新世界訳
エホバの証人の聖書

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ヘブライ 12:2

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめながら。この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られたのです。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
私たちの信仰を導き,完全にしてくださる方であるイエスを一心に見つめながら走るのです。イエスは,前途にある喜びのために,恥を物ともせず苦しみの杭に耐え,神の座の右に座りました。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。



 この聖句では、参照資料付き聖書に「信仰の主要な代理者」という訳語が見られます。キリスト教の諸教会はエホバの証人を批判して、「聖書のこの部分で用いられているギリシャ語に“主要な代理者”という意味はない。このような訳は聖書の改竄にあたる。」と指摘してきました。
 どうして参照資料付き聖書はこのような訳語を採用したのでしょうか。

 まずはギリシャ語の語義ということを確認しましょう。



◇ 「新約聖書のギリシア語」, ウィリアム・バークレー (表記修正)

 イエスは救いのアルケーゴス ἀρχηγὸς 、つまり先駆者、通った道にしるしをつける開拓者である。



 ここで用いられているギリシャ語アルケーゴスには、「先駆者」、「先導者」、「開拓者」というように、「先頭に立つ者」という基本概念があるそうです。
 この語に「君(または王)」という訳語を充てる聖書がありますが、そのような場合、王座に座って威厳を示している王というイメージではなく、国民の先頭に立って国家事業を行う王というイメージになります。

 ところが、いま見ているヘブライ 12:2など、聖書におけるこの語の用例を見てみると、アルケーゴスの語義と聖書におけるその語の使い方には違いがあるということに気づかされます。

 この句を、文脈を含めて見てみましょう。



ヘブライ 11:1-12:2

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
信仰とは,望んでいる事柄が実現するという確信であり,目に見えないものが実在するというはっきりとした証拠を持っていることです。この信仰によって,昔の人たちは神に高く評価されました。
信仰によって私たちは,さまざまな体制が神の言葉によって形作られ,見えるものが見えないものから存在するようになったことを悟ります。
信仰によってアベルは,カインの犠牲よりも価値のある犠牲を神に捧げ,その信仰のゆえに正しい人と評価されました。神はアベルの供え物を良いと認めたのです。アベルは死にましたが,今も信仰によって語っているといえます。
信仰によってエノクは,死を見ないように移されました。神によって移されたので,どこにも姿が見えなくなりました。移される前に,神に喜ばれて高く評価されたのです。 信仰がなければ,神に喜ばれることはありません。神に近づく人は,神が存在し,熱心に仕えようと努める人たちに報いてくださる,ということを信じなければなりません。
信仰によってノアは,まだ見ていない事柄について神から警告された後,神への畏れを示し,自分の家族を救うために箱船を建造しました。そして,この信仰により世を断罪し,信仰のゆえに正しいと認められました。
信仰によってアブラハムは,神に招かれた時に従い,神から与えられることになる場所へ向かいました。行き先も知らないまま出掛けたのです。そして信仰によって,約束の地で外国人として暮らし,自分と同じ約束を与えられたイサクやヤコブと共に天幕に住みました。アブラハムは真の土台を持つ都市を待ち望んでいたのです。その都市の設計者および建設者は神です。
信仰によってサラも,すでに老齢になっていたのに子孫をもうける力を得ました。約束をした方は信頼できる方である,と信じていたからです。こうして,老齢のアブラハム1人から,たくさんの子孫が生まれました。その数は天の星のように多く,海辺の砂のように数え切れません。
これらの人は皆,信仰を抱いて死にました。生きている間には約束されたものを受けませんでしたが,それをいわば遠くから見て喜び,自分たちがよそ者で一時的居住者であることを人々に伝えました。そのように語る人は,住むことになる場所を心から求めていることをはっきり示しています。もし彼らが,後にした場所をいつも思い出していたのであれば,帰る機会もあったことでしょう。しかし今,彼らは,より良い場所,つまり天と関わりのある場所を切望しています。それで神は,彼らを恥じてはおらず,彼らから神として呼び掛けられることも恥じていません。彼らのために都市を用意しています。
信仰によってアブラハムは,試された時にイサクを捧げたも同然でした。約束を与えられて喜んだ人が,自分の独り子を捧げようとしたのです。「あなたの子孫と呼ばれる者はイサクから出る」と言われていたにもかかわらずです。アブラハムは,イサクが死んでも神は生き返らせることができる,と考えました。そして,いわばイサクを死から取り戻し,それは1つの例となりました。
信仰によってイサクは,将来起きる事柄に関してヤコブとエサウのために祝福を願いました。
信仰によってヤコブは,死ぬ間際にヨセフの息子たちそれぞれのために祝福を願い,つえに寄り掛かりながら神を崇拝しました。
信仰によってヨセフは,死が近づいた時にイスラエルの子孫の脱出について語り,自分の骨について指示を与えました。
信仰によってモーセの両親は,モーセを生後3カ月の間隠しました。その子が美しいのを見たからであり,王の命令を恐れなかったのです。信仰によってモーセは,成人した後ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み,罪のつかの間の快楽にふけるよりも神の民と共に虐待されることを選びました。任命された者として非難を受けることは,エジプトの宝より価値がある,と考えたからです。報いを一心に見つめたのです。信仰によってモーセは,王の怒りを恐れることなくエジプトを去りました。目に見えない方を見ているように,しっかりと立ち続けたのです。そして信仰によって,過ぎ越しと血を掛けることとを執り行い,滅ぼす者が民の初子たちに危害を加えることがないようにしました。
信仰によって民は,乾いた陸地を通るかのように紅海を渡りました。一方,同じように渡ろうとしたエジプト人は,海にのみ込まれました。
信仰によって民は,7日間エリコの城壁の周囲を回り,その後に城壁は崩れ落ちました。信仰によって娼婦ラハブは,不従順に行動した人々と共に滅びないで済みました。偵察者たちを親切に迎え入れたからです。
これ以上,何を言えばいいでしょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者について語っていくなら,時間がなくなるでしょう。信仰によって彼らは,幾つもの王国を打ち破り,正しいことを推し進め,約束を与えられ,ライオンの口をふさぎ,火の勢いを食い止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強くされ,力強く戦い,攻めてきた軍隊を敗走させました。女性たちは,死んだ家族を復活させてもらいました。ほかの人たちは,さらに勝った復活を経験するために,何らかの贖いによる釈放を受け入れなかったので,拷問に掛けられました。さらにほかの人たちは,あざけられたり,むち打たれたりしただけでなく,鎖につながれたり,投獄されたりすることによっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試され,のこぎりで切り裂かれ,剣で切り殺され,身に着ける物は羊やヤギの皮で,困窮し,苦難を味わい,虐待されました。世は彼らにふさわしくなかったのです。彼らは砂漠や山々,また洞窟や地下の穴をさまよいました。
しかし,これらの人は皆,信仰のゆえに高く評価されながらも,約束されたものを受けませんでした。神は,さらに勝ったものを私たちに与えることにしていたので,私たちなしでは彼らが完全にされることがないようにしたのです。
それで,これほど大勢の証人たちに囲まれているのですから,私たちもあらゆる重荷と,すぐに絡み付く罪を捨て,参加している競走を忍耐して走りましょう。私たちの信仰を導き,完全にしてくださる方であるイエスを一心に見つめながら走るのです。イエスは,前途にある喜びのために,恥を物ともせず苦しみの杭に耐え,神の座の右に座りました。



