新世界訳
エホバの証人の聖書

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コリント第一 7:21

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたは奴隷の時に召されましたか。そのことで思い悩むことはありません。ですが,自由になることもできるなら,むしろその機会をとらえなさい

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい



 コリント第一 7:21を異なる聖書で読み比べると、翻訳によって、全く逆の意味に訳されていることに気づかされます。

 コリントのクリスチャンへ手紙は、パウロが書いたものの中でも読者を試みる傾向が顕著で、あいまいで判別しがたい表現が多くあります。この句はそのような句の一つです。
 ここでパウロが用いたギリシャ語の表現は、字義通りに読むと、「……というよりは、[それを]用いなさい」です。これは、どちらの意味にも読めるようです。

 新世界訳聖書の読みは、文脈のコリント第一 7:23と調和します。



コリント第一 7:23

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなた方は代価をもって買われたのです。もう人間の奴隷となってはなりません。



 しかし、文脈にはコリント第一 7:20の言葉もあります。



コリント第一 7:20

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
どんな状態で召されたにしても,各自それにとどまっていなさい。



 このようなわけで、コリント第一 7:21をどちらの意味に訳出するのが正しいのかということについては、今でも意見の相違がみられ、翻訳も分裂しています。

 では、いろいろな聖書を見ていきましょう。
 まず、新世界訳聖書と同じ意味に訳しているものです。



コリント第一 7:21

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
あなたは奴隷の時に召されましたか。そのことで思い悩むことはありません。ですが,自由になることもできるなら,むしろその機会をとらえなさい

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう

◇ 新改訳聖書 [第三版] ◇ (ファンダメンタル)
奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい

◇ 口語訳聖書 ◇ (プロテスタント)
召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい

◇ フランシスコ会聖書研究所訳聖書 [2011年版] ◇ (カトリック)
あなたは、召されたとき奴隷だったのですか。そのようなことを気にしてはなりません。しかし、もし自由の身になることができるなら、そうしたほうがよいでしょう

◇ リビングバイブル [改訂新版] ◇ (ファンダメンタル)
あなたが奴隷でも、そのことを気にしてはいけません。もし自由の身になる機会があれば、もちろん自由になりなさい

◇ エマオ出版訳聖書 (山岸登訳聖書) ◇ (プロテスタント)
あなたは、召されたとき奴隷であったのですか。気にしてはいけません。しかし、もし自由になることができるならば、むしろ(その機会を)使いなさい

◇ 柳生直行訳聖書 ◇ (プロテスタント)
召されたとき、あなたが奴隷であったとしても、その身分を気にしてはならない ― 自由の身になれる機会があれば、むろん、それを捉えるべきではあるが

◇ 新和訳聖書 (池田博訳聖書) ◇ (プロテスタント)
あなたは奴隷であって召されたのか。あなたは、それに囚われてはならない。だが、もし、本当に自由になれるのであれば、そうするのも良かろうが

◇ 現代訳聖書 (尾山令仁訳聖書) ◇ (ファンダメンタル)
奴隷が入信したのなら、そのことを気にすることはない。しかし、もし自由の身になれるのなら、自由になったらよい

◇ 篠遠喜人訳聖書 ◇ (プロテスタント)
どれいで召されても それを気にしてはいけません  しかし 自由の身になれるのならおなりなさい



 続いて、聖書協会共同訳聖書と同じ意味に訳しているものです。



コリント第一 7:21

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい

◇ 新共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい

◇ 共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろ奴隷のままでいなさい

◇ バルバロ訳聖書 ◇ (カトリック)
あなたが召された時に奴隷であったなら、それを気にするな。あなたが自由の身になれるにしても、むしろ奴隷としての身分を利用せよ

◇ 回復訳聖書 ◇ (地方教会)
あなたは奴隷として召されたのですか? 気にすることはありません.しかし、たとえあなたが自由になることができるとしても、むしろ奴隷の身分でありなさい

◇ 岩隈直訳聖書 ◇ (プロテスタント)
君は奴隷として召されたのか。(それを)気にするな。そうしないで,たとい自由になることができても,むしろ(奴隷身分を)利用せよ

◇ 塚本虎二訳聖書 ◇ (プロテスタント)
あなたは奴隷として召されたのか。それを気にすることはない。かえって、(釈放されて)自由人になることが出来るとしても、むしろ(奴隷たる身分を)利用せよ。(そのままにしていたがよい。)

◇ 加藤常雄訳聖書 ◇ (プロテスタント)
あなたは奴隷として召されました。気にしてはいけません。仮にあなたが自由人になることができるとしても、むしろ奴隷の状態を使いなさい



 中立、もしくは字義訳です。



コリント第一 7:21

◇ 田川健三訳聖書 ◇ (プロテスタント)
招かれた時に奴隷であったとしても、気にすることはない。たとえ自由になることが可能であっても、むしろ用いるがよい

◇ 高橋晶訳聖書 ◇ (プロテスタント)
あなたは奴隷の時に召されたのですか。それはあなたにとって心配なこととしてはいけません。かえって、もし自由な者となることができるならば、むしろそれを用いなさい



