拒否しました。

 その日、姉妹たちの誰からも援助の同意は得られませんでした。後日私は、開拓者の姉妹たちのもとを個別に訪ねてさらに説得を重ねましたが、やはり結果は変わりませんでした。皆一様に、500円すら支払うつもりはないと言うのです。
 しかし、造反者が現れ、私は隠された事情を知ることになります。彼女によると、あのあと、開拓者の姉妹たちはよそで集まって会議を開き、誰一人として1円も出さないという方針を決議したのだそうです。造反者の姉妹はこう言いました。このようなやり方はエホバから見て正しくないと思うんです。それで私はお金を出すことにしました。でもお願いです。私がこのことを告げ口してお金も出したということは誰にも内緒にしてください。ばれてしまうとたいへんなことになります。

 さて、共同発起人の二人ですが、何もしませんでした。
 発起人になることに同意したのに、私が会衆で呼びかけを行った時、遠くから見ているだけで何も発言しませんでした。開拓者の姉妹たちが私に逆らい騒動を起こすのを見ても、私に加勢しようとはしませんでした。姉妹たちが態度を決めてしまうと、それを見た二人は手を引いてしまい、私だけが残される状況となりました。

 私は、造反者の姉妹が差し出した2000円に自分のお金を加えてオーブンつきの電子レンジを買い、彼のもとに届けました。
 私はまさに暗たんたる気分でした。私は彼の幸福を願ったのです。物は彼のもとに届きましたが、それは彼を苦しめるだけでした。






#128

 このような、許容の範囲を大幅に逸脱した問題が起こる背景には、転回という状態がひどくなっている人物が会衆内にいること、そのような人が問題を起こしたときに会衆にとっての選択肢が同調するか無視するかの二択しかないことがあると思います。この事件の場合にも、異常な考え方や行動をする人がいて、同調を求められた人は抵抗なく同調し、それ以外の人たちは何事もなかったように振る舞う、という状況が見られました。
 これはさらなる無視ということへつながります。加害者は、罪の呵責を感じず平然としています。同調者は、ことをさっさと終わらせたいと思います。残りの人たちは、はじめから全く何も気づかないというふりをしています。そのようなわけで、事件が起こってから数日もたつと、被害者を除く関係者全員が、まるで何事もなかったかのように振る舞うことになります。この時、被害者が声をあげても、その声に耳を傾ける人はいません。
 こうして、会衆全体が罪を犯し、犯し続けることになります。ですから、これは個人の問題ではなく会衆全体の問題です。

 この時、被害者が声をあげ続けると、さらにひどいことが生じる可能性があります。このような問題に対処する専門家なる人物が現れ、対策を始めるのです。
 私の経験して知る範囲では、この種の人たちの中にはまともな人もいます。まともな人は、当然、被害者を保護するでしょう。私はそのような事例をよく知っています。しかし、中には異常な人もいて、その人は加害者を保護します。被害者は、まるで背教者のように扱われ、声をあげるのをやめるか会衆を去るか、という状況へと追い込まれることになります。こちらの事例も私はよく知っています。今経験していることもそのひとつです。
 この時、やはり会衆には二択しかありません。犯罪者に同調するか無視するかです。こうして引き続き、膨らみ続ける罪は会衆全体の罪となります。

 では、どうなのでしょうか。このような罪を際限なく犯し続け、今日も追加をやっている寺方会衆は、神とキリストから見て、清いと言えるでしょうか。
 もし、私やあなたがキリストであったなら、どうでしょうか。天から救いと裁きが執行される日に、あなたはこの人たちを救いたいと思うでしょうか。私は、なんとかして救いたいと思いますが、お手上げになるのかもしれません。

 神とキリストには「悔い改め」に関する明確なルールがあります。このルールに従う人は、大きな罪があっても赦されます。しかしこのルールに従わないなら、小さな罪すら赦されません。
 悔い改めるには、その最初の段階を踏むことが不可欠です。それは、自分が罪を犯したことを自覚することです。寺方会衆の場合、ここが難関です。罪を自覚しなければ、その次の、罪を認めるという段階に進むことはできません。そのあとの、罪を告白する、悔いる、償う、転向する、という段階にも進めません。

 寺方会衆には寺方会衆の霊(精神状態)というものがあります。あなたが寺方会衆の一員だったとしましょう。あなたはこの霊に逆らうことができるでしょうか。もし逆らったら、どうなるでしょうか。
 あなたが会衆を救いたいと願っても、長老たちは全く協力してくれないでしょうし、会衆もあなたの努力を無視するでしょう。それどころか、あなたは迫害されることになるでしょう。
 そうすると、いったい誰がどうやってこの会衆を救うのでしょうか。






#129

 ここまで書いたところで、私には再び気になるイエスの言葉があります。



マタイ 25:31-46

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人の子は栄光を帯びて,全ての天使と共に来ると,その時,栄光の座に座ります。全ての国の人々が彼の前に集められ,人の子は,羊飼いが羊をヤギから分けるように,人々を分けます。そして羊を自分の右に,ヤギを自分の左に置きます。
それから王は,右にいる人たちに言います。『さあ,私の父に祝福された人たち,世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。私が飢えると食べ物を与え,喉が渇くと飲み物を与えてくれたからです。よそから来ると温かく迎え,裸でいると服を与えてくれました。病気になると世話をし,牢屋にいると訪問してくれました』。その時,正しい人たちはこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ,よそから来たのを見て温かく迎え,裸なのを見て服を差し上げたでしょうか。いつ,病気であったり牢屋にいたりするのを知って訪問しましたか』。王は答えます。『実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです』。
それから王は,左にいる人たちに言います。『災いを宣告された人たち,私から離れ,悪魔と邪悪な天使たちのために用意された永遠の火に入りなさい。私が飢えても食べ物を与えず,喉が渇いても飲み物を与えてくれなかったからです。よそから来ても温かく迎えず,裸でいても服を与えず,病気であったり牢屋にいたりしても世話をしてくれませんでした』。その時,その人たちもこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか』。その時,王は答えます。『実のところ,これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです』。この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます」。



 このイエスの言葉は、イエスによる世界の裁きというように読まれています。しかし、すでに私が何度も指摘しているように、そのような言葉の多くは、実際には神の民について語っています [#72], [#99] 。この言葉の場合も、救われない人が神への奉仕をアピールしているのですから、そうなります。つまり、この言葉はマタイ 7:21-23の言い替えです [#76]



マタイ 7:21-23

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私に向かって『主よ,主よ』と言う人全員が天の王国に入るのではなく,天にいる私の父の望むことを行う人だけが入ります。その日には,多くの人が私に向かって『主よ,主よ,私たちはあなたの名によって預言し,あなたの名によって邪悪な天使たちを追い出し,あなたの名によって多くの強力な行いをしなかったでしょうか』と言います。その時,私ははっきり言います。『あなたたちのことは全く知りません。不法なことをする人たち,離れ去りなさい!』



 イエスは、裁きの日にはこんなふうにして裁かれる人もいます、ということを言っていたのでしょうか。そうではないはずです。こういう事例がまれなケースに属するなら、イエスはそれを説いたりしなかったでしょう。では、これがまれなケースでないとして、具体的にどのような状況を指しているのでしょうか。

 イエスはこのようにも言っています。



マタイ 10:40-42

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたたちを受け入れる人は私をも受け入れ,私を受け入れる人は私を遣わした方をも受け入れます。預言者を預言者と認めて受け入れる人は預言者の報いを得,正しい人を正しい人と認めて受け入れる人は正しい人の報いを得ます。はっきり言いますが,これら目立たない人の1人を弟子であると認めてほんの1杯の冷たい飲み水を与える人は,必ず報いを得ます」。



 ここでイエスが想定しているのは、弟子たちに対する迫害です。それも、身内からの迫害です。イエスの弟子が預言者として振る舞う日が来ると、同じ信仰を共有しているはずの人たちから迫害が生じ、その弟子は苦しむことになります。弟子は悲惨な目に遭いますが、誰も助けようとしません。その預言者に1杯の水を差し出すことすらありません。
 しかし、勇気を振り絞って弟子を助ける人も現れるでしょう。キリストが救うのはそのような人です。

 イエスの言葉の背景には、この預言の言葉があります。



マラキ 3:1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[B] 「私は使者を遣わす。その使者は私の前に道を整える。
[A] あなたたちが探し求めている真の主が突如,神殿に来る。
[B] あなたたちが楽しみにしている契約の使者が来る。彼は必ず来る」
と,大軍を率いるエホバは言う。



 メシア預言には読み替えのルールがあり、ここで言う「神殿」は会衆(教会)を指しています。
 「契約の使者」が来て準備をしたのに、どうして「真の主」は突然にやってくるのでしょうか。人々が使者の言葉を無視するからです。

 これらのことは、いまちょうどこの時に、エホバの民の間で成就するのでしょうか。
 すくなくとも寺方会衆においては、その準備はできているように思います。そして、また繰り返し指摘することになりますが、その「不法なことをする人たち」の中心となっているのは長老たちです [#77]



テサロニケ第二 2:3-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
誰にも,どんな方法によっても惑わされないようにしてください。まず背教が生じて,不法の者つまり滅びる者が明らかにされてからでなければ,その日は来ないからです。その者は,神と呼ばれているものや崇拝されているもの全てに逆らい,自分の方が上だと考え,ついには神殿の中に座って人々の前で神のように振る舞います。






#130

 さて、今年も主の記念式の季節となってきました。

 これは一般に「最後の晩餐」として知られているものです。イエスはこれを記念として引き続き執り行うよう弟子たちに命じました。というわけで「記念式」です。
 記念式は2021年3月27日(土曜日)の日没後に行われる予定です。

 記念式を前にして、私はイエス・キリストについて書きたいと願うようになりました。
 書くにあたってテーマとするのはこの聖句です。



マルコ 15:34

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
午後3時に,イエスは,「エリ,エリ,ラマ サバクタニ」と大声で叫んだ。これは訳せば,「私の神,私の神,なぜ私を見捨てたのですか」という意味である。



 これは、イエスが磔刑に処され、いよいよ死ぬ間際になった時に叫んだ言葉です。
 イエスはこの言葉を、どのような意味で、またどのような気持ちで語ったのでしょうか。その答えを得るためには、イエスの生涯ということに注目しなければなりません。

 というわけで、私が書くのはイエスの生涯についてとなります。
 途中、イエスの幼少期の知られざるエピソードの公表も予定しています。キリストはおよそ2000年にわたって研究の対象になってきましたが、まだ全く知られていない話もあったりします。






#131

 イエスは、自分がどのような死に方をするかよく知っていました。



マタイ 20:18-19

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
「さあ,私たちはエルサレムに上っていきます。人の子は祭司長と律法学者たちに引き渡され,死に値すると断罪されて異国の人々に引き渡されます。人の子はあざけられ,むち打たれ,杭に掛けられて死にます。そして3日目に生き返ります」。

マタイ 26:1-2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,イエスはこれら全てを語り終えてから,弟子たちに言った。「知っての通り,今から2日後に過ぎ越しの祭りが行われます。そして,人の子は引き渡され,杭に掛けられて死にます」。



 弟子のひとりに裏切られ、残りの弟子たちも逃げてしまうということを知っていました。



マタイ 26:20-25

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
夕方になった時,イエスは12弟子と食卓に着いていた。食事中に,イエスは言った。「はっきり言いますが,あなたたちの1人が私を裏切ります」。弟子たちは非常に悲しみ,それぞれが「主よ,まさか私ではありませんね」と言い始めた。イエスは答えた。「私と一緒にパンを鉢に浸す人が,私を裏切る人です。もちろん人の子は書かれている通り去っていきますが,人の子を裏切るその人には災いがあります! 生まれてこなかった方がよかったでしょう」。裏切ろうとしていたユダが言った。「ラビ,まさか私ではありませんね」。イエスは言った。「あなたは分かっています」。

マタイ 26:31-35

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それからイエスは言った。「今夜,あなたたちは皆,私を見捨てます。『私は牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになる』と書いてあるからです。しかし私は,生き返らされた後,先にガリラヤに行きます」。それに対してペテロは言った。「ほかのみんながあなたを見捨てても,私は決して見捨てません!」イエスは言った。「はっきり言いますが,今夜,おんどりが鳴く前に,あなたは3度,私を知らないと言います」。ペテロは言った。「たとえ一緒に死ぬことになるとしても,あなたを知らないとは決して言いません」。ほかの弟子も皆,同じことを言った。



 死ぬということには恐怖が伴うものです。しかもその時には、弟子たちに裏切られたり見捨てられたりするわけですから、その辛さはひどいものだったでしょう。

 イエスは苦悩にもだえながら祈ります。



ルカ 22:39-44

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスはそこを出て,いつものようにオリーブ山に行った。弟子たちも後に従った。その場所に着くと,イエスは弟子たちに言った。「誘惑に負けないように祈っていなさい」。そして,石を投げれば届くほどの所まで離れ,膝をかがめて祈り始め,こう言った。「父よ,あなたが望まれるようでしたら,この杯を私から取り除いてください。とはいえ,私の望むことではなく,あなたの望まれることがなされますように」。その時,天使が現れてイエスを力づけた。しかしイエスは深く苦悩し,さらに真剣に祈り続けた。汗が血のようになって地面に滴り落ちた。



 この時のイエスの心境はどのようなものだったでしょうか。
 この祈りの内容については、イエスは前にも同じことを語っています。また、パウロも言及しています。そこから答えを得ることができます。



ヨハネ 12:23-28

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスはこう答えた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。はっきり言っておきます。1粒の小麦は地面に落ちて死なない限り,ただ1粒のままです。しかし,死ぬなら,多くの実を結びます。自分の命に執着する人はそれを失いますが,この世界で自分の命を惜しまない人は,それを保って永遠の命を得ます。私に仕えようと思う人は,私の後に従いなさい。私がいる所にその人もいることになります。私に仕えようと思う人は,天の父に尊ばれます。今,私の心は騒いでいます。何と言えばよいのでしょう。父よ,私をこの事態から救い出してください。しかしやはり,私はまさにこのために来たのです。父よ,お名前を栄光あるものとしてください」。すると,天から声があった。「私はすでにそれを栄光あるものとし,再び栄光あるものとする」。

ヘブライ 5:7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
キリストは,地上で生きていた間,自分を死から救える方に祈願を捧げ,願いを伝えました。大きな声で叫び,涙を流しながらそのようにし,神への畏れゆえに聞き入れられました。



 どちらにも「救う」というような言い回しがあります。イエスは死への恐怖に苦しめられていました。死なずに済むことができればどんなにかいいのに、と思いました。
 それで、死が迫ってきたとき、イエスの心には余裕がありませんでした。

 そんなイエスですが、一つだけ、知らなかったことがあります。



ヨハネ 16:32

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたたちが散らされてそれぞれ自分の家に帰り,私を独りにする時が来ます。いえ,もう来ています。とはいえ,私は独りではありません。父が一緒にいてくださるからです。



 イエスには、神の聖霊(聖なる力)の宿りがありました。これはイエスがバプテスマ(洗礼)を受けた時に宿ったものです。



マルコ 1:9-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その頃,イエスがガリラヤのナザレから来て,ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。イエスは水から上がるとすぐ,天が分かれて聖なる力がハトのように自分の上に下ってくるのを見た。そして天から声があった。「あなたは私の愛する子,私はあなたのことを喜んでいる」。



 その日以来、神は聖霊の臨在によって、常にイエスと共にいました。

 イエスはこう考えて自分を奮い立たせていました。私はユダに裏切られ、弟子たちにも見捨てられ、死ぬだろう。しかし、死に至る最後の瞬間まで、神が共にいてくださる。神は決して私を見捨てたりされない。だから、私は決して一人で死ぬのではない。イエスはこのことを心から信じていました。

 しかし、杭(十字架)にはりつけにされた時、イエスにとって、予想しなかった、そして残酷なことが生じます。死の間際、聖霊がイエスのもとを去ったのです。

 イエスは、突然の出来事に衝撃を受けます。そして取り乱します。それまでかろうじて抑えられていた恐怖がイエスを圧倒していきます。
 そしてイエスは叫びます。私の神、私の神、どうして私を見捨てたのですか。






#132

 この時、イエスはヘブライ語で叫びました。
 動揺してこの言葉を口走ったのですから、ここから、イエスがヘブライ語を母語とするユダヤ人だったことが判ります。当時のユダヤ人の大半はギリシャ語を話すユダヤ人です。そのため、普段イエスはギリシャ語を話していましたが、この時はそんな余裕などありませんでした。

 当時一般に話されていたヘブライ語は、実質的にはアラム語です。ヘブライ語はある時期からアラム語の影響を受けるようになり、アラム語に入れ替わっていきました。これとは別に、聖書のヘブライ語というものがあります。アラム語に汚染される前のヘブライ語です。イエスの時代、聖書のヘブライ語を話せる人はほとんどいなかったでしょう。
 イエスの叫びは、聖書本文に記された綴りを見る限りでは、聖書のヘブライ語ではなく当時のヘブライ語です。ところが、この記述にはトリックがあります。当時のヘブライ語で「エロイ」と綴られているのに、文脈を見ると、実際には聖書のヘブライ語の「エリ」が使われたということがなにげに示唆されていますから、イエスは聖書のヘブライ語で叫んだというのが真相のようです。福音書を記録した人たちには聖書のヘブライ語がまったくできなかったからこうなったのでしょう。

 さて、イエスはこのようなところでもヘブライ語を使っています。



マルコ 14:32-36

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ゲッセマネという所に来ると,イエスは弟子たちに言った。「私が祈りをする間,ここに座っていなさい」。それから,ペテロとヤコブとヨハネを連れていったが,不安に駆られ,ひどく苦悩し始めた。そして3人に言った。「私は悲しみのあまり,死んでしまいそうです。ここにとどまって,ずっと見張っていなさい」。イエスは少し進んでいって地面に伏し,もしできることならその事態が自分から過ぎ去るように,と祈り始めた。こう言った。「アバ,父よ,あなたには全てのことが可能です。この杯を私から取り除いてください。それでも,私の望むことではなく,あなたの望まれることを」。



 「アバ」と訳されているところがヘブライ語です。より正確に発音を書くと「アッバア」です。これは幼児語だと言われています。それも、かなりの幼児語です。

 「父」という語は、聖書のヘブライ語でもアラム語でも「アーブ」です。
 さて、だいたいどの言語圏でも、生まれて間もない赤ちゃんが初めに口にする言葉というものは決まっています。そのうちの一つが「おとうさん」です。
 ヘブライ語を話す家で生まれた赤ちゃんが初めて父を呼ぼうとするところを想像してみてください。赤ちゃんは一生懸命口を動かして「アーブ」と言おうとします。しかし、赤ちゃんの口には「アーブ」の発音は難しすぎます。それで、赤ちゃんとしてはものすごく努力したのですが、努力した結果このように言ってしまうことになります。「アッバア」。
 それで、イエスが神に向かって「アッバア」と呼びかけたことは、イエスの父ヨセフと母マリアが、当時のヘブライ語を母語とするユダヤ人だったことを示唆しています。

 イエスは幼少のころ、ヨセフに向かって「アッバア」と呼びかけていました。
 普通、赤ちゃんはある程度成長すると、もう「アッバア」という言い方はしなくなります。というのも、この発音はかなりみっともないからです。もし、10代になってもこのような言葉を使っている子供がいたら、ちょっとこの子は頭がおかしいんじゃないかと疑われたことでしょう。しかし、30を過ぎたイエスが神に対してこのような発音を用いたのですから、イエスがそんなことなど気にもかけずに「アッバア」という言葉をいつまでも使い続けたことが推測できます。古代ユダヤ教についての文献は、ユダヤ人の中にはそういう人もいたことを記していますから、みっともないとはいえ、ありがちなことだったのでしょう。






#133

 そんな幼少のイエスですが、命の危険にさらされ、エジプトに逃げることになります。



マタイ 2:13-15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
占星術師たちが去った後,エホバの天使が夢の中でヨセフに現れて,言った。「起きて,この子とその母親を連れてエジプトに逃げ,私が知らせるまでとどまりなさい。ヘロデがこの子を捜して殺そうとしています」。そこでヨセフは起き,夜のうちに子供とその母親を連れ,エジプトに行って,ヘロデの死までとどまった。こうして,エホバが預言者を通して「私はわが子をエジプトから呼び出した」と語ったことが実現した。



 ここで留意しなければならないのは、読み替えのルールがあるメシア預言において「エジプト」とは何かということです。

 メシア預言にはエジプトについての記述がいくつもあります。多くの人がこのことに頭を悩ませてきました。メシア預言になぜエジプトについての記述があるのか、その意味は何なのか、よく解らないというのです。
 しかし、私はこの文書ですでに答えを書いています。メシア預言における「エジプト」は、エジプトにあるユダヤ人入植地を指しています [#97]
 たとえばこの記述を見てみましょう。



エゼキエル 29:8-16

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それで,主権者である主エホバはこう言う。「私はあなたに剣を差し向け,人々と動物を滅ぼす。エジプトは滅ぼされ,荒廃し,人々は私がエホバであることを知らなければならなくなる。あなたが,『ナイル川は私のもの。私が造ったのだ』と言ったからである。私はあなたとナイルに敵対し,ミグドルからシエネまで,エチオピアとの国境に至るまで,エジプトを滅ぼし,乾いて荒れ果てた所にする。人も家畜もそこを通ることはなくなり,40年の間誰もそこに住まない。私はエジプトを最も荒れた土地とし,エジプトの町々を40年の間最も荒廃した町々とする。エジプト人を国々に散らし,さまざまな土地に追いやる」。
主権者である主エホバはこう言う。「私は40年の後,さまざまな民の中に散らされていたエジプト人を集めて戻す。捕らわれていたエジプト人を,出身地であるパトロスに連れ戻す。彼らはそこで取るに足りない王国を造る。エジプトは他の王国に劣るようになり,もはや他の国を支配することはなくなる。私は彼らを非常に少なくして,他の国を従わせることができないようにする。エジプトは,二度とイスラエル国民に信頼されることはない。エジプト人に助けを求めた過ちを,イスラエル国民に思い起こさせるだけの存在になる。そしてイスラエル国民は,私が主権者である主エホバであることを知らなければならなくなる」』」。



 これは一見してエジプトについて書いているように見えて、ユダヤ人について書いています。
 この預言が書かれた時代、イスラエルはバビロニアによって攻略され、エルサレムも廃墟となりました。多くのユダヤ人はバビロニアに強制移住させられましたが、ある人たちはエジプトに逃げ、多くの苦難を乗り越えてなんとか入植地を作り上げます。そしてその入植地は、その存在をイスラエルから無視されることになります。
 というわけで、イエスが両親に連れられて逃げ込んだ「エジプト」とは、バビロン捕囚時代に形成され、まだ残っていたユダヤ人の入植地のことです。

 そして、エジプトに対するメシア預言には注目すべき一行があります。すでに紹介した聖句をもう一度見てみましょう。



イザヤ 19:18-22

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
その日,エジプトには,カナンの言語を話し,大軍を率いるエホバに尽くすことを誓う5つの町があることになる。その1つは「打ち壊す町」と呼ばれる。その日,エジプトの真ん中にエホバのための祭壇ができ,境界の所にエホバのための柱ができる。それはエジプトで,大軍を率いるエホバについてのしるしまた証しとなる。人々が虐げられてエホバに向かって叫ぶと,神は彼らを救う偉大な救い主を遣わす。エホバはエジプト人に知られるようになり,エジプト人はその日にエホバを知り,犠牲と供え物を捧げ,エホバに誓約をしてそれを果たす。エホバはエジプトを打つ。打って癒やす。人々はエホバのもとに帰り,神は彼らの願いに応え,彼らを癒やす。



 ここには「カナンの言語」という言葉が出てきます。これは聖書のヘブライ語のことです。
 ヘブライ語のアラム語化は、バビロン捕囚の時代にバビロニアで生じたものです。エジプトに逃げたユダヤ人たちは、バビロニアから逃げ、しかもその後は他の地域のユダヤ人から隔離された状態になってしまいましたので、アラム語による汚染を経験しなかったのです。

 というわけで、幼少期のイエスが両親と共にたどり着いたのは、聖書のヘブライ語を話す人たちからなる集落でした。イエスはエジプトで、聖書のヘブライ語を話せるようになります。その集落の人たちに導かれ、聖書を訳本ではなく原典で読み、暗記し、原典の意味で理解するための資質が身につきます。






#134

 やがてイエスは両親と共にエジプトを去り、ガリラヤ地方に住み着きます。そこではギリシャ語と当時のヘブライ語が話されていたでしょう。イエスの両親は当時のヘブライ語を話しましたので、当時のヘブライ語が使われた都市に住んだでしょう。
 そしてイエスは12歳になります。



ルカ 2:41-50

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,イエスの両親は,過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに毎年行くことにしていた。イエスが12歳の時も,祭りの習慣に従って上っていった。祭りの期間が終わって帰途に就いた時,少年イエスはエルサレムに残っていたが,両親はそのことに気付かなかった。一緒に旅行している人たちの中にいるものと思い,1日の道のりを行って,それから親族や知人の間を捜し始めた。ところが見つからず,エルサレムに引き返して捜し回った。やっと3日後に,イエスが神殿で教師たちの真ん中に座り,話を聞いたり質問をしたりしているのが見つかった。イエスが話すのを聞いていた人は皆,その子の理解力と答えにとても驚いていた。両親はイエスを見て大変驚き,母親が言った。「どうしてこんなことをしたの。お父さんもお母さんも必死に捜したのよ」。しかしイエスは言った。「なぜ捜されたのですか。私が父の家にいるはずだと思われなかったのですか」。けれども両親は,イエスが言っていることを理解できなかった。



 12歳になったイエスは、神殿にいる神学教師と対等に渡りあえるほどになっていました。
 そしてこの時、イエスは神のことを「父」と呼びます。

 当時のユダヤ人の固定観念では、「父」というのはアブラハムのことでした。



ヨハネ 8:37-39

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は自分の父のもとで見たことを話し,あなた方は自分たちの父から聞いたことを行っています」。その人たちは答えた。「私たちの父はアブラハムです」。イエスは言った。「もしアブラハムの子なら,アブラハムに倣って行動しているはずです。



 イエスはそんなことは気にもかけず、神のことを「父」と言います。周囲の人たちはかなり困惑したことでしょう。しかも、呼びかけるときには「アッバア」と言いました。声に出して笑う人もいたに違いありません。






#135

 当時のユダヤ人は子供に詩編を暗記させました。その中にはこの聖句があります。



詩編 22:1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私の神,私の神,なぜ私を見捨てたのですか。 なぜ救ってくださらないのですか。 なぜ苦悩の叫びを聞いてくださらないのですか。



 死の間際に口から出てきたくらいですから、イエスにとってこの言葉は特に印象深い言葉だったに違いありません。
 聖書は何も書いていませんが、イエスは父ヨセフとの離別に直面します。イエスにとっては「アッバア」という呼びかけをするほどに愛した父です。この時、イエスは涙を流しながら聖書の言葉を繰り返し唱えたに違いありません。私の神、私の神、どうして私を見捨てたのですか。

 しかし、離別はイエスにとって転機になります。「アッバア」と呼びかけて慕う対象が、ただひとり、神になったのです。
 イエスは、父親に対して抱いた強い愛情をひたすら神に向けるようになりました。当時のユダヤ人の中に、このような仕方で神を愛するようになった人はいなかったでしょう。

 こうして、後にイエスがメシアとなった時、イエスにはメシアになる者が必要とするすべての資質が揃っていました。それは、神への特別な愛情を抱き、当時のヘブライ語に加えて聖書のヘブライ語とギリシャ語を話し、聖書を原典で読み、暗記し、正しく理解しているという資質です。

 イエスがメシアとしての責務を果たしている間、神はイエスの愛情に聖霊の臨在によって応え続けました。天から声を届けることも度々ありました。イエスにとって、その絆は永遠に続くかのように思えました。

 しかし、最後に、試練がイエスを襲うことになります。
 イエスは、神は死んだ自分を復活させてくださる、と信じていました。そのことも、死の恐怖に立ち向かう力となっていました。しかし、死の間際になってイエスは神に見捨てられます。よりによって、神が、イエスを見捨てたのです。
 イエスは最後にメシアとしての役割を果たし損ね、それで神から捨てられたのでしょうか。そうだとすれば、イエスの死が贖いとなって全人類を救うのだとしても、イエス自身の復活はありません。イエスの復活は、贖いではなく神の愛によるからです。
 イエスにとって、この恐怖は打ち勝てるものではありませんでした。恐れと失意に打ちのめされながら、イエスは死にます。
 イエスは徐々に弱っていって死に至ったのではありません。イエスの直接の死因は心臓破裂だと思われます。






#136

 とても残酷なことだった、と私は思います。
 杭に掛けられたことは本質ではありません。そのような苦しみはほかにもあります。イエスには、そういったことをはるかに越える苦しみがありました。そして人々は、キリストの贖いに信仰を抱き、感謝しているというのに、私がこのことを書いたこの日に至るまで、その苦しみの深さを知ることなどありませんでした。

 私はこう問いかけます。あなたは、イエス・キリストに信仰を抱く者でしょうか。では、あなたはイエス・キリストのことをどれほど理解していますか。

 多くの人が、実際には何も理解していないのに、理解したつもりになっています。一方である人たちは、キリストについての自分の理解が足りないことに気づき、その研究に励んでいますが、得られるものは少しでしかありません。

 後にパウロはこう書いています。



ガラテア 4:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
皆さんは子なので,神はご自分の子が持つ聖なる力を私たちの心の中に送ってくださいました。その聖なる力によって私たちは「アバ,父よ!」と叫びます。



 これは、実際に神の聖霊の宿りがないと体験できないことです。それは決して理解できないように思えます。
 しかし、私はこれを書きました。ですから今日は記念すべき日です。今日を境に、だれもがその意味を理解できるようになったのです。

 そのようなわけで、今年行われる記念式は特別な記念式となります。
 キリストに対する感謝と、神に対する愛情を深めましょう。






#137

 2年が経過しました。






#138

 今日、母からの絵葉書の投函がありました。



◇ 2021年07月07日, 母から私へのハガキ

崇へ

 元気に暮らしていますか。
 暑さが厳しくなってきました。
 身体に気を付けて過して下さい。

母より






#139

 寺方会衆に対する宣告の時となりました。



アモス 3:7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
内密のことを預言者に啓示してからでなければ,主権者である主エホバは事を行わない。



