エホバの証人のコラム

#9 キリスト教と戒律主義


 宗教には戒律がつきものです。
 戒律とはやっかいなものです。人は自律のために戒律を必要としますが、戒律は人の行動だけでなく、価値観や人間性をも狭くすることがあります。
 私たちは普段から「法律」という名の戒律に束縛されて生きています。この分野においても問題はたくさん見られていますので、最近は、法律に対する柔軟な見方が必要だということが盛んに言われるようになっています。

 宗教の場合、戒律主義は聖典主義と深く関わりがあるようです。
 これを簡単に分類すると、積極的なものと消極的なものとに分けられると思います。
 消極的な戒律主義とは、聖典を重んじるゆえに聖典からの拡大を認めない種類の戒律主義です。キリスト教の場合、聖書に書かれていないようなことを取り上げて「これは正しい」とか「これは間違いだ」とか言ったりすることになにかと反対する教会があります。また、極端な例として、聖書しか読まないことを教えている教会もあります。その教会では、聖書を解説する本を読むことは間違ったことと教えられます。聖書を解説するという概念自体がすでに聖書からの逸脱を意味している、という考え方です。
 積極的戒律主義とは、聖典を基礎としつつも、その基礎の上に応用を積み重ねていくことによって戒律を充足させようとする種類の戒律主義です。聖典を憲法に置き換えれば、日本の法律もこれに該当します。
 消極的戒律主義には、聖典にたいへん忠実であることから来る限界の問題があります。積極的戒律主義はその問題を克服するものですが、聖典からの逸脱の危険をはらみます。

 面白いことに、キリスト教の聖典である聖書には、戒律主義に対する否定的な見方があり、聖書をして聖書を否定せしめるといったところがあります。すこしこれを見てみましょう。

 旧約聖書には什一(じゅういち)つまり十分の一の寄付に関する規定があります。収入の10パーセントを寄付しなさいという戒律です。ところが、人々はこの戒律をあまり守らなかったようです。それではいけないと考えて立ち上がったのが、ラビと呼ばれる人たちです。聖書は当時の呼び方で「パリサイ人」と呼んでいます。彼らは宗教改革を断行して、イエスの時代にはこの問題を解決していました。これにはたいへんな苦労があったと思います。
 ところが、これを徹底して批判したのがイエスです。彼はこのように批判しています。

『偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は,はっか・いのんど・クミンの十分の一を納めながら,律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視しているからです。これらこそ行なうべきことだったのです。』

 パリサイ人は積極的戒律主義をどこまでも推し進めたことで知られています。聖書が什一を納めるよう命令しているとしても、実際には十分の一を取るわけにはいかないというものもありますので、その問題を解決するために、納めるべきものとそうでないもののリストを作って戒律に加えるというのがパリサイ人のやり方でした。パリサイ人はそれを細かいところまで決めて、よく守りました。しかし、その熱心さのゆえに失われていったものもありました。パリサイ人は、自分たちの決めた戒律の細かいところがきちんと実践されているかを気にしはじめ、やがて、細かいところまで戒律が守られていればそれでよしとするようになったようです。
 イスラエルの歴史を通して、イエスの時代ほど厳密に聖書の律法が守られていた時代はなかったようです。それはひとえにパリサイ人の努力の賜物なのですから、パリサイ人のことをほめてもよいようにも思えます。しかし、神の子であるイエスは高い精神性を持っていましたので、律法がよく守られているその状態を見て、かえって我慢がならなかったようです。
 ここから、聖書は寄付に関する二つの考えを生み出していきます。ひとつは、「どんなに少ない寄付であっても心がこもっていれば神は喜んでくださる」というもので、もうひとつは、「寄付はいくらといわず寛大に行うべきだ」というものです。こうして、キリスト教はユダヤ教ラビの律法から離れ、ラビたちよりも高い精神性を求めていくこととなります。
 こういった考えがよく示されている言葉が聖書にはいくつもあります。たとえばこのような表現です。

『霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。』

 そして、このように聖書は結論します。

『霊に導かれているのであれば,あなた方は律法のもとにはいないのです。』

 つまり、人が律法のもとになるような高い精神性(これをキリスト教用語で“霊性”と言います)を持っているなら、律法(戒律)はもはやいらないということです。その高い精神性の源がイエスだということで、聖書はこのように言います。

『キリストは律法の終わりです。』

『律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのです。』

 この考えは、旧約聖書のメシア預言のこの言葉の成就でした。

『わたしはイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは,わたしが彼らの父祖たちの手を取ってエジプトから連れ出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。これこそ,わたしがそれらの日の後にイスラエルの家と結ぶ契約である。わたしは彼らの内にわたしの律法を置き,彼らの心の中にそれを書き記す。そして,彼らはもはや各々その友を,各々その兄弟を教えて,『エホバを知れ!』とは言わない。彼らはその最も小なる者からその最も大なる者に至るまで,皆わたしを知るからである。』

 ここで、律法は「契約」と呼ばれています。聖書の律法は、モーセがエジプトからイスラエルを救出した時に、イスラエルと神との契約の証としてエホバから与えられたものだからです。イスラエル人は律法をよく守れるように、律法の教師からそれを教わる必要があったのですが、聖書はそういったことが必要なくなる時が来ると予告します。
 よく、聖書を二つに分けて「旧約聖書」とか「新約聖書」とか言いますが、この「新約」というのがこれです。つまり、新約とは、人が神の子イエスを介して神エホバへと導かれ、その霊(精神)を受け入れることにより、律法(戒律)から解かれることを意味しています。

 この「新しい契約」にはたいへんな難問が伴っています。すこしこれを見てみましょう。
 新しい契約は律法を無用とするものです。すると、「新しい契約があるので、律法に書かれていることはもう守らなくてもよいのか」という疑問が生じます。聖書はこれにYESともNOとも答えています。たとえば、割礼や安息日の律法についてはYESです。しかし、NOであるものもあります。聖書の律法の要である十戒から、6番目と7番目のおきてを見てみましょう。

『あなたは殺人をしてはならない。あなたは姦淫を犯してはならない。』

 「律法が無用になったのでこれからは殺人をしても姦淫を犯してもよい」などということは言えません。つまり、NOです。でも、単にNOではありません。聖書がこれをNOという言い方に注目してください。

『『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし,わたしはあなた方に言いますが,女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです。』

『すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです。』

 新しい契約が求める高い精神性のゆえに、「殺してはならない」とか「姦淫を犯してはならない」とかいう律法は、このように拡大解釈されます。しかも、聖書はさらに踏み込んで、ここまで言ってのけます。

『もしあなた方が,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という聖句による王たる律法を実践しているのであれば,あなた方はりっぱに行動していることになります。しかし,相変わらず人を偏り見るのであれば,あなた方は罪をおかしているのです。律法により違犯者として戒められていることになるからです。
というのは,だれでも律法のすべてを守り行なっても,一つの点で踏み外すなら,その人はそのすべてに対する違反者となるからです。「あなたは姦淫を犯してはならない」と言われた方は,「あなたは殺人をしてはならない」とも言われたのです。そこで,もし姦淫を犯さなくても殺人をするなら,律法の違犯者となります。』

