新世界訳
エホバの証人の聖書

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◆ エホバの証人のコラム ◆
#05 宗教における自由の二面性



 この世界は、一部を別にすれば、自由な思想と行動がおおかた保証された世界です。人々は、法を犯すのでない限り、自由に考えて行動することができます。自由であることは多様性を生みます。この多様性があってこそ、社会は健全であると人々は考えています。

 しかし、このような健全性の概念には落とし穴もあります。理想論がジレンマを産むことを、多様性と正義との関連を題材にしたモデルから考えましょう。
 結論を出すべき一つのテーマがあって、人々からさまざまな意見が提出されます。一般的な意見もあれば、そうでない意見もあり、中には明らかに間違っている意見もあります。正義の多様性、この状態こそが、このモデルにおける健全な状態です。このようにして異なる意見が自由に提出されるからこそ、人々は正しく考えて正しく結論を下すことができるのですから。ところが、そうやって正しく考え結論を出したところでジレンマが生じてしまいます。ひとたび「この意見は正しい」とか「あの意見は間違っている」といった結論が出てしまうとどうでしょうか。もはや間違った意見を正しいと認識することは認められなくなりますので、正義の多様性が損なわれてしまいます。正義の多様性が損なわれると健全な推論ができなくなりますので、正しい結論が出せなくなる可能性があります。それで結局のところどうなるかというと、「正しく考えて結論を出すために必要だ」と称してあらゆる種類の意見が集約された状態が維持されることになります。つまり、結論を出すために意見を集約するも結論は出ないという状態です。このモデルにおいては、もし誰かが結論を出したとしてもそれはあくまで一つの正義にすぎないということになり、理想状態が維持されます。

 今度は、理想論は現実の限界に直面する、ということを考えてみましょう。
 さきほどのモデルは、正しい推論を行って正しい結論を下すにはあらゆる意見を集約することが不可欠だと仮定しています。その土台となるのが思想の自由だというわけです。人がこれを本気になって実践すると、どうなるでしょうか。テーマによっては、意見を集めるだけで途方もない時間を費やすことになります。へたをすれば一生かかって意見を集め続けるはめになり、結論を出すという段階に進めないことになります。そこのところをなんとかして結論を急いだとしても、そこにはまだ提出されていない未知の意見があるに違いありませんので、結論は仮のものとして扱われることになります。現実世界において、このような限界は層をなしています。人間の脳は容量においても思考能力においても限界がありますので、すべての正義を集約することなどできませんし、それができても今度は正しく推論することができません。そのうえ、人間の人生はせいぜい100年あるかどうかですから利用できる時間にも限界があります。人類の歴史は長いですが、無限に時を経て無限に経験を積み重ねてきたわけではありません。仮に無限の経験があったとしても、それを活かせる人はいません。結局のところ、人間は正しく考えて正しく結論を出せなどしません。

 今度は、理想論が理想的な結果を生むわけではないという問題を、事例をもとに考えてみましょう。
 最近よく行われているような仕方で子供たちに自由に考えることを教えるとします。教師たちは子供たちに何かの課題を扱わせますが、その際には子供たちの主体性を尊重し、「そこはこうしたらいいよ」とか「こうすべきだ」などと言って彼らを手助けしたりしません。ただ、子供たちが自分で考えて判断しているかを見届けます。そうするとどうでしょうか。子供たちは一定の割合で正しくない判断を下すことになるでしょう。それが結果を生むと、その子はつらい目に遭います。それが一時のことであればよいのですが、そうでないこともあります。このことは何を意味しているでしょうか。人間にとって、自由であるということは一定の割合で不幸になることを意味している、ということです。自由であることは幸福の必要条件なのですが、残念なことに、自由の度合いを高くするほど不幸になる人は増えるようです。

 人はみな、こういった問題にそれなりに対処しているものですが、この点で特に優れているのが、宗教という形式です。
 それは、人に自由を与えると一定の割合で不幸になるので、自由を制限することによってそれを解決してしまおう、という思想です。正しいことに関するさまざまな意見も、挙げていけばきりがありませんのであえてそのようなことをせず、特定の正義を掲げて他の正義は無視することにします。
 世の相対的な視点から定義すると、宗教とは正義の完全性よりも効率を達成するものだと言えるでしょう。そこで、大切なのは効率の度合いだということになります。自由を制限して効率よく信者の幸福を達成している宗教はよい宗教だと言えます。

