新世界訳
エホバの証人の聖書

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コリント第一 7:36

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,人が自分の童貞性にふさわしくない振る舞いをしていると考え,若さの盛りを過ぎており,しかもそれが当然の道であれば,その人は自分の望むことを行ないなさい。その人は罪をおかすわけではありません。その人たちは結婚しなさい。



 コリント第一 7:36は、パウロの書いた言葉の中でもとりわけ翻訳が難しいと言われている箇所です。そもそも何を言っているのかさっぱり判らない、と言われることさえあります。そのため、翻訳された聖書では様々な訳文がみられます。

 この文の訳し方は、大きく分けて3通りあるそうです。



◇ 「ものみの塔」誌1980年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 多くの聖書学者は,この聖句のギリシャ語本文を理解し,適切な訳をつけるのが困難であることを認めています。A・マーシャル博士の「希英行間逐語訳新約聖書」によると,36節のギリシャ語字義訳の冒頭は,「しかし,人が自分の処女に対して不名誉なふるまいをしていると考え……」となります。主に問題となるのは,「自分の処女」という言葉です。使徒パウロは何を意味していたのでしょうか。様々な聖書注釈書は,大抵,三つの可能性を挙げています。それらの可能性は,広く流布している数々の聖書に見られる種々の翻訳に反映されています。その三つの見解を簡単に検討してみれば,この聖句の要点を認識するのに役立つでしょう。
 1. この聖句は娘を結婚させるか,あるいはその結婚を禁じるかを定める,父親,または後見人の権威について述べているのだ,と言う人もいます。この考えを出すために,ある翻訳は「娘」という語をそう入しています。新アメリカ標準聖書はその一例です。しかし,この見解には難点があります。まず第一に,この聖句のどこにも,娘や父親や後見人について実際に語っているところはありません。そのうえ,37節は,問題となっているのが自分の意志に対する当人の権威であることを示しています。そうであれば,パウロは,女性の父親が情欲に悩まされていないというだけの理由で,その女性に独身でいるよう勧めたのだ,などとどうして結論できるでしょうか。
 2. パウロは一人の人に婚約者と結婚するかどうかについて助言を与えていたのだ,と考える人もいます。ですから,改訂標準訳はその箇所を,「人が自分のいいなずけに対してふさわしくないふるまいをしているなら,また自分の情熱が強くなるなら……」と,訳出しています。とはいえ,原語の本文はこの聖句の中で,『いいなずけの女』にも,「婚約者」にも言及していないというのが事実です。そのうえ,この取り組み方だと,男性のほうに全面的に重きが置かれます。しかし,パウロが男性のことだけを気遣い,ペテロが「弱い器」と呼んでいる女性の必要や感情には全く関心を示さなかったとするのは,キリスト教の教えと調和すると思えますか。―ペテロ第一 3:7。
 3. さらにまた,コリント第一 7章36-38節は,一緒に住んではいても,肉体的純潔を保ち,霊的な理由で性関係を持とうとしないクリスチャンの夫婦について述べているのだ,と言う人もいます。ですから,モファットの訳は,「もし人が自分の霊的な花嫁であるおとめに対してふさわしいふるまいをしていないと考えるなら……」と,訳出しています。また,新英訳聖書は,「自分の肉体的純潔を共にする者」について述べています。しかし,そのような解釈は,使徒パウロがコリント第一 7章の前半で助言している点と矛盾します。3節から5節のところで,パウロは,夫婦が互いに同意の上で一時的に禁欲する可能性について述べています。しかし,誘惑に陥らないために,ある期間を経た後には一緒になるべきである,と述べています。また,肉体的純潔を保った状態で結婚している夫婦についてパウロが語っていたとすれば,どうして情欲のために必要が生じる場合に結婚するようにと勧めるのでしょうか。