 ここには二つの要点が示されています。ひとつは、「新しい契約で示されている高い精神性を持てない人は、律法を侵しており、律法によって処罰を受ける」、もうひとつは、「たくさんある律法のうちのひとつを破っただけで、律法全体に対する違反者となれる」という要点です。この二つの要点は連動しています。つまり聖書は、「新しい契約の求める高い精神性を少しでも欠くということは、殺人や姦淫をするのと同じことだ」と言っています。
 新しい契約とは、たとえば人に心からの敬意を払わないということを、霊的な殺人や姦淫と考えるような高度な価値観の集大成です。それを少しも欠いていない人を想像できるでしょうか。気の遠くなるような話です。それこそ、聖書のメシア預言が預言したようになって、神が人の心の中に律法を置いてその人がエホバを心で理解するようにならない限り、それは無理な話です。
 キリスト教の歴史を見ると、まったくその通りであることがよくわかります。キリスト教世界は歴史を通して、自分たちが心で姦淫を犯し、心で殺人を犯す者であることを示してきました。まったく、「わたしたちの信じているという新しい契約とやらはいったいどこにあるのか」と言わなければなりません。
 結局のところ、こういった難問を解決するためには、初歩に戻るしかありません。つまり、言葉や文字でもって「新しい契約とは何たるか」を人に教えなければなりません。さらに、新しい契約において人がするべきことやしてはならないことを明らかにしなければなりません。現代キリスト教においては「兵役に就いてはならない」とか「ポルノを見てはならない」といったことを教えなければなりません。
 ところが、そのようなことをはじめると、新しい契約がだんだん新しい契約ではなくなってくるという問題が生じてきます。なかなかやっかいなことです。だいいち、そのようなことをやっていたら教えるべきことがあまりに多すぎてきりがありません。これでは律法に逆戻りです。

 これまでのキリスト教世界に、このような問題があることをきちんと認識してきちんと対処しようという動きは全くといっていいほどありませんでした。もともと手に負えない問題だということもありますが、新しい契約に対する自覚のなさというものもあるかと思います。
 それに対して、エホバの証人が考えたのが、“原則”という概念です。これは新しい契約の霊(精神)と律法(戒律)との間の橋渡しをする概念で、エホバの証人の性質を決定づけるきわめて大きな要素となっています。
 よく、「エホバの証人には守るべきたくさんの戒律がある」とか「エホバの証人は戒律主義の宗教だ」といったことが言われますが、実際には、そして厳密には、エホバの証人にとってそれは戒律ではなく「原則の適用」です。たとえば、エホバの証人の生徒が学校で格技の授業を拒否する場合、それは「格技はしてはならない」という戒律があるからではありません。新しい契約には「平和」という原則があって、それは心の根底から平和思想を抱いていること意味していますから、それを適用すると格技はできないという理由によって、エホバの証人は格技を拒否します。そして、学校で格技の授業を拒否していながら、別のところで人の悪口を言ったり馬鹿にしたりしているということがあるなら、それは格技がどうとかいう以前の問題であって結局のところ戦争をしているに等しいと考えます。このように、エホバの証人は“原則”という概念の導入によって、新しい契約の求める高い精神性になんとか達しようとしています。
 エホバの証人の間では、自分の頭で考えて聖書の原則を適用することが奨励されています。聖書に書かれていないようなことについて、さらにはエホバの証人の出版物で扱われていないことについて、そうするように求められています。実のところ、書かれていることよりも書かれていないことのほうが多いとエホバの証人は考えます。聖書に書かれていることをただ実践するだけでは不十分ですし、エホバの証人の出版物も参考にしかなりません。大きな事柄については、エホバの証人の統治体が規則を決めたり見解を述べたりしますが、そういったことが及ばない小さいことは数え切れないほどあり、自分の頭で考えることのできる信者とできない信者との差ははっきりと表れています。
 国によっては、エホバの証人の間に「ベビーカーに乗った」人という慣用表現があるようです。赤ちゃんがベビーカーの取っ手を握り、自分で進ませていると思っても、実際には親がそれを押しているということです。誰かがベビーカーを押しているからそれは前進するのであって、その誰かが押すのをやめればその人はどうするのか、という含みがあります。エホバの証人になる人は、そのような言葉を聞きながら、聖書の原則にしたがって自分で考える術を身に着けていくことになります。

 エホバの証人として聖書を教わっていると、聖書のさまざまな教えは原則の理念に置き換えながら理解できるということがわかるようになります。この例も見てみましょう。
 「寄付はいくらといわず寛大に行うべきだ」という新しい契約の考えは、このように表現されています。

『この点について言えば,惜しみつつまく者は少なく刈り取り,惜しみなくまく者は豊かに刈り取るのです。各自いやいやながらでも,強いられてでもなく,ただその心に決めたとおりに行ないなさい。神は快く与える人を愛されるのです。』

