エホバの証人のコラム

#5 宗教における自由の二面性


 私たちは、一部の地域を別にすれば、自由な思想と行動が保証された世界に住んでいます。法を犯すのでない限り、人は自由に考えて行動することができます。自由であることは多様性を生みます。多様性があってこそ、その社会は健全であると言うことができます。
 しかし、この健全な社会には落とし穴もあります。理想論がジレンマを産む事例を考えてみましょう。
 結論を出すべき一つのテーマがあると、いろいろな人々からさまざまな意見が寄せられます。一般的な意見もあれば、そうでない意見もあり、中には明らかに間違っている意見もあります。正義の多様性、この状態こそが私たちの社会のよしとする健全な状態です。このようにして異なる意見が自由に提出されるからこそ、人々は正しく考えて正しく結論を下すことができるのですから。ところが、そうやって正しく考え結論を出したときにジレンマが生じます。ひとたび「この意見は正しい」とか「あの意見は間違っている」といった結論が出てしまうとどうでしょうか。もはや間違った意見を正しいと主張することは認められなくなるので、正義の多様性が損なわれてしまいます。正義の多様性が損なわれると健全な推論ができなくなるので、結局は正しい結論が出せなくなる可能性があります。それで結局のところどうなるかというと、「正しく考えて結論を出すために必要だ」と称してあらゆる種類の意見が集約される状態が維持されることになります。つまり、結論を出すために意見を集約するも結論は出ないという状態です。この理想世界においては、もし誰かが結論を出したとしてもそれはあくまで一つの正義にすぎないということになり、理想状態が維持されます。
 今度は、理想論が現実の限界に直面する事例を考えてみましょう。
 正しい推論を行って正しい結論を下すには、あらゆる意見を集約することが不可欠要素となります。ところが、人がこれを本気になって実践するとどうなるでしょうか。テーマによっては、意見を集めて考えるだけで途方もない時間を費やすことになります。へたをすれば一生かかって意見を集め続けるはめになり、とうとう結論は出せないことになります。仮に結論が出せても、そこにはまだ提出されていない未知の意見があるに違いありませんので、結論は仮のものとして扱われます。実際問題、人間の脳は容量においても思考能力においても限界がありますので、すべての正義を集約することなどできませんし、それができても今度は正しく推論することができません。そのうえ、人間の人生はせいぜい100年あるかどうかですからできることにも限界があります。人類の歴史は長いですが、無限に時を経て無限に経験を積み重ねてきたわけではありません。仮に無限の経験があったとしても、それを活かせる人はいません。結局のところ、人間は正しく考えて正しく結論を出せなどしません。
 今度は、理想論が理想的な結果を生むわけではないという事例を考えてみましょう。
 最近よく行われているような仕方で子供たちに自由に生きることを教えるとします。大人たちは、「そこはこうしたらいいよ」とか「こうすべきだ」などと言って手助けをしたりはしません。ただ、子供たちが自分で考えて判断しているかを見届けます。そうするとどうでしょうか。子供たちは一定の割合で正しくない判断を下すことになるでしょう。それが結果を生むと、その子はつらい目に遭います。それが一時のことであればよいのですが、そうでないこともあります。人間にとって、自由であるということは、一定の割合で不幸になることを意味しています。自由であることは幸福の必要条件なのですが、残念なことに、自由の度合いを高くするほど不幸になる人は増えるようです。

 人はみな、こういった問題にそれなりに対処しているものですが、この点で特に優れているのが、宗教という形式です。
 人に自由を与えると、一定の割合で間違いが生じたり不幸になったりするので、あえて自由を制限することによってそれを解決してしまおう、という考え方です。正しいことに関するさまざまな意見も、挙げていけばきりがありませんのであえてそのようなことをせず、特定の正義を掲げて他の正義は無視することにします。
 世の相対的な視点から定義すると、宗教とは正義の完全性よりも効率を達成するものと言えます。そこで、大切なのは効率の度合いということになります。自由を制限して効率よく信者の幸福を達成している宗教はよい宗教だと言えます。