 私はこれまで、寺方会衆に対して預言者として振る舞ってきました。会衆を悔い改めと救いへ導くためです。

 神の霊に導かれた私は、何が生じるかを前もって知っているかのようでした。会衆が罪の道を進む前に、教えを説き、手本を示したのです。これらの諭しは神からの愛の表明でした。
 しかし会衆は、あらかじめ忠告された罪の道を進みました。それはあたかも、私が先を行き、会衆が後をついて来るかのようでした。そして私は、しきりに悔い改めを呼びかけ、会衆が進むべき義の道筋を示しました。これもやはり神の愛の現れでした。

 神は私の祈りに応え、裁きに関する秘められた真理を私が告げることさえ許してくださいました。それは、神の知恵により諸会衆に対して隠されている事柄です。その日が来ると、諸会衆は不意打ちを食らい、ぼうぜんとすることになっているのです。
 神の予定を差し置いて、そのような罠があることを暴露した者が、これまで一人でもいたでしょうか。ですから、寺方会衆に対して示された神の愛と恵みは特別なものです。

 私は、背教と擁護に関する真理も明らかにしました。こうして、神は私に誉れだけでなく権威も与え、会衆を矯正する者として立ててくださいました。会衆が私を通して救われるようにしたことは、まさに、人間の知恵にはよらない神の業でした。
 それでも足りないかのように、エホバは、キリストの秘密を公表し、啓示の封印を解く特権さえも私に与えてくださいました。

 神が会衆にこれほどの愛を示されたということはありませんでした。それでも、寺方会衆はこれらのすべてを退け、私に対する迫害者となりました。

 そのようなわけで、今日からのち、寺方会衆にはエホバからの裁きが臨むことになります。神からの、これほどまでに偉大な愛を受けたにもかかわらず、その愛を退けたのですから、彼らに弁解の余地はありません。






#140

 現況の報告になります。

 「宣告」を掲載してから、いくつかの文書を更新したうえで、サイト運営を休止しています。
 この12月に入ってから、タイピングの負荷により首と神経を痛め、ひどくしてしまいました。当面は治療に専念するしかなく、なにもできません。






#141

エレミヤ 20:7-18 補記あり

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[C1] エホバ,あなたは私をだまし,私はだまされました。
あなたは私に対して力を振るい,勝ちました。
私は一日中,笑いものにされ,皆が私をあざけっています。
私は語るたびに叫び,「暴力と破滅!」と声高に言わなければなりません。
エホバの言葉のせいで,私は一日中侮辱され,からかわれます。

[B1] それで私は言いました。「この方について話さないことにしよう。もうこの方の名によって語ることはしない」と。
ですが,神の言葉は私の心の中で燃える火,骨の中に閉じ込められた火のようになりました。
私はそれを抑えるのに疲れ,もう耐えられなくなりました。

[A1] 私は悪いうわさをたくさん聞き,恐怖に包まれました。
「彼を非難しよう。皆で非難してやろう!」
私にあいさつする人は皆,私が挫折するのを待っていました。
「彼は愚かな間違いをするだろう。そうなれば,われわれが優位に立ち,彼に復讐できる」。

[A2] しかし,エホバは恐るべき戦士のように私と共にいてくださいました。
そのため,私を迫害する人たちはつまずき,優位に立つことはありません。
成功することなく,大いに恥をかきます。彼らの恥辱は永久に続き,忘れられることはありません。

[B2] 大軍を率いるエホバ,あなたは正しい人を調べておられます。人の奥底の考えと心をご覧になります。
あなたが彼らに復讐するのを見せてください。私は自分の訴えをあなたに委ねました。
[その時私はこう叫ぶでしょう。]
エホバに向かって歌え! エホバを賛美せよ! この方は貧しい人を悪人の手から救ってくださったからだ。

[C2] [それでも私は思います。]
私が生まれた日は災いだ! 母が私を産んだ日は祝福されるな!
父に良い知らせを伝え,「あなたに男の子が生まれました!」と言って,父を大喜びさせた人は,災いを受けよ。
その人は,エホバが嘆くことなく滅ぼした町々のようになれ。朝に叫び声を聞き,真昼に戦いの合図を聞くことになれ。
なぜ彼は私を母の胎内で殺さなかったのか。そうすれば,母が私の墓となり,ずっと身ごもったままになっていたのに。
なぜ私は母の胎内から出なければならなかったのか。苦しみや悲しみを見て,恥じながら生涯を終えるだけではないか。






#142

 エレミヤ 20:7-18に記されているエレミヤの歌は、人々から不思議がられてきました。エホバへの賛美に続いて、祝福と喜びを歌うはずのところで、悲嘆が歌われているのです。聖書には多くの歌がありますが、この歌はかなり異質です。
 この問題は聖書学者たちの間でも論じられてきましたが、納得できる答えを提出する者はいませんでした。

 しかし、私にとってこの疑問はすこしも難しくありません。
 聖書には「構造」という規則にしたがって書かれた記述がたくさんあります。この規則にしたがう文は、構造の存在を明示するために、多くの場合「枠」を持ちます。エレミヤの歌の末尾が悲嘆の言葉になっているのは、エレミヤが聖書の修辞構造のルールに従ったからです。
 しかし、そのことは本質ではありません。エレミヤの歌が悲嘆で終わっているのは、それが預言の歌だからです。それは将来の出来事を予表していて、キリストが直面した絶望に似た悲嘆が、ある人に臨むことを示しているのです。

 そこで私が言わなければならないのは、「私はエホバに騙されていた」ということです。
 この文書を書き始めた時、私は、私がエホバの聖霊を受けつつ長老たちの導きとなり、共に奮闘して、大きな問題に立ち向かい克服していくことを志していました。しかし、どうなったでしょうか。エレミヤの歌に歌われたとおりのことが起こりました。長老たちは私を通して語られたエホバの諭しに従わず、私に敵対するようになります。彼らは私に対する悪い噂を広め、そのうえ弱みを突いて私を挫折させようとしましたが、エホバの霊が働いたため、その邪悪な業を遂げることはできませんでした。今、彼らの言行はすべてネット上にさらされ、彼らは拭えない恥をかいています。そしてこれらの出来事が起こっている間、私は悲惨な目に遭いながら、虐待と抑圧について語り続けました。
 このような状況を見、私に対して「なんということをしてくれたんだ」と言う方もいますが、私がやったことではありません。エホバが私を騙したのです。ことの責任は全面的にエホバにあります。

 それで、私自身は少しも願わなかったことですが、ついに、私がエホバに対して「復讐」を要求する時が来ました。
 繰り返し念押ししておきますが、私は被害者です。復讐を求めましたが、加害者ではありません。

 エホバに委ねましたから、私としてはもうこれ以上言うことはありません。






#143

 母から記念式の招待状と手紙が届きました。



◇ 2022年04月05日, 母からの手紙

 桜が満開ですね。
 コロナも長引きましたが、元気でしょうか。
 イエスの記念式、四月十五日(金)、行なわれます。招待状、お送りします。
 私達は家のZOOMで参加します。よかったら、七時少し前に来て、共に参加できます。
母より



 招待状によると、記念式は花博記念ホールにて19時から執り行われるそうです。






#144

 3年が経過しました。






#145

マタイ 5:3-10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
[D1] 「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。
[C1] 嘆き悲しむ人たちは幸福です。慰められるからです。
[B1] 温和な人たちは幸福です。地球を与えられるからです。
[A1] 正しいことを切望している人たちは幸福です。満たされるからです。
[A2] 憐れみ深い人たちは幸福です。憐れみを受けるからです。
[B2] 心の純粋な人たちは幸福です。神を見るからです。
[C2] 平和をつくる人たちは幸福です。神の子と呼ばれるからです。
[D2] 正しいことをして迫害されてきた人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。



 これは枠を持ち核を持たないシンメトリです。
 「神の導きが必要であることを自覚している」と訳されているところ、聖書原典は「霊の乏しい」です。聖書の「温和」という言葉には、人に優しく接するという意味があります。「正しい」には「公正である」という意味があります。

 憐れみ深い人は、世の中の不公平を見て公正を切望するようになるでしょう。そのうえ心が純粋なので、弱者を助けようとして自ら行動を起こすでしょう。他者の平和のために献身しますが、代わりに自身は平和を失うでしょう。その人は、公正を生き方としたために迫害され、心に深い傷を負うことになるでしょう。そのような人こそ、救いに値する者です。






#146

 いま私が気にかけているのは全国の兄弟姉妹たちのことです。
 寺方会衆とその長老たちのことはもう済ませてしまいましたから、いまさら気にかけたりはしません。

 エホバの証人の皆さんにとって、この一連の事件はどうなのでしょうか。私が語り続けた神聖な事柄はどうでしょうか。
 自分たちにはまったく関係ないことだと思いますか。そんなことはないはずです。

 私は、エレミヤ 20:7-18に記されているようなことを皆さんに期待したりはしません。それは極端というものです。しかし、マタイ 5:3-10の言葉は証人であるすべての者に対する要求です。この要求については、あなたがそれにどう応えているかが問われます。

 兄弟姉妹たちがいま気に留めていることは、奉仕に熱心であることです。あるいは、組織の指示によく従うことです。
 これらの要求の達成は容易です。試練があるとしてもたいしたことはありません。その結果、多くの兄弟姉妹たちは平安を得ています。イエスが語ったような苦しみや悲しみには直面していません。皆さんはいま、そのような状態に満足しつつ、神の救いが来る日を今か今かと待ちわびています。
 しかし、それでは足りません。この一連の出来事が、神からの啓示を伴いつつ文書によって示されているのは、あなたのためでもあります。あなたたちひとりひとりは、私が迫害に直面し悲嘆に苦しむのを見ながら、なぜ自分にはそのような災厄が降りかかっていないのだろう、と自問しなければなりません。

 もしあなたが私の言葉を無視するなら、聖書が告げる裁きが降りかかることになるでしょう。



エレミヤ 6:14

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
彼らは私の民の衰弱を軽々しく癒やそうとして,『平和だ! 平和だ!』と言う。平和ではないにもかかわらず。

テサロニケ第一 5:3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。妊婦に起こる陣痛と同じように突然で,彼らは決して逃れられません。



 これだけではありません。非常に多くの裁きの言葉が、まとめて降りかかることになります。たとえばこのような言葉です。



マタイ 24:37-39

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人の子の臨在の時はちょうどノアの時代のようになります。洪水前のその時代,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,結婚したりしていました。そして,洪水が来て全ての人を流し去るまで注意しませんでした。人の子の臨在の時もそのようになります。

マタイ 13:41-42

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人の子は天使たちを遣わし,天使たちは,人に罪を犯させる人たちと不法なことを行う人たちを王国から取り除き,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。






#147

 それは、ひとことで言うと「憐れみがないから」です。

 エホバの証人社会にもそれなりに多様な問題があります。不公正ということもあります。もちろん、悪の被害者となる兄弟姉妹もいます。
 もし、あなたの心に憐れみがじゅうぶんに備わっているなら、神の民の中に不法があるのを見て、平静ではいられないでしょう。何もせずにいるということもできないでしょう。
 行動を起こせば、どうなるでしょうか。必ず、あなたに向かって「それは会衆の一致を乱す行為です」とか「エホバの立てた権威に対する反抗です」などと言う人たちが現れるでしょう。憐れみが強いなら、あなたはそのような脅しに屈しないはずです。こうして、あなたは迫害を身に招くことになります。
 こういったことは、マタイの聖句が述べる「憐れみ」があれば、いとも簡単に起こってしまうことです。エホバの証人という宗教はそういう宗教だからです。しかし憐れみがない人には、何も起こりません。

 こうして、エホバの民は二つのグループに分けられることになります。一つは、平和がないことを悲しむ人たちのグループ、もう一つは、平和を満喫して安心する人たちのグループです。兄弟姉妹たちのほとんどは後者に属します。
 これらの人たちは、エホバの民に平和がないのに平和だ安心だと言っています。そのような人たちは、神の裁きが来た時に不意打ちを食らうことになります。自分は救われると信じているのに、除去の対象となってしまうのです。

 このことについて、聖書はこのように預言の言葉を述べています。



エゼキエル 9:1-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
それからその方は,私に聞こえるように大声でこう言った。「この都市を処罰する者たちよ,それぞれ破壊するための武器を持って,集まりなさい!」 見ると,北を向いている上の門の方から6人の者が,それぞれ打ち砕くための武器を持ってやって来た。彼らと共に,亜麻布の服を着て腰に秘書官のインク入れを着けた者がいた。彼らは入ってきて,銅の祭壇のそばに立った。
すると,ケルブの上で輝いていた,イスラエルの神の栄光が,昇って家の戸口の所に移った。その方は,亜麻布の服を着て腰に秘書官のインク入れを着けた者に呼び掛け始めた。エホバはその者に言った。「この都市,エルサレムの中を巡りなさい。そして,この都市の中で行われているあらゆる忌まわしい事柄のために嘆き悲しんでいる人たちの額に,印を付けなさい」。
またその方は,私に聞こえるように他の者たちにこう言った。「彼の後に付いて都市の中を巡り,人々を討ちなさい。あなたたちの目は彼らを惜しんではならず,あなたたちは一切同情してはならない。老人も,若者も,乙女も,子供も,女性も,全て殺さなければならない。ただし,印がある人には近づいてはならない。私の聖なる所から始めなさい」。それで彼らは家の前にいた長老たちから始めた。その方はさらに彼らに言った。「家を汚し,庭を死体でいっぱいにしなさい。行きなさい!」 それで彼らは出ていき,都市の中で人々を討った。
彼らが人々を討っている間,1人残された私は,ひれ伏して叫んだ。「ああ,主権者である主エホバ! あなたはエルサレムに激しい怒りを浴びせ,イスラエルの残っている人たちを皆滅ぼされるのですか」。すると,その方は言った。「イスラエルとユダの国民の過ちは非常に大きい。この土地は流血に満ち,この都市は腐敗に満ちている。彼らは,『エホバはこの土地を捨てた。エホバは見ていない』と言っている。それで,私の目は彼らを惜しまず,私は同情しない。彼らに自分たちの歩みの報いを受けさせる」。私が見ていると,亜麻布の服を着て腰にインク入れを着けた者が戻ってきて,「私はあなたから命じられた通りにしました」と報告した。



 預言は、「北の方から来る者」がエルサレムの住民を惨殺する様子を予告しています。しかし、心の善良な市民は救われます。「この都市の中で行われているあらゆる忌まわしい事柄のために嘆き悲しんでいる」からです。

 救われる人たちは、エルサレムの外で行われている不法に心を痛めていたのではありません。エホバとしても、エルサレムの外にいる人たちに裁きを下すのではありません。それはエルサレムに臨み、しかも長老たちから始められます。

 そこでペテロはこのように述べます。



ペテロ第一 4:15-19

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
皆さんの誰も,殺人や盗みや悪い行いをしたり,人のことに干渉したりして,苦しむことになってはなりません。しかし,クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば,恥じてはなりません。クリスチャンであり続けて,神をたたえてください。
今は,裁きが神の家から始まる,定めの時です。裁きがまず私たちから始まるのであれば,神の良い知らせに従順でない人たちはどんな結末を迎えるでしょうか。「正しい人が辛うじて救われるのであれば,神を敬わない人や罪人はどうなるでしょうか」。
ですから,神の意志に従って苦しみを受けている人たちは,引き続き善を行いつつ,信頼できる創造者に自分を委ねましょう。



 エゼキエルの預言が述べる「流血と腐敗」が「殺人や盗みや悪行や干渉」と言い換えられています。これらは言葉通りの意味ではなく、神の会衆内で行われる幅広い不法を指す婉曲表現です。
 当然のことですが、憐れみを持つ人は、人のことに干渉して苦しみ、そのことを恥じません。

 兄弟姉妹たちの中には、干渉に関するこの記述を字義通りに読み、そのうえ几帳面に実践しておられる方がいますが、それは論外というものです。
 その人は、私と私の文書に一切かかわろうとしないでしょう。聖書がそう命じているから、というわけです。話になりません。
 証人たちのほとんどは、私を通して語られるエホバの警告に注意を払いません。






#148

 さて、ここで、私が非常に気になって仕方ないのが、「北の王」の終焉について語るダニエルの預言です。
 もっとも、私はいまここでそのことについて詳しく書こうとは思いません。
 その代わり、テサロニケ第一 4:16の項を用意し、そこにすこしだけ書いておきました。






#149

 代わって私が公表するのは、「第三の天」についての隠された真理です。
 エホバの民に向かってこれだけのことを書いているのですから、私はそれに見合ったものを提示しなければならないでしょう。

 第三の天についての記述はこのようになっています。



コリント第二 12:1-10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は誇らなければなりません。自分のためになることではありませんが,次に主の幻と啓示について述べます。
私はキリストと結ばれたある人を知っています。その人は14年前に第三の天に連れ去られました。肉体で行ったかどうかは知りません。神が知っています。私は確かにその人を知っています。肉体で行ったかどうかは知りません。神が知っています。その人はパラダイスに連れ去られ,話すことができない言葉,人が語ることを許されない言葉を聞きました。
その人のことを私は誇ります。しかし自分のことは,弱いところ以外については誇りません。たとえ誇りたくなったとしても,無分別にはなりません。真実を語るからです。しかし,私は誇るのを控えます。誰も,私を見たり私から聞いたりする以上に私を評価しないようにするためです。特別な啓示を受けたということで過大評価してほしくないのです。
私は,思い上がることがないよう,体に1つのとげを刺されました。それはサタンの使いであり,私が思い上がらないよう,いつも平手打ちをしてきます。私は,このとげがなくなるようにしていただきたいと3度主に懇願しました。しかし主はこう言いました。「私はあなたに惜しみない親切をすでに十分に示している。人が弱い時にこそ,私の力は完全に発揮されるのである」。それで私は,自分の弱いところについて喜んで誇り,キリストの力が天幕のように私を覆い続けるようにします。私は,弱いところ,侮辱,窮乏,迫害,困難を,キリストのために喜びます。私が弱い時,私には力があるからです。



 語るにあたって、まず最初に訂正があります。
 訳文では「14年前に」が「連れ去られました」につながっていますが、これは翻訳の間違いです。「知っています」につなげて、「私はキリストと結ばれたある人を14年前に知りました」とするのが正解です。このことについては、ヨハネ 8:58の項に説明を用意しましたので、確認しておいてください。

 厳密に言うと、パウロは第三の天に行きませんでした。しかし、啓示がありましたので、隠された真理を理解することができました。






#150

 続いて、予備知識です。

 パウロが言う「第三の天」とは何のことでしょうか。答えはペテロの言葉の中にあります。



ペテロ第二 3:5-7, 13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
彼らは故意に次のことを無視します。昔から天があり,神の言葉によって地は水から出て,また水に囲まれて,しっかり立っていました。そして,それによって当時の世界は洪水に見舞われ,滅ぼされました。同じ言葉によって,今ある天と地は火で滅ぼされることになっています。神を敬わない人々の処罰と滅びの日にそうなります。
しかし,私たちが神の約束によって待ち望んでいる,新しい天と新しい地があります。そこには正しいことが行き渡ります。



 聖書の世界観では、“天地”つまり世界には3つの世代があります。1つ目は、神が最初に人類に与えた天地で、ノアの大洪水の時に終わりました。2つ目は、現在の天地で、ノアの大洪水後に始まり、現在まで続いています。3つ目は、神の裁きの後の天地で、将来のものです。
 パウロがこの3番目の天地について語っていることは、第三の天に対応する地が「パラダイス」と呼ばれていることから確認できます。ここでは根拠となる聖句の提示などは省略しますが、聖書の世界観では、第三の天は神の王国、第三の地はパラダイスです。

 「パラダイス」とは何のことでしょうか。やはり省略しますが、旧約聖書のメシア預言に記述があります。
 すこしキリスト教の歴史を振り返りましょう。16世紀ごろに宗教改革が起こると、翻訳された聖書が人々の手に渡るようになりました。人々は聖書を読んで、旧約聖書にパラダイスに関する記述があることに気づきます。18世紀から19世紀ごろになると、その中でも特に目立った記述、少年に導かれた動物たちが平和に暮らす情景が“Peaceable Kingdom (争いのない王国)”と呼ばれるようになります。しかし、パラダイス信仰は民間信仰にとどまります。この新しい信仰を正式な教理として採用する教派は現れませんでした。19世紀の終わりから20世紀になるとようやく状況の変化が生じます。エホバの証人が出現し、パラダイスの教理を世界に向かって盛んに宣伝すようになりました。証人たちの努力により、パラダイスに関する聖書の教えは広く知られるようになりましたが、キリスト教諸教派にこれといった変革は起こりませんでした。

 パウロは神から「とげ」を与えられます。パウロは外見上の問題を抱えるようになっていました。多くの人は外見を見て人を判断します。心の正しい人は外見にとらわれませんが、そうでない人は、パウロを見下したり無視したりしました。このことが、パウロが人々に真理を広めるにあたっての障害になりました。
 パウロは3度懇願したと言います。これは、パウロに与えられた3つの使徒職についての言及です。これらの使徒職において、パウロは人々が救われることを心から願いましたが、パウロにとっては残念なことに、神は心の正しい人にしかその言葉を届けませんでした。



使徒 9:15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
しかし主は言った。「行きなさい。この人は私が選んだ器であり,異国の人々に,また王たちやイスラエルの民に私の名を知らせるからです。

コリント第二 10:10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
「彼は手紙では威厳があって力強いが,会ってみると弱々しくて話も下手だ」と言う人たちがいます。






#151

 では本題に進みましょう。

 第三の天に行ったのは、アサフです。
 アサフはダビデと同じ時代の人物で、旧約聖書に少しの記述と、彼の作った詩が残されています。パウロが気づいたのは、その詩の中に隠された意味があるということです。
 パウロはこの真理のことを「人が語ることを許されない言葉」と言っていますが、実際には堂々と書かれています。ただ、直接的な言い方は禁じられ、これまで誰も気づかなかったということです。



詩編 73:3-20

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私は高慢な人をねたましく思った。悪人が平和でいるのを見た。その人たちに死の痛みはなく,体は健康である。他の人たちのように思い悩むことも,苦しむこともない。傲慢さを首飾りとし,暴力を身にまとう。目は繁栄で膨らむ。思い描いた以上の成功を収めた。あざ笑い,悪いことを話す。偉そうな態度を取り,脅しつける。天から話すかのように語り,思うままに話して地上を歩き回る。それで,神の民は彼らの方になびく。彼らの豊かな水を飲む。彼らは言う。「神は気付くだろうか。至高者は本当に知っているのか」。こうした悪人は気楽に暮らしている。自分の資産を増やしている。
私が清い心を保とうが,手を洗って潔白でいようが無駄なのだ。私は一日中思い悩んだ。毎朝,懲らしめを受けた。しかし,もし私がそのようなことを言ったのなら,あなたの民を裏切ったことになる。
私は事の意味を理解しようとして,思い悩んでいた。神の偉大な聖なる所に入るまでは。そして悪人の将来を知った。あなたは確実に悪人を滑りやすい土地に置く。滅びに陥れる。悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。エホバ,あなたは悪人を退ける。あなたが起きると,悪人は目覚めた人が忘れる夢のようになる。



 ここでアサフは「悪人たちの平和」について語っています。その内容から解るように、ここで悪人と呼ばれている人たちはイスラエルの長老たちです。その人たちは、見かけ上はエホバの権威を帯びていて、「天から話すかのように語る」者となります。その結果、エホバの民はそれら背教した長老たちに従い、彼らの平和の支えとなります。
 アサフは彼らの不法に従わなかったため、迫害され、「毎朝の懲らしめ」を受けるようになります。アサフは動揺し、苦しみます。
 しかし、アサフは「神の偉大な聖なる所」に行き、将来のことを知ります。

 この聖なる所は神の幕屋のことである、あるいは神殿の聖所のことである、と言われています。
 まだ神殿が建てられていなかったこの時代、アサフは幕屋での奉仕を割り当てられていました。ですからアサフは毎日幕屋に通いました。しかし、それが何になったでしょうか。幕屋では毎日、捧げものの動物が殺され、焼かれていました。そこには将来の出来事についての啓発などありませんでした。



歴代第一 16:37-40

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ダビデはエホバの契約の箱の前にアサフとその兄弟たちを残し,引き続き箱の前で日課通りの奉仕をさせた。オベデ・エドムとその兄弟たちは68人で,エドトンの子オベデ・エドムとホサは門番だった。祭司ザドクと仲間の祭司たちは,ギベオンにある高い場所でエホバの幕屋の前にいた。全焼の捧げ物の祭壇で全焼の捧げ物を朝と夕方,エホバに定期的に捧げるため,またエホバがイスラエルに命じた律法に記されていること全てを行うためだった。



 アサフは神からの啓示を受けましたが、そのことを隠そうとして、啓示によって見えた風景のことを「神の偉大な聖なる所」と言ったのです。それは幕屋でも神殿でもありません。

 聖書自身が真相を語っています。



歴代第二 29:30

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ヒゼキヤ王と高官たちは,ダビデの詩や神からの幻を伝える人アサフの詩でエホバを賛美するようにとレビ族に告げた。それで彼らは非常に喜びながら賛美を捧げ,身をかがめてひれ伏した。



 このように、アサフは神からの啓示を詩で記録したと聖書は書いています。

 私はこれを驚くべきことのように思います。聖書がここまで書いているのに、ちょっと書き方を工夫したくらいで、皆がそろって罠にはまり、数千年にもわたってその意味に気づかないのです。






#152

 アサフが啓示によって見たのは、将来、神が悪人たちに処罰を執行する景色でした。彼らの平和は終わりを迎えることになります。
 それはどのような景色だったでしょうか。アサフの詩はなかなかの大作で、詩編73編から83編まであります。そこに記されている、アサフが見た光景は衝撃的です。



詩編 74:1-3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神よ,なぜ私たちを永遠に退けたのですか。あなたの牧草地の羊の群れに対して怒りに燃えるのはなぜですか。思い出してください。昔あなたが得た民を,救って財産とした民族を。あなたが住んだシオンの山を。足を運んでください。ずっと荒廃したままの土地に。敵は聖なる場所で全てを荒らした。

詩編 79:1

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
神よ,国々はあなたの所有地を侵略しました。あなたの聖なる神殿を汚し,エルサレムを廃虚としました。



 何と、まだエルサレムに神殿が建てられていない時代に、アサフは、エルサレムとその神殿が廃墟になっている景色を見、記録したのです。

 どうしてこういうことになったのでしょうか。
 そもそもの話、アサフとしては、エルサレムの外あるいはイスラエルの外にある不法に心を痛めていたのではありませんでした。それはエホバの民の中にある不法です。それが根本的に解決されることを熱望したアサフに神は啓示を与え、その願いがかなえられた風景を見せました。
 そうすると当然、エルサレムとその神殿が神の裁きの対象になります。悪に対する神の裁きは徹底しているので、神殿は残して悪人たちだけを処分する、ということにはならないのです。






#153

 パウロはアサフが見た風景を「第三の天」また「パラダイス」と呼びました。それは、もう済んでしまったことではない、ということです。
 表面的に見るなら、アサフの預言の詩は、エルサレムがバビロニアに征服され廃墟になった時に成就しました。しかしパウロはこの詩に未来を見ます。それは、ペテロが「裁きが神の家から始まる」と述べたことと同じです。
 エルサレムに対する神の裁きとして聖書に記されている事柄は、預言にせよ歴史記述にせよ、その全体が未来への預言です。それはエホバの民に対する神の裁きを予表しているのです。

 聖書の言葉をもう一度見ましょう。



テサロニケ第一 5:3

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。妊婦に起こる陣痛と同じように突然で,彼らは決して逃れられません。



 「平和と安全」についてのこの警告は、アサフが歌った「悪人たちの平和」と「悪人たちの突然の滅び」の預言の引用です。
 それは、世界ではなく、エホバの民の崩壊を予告しています。

 エホバの民の裁きが済んだなら、世界の裁きが始まることでしょう。



ペテロ第一 4:17-18

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
今は,裁きが神の家から始まる,定めの時です。裁きがまず私たちから始まるのであれば,神の良い知らせに従順でない人たちはどんな結末を迎えるでしょうか。「正しい人が辛うじて救われるのであれば,神を敬わない人や罪人はどうなるでしょうか」。






#154

 さてここで、全国のエホバの証人に対する調査を行いたいと思います。
 鍵となるのは、「無視するか、できないか」ということです。

 私は、このウエブサイトを2000年05月に開設して以来、22年間その活動を継続してきました。さらに、この文書は2019年05月から3年になります。これは充分な期間です。このようにして私は全国の兄弟姉妹たちの注意をこの活動に向けてきました。
 その間、全国の兄弟姉妹たちはどのような態度をとってきたでしょうか。私やその活動に敬意を払ったでしょうか。それとも気にかけなかったでしょうか。この文書に綴られている様々な記述を読んで、胸を痛めたでしょうか。何も感じなかったでしょうか。

 関係しているのは「憐れみ」です。
 今、神の民の間には、公然と放置され、憐れみを持つ人には目を背けられない悲嘆があります。
 私はこれまで、あなたが助けようとしなかった大勢の人たちを助け、今は私自身が助けを必要としています。あなたはこれらのことをどう思いますか。

 このことは、神とキリストの観点から見て重要です。なぜなら、聖書にはこのような言葉があるからです。



ルカ 10:30-32

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは答えた。「ある男性がエルサレムからエリコに下っていく途中で,強盗たちに襲われました。強盗は服を剝ぎ,殴り,半殺しにして去っていきました。たまたま,ある祭司がその道路を下っていきましたが,男性を見ると,道の反対側を通り過ぎました。同じように,あるレビ族の人も,そこに来て彼を見ると,道の反対側を通り過ぎました。

ルカ 16:19-22

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ある裕福な男性が紫布や亜麻布の服で装い,毎日ぜいたくに楽しく暮らしていました。一方,その家の門の所に,潰瘍だらけのラザロという物乞いがいて,裕福な男性の食卓から落ちる物でおなかを満たしたいと思っていました。その上,犬が来ては潰瘍をなめるのでした。やがてラザロは死に,天使によってアブラハムのそばに運ばれました。



