新世界訳
エホバの証人の聖書

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◆ エホバの証人のコラム ◆
#07 譲歩は権利をもたらすか



 わたしたちの社会は人の権利を重んじる社会です。しかし、人がみな他人のことなど考えずに自分の権利ばかりを主張するなら社会は混乱してしまうでしょう。
 自分の権利を尊重してもらうには、他の人の権利を尊重し、時には自から譲歩する必要があります。

 宗教はこの種の問題をよく引き起こします。宗教というものには何らかの形で『絶対的価値観』なるものが伴うからです。そういったものが衝突するとき、その混乱にはひどいものがあります。無宗教の人たちはそういう混乱を見るとうんざりするものです。「もうちょっと寛大になれないものか」とか「少しは譲歩すべきではないか」と思うのも当然です。

 エホバの証人は、原始キリスト教の復興を志し、真摯な信仰の実践を非常に重んじていますので、信仰や良心を根拠にして、すべきことやできないことが多くあります。とはいえ、ファンダメンタルなどとは違い、彼らは社会に対して穏健に振る舞おうとします。そのため、社会との摩擦を生じさせつつも、たいがいはうまくやっています。

 そのコツは、できるだけ多く、自ら積極的に譲歩することにあります。

 たとえば、エホバの証人の子供は学校での国旗掲揚と国歌斉唱には加わらないのですが、そのような権利ばかり主張していてはよくないからなるべく譲歩しようということで、こういうルールが作られています。
 席から起立し、国旗を見ながら国歌を斉唱するような場合、起立して国旗に敬意を払いつつも国歌は斉唱しないことによって、自分の信仰の立場を示します。しかし、国歌が演奏されるだけで斉唱は行われない場合、席を立たないことによって信仰の立場を表明しますが、正しい姿勢で席に座り、こうして敬意を示します。
 ちょっとややこしいのですが、このルールには様々なバリエーションがあり、地域によって、あるいは信者によってルールが違ったりします。たとえば、エホバの証人がオリンピックに出場して金メダルを獲得したとしましょう。選手は表彰台に立ち、国旗を仰ぐことが求められます。そこで、あるエホバの証人の選手は、表彰台に立って国旗に敬意を払いながらも国歌を斉唱しないことによって自分の信仰を示したいと思うかもしれません。これは、2000年のシドニーオリンピックでエホバの証人の選手が金メダルを取った時に実際にあったことです。しかし、自分ならそもそも表彰台に立たないと言う信者もいます。信仰の質は信者ごとに異なりますから、譲歩のラインも移動することになります。

 エホバの証人は学校での格技の授業を拒否しますが、格技の授業は必ずしも実技で占められているわけではありませんので、格技の歴史やルールを勉強してレポートを提出することを学校に申し出たりします。こうして、格技の授業をすべて拒否するようなことは行わず、できる限り譲歩を示します。
 このルールにもバリエーションがあります。レポートの提出をしない信者もいるそうです。
 日本において微妙な問題とされてきたものに騎馬戦があります。騎馬戦というのは、もともとは攻撃的なスポーツで、騎馬の上に乗った人同士がつかみ合いをしたり、棒でたたき合ったりして、相手を騎馬から落とそうとするものだったらしいです。しかし、学校の運動会で「騎馬戦」と呼ばれるものは、たいていは「帽子とり」にすぎません。これは格技とは呼べませんが、それでも帽子を取り合って子供同士がつかみ合いをしたりします。それに、ルールが変わっても、名前が騎馬戦であるというのが気にかかります。そこで、エホバの証人は学校に、「騎馬戦」のルールはそのままに、「騎馬戦」という名称を使うのをやめ、騎馬戦の別称である「帽子とり」を使うよう提案してきました。そこらへんに“社会への譲歩”と“自分の信仰の表明”との均衡点を見いだそうという考え方です。たいていの学校はこういう提案を聞いてくれますが、エホバの証人はお願いしかしない(強制したり圧力をかけたりしない)こともあって、聞いてくれないところもあります。その結果、騎馬戦への参加を辞退するエホバの証人の子供もいますし、あるいはそれでも騎馬戦に参加する子供もいます。