 ここを見ますと、ダイレクトな言い方で、「惜しみなく寄付をする者は……」とは書かれていないことに気づきます。ここでエホバの証人が理解するのは、まず、与えること全般に関する原則があって、その原則の適用として、ひとつに寄付に関する話があるということです。聖書はここで寄付の話をしているのですが、エホバの証人の出版物ではさまざまな仕方で用いられます。日常生活や信仰の実践に関係したさまざまな事柄に適用され、その中には寄付に関することもある、といった具合です。

 ある意味、エホバの証人は聖書の言葉を字義通りには読んでいないと言えます。ほとんど置き換えながら読んでいます。これはエホバの証人独特の聖書の読み方で、他のキリスト教派にはあまり見られないものです。(全く見られないということはもちろんありませんが。)
 そのようなわけで、日本を代表する反対者である中澤啓介氏は、ものみの塔聖書冊子協会日本支部の代表者に書き送った書状の中で、エホバの証人の「永遠の命に導く知識」という本についてこのように書いています。

『この『知識』の書物について、お会いしてたくさんのことを伺いたいのですが、今日は、一つだけ、聖書を信じる者として、ぜひお聞きしたいことがあります。それは、参照聖句としてある聖書箇所をあげる「引用方法」に関してです。
 通常、ある聖書の言葉を参照聖句としてあげるのは、本文の中で著者が述べている内容と同じことを教えている場合に限ります。つまり、『知識』の著者の主張が、聖書の主張と同じであることを確認するために聖句が引用されるはずです。
 ところが、この『知識』の書物においては(実は、『知識』だけではなく、ものみの塔の出版物全般にについて言えることですが)、全く異なるのです。参照として挙げられている聖句を読んでみますと、聖書が言わんとしていることと、『知識』の著者が言わんとしていることとの間には、直接関係ない場合がほとんどです。もしかしますと、織田さんたちのように、ものみの塔の組織の中で長い間生活をされてますと、このような引用聖句の方法に慣れ、そのおかしさに気づかなくなってしまうかも知れませんが(きっとそんなことはなく、おかしいと思われていると思いますが、そうでしたら、お許しください)、私の印象では、半分どころか七割、あるいはそれ以上が不適切である、と思わされております。
 この『知識』において、引照聖句として挙げられているそのほとんどは、『知識』の本文の主文章の主張を確認する(保証する)ものではありません。むしろ、その文章に出てくる「ある言葉」が、たまたま記述されている聖書箇所に出てくる場合が多いのです。そのような場合、参照聖句が『知識』の著者の主張を支持していることにならないことはいうまでもありません。あるいはまた、副文章で述べていることを確証する聖句を挙げている場合も目立ちます。この場合もまた、主文章の主張を聖句によって確認することはできません。ときには、ある聖句がどうしてそこに挙げられているのか分らない場合さえあります。
 このような聖書の使い方をするなら、結局は、自分が言いたいことを聖書の言葉によって主張することができるのです。それは、「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」(申命記4章2節)という神のみことばに抵触します。
 私はこれまで、聖書を説明している書物を何千冊、否、何万冊も読んできました。しかし、ものみの塔聖書冊子協会からり出版されている書物のように、聖書の文脈を無視し、自分勝手に聖書を解釈したり、適用したりしている本に出くわしたことはありません。ほんとうに文字どおり、一度もなかったと言っても過言ではありません。
 私自身は、福音的キリスト教の世界に身を置いている者です。もし、私たちの世界で、『知識』のような聖句の引用の仕方で書物を執筆するなら、誰からも信頼されなくなるでしょう。『知識』の書物(ものみの塔の出版物は、基本的に皆同じですが)の聖句の引用方法は、それほど逸脱しているということでございます。
 結局、このような引用方法で聖句を使っている『知識』という書物は、聖書が説いているメッセージを解き明かしてはいない、と断定せざるを得ません。むしろ、自分たちの主張が聖書的な主張であるかのように見せかけるため、聖書を誤用(悪用)しているにすぎない、としか思えないのです。一般の人々の聖書知識が乏しいことを利用し、組織の教えを聖書の教えであるかのようにカモフラージュするため聖句を引用している、と私にはほんとうにそう見えます。織田さん、どうぞ怒らないでください。もし間違っていたら、などという断わり書きをする必要がまったくないほどです。』

