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2007年11月のレポート ― オーマイニュースの記事について
2007年11月18日更新


オーマイニュースというニュースサイトにおいて、『「エホバの証人」で人は幸せになれるのか』という記事の掲載が行われましたので、これについての補足的な情報を提供することにしました。



概要

この記事は市民記者である藤倉善郎氏と小宮山圭祐氏が「エホバの証人=ものみの塔 第13回被害者全国集会」というイベントを取材して書いたものです。彼らにエホバの証人やその反対者組織についての基本的な知識はないようです。
本サイトとしては、エホバの証人についての批判は結構なことと思っておりますが、内容に誤解があったり、あまりに批判に偏るのはいただけないとも考えています。そこで、オーマイニュースの意向にできるだけ配慮する形で、記事の内容についていくらかの補足的な情報を提供いたします。

ものみの塔被害者全国集会とはどのようなイベントですか

このイベントはエホバの証人に反対するキリスト教原理主義教会のうちでも特に過激なグループの主催により、“カルトであるエホバの証人”の被害の実態なるものを明らかにするために開催されています。そこで語られるエホバの証人の実態は実に悲惨です。

日本の信者数は何人ですか

※ これについてはすでに記事の修正が行われています。
記事では日本の信者数が144,000人であると述べられていますが、これは藤倉氏による単なる誤解と思われます。144,000人という数は聖書の黙示録に出てくる聖徒の数であり、エホバの証人の信者数ではありません。エホバの証人組織は信者数を公表せず、代わりに毎月の伝道者数を公表しています。これは月ごとに集計されるもので、いわゆる公称信者数のようなあいまいさのない正確な数値です。正式な信者数は伝道者数よりやや少ない程度です。14万人には近いかもしれません。一般の方々が気にされるのは実勢の信者数です。これは30万人から40万人であるとされています。
近年、エホバの証人はカルト宗教についての各方面からの批判を受け、伝道者数の集計についての規定をたびたび強化しています。従来は会衆の長老(教会の牧師に相当)が各信者から伝道報告を徴収していました。しかし、このような行為が見えざる圧力になると、自分の意志に反して伝道活動に参加する者も現れるのではないでしょうか。そこで、近年になって、幾度かの規則改定を経て、長老が伝道報告の徴収を行うことは全面的に禁止されました。そのため現在、伝道報告を提出しない証人が一定の割合で存在するようになっています。また、高齢化が進んだことにより、実質的には信者でありながら伝道者として集計されない方も増えています。このような事情により、現在、エホバの証人の正確な信者数を見極めることは困難になっています。
※ これについてはすでに記事の修正が行われています。

エホバの証人は年中行事を否定しますか

このような表現は“エホバの証人問題の専門家”たちが好んで用いる表現であり、正しい表現ではありません。実際は、エホバの証人が他宗教の行事に参加しないというだけのことです。これはキリスト教としての正当な振る舞いですし、宗教として当然のことです。宗教的な行事に参加しないことによって生じる問題は、非宗教的な行事に参加することや、エホバの証人の行事を行うことなどによって穴埋めされています。また、葬式など、行事の性質によっては他宗教のものであっても参加が行われることがあります。
エホバの証人のこういったところまで批判するのは、原理主義教会ならではの過激なやり方です。

エホバの証人の信条や行動は「社会問題」ですか

現在この点については論争があります。ある人たちはエホバの証人の輸血拒否などの信条が社会問題であると論じています。一方で近年になって、これを社会問題と考えるのは差別や偏見にあたるとして退ける考え方が台頭してきました。世の中には様々な民族や宗教があり、それぞれに独特の信条や行動があります。生命観も異なるため、特定の医療については拒絶するようなことも生じます。一般的には、社会はこれらをみな尊重しければならず、それぞれのグループに属するそれぞれの個人はみな平等に扱われなければならないと考えられています。そうするとどうでしょうか。エホバの証人の信条を社会問題とする考え方はこの基本原則からエホバの証人だけを隔離するものとはならないでしょうか。また、もしほんとうにエホバの証人の信条が社会問題であるとすれば、社会にとって必要なのはエホバの証人に対する「対応」ではなく「対策」です。エホバの証人の行動に対する「対策」を行うという考えはそれ自体が社会問題ではないでしょうか。近年になってこういったことが論じられるようになった結果、エホバの証人の信条を社会問題とする考え方は縮小するようになっています。

