エホバの証人のコラム

#7 譲歩は権利をもたらしうるか


 わたしたちの社会は人の権利を重んじる社会です。しかし、人がみな、他の人のことなど考えずに自分の権利ばかりを主張するようだと社会は混乱してしまうことでしょう。自分の権利を重んじてもらうには、他の人の権利を重んじる必要がありますし、時には自分から譲歩する必要もあります。
 宗教はこの種の問題をよく引き起こします。宗教というものには、何らかの形で『絶対的価値観』なるものが伴うからです。そういったものが衝突するとき、その混乱にはひどいものがあります。一方で、無宗教の人は絶対的な価値観など持ち合わせていないことが多いので、そういう混乱を見るとうんざりするものです。「もうちょっと寛大になれないものか」とか「少しは譲歩すべきではないか」と思うのも当然です。
 といっても、宗教を信じている人にすれば、どうしても譲れないことはどうしても譲れないものです。なかなかたいへんなことです。

 エホバの証人は、偽りのない真摯な信仰の実践というものを非常に重んじていますので、信仰や良心を根拠にして、できないことややらねばならないことが多くあります。でも、ファンダメンタリズム教派などとは根本的に違って、エホバの証人は社会に対して穏健に振る舞おうとします。そのため、社会との摩擦を生じさせつつも、たいがいはうまくやっています。
 エホバの証人の場合、そのコツは、できるだけ多く、しかも自ら積極的に譲歩することにあります。

 たとえば、エホバの証人の子供は学校での国旗掲揚と国歌斉唱には加わらないのですが、そのような権利ばかり主張していてはよくないので、なるべく譲歩しようということで、こういうルールが作られています。
 席から起立し、国旗を見ながら国歌を斉唱するような場合、エホバの証人は起立して国旗に敬意を払いつつも、国歌は斉唱しないことによって、自分の信仰の立場を示します。しかし、国歌が演奏されるだけで、斉唱は行われない場合、エホバの証人の子供は席を立たないことによって信仰の立場を表明しますが、正しい姿勢で席に座り、こうして敬意を示します。
 この応用ですが、たとえば、エホバの証人がオリンピックに出場して金メダルをとったとしましょう。選手は表彰台に立ち、国旗を仰ぎながら国歌を斉唱することが求められます。そこで、エホバの証人の選手は表彰台に立ち、国旗に敬意を払いながらも、国歌を斉唱しないことによって自分の信仰を示します。これは、2000年のシドニーオリンピックでエホバの証人の選手が金メダルを取ったときに、実際にあったことです。

 エホバの証人は学校での格技の授業を拒否しますが、体育の授業は必ずしも実技で占められているわけではありませんので、柔道や剣道の歴史やルールを勉強したり、レポートを提出することを学校に申し出たりします。ようするに、格技の授業をすべて拒否するようなことは行わず、できる限り譲歩を示します。
 応用ですが、日本のエホバの証人の場合、「微妙な問題」とされてきたものに騎馬戦があります。騎馬戦というのは、もともとは攻撃的なスポーツで、騎馬の上に乗った人同士がつかみ合いをしたり、棒でたたき合ったりして、相手を騎馬から落とそうとするものでした。柔道や剣道の発展形みたいなものです。しかし、学校の運動会で「騎馬戦」と呼ばれるものは、たいていは「帽子とり」にすぎません。これは格技とは呼べませんが、それでも帽子を取り合って子供同士がつかみ合いをしたりします。それに、ルールが変わっても、名前が騎馬戦であるというのが気にかかります。そこで、エホバの証人は学校に、「騎馬戦」のルールはそのままに、「騎馬戦」という名称を使うのをやめ、騎馬戦の別称である「帽子とり」を使うよう提案してきました。そこらへんに、“社会への譲歩”と“自分の信仰の表明”との均衡点を見いだそうという考え方です。たいていの学校はこういう提案を聞いてくれますが、エホバの証人はお願いしかしない(強制したり圧力をかけたりしない)こともあって、聞いてくれないところもあります。その結果、騎馬戦への参加を辞退することになったエホバの証人の子供もいますし、あるいは、それでも騎馬戦に参加することにする子供もいます。

 エホバの証人は非キリスト教的な宗教行事にも参加しないことになっていますが、全く参加しないわけではありません。たとえば、学校が七夕の飾りを作ろうとする場合、エホバの証人の生徒は、他の生徒と一緒に飾りを作ることはしますが、それを笹に取り付けて七夕の飾りにすることはお断りします。仏教の葬式が執り行われる場合、エホバの証人の親族は葬式に出席し、読経に耳を傾けて故人に敬意を払いますが、焼香はお断りします。クリスマスのなどの贈り物をもらった場合、いったんは断りますが、それでも相手が受け取りを望むなら、自分の信仰の立場を伝えたうえで、「心のこもった贈り物」としてそれを受けとります。