 ここでの問題は、3つある選択肢のどれにも不適切さがあるということです。そこで新世界訳聖書が採用したのが、4つ目の選択です。



◇ 「ものみの塔」誌1980年7月15日号, ものみの塔聖書冊子協会

 広く流布している聖書の多くに反映されている上記の三つの見解が,ギリシャ語で書かれたパウロの言葉やキリスト教の教えと調和しないと思われるのであれば,適切な意味を伝えるもっとふさわしい訳し方があるでしょうか。
 前述の通り,主要な問題点は,「自分の処女」という句にあります。この点に関して,エンファティック・ダイアグロット訳の脚注はこう述べています。「パルテノス,通常処女と訳されるが,童貞性あるいは肉体的純潔の状態を意味するものとしても訳出されてきた」。G・R・ベリー博士は,その希英行間逐語訳で,「穏当さを欠いてふるまう童貞性に対して彼の」と訳しています。この点からすれば,ここで言及されている「童貞」が他の人のものではなく,自分自身の童貞性のことであるという意味になるでしょう。新世界訳が世に出るよりもずっと前に,この理解を伝える英語訳がありました。J・N・ダービーの翻訳は次の通りです。「しかし,人が自分の童貞性に対して不穏当にふるまっていると考えるなら,……その人は自分の意図するところを行ないなさい。その人は罪を犯すのではありません」。(J・B・ロザハムによる聖書もご覧ください。)このような翻訳は,ギリシャ語本文とも,また独身を励ますこの箇所の前にあるパウロの言葉とも調和します。―コリント第一 7:29-35。
 ですから,コリント第一 7章36-38節で,パウロは人々に自分の必要を検討するよう勧めています。その人は性的な関心が強くなる最初の段階をすでに過ぎているでしょうか。もしそうであれば,またそして当人が依然として結婚したほうがよいと考えているなら,そうすることは罪ではありません。しかし,独身を保つことのできるクリスチャンは,主に仕える点で障害となるものが少なく,より大きな自由を享受するでしょう。



 ここで使われている「処女」という語は、男性の童貞を指して使われることもあるようです。さらに、未婚であるという意味にも使われるようです。
 ここで問題となる点はこれだけではないようですが、ややこしくなりますので、残りの説明は省きたいと思います。

 では、聖書の訳文を実際に見ていきましょう。

 まずは、1. 『父親が娘を』説です。これには実質 2 であるかもしれない場合が含まれます。



コリント第一 7:36

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。

◇ エマオ出版訳聖書 (山岸登訳聖書) ◇ (プロテスタント)
しかし、もしだれか自分の処女の娘について、自分の取り扱いが世間的に体裁が悪いと思っているなら、そして、もし彼女の婚期も過ぎようとしているならば、またそのようにすべき事情が起きたならば、彼女の望んでいることを行わせなさい。彼女は罪を犯すのではありません。彼らに結婚させなさい。

◇ バルバロ訳聖書 ◇ (カトリック)
年ごろを過ぎた娘を不面目に思っている人で、何とかしようと思うなら、心のままにすればよい。それは罪を犯すことではない、結婚させてよい。

◇ 回復訳聖書 ◇ (地方教会)
もしある人が、自分の処女の娘が青春の盛りを過ぎていて、彼女に対してふさわしく対応していないと思い、そうせざるを得ないなら、彼の望むことを行なわせなさい.彼は罪を犯すのではありません.彼らを結婚させなさい。

◇ 現代訳聖書 (尾山令仁訳聖書) ◇ (ファンダメンタル)
しかし、もしだれかが自分の娘の婚期の過ぎようとしていることを知り、そのままでは、娘に対して適切な処置を取っていないと思い、またやむをえないことがあるなら、その人が正しいと思うようにさせなさい。それは、決して罪を犯すことではない。結婚させなさい。



 続いて、2. 『自分が婚約者の娘を』説です。



コリント第一 7:36

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
もし、ある人が婚約者である女性に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。

◇ フランシスコ会聖書研究所訳聖書 [2011年版] ◇ (カトリック)
しかし、もしある人が、自分は婚約者の女性に対してふさわしくない振る舞いをしていると考えたり、情熱を抑えることができなかったりし、しかも、ほかに方法がないなら、望むとおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚に踏み切りなさい。

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
さて、もしある男性が彼の乙女〔である婚約者〕に対してふさわしくないあり方だと考えつつも、もしも彼が情熱を抑えきれず、そして〔ことが〕避けて通れないとしたら、彼の欲することをその人は行なうべきである。彼は罪を犯すのではない。彼ら〔二人〕は結婚するべきである。