エホバの証人はカルトですか

この点についても論争があります。多くの人が考えるのは、エホバの証人は輸血を拒否するからきっとカルトであるに違いないということです。あるいは、エホバの証人は信者たちが聖書伝道を行っているのでカルトであるに違いないと考えます。過去にはこのような考え方が普及したことがありました。しかし、このような考え方はどうでしょうか。たしかにこのような事象はある宗教がカルトであることによって生じますが、その宗教が純粋な宗教であることによっても生じます。宗教という広いカテゴリにおいて、カルトと純粋な宗教は性質の違いのゆえにまったく反対側の端の領域に位置しますが、行動はしばしば似るものです。こういった点が検討されるようになった結果、エホバの証人がカルトであるという考え方は控えられるようになってきています。宗教に詳しい学者たちはエホバの証人についてこのように述べます。エホバの証人はカルトではないが、一般に言う宗教とも大幅に違う。彼らは特殊な領域にある宗教である。一方、キリスト教諸教会はエホバの証人のことをカルトであるとする宣伝を盛んに行っており、教会に通う信徒たちのほとんどは、エホバの証人は間違いなくカルトであり、宗教学者たちもみなそのことを認めていると信じています。

エホバの証人に対する“医師の本分”とは何ですか

これも長く論じられたことですが、現在は論争が決着したとされています。過去には患者の信仰よりも救命を重んじる考え方が優勢だったため、エホバの証人の信仰を否定することが医師の正しい振る舞いであるという考え方が盛んに唱えられていました。しかし、エホバの証人には権利があり、権利にはそれを守る法の後ろ盾がありますので、輸血を拒否するエホバの証人患者を前にして、医師たちは必ずしもその考え方を実践できたわけではありません。そのため、「エホバの証人は宗教を隠れ蓑にして、また法を悪用して輸血を拒否する悪質な教団である」という意見が強く唱えられたこともありました。しかし、この考え方は再検討されるようになりました。エホバの証人が輸血を拒否するのは倫理的な考え方によるのではないでしょうか。そして、証人だけでなく医師たちのほうにも倫理的な考えはあるのではないでしょうか。また他宗教にも倫理はあります。これらを比較したとき、輸血拒否という結果はともかくとして基本的な考え方はお互い似たり寄ったりであることが判明しました。現在でも医療界は、自分たちで倫理の基準ということを考え、それによって「できない」とした事柄を実質的には患者に強いています。しかしこういったことは本来患者の自己決定権に属する事柄です。ですから、こういった基準の制定はできる限り患者の側にゆだねられなければなりません。そのために医師たちが提言し、現在ではすっかり普及した手法が「インフォームド・コンセント」です。この手法は何を意味しているでしょうか。現在では、医師の本分とは救命よりも信仰を重んじることであると考えられています。そのために患者が命を失うことがあるとしても、それでもやはりそれが医師の本分であるとされています。

エホバの証人の輸血拒否に対する政府の対応は不十分ですか

医療界はこれまで繰り返し、政府に対してエホバの証人の輸血拒否に対応する法律を策定するよう求めてきましたが、政府はそれに応じてきませんでした。そのため、「政府は全く対応を行ってくれない」あるいは「政府の対応には混乱がある」とする誤解が一部に広まっています。しかし、政府側に言わせれば、特定の宗教団体に特化した法を策定することは法の基本的な考え方に反します。そのようなことはできません。このような要求には、既存の法の適用を増やす、また立法以外の手法で対応するのが適切です。その一例がこちら(リンク)にあります。この内容から、政府としてはエホバの証人に特化した基準作りは避け、エホバの証人にも対応できるという基準を作ってそれをすべての人に適用しようとしていることが分かります。このような政府の努力により、エホバの証人の輸血拒否に対する対応は十分に行われています。

