新世界訳
エホバの証人の聖書

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◆ エホバの証人のコラム ◆
#09 キリスト教と戒律主義



 宗教には戒律がつきものです。
 戒律とはやっかいなものです。人は自律のために戒律を必要としますが、戒律は人の行動だけでなく、価値観や人間性まで狭くすることがあります。
 私たちは普段から「法律」という名の戒律に束縛されて生きています。この分野においても問題はたくさん見られますので、最近は、柔軟な見方が必要だと言われます。

 宗教の場合、戒律主義は聖典主義と深く関わりがあるようです。
 これを簡単に分類すると、積極的なものと消極的なものとに分けられると思います。
 消極的な戒律主義とは、聖典を重んじるゆえに聖典からの拡大を認めない種類の戒律主義です。キリスト教の場合、聖書に書かれていないようなことを取り上げて「これは正しい」とか「これは間違いだ」とか言うことに反対する教会があります。また、極端な例として、聖書しか読まないことを教える教会もあります。その教会では、聖書を解説する本を読むことは間違いだと教えられます。聖書を解説するという概念自体がすでに聖書からの逸脱を意味している、という考え方です。
 積極的戒律主義とは、聖典を基礎としつつも、その基礎の上に応用を積み重ねていくことによって戒律を充足させようとする種類の戒律主義です。聖典を憲法に置き換えれば、日本の法律もこれに該当します。
 消極的戒律主義には、聖典にたいへん忠実であることから来る限界の問題があります。積極的戒律主義はその問題を克服するものですが、聖典からの逸脱の危険をはらみます。

 面白いことに、キリスト教の聖典である聖書には戒律主義に対する否定的な見方があり、聖書自身が聖書を否定してしまうという振る舞いがあります。すこしこれを見てみましょう。

 旧約聖書には什一(じゅういち)つまり十分の一の寄付に関する規定があります。収入の10パーセントを寄付しなさいという戒律です。ところが、人々はこの戒律をあまり守らなかったようです。そこで、それではいけないということを言って立ち上がったのが、ラビと呼ばれる人たちです。聖書は当時の呼び方で「パリサイ人」と呼んでいます。彼らは宗教改革を断行して、イエスの時代にはこの問題を解決してしまいました。これにはたいへんな苦労があったと思います。
 ところが、イエスはこれを手厳しく批判しました。



マタイ 23:23

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
偽善者である律法学者とパリサイ派の人たち,あなた方には災いがあります! ミント,ディル,クミンの10分の1を納めながら,律法の中のもっと重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視しているからです。10分の1を納める必要はありますが,後者を無視すべきではありません。



 パリサイ人は積極的戒律主義をどこまでも推し進めたことで知られています。聖書が什一を納めるよう命令しているとしても、実際には十分の一を取るわけにはいかないというものもありますので、その問題を解決するために、納めるべきものとそうでないもののリストを作って戒律に加えるというのがパリサイ人のやり方でした。パリサイ人はそれを細かいところまで決めて、よく守りました。しかし、その熱心さのゆえに失われていったものもありました。パリサイ人は、自分たちの決めた戒律の細かいところがきちんと実践されているかを気にしはじめ、やがて、細かいところまで戒律が守られていればそれでよしとするようになったようです。
 イスラエルの歴史を通して、イエスの時代ほど厳密に聖書の律法が守られていた時代はなかったようです。それはひとえにパリサイ人の努力の成果なのですから、パリサイ人のことをほめてよいようにも思えます。しかし、神の子であるイエスは高い精神性を持っていましたので、律法がよく守られているその状態を見て、かえって我慢がならなかったようです。

 ここから、聖書は寄付に関する二つの考えを生み出していきます。ひとつは、「どんなに少ない寄付であっても心がこもっていれば神は喜んでくださる」というもので、もうひとつは、「寄付はいくらといわず寛大に行うべきだ」というものです。こうして、キリスト教はユダヤ教ラビの律法から離れ、ラビたちよりも高い精神性を求めていくこととなります。

 こういった考え方がよく示されている言葉が聖書にはいくつもあります。たとえばこのような表現です。



ガラテア 5:22-23

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
一方,聖なる力が生み出すものは,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です。このようなものを否定する律法はありません。

ガラテア 5:18

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
そして,聖なる力に導かれているのであれば,皆さんは律法の下にはいません。