 またこのような言葉があります。



マタイ 10:40-42

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたたちを受け入れる人は私をも受け入れ,私を受け入れる人は私を遣わした方をも受け入れます。預言者を預言者と認めて受け入れる人は預言者の報いを得,正しい人を正しい人と認めて受け入れる人は正しい人の報いを得ます。はっきり言いますが,これら目立たない人の1人を弟子であると認めてほんの1杯の冷たい飲み水を与える人は,必ず報いを得ます」。

マタイ 25:31-46

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
人の子は栄光を帯びて,全ての天使と共に来ると,その時,栄光の座に座ります。全ての国の人々が彼の前に集められ,人の子は,羊飼いが羊をヤギから分けるように,人々を分けます。そして羊を自分の右に,ヤギを自分の左に置きます。
それから王は,右にいる人たちに言います。『さあ,私の父に祝福された人たち,世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。私が飢えると食べ物を与え,喉が渇くと飲み物を与えてくれたからです。よそから来ると温かく迎え,裸でいると服を与えてくれました。病気になると世話をし,牢屋にいると訪問してくれました』。その時,正しい人たちはこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ,よそから来たのを見て温かく迎え,裸なのを見て服を差し上げたでしょうか。いつ,病気であったり牢屋にいたりするのを知って訪問しましたか』。王は答えます。『実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです』。
それから王は,左にいる人たちに言います。『災いを宣告された人たち,私から離れ,悪魔と邪悪な天使たちのために用意された永遠の火に入りなさい。私が飢えても食べ物を与えず,喉が渇いても飲み物を与えてくれなかったからです。よそから来ても温かく迎えず,裸でいても服を与えず,病気であったり牢屋にいたりしても世話をしてくれませんでした』。その時,その人たちもこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか』。その時,王は答えます。『実のところ,これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです』。この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます」。



 さらにこのような言葉があります。



ヨハネ 3:19-21

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
さて,裁きの根拠は次の通りです。光が世に来ているのに,人々は光ではなく闇を愛しました。邪悪なことを行っていたからです。悪を行っている人は,光を憎んで,光の所に来ません。自分の行いが暴露されないようにするためです。しかし,正しいことを行う人は光の所に来ます。自分の行いが神の意志に沿っていることが明らかになるようにするためです」。

ヨハネ 9:1-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスが歩いていくと,生まれつき目が見えない男性がいた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ,この人が生まれつき目が見えないのは,誰が罪を犯したからですか。本人ですか,それとも親ですか」。イエスは答えた。「この人や親が罪を犯したからではありません。この件で,神の力が明らかにされます。私たちは昼のうちに,私を遣わした方の望むことを行わなければなりません。誰も働くことができない夜が来ようとしています。

テモテ第一 5:24-25

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ある人たちの罪は人々に知られており,速やかに断罪されます。他の人たちの罪も,後に明らかになります。同じように,立派な行いも人々に知られています。知られていないものも,隠されたままになることはありません。



 そこで、これらのことがいま明らかになることがどうしても必要です。

 調査はどのように行われるでしょうか。これにはアイデアが必要になります。
 私は全国の兄弟姉妹たちに対して“お見舞い”を要請することにしました。






#155

 “お見舞い”の受け付けは、2022年10月01日より開始されます。

 2022年09月末に、銀行口座を案内しますので、私に対する“お見舞い”をぜひともやりたいという方は、その口座に1円から10円の範囲でお見舞いの振り込みを行ってください。10円を超える振り込みはお控えください。
 お見舞いができる期間は3か月です。2022年12月31日に受け付けは終了します。
 1か月ごとに会計報告を行います。公開されるのは件数と金額です。振り込み人名義は秘匿します。

 各自は自分の良心に従ってください。
 これはぜひともお見舞いをさせていただきたいと願う方は、10円を振り込んでください。お見舞いをすることに異論はなくてもそれをお金にすることには賛成できない、という方には、恐縮ですが、1円の振り込みをお願いいたします。
 お見舞いはしたいが、あなたやその文書に全面的に賛成できるわけでない、という方は、その程度に応じてたとえば3円というように金額を減額してください。
 私に対して何も同情を感じないという方は、振り込みを控えてください。私のことを背教者だと思う方も、振り込みを控えてください。これはエホバとその組織に対する不敬だ、とか、エホバの民の一致を損なう挑発だ、とか、悪魔サタンの仕掛ける巧妙な罠だ、と感じる方は、やはり振り込みを控えてください。
 もちろん、これらのことに何の関心もないという方もおられるでしょう。そのような人はこの文書を読みませんから、お見舞いをすることもないでしょう。

 口座は二つ用意します。エホバの証人でない方もこの文書を読んでいるからです。
 今回、エホバの証人でない方々に“お見舞い”の要請はありません。しかし、これはどうしても参加させていただきたい、という方がおられるかもしれません。こういった方が振り込みを行うと集計が乱れてしまいますから、エホバの証人でない方は予備の口座に振り込んでいただきます。
 予備の口座について会計報告は行いません。






#156

 先に示した聖句については、すでに様々なことを言っていますが、もうすこし言っておこうと思います。
 というのも、兄弟姉妹たちの中には「エホバを待ちましょう」と言う人がいるからです。「エホバの指示に従いましょう」と言う人もいます。こういう人たちは、行動が必要な時に何もしません。



ヨハネ 9:1-4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスが歩いていくと,生まれつき目が見えない男性がいた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ,この人が生まれつき目が見えないのは,誰が罪を犯したからですか。本人ですか,それとも親ですか」。イエスは答えた。「この人や親が罪を犯したからではありません。この件で,神の力が明らかにされます。私たちは昼のうちに,私を遣わした方の望むことを行わなければなりません。誰も働くことができない夜が来ようとしています」。



 重篤な人が病院に来たとしましょう。すぐに薬を飲めば回復するかもしれませんし、手術が必要かもしれません。そのような時に、医師が「処置はまた今度にしましょう」と言うと、何が起こるでしょうか。
 食費が工面できず飢えている家族がいたとしましょう。あと一日放っておけば、この家族は全員飢え死にしてしまいます。そのような時に、あなたが「援助はまた今度にしましょう」と言うと、何が起こるでしょうか。

 正しいことや立派なことには、それを行うべき時があります。その時を逃せば、手遅れになります。イエスはこの時を指して「昼のうちに」と言いました。このような意味を持つ「昼」は、私にもあなたにも日々訪れ、過ぎ去っていきます。
 イエスは障害者の周りにいる人たちに対して「エホバを待ちましょう」と呼びかけたでしょうか。イエスが考えたのは、善いことは今行わなければならないということです。イエスのように奇跡を行う力がなくても、何かをしなければなりません。
 やがて昼は去り、「夜」が来ます。夜が来ると善いことはもう行えなくなりますので、「夜が来るのを待ちましょう」と言っている人は結局何も行わないことになります。



ルカ 10:30-32

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスは答えた。「ある男性がエルサレムからエリコに下っていく途中で,強盗たちに襲われました。強盗は服を剝ぎ,殴り,半殺しにして去っていきました。たまたま,ある祭司がその道路を下っていきましたが,男性を見ると,道の反対側を通り過ぎました。同じように,あるレビ族の人も,そこに来て彼を見ると,道の反対側を通り過ぎました。



 ここに出てくるのは祭司とレビ人です。これらの人たちは神殿で奉仕する役職についています。今のエホバの証人に当てはめると、長老と援助奉仕者(奉仕の僕)ということになります。彼らは祭司とレビ人の伝統的規則にしたがってこう言ったでしょう。
 「神殿の奉仕者には“清さ”が求められています。怪我人の介抱をすれば私は“汚れた者”になってしまいます。」 「もしエホバの律法を無視してこの人に手をかけたらどうなりますか。もしかするとこの人はもう死んでいるかもしれません。あるいはすぐに死んでしまうかもしれません。律法は祭司や神殿の奉仕者が死体に触れることを厳しく禁じていますから、これは深刻な事態になるでしょう。」 「私たちはみなエホバの取り決めにしたがって事を行う必要があります。このような人を助ける権限は兵士や行政官に与えられていて、私には権限がありません。」 「かわいそうじゃないか、と言う人もいるでしょう。私もそう思います。しかし私は人間の知恵にではなく、エホバの知恵に頼ります。そうしなければ、最善の結果は得られませんし、エホバからの祝福もありません。」 「モーセの時代から今日に至るまで、祭司とレビ人は死にかかった人に一切近づきません。私たちはそのようにして清さを守り、エホバに敬意を払ってきたのです。」
 イエスがこの話にわざわざ祭司とレビ人を登場させたのは、ユダヤ人が神聖かつ不可侵としている規則の残酷さを示すためでした。しかし、当時のユダヤ人の大半は、この話の意図を正しく理解したうえで「これはエホバに対する反抗だ」と思ったことでしょう。

 そんなイエスでさえ、似たような推論をしたことがありました。どうなったでしょうか。



マタイ 15:21-28

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
イエスはそこを去り,ティルスとシドンの地方に行った。すると,その地方のフェニキア人女性が来て,「主よ,ダビデの子よ,憐れみをお掛けください。娘が邪悪な天使に取りつかれ,ひどく苦しめられています」と叫んだ。しかしイエスは,一言も答えなかった。それで弟子たちが来て,言った。「この女性を追い払ってください。後に付いてきて,ずっと叫んでいます」。イエスは答えた。「私は,イスラエル国民の迷い出た羊の所にしか遣わされていません」。しかし女性は来て,イエスに敬意を表し,言った。「主よ,お助けください!」 イエスは答えた。「子供たちのパンを取って小犬に投げ与えるのは正しくありません」。女性は言った。「そうです,主よ。けれど,小犬も主人の食卓から落ちるパンくずを食べます」。そこでイエスは言った。「素晴らしい信仰です! あなたの願う通りのことが起きますように」。すると,娘はその時,癒やされた。



 小犬に関する長い話はいずれどこかで書きたいと思います。それはいま置いておくとして、この出来事の要点はこうです。
 エホバはどの規則にも例外が存在することを考慮しておられます。ですから、エホバの作った規則を守る人は、この例外を見分けなければなりません。

 それは難しいことのように思えるかもしれません。しかし実際には単純です。



マルコ 12:28-34

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そばに来て議論を聞いていた律法学者の1人は,イエスが見事に答えたのを見て,こう尋ねた。「全てのおきての中で,どのおきてが第一ですか」。イエスは答えた。「第一はこうです。『聞きなさい,イスラエル,私たちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは,心を尽くし,知力を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない』。これらより重要なおきてはほかにありません」。
律法学者は言った。「先生,『神はただひとりであり,そのほかにはいない』と,真理に沿ってよくおっしゃいました。心を尽くし,理解力を尽くし,力を尽くして神を愛すること,また,隣人を自分自身のように愛することは,全焼の捧げ物と犠牲全部よりはるかに価値があります」。イエスは,この人が的確に答えたのを見て,「あなたは神の王国から遠くありません」と言った。しかし,それ以上イエスに質問する勇気は誰にもなかった。



 ここで述べられている「犠牲」は律法の諸規則を指す婉曲表現です。
 聖書に「情に流されて規則を無視してしまわないように気をつけましょう」という教えはありません。今見たように、一度だけイエスがその考えを口にしましたが、即座に間違いを指摘され、撤回しました。
 神とキリストの考え方では、憐れみに動かされて規則を破ることは善いことです。






#157

 口座を案内します。



◆ エホバの証人の方

イオン銀行 サファイア支店 普通預金 7685118 ミヤハラ タカシ



◆ エホバの証人でない方

関西みらい銀行 守口支店 普通預金 0551440 ミヤハラ タカシ



 銀行の営業日の関係で受付期間は調整されました。2022年10月03日から2022年12月30日までとなります。






#158

 10月の報告です。
 お見舞いは3件、25円となりました。
 お見舞いをしてくださった方々に感謝します。






159

 ここで、なぜ母の手紙はあのようなのか、という疑問について書いておきたいと思います。これは未解決のまま放置されていた問題ですので、気にかけている方もおられるでしょう。
 考察の結果、おそらくこのようであろう、という結論になりました。

 寺方会衆の長老たちは、宮原兄弟が児童虐待の被害を告白する文書をウエブに掲載したのを見て、「これはやめさせなければならない」、「こんな文書はネット上から消し去るべきだ」、と考えた。
 しかしこれは犯罪の隠蔽ということにほかならない。そこで長老たちは一計を案じ、「あなたのウエブサイトには背教文書の引用があり、寺方会衆が霊的な害を被っている」、「このままではあなた自身が背教者になってしまう」、「だからウエブサイトは閉鎖しなければならない」、という話をでっちあげることにした。宮原兄弟のウエブサイトが閉鎖されれば、問題の文書もまた消えてしまうことになる。このようにすれば、長老たちが犯罪の隠蔽をはかったということにはならない。
 長老たちは、この策を成功させるために、この分野の指導者を外部から招待した。
 その人物の指導のもと、長老たちは宮原兄弟を餌で誘い出して査問にかける計画を立て、実行した。まず、事件の再調査を行うという見せかけの計画を提示し、宮原兄弟に協力を要請する。協力のために宮原兄弟が出てくると、実質軟禁の状態に置き、マタイ 7:23-24を用いて“長老の要求を呑むか追放されるか”の選択を示し、圧力をかける。しかし、その計画はうまくいかなかった。
 そこで長老たちは、この計画を、宮原兄弟の家の玄関先にて“最短コース”で実施することにした。長老たちは、宮原兄弟の家におしかけ、見かけ上の用件は簡単に済ませて速やかに本題に入り話を進めようとしたが、これもまたうまくいかなかった。
 そこで長老たちは、「宮原兄弟はもともと知的障害者で、最近は精神病を患うようになっている」という認識を導入することにした。こうして、宮原兄弟の文書は「何もわかっていないのにわかったつもりになっている人が書いた、まったく意味不明な文章」、「精神に異常をきたした人が妄想で書いた、まったく事実でない話」になり、これらはすべて無視してよいということになった。宮原兄弟が長老たちに送るメールも、同じ理由により無視された。
 長老たちはこう考えを進めた。宮原兄弟は知的障害者であり精神も病んでいるので、難しいことを話しても理解できない。説得するにあたっては、彼が理解できる範囲で話をするしかない。口頭で言うより手紙で書いたほうが確実だろうし、長老ではなく母親が書いたほうが彼にとって受け入れやすいだろう。こうして、長老たちが勝手に決めつけたところの宮原兄弟の知的水準と精神状態に合わせた文章が作成され、長老の指示のもと母親が手紙を書き、彼まで送りつけた。こうして、長老たちは宮原兄弟との対話をあきらめていないが宮原兄弟がそれを拒絶し続けている、という既成事実が作られた。

 ……ということのようです。
 ちなみに、私が集会に参加できないことも、長老たちは参加を促しているが宮原兄弟がそれを拒絶している、ということになっているようです。確かに、そう解釈することもできます。

 実際の分析はここに書いたよりはるかに複雑で深刻なものとなっていますが、これくらいで済ませたいと思います。






#160

 11月の報告です。
 お見舞いは2件、10円となりました。
 お見舞いをしてくださった方々に感謝します。






#161

 12月の報告です。
 お見舞いは2件、15円となりました。
 お見舞いをしてくださった方々に感謝します。

 集計には修正が入ります。
 お見舞いの合計は4件、35円となりました。

 予備の口座の確認はしていません。こちらは当面放置しておくつもりです。






#162

 この文書の更新は、これをもって終了とします。私にとっては少しも面白いことではありませんが、エホバがその目的を遂げられたからです。



イザヤ 6:1-13

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ウジヤ王が死んだ年に,私はエホバを見た。その方は高い所にある王座に座っており,長い衣の裾が神殿いっぱいに広がっていた。セラフたちがその方の上の方に立っていた。おのおの6つの翼を持ち,2つで顔を覆い,2つで足を覆い,2つで飛び回るのであった。互いにこう言っていた。「聖なる方,聖なる方,聖なる方,大軍を率いるエホバ。全世界にその方の栄光が満ちている」。その大きな声で扉の軸が震え,神殿は煙で満たされた。
私は言った。「災いだ! 私は死んだも同然だから。私は唇が汚れている者で,唇が汚れている民の中に住んでいるのに,大軍を率いる王エホバを見てしまった!」 すると,セラフの1人が私の所に飛んできた。手には,祭壇から火箸で取った,赤く燃える炭を持っていた。それを私の口に触れさせて,言った。「見なさい! これがあなたの唇に触れました。あなたの過ちは除き去られ,罪は贖われました」。

それから私はエホバの声を聞いた。「私は誰を遣わそうか。誰が私たちのために行くだろうか」。そこで私は言った。「ここに私がおります! 私を遣わしてください!」 すると神は言った。「行って,この民に言いなさい。『あなたたちは何度も聞くが,理解しない。何度も見るが,何も知るようにはならない』。この民の心を鈍くし,耳をよく聞こえなくし,目を閉ざしなさい。彼らは目で見ることも,耳で聞くことも,心で理解することもなく,私のもとに帰らず,癒やされることはない」。
私が「エホバ,いつまでですか」と尋ねると,神は言った。「町々が廃虚と化して誰も住まなくなり,家々に住人がいなくなり,土地が荒れ果てるまで。エホバが人々を遠くに移し,土地が広い範囲にわたって荒廃するまで。ただし,民の10分の1は残る。民は大木のように,巨木のようにまた燃やされるが,切り倒された後に切り株が残る。聖なる子孫がその切り株となる」。



 イザヤも「第三の天」に挙げられた者です。そして彼には、少しだけですが、パラダイスについて書くことが許されました。
 彼にも神からの「とげ」が与えられました。このような者は、悲惨な目にあい、自分の身を破滅にさらしながら、神から与えられた職責を果たさなければなりません。そして、神の民はその声を聴きません。このようにして、神はその目的を遂げるのです。

 今後、全国の兄弟姉妹たちは、自分の信仰によって救われることになります。
 キリストは公約を果たされました。預言者に一杯の水を差し出す者がいればその者は救われるだろう、と述べたので、実際に預言者を用意して悲惨な境遇に陥らせ、それを広く宣伝し、誰でも望む者が救いを獲得できるようにされました。
 実のところ、正しい信仰を持つなら、その人に預言者は必要ありません。この文書を読んで学ぶ必要はありませんし、私に手を差し伸べて救いのおこぼれにあずかることもありません。しかし、そうでない人たちのために、私の苦しみを通して神は善意を示されました。

 そのようなわけで、誰も、エホバとイエスに向かって苦情を言うことはできません。もちろん、私に対してもです。






#163

 終了を告知したあとですが、手紙がありましたので掲載することにしました。



◇ 2023年04月04日, 大井一弘兄弟からの手紙

親愛なる宮原崇兄弟へ

 お元気にしておられるでしょうか。今回は個人的に崇兄弟に今年の記念式のことをお知らせしたいと思い手紙を書かせていただきました。
 今年は王国会館の3階で、午後8時から開かれます。寺方会衆では、コロナ以降初めて王国会館で直に集まる仕方で開かれる記念式となります。去年は外部の会場を借りて行われました。
 崇兄弟にも、ぜひ出席してほしいと願っております。
 きっと崇兄弟もこの記念式の時期を大切に感じておられることと思います。今年は王国会館でエホバとイエスへの感謝の気持ちをともにできれば本当に嬉しく思います。
 これまでわたしが崇兄弟に宛てた手紙のことでわたしも心苦しく思うところがあります。その点についても崇兄弟と心から話し合える機会が開かれるよう祈っております。
 崇兄弟のことをエホバがいつも気遣ってくださいますように。

クリスチャン愛と共に
大井一弘



 寺方会衆の兄弟姉妹たちの中に私の味方をする者はひとりもいませんでした。それどころか、同情を表明する者すらいませんでした。それは寺方会衆の長老たちが手本を示し、手配したからです。
 もっとも、私はこのことで何か、苦々しい思いを抱いて苦情を言おうとしているわけではありません。今私が言うのはこのことです。私はそれを言うつもりなどありませんでしたが、大井一弘兄弟が「心苦しい」と書いてきましたので、それはそういうことを書かないよりははるかにましなことですので、言うことにしました。

 今年、寺方会衆の兄弟姉妹たちは誰も、記念式を行うべきではありませんでした。それは、イエスが教え、私が手本を示したとおりです。
 もしこの人たちに信仰があれば、信仰がそれを告げるので、彼らはそのことを理解したでしょう。あるいは、この人たちに神の霊の導きがあれば、霊がそれを告げるので、理解したでしょう。しかし、この人たちは何も理解しませんでした。信仰と霊がないとしても、あるいは良心があれば、そのことに気づいたかもしれません。しかしそのようなこともありませんでした。そこで、私は自分の命を削って手本を示しましたが、やはり彼らは気づきませんでした。私にとっては悲しいことです。
 こうして、寺方会衆の人たちは、神とキリストを呪う者となりました。彼らが行った儀式は、彼ら自身の死を招く儀式です。この罪は拭うことができません。

 私自身は、個人で記念式を行うことにします。それは昨夜ではなく今夜行われます。昨夜、記念式を行った全国の兄弟姉妹たちは、帰りに空を見上げて、おや、と思ったはずです。
 キリストが過ぎ越されるのは今夜になります。






#164

 4年が経過しました。






#165

 この文書において私が公表した真理について、通告があります。

 私が明らかにした真理の一つに『エフェソスの会衆に対する訓戒』があります。聖書のこの記述には仕掛けがあり、この時代にエホバの民が行うべき“霊的な淫行に対する戦い”を予告するものとなっています。
 私は、聖霊に促され、この戦いは神の民の間で義務付けられなければならない、と語りました。さらに、エホバの組織はこの戦いを賞賛するビデオを制作し配信しなければならない、とも語りました。それは、神とキリストが私の口を通して発した命令です。

 ところが、エホバの組織とその長たちは、このようにして与えられた命令を無視しました。
 この件で、神とキリストはたいへんな迷惑を被っています。聖書の中で、このようなことが起こるであろう、と予告した事柄が、エホバの組織の反目のせいで起こらなくなっているのです。実のところ、御両者は憤慨しておられます。
 その長たちは今、無思慮にもこのようなことを教えています。
 いまもっとも重要なのは“一致”です。たとえ神の組織や長老たちに問題があったとしても、一致は守られなければなりません。悪魔サタンはエホバの民の一致を乱そうと必死です。サタンが仕掛ける巧妙な罠にかからないようにしてください。
 しかし、神が求める一致はそのようなものではありません。

 組織が手本を示したのを見て、神の民たちも真理の言葉を退けるようになりました。今、エホバの証人の中に、私が明らかにした真理を実践して「征服者」になる者はいません。このようにして、全世界のエホバの民は、こぞってエホバとイエスをコケにしています。

 そこで神は、エホバの組織の地上の長である統治体から、また世界中の証人たちから、彼らが受けるはずだった栄光を奪って、私に割譲することにしました。
 神には予定があります。いつまでも待ち続けることはありません。そろそろ次の段階に進まなければなりません。

 私はこのことで、エホバの組織のことを、そして全世界の兄弟姉妹たちのことを、とても心配しています。もしかすると神は、一部ではなく全部を取り上げてしまうかもしれないからです。
 そのようなことは起こるでしょうか。起こりえます。そういうことを示す聖書の言葉は無数にあります。
 たとえば、このような言葉があります。



マタイ 3:7-12

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ヨハネは,パリサイ派とサドカイ派の人たちがバプテスマの場所に大勢来るのを見て,言った。「毒蛇のような者たち,神が表そうとしている憤りから逃れるようにと誰に言われたのですか。では,悔い改めていることを示す行動を取りなさい。『私たちには父アブラハムがいる』などと心の中で言ってはなりません。神はこれらの石からアブラハムのために子供を生じさせることもできるのです。すでに木の根元におのが置かれています。立派な実を結ばない木は皆,切り倒されて火に投げ込まれます。私は,あなた方が悔い改めたので水でバプテスマを施します。しかし,私の後から来る方は私より強く,私はその方のサンダルを脱がせるにも値しません。その方は聖なる力と火でバプテスマを施します。その方は農作業に使うシャベルを手にしており,脱穀場をすっかりきれいにして,小麦を倉の中に集めますが,もみ殻は消えない火で焼き払います」。



 そこで私は、一度は閉ざしていた口をあえて開き、この件を通告しておくことにしました。

 私がこのようなことを語るのは2度目です。最初に語った言葉は無視されました [参照]
 そして、私はもう繰り返してこのようなことを言いません。






#166

 母から記念式の招待状と手紙が届きました。



◇ 2024年03月21日, 母からの手紙

 元気で過していますか。
 寒い日が続きますが もうすぐ春です。
 二十四日(日)午後七時から 守口市保健センター内(エレベーターで四階)で記念式が行われます。
 是非 参加して 下さい。
母より






#167

 まもなく5年経過となります。
 この文書は撤収しました。






#168

 #168 - #232 は非公開です。






#233

 ある方の訪問があり、いろいろと話をしました。

 長老は、大井一弘、植竹史雄、成田、ナカムカイ(中迎井?)、の4名になっているそうです。3名はよそから入ってきた長老です。

 長老たちは依然、宮原兄弟は集会に来なくなったと会衆に聞かせているようです。
 さらに、宮原兄弟に対する訪問が計画されている、訪問してお会いする努力をしているがなかなかお会いできない、というような話もしているようです。
 長老団は口裏を合わせて芝居をし、会衆は同調し、こうして、長老たちは努力してるが宮原兄弟に拒絶されているという認識が形成されているように思います。






#234

 この方から、さらに手紙がありました。
 一部、こうなっています。



◇ 2024年10月02日, 手紙 (抜粋・表記修正)

 (植竹兄弟に質問したところ) “宮原兄弟は参加していただけます。また集会に参加していただけたらと思っています。”とのことです。



 すでに指摘済みの点ですが、長老たちは今も、宮原兄弟には集会に参加してほしいと願っているが宮原兄弟が応じない、という認識を広めているようです。






#235

 植竹史雄兄弟は、今でも自分の仕事を立派に果たしているようです。汚れた仕事ですが、これが目的で会衆に入ってきたわけですから、熱心にやっているように思います。
 私はこの文書にいろいろなことを書きましたが、彼のおかげで、それらはなかったことになっています。このようなことはそう簡単にできないと思いますが、会衆の協力が得られ、なにもかもうまくいっているようです。
 さらに、彼には仲間が増えているようです。もといた長老たちは去り、植竹史雄兄弟の同調者となった大井一弘兄弟だけが残りました。

 私は一度この文書を撤収しています。非常に重要で非公開にしなければならない情報を書くことが目的でした。しかし今になって、この不正を暴露する資料が消えたのはどうだろうか、と思うようになりました。
 そこで、非公開の情報の載せられた #168 - #232 を退避したうえで、アーカイブとして、文書を再度公開することにしました。

 いま寺方会衆は、自分たちの罪状をもみ消したうえで、このうえなく善良なふりをしています。しかし、この文書がある限り、完全にはできないでしょう。






#236

 お知らせです。

 長老に直接またメールで問い合わせを行ってくれたのは小松という方です。この件ではお世話になりました。
 強制的な措置として、小松姉妹との手紙やメールの記録を、解説つきで、こちらに順次掲載することになりました。
 なお、口頭でのやり取りもありましたが、それは記録にありませんので掲載しません。






#237

◇ 2024年10月?日, 小松姉妹からの手紙 (表記等修正)

 宮原兄弟、今、体調悪いから、汚い字でごめんね。
 植竹兄弟に伝えました。
 それで、まだあなたを訪問していないみたいだから、今日メールできいたこと、伝えるね。
 “はい、参加していただけます。また集会に出席していただけたらと思っています。”とのことです。
 お腹いたいから、きちんと書けなくて、ごめんね。
 じゃあね。今日は、これで失礼しますね。



◇ 2024年10月?日, 小松姉妹からの手紙 (表記等修正)

 宮原兄弟、こんにちは。小松です。またよってみました。
 進展はどうですか? ちょっと気になっています。
 “誤解”とか大井兄弟は言っていましたが? その誤解はとけたのでしょうか?
 とけていたなら、宮原兄弟が集会に来るはずだから、変だなと思っています。
 兄弟の言ってた書面、できたら、確認させてもらえたら…と思っています。
 出すぎていたらごめんね。
 でも、証拠となる物がそれを表していたら、まちがいなく、兄弟の言ってることのほうが真実だと解りますものね。
 これって意外と大切なことです。
 私も昔、ある長老から渡された書面、今でも持ってます。証拠になるので…。
 私は、宮原兄弟がエホバを愛していることを信じていますし、とても嬉しく思っています。
 だから、よかったら教えてくださいね。



 字が荒れるくらい体調が悪いようです。

 この方と長老たちの間にはたくさんのトラブルがあったため、この方の言う書面については、いろいろなことが考えられます。
 たとえば、長老団が彼女に対する経済援助を拒否するという事件がありました。

 聖書は、経済的に困窮した信者を援助することを会衆に義務づけています。



テモテ第一 5:3-4, 6-10

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
本当に困っているやもめに配慮してください。しかし,やもめに子供や孫がいるなら,彼らに次のことを学ばせてください。まず自分の家族を世話することによって神への専心を示し,親や祖父母から受けた恩に報いるべきである,ということです。これは神に喜ばれることです。
それで,こうした指示を与え続けてください。そうすれば,これらの人は誰からもとがめられることがないでしょう。もしもある人が,自分の家族,特に一緒に住んでいる人たちに必要な物を与えないなら,クリスチャンの信条を否定していることになり,信仰のない人より悪いといえます。
60歳以上のやもめを名簿に載せてください。その人は,1人の夫の妻だった人で,立派な行いをしたことで知られているべきです。例えば,子供を育て上げたこと,人をよくもてなしたこと,聖なる人たちの足を洗ったこと,苦しんでいる人を助けたこと,あらゆる良い活動に励んだことなどです。