教団は輸血を拒否する信者を放置していますか

そのようなことはありません。手厚いサポートを行っています。しかし、このようなサポートを行うことには問題点もありますし、さらにカルト宗教についての批判を多く受けていることもあって、最近は制限が多くなっています。かつてエホバの証人組織が信者でない人を含め輸血を拒否するすべての方々のサポートを行っていた時期がありました。ところが、信者でない輸血拒否者の中には輸血を拒否するにあたっての自覚が十分でない方がおられます。たとえば、輸血を拒否した場合死に至る可能性があることを十分に考えていないかもしれません。こういった方に対して輸血拒否のサポートを行うことは倫理にはずれます。一方、正式に信者となる手続きを踏んで実際に信者となった方の場合、当人の自覚を確認する手続きがすでに行われていますので、このような問題はあまり起こりません。しかし、念のための規定があり、正式な信者である場合でも、当人からの要請がなければサポートは行われません。これは信仰に関するエホバの証人の堅い理念に基づく厳密な規定です。正式に信者となった者についても、再度本人の固い信仰と決意が示されなければ、サポートは行われません。研究生(求道者)やバプテスマを受けていない(正式な信者でない)伝道者についてはどうでしょうか。そういった方々の中には、輸血拒否の信条を実践してみたものの、命の危険にさらされるとすっかり棄教してしまうという方がおられます。こういった方に対するサポートは控えられることがあります。これは信徒に対する愛や配慮が教団に欠けているという意味でしょうか。必ずしもそうではありません。これは純粋に倫理の問題です。

教団幹部は苦情を訴える信者を責めますか

そのようなことは規則によって禁止されていますし、その禁則を徹底するための教育も行われています。その内容によると、信徒が苦情を述べてきた場合、内容の如何にかかわりなく幹部は苦情を述べてくれたことに対する感謝の言葉を述べなければなりません。幹部にこの種の問題行動があれば、その幹部は幾度か指導を受けたうえで処分されるでしょう。これについては、エホバの証人と反対者との間に深刻な対立が生じています。エホバの証人が「そういったことは愛に欠けるので信徒に対してしてはならない」とか「言ってはならない」と規定していることが盛んに行われていると反対者は報告します。また、そのような事例が非常に多くあるということを示します。一方のエホバの証人組織は、反対者によるそのような宣伝に警戒し、その件についての禁則を強化しています。

「ものみの塔被害者全国集会」では毎度のことですが、これら反対者が重んじているのは「エホバの証人の教団には信徒に対する愛が欠けている」という結論を再確認することです。エホバの証人はキリスト教の一教派ですし、一方の彼らも実質は原理主義教会の集合体ですから、信徒に対する愛が教会にあるかということは極めて重要にして深刻なテーマです。それゆえに反対者たちは総力を挙げてその種の問題を指摘し、証人側は総力を挙げて問題に取り組みます。とはいえ、問題の数を減らすことはできてもなくすことはどうしてもできません。反対者による批判は過激になる一方です。それゆえに証人側には様々な苦痛や葛藤があります。愛についての深刻な対立は、エホバの証人組織と反対者組織とのお約束ごとのようになっています。