 つまり、人が律法のもとになるような高い精神性を持っているなら、律法(戒律)はもはやいらないということです。その高い精神性の源がイエスだということで、聖書はこのように言います。



ローマ 10:4

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
キリストは律法の終着点であり,信仰を抱く人は皆,正しいと見なされるのです。

ガラテア 3:24

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
このように,律法は私たちをキリストに導く保護者となりました。私たちが信仰のゆえに正しいと認められるようになるためです。



 キリスト教がこのような価値観を獲得した背景には、旧約聖書のメシア預言に記された予告の言葉があります。



エレミヤ 31:31-33

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
エホバはこう宣言する。「私がイスラエル国民およびユダ国民と新しい契約を結ぶ時が来る。その契約は,私が彼らの父祖たちの手を取ってエジプトから連れ出した日に,その父祖たちと結んだ契約のようなものではない。『私は確かに彼らの主人だったのに,彼らは私との契約を破った』と,エホバは言う」。エホバはこう宣言する。「これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。私は,私の律法を彼らの奥深くに入れ,彼らの心の中に書き記す。そして,私は彼らの神となり,彼らは私の民となる」。



 ここで、律法は「契約」と呼ばれています。聖書の律法は、モーセがエジプトからイスラエルを救出した時に、契約の証としてエホバから与えられたものだからです。
 イスラエル人には教師から律法を教わる義務が課されましたが、メシア預言はそういったことが必要なくなる時代の到来を予告します。
 よく、聖書を二つに分けて「旧約聖書」とか「新約聖書」とか言いますが、この「新約」というのがこれです。「新約」とは、人がメシアを介して神エホバへと導かれ、その精神性を受け入れることにより、律法(戒律)から解かれることを意味しています。これを見事に成し遂げたのがイエス・キリストであるというわけです。

 さて、この「新しい契約」にはたいへんな難問が伴っています。今度はこれを見てみましょう。

 新しい契約は律法を無用とするものです。すると、「新しい契約があるので、律法に書かれていることはもう守らなくてもよいのか」という疑問が生じます。聖書はこれにYESともNOとも答えています。たとえば、割礼や安息日の律法については「守らなくてよい」です。しかし、「引き続き守るべき」というものもあります。聖書の律法の要である十戒から、6番目と7番目のおきてを見てみましょう。



出エジプト 20:13-14

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
殺人をしてはならない。姦淫をしてはならない。



 「律法が無用になったのでこれからは殺人をしても姦淫をしてもよい」とは言えません。しかし、単にそう言うのではありません。聖書の言い方に注目してください。



ヨハネ第一 3:15

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
兄弟を憎む人は皆,人殺しです。皆さんが知っている通り,人殺しは永遠の命を受けません。

マタイ 5:27-28

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
あなたたちは,こう命じられたのを知っています。『姦淫をしてはならない』。しかし私は言います。女性を見続けて情欲を抱く人は皆,すでに心の中で姦淫をしたのです。



 新しい契約が求める高い精神性のゆえに、律法は拡大解釈されています。しかも、聖書はさらに踏み込んで、ここまで言ってのけます。



ヤコブ 2:8-11

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
もし皆さんが,「隣人を自分自身のように愛さなければならない」という聖句の通りに,卓越した律法を実践しているのであれば,それはとても良いことです。しかし,えこひいきをし続けるなら,罪を犯していることになり,その律法によって違反者と宣告されます。律法全体を守っていても,1つの点で踏み外すなら,その人は律法全てに違反したことになります。「姦淫をしてはならない」と命じた方は,「殺人をしてはならない」とも命じました。それで,姦淫をしなくても殺人をするなら,律法の違反者となります。



 ここには二つの要点が示されています。ひとつは、「新しい契約で示されている高い精神性を持てない人は、律法を侵しており、律法によって処罰を受ける」、もうひとつは、「たくさんある律法のうちのひとつを破っただけで、律法全体に対する違反者となれる」です。この二つの要点は連動しています。つまり聖書は、「新しい契約の求める高い精神性を少しでも欠くということは、殺人や姦淫をするのと同じことなんだ」と言っています。

 新しい契約とは、たとえば人に心からの敬意を払わないことを、一種の殺人や姦淫と考えるような高度な価値観の集大成です。でも、そのような価値観を少しも欠いていない人を想像できるでしょうか。それは気の遠くなるような話です。それこそ、聖書のメシア預言が予告したようになって、神が人の心の中に律法を置いてその人がエホバを心で理解するようにならない限り、無理な話です。
 キリスト教の歴史を見ると、まったくその通りであることがよく解ります。キリスト教世界は歴史を通して、自分たちが心で姦淫を犯し、心で殺人を犯す者であることを示してきました。まったく、「わたしたちの信じているという新しい契約とやらはいったいどこにあるのか」と言わなければなりません。