 聖書はここで、聖書の中の『信仰の歴史』ということを語っています。最初に登場するのは、聖書の物語における最初の義人アベルです。イエスではありません。
 イエスはどこに出てくるでしょうか。最後です。イエスは信仰の歴史の最後に現れて、その総仕上げをする役割を果たすことになっています。

 つまり、聖書はこの語を「先駆者」という意味では用いていないようです。そうすると、新改訳聖書のようにこの語を「創始者」と訳すのは間違いであるということになります。実際問題、イエスは信仰の創始者ではありません。
 参照資料付き聖書はこの語を「主要な代理者」と訳しました。この訳語は、参照資料付き聖書英語版の“Chief Agent”に対応していて、「主要な」という語には「先頭に立つ」の意味があります。それに「代理者」がついていますから、「先頭に立つ代理人」というような意味になります。
 代理人というのは普通、ひとたび誰かの代理人の立場に立つと、その人に代わってその人の業務を行うことになります。つまり、「後から来て先頭に立つ」あるいは「後から来てその人を導く」ということになります。また、聖句がイエスの弟子たちに言及して「私たちなしでは」と述べ、ここで言うところの「代理人」が複数いることを示していますので、イエスは「代理人たちの先頭に立つ者」であるということも言えます。

 そういうわけで、参照資料付き聖書の「主要な代理者」という訳は、聖書の原語のニュアンスとその実際の用法とをよく吟味した、見事な訳だと言えるようです。






 ウエブサイト「エホバの証人への福音」に掲載された「長老兄弟への手紙~管理人が長老団へ渡した手紙の全文を公開」という文書は、使徒 3:15を示しながら、この訳語の問題についてこう指摘しています。



使徒 3:15

◇ 新世界訳参照資料付き聖書 ◇ (エホバの証人)
一方では,命の主要な代理者を殺しました。しかし神はこの方を死人の中からよみがえらせたのであり,わたしたちはその事の証人です。

◇ 新世界訳聖書 [2019年改訂版] ◇ (エホバの証人)
こうして,命へと導く方を殺しました。しかし神はイエスを生き返らせました。私たちはそのことの証人です。

◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。

◇ 新改訳聖書 [2017年版] ◇ (ファンダメンタル)
いのちのを殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。