 こういった文書を読むと、エホバの証人と他のキリスト教派との考え方の隔たりの大きさを思い知らされます。聖書に忠実であるということがいかに難しいことか、と私は思います。

 聖書に忠実であることは大切なことですが、あまりに字句にこだわるというのも考えものです。キリスト教世界の反対者がエホバの証人について書いた文書を見てみると、よく、「そのようなことは聖書のどこにも書かれていない」という指摘が見られます。「輸血を受けてはならないと聖書のどこに書いてあるだろうか」とか「国旗掲揚をしてはならないと聖書のどこに書いてありますか?」といった質問は、反対者文書の慣用句のようになっています。反対者たちの意見では、エホバの証人の統治体は正当な権利もなしにこのような戒律を乱発しているので、統治体は今すぐそのような行為をやめ、信者たちに謝罪すべきです。
 しかし、私がこの文書の最初のところで書いたことを思い起こしていただきたいのですが、「そのことについて聖書は何も述べていないから」、というような考え方は、聖典を持つ宗教にありがちな消極的戒律主義ではないでしょうか。「書かれていないことはするべきことでもすべきでないことでもない」というような考え方では、その人は、また宗教は、死んでしまうと思います。
 自分の頭で考えるということは、信仰者にとって徹頭徹尾必要なことだと私は思います。そして、自分で考えて判断するということは、聖書に書かれていないような、何か目新しいことを考え、決定するということです。そして、もしある教派が、信者一人一人がそのような人となることを志すとするなら、まずその教団が道筋を示さなければならないと私は思います。新しい契約の理想としては、そのようなことは不要なのでしょう。でも、理想をとって現実を無視するか、現実を直視して理想を断念するか、という選択を迫られたらどうすべきなのでしょうか。エホバの証人はたくさんあるキリスト教派の中でも特に現実主義の教派ですから、「原則の適用」なるものをしきりに説いてことにあたるのは唯一にして当然の選択だったと思います。
 そのような現実的な選択肢を選んだことが、エホバの証人に対する外部からの評価を難しくしているようです。外部からエホバの証人を見ると、エホバの証人はいかにもパリサイ的な戒律主義者であると見えます。それで、たとえば、「あなたたちは、輸血はだめだとか、格技はだめだとか言っているが、そのようなことを言っているうちはキリスト教であると言えない」とか、「戒律を熱心に守ること自体がキリスト教の精神ではない」などと言われます。キリスト教世界の人たちも、「エホバの証人は、新しい契約に逆らっていながら、自分たちは“正しいキリスト教を実践している”と信じこんでいるらしい」という認識ですので、私が上に書いたようことの途中までの部分を「よく勉強しなさい」としきりに言います。「もっとよく聖書を読んで勉強しなさい」とか「教団も、信者たちをだまし続けるのはやめて、聖書から正しく教えなさい」と言います。「新しい契約が何であるかを理解していれば、戒律主義を説いたりなどしないはずだ」というのが、エホバの証人に対する一般的なキリスト教派の認識です。