エホバの証人は家庭を破壊しますか

記事によると、エホバの証人となったある男性と非信者の妻との間に軋轢が生じ、しかも男性が妻との話し合いを拒絶したため、離婚する寸前まで状況が悪化しましたが、その夫が棄教することによって問題はようやく解決したとのことです。こういった内容の話は反対者サイドならではのものです。エホバの証人は普通、反対意見を唱える人とは何時間でも話し合うものですし、話し合うにあたっては相互理解を重んじます。それが自分たちが宗教者として果たすべき責務だと信じているからです。その信条はまず家庭において実践されることでしょう。ところが、この事例では証人側が話し合いを拒絶したことで事態が悪化したそうです。この種の話は原理主義教会に属する反対者たちよって繰り返し語られており、だいたい定まったパターンがあります。まず、エホバの証人となった者が家庭の中で異常な行動をし始めるようになります。その異常な行動に気づいた家族が説得を試みますが、彼は洗脳されており、そのせいでまったく話し合うということができません。そこに、エホバの証人対策のプロである“正統教会の牧師”が現れます。牧師の説得は功を奏し、彼は棄教して正常な精神を取り戻します。一度は破綻しかかった家庭はその牧師の援助を受けて回復していきます。問題はそのそのような話の中で繰り返し語られる“エホバの証人の実態”つまり信条や行動です。反対者たちによって語られるエホバの証人の異常行動や精神の閉鎖性には限度というものがないように思えます。エホバの証人サイドから言わせれば、こういう話はそれを語る反対者や経験者の精神状態を示すものです。当事者の精神が健康であれば、エホバの証人という宗教は家庭を破壊する役割を果たしません。

輸血を拒否するエホバの証人の治療を医師が拒絶するということはありますか

はい、これは昔から盛んに行われていることです。このような医師の振る舞いは深刻な論争を生んでいます。
過去において、輸血を拒否するエホバの証人を医師が全く放置するということが公然と行われていた時期がありました。エホバの証人の患者が入院すると医師は「輸血しないと死にますよ。命より信仰のほうが大切なのですか?」と言って患者に輸血拒否の撤回を求めます。患者がそれを拒否すると医師は患者を馬鹿にして「そんなに死にたいなら死ねばいい」と言い放ちます。医師は患者に対する手術を行いますが、手術が終わるとそのまま患者を放置し、血液希釈法(出血時に体内に残った血液を効率よく体内に循環させて酸素供給を増やす手法)のような代替処置はとりません。患者が死ぬと医師はこう言います。「患者は死にたがっているのだからしょうがない。私は知らん。」 このようなことは長年にわたって盛んに行われ、多くの証人患者が死に至りました。
そこで私たちエホバの証人はこのように自問せざるを得ませんでした。医師たちは私たちのことを自殺志願者のように言います。もし彼らの言うように私たちが自殺志願者であったとして、果たして私たちは自分たちの願い通り首尾良く自殺を成し遂げてきたのだろうか。実のところ私たちは医師らに殺害されているのではないだろうか。
やがて、医師たちの中には、エホバの証人に対するこのような対応に憤慨して痛烈な批判の言葉を述べる者が少数ながら現れるようになりました。彼らは憤然としてこう言いました。「それなら輸血を強行すべきである。」 考えてみてください。医師たちはみな口をそろえて「命はたいせつだ」と述べています。また、「信仰のせいで人が死ぬようなことはあってはならない」と信じているので、輸血拒否を撤回するよう証人を熱心に説得します。ところがその医師が最後の段階では患者を見殺しにしてしまいます。そうするとどうでしょう、その医師はほんとうに命を大切と考えているのでしょうか。彼らはこう批判します。もし医師たちが救命は信仰に優先されると信じ、それゆえに輸血拒否は間違っていると述べるのであれば、輸血を強行することこそが唯一にして絶対の選択肢である。しかし、多くの医師たちはこのような批判を無視しました。結果として引き続き多くの証人患者が死にました。そして、このような問題はやがて大きな事件へと発展するであろう、ということが懸念されるようになりました。
こうして起こるべくして起きたのが、1985年の『大ちゃん事件』です。

社会で大きく注目されはじめたのは、1985年6月に神奈川県川崎市で起こった事件だ。小学校5年生(当時10歳)の乗る自転車がダンプカーに轢かれ、近くの大学病院に搬送された。しかし、エホバの証人信者の両親は輸血を拒否したため、子どもは死亡した。― 記事より

