新世界訳
エホバの証人の聖書

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ルカ 16:10

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
ごく小さなことに忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さなことで不正をする人は多くのことでも不正をします。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。



 一般的な聖書では「大きい」となっているところ、新世界訳聖書は「多い」という訳になっています。一般の教会に通う方は、新世界訳聖書を手にして首をかしげるかもしれません。
 ここで用いられているギリシャ語は、「大きい」と「多い」の両方の意味を持っているそうです。そこで聖書の翻訳者は、この語が出てくるたびに、その意味を考えてどちらかを選択しなければならないようです。
 イエスはまず「ごく小さなこと」について語っています。この語はその対比として語られていますので、普通の感覚では、その意味は「大きい」となるでしょう。

 この「ごく小さなこと」とは具体的には何のことでしょうか。それは文脈を見ると明らかになります。



ルカ 16:9-13

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「また,わたしはあなた方に言いますが,不義の富によって自分のために友を作り,そうしたものが尽きたとき,彼らがあなた方を永遠の住みかに迎え入れてくれるようにしなさい。ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。それゆえ,あなた方が不義の富に関して忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に真実のものを託するでしょうか。そして,あなた方がほかの人の物について忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に,あなた方のための物を与えるでしょうか。どんな家僕も二人の主人に対して奴隷となることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,あるいは一方に堅く付いて他方を侮るようになるからです。あなた方は神と富とに対して奴隷となることはできません」。



 「ごく小さなこと」とはお金のことです。これは聖書によくある言い替えの手法で、不用意な読者をひっかける仕掛けとなっています。この罠に引っかかってしまうと、読者は論点とは全く別のことを考えさせられることになってしまいます。聖書にはこのような罠がたくさんありますのでよく注意したいものです。エホバの証人には「聖書の原則」という考え方が強いですので、特にそうです。



◇ 「ものみの塔」誌2005年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 この文脈から分かるとおり,ルカ 16章10節のイエスの言葉は本来,「不義の富」(つまり物質的な資産や所有物)の用い方に関するものです。この富が不義のものと呼ばれているのは,物質の富,とりわけ金銭が,罪ある人間の管理下にあるからです。また,富を得ようとする欲望は不義の行ないにつながりやすいものです。わたしたちは,物質の所有物の用い方において知恵を働かせることにより,忠実さを示せます。利己的な目的のためにではなく,王国の関心事を推し進めるために,また困窮している人たちを助けるために用いたいと思います。



 お金の使い方が立派な人は、「大きなこと」あるいは「多くのこと」を託すことができる人であるとイエスは語っています。
 このことに関連して、イエスはこのようなたとえを語っています。



マタイ 25:14-30

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
「それはちょうど,人が外国へ旅行に出るにあたり,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物をゆだねたときのようになるのです。そして,ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました。五タラントを受けた者はすぐに出かけて行き,それで商売をしてさらに五[タラント]をもうけました。二[タラント]を受けた者も同じようにしてさらに二[タラント]をもうけました。しかし,ただ一[タラント]を受けた者は,出かけて行って地面を掘り,主人の銀子を隠しておきました。
「長い時を経たのち,その奴隷たちの主人が来て,彼らとの勘定を清算しました。それで,五タラントを受けていた者が進み出,追加の五タラントを差し出して,こう言いました。『ご主人様,わたしに五タラントをゆだねてくださいましたが,ご覧ください,わたしはさらに五タラントをもうけました』。主人は彼に言いました,『よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなものに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのものをつかさどらせる。あなたの主人の喜びに入りなさい』。次に,二タラントを受けていた者が進み出て,言いました,『ご主人様,わたしに二タラントをゆだねてくださいましたが,ご覧ください,わたしはさらに二タラントをもうけました』。主人は彼に言いました,『よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなものに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのものをつかさどらせる。あなたの主人の喜びに入りなさい』。 「最後に,一タラントを受けていた者が進み出て言いました,『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。さあ,これはあなた様のものです』。主人は答えて言いました,『邪悪で無精な奴隷よ,わたしが自分のまかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っていたというのか。それならあなたは,わたしの銀子を銀行家に預けておくべきだった。そうすればわたしは,到着してすぐに,自分のものを利息と一緒に受け取っていただろうに。
「『だから,彼からその一タラントを取り上げて,十タラントを持っている者に与えよ。すべて持っている者にはさらに与えられ,その者は満ちあふれるようになるのである。しかし,持っていない者は,その持っているものまで取り上げられるのである。それで,この何の役にも立たない奴隷を外の闇に投げ出しなさい。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう』。