 またもう一つ事例を挙げてみます。統治体の元メンバーで反対者であるレイモンド・フランズ氏は、「しきたりと律法主義」という副題のもとにこのように書いています。

『(統治体の会合において)聖書が話し合いに出てこない理由として最後に挙げなければならないのは、そもそも聖書が何も語ってくれないような事柄が次々に出てくることである。
 例えば、血清注射は輸血と同じと見なすべきかとか、血小板は赤血球と同じぐらい良くないものかという話し合いが行なわれる。あるいはまた、ある妻が不貞をはたらいた場合、夫に(たとえその夫が極めて乱暴な人間だとわかっていても)そのことを告白しなければならない、そうでなければその妻が悔い改めたと言ってもそれは認められず排斥の対象となる、という協会の方針について話し合う。しかし聖書のどこを見ればそのようなことが書かれていると言うのか。
 統治体で話し合った事例、及びその決定の一例を紹介しよう。コカコーラの会社でトラックの運転手をしていたエホバの証人がいたのだが、この人がいつも行く大口配達先の一つに大規模軍事基地があった。この仕事を続けながらもエホバの証人として認められるのか、それともこれは排斥の対象になる行為なのかというのが論点となった(ここでの問題は、軍隊関係の場所及び人と関わっているという点である)。
 聖書のどこを見ても、ややこしい理由づけや解釈抜きにはっきりとそんなことが書いてあるところはない。ところが結局統治体では、まったく聖書からの根拠はないままに、この仕事は良くないからこの人にはこの配達先をはずしてもらわねばならないと多数決で決まったのである。
 同じような例として、軍事基地内の将校用クラブでバンド演奏をしていたエホバの証人を挙げることもできる。これも統治体では「認められない」とされた。聖書は何も言わないので、人間が考えて答えを言ったわけである。
 一般にこの手の話し合いは、ある行為が認められないとして聖書からの根拠が出されたとしても、それは例えばヨハネ15章19節の「あなた方は世のものではない」などの非常に漠然としたものであることが多かった。結局、(統治体の)メンバーのうち誰かが、これは気に入らないと思いはしてもそれ以上の理由がない場合にこの部分を挙げ、当該状況に拡大解釈して当てはめることが多いのである。そういう漠然とした部分がどんな意味なのか、また一体どんなことについての部分なのか、聖書の他の部分も検討したうえで決めるべきではないのか─こんなことは考える必要もない無関係なことだと思われているような空気があった。』

 この文書を読んで私が思うに、エホバの証人の歴史を通して、「世のものではない」という聖書の原則ほど議論が必要だった原則はないように思います。聖書はクリスチャンが世のものでないことを教えており、その概念は新約聖書全体を強く貫いていますが、にもかかわらず、聖書自身はこの概念についての解説をほとんどしていません。聖書においてこの概念はまさに原則で始まって原則で終わっています。彼が言うようにこれは「漠然とした概念」であり、ほんとうに難解です。
 とはいえ、これがキリスト教の基礎的な概念であることは否定できませんし、これがあまりに漠然とした概念だったので具体的な行動には結びつかなかったとも言えません。むしろ、あらゆる具体的な行為に結びついています。これをどう理解し、実践するかはエホバの証人にとって常に課題となってきました。
 しかし、聖書の欠点に見えるところにも利点があります。もし聖書が、クリスチャンが世のものではないことを具体的かつ事細かに解説していたら、おそらく、現代の様変わりした社会にそれを適応させることは困難になっていたと思います。聖書が具体的なことをほとんど述べなかったからこそ、現代においてもその概念を柔軟に運用することができるのではないでしょうか。そう考えると、重要な概念であるにもかかわらず聖書が解説を述べていないという不自然さにも納得がいきます。
 エホバの証人は現実主義の教派ですから、聖書の言うところの「世のものではない」という概念の具体的実践を日々追求する立場にあります。エホバの証人の歴史を通してさまざまな議論、さらには実験的な実践が行われ、今でもそれは続いています。エホバの証人はこの議論のゆえに他のキリスト教派からの孤立を余儀なくされてきましたし、これからもますますそうだと思います。
 一方のフランズ氏は、エホバの証人の原則の概念を否定するという立場にあるようです。まず、軍事基地の件について「まったく聖書からの根拠はないままに」物事を決めている、という言い方をしています。それから、聖書から判断する時も「非常に漠然とした」概念で物事を判断していると言っています。それに加えて、聖書の「世のものではない」という概念がエホバの証人の世界ではあいまいなままできちんと定義されていないという言い方をしています。ここまで書くようだと、原則を否定しているというよりは、無視しているといった感じがします。
 彼はエホバの証人の統治体をやっていた人なのですから、原則という概念がエホバの証人にとってどれほど大切なものかをよく知っているはずですし、その内容の深さもやはりよく知っているはずです。それに対し、彼の文書で示されるエホバの証人の姿はあまりに底が浅いという感じがします。彼自身の表現を借りるなら、エホバの証人は「事態の一側面しか見ない尋常ならぬ考え方をする」といったところでしょうか。
 でも、原則という概念を抜きにしても、良心というものがあると思います。たとえば、「ものみの塔」誌は「神が与えてくださった良心から益を得る」という記事の中で、原則と良心のかかわりについて論じています。