 聖書においては、このことは単純明快に「すべてのことは許されているがそれが益になるとは限らない」という言葉によって示されています。そこで聖書は、「自由を肉のための誘いとして用いるな」、「あなた方は罪から自由にされ、義に対する奴隷となった」と述べます。つまり、自由を不幸になるような仕方で用いることはあらかじめ禁じられています。自由ではあるが、これを悪用することはもちろん誤用することも許されない、というのがキリスト教の自由の概念です。聖書によれば、この世は「荒れ狂う自由の海」であり、そこに真の平安はありません。

 子育てを行う場合、エホバの証人の親は子供を宗教の枠にしっかりとはめてしまいます。エホバの証人の「ああしなければならない」とか「こうしてはならない」という教えを子供に実践させます。さらに、子供がどのような情報を取り入れているかを入念に監視し、制限します。これは、無制限に情報を与えると人の心は腐敗してしまうという考え方に基づいています。エホバの証人の子供は、親の認めたテレビ番組や映画や音楽やゲームを楽しみます。新譜のCDを購入したのに、親から「この音楽は歌詞が攻撃的なのでよくない」とか「下品だ」とか言われたりして、それをゴミ箱に捨てるということはよくあることです。
 このような努力はそれなりの成果を生んでいます。エホバの証人の子供たちに攻撃的な子や下品な言葉を使う子はまずいません。登校拒否や非行もほとんどありません。好き勝手に振る舞って他人に迷惑をかけることもありません。責任感があり誠実ですので、学校での成績もよく、教師からも信頼されます。一方で、エホバの証人の子供たちに「できないこと」が多いことが問題視されています。

 一時期、宗教問題の専門家たちがエホバの証人の子育てを問題視したということがありました。世の中でカルト宗教の問題が大きく取り上げられたころの話です。この宗教において子供の自由が制限されているということが手厳しく批判されました。彼らは、「エホバの証人の親に育てられた子供は抑圧されて健全な育成が妨げられている」と言いました。彼らは「子供は親のおもちゃではない」と言ってエホバの証人の親たちを非難し、「エホバの証人の親は子供を宗教の枠にはめるのをやめ、自由にしてやるべきだ」と言いました。エホバの証人の子供たちには「救出」ということが必要だとさえ唱えられました。
 一方のエホバの証人の視点では、子供を自由にするなど、とんでもないことです。子供に限らず、人というものは皆「自由になれば人間形成が狂ってしまう」ものなんだと考えています。彼らは、「子供は実験用の動物ではない」ので、「子供の幸福のために、大人たちはもっと責任を持って子供を管理すべきだ」と言います。
 ここには、自由に至高の価値を認める一般社会と、そうではないエホバの証人との価値観の違いが見られます。双方から見て、相手側はずいぶんと異常なことをしているように見えます。
 もっとも最近は、こういう論争は下火になっていて、子供の自由を制限するエホバの証人の考え方はほとんど問題にされなくなっています。

 自由にかかわる論争において、エホバの証人は結果を出しています。統計的視点に立ち、エホバの証人と一般の子供たちを比べると、「健全な育成が妨げられている」とか「社会から孤立してしまう」とか言うべきなのは一般のほうであることが明らかになります。特に、カルト宗教論では信者から奪われるとされる、自尊心と自己決定能力において、エホバの証人は優秀な成果をあげてきました。信者の幸福度も抜群です。彼らに言わせれば、この宗教の悪影響よりも、彼らが主張するところの「世の悪影響」のほうが圧倒的に問題です。
 一方、世の中では、統計的視点よりも個別の問題事例のほうに人々の注目が集まる傾向がみられています。それらの事例は、エホバの証人という宗教は信者やその子供たちから自由を奪うたいへん有害な宗教である、ということを強く示唆しています。現状を見ると、そのほとんどがフェイクですが、人々はそのことに気づかないようです。「世が提供する自由は罠だから自衛策を講じる必要がある」という概念がありませんので、この宗教の優位性に気づくことはありません。