 結局のところ、こういった難問を解決するためには、初歩に戻るしかありません。つまり、言葉や文字でもって「新しい契約とは何か」を人に教えなければなりません。さらに、新しい契約において人がするべきことやしてはならないことを明らかにしなければなりません。現代キリスト教においては「兵役に就いてはならない」とか「ポルノを見てはならない」といったことを教えなければなりません。
 ところが、そのようなことをはじめると、新しい契約がだんだん新しい契約ではなくなってくるという問題が生じます。なかなかやっかいなことです。だいいち、そのようなことをやっていたら教えることがあまりに多すぎてきりがありません。これでは律法に逆戻りです。

 これまでのキリスト教世界に、このような問題を認識して対処しようという動きは全くといっていいほどありませんでした。もともと手に負えない問題だということもありますが、新しい契約に対する自覚のなさというものもあるかと思います。
 それに対して、エホバの証人が考えたのが、“原則”という概念です。これは新しい契約の霊(精神)と律法(戒律)との間の橋渡しをする概念で、エホバの証人の性質を決定づけるきわめて大きな要素となっています。
 よく、「エホバの証人には守るべきたくさんの戒律がある」とか「エホバの証人は戒律主義の宗教だ」といったことが言われますが、実際には、そして厳密には、エホバの証人にとってそれは戒律ではなく「原則の適用」です。たとえば、エホバの証人の生徒が学校で格技の授業を拒否する場合、それは「格技はしてはならない」という戒律があるからではありません。新しい契約には「平和」という原則があって、それは心の根底から平和思想を抱いていること意味していますから、それを適用すると格技はできないという理由によって、エホバの証人は格技を拒否します。そして、学校で格技の授業を拒否していながら、別のところで人の悪口を言ったり馬鹿にしたりしているということがあるなら、それは格技がどうとかいう以前の問題であって結局のところ戦争をしているに等しいと考えます。このように、エホバの証人は“原則”という概念の導入によって、新しい契約の求める高い精神性になんとか到達しようとしています。

 エホバの証人の間では、自分の頭で考えて聖書の原則を適用することが奨励されています。聖書に書かれていないようなことについて、さらにはエホバの証人の教義書で扱われていないことについて、そうするように求められています。実のところ、書かれていることよりも書かれていないことのほうが多いとエホバの証人は考えます。聖書に書かれていることをただ実践するだけでは不十分ですし、教科書も参考にしかなりません。大きな事柄については、エホバの証人の統治体が規則を決めたり見解を述べたりしますが、そういった指導が及ばない小さいことは数え切れないほどあり、それらについては信者一人一人が自分の頭で考えて判断します。

 エホバの証人として聖書を教わっていると、聖書のさまざまな教えは原則の理念に置き換えながら理解できるということが解るようになります。この例も見てみましょう。

 「寄付はいくらといわず寛大に行うべきだ」という新しい契約の考えは、聖書の中でこのように表現されています。



コリント第二 9:6

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
この点で,惜しんで少なくまく人は少なく刈り取り,惜しまずに豊かにまく人は豊かに刈り取ります。



 ダイレクトな言い方で「惜しみなく寄付をする人は……」とは書かれていません。ここでエホバの証人が理解するのは、まず、与えること全般に関する原則があって、その原則の適用として、ひとつに寄付に関する話があるということです。聖書はここで寄付の話をしているのですが、この教えをエホバの証人はあらゆることに応用します。日常生活や信仰の実践に関係したさまざまな事柄に適用され、その中には寄付に関することもある、といった具合です。

 ある意味、エホバの証人は聖書の言葉を字義通りには読んでいないと言えます。ほとんど置き換えながら読んでいます。これはエホバの証人独特の聖書の読み方で、他のキリスト教派にはあまり見られないものです。(全く見られないということはもちろんありませんが。)

 日本を代表する職業反対者である中澤啓介氏は、ものみの塔聖書冊子協会日本支部の代表者に書き送った書状の中で、エホバの証人が教科書として用いている「永遠の命に導く知識」という本についてこのように書いています。