『神は,クリスチャンに広範に及ぶ法典を与えてはおられませんが,幾らかの律法,つまり絶対的な規則や,わたしたちの信仰と良心に応じて適用するための多くの原則は与えておられます。しかし,良心を持っていることと,良心から十分の益を得ることとは別問題です。
 わたしたちの罪深い肉体のゆえに,良心はわたしたちを誤導することがあり,良心は弱くなったり,欺かれたり,汚されたりすることがある,と聖書は示しています。
 良心は,神の言葉に絶えず接して正しいことを行ないたいと思っている人をさえ誤導することがあるのです。
 わたしたちは,良心上の問題で聖書の特定の律法では扱われていない,決定を要する問題に度々直面しますから,どうすれば自分の良心を訓練し,良心から最大の益を得られるかを知る必要があります。』

 続いて記事は一つの事例を紹介しています。

『ナチュラル・ヒストリー誌の1981年8月号に,市内の会社に緊急な荷物や手紙を配達する,ニューヨーク市の自転車配達人に関する記事が掲載されました。この種の仕事を始めた人の実例の中に,次のことが含まれています。「41歳の配達人ドナルドは,自分の収入によって妻と15歳の息子を養うことができる。ドナルドはフィルムを現像する仕事に携わっていたが,その仕事との縁を切った。ポルノ関係のものを製造する上で果たしていた自分の役割を,エホバの証人として容認できなかったからである。配達人としてドナルドは自分の良心にやましい点はないと感ずるだけではなく,自分の自由な時に仕事を打ち切り,人々を改宗させるために一層多くの時間をささげることができる」。
 仕事を決定する際には様々な要素が関係してきます。ドナルドの場合のように,スナップ写真,自家製の映画,宣伝映画,商業用映画などのフィルムを現像する会社で働くクリスチャンがいるかもしれません。徐々にポルノに関係したものが扱われるようになっています。あるところまでくると,クリスチャンの良心は自分をとがめるようになります。自分自身がポルノや他の不法な活動にいや応なく巻き込まれていることに気付くかもしれません。ポルノを扱う会社と同列に見られるためか,あるいは依頼されている仕事のためか,その理由はともかく,会衆内の特権を得ている人,あるいはそれを追い求めている人の特別な関心の的である「とがめられるところのない」状態を保つためには,自分はその仕事を辞めなければならないと思うかもしれません。汚れたものから害を受けるよりも,そのような仕事を辞めるほうを選んだクリスチャンは数多くいるに違いありません。
 自分の良心を無視し,それをまひさせて悪いことを将来行ないやすくさせるべきでは決してありません。』

 ここで、「ポルノ写真を扱うことの是非について聖書は何も語っていない」とだれかが指摘するとしたら、どうでしょうか。この種の決定をした人に、「まったく聖書からの根拠はないままに物事を決めている」と言うとすれば、どうでしょうか。それは、原則とか戒律とか言う以前の、良心の問題ではないでしょうか。

 エホバの証人のよいところは、先の引用にも示されているように、聖書に書かれていないようなことであっても、聖書の原則と良心を頼りにしつつ積極的に判断するというところにあります。キリスト教のような聖典主義の宗教には、教典に書かれていないことに対しては盲目になってしまうという恐ろしいリスクがあります。しかし、聖書が教えているのは新しい契約、つまり高い精神性によるそのリスクの打破です。エホバの証人はそれを実現してみせようと努力しています。
 しかし、人がそのようにして実際にリスクを打破した時に、あるいは打破しようとして努力を重ねている時に、周囲の人々がどのようにそれを見るか、という問題があると思います。ある人はその人を戒律主義だと言うでしょうし、カルトだとも言うでしょう。そこらへんがとても悩ましいところです。


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