◇ 柳生直行訳聖書 ◇ (プロテスタント)
婚約者のいる男が、専心、主に仕えるために結婚を中止しようと一旦は心に決めたものの、それでは相手の女がかわいそうだと考えたなら、あるいは自分の情熱を抑えることができないのなら、結婚するがよい。結婚しても罪を犯すことにはならない。



 3. 『夫が妻を』説です……が邦訳聖書に該当するものはないようです。



コリント第一 7:36



 4-A. 『自分が娘を』説 ― 相手を処女とする場合です。これには実質 2 である場合が含まれます。



コリント第一 7:36

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
もし、ある人が、婚期に達しているおとめに対して、そのままではふさわしくないと思い、また、やむをえないならば、望みどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。結婚すべきです。

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。

◇ 岩隈直訳聖書 ◇ (プロテスタント)
もしある人が,盛りをすぎる場合,彼の処女に対して品位を保っていないと思い,そうせねばならないならば,望む通りのことをせよ。その人は罪を犯すのではない。その人たちは結婚せよ。

◇ 新和訳聖書 (池田博訳聖書) ◇ (プロテスタント)
だが、仮にある男が、自分の相手の娘に対して、相応しくない振舞いだとは思いながらも、情熱を抑えることができず、また、どうしてもそうありたいというのであれば、思い通りにするがよい。その人は罪を犯すのではない。二人は結婚すべきである。

◇ 塚本虎二訳聖書 ◇ (プロテスタント)
しかし(あなた達が言うように)、ある人が彼の処女に対して折り目正しくないものを覚えるならば、また自分の精力が余り、そうせねばならない(と考える)ならば、望みのことをせよ。彼は罪を犯すのではない。二人は結婚すべきである。

◇ 田川健三訳聖書 ◇ (プロテスタント)
もしも誰かが自分の処女に対してさまにならないことをしていると思うのなら、彼女がすでに十分に成熟しており、かつそうするべきであるのならば、その欲することをなすがよい。それは罪を犯すことにはならない。結婚するがよい。

◇ 篠遠喜人訳聖書 ◇ (プロテスタント)
ある男が 相手のおとめに いきすぎのふるまいをしていると思ったり そうしなければならないときには そうさせるとよいし それは 罪にはなりません  結婚させてよいのです

◇ 高橋晶訳聖書 ◇ (プロテスタント)
もし、ある人が自分の処女について、年頃を過ぎていて体裁が悪いとみなし、このようにさせるべきであるならば、願っているようにしなさい。それは罪を犯すのではありません。結婚させなさい。

◇ 加藤常雄訳聖書 ◇ (プロテスタント)
もし、ある男が、自分の相手の娘に対し無作法なことをしたいと思うなら、もし彼が精力が余って、抑制できないようであれば、望んだとおりにしなさい。彼は過ちを犯してはいません。結婚しなさい。



 4-B. 『自分が娘を』説 ― 自分を処女とする場合です。



コリント第一 7:36

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
しかし,人が自分の童貞性にふさわしくない振る舞いをしていると考え,若さの盛りを過ぎており,しかもそれが当然の道であれば,その人は自分の望むことを行ないなさい。その人は罪をおかすわけではありません。その人たちは結婚しなさい。



 5. その他です。



コリント第一 7:36

◇ リビングバイブル [改訂新版] ◇ (ファンダメンタル)
しかし、もし高まる感情を抑えるのがむずかしいので結婚すべきだと考える人がいれば、それも結構です。罪ではありません。そういう人は結婚しなさい。






 ではここで、コリント第一 7:21の項で指摘したことの続きを書きたいと思います。(*この記述は2019年2月23日に公表されました。)

 コリント第一 7:20-24はシンメトリになっていて、それが文意を決定していました。では、その続きの部分はどうでしょうか。



コリント第一 7:25-40 全体

[H1] さて,童貞の人について,わたしは主から何の命令も受けていませんが,忠実であるよう主から憐れみを示された者として,わたしの意見を述べます。
[G1] それで,現状による必要性を考慮して,わたしは次のことがよいと考えます。人は今あるままでいるのがよいということです。
[F1] あなたは妻につながれていますか。放たれることを求めてはなりません。あなたは妻から解かれていますか。妻を求めてはなりません。
[E1] しかし,たとえ結婚したとしても,それは罪を犯すことではありません。そして,童貞の人が結婚したとしても,その人は罪を犯すことにはなりません。しかしながら,そうする人たちは自分の肉身に患難を招くでしょう。しかしわたしは,あなた方が[それに]遭わないですむようにしているのです。