◇ 「拝啓 織田正太郎殿」, 中澤啓介

 この『知識』の書物について、お会いしてたくさんのことを伺いたいのですが、今日は、一つだけ、聖書を信じる者として、ぜひお聞きしたいことがあります。それは、参照聖句としてある聖書箇所をあげる「引用方法」に関してです。
 通常、ある聖書の言葉を参照聖句としてあげるのは、本文の中で著者が述べている内容と同じことを教えている場合に限ります。つまり、『知識』の著者の主張が、聖書の主張と同じであることを確認するために聖句が引用されるはずです。
 ところが、この『知識』の書物においては(実は、『知識』だけではなく、ものみの塔の出版物全般にについて言えることですが)、全く異なるのです。参照として挙げられている聖句を読んでみますと、聖書が言わんとしていることと、『知識』の著者が言わんとしていることとの間には、直接関係ない場合がほとんどです。もしかしますと、織田さんたちのように、ものみの塔の組織の中で長い間生活をされてますと、このような引用聖句の方法に慣れ、そのおかしさに気づかなくなってしまうかも知れませんが(きっとそんなことはなく、おかしいと思われていると思いますが、そうでしたら、お許しください)、私の印象では、半分どころか七割、あるいはそれ以上が不適切である、と思わされております。
 この『知識』において、引照聖句として挙げられているそのほとんどは、『知識』の本文の主文章の主張を確認する(保証する)ものではありません。むしろ、その文章に出てくる「ある言葉」が、たまたま記述されている聖書箇所に出てくる場合が多いのです。そのような場合、参照聖句が『知識』の著者の主張を支持していることにならないことはいうまでもありません。あるいはまた、副文章で述べていることを確証する聖句を挙げている場合も目立ちます。この場合もまた、主文章の主張を聖句によって確認することはできません。ときには、ある聖句がどうしてそこに挙げられているのか分らない場合さえあります。
 このような聖書の使い方をするなら、結局は、自分が言いたいことを聖書の言葉によって主張することができるのです。それは、「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」(申命記4章2節)という神のみことばに抵触します。
 私はこれまで、聖書を説明している書物を何千冊、否、何万冊も読んできました。しかし、ものみの塔聖書冊子協会から出版されている書物のように、聖書の文脈を無視し、自分勝手に聖書を解釈したり、適用したりしている本に出くわしたことはありません。ほんとうに文字どおり、一度もなかったと言っても過言ではありません。
 私自身は、福音的キリスト教の世界に身を置いている者です。もし、私たちの世界で、『知識』のような聖句の引用の仕方で書物を執筆するなら、誰からも信頼されなくなるでしょう。『知識』の書物(ものみの塔の出版物は、基本的に皆同じですが)の聖句の引用方法は、それほど逸脱しているということでございます。
 結局、このような引用方法で聖句を使っている『知識』という書物は、聖書が説いているメッセージを解き明かしてはいない、と断定せざるを得ません。むしろ、自分たちの主張が聖書的な主張であるかのように見せかけるため、聖書を誤用(悪用)しているにすぎない、としか思えないのです。一般の人々の聖書知識が乏しいことを利用し、組織の教えを聖書の教えであるかのようにカモフラージュするため聖句を引用している、と私にはほんとうにそう見えます。織田さん、どうぞ怒らないでください。もし間違っていたら、などという断わり書きをする必要がまったくないほどです。



 こういった文書を読むと、エホバの証人と他のキリスト教派との考え方の隔たりの大きさを思い知らされます。聖書に忠実であるということがいかに難しいことか、と私は思います。

 聖書に忠実であることは大切なことですが、あまりに字句にこだわるというのも考えものです。キリスト教世界の反対者がエホバの証人について書いた文書を見ると、「そのようなことは聖書のどこにも書かれていない」という指摘が常に見られます。「輸血を受けてはならないと聖書のどこに書いてあるだろうか」とか「国旗掲揚をしてはならないと聖書に書いてありますか?」といった質問は、反対者文書の慣用句のようになっています。反対者たちの意見では、エホバの証人の統治体は正当な権利もなしにこのような戒律を乱発しているので、今すぐそのような行為をやめ、信者たちに謝罪すべきです。
 しかし、私がこの文書の最初のところで書いたことを思い起こしてください。「そのことについて聖書は何も述べていないから……」というような考え方は、聖典を持つ宗教にありがちな消極的戒律主義ではないでしょうか。「書かれていないことはするべきことでもすべきでないことでもない」というような考え方では、その人は、また宗教は、死んでしまうと思います。

