エホバの証人の聖書

コリント第一 7:21

新世界訳聖書(エホバの証人)「あなたは奴隷の時に召されましたか。そのことで思い悩むことはありません。ですが、自由になることもできるなら、むしろその機会をとらえなさい。」

新共同訳聖書(カトリックとプロテスタント)「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」


 新共同訳聖書で「むしろそのままでいなさい」となっているところが、新世界訳聖書では「むしろその機会をとらえなさい」となっています。
 意味が全く逆になっています。
 新世界訳聖書の訳は間違っているのでしょうか。

口語訳聖書(プロテスタント)「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。」

 口語訳聖書の訳からすると、新世界訳聖書が間違っているとは言えないようです。


 コリント会衆へのパウロの手紙は、パウロが書いたものの中でも、読者を試みる傾向が顕著で、あいまいで判別しがたい表現が多くあります。
 ここでパウロが用いたギリシャ語の表現は、字義どおりに読むと、「……というよりは、[それを]用いなさい」です。
 これは、どちらの意味にも読めます。

 新世界訳聖書の読みは、文脈の 23節と調和します。

新世界訳聖書(エホバの証人)「あなた方は代価をもって買われたのです。もう人間の奴隷となってはなりません。」

 しかし、20節、22節、24節があります。

新世界訳聖書(エホバの証人)「どんな状態で召されたにしても、各自それにとどまっていなさい。」

新世界訳聖書(エホバの証人)「主にある人で奴隷の時に召された人は主の自由民だからです。同じように、自由な人の時に召された人はキリストの奴隷です。」

新世界訳聖書(エホバの証人)「兄弟たち、どんな状態で召されたにしても、各自神と結ばれて、それにとどまっていなさい。」

 このようですから、文脈を考慮しても、パウロがどういう意味でこれを述べたのか、はっきりとした結論はでません。
 ですから、これは翻訳者の裁量次第となります。


 バルバロ訳聖書は、先とはまた違った訳を採用し、ここをこのように訳しています。

バルバロ訳聖書(カトリック)「あなたが召された時に奴隷であったなら、それを気にするな。あなたが自由の身になれるにしても、むしろ奴隷としての身分を利用せよ。」

 新約聖書翻訳委員会訳聖書はさらに違う読みをしています。

新約聖書翻訳委員会訳聖書(エキュメニカル)「あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい。」

 新約聖書翻訳委員会の訳は、この文の導入となる、17節から19節に調和します。

新約聖書翻訳委員会訳聖書(エキュメニカル)「むしろ、主がそれぞれに分け与えられ〔たものに応じ〕、〔また〕神が召されて〔ここに至っている今〕に応じて、それぞれは歩みなさい……むしろ神の誡めを守ることこそ〔が重要〕なのである。」(途中略)


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