この時患者の治療に当たった医師たちは、息子への輸血を拒否する証人の親に対して、まず最初に患者の治療を拒絶し、次いで輸血拒否を撤回するまで治療を開始しないと述べることにより輸血拒否の撤回を迫る、という手を用いました。この患者の場合、母親は証人でしたが父親は非信者でしたので、このやり方は功を奏するだろうと医師たちは考えたようです。ところが、このような卑怯なやり方は全く逆の結果を招きました。非信者の父親さえも輸血拒否の撤回を拒絶したのです。そのうえで父親は息子に対する治療をはじめるよう求めましたが、医師たちはそれを拒絶して引き続き父親に対する説得を続け、そうしているうちに患者は死にました。マスコミはこういった事情をたいして説明しませんでしたが、この後、現場やその周辺では壮絶な非難合戦が繰り広げられたと言われています。これまでのことからすれば当然のことといえるでしょう。
時代は変わり、現在ではこのようなあからさまな事件は起こらなくなっています。しかし、問題は依然として深刻です。
インフォームド・コンセントの考えが施行されるようになってから、医師たちはインフォームド・コンセントの“暴走”を未然に防ぐためとして可能性に関するルールを策定するようになりました。これはこのようなものです。ある患者が受けることができる手術のあるものは成功率が80%ですが、別の手術は40%です。もし、患者が40%のほうの手術を希望した場合、医師はその手術を行うことをを拒絶することにより“患者を正しい方向に導く”ことができます。治療を拒絶された患者は窮地に陥り、泣く泣く80%の手術を受けることを選択するでしょう。医師はこのような振る舞いをするしきい値を定めることができるとされ、たとえば50%というような数字が採用されています。現在、エホバの証人の治療に当たる医師たちがこのルールを残酷なやり方で適用することが盛んに行われています。これはたとえばこのようです。輸血を拒否する証人患者がいて、この患者に輸血ありの手術を行った場合成功率は80%ですが、輸血なしの手術を行った場合成功率は40%です。医師はしきい値を50%にすると決めているので、証人患者に対する治療を拒絶することにしました。ところが、エホバの証人のように絶対的に輸血を拒否する患者の場合、治療を拒絶することは“患者を正しい方向に導く”ことにはつながりません。患者は、手術をしないという成功率0%の選択を余儀なくされ、そのまま死ぬことになります。この問題についても、憤然として批判の言葉を述べる医師たちがいますが、このような批判は無視されています。
本記事執筆者と同じ会衆(教会に相当)に在籍する一女性信者の事例を紹介したいと思います。この方は重い病気にかかりましたが、最初に通院した病院で手術を拒絶されてしまいました。そこでエホバの証人の患者を受け入れる医師がいる別の病院に転院して手術を受けることになりましたが、手術を受ける直前になって、病院の麻酔科医が上記の可能性ルールをもちだして手術を取り消しにするというハプニングが起こりました。それに合わせて病院側も手術を行うことを拒絶したため、この医師は別の病院の手術室を借りてこの方の手術を行わなければなりませんでした。ところが、この医師は転んでもただでは起きないという方だったようです。手術当日には国際的な学会が開かれていましたが、この医師はその関係者に話を持ちかけ、インターネットを用いて手術の様子をストリーミング中継するということをしてみせました。しかも手術は成功したものですから、この手術は、見事な仕方でエホバの証人の救命に成功した国際的によく知られる手術例となりました。彼女は健康を取り戻して私と同じように集会に参加するようになりました。もし手術が行われなかったら彼女はすでに死んでいたでしょう。彼女も、輸血を拒否したばかりに“殺されそうになった”証人患者の一人です。

さて、記事において小宮山氏はこのようなことを述べています。

それでは医療関係者は、命を救う為に必要な輸血をして訴えられるエホバの証人信者の治療を拒否せざるをえなくなってしまうのではないだろうか。― 記事より

記事は「もし医師がエホバの証人に輸血を強行したら裁判に訴えられるだろうから裁判を避けるためには治療そのものを拒絶せざるを得なくなるだろう」ということを述べています。これは何を意味しているでしょうか。これはある人たちの考え方では“人殺し”です。彼らはこのように言います。エホバの証人の教団が輸血拒否の教えを説くとその教えを受け入れて輸血を拒否する信者が現れる、輸血を拒否する信者が現れると死んでしまう信者も出てくる、これは因果関係にしたがって言うなら教団が信徒を殺しているということである。この考え方に従うなら、上記発言はまさにエホバの証人を殺す発言です。彼が治療を拒絶せざるを得ないという意見を述べるとその意見に賛同する医師が現れその医師のもとで証人患者が見殺しにされるということです。私たちエホバの証人側からすれば、あまりに迷惑で残酷な発言です。