 自分の頭で考えるということは、信仰者にとって徹頭徹尾必要なことだと私は思います。そして、自分で考えて判断するということは、聖書に書かれていない新しいことを考え、決定するということです。そして、もしある教派が、信者一人一人がそのような人となることを志すなら、まず教団が道筋を示さなければならないと私は思います。新しい契約の理想としては、そのようなことは不要なのでしょう。でも、理想をとって現実を無視するか、現実を直視して理想を断念するか、という選択を迫られたらどうすべきでしょうか。エホバの証人はたくさんあるキリスト教派の中でも特に現実主義の教派ですから、「原則の適用」なるものをしきりに説いてことにあたるのは唯一にして当然の選択だったと思います。

 そのような現実的な選択肢を選んだことが、エホバの証人に対する外部からの評価を難しくしているようです。
 他教派から見ると、エホバの証人はいかにもパリサイ的な戒律主義者であるように見えます。それで、「あなたたちは、輸血はだめだとか格技はだめだとか、そのようなことを言っているうちはキリスト教であると言えない」とか、「戒律を熱心に守ることはキリスト教の精神でない」というような批判の声が上がります。世間からも、この宗教の信者はたくさんの戒律に縛られ自分で考えることができなくなっている、という指摘があります。

 もう一つ事例を挙げます。統治体の元メンバーで今は反対者であるレイモンド・フランズ氏は、「しきたりと律法主義」という副題のもとにこのように書いています。



◇ 「良心の危機 ― 「エホバの証人」組織中枢での葛藤」, レイモンド・フランズ (表記修正)

 (統治体の会合において)聖書が話し合いに出てこない理由として最後に挙げなければならないのは、そもそも聖書が何も語ってくれないような事柄が次々に出てくることである。
 例えば、血清注射は輸血と同じと見なすべきかとか、血小板は赤血球と同じぐらい良くないものかという話し合いが行なわれる。あるいはまた、ある妻が不貞をはたらいた場合、夫に(たとえその夫が極めて乱暴な人間だとわかっていても)そのことを告白しなければならない、そうでなければその妻が悔い改めたと言ってもそれは認められず排斥の対象となる、という協会の方針について話し合う。しかし聖書のどこを見ればそのようなことが書かれているというのか。
 統治体で話し合った事例、及びその決定の一例を紹介しよう。コカコーラの会社でトラックの運転手をしていたエホバの証人がいたのだが、この人がいつも行く大口配達先の一つに大規模軍事基地があった。この仕事を続けながらもエホバの証人として認められるのか、それともこれは排斥の対象になる行為なのかというのが論点となった(ここでの問題は、軍隊関係の場所及び人と関わっているという点である)。
 聖書のどこを見ても、ややこしい理由づけや解釈抜きにはっきりとそんなことが書いてあるところはない。ところが結局統治体では、まったく聖書からの根拠はないままに、この仕事は良くないからこの人にはこの配達先をはずしてもらわねばならないと多数決で決まったのである。
 同じような例として、軍事基地内の将校用クラブでバンド演奏をしていたエホバの証人を挙げることもできる。これも統治体では「認められない」とされた。聖書は何も言わないので、人間が考えて答えを言ったわけである。
 一般にこの手の話し合いでは、ある行為が認められないとして聖書からの根拠が出されたとしても、それは例えばヨハネ15章19節の「あなた方は世のものではない」などの非常に漠然としたものであることが多かった。結局、(統治体の)メンバーのうち誰かが、これは気に入らないと思いはしてもそれ以上の理由がない場合にこの部分を挙げ、当該状況に拡大解釈して当てはめることが多いのである。そういう漠然とした部分がどんな意味なのか、また一体どんなことについての部分なのか、聖書の他の部分も検討した上で決めるべきではないのか ─ こんなことは考える必要もない無関係なことだと思われているような空気があった。



 この文書を読んで私が思うに、エホバの証人の歴史を通して「世のものではない」という聖書の原則ほど議論が必要だった原則はなかったようです。聖書はクリスチャンが世のものでないことを教えており、その概念は新約聖書全体を強く貫いています。それなのに、聖書自身はこの概念についての解説をほとんどしていません。聖書においてこの概念はまさに原則で始まって原則で終わっています。彼が言うようにこれは「漠然とした概念」であり、ほんとうに難解です。
 とはいえ、これがキリスト教の基礎的な概念であることは否定できませんし、これがあまりに漠然とした概念だったので具体的な行動には結びつかなかったとも言えません。むしろ、あらゆる具体的な行為に結びついています。これをどう理解し、実践するかはエホバの証人にとって常に課題となってきました。