 聖書には模範事例も記されています。十二使徒たちは経済援助専門のスタッフを用意しました。



使徒 6:1-6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
弟子が増えていたその頃,ギリシャ語を話すユダヤ人から,ヘブライ語を話すユダヤ人に対する苦情が出始めた。ギリシャ語を話すやもめたちが毎日の配給を受けていなかったからである。そこで12人は,大勢いた弟子を呼び集めて,こう言った。「食卓に食物を配るために私たちが神の言葉を教えることができないのはよくありません。それで兄弟たち,あなたたちの中から,聖なる力と知恵に満ちた評判の良い男性を7人選び出してください。私たちがこの必要な仕事のためにその人たちを任命します。私たちは,祈ることと神の言葉を教えることに専念します」。皆はそのことを喜び,信仰が強く聖なる力に満ちた人ステファノ,フィリポ,プロコロ,ニカノル,テモン,パルメナ,またアンティオキアの改宗者ニコラオを選び出した。そして使徒たちの所に連れていった。使徒たちは祈ってから7人に手を置いた。



 そこで彼女は、経済的に行き詰まった時、会衆に援助の要請を行いました。
 ところが、長老団はこれを拒絶してしまいました。この人には善行がないから、というのが理由です。

 いま見たように、経済援助の対象となる人は資格要件を満たす必要があります。年齢の項目には目をつぶるとして、善行に関する諸項目の実践があなたにはないことが問題だ、と長老たちは言いました。

 善行に関する項目を理由に援助が拒否されるというのは非常に珍しい話です。私はほかにこのような話を聞いたことがありません。
 これはたいへんショッキングな事件で、エホバの証人の間ではかなり知られることになったと思います。

 彼女はこう言います。この人ほど善行に富んだ人はほかにいないというくらい、私は善行に励んできました。ですから、長老の主張は全くの偽りで、中傷です。これは迫害です。そのような悪は悪魔サタンから出ます。エホバは辛抱強い方ですが、もし長老たちが悔い改めないなら、エホバはこの長老たちを必ず処罰されます。






#238

◇ 2024年10月18日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 かなり調べましたが、大井兄弟が書いた書面の件は出てきませんでした。
 でも、兄弟がエホバを愛しているなら、研究記事を学ぶ時、エホバの聖霊が私たちの心を開かれるので、多くのことを悟れると思います。
 賢い人たちから遠ざけられた真理が、私たちを教えます。
 兄弟に集会に参加してほしいと思います。ZOOM でも構いません。
 長老たちもそう言っているので、堂々と来てください。
 サタンが用いる多くの罠には巧みなものがあるので、エホバの愛は私たちに何を教えているのか、いつも考えてみることが大切です。
 エホバがどんな人を愛するのか、どんな人を愛さないのか、そういうことも考えます。
 そして、エホバは、ご自分を愛する人を決して見放すことはありません。
 それは、エホバが善良であり、ゆるぎない愛をお持ちだからです。
 兄弟の持つ疑問点も、きっと、集会に参加するうちに、全てが明らかになっていくと思います。
 エホバは全能者だからです!!
 兄弟が集会でコメントするのが楽しみです。



◇ 2024年10月19日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

追記ですが

 私は、長老によく、クレームを神の言葉から伝え、スルーされてもそれを続けます。
 神の見方を大切にしたいからです。
 私は45年間に、24人の長老の、降りたり降ろされたりを見てきました。
 排斥になった巡回監督も長老もいます。
 皆、不完全なのです。
 長老第一主義みたいな考え方もおかしいので、集会でコメントを通して意見を言います。
 割と功を奏しています。
 他の点でも、間違った考え方に気づいていたら、コメントで言うか、直接話すこともあります。
 特に多く言ってきたのは、仲間に対するゆるぎない愛です。
 新しい掟にある、永遠の命を得るための絶対不可欠な教えです。

 この会衆では、親友だった    姉妹が何年か前に自殺し、私は冤罪で長老によって引き離されていたので、助けることができませんでした。
 すべての事はエホバがご存知なので、楽園でしっかりとその長老たちが正されることを信じています。
 正される長老や巡回監督もたくさんいます。
 無実の人を排斥者のように扱い、守口の全会衆の長老たちに伝え、排斥者同様に扱ったからです。
 そして、それを皆さん守っていました。
 無茶苦茶ひどいことですが、事実です。
 つい最近も、他の会衆の長老2人に、簡潔ですが、私の排斥中も復帰後も、何も助けてもらえなかったことを思い出させ、信頼できないと伝えました。
 長老は、終わったことだとか、昔のことだと言いましたが、いいえ、終わっていません。
 悔い改めることがなければ、エホバは決して許されません。
 私はエホバにゆだねていますので、ふさわしい時にふさわしい裁きがあると信じています、と言いました。
 たくさんの人に謝ってもらうことになります。
 なぜなら、それほどのひどいことをされ、ずっと何十年も続いていて、いじわるも続いているのです。

 エホバと同じ考え方です。
 人を傷つけ、苦しめた人間を、エホバは、悔い改めなしには許されません。
 でも、昔から多くのことをエホバは経験させてくださったので、必ず人はまいたものを刈り取るという原則、これを信じることができています。
 そして神の聖霊の凄さを、たくさん知ることになったので、どん底にいても、神への信頼を失わないで済みました。
 エホバはとても優しい方です。
 ヨプ記も、仲間へのゆるぎない愛のない人は、神への恐れを持っていないことを示され、結果、神の是認を受けられないことも示されました。
 長老も、肥えた羊、強い羊になるなら、排斥、もしくはハルマゲドンでの滅びを経験することも……
 今はとても細かく調べられるので、その要点をうまく持ち出すことによって、みんなが気づいていない部分に気づきをもたらすことができます。
 でも、私はどんな形であれ、神に是認される目的を大切にしてもらいたいので、聞く人には話そうと思います。

 京阪会衆に復帰した時は、長老に頼んで、十数年不活発になっている姉妹を間接的に助けさせてもらいました。
 末期がんも見つけ、数ヶ月で元に戻りました。
 エホバがそれを望んだので、神と共に働きました。
 そして、死なれました。
 私が彼女を助けたのは、復帰する前から考えていました。
 体の悪い私でもエホバにお尋ねして組織のやり方を調べ、その通りに援助しました。

 エホバは、ご自分の意思を行われる時、その知恵や知識を与えられるので、従順に受け入れ、信頼して行動すれば、成功につながります。
 昔、意地悪した長老の命を救った時も、研究生のために刑務所に入れられそうになった時も、包丁で刺すと言われた時も、ありとあらゆる時に、エホバの介入の仕方は素晴らしいものでした。
 だから、私はエホバに愛されていたいと、いつも思うのです。
 でも、できの悪い体と心だから、ほんとうに失敗ばかりします。

 兄弟、ぜひ、エホバとたくさん話してください。
 自分の思いをぶつけ、何をどうすればよいのか、エホバに尋ねてください。
 自分の思う答えが見つからないとしても、エホバに語り続けてください。
 それと同時に、エホバのこと、集会、どんな形でも近づいてください。
 必ずエホバが、兄弟の心を爽やかにする方法をご存知です。
 エホバを愛しているなら、どうか、エホバを信じてください。兄弟の信頼に報いる方であることを。

 では、長い文面で失礼しました。兄弟の心がエホバによって正しく強められ、その灯が兄弟の前方を照らしますように。
 私ごときですが、お祈りしますね……



 彼女は、自分が「排斥者のように扱われた」と回顧しています。
 これは、「無秩序な振る舞いをする者」に関する聖書の規定にしたがった制裁措置のことを指しています。



◇ エホバの望まれることを行う組織, ものみの塔聖書冊子協会

秩序を無視する人に特に注意する

 使徒パウロは,会衆に不健全な影響を及ぼしかねない人たちについて次のように警告しました。「私たちから教えられた事柄を守らず,秩序を無視する兄弟全てから離れていなさい」。さらにこう説明を加えています。「もし,この手紙で私たちが述べていることに従わない人がいれば,その人に特に注意し,交友を持つのをやめなさい。そうすれば,その人は恥じるようになるでしょう。それでも,その人を敵と見なすのではなく,兄弟として訓戒し続けてください」。(テサ二 3:6,14,15)
 ある人が,会衆から追放されかねない重大な罪を犯してはいないまでも,クリスチャンが従うべき神の基準をあからさまに無視することがあります。例えば,非常に怠惰だったり,批判的だったり,不潔だったりするかもしれません。あるいは,「自分に関係のないことに手出ししている」かもしれません。(テサ二 3:11)自分の利益のために他の人を利用しようとしたり,明らかに不適切なエンターテインメントに熱中していたりする場合もあります。そのように秩序を無視した行いは,会衆に悪影響を及ぼすほど深刻で,他のクリスチャンにも広まる可能性があります。
 長老たちはまず,秩序を無視する人に聖書に基づく助言を与えて助けようとします。繰り返し訓戒してもその人が聖書の原則を無視し続けるなら,会衆に警告の話をした方がよいと判断するかもしれません。長老たちは識別力を働かせ,その状況が警告の話をしなければならないほど深刻で他の人たちを動揺させているかどうかを見極めます。その話をする兄弟は,秩序を無視した行いに関する適切な助言を与えますが,秩序を無視している人の名前は挙げません。話の中で述べられた状況に気付いている人たちは,そのような人との交友を注意深く避けるでしょう。とはいえ,クリスチャンの活動の場では引き続き接触を持ち,「兄弟として訓戒」します。
 望ましいのは,秩序を無視している人が忠実な兄弟姉妹の毅然とした態度を見て,自分の行いを恥じ,改めることです。その人が秩序を無視した行いをやめたことがはっきりしたなら,もう特に注意すべき人と見なす必要はありません。



 彼女の場合、長老たちに対して過度に反抗的である、近隣の会衆に長老たちの悪口を広めている、ということが理由とされました。
 通常この措置は、一つの会衆の中で、対象者の名指しを省くなどの、できる限り穏便なやり方で実施されます。
 ところが彼女の場合、そうはなりませんでした。彼女は実質的に名指しされ、措置は近隣の会衆にも通知されました。諸会衆はその措置に同調し、彼女はかなりの窮地に立たされることになります。
 そののち、彼女は排斥の処分も受けています。
 復帰したのちも、現在に至るまで、有形無形の制裁は続いています。

 制裁の一つに、集会での注解 (コメント) の禁止がありました。メールの中で言っているように、彼女は集会中に手を挙げて長老への批判を語り出したりするため、それでコメントそのものをやめさせられた、ということです。
 ところが、さきほど、この2024年10月になって、状況は変化しました。
 彼女の支援者になる巡回監督が現れたようで、その方の決裁により、この制裁は無効にされました。
 これは強制的な措置のように思います。つまり、集会中に彼女が手を挙げたなら、長老は彼女を指名しなければならなくなった、ということのようです。

 ちなみに、私はこの文書を書いていますが、無秩序者として扱われて処罰を受けたりはしていません。
 あるいは、もしかすると、私は何も知らされないままにこの制裁を受けているのかもしれません。






#239

◇ 2024年10月20日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 姉妹が自身の体験や主張を語り始めたので、私は困惑しています。
 あなたには境界性パーソナリティ障害と作為症の問題がありますので、このように話を進められると、その話がどこまで本当なのか判断できなくなって、私は非常に困ります。
 あなたへの長老たちの対応にはかなりの問題があったと思います。私はこのことを悲しく思います。
 しかし、問題をエホバに委ねるのは、あなたが自分を改善する努力を真剣に行ったあとでなければなりません。
 これはエホバがあなたに与えた特別な課題です。ぜひ真剣に取り組んでください。
 自分を正さずに長老を正そうとしても、エホバは喜びません。まずは自分です。
 この、境界性パーソナリティ障害と作為症については、ネットで検索して勉強するとよいように思います。
 考え方と振る舞いを改善するヒントが得られるでしょう。
 そののち、エホバが許されるなら、きっとあなたも他の人の励ましになることができるでしょう。
 今のあなたに、私の励ましになることはできないようです。



 私はこの道の専門家でありませんので断言はできませんが、彼女は広義での「境界性パーソナリティ障害」、それも、私の言い方では“計画的また演技的な境界性パーソナリティ障害”を持っていると考えています。



◇ パーソナリティ障害, 岡田尊司

 現在、境界性パーソナリティ障害は、ずっと狭い意味で定義されているが、かつての名残は、今もすっかりなくなったわけではなく、「境界性」と診断されているパーソナリティ障害には、他のタイプのパーソナリティ障害が含まれていることもよくある。治療者によっては、対処が困難なパーソナリティ障害を、何でもかんでも、「境界性」と診断するような乱用もあり、さらに混乱を深めている。専門家でさえ、そういう状況である。



 専門家でもない私が造語したところの“計画的また演技的な境界性パーソナリティ障害”ですが、この“計画的また演技的”には“芝居が完璧な”という意味があります。
 私は、この方の境界性パーソナリティ障害の外見は演技の結果であって、中身はまったくそうでない、と考えています。

 境界性パーソナリティ障害は、多くの場合「身体表現性障害」を含むとされます。私は「作為症」と言っています。



◇ MSDマニュアル 家庭版, 「自らに負わせる作為症」の項

 自らに負わせる作為症の患者は、何らかの病気がある状態を繰り返し装います。実際に病気がある場合は、その症状を大げさに説明したり、症状について嘘をついたりして、実際よりも病状や障害が重いふりをします。しかし、この病気は単なる不誠実では片付けられない複雑なものであり、重大な情緒的問題が関わる精神障害の一種です。
 自らに負わせる作為症の原因は不明ですが、ストレスや重度のパーソナリティ障害(境界性パーソナリティ障害が最も多い)が関係していることがあります。



 ちなみに、私の母は「他者に負わせる作為症」です。これは「代理ミュンヒハウゼン症候群」とも言います。
 私には幼少期からいろいろな身体症状があり、「自らに負わせる作為症」を疑われることが繰り返しありました。






#240

◇ 2024年10月24日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 体調が悪くてなかなか返信できませんでした。まずはお詫びします。
 急に、たくさんの情報を書きすぎたので、兄弟を困惑させてしまいました。
 兄弟の信頼を得ようと錯綜したために、このような結果になりました。

 まず、境界性パーソナリティ障害は、大昔に懸念したことがありますが、是非は分かりません。
 PSTD とうつ病は持っています。作為性はありません。
 頭を鈍麻する薬を私は身体的に飲めないので、頭はいつも明晰です。

 医者からも、あなたはカウンセリングができると昔から言われ、仲間をいろいろ助けてきました。
 私には身体的にも病気が多いので、共通の土台で話せるため、証言する時も役立っています。

 長老たちの問題では、優しい気遣いをありがとうございました。
 人は理不尽なことで傷つけられるとずっと心に残るものです。しかも、それが命を失いかねるような出来事を何度も遭遇させられると、問題が複雑です。

 でも私は昔からそうですが、自分でやれる事をまず一生懸命やりながら、エホバと相談しながら物事を行っています。そしてそれは成功しています。
 なぜなら、私の見るところはエホバと同じ方向なので、偽善も忖度も受け付けず、正直に行動するからです。
 そして、人は知らない事実を勝手に想像して裁くことまでしますが、エホバはそうしたことが大嫌いで、必ず事実に沿って物事を裁いていかれます。
 ですから、無実であったり、そこに真実に基づかない内容が含まれている場合、エホバは必ず後に裁かれます。

 また、私はサタンが大っ嫌いなので、仲間を守りたいと思っています。
 もう二度と、親友だった    姉妹の自殺や、死ぬことが解っていてもほとんど他者に会いたくないと言う    姉妹の傷ついた気持ちを誰にも味わってほしくないからです。

 でも、また情報を多くするとあなたを困惑させますね。終わります。

 兄弟、兄弟はエホバを愛していますよね。
 であるならば、なぜエホバのことを教えてくれた組織の集会で学びたいと思わないのですか?
 私には、集会に行きたいって言いましたよね。
 私は待っていたんですよ。集会で兄弟のコメントを聞きたいし、私のコメントも聞いてもらいたいし、一緒にエホバを賛美したかったんですよ。
 私が兄弟を励ませるとか励ませないとか、そんなこと、どうだっていいです。
 大切なのは、兄弟が心からエホバを愛したいと願っているか、また、従順に従いたいと願っているかということです。
 人ではなくエホバにですよ。兄弟とエホバの関係、これを1番心配しています。
 もし誰かが自分のプライドを傷つけたとしても、エホバは必ず傷ついた人を癒されます。
 エホバは公正な方なので、誰かが傷ついたままで終わることはなく、傷つけた者も訓練されるし、それがひどいことであるならば、必ずご自分の定めた時にご自分の民を懲らしめます。
 最近、私はそういう内容をよく学んできました。

 では、兄弟、また考えてね。そして孤立はサタンの思う壺だよ。

正直で思いやりのある宮原兄弟へ



◇ 2024年10月24日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 境界性パーソナリティ障害の方がいる会衆では、うつになる人、PTSDを抱える人、集会に来なくなる人、自殺する人が現れます。
 あなたも、様々な問題を起こしては、いろいろな人たちを苦しめてきました。
 これほどの問題があるのに、まだ治療が行われていないことは、非常に大きな問題です。
 あなたは、長老が人を苦しめた話や、それで誰々が自殺したというような話をしますが、自分のせいで苦しんでいる人のことは話しません。
 そのうえで、まるで自分が綺麗な人間であるかのような話し方をします。
 人を苦しめている時でも、自分は役に立っていると主張します。
 ひどい嘘をついてそれが大問題に発展しても、自分は正直だと言い張り開き直ります。
 それは卑怯な振る舞いです。ただちに、そして全面的に、改めるべきです。
 あなたの作為症は、重度であるうえに頻繁に見られますので、そんなものはない、と主張することはできません。
 私の心はエホバと一致しています、と言われましたが、そのようなことを言えるのは、エホバとの一致を生き方にしてきた人だけです。
 自分の正直さをアピールできるのは、正直な生き方をしてきた人だけです。
 こういったことを口先で宣言しても、無駄です。
 今回のあなたのメールには、嘘が多くありました。
 たくさんの嘘を並べて自分を美化しても、エホバは喜びません。
 あなたは私に、集会への参加を勧めていますが、これは煽りというものです。
 必要なのは、状況に応じて適切な行動をとることであって、綺麗な言葉を並べながら危険な行動を起こすことではありません。



◇ 2024年10月24日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 直接話すほうがいいと思って電話したのですが、かからなかったので。

 私は一切嘘を言っていませんし、兄弟がなぜそんな誤解をしてるのか訳がわかりません。
 どこでどんな情報が兄弟の考え方に影響を与えたのか知りませんが、人は皆、相手としっかり話し合わなければ、相手を知ることはできません。
 話し合っても難しいことはありますが。
 ともかく兄弟はエホバに聞かれたほうがいいと思います。
 私がどんな人間か、嘘をつく人間か、物事を作る人間か。
 正直、私はそんな人間が大っ嫌いなので、周りともめることがあります。
 そして、私が一体誰を傷つけてきたんですか?
 あまりにも意外な言葉に驚いています。人を見る目がないのかな?
 私を誤解してきた多くの人が、ありがたいことに、姉妹は本当に愛があるとか純粋だとかエホバをとても愛してるねと言われます。
 兄弟、いろんな人と話しましょう。仲間と考え方が少し偏っているのかもしれません。
 どちらにしても、私の件に関しては、全く根拠のないはずなことなので、兄弟が仲間でなかったら、そして、私が男性だったら、そして私がクリスチャンじゃなかったら、一発ポン、とどついているところです。
 私は気が強いので。



 まったく心当たりがなく、驚いたそうです。
 この方の人生は、問題を指摘する人たちとの闘争が絶えない人生です。特に長老たちとの闘いは壮絶です。彼女は、人生の大半をこの闘争に費やし、常に自分の正当性と勝利を宣言し、周囲の人たちには武勇伝を語り続けています。もちろん、その背景には彼女の数知れない問題行動があります。それでも、私の言葉は「あまりにも意外」なんだそうです。
 この方は昔からこんな調子です。

 たいていの場合、彼女の戦いは、彼女自身が問題を引き起こすことから始まります。
 そして、被害者や、問題を扱う立場の人たちに向かって、「いったい私のどこが悪いんですか!」と言い放ちます。
 さらに声を大きくして彼女は言います。「悪いのはあなたのほうです!」。
 こんなふうにして、問題は際限なくひどくなっていきます。
 彼女に、問題を起こしているのは自分だ、とか、問題をひどくしているのは自分だ、とかいった自覚は全くありません。

 「ひどい嘘をついてそれが大問題に発展しても、自分は正直だと言い張り開き直ります。」の指摘は、「私は嘘をつく人間が大っ嫌いなので、周りともめることがあります。」という自慢の言葉になって返ってきたように思います。
 「私を誤解してきた多くの人が……」のくだりは真逆です。彼女の見かけを見て褒める人はいますが、そのうち目が覚めてきて悪口を言うようになる、というのがお決まりのパターンです。

 私にとって全く許容できない言葉がありました。彼女は、自分はエホバと対話しながら行動している、と主張しています。さらに、私にもエホバと対話するように勧めています。しかも、エホバに質問して答えを聴くようにと勧めています。
 これは論外です。






#241

◇ 2024年10月25日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟の書いたブログ?
 届いた書面ではないけど、やっと見つけました。
 2019年からのです。今年10月2日の分です。
 兄弟が経験していることは、同じではありませんが、私とよく似ていたので、気持ちは充分理解できました。
 私も同じ気持ちを長老に訴えていたからです。
 兄弟も辛かったね。

 人は自尊心と尊厳が奪われるととても苦しみます。
 私も、何度も訴えましたが、ずっと無視されてきました。
 そして充分ほったらかしにされたあと、王国会館で抗議しました。
 逃げる人を捕まえるために、みんなのいるところで話すことが必要でした。
 私は正しいことを話していたので負けませんでした。
 なんとも気の強い人と思われても、構いませんでした。
 周りにどう見えても、真実を正しく伝えることが私の目的でした。
 巡回監督にも話しました。
 巡回監督にも長い間ほっとかれましたので。
 何度も体調がひどくなり、(信じてもらえないかもしれませんが)実際死にかけました。
 エホバにとても祈り、もっと行動をとり続け、今は、少しずつ変わり続けています。

 そういえば、あなたは私のことを、無茶苦茶ひどい人みたいに言って中傷されていたみたいで、びっくりして、長老にその旨を正すように伝えたけど、スルーされました。
 どうやら長老たちは、何でも穏便に済ましたいようです。
 まいたものを必ず刈り取ることになるから、エホバの前で、常に正しく行動することのほうが大切なのにね。
 長老は特に責任が大きいので受ける罰も大きいです。
 兄弟の件も必ずエホバが見ててくださっているので、もし兄弟が謝らなくても、必ず裁きがありますよ。
 だって、私も兄弟たちとなんでも話し合っていますが、絶対に謝るべきことを謝ってもらっていないので、そのことは、いずれエホバからの裁きを待っていることを、伝えてあります。
 これは許せない、というものはありますものね。
 エホバも同じように見てくださっています。公正ですから。

 だから、兄弟の気持ちは、エホバと、私のようなタイプの人には解るということかもしれません。
 だって、同じような目にあっているのですからね。

 少しでも平安に毎日を過ごしてくださいね。
 必ず、兄弟の気持ちは、エホバが解ってくださっておられますからね。



 やっと見つけたというのはどうだろうか、と思いました。この方は、無知である、無理解である、無能である、無垢である、という演技が得意ですので、このあたりの振る舞いは演技である可能性があります。私には判断できません。

 長老が彼女の通報を無視したことについては、正しくはないが、彼女に対する対応としては順当だろう、と思いました。






#242

◇ 2024年10月26日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 状況が複雑になっていますが、重要なことに話を絞りたいと思います。
 私が扱うのは、あなたの、境界性パーソナリティ障害と作為症と嘘の問題です。
 それ以外のことはすべて後回しにしてよいでしょう。
 今のところ、あなたは自分の問題を認めず、私は作為症ではない、嘘をつくこともない、といったことを強弁しています。
 そのうえで、長老を悪人呼ばわりし、エホバが長老たちを裁かれる、などと言います。
 あなたに必要なのは、あなた自身の問題に取り組むことです。
 長老の件は後回しにしてよいでしょう。
 あなたは私に関わる事件を気に留めていますが、これも後回しです。
 週明け以降、いくつかの書面を書いて、送ります。
 口頭でのやり取りはしません。直接会うこともしません。メールだけです。やりとりは全て文字にして記録に残るようにします。
 引き続きよろしくお願いいたします。



◇ 2024年10月26日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 私はしません。
 私は、2時間のメールで白内障が進んで目が見えなくなる、そういう症状が出ます。
 なぜきちんと相手の状況を調べないで、というか、知らないで、そんなふうに人を裁くのですか?
 私は線維筋痛症や心臓弁膜症や様々な病名を持った人間です。でも、だからといって兄弟を医者にする気はありません。
 もしかして、私が中傷されていたことで、何か勘違いしてるんですか?
 兄弟がこれ以上勘違いをするなら、私は兄弟の送ってくるものを読むことはしたくありません。
 どうしてそんなに人を疑うことを、エホバの前でありながら、よしとしてしまったんですか?
 エホバは性急に手を置く人も嫌いですし、根拠もなく裁く人も嫌いです。
 兄弟、もっと自分に正しい精神が持てるように、祈ってください。



 この方の態度は相変わらずですが、一点、明らかに違うところがあり、そこが気になりました。
 彼女にしてはずいぶんと弱気な言葉が含まれています。
 彼女は、多くの持病をかかえ、ひどい身体症状を訴えながら、それでも戦うという人です。それで実際に死にそうになることもありますが、それくらいでは引いたりしません。
 一方、彼女が今回のような反応を見せるのは、彼女にとって勝ち目のない、非常に限られた相手に対してだと私は思います。具体的には、警察や精神科医です。
 これらの人たちに対して死にそうになりながら闘争を挑んだりしたら、救急車を呼ばれて病院に運ばれるでしょうし、精神病だと診断されれば強制入院ということもあり得ます。






#243

◇ 2024年10月28日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは、自分の問題をすこしも認めず、このように言っています。
 「あなたはありもしないことを言っています。」
 「あなたが私を中傷するので、私は苦しんでいます。」
 「ただでさえひどい持病があるのに、ますますひどくなってしまいます。」
 「こんな悪いことはやめてください。」
 あなたがこのようなことを言うのは、あなたが境界性パーソナリティ障害だからです。
 境界性パーソナリティ障害の人は、なにがなんでも絶対に自分の問題を認めません。
 「そんな話にはまったく心当たりがありません」、「そんな事実はありません」、「そんなことを私がするはずがありません」と言います。
 そればかりか、問題を指摘した人を悪者呼ばわりし、自分は善人である、被害者である、という芝居をします。
 「私は無実です。あの人からの迫害のせいで、こんなにも苦しんでいます。」と言います。
 私は、そんなあなたのことをとても心配しています。すこしでもまともにしてあげたいと思っています。
 あなたが自分の問題を認め、あなた自身の口から「私にはこのような問題があります」と告白するようにしたいと願っています。
 これは、あなたのために、ほんとうに必要なことです。

 そこで、私は、あなたのまねをすることにしました。
 あなたは「やめてくれ」と言いますが、私はあなたのまねをして、こう言い返します。
 「私は間違ったことがだいっきらいです。」
 「私は正しいのですから、引き下がりません。」
 「私は正しいことを貫きます。決してあきらめたりはしません。」
 「相手は迷惑がるかもしれませんが、私はひるみません。」
 「私が黙るということは絶対にありません。」
 「私の周りの人は、私がこんなにもまじめなのを見て、褒めてくれます。」
 「エホバは私の味方です。ですから、私は何もこわくありません。」
 あなたは「病気がひどくなる」と言いますが、私はあなたのまねをして、こう言い返します。
 「私は、とっても心が優しいんです。」
 「優しい私があなたに悪いことをすることはありません。」
 周りの人たちには、このように言っておきます。
 「私のせいで病気がひどくなったと訴える人がいるそうですが、まったく心当たりがないことですので、びっくりしているところです。」
 「悪いのは長老たちです。」
 もちろん、これはたいへんよくないやり方です。
 このようなことをする人は、悪魔のような人です。
 そのような人は、長老から叱責や処罰を受けます。
 私は排斥になるかもしれません。
 しかし、私はあなたのことを心配しています。
 そこで、あえてこれを言い、貫こうと思います。






#244

◇ 2024年10月28日, 私から小松姉妹へのメール

 境界性パーソナリティ障害を持つあなたには、得意とするやり方がたくさんあります。
 そのうちの一つをわかりやすくたとえにしました。

 ある日、わけがあって、あなたは私の家に同居することになりました。
 あなたは、私に対する感謝の気持ちでいっぱいです。
 それであなたは、おいしい料理を作ったり、せっせと部屋の掃除をしたりします。
 私はうれしくなり、あなたを褒め、感謝の言葉を述べます。
 ところが、しばらくすると、面倒なことが生じ始めます。
 私は、大切なもののいくつかがなくなっていることに気づきました。
 あなたは、古くていらないものはまとめて処分しました、と言います。
 親切な気持ちでいっぱいのあなたは、その気持ちが促すままに、いらないものをどんどん処分していきます。
 手紙やアルバムの詰まった箱が消えます。亡くなった友人の遺品が消えます。
 あなたは、部屋の奥にゴミがたまったいたので整理しました、と言います。
 壁の時計が消えます。しまっておいたカメラが消えます。テレビもなくなります。
 あなたは、壊れていたものは捨てました、と言います。
 私は、こういうことはやめてください、と言いますが、あなたはやめません。
 「私は親切なことをするのが好きなんです」、「私は何も悪いことをしていません」、「私のすることにはきちんとした理由があります」、「それなのにどうしてあなたは私のことを悪く言うのですか」と反論します。
 そのうち、注文していない家具や電気製品が届くようになります。
 あなたは、これは必要なものなんです、と言います。
 私は繰り返し、やめてくれ、と言いますが、あなたはやめません。それどころか、ひどくなります。
 ある日私は、家の真ん中の柱が削れて半分になっていることに気づきました。見ると、壁や天井には穴が開いています。
 あなたは、この家は住みにくいので改良しているところです、と言います。
 さらにあなたは、苦情を言います。
 「私はこんなに頑張って親切をしているのに、どうしてあなたは私のことを悪く言うんですか。」
 「あなたは人間として間違っています。そんな自分が恥ずかしくないんですか。」
 「私は病気がひどくなってしまいました。これはあなたのせいです。」
 そのうち私は精神に変調をきたすようになります。
 錯乱したり、行方不明になったりします。最後には自殺してしまいます。
 すると、あなたは、涙を流しながらこのように言います。
 「私はこの人を救おうと一生懸命頑張りましたが、救うことができませんでした。」
 「悪いのは長老たちです。」