[A-D] さらに,兄弟たち,わたしは,残された時は少なくなっている,という点を言います。今後,妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい。また,泣く者は泣かない者のように,歓ぶ者は歓ばない者のように,買う者は所有していない者のように,世を利用している者はそれを十分に用いていない者のようになりなさい。この世のありさまは変わりつつあるからです。実際わたしは,あなた方に思い煩いがないようにと願っているのです。結婚していない男子は,どうしたら主の是認を得られるかと,主の事柄に気を遣います。一方,結婚している男子は,どうしたら妻の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣い,彼は分かたれるのです。さらに,結婚していない女,および処女は,主の事柄に気を遣い,自分の体と霊の両面で聖なる者であろうとします。しかしながら,結婚している女は,どうしたら夫の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣います。しかし,わたしがこれを言うのは,あなた方自身の益のためであって,あなた方に輪なわを掛けるためではありません。あなた方を,ふさわしい事柄へ,また気を散らすことなく絶えず主に仕えられるような事柄へと動かすためなのです。

[E2] しかし,人が自分の処女に対して不名誉なふるまいをしていると考え,若さの盛りを過ぎており,しかもそれが当然の道であれば,その人は自分の望むことを行ないなさい。その人は罪をおかすわけではありません。その人たちは結婚しなさい。しかし,心の中でしっかりと定めており,必要もなく,自分の意志を制することができ,処女を守ろうと自らの心の中で決めているのであれば,その人はりっぱに行動していることになります。したがって,結婚して自分の処女を離れる人もりっぱに行動していますが,結婚しないで,それを離れない人は,さらにりっぱに行動していることになります。
[F2] 妻は夫が生きている間はずっとつながれています。しかし,もし夫が[死の]眠りにつくことがあれば,彼女は自分の望む者と自由に結婚できます。ただし主にある[者と]だけです。
[G2] 彼女はそのままでいたほうが幸福です。
[H2] しかし,わたしの意見では,― わたしは自分も神の霊を持っていると確かに考えています。


コリント第一 7:25-40 [A-D]の部分

[A1] さらに,兄弟たち,わたしは,残された時は少なくなっている,という点を言います。

[B1] 今後,妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい。
[B2] また,泣く者は泣かない者のように,
[B3] 歓ぶ者は歓ばない者のように,
[B4] 買う者は所有していない者のように,
[B5] 世を利用している者はそれを十分に用いていない者のようになりなさい。

[A2] この世のありさまは変わりつつあるからです。

[C1] 実際わたしは,あなた方に思い煩いがないようにと願っているのです。

[D1A] 結婚していない男子は,どうしたら主の是認を得られるかと,主の事柄に気を遣います。
[D1B] 一方,結婚している男子は,どうしたら妻の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣い,彼は分かたれるのです。
[D2A] さらに,結婚していない女,および処女は,主の事柄に気を遣い,自分の体と霊の両面で聖なる者であろうとします。
[D2B] しかしながら,結婚している女は,どうしたら夫の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣います。

[C2] しかし,わたしがこれを言うのは,あなた方自身の益のためであって,あなた方に輪なわを掛けるためではありません。あなた方を,ふさわしい事柄へ,また気を散らすことなく絶えず主に仕えられるような事柄へと動かすためなのです。



 [E]から[H]はシンメトリです。しかも、視点が移動するシンメトリです。[H]では、主か自分か、そして[F],[G]では、男か女かです。
 問題の箇所は[E2]ですから、[E2]の文意は[E1]に対して対称的だろうということが考えられます。そうするとどういうことが考えられるでしょうか。[F],[G]と同じく、[E1]は男性という視点から、[E2]は女性という視点から、同じことを述べていると考えることができるでしょう。つまり、男は結婚したければすればよいし、女も結婚したければすればよい、という意味になります。

 繰り返し述べておきますが、構造ということに気づきもせずに、ここで用いられている単語はこうだとか文法はこうだとかいうことを論じるのは、無駄なことです。