エホバの証人は医師の恩に対し仇を返すようなことをしますか

しません。エホバの証人は何事にかけてもそのようなことはしないことでよく知られています。たとえば、上記には「輸血を強行すべき」と述べる医師が紹介されています。そのような医師の中には実際に証人患者に対する輸血を強行する者もいました。私たちはそのような医師たちに対して裁判を起こすようなことはしてきませんでした。それどころか、そのような医師に対して私たちは感謝の言葉を述べてきました。なぜでしょうか。私たちはまっとうな宗教者として、人を見るときはその心を見るべきであると考えます。輸血を強行する医師は、証人たちとは異なる価値観を持っているとはいえ、自分が正しいと思ったことを誠実に実行したのではないでしょうか。その医師は悪者ですか。いいえ。証人は医師を恨むべきですか。いいえ。証人は医師に報復すべきですか。いいえ。むしろ私たちは感謝の言葉を述べるべきです。これが私たちエホバの証人の考え方と行動です。では、93年にエホバの証人が裁判を起こしたのはなぜでしょうか。

92年9月には信者の女性が都内の大学病院で悪性の肝臓血管腫と診断され、輸血手術を受けたが、勝手に輸血をして精神的苦痛を受けたとして、93年6月に東京地裁に提訴している。― 記事より

この事件のいきさつは、エホバの証人が経験した種々の残酷な事件の中でも特殊なものです。この患者は手術の前に医師と話し合った結果、医師が輸血拒否の信条を尊重してくれると約束したと思っていました。また、そのためにセルセーバー(出血した血液を体内に戻す装置)を使用してくれると約束したと思っていました。ところが手術を行った医師たちが後になって言うには約束などした覚えはないとのことでした。これらの医師たちは、その患者がそのような思いであることを知っていましたので、そのまま患者をうまく騙し続けることにしました。手術中にひそかに輸血を行ってそのことを隠し、患者の退院まで無輸血での治療がうまくいっているという芝居を続ければよい、というやり方です。そのため、この患者はすっかり騙されて医師たちに感謝していました。ところが手術から2ヶ月ほどして、事実はこうであるとの内部告発がありました。これは患者本人やエホバの証人社会にとって動揺を禁じ得ない事件でした。これは医師によるエホバの証人へのだまし討ちの行為です。普段は穏やかに振る舞うエホバの証人ですが、この時は異なりました。エホバの証人は宗教者として心ということを重んじます。もし医師が自分にとって正しいと思うことを行ってエホバの証人に輸血を強制したりあるいは見殺しにしたりするのであれば、それがどんなに残酷なことであってもエホバの証人たちはそれに耐え、医師を裁判に訴えるようなことはしてきませんでした。しかし、一つの病院で医師たちが互いに示し合わして彼ら自身が悪いと思うことを行うとなると話は全く別です。このようないきさつが、証人側に裁判という選択をさせることになりました。これは医師の恩に対して仇を返す行為でしょうか。そうではないはずです。もしこの事件をそのように受け取る医師がいるとしたら、それは医師のおごり高ぶりというものです。

輸血拒否でエホバの証人は幸せになれますか

今回のオーマイニュースのタイトルは『「エホバの証人」で人は幸せになれるのか』というものですが、内容を見ると宗教としてのエホバの証人が取り上げられているわけではなく、実質的には「輸血拒否でエホバの証人は幸せになれるのか」というテーマを提示するものとなっています。また、この記事は問題を提起しただけで、答えまでは述べていません。これについて本サイトとしても特に結論は述べないこととしました。

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