 兄弟姉妹のほとんどは、この人の親切はたいへん迷惑だ、と感じています。
 あなたの親切に感謝するのは最初だけです。
 しばらくたつと、それが罠であることに気づくようになります。
 そして、この人から親切にされるのをなんとかして避けよう、と努力するようになります。
 それでも、あなたが親切をやめないので、困ってしまいます。
 それで精神にダメージを受ける方もいます。
 特に、病気にかかって余命を宣告された人は、たいへんです。
 あなたのせいで、人生の最後に平安が奪われます。
 早く死んでしまう方もいただろうと思います。
 しかしあなたはこう言います。
 「長老たちはあの人にひどいことをしています。」
 「私はあの人の支えになろうと努力しているところです。」
 その人が死ぬと、こう言います。
 「私は長老たちがあの人に何をしたかを忘れません。」
 「私は長老たちと戦います。」
 「エホバも私の味方になってくれます。」



◇ 2024年10月28日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟、妄想をやめましょう。
 長老たちは、兄弟を今、愛のある気持ちで見ています。
 兄弟、くだらないことをいっぱい考えないで、集会の予習や、多くの人をどのようにしたら援助できるか、その宣教方法を考えましょう。
 私は、この体で、どうやればそれができるか、とても考え続けています。
 どうにもならないようなサタンの推論に振り回されないように、兄弟も祈りましょう。
 エホバの力は強いので、エホバに頼ってください。
 他人の悪口を考える前に、自分のなすべきことを考えましょう。
 私は、長老たちにも自分が言うべきことは話してますから、影でこそこそしません。
 兄弟はもっと目を周りに広げましょう。
 皆、それぞれの試練の中で、自分を訓練しながら戦っています。
 兄弟にだって、いっぱい悪いところ、あるでしょう?
 悪くない人なんかいませんし、人の悪口を言う前に、自分をもっと見つめ直しましょう。
 そして、ほんとうにその人に何か言いたいことがあるときには、しっかりと向き合って話し合うような人格を、まず培ってから臨みましょう。
 私はそのようにしてきました。そういう境遇に置かれたので。
 でも、そのおかげで、サタンにはかなり攻撃されてきましたが、エホバにとても愛されて守られるようになりました。
 でも、同じように、兄弟のことも、エホバは守ってくださいます。
 一年後には、国際大会のような大会が行われます。私たちも出席できます。
 私は大会に行ける体ではありませんが、これには行きたいと思っています。
 エホバに祈って助けてもらいたいと願っています。
 兄弟も是非、大井兄弟と行ってください。
 では、私も忙しいから、終わります。



 この返信を読んで、この人はほんとうに手ごわい相手だな、と思いました。
 長年にわたって長老たちを相手に戦ってきただけはあります。戦い方をよく知っています。
 世の中には「舌先三寸」という言葉がありますが、この方は舌先一万尺くらいあります。

 私は、彼女からそれはもう何度も「長老たちからあるはずもないことをさんざん言われて攻撃された話」を聞いてきました。彼女はあらゆるところにこのような話を広めていますし、信じる人もたくさんいます。
 彼女の主張では、それらは全て嘘と妄想で、正しい人格を持ち備えた彼女に対する悪魔サタンからの攻撃です。

 彼女は自分の異常行動の“ありえなさ”を正しく理解し、利用します。普通の人ならそんなヨタ話を信じたりしない、と知っているのです。
 声を上げて、私がそんなことをするはずがありません、そんな話がほんとうであるはずがありません、と言います。問題を指摘した人を、嘘つき呼ばわり、悪人呼ばわり、病人呼ばわりにします。さああなたは自分の病気を治しましょう、ということまで言います。
 問題を指摘した人は、立場が逆転して窮地に陥ることになります。

 この方はこれまで様々な制裁を受けてきましたが、長期的に見ると、名誉を回復する傾向にあります。
 巡回監督のような、現場を知らず、長老に対する権力を持ち、常に新任と入れ替わる人を、彼女は説得してしまいます。説得が成功するのは、人々の精神状態がいたって正常だからです。
 巡回監督が彼女の支援者になると、彼女の主張するところの冤罪は晴れ、長老たちは手痛い目にあいながら彼女への制裁を撤回させられることになります。
 私にも同じようなことが起こるかもしれません。






#245

◇ 2024年11月02日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは、依然として自分の問題を認めず、これは妄想であると反論し、論点をそらそうとしています。
 集会に参加することの重要性は、いま話すことではありません。
 集会でエホバからの諭しが得られることも、論点ではありません。
 誰にも悪いところがあるということも、ここで話すことではありません。
 神に祈れば神が支えてくださるということも、的外れです。
 これらのことは、普通の兄弟姉妹たちが言ったり聞いたりして、益があることです。
 あなたのような、極めて異常な人格を持ち問題行動を繰り返す人には、無関係です。
 問題となっているのは、あなたです。
 あなたの、境界性パーソナリティ障害と作為症と嘘が問題です。
 あなたは、自分の正常さを装いながら私を異常者呼ばわりしましたが、異常なのはあなたです。

 あなたは、これまで自分の問題を認めたことがありませんし、今も認めていません。
 長老たちに対して認めませんし、会衆の兄弟姉妹に対しても、私に対しても、認めません。
 長老からは繰り返し叱責と処罰を受けてきましたが、冤罪だと主張します。
 そればかりか、長老たちを攻撃します。
 長老たちが悪いという話を広め、仲間を作ろうとします。
 兄弟姉妹から注意されても、やめません。
 悪い振る舞いをやめませんし、長老を攻撃するのもやめません。
 兄弟姉妹たちはあなたのことをほとんど無視するようになっていますが、これは長老のせいだ、と主張します。
 長老のせいで私はこんなに苦しんでいる、病気がひどくなった、と言います。

 とはいえ、全く希望がない、ということはないだろうと私は思います。
 というのも、今回、小さなことですが、ひとつよいことがあったからです。
 少し前、あなたは私の境遇に同情を寄せ、励ましの言葉を述べていました。
 さらに、私の境遇を自分と同じだと言いました。
 もし、私があなたの慰めの言葉を受け入れたら、どうなっていたでしょうか。
 あなたと私は互いに慰め合い、長老の悪口を言い、ついには、二人で長老の腹に蹴りを入れることになったでしょう。
 しかし、そうなる心配はなくなりました。
 あなたが手のひらを返したからです。
 あなたは私の側につくのをやめ、長老の側に寝返りました。
 これは、あなたの問題全体から見れば小さなことですが、実際には大きなことです。
 それは、私に対する悪魔サタンの試みでした。
 しかし私はサタンを退け、サタンは失敗しました。
 そのようなわけで、私はいま、エホバとイエスの前で、自分を誇ることができます。
 そして、あなたも、長老の側についたのですから、これまでのように長老を攻撃することが、すこし難しくなりました。
 いまサタンはその努力をくじかれています。
 サタンは悔しがり、エホバとイエスは喜んでおられます。
 このようなよいことがあったのですから、全く希望がない、ということはないはずです。

 私があなたに送りつけたたとえはどうだったでしょうか。
 これについては、いくつかのことが言えると思います。
 まず、このたとえは、あなたのこれまでの言行によく合います。
 極めて異常な内容ですが、これがあなたの普通です。
 また、条件がそろえばあなたはたとえどおりのことをするだろう、と言えます。
 柱が半分に、などと書きましたが、大げさなことはありません。
 あなたはそのようなことをやってしまう人です。
 さらに、このように言えます。
 これほど異常なことができる人は、ほかにいないだろう。
 あなたが私に対して、妄想だ、と言ったのは、実のところ正常なことです。
 あんな話が事実であるというようなことは、全くありそうにありません。
 しかし、あなたは別です。
 あなたに限り、私の言ったことは少しも妄想ではありません。
 あなたはそういう人です。



◇ 2024年11月02日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟がサタンに乗ぜられているのを感じます。
 私にとっては初めてのことですが、兄弟を今は見捨てることにします。
 あなたは嘘を真実と言って人を攻撃します。
 素直な心で人の気持ちを受け入れず、その論議はサタンに導かれ、話し続けます。
 私はあなたのでたらめについていくほど楽な生き方をしておりません。
 どこまでもあなたの悪い言葉を聞き続ける気持ちはありません。
 そして、あなたが私を罵倒したことは、エホバが怒りの目であなたを見ていることがわかりますので、反対に気の毒に思います。
 自分がサタンの影響から逃れられるようお祈りください。
 私の最後の言葉です。
 では、ごきげんよう。



 これは撤収の宣言だと思います。
 どんな状況になっても引き下がらないことが生き様だという彼女がこうも簡単に退いてしまうというのは驚きです。
 彼女はこれが初めてだと言っていますが、実際そうなのだろう、と思いました。






#246

◇ 2024年11月09日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは依然として自分の問題を少しも認めていません。
 それどころか、正しいのは自分のほうである、と主張し、私を悪者扱い、サタン扱い、異常者扱いしています。
 そのうえで、もう私のことを相手にしない方針を示しています。
 それで、私はますますあなたのことを憂慮しています。
 というのも、私は、あなたのことを助けたい、救いたい、と本気で願っているからです。
 そのうえ、私のようにあなたのことを救おうとする人は、私が最後で、もう現れないだろう、と思っています。
 思い返してください。
 これまで、たくさんの人が、あなたを助けようとしました。
 しかしあなたは、その全てを拒絶し、それらの人たちに対して逆に攻撃を加えてきました。
 今では、これらの人たちはみな、あなたのことをあきらめています。
 考えてみてください。
 兄弟姉妹たちはいま、あなたのことを「もう年を召されたから」などと言っています。
 これは、この人が死ぬのを待とう、死ぬまで放っておこう、という意味です。
 これが、あなたが今置かれている状況です。
 もう誰も、あなたのことを愛してなどいないのです。
 もしあなたのことをほんとうに愛する人がいれば、その人はあなたのことを救おうとするでしょう。
 そのような人は、もうどこにもいません。

 では、私の今回の努力が失敗すれば、あなたはどうなってしまうでしょうか。
 あなたの悪はさらに醜悪なものとなるでしょう。
 きっとあなたは、周囲の人々に話を広めるでしょう。
 自分は正しい、自分は被害者だ、と言います。
 あの人は長老たちと同じで、迫害者だ、と言います。
 エホバは自分の味方で、自分を支えてくださる、と言います。
 こうして、あなたが悪から立ち返る見込みは、ほんとうになくなってしまうでしょう。
 私の努力は逆効果だった、ということになってしまいます。
 このことを考えると、私はとても平安ではいられません。
 あなたに申し訳なく思いますし、あなたを気遣う方であるエホバに申し訳なく思いますし、あなたのせいでひどい目に遭ってきた兄弟姉妹たちにも申し訳なく思います。

 そこで、このように方針を決めました。
 今後、あなたが、私のメールに対して返信をしないということがあったなら、私は、あなたに関する記録をまとめて、ネット上に公開します。
 ほかに相当な理由がある場合でも、公開します。
 公開は、私のウエブサイト内の「児童虐待の問題について」の文書にて行います。
 公開が行われると、あなたは私の説得を無視することができなくなります。これが公開の目的です。
 寺方会衆の人たちは、公開された文書を読むことになります。
 長老たちも読むことになります。
 近隣の会衆の人たちも読みますし、全国の兄弟姉妹も読みます。
 そして、あなたの問題について、かなり正確に把握できるようになります。
 こうして、あなたは、これまでやってきたことができなくなります。
 説得を無視したり拒絶したりすることができなくなります。
 自分の悪を美談に書き換えることができなくなります。
 説得した人を悪人呼ばわりすることができなくなります。
 エホバは自分の味方であると主張することもできなくなります。

 今回私がやろうとすることは、社会のルールからすると、やってはならないことです。
 私は、警察に逮捕されるかもしれませんし、裁判で有罪になるかもしれません。
 刑務所に入れられるかもしれません。
 そうすると、私の人生は破綻してしまうでしょう。
 しかし、私はあなたのことをほんとうに心配しています。
 そこで、すでに一度述べたように、私は、あなたのために、あえてこの態度を貫こうと思いました。
 私は、自分の身を惜しいとは思いません。
 この全ては、ただ、あなたのためです。
 私はあなたがよくなることを願ってやみません。






#247

◇ 2024年11月23日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 2週間待ちましたが、返信がありませんでした。
 そこで、既定の方針にしたがい、あなたに関する記録をまとめた文書をネット上に公開することとしました。
 文書の作成がある程度できましたら、内覧を行います。内覧を希望の場合は申し入れください。

 今回は、ひとつ課題を用意しました。
 あなたはメールにてこのようなことを述べておられます。「研究生のために刑務所に入れられそうになった時も、包丁で刺すと言われた時も」。
 この二つの出来事について、いったいどんなことがあったのか、詳しい説明を書いて、メールにて私まで提出してください。
 説明をするにあたっては、次の点をよく考慮してください。
 記述は正確かつ詳細になるようにしてください。
 他人ではなく自分のどこが悪いかを明らかにする内容にしてください。
 記述の際には、エホバとイエスは嘘を強く憎んでいるということを、繰り返し思い起こすよう心がけてください。
 記述の際には、嘘をつくなら悪魔サタンを喜ばせるということを、繰り返し思い起こすよう心がけてください。
 よろしくお願いいたします。






#248

◇ 2024年11月30日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 さらに1週間待ちましたが、返信がありませんでした。
 先週用意した課題に対する取り組みもありません。
 この課題は、あなた自身のために、とても重要です。
 あなたは常日頃からたくさんの人とたくさんのトラブルを引き起こしています。
 すでに指摘したように、このような時、あなたは得意とする手法を実践しています。
 自分は正しくて親切だと主張しながら、人が許容できないような異常行動をとります。
 注意されてもやめず、人を精神的に追い込んでいきます。
 追い詰められた人が強硬な手段に出ると、自分は被害者だと主張します。
 被害に遭ったという話を周囲に広めます。
 問題を解決しようと介入してきた長老たちと戦争を行います。
 そのようなわけで、あなたの近くにいる人たちは、あなたのことを「殺人級のトラブルメーカーだ」と言います。
 あなたの問題を正すには、あなた自身が問題を正しく認識しなければなりません。
 ひとつでも、問題を正しく説明できるようになれば、ほかの問題も正しく説明できるようになるでしょう。
 しかし、そのひとつがなければ、どの問題についても正しい説明ができるようにはならないでしょう。
 ですから、先週私が用意した課題は、あなたのために、ほんとうに必要な課題です。
 ぜひ、この課題に取り組んでください。






#249

◇ 2024年12月07日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 すでにお知らせした、ネットでの公開が始まっています。
 掲載は、少量に分けて、継続的に行われます。
 あなたが返信をしないなら、掲載の量は徐々に増えていきます。
 それはあなたにとって大きなリスクです。
 たとえば、あなたは再び排斥になるかもしれません。あるいは、精神病院に入院させられる可能性もありそうです。
 ですから、あなたは、今後の自分、ということをよく考え、いますぐ適切な行動をとらなければなりません。
 私が用意した課題はどうなっているでしょうか。この課題に向き合うことは、あなたのために、どうしても必要です。
 私は希望を抱いてあなたからの返信を待っています。



◇ 2024年12月09日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 私はエホバ以外誰も怖くありません。
 そして、昔からずっとエホバに愛されてきているので、誰の脅しも私には通じません。
 昔からエホバと共に働いて、自分の生み出している実がそれを証明しています。
 元の、瓢簞山にいるときに、5、6年の間に、5、6人の人を援助しました。
 体の面でバッシングされて信じてもらえず、信仰の破船を経験しそうになった後の事です。
 不活発な人をいろいろ援助してきました。
 エホバの原則を愛しているので、人は皆揺るがない愛を持つべきだと信じています。
 周りの人が引いても私は引きませんでした。
 エホバの愛にならって、その原則が正しく用いられるようにしました。
 ですから、サタンの攻撃はすごかったです。そして今も。
 でも、とにかく、私の体は、ちょっとやそっとの体ではないので、医者は皆驚いてしまいます。
 治療法がない病気をいくつか持っています。難病もあります。
 問題なのは、そういうことを知らない人間が、あまりにも僭越に人の病状を勝手に決定してしまうところです。
 そのせいで、私は2番目の子供が帝王切開でした。
 そのため今もたいへんです。
 腸が癒着しているからです。
 でも今回はこれで終わります。
 兄弟のメールは、何度も分割しないと届かないので。
 それでなくても、体中の痛い線維筋痛症という難病を持っている私にはきついのです。
 私は初めに言った通り、たいへんな経験を続けてきているので、エホバしか私の救いの神はおられませんので、人間は誰も、ほんとうの意味で怖くありません。
 私の心はいつもエホバと一致しているので。不完全な失敗を除いては。
 私はずっとエホバに守られてきているので、生い立ちからはっきりそう言えるので、エホバがいなかったら私は生まれていないので。
 では。



 返信があったのはいいのですが、私と話がかみ合わず、文章の組み立てもおかしいという印象を持ちました。
 すでに指摘しているように、この人は演技的です。それでこの人は、私はとっても頭が悪くて対話が成立しません、という振る舞いを見せることが頻繁にあります。そういうとき、その振る舞いがどこまで真実なのかは誰にも判りません。しかも、いったんこういう振る舞いが始まると、それはもうというくらいに延々と続く、という可能性があります。

 ここで、彼女が語っている「線維筋痛症」について取り上げておきます。



◇ MSDマニュアル 家庭版, 「線維筋痛症」の項 (表記等修正)

 線維筋痛症の患者は、痛みに対する感度が高くなっていると考えられます。つまり、患者でない人と比べて、脳の痛みを処理する部分が、痛みの感覚をより強く解釈しています。通常、線維筋痛症の原因は不明です。……線維筋痛症は、危険な病気ではなく、生命を脅かす病気でもありません。
 ……ほとんどの患者は、全身のうずき、こわばり、痛みを感じます。症状は全身に生じることがあります。
 ……線維筋痛症には診断につながる検査法がありません。……医師、家族、友人にこの病気が「すべて気持ちの問題」だとほのめかされることでも、症状が悪化することがあります。



 この病気は、体のいろいろなところに痛みを感じるという病気です。とはいえ、具体的な病変が生じているわけではなく、体は健康です。
 痛みの程度は当人にしか分かりません。
 この病気にかかった人は作為症を疑われることがあります。そして、作為症を疑われることによるストレスで、病気がひどくなります。

 この症状が作為症による場合、「線維筋痛症」ではなく「身体表現性障害」であると診断されます。全く同じ症状でもそれを生み出す仕組みが異なるということです。
 すでに指摘済みのように、この方は「境界性パーソナリティー障害」です。この障害には「身体表現性障害」が伴います。ですから、彼女の言う「線維筋痛症」は「身体表現性障害」である可能性があります。
 決めつけることはしませんが、おそらくそうなんでしょう。






#250

◇ 2024年12月14日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 返信がいただけましたので、ネットへの追加の掲載は取りやめとなりました。
 しかし、その内容は課題を無視したものでした。
 正しく返信がいただけないようでしたら、しかたがありませんので、掲載を再開することになります。
 1週間待ちたいと思います。
 課題を提示してからすでにかなりの期間が過ぎています。このまま無駄に時間が過ぎることがないようにしてください。

 あなたは、相変わらず自分のことを美化し、このようなことを言っています。
 「私はエホバに愛されています」
 「私はエホバと共に働いています」
 「私の心はエホバと一致しています」
 このようなことを言えるのは、実際にエホバに愛されている人だけです。
 このようなことを言えるのは、実際にエホバと共に働いている人だけです。
 このようなことを言えるのは、実際にエホバと一致している人だけです。

 思い起こしてください。
 これまで、あなたが人からこのように言われたことがどれほどあったでしょうか。
 「あなた、私の話を聞いていますか?」
 「今自分が何を言われているか解っていますか?」
 このようなことを言われるのは、あなたが人の話を無視しながら自分に都合のよい話をするからです。
 このように注意された時、あなたはどうしたでしょうか。
 注意されたので、態度を改めましたか。それとも、注意されたので、ますます態度をエスカレートさせましたか。
 そのようなわけで、あなたを説得しようとした多くの人はこのように言います。
 「この人とは話が成り立たない」
 「この人は反抗的で手に負えない」
 「この人は話をごまかしてしまう」
 そこで、今後、私の口からこのような苦情が出ることがないようにしてください。



◇ 2024年12月16日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 こちらこそです。
 真実は何も知らないのにペラペラと推論を語る、エホバが大嫌いなことです。
 特に、相手を傷つけることを知りながら、自分を正義とする。
 いい加減に、頭を冷静にして、よく考えてみたらどうですか?
 私は、あなたのブログの掲載など、全く怖くもなんともありません。
 ただ、あなたのためにも、エホバのためにも、あなたを中傷者として訴えることにしました。
 長老を交えて語りましょう。
 私は、あなただけではなく、長老にも、問題があるときは、必ずきちんと話し合います。
 誰に対しても畏れません。
 エホバのお考えをよく知っていると信じているからです。
 そして、あなたも、自分が真実を語っていると考えているなら、私と長老の前で、それを語ってください。
 私はほんとうに時間がない人なので (体が悪いため) 、上手に生きなければ生きることができません。
 あなたのこのようなくだらないことに関わっていたら、エホバのご意思が行えません。
 では、そのことをはっきりお伝えしておきます。
 最後にこのことを行う動機は、あなたの間違いを明らかにするとともに、あなたを仲間として愛しているので、無視するのではなく、しっかり話し合い、エホバの思いをしっかり知ってもらうためです。
 私はあなたを本当の意味で賢いとは思っていません。
 あなたは、この世の知恵に優れていますが、神の知恵は、そのようなところからのものではありません。
 私は神の知識を持っている人を心から尊敬しますが、なかなかそういう人はいません。
 ほんとうに持っている人は、神を愛しているなら、そのことを行うからです。
 行わない人が多すぎるので、それを悲しんでいます。
 では、あなたを中傷者として訴えるので、準備してください。心の準備を。



 また賢さが戻ってきたように思います。
 先に書いたように、まったく話がかみ合わなくなることを想定していましたので、まだましなんじゃないか、と思いました。
 とはいえ、人の言葉を聞くにあたっては理解力に欠け、自分の言葉を聞かせるにあたっては雄弁である、という振る舞いをしているには違いありません。

 長老に訴える、の件は、もともと心積もりしていることですので、それで結構だと思いました。
 ただ、私が思うに、この方、どこに訴えるのでしょうか。寺方会衆の長老たちはとりあえず彼女のことを無視するでしょうから、そうすると、事が動くよう巡回監督の助力を請うのでしょうか。
 仮に訴えが受理されたとして、その結果、彼女のほうが処罰の対象になるということはないでしょうか。なにしろ、彼女は自分がこれまで受けてきたたくさんの叱責や制裁について、私はまったく反省していません、悪いのは長老たちのほうです、と書いた文書をいろいろな人に送りつけているのですから。
 それがネット上で指摘されたとなると、今度こそは徹底した処罰が必要だ、ということになってしまうかもしれません。






#251

◇ 2024年12月21日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 1週間待ちましたが、適正な返信がありませんでしたので、掲載を再開することとなりました。
 今後の掲載についてお知らせします。
 今回の、二度目の掲載までは、あなたの名誉はそれなりに守られています。しかし、次はそのようになりません。
 あなたがかたくなな態度を取り続けるなら、次はあなたにとって非常に手痛い内容が公表されることになります。
 また1週間待ちたいと思います。よい返信をお待ちしています。
 訴え、の件については、あなたの望むままに行っていただいて結構です。あなたには訴えを起こす権利があります。
 訴えの件について、進捗がありましたらお知らせください。



◇ 2024年12月22日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟、知っていましたか?
 兄弟のブログの書き方は法律に引っかかるようです。犯罪になるようです。
 エホバの前で、兄弟はそれでよいのですか?
 兄弟、もうブログはしないほうがよいのではないですか?
 事実、自分の言うことが正しければ、長老と私と膝を突き合わせて話せるはずです。
 私は逃げませんよ。兄弟は逃げるのですか?
 そうでないなら、話し合いましょう。
 兄弟の不満をわからないわけではありません。でも、今の兄弟のやり方は、卑怯者のやり方です。
 自分が正しければ堂々としましょう。
 私は、兄弟には兄弟の悪いところがあるし、長老たちには長老たちの悪いところがあると思っています。
 私は公平ですので、エホバの考え方で物事を考えます。
 刑務所に入れられそうになったということも、全く事実ですから、また話せることはあると思います。
 では、兄弟、よく考えてください。
 毎日、寒いですから、体に気をつけて、病気にかからないように栄養をとって、お過ごしください。



 彼女が訴えを起こしたことで、さっそく、私が長老を交えた話し合いから逃げようとしている、という認識が生じているように思います。
 彼女自身がそういう推定をしているのかもしれませんし、長老たちが彼女にそういう説明をしているのかもしれません。
 犯罪ということについては、話が戻っているように思いました。
 私が提示した課題について言及があったことはひとつの進展だと思いますが、彼女が自身の問題を認めるという方向性にはならないようです。

 彼女は、まったく正しくないのに堂々としている人です。こんなにも堂々としていることは彼女にとって正しさの証明です。彼女はいつもそのことを誇りにし、周囲に自慢しています。これが彼女の生き様です。そんな彼女から見た私は逃げ回っていて卑怯者であるようです。
 彼女は私との対話をメールから口頭に変えたいのかもしれません。彼女には話術がありますから、そうなれば彼女のほうが圧倒的に有利になるのでしょう。






#252

 この文書を読むと判ることですが、そもそもの話、私は誰かに対して不満があるからこれを書いているのではありません。何を志してこの文書を書くのか、私は明確に考えを述べていますし、その考えから外れたことはしていませんから、正しく評価すれば、私が卑怯者だということにはならないでしょう。
 しかし、私が不満を書いているという解釈は、母の手紙からも読み取れますし、長老たちも同様のことを言っていますから、寺方会衆では既定の路線になっているのだと思います。
 私が長老との面談を拒絶しているという解釈についても、同様です。
 この種の曲解は、一度生じると、どのような努力によっても払いのけることができないのかもしれません。努力しても効果がなく、それどころか逆効果で、私の罪状は重くなり増えていくのでしょう。






#253

◇ 2024年12月26日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 ごめんなさい。笑っちゃいました。
 だって、兄弟、あることないこと、ひっくるめて書いているからです。ブログに。
 こんな間違いだらけのブログを書くのはどうなんでしょうか?
 兄弟、長老たちも一緒に話したいと思っているみたいです。兄弟と。
 私もそれがいいと思います。せっかく、兄弟の見方で筋道の通った考え方が書かれていも、知らないこと、でたらめなことが書いてあるから。
 信用なくしますよ。
 兄弟が、この創作的な内容をどうやって思いつくのか分かりませんが、もしかしたら、兄弟の思いの中で考えるうちに、きっとこうだと考えて、それが現実に思えるのかもしれません。
 長老は、王国会館で兄弟と話したいようです。
 でも、兄弟がそれを望まなければ、ただ、時間だけが過ぎることになるでしょう。
 兄弟は、ほんとうにそれでよいのですか?
 私なら、白黒はっきりさせたい人ですから、たとえ、自分の考え方が相手に伝わらなくとも、エホバが聞いておられますので、エホバの前で真実を語ることを望むと思います。
 兄弟は何がしたいのでしょうか?
 よく考えてみてください。
 私も、デタラメばかり書かれるのは嫌ですよ。
 そして、物事をいたずらに先延ばしするのも、ふさわしいことには思いません。



 内容に間違いがあるとの指摘は本当かもしれないと思いました。ただ、でたらめばかりということにはならないと思います。
 私としては、寺方会衆内でよく知られている話しか書かない方針です。このルールに従う限り、創作ということにもならないでしょう。

 信用をなくす、という指摘については、それはそうだろうと強く感じました。なにしろ今の私は異常な話を創作する狂った人なのですから。
 これは、この方を説得しようとする人が必ず通る道です。
 私は、多くの人が彼女のせいで信用を失うのを見てきましたし、彼女自身もそのことを自慢しています。
 もし私に対して証明責任が求められる事態になれば、私にとってかなり厳しいことになるだろうと思いました。人生の窮地に追い込まれるということもじゅうぶんあり得ます。

 私が対話から逃げているという認識はやはり長老たちから出ているように思いました。この文書に掲載されているように、すでに充分な傍証があります。

 確かなことではありませんが、彼女の化けの皮がはがれてきているようにも思います。
 そもそもの話として、私が集会に出向くよう彼女が説得してくるのはどうしてか、ということがあります。
 彼女は他人の人生を破綻させることの達人です。彼女が善意を示しながら弱い立場の人に近づくのは、それが踏み台になるからです。そうすると、私の場合はどうでしょうか。
 私は今、寺方会衆と緊張関係にあります。いま私が集会に出向けばどういうことになるでしょうか。彼女はこのリスクを承知しているように思います。
 たとえば、長老たちは私を半軟禁状態に置いて脅迫まがいの説得を行おうとするかもしれません。
 さらに、会衆のある人たちは昔から私のことを背教者呼ばわりしていますが、彼らの勢いが増しているように思います。その宣伝のせいで、もうこの人とは一切関わってはならない、会っても完全に拒絶しなければならない、と決めてしまった兄弟姉妹たちも増えているように思います。それらの人たちはちょっとした騒ぎを起こすかもしれません。
 そして、彼女は私に対する寺方会衆の変節を見ているはずです。ですから、いまこの人が集会に出向けば何かひどいことが起こる、ということが彼女には予想できるはずです。
 事件が起これば、彼女はいたく満足してこう言うでしょう。私は彼を救おうと努力しましたが、会衆とその長老が妨げになりました。
 私は悲惨な目に遭い、彼女は利益を得ることになります。
 そうすると、彼女が私を励ましたのは罠だった、彼女は今もその計画をあきらめていない、ということになりそうです。

 今私が王国会館に出向いて長老との話し合いに応じても、長老たちは彼女の件など放置して自分たちの要求ばかりを言う、ということになりそうに思います。
 あるいは、私は即座に追い返されるのかもしれません。長老たちは、彼は集会に来なくなった、また来てほしい、話し合いもしたい、そのための努力をしていますが今のところうまくいっていません、と言っていますが、それは宣伝にすぎないように思います。現に、私のもとには何のアプローチもありません。長老たちが、口先でなく実際に私をどう扱うか、私は知りません。