 エホバの証人は現実主義の教派ですから、聖書の言うところの「世のものではない」という概念の具体的実践を日々探求する立場にあります。エホバの証人の歴史を通してさまざまな議論、さらには実験的な実践が行われ、今でもそれは続いています。エホバの証人はこの議論のゆえに他のキリスト教派からの孤立を余儀なくされてきましたし、これからもますますそうだろうと思います。

 一方のフランズ氏は、エホバの証人の原則の概念を否定するという立場にあるようです。まず、軍事基地の件について「まったく聖書からの根拠はないままに」物事を決めている、という言い方をしています。それから、聖書から判断する時も「非常に漠然とした」概念で物事を判断していると言っています。それに加えて、聖書の「世のものではない」という概念があいまいなままできちんと定義されていないという言い方をしています。ここまで書くようだと、原則を否定しているというよりは、無視しているといった感じがします。
 彼はエホバの証人の統治体をやっていた人ですから、原則という概念がエホバの証人にとってどれほど大切なものかをよく知っているはずですし、その内容の深さもやはりよく知っているはずです。それに対し、彼の文書で示されるエホバの証人の姿はあまりに底が浅いという感じがします。彼自身の表現を借りるなら、エホバの証人は「事態の一側面しか見ない尋常ならぬ考え方をする」といったところでしょうか。

 でも、私はこう思うのです。原則という概念を抜きにしても、人には「良心」というものが備わっているのではありませんか。
 たとえば、「ものみの塔」誌は「神が与えてくださった良心から益を得る」という記事の中で、原則と良心のかかわりについて論じています。



◇ 「ものみの塔」誌1982年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記等修正)

 神は,クリスチャンに広範に及ぶ法典を与えてはおられませんが,幾らかの律法,つまり絶対的な規則や,わたしたちの信仰と良心に応じて適用するための多くの原則は与えておられます。しかし,良心を持っていることと,良心から十分の益を得ることとは別問題です。
 ……わたしたちの罪深い肉体のゆえに,良心はわたしたちを誤導することがあり,良心は弱くなったり,欺かれたり,汚されたりすることがある,と聖書は示しています。……良心は,神の言葉に絶えず接して正しいことを行ないたいと思っている人をさえ誤導することがあるのです。……わたしたちは,良心上の問題で聖書の特定の律法では扱われていない,決定を要する問題に度々直面しますから,どうすれば自分の良心を訓練し,良心から最大の益を得られるかを知る必要があります。



 この文書は一つの事例を紹介しています。



◇ 「ものみの塔」誌1982年10月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記等修正)

 ナチュラル・ヒストリー誌の1981年8月号に,市内の会社に緊急な荷物や手紙を配達する,ニューヨーク市の自転車配達人に関する記事が掲載されました。この種の仕事を始めた人の実例の中に,次のことが含まれています。「41歳の配達人ドナルドは,自分の収入によって妻と15歳の息子を養うことができる。ドナルドはフィルムを現像する仕事に携わっていたが,その仕事との縁を切った。ポルノ関係のものを製造する上で果たしていた自分の役割を,エホバの証人として容認できなかったからである。配達人としてドナルドは自分の良心にやましい点はないと感ずるだけではなく,自分の自由な時に仕事を打ち切り,人々を改宗させるために一層多くの時間をささげることができる」。
 仕事を決定する際には様々な要素が関係してきます。ドナルドの場合のように,スナップ写真,自家製の映画,宣伝映画,商業用映画などのフィルムを現像する会社で働くクリスチャンがいるかもしれません。徐々にポルノに関係したものが扱われるようになっています。あるところまでくると,クリスチャンの良心は自分をとがめるようになります。自分自身がポルノや他の不法な活動にいや応なく巻き込まれていることに気付くかもしれません。ポルノを扱う会社と同列に見られるためか,あるいは依頼されている仕事のためか,その理由はともかく,会衆内の特権を得ている人,あるいはそれを追い求めている人の特別な関心の的である「とがめられるところのない」状態を保つためには,自分はその仕事を辞めなければならないと思うかもしれません。他の仕事を探すときには,確信を持ってエホバの祝福を求めることができます。(テモテ第一 3:2,8-10。ローマ 13:5)汚れたものから害を受けるよりも,そのような仕事を辞めるほうを選んだクリスチャンは数多くいるに違いありません。(マタイ 5:28と比較してください。)ですから,良心で決定すべき問題に直面するときには,『もし自分がこのことを行なうなら,あるいは退けるなら,それは自分にどんな影響を及ぼすだろうか』と尋ねるべきです。自分の良心を無視し,それをまひさせて悪いことを将来行ないやすくさせるべきでは決してありません。―テモテ第一 4:2。ユダ 10。エフェソス 4:18,19。