ルカ 19:13, 15-26

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
それでこう言われた。「ある高貴な生まれの人が,王権を確かに自分のものとして帰るため,遠くの土地へ旅行に出ました。彼は自分の十人の奴隷を呼んで,それに十ミナを与え,『わたしが来るまで商売をしなさい』と言いました。
「やがて,王権を確かに得て戻って来た時,彼は,銀子を与えておいたこれらの奴隷を呼び寄せるように命令しました。彼らが商取引きをしてもうけたものを確かめるためでした。そこで,最初の者が出て来て言いました,『主よ,あなたの一ミナは十ミナをもうけました』。それで彼は言いました,『よくやった,善良な奴隷よ! あなたは非常に小さな事において忠実であることを示したから,十の都市に対する権威を持ちなさい』。さて,二番目の者が来て言いました,『主よ,あなたの一ミナが五ミナを得ました』。彼はこの者にも言いました,『あなたも五つの都市を受け持ちなさい』。しかし,別の者が来て言いました,『主よ,ここにあなたの一ミナがあります。わたしはこれを布にくるんでしまっておきました。お分かりでしょうが,わたしはあなたが怖かったのです。あなたは厳しい方だからです。ご自分の預けなかったものを取り立て,まかなかったものを刈り取られるのです』。彼はその者に言いました,『わたしはあなた自身の口からあなたを裁く,邪悪な奴隷よ。わたしが厳しい人間であり,自分の預けなかったものを取り立て,まかなかったものを刈り取ることを知っていたというのか。それなら,わたしの銀子を銀行に入れなかったのはどうしてか。そうしておけば,わたしは到着の折,それを利息と一緒に集めただろうに』。
「そうして彼はそばに立っている者たちに言いました,『この者からその一ミナを取って,十ミナ持っている者に与えなさい』。しかし彼らは言いました,『主よ,彼は十ミナも持っています!』― 『あなた方に言うが,すべて持っている者にはさらに与えられ,一方,持っていない者からは,その持っているものまで取り上げられるのだ。



 このたとえ話では、全般的に量ということが意識されています。家来たちに預ける金額に差があったり、あるいは利益に差があったりします。そして報酬にも差があります。最後の結論のところでは「さらに与えられる」という言い回しもあります。

 イエスがこのような話をしていることからすると、ここは常識的感覚に逆らって「多い」のほうを選択すべきなのかもしれません。






 余談になりますが、イエスはここで「お金の使い方が正しい人」について語っていたのではないようだ、という点を指摘しておきたいと思います。

 イエスはルカ 16:9-13の言葉を述べるにあたって、このようなたとえ話をしています。



ルカ 16:1-8

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
次いで[イエス]は弟子たちにもこう言われた。「ある富んだ人がいて,家令をかかえていましたが,この者が[主人]の貨財を浪費しているとの訴えがその人のもとになされました。そこで彼はその[家令]を呼んで言いました,『わたしがあなたについて聞くこの事はどういうことなのか。あなたの家令職について会計報告を出しなさい。あなたはもうこの家を管理できないのだ』。そこで家令は自分に言いました,『どうしよう。主人はわたしから家令職を取り上げるということだ。わたしは土掘りをするほど強くはないし,物ごいをするのは恥ずかしい。そうだ,どうすればよいか分かったぞ。わたしが家令職から外されたとき,人々がわたしを自分の家に迎え入れてくれるようにするのだ』。それから彼は,主人の債務者をひとりひとり自分のもとに呼んでから,最初の者にこう言いました。『あなたはわたしの主人にどれくらい借りがあるのか』。彼は言いました,『オリーブ油百バトです』。[家令]は言いました,『あなたの契約書を受け取り,座って,早く五十と書きなさい』。次に,彼は別の者に言いました,『さて今度はあなただが,どれくらい借りているのか』。彼は言いました,『小麦百コルです』。[家令は]言いました,『あなたの契約書を受け取って,八十と書きなさい』。すると,主人はその家令をほめました。不義な者ではありますが,実際的な知恵をもって行動したからです。この事物の体制の子らは,自分たちの世代に対しては,実際的なやり方の点で光の子らより賢いのです。



 イエスはこのたとえの教訓として、「不義の富」そして「ごく小さなこと」ということを語っています。
 おそらくですが、イエスの考え方では、お金はそれ自体が汚れていて清くなりようがないのでしょう。そこでイエスが説いたのは、お金に対して忠実であることではなく、お金の使い方が有益であることです。たとえの中の家令は自分のためにお金を着服したり流用したりしましたが、それでも、その不正はある人たちにとって救いになりましたし、その結果、家令は自分も救うことができました。もし、この世の中に、ほんとうに正しいことを正しいままに行いたいと強く願う人がいたとするなら、その人のお金の使い方は、自分のため、という一点を別にすれば、この家令のやり方に似るのではないでしょうか。