 エホバの証人の場合、キリスト教ですので聖典として聖書があります。聖書においては、このことは単純明快に「すべてのことは許されているがそれが益になるとは限らない」という言葉によって示されています。そこで聖書は、「自由を肉のための誘いとして用いるな」と述べ、「あなた方は罪から自由にされ、義に対する奴隷となった」と述べます。つまり、自由を不幸になるような仕方で用いることはあらかじめ禁じられています。自由ではあるが、これを悪用することはもちろん誤用することも許されない、というのがキリスト教の自由の概念です。聖書によれば、この世は「荒れ狂う自由の海」であり、そこに真の平安はありません。
 子育てを行う場合、エホバの証人の親は子供を自分の宗教の枠にしっかりとはめてしまいます。エホバの証人の「ああしなければならない」とか「こうしてはならない」という教えを子供に実践させます。さらに、子供がどのような情報を取り入れているかを入念に監視し、制限します。これは、無制限に情報を与えると子供の心は腐敗するという考え方に基づいています。エホバの証人の子供は、親の認めたテレビ番組や映画や音楽やゲームを楽しみます。新譜のCDを購入したのに、親から「この音楽は歌詞が攻撃的なのでよくない」とか「下品だ」とか言われたりして、それをゴミ箱に捨てるということはよくあることです。
 このような努力はそれなりの成果を生んでいます。エホバの証人の子供たちに攻撃的な子や下品な言葉を使う子はまずいません。登校拒否や非行もほとんどありません。好き勝手に振る舞って他人に迷惑をかけることもありません。責任感があり、誠実ですので学校での成績もよく、教師からも信頼されます。一方で、エホバの証人の子供たちに「できないこと」が多いことが問題視されています。

 特に最近は、宗教問題の専門家がエホバの証人の子育てに懸念を表明することが増えています。「エホバの証人の親に育てられた子供は思想が偏る恐れがある」などと言います。彼らは「子供は親のおもちゃではない」と言ってエホバの証人の親たちを非難し、「エホバの証人の親は子供を宗教の枠にはめるのをやめ、自由にしてやるべきだ」と言います。
 一方のエホバの証人の視点では、子供を自由にするなど、とんでもないことです。「自由にすれば根本的に思想が偏る恐れがある」と考えます。「子供は実験用の動物ではない」ので、「子供の幸福のために、大人たちはもっと責任を持って子供を管理すべきだ」と言います。
 ここには、自由に至高の価値を認める一般社会と、そうではないエホバの証人との価値観の違いがあります。双方から見て、相手側はずいぶんと異常なことをしています。このところヨーロッパでエホバの証人がたたかれることが多くなっているのは、こういったことが一因のようです。

 ここで、このコラムのテーマになっている「宗教における自由の二面性」について触れたいと思います。
 私たちのこの社会は、それ自体が親子に例えられる構造を持っています。いろいろな宗教はその子供たちということになります。親は、たくさんある子供たちの世話をし、子供たちをみな対等に扱わなければなりません。つまり、つまはじきにされる子社会があってはならないため、親社会は完全に自由でなければなりません。こうして、親社会においては自由こそが至高のものとされます。
 一方、子社会は個性を持つことができます。つまり、自由を制限できます。子社会には宗教でないものもあります。たとえば、ある野球チームのファンクラブは対立するチームのファンを受け入れませんし、インターネットの会員制アダルトサイトはそのコンテンツを望む人だけを受け入れます。
 子社会が個性を持つことができるのは、ひとえに親社会の完全な自由性のゆえです。親社会があらゆる種類の子社会を受け入れることができるからこそ、特定の子社会が存在し得ます。さらに、親社会の傘のもとにあるからこそ、子社会同士は共存共栄の道を歩むことができます。またさらに、親社会の存在ゆえに、子社会は人権侵害の過ちを避けることができます。つまり、子社会においては自由が制限されているため、そこでは生きていけないという人が必ず現れますが、その人は子社会から親社会に脱出するか、別の子社会に移動することによって自分の権利を保つことができます。子社会が存在することは、特定の生き方を持っている人にとって福祉となります。つまり、その人は、自分の思想と合った子社会に属してさまざまな支援を受け、自分の望む生き方を達成していくことができます。これらすべてを保証することにより、親社会は見返りとして多様な価値観の共存する理想状態を達成することができます。
 このことをきちんとわきまえた宗教団体は、それに応じたふさわしい態度を取りますが、そうでない宗教団体も多々あります。彼らは、自分たちの信じる正義をちまたに広めて親社会と対等になるか、親社会そのものになることを夢見たりします。かつてのキリスト教世界や、近代の全体主義政体にその事例を見ることができます。一方、わきまえのある宗教団体は、自分の宗教の内側に対しては自由を制限することを求めつつも、その外側には、制限なき自由があるべきことを強く主張します。その宗教にとって認められない自由についても、それがあるべきことを認めます。
 こうして、成熟した宗教にははっきりとした自由の二面性が見られるようになります。エホバの証人はこの点でかなり目立つ存在です。たとえば、エホバの証人は輸血を否定しますが、街角で輸血に反対するデモ行進などを行ったりはせず、むしろ社会に対しては、輸血したい人が輸血し、輸血したくない人が輸血を拒否する自由を求めます。