#254

◇ 2024年12月27日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 私は、たぶん、兄弟の気持ちが少しは理解できる立場にいるのかもしれません。
 人は、自分の尊厳や自尊心を大きく傷つけられたら、生きていきたくないほど苦しみます。
 それを周りに訴えようとしても、ほとんどの人が理解できません。未熟だからです。そういう経験について。
 ですから、傷ついた本人は、その傷を何十年持っていても、癒されていくものではありません。
 エホバだけが真実を知っておられます。そこにしか、完全な救いはありません。

 理解力のある友も、少し助けになります。でも、そんな人はなかなか見つけられないでしょう。
 霊性の高い、エホバと同じ見方を持つクリスチャンはなかなかいないものです。
 昔、巡回監督や長老や仲間に少しいましたが、そのように円熟し、高い霊性で判断できる人は、なかなかいるものではありません。
 でも、必ず、楽園でかもしれませんが、兄弟の苦しみや悲しみを理解する人たちが現れます。
 私もそこに最後の期待を置いています。

 ただ言えるのは、エホバは、日々その苦しみや悲しみと闘っている多くの人たちを知っているということです。
 だからこそ、エホバのご意思を行いながら、確信を持って、エホバの時を待っているのです。
 全く抗わないわけではありません。人間ですから、感情がありますから、傷つけられることに反論することはあって当たり前です。
 相手が間違っていることで、自分を傷つけることを、いつも許していたら、心が疲弊してしまいます。
 神にならって、廉直に、正直に、マタイの聖句のように、自分の思いを伝えます。
 もちろん、それで相手が必ず解ってくれるわけではありませんから、心は悶々とします。
 ただ、エホバがその状況をご覧になっているので、エホバの中ではそのことが神の心に留められます。

 ですから、私は、兄弟の気持ちはある程度理解していますが。
 今は、そのことより、エホバのご意思を行うために、世界中の仲間と一緒にサタンと戦ってほしいと思っています。
 奉仕の仕方は全ての人から学び合えます。
 いろいろな方法を用いて、エホバが助けてあげたいと思っている人にアプローチできるよう、自分たちの業を高め、辛い仲間を慰め、誰もが本当の愛を示せるような、そんなクリスチャンに成長できるように、互いにできるところで、助け合うべきではないでしょうか。

 もちろん、そのようなことを言っている私も、真意が伝わらない辛さをエホバによく話しています。
 自分の努力は無駄なのだろうかと虚しく思い、悲しむことも多いです。
 でも、エホバはいちばん心を見られます。その人がどのような想いで仲間を助けたり、ご自分についてきているのか、正しくご存知なので、私も、もっとエホバを信頼しなくてはと反省します。
 究極には、エホバへの全幅の信頼が、私たち一人一人を、その業にしたがって、裁いたり報いたりしてくださいます。

 兄弟も、エホバを愛しているなら、エホバの気持ちに近づいてください。
 今、兄弟にエホバが何を求めているか、祈って確かめてください。

 人間なんか、どうでもいいのです。
 長老が何を思い、何をしたとしても、その人たちも、自分の行った業によって、責任を問われるのです。
 誰にも公正なエホバです。私はずっとそれを見てきました。不公平はありません。
 そんな経験はたくさんあるので、はっきりとそう言えます。

 兄弟の傷ついた心は、エホバがいちばんご存知です。そして、私も、多分、他の人よりは理解しているでしょう。
 はっきり申し上げて、私は兄弟の受けた傷の何十倍もの傷を受けているからです。
 でも、それをもとに、仲間や周りの人の傷つくことに敏感に反応できるようになり、自分を喜ばせるのではなく、自分に価値を持たせるのではなく、エホバの観点から、憐れみを持つという精神を学べているので、エホバに感謝しています。

 心の歪んだ人の、清い良心で見ていない、そういう人の心は、清いものを正しく見ることができません。
 そのような人になってしまったら、エホバからいずれ嫌われるようになります。
 兄弟は、そういう人の影響を受けないように、自分の心とエホバの言葉をよく推論してほしいと思います。

 では、今日は長くなったので、これまでにします。



 非常に清らかな内容だと思いました。優れた知見も含まれています。しかし、これは創作と演技、そして虚構です。

 彼女はこのようなことを想定しているようです。
 私は宮原兄弟から誹謗中傷を受けています。彼の話す内容は妄想です。彼が妄想を語るのはサタンに利用されたからです。サタンに利用されたのは、辛い経験をして心をゆがめてしまったからです。ですから、私は彼に対する同情を禁じえません。
 彼女はこの方針にしたがって私への同情と励ましを述べ、私の進むべき道を示そうとしています。
 彼女は卓越した霊的円熟性を持ち備えた人で、その心はエホバと一致し愛にあふれています。もし彼女の努力がうまくいけば、私は自分の過ちに気づき、態度を改めるでしょう。

 すでに指摘しているように、彼女は“計画的また演技的な境界性パーソナリティ障害”の持ち主です。
 ですから彼女は、自分が身勝手に描いたシナリオに基づいて、理想的な演技をしているにすぎません。
 この文面の本質は、彼女には自分の問題を認める気などまったくない、というところでしょう。
 優れた知性と洞察力に加えて円熟性まで持ち備えているのに、それが本質ではないというのは、まさに悪魔サタンと同じで、まったく油断ならないことです。






#255

◇ 2024年12月28日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 適正な返信がないまま、さらに1週間が過ぎてしまいました。
 あなたは依然として自分の問題を認めず、被害者であるふりをしたり、善人であるふりをしたりしています。
 このタイミングで三度目の掲載を行う予定でしたが、あなたから、訴えを起こす旨の通告だけでなく、追加の要求と指摘までいただいていますので、ここで再度掲載を中断し、訴えに対する長老たちの対応を見るほうがよいと考えました。
 そこで、さらに2週間待ちます。そののち、掲載について再度検討します。
 掲載について、今後の方針のお知らせがあります。
 今後、掲載について事前の通知は行わないこととしました。通知なしで掲載するか、掲載後通知するか、どちらかになります。
 犯罪、の件については、すでに私のほうから方針を述べていることですし、今後もその方針の通りにやりたいと思っているところです。
 もしあなたが望むなら、もちろん、あなたは警察に対して告訴を行うことができます。それはあなたの権利ですので、私としてもまったく異論ありません。



◇ 2024年12月28日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟を助けることは無理ですね。私がですが。
 そんなに兄弟がかたくなで、人の気持ちがわからない人であるならば、私は周りから悪く思われながらあなたを助ける必要がありません。
 エホバも、荒野でかたくななイスラエル人たちを約束に入らせないことにされました。330万人が死にました。
 神の忍耐にも限界があるように、私にも限界があります。
 私は、充分あなたを助けようとしてきました。周りから嫌われることになっても。
 でも終わりにします。
 あなたのかたくなさには、エホバの愛が届かくなっています。
 これで、しっかりと、私との関係は切らせていただきます。
 ただし、命が関係するほどのたいへんなことがあったときには、私のできる範囲で助けます。
 では、ほんとうにさようなら。
 私も、エホバと同じで、感謝の念のない者、人を愛さない者は大嫌いですので、兄弟は自分のまいたものをどうぞ刈り取ってください。
 エホバは侮られる方ではないので。



 私は、心がかたくなで、人の気持ちが解らない、感謝の念がない、人を愛さない、どうやっても救えない者であるようです。
 これについては、彼女に対する私の態度の、厳しさ、容赦のなさ、ということがありますので、当たっているところはあるのだろう、と思いました。
 荒野でエホバが、のくだりは飛躍しすぎだと思いました。

 彼女が対話の打ち切りを宣言しても、こちらの方針は変わりません。そういう時にはそういう時の彼女のやり方を手本にします。

 命に関係するほど、のくだりですが、彼女としては私のことをあきらめていないように思います。
 彼女は、兄弟姉妹のうちに死にそうになった人を見つけると、その人につきまとって迷惑行為を浴びせた末、私はこの人を助けようと努力しましたが長老たちが邪魔をするのでした、というような武勇伝を作って広めてしまいます。いずれ時が来たら、私に対して同じことをやるつもりだ、という意味です。
 彼女の化けの皮はさらにはがれつつあるように思います。私に集会への出席を促したのは、劣勢に立たされた私を踏み台にするためなのでしょう。しかしそれがうまくいかなかったので、いったん手を引き、私が弱る日が来るのを待つことにしたのでしょう。
 彼女は死にかけた獲物を狙うハイエナのようです。私としては、死にそうになる時は彼女のいるところで死にそうにならないよう注意したいところです。






#256

◇ 2025年01月04日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 私のほうでは、あなたから訴えを起こすという通告を受けましたので、長老の対応を待っているところです。それなのに、今のタイミングで対話の打ち切りを宣言するのは、とてもおかしなことだと感じました。
 今あなたは、「あなたは逃げるのですか。私は逃げません。私は堂々としています。」というようなことを言っています。それなのに、あなたのほうから対話を打ち切るというのは、とてもおかしなことだと思いました。
 私は、あなたのために対話の努力を惜しまないつもりです。すでに述べているように、たとえ会衆から排斥になっても、警察に逮捕され刑務所に入れられても、あなたに対するエホバからの愛を貫く覚悟です。私がこれほどあなたへ尽くしているのに、あなたは私に感謝せず、私のことを悪者呼ばわりします。これはおかしなことだと思いました。
 考えてみてください。これまで、あなたのことを助けようとした人はたくさんいますが、自分の身を危なくしてまであなたを助けようと頑張った人はいませんでした。あなたにとって私のような人は、これまでいませんでしたし、これからもいません。
 私がいなくなれば、あなたはおしまいです。それなのに、私を拒絶してしまうのは、どうでしょうか。

 しかし、私はあきらめません。なぜなら、私の心はエホバとまったく一致しているからです。
 私は正しいことを愛していて、間違ったことが大嫌いです。ですから、エホバと同じで、どんな時でも正しいことを貫きます。
 あなたから嫌われても、頑固者だと言われても、私の正しい振る舞いに変化はありません。
 たとえ、ののしられても、攻撃を加えられても、それでひどい目にあったり、病気をひどくしても、私はやめません。
 私をよく知る人たちは、私が正しさを貫くのを見て、感心し、褒めてくれます。
 私の心は、あなたへの愛にあふれています。私があなたへの愛を見失うことはありません。
 あなたは私のことを悪者呼ばわりしますが、それでも私はあなたを愛しています。
 あなたは私を攻撃しますが、それでも私はあなたを愛しています。
 あなたのせいで私は排斥になったり刑務所に入ったりするかもしれませんが、それでも私はあなたを愛しています。
 なぜなら、私の心はエホバの心とまったく一致していて、その愛に偽りはないからです。
 そのようなわけで、エホバは私のことを愛してくださいます。

 一方のあなたは、嘘つきです。
 あなたは、自分が悪いのに、自分は正しいと主張します。
 正しいことを言っている人を、悪者呼ばわりします。
 人から助けの手を差し伸べられても、それを払いのけます。
 助言や叱責を受けても、それを聞きません。
 制裁を受けると、自分は嫌がらせに耐えていると言います。
 いつも嘘をついているのに、自分は正直者だと主張します。
 自分はたいへん正しい人であるという芝居をします。
 とっても心の優しい人だという芝居をします。
 自分はたいへん立派な人だ、こんなに立派な人はいない、と自慢します。
 でっちあげを言い、芝居をして、うまくいかなかったら、人のことを罵ります。
 そのうえ、エホバの名前を使って、人を脅迫します。
 このような邪悪な振る舞いは、すべて、悪魔サタンから出ます。

 しかし、私はあなたのようではありません。
 私の心は、あなたとは違い、潔白です。あなたのように邪悪ではありません。
 私は、あなたがするように、嘘の言葉を並べて人をだましたりなどしません。
 あなたのように芝居をして、自分は立派な人だと見せかけたりはしません。
 エホバの名前を使って人を脅迫することもありません。
 私は今、あなたの手を通して、悪魔サタンからの迫害を受けています。
 しかし、エホバが私の味方をしてくださいますので、私は何も怖くありません。
 あなたが私を罵っても、私はエホバに支えられて、耐えることができます。
 あなたが攻撃するとしても、私はエホバと共にしっかり立ち続け、正しいことを貫きます。
 それで私の病気がひどくなるとしても、私はひるみませんし、あきらめません。
 なぜなら、私の心は純粋で、正直で、愛に富んでいて、エホバと全く一致しているからです。



 これはひどい文章だと思いました。ひどすぎます。
 羞恥心のなさ全開です。舌先一万尺くらいあります。はったりもでっちあげもいいところです。
 こんな文章を書いて人に送りつける人がまともな人であるはずがありません。
 いったいどうして、この人はこんな狂った文章を書けたのでしょうか。自分で自分のことをおかしいとは思わなかったのでしょうか。

 私が特に気になったのは、エホバの御名の用い方が正しくないことです。



出エジプト記 20:7

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたの神エホバの名をむやみに用いてはならない。その名をむやみに用いる人をエホバは処罰せずにはおかない。



 エホバは神です。この宇宙の創造者であり、全ての命の付与者です。ですらその御名は神聖です。
 エホバのお名前を使いながらこんなことを言う人は、エホバの名の冒涜者です。その人はエホバの憤りから逃れられないでしょう。エホバとイエスからの厳しい処罰が下るはずです。
 これはもう、地獄の窯の中で毎日煮たり焼いたりされても文句は言えません。






#257

◇ 2025年01月11日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 今日、保留にしていた追加の掲載を行いました。
 今回の掲載では、あなたが境界性パーソナリティー障害と作為症の持ち主であることが明らかにされています。
 このことは、あなたにとって手厳しいことですが、あなたから様々な被害を受けてきた人たち、これから受ける人たちにとっては朗報です。
 これまで、多くの人たちは、あなたの異常な行動やその結果生じるトラブルに見舞われても、うまく対応することができませんでした。
 それは、あなたがどのような欠陥の持ち主であるか、知るすべがなかったからです。
 しかしこれからは、情報が公開されましたので、ネットで検索を行ったり、本を購入したりして、あなたの欠陥への対処法を習得し、うまく対処できるようになります。
 その結果、大きな被害は防がれますし、あなた自身も問題を起こしにくくなるでしょう。

 手厳しいことですが、これは悔い改めと救いへの招待です。
 あなたはこのところずっと、自分の問題をまったく認めず、少しも悔い改めないという態度を貫いています。
 この状態がいつまでも続くことに比べれば、今回のことは、良いことです。どうかこのことを理解してください。
 それは厳しくても、けっして厳しすぎることではありません。
 あなたが私に対して取った態度のような、極端なものでもありません。
 私は、あなたに対して「さあ死ね」みたいなことは思っていません。そうではなく「どうか死なないように」ということを願います。
 寺方会衆の人たちは心の中で「この人はどこかで野垂れ死にでもしてくれたらいいのに」と思っていますが、私は違います。
 手厳しさはありますが、それは私を通して示されるエホバからの愛です。
 あなたは今、見かけ上のエホバの愛を語る者と、真実にエホバの愛を語る者との違いを見ています。

 そのようなわけで、私からあなたに大切なお願いがあります。
 今回情報が公開されたのに合わせて、あなた自身も、人々に対する告白と周知をしてください。
 あなたの近くにいる人たち、兄弟姉妹たちに、自分が境界性パーソナリティー障害と作為症の持ち主であることを伝えてください。
 そのうえで、境界性パーソナリティー障害には様々な問題行動があることを知らせてください。
 自分の間違いをけっして認めない傾向があることを知らせてください。
 許容範囲を無視した迷惑行動を繰り返すことを知らせてください。
 作り話がうまく自分を美化するということを知らせてください。
 芝居や作為症があることを知らせてください。
 長老たちにも、これらのことを告白してください。
 病院に行き、医師に対しても、自分が境界性パーソナリティー障害と作為症の持ち主であることを申告し、きちんとした診断をもらってきてください。
 そのうえで、継続的に治療を受けるようにしてください。
 というのも、そのような告白をしないなら、あなたは兄弟姉妹たちをだましていることになるからです。



 このようなことを書きましたが、寺方会衆の人たちはどうでしょうか。

 寺方会衆の人たちは私とその文書を無視するようになっています。そうすると、そこにこのような記述が加えられても、それも無視してしまうのではないでしょうか。
 会衆はこの方に起因する多様な問題にさらされていますが、私が情報を提示したのになにも改善されない、ということになりそうです。
 この方はこれまで通り悪を積み重ねるでしょう。会衆のほうも、彼女に対する無情な対応を取り続け、やはり悪を積み重ねるでしょう。
 もし彼女が私の言葉を聞き入れ、助言を実践しても、会衆は彼女の努力を一切無視し、彼女の救いに助力しないでしょう。

 寺方会衆の私に対する認識と態度も変容してきたと思います。
 私を無視するようになった兄弟姉妹たちは、そうする正当な根拠を求めるようになります。立派な根拠はそのへんに転がっていて、採用は容易です。その根拠に促され、私に対する態度は無視から拒絶に変わっていきます。拒絶する時彼らは、自分たちは正しい行動をしている、と確信しなければならなくなります。






#258

◇ 2025年01月18日, 私から小松姉妹へのメール (表記等修正)

宮原です。

 ここ一年ほど、NHKが繰り返し「死亡退院」というテーマの番組を放送していることはご存知でしょうか。
 「ハートネットTV」、「ETV特集」、「NHKスペシャル」、「クローズアップ現代」、「バリバラ」といった番組で、何度も同じ内容を放送しています。
 ネット上にも番組紹介が作られていますので、ご覧になられるとよいでしょう。
 世の中には、一般の高度医療と精神医療の両方が必要な患者を収容する特殊な病院があります。
 一般の病院は精神科の治療ができません。精神科の病院は一般の高度医療ができません。そこで、両方の医療ができる病院が用意されています。
 番組では、その病院に入った患者がどのように扱われ、死んでいくかが紹介されています。
 患者は監禁状態に置かれ、おとなしくさせるために殴られます。患者は「やめてください」と言いますが、ますます殴られるだけです。
 番組では、患者が殴られる実際の場面や、「このままでは殺されますどうか助けてください」と訴える様子などを見ることができます。
 このような人たちを助けようとする人もいますが、転院先はありません。
 患者には過剰な医療が行われます。たとえば、薬を大量に投与されます。
 患者は異常な死に方をします。
 NHKが繰り返し問題を指摘していますが、世の中の反応はいまひとつです。人々は、あの人たちは精神病患者だから仕方がない、放っておけ、と思うようです。

 私が気にするのは、あなたは似たような病院に送られるだろう、ということです。
 あなたはそろそろ一般の病院に入院する頃合いだと思います。持病がひどくなれば入院しないわけにいかなくなります。
 あなたが今のままだとどういうことになるでしょうか。
 あなたには許容できない種類の異常な行動があります。同じ病院の患者から、少なくとも苦情が出るでしょう。もしかすると、病気がひどくなる患者、早死にしてしまう患者が出てしまうかもしれません。あるいは、病院に置かれている高価な医療設備が不調になったり、壊れてしまったりするかもしれません。
 一般の病院で手に負えないと判断されると、精神病院に転院させられるでしょう。精神病院が受け入れを拒むと、特殊な病院に連れていかれることになります。
 いったんそのような状況になってしまうと、もうどうしようもありません。
 私は助けに行くことができません。寺方会衆の人たちも、これはよいことだ、と思ってあなたを放置するでしょう。
 あなたはそこで悲惨な結末を迎えることになります。
 このことを思うと、私はとても平安ではいられません。

 私は、あなたがそのような終わりを迎えることを、何としてでも阻みたいと思っています。
 しかしあなたの心は、邪悪で、強情で、そして異常です。私がどれほど説得しても、すこしもよくなる様子がありません。
 私の苦悩は増すばかりです。
 その時は必ず来ます。あの時にあの言葉を聞いていればよかったと思っても、もう手遅れになります。
 そうならないためには、あなたがいま決意して変化する必要があります。時間はありません。
 いまあなたが私の言葉を聞かないなら、あなたはもうおしまいです。






#259

◇ 2025年01月22日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 やはり、兄弟の病状はとてもひどいですね。
 現実と妄想が一緒になっています。
 このままでは、兄弟はどんどんサタンの思う壺です。
 そうですね。そろそろ、いろいろ訴えることにして、兄弟がこれ以上罪を犯さないように、動かなければならないかもしれませんね。

 あなたの人間の人生における経験が、あまりにも無知なため、自分の世界だけで物事を考えるようになっているのかもしれません。
 児童虐待(?)も、あなたの心を蝕んできたのかもしれません。
 でも、自分の精神が少し異常であることを、よく認識しなければ。他の人がどうのこうのと言っている場合ではありません。

 あなたの中では終わりの日はどうなっているのですか?
 エホバの業は? 聖書的な学びは? 自分の霊性を高めているのですか?
 やるべき事、やっていなければ、私たちは誰も成長しません。
 人のことをごちゃごちゃ言うより、自分とエホバとの関係に目を留めて、組織の霊的食物をきちんと食べるようにしてください。

 でも、私としましては、私や他の人への、また、エホバのみ名を辱めるような所業は、許しがたいものがあります。組織に対しても。
 なので、もう少しして時間ができたら、兄弟の所業をやめさせるつもりです。
 法的なところまでするかどうかは兄弟の出方で検討します。

 あなたは、たとえ病気があるとしても、やりすぎです。
 そして、ブログに書いてることも無茶苦茶です。
 こんなデタラメで恥ずかしい文面をよく作っているなと思います。
 勝手に作った真実をいっぱいくっつけて、その人の評価を落とす、サタンに用いられているなと思います。

 ただ、本当に助けが必要な時は助けを求めてください。
 完全に孤立しないように。

 では、エホバによく祈るように。自分の心を率直に打ち明けるように。祈りを忘れないでください。
 自分の過ちを正しく見つめられるように、神の言葉を調べてください。






#260

◇ 2025年01月25日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは依然として、自分の問題を少しも認めず、逆に、私のことを悪く言っています。
 私に対して、あなたは視野が狭い、妄想を言っている、聖書の勉強が足りない、悪魔サタンに使われている、などと主張しています。
 私のことを精神病患者でもあるかのように言うことさえしています。
 あなたはいつも、あなたの悪を指摘する人に向かって闘争を挑み、「私は悪くありません」、「悪いのはあなたです!」と言っています。
 今回もあなたの振る舞いはいつも通りで、よくなる様子がまったくありません。

 あなたは「これはやりすぎだ」と苦情を言いますが、私のやり方は順当です。
 相手があなただからです。あなたはほかの人とは違います。
 あなたに対して、常識の範囲内で説得を行っても、まったく効果はあがりません。あなたが常識の通用しない人間だからです。
 むしろ逆に、状況は悪化してしまいます。仮に私が常識を守っても、あなたのほうは常識など無視するからです。
 あなたに対して何か意義のあることをしようとしたら、常識を踏み越えなければなりません。
 ですから、これは私ではなくあなたの側の問題です。

 今回、常識を踏み越えてあなたを説得することについて、また「やりすぎ」であることについて、努力が大幅に不足であることが明らかになりました。
 私は、境界性パーソナリティー障害の告白をお願いしましたが、完全に無視されました。そのあと、「死亡退院」について話しましたが、これも完全に無視されました。
 これらはどれも非常に重要な内容ですが、それでも完全に無視されました。
 今までのやり方では、何も効果が上がりません。効果を上げるためには、もっと常識の限度を踏み越えたことをしなければなりません。
 そうしなければ、私はあなたを救うことができません。

 そこで、2点、新たな方針を追加することにしました。
 まず、今後は、あなたの異常な行動について、もうすこし具体的な指摘を行うことにします。
 これまでは、あなたの異常行動について繰り返し指摘しても、その具体的な事例への言及は避けていました。しかし今後は、あなたの異常行動の事例を取り上げ、何が異常なのか、どう異常なのか、どれくらい異常なのか、どれくらいの被害が生じているのか、生々しく指摘することにします。
 さらに、今後は、あなたに対して、「あなたには精神異常の振る舞いがあります」、「あなたは精神異常者です」という具合に、あなたの異常性をより正しく説明する、そして手厳しい言い方を用いるようにします。

 このような方針は、常識の範囲を大幅に逸脱していて、社会のルールに照らしても大きな問題があります。
 私は、このような行動をとることで、会衆から排斥になるかもしれません。あるいは警察に逮捕されるかもしれません。裁判で有罪とされ刑務所に入れられるかもしれません。
 しかし、私はそういったことを恐れません。なぜなら、これはあなたのために必要なことだからです。私は、あなたのために自分ができることを尽くしたのなら、自分の身が滅びてしまってもかまいません。
 もちろん、あなたは私に対して法的な処置を行うことができます。あなたにはそうする権利があります。私がそれを阻むことはありません。






#261

◇ 2025年02月01日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 新しい方針が定まりましたので、具体的に何を書くか、検討しているところです。
 少なくとも現状では、何でも書くというわけにはいきまんし、何でもネットに掲載するということもできません。
 何があなたにとってふさわしいか、あなたの助けになるか、慎重に検討しています。
 もちろん、こういった手厳しい処置は、ないにこしたことはありません。
 もし、あなたが、今からでも前向きな態度を示されるなら、方針の見直しをすることができます。
 直近では、私はあなたに、告白のお願いと、死亡退院についてのお知らせをしましたが、返信がありません。
 この2点について、あなたの返信を待ちたいと思います。






#262

◇ 2025年02月01日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 時間ないから、簡潔に。
 兄弟、ズームに入れるみたいですよ。知ってましたか?
 もし、兄弟がズームに入ったら、私の葛藤するコメントも聞けるかもしれませんね。

 それと、兄弟のことを発達障害だと話してるのは姉妹ですよ。
 私は発達障害の人を全く見下さないけど、兄弟は違うほうの病気だと思っています。何かわからないけど。
 そして、兄弟の言う通り、姉妹が兄弟に与えてきた理不尽な言動は、とてもひどい事と思っています。
 とにかく、兄弟にある心の歪みは、子供の頃から扱われてきたその扱われ方に起因しているのかもしれません。
 それって本人にしか解らない深い傷です。
 傷を持つ人には、ある程度理解できますが。

 私に言わせると、仲間のでたらめな部分を含め、必ず神がふさわしい時に正されますので、できるだそこに目を留めないで、自分とエホバとの関係を大切にするために、霊的な食物を食べ続ける。そして信仰を失わないように、自分の心の状態に気をつけて生きていくというのが、今の兄弟に必要だと思います。
 もちろん、私自身も。

 では、暖かいものをしっかり食べて免疫高めてください。



 私が発達障害者だという話が出てきました。どうやら母が言っているらしいです。

 私は“発達障害のように見えるが実はそうでない人”です。このタイプの人は、この文書ですでに紹介している「子ども虐待という第四の発達障害」という本で扱われ、広く知られるようになりました。
 「第四の発達障害」とは、幼少期から親による虐待を受け、虐待によってしつけられた結果、あたかも発達障害であるかのような思考や振る舞いをするようになってしまった、という人を指す語です。これは、私の母が「他者に負わせる作為症」であることと関連があります。
 「第四の発達障害」は、本質的に虐待による被害を指す語で、障害を指してはいません。

 第四の発達障害を加速させる要素の一つに、虐待者に協力するコミュニティの存在があります。私の場合、寺方会衆がそれにあたります。
 集団で実行される虐待の結果による第四の発達障害において非常に特徴的となっているのは、被害者に対して加害者たちが「自分たちは保護者であり援助者である」という振る舞いをすることです。これには、私がこの文書にて指摘した「転回」が関係しています。「善良な攻撃性パーソナリティ」も関与しているでしょう。
 しばしば彼らは、自分たちが虐待する子供についてこのようなことを言います。
 「この子は知的障害者なんです。(あるいは、発達障害者なんです。) それでこの子には手厚い世話が必要です。私たちはその世話に取り組んでいます。」
 「この子が何か被害のようなことを訴えるのを聞いたかもしれませんが、それは、この子が知的障害者だからです。(あるいは、発達障害者だからです。) この子は、自分が世話を受けているということが理解できないんです。この子が虐待されているなどということはありません。」
 一方、そのような“世話”をよく観察すると、実際には集団で虐待が行われていることが判明します。たとえば、その子に必要なものが取り上げられていてコミュニティの中でその子にだけ与えられていない、というような具合です。そのようなとき加害者たちは、「これはしつけなんです。障害を持つこの子にはこのようなしつけが必要です。」などと言うかもしれません。そのような“しつけ”は入念に実行され、しつけによって訓練された子供は第四の発達障害を発達させていきます。
 さらに、そのコミュニティは、虐待の核となっている親を人格者として扱い、敬意を払います。彼らはこのように言います。
 「この方は、知的障害者の子供を持って、(あるいは、発達障害者の子供を持って、) たいへん苦労しながら、立派に子供を育てています。」
 「私たちは、子供のために、親に対する協力を惜しみません。」

 近年、私のような人を指して「発達障害」あるいは「発達性」という言葉を用いることは、医学的に正しくなく、そのうえ尊厳を損なうから、あってはならないと考えられるようになっています。「第四の発達障害」という語も退けられつつあります。今、私のような人を定義する的確な用語はありません。
 また、児童虐待の被害を訴える人がいた場合、その人を観察して“発達障害のように見えるが実はそうでない”人間形成が見られるなら、それはその訴えが事実であることの強力な証拠になると考えられています。その際、親や周りの人たちが虐待を否定することは、その傍証であるとみなされます。
 この時、非常に警戒しなければならないのは、加害者たちが被害者のことを精神疾患者呼ばわりすることです。彼らはこのように言うでしょう。
 「この子は小さい時から頭がおかしいんです。それで自分は被害者だと思い込むんです。この子のする話はほとんどが作り話です。この子の言うことを信じてはいけません。」

 そのようなわけで、私はコミュニティによって育まれた第四の発達障害の典型例です。また、寺方会衆は第四の発達障害を育むコミュニティの典型例です。

 実のところ、このようなことを指摘する声は常にありました。「おかしいのはこの子じゃない、この子の育て方のほうだ」とか、「こんな育て方をして子供が普通に育つはずがない」といった非難の言葉は多方面からありました。寺方会衆の人たちがそう言うことさえ何度もありました。ところが、寺方会衆はその声を聞き入れず、こういった指摘は常に従来の見解によって上書きされることになります。
 こうして、寺方会衆は同じ態度を取り続け、現在のこの状況に至っています。
 私がこの文書を書き始めてからそろそろ6年になるわけですし、今の時点で私のことを発達障害者だと呼ばわる人が寺方会衆にいるのは相当な問題だと思います。