 エホバの証人は非キリスト教的な宗教行事に参加しませんが、全く参加しないわけではありません。たとえば、七夕の飾りを作ろうとする場合、エホバの証人の生徒は、他の生徒と一緒に飾りを作ることはしますが、それを笹に取り付けて七夕の飾りにすることはお断りします。仏教の葬式が執り行われる場合、エホバの証人の親族は葬式に出席し、読経に耳を傾けて故人に敬意を払いますが、焼香はお断りします。クリスマスのなどの贈り物をもらった場合、いったんは断りますが、それでも相手が受け取りを望むなら、自分の信仰の立場を伝えたうえで、「心のこもった贈り物」としてそれを受けとります。

 非信者との関わりにも同じようなルールがあります。親の片方がエホバの証人だと、非信者の親が、愛するわが子に対する気遣い(宗教に対する警戒)のため、子供に宗教教育を行うことに反対することがあります。そのような場合、信者である側は、まずはエホバの証人の教育が子供の益になることを説明して理解を求め、それでも聞き入れないようなら、子供を集会(教会)には連れて行かずに家で聖書を教えることを提案します。妻が聖書伝道に参加することにはどうしても我慢できないという人もいます。そのような場合、エホバの証人の妻は聖書伝道をやめこそしないものの、その時間を減らし、夫が家にいる週末などはなるべく宗教活動を行わないようにします。

 エホバの証人のこういったスタンスは、社会にとっては一つの挑戦になっていると思います。エホバの証人は一般社会に向かって腰を低くし、「私たちは、どうしても譲れないこのこと以外のことはすべて譲歩します。ですから、このことだけはどうか認めてください。」とお願いしています。それは、証人たちにとって信仰の根幹にかかわる部分、人としての尊厳にかかわる部分です。このような低い姿勢で自己の権利を求める人たちを正しく受け入れることができるかどうかで、その社会の質は明らかになるのではないでしょうか。

 家庭についてもそうです。非信者の親族が反対するような場合ですが、そもそも、いったん神を信じてしまった人に家族が「信じるのをやめなさい」と求めたところでそれは無理というものです。その人にすれば自分の信仰に基づく生き方をしないわけにはいかないでしょう。そこで、エホバの証人の側から家族に、信者の尊厳にかかわる最低のラインがどこにあるかが「お願い」の形で示されます。たとえば、「子供を伝道や集会といった宗教活動に連れて行ったりしませんから、家で宗教について話すのは許してください」という具合です。

 このようなエホバの証人のスタンスは社会を試みます。エホバの証人は自己の尊厳にかかわる最低の権利を訴えています。もしこれが否定されるなら、証人にとってそれは「死ね!」と言われたのと同じことです。それでもエホバの証人は、要求するよりもお願いすることをよしとします。エホバの証人の願いを尊重するか軽くあしらうかは相手次第です。
 中には、明確に示された最低限のラインを見て、それをあっさりと踏み越えてしまう人もいます。たいてい、そういう人はエホバの証人に対して悪意やら害意やらを持っている人です。この世の中にそういう人がたくさんいることは、エホバの証人にとっては非常に恐ろしいことです。
 それで家庭が分裂することもあります。もちろん、エホバの証人の側に「家庭を分裂させよう」という意図などみじんもありませんから、そういう事態になったときには、会衆の長老たちも加わって、なんとか問題を解決しようと必死に努力するものです。しかし、最後までうまくいかないこともあります。結局のところ、エホバの証人にはエホバの証人の矜持があると言わなければなりません。もしその家庭が、エホバの証人がエホバの証人として生きていくことをどのような意味においても許さない家庭なのであれば、信者は「家庭を取るか宗教を取るか」という厳しい選択を迫られることになります。その結果として家庭が分裂に至ったとしても、それは仕方のないことでしょう。どちらの側にとっても自業自得というものです。

 ここで、このコラムのテーマとなっている「譲歩と権利」ということを考えたいと思います。

 私たちのこの社会は、盛んに譲歩しつつ最低限のの尊厳が与えられることを懇願するエホバの証人のような人たちに喜んで権利を与える、やさしい社会でしょうか。それとも、譲歩などすることなく強硬に権利を要求するファンダメンタル(原理主義)のような人たちにしぶしぶ権利を与える、非情な社会なのでしょうか。
 もしこの世の中が非情な社会に類するのであれば、うやうやしく譲歩して最低の権利だけを尊重してもらおうとするエホバの証人のような人たちは、永遠に「正直者は馬鹿を見る」の立場に甘んじることになります。果たしてこの社会では、譲歩は権利をもたらすのでしょうか。