 非信者との関わりにも同じようなルールがあります。親の片方がエホバの証人だと、非信者の親が、愛するわが子に対する気遣い(宗教に対する警戒)のため、子供に宗教教育を行うことに反対することがあります。そのような場合、信者である側は、まずはエホバの証人の教育が子供の益になることを説明して理解を求め、それでも聞き入れないようなら、子供をエホバの証人の集会には連れて行かずに、家で聖書を教えることにします。妻が聖書伝道に参加することにはどうしても我慢できないという人もいます。そのような場合、エホバの証人の妻は聖書伝道をやめこそしないものの、その時間を減らし、夫が家にいる週末などはなるべく宗教活動を行わないようにします。

 エホバの証人のこういったスタンスは、社会にとっては一つの挑戦となっていると思います。エホバの証人は一般社会に向かって、「私たちは、どうしても譲れないこのこと以外のことはすべて譲歩します。ですから、このことだけはどうか認めてください」とお願いしています。それは、証人たちにとって信仰の根幹にかかわる部分、人としての尊厳にかかわる部分です。このような低い姿勢で自己の権利を求める人たちを正しく受け入れることができるかどうかで、その社会の質は明らかになるのではないでしょうか。
 家庭についてもそうです。非信者の親族が反対するような場合ですが、そもそも、いったん神を信じてしまった人に、家族が「信じるのをやめなさい」と求めたところでそれは無理というものです。もう信じてしまったんですから。その人にすれば自分の信仰に基づく生き方をしないわけにはいかないでしょう。そこで、エホバの証人の側から家族に、信者の尊厳にかかわる最低のラインがどこにあるかが示されます。たとえば、「子供を伝道や集会といった宗教活動に連れて行ったりしませんから、家で宗教について話すのは許してください」という具合です。
 このようなエホバの証人のスタンスは、社会を、あるいは家庭を試みます。エホバの証人は自己の尊厳にかかわる最低の権利を訴えています。もしこれが否定されるなら、証人にとってそれは「死ね!」と言われたのと同じことです。それでもエホバの証人は、要求するよりもお願いすることをよしとします。エホバの証人の願いを尊重するか軽くあしらうかは相手次第です。
 中には、明確に示された最低限のラインを見るや、それをあっさりと踏み越えてしまう人もいます。たいてい、そういう人はエホバの証人に対して悪意やら害意やらを持っている人です。この世の中にそういう人がたくさんいることは、エホバの証人にとっては脅威です。非常に恐ろしいことです。
 それで家庭が分裂することもあります。もちろん、エホバの証人の側に「家庭を分裂させよう」という意図などみじんもありませんから、そういう事態になったときには、会衆の長老たちも加わって、なんとか問題を解決しようと必死に努力するものです。しかし、最後までうまくいかないこともあります。結局のところ、エホバの証人にはエホバの証人の矜持があると言わなければなりません。もしその家庭が、エホバの証人がエホバの証人として生きていくことをどのような意味においても許さない家庭なのであれば、信者は「家庭を取るか宗教を取るか」という厳しい選択を迫られることになります。その結果として家庭が分裂に至ったとしても、それは仕方のないことでしょう。どちらの側にとっても自業自得というものです。

 ここで、このコラムのテーマとなっている「譲歩と権利」ということを考えたいと思います。
 私たちのこの社会は、盛んに譲歩しつつ、最低の尊厳が与えられることを懇願するエホバの証人のような人たちに喜んで権利を与える、やさしい社会でしょうか。それとも、この社会は、ファンダメンタリストのように、譲歩などすることなく強硬に自己の権利を要求する人たちにしぶしぶ権利を与える、非情な社会なのでしょうか。
 もしもこの世の中が非情な社会に類するのであれば、うやうやしく譲歩して最低の権利だけを尊重してもらおうとするエホバの証人のような人たちは、永遠に「正直者は馬鹿を見る」の立場に甘んじることになります。果たしてこの社会では、譲歩は権利をもたらしうるのでしょうか。