 彼女は巡回監督の後ろ盾を得て獲得した集会での発言権をしっかり活用しておられるようです。
 この方の話術は見ての通りですから、寺方会衆の集会はかなりカオスなことになっているだろうと思いました。






#263

 カオスということについて、ますます気にするようになってしまいましたので、ここでひとつ妄想でも書いてみたいと思います。

 私は、彼女が集会でどういう発言をしているか全く知りません。しかし、彼女の考え方や行動パターンは知っていますので、何が起こっているか予想することは容易です。

 発言権が与えられて、彼女がまず取り組むのは、自分の清廉さをアピールすることでしょう。自分が善良であること、正しいことにこだわりがあること、正直であること、思いやり深いこと、いつも人の助けになるために努力していることを語ります。「私の心は純粋で、エホバと全く一致していて、汚れがありません」、「そのようなわけで、私はエホバから深く愛されています」というような宣言を、臆することなく堂々と語ります。最初のうちは、集会の度にそのような発言を繰り返します。
 そのうち彼女は、その純真さゆえに私は悪魔サタンから狙われ攻撃されてきた、と話を進めるでしょう。サタンからの迫害の道具になっているのは長老たちです。しかし、エホバが彼女の味方になり、彼女を保護します。エホバの保護のおかけで、多くの長老たちは失脚を余儀なくされていますし、まだ処罰を受けていない長老たちも、いずれエホバの厳しい裁きに直面することになります。
 さらにしばらくすると、そんな彼女にとっての憂いが語られるでしょう。彼女はいつも、会衆内の弱い人たちを救おうと必死です。そのような人たちは皆、会衆と長老たちによって迫害されている人たちです。彼女はその生涯を通じて、弱い人たちを救うために奮闘してきました。その努力のせいで多くの迫害を受けてきましたが、くじけたりはしません。
 ついに彼女は、会衆に対して「あなたたちの罪は重く、悔い改めが必要です。救われるために私の言葉を聞いて従う必要があります。」 などと言うようになるでしょう。寺方会衆に対する彼女の愛と同情心は膨らみ続け、はちきれんばかりになります。
 彼女のこのような振る舞いを見て、やめるようにと忠告する人もいるでしょう。しかし彼女は反論して言います。「私は何も間違ったことは言っていません。それなのにどうして黙らなければならないんですか。私は間違ったことが大っ嫌いですから、何を言われても決して引き下がりません。私はエホバ以外の誰も恐れません。エホバだけに従います。」
 充分に土台を据えたところで、ついに彼女は宮原兄弟のことを取り上げます。
 彼女はこう語ります。「私は今、宮原兄弟を助けようと努力しているところです。宮原兄弟の心はかたくなで、私の言葉を聞き入れませんが、私はあきらめません。」 さらにこう言い放ちます。「私が宮原兄弟を助けようとこれほど努力しているのに、寺方会衆の皆さんはどうして協力してくれないんですか!」
 このような事態に至ると、寺方会衆の直面する混乱はひどくなり、手の施しようがなくなってしまうでしょう。もちろん、それによって私が助かるということにはなりません。

 すでに何度も見ているように、この方は、私の説得を拒絶して対立を深めながらも、私に対する同情と励ましの言葉だけは絶やさないよう努力しています。しかも、かなり真剣にやっています。
 なぜ彼女がそうするかというと、それが彼女の生き様だからです。そして、その目的は普通の人が理解するようなものではありません。この人は弱い人を踏み台にしようとしているのです。彼女の思う通りになれば、彼女は自分を称賛し、それ以外の人たちは人生の破綻を見ることになります。

 もちろん、私はこの話をどこかで見たり聞いたりしたのではありません。これは私の妄想です。






#264

◇ 2025年02月08日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 私が発達障害者であるという指摘がありましたので、この件に関する情報をいくらか書いて公表することにしました。
 あなたへの返信ではなく、ネットへの掲載にて行います。この情報は全ての方が閲覧することになります。
 さらに、もし今後必要が生じれば、追加の公開もします。

 というのも、私はあなたと違うからです。
 あなたは、自分の都合の悪いことからは逃げ回る卑怯者です。しかし私はそうではありません。
 あなたは、自分の問題を隠そうとして、嘘を言い並べたり、話をはぐらかしたりします。私はそのようなことはしません。
 私はあなたと違い、堂々としています。こそこそ振る舞いませんし、逃げたりもしません。
 あなたは嘘つきですが、私は正直者です。
 あなたは不遜ですが、私は謙遜です。

 嘘つきで卑怯者であるあなたは、まだ、私の言葉を無視し続けています。
 私はあなたに、告白のお願いと、死亡退院についてのお知らせをしましたが、返信がありません。
 このような振る舞いから、あなたがどれほど醜悪な人であるか、危険な人であるか、見て取れます。
 あなたの周りにいる多くの兄弟姉妹が、あなたのことを軽蔑し、無視しているのも当然です。
 ある人はあなたのことを、人間の出来損ない、などと言いますが、これも順当でしょう。






#265

◇ 2025年02月15日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは、私の言葉を無視し続けています。
 これまで、多くの言葉を語ってきましたが、きちんとした返答が得られていません。
 しかも、私のことを、発達障害者だ、別の病気を持っているというような話をされました。
 そこで、私は自分についての情報をネット上に公表することにしましたが、あなたは黙ったままです。
 あなたは、他人には自分の罪を告白させますが、自分は告白しません。
 あなたは、他人には自分の病気を告白させますが、自分は告白しません。
 あなたは常々異常な言動を繰り返しています。
 その異常さを指摘する人に対して、あなたは悪人だと言い返します。
 しかし悪人なのはあなたのほうです。
 あなたの異常さを指摘する人に対して、あなたは病気だと主張します。
 しかし病気なのはあなたのほうです。
 あなたの言っていることは異常だ、と抗議します。
 異常なのはあなたです。
 私はあなたに、告白のお願いと、死亡退院についてのお知らせをしましたが、無視されたままです。
 あなたは、自分の都合の悪いことからは逃げ回る卑怯者です。
 これらのことは、記録に残ります。ネットに掲載され、人々が見ることになります。
 人々は、あなたが嘘つきで、卑怯者で、異常者であることを知ります。

 すでにお伝えした新しい方針について吟味しました。
 次のメールから、あなたの作為症の振る舞いについて書くことにしました。
 これまで、あなたの言動に異常性があることを繰り返し指摘してきましたが、具体的なことを指摘することは控えてきました。
 今後は、あなたの異常性について、具体的な話をすることになります。
 しかし、その前に、さらに2週間待ちたいと思います。
 あなたの対応次第では、方針の変更もあり得ます。
 私は希望を抱いてあなたの返信をお待ちします。






#266

◇ 2025年03月01日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 2週間が過ぎましたので、方針通り、作為症について書くことになりました。
 ネットのほうでも、線維筋痛症と作為症との関連について、解説が掲載されています。

 あなたは、集会に参加するために、自転車に乗って王国会館に来ます。
 王国会館に着いて、自転車から降りると、不思議なことが生じます。うまく歩けなくなるのです。
 自転車を降りてから王国会館に入っていくまでは、とてもたいへんです。
 あなたは、杖を持ち、ふらついて、何度も倒れそうになりながら、何とか王国会館入口までたどり着きます。
 兄弟姉妹たちは不審に思います。この人は、自転車はうまく走らせるのに、歩くのは困難なのです。そんなことがあり得るでしょうか。
 兄弟姉妹たちは観察して、歩き方もおかしいことに気づきます。
 あなたの歩き方は、うまく歩けない人の歩き方ではありません。うまく歩けない芝居をする人の歩き方でもありません。それは、自分で自分の歩きを邪魔している人の歩き方です。
 車を運転する時にアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなことを、あなたは、歩くときにやります。うまく歩けないのはそのせいです。
 ですから、あなたが王国会館前で歩く様子は、異常なことこのうえなく、どこまでも奇妙です。

 あなたがこのような振る舞いをするのは、それが芝居であることを周囲に見せつけるためです。見せつけるのは、周囲の人々との戦争を開始するためです。
 作為症を持つ人の中には、芝居が非常にうまくて、医者でさえも簡単には正体を見抜けないという方がいます。しかし、あなたはそうではありません。
 あなたは、自分が作為症であることを大々的にアピールするタイプの作為症です。作為症の振る舞いをする時には、必ず正体がばれるように露骨にやります。
 そのようにすることで、周囲の人たちの拒絶反応が得られます。
 ある人はあなたに直接苦情を言うでしょう。またある人はあなたの振る舞いを注意するでしょう。あなたが精神異常者であるという噂を周囲に広める人もいるでしょう。
 こうして、あなたは周囲の人たちに対する戦争を始めることができるようになります。

 あなたは声を大きくして抗弁します。
 「これは芝居ではありません!」
 「私はほんとうに病気なんです!」
 「私は作為症ではありません!」
 「どうしてあなたたちはこんなにひどいことを言うんですか!」
 さらにあなたは主張します。
 「私は持病のせいで嫌がらせや迫害を受けています。」
 「私を迫害する人たちは悪魔のようです。」
 「しかし私は、心が純粋で、エホバから愛されています。」
 「エホバが私を支えます。ですから私は決して負けません。」

 あなたが王国会館から家に帰るときには、逆の手順がとられます。
 あなたは、うまく動かない自分の体に鞭打って、自転車まで一生懸命歩いていきます。
 自転車のところまでたどり着くと、自転車に乗ってさっそうと帰っていきます。

 王国会館の近くには役所があり、その横には公園があります。
 王国会館を出入りする兄弟姉妹たちは、公園の脇に自転車が置かれていることに気づきます。そして公園を見て、あなたがストレッチ運動をしているところを目撃します。
 あなたは、王国会館で芝居をする前後に、公園で体調と気分を整えます。
 そのようにして体調管理をしているところを、兄弟姉妹たちに見せつけるのです。
 兄弟姉妹たちは、その様子を見て、心底うんざりします。

 私が知っている範囲でも、あなたは10年以上、実に辛抱強くこの振る舞いを続けました。
 実際にはもっと長くやっていると聞きます。寺方会衆の集会に現れない時期は、周辺の会衆に現れて同じことをやっていたらしいです。

 もちろん、あなたの異常な振る舞いは、王国会館の前だけで披露されるのではありません。
 次は、あなたが王国会館に入ってから、その中での振る舞いについて書きます。






#267

◇ 2025年03月03日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟のメール見てません。
 嘘ばかり書いているから、また人の気持ちをそぐようなことばかり書いて、人の気持ちを傷つけようとしているから。
 いつか直接話しましょう。先だけどね。
 1つ言えるのは、エホバが兄弟の言動をとても不快に思っていること。
 気をつけたほうがいいよ。エホバは憐れみぶかいけど、憐れみのない人の言動は、必ず裁かれるから。
 親切にしてくれる人をひどく扱うなら、なおさら!
 では、よく祈りでエホバに近づいてください。よく謝らないとダメだと思うけど…



 読んだんじゃないでしょうか。
 この方の場合、読むか読まないかは、まず読んで内容を把握してから決めると思います。読んで、都合がいいなら弁明し、都合が悪いなら無視し、非常に都合が悪いなら見なかったことにするという具合です。
 読まなかったことにする時には、読みませんでした、と堂々と言ってのけることになります。彼女は正直者ですから、その言葉が嘘であることはあり得ません。疑う人に対しては、「私は嘘が大っ嫌いです」とか「私の心はエホバと一致しています」などと抗弁します。

 この人、このあともいつもどおりに作為症の振る舞いをするのでしょう。読まなかったと言っているのに、次の日から行動が変化したら、おかしいじゃないですか。

 何かを知っているのに無視することにしたなら、それを知らないかのように振る舞わなければなりません。
 この原則は、彼女と寺方会衆の振る舞いを強く支配していると思います。
 この原則を貫くことができる精神構造を持った人たちがいます。今になって私が思うに、そのような人たちを救う方法はもともとなかったのかもしれません。






#268

◇ 2025年03月08日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 メールを読まなかったとのことですので、いくらか内容を手直ししたうえで、再度送信することにしました。
 あなたが、その異常な言動を改め、よくなっていくために、必要な内容です。読み漏れがないようにしてください。

 あなたは、自転車に乗って王国会館に来ます。
 王国会館に着いて、自転車から降りると、不思議なことが生じます。うまく歩けなくなるのです。
 自転車を降りてから王国会館に入っていくまでは、とてもたいへんです。
 あなたは、杖を持ち、ふらついて、何度も倒れそうになりながら、何とか王国会館入口までたどり着きます。
 兄弟姉妹たちは不審に思います。この人は、自転車はうまく走らせるのに、歩くのは困難なのです。そんなことがあり得るでしょうか。
 兄弟姉妹たちは観察して、歩き方もおかしいことに気づきます。
 あなたの歩き方は、うまく歩けない人の歩き方ではありません。うまく歩けない芝居をする人の歩き方でもありません。それは、自分で自分の歩きを邪魔している人の歩き方です。
 車を運転する時にアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなことを、あなたは、歩くときにやります。うまく歩けないのはそのせいです。
 ですから、あなたが王国会館前で歩く様子は、異常なことこのうえなく、どこまでも奇妙です。

 あなたがこのような振る舞いをするのは、それが芝居であることを周囲に見せつけるためです。見せつけるのは、周囲の人々との戦争を開始するためです。
 作為症を持つ人の中には、芝居が非常にうまくて、医者でさえも簡単には正体を見抜けないという方がいます。しかし、あなたはそうではありません。
 あなたは、自分が作為症であることを大々的にアピールするタイプの作為症です。作為症の振る舞いをする時には、必ず正体がばれるように露骨にやります。
 そのようにすることで、周囲の人たちの拒絶反応が得られます。
 ある人はあなたに直接苦情を言うでしょう。またある人はあなたの振る舞いを注意するでしょう。あなたが精神異常者であるという噂を周囲に広める人もいるでしょう。
 こうして、あなたは周囲の人たちに対する戦争を始めることができるようになります。

 あなたは声を大きくして抗弁します。
 「これは芝居ではありません!」
 「私はほんとうに病気なんです!」
 「私は作為症ではありません!」
 「どうしてあなたたちはこんなにひどいことを言うんですか!」
 さらにあなたは主張します。
 「私は持病のせいで嫌がらせや迫害を受けています。」
 「私を迫害する人たちは悪魔のようです。」
 「しかし私は、心が純粋で、エホバから愛されています。」
 「エホバが私を支えます。ですから私は決して負けません。」

 あなたが王国会館から家に帰るときには、逆の手順がとられます。
 あなたは、うまく動かない自分の体に鞭打って、自転車まで一生懸命歩いていきます。
 自転車のところまでたどり着くと、自転車に乗ってさっそうと帰っていきます。

 王国会館の近くには役所があり、その横には公園があります。
 王国会館を出入りする兄弟姉妹たちは、公園の脇に自転車が置かれていることに気づきます。そして公園を見て、あなたがストレッチ運動をしているところを目撃します。
 あなたは、王国会館で芝居をする前後に、公園で体調と気分を整えます。
 そのようにして体調管理をしているところを、兄弟姉妹たちに見せつけるのです。
 兄弟姉妹たちは、その様子を見て、心底うんざりします。

 私が知っている範囲でも、あなたは10年以上、実に辛抱強くこの振る舞いを続けました。
 実際にはもっと長くやっていると聞きます。寺方会衆の集会に現れない時期は、周辺の会衆に現れて同じことをやっていたらしいです。

 もちろん、あなたの異常な振る舞いは、王国会館の前だけで披露されるのではありません。
 次は、あなたが王国会館に入ってから、その中での振る舞いについて書きます。



◇ 2025年03月08日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

宮原です。

 メールを読まなかったとのことですので、いくらか内容を手直ししたうえで、再度送信することにしました。
 あなたが、その異常な言動を改め、よくなっていくために、必要な内容です。読み漏れがないようにしてください。
 あなたは、自転車に乗って王国会館に来ます。
 王国会館に着いて、自転車から降りると、不思議なことが生じます。うまく歩けなくなるのです。
 自転車を降りてから王国会館に入っていくまでは、とてもたいへんです。
 あなたは、杖を持ち、ふらついて、何度も倒れそうになりながら、何とか王国会館入口までたどり着きます。
 兄弟姉妹たちは不審に思います。この人は、自転車はうまく走らせるのに、歩くのは困難なのです。そんなことがあり得るでしょうか。
 兄弟姉妹たちは観察して、歩き方もおかしいことに気づきます。
 あなたの歩き方は、うまく歩けない人の歩き方ではありません。うまく歩けない芝居をする人の歩き方でもありません。それは、自分で自分の歩きを邪魔している人の歩き方です。
 車を運転する時にアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなことを、あなたは、歩くときにやります。うまく歩けないのはそのせいです。
 ですから、あなたが王国会館前で歩く様子は、異常なことこのうえなく、どこまでも奇妙です。
 あなたがこのような振る舞いをするのは、それが芝居であることを周囲に見せつけるためです。見せつけるのは、周囲の人々との戦争を開始するためです。
 作為症を持つ人の中には、芝居が非常にうまくて、医者でさえも簡単には正体を見抜けないという方がいます。しかし、あなたはそうではありません。
 あなたは、自分が作為症であることを大々的にアピールするタイプの作為症です。作為症の振る舞いをする時には、必ず正体がばれるように露骨にやります。
 そのようにすることで、周囲の人たちの拒絶反応が得られます。
 ある人はあなたに直接苦情を言うでしょう。またある人はあなたの振る舞いを注意するでしょう。あなたが精神異常者であるという噂を周囲に広める人もいるでしょう。
 こうして、あなたは周囲の人たちに対する戦争を始めることができるようになります。
 あなたは声を大きくして抗弁します。
 「これは芝居ではありません!」
 「私はほんとうに病気なんです!」
 「私は作為症ではありません!」
 「どうしてあなたたちはこんなにひどいことを言うんですか!」
 さらにあなたは主張します。
 「私は持病のせいで嫌がらせや迫害を受けています。」
 「私を迫害する人たちは悪魔のようです。」
 「しかし私は、心が純粋で、エホバから愛されています。」
 「エホバが私を支えます。ですから私は決して負けません。」
 あなたが王国会館から家に帰るときには、逆の手順がとられます。
 あなたは、うまく動かない自分の体に鞭打って、自転車まで一生懸命歩いていきます。
 自転車のところまでたどり着くと、自転車に乗ってさっそうと帰っていきます。
 王国会館の近くには役所があり、その横には公園があります。
 王国会館を出入りする兄弟姉妹たちは、公園の脇に自転車が置かれていることに気づきます。そして公園を見て、あなたがストレッチ運動をしているところを目撃します。
 あなたは、王国会館で芝居をする前後に、公園で体調と気分を整えます。
 そのようにして体調管理をしているところを、兄弟姉妹たちに見せつけるのです。
 兄弟姉妹たちは、その様子を見て、心底うんざりします。
 私が知っている範囲でも、あなたは10年以上、実に辛抱強くこの振る舞いを続けました。
 実際にはもっと長くやっていると聞きます。寺方会衆の集会に現れない時期は、周辺の会衆に現れて同じことをやっていたらしいです。
 もちろん、あなたの異常な振る舞いは、王国会館の前だけで披露されるのではありません。
 次は、あなたが王国会館に入ってから、その中での振る舞いについて書きます。

 自分が送ったものは、どんなものか、じっくり見てみましょう。



 どんなものかというと、それはもう極めて極めて異常な内容だと思います。
 人の想像できる範囲、許容できる範囲を逸脱しています。






#269

◇ 2025年03月15日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 返信を受けましたが、内容がほとんどなかったため、趣旨を把握するために質問状を送付することにしました。
 回答をお願いします。

 私は、あなたが自転車に乗って王国会館に来ると書きました。これは事実でしょうか。それとも事実ではないでしょうか。事実でない場合、それは私が妄想して書いたことでしょうか。
 さらに、自転車を降りると歩くのが困難になると書きました。これはどうでしょうか。
 歩く際に、杖を持ち、何度もふらつく、という点はどうでしょうか。
 自転車はうまく走らせるのに歩くのは困難だ、という指摘は、多くの人が常々言ってきたことですが、そのような指摘が常々あったというのは事実でしょうか。それとも、私がそのような話を創作しているのでしょうか。あるいは、会衆の長老たちや兄弟姉妹たちがあなたのことを中傷して嘘を広め、私がその内容を真に受けているのでしょうか。
 歩き方が不自然であるというのはどうでしょうか。それは正確な指摘でしょうか。それとも何かの誤認でしょうか。あるいは悪意ある言いがかりでしょうか。

 あなたが抗弁していることはどうでしょうか。あなたはそのような抗弁をしたことがあるでしょうか。それとも、抗弁したことはないでしょうか。
 抗弁の際に、「これは芝居ではありません」と主張したというのは事実でしょうか。
 「私はほんとうに病気なんです」と主張したというのは事実でしょうか。
 「私は持病のせいで嫌がらせや迫害を受けています」と主張したというのは事実でしょうか。
 これらの内容がどれも事実でない場合、その作り話の発生源は誰でしょうか。私がそれを妄想したのでしょうか。それとも、あなたに対する中傷を言い広める人たちが会衆内にいて、私に悪影響を及ぼしたので、私は作り話を信じるようになったのでしょうか。会衆内の嘘が原因である場合、その嘘の発生源は具体的に誰でしょうか。そのような人は一人でしょうか。あるいは複数でしょうか。会衆内のほとんど全員がそのような嘘を広めているということはあるでしょうか。
 近くの公園でストレッチをしているという内容はどうでしょうか。それは心当たりのないことでしょうか。それとも心当たりのあることでしょうか。
 このような振る舞いが少なくとも10年は続いたというのはどうでしょうか。そのような話は根本的に存在しないでしょうか。それとも、少なくとも該当する事実が存在するでしょうか。あるいは、まったくその通りでしょうか。

 質問に回答するにあたっては、次の点をよく考慮してください。
 回答は、項目ごとに、できるだけ具体的に、かつ的確に、かつ詳細に、お願いいたします。
 記述の際には、エホバとイエスは嘘を強く憎んでいるということを、繰り返し思い起こすよう心がけてください。
 記述の際には、嘘をつくなら悪魔サタンを喜ばせるということを、繰り返し思い起こすよう心がけてください。

 加えて、さらに追加の方針が決まりましたので、お知らせします。
 これまで、ネットへの掲載については、意図的にスケジュールを遅らせていました。
 それはあなたを気遣ってのことです。
 いったん掲載されてしまうなら、その内容は広く知られ、あなたにとってたいへんな不名誉になります。私としては、そうなってほしいと願っているわけではありません。
 それで、そのスケジュールをできるだけ遅らせたうえで、あなたの対応によっては、中断したり、すでに掲載したものを撤去することを用意していました。
 そのようなわけで、今の時点でおよそ3か月分の原稿が溜まっています。
 しかし、現状ではあなたからのよい対応がいただけていません。
 そこで、今後は、掲載の頻度を、少しですが早くすることにしました。
 もし、あなたから何らかの前向きな対応がいただけるようでしたら、また掲載の頻度を戻すことができます。さらに状況がよくなれば、掲載の中断、撤去も考えています。



◇ 2025年03月22日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 質問状を送付しましたが、回答が得られませんでしたので、再度送付することにしました。
 回答をお願いします。

 私は、あなたが自転車に乗って王国会館に来ると書きました。これは事実でしょうか。それとも事実ではないでしょうか。事実でない場合、それは私が妄想して書いたことでしょうか。
 さらに、自転車を降りると歩くのが困難になると書きました。これはどうでしょうか。
 歩く際に、杖を持ち、何度もふらつく、という点はどうでしょうか。
 自転車はうまく走らせるのに歩くのは困難だ、という指摘は、多くの人が常々言ってきたことですが、そのような指摘が常々あったというのは事実でしょうか。それとも、私がそのような話を創作しているのでしょうか。あるいは、会衆の長老たちや兄弟姉妹たちがあなたのことを中傷して嘘を広め、私がその内容を真に受けているのでしょうか。
 歩き方が不自然であるというのはどうでしょうか。それは正確な指摘でしょうか。それとも何かの誤認でしょうか。あるいは悪意ある言いがかりでしょうか。

 あなたが抗弁していることはどうでしょうか。あなたはそのような抗弁をしたことがあるでしょうか。それとも、抗弁したことはないでしょうか。
 抗弁の際に、「これは芝居ではありません」と主張したというのは事実でしょうか。
 「私はほんとうに病気なんです」と主張したというのは事実でしょうか。
 「私は持病のせいで嫌がらせや迫害を受けています」と主張したというのは事実でしょうか。
 これらの内容がどれも事実でない場合、その作り話の発生源は誰でしょうか。私がそれを妄想したのでしょうか。それとも、あなたに対する中傷を言い広める人たちが会衆内にいて、私に悪影響を及ぼしたので、私は作り話を信じるようになったのでしょうか。会衆内の嘘が原因である場合、その嘘の発生源は具体的に誰でしょうか。そのような人は一人でしょうか。あるいは複数でしょうか。会衆内のほとんど全員がそのような嘘を広めているということはあるでしょうか。
 近くの公園でストレッチをしているという内容はどうでしょうか。それは心当たりのないことでしょうか。それとも心当たりのあることでしょうか。
 このような振る舞いが少なくとも10年は続いたというのはどうでしょうか。そのような話は根本的に存在しないでしょうか。それとも、少なくとも該当する事実が存在するでしょうか。あるいは、まったくその通りでしょうか。

 質問に回答するにあたっては、次の点をよく考慮してください。
 回答は、項目ごとに、できるだけ具体的に、かつ的確に、かつ詳細に、お願いいたします。
 記述の際には、エホバとイエスは嘘を強く憎んでいるということを、繰り返し思い起こすよう心がけてください。
 記述の際には、嘘をつくなら悪魔サタンを喜ばせるということを、繰り返し思い起こすよう心がけてください。

 加えて、さらに追加の方針が決まりましたので、お知らせします。
 これまで、ネットへの掲載については、意図的にスケジュールを遅らせていました。
 それはあなたを気遣ってのことです。
 いったん掲載されてしまうなら、その内容は広く知られ、あなたにとってたいへんな不名誉になります。私としては、そうなってほしいと願っているわけではありません。
 それで、そのスケジュールをできるだけ遅らせたうえで、あなたの対応によっては、中断したり、すでに掲載したものを撤去することを用意していました。
 そのようなわけで、今の時点でおよそ3か月分の原稿が溜まっています。
 しかし、現状ではあなたからのよい対応がいただけていません。
 そこで、今後は、掲載の頻度を、少しですが早くすることにしました。
 もし、あなたから何らかの前向きな対応がいただけるようでしたら、また掲載の頻度を戻すことができます。さらに状況がよくなれば、掲載の中断、撤去も考えています。



◇ 2025年03月22日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 直接話しましょう。もしくは電話で。話す時には、夫も一緒です。
 どこかでお茶しても、いいかもしれませんね。

 死の記念式のことは聞きましたか?
 4月12日です。
 巡回訪問は来週火曜日からです。
 疲れて休んでいるので、頭が回らないので、日にちが出てきません。

 お母さんとは話さないのですか? 会衆の状況とか。
 植竹兄弟もいなくなったし、新しい兄弟がきたこととか…

 じゃー、また連絡しますね。かなり疲れてるので。

 1つだけ答えておきますね。
 今、体の状況で、ずっと自転車には乗っていません。バイクだけです。

 もう少し調子が良くなったら、自転車に乗る練習をするつもりです。



 どうやら植竹兄弟は引っ越しされたようです。
 彼のことを必要としている会衆があるのかもしれません。

 いま自転車に乗っていないことは承知しています。
 これが彼女の言うように体調によるものなのかそれとも作為症によるものなのかは判別しようがありません。

 おそらくですが、母は長老からの指示で私との接触ができなくなっていると思います。
 ここに掲載した手紙を最後に母からの連絡はありません。一連の状況がありますから、私から何か連絡することもありません。
 仮に母が死んでも、長老たちの方針のせいで私のところに連絡は来ないように思います。

 さすがにこの状況で、お茶でも、はないと思います。
 また、ここには何も書きませんが、この方の夫に立会人の役目は無理でしょう。この件に関わることは何もしなくてよいと思います。

 この方、私の事情をよく知り、立派な同情も書いたのに、母と話さないんですかと言うのですから、これはかなり態度が悪いと思います。






#270

 今日、記念式の招待状と、母の書いたカードが届いていました。



◇ 2025年03月28日, 母からの手紙

エホバ神は、自分のもとに戻ってきてほしいと、ずっと待っておられます。

母より



 ここ数年、記念式の招待状だけは届いていますが、常に1通のみです。長老から招待が届く年は母から届かず、母から届く年は長老から届きません。大井一弘兄弟が「今年は個人的に」と言って招待状を送ってきたこともありましたが、ようするに、これらのことはみな長老たちが管理してやっているということです。そのようなわけで、カードの文面も、長老が母に指示して書かせているのでしょう。
 このようにして招待状だけが届くのは、長老たちが自分たちに課された規則に従っているからのようです。
 児童虐待についての通達が来た時もそうでしたが、長老たちは形式的に義務を果たし、それ以外のことは一切無視して済ませる方針のようです。

 記念式の招待には罠の側面があると思います。
 記念式に出席すると、私が“態度を改めた”ことになるという仕組みです。つまり、悪いのは私です。私が改心することですべての問題は解決されるでしょう。

 態度が悪い、ということはこの人たちにも言えます。
 児童虐待についての通達を出したというのに、そのあと母に指示して繰り返しあのような手紙を書かせるのですから。
 その振る舞いはまさに悪魔のようです。