 その他です。



コリント第一 7:21

◇ 岩波訳聖書 (新約聖書翻訳委員会訳聖書) ◇ (エキュメニカル)
あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい



 岩波訳聖書の訳は、やはり文脈のコリント第一 7:17-19と調和します。



コリント第一 7:17-19

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
ただ各人は,エホバがそれぞれに与えてくださったところに応じ,神に召されたとおりに歩みなさい。そして,わたしはすべての会衆でこのように定めているのです。割礼を受けてから召された人がいますか。その人は無割礼になってはなりません。無割礼のままで召された人がいますか。その人は割礼を受けてはなりません。割礼には何ら意味がなく,無割礼にも何の意味もありません。ただ神のおきてを守り行なうこと[に意味があるのです]。



 岩波訳聖書はこのような訳文を採用した考え方を脚注で述べています。



◇ 岩波訳聖書 (旧約聖書翻訳委員会訳聖書), コリント第一 7:21 脚注

 奴隷の主人が解放を宣言した場合に、それに逆らうことは奴隷には不可能であったので、解放奴隷(自由人)になる以外に方法はないのだが、その場合でも「神の召し」そのものは大切に考え続けなさい、という意味であろう。そうだとすれば、口語訳も新共同訳も誤っていることになる。






 さてここで、この聖句について私からひとつ指摘をしておきたいと思います。(*この記述は2019年2月19日に公表されました。)

 パウロには不明瞭な文章を意図的に書くという傾向があります。そうすると、聖書を研究する様々な方がその文意を明らかにしようとして取り組みを行い、様々な推論と結論を述べることになるのですが、私は、みんなそろって根本的なところを間違えていると思うのです。

 このウエブサイトですでに何度か述べていますが、私は聖書を読むとき『構造』ということに注目し、そこから文意を組み立てていきます。この句の場合、構造はこんなふうになります。



コリント第一 7:20-24

[D]
どんな状態で召されたにしても,各自それにとどまっていなさい。
ἕκαστος ἐν τῇ κλήσει ᾗ ἐκλήθη ἐν ταύτῃ μενέτω.

[C1]
あなたは奴隷の時に召されましたか。
δοῦλος ἐκλήθης;
そのことで思い悩むことはありません。
μή σοι μελέτω·

[B1]
ですが,自由になることもできるなら,
ἀλλ' εἰ καὶ δύνασαι ἐλεύθερος γενέσθαι,
むしろ用いなさい。
μᾶλλον χρῆσαι.

[A]
主にある人で奴隷の時に召された人は
ὁ γὰρ ἐν κυρίῳ κληθεὶς δοῦλος
主の自由民だからです。
ἀπελεύθερος κυρίου ἐστίν·

[B2]
同じように,自由な人の時に召された人は
ὁμοίως ὁ ἐλεύθερος κληθεὶς
キリストの奴隷です。
δοῦλός ἐστιν Χριστοῦ.

[C2]
あなた方は代価をもって買われたのです。
τιμῆς ἠγοράσθητε·
もう人間の奴隷となってはなりません。
μὴ γίνεσθε δοῦλοι ἀνθρώπων.

[D]
兄弟たち,どんな状態で召されたにしても,各自神と結ばれて,それにとどまっていなさい。
ἕκαστος ἐν ᾧ ἐκλήθη, ἀδελφοί, ἐν τούτῳ μενέτω παρὰ θεῷ.



 これはシンメトリ(対称構造/集中構造)です。しかも、[D]が二回述べられていてこれが枠の役割を果たしていますので、解りやすいシンメトリです。このようなわけで、[B1]は[B2]と、[C1]は[C2]と対応しています。しかも、[A],[B],[C]の各項目は、前半と後半とで逆説(あるいは反論)の組になっています。

 私はこういう文章を見ると、これはいかにもパウロらしい書き方だ、と思います。ところが、聖書研究の世界を広く見渡しても、こういうものの感覚で聖書を読んでいる人は私くらいしかいないらしいです。誰もこういうことを思い当たらないようで、私としては不思議に思います。
 こういうことに気づかずに、ここで用いられている単語はこうだとか文法はこうだとかいうことを論じるのは、見当違いというものでしょう。
 文を組み上げるにあたっての前提が違うのです。文章構造を完成させることが優先されており、文意は構造によって決まるのです。

 問題の箇所は[B1]になります。各項目が前半と後半とで逆説になっていることからすると、[B1]の後半は「自由になるな」の意味である可能性が高くなります。しかし、それほどことは簡単ではありません。[B1]は[B2]と対になっているからです。パウロは[B2]の前半と後半とで視点を移し、二つの立場を述べています。[B1]の後半でも視点が移動しているとすると、その意味は「しかしキリストの奴隷からは自由になるな。ますます奴隷であれ。」になります。ここで重要なのは、構造に注目することにより、[B1]後半において奴隷であることの対象がキリストに転換するということです。こういった認識は、構造を無視して文意を考えていたのでは決して生まれてきません。

 なお、この指摘については、コリント第一 7:36の項に続きがあります。