 宗教問題を取り上げる宗教学者や社会学者や教育関係者といった人たちの認識はどうでしょうか。エホバの証人に関することに限らず、こういった問題はかなり一方的な仕方で取り上げられてきたと思います。
 私は専門書等から「エホバの証人の宗教問題」とか「エホバの証人の子供の教育問題」などという趣旨の記述をたくさん読んできましたが、その多くが、「エホバの証人は学校で国歌を歌わなかったり格技の授業を受けなかったり兵役や輸血を拒否したりクリスマスや七夕を祝わなかったりするから社会にとって問題だ」という書き方をしています。中には、「エホバの証人は“安定した社会”の障害になっている」などと主張するものもあります。
 これではまるで、学者たちがこぞって「私たちは筋金入りの共産主義者で、全体主義を信奉してます」と言っているようなものです。ここは民主主義と自由主義の社会ではなかったでしょうか。ですから、信条や行動の多様性はこの社会にとって必要であり歓迎すべきものであるはずです。問題になるのは、その先にある事柄ではないでしょうか。
 たとえば、家庭や職場や学校で宗教者がある行為を拒否したり実践したりするような時に、非信者と宗教者とが互いに協調性を示して協力し合っているなら、それは社会の健全な状態と呼べるのではないでしょうか。逆に、信者と非信者とが互いに協力的な精神など持ち合わせておらず、みだりに対立が助長されているなら、それは不健全な状態と呼べるでしょう。あるいは、エホバの証人のように、宗教者の側が譲歩の姿勢を明確にしているにもかかわらず、人々がそれを無視しているなら、やはりそれは不健全な状態なのではないでしょうか。
 これまで、エホバの証人の宗教問題を取り上げる学者たちは、エホバの証人の信条が存在すること自体を社会問題としてきました。そうすると、「宗教の信条は社会にとって余計なもの、迷惑なもの」という認識が社会に広まりますし、その結果として、社会のいろいろなところで、宗教者が宗教者であることをやめてしまうことが期待されるようになります。それは、エホバの証人も含めた社会全体にとって隠された圧力になっているように思います。

 人々は、『社会問題』という言葉をどうとらえているのでしょうか。それは「誰かが社会にとって問題である」という意味でしょうか。それとも「誰であれ社会そのものの問題である」という意味でしょうか。
 たとえば、身体障害者は健常者からの世話を必要としています。それは「社会問題」です。この場合の「社会問題」とはどういう意味でしょうか。社会には身体障害者の世話を行う義務が課せられており、人々はそれに真剣に取り組まなければならないという意味ではないでしょうか。もし、その努力に不備があって支障が生じるなら、私たちはそれを身体障害者のせいにしたりするでしょうか。そのようなことはないはずです。
 それは私たちの側の「対処」すべき問題です。しかし、もし誰かが社会に関する健全な見方を持っておらず、身体障害者を迷惑と考えているとするなら、なるほど、彼らもこの社会問題に「対処」はすることでしょう。しかし、その意味は変わります。それは台所でゴキブリの駆除を行う主婦の言うところの「対処」に属するものとなることでしょう。
 確かに、そういう悪しきことをことをあからさまに唱える人はめったにいません。しかし、人々が実際に身体障害者の世話に携わるなら、その心の中にあることは自ずと明らかになります。これは、身体障害のくびきを負っている方なら、皆がよく知っていることです。
 本来なら潜在的であるはずのこの問題が、みごとに芽吹いて花を咲かせているところもあります。老人の介護施設ではしばしば、介護者が幼児語を使う光景が見られるそうです。介護者が老人たちに、「何々ちゃん、今からお風呂に入りましょうね〜」などと言っているそうです。本来なら、「何々さん、お風呂にお入れいたしましょうか」と言わなければならないところです。一方の老人たちはしきりに「ありがとうございます、ありがとうございます」と頭を下げ、何かにつけ「すみません、すみません」、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言います。
 老人は実に敬意を持って扱われるべきではないでしょうか。にもかかわらず、老人たちは幼児扱いされていて、いつも自分より目下の人にペコペコ頭を下げています。いったいどこに、人としての尊厳があるのでしょうか。これらの老人たちは、毎日毎日介護者に頭を下げ、遠慮して遠慮して、人間としての最低限の権利だけを与えられて、それでおしまいなのでしょうか。あるいは時に、それ以上の権利を親切にも「恵んでもらっている」のでしょうか。果たしてこの社会では、譲歩は権利をもたらしうるのでしょうか。ましてや尊厳たるはどうなのでしょうか。
 世間ではよく、「障害者と健常者とが手を取り合う社会」などということが言われます。老人もしかり、また宗教もしかりではないでしょうか。

 アメリカのロサンゼルス交響楽団にはエホバの証人の演奏者がいます。この人は、アメリカ国歌の演奏に加わることはしませんが、そのためにわざわざ舞台から退席するようなことはしません。そのため、観客から苦情が来ることがあるそうです。彼について、ロサンゼルス交響楽団はこのような立場を公表しています。

The bass player is a member of the Jehovah's Witnesses, He has complete respect for the government of the United States of America. However, his religious belief calls for complete neutrality. He cannot give his allegiance to a flag or country.... The L.A. Philharmonic does not interfere with the religious beliefs or private lives of its musicians.

 たしかに、こういう人は社会にとって扱いにくい存在だと思います。でも、結局のところ宗教とはそのようなものですし、宗教が世の中からなくなることはないのですから、人々は宗教を社会から隔離された存在と見るのではなく、あくまで社会の一員であるとみなさなければならないのではないかと私は思います。


フレーム表示へ