#271

 悪魔のよう、ということについて少し書き添えたいと思います。

 私は、幼少のころから、母からの虐待を訴えてきました。それには性的なものも含まれます。
 ところが、寺方会衆の人たちはその訴えを否定し、何十年もの間私を抑圧して事実を封じてきました。
 私がそのことをネット上に告白すると、長老たちは偽りの罪状をでっちあげて私を背教者呼ばわりし、私を脅してウエブサイトを閉鎖させようとしました。
 さらに、集会で縁台から私を威嚇するようなことを言ったり、私の家までやってきて催眠術のようなことをやってみせたりしました。
 私はそれらをテキストと音声データにしてここに掲載しました。
 すると、長老たちは私を集会から排除したうえで、私が集会から去ったことにしてしまいます。

 そのうち長老たちは、規則に定められ義務付けられているのにやっていなかったことに手をつけるようになります。
 児童虐待の訴えと内容を否定しない旨の通達を、長老たちは文書にして発行しました。
 しかし、それによって長老の態度が変化することはありませんでした。

 長老たちは、私が集会から去ったという話をでっちあげましたので、私が集会に戻ってくるよう促すことにしました。
 この時に長老が白羽の矢を立てたのが母です。
 母は私に、長老たちへの反抗をやめて集会に戻ってくるよう促す手紙を書いてよこすようになりました。
 さらに長老たちは、毎年、記念式への招待状を私に送りつけるようになりました。
 直近では母が記念式の招待状を送りつけてきました。そこには「エホバ神は自分のもとに戻ってきてほしいとずっと待っておられます」と添え書きがあります。

 この一連の出来事には、悪魔的な要素がいくつもあります。
 問題の一つは、見かけの親切を実践するにあたって、長老たちが母を利用しているという点です。
 長老たちは、私が母についてどのような訴えをしているか知っています。この文書に書いている以上のことを知っています。そのうえで、あのような手紙を母に書かせています。
 平均的な良心を持っている人なら、そのような残酷なことをやってはならない、と判断できます。この長老たちにはそういう感覚がありません。
 しかも、長老たちはこの文書を読んでいます。私はここにいろいろなことを書いて長老たちの罪を晒しましたが、長老たちの意識が改まる気配は全くありません。

 私は、悪魔的であるということにおいて、母と小松姉妹と長老たちの振る舞いが一致していることに気づくようになりました。
 この一致はなんなのでしょうか。






#272

◇ 2025年03月29日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 すでにお知らせしている方針がありますので、直接の対話はしません。
 すべてのやり取りはメールで行います。
 やりとりは記録され、ネット上に公開されます。
 この方針には多くの益があります。
 私は、嘘つきに対処しやすくなります。
 人々は、あなたの正体を知ります。
 あなたは、嘘をつくことが難しくなります。
 この方針をやめることはありません。

 あなたは嘘をつくことの天才です。
 芝居をすることの天才です。
 あなたは、聞きたくない話を無視しながら、自分に都合のよいことばかりを話します。
 賢くなったり、愚かになったり、という振る舞いを繰り返して、会話が成り立たないようにします。
 作り話をし、大量の嘘を述べます。
 一つ訂正されたら、さらに大量の嘘を追加します。
 善人になったり、悪魔のようになったりして、相手を翻弄します。
 自分は正しい、と一方的に宣言し、相手を嘘つき呼ばわりします。
 エホバの名前を用いて、罵ったり、脅迫したりします。
 病気がひどいことをアピールし、死にそうになります。
 愛や憐れみを装って、人を罠にはめようとします。

 あなたの近くに、あなたと会って話をしようと思う人は、まずいません。
 寺方会衆の人たちは、あなたを無視し、避けています。
 長老たちも、あなたのことは相手にしません。
 下水管から吹き出す糞尿に浸ろうとする人はいません。
 近づくことさえしません。
 多くの人が、あなたをそのように見なし、扱っています。
 これらの人たちは、あなたがいなくなることを願っています。
 早く死んでくれたらいい、とさえ思っています。
 しかし私は、寺方会衆の人たちとは違い、あなたに望みをかけています。
 あなたが少しでもよくなるよう、希望を抱いて、あなたと対話します。
 でもやはり、会って話をすることはしません。

 あなたは、「さあ私と話し合いましょう」と言います。
 「私はまじめで、嘘が大っ嫌いです。私は正しいのですから、堂々としています。私が話し合いから逃げることはありません。」
 「もしあなたが正しいなら、私との話し合いに応じるはずです。」
 「私の考えと行動はエホバと一致して、純粋で、誠実です。あなたは私のことを誤解したり曲解したりしますが、話し合えば、問題は解決するはずです。」
 あなたがこのように言うのは、それがうまくいくやり方であることを、よく知っているからです。
 長老のような人たちでさえ、あなたには翻弄され、苦しみます。
 もちろん、話し合って問題が解決されるということはありません。問題は増えるばかりです。
 そもそもの話、あなたは、話し合って問題を解決しようなどと思っていません。口先でそう言うだけです。
 そのあと、あなたは周囲に向かって何と言うでしょうか。話し合って問題は解決しました、と言うのでしょうか。
 このように言います。
 「私は、正しいのですから、堂々と話し、一歩も譲歩しませんでした。」
 「あなたは間違っているということを、はっきりと言わせていただきました。」
 これがあなたのやり方です。






#273

◇ 2025年03月29日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 あなたの態度が悪すぎるので、また距離をとることにします。
 誠実に向き合って話すことも嫌がっているし、大人としての会話になりません。
 あなたは今、大いにサタンに用いられているので。

 あなたこそ本当は無視されているのですが、それが解らないのでしょうか?
 とにかく、あなたの悪い霊にいらだたせられることは、有益な正しいことを行う時間とエネルギーを奪います。
 あなたのことは、態度が変われば話も聞きますが、この状態では聞く気はありません。
 周りに、あなたを無視するようにと言われてもずっと関わってきたけれど、そうした、けなされている中での、私の温情でさえ、感謝の気持ちをもって受け入れようとしない、そのような、愚かさを示す人に、今の私は関わる気はありません。

 あなたが変わったら私も変わるでしょう。
 でも、今のあなたは誰にでもくってかかる、理性のない、愚かな人です。
 厳しい言い方をしますが、あなたが私にずっと罵倒してきた言葉に比べると全然マシな言い方です。

 そういうことで、私には守るべきものが多いので、そちらのほうに力を入れます。
 あなたが何を言おうと、私はエホバから愛されていますし、そのような証拠もたくさんありますし。
 申し訳ないですが、あなたと違って、日々エホバと共に歩んでいますから、何をか言わんやです。あしからず。

 私の評判を落とそうとする人は、必ず制裁を受けるでしょう。
 あなたも心しなければ、その中の1人になるかもしれません。
 私は充分お人好しですが、とことんお人好しではありません。
 自分の大切なものを守るために、愚鈍さを見せ続ける人を切り離します。

 あなたは、エホバによくお願いして、自分の間違いを正していただき、1日も早く、人を裁くのではなく自分を裁いて、心を正しくしてください。
 では、その時までさようなら。
 一応お元気で。

 自分がどういう者かを知らない、かわいそうな人。
 陰でこそこそする、陰湿なことしかできない人。
 早く、自分のおかしさに気がついて、エホバに許しを請い、サタンの惑わしから逃れられるように自分を低くしてください。

では。



 私は寺方会衆の人たちから無視されています。この文章に何度もしつこく書いていることで、理解していないということはありません。
 私のことを無視するようにと念押しして回る人がいることも知っています。おかげで最近はかなり徹底した状況になっています。
 彼女はそのことを知っていて、むしろ知っているからこそ、私が集会に参加するように仕向けたのだと思います。
 彼女の口に言わせれば、それは親切です。それなのに、私は感謝の気持ちもなく彼女を罵っています。

 彼女は、自分に降りかかる全ての罪状を否定してこのような文書を書いてしまう人です。
 彼女をとがめて逆撃を食らい、そのうえ制裁を受けてしまう羽目になった人はたくさんいるようです。それはいつも彼女の自慢する通りです。そろそろ、彼女の言う通り、私もそのリストに加わることになりそうです。






#274

◇ 2025年04月05日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたからの返信は、これまでで最も醜悪なものでした。
 私は、あなたの、王国会館前での作為症の振る舞いについて書きました。
 あなたが10年以上にわたってやってきたことです。
 多くの人がこの問題を指摘してきました。
 あなたは指摘を受けてどうしたでしょうか。異常な振る舞いを改めたでしょうか。
 あなたはその声に対抗し続けました。そして異常な振る舞いをやめません。
 そして今、あなたは私のことを罵っています。
 まるで、言われたことに全く心当たりがないかのようです。
 それが事実であることは、あなた自身が知っています。
 あなたは、わさわざ計画してこれをやっているのです。知らないはずがありません。
 途方もない努力を払い、人生を費やして、寺方会衆に見せつけたことです。なかったことになどできません。
 それなのに、あなたは否定しました。そのうえで、私を異常者呼ばわりします。
 このような仕方で悪を貫くのは、悪魔サタンの行為です。
 あなたの心は、悪魔サタンと完全に一致していて、嘘と悪意に満ちています。
 神とキリストはあなたに対して敵意を感じているに違いありません。

 私は、ほかにも多くのことを書いてきました。
 あなたには極めて異常な振る舞いがあります。人には理解できないほどの異常さです。
 しかし、あなたはそのうちの一つさえも認めていません。
 あなたはこのように言い返します。
 「それはあなたの作り話です。妄想はやめて、エホバに祈り、態度を改めましょう。」
 あなたは、自分が境界性パーソナリティ障害であることを全く認めません。
 あなたは、自分が作為症であることを全く認めません。
 あなたは、自分が嘘つきであることを全く認めません。
 長老たちへの中傷を広め、自分は正しいと宣言します。
 作り話を並べて、自分はエホバに愛されていると宣言します。
 私を罵り、自分は正しい道を進んでいると宣言します。
 そして、いかにも親切そうな振る舞いをしながら人に近づき、その人生を破壊します。
 弱い人を助けるふりをし、弱い人を踏み台にして、会衆に戦争を引き起こします。
 自分の正体が知れてしまった兄弟姉妹たちに対しては、どこまでも異常な振る舞いをさんざんに見せつけ、嫌がらせを行います。
 それらの極めて異常な振る舞いの、一つでさえも、まだ改まっていません。
 悪を貫くあなたの生き様は、悪魔サタンと完全に一致しています。

 そして、あなたは自分の賢さを披露するようになりました。
 悪魔サタンの視点からアドバイスを言えば、あなたは愚かであるというふりを続けるべきでした。
 そうすれば、私にせよほかの誰にせよ、あなたの正体を見抜くことはなかったでしょう。
 正体を暴露されることもなかったでしょう。
 しかし、あなたは、私の言葉に追い詰められると、逆に私を追い詰めようとして、賢さを発揮しました。
 こうして今、あなたは自分の正体をあらわにしています。
 あなたが異常なのは、あなたが愚かだからではありません。あなたは知的障害者の類ではありません。
 私が昔から繰り返し指摘してきたように、あなたの異常な行動は、計画して行ったことです。
 それは知恵の産物です。あなたは、その異常さを正確に理解したうえで、わざとやるのです。
 あなたの親切そうな振る舞いは、人を不幸に陥れるために仕掛けられた、巧妙な罠です。
 あなたは、内心で明確な悪意を持ち、弱い人を利用します。
 あなたのせいで弱い人の人生が破綻するのは、あなたが不器用だからではありません。
 あなたは賢いので、悪を行う時、自分は善人であるという芝居を怠りません。
 私は、そのような、あなたの正体を暴露しています。

 あなたは、親切そうな文章を書き、その心をあなたは理解しない、と苦情を述べます。
 しかしそれは、実際には罵りです。
 丁寧に読めば、気づくことです。私は欺かれません。
 あなたは、実際には罵りである言葉を、親切な励ましの言葉であるかのように書きます。
 あなたの親切そうな言葉を聞き入れる人は、実際には罵りを聞き入れたことになります。
 そのような書き方は、よほどの知恵を持ち備えていないと、できません。
 あなたは、私に対してそのような文章を書き、失敗すると、一転してこれみよがしに罵りました。
 イスラエルが300万人も死んだという話を持ち出し、エホバの名前を用いて私を呪いました。
 私と何が違うでしょうか。
 私があなたのことをかわいそうだと言うとき、それは、私はあなたのことを救いたい、という意味です。
 あなたが私のことをかわいそうだと言うとき、それは、おまえなんか死んでしまえ、という意味です。
 私は、あなたに厳しい言葉を用いますが、それはあなたを救おうとするからです。
 あなたは、私を破滅させようとして、嫌味に満ちた、親切そうな罵りの言葉を述べます。
 死んでしまえと罵る点では、あなたと寺方会衆の人たちは同じです。
 罵るにあたっては、善人であるふりをし、言葉を工夫して親切を装います。
 そのような振る舞いは悪魔サタンのものです。






#275

 罵りについて書きましたので、すこし書き加えたいと思います。

 私は生涯を通して“綺麗な罵り”に繰り返し直面してきました。
 極端な場合に見られるのは、「かわいそうに」とか「残念ですが」といった言い回しです。
 こういった本来は同情を表す言い回しを、全く異なる意味で用いる人たちがいます。
 その種の人がこのような言葉を用いたら、それは、私はあなたのことを馬鹿にしていますよ、見下げていますよ、決して同情なんかしませんよ、というメッセージです。
 綺麗な罵りを用いる人は、その罵りによって快感と満足を得ます。悲しくなったりなどしません。
 このことには、私がすでに何度も述べている「転回」が関係しています。

 たとえば、このような罵りに直面しやすい人に障害者の方々がいます。
 内心では障害者のことを馬鹿にしています、という人は少なくありません。
 そのような人の言動は二つに分類できます。汚い罵りと綺麗な罵りです。
 綺麗な罵りをする人は、内心では障害者を馬鹿にしていますが、言動ではそれを見せようとしません。それどころか、敬意を払い、世話までします。
 一見すると、その人は障害者に愛を示しているように見えます。しかし、よく観察すると、愛は存在しないことに気づかされます。
 心で敬意を払っている人に対して敬意を示す振る舞いと、心で侮蔑している人に対して敬意を示す振る舞いとには、差があります。
 それはあらゆるところに表れます。挨拶をする時、会話をする時、世話をする時、それは表れ、それが“綺麗な罵り”になります。
 障害者に対して綺麗な罵りを実践する人は、たいてい、自分のことを立派な人だと思っています。私はこんなにも善いことをしている、神とキリストも私のことを褒めてくれる、と考えます。

 自分が悪いというのに相手が悪いことにしたうえで、親切に振る舞って慰めと励ましを語り、さあ和解しましょうと招待するのも、綺麗な罵りです。
 そのような親切を受け入れた人は、実際には罵りを受け入れたことになります。

 この種の精神を持ち備えた人たちがコミュニティを形成すると、弱者に対する一種の虐待が生じることがあります。
 これは、すでに述べた「コミュニティによって育まれる第四の発達障害」の要因となります。

 寺方会衆は私と小松姉妹に対して、小松姉妹は寺方会衆と私に対して、綺麗な罵りを浴びせる者です。
 これらの人たちは自分は立派であると自認しますが、キリストの栄光には達しません。

 私はこれらの人たちに対してそのような振る舞いをしたことがありません。






#276

 この方の綺麗な罵りには、自己愛というもう一つの要素があります。
 この人は自分に称賛を集めたいのです。

 彼女は、私のことを「気持ちの解らない人」だと言って非難しますが、その意味するところには普通の感覚と大きく異なる側面があります。
 彼女は私に、親切な、そして同情に富んだ励ましの言葉を述べました。それに対して私が無反応である、あるいは否定的だ、という意味合いが含まれています。
 私が人の気持ちを理解しているかというよりは、私が彼女に感謝するかを述べています。もし私が彼女に感謝を述べたなら、私は「人の気持ちがとってもよく解る人」になることができます。
 彼女のこのような考え方は普段からその言行に現れています。

 彼女が誰かに対して親切をしたとします。同情や励ましの言葉を述べたとします。普通の人なら、親切に対する感謝を述べたいと思うはずです。
 しかし彼女は、ただ感謝してもらうだけでは満足しません。彼女にとって親切は投資です。投資した何倍もリターンがなければなりません。
 彼女が要求するのは称賛です。「あなたはなんてすばらしい人だ、立派な人だ、あなたのような人格者は他にはいない、私はあなたのことを心から尊敬します。」と言わせなければなりません。彼女はそう言わせようとして、これ見よがしに自分を宣伝し、宣伝に対する同意と称賛を要求するようになります。
 称賛を得ると、彼女はそのことを周囲に宣伝しまくります。私の善行には多くの人が感謝している、と胸を張ります。彼女の正体をよく知らない人たちは、話を聞いて彼女のことを称賛するようになります。
 感謝だけでなく称賛まで述べてしまったら、当然、口先にとどまらない行動によってその気持ちを表さなければなりません。彼女から嫌なことをされても拒絶できなくなります。彼女に感謝することにした人は、へたをすると骨までしゃぶられることになります。






#277

 この方の賢さとその背後にある悪意について指摘したことは、とても意義のあることだと思います。

 この方の周りにいる人たちの中には、彼女のことを“頭がおかしくなってしまった人”、“ものすごく頭の悪い人”というふうに理解している方がいます。
 この人が意味不明なことを言うのはそれが意味不明であることが自覚できないからだ、異様な振る舞いをするのはそれが異様であることが理解できないからだ、いかにも善人らしく振舞うのは自分が善人であると思い込んでいるからだ、話しても通じないのは話が分かるほどの知性が備わっていないからだ、と理解しています。
 それらの方たちは、この文書に掲載された文面を見て唖然としたと思います。この人ってこんな文章が書ける人だったのか、この人はこんなに賢かったか、と驚いたはずです。

 ようするに、この人の醜い言行はすべて計画してやっていることなのです。解らずにやっているということは微塵ほどにもありません。この人は思い込みが激しい、ということもありません。
 すでに私が何度も指摘している通り、この方は“計画的また演技的な境界性パーソナリティ障害”です。この方は自分の振る舞いの異常性を完璧に理解しています。
 そして、その心の底には悪意があります。それも尋常ではない悪意です。

 彼女の正体を知れば、彼女に対する認識と対応は変わるでしょう。
 これらのことはわざとやっているのですから、大目に見てやろうという気分にはならないでしょう。
 こうして、彼女の策による事件は減り、被害は少なくなるでしょう。彼女の悪行を咎めた人がその人生を破綻させてしまうことも減るでしょう。
 すでに被害にあっている人たちは、真実を知って少しばかりでも慰めを得るでしょう。すでに破綻を経験した人の中からも、名誉を回復される人が現れるかもしれません。






#277

◇ 2025年04月05日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 兄弟、私、読んでないから。
 仲間としての気持ちはあるけど、兄弟は人を傷つけることばっかりやってるし、全くエホバに従ってないし、真実を見て語るのではなく偽りばっかりで、直接話そうかと言っても逃げるし。
 私、卑怯な人間嫌いなの。大昔からね。
 クリスチャンになる前から、嘘とか卑怯とか大嫌いで、男の子とでも喧嘩してたくらい、正義感が強いの。

 兄弟が私の真実をいろいろ知ったら、多分、エホバの存在をいっぱい感じて驚くことがすごいと思う。
 そういうクリスチャンは少ないらしいけど、私はありがたいことに、たくさんの奇跡を見せてもらってる。

 でも、もうメールいらない。出さないで。
 電話で話すんだったら、いつか、OKするけど。
 じゃあさよなら。
 メールやめてね。これ、私の権利ね。

 メール消すね。
 それと、やめないと私も考えるよ。
 私は昔から女々しい人嫌いだから。しつこい人も。
 私は、エホバ以外に怖い人いないから。






#278

◇ 2025年04月12日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは、メールの受け取りを拒絶しています。
 これについては、すでに決めた方針がありますので、引き続きその通りにしたいと思います。
 私はあなたの真似をしてこう言います。
 「私は間違ったことがだいっきらいです。」
 「私は正しいのですから、引き下がりません。」
 「私は正しいことを貫きます。決してあきらめたりはしません。」
 「相手は迷惑がるかもしれませんが、私はひるみません。」
 「私が黙るということは絶対にありません。」
 「エホバは私の味方です。私は何もこわくありません。」
 もちろん、これはたいへんよくないやり方です。
 このようなことをする人は、悪魔のような人です。
 そのような人は、長老から叱責や処罰を受けます。
 私は排斥になるかもしれません。
 しかし、私はあなたのことを心配しています。
 そこで、あえてこれを言い、貫こうと思います。
 これは、あなたのやり方です。
 あなたは、これまで自分がさんざんやってきたことを、自分は断れると思っているのでしょうか。
 そのようなご都合主義な要求には同意できません。

 このメールのやり取りが始まる前、あなたは私に何を教えたでしょうか。
 私は、あなたから、文面を証拠として残すことは重要だ、と教えられました。
 自分は長老たちに対してそのようにやっている、あなたもそうしたらいい、と教えられました。
 証拠は必要な時に開示できる、と教えられました。
 ですから、いま私があなたにやっていることは、あなたが教えたとおりです。
 あなたがやり、人に教え、手本まで示したことを、あなたにはやってはいけない、などということがあるでしょうか。
 そのようなご都合主義な考え方には同意できません。
 あなたはこれまで何をやってきたでしょうか。
 ですから、私からのメールを拒絶できる道理など、あなたにはありません。権利などありません。
 普通の人にはあっても、あなたには、あるはずもありません。
 しかも、いま、あなたは、私からのメールを消去した、と言います。
 自分に都合のいい証拠は残すのに、都合の悪い証拠は消してしまうことは、認められません。
 そのような身勝手な振る舞いには同意できません。

 あなたは自慢します。  「私は、どんなに悪口を言われても、評判を落とされても、引き下がりません。」
 「どんなに迷惑がられても、やめません。」
 「私はエホバと同じです。決して諦めません。」
 ところが、私とやり取りするようになると、あなたは手のひらを返して言いました。
 「私は、こんなに悪口を言われ、評判を落とされながら、あなたとつきあうほど、お人好しではありません。」
 「私は、しつこい人が大っ嫌いです。」
 「私はエホバと同じです。あなたのことは諦めます。さようなら。」
 態度を変えたのは、都合が悪いからです。
 あなたが長老たちと戦うのは、被害者である芝居をしながら、実際には、加害者になれるからです。
 しかし、私に対しては、あなたは被害者になるばかりで、加害者になれませんでした。
 あなたは、なんとかして加害者になろうとし、いろいろ言いましたが、みな失敗しました。
 「会って話しましょう。電話でもいいですよ。」と言いましたが、相手にされませんでした。
 それでもあなたは、しつこく「話し合いましょう」と言い続けます。
 それは、あなたの、加害者になりたい、なりたい、なりたい、という願望の現れです。
 口先の勝負に持ち込めば、立場を入れ替えることができる、と目論んでいるのです。
 そのような卑劣な要求には応じられません。

 すでに何度も述べていることですが、私は覚悟ができています。
 私に対するあらゆる措置を取っていただいて結構です。
 長老に訴えても結構ですし、警察に訴えても結構ですし、裁判を起こしても結構です。
 私は排斥になるかもしれませんし、逮捕されるかもしれませんし、投獄されるかもしれませんが、それで結構です。
 私がこのような態度をとっているのは、あなたのことを救いたい、と強く願っているからです。
 私は、あなたの邪悪な正体をよく知っています。あなたを救うには、これくらいの危険を冒すことが、どうしても必要です。
 この覚悟がなければ、あなたを救うことはできません。
 あなたの救いになれるなら、私は自分の身を滅ぼしてかまいません。
 しかし、メールを拒絶することには同意しません。
 それは、全く当然のことです。
 私は、あなたの救いとなるために、これほどの犠牲を甘受するのです。
 いったい、私以外の誰が、あなたのような、誰にとっても価値のない人間のために、これほどの犠牲を払うでしょうか。
 では、そこまでして払った犠牲を、台無しにしてしまうことが、あってよいでしょうか。
 そのようなわけで、メールを拒絶することは認めません。






#279

◇ 2025年04月12日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 メール見てないよ。

 それと、今日は大切な死の記念式だよ。
 旭区民ホールの小ホールに変わったこと知ってるよね。
 7時だから絶対においでよね。

 エホバとイエスを愛してるんでしょ?
 じゃあ、何があっても来なきゃ。
 私はちゃんと歓迎するよ。
 他の人が無視しても私は歓迎するよ。
 とにかく出ておいで。

 信仰は誰のものでもない、自分とエホバのものだから、がんばれ!!
 今までの自分の信仰を無駄にするな!!
 エホバの喜ぶことを選べ!!



 どうやらこの方、話を巻き戻して初期状態に返ろうとしているように思いました。
 記念式に出席した私は無視されるかもしれないという点については、私と彼女は同意見のようです。






#280

◇ 2025年04月19日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは、またメールの受け取りを拒絶し、善人であるという芝居を続けています。
 この振る舞いは当面続くのだろう、と感じました。
 そこで、このような状況でも事態の進展を図るため、追加の方針を決定しました。
 今後は、メールの文面においても、ネットへの掲載においても、あなたの正体をより的確に説明することにします。
 あなたの邪悪さ、異常さ、だけでなく、その背後にある悪意、計画性、といった情報を、これまでより積極的に書きます。
 さらに、あなたの邪悪さを明瞭に表現する、より本質的な言葉を用います。
 あなたがメールを無視しても、そのぶんだけ、あなたの正体を暴く記述が増え、公開されることになります。

 あなたには、たくさんの悪癖があります。
 たとえば、あなたは、私は嘘が大っ嫌いです、と言います。
 それは、私は嘘が大好きです、という意味です。
 私はひどい嘘をつきます、たくさん嘘をつきます、人の悪口を広めます、芝居をして人を挑発します、作り話をして自分をほめちぎります、という意味です。
 あなたは、私は間違ったことが大っ嫌いなので引き下がりません、と言います。
 それは、私はいつも誰かに嫌がらせをしています、という意味です。
 私は人に嫌がらせをするのが大好きです、大好きです、大好きです、もうやめられません、という意味です。
 あなたは、私ほど心の正しい人はいない、と自慢します。
 それは、私はどんなに悪いことでもやってのけます、という意味です。
 悪いことをする時には善人であるふりをすればよいのです、という意味です。

 こういった言葉はみな、邪悪な宣言です。
 私はこれからこんなに悪いことを始めます、という宣言です。
 今こんなに悪いことをしています、という宣言です。
 すでにこんなにもたくさん悪いことをしたんです、という宣言です。
 これらの悪を改めるつもりなど全くありません、という宣言です。
 ですから、あなたがこのような言葉を語れば、周囲の人には、この人はまた何かひどいことをやっているんだ、ということが判ります。

 あなたは、ただの嘘つきではありません。殺意のある嘘つきです。
 あなたはいつも、自分の周囲にいる人たちが破滅することを、強く願っています。
 その強い願いをかなえるために、あなたはどうするでしょうか。
 善人であるふりをするのです。これがあなたのやり方です。
 正しい人であるふりをし、心の清いふりをします。
 そして、私はいま善いことをいっぱい行っていて今日もこんなに忙しいのです、と言います。
 私はエホバと同じなので立派なことを決してやめません、と言います。
 ですから、治さなければならないのは、嘘をつくとか、芝居をするとか、そういう表面の行動ではありません。
 内面の深いところにあって、あなたの本質であるもの、殺意です。






#281

◇ 2025年04月19日, 小松姉妹からのメール (表記等修正)

 メール見ないから電話で話そうね。
 メールって一方的なパワハラとかモラハラになるでしょう?
 それは間違ったやり方だよ。

 自分を孤立させると、精神的に追い詰められるから、できる限りいろんな人と話してください。
 王国会館に来たら、間違いなく兄弟たちと話せるよ。
 言いたいことも話せるし、質問したいことも聞けるし。
 答えてくれるかどうか、わからないけど。
 私はいつもそうしてます。

 兄弟も、なんでもそうだけど、自分の目で見て、自分の心で考えて、エホバの考えと合わせて、物事を見たらいいんじゃない?
 かなり違った景色が見えてくると思うよ。
 周りと考え方が違っていたとしても、エホバの考え方を追求していける。
 それが組織から与えられた知識だから。

 集会においで。
 誰のためでもなく、自分のために。

 兄弟が今まで聞いてきたたくさんの噂話、何の益にもならない愚かな話。
 でも、それが不完全な人間の集まりの中で、支配的な立場をとっている。

 でも、間違いなく、エホバにほんとうに従いと願っている人間は、必ずエホバが守られる。
 ほかの誰かではなく、エホバが守ってくださる。
 そんな経験、いっぱいしたくない?
 私はそれがあるから、エホバといつも一緒。
 エホバの支えは大きいよ。大きな重荷を背負っている人間にも。

 早くおいで、どこでもいいから、集会においで!!



 これまた見事なまでに清らかな文面を書いてよこしたと思います。
 そしてまた「さあ集会に行きましょう」です。






#282

◇ 2025年04月26日, 私から小松姉妹へのメール

宮原です。

 あなたは、私が現在置かれた状況を、よく理解しています。
 私の生涯がどのようなものだったか、知っています。
 問題がどのように生じたか、発展して今どうなっているか、知っています。
 私に対する、長老たちの態度、会衆の態度も、よく知っています。
 今、私が集会に行けないことを、知っています。
 このような状況で、無理をして私が集会に出向けば、何が起こるか予測できます。
 それなのに、あなたは私を集会に呼び出そうとしています。
 しかも、集会に呼び出すにあたって、あなたは、芝居をし、善人であるふりをします。
 嘘の励ましを語り、私を操ろうとしています。
 これらの言葉は、あなたの内心にある、私への殺意の現れです。
 あなたは、私の人生が破綻することを熱望しているのです。
 悪意があるからこそ、いかにも親切そうなふりをし、偽りの励ましを述べるのです。
 しかし、私は欺かれません。

 あなたの本質は、心の奥底にある、殺意です。
 あなたは、あらゆる人に対して、殺意を抱いています。
 殺意を隠すために、善人であるふりをします。
 私はいま親切をしています、というふりをします。
 これがあなたのやり方です。
 あなたが親切を実践すると、悲惨なことが次々起こります。
 あなたは、自分の正体を上手に隠しながら、悪を実践します。
 悪意があるのに、純粋である、というふりをします。
 たくらみを成功させるために、賢さがないふりをします。
 邪悪な計画など一切ない、と思わせようとします。
 そして、それはもう熱心に、悪を実行します。
 そうとう賢くなければ、そして熱意がなければ、このような芝居はできません。