 ここで、「ポルノ写真を扱うことの是非について聖書は何も語っていない」とだれかが指摘するとしたら、どうでしょうか。この種の決定をした人に、「まったく聖書からの根拠はないままに物事を決めている」と言うとすれば、どうでしょうか。それは、原則とか戒律とか言う以前の、良心の問題ではないでしょうか。

 エホバの証人のよいところは、先の引用にも示されているように、聖書に書かれていないようなことであっても、聖書の原則と良心を頼りにしつつ積極的に判断するというところにあります。キリスト教のような聖典主義の宗教には、教典に書かれていないことに対しては盲目になってしまうという恐ろしいリスクがあります。しかし、聖書が教えているのは新しい契約、つまり高い精神性によるそのリスクの打破です。エホバの証人はそれを実現してみせようと努力しています。

 しかし、人がそのようにして実際にリスクを打破した時に、あるいは打破しようとして努力を重ねている時に、周囲の人々がどのようにそれを見るか、という問題があると思います。ある人はその人を戒律主義だと言うでしょうし、カルトだとも言うでしょう。そこらへんがとても悩ましいところです。






補足です。

 ここで、レイモンド・フランズ氏はかなりの要注意人物だ、ということを書き置きしておきたいと思います。

 彼は自著の中で、軍事基地で仕事をするエホバの証人について書いています。彼によると、統治体はそのことを否定する決定をしたそうです。では、この決定はどうエホバの証人社会に伝達されたとあなたは思いますか?
 というのも、統治体がその会議で何かを決定したとしても、信者たちに通知しなければ、信者サイドから見てそれは何も決定されなかったことを意味するからです。もし逆のことを通知すれば、逆の決定が行われたことになります。

 通知は「ものみの塔」誌1963年12月15日号にあります。



◇ 「ものみの塔」誌1963年12月15日号, ものみの塔聖書冊子協会 (表記等修正)

軍需工場で働くこと、陪審員をつとめること、クリスマスカードやツリーを売ることについて、クリスチャンはどんな立場をとるべきですか。― 多くの問い合わせをまとめた質問

 ものみの塔協会は、御国の福音を、もろもろの国民にあかしするため全世界に宣べ伝える目的で組織されたもので……他の種類の活動または仕事については、特別の推薦を行ないません。世俗の仕事に関係して起こり得るあらゆる状態のために規則をつくるとすれば、ひとつひとつこの仕事はどんな場合にはよく、どんな場合には良くない、とすべてこまかく区別して、タルムードのような大部の規則集を編さんしなければならないことになります。主はそのような責任を協会に課せられていません。
 自分の事を決定するのは各人の責任です。……良心の責めを感じないような行いをせねばならぬのはその人であって協会ではありません。……エホバの証人は、聖書を読み、ものみの塔協会の出版物を研究しました。それらにはクリスチャンの導きとなる正しい原則とエホバのご要求が説明されています。ですから各人は、世俗の仕事において、どうすれば良心の責めを受けずにすむか、自分で決定できるはずです。
 次のことを忘れてはなりません。つまり私たちはこの世のものではなく……ても、この世にいるので、この世の活動から完全には分離できないということです。そこで各自が責任をもって自分の良心に従い、同じ問題に対して、人がその良心に従って異なった決定を下すことがあっても、それを批判したり、批判されたりしないようにしましょう。



 いまこの文書を読んでおられる方の中には、レイモンド・フランズ氏をひいきにしている方もおられると思います。その方はこの通知を読んで唖然とすると思います。彼の書いた文書と、ものみの塔に載せられた通知とを交互に読み比べて、なんだこれは、と思うはずです。

 軍施設に関する彼の記述は、この通知をネタにした一種のパロディであるようです。そして、彼の著作は全体がこの調子です。