 宗教問題を取り上げる宗教学者や社会学者や教育関係者といった人たちの認識はどうでしょうか。最近はだいぶましになっているものの、こういった問題はかなり一方的な仕方で取り上げられてきたと思います。
 私は専門書等から「エホバの証人の宗教問題」とか「エホバの証人の子供の教育問題」などという趣旨の記述をたくさん読んできましたが、その多くに「エホバの証人は学校で国歌を歌わなかったり格技の授業を受けなかったり兵役や輸血を拒否したりクリスマスや七夕を祝わなかったりするから社会にとって問題だ」という書き方が見られました。中には、「エホバの証人は“安定した社会”の障害になっている」などと主張するものもあります。
 これはまるで、学者たちがこぞって「私たちは筋金入りの共産主義者で、全体主義を信奉してます」と言っているようなものです。ここは民主主義と自由主義の社会ではなかったでしょうか。ですから、信条や行動の多様性は社会にとって必要であり歓迎すべきものです。問題になるのは、その先にある事柄ではないでしょうか。
 たとえば、家庭や職場や学校で宗教者がある行為を実践したり拒否したりするような時に、非信者と宗教者とが互いに協調性を示して共存を達成するなら、それは社会の健全な状態と呼べるのではないでしょうか。逆に、互いが協力的な精神を示さず、みだりに対立が助長されるなら、それは不健全な状態と呼べるでしょう。あるいは、宗教者の側が譲歩の姿勢を明確にしているにもかかわらず、人々がそれを無視しているなら、やはりそれは不健全な状態なのではないでしょうか。

 これまで、エホバの証人の宗教問題を取り上げる学者たちの多くが、エホバの証人の信条が存在すること自体を社会問題としてきました。そうすると、「宗教の信条は社会にとって余計なもの、迷惑なもの」という認識が社会に広まりますし、その結果として、社会のいろいろなところで、宗教者が宗教者であることをやめてしまうことが期待されるようになります。それは、エホバの証人も含めた社会全体にとって隠された圧力になっているように思います。

 人々は、『社会問題』という言葉をどうとらえているでしょうか。それは「誰かが社会にとって問題である」という意味でしょうか。それとも「誰であれ社会そのものの問題である」という意味でしょうか。
 たとえば、身体障害者は健常者からの世話を必要としています。それは「社会問題」です。この場合の「社会問題」とはどういう意味でしょうか。社会には身体障害者の世話を行う義務が課せられており、人々はそれに真剣に取り組まなければならない、という意味ではないでしょうか。もし、その努力に不備があって支障が生じるなら、私たちはそれを身体障害者のせいにしたりするでしょうか。そのようなことはないはずです。
 それは社会の、言い替えるなら「私たち」の側の対処すべき問題です。しかし、もし誰かが社会に関する健全な見方を持っておらず、身体障害者のことを「迷惑な存在」と考えているなら、どうでしょうか。なるほど、彼らもこの社会問題に「対処」はすることでしょう。しかし、その意味は変わります。それは台所でゴキブリの駆除を行う主婦の言うところの「対処」に属するものとなることでしょう。
 世間ではよく、「障害者と健常者とが手を取り合う社会」などということが唱えられます。宗教もしかりではないでしょうか。

 かなり前のことになりますが、アメリカのロサンゼルス交響楽団にはエホバの証人の演奏者がいました。この方は、アメリカ国歌の演奏に加わることはしませんが、そのためにわざわざ舞台から退席することはありません。そのため、観客から苦情が来ることがあるそうです。彼について、ロサンゼルス交響楽団はこのような立場を公表しています。



◇ エホバの証人の演奏者についてのロサンゼルス交響楽団のコメント (意訳)

 楽団のバス奏者はエホバの証人です。
 彼はアメリカ合衆国に対する完璧な敬意の持ち主です。しかし、この宗教の教えが彼に対して「完全な中立」の実践を求めていますので、彼は国家とその象徴である国旗とに忠誠を誓うことができません。
 ロサンゼルス交響楽団は、このような演奏者個人の信条を妨げません。



 この言葉を読んで、私はこう思いました。
 こういう人は社会にとって扱いにくい存在です。でも結局のところ、宗教とはそのようなものですし、宗教が世の中からなくなることなどないのですから、人々は宗教を社会から隔離された存在と見るのではなく、あくまで社会の一員であるとみなさなければならないのでしょう。