 さてここで、このコラムのテーマになっている「宗教における自由の二面性」について触れたいと思います。

 私たちのこの社会は、それ自体が親子に例えられる構造を持っています。いろいろな宗教はその子供たちということになります。親は、たくさんある子供たちの世話をし、子供たちをみな対等に扱わなければなりません。つまり、つまはじきにされる子社会があってはならないため、親社会は完全に自由でなければなりません。こうして、親社会においては自由こそが至高のものとされます。

 一方、子社会は個性を持つことができます。つまり、自由を制限できます。子社会には宗教でないものもあります。たとえば、ある野球チームのファンクラブは対立するチームのファンを受け入れませんし、インターネットの会員制アダルトサイトはそのコンテンツを望む人だけを受け入れます。

 子社会が個性を持つことができるのは、ひとえに親社会の完全な自由性のゆえです。親社会があらゆる種類の子社会を受け入れることができるからこそ、特定の子社会が存在し得ます。さらに、親社会の傘のもとにあるからこそ、子社会同士は共存共栄の道を歩むことができます。またさらに、親社会の存在ゆえに、子社会は人権侵害の過ちを避けることができます。つまり、子社会においては自由が制限されているため、そこでは生きていけないという人が必ず現れますが、その人は子社会から親社会に脱出するか、別の子社会に移動することによって自分の権利を保つことができます。子社会が存在することは、特定の生き方を志す人にとって福祉となります。つまり、その人は、自分の思想と合った子社会に属することによってさまざまな支援を受け、自分の望む生き方を達成していくことができます。これらすべてを保証することにより、親社会は見返りとして多様な価値観の共存する理想状態を達成することができます。

 このことをきちんとわきまえた宗教団体は、それに応じたふさわしい態度を取りますが、そうでない宗教団体も多々あるといいます。彼らは、自分たちの信じる正義をちまたに広めて親社会と対等になるか、親社会そのものになることを夢見たりすると言われています。かつてのキリスト教世界や、近代の宗教国家にその事例を見ることができます。小さな宗教でも、カルト化すると、そのような振る舞いを見せることがあります。一方、わきまえのある宗教団体は、自分の宗教の内側に対しては自由を制限することを求めつつも、その外側には制限なき自由があるべきことを強く主張します。その宗教にとって認められない自由についても、それがあるべきことを認めます。こうして、成熟した宗教にははっきりとした自由の二面性が見られるようになります。
 エホバの証人はこの点でかなり目立つ存在です。たとえば、エホバの証人は輸血を否定しますが、街角で輸血に反対するデモ行進などを行ったりはせず、むしろ社会に対しては、輸血したい人が輸血し、輸血したくない人が輸血を辞退する自由を求めます。彼らにはさまざまな非主流の信条がありますが、そのどれについてもそのような態度をとっています。

 すでに書いたように、自由ということに対するエホバの証人の考え方が問題だと考えられた時期がありました。この時期には、宗教の専門家の中にも、自由の二面性ということをわきまえていない方がいることが露見したと思います。特に「宗教問題の専門家」たちにそれが見られました。
 宗教問題の専門家たちに、“宗教とは効率よく自由を制限するもの”、“二面性の原則を守っていれば宗教は自由を制限してよい”という認識がないと、その宗教がどれほどの効率を達成していても、自由でないことが問題視されてしまいます。彼らが「エホバの証人の子供たちは自由が制限されている」と指摘すると、そのこと自体がきわめて深刻な問題とされます。そして、その問題を解決する方法が話し合われます。特にヨーロッパでは、宗教問題の専門家たちと法律の専門家たちによる、「エホバの証人を規制する法律」を作ろうという動きまでありました。
 もしこのような法律が施行されるなら、どうでしょうか。エホバの証人社会はもっと自由な社会になりますが、その代わり、あえて自由を制限することで達成してきた、この宗教の良さも失われてしまうでしょう。