◇ 「長老兄弟への手紙~管理人が長老団へ渡した手紙の全文を公開」, 「エホバの証人への福音」

 新世界訳聖書で「主要な代理者」と訳されているギリシャ語「Archegos」は、「君主・先導者・創始者」という意味であり、常に第一原因を表す言葉です。ですから、「代理者」という意味は、この語には全くありません。わかりやすく言い換えると、ギリシア語の原文で「社長」と書いている箇所を、協会側は「社長代理」と書き換えたことになります。
 これは、元の原語を全く違う意味にしてしまう訳出であり、意訳を飛び越えて、改ざんに該当してきます。他の色々な聖書を確認しましたが、このように、原語の意味を変えてしまっているのは、新世界訳聖書だけです。
 協会側が、この語を「主要な代理者」と訳出した理由は、はっきりと理解できます。ものみの塔の教えでは、神は最初にイエスを創造し、そのイエスによって他の命を創造したとされているわけですが、この教えが正しいとすれば、イエスは「命の創始者・君主」ではなく、あくまで「被造物」であり、神の「代理」としての創造者ということになるからです。
 しかし、その教えは、イエスを「命の君主・創始者」と証言したペテロの告白と矛盾します。そこで協会、教理を見直すのではなく、原文の意味を書き換える、という方法を選択した、ということになると思います。なお、行間逐語訳では、この箇所に、「Chief Leader」という語が正しく適用されていますので、協会側は、このギリシア語の正しい訳出が、「君主・創始者」であることを、明確に理解していることになります。
 また、全く同じような書き換えは、新約聖書の中に、他にも三箇所見られます。これらの全ての聖句において、「創始者・君主」と訳されるべき箇所が、全て「主要な代理者」に変えられています。



 状況を理解していないうえに、エホバの証人という宗教を曲解しています。

 この句は、天地創造の時にイエスが「命の創造者」となったことに言及しているように読めなくはありませんが、「復活の命の先駆者」と読むほうが正しいようです。そうするとここはどう訳したらよいのかが難しいところですが、参照資料付き聖書は、聖書中に4つある用例すべてで訳語を統一することを考えたようです。
 エホバの証人の資料は、イエスは「復活の命の主要な仲介者」であると説明しています。



◇ 「新実用聖書注解」, いのちのことば社

 人はイエスによって、死から命へ、闇から光へ移される。イエスを「君」として仰ぎ、生と死におけるただ一つの慰めの源と信じるべきである。



◇ 「聖書に対する洞察」, 『イエス・キリスト』の項, ものみの塔聖書冊子協会

 キリスト・イエスはみ父の過分のご親切の一つの表現として,ご自分の完全な人間の命を犠牲としてお捨てになりました。その結果,キリストの選ばれた追随者たちがキリストと結ばれて天で共に統治することが可能になり,またその王国の支配を受ける地上の臣民のための取り決めを設けることも可能になりました。(マタ 6:10; ヨハ 3:16; エフェ 1:7; ヘブ 2:5。「贖い」を参照。)そのようにして,イエスは全人類のための「命の主要な代理者[「君」,欽定; エルサレム]」となられました。(使徒 3:15)ここで使われているギリシャ語は,基本的には「主要な指導者」を意味しており,これと関連のある語がイスラエルの「支配者」としてのモーセ(使徒 7:27,35)に適用されています。
 したがって,「主要な指導者」,または「命の開拓者」(モファット)としてのイエス・キリストは,仲介者もしくは仲立ちになったという意味で,とこしえの命を得るための新たな肝要な要素をもたらされた方ですが,行政上の意味でもそのような方です。イエスは罪からの完全な清めと罪のもたらす致命的な影響からの解放を成し遂げることのできる,神の大祭司です。(ヘブ 3:1,2; 4:14; 7:23-25; 8:1-3)また,任命された裁き主であり,すべて裁きはこの方の手にゆだねられているので,この方は人類の中の個人個人に各々がご自分の王権の下で生きるに値するかどうかにしたがい,分別を働かせてご自分の贖いの益を施されますし(ヨハ 5:22-27; 使徒 10:42,43),死者の復活もこの方を通して行なわれます。(ヨハ 5:28,29; 6:39,40)エホバ神がみ子を用いることをそのようにお定めになったゆえに,「ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」。―使徒 4:12。ヨハ一 5:11-13と比較。
 その「名」にはイエスの権威のそのような側面も含まれているので,イエスの弟子たちは命の主要な代理者の代表者として,その名によって,人々の受け継いだ罪に起因する病をいやすことができ,また死者をよみがえらせることさえできました。―使徒 3:6,15,16; 4:7-11; 9:36-41; 20:7-12。



◇ 新世界訳聖書英語スタディー版, 使徒 3:15の注釈

 いくつかの聖書翻訳はこの表現を「創始者」と訳しているが、聖書はイエスがそのような描写に当てはまらないことをはっきり示している。



 ここで私が特に問題だと思うのは曲解の部分です。しかも、文書はこれを「はっきりと理解できます」と断言してしまっています。
 人は常々なにかを無理矢理曲解したりするものですが、それをわざわざ手紙にして当事者に送りつけ、そのうえインターネット上に公開するというのはいかがなものでしょうか。
 手紙を受け取った長老は、あきれかえりながら「この人は会話のできない人だ」と思ったかもしれません。