新世界訳
エホバの証人の聖書

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マタイ 11:28-30

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
疲れていて,荷を負い切れない人は皆,私の所に来てください。そうすれば,爽やかにしてあげましょう。私と共に働いて,私から学んでください。私は温和で,謙遜だからです。あなたたちは爽やかさを感じるでしょう。私と共に働くことは心地よく,私が負わせる荷は軽いのです」。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」



 イエスのこの言葉には、「休む」を意味するギリシャ語が2回出てきます。この語の基本的な意味は「休む」ですが、「安らぐ」もしくは「爽やかになる」という意味もあります。
 邦訳聖書の多くは、1回目を「休む」、2回目を「安らぐ」の意味に訳します。しかし、新世界訳聖書はどちらにも「爽やかになる(安らぐ)」の訳を充てています。これはどうしてでしょうか。

 イエスはしばしば、まず要点を簡略に述べ、それから詳しく説明する、という話法を用いて教えを説きました。



マタイ 7:21-23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。



 イエスはマタイ 11:28-30でもいつもの話し方をしているようです。そうすると、そこに同じ語の繰り返しが見られるのですから、その意味は同じで、訳語も一致させなければならないということになります。
 もしこれが「休む」の意味だとすると、2回目のところで文意に無理が生じてしまうでしょう。
 そこで新世界訳聖書は、この語を一貫して「爽やかになる」と訳出しています。



◇ 新世界訳聖書スタディー版, マタイ 11:28の注釈

 「爽やかにする」に当たるギリシャ語は,休ませること(マタ 26:45。マル 6:31)も,回復して力を取り戻せるように苦労から解放すること(コ二 7:13。フィレ 7)も指せる。文脈を見ると,イエスと「共に働」くこと(マタ 11:29)には,休みではなく奉仕が関係する。イエスの言葉は,イエスが疲れ切った人に力や元気を取り戻させて,軽くて心地よいイエスの荷を持ちたいと思えるようにする,という考えを伝えている。



 多くの注解書も、ここでイエスが繰り返した言葉は同じ意味だと解説しています。

 それでも、ほとんどの聖書は、このイエスの言葉を二つに分けて訳します。前半と後半は同じことを述べているのではないということです。
 その読み方では、イエスは、現在の労苦を免除して、新しい労苦を人に授けます。新しい労苦は現在の労苦より軽いということです。この聖句はそのような意味にも読めます。

 もちろん、どのような読み方を採用した場合でも、結論として言えるのは、イエスはここで「労苦を休む」ことについて教えているのではないようだということです。人が労苦することをイエスは語っているようです。

 二段階の訳が広く支持される背景には、このイエスの言葉に対する諸教会の伝統的な態度が深く関係しているようです。
 教会に通っている方ならよくご存じだと思いますが、多くの教会で、このイエスの言葉の前半部分だけを引用して教えを説くということが横行しています。教会向けの聖書を用い、前半部分だけを読むと、イエスが人々の苦しみを根本から除去してくれるように思えますので、これはもうそういうふうに読んでしまおう、ということが流行っているのです。
 そのような教会にとって、前半部分から「休む」がなくなってしまうことはとても受け入れられないことです。このような教会の利便ために、このような訳が採用され続けているように思えます。

 また、新世界訳聖書を用いるエホバの証人たちも、このイエスの言葉から深い意味を汲み取ってはいないように思えます。

 そこで、私としては少し言い置きしたいことがあります。イエスがここで逆説を述べていたということはないでしょうか。(*この記述は2020年12月に公表されました。)



マタイ 16:24

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。



 マタイ 16:24は、クリスチャンはキリストの後を追って死ななければならない、という怖ろしいことを説いています。

 当時のユダヤ人たちは、たいへんな労苦を背負い込んでいたかもしれませんが、すぐ死ぬほどではありませんでした。それは、今死ぬことはなくても将来救いを得損なう労苦です。一方、イエスが示したのは、今死んでしまうけど将来救いを得る労苦です。どちらがたいへんな労苦でしょうか。イエスが示したほうの労苦です。それをイエスは「安らぐ」と言ったのですから、その言葉は“おとり”であって、その真実の意味は「死んでしまう」なのかもしれません。
 イエスの仕掛けた“おとり”にかかってしまった人は、キリストを信じて、楽になろうとし、幸せな気分になるでしょう。そうすると、その人はどうなってしまうでしょうか。

 私は、聖書は人を分ける本だと思います。人は、どのように聖書を解釈しても正しいということはなく、どのような信じ方をしても救われるということもなく、どんな人となりであってもキリストに喜んでもらえるということはなく、どんな生き方をしても神に報われるということもなく、どの選択肢を選ぶかによって、最終的には神による選別に直面させられるのだと思います。こうして、同じようにキリストを信じていたのだとしても、ある人は救いに達し、ある人は救いを得損ないます。聖書には、そのようにして人を分けるための仕掛けがたくさんあります。



ルカ 17:34-35

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方に言いますが,その夜,二人[の男]が一つの寝床にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。二人[の女]が同じ臼でひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです」。



 もしマタイ 16:24の言葉がマタイ 11:28-30と対応しているのだとすると、「休む」の意味は「自分を捨てる」、「魂が安らぐ」の意味は「命を捨てる」となるのでしょう。人は二度死ぬ、とイエスは言っているのです。もしあなたがクリスチャンであるとして、あなたにそのような覚悟はあるでしょうか。

 イエスはユダヤ人たちに捕らわれる前にこのように言いましたが……



ヨハネ 16:33

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方がわたしによって平安を得るために,わたしはこれらのことを言いました。世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。



 ……「征服した」という言い方の真実の意味は「殺されてしまう」です。イエスはそれによってクリスチャンが「平安」を得ると言いました。
 さらに、イエスはクリスチャンに対して招待を差し伸べます。



啓示(黙示録) 2:10-11

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはならない。見よ,悪魔はあなた方のうちのある者たちを次々に獄に入れるであろう。それは,あなた方が十分に試されるため,また十日のあいだ患難に遭うためである。忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば,命の冠をあなたに与えよう。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者は決して第二の死に損なわれることがない』。



 イエスは、あなたも征服者になりなさいと言います。それは「殺されて死になさい」という意味です。征服せよという言い方をしていますが、征服せよという意味ではないのです。

 では、イエスはいったい何を言いたいのでしょうか。少なくとも私には、それは明白であるように思えます。イエスが教えているのは、休むことでも、安らぐことでもなく、文字通りの死線を越えていけ、という残酷なことだと私は思うのです。