 以上の内容を踏まえたうえで、レイモンド・フランズ氏の言葉を考えたいと思います。彼は、一時は「統治体(エホバの証人の長老組織)」のメンバーになるほどの人でしたが、それでもエホバの証人とは全く合わない価値観を持っていたようで、結局は親社会に逃れて反対者をやっているという人です。彼の書いた本を読むと、エホバの証人の統治体が「信者たちにどれほどの自由を与えるか」という論題を常に扱ってきたことが分かります。そういった中で常に自由を制限する方向に決定がなされてきたことに彼は強い不満を抱き、こう書いています。



◇ 「良心の危機 ― 「エホバの証人」組織中枢での葛藤」, レイモンド・フランズ (表記修正)

 統治体の会議で話を聞いていると、アメリカ合衆国最高裁判所で争われたエホバの証人関係の裁判の数々を思い出すことがあった。相手側の弁護団の言い分が、いろいろな点で統治体の理屈に似ていたのである。
 ……最高裁判所の裁判官たちは見事な洞察と明晰さをもってこれらの議論を吟味し、これに実質がないことを示して見せた。
 ……最高裁判所の裁判官がこれほどまでに慎重で、物事の本質を見極め、個人に対する思いやりを示す態度をとらなかったならば、エホバの証人側が有利な判決をどれほど手にできていたか疑わしい。判決の数々は協会の出版物で称賛されたが、裁判官たちが見せる判断や、感情的な要素もからむ問題への取り組み方は、残念ながら統治体の会議によく見られるものよりレベルが高いようだった。
 ……この裁判官の持つ「現行秩序」に対する信頼、そしてその秩序あっての自由に対する信頼は、統治体の何人かが仲間のエホバの証人に対して持つ信頼に比べると随分大きいように思われた。何しろ仲間のエホバの証人に良心の自由を与えたら「神権秩序」に影響が出てしまうだろうと考えているのである。最高裁判所の裁判官たちが統治体の何人かのような考え方をしていたならば、エホバの証人は次々に敗訴していただろう。



 彼の指摘は正しいと思います。しかし、ここでの論点は、宗教団体のリーダーたちが合衆国最高裁判所の裁判官の持つような優れた見識を持ってよいものだろうか、ということではないでしょうか。

 彼に限らず、職業反対者がエホバの証人について批判する文書を読むと、自由、それも特に「良心の自由」ということが、この宗教の大きな課題になっていることに気づかされます。ほかの宗教ではあまりこういう話を聞きません。
 実のところ、世の中にある宗教の大半は、信者の良心の自由をその教条によって制限することに消極的です。その結果、ほとんどの宗教の社会的資質の水準は周辺の社会と変わりなかったりします。特に統計を取ったりすると、例えば、エホバの証人の離婚率はかなり低いのにほかの宗教は周囲と同じ、エホバの証人の子供たちは学校の成績がよいのにほかの宗教は周囲と同じ、というような現象が頻繁に見られます。
 エホバの証人とほかの宗教との間の差を生み出しているものは何かと問えば、やはりそれは、良心の自由の束縛なのではないでしょうか。
 私個人としては、自分の属するエホバの証人という宗教が「良心の自由」のなさを攻撃される宗教であることに誇りを抱いています。それは、この宗教が生きていることの証です。本来どの宗教もこうでなければならない、と私は思うのです。

 ところで、最近は親社会が子社会を侵食する傾向がみられるようです。
 “性の多様性”について見てみましょう。親社会において、性の多様性を尊重することは正義です。しかし、社会秩序に関する現行の理念では、子社会は異なる方針を持つことができます。これは「親社会から見て子社会が間違っている状態」と言えなくもありません。そして、露骨にそのような言い方をする人は増えています。彼らはエホバの証人が聖書の性道徳に従うことを問題視しますが、社会の仕組みのせいで何もできないので、「この宗教には社会の監視と圧力が必要だ」などと言います。なんとかして法律を作ろうという動きもあります。
 これは抑圧なのかもしれません。親社会は、完全な自由を達成すると、その完全な自由を子社会にも要求します。従わない子社会にはペナルティが課されます。やがて子社会は親社会に屈服し、完全な自由がしかも均一に達成されることになります。