 私が心配しているのは、こういったことをわきまえていないのが一部の宗教団体だけではないことです。宗教の専門家にもそういう方がたくさんおられます。宗教問題の専門家たちに、“宗教とは効率よく自由を制限するもの”という認識がないと、その宗教がどれほどの効率を達成していても、自由でないことが問題視されてしまいます。彼らが「エホバの証人の子供たちは自由が制限されている」と指摘すると、そのこと自体がきわめて深刻な問題とされます。そして、その問題を解決する方法が話し合われます。今ヨーロッパで宗教問題の専門家たちがやっていることはまさにそういうことで、今後は強制的な処置もありそうです。そうするとエホバの証人社会はもっと自由な社会になりますが、その代わり、あえて自由を制限することで達成してきたエホバの証人の良さも失われてしまうことでしょう。
 このようですと、今後、子社会はみな親社会からの多大な圧力を受け、親社会に近づいていくことになるでしょう。私としては、そうするとこの世の中はどうなるのだろうかと思ったりします。社会が自由であることが達成された暁には、その次のステップとして、どこにおいても自由が均一であることが達成されるというのでしょうか。もしそうだとすると、その時には、子社会としての宗教は消滅していなければなりません。

 反対者たちの宣伝も気になるところです。
 たとえば、2002年6月17日に、アメリカにおける聖書伝道の自由を求める裁判においてエホバの証人が勝訴するという出来事があったのですが、この判決を受けて、反対者の村本治氏は、匿名で運営しているウェブサイトにおいてこのように述べています。

しかし一般の人々が知らない、しかし非常に重要な問題は、ものみの塔協会がアメリカ憲法の精神である言論と表現の自由を全く認めていないことです。これは、エホバの証人の内部事情を知らない人には分からないことであり、アメリカでも世論はこの点を問題にしていません。しかし、たとえばエホバの証人の集会で届け出なしに広告を配布することはできるでしょうか。エホバの証人以外の様々な大会では広告を配布することは許されることがありますが、届け出のありなしにかかわらず、エホバの証人はそのようなことが許されるでしょうか。答えは明らかです。エホバの証人であれば誰でも、組織を公然と批判する言論と表現の自由が全く禁止されていることを知っています。ここでも、ものみの塔協会は自分のやっていないことを他人に要求する偽善者の姿がありありと見られます。

 外に向かって自由を求めるエホバの証人組織の姿勢を、内に向かって自由を制限する姿勢と比較した上で、それを「偽善的」と非難しています。これは、宗教における自由の二面性を活用して反対者たちが用いる常套手段で、人々の受けもよいようです。
 (誤解がないように言い加えておきますが、エホバの証人の集会で配布したい広告があるなら、長老の許可を得て掲示板にそれを貼ることができますし、掲示板に貼らずに配ってしまってもかまいません。村本氏が言いたいのは、エホバの証人社会内ではエホバの証人に反対する活動は行えないということです。)

 もう一つの例として、レイモンド・フランズ氏の文書から引用したいと思います。彼は一時は統治体のメンバーになるほどの人でしたが、それでもエホバの証人とは全く合わない価値観を持っていたようで、結局は親社会に逃れて反対者をやっているという人です。彼の書いた本を読むと、エホバの証人の統治体が「信者たちにどれほどの自由を与えるか」という論題を常に扱ってきたことが分かります。そういった中で常に自由を制限する方向に決定がなされてきたことに彼は強い不満を抱き、こう書いています。

統治体の会議で話を聞いていると、アメリカ合衆国最高裁判所で争われたエホバの証人関係の裁判の数々を思い出すことがあった。相手側の弁護団の言い分が、いろいろな点で統治体の理屈に似ていたのである。
……最高裁判所の裁判官たちはみごとな洞察と明晰さをもってこれらの議論を吟味し、これに実質がないことを示して見せた。
……最高裁判所の裁判官がこれほどまでに慎重で、物事の本質を見極め、個人に対する思いやりを示す態度を取らなかったならば、エホバの証人側が有利な判決をどれほど手にできていたか疑わしい。判決の数々は協会の出版物で称賛されたが、裁判官たちが見せる判断や、感情的な要素もからむ問題への取り組み方は、残念ながら統治体の会議によく見られるものよりレベルが高いようだった。
……この裁判官の持つ「現行秩序」に対する信頼、そしてその秩序あっての自由に対する信頼は、統治体の何人かが仲間のエホバの証人に対して持つ信頼に比べると随分大きいように思われた。何しろ仲間のエホバの証人に良心の自由を与えたら「神権秩序」に影響が出てしまうだろうと考えているのである。最高裁判所の裁判官たちが統治体の何人かのような考え方をしていたならば、エホバの証人は次々に敗訴していただろう。

 彼のおっしゃることはなかなか正しいことだとは思います。しかし、ここでの論点は、エホバの証人の統治体のような宗教団体のリーダーたちが合衆国最高裁判所の裁判官の持つような“優れた見識”を持ってよいものだろうか、ということではないでしょうか。


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